大阪高等裁判所 平成20年(う)1554号 判決 2009年3月03日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は,主任弁護人藤田正隆,弁護人文昌燮及び同後藤達哉共同作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから,これを引用する。
第1 控訴趣意に対する判断(訴訟手続の法令違反の主張について)
論旨は,被告人の尿に関する鑑定書(原審検甲5号証),注射痕の状況に関する写真撮影報告書(同6号証),引当り状況に関する捜査報告書(同8号証),及び,覚せい剤使用の自白を内容とする被告人の各供述調書(原審検乙3,4,7号証)は,いずれも,違法収集証拠であって,証拠能力を有しないのに,原審裁判所がこれらを証拠として採用し,事実認定に供したことは,刑訴法317条に違反し,判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反に当たる,というものである。
そこで,記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討するに,原判決は,被告人に対する職務質問とこれに引き続く現行犯逮捕に関与した甲野一郎警察官及び乙山二郎警察官(以下,この両者を併せて「警察官ら」という。)の各供述の信用性を認め,この逮捕手続が適法であるとして,上記各証拠の証拠能力を肯定しているが,以下に示すとおり,その証拠評価は是認できない。
1 原判決の問題点
(1)まず,被告人が平成19年10月7日午後3時40分に軽犯罪法1条4号違反の罪(以下「浮浪罪」という。)で現行犯逮捕され,翌8日午後2時25分に釈放されたが,同27分に本件覚せい剤使用の被疑事実で再逮捕され,引き続き,同月9日に同事実で勾留されたこと,所論指摘の各証拠のうち,鑑定書の鑑定資料である被告人の尿は,浮浪罪での逮捕による身柄拘束中に裁判所に請求され,かつ,発付・執行された捜索差押許可状(いわゆる強制採尿令状)により採取されたものであること,覚せい剤取締法違反の逮捕状は,上記鑑定の結果,被告人の尿から覚せい剤成分が検出されたことを資料として請求・発付されたものであること,その余の各証拠は,上記勾留期間中に作成ないし録取されたものであることが,いずれも明らかである。
したがって,浮浪罪による現行犯逮捕の適法性と,所論指摘の各証拠の証拠能力の有無とは,必ずしも一義的に対応するものではないが,その違法性の有無及び程度は,証拠能力の判断に基本的な方向性を与える事情であり,その適切な判定が重要であることはいうまでもない。そして,その判定に際しては,いわゆる別件逮捕としての違法性の有無以前に,浮浪罪による逮捕自体として適法かどうかを,確実に見極める必要がある。
(2)上記の判断に際しては,逮捕当時における被告人の生活状況に関する客観的事実を的確に把握し,それとの関連で,関係者の供述の自然さや合理性を評価することが不可欠である。この点,原判決が,「現行犯逮捕の適法性は,逮捕の時点を基準とし,その当時の事情等によって客観的に判断すべきであり,事後に判明する事情や資料等を併せ,回顧的にその適法性をいうべきものではない。」と述べる点は,一般論としては妥当であり,上記の客観的事情が,現行犯逮捕の適法性に直結するものではない。しかし,逮捕の時点で,逮捕者にどのような事情が判明していたのかを判断する最も客観性のある手掛かりは,これらの客観的な諸事情にほかならないのに,原判決の証拠評価には,この観点が欠落しているといわざるを得ない。すなわち,浮浪罪の要件が,①生計の途がないこと,②働く能力があること,③職業に就く意思を有しないこと,④一定の住居を持たないこと,⑤諸方をうろついたこと,の5点であることは,軽犯罪法の解釈上明らかであり,この5点の全てが,逮捕当時,逮捕者にとって明白といえる程度に判明していなければ,同罪による現行犯逮捕は違法との評価を免れない。そして,本件で,逮捕者である警察官らが直接,物理的に現認した状況は,被告人が,原判示の駐車場に駐車中の自動車に乗り込もうとする状況のみであって,それのみでは,到底,上記各要件が逮捕者に明白であったとはいえず,警察官らが,上記各要件の充足が明白かどうかを判断する資料は,積極,消極のいずれの方向にせよ,専ら,逮捕の現場における職務質問において,被告人から聴取した内容に尽きる。したがって,本件逮捕の適法性を判断するためには,警察官らが被告人から,これらの各要件について,どのような事情を聴取したのかを把握しなければならず,裁判所にとっての,その直接的な判断資料は,警察官らと被告人の各供述である。警察官らは,基本的には,「被告人は,上記①から⑤までに該当する事実を述べていた。」旨,被告人は,「自分は,警察官らに,上記①③④⑤のような事実はないと説明した。」旨,相対立する供述をしており,そのいずれが信用できるかを,諸般の指標に照らして判断する必要がある。その際,極めて重要な視点となるのが,被告人の生活状況のうち,上記各要件との関連を有する客観的な事実である。現に,本件の職務質問の際,これらの事実に関する質問がなされ,それに対する被告人の応答が,現行犯逮捕の判断資料になったことは,警察官ら,被告人のいずれの供述を前提としても明らかであり,この「被告人の応答」の状況に関する供述の信用性が,検討課題なのであるから,警察官ら,被告人の各供述の内容となっている「被告人の応答」が,被告人の生活に関する客観的諸事情と整合性を保っているかどうかは,供述の信用性を判断する重要な考慮要素であるといえる。
(3)また,現行犯逮捕の要件に関する判断資料の獲得状況について,供述の信用性を判断する以上,その供述の核心部分は,警察官が,その判断資料となる被告人の生活状況について,被告人から返答を得た状況に関する部分であって,前記自動車の捜索の経緯一般等ではない。したがって,他の部分についても,それなりの重要性を否定できないにせよ,何よりも,この核心部分に関して,その信用性を十分に検証することが不可欠である。
(4)ところが,原判決は,警察官らの供述については,「各供述内容は具体的で,同一場面ではおおむね一致しているほか,身柄拘束に至る事実経過に沿っていて,特に不自然,不合理とみるべき点はない。」として,被告人の生活状況に関する客観的事情について,何ら具体的な分析を行わないまま,その信用性を肯定し,他方,被告人の供述については,供述の核心部分である被告人の生活状況に関しては,そのような警察官の供述に反するという1点のみを根拠とし,それ以外には,前記自動車の捜索に至る過程など,核心部分とはいえない事情に関する不自然さを挙げただけで,信用性を排斥した上,本来重視すべき客観的事情との整合性の点は,現行犯逮捕の適法性は事後的に判断すべきものではないという論法で,視野の外に置いている。
(5)このような原判決の証拠評価は,到底是認できず,以下,関係者の供述の信用性,特に,上記核心部分の信用性を,前記(2)の視点を含む各指標に照らして,検討することとする。
2 証拠に基づく関係供述の信用性の検討
(1)被告人の客観的生活状況
まず,本件職務質問及び現行犯逮捕がなされた平成19年10月7日当時(以下「本件当時」という。)における,被告人の客観的な生活状況を,浮浪罪の各構成要件に即して見ると,それぞれ,以下のとおり判断できる。
ア 生計の途がないことについて
UFJ銀行の被告人名義の総合口座通帳(原審弁5号証),和解調書(同第8号証),領収証(同第9号証)を総合すると,被告人が,不動産会社等に対して提起した損害賠償請求訴訟において,平成16年8月27日,上記会社等が,同年10月から同21年7月まで,毎月22日限り,31万円宛を被告人の代理人弁護士の口座に振り込んで支払うことを骨子とする和解が成立したこと,これに基づき,同19年5月まで,同口座を経て,毎月27万9000円が,被告人の預金口座に振込入金されていたが,同年6月28日付けで,上記弁護士から,同日の時点における残金808万円が一括して支払われ,うち400万円は,同日,上記被告人の預金口座に入金されたこと,同日から翌日にかけて,同口座から前後4回にわたり,合計350万円が払い戻され,上記通帳の記載上,同月29日現在の預入残高は50万7円であったことが,明らかに認められる。
これによれば,被告人は,平成19年5月までは,毎月27万9000円の収入を得ていたが,上記和解金残額の一括支払を受けた後は,定期収入が途絶え,その後,定職に就いていた事実は窺われない。また,被告人は,上記和解金の使途について,これを他人に貸し,その返済を受けていた旨述べるが,貸付の状況や,返済の月額についての供述は具体性を欠き,その返済のみで安定して生活を維持できた旨の弁解もしておらず,かえって,原審において,「預金はだいぶん少なくなり,仕事に関しては焦っていた。」旨述べて,就労先を探す相当逼迫した必要性があったことを自認し,当審では,前記預入残高についても,その後引き出して,他人に貸しており,本件当時,自由に使える金銭に余裕はなかった旨認めている。
したがって,被告人は,本件の約3か月半前に808万円の収入があり,本件当時も,消費貸借に基づく債権としては一定の収入源を有していたといえるが,安定した生活を営むに足りる返済を受けていたとは考えにくく,新たに就労先を見つけない限り,日常生活を営むのに必要な費用を適法な方法で調達できない状態,すなわち,浮浪罪の要件としての「生計の途がない」状態にあったと認める余地はある。
イ 職業に就く意思を有しないことについて
まず,被告人の携帯電話機に関する写真撮影報告書(原審弁第10号証)によれば,本件の前々日である平成19年10月5日午後1時10分に,被告人の携帯電話機から,大阪市中央区所在の人材派遣会社に架電されている事実が,客観的に明らかである。
また,本件当時,被告人の自動車内に,就職情報誌「フロムA」が存在していたことも認められる。この点,警察官らは,いずれも,被告人の所持品中に就職情報誌があったことに気付かなかったと述べているが,被告人は,同自動車の助手席に同雑誌を置いていたと供述しており,本件翌日以後,被告人の取調べに当たった奈良県生駒警察署の丙川三郎警察官は,同車内に上記雑誌が存在したことを明言しており,その存在は,動かし難い事実である。
さらに,上記自動車の運転席上部の遮光板に挟まれた形で,被告人が就職斡旋機関である「ハローワーク」で交付された就職関係のコピーが存在した事実も認められる。この事実は,被告人供述に表れているのみであるが,上記「フロムA」の存在や人材派遣会社への通話履歴によって裏付けられており,供述内容も具体的で,到底排斥できず,ほぼ明らかな事実といえる。
ウ 一定の住居を持たないことについて
被告人の戸籍附票(原審検乙8号証)及び被告人を借主とする住宅賃貸借契約書(同弁第7号証)によれば,被告人が,平成17年5月に,京都府木津川市内(当時の相楽郡木津川町内)に,マンションを賃借し,同所を住所地として住民登録を行っていたことは明らかである。また,原審弁護人作成の報告書(同弁第14号証)によれば,本件に近接する平成19年10月上旬の段階でも,前記マンションにおいて,被告人が同所で通常の生活を営んでいたことが明らかな同年7月あるいは8月の段階と比較すると,1日あたり3分の1以上のプロパンガス使用があったことが認められ,毎日1回は同所に帰っていたとする被告人の供述をそのまま信用できるかどうかはともかく,相当頻繁に帰宅していたことは明らかで,家財道具もそのまま置かれていたと認められ,被告人と同マンションとの繋がりは,かなり強く保たれていたといえる。
エ その他の要件について
浮浪罪のその他の要件のうち,「働く能力がある」ことは,明白な事実であり,他方,「諸方をうろついた」ことに関連する行動として,ほぼ明らかなのは,被告人が本件の前10日間程度の期間,奈良県生駒市内に居住する知人の丁田花子方に寝泊まりしており,本件当日,原判示のパチンコ店で遊技した後,職務質問の直前に同店を出て,前記自動車に乗り込もうとした事実程度にとどまる。
(2)警察官らの供述の信用性
次に,警察官らの供述の信用性を,諸般の指標に照らして検討する。
ア 浮浪罪の構成要件要素に関する供述の内容について
(ア)生計関係
これに関する甲野警察官の供述は,大要,「被告人は,仕事はしていないし,生活保護も受けておらず,現役の暴力団員でもないから『しのぎ』もない旨述べ,所持品中の紙幣について,パチンコで勝ったものだと言ったが,パチンコをする金については,『何で言わなあかんの。』などと言い,また,預貯金があるから働かなくても生活できるとは言っていなかった。」というもの,乙山警察官の供述は,大要,「被告人は,何がしかの何か金が入ったからそれで生活していると言っていたが,その内容ははっきりとは言わなかった。被告人は,一万円札1枚は持っており,その『何がしか』で得た金やと言っていたが,具体的な説明はなかった。仕事については,もともとはやくざをしていたが,今は何もしてないと言っていた。貯金があるという話は出ておらず,裁判の和解金等があると話をしていた記憶もない。」というものである。
この観点に関する限り,前記(1)アのとおり,被告人の本件当時の経済状態は相当逼迫しており,上記警察官らの供述には,客観的事実と著しく矛盾する内容は含まれないし,被告人が,職務質問の際,警察官らに対し,自己の従前の収入の状況や,本件当時の貸金の状況を詳細に弁明しようとしなかったとしても,それほど不自然な態度であるともいえないから,供述内容の点でも,信用性を強く害するほどの事情は認められない。
(イ)就労意思関係
この点に関しては,甲野警察官は,「被告人に,『職安に行ったか。』と聞くと,被告人は,『行っていない。』と答えたと思う。被告人から,仕事を探しているという話をしたことはない。被告人の所持品中に,就職情報誌『フロムA』を見たことはない。」旨供述し,乙山警察官も,「被告人は,仕事をしていないと答え,働かない理由も聞いたが,『別に理由もないけども,やくざをしてて,今はやめてぶらぶらしている。』と言っていた。仕事については,働く気もないのかとも聞いた。誰かははっきり覚えていないが,別の警察官が,職業安定所に行っていることはないのか,ということも聞いていたと思う。被告人の答えは,『仕事をするつもりはない。まともな仕事をしたことない。』という内容だった。被告人の所持品中に,通帳や就職情報誌があったことは,全く記憶にない。」旨供述している。
しかし,前記(1)イに示した各事実から見て,被告人が本件当時,求職活動をしていたことは,動かし難い事実であり,警察官らの供述は,明らかにこの事実と食い違っている。しかも,この求職活動の事実は,被告人が,警察官からその有無を尋ねられた場合に,殊更これを否定する態度をとる利益を想定することが,ほとんど不可能に近いものである。確かに,原判示の駐車場で,いきなり数名の警察官に取り囲まれ,これを自らに危害を加えようとする暴力団員であると誤解した被告人が,その後も,警察官らに対して多少非協力的な態度を示す可能性は,十分考えられる。しかし,職務質問の開始後は,その相手方が暴力団員ではなく警察官であることは,被告人にも判明していたのであり,殊更自己の人定等をはぐらかす利益はないし,むしろ,警察官に無為徒食中の者であるという人物像を抱かせることは,それまでに生じていた何らかの犯罪の嫌疑を深め,更に厳しい追及を招き,職務質問の長時間化,ひいては,逮捕の危険性についても,より不利益な結果に結び付きかねないことが,極めて容易に推察できるところであって,仮に,被告人が警察官らに相当強い反感を有していたとしても,それが原因となって,あえて求職活動の事実を否定する態度に出たとは,ほとんど考えられない。
しかも,前記丙川警察官は,「被告人は,本件翌日の取調べで,仕事を探しているが,ないということや,『フロムA』という就職情報誌を買ったことを言っていた。」旨述べており,この供述は,極めて明確である上,客観的証拠とも整合していて,十分信用でき,被告人が,同警察官に,上記のような応答をしたことは明らかといえる。このように,本件翌日,現に,別の警察官に,求職活動の事実を訴えた被告人が,本件の際,甲野警察官らから職務質問を受けた際に限って,あえて,就労の意思も求職活動の事実もない旨,虚偽の申告をしたとは,なおさら考え難い。
したがって,警察官らの供述のうち,就労意思ないし求職活動の有無に関する部分は,全く信用できない。
(ウ)住居関係
本件職務質問の際における,住居に関連する被告人の応答について,甲野警察官は,大要,「携帯電話で女性と通話した後,その女性とは一緒には暮らしていないことなどを話し,自分の住所については,運転免許証記載の場所には,『極道から追い込みが掛かっているので住まれへん。』と言い,どこに住んでいるのかと聞いても,『そんなん言えるか。』というような,裏が取れない話ばかりだった。」と供述し,乙山警察官は,大要,「私が『家へちゃんと帰っているのか。』と聞くと,被告人は,『追い込みを掛けられているし,こんなマンションみたいなん帰れるかいな。』と答え,『普段どこで寝泊まりしてるのや。』と聞くと,被告人は,『そんなの転々と,いろんなとこや。』と答えた。免許証記載の住所地に荷物を取りに帰っているとは聞いていない。」と供述する。
上記警察官らの供述は,大局的にはおおむね整合しているし,前記マンションについて,暴力団員に追い込みを掛けられ,寝泊まりができないことは,被告人が述べなければ警察官が把握できない事情でもあるから,警察官らの供述は,大筋においては,信用できるといえる。被告人が,本件に近接する平成19年10月上旬ころ,同マンションに相当頻繁に帰宅していたことは,前記(1)ウのとおりであるが,本来の自宅に寄りついていない旨の応答をすることには,自宅に対する捜索の可能性を低めることなど,それなりの利益も想定できるから,被告人が上記のような対応をした旨の警察官らの供述が,特に不自然であるとまではいえない。ただし,被告人は,甲野警察官によれば,上記マンションには住んでいない,それ以上のことは答える必要はないという対応をとっていたとされるのに対し,乙山警察官によれば,寝泊まりしている場所について,自ら,「あっちこっちごろごろしてんねん。」,「いろんなとこや。」と,はっきり言っていたとされ,同じ職務質問を担当していた警察官の間で,被告人の態度に関する供述の内容に,軽視できない開きが認められる。
以上のように,警察官らの供述には,生計の状況に関する限り,特に強く問題視すべき点はないが,就労意思ないし求職活動に関する部分は完全に信用性を欠いており,住居に関連する部分についても,供述相互のやや不自然な差異を指摘し得る。
イ 丁田花子に対する電話の状況との関係
被告人が,本件職務質問の途中で,前記丁田花子に,携帯電話で通話したことは,明白で,争いもない事実である。その局面に関して,警察官らは,「上記通話は,全く任意での職務質問中の出来事で,その後に初めて,居住関係や職業関係を質問するうち,実際に浮浪罪で現行犯逮捕する直前になって,同罪での逮捕を考慮するに至った。」旨述べるが,この経緯は,被告人が,「逮捕が避けられなくなり,逮捕されることを前提に,残りの所持品を全部提出する代わりに,電話をさせてくれと頼んだ。」旨述べるところと,趣旨が対立している。この警察官らの供述の内容は,どの時期に現行犯逮捕を考慮するに至ったのかという,出来事の基本的な経緯を示す,それ自体,核心部分に準じる重要なものであるとともに,このような基本的経緯に関する供述がどの程度信用できるかは,核心部分の信用性をも大きく左右する。そして,丁田との通話の具体的状況は,その基本的経緯に関する警察官らの供述の信用性を判断する有力な手掛かりになるので,以下に検討する。
(ア)警察官らの供述の要旨
甲野警察官は,上記通話の状況について,「職務質問中,被告人が,『これは任意か強制か。』と聞くので,『今は任意で職務質問している。』と言うと,被告人が,『ほんなんやったら電話掛けてええやろ。』と言い,『掛けてよい。』と言うと,被告人が電話をし,その相手に『面会に来てくれ。』とか,『これでまた長いこと行かなあかん。』などと言い,『電話を代わってくれ。』と言って,私に電話機を渡した。私は,何を言うとるんかなと思いながら,自動車のナンバーが合っていない件で話を聞いていること,今後,もし被告人が言うように身柄拘束されるようなことがあったら,生駒署の担当課が窓口になることを,相手の女性に話した。」旨供述する。
また,乙山警察官の供述には,電話直前の具体的なやりとりは表れていないが,同警察官は,通話の状況を一部聞いていたとした上で,「被告人は,電話で,『もうおれ懲役行かなあかんから頼むで。』,『頼んどくで,差入れしてや。』などと言っており,甲野警察官は,電話の相手に『今から本人と生駒署に行くから。』などと言っていた。」旨供述する。
(イ)信用性の検討
a まず,上記電話における会話の内容のうち,被告人が丁田に伝えた内容に関する限り,警察官らの供述は相互に整合し,また,電話の相手方である丁田の供述は,「電話を取ると,被告人がいきなり,『今パクられた,クゥー(被告人から預かっていた犬のこと)のことを頼む。』と言った。」というもの,被告人の供述は,「丁田に『もしもし,パクられたわ。』,『どうやら車のことらしいねんけど,分からへんわ。』と言った。犬のことを頼むということも,言ったかもしれない。」というもので,これらとの間にも矛盾はない。
また,被告人と電話を代わった甲野警察官が丁田に伝えた内容等については,丁田が,「警察官が電話を代わって,『今逮捕したので署の方に連行します。』と言い,『どちらの署ですか。』と聞くと,警察官が『生駒署です。』と答え,『私はどうしたらいいんですか。』と尋ねると,『後日女の刑事の方から連絡させます。』又は『連絡します。』と答えた。」旨,被告人が,「丁田に電話をして,差入れに来てくれという話をする中で,その方法が分からないでいたところ,自分が甲野警察官に電話機を渡したのか,同警察官が取り上げたのかは記憶が定かでないが,同警察官が電話を代わって,丁田に,『逮捕したから。』,『これから生駒署に連行する。』,『後は追って連絡する。』などと言っていた。」旨,それぞれ供述しており,少なくとも,同警察官が,丁田に,被告人を伴って生駒署に移動すること,及び,今後は同署の警察官が連絡を担当することを,それぞれ告げたとする点では,警察官らの供述と一致している。
したがって,これらの事実自体については,警察官らの供述の信用性にも,特段の疑問点はない。
b しかし,警察官らの供述を前提とすれば,前記通話は,被告人において,自己が既に逮捕されていると錯覚する原因となる状況もなく,浮浪罪による現行犯逮捕のことが一切現実化してもいない段階における,全くの任意による事情聴取中になされたものであることになるが,被告人が上記通話で,丁田に伝えたのは,逮捕されたという事実と,差入れを求める点,及び飼い犬の世話を頼む点のみであり,既に逮捕されていると錯覚する状況も,何らかの犯罪で逮捕する方針を告げられている事実もないのに,職務質問中にわざわざ通話を申し出て,「パクられた」という,逮捕されたという認識を示す表現で自らの状況を伝え,差入れや飼い犬の世話を頼むというのは,相当強い不自然さを否定できない。確かに,被告人は,上記通話に先立ち,注射器を含む所持品を提出しており,また,職務質問の現場で行われた前科照会の結果を認識していたのであるから,被告人が,上記通話の段階で,早晩逮捕が避けられない旨覚悟したとしても,不自然とはいえないが,単にそのような見通しがあったために,上記のような表現で,差入れ等を求める行動をとるのは,やはり奇異というべきである。なお,甲野警察官は,「職務質問中,被告人は,覚せい剤の使用が疑われる,感情の起伏が激しかった。うわあと言ったり,急に物わかりがよくなったりして,ちょっとおかしいと思った。」などとも供述しているが,被告人が覚せい剤の薬理作用により,職務質問中に病的な挙動をするほど精神的変調を来していた事実を窺わせる他の証拠は全くなく,同警察官の上記供述には,自らの供述に見られる被告人の行動の不合理さを,覚せい剤の影響に関連付けようとする意識が窺われる。
c 甲野警察官は,この段階では,被告人の逮捕を可能とする犯罪の嫌疑が生じていなかったことを前提に,「被告人は,上記電話で,言っていることが支離滅裂というか,私が任意だから電話をしてよいと言っているのに,面会や差入れのことを言って,私に電話機を渡した。」と,被告人の対応が予想外のものであったとする趣旨の供述をしている。しかし,仮に,甲野警察官が,上記のように感じ,かつ,被告人を逮捕する現実的な見込みもなかったのであれば,同警察官としては,電話を代わった際,丁田に,被告人を逮捕したわけではないことを説明するのが当然であるのに,丁田の供述によれば,同警察官がそのような対応をとった事実がないことは明らかであり,上記のような感覚や見込みを有する警察官の措置として,不自然さを否めない。しかも,乙山警察官や丁田の供述によれば,甲野警察官が,このとき,丁田に対し,具体的な用語はともかく,被告人を伴って生駒署に赴くことを,規定の方針として告げたことが明白である。しかし,生駒署への任意同行が問題となるのは,警察官らの供述を前提としても,現行犯逮捕の直前に,甲野警察官が同署への任意同行を求めたのに対し,被告人がこれを拒絶した事実が窺われるのみであって,それ以前に被告人が任意同行を承諾した事実がなかったことは明らかであり,同警察官が丁田に,被告人を任意同行する趣旨を告げたとは考えられない。この点,丁田は,「今逮捕したので署の方に連行します。」という言葉に間違いない旨明言するとともに,「警察官は,『後日女の刑事の方から連絡させます。』か『します。』か,どちらかよく分からないが,そのように言った。」旨,細部まで記憶に従って供述しようとする姿勢を示しており,また,「警察官は,どういう事情で被告人を逮捕したかは言っておらず,そのことは,後日,面会で本人から聞いて知ったが,ただ『車のことで。』と聞いただけで,中身は分からない。弁護人との証人テストをして,思い出そうとしても,前記以上の会話があったことは記憶にない。」などとも供述していて,殊更本件の逮捕の違法性を強調しようとする姿勢や,記憶にない事実を想像で作り上げようとする作為性が感じられない。加えて,任意同行以外に,警察官が被告人を同伴して生駒署に赴く法的性質は,逮捕に伴う強制的連行と考えるしかなく,丁田の上記供述は,こうした解釈とも合致するし,後記(3)イ(ア)で示すとおり,通話の時刻と逮捕時刻との開きも,合理的な説明が可能な範囲内のものである。したがって,丁田供述の信用性は高く,この時点で,甲野警察官が,丁田に対し,被告人を逮捕し,生駒署に連行する旨を告げた事実は,明らかであるといえる。
したがって,丁田に対する通話の状況に関する上記(ア)の警察官らの供述は信用できず,かつ,その性質上,意図的な虚偽供述があると認めるほかなく,そのことは,現行犯逮捕を考慮した時期という,出来事の基本的な経緯に関する供述についても,必然的に,これと同じ評価を結論付けるものである。
ウ 総合評価
以上のとおり,警察官らの供述は,その核心部分である,浮浪罪の構成要件の把握に関して,特に就労意思に関する部分を中心に,重大な疑問があるほか,前記の基本的経緯についても,意図的な虚偽供述が含まれており,根本的に信用性を欠いているというほかない。
(3)被告人供述の信用性
上記(2)によれば,警察官らの供述に依拠して本件現行犯逮捕の適法性を評価することが許されないことは,もはや明白であるが,逮捕の際の状況をより明確にするのに必要な限度で,被告人供述の信用性についても,一通りの判断を示すこととする。
ア 被告人の原審及び当審における公判供述は,本件当時の生活状況に関する供述が,前記(1)に示した客観的事実と整合しているほか,丁田に対する電話の状況については,信用性の高い丁田の供述と合致し,「軽犯罪法違反で逮捕すると言われたので,逮捕されたと思い,そのことを丁田に伝えるために電話をした。」とする供述内容も,電話での現実のやり取りを,合理的に説明できるものであり,さらに,職務質問の際にどのような応対をしたのかについても,具体的で,少なくとも,それ自体として特に不合理とはいえない内容となっている。
イ(ア)確かに,原判決も指摘するように,本件の現行犯逮捕の時刻は,午後3時40分であるところ,丁田への前記通話の時刻は,午後3時14分ころであって,電話の後,時間を置かずに逮捕された旨の被告人の原審公判供述には疑問の余地がある。しかし,この「時間を置かずに」という言葉は,尋問者の用語を「そうですね。」と述べて肯定したものにすぎず,被告人自身は,原審においても,電話の後の状況について,「車が,生駒署から応援が来てワッパをはめられた,そういうことですね。」と述べており,これに先立ち,自ら作成した陳述書(原審弁11号証)でも,電話をした後,生駒署の車が来て手錠をされた旨述べていたもので,文字通り,電話の直後に手錠を掛けられたとする意識を示していたと認めるべき理由はないし,当審において,「電話の後も,甲野警察官らに,自分は仕事を探していたことなど,電話の前のやり取りを繰り返しており,その後,生駒署からワゴン車のような車が迎えに来て,その車内で,迎えに来た警察官に手錠をされた。」旨,原審段階と特に矛盾はない供述をしているのであって,この程度の時間的間隙を,供述の信用性を否定すべきさほど強い理由とすることはできない。
(イ)また,被告人が,甲野警察官から,前記自動車の車種とナンバーが一致しないと言われたことはないとする点は,職務質問の端緒が同自動車の車種が車両番号上のそれと異なる点にあり,その車台番号を確認する必要があったことから見て,やや不自然であり,原判決は,この点を重視する。しかし,供述の核心部分に属する内容ではない上,警察官が,職務質問に際し,相手方に所持品検査の必要性に関する具体的事情を説明しないことは極めて不自然である,という経験則が成り立つかどうかにも,疑問の余地があり,この経験則を,被告人の弁解を排斥する重要な根拠として用いることは,躊躇せざるを得ない。
(ウ)さらに,被告人の供述には,職務質問開始と同時に,警察官らの求めに応じて所持品を提示した状況について,「自分の所在や地位など,貧困ではないことを示すために,いろんな物を出した。」と,浮浪罪の嫌疑が浮上するより前の出来事について,同罪に該当しないことを訴えていたかのように述べるなど,自己の生活実態を訴えた状況を過剰に述べようとする意識も窺われるが,この程度の過度な防衛的態度をとることは,被告人という立場に置かれた者の一般的な供述傾向として,やむを得ない面があり,この点を,具体的な根拠がない事柄についてまで,供述の信用性を否定すべき理由とはできない。
(エ)このほか,原判決は,被告人供述の信用性を排斥する理由として,①被告人は,前記自動車のナンバープレート等に関し質問されたと述べる一方,職務質問の開始前に警察官らに制止され,自分のポケットから注射器入りの茶封筒が飛び出ると,警察官らの関心が覚せい剤に移ったなどと矛盾する供述をしたこと,②その主要部分に関する供述が変遷し,被告人作成に係る前記陳述書とも異なること,の2点を挙げている。しかし,上記①については,被告人は,職務質問の端緒が何であったかについて供述を変遷させているわけではなく,前後の供述に矛盾も見られない。同②については,「その主要部分」が何を指しているのかが明らかでなく,原判決の趣旨としては,上記①の点を指しているものと推察できるが,これが供述の主要部分に属すると見ることにも無理があり,さらに,被告人作成の陳述書と原審供述との関係を見ても,一方で述べられていて,他方で述べられていない点はあるものの,供述の信用性を害するに値するほどの,唐突な追加,矛盾,変遷等は認められない。
ウ そうすると,被告人供述には,上記イの(ア)ないし(ウ)のような一定の疑問はあるにせよ,全体としては,客観的事実や通話の内容に整合し,特に顕著な疑問点もなく,その供述は,容易に排斥し難い信用性を保っているといえ,逆に,警察官らの各供述は,この被告人供述によって,更にその信用性を減殺されている。
3 浮浪罪による現行犯逮捕としての違法性
次に,本件の逮捕が,浮浪罪による現行犯逮捕として適法か否かを判断するに,上記2(1)のとおり,被告人の本件当時における生活状況が,客観的に同罪の構成要件を充たさないものであったことはもとより,逮捕の時点において逮捕者である警察官らに判明していた事情を基礎としても,警察官らにおいて,同罪の構成要件の全てが,現行犯逮捕の要件を充たす程度に明白になっていたとは到底認められず,その逮捕が違法であることは明らかである。
しかも,警察官らは,単に,過失によって,同罪の構成要件が充足されていると軽信したというにとどまらず,その構成要件と相容れない事実が存在する旨の被告人の訴えを積極的に黙殺して逮捕を強行したと評価せざるを得ず,その違法性の程度は極めて高い。
すなわち,就労意思の関係については,被告人は,「職務質問開始直後から,所持品の提出と合わせて,前記自動車の捜索がされ,その助手席に置いてあった『フロムA』や,遮光板に挟んであった求人のコピーを警察官らに見せて,求職活動をしているところだと言った。」などと供述している。そして,この供述には,上記自動車の捜索の状況を含めて,容易に排斥できない信用性が認められ,これによれば,警察官らが,求職活動の事実について,被告人が口頭で訴え掛ける内容を無視したことが明らかであるのみならず,上記自動車の捜索によって就職情報誌や求人関係のコピーを現認しながら,その存在を黙殺した可能性も濃厚である。
住居の関係についても,被告人は,「トラブルを抱えていて自宅に長居できないこと,トラブルの内容,まだ住居があって毎日風呂に入りに行き,トラブルが解決次第戻るつもりであることなどを説明した。」旨述べるところ,その一部は前記2(1)ウの報告書によって裏付けられていて,その信用性を排斥することはできず,やはり,警察官らが被告人の訴えを黙殺した疑いを否定できない。仮に,被告人が自ら積極的にこれらの事実を訴えなかったとしても,被告人が前記マンションを賃借していることは明白であり,単に,被告人が同所に帰っていない旨や,その理由が暴力団関係者の危害を恐れることにある旨答えたからといって,それだけで直ちに,浮浪罪の要件としての「一定の住居を有しない」事実が認められることにはならないのであるから,警察官としては,同所で寝泊まりをしなくなってからの期間,家財道具の存否,その後全く帰宅することがないのか,帰宅する割合や用事の実態はどのようなものか,寝泊まりできるようになる見込みの有無ないし程度など,本来の住居との結び付きの具体的な程度を質問すべきことは当然であり,そのような質問をしないまま,直ちにこの要件を充たしていると判断したことは,警察官としての落ち度にほかならない。
本件では,浮浪罪の構成要件のうち,「生計の途を有しない」,「諸方をうろついた」の2点についても,決して,その充足が自明であるとはいい難い面があり,特に後者については,被疑事実とされる「前記駐車場をうろついた」という行動のみで,浮浪罪が予想する行為類型を充たしているかどうかも,多分に疑問であるが,少なくとも,「職業に就く意思を有しない」については,警察官が,その要件の不充足を殊更に黙殺し,「一定の住居を持たない」についても,同様に,要件の不充足を黙殺したか,現行犯逮捕に伴う制約の範囲内で容易に可能な資料の収集を怠ったことが明らかである。特に,軽犯罪法の適用に際しては,所論も指摘するとおり,「この法律の適用にあたっては,国民の権利を不当に侵害しないよう留意し」なければならない旨が明示されており(同法4条),現行犯逮捕に際しても,違反の要件を,真摯な事情聴取等により,可能な範囲で慎重に検討することが求められているのであり,警察官らの判断の在り方は,この規定の趣旨にも反している。したがって,本件の現行犯逮捕は,それ自体として,違法性の程度が極めて高いものであるというほかない。
4 別件逮捕としての違法性
次に,本件の逮捕は,いわゆる別件逮捕としても違法である。
警察官らが,浮浪罪による逮捕に踏み切った目的として,一応考えられるのは,①浮浪罪に関する捜査の必要性,②前記自動車に関連する何らかの犯罪の捜査の必要性,③覚せい剤事犯に関する捜査の必要性,の3つである。
現行犯逮捕の必要性について,甲野警察官は,「このまま身柄を離すと,注射器の件や車の件が解明されないし,逃亡のおそれもあった。」などと,乙山警察官は,「不審な車両に乗っているし,覚せい剤を使用したような注射器も持っているので,放置すれば何か犯罪をするかもしれない,逃げてしまうのではないかと思った。」などと供述する。警察官らの供述には,既に検討したとおり重大な疑義があり,そのまま前提とはできないが,覚せい剤事犯に対する一定の関心があったことは,これらの供述によっても認められ,また,少なくとも,逮捕の時点で,被告人には,覚せい剤事犯の前科の存在と注射器の所持が判明しており,浮浪罪による身柄拘束を覚せい剤事犯の捜査に利用しようとする思惑が生じても不自然でない状況に至っていたといえる。もとより,このことだけで,逮捕の目的が専ら覚せい剤の捜査にあったと即断することはできず,捜査経緯の全体を総合して判断する必要があるが,甲野警察官は,逮捕以後の手続には関与しておらず,乙山警察官も,弁解録取までの手続に関与したのみなので,その後の捜査経緯をも踏まえて,捜査機関全体としての目的を合理的に推察するのが相当である。
そこで,まず,浮浪罪に関する捜査について見ると,確かに,丙川警察官の供述によれば,逮捕翌日,午前中の取調べでいわゆる身上調書が作成された後,同日午後の取調べで,浮浪罪に関連する供述調書が録取されたことが認められる。しかし,逮捕の被疑事実となった罪に関する捜査を実際に行った体面を整えるため,その罪に関連する調書が作成されることも,ないとはいえず,調書の作成のみから,捜査機関の実質的な関心を肯定するのは早計である。また,逮捕翌日の午前中には,被告人の尿から覚せい剤が検出されたことが判明しており,丙川警察官は,同日午後の取調べについて,「この時点で,調書を取り終われば浮浪罪では釈放して覚せい剤で再逮捕することが前提になっていたのか。」という質問に対し,「そうだと思う。」と答え,「それで浮浪罪では釈放しても支障がないということで,取調べ等を行った。」とも述べており,実際に,同警察官の供述と,現行犯人逮捕手続書,覚せい剤使用での逮捕状によると,同日の午後2時25分まで,浮浪罪での取調べが行われた後,同時刻に被告人が釈放され,2分後に覚せい剤使用で逮捕されたことが認められる。さらに,この間,浮浪罪についての処分に関しては,捜査機関内部で,勾留請求が検討された事実はもとより,逮捕中,釈放後を問わず,最終的な処分の方向性について何らかの検討が行われた事実も全く窺われず,丙川警察官は,取調べ状況に関する手控えも作成しておらず,総じて,浮浪罪に関する捜査機関の関心は薄かったと認められる。
次に,前記自動車に関連する犯罪の捜査については,浮浪罪による逮捕期間中にも,その後にも,何ら具体的な進展がなく,捜査機関が,本件の逮捕をこの捜査に利用し,あるいは,利用する意思を有していたとは,考えられない。
続いて,覚せい剤事犯の捜査について見ると,まず,被告人が本件当日午後4時15分に生駒署に引致された直後から,採尿手続が進行していることが認められる。すなわち,丙川警察官は,上記引致の際,自ら被告人に対し,尿の任意提出を促し,被告人がこれを拒否したため,直ちに強制採尿の手続に入ったこと,乙山警察官が浮浪罪に関する弁解録取をした後,自らは専ら採尿手続の令状請求に関する書類等を作成していたこと,この間,被告人が何をしていたかは分からないこと,令状が発付され,被告人に尿を出すつもりはあるのかを聞き,令状を見せたところ,被告人が出すと言ったので,午後7時55分,署内のトイレで採尿したこと,当日は,浮浪罪に関する捜査は全く行っていないことを供述するところ,これらの供述の信用性を害する事情はなく,上記各事実が認められる。また,同警察官は,暴力団対策と薬物事犯を担当する刑事課組織犯係の所属で,本件の捜査に従事することになった理由として,「薬物があるかもしれないから。」と述べ,「覚せい剤薬物捜査を念頭に置いて担当が回ってきたということでよいか。」という質問に対しても,「そういうことだと思う。」と述べて,これを認めている。
このような捜査の経緯から見ると,捜査機関の関心が,専ら又は主として覚せい剤の嫌疑にあったことはほぼ明らかであるといえ,本件逮捕は,所持品検査の段階で収集された資料である被告人の前科と注射器所持の事実のみでは,覚せい剤事犯での逮捕を基礎付けるだけの嫌疑はいまだ不十分であるために,強制採尿及び鑑定を経て,覚せい剤使用による逮捕状の発付を得ることと,その間における被告人の身柄確保を主要な目的とし,そのために,別罪での逮捕という形式を利用したものであって,いわゆる別件逮捕としても違法であると評価すべきである。
5 証拠能力に対する影響
以上を踏まえて,所論主張の各証拠の証拠能力を判断するに,本件の現行犯逮捕は,浮浪罪による現行犯逮捕自体として違法であり,その違法性の程度が高い上,別件逮捕としても違法であって,令状主義の精神を没却する重大な違法に該当するといえ,将来に向けて,浮浪罪の規定が本件のような形で濫用される事態を厳に禁圧すべき要請も高い。
また,本件の捜索差押許可状の請求手続に際して,どのような資料が裁判所に提供されたかは不明であるが,覚せい剤の前科関係,注射器2本の所持事実のほか,被告人が生駒署に引致後,任意採尿を拒否したという,正に違法な逮捕の期間中に生じた事情も,当然資料化されていたものと解され,この採尿拒否という事情があればこそ,令状が発付されたことも明らかである。そして,このように,違法な逮捕期間中に獲得された資料に基づいて請求・発付された令状の執行として,かつ,その違法な逮捕期間中に,被告人の尿が差し押さえられたことも明らかであり,さらに,この尿を資料として所論指摘の鑑定書が作成されたこと,この鑑定書を主要な資料として,覚せい剤自己使用を被疑事実とする通常逮捕状が発付されるに至り,その逮捕とこれに引き続く勾留期間に,所論指摘のその余の証拠が作成あるいは録取されるに至ったことも認められる。したがって,少なくとも,上記各証拠と本件違法捜査との結び付きはいずれも相当強いといえるが,その中でも,鑑定書と違法捜査との結び付きは極めて強く,その証拠能力を否定しなければ,本件の捜査について,上記評価を行った意義もないというべきである。
6 結論
以上の次第で,少なくとも,所論指摘の鑑定書に証拠能力を認めることは許されず,原審裁判所が同鑑定書を証拠として採用したことは,刑訴法317条に違反する。そして,同鑑定書が証拠に採用されなければ,他の各証拠の証拠能力の有無にかかわらず,被告人が原判示の覚せい剤を使用した事実を認定することはできないから,この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。
論旨は理由がある。
第2 破棄,自判
そこで,その余の控訴趣意に対する判断を省略して,刑訴法397条1項,379条により原判決を破棄し,同法400条ただし書により,更に判決することとする。
本件公訴事実の要旨は,「被告人は,法定の除外事由がないのに,平成19年10月6日ころ,奈良県生駒市<番地等略>カラオケハウス『バンビ』において,覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンの塩類若干量の水溶液を自己の身体に注射し,もって,覚せい剤を使用したものである。」というものであるが,この事実を認定できないことは,既に前記第1で説示したとおりである。
以上の次第で,本件覚せい剤取締法違反の公訴事実については,犯罪の証明がないから,刑訴法336条により被告人に無罪の言渡しをする。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 古川博 裁判官 植野聡 裁判官 今泉裕登)