大阪高等裁判所 平成20年(ネ)2167号 判決 2009年1月23日
控訴人
甲野秋子
同訴訟代理人弁護士
伊山正和
被控訴人
株式会社近畿しんきんカード
同代表者代表取締役
臼杵直昌
同訴訟代理人弁護士
葉狩陽子
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。
第2 事案の概要
1 前提事実(証拠等の掲記のないものは当事者間に争いがないか当裁判所に顕著な事実である。)
(1)被控訴人(平成17年10月1日商号変更前の商号は株式会社近畿しんきんクレジットサービス)は,平成2年9月20日,甲野春男(以下「春男」という。)に対し,利息を年9%,遅延損害金を年29.3%とし,同年11月10日から毎月10日限り150回にわたり278万1975円を支払い,春男が被控訴人に対する債務の一つでも期限に返済しない場合には被控訴人からの通知催告等なしに期限の利益を失うとの約定の下,2億5000万円を貸し付けた(甲1。以下「本件貸付1」という。)。被控訴人と春男は,本件貸付1につき,平成4年3月10日,弁済期限を平成24年2月10日,利息を年7%とする旨(甲2),平成6年12月8日,弁済期限を平成16年12月10日,利息を年5.5%,弁済方法を平成7年1月10日から毎月10日限り177万6755円を,弁済期限に残額を支払うこととする旨(甲3),それぞれ合意した。
(2)被控訴人は,平成3年7月15日,株式会社A(以下「A社」という。代表者は春男)に対し,利息を年8.4%,遅延損害金を年29.3%とし,同年9月10日から毎月10日限り84回にわたり552万5186円を支払い,A社が被控訴人に対する債務の一つでも期限に返済しない場合には被控訴人からの通知催告等なしに期限の利益を失うとの約定の下,3億5000万円を貸し付け,春男は,同日,被控訴人に対し,A社の上記債務を連帯保証した(甲5。以下「本件貸付2」といい,本件貸付1と併せて「本件各貸付」という。)。被控訴人とA社は,本件貸付2につき,平成4年3月10日,弁済期限を平成24年2月10日,利息を年7%とする旨(甲6),平成6年12月8日,弁済期限を平成16年12月10日,利息を年5.5%,弁済方法を平成7年1月10日から毎月10日限り328万7760円を,弁済期限に残額を支払うこととする旨(甲7),それぞれ合意した。
(3)株式会社B(以下「B社」という。代表者は春男)は,平成10年10月13日,被控訴人に対し,春男の本件貸付1の債務(残元本1億2695万3662円)について,弁済期限を平成16年12月10日,利息を年4.5%とし,弁済方法を平成10年11月10日から毎月10日限り100万円を,弁済期限に残額を支払うこととする旨の約定の下(甲4),A社の本件貸付2の債務(残元本2億5277万0300円)について,弁済期限を平成16年12月10日,利息を年4.5%とし,弁済方法を平成10年11月10日から毎月10日限り150万円を,弁済期限に残額を支払うこととする旨の約定の下(甲8),重畳的債務引受をした(以下「本件債務引受」という。)。また,被控訴人は,上記各債務について,平成13年10月分以降の利息を年3.5%に減じた(弁論の全趣旨)。
(4)春男は,平成15年3月25日,死亡した。甲野夏子(以下「夏子」という。)は,春男の妻であり,控訴人及び甲野冬男(以下「冬男」という。)は,春男の子である。
その後,B社の代表者には,夏子が就任した。
(5)B社(申立人),被控訴人(相手方),夏子(利害関係人)及び冬男(利害関係人)は,平成16年3月16日,京都簡易裁判所において,①B社が,被控訴人に対し,本件貸付1の債務が1億1493万9994円(残元金が1億1200万円,未収利息が293万9994円),本件貸付2の債務が2億4219万4997円(残元金2億3600万円,未収利息619万4997円)であることを認めること,②B社が,その所有物件(新潟県西蒲原郡岩室村所在)を売却し,被控訴人に対し,その代金で上記債務を一括して弁済するとともに,一括弁済までの間,平成16年4月から平成36年2月まで毎月末日限り100万円ずつ,同年3月31日限り1億1813万4991円を支払うこと,③B社が上記②の支払を怠り,その額が300万円に達したときは,期限の利益を失い,上記①の合計額3億5713万4991円から既払金を控除した残額及び残元金に対する期限の利益喪失日の翌日から支払済みまで年21.9%の割合による遅延損害金を一時に支払うこと,④B社が期限の利益を喪失することなく②の金員を支払い,その合計額が3億4800万円に達したときは,被控訴人がB社のその余の支払義務を免除すること,⑤夏子及び冬男がB社の上記②の債務を連帯保証することなどを内容とする調停(以下「本件調停」という。)を成立させた。
(6)B社は,本件調停に基づき,被控訴人に対し,平成17年12月28日までに1470万円を弁済し,被控訴人は,同額を本件貸付1の債務の元金に充当したが,B社は,同日にした同年11月分の100万円の弁済以降,その債務を弁済せず,平成18年2月28日が経過した(甲10,11)。
(7)夏子,冬男及び控訴人は,平成15年12月25日,春男の遺産について遺産分割協議書を作成し,遺産分割協議をした(乙9。以下「本件遺産分割協議」という。)。
(8)本件訴状は,平成19年6月8日,控訴人に送達された。
(9)控訴人は,平成19年7月11日,春男の相続について相続放棄の申述をしたところ,京都家庭裁判所は,平成19年11月22日,控訴人の上記相続放棄の申述を受理した(乙11)。
2 本件請求及び訴訟の経緯
被控訴人は,前提事実(1)ないし(6)に基づき,春男の法定相続人(法定相続分4分の1)である控訴人に対し,本件貸付1の残元金9730万円の4分の1である2432万5000円と春男死亡時の未収利息112万7671円の4分の1である28万1918円(1円未満四捨五入)の合計2460万6918円及び上記残元金の4分の1である2432万5000円に対する約定弁済期の翌日である平成16年12月11日から支払済みまで約定の年29.3%の割合による遅延損害金並びに本件貸付2の保証債務の残元金2億3600万円の4分の1である5900万円と春男死亡時の未収利息237万6164円の4分の1である59万4041円の合計5959万4041円及び上記残元金の4分の1である5900万円に対する期限の利益を喪失した平成18年3月1日から支払済みまで約定の範囲内である年21.9%の割合による遅延損害金の支払を求めた。
原審は,被控訴人の上記請求を認容したため,控訴人が本件控訴をした。
3 争点及びこれに対する当事者の主張
(1)債務免除の有無
(控訴人)
平成16年3月16日の本件調停成立の際,被控訴人と夏子(兼B社の代表者)は,B社の被控訴人に対する債務について,夏子と冬男を連帯保証人とし,控訴人を連帯保証人にしないことによって,春男の本件各貸付に係る債務を,本件債務引受に先立つ平成10年10月12日に遡ってB社が免責的に債務引受をしたことに合意し,これにより,被控訴人は,春男の上記債務を消滅させ,あるいは,控訴人の本件各貸付に係る春男の相続債務を免除した。
その結果,本件貸付1の債務を被担保債権として原判決別紙物件目録記載1ないし3の土地(以下「本件土地」という。)に設定された1番抵当権について,本件調停成立後,債務者をB社,原因を「平成10年10月13日免責的債務引受」とする変更登記(以下「本件変更登記」という。)がされた。また,被控訴人は,本件土地について,平成3年4月15日付けでされた5000万円の金銭消費貸借を原因とする2番抵当権の設定登記を放棄によって抹消しており,これも,春男の債務について相続人に責任を追及しないとの被控訴人の意思を示したものといえる。さらに,控訴人は,免責的債務引受と記載された司法書士への委任状を信頼して登記手続をしたのであるから,被控訴人がそれと異なる主張をすることは信義則に反する。
(被控訴人)
被控訴人が,本件調停の際,控訴人に対する春男の相続債務を免除し,あるいは,B社が本件各貸付に係る債務を免責的に債務引受けをすることに合意したことはない。
本件変更登記については,司法書士が「免責的債務引受」でないと登記できないと述べたので,被控訴人担当者がそのとおりに任せただけにすぎない。また,5000万円の貸金の抵当権については,既に完済されていたので,ついでに抹消したにすぎない。さらに,本件調停において,控訴人の債務を免除する旨の合意が成立したのであれば,その旨が調停条項とされていたはずであり,控訴人が連帯保証人になっていないということだけからそのような合意を基礎づけることはできない。
(2)相続放棄の効力
(控訴人)
ア 控訴人の行った相続放棄の申述(平成19年7月11日付け)は,春男の相続開始日(平成15年3月25日)から3か月を経過した後になされているが,以下の点を考慮すれば,相続放棄をするについて3か月の期間(以下「熟慮期間」という。)は,本件訴状が控訴人に送達された日(平成19年6月8日)から起算されるべきである。
イ 最高裁判所昭和59年4月27日第二小法廷判決・民集38巻6号698頁(以下「昭和59年判決」という。)は,一定の事情がある場合には,相続放棄の熟慮期間の起算点を繰り下げることができるとの判断を示しているが,その射程範囲については,相続人が被相続人に相続財産が全く存在しないと信じた場合に限るのか(限定説),一部相続財産の存在を知っていたが,通常人がその存在を知っていれば当然相続放棄をしたであろうような債務が存在しないと信じた場合も含むとするのか(非限定説)が問題になる。この点,相続債権者がその債権の引当てとして企図しているのは,本来的に被相続人の財産に限られていたはずであり,相続の発生に伴ってその引当てとなる範囲が拡大されることについてまで,法が積極的に保護すべき必要性はない。一方,相続人が自ら積極的に相続債務を引き受けるかどうかについては,放棄を動機づけるのに十分な条件が整った上での判断に委ねるべきであり,相続人が放棄をする動機づけがおよそ期待できない場合まで放棄の手続を義務づけるような形で,熟慮期間の起算点の繰下げを限定することは公平ではない。したがって,昭和59年判決の射程範囲は,非限定説の考えに基づいて捉えられるべきであり,相続人において,一定の消極財産の存在を認識し又は認識し得た場合であっても,その均衡を失するような多額の消極財産はないと信じ,そう信じたことに相当な理由があるような場合には,当該多額の消極財産の存在を知ったときまで,熟慮期間の繰下げが認められるべきである。
ウ これを本件についてみるに,控訴人は,平成15年12月25日,夏子及び冬男より,春男の遺産分割協議書への署名押印を求められてこれに応じているところ,本件遺産分割協議の内容は,控訴人において,不動産6396万0229円相当(直近の固定資産税評価額の合計額を持分割合で除した金額)を積極財産として相続する一方,負担すべき債務額は5481万7600円になるものとされており,積極財産の方が消極財産に比較して約1000万円上回っている計算となっており,本件訴訟で被控訴人が春男の債務として請求する多額の債権(控訴人にとっては債務。以下「本件債務」という。)を前提としておらず,本件遺産分割協議当時,控訴人において相続放棄を動機づけるのに十分な消極財産の存在を認識し又は認識し得たということはできない(本件債務を含めると消極財産の方が積極財産を上回ることになるので,その意味で本件遺産分割協議は無効である。)。
そして,控訴人は,B社に勤務していたことはあるものの,B社で行っていた業務は,単なる事務作業にすぎず,その経営に係わる職務は何ら含まれておらず,代表取締役である春男の負担している債務の実情を把握できる立場にはなく,本件遺産分割協議の際以外に,春男の個別的具体的な債務を知ることはできなかったのであり,本件債務が春男の相続債務に含まれていないと信じたことに相当な理由があった。
(被控訴人)
ア 昭和59年判決は,熟慮期間の起算点について,「相続人が相続開始の原因たる事実を知り,自己が相続人となったことを覚知した時」とする大審院大正15年8月3日決定と同じ原則を示しつつ,あくまで,例外として,相続人が上記各事実を知った場合であっても,被相続人に相続財産が全く存在しないと信じ,かつ,被相続人の生活歴,被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況から相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があり,相続財産がないと信ずるについて相当な理由があると認められるときには,熟慮期間は,相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時から起算すべきものとして,起算日の例外を認める判断を示したことであることからすれば,仮に非限定説に立ったとしても,例外が無制限に広がることを法が予定したということはできない。
イ 控訴人は,春男の死亡後の平成15年9月ころまでB社において勤務し,春男の食事当番係,夏子の作成した伝票の転記や領収証の貼付,電話番をしており,B社に負債があることを認識していたのであるから,その代表取締役である春男にも保証債務等の負債が存在する可能性を疑う契機が十分に存在していたというべきであり,控訴人が春男の相続財産は積極財産のみであり,消極財産が存在しないと信じていたとしても,それは,必要な調査を怠ったことに起因する結果にすぎず,そのように信じたことについて相当な理由があるといえない。
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)について
(1)認定事実
前記前提事実,証拠(<証拠等略>)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
ア 被控訴人は,平成15年9月12日,B社に対し,B社が本件債務引受をした本件貸付1及び本件貸付2の債務について,同年1月10日の支払分以降の支払を怠っており,明確な支払方法の提示もないため,期限の利益を喪失させたとして,同年9月12日から2週間以内に全額を弁済するとともに,同月13日から支払済みまで年21.9%の割合による遅延損害金を支払うよう求めた(甲19の1・2)。
イ B社は,被控訴人に対し,平成15年9月18日付けの「お願い」と題する書面により,B社の代表取締役であった春男が突然倒れて急逝してしまったことから,混乱して諸手続等に支障を来していたが,今後は,サーキット場の売却代金によって被控訴人の債権に対する返済に充てる予定であるものの,直ちに売却できる見込みがないため,長期分割返済を依頼したく,その提示をするためにしばらくの猶予を願いたい旨を申し出た(甲20)。
ウ B社は,平成15年10月30日,被控訴人を相手方として,債務額を確定した上で債務支払方法を協定したいとの申立ての趣旨,本件貸付1及び本件貸付2の債務について,B社にはこれ以外にも債務があり,残債務額を一時に返済できないとの申立ての理由により,調停を申し立て,平成16年3月16日,本件調停を成立させたが,夏子はもともと上記各債務の連帯保証人であり,冬男はB社の事業を継ぐことが予定されていたことから,夏子と冬男は,本件調停に利害関係人として加わり,B社の上記債務を連帯保証した(甲9,21の4)。
エ 本件土地については,本件貸付1の債権(債務者は春男)を被担保債権とする2億5000万円の1番抵当権(神戸地方法務局豊岡支局平成2年9月25日受付第13541号),被控訴人の春男に対する債権を被担保債権とする5000万円の2番抵当権(同支局平成3年4月15日受付第6011号),本件貸付2の債権(債務者はA社)を被担保債権とする3億5000万円の3番抵当権(同支局同年7月23日受付第9883号)の各設定登記がされていたところ,被控訴人は,平成16年3月16日,春男が懇意にしていたC事務所の乙山太郎司法書士(以下「乙山司法書士」という。)に対し,被担保債権が既に完済されていた上記2番抵当権の抹消に必要な一部の書類を預け,また,被控訴人並びに夏子及び控訴人は,同年6月10日,同司法書士に対し,本件土地について夏子及び控訴人に相続登記した上,上記2番抵当権の抹消並びに上記1番抵当権及び3番抵当権の債務者をB社に変更するために必要な書類(抵当権設定契約書,委任状等)を預けた。
なお,被控訴人の担当者であった一宮昭夫(以下「一宮」という。)は,平成16年6月10日に乙山司法書士に委任状を交付するに先立ち,委任状の登記原因が免責的債務引受となっていることに気付き,問い合わせをしたところ,C事務所の者から,登記原因が(「重畳的債務引受」ではなく)「免責的債務引受」でないと登記できないとの回答を得た。
オ 乙山司法書士は,平成16年6月11日,本件土地の所有者について,平成15年3月25日相続を原因として,春男から控訴人及び夏子の共有(持分各2分の1)にする登記の申請,1番抵当権及び3番抵当権について,平成10年10月13日免責的債務引受を原因として,債務者をB社に変更する登記(本件変更登記)の申請,2番抵当権について,平成16年3月16日放棄を原因として,抹消する登記の申請をそれぞれ行い,その旨の登記をした上で,同年6月21日付けで,被控訴人に対し,依頼を受けた登記手続が完了したとして,謄本,代表者事項証明書,抵当権変更登記申請書(副本)等を送付した。
(2)判断
乙6〔冬男の陳述書〕中には,B社は,被控訴人の担当者の二宮和夫(以下「二宮」という。)の助言により,B社並びに夏子及び冬男が被控訴人に対する債務の責任を負い,控訴人にその責任が及ばない手当てとして本件調停を成立させるべく調停を申し立てたものであり,二宮は,上記調停の2回目の期日には,夏子に対し,「これで大丈夫です。娘さんの方も御安心いただいて結構です。」との趣旨の発言をしたとの記載部分がある。そして,本件調停においては,B社の被控訴人に対する債務の連帯保証人は,夏子及び冬男のみであり,控訴人は含まれておらず,また,債務者をB社とする本件変更登記の原因は免責的債務引受とされている。
しかし,本件調停における調停調書(甲9)中には,被控訴人が本件貸付1及び本件貸付2の債権について,春男の相続人である控訴人の相続債務を免除するとか,B社の本件債務引受を免責的債務引受とするとかの記載はない(冬男の陳述書のとおりであれば,この旨の記載は必須であったはずである。)こと,夏子及び冬男がB社の債務を連帯保証したのは,前記認定のとおり,夏子がもともと本件貸付1及び本件貸付2の債務を連帯保証しており,冬男がB社の事業を継ぐことを予定していたことによるものであって,本件調停の際に控訴人を連帯保証人としなかったことにも合理的な理由があり,控訴人を連帯保証人としなかったことが直ちに被控訴人が控訴人に対する春男の相続債務を免除したものとまでは考え難いこと,本件変更登記の原因は,免責的債務引受とされているが,春男を債務者とする1番抵当権のみならず,A社を債務者とする3番抵当権についても免責的債務引受とされているところ,春男のみならず,A社については債務を免除する理由がない(証人一宮昭夫)こと,一宮が,委任状を交付するに先立ち,委任状の登記原因が免責的債務引受となっていることに気付き,問い合わせをしたところ,C事務所の者から,免責的債務引受けでないと登記できないとの回答を得ているところ,この点に不合理な点はなく,本件変更登記の原因が免責的債務引受となっているのは,登記手続上の問題であると考えられること及び本件調停に至る調停に関与した一宮昭夫が,調停手続の中で,控訴人の債務免除や請求放棄等の話が一切出ていなかったと証言していることに照らせば,冬男の上記陳述書記載部分は,直ちに措信できない。
そして,他に,本件調停により,被控訴人において,B社が本件貸付1及び本件貸付2の債務を免責的に債務引受したことに合意した,あるいは,控訴人に対する債務免除をしたことを認めるに足りる証拠がない。
また,上記のとおり,一宮が,委任状を交付するに先立ち,委任状の登記原因が免責的債務引受となっていることに気付き問い合わせをしたところ,C事務所の者から,免責的債務引受でないと登記できないとの回答を得たとの事実を前提にすると,被控訴人が本件変更登記の原因が免責的債務引受となっていることについて,控訴人に何らかの信頼を与えたとはいえず,被控訴人が本件において免責的債務引受の事実を争うことが信義則に違反するとはいえない。
2 争点(2)について
(1)民法915条1項本文が相続人に対し単純承認若しくは限定承認又は放棄をするについて3か月の熟慮期間を許与しているのは,相続人が,相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った場合には,通常,上記各事実を知った時から3か月以内に,調査すること等によって,相続すべき積極及び消極の財産(以下「相続財産」という。)の有無,その状況等を認識し又は認識することができ,したがって単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択すべき前提条件が具備されるとの考えに基づいているのであるから,熟慮期間は,原則として,相続人が上記各事実を知った時から起算すべきものである。もっとも,相続人が,上記各事実を知った場合であっても,上記各事実を知った時から3か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかったのが,被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたためであり,かつ,被相続人の生活歴,被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があって,相続人において上記のように信ずるについて相当な理由があると認められる特段の事情があるときには,相続人が前記の各事実を知った時から熟慮期間を起算すべきであるとすることは相当でないものというべきであり,熟慮期間は相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時から起算すべきものと解される(昭和59年判決)。
(2)そこで,以下,本件について上記特段の事情があるかどうかについて検討する。
証拠(乙7,9,12ないし28,控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
ア 控訴人は,平成15年9月ころまでの5~6年間,B社において,春男の食事当番係(ただし,春男の死亡時期まで),夏子の作成した伝票の転記や領収書の貼付,電話番等を担当していた。
イ 控訴人は,春男が平成15年3月25日に死亡した後,夏子ないし冬男から言われて,同年12月25日,本件遺産分割協議をした。
本件遺産分割協議の内容は,積極財産については,本件土地のほか豊岡市京町所在の土地3筆及び同所所在の区分所有建物11戸(以下「本件マンション」という。)は持分各2分の1として夏子及び控訴人が,預金等の債権は夏子が,家財道具等は冬男がそれぞれ相続し,一方,消極財産については,平成15年度固定資産税は夏子及び控訴人が各111万7600円,冬男からの借入金は夏子が1930万円,控訴人が2370万円,三井明夫宛振出の支払手形3000万円は控訴人が,預り水道光熱費約57万円は夏子が,入院費約43万円は冬男がそれぞれ債務として相続する(上記相続債務の合計は約7623万5200円で,そのうち控訴人の相続した債務合計は5481万7600円)というものであった。
しかし,控訴人は,本件遺産分割協議に際しても,夏子ないし冬男から本件債務があることを聞かされておらず,本件債務の存在を知らなかったし,春男にその他の債務があることも知らなかったところ,実際には,春男には,本件遺産分割協議で相続債務となった上記債務及び本件債務のほか京都銀行及び中小企業金融公庫(現・日本政策金融公庫)に対するB社の保証債務があった。
ウ その後,前記のとおり,平成16年6月11日,被控訴人が抵当権を有していた本件土地については,夏子及び控訴人の委任に基づき,平成15年3月25日相続を原因とする夏子と控訴人との共有(持分各2分の1)とする旨の所有権移転登記が経由された。
しかし,夏子,冬男及び控訴人は,本件訴訟が提起された後,本件遺産分割協議が無効であるとして,再度遺産分割協議をし,本件土地については,平成19年9月10日,夏子と控訴人に対する上記相続を原因とする所有権移転登記が錯誤を原因として抹消登記手続された上,平成15年3月25日相続を原因とする夏子の単独名義に所有権移転登記が経由された。
なお,上記相続財産のうちその余の不動産(いずれも被控訴人が抵当権を有していない。)については,登記名義は春男のままであり,控訴人ないし夏子によって処分がなされていない。
一方,控訴人は,本件遺産分割協議によって相続した債務のうち,約2720万円については,夏子が管理している本件マンションの賃料収入,春男の生命保険金,火災保険金等から資金を捻出して支払い,残余の約2761万円については,控訴人が結婚資金として蓄えていた積立預金や定期預金を解約して支払った。
(3)上記認定事実によれば,控訴人は,春男が死亡した平成15年3月25日には,相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知ったと認められ,その後,夏子や冬男に聞くなり,自ら調査することによって,春男の相続財産の有無及びその状況等を認識又は認識することができるような状況にあった(少なくとも春男に相続財産が全くないと信じるような状況にはなかった)というべきであり,したがって,熟慮期間内に相続放棄又は限定承認をすることが可能であったというべきである。
のみならず,控訴人は,熟慮期間経過後の平成15年12月25日,夏子や冬男に言われたとはいえ,本件遺産分割協議に応じて,春男に積極財産及び消極財産(約7623万5200円の債務)があることを認識して,これらの一部を相続した上,本件土地について相続登記を経由し,夏子の管理の下とはいえ本件マンションの賃料を収受したほか,控訴人の固有財産からも相続債務の弁済をしていたものである。
そうであれば,控訴人が被控訴人の本件訴訟提起まで本件債務の存在を知らずにいて,かつ,本件債務を加えると控訴人が本件遺産分割協議によって相続した消極財産が積極財産を上回り,当事者間で本件遺産分割協議が無効になったとしても,控訴人は,遅くとも本件遺産分割協議の際には,春男に積極財産のみならず多額の債務があることを認識し,これに沿った行動を取っていたといえるのであって,このような事情に照らせば,控訴人について,熟慮期間を本件訴状が控訴人に送達された日から起算すべき特段の事情があったということもできない。
(4)したがって,控訴人がした相続放棄の申述は相続開始から3か月を経過した後にされたもので,その受理は効力を有しないものというべきである。
第4 結論
よって,被控訴人の請求は理由があるところ,これと同旨の原判決は相当であるから,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 横田勝年 裁判官 塚本伊平 裁判官 植屋伸一)