大阪高等裁判所 平成21年(ネ)1051号 判決 2010年3月18日
控訴人・被控訴人(原告)
X(以下「第1審原告」という。)
上記訴訟代理人弁護士
谷清司
同
山本明生
同
藤川真之介
被控訴人・控訴人(被告)
Y株式会社(以下「第1審被告」という。)
上記代表者代表取締役
A
上記訴訟代理人弁護士
竹林節治
同
畑守人
同
竹林竜太郎
主文
1 第1審原告の控訴を棄却する。
2 第1審被告の控訴に基づき,原判決主文第1項及び第2項を次のとおり変更する。
(1) 第1審被告は,第1審原告に対し,900万円及びこれに対する平成19年10月19日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
(2) 第1審原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,第1審及び第2審を通じてこれを5分し,その3を第1審被告の負担とし,その余を第1審原告の負担とする。
4 この判決は第2項(1)に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
1 第1審原告の控訴の趣旨
(1) 原判決を次のとおり変更する。
(2) 第1審被告は,第1審原告に対し,1473万円及びこれに対する平成19年10月19日から支払済みまで,年6分の割合による金員を支払え。
(3) 訴訟費用は第1,2審とも第1審被告の負担とする。
(4) 仮執行宣言
2 第1審被告の控訴の趣旨
(1) 原判決中第1審被告敗訴部分を取り消す。
(2) 上記取消部分に係る第1審原告の請求を棄却する。
(3) 訴訟費用は,第1,2審とも第1審原告の負担とする。
第2事案の概要(略記は,原判決のそれに従う。)
本件は,第1審被告に雇用され退職した第1審原告が,第1審被告に対し,第1審被告が平成6年8月に定めた就業規則の退職金の規定に基づき退職金1473万円及びこれに対する弁済期後である訴状送達日の翌日である平成19年10月19日以降の商事法定利率年6分の遅延損害金の支払を求めた事案である。これに対し第1審被告は,全従業員の同意を得て,仮にそうでないとしても就業規則の不利益変更の要件を充足した上で,平成7年,平成10年,平成15年,平成19年と数次にわたって就業規則を改定し,第1審原告が退職するまでに就業規則の退職金の規定が廃止されたから,第1審被告は退職金支払義務を負わないと主張して,第1審原告の請求を争った。
原審裁判所は,第1審原告との関係では,平成7年以降の就業規則の変更は効力がなく,平成6年8月に定めた第1審被告の就業規則が効力を有すると判断した上で,その金額については退職時の基本給を基礎として,第1審原告の退職金を1350万円と認定し,同金額とこれに対する平成19年10月19日以降の年6分の遅延損害金の限度で請求を認容した。
これに対し,第1審被告は,就業規則が有効に変更されたと主張し,第1審原告は,業績評価手当を退職金の基礎に加えるべきであると主張して,双方とも控訴を提起した。
1 「前提事実」,「争点」及び「争点に関する当事者の主張」は,後記2,3のとおり当審における第1審被告の補充主張及び当審における第1審原告の補充主張を付加するほかは,原判決の「事実及び理由」の第2の1から3までに記載のとおりであるから,これを引用する。
2 当審における第1審被告の補充主張
(1) 労働者の同意があれば,就業規則を変更することによって労働条件を労働者の不利益に変更することが可能である。この同意は,書面のみならず,口頭でもよく,明示の同意に限られず,黙示の同意でもよい。そして,労働者の同意がある場合は,就業規則の変更につき合理性があることは要件として求められない。
ア 第1審原告を含む全従業員は,平成7年の補則事項,平成10年の就業規則,平成15年の就業規則,平成19年の就業規則の各改定に当たり,第1審被告の当時の副社長B(以下「B」という。)等から具体的な説明を受けた上,改定に同意した。
イ 第1審被告代表者Aは,平成13年7月23日の第1審被告全体会議で,第1審被告がローソンコンサート等の○○関連事業の取扱いを失い,年間2億円の利益の減少が見込まれるとの危機的状況を説明した上で,従業員らに対し,退職金廃止を告知した。この時,従業員の誰からも異議や反対は出なかった。退職金廃止につき第1審原告を含む全従業員が同意したのである。
第1審原告は,平成13年から第1審被告の九州支社長兼営業部長の地位にあり,九州支社を管理,統括していた。第1審原告は,管理職として給与制度の見直しや退職金制度廃止の実施に関与し,部下に対して,平成15年の就業規則の改定内容を説明し,九州支社の退職者に対しては退職金が出ないことを説明した。第1審原告は,平成13年7月以降第1審被告に退職金制度がなくなったことをよく理解していた。
ウ 平成15年就業規則の施行後である平成15年10月1日以降,第1審被告の退職者は,第1審原告を除き28名いる。この中には従前の退職金の規定によると退職金の受給資格を持つ者がいたが,これらの者から退職金の請求はなく,第1審被告も支給しなかった。
(2) 就業規則改定の合理性
ア 平成7年の補則事項施行の必要性
第1審被告は,平成元年ころから中国産養毛剤の輸入販売を企画し,その準備に入った。第1審被告は,養毛剤の開発費,中国側の関係者の来日,滞在の費用,診療所(養毛治療)の開設費用,医師等への人件費等の経費を毎年負担し続けたが,養毛剤には薬事法上の問題があり事業を開始するには至らなかった。この事業に費やした経費は平成8年までに3億4581万円にのぼった。この損失は,第1審被告に深刻な影響を与え将来的にも危惧されるにいたり,退職金の規定の変更を余儀なくされた。
イ 平成10年の就業規則の改定
第1審被告は,○○事務所と提携し,ローソンコンサート,ビデオ販売を取り扱い利益を上げてきたが,平成10年,突然○○事務所からこの契約を打ち切られ毎年2億円に上っていた利益を失った。
ウ 平成15年の就業規則改定(退職金の廃止)
前記の○○関連の利益の減少に加えて,第1審被告の賃金は当時成果主義ではなく年功主義となっていたため,同業他社に比べ給料水準が高く余剰人員も抱えていた。第1審被告は,この当時,事業及び経営を守るため退職金を減額せざるを得ないと判断した。
3 当審における第1審原告の補充主張
(1)ア 就業規則上の労働条件を,労働者の個別的合意によって変更することはできない。
個別の労働者と使用者が対当の立場で労働契約を締結するのは困難であることから,労働契約法12条(改正前の労働基準法93条)は,個別的合意である労働契約よりも,他の労働者が関与し,合理的に労働条件が決定できる就業規則を優位に置くこととした。労働者が個別的に合意すれば,就業規則上の労働条件を不利益に変更できると解すると,前記労働契約法12条の趣旨が潜脱されることとなる。
労働契約法9条は,労働契約の内容を変更するには労働者及び使用者の合意が必要であるという当然の原則を示したものにすぎない。同条の反対解釈として,個別に労働者の同意があれば,就業規則の変更による労働条件の不利益変更が可能であると解すると,いったん就業規則によって統一的,画一的に決定された労働条件が,個別に同意を得た労働者とそうでない労働者との関係で,統一性,画一性が保たれなくなる。労働契約法12条がそのような結果を容認するものとは解されない。就業規則によって決定された労働条件は,個別の労働者の権利であると同時に,それを超えた性格を有し,労働者が個別的に合意することによって,既存の就業規則によって決定された労働条件を不利益に変更することはできない。
労働者全員の同意があれば,就業規則は変更される。しかし,全員の合意がないと労働条件の不利益変更ができないのでは,事実上,就業規則による労働条件の不利益変更はできなくなる。そこで就業規則に周知性と合理性があれば,同意しない労働者の関係でも就業規則は変更できるものと判例法上扱われてきた。労働契約法9条,10条はこの理を明らかにしただけであって,労働者との個別的同意によって,その労働者との関係で就業規則が変更されることを認めるものではない。
イ 就業規則上の労働条件である退職金の規定に対する労働者の合意に関しては,単純な同意の意思表示では不十分で,自由な意思に基づいてされる必要がある。最高裁判決は退職金の放棄に関して「(退職金放棄の)意思表示の効力を肯定するには,それが上告人(労働者)の自由な意思に基づくものでなければならない(最高裁判所昭和48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁)」とし,また退職金の合意相殺について「同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は,厳格かつ慎重に行わなければならない(最高裁判所平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁)」としている。以上にかんがみれば,労働者の署名押印があるということのみをもって,退職金の減額,廃止に対する承諾の意思表示があったと認定することはできない。同意が有効となるには自由な意思に基づいてされたと認められる客観的状況が必要である。
(2) 「平成7年の補則事項」と称する就業規則の改定は,事実として存在しない。平成6年の「会社規程(<証拠省略>)」の32頁の「補則事項」は,後に追加されたものであって,その内容について,従業員の誰であれ,同意,承諾を与えたことはない。平成10年の就業規則の改定,平成13年7月の全体会議での退職金廃止に対する同意,平成15年の就業規則の改定,平成19年の就業規則の改定,以上いずれについても第1審原告は同意しておらず,他の従業員にも周知されていなかった。
(3) 業績評価手当が職能給に当たること
平成6年の会社規程中の退職金の規定には,退職金の基礎となる基本給は,基礎額,年齢給,勤続給,前歴給,学歴給,職能給が含まれる。職能給は,従業員の経験と勤務成績を考慮して決定されるものであり,平成19年の就業規則によると業績評価手当は「各年度ごとに,前年の成績を評価して支払」われるものであるから,業績評価手当は職能給に他ならない。
第3争点に対する判断
1 前記前提事実のとおり,第1審被告は,タレントのマネージメント,ラジオ及びテレビ番組に関する企画制作等を目的とする株式会社であり,第1審原告は,昭和52年9月1日に第1審被告に雇用され,以後正社員として就労し,平成19年8月31日に第1審被告を退職した者である。そして,第1審被告は平成6年8月ころ退職金の規定を含む就業規則を制定した。
第1審被告は,平成6年の就業規則制定後,平成7年,平成10年,平成15年,平成19年にそれぞれ就業規則を改定したと主張し,第1審原告は,改定の事実及びその効力を争っている。大要,これらの点が本件訴訟の第1の争点であり,退職金の額が第2の争点である。
2 各改定の内容の要約(退職金額の計算方法等)
(1) 前記前提事実によれば,第1審被告の就業規則等は,勤続年数がどのような場合に退職金を支払うのか,また退職金を支払う場合の退職金額の算定方法等について,以下の内容を定めていた。
ア 平成6年の会社規程(<証拠省略>)
勤続15年以上の者に支給する。
算定基礎月額(退職前12か月間における基本給の1か月平均額)に勤続年数を乗じて算定する。
イ 平成7年の補則事項(<証拠省略>)
勤続15年以上の者に支給する。
算定基礎月額(退職前12か月間における基礎額〔基本給の3分の2の額〕の1か月平均額)に勤続年数を乗じて算定する(なお,同規定では「基本給」と「基礎額」の用語に混乱がみられるが,それまで退職金の「算定基礎額」が基本給によって決定されていたのを,基本給の3分の2の額を基準とする旨に改定したものと理解することができる。)。
ウ 平成10年の就業規則(<証拠省略>)
勤続年数20年以上の者に支給する。
総合職の場合,退職前月の基本給月額(基礎額10万円と職能給の合計額)に勤続年数を乗じて算定した額の50%とする。
エ 平成15年,平成19年の各就業規則(<証拠省略>)
退職金は支給しない。
(2) 上記(1)によれば,第1審被告における第1審原告の自己都合退職の場合の退職金額は,①平成7年の補則事項によって,平成6年の会社規程で算定した場合の3分の2に減額され,②平成10年の就業規則によって,算定基礎月額が退職前12か月間の平均額から退職前月の金額に変更されるとともに,退職金額は,算定基礎月額が同じである場合,平成6年の会社規程と比較して半額に減額され,③平成15年の就業規則によって,退職金が不支給とされたことになる。
3 就業規則の変更と労働者の同意
労働契約法(平成20年3月1日施行。平成19年12月5日法律第128号)は,労働条件設定・変更における合意原則を定める(同法1条,3条,6条,8条,9条)とともに,就業規則の内容が合理的なものであれば労働契約の内容となるものとし(同法7条),就業規則の不利益変更であっても,合理性があれば反対する労働者も拘束するものと定めた(同法10条)。これは,一般に,就業規則の不利益変更を巡る裁判例が形成した判例法理を立法化したものであると説明されている。同法9条は,「使用者は,労働者と合意することなく,就業規則を変更することにより,労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない。」と定める。これは合意原則を就業規則の変更による労働条件の変更との関係で規定するものである。同条からは,その反対解釈として,労働者が個別にでも労働条件の変更について定めた就業規則に同意することによって,労働条件変更が可能となることが導かれる。そして同法9条と10条を合わせると,就業規則の不利益変更は,それに同意した労働者には同法9条によって拘束力が及び,反対した労働者には同法10条によって拘束力が及ぶものとすることを同法は想定し,そして上記の趣旨からして,同法9条の合意があった場合,合理性や周知性は就業規則の変更の要件とはならないと解される。もっともこのような合意の認定は慎重であるべきであって,単に,労働者が就業規則の変更を提示されて異議を述べなかったといったことだけで認定すべきものではないと解するのが相当である。就業規則の不利益変更について労働者の同意がある場合に合理性が要件として求められないのは前記のとおりであるが,合理性を欠く就業規則については,労働者の同意を軽々に認定することはできない。
第1審原告は,上記労働契約法9条の趣旨について,労働者との個別的同意によって,その労働者との関係で就業規則が変更されることを認めるものではない旨主張するが,当裁判所の見解は前記のとおりであり,以下これをもとに本件への当てはめを行う(第1審原告の退職はもとより労働契約法施行前の事実であるが,前記のとおり労働契約法は判例法の集積を立法化したものと評価され,それ以前の事例についても判断の指針となるものである。)。
4 争点1(平成7年の補則事項による第1審原告の退職金の変更の有無)について
(1) 第1審原告は,第1審被告が平成7年の補則事項を定めた事実はなく,(証拠省略)の表紙に顕出された各従業員の印影は,平成6年の会社規程作成時のものである旨を主張し,さらにそうでないとしても,第1審原告は押印時平成7年の補則事項を見ていないし説明を受けてもいないと主張し,原審における第1審原告本人尋問の結果,(証拠省略)はこれに沿う証拠である。
(2) (証拠省略)は,「平成6年8月改訂」と記載された第1審被告の「会社規程」と題する冊子で,前提事実の内容を含む就業規則を記載したものである。同冊子は,その32頁に平成7年4月15日に付け加えたとみられる「平成7年の補則事項」を内容として含むものであり,表紙には49名分の印影があり,表紙と裏表紙は一体であり,裏表紙の見返し部分(裏表紙の裏側部分)にも就業規則が記載されている。同事実と証拠(<証拠・人証省略>)及び弁論の全趣旨を総合すると,平成7年4月当時,第1審被告の全従業員が平成7年の補則事項を含む平成6年の会社規程の内容に同意したものと推認するのが相当であり,前記第1審原告の主張に沿う証拠は採用することができない。
(3) そうすると,平成7年の補則事項を定めるについては,当時の第1審被告の全従業員が同意したものということになるが,これは,退職金の規定を変更し退職金額を従前の3分の2に減額するものであるから,以下において,全従業員の同意が真に自由な意思表示によってされたものかを検討する必要がある。
この点については,平成7年の補則事項によって退職金額が3分の2に減額されることは明確であった上,もともと各自の捺印行為は,一般に,単に説明を受けて異議を述べないというような場合とは異なり,慎重かつ明示的に行われた意思表示ということができる。また,当時従業員に格別大きな不満があったとか,従業員が不承不承印鑑を押捺したといった事実をうかがわせる証拠もない。また,平成7年の補則事項は,平成6年の会社規程を基準とすると退職金を減額するものではあるが,後記の後の改定に比べると,減額程度は少なく,その不満は大きくなかったものと推認される。
そうすると,平成7年の補則事項については,その内容の合理性,周知性を検討するまでもなく,全従業員の同意を得て定められた(改定された)ものと認めるのが相当である。
5 争点2(平成10年の就業規則による第1審原告の退職金の変更の有無)について
(1) (証拠省略)及び弁論の趣旨によれば,平成10年の就業規則についても,その末尾に当時の全従業員が署名押印し,同意を表明したことが認められる。この点につき,第1審原告は,(証拠省略)は内容の説明を受けず,その意味も理解しないまま署名押印させられたもので,その後も同書面を受け取ったことはなく,各従業員もその意味を理解していなかったと主張しており,原審における第1審原告本人尋問の結果,(証拠省略)は同主張に沿うものである。
しかしながら,原審証人Cの証言,(証拠省略)によれば,平成10年の就業規則の改定のころ,従業員間では退職金の減額が話題になっており,Cは改定された就業規則に目を通したことがあったとの事実が認められ,同各事実からすると,第1審原告が平成10年の就業規則を見たことがなかったとか,従業員に対しても何ら説明がなかったと認めることはできない。同認定に反する前掲の第1審原告本人尋問の結果等は採用できない。
(2) 上記のとおり,平成10年の改定について全従業員が同意を表明したものと認められるが,更に進んで,(証拠省略)に署名押印した者のすべてが退職金の規定の改定を含む就業規則の改定に真に同意したか(その結果,合理性等につき検討するまでもなく就業規則は変更されたか)については慎重な検討が必要である。
この点について,(証拠省略),原審証人Bの証言(以下これらを併せて「第1審被告側供述」という。)中には,平成10年の就業規則の改定につき,その内容をBらが具体的に説明し,従業員に周知徹底し,同規則は以後第1審被告総務課に備え置いた旨の証言や供述の記載がある。
しかし,以下のような点にかんがみると,当時Bほか第1審被告側の者が従業員にした説明には,従業員が受ける不利益を十分説明したものであったかについて疑義がある。すなわち,平成10年の就業規則の退職金の規定は,平成6年の会社規程を基準とすると,退職金の支給額を,総合職で50%,一般職では30%まで減額するものである(直近の平成7年の補則事項と比較すると,総合職は同基準による退職金額の約75%まで,一般職は同じく45%まで減額される。)。一般職の減額幅はきわめて大きいといえる。次に,この改定では退職金に関する54条中に「但し,上記金額は会社業績により減額又は支給されないこともある。」との規定が置かれている(同条(4)(イ)。現に本訴において第1審被告は,同規定に基づく予備的抗弁を主張している。)。このただし書は,退職金が支給されないことがあり得ることまで定めたものであるから,減額とはレベルの異なる問題であり,しかもここにいう「会社業績により」というのはどのような場合を指すのかが明らかでなく,第1審被告によって恣意的運用がされるおそれがある。このような諸点からすると,第1審被告としては,従業員に最悪退職金を支給しないことを定める就業規則であることやその内容を具体的かつ明確に説明しなければならないというべきである。しかし,第1審被告側供述によっても,この点が従業員に対し具体的かつ明確に説明されたことを認めることはできない。
なお,第1審被告は,平成10年の就業規則の退職金の規定54条(1)に「永年勤続し退職した者に対しては,在職中の功労に報い」とあることから,「在職中の功労」がなければ受給資格がないと主張する。同条項は,退職金の支給規定の冒頭に置かれた修辞にすぎず,受給の資格要件を定めたものではないと理解するのが相当と思料されるが,第1審被告が同条項をその主張のように運用するのであれば,その説明を具体的かつ明確にした上で同意を得なければならなかったといえる。しかし,そのような説明がされた形跡は本件証拠上うかがわれない。
(3) ところで,この時期に第1審被告の経営が窮境にあり,従業員もそのことを理解した上で同意の意思表示をしたのであれば,それは真の同意であったものと推認することができる。しかるに,この点も証拠上明らかではないというほかない。
すなわち,第1審被告は,この時期年間2億円前後の利益を上げていた○○事務所関連の取扱いがなくなり,会社が危機的状況に陥ったこと,同業他社に比べて,余剰人員,過剰経費(人件費)の問題を抱えていたことなどを主張し,第1審被告側供述はこれに沿うものである。しかしながら,当時第1審被告の経営状態が危機的状況に陥っていたことを認めるに足りる的確な証拠はなく,かえって,第1審被告の主張によっても,第1審被告が平成10年の前後を通じ○○関連事業以外の事業において相当程度の収入を得て,黒字決算をしていたことをうかがうことができる。そうすると,第1審被告主張の○○関連事業に関する事情をもって,直ちに第1審被告が客観的にみて企業経営上危機的状況に陥っていたと認めることはできない。そしてさらに,第1審被告が,当時第1審被告の決算書や同業他社の収益率・決算状況等に基づく具体的な根拠を示して,従業員に対し,第1審被告が経営危機にある事情を説明し理解を求めたような事実を認めるに足りる証拠はない。
以上の事情に照らすと,第1審被告は,退職金の不支給をも導入する就業規則の改定に当たり,雇用者側として従業員に対し適切かつ十分な説明をしたものと認めることはできない。
(4) 以上によると,平成10年の就業規則の改定について,第1審原告も含む従業員から得た同意は真の同意とはいえず,同改定についての合理性の立証もないから,同改定の拘束力が第1審原告に及ぶものと解することはできない。
6 争点3(平成15年の就業規則による第1審原告の退職金の変更の有無)について
(1) 第1審被告は,平成15年の就業規則について平成13年7月23日の全体会議において給与制度の見直し及び退職金廃止の点を説明し,労使間協議を経て同就業規則が実施されたが,従業員から異議は出なかったこと,第1審原告も同意したこと,さらに当時第1審被告の経営は存続そのものに関わる危機的状況であったことなどを主張しており,第1審被告側供述はこれに沿うものである。
しかしながら,各従業員が雇用者の示した方針に不満や反対の意思を持っていても,個別にそのような意思を表明することは期待できないのが通常である。したがって,曲がりなりにも存続していた退職金制度を完全に廃止するという従業員に重大な不利益を強いる改定について,単に異議がでなかったということで同意があったものと推認することはできない。従業員においてそのような不利益な変更を受け入れざるを得ない客観的かつ合理的な事情があり,従業員から異議が出ないことが従業員において不利益な変更に真に同意していることを示しているとみることができるような場合でない限り,従業員の同意があったとはいえないというべきである。
しかるところ,その当時の第1審被告の経営状況については,第1審被告は,当時の決算書等の公式の文書すら証拠として提出せず,当時の経営状況が危機的状況であったと認めるべき的確な証拠はないといわなければならない。第1審被告は,退職金制度の廃止に先立ち,平成12年7月25日以降,役員報酬を10%ないし30%削減するとともに,課長以上の管理職,課長代理,係長の給与を10%削減し,また,平成14年4月25日以降,役員報酬を20%削減し,課長以上の管理職の給与を5%削減したこと,退職金制度の改廃に伴う代償措置として,平成14年から平成17年までの各年に,会社の費用で全従業員によるハワイ旅行を実施したこと,業界(芸能関係,イベント関係)において退職金が支給されている同業他社は皆無であったことなどを主張するが,これらの事情は,従業員が真に退職金の廃止を受け入れたことを示すといえるような客観的かつ合理的な事情とはいえない。
したがって,平成13年7月ころに第1審原告が退職金制度の廃止に同意したとは認められないし,これを明文化した平成15年の就業規則について従業員が同意を与えたものとも認められない。
(2) 次に,第1審被告は,平成19年の就業規則によって,第1審原告に退職金を支給できない旨を主張するが,本件証拠上,同就業規則の退職金の定めに第1審原告が同意したものとも,同就業規則の内容が合理性があるものとも認められない。
7 争点4(退職金額)について
(1) 前記認定判断によれば,第1審原告の退職金額は,平成7年の補則事項による変更後の退職金の規定に基づいて算定することになる。前記1,2のとおり,第1審原告は勤続年数は退職時に30年に及んだから,第1審原告の退職金額は,算定基礎月額(退職前12か月間における基礎額〔基本給の3分の2の金額〕の1か月平均額)に勤続年数(30)を乗じて算定することになる。
(2) 第1審原告の算定基礎月額について
第1審原告の基本給は,平成19年1月分から同年7月分までの各給与支給明細書において月額45万円であり,同年8月分の給与支給明細書において26万1290円であり,第1審被告における給与は当月20日締め,同月25日支払であったところ(前提事実(3)),本件全証拠によっても,第1審原告の退職直前の平成19年8月分の基本給自体が合理的根拠によって減額された事実を的確に認めることはできないから,第1審原告の退職前12か月間における1か月の基本給は45万円であったと認定するのが相当である。
(3) 第1審原告は,算定基礎月額について,業績評価手当の支給額を含めて算定すべきである旨を主張する。平成7年の補則事項による変更前の平成6年の会仕規程(<証拠省略>)は,基準内賃金について,基本給(基礎額,年齢給,勤続給,職能給)及び手当(役付手当,家族・住宅手当,通勤手当)で構成される旨,及び基礎額は一律18万円,職能給は従業員の経験と勤務成績を考慮して決定する旨を定めていた。また,平成15年の就業規則(平成19年1月分から同年7月分までの給与につき適用されていたと認められるもの)における基本給及び諸手当の内容は,本件証拠上明らかでない(なお,平成19年の就業規則〔<証拠省略>〕には,賃金に関する規定として,基本給につき本来支給される給与とし,業績評価手当につき各年度ごとに前年の成績を評価して支払う旨が記載されている。)。そこで,平成7年の就業規則(補則事項)による限り,業績評価手当は「手当」の一種と認めるのが相当であり,これを基本給に含めることはできない。
以上によれば,第1審原告の退職金額の算定に当たっての基本給(退職前12か月間における基本給の合計金額の1か月平均額)は,45万円と認めるのが相当である。そうすると,退職金の算定基礎金額は,基本給の3分の2の金額(<証拠省略>の平成7年の補則事項は,これを「基礎額」と呼んでいる。)であるから,同金額は30万円ということになる。
第1審原告は,昭和52年9月1日から平成19年8月31日まで正社員として雇用されており(前提事実),第1審原告の勤続年数は30年になる。
そうすると,平成7年の補則事項による第1審原告の退職金額は,次の計算式のとおり900万円になる。
(計算式)
45万円÷3×2×30=900万円
(4) 第1審被告主張の退職金の不支給事由について
第1審被告は,第1審原告の年収及び売上額に照らして在職中の功労がないから,平成7年の補則事項の規定によれば,第1審原告は退職金を受給することができない旨を主張する。
平成6年の会社規程の26条には「従業員として永年勤続し,退職した者に対しては在職中の功労に報い,且つ退職後の生活補助に資する為,退職金を支給する。」とされていた(<証拠省略>)。そこで,その中の「在職中の功労に報い」との文言の意味が問題になるが,この部分は退職金支給の趣旨を定めたものと解するのが相当であり,退職金の減額又は不支給の要件を定めたものと解するのは相当でない。
また,第1審被告は,会社業績が極めて劣悪であったから退職金を支給しないと主張する。その根拠は,平成10年の就業規則54条4項ただし書と解されるが,同就業規則への変更については,前記のとおり,第1審原告始め従業員が同意をしたものとは認められないから,同規則が第1審原告の退職金請求権を否定する根拠になるものではない。よって,第1審被告の主張は採用できない。ちなみに,第1審被告主張の業績悪化の事実についてみても,前示のとおり,これを認めることはできない。
第4結論
以上の次第で,第1審原告の請求は,900万円とこれに対する訴状送達の日の翌日である平成19年10月19日以降支払済みまでの商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容すべきであるが,その余の請求は理由がないから棄却すべきである。そうすると,第1審原告の控訴は理由がないからこれを棄却し,第1審被告の控訴は一部理由があるから,同控訴に基づき上記のように原判決を変更することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岩田好二 裁判官 三木昌之 裁判官 松井千鶴子)