大阪高等裁判所 平成21年(ネ)400号 判決 2009年6月09日
控訴人
甲山一夫
同訴訟代理人弁護士
畑純一<他1名>
被控訴人
X
同訴訟代理人弁護士
A
主文
一 原判決を取り消す。
二 被控訴人の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、一、二審を通じて、全部被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求める裁判
一 控訴人
主文同旨
二 被控訴人
(1) 本件控訴を棄却する。
(2) 控訴費用は控訴人の負担とする。
第二事案の概要
一 事案の骨子
本件は、平成一六年二月二三日に死亡した甲山太郎(以下「太郎」という。)が平成一一年七月二日になした公正証書遺言(以下、同遺言を「本件公正証書遺言」といい、同公正証書を「本件公正証書」という。)について、太郎の長女である被控訴人が、①当時太郎に遺言能力がなかった、②遺言者の氏名が太郎ではなく控訴人の氏名を記載してあり、要件を満たしていない、と主張して、その無効確認を求めた事件である。
原判決は、本件公正証書において太郎がした署名は、自己の氏名ではなく、控訴人の名前を記載したもので、公正証書遺言においては、本人確定のためにも正式な氏名でなければ要件を満たさないとして、本件公正証書遺言は無効であると判断した。
二 前提事実、争点及び争点に関する当事者の主張は、以下のとおり付加訂正するほかは、原判決が「事実及び理由」欄の第二の二、三において摘示するとおりであるから、これを引用する。なお、引用に当たっては、「原告」を「被控訴人」に、「被告」を「控訴人」に各読み替える。
(1) 原判決四頁下から九行目から同七行目までを次のように改める。
「イ 公正証書遺言における遺言者の署名においても、自筆証書遺言の場合と同様に雅号・ペンネーム・芸名・屋号・通称を記載することは許される。公正証書遺言の場合に、遺言者が公証人と面識がない場合に印鑑証明書の提出が必要となるとして、そのことは署名が印鑑証明書の記載と一致しなければならないことを意味するものではない。公正証書遺言の場合は、自筆証書遺言と異なり、遺言者が遺言をすること自体は、公証人によって確認され、公正証書自体は公証人が作成するのであって、遺言者が公正証書に署名する意味は、公証人が筆記した内容について正確であることを承認するためになされるのである。したがって、誰が遺言をしたのか明確である必要はなく、一応署名としての体裁があればいいというべきである。もっとも、表示された文字が全く判読できない場合や明らかに遺言者以外の者の氏名が記載されている場合には署名とは認められず、方式違背で遺言が無効となると解される。
本件公正証書遺言についてみれば、前記のとおり、本件署名は甲山太郎と読むことができるし、そうでないとしても「甲山一夫」と読むことはできず、「甲山一・」と読めるのにとどまるから、屋号として「甲一」と名乗っていたこともある太郎の通称の記載と読め、意思表示は可及的に有効になるように解釈すべきであり、人の生前の最終意思を尊重すべきとの理念からすれば、本件公正証書遺言を無効とすべき理由は存在しない。」
(2) 原判決六頁二行目の後に行を改めて次のとおり付加する。
「仮に、控訴人の主張するように、公正証書遺言において、遺言者がなす署名が印鑑証明書の記載と一致しなくても公正証書遺言の要件を満たすとしても、控訴人の主張によっても署名として表示された文字が遺言者以外の者を示すことが明確であれば公正証書遺言としては無効であるというのであるところ、本件公正証書遺言の場合には署名の最後の文字が「郎」でないことは一見して明らかであるから、遺言者以外の者を示すことが明確な場合に当たり、本件公正証書遺言は無効である。」
(3) 原判決一一頁一四・一五行目を次のとおり改める。
「 本件公正証書遺言において、太郎が遺言者としてなした署名は非常に読みにくいものであり、運動機能が衰えていることを示しているが、前記のようにその記載内容は自己の名前ではなく、子である一夫というものであるから、当時自分の名前も間違えるほどの状況であって、遺言能力がないことは明らかである。」
(4) 原判決一三頁下から七行目の後に行を改めて次のとおり付加し、下から六行目文頭の「カ」を「キ」と改める。
「カ 要介護の認定のための主治医意見書や要介護認定票の中には太郎の状況が悪いことを窺わせる記載がある。しかし、これらは、介護保険の要介護度の認定のための書類であるから、実態よりも悪く記載されるのが通常であり、直ちにその内容どおりであったといえるものではない。」
第三当裁判所の判断
一 当裁判所は、原審とは異なり、本件公正証書遺言は民法九六九条に定める公正証書遺言としての方式に従ったものであり、また、当時太郎に遺言をする能力がなかったと認めるべき証拠もないから、本件公正証書遺言は無効と認めるに足りず、被控訴人の請求は理由がないものと判断する。
二 本件公正証書遺言作成の経緯
前記前提事実及び《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。
(1) 平成一一年六月に、太郎は、控訴人とともに大阪府貝塚市の病院に太郎の弟であるBの見舞いに行ったが、同人が肺癌であって、先が長くないとの話を控訴人とした。
(2) 同じ頃、太郎の妻である甲山C(以下「C」という。)から遺言書の話があったことから、太郎は遺言書を作成する気になった。この話を太郎から聞いた控訴人は、畑弁護士の事務所(和歌山合同法律事務所)を訪問して相談をし、段取りを決めた上で、平成一一年七月二日午後一時三〇分に畑弁護士の事務所に、控訴人の車で太郎及びCを連れて行った。この際、太郎は、控訴人の肩を借りたが、エレベーターを使用して三階の同事務所まで自分で歩いて行った。
(3) 畑弁護士は、太郎とは初対面であったので、太郎に対して、遺言の能力があるのか、遺言の意思があるのかについて確認の質問をし、その中で財産の内容や親子関係など、遺言をする動機などを聞いたが、畑弁護士にとって、特に太郎の能力を疑うような事情はなく、太郎が控訴人に強いられて不本意な遺言をすると疑うべき事情も認められなかった。
(4) その後、畑弁護士及び畑弁護士の事務所の事務員であるDが、控訴人、太郎、Cとともに和歌山合同公証人役場に赴いた。同役場はビルの三階に所在していたが、太郎はD事務員に身体を支えられ、自ら歩いてエレベーターに乗り、同役場の公証人の前まで行った。E公証人は、太郎と面識がなかったため印鑑証明書を提出させて本人確認をした。また、E公証人は、太郎が大正○年生まれで当時八三歳と高齢であったことから、遺言者の判断能力の確認のために、財産の内容や、法定相続人にはどういう人がいるのか、相続の内容と、遺留分についての理解などについて質問をしたが、遺言能力や遺言をするについての自発的な意思の存在などについて、E公証人が疑問を持つ点はなかった。
(5) E公証人は、次に畑弁護士との打ち合わせに基づき既に作成されていた公正証書の原案について、その内容を口授して確認し、太郎に間違いないとの趣旨を述べたことから、遺言者である太郎が同公正証書に署名することになった。筆記用具は、E公証人が通常使用する筆ペンによったが、遺言者と証人の三人が隣接する行に連署する形になっていて、記載するスペースが十分でなかったこともあって、太郎が書きにくいようであった。そこで、E公証人は、代筆をした方がいいかと考えて「もう止めますか。」と尋ねたが、太郎はこれを断って自ら署名押印を終えた。E公証人は、それまでの公証実務において、遺言者の公正証書への署名が署名の意味をなさないときは、書き直しを求めていたが、本件の太郎の署名は判読困難なものであったものの、公正実務では達筆なあまり読めない署名も時にはあることから、疑問を感じず、書き直しを求めなかった。畑弁護士も遺言者の署名に疑問があれば書き直しを求められることを認識していたが、太郎の署名に疑問を感じず、太郎の署名欄の左隣りに署名押印し、D事務員も続いて署名押印した。その後、E公証人が署名押印して、本件公正証書の作成を完了した。
(6) 本件公正証書遺言の内容は、「遺言者はその所有する財産全部を長男・甲山一夫に相続させる。」という簡明なものである。また、太郎が本件公正証書に署名した文字は、原判決別紙第一のとおりであり、上部の一文字とこれとやや離れて三ないし四字で構成されるかのような一連の文字が記載されている。上部の一文字は「甲」と読むことが可能であるが、下部の一連の文字は容易に判読し難いものである。ただ、全体として、人の氏名を記載したものと認識することができる。
三 公正証書遺言の方式の遵守
(1) 民法九六九条に定める公正証書遺言は、証人二人以上の立会人があること、遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授すること、公証人が、遺言者の口述を筆記し、これを遺言者及び証人に読み聞かせ、又は閲覧させること及び遺言者及び証人が、筆記の正確なことを承認した後、各自これに署名し、印を押すこと及び公証人が、その証書は前各号に掲げる方式に従って作ったものである旨を付記して、これに署名し、印を押すことが必要である。前記二で認定した事実関係によれば、本件公正証書遺言においては、これらの方式はすべて遵守されていると認められる。
なお、本件においては、畑弁護士の依頼による公正証書作成であるため、予め原案が作成されていて、E公証人は、この内容を遺言者である太郎に口授してその内容に間違いがないか確認する形でなされているが、この順序の違いは公正証書による遺言の方式に違反するものではない(最高裁昭和四三年一二月二〇日第二小法廷判決・民集二二巻一三号三〇一七頁参照。)
(2) 被控訴人の主張について
ア 被控訴人は、公正証書遺言においては、本人確認のために印鑑証明書を提出するのが原則であるから、印鑑証明書の記載内容と異なる署名をしたのでは、民法九六九条四号の要件を満たさないと主張する。しかし、公正証書作成に当たって印鑑証明書が提出されるのは、公証人法二八条二項が「公証人嘱託人ノ氏名ヲ知ラス又ハ之ト面識ナキトキハ官公署ノ作成シタル印鑑証明書ノ提出其ノ他之ニ準スヘキ確実ナル方法ニ依リ其ノ人違ナキコトヲ証明セシムルコトヲ要ス」と定めていることに基づくのであって、あくまで本人確認の方法にすぎず、印鑑証明書以外の証明資料として、運転免許証、旅券及び証人の証言等によることも公証実務上は可能とされているのであって(甲三〇)、被控訴人の主張は前提事実を誤っているものであり、理由がない。
イ 控訴人は、本件公正証書において、太郎は、遺言者自身の氏名である「甲山太郎」を記載したものではなく、相続人である控訴人の氏名である「甲山一夫」を記載したものであるから、民法九六九条に定める遺言者の署名には当たらず、本件公正証書遺言は無効である旨主張する。
そこで検討するに、公正証書遺言の場合には、公証人が遺言者の本人確認をした上で作成されるため、遺言者の署名は、本人の同一性判断の資料としての要素としてよりは、記載内容についての正確性を承認する要素としての意味合いが大きいと考えられる。このことからも、遺言者が自書する氏名としては、戸籍上の氏名と同一であることを要せず、通称、雅号、ペンネーム、芸名、屋号などであっても、それによって遺言者本人の署名であることが明らかになる記載であれば足りると解される。もっとも、「署名」でなければならず、単に承認の意味の記載があれば足りるというものではないから、氏名ではない記号等では足りない。
本件公正証書遺言の場合は、前記のとおり、遺言者である太郎が署名したこと自体は明らかであり、その記載された文字は、原判決別紙第一のとおりである。前記のとおり、最初の一文字は「甲」と読むことができるものの、下部の一連の文字は判読し難いものである。控訴人主張のように、「甲山太郎」と読むことは困難であるが、他方、被控訴人主張のように「甲山一夫」と読むことも、文字を素直に目視観察する限りにおいては困難である。しかし、遺言者欄に記載された下部の一連の文字が判読し難いものであったとしても、最初の一文字が「甲」と読むことが可能であり、しかも全体として氏名の記載であることは明らかであって、遺言者本人が公正証書の遺言者欄に自己の氏名として自書し、署名の現場に立ち会った法律専門家である公証人も弁護士も、代筆や書き直しが可能であることを認識しながら、遺言者の署名であることに疑問を感じず、これらの措置を執らなかったというのであって、本件公正証書における遺言者欄の記載は民法九六九条四号の定める遺言者の署名の要件を満たしていると解するのが相当である。
四 太郎の遺言能力
(1) 被控訴人は、太郎が本件交通事故によって脳挫傷等の傷害を負い、その後慢性硬膜下血腫の症状も発生したこと等により、本件公正証書遺言作成当時、遺言をする能力がなかったと主張する。
(2) 引用にかかる前提事実記載のとおり、太郎は、本件交通事故後前頭葉症状が進行し、穿頭血腫除去術も受けたが、前頭葉症状は残存し、当時のHDS―Rの結果はかなり低いものであったこと、また、その後、平成一一年以降の要介護認定において要介護5との認定を受けていることが認められる。
(3) しかしながら、鑑定人Fによる鑑定の結果によれば、①脳挫傷などの器質性認知症においては、アルツハイマー型認知症と比較して認知機能の低下は一律ではなく、機能が残存している部分がみられる可能性があること、②太郎のHDS―Rの結果は低いものの、その内容は、記銘力の低下は一貫しているが、時間的な見当識や場所的な見当識についての検査結果は必ずしも一貫しておらず、常にこれらの低下があったとはいえないこと、③要介護認定についての医師の意見書も認知能力の時期による変動があったことを窺わせるものであり、認定調査票では平成一二年九月及び平成一三年八月の段階で「認知症老人の日常生活自立度」がⅠで日常生活は家庭内及び社会的にほぼ自立していると判断されていることからみて、認知機能全体について時期により変動があったことが認められ、本件公正証書遺言の内容が長男に全部相続させるとの内容の比較的簡単なものであることを考慮すれば、遺言書作成当時に太郎に遺言能力があった可能性があると認められる。
(4) これに加えて、前記二で認定した事実によれば、本件公正証書遺言作成に至るまでの経過及び作成当日の行動において、太郎に異常な点は存在せず、初対面の畑弁護士もE公証人も特に異常な点を認めていないことを考慮すれば、本件公正証書遺言作成時点で太郎に同遺言をする能力がなかったと認めるに足りない。なお、畑弁護士は本件訴訟における控訴人訴訟代理人であり、客観的な立場に立つとはいえないが、専門的職業人として当事者に無理な肩入れをせず、不当な遺言作成に至らないように注意を払ったとの同人の証言は自然な内容であり、信用できる。また、E公証人の証言も、特に疑うべき点はない。さらに、証人甲山Cの証言も、同人が被控訴人にとっても母親であり、控訴人に対してのみ有利な証言をする関係にないことを考慮すれば十分信用できる。
五 以上の次第で、本件公正証書遺言が無効であるとの被控訴人の主張は採用できず、無効確認を求める被控訴人の請求は理由がないから棄却すべきであって、これと異なる原判決は相当ではない。よって、原判決を取り消し、被控訴人の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 一宮和夫 裁判官 富川照雄 山下寛)