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大阪高等裁判所 平成23年(行コ)170号 判決 2013年3月14日

控訴人(1審原告)

同訴訟代理人弁護士

山﨑浩一

鍬田則仁

被控訴人(1審被告)

同代表者法務大臣

処分をした行政庁

天満労働基準監督署長 M

同指定代理人

C他10名

主文

1  原判決を取り消す。

2  天満労働基準監督署長が控訴人に対して平成18年5月24日付けでした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の各処分をいずれも取り消す。

3  訴訟費用は1,2審とも被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1控訴の趣旨

主文同旨

第2事案の概要

1  本件は,平成元年4月以降,株式会社a(以下「本件会社」という。)で就労していた亡D(昭和39年○月○日生。以下「亡D」という。)が,平成15年12月20日,自殺により死亡したところ,同自殺による死亡が本件会社における過重労働等業務に起因して発症した精神障害(うつ病)に起因するものであるとして,亡Dの妻である控訴人が,天満労働基準監督署長(以下「原処分庁」という。)に対し,労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による遺族補償給付及び葬祭料の給付を求めたところ,原処分庁がこれらのいずれの求めについても不支給処分(以下「本件処分」という。)としたことから,被控訴人に対し,同処分の取消しを求める事案である。

原審は控訴人の請求を棄却したので,控訴人は控訴の趣旨記載のとおりの判決を求めて控訴した。

2  前提事実及び争点については,原判決4頁5行目の「(6)」から同頁21行目の末尾までを以下のとおり改めるほか,原判決の「事実及び理由」第2の2及び3記載のとおりであるから,これを引用する。

「(6) 認定基準

ア  厚生労働省は,心理的負荷による精神障害の労災請求事案について,迅速・適正に業務上外を判断するためのよりどころとなる一定の基準を策定するため,「精神障害等の労災認定に係る専門検討会」を設置し,その専門検討会報告(証拠<省略>)を受けて「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」(以下「判断指針」という。証拠<省略>)を策定・発出し,これに基づき業務上外の判断を行ってきたところであるが,その後の精神障害の労災請求件数の増加や事案の審査に要する期間,事務量の増加,及び審査の迅速化・効率化の要請から,新たに「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」を設置し,その報告書である平成23年11月8日付け「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会報告書」(以下「平成23年報告書」という。証拠<省略>)の内容を踏まえて,平成23年12月26日,「心理的負荷による精神障害の認定基準」(基発1226第1号。以下「認定基準」という。証拠<省略>)を定め,上記判断指針を廃止した。

イ  認定基準では,以下の(ア)ないし(ウ)の要件(以下,各要件をそれぞれ「認定要件(ア)」ないし「同(ウ)」という。)のいずれをも満たす対象疾病について,労働基準法(以下「労基法」という。)施行規則別表第1の2第9号に該当する業務上の疾病として取り扱うものとしているが,かかる対象疾病の発病に至る原因の考え方は,従来の判断指針と同様,環境由来の心理的負荷(ストレス)と,個体側の反応性,脆弱性との関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まり,心理的負荷が非常に強ければ,個体側の脆弱性が小さくても精神的破綻が起こるし,逆に脆弱性が大きければ,心理的負荷が小さくても破綻が生ずるとする「ストレス-脆弱性理論」に依拠しているものである。

(ア) 対象疾病を発病していること。

(イ) 対象疾病の発病前おおむね6か月の間に,業務による強い心理的負荷が認められること。

(ウ) 業務以外の心理的負荷及び個体側要因により対象疾病を発病したとは認められないこと。

ウ  認定要件の具体的判断

(ア) 認定要件(ア)における対象疾病の発病の有無,発病時期及び疾患名は,「ICD-10 精神および行動の障害 臨床記述と診断ガイドライン」に基づき,医学的に判断される。

(イ) 認定要件(イ)の「対象疾病の発病前おおむね6か月の間に,業務による強い心理的負荷が認められること」とは,対象疾病の発病前おおむね6か月の間に業務による出来事があり,当該出来事及びその後の状況による心理的負荷が,客観的に対象疾病を発病させるおそれのある強い心理的負荷であると認められることをいう。

そこで業務による心理的負荷の評価方法を明確にするため,新たに「業務による心理的負荷評価表(以下「別表1」という。)」が定められ,上記認定要件(イ)の業務による心理的負荷の強度の判断に当たっては,精神障害発病前おおむね6か月の間に,対象疾病の発病に関与したと考えられる業務によるどのような出来事があり,また,その後の状況がどのようなものであったのかを具体的に把握し,それらによる心理的負荷の強度について,同表を指標として「強」,「中」,「弱」の三段階に区分し,総合評価が「強」と判断される場合には,上記認定要件(イ)を満たすものとされている。

そして,長時間労働が心理的負荷に及ぼす影響に鑑みて,上記別表1における,具体的出来事についての総合評価における共通事項の「2 恒常的長時間労働が認められる場合の総合評価」の③として,「具体的出来事の心理的負荷の強度が,労働時間を加味せずに「弱」程度と評価される場合であって,出来事の前及び後にそれぞれ恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)が認められる場合には,総合評価は「強」とする」旨定められている(以下「恒常的長時間労働の総合評価③」という。)。

(ウ) また,上記認定要件(ウ)とは,次の①又は②の場合をいい,対象疾病の発病前おおむね6か月の間に,対象疾病の発病に関与したと考えられる業務以外の出来事の有無を確認し,出来事が一つ以上確認できた場合は,それらの出来事の心理的負荷の強度について,新たに定められた「業務以外の心理的負荷評価表(以下「別表2」という。)」を指標として,心理的負荷の強度を「Ⅲ」,「Ⅱ」又は「Ⅰ」に区分するものとされている。

① 業務以外の心理的負荷及び個体側要因が認められない場合

② 業務以外の心理的負荷又は個体側要因は認められるものの,業務以外の心理的負荷又は個体側要因によって発病したことが医学的に明らかであると判断できない場合

上記業務以外の出来事につき,別表2によって,心理的負荷の強度が「Ⅱ」又は「Ⅰ」の出来事しか認められない場合は,原則として上記②に該当するものと取り扱うものとされている。」

第3争点に関する当事者の主張

(控訴人の主張)

1  業務起因性の判断基準(認定基準)

業務起因性の判断基準については,ストレス-脆弱性理論を前提として,平均的労働者基準説に従って判断するのが相当であり,亡Dの業務と発病した精神障害の間の業務起因性の有無は,厚生労働省の定めた最新の認定基準によって判断されるべきである。

2  認定基準への当てはめ

(1) 平成15年8月末ころ亡Dが発病した精神障害は,業務に関連して発病する可能性のある精神障害のうちF3に分類される軽症うつ病エピソード(F32)であり,認定要件(ア)に該当する。

(2) 亡Dの平成15年4月の部門長への昇進は,別表1の「特別な出来事以外」の「具体的出来事」の「自分の昇格・昇進があった(項目25)」に当たり,その平均的な心理的負荷の強度は「Ⅰ」であって,「本人の経験等と著しく乖離した責任が課せられる等の場合に,昇進後の職責,業務内容等から評価するが,「強」になることはまれ」と判断されるので,総合評価では「弱」にしかならない。

(3)ア しかし,亡Dの時間外労働時間数は,部門長に昇進する前月に当たる同年3月は108.35時間,昇進のあった4月は85.49時間,翌月の5月は82.81時間であったが,翌々月の6月には97.66時間と再び月100時間程度まで増加したことが認められ,7月には83.95時間と,5か月間もの長期間にわたって月80時間を上回る状況にあったといえる。そして,亡Dには,精神障害発病前6か月間において,恒常的な長時間労働以外に業務による心理的負荷を生じさせる出来事は認められない。

イ ところで,恒常的長時間労働の総合評価③においては「出来事の前及び後にそれぞれ恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)が認められる場合」に当たるか否かが問題となるところ,この「100時間程度」とは,たとえ1分でも下回れば基準を満たさないといった厳格さを意味するのではなく,ストレスと脆弱性の関係において労働者個人の一般的,標準的な個体差を考慮するならば,心理的負荷の強度の評価にも一定の合理的な幅を認めることは許容されるという趣旨であるから,仮に100時間を若干下回ることがあったとしても,業務による心理的負荷は一律に否定されるのではないと解すべきである。

ウ また,同「出来事の前及び後」についても,出来事の「直前」「直後」といった厳格さを意味するものではなく,精神障害の発病に密接に関係する発病前6か月間に生じた出来事の,やや緩やかさを伴った前と後という趣旨であるから,仮に出来事を挟んで1ないし2か月程度の隔たりがみられたとしても,業務による心理的負荷は一律に否定されるのではないと解すべきである。

エ そうだとすれば,亡Dの場合,100時間を2.34時間下回るにすぎない6月の時間外労働時間97.66時間は,100時間「程度」の範囲に含まれることは明らかであり,平成15年4月の部門長昇格の翌月に当たる5月の時間外労働は82.81時間と「100時間程度」をやや下回るが,97.66時間の時間外労働が行われた翌々月の6月は,部門長に昇格した4月からわずか中1か月しか隔たっておらず,この程度の差は「出来事の(前及び)後」に含まれることも明らかである。

オ なお,上記労働時間の算出につき,被控訴人は,労働密度を考慮すると公共交通機関による移動の時間は労働時間から控除すべきであると主張するが,労基法上の労働時間は,労働者の行為が使用者の指揮命令下に置かれたものと評価できるか否かにより客観的に定まるものである。したがって,労働者が労働から解放される保障がなく,自由利用の余地のない短時間の移動時間は労働時間に当たるといえる。事業場外での業務遂行に伴う移動時間や待機時間は特段の事情が認められない限り,通常の移動に要する時間程度である場合には労働時間に該当すると考えるべきであり,また亡Dの面会用務には労働密度を低下させるほどの移動時間や待ち時間は認められない。

そして,労基法上の労働時間の概念と労基法上及び労災保険法上の災害補償の認定の際に評価すべき労働時間の概念とは基本的には一致するものであり,出張や社外用務の移動手段として利用する公共交通機関の乗車時間や乗り換え時間などは,労働者の心身に相当の負荷を与えることから,労災認定の際には,労働時間として扱うべきものである。

(4) よって,上記(2)の出来事に,(3)の恒常的長時間労働の総合評価③「具体的出来事の心理的負荷の強度が,労働時間を加味せずに「弱」程度と評価される場合であって,出来事の前及び後にそれぞれ恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)が認められる場合には,総合評価は「強」とする。」を当てはめて評価すれば,亡Dの業務には,部門長昇進の前及び後に,それぞれ月100時間程度となる恒常的な長時間労働が認められるのであるから,業務による心理的負荷の総合評価は「強」となるのは明らかであり,上記認定基準における認定要件(イ)「対象疾病の発病前おおむね6か月の間に,業務による強い心理的負荷が認められること」に当たるといえる。

(5) 亡Dには,脆弱性の存在を窺わせるような精神障害の既往症やアルコール依存など個体側要因は認められず,別表2に掲出された業務以外の心理的負荷の原因となる具体的出来事も一切認められない。被控訴人の主張する私的領域に属する事情も立証されていない。

また,被控訴人は,その主張する亡Dの私的領域に属する事情につき,別表2によれば心理的負荷が「Ⅱ」であるとしながらこれを「Ⅲ」に修正できると主張するが,認定基準は,医学的妥当性を欠いたまま業務以外の心理的負荷の強度「Ⅱ」を「Ⅲ」に修正することは認めていないものであり,仮に被控訴人の主張のとおりの事情の存在が認められても,別表2によれば心理的負荷の強度は「Ⅱ」であるので,認定要件(ウ)のうち②に該当することになる。

よって,亡Dの対象疾病は,上記認定要件(ウ)「業務以外の心理的負荷及び個体側要因により対象疾病を発病したとは認められないこと」に当たる。

(6) 以上のとおり,亡Dの精神障害は,認定要件(ア)ないし(ウ)を全て満たし,業務による心理的負荷によって発病したことは明らかである。亡Dが自殺する直前の平成15年11月ないし12月ころには,亡Dは発病した軽症うつ病エピソードによって,正常の認識,行為選択能力が著しく阻害され,又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態に陥ったものと推定されるのであって,本件疾病と亡Dの自殺の間には業務起因性が認められる。認定基準からして,本件処分は違法である。

3  亡Dの業務の量的過重性について

原判決の「事実及び理由」第2の4(原告)(2)のアないしエ記載のとおりであるから,これを引用する。

4  亡Dの業務の質的過重性について

原判決12頁10行目の末尾の後に,改行して以下のとおり加えるほかは,原判決の「事実及び理由」第2の4(原告)(3)のアないしウ記載のとおりであるから,これを引用する。

「エ 職場全体の長時間労働傾向

本件会社は,金融機関を主たる取引先とする電子システム開発会社であることから,ホストコンピュータやATM等の機器の整備や交換,新しいソフトウェアの導入や試験稼働等の作業は,必然的に,深夜労働時間帯を含む金融機関の営業時間外に行わざるを得ず,職場全体が長時間労働体質であった。

オ 深夜時間の労働の常態化

時間外労働時間の中でも,深夜時間の労働の常態化は,深夜の帰宅の常態化,時間外労働が4,5時間以上となること及び睡眠時間も4,5時間程度となるという過酷な勤務実態を意味し,労働者は疲労が蓄積し,心身の健康が蝕まれる。労働者の1日の睡眠時間は,各日・各月の時間外労働時間数さえ判明すれば,客観的な記録がなくとも合理的に推計することが可能である。亡Dの睡眠時間を推計するに当たっては,亡Dの本件疾病の発病時期とほぼ同時期に当たる平成13年の調査を基にして推計された自殺予防マニュアル(厚生労働省が作成した「職場における自殺の予防と対応」。証拠<省略>)における労働者の1日の生活モデルに当てはめるのが最も合理的である。この標準モデルに,原判決が認定した本件疾病発病前6か月間における亡Dの時間外労働時間数を当てはめてみると,亡Dの時間外労働時間数が80時間を超える平成15年4月,5月,7月の1日の平均睡眠時間は1日5時間台,97.66時間であった同年6月の1日の平均睡眠時間は5時間であり,特に108.35時間であった同年3月の1日の平均睡眠時間に至っては4.51時間と,5時間にも満たなかったのである。」

5  業務起因性について

原判決12頁15行目末尾の後に,改行して以下のとおり加えるほかは,原判決「事実及び理由」の第2の4(原告)(4)記載のとおりであるから,これを引用する。

「 1か月80時間ないし100時間,又はこれを超えるような恒常的な時間外労働時間がもたらす1日平均4ないし5時間程度の睡眠時間と,精神障害の発病との間には強い関連性があることは,精神医学上の知見として認知されている。亡Dの本件疾病発病6か月前から2か月前までの5か月間に連続して見られた1か月80時間を超える恒常的な時間外労働による心理的負荷は,それに伴う恒常的な睡眠不足と相まって,量的にみても質的にみても,亡Dの本件疾病発病の原因となったことは疑いようがない。」

(被控訴人の主張)

1  業務起因性の判断基準(認定基準)

精神障害発病の業務起因性の判断基準については,ストレス-脆弱性理論を前提として,その後の最新の医学的知見に基づく平成23年報告書を踏まえて策定された認定基準に依拠するのが最も合理的で適当というべきである。

2  認定基準への当てはめ

(1) 対象疾病の発病(認定要件(ア))

認められる。

(2) 業務による心理的負荷(認定要件(イ)))

ア 部門長昇進についての評価

亡Dは,平成14年4月に既に第△開発部部門長代行となっており,平成15年4月に部門長に昇進したものであるが,職務の具体的な内容自体は部門長代行と異なるものではなかった。昇進と同時に新たにk社分室を担当することになり,担当する分室が1件増えたため,第△開発部の管理要員数は,平成15年3月までの1年間の平均が19人であったのに対し,同年4月以降は30人に増加したが,k社分室に関する業務は,毎年3月に契約を更新するほかは新たな営業活動等はなく,平成15年3月の契約締結交渉は前年度の担当者が行っていたから,亡Dが同分室についてすることは特段なく,また,同分室は管理負荷の少ない分室であった。したがって,部門長昇進の前後で亡Dの業務量や業務内容にほとんど変化はなかった。また,もともと第△開発部門は,契約件数も少なく,その契約の形態も,より管理負荷が少ないシステム開発請負契約の形態が大部分であった。

部門長昇進の,出来事としての心理的負荷の程度は,別表1の「自分の昇格・昇進があった」(項目25)に該当するので,その平均的心理的負荷は「Ⅰ」である。通常の昇進であっても「弱」というべきである上,亡Dは既に上記のとおり昇進時点で1年間,部門長代行を務めており,その職務・責任の変化の程度がほとんどなく,その後の業務内容,職場の人間関係等にも変化はないから,具体的な出来事の評価としては,それ自体としては「弱」と評価すべきである。

イ 出来事の前後の恒常的な長時間労働について

平成15年3月の亡Dの時間外労働時間数は108.35時間,同年6月の時間外労働時間数は97.66時間となり,一見すると恒常的長時間労働の総合評価③の「出来事の前及び後にそれぞれ恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)が認められる場合」に該当するとも思われる。

しかし,平成15年3月及び6月の労働時間が「恒常的な長時間労働」と認められるか否かは,形式的に時間外労働時間数のみに依拠するものではなく,その業務が,心身の疲労を増加させストレス対応能力を低下させる要因となるような実質を備えたものであるか否かを十分に考慮する必要があり,当該時期の亡Dの業務内容及び労働密度及びその推移を具体的に検討しなければ判断できない。

時間外労働時間数は,労働者側の事情のほか,所定労働時間における労働密度により増減するものであるから,業務起因性の判断に当たっては,同種の労働者からみても,通常その程度の時間外労働を要する業務に就いていたといえるか否かという観点から時間外労働時間数を認定すべきである。これを本件についてみると,亡Dの業務内容は,それまでの部門長代行の職務内容と異なるものではなく,かえってそれまでの経験が十分に生かせる職務であり,部門長として自ら業務量の調整をある程度行い得る裁量性が認められるものであり,原判決も認定するように(同37頁),本件会社は部門長の経験が浅い亡Dに対して一定の配慮を行っていたことが窺われることなどからすると,業務内容は質的に過重なものではない。

さらに,補充調査の結果(乙37,ほか証拠<省略>)によれば,亡Dの部門長としての業務量の内容と量は他部門よりも少なく,業務の困難度は低いものであったと認められ,また,亡Dは社外に外出していた割合が多い(当時第×開発部部門長として亡Dの隣席で執務をしていたN(以下「N」という。)によれば,亡Dは,日中社外に出ていた割合が7割程度であったということである。これは,おそらく,勤務時間を自己裁量により,自由に使える割合が多かったことから,分室での打合せや取引先との面会等のために社外に出ていたものと思われるが,その際の手待ち時間や移動時間を考えると,2,3時間の余裕はあったものと考えられる。)などの理由で日中の業務については労働密度が低かったために,時間外労働にしわ寄せが及んだと思われる。

特に部門長の負担を示唆するような時間外労働時間数が増える要素は認められず,以上からすると,亡Dについて,形式的に100時間程度の時間外労働時間数が認められる月があったとしても,通常その程度の労働時間を要する業務に従事していたということはできないから,形式的な時間外労働時間数をもって,総合評価を「強」とするような「恒常的な長時間労働」と評価することはできない。

さらに,用務先への移動時間は会社の拘束の程度が低いので,公共交通機関を用いた移動時間は労働時間に含めず,時間外労働時間数を認定すべきであると考えると,本件における亡Dの平成15年6月の時間外労働時間は77.2時間となる。亡Dの日常業務の負担からすれば,通常要する労働時間はその程度のものと思われる。

なお,控訴人は用務先への移動時間につき,労基法上の労働時間に算入されるべきであるから本件においても算入されるべきである旨主張する。しかし,労働者保護の観点から,使用者が労働者に労働させ得る時間の上限として定めた労基法32条が規定する労働時間の位置づけと,労災保険法上の精神障害の労災認定における時間外労働の位置づけは大きく異なるものである。労災保険法上において,時間外労働の程度と被災者に精神障害が発病したこととの間に相当因果関係が認められるか否かは,使用者の指揮命令下にあるか否かといった形式的な要素だけで判断されるべきものではなく,実質的に,当該業務が被災者の精神障害に対しどのような原因力を有していたかが問われるべきであって,業務の内容や程度,質,濃淡等,労働密度を含めた個別具体的な諸種の事情を勘案した上で,医学的経験則を踏まえて実質的に判断されるべきものである。したがって,精神障害の発病の業務起因性の判断においては,時間外労働の程度を検討する前提としての労働時間について,労基法32条が規定する労働時間とは,必ずしも一致するものではない。

仮に,出張時の移動時間が労基法上の労働時間と認められたとしても,労災認定において,心身の疲労を増加させ,ストレス対応能力を低下させる要因として考慮すべき労働時間としては,当該時間を算入すべきではない場合が十分あり得る。例えば,脳・心臓疾患に関する労災認定基準においては,労災認定における移動時間は,「一般的には実作業を伴うわけではなく,また,会社から受ける拘束の程度も低いことから,通常の業務から受ける負荷と同一と評価することは適切ではない。・・・自ら乗用車を運転して移動する場合や,移動時間中にパソコンで資料作成を行う場合等,具体的に業務に従事している実態が明確に認められる場合を除き,労働時間とは取り扱わないこととする。」(証拠<省略>)とされている。

本件においても,亡Dの移動時間については,出張先は大阪府下や奈良県下であり,公共交通機関による移動も比較的便利で,初めて赴くところではなく,何回か赴いて手慣れていることからすると,この出張による移動そのものが心身の負担になったと評価できず,どのように過ごすか本人の自由に任されて実作業を伴わない出張の移動時間では,心身の緊張状態は緩和され解放されることから,実際に業務を行っている労働時間と同程度の心理的負荷があったと評価するのは,精神医学の観点からも適切ではない(証拠<省略>)。

ウ 認定要件(イ)の評価

本件においては,上記移動時間を労働時間に含めなければ「100時間程度」にはそもそも当たらないし,移動時間を含めて形式的には100時間程度といえても,当該時期の亡Dの業務は労働密度が低く,通常,その程度の労働時間が必要ということはできないから,「恒常的な長時間労働」と評価することはできない。したがって,恒常的な長時間労働の総合評価③によって出来事(部門長への昇進)の心理的負荷の強度の「弱」を「強」と修正することはできない。

(3) 亡Dの私的領域に属する事情等(認定要件(ウ))

亡Dには,自殺直前,多額の借金があって,同僚らに切羽詰った様子で弁済資金を融通してもらおうとしていた形跡があり,返済に窮していたとみられる事情があり,それは多くの間接事実に裏付けられている(その詳細は,原判決「事実及び理由」第2の4(被告)(6)のアないしエのとおりであるから,これを引用する。)ところ,これを別表2に基づいて評価すると,出来事の類型③の「借金返済の遅れ,困難があった」に該当する。同別表によれば,その心理的負荷の強度は「Ⅱ」であるが,精神障害専門部会の意見(証拠<省略>)によれば,部下からの借金やその切迫性を勘案すると「Ⅲ」と修正すべきである。

そうすると,本件においては,認定要件(ウ)「業務以外の心理的負荷及び個体側要因により対象疾病を発病したと認められないこと」との要件を満たさない。

(4) 以上(1)ないし(3)のとおり,新しい認定基準によっても,亡Dの精神障害発症及び自殺に業務起因性は認められない。

3  亡Dの業務の量的過重性について

原判決「事実及び理由」の第2の4(被告)(5)ア記載のとおりであるから,これを引用する。

4  亡Dの業務の質的過重性について

原判決21頁6行目の末尾の後に,改行して以下のとおり加えるほかは,原判決「事実及び理由」の第2の4(被告)(5)イ記載のとおりであるから,これを引用する。

「(ウ) 深夜労働時間の評価について

控訴人は,深夜労働時間について睡眠時間等に影響を及ぼすものとして質的な過重性を評価せよと主張するが,亡Dの睡眠時間については明確な立証もなく,亡Dは休日出勤をしていないから,休日に心身の疲労を回復することは十分可能であって,数週間にわたり生理的に必要な最小限度の睡眠時間を確保できていなかったということはできない。特別に労働時間が深夜にわたることを加味することは妥当でない。

認定基準及び平成23年報告書によれば,判断指針にいうところの「数週間にわたる生理的に必要な最小限度の睡眠時間を確保できないほどの長時間労働」は,「極度の長時間労働」として,「発病直前の1か月におおむね160時間を超えるような」時間外労働を行った場合等として明確化が図られたのであり,亡Dについては,臨床経験上,最もうつ病等の発病の原因となる発病直前の1か月の時間外労働時間数が64.66時間にとどまり,「おおむね160時間を超える」とは大きな隔たりがある上,控訴人の主張を前提としても,当該月の睡眠時間は6.52時間ということになるから,「心身の極度の疲弊,消耗を来し,うつ病等の原因となる場合」(判断指針)に該当するということはできない。

(エ) その他,労働密度の低さを裏付ける事情として,次のようなものを挙げることができる。

① 亡Dは勤務時間中の外出が多かったこと(乙37)

② 第△開発部は,他の部門に比べて契約件数や契約形態からしても管理負荷は低く,業績目標が低く,特に週間業務報告書等からも平成15年6月に負荷が重くなるような事象が認められないにもかかわらず,時間外労働時間が多かったこと(証拠<省略>)

③ 亡Dが業務用パソコンを使用して勤務時間中にしばしば緊急性の乏しい業務と関係のない内容等の私用メールを送信していたことや,残業時間中,携帯電話がたびたび鳴り,離席することが多かった等の業務中の行動パターン(乙37,ほか証拠<省略>)

④ 本件会社には心理的負荷となるようなノルマがなかったこと(証拠<省略>)」

第4当裁判所の判断

当裁判所は,原審と異なり,控訴人の請求は理由があると判断する。その理由は以下のとおりである。

1  認定事実及び事実認定に関する補足説明については,以下のとおり補正するほかは,原判決「事実及び理由」の第3の2及び3記載のとおりであるから,これを引用する。

(1)  原判決23頁19行目の「証拠<省略>,」の後に「証拠<省略>」を加え,同25頁3行目の「嫉視」を「実施」と改める。

(2)  原判決27頁3行目冒頭から同頁9行目の末尾までを,以下のとおり改める。

「(ウ) 亡Dは,第△開発部に所属する平均30名の開発要員に対する勤怠管理,休暇承認等の労務管理を行っていた。これは,亡Dが部門長代行時代には同部門が統括する分室が3か所であったために平成15年3月までの1年間の平均が19人であったのに対し,同年4月に新たに1分室が加わり,4か所となったためである。ただし,当時,分室の各要員の個別具体的な労務管理は,直接にはそれぞれの分室長が行っていたため,実際には,部門長(亡D)は,直下の管理対象者である各分室長を通じて部門全体の労務管理を行っていた。なお,亡Dは,日中,分室の要員との打合せ等のために分室に出かけるなど外出することが多かった。各分室の最寄駅等は次のとおりである。

① j社分室

大阪市営地下鉄御堂筋線n駅から徒歩5分

事務所からの所要時間 約35分

② i分室(g社○○分室)

大阪市営地下鉄御堂筋線n駅から徒歩5分

事務所からの所要時間 約35分

③ m社分室

近鉄奈良線o駅からバス15分

事務所からの所要時間 約70分

④ k社分室(平成15年4月から)

大阪市営地下鉄中央線p駅からバス10分

事務所からの所要時間 約45分

(乙37,ほか証拠<省略>,弁論の全趣旨)

(エ) 第△開発部の平成15年4月から翌16年2月までの期間における,契約件数は129件であり,契約形態は,システム開発受託契約が25件であり,システム開発請負契約が104件であった。

(証拠<省略>)」

(3)  原判決28頁3行目の「平成15年3月」から同頁6行目の末尾までと,同頁19行目の「平成15年7月」から同頁22行目の末尾までを,それぞれ以下のとおり改める。

「平成15年3月(平成15年3月5日から同年4月3日)

拘束時間 313.35時間

労働時間 284.35時間

時間外労働時間 108.35時間」

「平成15年7月(平成15年7月3日から同年8月1日)

拘束時間 284.45時間

労働時間 259.95時間

時間外労働時間 83.95時間」

(4)  原判決31頁20行目の「ア」及び同33頁5行目の「イ」から同頁16行目の末尾までを削除する。

(5)  原判決34頁3行目の「及び4月の給与(職務グレード給)」を削除する。

2  業務起因牲の判断枠組み

(1)  被災労働者に対して,労災保険法に基づく遺族補償給付等が行われるためには,死亡した当該労働者の死亡が「業務上」のものであること(労災保険法7条1項1号,12条の8第1項,2項,労基法79条,80条)を要する。

ところで,本件における亡Dの自殺がうつ病(本件疾病)を契機とするものであるとの控訴人の主張からすると,「その他業務に起因することの明らかな疾病」(労基法施行規則35条,同規則別表第1の2第9号)として亡Dがうつ病(本件疾病)を発症したことが要件となる。

(2)  労災保険制度が業務に内在ないし随伴する各種の危険が現実化して労働者に疾病の発症等の損失をもたらした場合に使用者の過失の有無を問わずに被災者の損失を填補する制度であることを踏まえると,労働者に発症した疾病が業務上のものであるというためには,当該労働者が当該業務に従事しなければ当該結果(発症等)は生じなかったという条件関係が認められるだけでは足りず,両者の間に相当因果関係,すなわち業務起因性があることを要すると解するのが相当である。

(3)  そこで,業務と精神障害の発症・増悪との間に相当因果関係が認められるための要件であるが,前記引用に係る前提事実(5)記載の「ストレス-脆弱性」理論を踏まえると,ストレス(業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷)と個体側の反応性,脆弱性を総合考慮し,業務による心理的負荷が社会通念上,客観的にみて,精神障害を発症させる程度に過重であるといえることが必要であると解するのが相当である。

(4)  ところで,平成23年報告書は,各会の専門家によって構成された専門検討会が,近時の医学的知見,これまでの労災認定事例,裁判例の状況等を踏まえて検討した上,従前の判断指針等が依拠している「ストレス-脆弱性」理論を相当として,これに引続き依拠し,従来の考え方を維持しつつ,業務による心理的負荷(ストレス)の評価基準の改善と審査方法等の改善を提言したものであること,厚生労働省はこれを踏まえて,同年12月26日に認定基準を定めて,判断指針等を廃止したこと,認定基準においては,新たに「業務による心理的負荷評価表」(別表1)が定められ,「出来事」と「出来事後の状況」を一括して心理的負荷を判断することとして具体例も示されたほか,「出来事の類型」が見直され,対象疾病の発病に関与する業務による出来事が複数ある場合の心理的負荷の程度は全体的に評価することとされていることが認められる。

上記認定基準は,判断指針と同様に,行政目的に従って労災認定を大量かつ画一的に処理することを意図したものであって,裁判所による行政処分の違法性に関する判断を拘束するものではないことは当然であるが,その作成経緯や内容に照らしても合理性を有するものであるといえる。

(5)  したがって,本件における亡Dの業務と同人に発症した本件疾病(精神疾患)ないし自殺との間に相当因果関係があるか否かは,上記認定基準を参考としながら,本件における個別具体的な事情を総合的に斟酌し,必要に応じてこれを修正しつつ,客観的な見地から判断するのが相当である。

以下,このような見地に立って前提事実及び上記認定事実に基づき,本件の検討を進めるものとする。

3  認定基準に基づく業務起因性の判断について

(1)  対象疾病について

平成15年8月末ころ,亡Dが発病した精神障害が,業務に関連して発病する可能性のある精神障害のうちF3に分類される軽症うつ病エピソード(F32)であることは,当事者間に争いはない。これは,認定基準でいえば,認定要件(ア)に該当する対象疾病の発病とみることができる。

(2)  業務による心理的負荷について

ア 控訴人は,業務による強い心理的負荷が認められる出来事として,亡Dの平成15年4月の部門長への昇進を挙げる。

これは,認定基準別表1においては,「特別な出来事以外」の「具体的出来事」に挙げられた項目25「自分の昇格・昇進があった」という出来事に当たり,その平均的な心理的負荷の強度は「Ⅰ(弱)」であるとされているところ,上記認定事実によれば,業務量や業務内容において,従来の部門長代行と特に変化があるものではないとしても,なお,心理的負荷の程度は「弱」ながら存在するとみることが相当である。

イ ところで,亡Dのこの部門長昇進前後における時間外労働時間数は,部門長に昇進する前々月に当たる同年2月は76.09時間,3月は108.35時間,昇進のあった4月は85.49時間,5月は82.81時間,6月は97.66時間,7月は83.95時間であり,3月から7月の5ヶ月間は月80時間を上回る状況にあり,3月は100時間を超えており,6月も100時間に極めて近いといえる。

ウ そこで,かかる亡Dの時間外労働の状況が,恒常的長時間労働として,上記出来事の心理的負荷を全体として増加する要因として評価できるかどうかが問題となる(認定基準別表1における恒常的長時間労働の総合評価③は,恒常的な長時間労働につき,「出来事の前及び後にそれぞれ」「恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)」を要求している。)。

前述したとおり,認定基準が,かかる恒常的な長時間労働をとらえて心理的負荷の増加要因として,心理的負荷を与える出来事と共に,全体として評価しようとするのは,出来事に対処するために生じた長時間労働は,心身の疲労を増加させ,ストレス対応能力を低下させる要因となることや,長時間労働が続く中で発生した出来事の心理的負荷はより強くなることから,出来事自体の心理的負荷と恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)を関連させて総合評価を行おうとするものである(証拠<省略>)。その趣旨からすれば,時間の数値や前後の期間については,心理的な負荷として影響を及ぼす範囲であれば,ある程度の幅をもって総合的に判断することができるものであると解される。

本件における亡Dの上記労働状況は,数字としては100時間に満たない月も多く,また,出来事の直後が100時間に達しているというわけでもない。しかし,亡Dの前記時間外労働の状況は,長時間労働が及ぼす影響と出来事の影響を考慮すれば,全体として恒常的長時間労働の総合評価③の要件を満たすものといえるし,上記出来事の心理的負荷の総合評価を「強」として評価するに足る恒常的長時間労働であるといえる。

エ この点につき,被控訴人は,かかる労働時間の算定においては,労働密度を勘案しなくてはならないのであり,亡Dは事業場外での業務遂行が多かったところ,これに伴う移動時間や待機時間は労働密度において通常の労働時間とは異なるのであって,これらを労働時間に含めて算定・評価することは妥当でなく,これらを算入するなら労働密度の点を別途評価する必要があるし,そうでないなら,亡Dの平成15年6月の時間外労働時間は77.2時間で,恒常的長時間労働の総合評価③に明らかに当たらないので,全体としての心理的負荷の強度についての評価を「弱」から「強」にするようなものとは評価できない旨主張する。

確かに,労働者に対する心理的負荷の大小を検討するに当たっては,認定基準による場合を含め,心理的負荷を与えるものとしての労働時間の概念から労働密度の点を捨象することはできない。平成23年報告書においても,極度の長時間労働の説明において,極度の長時間労働は,「心身の極度の疲弊,消耗を来し,うつ病等の原因となる」としつつ,「労働時間数は長いものの手待ち時間の割合が多く,労働密度が特に低いような場合には,心身の極度の疲弊,消耗を来すとは評価できないものであるから,単純に時間外労働時間数のみで判断すべきではない。」と明記されている(証拠<省略>)とおりである。しかし,本件において,亡Dの労働時間のうち,被控訴人が控除すべきであると主張する事業所外の業務遂行に伴う移動時間や待機時間については,その明確な時間数の立証もなく,その間,亡Dがどのように過ごしたか過ごし得たかの立証もない。亡Dの職責上,分室等に頻繁に出かける必要があったことは肯定できるところ(なお,乙37には,亡Dの分室への外出は必要以上に多かった旨の記載があるが,亡Dの生前に本件会社内でそのような指摘がなされたり,問題にされたことは窺われず,上記記載は裏付けを欠くもので,採用できない。),第△開発部が統括する4つの分室の場所等は前記認定のとおり,いずれも大阪市内又はその近郊にあり,確かに公共交通機関による移動も比較的便利であり,亡Dとしても何度も赴くことで移動にも手慣れた状態にあったと推認できる。しかし,一般論としては,たとえ慣れた行程であっても,公共交通機関による移動(特に大都市内ないしその近郊への移動)は単なる待ち時間とは異なり,移動に伴う心的物理的負担もあり,その所要時間は労働のために必要な時間でもあるのであって,特別に自由に過ごし得た時間が存在する等の事情がない限り,労働時間から控除すべきものとは認められない。また,被控訴人が挙げる脳・心臓疾患に関する労災認定基準(平成15年3月厚生労働省労働基準局労災補償部補償課職業病認定対策室作成「脳・心臓疾患の労災認定実務要領」)(証拠<省略>)においての取扱いは,あくまでも脳・心臓疾患に対する影響を踏まえて定められているものであるし,同要領においても,移動時間については拘束時間としての評価は必要であるとしているのであって,一切考慮すべきでないとしているわけではない。同要領が,被控訴人の指摘するように,「自ら乗用車を運転して移動する場合や,移動時間中にパソコンで資料作成を行う場合等,具体的に業務に従事している実態が明確に認められる場合を除き,・・・労働時間としては取り扱わないこととする。」としている点は,本件に即して考えれば,相当とはいえない。前掲の平成23年報告書の記載も,特に労働密度が低い場合には考慮すべきであるとしているにすぎず,本件における事業所外での業務遂行のための移動時間,顧客との面会の待ち時間等は特に労働密度が低い場合には当たらない。

医師O作成の医学意見書(証拠<省略>)中には,「どのように過ごすか本人の自由に任されて実作業を伴わない出張の移動時間では,思考を停止させて心身の休息に当てたり,様々な方法で気分転換をすることも可能で,心身の緊張状態は緩和され解放されることから,実際に業務を行っている労働時間と同程度の心理的負荷があったと評価するのは・・・適切ではない。」との記載があるが,上記判断に照らして,実情にそぐわないところがあり,そのまま採用することはできない。

(3)  亡Dの私的領域に属する事情等

ア 被控訴人は,対象疾病を発病する業務以外の心理的負荷及び個体側要因があると主張し,亡Dには平成15年12月時点で複数の先からの借金があり,返済に窮していたと主張する。

この点につき,証拠(証拠<省略>,控訴人本人)によれば,亡Dは,住宅ローンを有していたが,滞納することなく給料から返済していたこと,自動車購入のローン残金約300万円も平成14年1月までに完済していること,タクシー代や飲み代その他の経費に充てるためにカード会社のキャッシングを利用していたが,生活に影響するようなものではなかったことが認められる。一方,証拠<省略>によれば,亡Dは,平成15年11月中旬ころ,部下二人から30万円と50万円を借りた事実が認められる。これらの借金に際し,貸した二人の部下の供述では,亡Dは,一人には,「東京出張でツケがたまった。遊びすぎた。」と言い,他の一人には,本件会社の営業資金の一時的な不足を補うためという趣旨のことを言ったというものであるが(証拠<省略>),借金の理由が亡Dの述べたようなものであったか不明確であるし,部下からこのようなまとまった金銭を借りるというのも異例なことである(なお,これらの借金は,亡Dの死後,本件会社から連絡を受けた控訴人が返済している〔証拠<省略>,控訴人本人〕。)。しかし,これらの借金について,貸した部下らが亡Dに対し,生前,返済を要求していたような事実は認められず,これらの金銭の借入れの原因となった事情に関して,亡Dが何らかのトラブルを抱えていたような事実も,本件証拠上は確認できない。ところで,証拠<省略>によれば,本件会社が亡Dの金銭借入状況について信用調査会社に調査を依頼し,その調査結果が本件会社に提出されているところ,その調査の結果では,平成15年12月当時,亡Dには4件の借入れがあり,借入金残高は合計428万円余であったとされている(証拠<省略>)。しかし,上記調査結果には,借入先の記載がされておらず,借入れを確認できる資料も添付されていないのであり,亡Dの死後,貸主から相続人である控訴人に対し返済の請求がされた事実も窺われない(控訴人本人)。その他,被控訴人は,亡Dがクレジットでパソコンや新幹線乗車券を購入しており,これらは換金目的の購入であった可能性が高く,借金の返済に苦慮していたことが窺われると主張するところ,確かに,亡Dが平成15年11月に19万7000円のパソコンをクレジットカードで購入し,そのパソコンの所在が不明であることや,死亡の前日に新幹線乗車券(8万2500円分)を購入していることが窺われ(証拠<省略>),これらが換金目的であった可能性は否定できない。そうであるとしても,その事情がどのようなものであったかは明らかでなく,亡Dが金銭の工面に汲々として追いつめられた精神状態であったとまで認めることはできない。

被控訴人は,借金の原因の一つとして亡Dの女性問題が関係していた可能性を指摘する。この点について,証拠(証拠・人証<省略>)中には,亡Dに女性関係があったことを述べる部分,具体的には,平成13年末ころ,F事業部長がたまたま亡Dの使用していたネットワーク端末機の画面をちらっと見たところ,妻以外の女性に宛てて書かれたと思われるラブレターのような記載のあるメールの文が見えたので,亡Dの当時の上司のPに事情を説明し,平成14年3月ころ,Pから亡Dに対し,「部門長になりたいのなら,女性問題はけりをつけなさい。」と注意したといった内容の陳述ないし供述部分がある。しかし,上記女性問題に関して,亡Dの生前に本件会社の記録等に残されたものは本件の証拠として提出されていないことからすると,上記女性問題の存在自体疑問を差し挟む余地があるし,仮に過去にそのようなことがあったとしても,亡Dが本件疾病を発病した平成15年当時においても亡Dが女性問題を抱えていたというような事実を裏付けるに足る証拠は存在しない。

以上によれば,仮に信用調査会社の調査結果を信用し,亡Dに平成15年12月時点で複数件の借金の存在が認められるとしても,これは認定基準においては,せいぜい,同別表2の出来事の類型③のうち「借金返済の遅れ,困難があった」に当たり,平均的な心理的負荷の程度は「Ⅱ」とされている出来事にとどまるものであって,「Ⅲ」と評価する余地はなく,心理的負荷の程度は「中」と考えられる。

イ 被控訴人は,精神障害専門部会の意見(証拠<省略>)を挙げて,部下からの借金やその切迫性を勘案すれば,心理的負荷の程度は「強」とされるべきであると主張する。しかし,上記別表2の例示出来事は単に借金があることではなく,返済の遅れや困難がある場合を類型的に評価しているのであって,通常の切迫性は同類型において含まれて評価されているものと考えられる。本件においては,それを超えた特殊な事情についてまで立証されているものではなく,被控訴人の主張は採用できない。

4  修正要素について

当事者双方は本件における特殊性等を主張して,業務起因性の判断に加味すべきであると主張するので,以下検討する。

(1)  部門長昇進及び部門長の業務の評価について

被控訴人は,亡Dが平成15年4月の部門長昇進前から部門長代行に就任していたことから,職務内容において変化がないといえる部門長への昇進は,従来の経験も生かせる職場であること,昇進と同時に担当の分室が一つ増えたといっても,認定事実のとおり,そのための負担の増加も格別見受けられないこと,第△開発部門は元々契約件数も少なく,契約形態も管理負荷が低いものであること等を挙げ,通常の昇進に比べて心理的負荷が軽いはずであると主張する。

確かに,認定事実からすれば,亡Dの部門長代行から部門長への昇進は,一般の部署の異動や昇進に比べれば,従来の業務量と業務内容との変動は少なめと評価することができるかもしれないが,昇進と同時に業務も担当分室が1件増加している。また,被控訴人は,第△開発部門が契約数も契約形態も管理負荷が低いと主張するが,一般論として契約数は少ない方が,契約形態は請負契約の方が,管理負荷が低いとしても,取引先との契約関係は,取引先との力関係や取引高,業務内容等,様々な個別事情によって難度が異なるものであるから,部門長代行として経験が浅い亡Dにとって,その中で部門長に就任し,同時に担当分室が1件増加することが心理的負荷において「弱」の評価にも及ばず,何ら心理的負荷にならなかったとまで評価することはできない。

(2)  労働密度について

被控訴人は,亡Dは労働密度が低く,特に密度が低い時間について労働時間から控除すること自体はできないとしても,心理的負荷の評価に当たっては,労働密度が低いという点を十分考慮すべきであるとして,労働密度が低いと考えられる理由として,①亡Dは勤務時間中の外出が多かったこと(乙37),②第△開発部は他の部門に比べて契約件数や契約形態からしても管理負荷は低く,業績目標が低く,特に週間業務報告書等からも平成15年6月に負荷が重くなるような事象が認められないにもかかわらず,時間外労働時間が多かったこと(乙37,ほか証拠<省略>),③勤務中の私用メールの送信や業務中の行動パターン(乙37,ほか証拠<省略>),④心理的負荷となるようなノルマがなかったこと(証拠<省略>)等を主張する。

しかし,①については,前記3(2)エでも検討したように,亡Dは4件の分室を適宜訪問するという外回りの業務があったものであるし,その必要性を超えて離席していたことについては,これを認めるに足る立証がない。隣席であるNは,亡Dの離席の頻度について述べているものの(乙37),印象の域を出るものではなく,N自身,業務上離席することが多かったことからすると,外出の頻度,時間,及びそれが妥当な範囲を超えているかどうかについて,Nの陳述から認定することはできない。②については,(1)でも述べたとおり,一般論としての契約件数や契約形態において負荷が重いと言い切れるものではないにしても,第△開発部門の管理負荷や業績目標が当時の亡Dの技量に比して不相当に低く,労働密度が低いとまでいえるものであったことを肯定するに足る立証はない。③については,確かに,証拠<省略>によれば,亡Dが勤務時間中に業務用パソコンを使用して私用メールを送信していたことは認められるが,これがどのような頻度とタイミングで行われていたかは必ずしも明らかでなく,私用メールの存在から直ちに労働密度が低かったといえるものではないし,残業時間中に携帯電話がたびたび鳴ったり,離席することが多かったなどという被控訴人主張の亡Dの行動パターンについても,Nの印象を超えるものではなく(乙37,ほか証拠<省略>),亡Dの労働密度についての判断を左右するほどのものとはいえない。また,④については,ノルマに関しては,前記補正の上引用した原判決「事実及び理由」第3の3(2)のとおりであって,本件会社において目標値の設定や同値の達成・未達成は社員に一定程度の心理的負荷を生じさせるものであったことは否定できないところである。確かに,証拠<省略>及び弁論の全趣旨によれば,本件会社において,業績が給与のうちの「職務グレード給」に反映されることになったのは平成16年4月からであり,それまでは業績は賞与に反映されるだけであったことが認められるが,そうであるからといって,心理的負荷となるようなノルマがなかったといい得るものではなく,労働密度が低かったとすることはできない。

被控訴人の主張はいずれも理由がない。

(3)  深夜労働について

控訴人は,亡Dの時間外労働が深夜に及ぶことが多いことに関し,深夜時間の労働の常態化は,深夜の帰宅の日常化,時間外労働が1日4ないし5時間以上となること及び睡眠時間も4ないし5時間程度となるという過酷な勤務実態を意味し,特に労働者は疲労が蓄積し,心身の健康が蝕まれるので,別途質的な過重性を評価すべきであると主張し,亡Dの時間外労働時間数から自殺予防マニュアル(証拠<省略>)に基づいてその睡眠時間を推計している。

しかし,時間外労働が長時間に及ぶという場合には,当然それは労働以外の生活時間に影響を及ぼすということであって,時間外の長時間労働の心理的負荷を検討する際には,一般的に,長時間労働ということは労働が深夜に及び,生活時間が減少するのであるから,これらの心理的負荷については,原則として長時間労働の心理的負荷の評価として含まれているとみるべきである。したがって,控訴人が主張するように,亡Dの睡眠時間を推計した上で亡Dの業務の質的過重性を判断する必要は認められない。

5  小括

以上によれば,本件においては認定基準の認定要件(ア)ないし(ウ)の全てを満たすものと認められ,亡Dに発症した精神障害である軽症うつ病エピソード(本件疾病)は,業務による心理的負荷によって発病したと判断される。そして,亡Dが自殺する直前の平成15年11月ないし12月ころには,亡Dは発病した軽症うつ病エピソードによって,正常の認識,行為選択能力が著しく阻害され,又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態に陥ったものと推定されるのであって,亡Dの自殺は同人が従事した業務に内在する危険が現実化したものと認めるのが相当であり,亡Dの自殺は業務に起因するものというべきである。

6  結論

したがって,控訴人の労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の給付請求に対し,業務起因性を否定して不支給とした本件処分は違法である。よって,控訴人の請求はいずれも理由があるから認容すべきところ,これを棄却した原判決は失当であり,本件控訴は理由があるから,原判決を取り消した上,控訴人の請求を認容することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小松一雄 裁判官 遠藤曜子 裁判官 平井健一郎)

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