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大阪高等裁判所 平成25年(う)992号 判決 2014年6月27日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役20年に処する。

原審における未決勾留日数中380日をその刑に算入する。

理由

本件各控訴の趣意は,検察官控訴については京都地方検察庁検察官検事永村俊朗作成の控訴趣意書に,被告人控訴については主任弁護人髙藤敏秋作成の控訴趣意書にそれぞれ記載のとおりであり,検察官の控訴趣意に対する弁護人の答弁は,主任弁護人髙藤敏秋及び弁護人本多重夫連名作成の答弁書に記載のとおりであるから,これらを引用する。検察官の控訴趣意は原判決の事実誤認を,弁護人の控訴趣意は原判決の事実誤認及び量刑不当をそれぞれ主張するものである。

第1事実誤認の各論旨について

検察官の論旨は,原判示の事実について,被告人の刺突行為より先にA(以下「被害者」という。)が被告人を刃物で攻撃した事実などなく,また,被告人が被害者の左胸部等を刃物で突き刺し,頸部をバスタオルで絞め付けた行為には,いずれも殺意が認められるのに,原判決は,被害者が刃物で先制攻撃した可能性を否定できないとし,さらに,刺突行為には殺意を認めず,頸部の絞付け行為にだけ殺意を認めた点で,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というものである。

弁護人の論旨は,被告人が被害者の頸部を絞め付けた行為についても殺意は認められるべきではないのに,これを肯認した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というものである。

そこで,記録を調査し,当審における事実取調べの結果も併せて検討する。

1  原判決の判断の概要

争いのない事実として,被告人は,刃物様のもので被害者の左胸部,右乳房部,右上腕部,右側胸部,左手背部,右前腕部を突き刺すなどし,バスタオルで頸部を絞め付けたこと,被害者が頸部圧迫により窒息死したことが認められる。

原判決は,本件の争点が①殺意の有無と②過剰防衛の成否であるとした上,被害者が包丁を持ち出して先に被告人の右下腿部を突き刺した可能性が否定できないから,被告人が被害者の胸部等を刃物様のもので突き刺した行為は過剰防衛となり,その行為には殺意も認められないが,頸部を絞め付けた行為には殺意が認められ,過剰防衛にもならないから,先の傷害は殺人に吸収されて,結局,殺人罪が成立すると判断した。

以下,所論にかんがみ,原判決が理由中で示した判断の当否を検討する。

2  当審での事実取調べの結果も含めて,関係証拠によれば,本件現場の状況,被害者の遺体の状況が,次のとおり認められる。

(1) 被害者方居室の床面に多数の血痕が残され,被害者,被告人の各DNA,両者の混合DNAが検出されているが(原審検甲84,12),リビング奥の遺体周辺のほか,台所,洗面所,寝室,ウォークインクローゼットの各床面に残された血痕には,靴底により印象されたものが多く,判別できるものはすべて被告人が犯行当日に履いていたB製運動靴の靴底と類似する山形模様の痕跡であった(当審検甲1,11,証人C)。

(2) そのほかの血痕のうち,寝室ベッド上に置かれた被害者のスマートホンのほか,玄関靴箱上,台所流し台上,台所コンロ下収納庫扉,洗面台下に置かれた洗剤と漂白剤の取っ手,ウォークインクローゼット内にあった紙袋底,整理ダンスの引出下段,クローゼット天棚上の紙袋横の各所に付着したものは,いずれも繊維痕の形状を残しており,手袋様のものを装着した手で触って付着した血痕と認められる(当審検甲11,証人D)。

(3) 被害者は,リビングと台所の間に設置されたカウンターテーブル横の床に,うつ伏せの状態で倒れており,首にはバスタオルが巻き付けられていた。その遺体の下から右手横にかけて血液が広範囲に貯留しており(原審検甲84の写真60,61,65),遺体の周辺には血液が付着した靴痕跡7個が残されていた(当審検1に添付の現場見取図第6図の番号37から43。なお,番号42は,C証言によれば,靴痕跡の上の靴下履き素足痕と認められる。)。

(4) 被害者の遺体の創傷は,①左胸部に長さ約5.1㎝,幅最大約1.2㎝,深さ約2.0㎝の哆開創,②右乳房部に長さ約4.0㎝,幅最大約1.0㎝,深さ約11.5㎝の哆開創,③1回の刺入により同時に成傷されたと考えられる右上腕部の哆開創と右側胸部の長さ約3.4㎝,幅最大約1.0㎝,深さ約2.5㎝(右肺に達している)の哆開創があるほか,防御創と考えられる創傷として,④左手背部に上下径6.0㎝,左右径2.7㎝の哆開創,⑤右前腕に長さ3.3㎝,幅最大1.3㎝の哆開創,⑥右手掌面第2近位指節間関節に長さ1㎝の刃物によるやや鋭利な皮膚損傷がある。

3  被害者による先制攻撃の可能性について

前記のとおり,原判決は,被害者が包丁を持ち出して先に被告人の右下腿部を突き刺した可能性が否定できないと判示しているが,その判断の過程で,被告人が本件犯行の凶器を持参したと認めるには合理的な疑いが残り(6頁),被害者方の包丁が本件凶器であった可能性は否定できない(9頁),玄関ドアを開けた被害者をいきなり室内に押し込んで襲ったとまでは認められない(6頁),被告人に対して身の危険を感じるなどした被害者が包丁を持ち出した可能性を完全に払拭することはできない(9頁)と説示し,その上で,被害者が先に被告人の右下腿部を突き刺した可能性が否定できない(10頁)と判断したものである。

これらについて,以下,順次検討する。

(1) 被告人が凶器を持参したかどうかについて

原判決は,本件直前に被告人方には包丁があったことを認めるに足りる証拠はなく,被告人が本件凶器を入手して持参したことの立証もなく,他方,被害者方で発見された包丁(刃体の長さ約17㎝,刃幅約4.4㎝)は,本件犯行の凶器と見ても矛盾はなく,この包丁から血痕は検出されていないが,洗い流すことにより検出されなかった可能性があり,被告人がこの包丁を犯行に使用した後,血を洗い流した可能性は否定できないから,被告人が本件凶器である刃物様のものを持参したと認めるには合理的な疑いが残る,とする。

これに対し,検察官の所論は,①被害者方の包丁は,台所流し下の収納庫の包丁差しに入れられたままであり,鑑定しても血液は検出されなかった,これについて,被告人は,犯行後に包丁の血を洗い流して収納庫に入れたと供述するが,頸部圧迫に用いたバスタオルは,そのまま放置しているのに,自ら持参したものではない包丁をわざわざ拾い上げ,血を洗い流して収納したというのは不自然・不合理である,②本件後,被告人方からは包丁が1本も発見されなかったが,被告人が日常生活で包丁を使用していなかったとは考えられず,被告人が自宅から包丁を持参したと見て不自然ではない,③被告人が交際相手の男性や同人が他に交際していた女性の行動を監視していたこと,さらに,被害者方の室内から血液が付着した靴痕跡及び同様の手袋による繊維痕が発見されていることからすると,被告人が被害者に対する強い敵意を持って,かつ,室内を物色し,犯跡を隠蔽する目的で,手袋及び刃物を持って被害者方に赴いたことが認められるべきであると主張する。

これについて検討する。①被害者方の包丁からは血液が検出されていないが,洗い流したためである可能性は否定できない。被害者方台所流し台のコックレバーや食器用洗剤に血液が付着しており,原判決が説示するように,被告人が洗い物をした形跡があるし,被害者方洗面台下の漂白剤等の取っ手にも血液付着の手袋様のものをはめた手によると考えられる血痕があり,被告人が犯行後に床に洗剤を撒くなどの行動をして,その前後に包丁に付いた血を洗い流した可能性がないとはいえない。その場合の包丁は,被告人が持参した包丁か被害者方の包丁か不明というほかはない。また,バスタオルは放置しているのに包丁を洗って収納庫に入れた点も,犯行後の興奮状態や包丁に指紋が付着した場合を考えれば,あり得る行動といってよい。②犯行後に被告人方からは包丁が1本も発見されていないが,犯行前に被告人方に包丁があるのを見たと述べる交際相手の原審公判供述が曖昧で信用できないことは原判決が説示するとおりであって,犯行前から被告人方には包丁がなかったと見ても不自然とはいえない。③被告人が交際相手に対して執着心を持ち,本件の際も,前日から交際相手と会っていた被害者の後をつけた上で,相当強い嫉妬心や敵対心を持って被害者方を訪れたことはうかがわれる。そして,次項で見るように,被告人の被害者方への立入りは,かなり粗暴な態様であることがうかがわれ,また,本件犯行後には室内を歩き回り,手袋様のものをはめた手で物色したことも認められる。これらの事実からすれば,被告人が包丁を持参した可能性も否定できない。しかし,被告人が被害者の存在を知ったのは本件の前日であり,それまで全く面識はなかったことを考えると,被害者方への立入り時に手袋の他に刃物まで準備し所持していたと断定するのは困難である。

以上によれば,被告人が凶器を持参したかどうかは証拠上不明というべきであって,被告人が凶器を持参したのではなく,被害者方の包丁が凶器である可能性を否定できない,とした原判決の説示に誤りがあるとまではいえない。

(2) 被告人の室内の立入り態様について

原判決は,被害者が玄関ドアを開ける際に履いていたと見られるサンダルが玄関からやや離れたリビング内にあったことからすれば,被告人が玄関の土間にいた被害者の意に反して強引に室内に入った可能性は高いとしながらも,玄関では争ったような形跡は見られず,室内に被告人の素足様の血液痕跡もあることから,被告人が靴を脱いで室内に入った可能性は否定できず,被告人が凶器を持ち込んだとは認められないことからすると,被告人が玄関ドアを開けた被害者に対し,いきなり室内に押し込んで襲ったとまで認めることはできないと判示している。

しかし,被害者の上記サンダルは,玄関土間に降りるときに履かれていたものであり,それが玄関土間を上がってリビング内に入った場所に散乱していたのであるから,被害者がサンダルを脱ぐこともできないまま玄関からリビング内まで後退せざるを得ないほどの被告人の強引な立入り行動があったことを強く推認させる。原判決が玄関では争った形跡が見られないと判示する理由は不明であって,首肯することができない。さらに,前記のとおり,遺体の下から横にかけて血液が広範囲に貯留しており,その周辺を含めて被害者方室内の各所に,被告人が履いていた運動靴と類似する血液付着の靴痕跡が多数残されていることも併せ考えると,被告人が被害者方に靴履きのまま上がり込んだ上,本件犯行時にも引き続き靴を履いていたため,その際に血液が靴に付着したものと認められる。

これに対して,原判決は,室内に血液の素足様の痕跡もあることなどを理由に,被告人が靴を脱いで室内に入った可能性を否定できないとする。同室内には血液が付着した足跡で靴によるとは認められず,対照不能と判定されたものもあって,被告人の素足痕の付着状況は明らかでないが,対照可能とされた限りでは,血液の素足の痕跡は玄関前の床とリビング奥の遺体近くの2個であり,遺体近くの素足痕は,靴痕跡の上に靴下履きの織り目痕が印象されたものである。被告人が立入り時や犯行時に素足であったとすれば,前記のように血液が付着した多数の靴痕跡が寝室やウォークインクローゼットにまで室内各所に広範に残っていることの説明がつかない。この点に関して,被告人は,「犯行後,帰り際に靴を履いたが,足からの出血で靴が血だらけになり,血を拭こうとして,靴を履いたまま再び室内に入り,被害者のジーンズに履き替えようと試みて,その際に靴を脱いだ。」旨を述べるが,靴の血を拭いたり履き替える目的であれば,遺体周辺や寝室までを含めて室内を広く移動することは明らかに不自然であるし,多数かつ相当量の血液痕跡を印象することもできないと考えられる。また,被告人は,犯行後に洗剤を撒いたり,包丁を洗って戻したり,被害者のスマートホンを確認したことなどを述べるが,その後に靴を履いてから,靴などの血を拭こうとして靴履きで室内に戻ったが,拭く物がなく,退去したことを述べているのであって(原審被告人公判供述43頁以下,96頁以下),これによれば,靴を履いた後に犯跡隠蔽や物色行為の目的で室内を歩き回ったことはなかったことになり,その際に血液が付着した多数の靴痕跡が印象されたとは認められない。なお,被告人は,控訴審において,上記のような犯跡隠蔽等の行為と靴などの血を拭こうとして靴履きで室内に戻った行為との前後関係については分からないと供述するが(5頁以下,22頁),上記原審供述に比較して曖昧で変遷理由も明らかではなく,信用することができない。そうすると,自分の足や靴の血を拭くために靴を履いて室内に戻ったという被告人の原審での上記弁解は,血液の素足痕跡の説明になったとしても,血液が付着した多数の靴痕跡が生じた理由の説明にはならないのであり,現場の客観的証拠と矛盾するというべきである。また,遺体近くの素足痕跡は,第一発見者のEが靴を脱いで室内に入った(同人の原審公判供述)際のものである可能性もある。

以上に検討したように,玄関で争った形跡が見られないこと及び被告人の血液の素足痕の存在によって被告人が当初から靴を脱いで室内に入った可能性(更には犯行時にも靴を脱いでいた可能性)を認めた原判決の判断は不合理であって,被告人が靴を履いたまま室内に強引に立ち入り,犯行に及んだ可能性が高いと認められる。

(3) 被害者が包丁を持ち出した可能性について

原判決は,被告人が本件凶器を持参したとは認められず,被害者方の包丁が凶器となった可能性があるとした上で,被害者方を初めて訪れた被告人が被害者がいるのに包丁の所在場所を見つけて,そこから包丁を取り出すことは容易とはいいにくいと判断し,被告人が被害者の意に反して室内に強引に入ってくるなどしたことで,身の危険を感じた被害者が本件凶器を持ち出した可能性を否定できない,とする。

これに対し,検察官の所論は,被害者は被告人と面識がなく,本件当日いきなり訪問を受けたのであり,サンダルを脱ぐ余裕もなく被告人に室内に押し戻され,被告人に恐怖心を抱いたとしても,また,その後に両者の間で何らかの言葉が交わされたにしても,被害者が素手の相手に対し刃物を持ち出すような行動をするとは考え難い,などと主張する。

確かに,それまで面識もなく,素手の被告人に対して,いきなり刃物を持ち出すというのは,強引な態様で立ち入った被告人を更に興奮させることにもなり,通常は考えにくい行為というべきである。この点について,被告人は,被害者が包丁を持ち出してきたのは見ていない,気が付いたら刺さっていたなどと供述するだけであって,被告人自身による立入りの目的や経緯を考えれば,非常に不自然な内容であって,容易に信用できない。その他に,被害者が包丁を持ち出したことをうかがわせる証拠は見当たらない。もっとも,前記のように強引に被害者方居室に立ち入った被告人が,交際相手との関係を詰問するなどして迫り,被害者がこのような突然の事態に著しく困惑したり恐怖を感じたことは十分想定できるから,被害者が自らを守り被告人を退去させようとして刃物を持ち出した可能性がないとはいえないし,その余裕が被害者になかったともいい切れない。

結局,被害者が包丁を持ち出したかどうかについては,その可能性が大きくないことは確かであるが,それを完全に払拭できないとする原判決の説示が誤りであるとまではいえず,不明というべきである。

(4) 被害者が先に被告人の右下腿部を包丁で突き刺した可能性について

原判決は,①被告人の右手の母指や手掌に刃物によってできた切創があることから,被告人が被害者の持つ刃物を取り上げようとした可能性を完全に否定できず,被害者の利き手である右手に被告人の血液が付着していたことなどを考えると,どのような体勢にあったかは不明であるが,被害者が被告人の右下腿部を包丁で突き刺した可能性を否定できない,②そうすると,被告人に有利にその事実があったものとして検討を要するところ,被告人の右下腿部刺創は,一定程度の強い力で刺されたことにより生じたものと考えられるから,遅くとも被害者の利き腕である右上腕部の哆開創よりも前に生じたと見るのが自然であり,被害者の左胸部や右乳房部の創傷より前に生じたものかどうかは証拠上不明であるが,被告人に有利に考えると,被告人が被害者の左胸部等を突き刺す以前に,被害者が被告人の右下腿部を突き刺したという事態があり得る,とする。

これに対して,検察官の所論は,被告人の右手の母指や手掌の切創は被告人が刃物を持って被害者を攻撃した際に生じたと考えて矛盾はないし,被告人の右下腿部の負傷は,被告人が被害者を攻撃する過程で,勢い余って自傷したか,被害者が抵抗する中で刺さった可能性が強いのであって,被害者が被告人と対面する状況で,あえて被告人の右下腿部を外側から内側に斜め下方向に向けて突き刺すという不自然な態様の先制攻撃をしたとは認め難い,と主張する。

この点を検討すると,まず,被告人の右手の母指や手掌の切創は,軽微であり,その位置に照らしても,被告人が刃物を使用した際に刃の尻が当たるなどして生じたと認め得るが,刃物を取り上げようとした際の防御創などであった可能性も否定できず,成傷原因は不明というべきである。次に,問題となる被告人の下腿部の傷は,右下腿部正中から下方に約10㎝,外側に約4.3㎝の位置にあり,ほぼ水平(下方足関節に向かい,やや斜めの方向)で,長さ約4ないし5㎝,深さ約5ないし7㎝の哆開創である。被害者が先に攻撃する場合に,被告人の身体のこのような部分を狙うというのは,検察官が指摘するように,不自然というべきである。これに対して,原判決は,両者がもみ合う状況であれば,被告人に対面していたとはいえず,体勢は不明であるが,被害者が突き刺した可能性は否定できないと判示し,下腿部の傷は一定程度の強い力で被害者が突き刺したものと認め,これを急迫不正の侵害に当たる事実として認定している。しかし,両者がもみ合う状況になったとしても,誤って刺さったのではなく,原判決が認定するような被害者が素手の被告人に故意に突き刺したという攻撃態様であれば,被告人の下半身,それも右下腿部の外側という部位に創傷を生じさせていることは,かなり不自然である。被告人の右下腿部の創傷が被害者によるものである場合,転倒するなどした被害者が低い体勢から抵抗した際に包丁を振り回すなどして生じさせたと見るのが自然というべきである。

また,前記(1)(2)で認定したように,被告人が被害者に相当強い嫉妬心と敵対心を持った上,強引な態様で室内に立ち入ったのとは異なり,被害者が被告人に面識も敵意も抱いていなかったことは明らかである。被害者が被告人に対して困惑したり恐怖を感じ,包丁を持ち出すなどして,被告人に退去を強く求めた事態は想定できるが,被告人から攻撃を受けていない段階で,被告人の足を包丁で突き刺す先制攻撃に出るというのは,相当に飛躍があり,およそ想定し難い。

さらに,原判決は,被告人の右下腿部刺創について,その深さからすると,一定程度の強い力で刺されたものと考えられるから,遅くとも被害者の利き腕である右上腕部の哆開創よりも前に生じたと見るのが自然であると説示し,被害者が包丁で先に攻撃したことを推認する理由として挙げている。しかし,下腿部のふくらはぎ周辺の部位の組織であれば,強い力で刺さなくても,抵抗して振り回した刃物が刺さっても5㎝以上の深さになり得ると考えられる。仮に利き腕を刺された後であったとしても,それに気付かないまま,その手に刃物を持って反撃することも通常起こり得ると考えられるし,被害者が左手で刃物を手にした場合にそのまま反撃した可能性も否定されない。なお,原判決は,被害者の利き腕である右手に被告人の血液が付着していたことも被害者が包丁で突き刺した理由の一つとして挙げている。しかし,被害者の両手から被害者のDNAと混合DNAが検出されているから(原審検甲12),利き腕とはいえ,被害者の攻撃を右手に限定する根拠は十分でないし,手の血液については,被告人が被害者の首を絞めるため馬乗りになるなどした際に付着した可能性も容易に想定できる。結局,原判決は,被告人の右下腿部刺創と被害者の右上腕部の哆開創の程度と意味などを過大に評価しているというべきである。

このように,原判決の上記説示は,前提部分において誤りがある。さらに,原判決は,被害者の左胸部や右乳房部の哆開創と被告人の右下腿部の刺創の生じた順序は証拠上不明であるが,被告人に有利に考えるとして,被告人が被害者の左胸部等を突き刺す以前に,被害者が被告人の右下腿部を突き刺したという事実を前提にした上で,防衛行為の成否を検討しているが,そのような認定方法が相当でないことは後の6において論ずる。

なお,被害者による先制攻撃があったという弁護人の主張の根拠である被告人供述について,検討しておく。被告人は,原審公判で「携帯電話を取り合い,もみ合いになって,気が付くと,二人とも倒れ込み,自分の足に包丁が刺さっていた。びっくりして包丁を抜き,止血しようとバスタオルで押さえたが,またもみ合いになり,包丁の奪い合いになったが,その後はよく覚えていない。被害者が包丁を持ち出したり,足を刺しにきたところは見ていない。」旨を供述するが,被害者が包丁を取りに行って戻ってくるなどの行動については,気が付いて当然と思われるのに,認識や記憶が欠落しているなど,被告人の供述は非常に曖昧であり,また,上記のような被告人が被害者方に押し入った経過や被告人の負傷状況とも整合性に乏しく,相当に不自然で唐突の感を拭えないものであって,信用することが困難というべきである。

以上によれば,被害者の攻撃は,あったとしても被告人の攻撃を受けた後のものしか想定できず,被害者が先に刃物を用いて被告人を攻撃した事実は認められないというべきである。原判決は,被告人の創傷状況及び被害者に攻撃の動機があるかどうかなどの検討を十分に行うことなく,根拠に乏しい理由付けによって,被害者による先制攻撃の可能性を肯定したものであり,経験則等に照らして明らかに不合理な認定判断を行っているといわなければならない。本件において,急迫不正の侵害が認められないのであるから,被告人の刃物による突き刺し行為については過剰防衛が成立すると判断した原判決には,経験則等に違反した事実誤認があるというべきである。

4  被告人の刺突行為と殺意の有無について

(1) 原判決は,①被害者の右乳房部や右側胸部の哆開創は,いずれも非常に出血が多かったり,臓器を甚大に損傷しているというような状況ではなく,また,②左胸部の哆開創も含めて,凶器が刺入された方向がいずれも異なっており,特に左胸部と右乳房部の哆開創は,体の中心部に刺入されたものではないため,被告人と被害者がもみ合う過程で成傷された可能性があり,右側胸部の哆開創も直接胸部に刺入されたのではなく右上腕を貫通した上であって,被告人が被害者の胸部を狙って刃物で突き刺したと認めることはできないとして,凶器の形状や被害者の胸部の創傷状況から直ちに殺意を有していたと断じることはできない,と判示する。

これに対し,検察官の所論は,各哆開創の刺入方向が異なるのは,被害者が抵抗したり動いていた可能性を示すものであるが,そのような状況下でも身体枢要部である胸部に創傷が集中しており,左胸部と右乳房部の創傷は,被告人が意図的に刃先を被害者の胸部に向けて,力を入れて刺したものであって,鋭利な刃物様の凶器で胸部を深く突き刺している以上,殺意を認めるに十分である,と主張する。

(2) これについて検討すると,被告人は,鋭利な刃物様のものを被害者の右乳房部に約11.5㎝の深さまで刺入させ,右側胸部にも刺入させて肺を損傷し,左胸部にも刺入させている。身体枢要部である胸部付近を中心とする上半身を3回も攻撃し,相当の力を入れて刺したことが推認できる。この刺突行為は,その行為の態様,凶器の形状,創傷の部位及び深さ等に照らし,人を死亡させる危険性が高い行為であることは明らかであり,殺意が優に認定できる。

原判決が殺意を認定できない理由として挙げた事情について見ると,まず①被害者の出血量が相当に多いことは明らかであり,胸部に深く刺入して肺の損傷も伴っている。これについて,F医師の原審証言では,これらが死因でないことが述べられているが,生命に対する危険を否定する趣旨とは考えられない(同証言13頁,38頁)。死因といえないからといって,本件攻撃が胸部を中心とする上半身を狙った刺突であることや死亡させる危険性があったことを否定する事情にはならないというべきである。次に,②胸部等に3箇所ある創傷の刺入方向が異なるのは,被害者の抵抗や逃げようとする行動,更には被告人とのもみ合いがあったためと考えられるが,被害者の創傷は,身体枢要部である胸部付近に集中しており,被告人が上半身を狙わないのにもみ合いの中で偶然に刃物が刺さったものとは考えられない。また,被害者には被告人の刃物による攻撃から身を守ろうとしてできた防御創と考えられる創傷が複数あること(左手背部に長さ6.0㎝,右前腕に長さ3.3㎝,右手掌面に長さ1㎝)に照らすと,被告人が意図的に刃物の刃先を被害者の胸部を中心とする上半身に向けて,繰り返し攻撃を加えたと認められる。そうすると,被告人が被害者の胸部等に向けて刃物を突き刺すなどの攻撃を意図して加えたことは優に認められ,上記のとおり殺意を認定できるというべきである。

また,原判決は,刺突行為時における殺意の有無の検討に当たり,本件凶器の性状や被害者の創傷から直ちに殺意があったと断じることはできないとした上,①被告人が本件凶器を持参したと認めるには合理的な疑いが残ること,②玄関ドアを開けた被害者をいきなり室内に押し込んで襲ったとは認められないこと,③当初から被害者の殺害を企図していたとは認められないことなどを指摘する。しかし,①から③の点が原判決の指摘するとおりであるとしても,これらは刺突行為時に殺意があるという推認を左右する事情とはいえない。

以上のとおり,原判決は,被害者の創傷状況及びそこから推認される被告人の刺突行為の態様の認定を誤り,殺意の推認を妨げる事情もないのに,刺突行為時の殺意が認められないと判断したものであり,経験則等に違反した事実誤認があるというべきである。

5  頸部を絞め付けた行為と殺意の有無について

弁護人の所論は,被告人が被害者の頸部を絞め付けた行為に殺意は認められないと主張するが,その行為自体が強い力で絞め続けたことにより死亡させる危険性が強いものであったことが明らかである。しかも,刺突行為に殺意が認められることは前記のとおりであって,これに続く頸部絞付け行為にも殺意は優に認められる。頸部を絞め付ける行為に殺意を認めた原判決の認定判断は正当であり,是認することができる。弁護人の所論は理由がない。

6  結論

以上検討したところによれば,被害者が先行して刃物で被告人を攻撃した可能性は認められず,被告人の刺突行為と頸部絞付け行為のいずれについても殺意が認められ,被告人には殺人罪が成立する。原判決は,被害者による先制攻撃の可能性と被告人の刺突行為時の殺意について事実を誤認したものであり,この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。原判決には,被害者の右上腕部の負傷と被告人の右下腿部の負傷との先後関係や被害者の胸部の成傷方法など,個々の間接事実の認定に当たって,明らかに証拠評価を誤った経験則違反が見られる上,血液の付着した被告人の靴痕跡が印象された時期などについても,客観的証拠の評価を誤り,これらと整合しない被告人供述の信用性の評価を誤っている。その上で,原判決は,被告人の被害者方への立入りから被告人の刺突行為までの一連の事実経過について,それらの各間接事実等が相互に独立しないで関連している以上,それらを総合して主要事実の存否を認定すべきであるのに,「被告人が靴を脱いで室内に入った可能性を必ずしも否定できない」「被害者が包丁で先制攻撃した可能性は皆無とまではいえない」などとして,個々の間接事実等の認定ごとに被告人に有利に認定した事実判断を重ねていく判断方法を採っていると考えられる。3(4)で指摘したように,原判決は,被告人の右下腿部刺創が被害者の左胸部や右乳房部の創傷より前に生じたものかどうかは証拠上不明であるとしながら,被告人に有利に考えるとして,被害者による先制攻撃があったと認定しているのがその例である。間接事実による総合認定の場面で,「疑わしきは被告人の利益に」の原則の適用方法を誤り,それらの結果として,全体的ないし総合的観点からの考察を欠いた,不合理,不自然な認定につながったということができる。

検察官の事実誤認の論旨は理由があり,原判決には明らかな経験則違反及び論理則違反があるというべきであるから,破棄を免れない。他方,弁護人の事実誤認の論旨は理由がなく,量刑不当の論旨に対しては判断を要しない。

第2自判

そこで,刑訴法397条1項,382条により原判決を破棄し,同法400条ただし書により直ちに当裁判所において自判すべきものと認め,更に次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は,平成20年頃,スナックのホステスとして稼働するうち,客であった男性と知り合い,断続的に交際を継続していたが,平成23年7月20日,同人がホステスであるA(当時27歳)と同伴出勤をしていることを知ったことから,二人が交際しているものと考え,帰宅するAの跡をつけてK市のA方を突き止めた。

そして,被告人は,同月21日未明頃から朝にかけて,前記A方を訪れ,同人方室内において,Aに対し,殺意をもって,刃物様のもので同人の左胸部,右乳房部,右側胸部等を突き刺すなどし,さらに,その頸部をバスタオルで絞め付け,よって,その頃,同所において,同人を頸部圧迫により窒息死させて殺害した。

(証拠の標目)

被告人の原審及び当審の公判供述

証人F,同E,同Gの各原審公判供述

証人C,同Dの各当審公判供述

H(原審検甲59,不同意部分を除く。),I(原審検甲63)の各検察官調書Jの警察官調書(原審検甲69)

検証調書(原審検甲54,96(抄本))

実況見分調書の抄本(原審検甲84)

写真撮影報告書の抄本(原審検甲85)

捜査報告書(原審検甲12,78,79,80,82,86(抄本),98,当審検甲1,11)

なお,犯行時刻について,公訴事実は「未明頃」であるところ,原判決は「午前7時半頃から午前8時半頃」と認定しながら,この時間帯は公訴事実の「未明頃」に含まれると解した上で(12頁),罪となるべき事実において,「未明頃」と認定している。しかし,7月21日の午前7時半以降の時間帯を未明頃に含むと解することは無理がある。被告人は,被害者の利用した運転代行の車を追尾して,午前1時頃に被害者宅を突き止め,午前2時頃まではその付近にいたこと,午前4時17分頃にはN市内にいたこと,そして,午前8時39分頃に被害者方のあるK市内にいたことが認められ,その間の被告人の行動は,被告人の供述によっても不明な部分がある。そうすると,犯行時刻については,「未明頃から朝にかけて」と認定するほかないというべきである。朝にかけての犯行という点は,被告人の供述及び弁護人の主張に沿うから,訴因変更の措置を経なくても防御に支障を来すとは考えられない。また,原判決は,負傷した被告人が長時間これを放置したとは考えられないとして,病院を受診した時刻に近い時間帯を犯行時刻と認定しているが,出血を伴う負傷をしたとはいえ,被告人は殺害に及んだ犯人として実家や病院に行くのを何時間もためらうことは考えられるというべきであり,未明頃の犯行である可能性は否定できない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,その所定刑期の範囲内で被告人を懲役20年に処し,同法21条を適用して原審における未決勾留日数中380日をその刑に算入し,原審における訴訟費用は,刑訴法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

被告人は,交際中の男性が被害者とも交際しているものと考え,被害者を追尾してその自宅を突き止めた後,その当日の未明頃から朝にかけて被害者方を訪れ,被害者が玄関扉を開けると,強引に室内に入り込み,どのようなやり取りがなされたかは不明であるが,殺意をもって刃物様のもので被害者の胸部等を複数回突き刺した上,うつ伏せに倒れた被害者の体に馬乗りになって,頸部にバスタオルを巻き付けて,背後から強い力で絞め続けて絶命させた。方法を変えながら,執拗に攻撃を加えており,態様は残忍で悪質であって,強固な殺意が認められる。被害者は,自宅で休息中に,初対面の被告人から突然の訪問を受けた上,一方的な攻撃を受けて貴重な生命を奪われたものである。被害者は,被告人の交際相手と仕事上の関わりがあったにすぎないし,被害者が先に刃物で攻撃した等の事情も認められないことは前記のとおりであって,被害者に落ち度はないというべきである。

本件犯行に至る経緯を見ると,被告人が交際相手に対して強い執着心を持っていたことが背景にあるが,被告人は,交際相手に対する傷害事件によって,平成21年12月に懲役3年(4年間刑執行猶予)に処せられ,交際相手との関係を清算して二度と接触しないことを誓いながら,その後も断続的に交際を続けた末に,無関係の被害者に向けた本件犯行に及んだものであって,そのような経緯や犯行動機に酌量の余地は乏しい。上記判決から2年足らずでの再犯であり,法無視の態度も著しく,強い非難を免れない。

以上によれば,本件は,同種事案のうちでも重い部類に属するというべきであるが,計画的犯行とは認め難いことなどを考慮すると,無期懲役を選択すべき事案とはいえない。被告人は謝罪の言葉を述べるなどしているが,犯行についての供述内容に照らせば,その反省は真摯なものとは認められないというべきであり,有期懲役の法定刑のうち最上限の刑を科するのが相当である。

(裁判長裁判官 米山正明 裁判官 野路正典 裁判官 船戸宏之)

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