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大阪高等裁判所 平成25年(ネ)2334号 判決 2014年2月27日

主文

1  第1審原告らの控訴に基づき,原判決中,第1審被告に関する部分を次のとおり変更する。

(1)  第1審被告は,第1審原告花子に対し,2992万7947円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(2)  第1審被告は,第1審原告風子に対し,1000万8982円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(3)  第1審被告は,第1審原告月子に対し,1000万8982円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(4)  第1審被告は,第1審原告一郎に対し,1000万8982円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(5)  第1審原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

2  第1審被告の控訴をいずれも棄却する。

3  第1審原告らと第1審被告との間の訴訟の総費用は,これを6分し,その1を第1審原告らの負担とし,その余は第1審被告の負担とする。

4  この判決は,第1項(1)~(4)に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  第1審原告らの控訴の趣旨

(1)  第1審被告は,第1審原告花子に対し,3662万8273円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(2)  第1審被告は,第1審原告風子に対し,1220万9424円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(3)  第1審被告は,第1審原告月子に対し,1220万9424円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(4)  第1審被告は,第1審原告一郎に対し,1220万9424円及びこれに対する平成18年6月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  第1審被告の控訴の趣旨並びに民訴法260条2項に基づく原状回復及び損害賠償の申立ての趣旨

(1)  控訴の趣旨

ア 原判決中,第1審被告敗訴部分を取り消す。

イ 第1審原告らの第1審被告に対する請求をいずれも棄却する。

(2)  民訴法260条2項に基づく原状回復及び損害賠償の申立て

ア 第1審原告花子は,第1審被告に対し,3565万9353円及びこれに対する平成22年4月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

イ 第1審原告風子は,第1審被告に対し,1192万5770円及びこれに対する平成22年4月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

ウ 第1審原告月子は,第1審被告に対し,1192万5770円及びこれに対する平成22年4月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

エ 第1審原告一郎は,第1審被告に対し,1192万5770円及びこれに対する平成22年4月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

1  事案の要旨

(1)  事案の骨子

本件は,亡甲田太郎(以下「太郎」という。)の相続人である第1審原告らにおいて,太郎が鉄道高架下に設置された貸建物内で稼働中,建物内部に吹き付けられたアスベストの粉じんに曝露したため,悪性胸膜中皮腫に罹患し,自殺を余儀なくされたと主張して,①第1審被告に対しては,<ア>民法415条に基づく建物賃貸借契約に付随する建物安全性確保義務違反の債務不履行責任,<イ>民法709条に基づく不法行為責任,<ウ>民法717条1項に基づく工作物責任を選択的に主張し,②D株式会社(以下「D社」という。)に対しては,<ア>民法415条に基づく建物賃貸借契約に付随する建物安全性確保義務違反の債務不履行責任,<イ>民法709条に基づく不法行為責任を選択的に主張して,以下のとおりの損害額及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成18年6月22日から支払済みまで,民法所定の年5分の割合による遅延損害金の連帯支払を求めた事案である。

ア 第1審原告花子につき  3662万8273円

イ 第1審原告風子につき  1220万9424円

ウ 第1審原告月子につき  1220万9424円

エ 第1審原告一郎につき  1220万9424円

(2)  訴訟の経過

ア 原審は,第1審被告に対する請求につき,民法717条1項に基づく責任を認め,以下の金額及びこれに対する付帯請求の限度で認容し,その余は棄却し,第1審原告らのD社に対する請求は全部棄却した。

第1審原告ら及び第1審被告は,いずれも原判決を不服として控訴した。

なお,原判決中,D社に関する部分は第1審原告らの控訴がなく確定した。

(ア) 第1審原告花子につき 2462万3747円

(イ) 第1審原告風子につき  827万4249円

(ウ) 第1審原告月子につき  827万4249円

(エ) 第1審原告一郎につき  827万4249円

イ 差戻前控訴審は,第1審原告らの控訴に基づき,民法717条1項に基づく責任を認め,原判決の第1審原告らの認容額を以下のとおりの金額及び付帯請求に増額変更し,第1審被告の控訴を棄却した。

第1審被告は,差戻前控訴審の判決を不服として,上告及び上告受理申立て並びに民訴法260条2項の裁判を求める申立てをした。なお,第1審原告らは,差戻前控訴審の判決に不服を申し立てなかった。

(ア) 第1審原告花子につき 2992万7947円

(イ) 第1審原告風子につき 1000万8982円

(ウ) 第1審原告月子につき 1000万8982円

(エ) 第1審原告一郎につき 1000万8982円

ウ 上告審は,第1審被告の上告を棄却し,上告受理申立てを受理するとともに,同申立理由書記載の理由中,第1を除く部分を排除する旨の決定をした上,差戻前控訴審の判決中,第1審被告敗訴部分を破棄し,同部分及び民訴法260条2項の裁判を求める申立てにつき,大阪高等裁判所に差し戻す旨の判決を言い渡した。

したがって,差戻後の当審における審判の対象は,上告審で破棄された

第1審被告敗訴部分についての第1審原告らの請求の当否である。

2  前提事実

以下の事実は,当事者間に争いがないか,末尾の括弧内掲記の証拠等によれば,容易に認められる。

(1)  第1審被告及び関連会社

ア 第1審被告は,昭和19年6月1日に設立された,鉄道事業法,軌道法により運輸業を営むことを目的とする資本金927億4137万8229円の株式会社であり,土地建物の売買貸借及び建設請負の事業を行うこともできることとされている(弁論の全趣旨)。

イ D社は,昭和47年12月22日に設立された,建築物及び関連設備に関するメンテナンス業務並びに清掃管理業務等を業とする資本金1億円の株式会社である(弁論の全趣旨)。

ウ E株式会社(以下「E社」という。)は,不動産の売買,貸借,管理等を主たる業とする株式会社であり,第1審被告の子会社であるが,昭和48年3月1日,旧F株式会社(以下「旧F社」という。)等を吸収合併し,商号を新F株式会社(以下「新F社」という。)に変更した(乙11,14の1・2,弁論の全趣旨)。

新F社は,平成14年4月1日,G株式会社に会社分割した上,新F社自体は,同日,第1審被告に吸収合併され(以下,この合併を「本件合併」という。),解散した(乙15)。

(2)  本件建物の建築,形状とアスベスト吹付け材の吹付け

ア E社は,昭和44年12月23日,同社を建築主として,下記建物(以下「本件建物」という。)等の建築の建築確認を申請し,昭和45年1月21日,建築確認がされ,そのころ本件建物が完成した(乙12,弁論の全趣旨)。

丙鉄道B線C駅高架下所在の貸建物区画番号E-4号の建物

イ 本件建物は,未登記建物であるが,昭和46年度から昭和60年度まで,本件建物の固定資産評価証明書には,E社が所有者と記載されている(乙13の1~6)

ウ 本件建物は,丙鉄道B線C駅の高架下に東西に延びる商店街の一角に所在している(争いがない。)。

本件建物は,一辺が約8~9mの方形をしており,室内は高さが約5mである。壁面のうち,天井端から約1.1m~3.2mの幅で,クロシドライト(青石綿)を25%含有する吹付け材が約3㎝の厚さでむき出しのまま施工されていた(甲A4)。

(3)  E社のH文具に対する本件建物の賃貸,D社の賃貸人承継及び合意解約

ア E社は,昭和45年3月2日,株式会社H文具(旧商号は「株式会社I」であったが,昭和56年3月25日に現商号に変更(甲A42)。以下「H文具」という。)に対し,賃貸期間を同年4月1日からとして,本件建物を賃貸した(以下「本件賃貸借契約」という。)。

イ 昭和48年3月1日,前記のとおり,E社は,旧F社等を吸収合併し,商号を新F社に変更した。そのため,同時点で,本件賃貸借契約の貸主は,新F社となった。

ウ 平成14年3月16日,新F社,D社及びH文具は,新F社が同年4月1日付けで,本件賃貸借契約における賃貸人の地位をD社に譲渡し,同日以降,D社がH文具に対し本件建物を賃貸する旨合意した(以下「本件賃貸権譲渡合意」という。)。

エ 平成15年3月31日,D社とH文具は,本件賃貸借契約を合意解約した。

(4)  太郎の本件建物内における稼働と悪性胸膜中皮腫罹患

ア 太郎(昭和8年▲月▲日生)は,昭和45年3月ころから平成14年6月ころまで,H文具の取締役店長として,同社の店舗兼倉庫として使用していた本件建物において勤務していた。

イ 太郎は,平成14年7月3日,J病院において,悪性胸膜中皮腫(上皮型)の確定診断を受けた(甲A23の1・2)。

(5)  太郎の自殺と第1審原告らの相続

ア 太郎は,平成16年▲月▲日,入院先のKセンターにおいて,投身自殺により死亡した(甲A49,甲C27)。

イ 太郎の死亡により,太郎の権利義務一切は,同人の配偶者である第1審原告花子が2分の1,太郎の子である,第1審原告風子,同月子及び同一郎が各6分の1の割合で相続した(甲C27)。

(6)  第1審原告らの本件訴訟提起と本件訴訟の経過及び第1審被告による差戻前控訴審認容額の支払

ア 第1審原告らは,平成18年6月20日,本件訴訟を提起した(顕著な事実)。

イ 原審は,平成21年8月31日,第1審原告らの第1審被告に対する請求を一部認容し,D社に対する請求を全部棄却する旨の判決を言い渡した(顕著な事実)。

ウ 原審判決に対し,第1審原告ら及び第1審被告が控訴したところ(ただし,D社関係は原審で確定),差戻前控訴審は,平成22年3月5日,第1審原告らの第1審被告に対する請求につき,認容額を増額変更する旨の判決を言い渡した(顕著な事実)。

エ 第1審被告は,差戻前控訴審の判決に対し,上告及び上告受理申立てをするとともに,差戻前控訴審の判決に基づく仮執行を免れるため,平成22年4月20日,差戻前控訴審の判決の下記認容額を第1審原告らに支払った(争いがない。)。

(ア) 第1審原告花子に対し,3565万9353円(内訳は,元金2992万7947円,遅延損害金573万1406円)

(イ) 第1審原告風子,同月子及び同一郎に対し,各1192万5770円(内訳は,元金各1000万8982円,遅延損害金各191万6788円)

オ 第1審被告は,平成22年5月6日,上告審に対し,第1審原告らに支払った前項の金員につき,民訴法260条2項の裁判を求める旨の申立てをした(顕著な事実)。

カ 上告審は,平成25年7月12日,差戻前控訴審の判決中,第1審被告敗訴部分を破棄し,同部分及び第1審被告の民訴法260条2項の裁判を求める申立てにつき,大阪高等裁判所に差し戻す旨の判決を言い渡した(顕著な事実)。

3  争点及びこれに関する当事者の主張

(1)  アスベストの危険性に関する知見及びアスベストの規制状況(争点(1))

〔第1審原告ら〕

ア アスベストは,耐摩擦性,耐熱性,断熱・防音・吸音性,耐薬品性等の物質的特性を持ち,また,経済的に安価なものであることから,摩擦材,保温材,耐火・耐熱・吸音・結露防止目的の吹付け材などとして,産業界で幅広く使用されてきた。アスベストは,クリソタイル(白石綿),アモサイト(茶石綿),クロシドライト(青石綿),アンソフィライト,トレモライト及びアクチノライトの6種類に分類され,このうちクリソタイル,アモサイト及びクロシドライト(青石綿)が主として上記の用途に使用されてきた。

イ 他方,アスベストは,非常に細かな繊維状になる性質を有しており,これを人が呼吸をする際に吸引し,呼吸細気管支や肺胞に到達して沈着すると,石綿肺,肺がん,中皮腫,良性石綿胸水,びまん性胸膜肥厚などの疾患を発症させるものであり,人の生命,健康に深刻な被害を及ぼす有害性を持つものである。アスベストの中でも,クロシドライト(青石綿)は,発がん性などの有害性が最も強いものであり,少量の曝露でも致死的疾患である中皮腫を引き起こす危険性がある。

ウ アスベストの危険性(がん原性(肺がん),中皮腫原性)に関する知見及びアスベストの規制状況は,別紙のとおりであり,これによれば,遅くとも昭和46年ころまでには,アスベスト粉じんが人の生命,健康に有害であることは,日本の医学界やアスベスト製造業などのアスベスト関連企業のみならず,アスベスト製品を使用する建築業やアスベスト製品を使用した建築物を取り扱う不動産業などの産業界においても,一般的知見として確立していたということができる。

エ 建物内のアスベストの飛散の危険性

建物内に施工されているアスベスト含有吹付け材は,アスベストをセメントと混合して下地に綿状に吹き付けるという工法により施工されるものであり,そのような工法によるものであることから,経年劣化により,吹付け層の表層部から次第にアスベスト繊維が毛羽立ったり,表層部のアスベスト繊維が崩れたり,垂れ下がりによりほぐれたり,下地と吹付け層の間が浮いたりはがれたり,吹付け層の外面が損傷したりなどして,徐々にアスベスト繊維が空気中に飛散するようになる。さらに,吹付け層が局部的に剝離して落下したり,層自体が下地からはがれたりして,アスベスト粉じんが発生するようになる。

〔第1審被告〕

ア 認否

アは認める。イは不知。ウ及びエは否認する。

イ 反論

第1審原告らが主張するアスベストの危険性に関する知見やアスベストの規制状況は,アスベストの製造や吹付け作業,アスベスト含有物の解体又は焼却作業を行う作業場等における労働者の労働環境に関するものであって,アスベスト含有吹付け材が施工された建物における労働環境や生活環境に関するものではなく,アスベストを含有する一般製品や建物設備の使用の規制,禁止に関するものではない。

第1審原告が別紙の4(2)に挙げるものは,いずれも日本における一般的知見といえるものではない。なお,アスベスト含有建材を使用した建物に対する対策を内容とする最初の規制法令は,平成17年7月1日施行の石綿障害予防規則である。もっとも,同規則は,事業者は,その労働者を就労させる建築物等に吹き付けられた石綿が損傷,劣化等によりその粉じんを発散させ,労働者がその粉じんに曝露するおそれがあるときは,当該吹付け石綿の除去,封じ込め,囲い込み等の措置を講じなければならないとするものであり(10条),事業者の労働者に対する義務を規定するものであって,建物所有者の義務を規定するものではない。

(2)  太郎の悪性胸膜中皮腫の発症原因(争点(2))

〔第1審原告ら〕

ア 本件建物内におけるアスベスト含有吹付け材の状況

本件建物は,1辺が約8,9mの方形をした高さ約5mの部屋である。本件建物の室内壁面のうち天井端から約1.1~3.2mの幅の部分には,クロシドライトを25%含有する吹付け材が約3㎝の厚さでむき出しのまま施工されている(前記前提事実(2)ウ)。

イ 太郎のアスベスト曝露

(ア) H文具は,本件賃貸借契約の締結後,本件建物を1階部分と2階部分とに分け,1階部分を店舗として(以下,同部分を「本件1階店舗」という。),2階部分を文具類の在庫商品を置く倉庫兼帳簿等をつけるための事務所として(以下,同部分を「本件2階倉庫」という。),使用してきた。上記アの吹付け材が施工されている部分は,本件2階倉庫の壁面に当たる。

(イ) 本件建物は,鉄道の高架下にあり,電車が通るたびに振動が生じ,これにより吹付け材の劣化が進み,昭和45年ころから,本件2階倉庫の壁面吹付け材に含有するアスベスト(クロシドライト)繊維が粉じんとなって飛散し(以下,この粉じんを「本件粉じん」という。),本件2階倉庫の商品棚,商品及び床面等に降り積もっていた。

(ウ) 太郎は,昭和45年3月から平成14年6月までの32年間,店長として,毎日,午前8時ころに本件建物に出勤し,午後8時ころに閉店するまで本件建物内で過ごしていたが,このような勤務中に本件2階倉庫に入り,仕事をすることによって本件粉じんに曝露した。曝露の具体的状況は,次のとおりである。

a 1日に5,6回,文具の納入業者が納品した際,本件2階倉庫に商品を搬入した。

b 本件1階店舗に展示していない商品以外の商品の注文を受け,多い日で約50回,少ない日で約2,30回,本件2階倉庫に商品を取りに行った。

c 在庫商品の整理整頓のため,1週間に数回,1回につき約1時間,本件2階倉庫内で作業をした。

d 毎月締めの日の直前には,本件2階倉庫内で伝票の整理等を集中的に行った。

e 平成2年に電気掃除機を購入するまでは,一月に1,2回,2,30分かけて家庭用竹箒を使用して,同年以後は電気掃除機を使用して,本件2階倉庫内を掃除した。

f 年末には数時間かけて本件2階倉庫の大掃除をした。

g 毎年,棚卸しを行うために,本件2階倉庫の在庫商品を確認した。

h 本件2階倉庫内で仮眠をとることがあった。

(エ) 光学顕微鏡による剖検肺を用いた石綿小体の算定を行った結果,太郎の肺には,石綿小体が肺乾燥重量1g当たり平均72本検出された。この数は,一般人の約2倍の検出量である。

電子顕微鏡によるアスベスト繊維の分析の結果,太郎の肺内石綿濃度は,肺乾燥重量1g当たり1900万本であった。これは,職業的石綿曝露がない場合の数値である肺乾燥重量1g当たり183万本の10倍以上の濃度である。そして,上記アスベスト繊維のうち85%がクロシドライト(青石綿)であった。クロシドライトは,通常,大気環境中で検出されることの稀なアスベストであり,太郎の肺内に認められたクロシドライトは,本件2階倉庫の壁面の吹付け材に含まれていたクロシドライト以外に考えられない。

(オ) 特定非営利活動法人Lセンターが平成15年に行った本件2階倉庫における石綿濃度測定では,①H文具における普段の作業と同様の疑似作業をしないときは,幾何平均3.09f/L(最小2.72~最大4.2),②清掃と商品の搬入搬出の疑似作業をしたときは,幾何平均18.8f/L(最小1.02~最大136),③ 商品の搬入搬出の疑似作業をしたときは,幾何平均6.71f/L(最小3.68~最大14)であり,全体の幾何平均は6.71f/L(最小1.02~最大136)であった。また,第1審被告が平成17年11月に本件建物のアスベスト含有吹付け材の撤去工事を行った際に行われた株式会社Mセンターの測定では,220f/Lという数値であった。以上によれば,本件建物におけるアスベスト濃度は,少なくみても平均で6.71f/L程度あったと推認できる。

日本産業衛生学会が示す許容濃度(平成13年)によれば,クロシドライトを含む石綿濃度が3f/Lでは過剰発がんリスクレベルが1万人に1人とされており,本件建物内の上記石綿濃度は,上記数値の2.2倍に当たる。また,世界保健機構は,大気中の石綿濃度が0.5f/Lのときに中皮腫が1万~10万人に1人発生するというリスク評価をしている。

第1審被告が示す石綿濃度の規制値は,現在では採用されていない古い基準値であり,この数値との比較で本件建物内の石綿濃度が低いと主張するのは,失当である。

ウ 太郎の悪性胸膜中皮腫の罹患とその原因

(ア) 太郎は,平成13年11月ころから,次第に咳が酷くなり,寝付けない日が続くようになった。太郎は,平成14年になり,近くの病院で診断を受けた結果,胸水が確認され,同年▲月▲日,N病院に検査入院し,悪性胸膜中皮腫の診断を受け,同年7月,J病院に入院し,同病院において,悪性胸膜中皮腫(上皮型)との確定診断を受けた。

(イ) 悪性胸膜中皮腫は,アスベストの曝露を原因とする特異的な疾患であり,日本では,他の原因はほとんど見当たらない。太郎は,その出生後死亡するまでの住居地において,アスベストの曝露を受けるような環境はなく,H文具の店長として本件建物で働き始めるまでの職歴として,アスベストの曝露を受けるような作業に従事したことはない。

(ウ) 以上によれば,太郎は,本件2階倉庫におけるクロシドライト繊維からなる本件粉じんに曝露したことにより,悪性胸膜中皮腫に罹患したことは明らかである。

一般に,潜伏期間というのは,ある病原体に感染してから症状が発現するまでの期間を指し,病原体の感染は1回的なものである。しかし,アスベスト曝露による中皮腫発症に関して用いられている潜伏期間は,上記の一般的な意味のものではなく,アスベストの曝露開始時(最初のアスベスト曝露)から中皮腫の発症までの期間をいうものであり,中皮腫発症の原因となったアスベスト繊維が体内(肺,胸膜)に取り込まれてから中皮腫が発症するまでの期間をいうものではない。したがって,アスベストに係る潜伏期間というのは,当該期間より前の時点で体内に取り込んだアスベスト繊維のみが中皮腫の発症に関係し,それ以後当該期間中に体内に取り込んだアスベスト繊維が中皮腫発症に関係しないことを意味するものではない。

〔第1審被告〕

ア 認否

アは認める。イは,(ア)は認め,(イ),(ウ)の本文,(エ),(オ)は否認し,(ウ)のa~hは不知。ウは,(ア)のうち太郎が平成14年7月にJ病院において悪性胸膜中皮腫(上皮型)との診断を受けたことは認め,その余の事実は不知であり,(イ)のうち太郎がその出生後死亡するまでの住居地において,アスベストの曝露を受けるような環境がないことは否認し,その余の事実は不知であり,(ウ)は争う。

イ 反論

(ア) アスベスト粉じんの曝露を受けた者が中皮腫を発症するまでには,平均的に42,3年程度の潜伏期間がある。第1審原告らの主張を前提とすれば,太郎は平成14年6月に悪性胸膜中皮腫の確定診断を受けたというのであるから,太郎がその原因となるアスベスト粉じんの曝露を受けた時期は,同年から42,3年遡った昭和35年ころ(本件建物が建築される前の時点)ということになる。そして,同人は,当時,以下のとおり実際にアスベスト曝露を受ける環境に身を置いていたのであるから,太郎の中皮腫罹患は,本件建物以外の場所におけるアスベストの吸引が原因であると考えられる。

なお,アスベストの潜伏期間がアスベストの曝露開始から中皮腫を発症するまでの期間をいうものであるとしても,そのことは,潜伏期間開始時点ころの曝露が当該中皮腫発症の原因であることを否定するものではない。むしろ,統計的にみると,潜伏期間開始時点ころの曝露がその原因である可能性が高いし,逆に,潜伏期間の概念は,曝露開始時点後一定期間を経ての曝露がその原因であることを意味するものではない。アスベストの曝露量と悪性胸膜中皮腫の発症との関係は,ある一定の曝露量を超えれば悪性胸膜中皮腫を発症するというようなものではないのであって,低濃度かつ短期間の曝露でも悪性胸膜中皮腫を発症する可能性がある。

a 太郎は,昭和26年4月から昭和39年4月までO株式会社大阪工場(以下「大阪工場」という。)において金網職工として勤務していたところ,同工場に設置された焼鈍炉にはアスベストが使用されており,太郎は,同工場勤務の期間,アスベスト曝露を受ける環境にあった。

第1審原告らは,太郎の部検肺から検出されたアスベスト繊維のうちクロシドライトが最も多かったことを根拠に太郎の悪性胸膜中皮腫の原因をクロシドライトとするが,前記のとおりアスベスト発症には潜伏期間が存在することからすれば,大阪工場の焼鈍炉に使用されていたアスベストがクリソタイルであったとしても,本件2階倉庫ではなく,大阪工場の焼却炉からの被曝により太郎の悪性胸膜中皮腫が発生した可能性が高い。

b 太郎は,昭和39年5月から昭和41年5月までO株式会社京都工場(以下「京都工場」という。)において金網職工として勤務していたところ,京都工場の内部に吹付けアスベストなどのアスベストが使用されていた可能性があり,前記のとおりアスベスト発症には潜伏期間が存在することからすれば,太郎が京都工場でアスベスト曝露を受け,悪性胸膜中皮腫を発症したことが十分に考えられる。

(イ) 第1審原告らが指摘する本件建物内の石綿濃度の数値は,平成15年当時のものであり,太郎が本件建物で勤務していた期間中の本件建物内の石綿濃度の数値を示すものではない。

なお,D社は,平成15年6月,本件2階倉庫内の石綿濃度の検査を検査会社であるP株式会社に依頼し,その結果,同年7月9日時点における本件2階倉庫内の石綿濃度は0.5f/Lであった。この数値は,商業都市における一般大気環境における石綿濃度とほぼ同じであり,アスベスト関連作業現場等についての規制値として定められている労働省作業環境測定の規制値である管理濃度2000f/L,日本産業衛生学会が示す許容濃度2000f/L,世界保健機構が示す環境保険判定基準10f/Lと比べても大幅に下回る数値である。このような濃度しかない本件2階倉庫において,太郎が中皮腫に罹患するようなアスベスト曝露を受けたとは到底考えられない。

(ウ) 太郎の中皮腫について,Q医師は,その発症リスクは,数万分の1から数十万分の1の一定の幅にあると推定されるとしている。

(3)  第1審被告は,本件建物の占有者又は所有者として,民法717条1項に基づく本件建物の設置又は保存上の瑕疵に係る責任を負担するか(争点(3))

〔第1審原告ら〕

ア 総論

土地の工作物の設置又は保存の瑕疵とは,当該工作物が通常有すべき安全性を欠いていることをいうものであるところ,建築物に吹き付けられた石綿(以下「吹付け石綿」又は「吹付けアスベスト」という。)を含む石綿の粉じんに曝露することによる健康被害の危険性に関する科学的知見及び一般人の認識並びに様々な場面に応じた法令上の規制の在り方を含む行政的な対応等は時と共に変化していることに鑑みると,第1審被告が本件建物の占有者又は所有者として民法717条1項の規定に基づく土地工作物責任を負うのは,人がその中で勤務する本件建物のような建築物の壁面に吹付け石綿が露出していることをもって,当該建築物が通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになった時点からであると解するのが相当である(本件上告審判決参照)。

そして,ここでいう「吹付け石綿を含む石綿の粉じんに曝露することによる健康被害の危険性に関する一般人の認識」とは,ある時期における吹付け石綿を含む石綿の粉じんに曝露することによる健康被害の危険性に関する科学的な知見に基づく一般人の認識であると解し,ある時期の科学的な知見に基づいて一般人が判断しても危険であると認識できない場合に免責されると解すべきである。

仮に,本件上告審判決がいう一般人の認識をもって瑕疵判断の積極的要件であると解しても,それは一般人が科学的知見をもってしても当該損害を生ずる危険性が存在していたとおよそ認識することができなかった場合に瑕疵が否定されるという趣旨であると解すべきである。

なお,行政的な対応は,人の生命・健康よりも利益を優先する産業界の要請等のために有害物の規制に消極的となって遅れることがあるが,その行政対応を工作物所有者・占有者の責任を否定する方向で考慮すると,結果的には産業保護のために被害者を保護しないという結果となるので,行政的な対応の在り方をもって,工作物所有者の責任を減じる方向で解釈されてはならない。

イ 本件建物が通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになった時期

アスベストの危険性に関する知見は,別紙のとおりである。

すなわち,石綿は,当初職業曝露による健康被害が問題とされていたものの,1960年(昭和35年)代から肺がんや中皮腫を引き起こす発がん物質として注目され,遅くとも,太郎が本件建物の使用を始めた昭和45年には,石綿が低濃度・微量の曝露であっても肺がんや中皮腫を引き起こす有害物質として,人の生命・健康に重大な影響を及ぼし,人の生活空間における環境問題となっていることが社会的に明らかになっていた。

昭和45年以降も,微量・低濃度の石綿粉じん曝露により肺がんや中皮腫に罹患することが繰り返し報道され,昭和47年にILOやWHOなどの国際機関で石綿が肺がんや中皮腫を起こすことが公式に確認され,昭和49年には一般書籍において吹付け石綿から発生する石綿粉じんの危険性についても明確に指摘された。米国では,昭和45年以前から問題になっていた石綿吹付け材による室内汚染を防止するために吹付け材の除去工法が確立された。建設省は,昭和48年に,微量・低濃度の石綿粉じん曝露を避けるため,庁舎建物の内部仕上げについて吹付け石綿を取りやめ,労働省は,昭和50年に特化則を改正するとともに,石綿の付着した作業着の持ち帰り等を禁止した。

1970年(昭和45年)代から1980年(昭和55年)代初頭において,微量・低濃度の石綿粉じん曝露でも発がんリスクがあることが繰り返し指摘され,建材である吹付け石綿から飛散する石綿粉じんの危険性も警告されていた。その後,昭和62年には,建物に施工された石綿吹付け材が劣化して石綿粉じんが発生することや健康被害を防止するために除去等の対策が実施されていることが頻繁に報じられ,また,国においても対策を取ることを指導していた。

以上からすると,昭和45年ころ,そうでなくても,昭和50年ころ,あるいは,いかに遅くとも昭和62年ころには,壁の表面から石綿粉じんが発生・飛散し,建物内で活動する人がこれに曝露するような吹付け石綿のある本件建物については,「通常有すべき安全性を欠く」と評価されるようになっていたというべきである。

ウ 本件建物の占有者としての責任

(ア) 民法717条1項にいう「占有者」とは,直接占有者だけに限らず,被害者に対する関係で土地工作物を管理,支配すべき地位にある者もこれに当たると解するのが相当である。そして,被害者に対する関係で土地工作物を管理,支配すべき地位にある者かどうかは,土地工作物に対する関与の権限,態様,瑕疵作出への寄与の有無,程度,瑕疵のある土地工作物の種類,性質,瑕疵による危険性の内容等を勘案し,当該土地工作物の瑕疵による危険を除去し,損害の発生を防止することを期待できる者であるかどうか,及び,被害者との関係で占有者としての責任を負担させるのが相当かどうかという観点から判断すべきである。

第1審被告は,本件建物をH文具に賃貸しているが,以下のa~jの事情からすると,本件建物を管理,支配すべき地位にあった者というべきであり,本件建物に施工されたアスベスト含有吹付け材による危険を除去し,損害の発生を防止することが期待される者であるから,太郎との関係で民法717条1項にいう「占有者」に当たる。

a 本件建物は,鉄道高架下建物という特殊な物件であり,第1審被告の本件建物に対する管理,支配は,一般の建物に対するものより強いものである。

b E社,新F社のほか,第1審被告は,本件建物に随時立ち入り,必要な措置を執る権限を有している。

c 第1審被告は,高架スラブ下の天井の点検口から高架橋検査を行うことを予定している。

d 第1審被告は,本件建物の主体建築物及び基礎的施設の維持管理に必要な修繕義務を負担している。

e 本件2階倉庫の壁面に施工されたアスベスト含有吹付け材は,本件建物の主体構造と一体となっている。

f 本件建物の賃借人が内装工事をする際には,事前に第1審被告に設計図書を提出して同意を受けなければならず,本件建物内の改修並びに造作,間仕切り,電気装置,ガス,水道施設等の新設,変更及び撤去等の現状変更をする際には,事前に第1審被告に設計図書を提出して承諾を得なければならないとされている。

g 第1審被告は,賃貸建物の管理等を業とし,昭和46年以降は,建築士の資格を有する者を擁する建築部(建設部)が鉄道高架下建物の設計,施工監理,改修工事等の業務を行っており,以上の各業務について専門的知識を有する。

h 本件2階倉庫の壁面に施工されたアスベスト含有吹付け材は,第1審被告が注文したものである。

i アスベスト含有吹付け材は,経年劣化や振動,接触等により容易にアスベストが粉じん化し,飛散するものである。

j アスベストの発がん性は,本件賃貸借契約締結以前から繰り返し指摘されていた。

(イ) 本件建物は,店舗として人が日常的に出入りする建物であるところ,本件2階倉庫の壁面に施工されたアスベスト含有吹付け材の劣化に伴い本件粉じんが飛散し,本件建物を使用する人の生命,健康を害する危険を有していた。この点は,本件建物の設置又は保存上の瑕疵に当たる。

エ 本件建物の所有者としての責任

(ア) 本件建物は鉄道の高架下に存在するところ,鉄道の高架自体は第1審被告の所有物であることからすれば,少なくとも本件建物の屋根に当たる部分及びこれを支える部分は第1審被告の所有であり,本件建物の主たる部分は第1審被告の所有である。したがって,本件建物の建設当初より第1審被告が本件建物全体の所有者である。

なお,第1審原告らは,訴訟の当初から,本件建物の建設当時から本件建物の所有者が第1審被告であると主張しており,主張を撤回したことはない。また,当該主張の適否の判断のために新たな立証の機会が必要なものでもない。したがって,第1審原告らの本件建物建設当初から本件建物の所有者が第1審被告であるとの主張は,時機に後れた攻撃防御方法として却下の対象とはならない。

(イ) 仮に,第1審被告が,建設当初よりの本件建物の所有者ではなく,E社が本件建物を建築して所有していたものだとしても,E社は,その後,関連会社等との合併及び商号変更により,新F社となり,更にその後,第1審被告は,本件合併により,新F社の権利義務を包括的に承継して本件建物の所有者となった(以下,第1審原告らが本件建物の所有者に関し「第1審被告」の呼称を用いる際には,1次的には昭和45年当時からの本件建物の所有者との意味で,2次的には本件合併前のE社及び新F社が主体となる事柄に関してそれらの権利義務を包括承継した立場との意味で用いる。)。

(ウ) 本件建物は,店舗として人が日常的に出入りする建物であるところ,本件2階倉庫の壁面に施工されたアスベスト含有吹付け材の劣化に伴い本件粉じんが飛散し,本件建物を使用する人の生命,健康を害する危険を有していた。この点は,本件建物の設置又は保存上の瑕疵に当たる。

(エ) 本件建物の賃借人であるH文具は,文房具の小売りを業とする株式会社であり,建物の建材や部材に関する知識を何ら有しておらず,本件2階倉庫の壁面にアスベスト含有吹付け材が施工されていることも知らなかったから,アスベストの飛散防止措置を執り得なかった。したがって,H文具は,本件建物の占有者(賃借人)として,アスベストに係る瑕疵に関する損害発生を防止するについて必要な注意をすべき義務がないから,同注意をしたときに当たり,民法717条1項ただし書により,同項本文の責任を負わない。

〔第1審被告〕

ア 本件建物が通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになった時期について

昭和45年当時,建物壁面等吹付けアスベストは,建築基準法における指定耐火材であり,その後も昭和62年11月14日まで指定耐火材として認められていた。昭和62年10月ころ,小学校の体育館に吹付けアスベストがあることが問題になったことがあるが,その関心も一部学校関係者間に限定されたものであり,世間一般に吹付けアスベストの危険性が認識されたものではないし,しかもその関心も一時的なものであった。社会資本整備審議会建築分科会「アスベスト対策部会」の平成17年12月の発表でも,その時点で,「建築物に使用されている吹付けアスベストが原因で死亡したケースはこれまで知られていなかった」とされており,健康被害防止を目的とした労働省や日本産業衛生学会の各規制値はいずれも2000f/Lであった。国によるアスベスト製品の製造禁止措置は,平成7年まで取られなかったし,既に存在する建物壁面等の吹付けアスベストに対する対策が国により立てられたのは,平成17年7月1日に施行された石綿障害予防規則が最初である。平成17年10月から11月にかけての国土交通省による吹付けアスベスト等の実態調査によれば,同時点で露出した吹付けアスベスト等がある建築物数及び箇所数は,民間建物で1万2718棟,公共建築物でも6617箇所あり,また吹付けアスベスト等があり,かつ曝露のおそれがある場所を有する施設又は機関数(社会福祉施設及び病院は,飛散防止対策済みの数を含む。)は,社会福祉施設245施設,病院324施設,学校施設等771機関であった。

国土交通省の平成20年6月8日の発表によると,同時点において,吹付けアスベストが露出したままの建物は,全国で1万4832棟あり,うち46%の6826棟は飛散防止の対策が未だ取られていなかった。厚生労働省は,平成21年3月20日,「病院などの建物のアスベスト(石綿)使用実態を追加調査した結果,新たに14病院で石綿が飛散し,曝露のおそれがある場所が見つかった。」と発表した。尼崎市は,同年4月6日,「市営住宅や小学校など市所有の16施設から,国が決めた基準値を超えるアスベスト(石綿)が検出された。」ことを発表した。国土交通省は,同年7月17日,合同庁舎や裁判所など国の施設を対象としたアスベスト(石綿)の使用実態調査結果を発表したが,それによると,同年3月末時点で,石綿の除去や飛散防止対策をしていない建物が113棟あり,そのうち,既に対策を終えたのは5棟,同年度以降の対策予定は45棟で,九段第2合同庁舎本局や大阪高等・地方・簡易裁判所庁舎等残り63棟の対策時期は未定であった。

以上の実態からすれば,我が国において,建物の吹付けアスベストの危険性についての一般的認識がされたのは,どんなに早くても平成17年2月24日の石綿障害予防規則制定日以降であることが明らかである。

したがって,本件建物は,それまでは通常有すべき安全性を欠いていなかった。

イ 本件建物の占有者について

(ア) 民法717条1項の「占有者」は,第1審原告らの主張するような,工作物から生じる危険を支配・管理し,損害の発生を防止し得る地位ではなく,民法180条の「占有」と同じく,「物の所持」という事実関係をいう。

本件建物の(直接)占有者は,H文具であり,仮に本件建物にアスベスト含有吹付け材が施工された壁があることが本件建物の設置又は保存上の瑕疵に当たるとしても,同瑕疵に係る太郎の損害に対する第一次的な責任は,本件建物の賃借人であるH文具において負うものである(民法717条1項本文)。

そして,仮に,平成17年2月以前における「建物吹付けアスベストの危険性についての一般的認識」が認められる場合,本件建物の直接占有者であるH文具も当然その認識があったはずであるから,H文具は占有者としての責任を負うべきである。

(イ) 本件建物において,アスベスト含有吹付け材が施工された壁は,本来天井で覆われたいわゆる屋根裏の部分にあったものであり,同部分に人が出入りする構造になっていなかったところ,H文具は,当該壁がある場所に2階部分を作り,同部分を倉庫として使用していたのであるから,H文具自身が,太郎が本件粉じんの曝露を受けないようにアスベスト含有吹付け材を除去,封じ込み,囲い込みするなどの対策を執るべきであった。本件建物の所有者であった第1審被告が損害賠償責任を負うのは,占有者であるH文具が損害の発生を防止するのに必要な注意をしたことが立証されたときであるところ(同項ただし書),H文具は上記の注意をしていない。

(ウ) 仮に土地工作物を管理,支配すべき地位にある者も民法717条1項にいう「占有者」に含むとしても,それは土地工作物が危険なものであり,かつ,そのことが事前に明らかな場合に限定されるべきであるところ,本件建物の危険性は事前に明らかでなかったから,第1審被告は占有者に当たらない。

第1審被告は本件建物の賃貸人にすぎず,本件建物は賃借人であるH文具に引き渡され,第1審被告は本件建物の合鍵すら持たず,本件建物を常時管理できる状態ではなかったのに対し,H文具は独占的,排他的に本件建物を占有していたものである。また,本件建物はいわゆるスケルトン貸しであり,店舗の内装は本件建物の賃借人の責任に属するところ,本件建物につき,2階を造り,倉庫として使用することは,すべてH文具の都合と責任において行われた。したがって,第1審被告は本件建物を管理,支配すべき地位にある者ではなかった。第1審原告主張の上記ウ(ア)のa~jの事由は,第1審被告が,太郎に対する関係で本件建物を管理,支配すべき地位を根拠づけるものではなく,第1審被告は,一般の賃貸人が有する権限以上の権限を有する賃貸人ではないから,太郎との関係で本件建物を管理,支配すべき地位に立つ者ではない。

本件のような場合にまで建物を所有し,賃貸する者を土地工作物を管理支配すべき者として民法717条1項にいう「占有者」に当たるとすれば,民法717条1項ただし書の適用範囲はほとんどなくなるのであって,民法717条1項の立法趣旨に反するというべきである。

ウ 本件建物の所有者について

(ア) 第1審原告らの本件建物建設当初から第1審被告が本件建物の所有者であったとの主張は,原審第12回口頭弁論期日において確定した争点整理案に反するものであり,従前第1審原告らが自白した事実を撤回するものであって,第1審被告は当該自白の撤回に異議がある。仮に裁判上の自白に当たらないとしても,時機に後れた攻撃防御方法に当たる。

(イ) 第1審被告は,本件建物の所有者の承継人にすぎないところ,上記イで主張したとおり,第1審被告は本件建物の占有者に当たらず,また占有者であるH文具において民法717条1項ただし書の「必要な注意」を尽くしていないので,第1審被告が本件建物の所有者として,民法717条1項の責任を負うことはない。

(4)  第1審被告は,本件建物の所有者として,本件建物の安全性確保義務を負担し,同義務違反として民法709条の責任を負うか(争点(4))

〔第1審原告ら〕

ア 第1審被告の建物所有者としての本件建物の安全性確保義務

(ア) 建物所有者は,その所有建物について人の生命,健康を害する危険が生じた場合には,自らその危険を除去するか,当該建物使用者に対してその旨警告し,安全対策を執らせる注意義務がある。当該建物が分譲用建物や賃貸用建物であり,その所有者が建物の売買,賃貸を業とする者である場合には,上記注意義務はより高度なものが要求されるというべきである。

(イ) 本件建物の所有者

a 上記(3)エ(ア)で主張したとおり,本件建物の建設当初より第1審被告が本件建物全体の所有者である。

b 仮に,第1審被告が,建設当初よりの本件建物の所有者ではなく,E社が本件建物を建築して所有していたものだとしても,上記(3)エ(イ)で主張したとおり,新F社の権利義務を包括的に承継して本件建物の所有者となった。

(ウ) 本件建物は,人の生命,健康に有害な物質であるアスベスト含有吹付け材が施工されていた建物であり,かつ,賃貸用建物であるから,建物賃貸を業とする第1審被告は,本件建物所有者として,本件建物の安全性を確保する注意義務があり,その程度は高度なものである。

イ 第1審被告の建物所有者としての本件建物の安全性確保義務違反

(ア) 上記(1)の「アスベストの危険性に関する知見及びアスベストの規制状況」並びに下記a及びbの事情に照らすと,第1審被告は,昭和46年時点で,本件建物内に施工されているアスベスト含有吹付け材の有害性,危険性を認識し又は認識し得た。

a 昭和46年4月28日に公布された特定化学物質等障害予防規則(労働省令第11号。以下「旧特化則」という。)は,その規制対象とする化学物質等を分類した上で,これらの化学物質等を扱う事業者に対し,化学物質等による労働者の健康障害を予防するため,使用する物質の毒性の確認,作業方法の確立,関係施設の改善,作業環境の整備,健康管理の徹底その他必要な措置を講ずるよう努めること(1条),石綿を含む第二類物質の粉じん等が発生する屋内作業場における局所排気装置の設置(5条),除じん装置の設置(9条),設備の改善等に関する措置(22条),呼吸用保護具の備え付け(43条)など,執るべき措置を定めている。昭和47年に発行された労働省安全衛生部労働衛生課編の旧特化則の解説には,石綿が中皮腫を引き起こすこと,石綿が保温剤,ブレーキライニング,トムレックスなどに使用されていることが記載されている。

b 第1審被告は,昭和46年当時,鉄道事業及び自動車事業において,旧特化則5条の適用を受ける石綿粉じんが発生する屋内作業場を有する事業者であった。

E社及び新F社は,第1審被告の支配下にあった法人であり,それらの間において,役員を兼任する者がおり,情報も共有化されていた。

(イ) 第1審被告は,本件建物の建築を発注した者であることからすると,本件賃貸借契約が締結された後である昭和46年ころ又は遅くともH文具に本件建物の隣接建物を貸し増しした昭和55年ころには,本件建物内にアスベスト含有吹付け材が施工されていること及びそれが施工されている本件2階倉庫内で発生する本件粉じんが本件建物を使用する人の生命,健康に有害なものであることを知り又は知り得た。したがって,第1審被告は,昭和46年又は昭和55年ころにおいて,本件建物内における本件粉じんの飛散を防止するため,本件2階倉庫内のアスベスト含有吹付け材が施工されていた壁面を非石綿建材で覆って囲い込むなどの措置を執るべき注意義務があった。

なお,上記認識の程度については,被害法益が人の生命,健康という代え難いものであるときは,その被害法益の重大性にかんがみ,安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危惧であれば足り,必ずしも生命,健康に対する悪影響の内容,程度,発症頻度について具体的に認識する必要はない。また,アスベストが人の生命,健康に与える重大な危険性にかんがみても,このような危険な物質が上記(2)の第1審原告らの主張アのとおり,壁面にむき出しのままの状態で存在していた本件建物の所有者である第1審被告が認識すべき事柄は,アスベストの安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危惧であれば足り,必ずしも生命,健康に対する悪影響の内容,程度,発症頻度について具体的に認識する必要はないというべきである。

(ウ) また,仮に第1審被告が上記(イ)の措置を執ることが不可能であったとしても,第1審被告は,昭和45年4月から平成14年6月までの間,本件建物を賃借して使用していたH文具に対し,本件建物にアスベスト含有吹付け材が施工されており,アスベストが飛散するおそれのあることを伝えた上で,本件建物を使用するH文具の従業員等が本件粉じんの曝露を受けないように対策を執るよう警告すべき注意義務があった。

しかし,第1審被告は,上記の措置及び警告のいずれもしなかった。この不作為は,昭和45年4月から平成14年6月までの間本件建物を使用していた太郎に対する不法行為となる。

〔第1審被告〕

ア 認否

ア(イ)bは認めるが,その余は否認する。

イ 反論

(ア) 第1審原告らが主張する第1審被告の「安全性確保義務」なるものは,第1審被告と太郎との間において何らの法律関係もない場面(第1審被告が本件建物の所有者であるだけ)では発生する根拠のないものである。したがって,第1審被告は,第1審原告らが主張する一般的,抽象的な危惧感を前提とした作為義務を負わない。

そもそも,吹付けアスベストの危険性についての一般的知見や本件2階倉庫の吹付けアスベスト被害の予見可能性に関する第1審原告らの主張は,本件の場合,E社,新F社及び第1審被告が,本件2階倉庫の壁面防火材として吹付けアスベストが使用されていることを認識していたことが前提となる。この前提を欠く上記主張は論理的に意味がない。

(イ) 前記(1)イで主張したとおり,第1審原告らが主張するアスベストの危険性に関する知見やアスベストの規制状況は,アスベストの製造業や取扱業における労働者の労働環境に関するものであり,アスベスト含有吹付け材が施工された建物における労働環境や生活環境に関するものではない。旧特化則は,事業場での生産活動に起因する公害問題,事業場内の労働者の健康を守るだけでなく,その結果として公害防止に寄与する方針の下に,制定,施行されたのであり,事業場での生産活動に起因する公害問題を対象としているものである。したがって,事業場での生産活動に起因しない本件2階倉庫におけるような一般建物のアスベスト含有吹付け材及び同材が施工されている建物での業務を規制対象とするものではない。

第1審被告は,アスベスト関連製品の製造業者でも,その取扱業者でもなく,本件建物に関しては,アスベスト製品の利用者,消費者にすぎず,アスベスト粉じんが人の生命,健康を害するか否かに関する知見も一般人と同程度にしか有していなかった。第1審被告が,建物内のアスベスト含有吹付け材の損傷や劣化等によって人体に中皮腫等の健康被害が生じる可能性があることを具体的に認識したのは,平成17年2月24日に石綿障害予防規則が制定されたころである。

また,第1審被告は,本件建物を建築するに際し,建築業者に対し,壁面にアスベスト含有吹付け材を使用することを指定したこともなければ,本件建物にアスベスト含有吹付け材が施工されていることも知らなかった。第1審被告は,本件建物内にアスベスト含有吹付け材が施工されていることについては,平成15年6月ころ,本件建物の賃貸人の地位を新F社から承継したD社から聞いて初めて知った。

したがって,国が使用を許可している建材を使用して建築された建物の所有者に対し,建材の危険性について,国が対策を指示する以前に知り,かつ,その対策を執ることを期待することは困難であり,もとより,アスベスト専門業者でもアスベスト取扱業者でもない建物所有者が,その危険性を調査,研究すべき義務もない。第1審被告は,太郎が本件建物で勤務していた期間中には,本件建物内にアスベスト含有吹付け材が存在していたこと及びその危険性をいずれも知り得なかったから,結果回避義務の前提となる予見可能性がなく,第1審原告らの不法行為の主張は,前提を欠き,失当である。

(5)  第1審被告は,賃貸人として,本件建物の賃借人の役員又は従業員に対する安全性確保義務を負担し,同義務違反として民法415条又は民法709条の責任を負担するか(争点(5))

〔第1審原告ら〕

ア 第1審被告の賃貸人としての本件建物の安全性確保義務

建物の賃貸人は,賃貸借契約に付随する義務又は信義則上の義務として,賃借人に対し,賃貸建物及びこれに設けられている建物設備に起因して賃借人の生命,健康を害する危険が生じないようにすべき注意義務(安全性確保義務)を負う。

本件賃貸借契約は,第1審被告と法人であるH文具との間で締結されていたものであるところ,このように賃借人が法人である場合においては,賃貸人は現実に賃貸建物を使用するのは自然人である当該法人の役員や従業員であることを当然知っているし,賃貸建物が危険なものであることによって生命,健康が侵害されるのは当該法人ではなく,当該法人の役員や従業員であるから,賃貸人が上記安全性確保義務を負う相手方は,賃貸建物を使用する賃借人の役員や従業員である。

本件建物は,人の生命,健康に有害なアスベスト含有吹付け材が施工されていた建物であるから,第1審被告は,本件賃貸借契約における賃貸人として,本件建物の賃貸借上の使用者である太郎に対し,本件建物の安全性を確保する義務がある。

イ 第1審被告の賃貸人としての本件建物の安全性確保義務違反第1審被告は,H文具に対し,同社が本件建物を店舗兼倉庫として使用することを承知して,本件建物を賃貸した。また,第1審被告は,H文具が家族経営の個人商店であり,同社の取締役であった太郎が本件建物において販売業務を行っていたことを認識していた。したがって,第1審被告は,本件賃貸借契約締結時において,太郎が本件建物内で継続的に勤務することを認識していた。

また,上記(4)イ(ア)のとおり,第1審被告は,遅くとも本件賃貸借契約が締結された後である昭和46年ころには,本件2階倉庫内で発生する本件粉じんが本件建物を使用する人の生命,健康に有害なものであることを知り又は知り得た。したがって,第1審被告は,同年ころにおいて,太郎に対し,上記アの安全性確保義務として,本件2階倉庫内における本件粉じんの飛散を防止するため,アスベスト含有吹付け材のある壁面を非石綿建材で覆って囲い込むなどの措置を執るべき義務があった。

しかし,第1審被告は,上記措置を執らなかった。この不作為は,昭和45年3月から平成14年6月までの太郎に対する本件賃貸借契約に基づく債務不履行又は不法行為となる。

〔第1審被告〕

ア 認否

否認する。

イ 反論

(ア) 新F社,D社及びH文具は,平成14年3月16日,本件賃貸借契約における賃貸人の地位及びH文具に対する一切の権利義務を同年4月1日以降D社に譲渡することを合意した(本件賃貸権譲渡合意)。したがって,第1審被告は,本件合併の前後を通じて,本件賃貸借契約における賃貸人としての責任を負う者ではない。

(イ) 本件賃貸借契約は,法人間で締結されたものであり,賃貸人において,賃借人(法人)の生命,健康に対する危険を防止すべき義務は存在し得ない。

また,本件賃貸借契約に基づく賃貸人の義務は,賃借人であるH文具に対して負うのであり,契約関係がなく,指揮監督の及ばない賃借人の従業員等やその他の第三者である賃貸建物の利用者に対して負う理由はない。

(ウ) 第1審被告は,平成15年6月までの間,本件建物の建材にアスベストが含有されていることを知らなかったし,平成17年に石綿障害予防規則が制定施行されるまで,アスベスト含有吹付け材の危険性も知らなかった。したがって,仮に賃貸人が第1審原告ら主張の安全性確保義務を負うとする見解に立っても,本件においては,第1審被告が太郎に対する具体的な義務としての安全性確保義務を負う前提を欠く。

(6)  第1審被告の争点(3)~(5)の義務違反等と太郎の死亡との間の相当因果関係の有無(争点(6))

〔第1審原告ら〕

ア 第1審被告の責任期間内の太郎の石綿粉じん曝露と太郎の悪性胸膜中皮腫発症との間の相当因果関係について

(ア) 上記(2)で主張したとおり,太郎の悪性胸膜中皮腫の発症原因は本件2階倉庫において本件粉じんに曝露したことにあり,また第1審被告は昭和46年ころからその責任を負うべき立場にある。

したがって,太郎の石綿粉じん曝露と,太郎の悪性胸膜中皮腫発症との間には当然に相当因果関係がある。

(イ) 仮に,第1審被告の責任期間が昭和62年以降であるとしても,中皮腫の発症には,最初の曝露から発病までの全ての期間の石綿曝露が寄与していると考えるべきであるから,太郎の中皮腫の発症には昭和62年以降の石綿曝露が寄与しているとみるのが相当である。

すなわち,前記(2)ウ(ウ)で主張したとおり,初期における曝露によっては中皮腫発症の原因が形成されず,その後の曝露によって中皮腫発症の原因が形成された場合であっても,石綿曝露による中皮腫発症の潜伏期間は最初の曝露から発症までの期間をいうものであって,中皮腫発症の原因が形成されたときから中皮腫発症の日までの期間を指すものではない。したがって,一番最初の石綿曝露時に吸引した石綿繊維が中皮腫発症の原因になったかどうかは不明であり,最終の石綿曝露が原因となっている可能性もある。このように,中皮腫の発症機序は不明であるが,累積曝露量が多いほど発症しやすいという量-反応関係があることからすれば,最初の曝露から発病までの全ての期間の曝露が中皮腫の発症に寄与していると考えるのが相当である。そして,太郎の場合も,昭和62年以降においても約15年間の石綿曝露を受けたのであり,これが太郎の中皮腫の発症に寄与していないとは到底いえない。

したがって,太郎の昭和62年以降の石綿曝露と中皮腫発症との間にも相当因果関係が存在することは明らかである。

イ 太郎の悪性胸膜中皮腫発症と太郎の死亡との間の相当因果関係について

(ア) 太郎は,平成16年7月8日,悪性胸膜中皮腫の症状が急激に悪化したため,救急車でKセンターに搬送され,緊急入院した。太郎は,当時の担当医師に対し,呼吸困難の苦痛を訴え,従来から行われていた左肺側からの胸水排出だけでなく,右肺側からの排出をするよう強く求めた。しかし,同医師は,同月20日,太郎に対し,衰弱が激しくリスクが大きいため不可能であると説明した。太郎は,同日,呼吸困難による激しい苦痛及びそれから逃れるすべがないことに絶望し,上記センターの最上階から飛び降りて自殺した。

(イ) 太郎は,悪性胸膜中皮腫による激しい胸痛,胸水の増加による慢性的な呼吸困難に苛まれ,医療機関への入通院を繰り返して各種の治療を受けたが改善せず,重度の精神的心理的ストレスにより適応障害を発病した。適応障害を発症した者は,主観的な苦痛,情緒障害により,抑うつ気分,不安,心配,現状の中ではやっていけないという感じ等の症状が出て,自殺念慮を抱きやすく,がん患者の自殺の研究では,その半数が適応障害などの抑うつ症状を有しているとの報告がある。太郎は,以上のように,悪性胸膜中皮腫による重度のストレスから適応障害を発病し,これにより自殺するに至ったものである。

仮に第1審被告が太郎の自殺について予見可能性がなかったとしても,中皮腫の予後は極めて不良であって,中皮腫に罹患した後の平均的な生存期間は21.3月といわれている。太郎は遅くとも平成14年6月には中皮腫に罹患していたことからすると,太郎が自殺行為をとらなくても,太郎は平成16年▲月▲日からほどないころに中皮腫により死亡するに至ったことが明らかである。

(ウ) したがって,太郎が第1審被告の上記義務違反により悪性胸膜中皮腫に罹患したことと太郎が死亡したこととの間には相当因果関係がある。

〔第1審被告〕

ア 認否

太郎の死亡日,その死亡が自殺によるものであることは認め,太郎の受診等の内容,経緯,自殺の態様は知らず,第1審被告の責任期間内の太郎の石綿粉じん曝露と太郎の悪性胸膜中皮腫発症との間,太郎が中皮腫に罹患したことと太郎が死亡したことの間にそれぞれ相当因果関係があることは否認する。

イ 反論

(ア) 第1審被告の責任期間内の太郎の石綿粉じん曝露と太郎の悪性胸膜中皮腫発症との間の相当因果関係について

アスベスト粉じんの曝露を受けた者が中皮腫を発症するまでには,42,3年程度の潜伏期間がある。第1審原告らの主張を前提とすれば,太郎は平成14年6月に悪性胸膜中皮腫の確定診断を受けたというのであるから,太郎がその原因となるアスベスト粉じんの曝露を受けた時期は,本件建物が建築された日より前の昭和35年ころということになる。そうすると,太郎の中皮腫罹患は,上記(2)の第1審被告の主張イ(ア)のとおり,本件建物以外の場所におけるアスベストの吸引が原因であると考えられる。したがって,第1審原告らの主張する第1審被告の注意義務違反等と太郎の中皮腫罹患との間に相当因果関係はない。なお,仮に太郎の中皮腫罹患が本件2階倉庫内における本件粉じんの吸引と関連性がある(吸引が中皮腫罹患の一因となっている)としても,中皮腫が発症するまでの潜伏期間を考慮すれば,太郎の中皮腫は,本件建物において業務に従事する前に曝露を受けたアスベストにより発症したものであるといえ,また,本件建物壁面に使用された吹付け材のアスベストにより中皮腫に罹患する確率は十万から数十万分の1であるから,本件2階倉庫内における本件粉じんの吸引に係る第1審被告の注意義務違反(ただし,第1審被告は,同義務違反を争うものである。)等と太郎の中皮腫罹患との間には相当因果関係がないというべきである。

また,石綿の曝露開始時期から中皮腫発症までには,平均36.9年の長期間の潜伏期間があるとされることからして,少なくとも昭和45年4月から昭和62年までの石綿曝露がなければ,太郎の中皮腫発症はなかったといえるから,昭和62年からの石綿曝露だけでは,太郎の中皮腫発症との間に相当因果関係はない。

(イ) 太郎の悪性胸膜中皮腫発症と太郎の死亡との間の相当因果関係について

仮に第1審原告らが主張する第1審被告の注意義務違反等と太郎の中皮腫罹患との間に相当因果関係があるとしても,太郎の死亡は,太郎自身の個人的資質(素因)により自殺をしたことによるものであるところ,自殺をする原因には様々なものがあり,中皮腫に罹患した者が必ず自殺するとは限らないし,また,がん患者の自殺率は0.2%にすぎないことからすると,中皮腫に罹患した者が自殺をする蓋然性が高いということもできない。したがって,第1審被告は,太郎が自殺をすることについて予見することも結果を回避することもできない立場にあったことが明らかである。そして,太郎は,中皮腫により死亡したのではなく,自殺という太郎自身の行為によって死亡したのであるから,太郎の中皮腫罹患とその死亡との間に相当因果関係はない。

(7)  太郎の被った損害及び損害額と第1審原告らの相続,弁護士費用(争点(7))

〔第1審原告ら〕

ア 太郎の治療経緯

太郎は,悪性胸膜中皮腫に関して,以下のとおり,入通院した。

(ア) N総合病院

平成14年6月6日通院。

同月10日から同月21日まで検査入院。

(イ) J病院

平成14年6月21日通院。

同年7月1日から同年9月3日まで検査,治療のために入院。

(ウ) R診療所

平成14年7月26日から同年11月14日までの間に6日間通院。

(エ) S病院

平成14年10月26日から平成16年2月29日までの間,断続的に通院。

(オ) T病院

平成14年9月14日に通院(PET検査)。

(カ) Uクリニック

平成14年11月20日から同年12月4日までの間に3日間通院。

(キ) V病院

平成15年11月4日から平成16年2月19日までの間に5日間通院。

(ク) J病院

平成15年11月28日から同年12月5日までの間(右脇腹腫瘍摘出)及び平成16年1月14日から同月27日までの間(抗がん剤治療)の合計22日入院。

(ケ) Kセンター

平成16年2月9日から同年4月12日までの間に6日間通院。

同月19日から同年6月28日まで入院。

同月30日から同年7月8日までの間に4日間通院。

同日から同月20日まで入院。

(コ) Wクリニック

平成16年2月27日から同年4月17日までの間に8日間通院。

(サ) Xクリニック

平成16年5月17日から同年7月15日までの間に6日間通院。

(シ) その他

太郎は,免疫能力を強化するため,AHCフィトイムノ,D-12,アポイダン,サメ軟骨等の健康補助食品を摂取した。

イ 太郎の損害額(ただし,内金請求)

(ア) 積極損害              合計746万9272円

a 治療関係費             小計643万9329円

N総合病院                16万9730円

J病院                  84万1740円

R                    36万3620円

S病院                  89万2530円

同(Y薬局)                35万8710円

T病院                  18万9910円

Uクリニック               12万6000円

V病院                   2万2300円

Kセンター                24万5815円

Wクリニック              148万1370円

Xクリニック              122万5216円

健康補助食品(Z興産)          11万4009円

同(l薬局)               85万9450円

同(m商会)               38万4079円

高額医療費返還分            -83万5150円

b 通院付添費及び自宅付添費         23万7000円

太郎は,Kセンターで胸水コントロールの治療を開始した平成16年2月9日以降,入院期間を除く日(合計79日間)は終日,家族の付添いを要した。

3,000×79=237,000

c 入院雑費                 23万7900円

1,300円×入院実日数183日=237,900円

d 通院交通費等               45万4518円

Kセンター(駐車場代)             3000円

Wクリニック(新幹線代)         26万6000円

同(レンタカー代)               6993円

同(宿泊代)                8万7155円

S病院,Kセンター,J病院(高速代)7万6620円

Xクリニック(タクシー代)         1万4750円

e 器具購入費                10万0525円

身体の苦痛緩和のための温灸器及びもぐさ   8万9145円

介護用ベッド                1万1380円

(イ)  消極損害             合計2378万7361円

a 休業損害                815万3589円

太郎は,平成14年▲月▲日にN総合病院に入院してから死亡するまでの771日間,悪性胸膜中皮腫により稼働できなかった。太郎の平成13年の年収は386万円であったから,上記の間の休業損害は,3,860,000×(771÷365)=8,153,589(円未満切り捨て)となる。

b 死亡による逸失利益          1563万3772円

太郎は,死亡時満70歳であり,その平均余命14年の2分の1の7年間は就労することが可能であった。上記aの年収を基に,生活費控除を30%として,上記就労可能期間(ライプニッツ係数5.786)における逸失利益を算出すると,3,860,000×(1-0.3)×5.786=15,633,772円となる。

(ウ)  精神的損害                合計3191万円

a 入通院慰謝料                  391万円

上記アの入院6か月,通院19か月に対する慰謝料の額は,391万円が相当である。

b 死亡慰謝料                  2800万円

(エ)  葬儀関係費用              354万7563円

(オ)  弁護士費用                   666万円第1審原告花子につき315万円,同風子及び同月子につき各105万円,同一郎につき141万円

ウ 第1審原告らは,太郎の損害に係る賠償請求権をそれぞれ法定相続分(第1審原告花子は2分の1,その余の第1審原告らは各6分の1)に従って相続した。

エ 以上によれば,第1審原告花子の請求額は3662万8273円,その余の第1審原告らの請求額は各1220万9424円(円未満切り捨て)となる。

〔第1審被告〕

第1審原告らの損害額の主張は争う。

(8) 過失相殺,損益相殺の主張の当否(争点(8))

〔第1審被告〕

ア 過失相殺

(ア)  太郎の直接の死因は自殺である。そして,我が国のがん患者の自殺率は0.2%であり,終末期のがん患者の適応障害有病率は8%にとどまる。したがって,仮に請求原因事実が認められるとしても,第1審被告が補填すべき損害額は相当程度減額されるべきである。

(イ)  H文具が本件2階倉庫を造ったこと(2階部分を造らない場合は天井が設けられ,アスベスト粉じんは降下しない。)及び本件建物の利用状況に照らすと,第1審被告が補填すべき損害額は相当程度減額されるべきである。

イ 損益相殺

第1審原告花子は,太郎の死亡後,独立行政法人環境再生保全機構に対し,石綿による健康被害の救済に関する法律に基づき,太郎の死亡に関する救済給付申請を行い,平成19年8月29日,太郎の死亡について石綿起因性が認められて,特別遺族弔慰金280万円及び特別葬祭料19万9000円,以上合計299万9000円の支給決定がされ,同額の支給を受けている。この支給額は,損益相殺の対象となるものである。

〔第1審原告ら〕

ア 過失相殺について

(ア)  太郎が自殺によって死亡したことを過失相殺で斟酌すべきではない。

悪性胸膜中皮腫の平均生存期間は発病後21.3か月で,太郎の確定診断から死亡まで25か月経過しており,死亡当日主治医が第1審原告花子に余命4,5日と告げたのであるから,自殺がなくとも近日中に死亡したことが明らかである。悪性胸膜中皮腫の進行度・症状からみて,太郎の自殺による死亡は,本件の加害行為から通常発生する程度・範囲にとどまり,性格などの心因的要素等中皮腫以外の要因の寄与も認められない。第1審被告が主張するがん患者の自殺率(0.2%)は中皮腫患者のデータではない。

(イ)  本件2階倉庫部分の設置や使用方法を過失相殺で斟酌すべきではない。H文具が2階倉庫部分を設けなければ,1階までアスベスト粉じんが落ちてくることになるから,上記部分設置により中皮腫発症の可能性が増大したとはいえない。また,文具を置いていただけの建物での作業で粉じん対策を執ることは通常ない。

イ 損益相殺について

第1審原告花子が第1審被告主張の金員の支給を受けたことは認めるが,これが損益相殺の対象となるものであることは争う。

第3当裁判所の判断

1  アスベストの危険性に関する知見及びアスベストの規制状況(争点(1))について

(1)  認定事実

証拠(認定に用いた証拠は,各文末尾に記載する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア アスベストの性質等

(ア) アスベストは,耐摩擦性,耐熱性,断熱・防音・吸音性,耐薬品性等の物質的特性を持ち,また,経済的に安価なものであることから,摩擦材,保温材,耐火・耐熱・吸音・結露防止目的の吹付け材などとして,産業界に幅広く使用されてきた。アスベストは,クリソタイル(白石綿),アモサイト(茶石綿),クロシドライト(青石綿),アンソフィライト,トレモライト及びアクチノライトの6種類に分類され,このうちクリソタイル,アモサイト及びクロシドライトが主として上記の用途に使用されてきた。(以上,争いがない。)

(イ)a アスベストは,縦に裂ける傾向があり,次々と細かい繊維となっていく(甲B1・18頁)。アスベスト繊維は,細いものは直径0.02~0.06ミクロン程度の太さのものであり(甲B1・22頁),人が呼吸をする際に鼻,気管,気管支の繊毛を通り抜けて呼吸細気管支や肺胞に到達,沈着し,石綿肺,アスベストによる肺がん,中皮腫等の石綿関連疾患を引き起こす(甲B1・18頁,105頁)。アスベストの中でもクロシドライト(青石綿)は,発がん性などの有害性が最も強いものである(甲B1・15頁)。

b アスベスト曝露を受けた者には,胸膜肥厚斑(プラーク又は限局性胸膜肥厚と呼ばれる胸膜の病変(甲B1・61頁))及び石綿小体(肺内に吸入された石綿繊維がマクロファージの作用で亜鈴のような形を形成したもの(甲B1・80頁))という重要な医学的所見が認められる(甲B1・序)。

アスベスト関連疾患は,アスベストを吸入することによって生じる疾患であり,石綿肺(呼吸細気管支や肺胞に繊維化が生じ,更に進行すると,蜂窩肺の所見を示す疾患(甲B1・237頁)),肺がん(アスベスト繊維が原因となって発生した肺がん),中皮腫(正常で中皮細胞の存在する胸膜,腹膜,心膜及び精巣鞘膜に発生する腫瘍(甲B1・243頁)),良性石綿胸水(石綿胸膜炎ともいわれるものであり(甲B1・147頁),通常は片肺に少量の胸水を認める疾患(甲B1・222頁)),びまん性胸膜肥厚(臓側胸膜の病変で,壁側胸膜との癒着を伴うもの(甲B1・149頁))が知られている(甲B1・105頁)。

イ アスベスト関連疾病に関する知見の推移

(ア) 諸外国における知見

a 石綿肺に関する知見

1906年(明治39年),イギリスのモンターギュ・マレーにより,石綿肺が公表された。その後,イタリア,ドイツ,カナダでも石綿労働者に見られる肺疾患が報告され,1930年(昭和5年)には,アメリカでも,石綿労働者の肺疾患が報告された。(以上,甲B1・106頁)

イギリスのミアウエザーとプライスは,1930年(昭和5年),石綿労働者の健康状態に対する最初の疫学調査を行った結果を報告し,長年石綿粉じんに曝露すると肺に重大な変化が生じること等を結論づけた(甲B1・107頁,甲B74・92~97頁)。

また同年には,南アフリカのヨハネスブルグでILO主催の第1回国際けい肺会議が開かれ,同会議で決定された覚書において,アスベスト塵の吸入によってじん肺のおこることが確かであるとされた(甲B76,77,80)。

b 石綿肺がんに関する知見

1935年(昭和10年),アメリカのリンチとスミスにより初めてアスベストを原因として発症した肺がんの報告がされた(甲B1・107頁)。その後,石綿肺所見を有する者に高い率で肺がんが合併する旨の報告が相次いでされ(甲B1・108頁のミアウエザー(1949年),グロイン(1951年)),1955年(昭和30年),イギリスのドールにより,疫学的手法によってアスベスト曝露労働者に肺がんの罹患率が高いことが明らかにされた(甲B1・108頁)。

c 中皮腫に関する知見

1931年(昭和6年),クレンペラーによりアスベストを原因として発症した中皮腫が報告された(甲B1・109頁)。また,1943年(昭和18年),1953年(昭和28年),1954年(昭和29年)に石綿肺合併胸膜中皮腫例が報告され(甲B3,甲B1・109頁),1952年(昭和27年)には石綿労働者の石綿肺合併胸膜中皮腫症例が報告された(甲B1・109頁)。1960年(昭和35年)には,南アフリカのワグナーらにより,疫学的にアスベストと中皮腫との関連性が明確となった(甲B2の1)。なお,ワグナーの調査では,中皮腫発症33例のうち非職業性曝露(環境曝露及び家庭内曝露)によるものが14例存在した(甲B2の1)。

1965年(昭和40年)のイギリスのニューハウスらの調査では,中皮腫患者76例のうち31例が石綿工場で働いた経験を有し,残り45例中9例は石綿労働者の家族,11例は石綿工場から半マイル以内の居住者であった。また,ニューハウスは,クロシドライト以外のアスベストも中皮腫発症の原因となることを明らかにした。(以上,甲B2の1・67~69頁,甲B11・97頁)。

d 国際会議での報告

1964年(昭和39年),ニューヨーク科学アカデミーが主催する「石綿の生物学的影響」と題する国際会議及び国際対がん連合が主催する「石綿とがん」と題する国際会議が開催され,各国から石綿の発がん性が報告された(甲B2の1・68頁,甲B21)。

1972年(昭和47年),国際がん研究機関(IARC)が主催した「石綿の生物学的影響」と題する国際会議において,アンソフィライト以外の種類の石綿が中皮腫を引き起こし,中でもクロシドライトが最も危険性が高いことが報告された(甲B1・109頁)。また,同年,国際労働機関(ILO)が石綿の発がん性を公式に認めた(甲B13・23頁)。

e 建物に吹き付けられたアスベストの除去工事例

アメリカのエール大学では,1971年(昭和46年)にアスベスト繊維の剝離を防ぐ固定処理をしたが,それでもアスベストの飛散が治まらないため,1974年(昭和49年)に石綿を除去する工事が実施された(甲A34の1・2)。

(イ) 我が国におけるアスベスト関連疾病に関する知見の推移及びアスベストの規制状況

a 石綿肺に関する知見等

(a) 昭和2年,大阪鉄道病院の鈴木医師が日本で初めて石綿肺を報告した(甲B1・115頁)。昭和12年から昭和15年には,保険院社会保険局健康保険相談所大阪支所長であった助川浩らにより,大阪府泉南郡の石綿工場従事者の健康障害調査が行われ,胸部X線検査をした251名中65名に石綿肺が認められた旨の報告がされた(甲B16・125頁,126頁)。

昭和22年には,労働基準法施行規則において,石綿肺が業務上疾病に指定され,労災補償の対象とされた。

(b) 昭和27年,宝来善次により,奈良の石綿工場における石綿肺検診により203名中10名に石綿肺が認められた旨の報告がされた(甲B16・127頁)。昭和31年,労働省は,「特殊健康診断指導指針について」(同年基発第308号)と題する通達を出し,けい肺を除くじん肺を起こし又はそのおそれのある粉じんを発散する場所における業務としてアスベストに関連する作業を示し,当該作業に従事した労働者に対してX線直接撮影による胸部の変化の検査を行うものとした(甲B68)。昭和31年度及び昭和32年度には,労働省労働衛生試験研究として組織された共同研究班により,「石綿肺の診断基準に関する研究」が実施され,実態調査の結果,石綿工場での作業従事者に有意な石綿肺所見率が認められた旨の報告がされ(甲B16・128頁),石綿肺の診断基準等について,昭和32年3月31日には,昭和31年度の研究報告の報告書が,昭和33年3月31日には,昭和32年度の研究報告の報告書が公表された(甲B16・147頁)。

(c) 昭和35年3月31日にじん肺対策強化のために制定され,翌4月1日に施行されたじん肺法では,「石綿をときほぐし,合剤し,ふきつけし,りゅう綿し,紡糸し,紡織し,積み込み,もしくは積みおろし,または石綿製品を積層し,縫い合わせ,切断し,研まし,仕上げし,もしくは包装する場所における作業」が同法上の「粉じん作業」と定められ(じん肺法施行規則別表第1の23号(甲B8・26頁)),上記業務に従事した労働者について定期的なじん肺健康診断を受けること(甲B8・27頁)等の規定が設けられた。

b アスベストによる肺がん,中皮腫に関する知見等

(a) 昭和34年から昭和43年の知見等

昭和34年2月に,石綿肺での高率な肺がん合併が注目されている旨指摘する文献(労働科学研究所編「日本の職業病」)(甲B48・48頁)が,同年12月には,イギリスやドイツでは石綿肺での肺がん合併がけい肺のそれよりも多いとして重視されていることを指摘する文献(宝来善次「珪肺と石綿肺」(胸部疾患3巻12号))(甲B49・8頁)が,昭和37年8月には,アスベストが職業性肺がんの原因物質であることを指摘する文献(東田敏夫「職業病」)(甲B52・138頁)が,それぞれ発表された。

昭和40年12月には,昭和10年のリンチとスミスの報告例を紹介して(甲B50・63頁の表),アスベスト製造産業従事者に肺がんが多いこと及びアスベストが発がん物質として呼吸器を経由して,肺,肋膜,腹膜にがんを引き起こすことを指摘する文献(安倍三史「最近の職業病」)(甲B50・65頁)が発表された。

昭和42年8月には,昭和41年10月に開催された国際癌学会の結果とこれまでの研究結果を報告した上で,石綿の発がん性が疫学的,実験動物学的に疑えない事実であること,石綿肺症として,当時専門医が診断し得ない程度の低濃度,長期間の曝露により肺がん及び中皮腫が発生することがあることを指摘する文献(石西伸「石綿と悪性新生物」)(甲B64・679頁)が発表された。昭和42年10月には,アスベストの発がん性を指摘する文献が発表された(甲B53・120頁表,甲B64)。

昭和43年12月には,最近職業がんの中で石綿による肺がんと胸膜・腹膜の中皮腫が最大の関心を払われていること及び上記のがんは石綿の製造者・加工者だけでなく,その使用者にも起りうる職業病として問題にすべきであることを指摘する文献(久保田重孝「職業病とその対策」)が刊行された(甲B51,90)。

(b) 昭和45年の知見等

昭和45年10月,アスベストに曝された人々の間に肺がんや胸膜・腹膜の中皮腫の発症が異常に多いとの諸外国の疫学的研究報告を紹介した上で,疫学的研究の結果により,アスベスト工業に携わる人々のみならず,その工場付近の住民,アスベスト鉱山地域の住民,さらにこの物質の消費量の多い都市の一般住民の肺にも高率にアスベストが検出されたこと,中皮腫の発生がごく短期間のアスベストの接触によるごく軽度の肺アスベスト症の症例も認められることなどを指摘し(56頁),アスベストが極めて難治である肺がん,中皮腫の発生に何らかの因果関係を持つことが明らかになった以上,この物質の規制にあたることは,単に工場衛生の立場からのみならず,公衆衛生の立場からも大切であると指摘した(58頁)論文(金沢暁太郎「アスベストと発癌-とくにMesotheliomaとの関係について」・「医学のあゆみ」所収)が発表された(甲B3)。

同年11月には,アスベストの製造工場で従業員らに肺がんが多発していることが明らかにされ,朝日新聞で,「石綿粉じんが肺ガン生む 8人発病,6人死ぬ」,「工場従業員以外にも発病例」と報道され(甲B46の1),同じころ,大気中に発がん物質であるアスベストが含まれていることが明らかにされ,朝日新聞で,「東京の空気に石綿 微量だが発ガン物質」と報道された(甲B46の2)。同年12月11日には,朝日新聞に,「大気を汚す発ガン物質」等の見出しで,「(石綿は)ビルの建材からも出てくる。ビルの断熱材を吹き付ける工法があり,これで労働者がじかに浴びたり,大気中へ飛散させる」など,石綿の有害性,危険性を指摘する記事が掲載された(甲B46の3)。

(c) 昭和46年の知見等

昭和46年1月5日,労働省は,「石綿取扱い事業場の環境改善等について」(同年基発第1号)と題する通達を出し,石綿のがん原性(肺がん)について言及した上で(「最近,石綿粉じんを多量に吸入するときは,石綿肺をおこすほか,肺がんを発生することもあることが判明し,また,特殊な石綿によって胸膜などに中皮腫という悪性腫瘍が発生するとの説も生まれてきた」),関係事業場に対する指導,監督を要請した(甲8・28頁)。また,同年3月ころ,東京都衛生研究所環境衛生部の研究者である溝口勲は,アスベストの発がん作用及びアスベスト,特にクロシドライトと中皮腫との関連性を指摘した上で,「関係はほとんど決定づけられた」と述べ(甲B4・35頁),アスベストの使用について,新しい建材としての用途についても,人間の生活空間に露出しているような使い方はなるべく避けたほうがよい旨を指摘した(甲B4・37頁)。

昭和46年4月28日,旧特化則が制定された。旧特化則は,石綿を日常の作業で労働環境の空気汚染をおこすとされる第二類物質に分類し,石綿に係る規制として,①石綿粉じんが発散する屋内作業場での一定の除じん装置を有する局所排気装置の設置(8条),②石綿を製造し,又は取り扱う作業場への関係者以外の立入りの禁止(25条),③石綿を製造する作業に労働者を従事させる場合の特定化学物質等作業主任者の選任(28条),④石綿を常時製造し,又は取り扱う屋内作業場での半年に1度の空気中における濃度の測定実施(29条),⑤石綿を製造し,又は取り扱う作業場への呼吸用保護具(マスク等)の備付け(32条)などが定められた(以上,甲B8,甲B47,甲B70)。

同年6月ころには,アスベストの発がん性及び人体への有害性を指摘した雑誌(「科学朝日」)が(甲B31),同年9月ころには,疫学的,実験腫瘍学的にアスベストの発がん性を肯定した上で,都市空気のアスベストへの汚染を広く公衆衛生上の問題として取り扱うべきと指摘する論文(「労働の科学」所収)が発表された(甲B6・20頁,21頁)。

(d) 昭和47年の知見等

環境庁の公害調査研究委託事業として,「人肺の病理組織学的研究」や「昭和47年度環境庁公害研究委託費によるアスベストの生体影響に関する研究報告」などの公的な研究の報告において,ドール,ワグナー,ニューハウスらによる海外の報告を引用し,石綿曝露と中皮腫発症との間に密接な因果関係のあることを明らかにした上で,非職業性曝露でも中皮腫が発生することや,比較的低濃度のアスベスト曝露であっても長年月の経過により中皮腫発症の危険性があることが指摘された(甲B54,55)。

同年6月8日,労働安全衛生法が制定され,同年9月30日,同法に基づく省令として特定化学物質等障害予防規則(同年労働省令第39号。以下,単に「特化則」という。)が改正された。特化則も,旧特化則と同様,石綿に関する規制を定めた(甲B47)。

(e) 昭和48年から昭和60年の知見等

昭和48年から昭和49年にかけては,我が国においても,アスベストを原因とする中皮腫の症例が報告され(昭和48年7月・小泉岳夫ら「Asbestosisを伴った腹膜中皮腫の1例」(甲B9),昭和49年8月・姜健栄ら「石綿肺に合併した胸膜中皮腫の1例」(甲B10)),同年11月1日には,アスベストの環境汚染を指摘し,アスベストが原料の吹付け(吹付けアスベスト)から飛散するアスベスト粉じんの有害性を警告する書籍(林久人「汚染から身体がまもれるか」)が出版された(甲B11・109頁)。

建設省は,昭和48年7月2日付け建設省営建発第27号により通知された「庁舎仕上げ標準(暫定修正案)昭和48年3月」により,庁舎建物の内部仕上げについて,石綿吹付け仕上げを取り止めた(甲B22,23)。

昭和50年3月に発行された文献では,鉱山や工場よりはるかに低い濃度のアスベスト曝露でもアスベスト性の肺がんを起こすことが指摘され(「生活環境の発がん物質」)(甲B57),同年9月30日,特化則が改正され,石綿が発がん性物質として特別管理物質とされるとともに(38条の3),①石綿吹付け作業の原則禁止(38条の7),②石綿等の作業環境測定記録の保存期間を30年間に延期すること(38条の4),③石綿等を製造し,又は取り扱う業務について健康診断を実施すること(39条),④石綿等を張り付けたものの破砕,解体等の石綿粉じんを発生しやすい特定の作業について原則として湿潤化すること(38条の8)などが規定された(甲B56,甲B100)。

昭和51年1月,専門の臨床医である渡辺漸は,「アスベストと胸膜腫瘍」において,低濃度のしかしながら持続的な一定期間にわたる曝露による中皮腫(ないし肺がん)の発現を指摘した上,アスベスト繊維に汚染された大気中に環境的に生活する人々に対しての発病のリスクが多く,我が国において,今後中皮腫の発現が,増加してくる可能性は否定できないと指摘している(甲B58・17頁)。同年5月には,「石綿粉じんによる健康障害予防対策の推進について」(同年基発第408号)と題する労働省労働基準局長の通達により,石綿を可能な限り有害性の少ない他の物質に代替させること,石綿に汚染された作業衣からの二次汚染を防止するため,作業衣の洗濯や持ち出し禁止等の徹底を図ることなどが事業場に指導された(甲B40)。

昭和53年,労働省は,専門家会議による研究,検討を行い,その結果(「石綿による健康障害評価」)を同年9月に公表した(甲B12,102)。同研究に携わった瀬良好澄医師は,昭和54年7月,「石綿による健康障害とその予防」において,石綿と中皮腫との因果関係が疫学的に明らかとされていること,中皮腫は肺がんを発生するのに必要な曝露量よりも少量で発症する可能性があることを指摘した上(甲B13・27頁,28頁),石綿の輸送,製造,使用,再利用,廃棄処理までの流れの中で接触するすべての人の健康管理が必要であり,発じん防止を早急かつ完璧に行うことを最優先すべきであること,日本人が放射性物質や放射線に対してとっているのと同じ鋭敏さが求められることを指摘している(甲B13・28頁)。

昭和55年5月,鈴木正臣らは,「アスベスト公害とその測定方法」(公害15巻3号所収)において,アスベスト板,アスベスト織布,アスベスト紙,耐火材としての吹付塗布させるアスベスト等を使用するところでは,アスベスト粉じんの放出に十分なる注意が必要であると指摘した(甲B59)。

昭和56年8月には,海老原勇は,「我が国における石綿による呼吸器障害-職業性曝露から家庭内曝露,公害への広がり-」において,東京などの各地での検診結果等を基に,石綿による健康障害は石綿を扱う労働者の問題からその家族や一般住民にまで広がっていること,短期間又は低濃度の石綿曝露によっても胸膜肥厚等の病変が発生することなどを指摘し(甲B14・383~386頁),昭和60年11月には,広瀬弘忠は,「静かな時限爆弾・アスベスト災害」において,屋内の壁面などにアスベストが吹き付けられており,吹付けアスベストのある室内の浮遊アスベスト濃度が戸外よりも高く,建築後時間の経過とともに吹付け材が劣化し,剝離し始めると,汚染が進行していくこと(甲B17・18頁,19頁),いかに少量のアスベスト曝露でも健康に対する何ほどかの障害をもたらすこと(甲B17・42頁,165頁),それを回避するために少しでも汚染の可能性のあるアスベストは除去又は隔離すべきであることなどを指摘している(甲B17・166頁)。

(f) 昭和62年の知見等

環境庁は,昭和60年に内外におけるアスベストの健康や環境に対する影響に関する知見をまとめる調査研究を専門家に委託し,その報告が昭和62年2月,環境庁大気保全局企画課監修で,財団法人日本環境衛生センターから,大気汚染物質レビュー「石綿・ゼオライトのすべて」として発行された(甲B18)。同書では,「理論的には,肺がん及び中皮腫の発症に対する石綿曝露量の安全閾値は存在しないとする見解は首肯されるものである」(甲B18・471頁),「石綿はそれ自体がん原性のある物質であり,したがっていかなる低濃度でも安全とする最少の閾値はない」(甲B18・475頁),いかなる低濃度でも安全とする最少の閾値はない」と指摘されるとともに,1970年代に米国をはじめ各国において吹付けのされた建物内での石綿曝露の危険性が問題とされたことが指摘された。

また,昭和62年2月,川村暁雄は,雑誌「技術と人間」に掲載された「吹き付けアスベストの危険性」において,吹付けアスベストが自然剝離,人の接触,剝離した繊維の再遊離により,屋内環境を汚染すること,欧米では吹付けアスベストはビル内の環境を汚染し,居住者・使用者の健康障害をもたらす存在として問題とされ,公共建築物を中心として除去作業が進められていること,アスベストの発がん性に閾値はなく,低濃度のアスベスト曝露でも健康障害の危険があること,吹付けアスベストのある学校等における対策の必要性を指摘した(甲B35(ただし,発行月は明示なし))。同年4月,日本消費者連盟が発刊した「グッバイ・アスベスト-くらしの中の発ガン物質」では,室内で吹付けアスベストの粉じんが飛散し,住人や使用人の健康を損なうおそれがあり,吹付けアスベスト曝露の危険があるときは除去等の措置を執る必要があることを指摘し(甲B19),同書は,同年5月7日,朝日新聞に大きく取り上げられた。同新聞では,吹付けアスベストによる室内汚染とそれによる健康影響にも目を向けて危険な場合には除去を求めるよう呼びかけている旨紹介された(甲B46の23)。

同年7月には,文部省は,全国すべての公立小・中・高校を対象にして,吹付けアスベストの実態調査を実施することとし,吹付けアスベストの除去工事が進められることとなった(甲B46の27,29,33,36)。

同年9月16日,建設省の建設大臣官房官庁営繕部は,地方局等の建築設計主務課長等に対し,既存建物の通常の使用状態において,空気中に石綿が飛散するおそれのある吹付け材等については飛散防止又は撤去のための方策を取ることを通知した(甲B23)。

同年9月,大阪府は,アスベスト対策検討委員会を設置し,アスベスト対策に取り組んだ(甲B30)。同年には,アスベストによる環境汚染の問題と健康被害の危険性を指摘する内容の論文等が複数発表された(同年11月,月刊「いのち」所収の海老原勇「アスベスト(石綿)の人体への影響」(甲B38,甲B39),同年12月,「労働の科学」所収の木村菊二「アスベストと環境問題」(甲B20))。

同年11月14日,建設省は,建築基準法令の耐火構造の指定から吹付けアスベストを削除した(甲B72の1・2)。

昭和62年から昭和63年にかけて,学校,大学,共同住宅等に発がん物質である石綿がむき出し状態のまま吹き付けられていることが社会問題になり,全国で除去工事が実施されたことなどが繰り返し新聞報道された(昭和62年2月5日付け毎日新聞(阪大工学部の研究室等,甲B71),同年6月21日付け朝日新聞(東大工学部の施設,甲B46の24),同月29日付け朝日新聞(集合住宅である教職員住宅の天井,甲B46の25),同年7月2日付け朝日新聞(米国の吹付けアスベストに対する対策,甲B46の26),同月7日付け朝日新聞(吹付けアスベストの学校調査,甲B46の27),同月16日付け朝日新聞(学校教室,甲B46の28),同月18日付け朝日新聞(都立高校,甲B46の29),同月27日付け朝日新聞(アスベストの室内の汚染に関するガイドライン作成,甲B46の30),同年8月4日付け朝日新聞(小・中学校の天井,甲B46の31),同月14日付けの朝日新聞(東京都のビル解体時の石綿粉じん飛散対策要綱,甲B46の32),同月22日付け朝日新聞(学校の石綿利用の確認,甲B46の33),同年9月15日付け朝日新聞(吹付けアスベストに対する対策,甲B46の34),同年10月31日付け朝日新聞(東京都の都立高校,都税事務所,清掃工場,甲B46の35),同年11月10日付け朝日新聞(公立小・中・高校,甲B46の36),昭和63年2月18日付け朝日新聞(社会福祉施設,甲B46の37),同年3月26日付け朝日新聞(石綿の壁などへの吹付けの全面禁止措置,甲B46の38),同年4月23日付け朝日新聞(民間建物の石綿除去に関する横浜市の指針,甲B46の39),同年12月3日付け朝日新聞(石綿の環境濃度の規制,甲B46の40))。

(g) 昭和63年の知見等

昭和63年1月25日には,建設省住宅局建築指導課長から都道府県建築主務部長宛てに民間建築物における吹付けアスベストに関する調査依頼の通知が(甲B25),同年2月1日には,環境庁大気保全局大気規制課長・厚生省生活衛生局企画課長から都道府県衛生・環境主管部局長等宛てに「建築物内に使用されているアスベストに係る当面の対策について(通知)」が出された(甲B29)。同通知は,「アスベストを含有する建材で,アスベスト繊維を遊離する可能性が大きく,当面の対策の第一とすべきものは,経年変化で劣化したり,ひっかくなどにより損傷のある吹付け材であること。これが存在する場合,建築物内のアスベスト繊維の濃度が周辺環境大気中の濃度より高くなっている可能性があり,その際は,適切な処置を検討する必要があること。」など,建築物に吹き付けられたアスベスト繊維が飛散する状態にある場合には適切な処置をする必要があること等を建物所有者に指導するよう求めるものであり,これにより吹付け石綿に関する危険性等が行政文書の形で明示された。

同年5月,東京都や横浜市は,建物に使用された吹付けアスベストの処理対策マニュアルを発表した(甲B45,46の39)。

同年6月には,建設省住宅局建築指導課長から特定行政庁建築主務部長宛てに「既存建築物の吹付けアスベスト粉じん飛散防止対策の推進について」と題する通知が出された(甲B26の1)。そのころ,財団法人日本建築センターの「既存建築物の吹付けアスベスト粉じん防止処理技術指針・同解説」が,関係部局や建築関係団体に配布され,建物に施工された吹付けアスベストに関する調査方法や粉じん飛散防止のための具体的処理方法のマニュアルが広まった(甲B26の2・3)。

第1審被告は,同年11月に発刊したFの社史「二十年のあゆみF創業20周年記念誌」において,昭和62年の年間メモとして,「アスベストの発がん性が問題となり,各地で除去作業」と記載している(甲A16・41頁)。

(h) 平成元年以降の知見等

平成元年には,大気汚染防止法が改正され,アスベストも規制の対象となった。

平成2年5月1日,大阪府は,「大阪府アスベスト対策基本方針」を公表し,吹付けアスベストが劣化し,飛散しやすい状態になったときには,適切な措置を講じることが必要であり,吹付けアスベストが使用された建築物の所有者及び管理者は,吹付けアスベストの有無について設計図書で調査し,アスベスト使用が確認された場合には,劣化状況を診断し,粉じん飛散防止処理を行うことを指示している(甲B30)。

平成7年,労働安全衛生法施行令が改正され,クロシドライトの新たな使用,製造が禁止された。

平成17年2月24日,石綿障害予防規則が制定され,同年7月1日,施行された。同規則は,①事業者は,その労働者を就労させる建築物等に吹き付けられた石綿が損傷,劣化等によりその粉じんを発散させ,労働者がその粉じんに曝露するおそれがあるときは,当該吹付け石綿の除去,封じ込め,囲い込み等の措置を講じなければならない,②事務所又は工場の用に供される建築物の貸与者は,当該建築物の貸与を受けた2以上の事業者が共用する廊下の壁等に吹き付けられた石綿等が損傷,劣化等によりその粉じんを発散させ,労働者がその粉じんに曝露するおそれがあるときは,①と同様の措置を講じなければならないなどとするアスベスト含有建材を使用した建物に対する対策を内容とする最初の規制法令であった(乙2)。

(2)  判断

上記認定事実によれば,欧米先進国においては,1930年(昭和5年)代終わりころまでには,石綿粉じんの曝露によって石綿肺が発症することが認識され,その予防対策が問題とされていたが,我が国においては,戦後の昭和20年代後半に,宝来らにより石綿粉じん被害の実態調査がされ,これらを受けて,労働省が昭和31年度及び昭和32年度に,労働衛生試験研究として,「石綿肺の診断基準に関する研究」を委託した結果,昭和32年度の研究報告(昭和33年3月31日報告)において,石綿肺の診断基準等が設定されたことにより,石綿肺に関する医学的知見が確立したものと認められる。また石綿と肺がんの関連性については,1955年(昭和30年),イギリスのドールにより,石綿曝露と肺がんとの関連性が指摘され,国際会議などでの石綿の発がん性に関する報告を経て,労働省が昭和46年1月5日,「石綿取扱い事業場の環境改善等について」と題する通達を発出し,同通達の中で,「石綿粉じんを多量に吸入するときは,肺がんを発生することがあると判明した」と認めることにより,昭和46年ころには,我が国においても,石綿によって肺がんが発症することの医学的知見が確立したと認められる。さらに中皮腫については,1960年(昭和35年)のワグナーら,1965年(昭和40年)のニューハウスらによる実態調査を踏まえた報告などで石綿が中皮腫発症の原因となることが明らかにされたが,これらを踏まえて,1972年(昭和47年)には,国際がん研究機関(IARC)が石綿により中皮腫が発症することを明示したことにより,我が国においても,石綿粉じん曝露と中皮腫発症との関連性に関する医学的知見が確立したと認められる。したがって,職業的に石綿粉じんに曝露することによるアスベスト自体の人の生命,健康に対する危険性は,昭和33年ころには一般に認識され,石綿の職業的曝露によるアスベストの発がん性(中皮腫の発症原因を含む。)も,遅くとも昭和47年ころには,一般的に認識されていたと評価することができる。

これに対し,本件で問題になっている,建築物の吹付けアスベストに関しては,我が国においても,昭和45年ころには,中皮腫がごく短期間のアスベストの接触によって発症することを指摘する論文が存在したものの,吹付けアスベストの場合,含有アスベストの量が少量であり,かつ原料の一部として固定されていることにより飛散しない限りは危険性が少ないこともあって,未だその曝露による健康被害の危険性は明確に認識されていなかった。現に,その当時は,建物壁面等吹付けアスベストは,建築基準法令における指定耐火材とされていた。その後,昭和47年ころから,非職業性曝露でも中皮腫が発症することや比較的低濃度のアスベスト曝露であっても長年月の経過により中皮腫発症の危険性があるとの海外の報告が我が国にも伝えられ,吹付けアスベストの危険性も徐々に認識されるようになり,昭和48年には,建設省が庁舎建築において,石綿吹付け仕上げを取り止め,昭和49年には,吹付けアスベストから飛散するアスベスト粉じんの有害性を警告する書籍が出版され,昭和60年には,吹付けアスベストのある室内の浮遊アスベスト濃度が戸外よりも高く,建築後時間の経過とともに吹付け材が劣化し,剝離し始めると,汚染が進行していくこと,いかに少量のアスベスト曝露でも健康に対する何ほどかの障害をもたらすことなどを指摘する書籍が出版された。昭和62年になると,同年2月に,環境庁監修の「石綿・ゼオライト」が発行され,「石綿には,いかなる低濃度でも安全とする最少の閾値はない」こと,アスベストの吹き付けされた建物内でも石綿曝露の危険性があることが指摘されると,同年中に,全国紙が相次いで,吹付けアスベスト曝露の危険性を報道するようになり,これに呼応して全国各地で吹付けアスベストの除去工事が行われるようになった。これと併行して,行政も,文部省が昭和62年7月に,全国すべての公立小・中・高校を対象に,吹付けアスベストの実態調査を実施し,吹付けアスベストの除去工事が進められることになり,同年9月には,建設省が既存建物の通常の使用状態において,空気中に石綿が飛散するおそれのある吹付け材等については飛散防止又は撤去のための方策を取ることを通知し,同年11月には,建設省が建築基準法令の耐火構造の指定から吹付けアスベストを削除した。そして,昭和63年2月には,環境庁・厚生省が都道府県に対し,吹付けアスベストの危険性を認め,建築物に吹き付けられたアスベスト繊維が飛散する状態にある場合には,適切な処置をする必要があること等を建物所有者に指導するよう求める通知を発した。

以上によれば,遅くとも,上記の通知時である昭和63年2月ころには,建築物の吹付けアスベストの曝露による健康被害の危険性及びアスベストの除去等の対策の必要性が広く世間一般に認識されるようになったと認めるのが相当である。

2  太郎の悪性胸膜中皮腫の発症原因(争点(2))について

(1)  認定事実

証拠(認定に用いた証拠は,各文末尾に記載する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア アスベストを原因とする中皮腫に関する知見

アスベストを吸入することにより中皮腫が生じることがあり(甲B1・105頁),確定診断された中皮腫のほとんどはアスベストが原因であり,ほかには医療用放射線等があるとされているところ(乙4,証人Q(以下「証人Q」という。)・7頁,74頁),アスベストの累積曝露量と中皮腫の発症との間には,アスベストの累積曝露量が多いほど発症しやすいという関係があり,これを量-反応関係という(証人Q17頁)。

また,アスベストに最初に被曝してからアスベスト関連疾患が発症するまでの期間は一般に潜伏期間と呼ばれているところ(甲B1・182頁,乙4),中皮腫発症までの潜伏期間は長いとされており,潜伏期間について,最小7年から最大68年(平均約43年)とする報告(甲B1・182頁),最小11.5年から最大54.2年(平均38年)とする報告(乙5),平均40年程度とする報告(乙4),最小10年から最大70年(平均約42,3年)とする証言(証人Q・18頁,57頁,76頁)などがある。ただし,ここにいう「潜伏期間」とは,一般の病原菌による疾病とは異なり,「最初の石綿曝露から中皮腫発症(あるいは死亡)までの期間」をいい,「中皮腫発症の原因が形成されたときから中皮腫の症状が発現した日までの期間」を意味するものではない(甲B1・135頁の表6の注,182頁,証人Q・18頁)。

イ 太郎の生活環境や就労歴等

(ア) 太郎は,出生直後から大阪府布施市(現在は東大阪市)(以下省略)に居住したのをはじめとし,合計4箇所に居住したが,各建物にはアスベストが使われたとは認められず(第1審原告花子本人・1頁,甲A49・2頁),従業員十数名の町工場規模の石綿工場は東大阪市内にも存在したものの,環境曝露に有意に関係するものと考えられる各建物の周辺500m以内にはクロシドライト(青石綿)を使用している石綿工場があったとも認められない(証人Q・29頁,30頁,甲A18・2頁)。

また,太郎の両親は農業を営んでおり(甲A49・2頁),その他,太郎と同居していた際に石綿を取り扱う仕事に従事していた者の存在は認められない(第1審原告花子本人・1頁,甲A49・2頁)。

(イ) 太郎は,昭和24年4月から昭和26年3月まで実家の農業を手伝った後,同年4月から昭和39年4月まで,大阪工場において金網職工として勤務していた(甲A49・2頁)。

同工場に設置された焼鈍炉にはクリソタイル(白石綿)が使用されており(甲A18・2頁,証人Q・54頁,55頁),同焼鈍炉について,1日程度かかる補修工事が年に2回実施されていた(証人Q・29頁)。また,太郎は,昭和39年5月から昭和41年5月まで,京都工場において,金網職工として勤務していた(第1審原告花子本人・1頁,甲A49・2頁)。

ウ 本件建物の状況

(ア) H文具は,本件賃貸借契約の締結後,本件建物のうち,本件2階倉庫を文具類の在庫商品を置く倉庫兼帳簿等をつけるための事務所として使用してきた。本件建物は,1辺が約8~9mの方形をした高さ約5mの部屋であり,本件2階倉庫の壁面部分のうち天井端から約1.1~3.2mの幅の部分には,クロシドライトを25%含有する吹付け材が約3㎝の厚さでむき出しのまま施工されている(前記前提事実(2)ウ)。

(イ) 本件建物は,頻繁に電車が往来する鉄道の高架下にあり,電車が通るたびに,棚に置いた商品が徐々にずれる程度の振動が生じる状態であった(証人n(以下「証人n」という。)・8頁,9頁,甲A48・5頁)。特に,昭和61年~62年ころ以降は,本件粉じんが目立って飛散し,本件2階倉庫の商品棚,商品及び床面等に降り積もっている状態であった(証人n・2頁~4頁,16頁,甲A48・2頁)。

エ 本件2階倉庫の石綿濃度

(ア) 石綿濃度に関する基準

空気中の石綿濃度に関し,以下の測定結果があり,また,以下のような基準が提唱されている。なお,空気中測定濃度は,力(衝撃や振動)の加わり方,床面への落下物の量,人が立ち入った回数と作業の内容などによって変化する(甲A24,25)。

a 環境省の測定結果

環境省が平成18年に実施した全国の気中石綿濃度調査では,商工業地域における幾何平均0.27f/L(最小0.11から最大1.68)であった(甲A26)。

b 労働省の規制値

アスベスト関連作業現場等についての評価基準として定められている労働省作業環境測定の規制値である管理濃度は,従来,2000f/Lであったが(乙7),平成16年に変更され,平成7年に製造使用が禁止されたアモサイト及びクロシドライトを除く石綿についての管理濃度は150f/Lとなった(甲A24・表1)。

c 日本産業衛生学会の許容濃度

日本産業衛生学会が示す許容濃度は,従来,2000f/Lであったが(乙7),平成13年に変更され,クロシドライトを含む石綿について,許容濃度が3f/L(過剰発がんリスクレベルが1万人に1人)と勧告された(甲A24・表1)。

d 世界保健機構の環境保健判定基準

世界保健機構は,昭和61年に,環境保健判定基準として,10f/Lを示し(甲A24・5頁,乙7),平成12年の「欧州空気質ガイドライン」では,大気中の石綿濃度が0.5f/Lのときに中皮腫が1万~10万人に1人発生するというリスク評価を示した(甲A27の2)。

(イ) 本件2階倉庫の石綿濃度測定結果

a 平成15年の5月から12月にかけて,本件2階倉庫における石綿濃度測定が行われ,①H文具における普段の作業と同様の疑似作業をしないときは,幾何平均3.09f/L(最小2.72~最大4.2),②清掃と商品の搬入搬出の疑似作業をしたときは,幾何平均18.8f/L(最小1.02~最大136.5),③商品の搬入搬出の疑似作業をしたときは,幾何平均6.71f/L(最小3.68~最大14)の石綿濃度がそれぞれ計測され,全体の幾何平均は6.71f/L(最小1.02~最大136)であった(甲A7)。

b 平成15年6月,本件2階倉庫内の石綿濃度の検査が作業環境測定会社であるP株式会社に依頼して行われ,その結果,同年7月9日時点における本件2階倉庫内の石綿濃度は0.5f/Lであった(乙6)。

c 第1審被告が平成17年11月に本件建物のアスベスト含有吹付け材の撤去工事を行った際に行われた測定では,撤去工事を行う前の室内の石綿濃度は220f/Lと計測された(甲A30)。

オ 太郎の本件建物内での就労状況

太郎は,昭和45年3月から平成14年5月までの32年間,店長として,毎日,午前8時ころに本件建物に出勤し,午後8時ころに閉店するまでのほとんどの時間を本件建物内で過ごしていたが,その間,本件2階倉庫に入り,仕事をすることがあった(証人n・5頁,甲A48・3頁,甲A49・2頁)。本件2階倉庫における太郎の勤務の具体的態様は以下のとおりである。

(ア) 文具の納入業者が納品した際,1日に約7~8回,本件2階倉庫に商品を搬入し(証人n・5頁~7頁,甲A48・3頁,4頁),また,本件1階店舗に展示していない商品以外の商品の注文を受けて本件2階倉庫に商品を取りに行く(証人n・7頁,甲A48・4頁)など,多い日で約50回,少ない日で20から30回程度,本件1階店舗と本件2階倉庫とを往復していた(証人n・7頁)。

(イ) 在庫商品の整理整頓のため,1週間に数回,1回につき約1時間,本件2階倉庫内で仕事をし,また,毎月締めの日ころには,本件2階倉庫内で伝票の整理等を集中的に行っていた(証人n・7頁,甲A48・4頁)。

毎年2月に行う棚卸しの際には,本件2階倉庫の壁際の棚に置いた在庫商品の上に積もった本件粉じんを払い落としながら在庫を確認していた(証人n・7頁,甲A48・5頁)。

(ウ) 平成2年に電気掃除機を購入するまでは,1月に1~2回,20から30分かけて,家庭用竹箒を使用して本件2階倉庫内を掃除し,同年以後は電気掃除機を使用して,本件2階倉庫内を掃除していた(証人n・7頁,甲A48・4頁)。また,年末には数時間かけて本件2階倉庫の大掃除をしていた(甲A48・5頁)。

(エ) 本件2階倉庫内で1,2時間の仮眠をとることがあった(甲A48・5頁)。

カ 太郎における悪性胸膜中皮腫の発症

太郎は,平成13年11月ころから,次第に咳が酷くなり,寝付けない日が続くようになった(第1審原告花子本人・17頁,甲A49・3頁)。太郎は,平成14年になり,近くの病院で診断を受けた結果,胸水が確認され,同年▲月▲日,N総合病院に検査入院し,同月20日ころ,悪性胸膜中皮腫の診断を受け(甲A49・3頁),同年7月,J病院に入院し,同病院において,悪性胸膜中皮腫(上皮型)との確定診断を受けた(前記前提事実(4)イ)。

キ 太郎の死亡時点での肺の状態等

太郎の剖検肺を用いて,光学顕微鏡による石綿小体の算定を行った結果,太郎の肺から,石綿小体が肺乾燥重量1g当たり平均72本検出された。なお,職業性,家族性及び環境性のアスベスト曝露がない場合の肺乾燥重量1g当たりの石綿小体数は,35本であり,国際的に共通な石綿関連疾患の判断基準として提言されている「Helsinki Criteria(ヘルシンキ・クライテリア)」の「職業での石綿粉じん曝露が高い可能性がある人物であることを確定するガイドライン」では,「肺乾燥重量1g当たり1000本以上の石綿小体の場合」が基準とされている。(以上,甲A20の1・2)

また,同様に,太郎の剖検肺を用いて電子顕微鏡によるアスベスト繊維の分析を行った結果,太郎の肺内石綿濃度は,肺乾燥重量1g当たり1900万本であり,このうち,約85%にあたる1610万本がクロシドライトであった(甲A20の3)。これは,職業的石綿曝露がない場合の数値である肺乾燥重量1g当たり183万本の10倍以上の濃度である(甲A20の1)。

(2)  判断

上記認定事実によれば,①確定診断された中皮腫のほとんどはアスベストが原因であり,アスベストの累積曝露量と中皮腫発症との間には量-反応関係があるとされること,②本件2階倉庫壁面にはクロシドライトを含むアスベストが吹き付けられ,本件建物の上を通る電車からの振動等もあってアスベストを含む粉じんが倉庫内に飛散しており,同倉庫内の石綿濃度は,測定によって0.5f/L(平成15年7月)から220f/L(平成17年11月)までばらつきがあるが,全国の気中石綿濃度調査の結果(幾何平均0.27f/L。平成18年)はもとより,世界保健機構の環境保健判定基準(10f/L。なお,0.5f/Lで中皮腫の発生リスク1/1万~10万)や日本産業衛生学会の勧告する許容濃度(3f/L。過剰発がんリスク1/1万)との対比においても相当高かったと推認されること,③太郎は,本件建物で約32年間勤務し,上記のとおり粉じんの飛散する本件2階倉庫で毎日相応の作業をしており,他方,太郎の生活環境,家族歴や就労状況に照らし,本件2階倉庫部分以外でクロシドライトに被爆する機会があったとは認められないこと,④太郎の肺内石綿濃度は職業的曝露がない場合の10倍以上(クロシドライトだけで約8.8倍)であり,他方,顕出された石綿小体数平均72本/g(乾燥重量)は,ヘルシンキ・クライテリアにより職業的曝露の可能性が高いとされた基準値の10分の1以下であるから,太郎の石綿曝露は職業的曝露のレベルではないが,環境的曝露としては相当多いことが認められる。

以上を総合すると,太郎の悪性胸膜中皮腫は,昭和45年から平成13年ころまでの本件2階倉庫における吹付けアスベスト由来のアスベスト(クロシドライト)被爆を発症原因としていると認めるのが相当である。

3  第1審被告は,本件建物の占有者又は所有者として,民法717条1項に基づく本件建物の設置又は保存上の瑕疵に係る責任を負担するか(争点(3))について

(1)  本件建物の設置,保存上の瑕疵の有無について

ア 本件建物は,本件2階倉庫の壁面部分に,人がそれを吸入することにより中皮腫等の石綿関連疾患を引き起こす原因物質であり,アスベストの中でもとりわけ発がん性などの有害性が強いクロシドライトを一定量含有する吹付け材が露出した状態で施工されており(前記2(1)ウ(ア)),しかも,頻繁に電車が往来する鉄道の高架下にあって,電車が通るたびに相応の振動が生じることにより,上記吹付け材が飛散しやすい状態にあった(前記2(1)ウ(イ))のであるから,客観的に見れば,本件賃貸借契約開始時である昭和45年3月時点以降においても,本件建物は,それを利用する者にとって,アスベスト吹付け材から発生した粉じんの曝露,吸入により,生命,健康が害され得る危険性があったといえる。

しかしながら,土地の工作物の設置又は保存の瑕疵とは,当該工作物が通常有すべき安全性を欠いていることをいうものであるところ,吹付け石綿を含む石綿の粉じんに曝露することによる健康被害の危険性に関する科学的知見及び一般人の認識並びに様々な場面に応じた法令上の規制の在り方を含む行政的な対応等は,前記1で認定・判断したとおり,時と共に変化していることに鑑みると,第1審被告が本件建物の占有者ないし所有者として民法717条1項の規定に基づく土地工作物責任を負うのは,人がその中で勤務する本件建物のような建築物の壁面に吹付け石綿が露出していることをもって,当該建築物が通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになった時点からであると解するのが相当である。

これを本件についてみると,前記1で認定・判断したとおり,我が国においては,建築物の吹付けアスベストに関しては,昭和45年ころ当時は,建物壁面等吹付けアスベストは,建築基準法令における指定耐火材とされているなど,未だその曝露による健康被害の危険性は明確に認識されていたということはできない。また昭和50年ころにおいても,確かに,鉱山や工場よりはるかに低い濃度のアスベスト曝露でもアスベスト性の肺がんを起こすことが指摘されるようになり,特化則が改正されたりしたものの,やはり建築物の吹付けアスベストに着目して,その危険性が明確に認識されていたとまでいえない。そして,昭和62年中に,アスベストには安全閾値がないことが明らかにされると,全国紙が相次いで,吹付けアスベスト曝露の危険性を報道するようになり,これに呼応して全国各地で吹付けアスベストの除去工事が行われるようになったこと,これと併行して,行政も,文部省が昭和62年7月に,全国全ての公立小・中・高校を対象に,吹付けアスベストの実態調査を実施し,吹付けアスベストの除去工事が進められることになり,同年9月には,建設省が既存建物の通常の使用状態において,空気中に石綿が飛散するおそれのある吹付け材等については飛散防止又は撤去のための方策を取ることを通知し,同年11月には,建設省が建築基準法令の耐火構造の指定から吹付けアスベストを削除したこと,昭和63年2月には,環境庁・厚生省が都道府県に対し,吹付けアスベストの危険性を公式に認め,建築物に吹き付けられたアスベスト繊維が飛散する状態にある場合には,適切な処置をする必要があること等を建物所有者に指導するよう求める通知を発したことからすれば,遅くとも,上記通知が発せられた昭和63年2月ころには,建築物の吹付けアスベストの曝露による健康被害の危険性及びアスベストの除去等の対策の必要性が広く世間一般に認識されるようになり,同時点で,本件建物は通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになったと認めるのが相当である。

イ これに対し,第1審被告は,昭和63年2月以後も,吹付けアスベストが露出したままの建物が多数存在していたことなどから,我が国において,建物の吹付けアスベストの危険性についての一般的認識は,どんなに早くても平成17年2月24日の石綿障害予防規則制定日以降であると主張する。

確かに,昭和63年2月以後も,吹付けアスベストが露出したままの建物が多数存在していたことは窺われるものの(乙31~33,39),それは吹付けアスベストが多数使用されていて対応が追いつかなかったにすぎないのであって,前記1で認定した事実によれば,既に,昭和62年中に建築物の吹付けアスベストの曝露による健康被害の危険性及びアスベストの除去等の対策の必要性が全国紙等を通じて広く報道されていたのであるから,一般人としても,同年中には,吹付けアスベストの危険性やその除去等の対策の必要性を認識していたのは明らかであるといえる。また国により既に存在する建物壁面等の吹付けアスベストに対する明確な規制がされたのは,確かに,平成17年2月24日に制定され,同年7月1日に施行された石綿障害予防規則であるが,行政の規制は,諸般の事情により,本来規制されるべき時期より遅れてされることもあるから,工作物が通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになった時期を認定するに当たって,行政の対応のみに着目して行うのは相当ではないし,上記のとおり,行政も,昭和62年中には,相次いで,吹付けアスベストの危険性に対する部分的な対応をし,昭和63年2月には,法令ではないにせよ,環境庁・厚生省が都道府県に対し,建築物に吹き付けられたアスベストに対する適切な処置をする必要があること等を公式に通知しているのであるから,遅くとも同時期には,行政も公式に,吹付けアスベストの危険性及びこれに対する対策の必要性を認めていたといえ,行政の対応も,同時期をもって,本件建物が通常有すべき安全性を欠くと評価されるようになったと認めることの妨げとなるものではない。

したがって,第1審被告の上記主張は採用できない。

ウ なお,証拠(甲A3,甲A11の1,甲A26)及び弁論の全趣旨によれば,H文具は,E社から本件建物をスケルトン貸しで借り受けたが,いわゆる屋根裏部分(ちょうど,壁面にアスベスト吹付け材が施工されている空間部分)を天井板や床板で仕切って本件2階倉庫部分を造ったことが認められるが,屋根裏部分を倉庫等として利用することは,商業用店舗においては少なからず実践されている利用方法であって,この事実によって,H文具の本件建物の使用方法が異常なものであり,本件建物には,設置又は保存上の瑕疵がなかったということはできない。また,同じく弁論の全趣旨によれば,太郎は,密閉された本件建物2階倉庫内で,格別粉じんに対する予防策を講じずに壁面落下物を吸引しながら作業に従事していた事実が認められるけれども,太郎は文具店の店長であり,本来的に粉じんが飛散する工場等の作業現場で働く者ではなかったことからすれば,粉じんに対する予防策を執らなかったことをもって,直ちに本件建物の異常な使用方法であり,本件建物には,設置又は保存上の瑕疵がなかったということもできない。

(2)  本件建物における設置又は保存の瑕疵の責任主体について

ア 民法717条1項によれば,土地の工作物の設置又は保存に瑕疵があることによって他人に損害が生じたときに,被害者に対して第一次的に責任を負担するのは「占有者」と規定されている。

そして,民法717条1項は,危険な工作物を管理支配する者が当該危険が具体化したことによる責任を負うべきであるという危険責任の考え方に基づくものであると解され,そのことからすれば,同項にいう「占有者」とは,物権法上の占有概念に基づく占有を有する者に限らず,被害者に対する関係で管理支配すべき地位にある者をいうと解するのが相当である(最高裁判所平成2年11月6日第三小法廷判決・裁判集民事161号91頁は,ガス消費設備の貸与者として,専ら同設備の保守,管理及び操作を行っていた会社につき,同設備の占有者に当たるとして,同設備の貸与を受けてこれを使用していた会社に対する民法717条1項に基づく責任を認めている。)。

イ 前記前提事実,証拠(認定に用いた証拠は各文末尾に記載する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(ア) 本件建物は,頻繁に電車が往来する鉄道の高架下にあり,電車が通るたびに,棚に置いた商品が徐々にずれる程度の振動が生じていた。特に,昭和61年~62年ころ以降は,アスベスト吹付け材の経年劣化も相俟って,本件粉じんが目立って飛散し,本件2階倉庫の商品棚,商品及び床面等に降り積もっている状態であった。(以上,前記2(1)ウ(イ)で認定のとおり。)

(イ) 本件建物の所有者であるE社(証拠(乙11,12,13の1~6)によれば,昭和44年12月,E社を建築主として,本件建物の建築が開始され,昭和45年3月ころ,本件建物が竣工したこと,E社ないしE社から商号変更した新F社は,本件建物に係る昭和46年度,昭和48年度,昭和51年度,昭和54年度,昭和57年度,昭和60年度の各固定資産税を,本件建物の所有者として支払ったことが認められ,これらの事実を総合すれば,昭和45年当時の本件建物の所有者はE社であったことが推認できる。)は,昭和45年3月2日,本件賃貸借契約を締結し,H文具に対し,本件建物を賃貸した(前記前提事実(3)ア)。

本件賃貸借契約では,本件建物が駅高架下に存在するという鉄道施設に関連した特殊物件であることを前提に(甲A8第1条,甲A40第1条,弁論の全趣旨),E社に対し,管理上必要があるときに,本件建物に立ち入り,必要な措置を執る権限を認めていた(甲A8第13条,甲A40第13条,弁論の全趣旨)。

(ウ) 本件賃貸借契約上,E社は,本件建物の主体建築物及び基礎的施設の維持管理に必要な修繕義務を負担しているところ(甲A8第12条,甲A40第12条),本件2階倉庫の壁面には,クロシドライトを含有する吹付け材が施工されている(前記2(1)ウ(ア)で認定のとおり。)。

ウ  上記認定事実によれば,①E社は,本件建物の所有者として,本件建物が駅高架下に存在するという鉄道施設に関連した特殊物件であることを前提に,本件賃貸借契約を締結し,同契約においては,E社に対し,管理上必要があるときに,本件建物に立ち入り,必要な措置を執る権限が認められていたこと,②本件賃貸借契約上,賃貸人であるE社は,本件建物の主体建築物及び基礎的施設の維持管理に必要な修繕義務を負担しているところ,本件2階倉庫の壁面には,アスベスト吹付け材が施工されており,電車の振動及び経年劣化により,本件2階倉庫部分には本件粉じんが飛散し得る状態であったことが認められる。これらの事実によれば,吹付けアスベストが施工された本件2階倉庫の壁面につき修繕等の措置を執ることが許容されているのは専ら賃貸人たるE社ないし新F社であるから,E社ないし新F社は,本件建物の賃借人の従業員として本件建物内で勤務していた太郎に対する関係で,本件建物を管理支配すべき地位にある者として,民法717条1項にいう占有者に当たると認めるのが相当である。なお,本件において,E社ないし新F社が民法717条1項ただし書きの「損害の発生を防止するのに必要な注意をしたこと」の主張・立証はされていない。

エ これに対し,第1審被告は,本件建物の直接占有者は,H文具であり,仮に本件建物にアスベスト吹付け材が施工された壁があることが本件建物の設置又は保存の瑕疵に当たるとしても,同瑕疵に係る太郎の損害に対する第一次的な責任は,H文具が負うべきであると主張する。

確かに,本件建物の賃借人であったH文具も,賃借人として本件建物を占有していたのであるから,民法717条1項の適用上,太郎に対する関係で本件建物の占有者に当たると認められる余地はある。

しかしながら,民法717条1項にいう「占有者」,すなわち,土地の工作物の設置又は保存の瑕疵の責任主体は,複数存在しても支障はないのであるから(最高裁判所昭和31年12月18日第三小法廷判決・民集10巻12号1559頁で,「間接占有者」も同条項にいう「占有者」に当たるとされているのは,当然に,複数の「占有者」が存在することを前提としている。),H文具が民法717条1項の適用上,太郎に対する関係で本件建物の占有者と認められるとしても,そのことから直ちに,H文具が第一次的に責任を負うとして,第1審被告の責任が免除され,あるいは軽減されると解することはできない。

したがって,第1審被告の上記主張は採用できない。

オ 以上のとおり,本件建物における設置又は保存の瑕疵の責任主体は,その責めを負うべき期間(すなわち,前記で判断した昭和63年2月ころから,太郎が悪性胸膜中皮腫を発症した平成13年11月ころまでの間)に占有者であったE社(昭和48年2月末日まで)ないし新F社(同年3月1日以降)の地位を承継した第1審被告となる。

そうすると,第1審被告は,第1審原告らに対し,民法717条1項に基づき,後に検討する太郎が被った損害につき賠償する義務がある。

4  本件建物の設置又は保存上の瑕疵と太郎の死亡との間の相当因果関係の有無(争点(6))について

(1)  第1審被告の責任期間内の太郎の石綿粉じん曝露と太郎の悪性胸膜中皮腫発症との間の相当因果関係について

前記2で判断したとおり,太郎の悪性胸膜中皮腫は,昭和45年から平成13年ころまでの本件2階倉庫における吹付けアスベスト由来のアスベスト(クロシドライト)被爆を発症原因としていると認められる。

この点につき,第1審被告は,石綿の曝露開始時期から中皮腫発症までには,平均36.9年の長期間の潜伏期間があるとされることからして,第1審被告の責任期間外の石綿曝露がなければ,太郎の中皮腫発症はなかったといえるから,第1審被告の責任期間(昭和63年2月ころから)の石綿曝露だけでは,太郎の中皮腫発症との間に相当因果関係はない旨主張している。

しかしながら,前記で認定したとおり,石綿関連疾患の「潜伏期間」とは,「最初の石綿曝露から中皮腫発症(あるいは死亡)までの期間」をいい,「中皮腫発症の原因が形成されたときから中皮腫の症状が発現した日までの期間」を意味するものではないから,上記の潜伏期間を根拠に,一番最初の石綿曝露時に吸引した石綿繊維が中皮腫発症の原因になったということはできず,最終の石綿曝露が原因となっている可能性も否定できないのである。このように,中皮腫の正確な発症機序は不明であるが,石綿粉じん曝露と中皮腫などの石綿関連疾患との間には,量-反応関係があり,累積曝露量が多くなればなるほど,発症のリスクは確実に高まることが認められる上,第1審被告の責任期間(昭和63年2月ころから発症した平成13年11月ころまで)自体も約13年9か月という長期間で,それ自体,中皮腫の潜伏期間として相当と考えられる期間であることからすると,第1審被告の責任期間内の石綿粉じん曝露と,第1審被告の責任期間外の石綿粉じん曝露の両者が不可分一体となって太郎を悪性胸膜中皮腫に罹患させたと推認するのが相当である。そして,第1審被告において,太郎の中皮腫発症が専ら,第1審被告の責任期間外の石綿粉じん曝露によるのではないかとの疑いを抱かせる程度の反証がされていない以上,第1審被告の責任期間内の太郎の石綿粉じん曝露と太郎の中皮腫発症との間の因果関係は高度の蓋然性をもって立証されていると認められる。

(2)  太郎の悪性胸膜中皮腫発症と太郎の死亡との間の相当因果関係について

ア 証拠(認定に用いた証拠は,各文末尾に記載する。)及び弁論の全趣旨によれば,太郎の症状の経過につき以下の事実が認められる。

(ア) 太郎は,平成14年7月,悪性胸膜中皮腫との診断を受け(前記前提事実(4)イ),同月以降,中皮腫につき,抗がん剤治療を受け始めた(甲A49・4頁)。治療開始後の同年10月~11月には,担当医師から良好な状態である旨告げられていたが,平成16年1月24日には,医師から毎週抗がん剤の点滴が,また,同年2月22日には,週に2回抗がん剤の点滴が必要となり,それぞれ指示どおりの点滴が行われるようになった(甲A49・5~8頁,弁論の全趣旨)。

また,平成14年に太郎の肺に胸水が確認され,7月に胸水を除去した後,太郎の胸水の量は,増減はあるものの,経過観察で足りる程度であったが,平成16年4月12日には,レントゲン撮影により,再び胸水の増加が確認され,同日,Kセンター(以下「本件センター」という。)に入院の上,同月19日に胸水の除去が行われた(甲A49・4~8頁)。

(イ) 太郎は,平成16年4月20日ころから咳き込むようになり,同月23日には気胸が確認され,その後,呼吸困難に陥った。胸水も増加し,ドレーンによる排水が実施された。(以上,甲A49・8頁)同年5月には,いったんは肺の状態が改善されたものの,再度胸水が溜まり,気胸からの空気の漏れも見られるようになった(甲A49・9頁)。

(ウ) 平成16年6月になっても,太郎の胸水は改善されず,同月中旬ころからは,太郎には微熱,食欲不振などの症状が見られるようになり,衰弱が目立つようになった(甲A49・10頁)。太郎は,同月19日,「ドクターの説明によっては決断しなければ」,「家族を開放してやりたい。」と日記に記載し(甲A50),また,21日には「もう生きる希望がなくなった」と医師に伝えるようになった(甲A49・10頁,甲A50)。同月下旬に入ると,太郎は,右肩胛骨下付近の腫れと痛みが著しくなり,不眠症状も見られるようになり,また,呼吸困難のため,外出の際には酸素ボンベが必要な状態となっていた。(以上,甲A49・10頁,11頁,第1審原告花子本人・9頁)

そのような中,太郎は,同年6月23日に本件センター心療内科のo医師(以下「o医師」という。)により,「悪性胸膜中皮腫の治療見通しに対しての精神,心理的ストレス」を原因とする「適応障害(不安と抑うつ気分を伴う混合型)」と診断され,薬物療法及び支持的カウンセリングを受けることとなった(甲A2,甲A36)。

(エ) 太郎は,平成16年6月28日に本件センターを退院した後も呼吸困難を訴えており,その原因として,左肺側に胸水が貯留し始めていることが考えられると医師から説明があった(甲A49・11頁,12頁,第1審原告花子本人・9頁)。太郎は,同年7月4日,再び「死にたい。」などと日記に記載した(甲A50)。同月8日には,太郎は,症状悪化のため再度本件センターに入院した(甲A49・11頁,12頁,第1審原告花子本人・9頁)。

同月9日,痛みを座薬で抑えていた太郎の左側肺にドレーンを留置し,胸水の排水を開始したが,太郎は,同月14日~16日,右側肺にも管を留置し,呼吸を楽にすることを強く希望した(甲A49・12頁,13頁)。このころ,太郎は,「死ぬのは怖くないが,息ができないのが苦しい。」と漏らすようになり,また,太郎は食事が摂れておらず,衰弱していたため,同月18日には,ブドウ糖の点滴が開始された(甲A49・13頁)。同月14日の心療内科受診時,太郎には,不眠,不安,抑うつ気分の再燃が見られた。なお,太郎には,中皮腫に伴う心身の苦痛,苦悩以外のストレス要因は診療経過上確認されなかった。(以上,甲A36)。

(オ) 平成16年▲月▲日,太郎は,とにかく胸水を抜いてほしい旨希望したが,同日午後5時過ぎ,主治医は,第1審原告花子及び同月子に対し,衰弱が激しく体力が低下しているためこれ以上胸水を抜くことができない,余命は4,5日であると伝えた(甲A49・13頁,14頁,第1審原告花子本人・12頁,13頁)。これを受けて,第1審原告月子が,太郎に対し,胸水を抜くことができないことを伝えたところ,太郎は深く絶望した様子で,崩れ落ちるような状態であった(甲A49・14頁,第1審原告花子本人・13頁)。

(カ) 太郎は,平成16年▲月▲日午後10時51分,本件センターにおいて,投身自殺により死亡した(前記前提事実(5)ア,甲C27)。

イ さらに,証拠(甲A36,37)によれば,適応障害と自殺との関係について,以下の事実が認められる。

(ア) 適応障害とは,はっきりと確認できるストレス(がんの診断や再発の告知など)に関連して起こる不安・抑うつで,上記ストレスにより予測されるものをはるかに超えた苦痛あるいは社会的,職業的機能の著しい障害を生じている状態である(DSM-Ⅳ)。がん患者に多いのは,不安と抑うつを伴う適応障害である。(以上,甲A36・資料3頁)

(イ) 適応障害は,その病態として自殺念慮が出現する蓋然性が高い精神障害の一つと医学的に認められている(甲A36,37)。

(ウ) o医師は,臨床医学的知見から,太郎の自殺につき,中皮腫による適応障害(不安と抑うつ気分を伴う混合型)の精神症状(特に抑うつ気分)が自殺行動の誘因となった可能性がある旨推定している(甲A36)。

ウ 上記認定事実によれば,①太郎は,平成14年7月に悪性胸膜中皮腫との診断を受け,中皮腫の治療を開始したところ,中皮腫はいったん改善傾向を見せたものの,その後はむしろ悪化し,腫瘍の痛みの増強とともに,胸水の増加やそれに伴う呼吸困難,衰弱が生じたこと,②そのような症状悪化と肉体的苦痛が持続していた状況のもとで,太郎は,自ら死を希求する趣旨の発言をするようになり,心療内科医により適応障害と診断されるに至ったこと,③他方,診療経過上,中皮腫以外のストレス要因は認められなかったことが認められ,これらの事実を総合すると,太郎は,前記o医師の診断どおり,中皮腫の症状の悪化による重度の精神的心理的ストレスにより適応障害を発症したものと認めることができる。したがって,太郎の悪性胸膜中皮腫と適応障害との間には,相当因果関係があるというべきである。

また,上記認定事実によれば,太郎が適応障害と診断された後,太郎の疼痛及び呼吸困難は一層悪化したため,太郎は,特に呼吸困難に苦しみ,胸水を抜くことを強く希望していたが,その希望が医師により断られたことに深く絶望し,その直後,太郎が自殺したことが認められる。そして,このような太郎の病態や診療経過に鑑みると,太郎は,かねてから適応障害によって自殺念慮を抱き,自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されている状態に陥っていたところ,主治医によってもはや呼吸困難改善のため胸水を抜くこともできない旨の絶望的見通しを告知されたのが引き金になって自殺するに至ったものと推認することができる。そうすると,太郎の中皮腫及びこれに起因する適応障害が太郎の自殺の原因であるということができるから,太郎の悪性胸膜中皮腫と自殺による死亡との間には相当因果関係があると認めるのが相当である。

エ 第1審被告は,太郎は自殺により死亡したから因果関係がないと主張するが,太郎が悪性胸膜中皮腫を原因とする適応障害によって自殺念慮を抱き,自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されていたこと,主治医が呼吸困難改善のため胸水を抜くこともできない旨の見通しを告知したこと,客観的にも予後が著しく不良で余命も長くは期待できず,その間も呼吸困難による苦痛が続くことが必至であったことなどを考慮すれば,中皮腫及びこれに起因する適応障害と自殺との因果関係が認められる。

余命にある程度の幅があるからといって太郎の精神的負担が必ずしも緩和されるとは解されないし,治療による症状緩和の可能性や病院の患者管理に問題があった可能性などはいずれも抽象的指摘にとどまり,採用できない。

(3)  まとめ

上記のとおり,第1審被告の責任期間内の太郎の石綿粉じん曝露と太郎の悪性胸膜中皮腫発症との間の相当因果関係,太郎の悪性胸膜中皮腫と自殺による死亡との間の相当因果関係はいずれも認められるから,本件建物の設置又は保存上の瑕疵と太郎の死亡との間には,相当因果関係が認められるというべきである。

5  太郎の被った損害及び損害額(争点(7))について

(1)  太郎の入通院,治療及び休業関係の損害額

ア 治療関係費 505万8261円

(ア) 証拠(認定に用いた証拠は,各文末尾に記載する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

a 太郎は,N総合病院に,以下のとおり入通院し,診療費として16万9730円を支払った(甲C1の1~5,甲C31)。

(a) 平成14年6月6日通院

(b) 平成14年▲月▲日から同月21日までの12日間,検査のため入院(その間,悪性胸膜中皮腫との診断を受けた。)

b 太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療のため,J病院に,以下の期間に入通院し,診療費として84万1740円を支払った(甲C2の1~40,甲C32)。

(a) 平成14年6月21日通院

(b) 平成14年7月1日から同年9月3日までの65日間は,検査,治療のために入院

(c) 平成15年11月28日から同年12月5日までの8日間は,悪性胸膜中皮腫を原因とする右脇腹腫瘍摘出のために入院

(d) 平成16年1月14日から同月27日までの14日間は,抗がん剤治療のために入院

c 太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療のため,R診療所に平成14年7月26日から同年11月14日までの間に6日間通院し,診療費として36万3620円を支払った(甲C3の1~6,甲C33)。

d 太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療のため,S病院に平成14年10月26日から平成16年2月29日までの間,断続的に通院し,以下のとおり治療費・薬剤費を支払った(甲C4の1~51,甲C5の1~53,甲C34,弁論の全趣旨)。

(a) S病院に対し,治療費として89万2530円(甲C4(枝番含む。)記載額の合計98万5280円から,再発行された領収書である甲C4の1と重複する甲C4の2~8の記載額合計9万2750円を控除した金額)

(b) Y薬局に対し,薬剤費として33万4500円(甲C5の2・7・8等の欄外の記載及び甲C5の3・8・9等の「前回未収額」欄の記載等に照らし,甲C5(枝番を含む。)の領収金額欄は,未収や過払いの調整を含む場合がある一方,その都度の領収金額とも必ずしも一致しない疑いがあるから,これにはよらず,請求金額欄の合計額による。)

e 太郎は,平成14年9月14日,悪性胸膜中皮腫の検査のためにT病院に通院し,検査費及び薬剤費として18万9910円を支払った(甲C6の1・2,弁論の全趣旨)。

f 太郎は,平成14年11月20日から同年12月4日の間に3日間,悪性胸膜中皮腫の検査,治療のためにUクリニックに通院し,検査費及び診療費として12万6680円(第1審原告らが同クリニックに係る請求額に掲げていない680円(甲C7の2)を含む。)を支払った(甲C7の1・2,弁論の全趣旨)。

g 太郎は,平成15年11月4日から平成16年2月19日までの間に5日間,悪性胸膜中皮腫の検査,治療のためにV病院に通院し,治療費等として2万2300円を支払った(甲C8の1~5,甲C36)。

h 太郎は,悪性胸膜中皮腫の診療のために,本件センターに以下のとおり入通院し,診療費として,24万5815円を支払った(甲C9の1~15,甲C37)。

(a) 平成14年9月25日に通院

(b) 平成16年2月9日から同年4月12日までの間(6日間)及び同年6月30日から同年7月8日までの間(4日間)通院

(c) 平成16年4月19日から同年6月28日まで及び同年7月8日から同月20日までの合計84日間入院

i 太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療のために,平成16年2月26日から同年4月17日までの間の8日間,Wクリニックに通院し,治療費として148万1370円を支払った(甲C10の1~4,甲C38)。

j 太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療のために,平成16年5月17日,同月31日,同年6月25日,同年7月1日,同月8日及び同月15日の6日間,Xクリニックに通院し,治療費等として122万5216円を支払った(甲C11の1~7,甲C39)。

k 太郎は,上記治療費のうち83万5150円につき,高額医療費返還分として給付返還を受けた(甲C15の1~17)。

(イ) 上記認定事実によれば,太郎は,悪性胸膜中皮腫に関する治療関係費として,合計505万8261円を負担し,同額の損害を被ったことが認められる。

なお,証拠(甲C12の1~2,甲C13の1~17,甲C14の1~9)によれば,太郎は,免疫力改善のため健康補助食品などを購入し,合計135万7538円を支払ったことが認められるけれども,証拠(第1審原告花子本人・25頁)によれば,これらの健康補助食品などは医師の勧めではなく自発的に試みたことが認められるので,太郎が被った相当因果関係ある損害としては認められない。

イ 通院付添費及び自宅付添費 0円

証拠(第1審原告花子本人・25頁)によれば,平成16年7月8日の本件センターへの入院の直前までは,家族の介護は必要なかったことが認められる。そうすると,太郎が,通院付添費及び自宅付添費相当額の損害を被ったとは認められない。

ウ 入院雑費 23万7900円

上記ア(ア)で認定した事実によれば,太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療等のため183日間入院しており,この間の入院雑費は1日1300円とするのが相当である。

したがって,入院雑費は,1300円に入院日数183日を乗じた23万7900円となり,太郎は同額の損害を被ったと認められる。

エ 通院交通費等 45万4118円

(ア) 証拠(認定に用いた証拠は,各文末尾に記載する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

a 太郎は,本件センターへの通院の際,駐車場代として,3000円を支払った(甲C16の1~9,弁論の全趣旨)。

b 太郎は,Wクリニックへの通院の際,新幹線代として26万6000円を,レンタカー代として6993円を,宿泊代として8万7155円を,それぞれ支払った(甲C17の1~10,甲C18,甲C19の1~4,弁論の全趣旨)。

c 太郎は,S病院,本件センター,J病院への通院の際,高速代として7万6220円を支払った(甲C20の1~7,弁論の全趣旨)。

d 太郎は,Xクリニックへの通院の際,タクシー代として1万4750円を支払った(甲C21の1・2,弁論の全趣旨)。

(イ) 上記認定事実によれば,太郎は,Wクリニック,S病院,本件センター,J病院,及びXクリニックへの通院の際,交通費として合計45万4118円を支出したことが認められるところ,上記ア(ア)で認定したとおり,太郎は,これらの病院に,悪性胸膜中皮腫の診療,治療等のために通院していたこと,Xクリニックへの通院日のうち,平成16年5月17日,同月31日,同年6月25日及び同年7月15日は,太郎は本件センターに入院しており,その他の通院日である同年7月1日及び同月8日において,上記4(2)ア(エ)で認定したとおり太郎は呼吸困難を訴えていたことを考慮すると,太郎が支出した交通費45万4118円は,太郎が被った損害と認められる。

オ 器具購入費 1万1380円

証拠(甲C22,弁論の全趣旨)によれば,太郎は,平成16年6月,自宅で寝起きする際の苦痛を緩和するため介護用ベッドを購入し,その代金として1万1380円を支出したことが認められるので,当該購入費用は太郎が被った損害と認められる。

これに対し,証拠(甲C23の1・2,第1審原告花子本人・26頁)によれば,太郎は,悪性胸膜中皮腫の治療のため,温灸器及びもぐさを購入し,8万9145円を支払ったことが認められるけれども,証拠(第1審原告花子本人・25頁)によれば,当該温熱療法は医師の勧めではなく自発的に行ったことが認められるので,太郎が被った相当因果関係ある損害として認められないというべきである。

カ 休業損害 815万3589円

証拠(証人n・17頁,第1審原告花子本人・19頁,甲C24,弁論の全趣旨)によれば,太郎は,H文具での勤務により,平成13年は386万円の収入を得ていたところ,平成14年▲月▲日にN総合病院に入院してから平成16年▲月▲日に死亡するまでの771日間,悪性胸膜中皮腫により稼働できなかったことが認められるので,上記期間に太郎が被った休業損害は,以下のとおり815万3589円(円未満切り捨て。以下同じ)となる。

3,860,000×(771÷365)≒8,153,589

キ 入通院慰謝料 391万円

上記ア(ア)で認定したとおり太郎は,悪性胸膜中皮腫のため,平成14年6月6日にN総合病院に通院し始めてから平成16年▲月▲日に本件センターで死亡するまでの間(合計25か月),183日間入院し,入院期間以外は通院していた。

上記入通院に対する慰謝料の額は,391万円が相当である。

ク 小計 1782万5248円

したがって,太郎の入通院,治療及び休業に関する損害は,上記ア~キの合計額1782万5248円となる。

(2)  太郎の死亡による損害額

ア 葬儀関係費用 150万円

証拠(甲C25,甲C26の1・2)によれば,太郎の葬儀関係費用として354万7563円が支出されたことが認められ,このうち,150万円が,太郎の死亡と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。

イ 死亡による逸失利益 1340万1302円

太郎は,死亡当時70歳であった(争いがない。)ことからすれば,その平均余命14年の2分の1の7年間を就労可能期間とし,中間利息控除として同期間に対応するライプニッツ係数(5.7864)を用いて逸失利益を計算するのが相当である。また,証拠(甲A49・3頁,甲C24,27)によれば,太郎は,死亡当時一家の支柱であり,妻の第1審原告花子を扶養していた(太郎の子であるその余の第1審原告らは,いずれも独自の収入を得ていた。)ことが認められるから,太郎の生活費の控除割合は4割とするのが相当である。そこで,上記(1)カで認定した年収386万円を基に,生活費控除割合を4割として逸失利益を算出すると,太郎の死亡による逸失利益は,以下のとおり1340万1302円となる。

3,860,000×(1-0.4)×5.7864≒13,401,302

ウ 死亡慰謝料 2800万円

太郎の死亡慰謝料は,2800万円とするのが相当である。

エ 小計 4290万1302円

したがって,太郎の死亡による損害は,ア~ウの合計額4290万1302円となる。

6  過失相殺,損益相殺の主張の当否(争点(8))と第1審原告らの相続について

(1)  過失相殺の主張の当否について

ア 太郎が平成16年▲月▲日に自殺により死亡したことは前記前提事実(5)ア記載のとおりである。

証拠(甲A36)によれば,平成11年の報告では我が国のがん患者の自殺率は0.2%であったと認められるが,がんの種類,重篤度,苦痛の大小,予後の見込み,合併症等の有無などは様々であると考えられ,単にがん患者中自殺者の割合が小さいからといって,太郎の行動が異常なものであるとか,その資質に原因があるなどと即断することはできない。そして,上記のとおり,太郎が悪性胸膜中皮腫を原因とする適応障害によって自殺念慮を抱き,自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されていたこと,主治医が呼吸困難改善のため胸水を抜くこともできない旨の見通しを告知したこと,客観的にも予後が著しく不良で余命も長くは期待できず,その間も呼吸困難による苦痛が続くことが必至であったことなどを考慮すれば,自殺について民法722条2項による過失相殺ないしその類推適用を行うことは相当ではないというべきである。

イ H文具が,本件建物に天井等を加えて本件2階倉庫部分を造って利用したこと,太郎が,ほぼ密閉された本件建物2階倉庫内で,格別粉じんに対する予防策を講じずに粉じんを吸引しながら作業に従事したことは,本件建物の使用方法として異常とまでいうことはできない。

他方,H文具及び太郎の上記利用方法ないし作業形態も,太郎の本件粉じん吸引による悪性胸膜中皮腫の発症に一定程度寄与したと推認することができ,また,アスベスト由来であるか否かにかかわらず,粉じんの継続的吸引が健康に何らかの影響を及ぼすであろうことは,特段の専門的知識がなくとも認識し得るから,損害の公平な分担の観点から,民法722条2項により,太郎が被った全損害から1割を減額するのが相当である。

ウ そうすると,太郎の損害額は,前記の1782万5248円と,4290万1302円とを合計した6072万6550円から1割を減額した5465万3895円となる。

そして,太郎の配偶者である第1審原告花子及び子である第1審原告風子,同月子,同一郎は,太郎の損害賠償請求権をそれぞれ法定相続分(第1審原告は2分の1,その余の第1審原告らは各6分の1)により相続したから,第1審原告花子の損害額は2732万6947円,その余の第1審原告らは各910万8982円である。

(2)  損益相殺の主張の当否について

第1審原告花子は,太郎の死亡後,独立行政法人環境再生保全機構に対し,石綿による健康被害の救済に関する法律に基づき,太郎の死亡に関する救済給付申請を行い,平成19年8月29日,太郎の死亡について石綿起因性が認められて,特別遺族弔慰金280万円及び特別葬祭料19万9000円,以上合計299万9000円の支給決定がされ,同額の支給を受けたことは当事者間に争いがないところ,このうち,特別葬祭料19万9000円は,損益相殺の対象となるものであるから,これを控除すると,第1審原告花子の損害額は,2712万7947円である。

これに対し,特別遺族弔慰金は,石綿による健康被害の迅速な救済を図ることを目的とするものであり(石綿による健康被害の救済に関する法律第1条),損害を填補する性質を有するものということはできないから,損益相殺の対象とならないというべきである。

7  弁護士費用について

本件事案の内容,難易度,審理経過及び認容額等に鑑みると,第1審被告に賠償させるべき弁護士費用は,第1審原告花子につき280万円,その余の第1審原告らにつき各90万円(合計550万円)とするのが相当である。

以上によれば,第1審原告花子の損害額は,2992万7947円,その余の第1審原告らの損害額はそれぞれ1000万8982円(合計5995万4893円)となる。

8  第1審被告は,本件建物の所有者として,本件建物の安全性確保義務を負担し,同義務違反として民法709条の責任を負うか(争点(4)),第1審被告は,賃貸人として,本件建物の賃借人の役員又は従業員に対する安全性確保義務を負担し,同義務違反として民法415条又は民法709条の責任を負担するか(争点(5))について

仮に,第1審被告に上記各責任が認められるとしても,上記5で判示したところから明らかなとおり,損害額の認定において,上記認定に係る損害額を上回る損害額が認定される余地はないから,上記各責任について判断する必要はない。

9  結論

以上によれば,第1審原告らの第1審被告に対する本訴請求は,第1審原告花子につき2992万7947円,その余の第1審原告らにつき各1000万8982円及びこれらに対する訴状送達の日の翌日である平成18年6月22日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容すべきであるが,その余の請求は理由がないから棄却を免れない。

よって,第1審原告らの控訴に基づき,これと異なる原判決を上記の趣旨に変更し,第1審被告の控訴をいずれも棄却することとして,主文のとおり判決する。なお,第1審被告の民訴法260条2項に基づく原状回復請求及び損害賠償請求の申立ては,本案判決の変更されないことを解除条件とするものであるところ,上記の結論は,第1審被告の第1審原告らに対する金員支払の根拠となった差戻前控訴審の判断と同旨であるから,第1審被告の上記申立てについて判断を示す必要はない。

(裁判長裁判官 山下郁夫 裁判官 神山隆一 裁判官 小堀悟)

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