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大阪高等裁判所 平成25年(ネ)3533号 判決 2014年9月18日

控訴人

被控訴人

同訴訟代理人弁護士

木村達也

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

一(1)  原判決主文第一項を取り消す。

(2)  上記取消部分につき、被控訴人の請求を棄却する。

二(1)  原判決主文第三項を取り消す。

(2)  被控訴人は、控訴人に対し、平成二四年一〇月一日から原判決別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)明渡しの日の属する月の月末に至るまで、一か月当たり八万円及び各月の金員に対する各月一日から支払済みに至るまで年一四・六%の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  事案の要旨

控訴人は、被控訴人との間で、本件建物(マンションの一戸)を賃貸する契約を締結し、これに基づき、被控訴人に対し、上記建物を引き渡した。

本件の原審本訴事件は、被控訴人が、「上記建物内で過去に居住者が自殺したとの事実があり、控訴人は、上記事実を知っていたのに、これを秘匿し被控訴人に対して上記事実を告知することなく上記賃貸借契約を締結し、これによって、被控訴人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」などと主張し、不法行為(又は債務不履行)に基づき、損害賠償金一四四万四七〇二円(後記三(1)イ(被控訴人の主張)の損害合計)及びこれに対する不法行為の日の後である(また、訴状送達の日の翌日である)平成二四年一一月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

本件の原審反訴事件は、控訴人が、被控訴人に対し、主位的に、上記建物賃貸借契約に基づき、平成二四年一〇月一日から上記建物明渡しの日の属する月の月末に至るまで、一か月当たり八万円の賃料及び各月の賃料に対する各月一日から支払済みに至るまで約定の年一四・六%の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに、予備的に、不当利得返還請求権に基づき、平成二四年一〇月一日から上記建物明渡しの日の属する月の月末に至るまで、一か月当たり八万円の不当利得金の返還及び各月の不当利得金に対する各月一日から支払済みに至るまで年一四・六%の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

原審は、被控訴人の原審本訴請求のうち、損害賠償金一〇四万〇六九二円及びこれに対する平成二四年一一月二六日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分を認容し、その余の請求を棄却した。また、控訴人の原審反訴請求をいずれも棄却した。控訴人は、上記敗訴部分を不服として控訴した。

二  前提事実

次の事実は、当事者間に争いがないか、又は、証拠(後掲のもの)及び弁論の全趣旨により認めることができる。

(1)  控訴人は、兵庫県弁護士会所属の弁護士である。

被控訴人は、人材派遣会社に勤務し、運送会社の下請業者の下で運転手として配達業務に従事している。

被控訴人の妻A(旧姓A1)は、平成二四年八月当時は、未入籍であり、その後、被控訴人と婚姻したものである。

(2)  本件建物は、Bがもと所有していたが、住宅金融公庫に対して設定された抵当権の実行により競売に付され、控訴人は、平成二三年五月二日、競売による売却に基づき、本件建物の所有権を取得した。同日当時、本件建物には、C(以下「C」という。なお、Cは、以前、Bの妻であったが、既に離婚していた。)が単独で居住していたが、Cは、同月五日頃、死亡した。

(3)  控訴人は、本件建物を取得した後、株式会社a(以下「a社」という。)に対し、本件建物の賃貸借契約の仲介を委託した。

被控訴人は、平成二四年七月三〇日までに、Aに対し、本件建物の賃貸借契約について、仲介業者であるa社から重要事項説明を受けること、上記賃貸借契約を締結するに当たり賃貸人又は仲介業者に支払う必要のある礼金、賃料等の金員を支払うことを委任し、上記金員をAに交付した。

Aは、同日、a社から本件建物の賃貸借契約に関する重要事項説明を受けた。

Aは、同日、a社に対し、被控訴人の使者として、上記賃貸借契約及び媒介につき四四万〇六九二円(①賃貸保証料三万二〇〇〇円、②礼金二四万円、③平成二四年八月分(八/二九~八/三一)日割り賃料七七四二円、④同年九月分賃料八万円、⑤住宅保険代二万六七〇〇円、⑥「暮らし安心サポート24」代金一万五七五〇円、⑦防虫・消毒費一万七五〇〇円、⑧仲介手数料二万一〇〇〇円の合計)を支払った。

(4)ア  控訴人は、a社の仲介により、平成二四年八月二九日、被控訴人に対し、本件建物を次の約定で賃貸し(以下「本件賃貸借契約」という。)、これに基づき、本件建物を引き渡した。

(ア) 賃料 一か月八万円

(イ) 賃貸期間 同日から平成二六年八月二八日まで

(ウ) 賃料支払方法 毎月末日までに翌月分の賃料を支払う。

(エ) 賃料の遅延損害金 年一四・六%

(オ) 特約 賃料は解約時には日割計算しないものとする。

イ  被控訴人は、本件賃貸借契約を締結する以前、控訴人、a社及びその他の者から、本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実がある旨の話を聞いたことがなく、本件賃貸借契約を締結した当時、上記事実を認識していなかった。

(5)  木村達也ほか四名の弁護士(以下「木村ら」という。)は、平成二四年九月二〇日到達の書面で、被控訴人の代理人として、控訴人に対し、「控訴人は、平成二四年八月二九日、被控訴人に対し、本件建物を賃貸した。被控訴人は同日引越しをしたが、直後に本件建物は前所有者が競落後にその中で自死したことが判明した。被控訴人の妻は、この事実を知り驚愕し、精神的パニック症状を呈し、本件建物に居住を続けることは不可能な状態にある。控訴人は、一連の事実を認識していたものであり、仲介業者に『心理的瑕疵がある物件』であることを秘して賃貸物件として仲介依頼をしており、甚だ遺憾な事態である。当職は、控訴人に対し、本件賃貸借契約の取消し並びにこの契約に伴う被控訴人に発生した九三万五六九二円(①契約締結に伴い支払った金員(四一万九六九二円及び仲介料二万一〇〇〇円)、②引越し並びに再引越しに伴う損害金一三万五〇〇〇円、③電気工事(クーラー移設費用など)六万円、④慰謝料三〇万円の合計)の損害の支払を求める。平成二四年九月二七日までに上記支払を求める。」旨の通知・表示をした(以下「本件通知等」という。)。木村らは、本件通知等をするに先立ち、被控訴人からその代理権の授与を受けた。

三  争点及び争点に関する当事者の主張

(1)  被控訴人の不法作為(又は債務不履行)に基づく損害賠償請求について

ア 控訴人が、被控訴人に対し、本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実がある旨告知しなかったことなどは、不法行為(又は債務不履行)を構成するか

(被控訴人の主張)

(ア) Cは、本件建物に居住していたところ、平成二三年五月五日頃、本件建物内で自殺した。控訴人は、その後間もなく、その事実を知った。

(イ) 控訴人は、被控訴人との間で、本件建物を賃貸する旨の契約を締結するに当たって、信義則上、被控訴人に対し、本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実がある旨告知すべき義務があったのに上記義務に違反し、故意に上記自殺に係る事実を被控訴人に対して告知しなかった。被控訴人は、控訴人が上記告知義務に違反して上記事実を告知しなかったことにより、上記事実があることを知らずに本件賃貸借契約を締結し、賃貸保証料、礼金、賃料等を支払うとともに、引越しをして本件建物に入居した。上記は、不法行為(又は債務不履行)を構成する。

(控訴人の主張)

(ア) 被控訴人の主張(ア)のうち、Cが本件建物内で自殺したこと、その後間もなく控訴人がその事実を知ったことは、否認する。

(イ) 被控訴人の主張(イ)は争う。控訴人に、本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実がある旨告知すべき義務があったとはいえない。

イ 被控訴人が受けた損害

(被控訴人の主張)

被控訴人は、仮に控訴人から前記自殺に係る事実の告知を受けていれば、本件賃貸借契約を締結することはなく、賃貸保証料、礼金、賃料等を支払うことはなかったし、引越しをして本件建物に入居することはなかった。したがって、被控訴人は、前記ア(被控訴人の主張)の不法行為(又は債務不履行)により、次の損害を受けた。

(ア) 賃貸保証料、礼金、賃料等 四四万〇六九二円

①賃貸保証料三万二〇〇〇円、②礼金二四万円、③平成二四年八月分(八/二九~八/三一)日割り賃料七七四二円、④同年九月分賃料八万円、⑤住宅保険代二万六七〇〇円、⑥「暮らし安心サポート24」代金一万五七五〇円、⑦防虫・消毒費一万七五〇〇円及び⑧仲介手数料二万一〇〇〇円の合計は、四四万〇六九二円である。

(イ) 引越料 一八万円

(ウ) エアコン工事代金 一二万円

(エ) 治療費 四〇一〇円

被控訴人及びAは、平成二四年八月二九日及び三〇日、本件建物に引越しをしたが、同月三〇日、D(被控訴人の母。以下「D」という。)を通じ、近所の人から、本件建物は過去に居住者(前所有者の妻)が自殺した物件であることを聞いた。Aは、そのため驚愕しパニック症状を呈することとなり、実家に帰り、その後、突然家を出た。Aは、同年九月二五日、その精神症状につき治療を受けるため、bクリニックを受診し、E医師から「不安障害」との診断を受けた。被控訴人は、同日、Aの上記治療費として、bクリニックに対し、四〇一〇円を支払った。

(オ) 慰謝料 五〇万円

被控訴人は、本件建物への引越しのため三日間の休暇を取り、引越荷物の整理、荷造りを行い、運送業者に荷物の搬入を依頼し、三日間かけて引越しをした。しかし、本件建物は、過去に居住者が自殺したという心理的瑕疵のある物件であったため、入居後直ちに退去し、再度引越しをせざるを得なかった。

(カ) 弁護士費用 二〇万円

(キ) 前記(ア)ないし(カ)の合計 一四四万四七〇二円

(控訴人の主張)

(ア) 賃貸保証料、住宅保険代、「暮らし安心サポート24」代金、防虫・消毒費は、争う。相当因果関係がない。

(イ) 賃貸保証料、住宅保険代、「暮らし安心サポート24」代金は、争う。被控訴人には自ら返還を求めるべき義務があるから、損害拡大防止義務違反がある。

(ウ) 引越料、エアコン工事代金、弁護士費用は、知らない。

(エ) 治療費、慰謝料は、争う。

(2)  控訴人の賃料請求について

ア 本件建物について、民法五五九条、五七〇条、五六六条にいう「隠れた瑕疵」及び「契約をした目的を達することができないとき」に該当する事実があったといえるか

(被控訴人の主張)

Cは、本件賃貸借契約締結の一年数か月前である平成二三年五月五日頃、本件建物内で自殺した。

本件建物には、本件賃貸借契約が締結された当時、上記自殺に係る事実を内容とする民法五五九条、五七〇条にいう「隠れた瑕疵」があった。被控訴人は、本件賃貸借契約を締結した当時、上記事実を知らなかった。

被控訴人は、妊娠六か月の妻Aと共に居住する目的で本件建物につき本件賃貸借契約を締結した。本件建物内で契約締結の一年数か月前に居住者が自殺したとの事実は、そのような被控訴人にとって本件建物に居住することを困難ならしめるものであり、「契約をした目的を達することができないとき」に当たる。

したがって、被控訴人は、民法五五九条、五七〇条、五六六条に基づき、本件賃貸借契約を解除することができる。

(控訴人の主張)

被控訴人の上記主張は否認し又は争う。Cが本件建物内で自殺したことは否認し、上記「瑕疵」及び「契約をした目的を達することができないとき」に当たる事実があったこと、本件賃貸借契約を解除することができることは、争う。

イ 本件通知等は、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示を含むと解すべきか

(被控訴人の主張)

木村らが控訴人に対して平成二四年九月二〇日にした本件通知等は、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示を含むものと解すべきである。

(控訴人の主張)

被控訴人の上記主張は争う。本件通知等の内容を記載した書面には、「本件賃貸借契約の取消し」とあるだけで、解除するという文言はないから、これを解除の意思表示であると解することはできない。

ウ 被控訴人に賃料支払義務があるか

(被控訴人の主張)

前記ア及びイの被控訴人の主張のとおり、本件賃貸借契約は解除された。したがって、被控訴人には、控訴人主張に係る賃料及び遅延損害金の支払義務はない。

(控訴人の主張)

(ア) 被控訴人の上記主張は争う。本件賃貸借契約につき解除の効力は生じていない。

(イ) 被控訴人は、本件賃貸借契約について、平成二四年八月分(八/二九~八/三一)の日割賃料七七四二円及び同年九月分の賃料八万円を支払ったのみで、同年一〇月分以降の賃料を支払わない。

したがって、被控訴人には、控訴人に対し、本件賃貸借契約に基づき、平成二四年一〇月一日から本件建物明渡しの日の属する月の月末に至るまで、一か月当たり八万円の賃料及び各月の賃料に対する各月一日から支払済みまで約定の年一四・六%の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

(3)  控訴人の不当利得返還請求について

ア 被控訴人は、控訴人に対し、本件建物の明渡しをしたか。被控訴人は本件建物を占有したことにより利得を受け、そのために控訴人に損失を及ぼしたか

(控訴人の主張)

仮に本件賃貸借契約が解除されたとするならば、次のとおりである。

(ア) 被控訴人は、本件通知等により解除の意思表示がなされた日の翌日である平成二四年九月二一日以降も本件建物の明渡しをせず、本件建物を占有し続けている。

(イ) 被控訴人は、平成二四年九月二一日から現在まで、法律上の原因なく賃料相当額(一か月当たり八万円)の利得を受け、これにより控訴人に同額の損失を及ぼした。

(ウ) 被控訴人は、平成二五年五月二八日、控訴人に対し、a社を通じ、本件建物の鍵を交付した。しかし、本件賃貸借契約には、一〇条二項に、「本件建物の明渡しに際しては、借主(被控訴人)は、貸主(控訴人)の点検を受けなければならない。」旨の約定があるところ、本件において、被控訴人は、貸主である控訴人の点検を受けていないので、本件建物につき明渡しの効力は発生していない。

(被控訴人の主張)

(ア) 被控訴人は、平成二五年五月二一日(又は遅くとも同月二八日)、控訴人に対し、本件建物の鍵を返還し本件建物の明渡しをした。

(イ) 被控訴人は、本件通知等をした日から本件建物の明渡しをした日までの間、本件建物に居住したことはなく、被控訴人には利得が生じていない。

(ウ) 本件建物は、自殺物件として裁判所で係争中である上、近所でも自殺物件として評判になっていた。そのため、控訴人は、本件通知等があった日から本件建物の鍵の返還を受けた日までの間、仮に被控訴人から鍵の返還を受けていたとしても、他の者に賃貸する意思がなかった。

したがって、控訴人には、鍵の返還を受けることにより「賃料相当額の得べかりし利益」があったとはいえず、鍵の返還を受けなかった上記期間において、控訴人に賃料相当額の損失が生じたとはいえない。

イ 控訴人の不当利得返還請求は、権利の濫用・信義則違反に当たり許されないか

(被控訴人の主張)

(ア) 被控訴人は、平成二四年八月三一日、妊娠六か月であった妻Aと共に、本件建物に引越しをした。その直後に、本件建物が自殺物件であることを知り、驚き、Aの出産を控えてこのような「不吉な住居」には住めないと判断し、前住居のマンションのオーナーに事情を話して、新しい住居が見つかるまでの短期間、前住居に居住することを認めてもらい、前住居に戻った。その後休日を利用して、引起業者に依頼し、何回かに分けて本件建物から前住居に家財等の搬入を行い、同年一〇月一九日、本件建物内の残留物を搬出し本件建物を退去した。同年○月にAが出産するということがあったが、その後数か月が過ぎ生活が落ち着いたので、被控訴人は、平成二五年四月から新住居を探し、同年一〇月に適当な物件が見つかり、賃貸借契約を締結した後、平成二六年二月に新住居に引越しをした。

(イ) 一方、被控訴人は、平成二四年一〇月三一日に本件訴訟を提起した。その後、被控訴人の母は、被控訴人から預かっていた本件建物の鍵を返還しようと考え、平成二五年五月二一日、a社に鍵の返還に行ったところ、a社は、「鍵は控訴人に返還しておく。」旨述べ鍵を受け取った。控訴人は、同月二八日までに、a社から本件建物の鍵を受け取った。控訴人は、それまで、被控訴人に対して本件建物の鍵の返還を求めたことはなかった。被控訴人は、本件建物の鍵を控訴人に返還することを失念していたものであり、仮に控訴人から鍵の返還を求められていれば直ちに返還していた。

(ウ) 仮に、被控訴人が本件建物の鍵を返還し本件建物の明渡しをするまでの間、被控訴人に不当利得が生じ、これにより控訴人に損失を及ぼしたことが認められるとしても、それは、控訴人が故意に告知義務に違反し、本件建物が自殺物件であることを秘匿し被控訴人に対して告知しなかったことに起因するものであり、控訴人が被控訴人に対して不当利得として返還請求をすることは、権利の濫用又は信義則違反に当たり、許されない。

(控訴人の主張)

被控訴人の上記主張は否認し又は争う。

第三当裁判所の判断

一(1)  前記前提事実及び証拠<省略>によれば、次の事実が認められ(一部の事実は当裁判所に顕著である。)、上記認定に反する控訴人本人の供述は信用することができない(その理由は、後記(2)のとおりである。)。

ア 本件建物は、尼崎市<以下省略>に所在する「c」という名称のマンション(鉄筋コンクリート造陸屋根八階建。以下「本件マンション」という。)の中の一戸である。本件マンションには、一二九戸あり、その共用部は株式会社dがこれを管理していた。F(以下「F」という。)は、平成一七年三月以降、本件マンションの管理人であった。

イ(ア) 本件建物は、Bがもと所有していたが、住宅金融公庫に対して設定された抵当権の実行により競売に付され、控訴人は、平成二三年五月二日、競売による売却に基づき、本件建物の所有権を取得した。同日当時、本件建物には、Cが単独で居住していたが、Cは、同月五日頃、死亡した。

(イ) Fは、平成二三年五月六日(金曜日)頃、管理人室に来た控訴人から、本件建物の鍵を開けたいので鍵屋を紹介してほしいとの依頼を受け、控訴人に本件マンションが提携している鍵屋(以下「本件鍵屋」という。)を紹介した。

Fは、同月七日(土曜日)及び八日(日曜日)は休日であったので出勤しなかったが、同月九日(月曜日)に出勤したとき、本件マンションの補修工事をしていた職人や本件マンションの居住者数名が集まって話をしている場で、職人から、「同月七日、本件建物に二人の人が来た。そのうちの一人が本件建物の鍵を壊し、もう一人が本件建物の中に入ったところ、建物の中に入った人が、わあっと叫んで出てきた。」旨聞いた。また、Fは、その際、その場にいた本件マンションの居住者から、「その後、警察が来て、本件建物から、全面的にシートが掛けられた状態で何かが担架で運び出されていった。担架で運び出されたのは、本件建物内で死亡していた人ではないか。」旨聞いた。Fは、その直後、上記出来事があった日の前日に控訴人からの依頼を受けて控訴人に本件鍵屋を紹介したということがあったことから、本件鍵屋に電話をし確認したところ、本件鍵屋から、「控訴人と本件鍵屋が本件建物に行き、鍵屋において本件建物の鍵を破壊し、控訴人において本件建物の中に入ったところ、控訴人がわあという声を出して外に出てきた。」旨聞いた。

Fは、上記の職人、居住者、本件鍵屋から聞いた話の内容から、Cが本件建物内で自殺したのであろうと思った。

(ウ) 平成二三年六月頃、古物廃棄業者が、本件建物内の荷物を処分するため、本件建物に来て、本件建物から荷物を搬出した。上記古物廃棄業者は、控訴人から本件建物の中にあった荷物の廃棄を依頼され上記搬出を行ったものである。

(エ) 平成二三年九月ないし一〇月頃、リフォーム工事業者が、本件建物につきリフォーム工事をした。上記工事業者は、控訴人から依頼されて上記リフォーム工事をしたものである。

(オ) 平成二三年五月から被控訴人が本件建物に入居する平成二四年八月の前まで、本件建物に入居した者はなく、本件建物は、その間、空いていた。なお、その間、控訴人から、Fに対し、入居するから名札を付けてくださいという話があったため、Fが控訴人の名札を付けたということがあったが、実際に控訴人が本件建物に入居することはなかった。

(カ) 控訴人は、本件建物につき前記リフォーム工事をした後、平成二四年七月二八日の前までに、a社に対し、本件建物につき賃貸借契約を締結することの仲介を委託した。

ウ(ア) 被控訴人は、平成二四年七月三〇日、Aを通じ、仲介業者であるa社から本件建物の賃貸借契約に関する重要事項説明を受けた。被控訴人は、同日、Aを通じ、a社に対し、上記賃貸借契約及び媒介につき四四万〇六九二円(内訳は前記前提事実(3)のとおり。)を支払った。

(イ) 控訴人は、平成二四年八月二九日、前記前提事実(4)アのとおり、被控訴人との間で、本件賃貸借契約を締結し、これに基づき、被控訴人に対し、本件建物を引き渡した。

被控訴人は、当時妊娠六か月であったAと共に本件建物に居住する目的で本件賃貸借契約を締結したものである。被控訴人及びAは、当時、同年一一月二二日に入籍することを予定していた。

被控訴人は、本件賃貸借契約を締結する以前、控訴人、a社及びその他の者から、本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実がある旨の話を聞いたことがなく、本件賃貸借契約を締結した当時、上記事実を認識していなかった。

(ウ) 被控訴人は、同年八月二九日及び三〇日頃、Aと共に、本件建物に引越しをした。

D(被控訴人の母)は、同月三〇日頃、本件マンションの中の本件建物以外の一戸に居住する知人に会った際、知人から「本件建物について、居住者が本件建物内で自殺をするという事件があった。」旨の話を聞き、被控訴人に対し、その話を告げた。被控訴人及びAは、その話を聞き驚愕し、同日、Aは、パニック症状を呈して実家に帰り、被控訴人は、引越前に居住していたマンションに戻った。Aは、実家に帰った後、精神的不安が強くなり、パニック症状を呈して突然家を出た。そのため警察に捜索願が出された。Aは、その後、実家に帰り、同年九月二五日、その精神症状につき治療を受けるため、bクリニックを受診し、E医師から「不安障害」との診断を受けた。

(エ) 一方、Dは、同年九月上旬、G(Aの母)と共に、本件マンション管理人のFを訪ね、Fに対し、「知り合いから、本件建物は自殺物件であると聞いたが、そのような事実はあるか。」旨聞いたところ、Fは、「その当時、休みを取っていたので、自分自身が見たわけではないが、本件建物内で自殺があったと認識している。」、「鍵屋に依頼して本件建物の玄関ドアを開けて本件建物内に入ったのが控訴人自身だと聞いている。」旨述べた。

(2)  前記(1)の認定に対し、控訴人は、原審の本人尋問において、①「自分が本件建物を落札したと分かった時点で、古物営業商が来たので、古物営業商に対し、本件建物の明渡しと残存物の整理を依頼した。」旨、②「管理人のFに対し、電話で、本件マンションの鍵屋を紹介してほしい旨依頼し、Fから、鍵屋の紹介を受けた。その日又はその日以前に、現場に行った事実はない。鍵屋の紹介を依頼したのは、古物営業商から、『本件建物の鍵は特殊な鍵である。鍵屋がいるはずだから、そこの鍵屋を使ったほうが安くなる。』などという説明を受けたからである。Fから鍵屋の紹介を受けた後、古物営業商にその鍵屋のことを伝えた。『控訴人がその鍵屋と共に本件建物に行った。』との事実、『控訴人が、同行した鍵屋が本件建物の鍵を破壊した後、本件建物の中に入った。そして、わあという声を出して外に出た。』との事実は、いずれも存在しない。」旨、③「本件建物の明渡しと残存物の整理を依頼した古物営業商から、平成二三年五月五日以降に、本件建物の明渡しが終わったという報告を受けたが、その時期がいつ頃かは覚えていない。古物営業商からは、明渡しが終わったとの報告があっただけであり、本件建物に死体があったことや警察が来てその死体が搬出されたことなどの報告はなかった。」、「本件建物内で居住者が自殺ないし死亡したという事実は、仲介業者から、被控訴人がそんなことを言っていると聞くまでは、その事実を知らなかった。」旨それぞれ供述する。

しかしながら、(a)控訴人は、上記本人尋問において、上記古物営業商に本件建物の明渡しを依頼し、その後、その古物営業商から本件建物の明渡しが終わったとの報告を受けた旨供述するが、その報告を受けた時期がいつ頃かは覚えていない旨述べており、上記供述は曖昧である。のみならず、(b)控訴人は、上記本人尋問において、上記古物営業商が何という事業者であるかという質問に対して、供述を拒絶したものであり、これらに照らせば、「Fから紹介を受けた鍵屋のことを、本件建物の明渡しを依頼した古物営業商に伝えた。『控訴人がその鍵屋と共に本件建物に行った。』との事実、『控訴人が、同行した鍵屋が本件建物の鍵を破壊した後、本件建物の中に入った。そして、わあという声を出して外に出た。』との事実は、いずれも存在しない。」旨の控訴人の供述は、真実に反することが強く疑われるというべきである。

また、仮に、控訴人の供述する上記事実があるのであれば、平成二三年五月七日に本件鍵屋と共に本件建物に行ったのはその古物営業商ということになるところ、その古物営業商から控訴人に対して本件建物内に死体があったことや警察が来てその死体が搬出されたことについて、本件建物の所有者である依頼人の控訴人に対して報告がなされないということは考え難いというべきである。ところが、控訴人は、「その古物営業商からは、本件建物の明渡しが終わったとの報告があっただけであり、本件建物に死体があったことや警察が来てその死体が搬出されたことなどの報告はなかった。」旨供述しているのであり、その供述内容は不自然不合理である。したがって、前記(1)の認定に反する控訴人の供述は、信用することができない。

これに対して、Fは、本件マンションの管理人であって敢えて被控訴人の利益のために虚偽の証言をするものとは考えられないし(控訴人の「たとえば『住民に広めてくれれば、住民一人当たり一万円を支払う』との嫌がらせの提案に乗ったものであろう。」との主張は、根拠のないものである。)、その証言も控訴人への本件鍵屋の紹介から本件建物における死体発見に至る過程について首尾一貫しており、その信用性は高いというべきである。

(3)  前記(1)の事実及び前記(2)によれば、①控訴人は、平成二三年五月二日、競売による売却に基づき、本件建物の所有権を取得したこと、②控訴人は、本件建物が施錠されていたことから、同月六日、本件マンションの管理人室に行き、Fに対し、本件建物の鍵を開けたいので鍵屋を紹介してほしい旨依頼し、Fから、本件鍵屋の紹介を受けたこと、③控訴人は、同月七日、本件鍵屋と共に本件建物に行き、本件鍵屋において鍵を破壊し、控訴人において本件建物の中に入ったこと、そして、控訴人は、本件建物の中でCが自殺しているのを認めて驚き、わあという声を出して建物の外に出たことが優に認められる。

以上によれば、控訴人は、平成二三年五月七日頃、本件建物内に入った際、Cが自殺しているのを認識したこと、したがって、控訴人は、平成二四年八月二九日、被控訴人との間で、本件賃貸借契約を締結した当時、本件建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることを知っていたことが認められる。

二  争点(1)ア(控訴人が、被控訴人に対し、本件建物内で過去に居住者が自殺した事実がある旨告知しなかったことなどは、不法行為(又は債務不履行)を構成するか)について

前記一の事実によれば、①控訴人は、平成二四年八月二九日、被控訴人との間で、本件賃貸借契約を締結した当時、本件建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることを知っていたこと、②被控訴人は、本件建物に居住する目的で本件賃貸借契約を締結したものであり、③控訴人は、本件契約締結当時、上記②の事実を知っていたことが認められる。一般に、建物の賃貸借契約において、当該建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることは、当該建物を賃借してそこに居住することを実際上困難ならしめる可能性が高いものである。したがって、控訴人は、平成二四年八月二九日、被控訴人との間で、本件賃貸借契約を締結するに当たって、本件建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることを知っていたのであるから、信義則上、被控訴人に対し、上記事実を告知すべき義務があったというべきである。

上記事実及び前記一の事実並びに弁論の全趣旨によれば、(ア)控訴人は、平成二四年八月二九日、被控訴人との間で、本件賃貸借契約を締結するに当たって、本件建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることを知っていたのであるから、信義則上、被控訴人に対し、上記事実を告知すべき義務があったのに、上記義務に違反し、故意に上記事実を被控訴人に対して告知しなかったこと、(イ)控訴人が上記告知義務に違反して上記事実を告知しなかったことにより、被控訴人は、上記事実があることを知らずに本件賃貸借契約を締結し、これに基づき、賃貸保証料、礼金、賃料等を支払うとともに、引越しをして本件建物に入居したことが認められ、上記は、故意によって被控訴人の権利又は法律上保護される利益を侵害したものとして、不法行為を構成するというべきである(以下「本件不法行為」という。)なお、被控訴人は、上記告知義務違反につき債務不履行を構成する旨主張するが、本件賃貸借契約は、告知義務違反によって生じた結果と位置づけられるから、上記告知義務について、本件賃貸借契約に基づいて生じた義務であると解することはできず、その他上記告知義務違反につき債務不履行を構成すると解すべき理由はない。したがって、被控訴人の上記主張は、採用することができない。)。

三  争点(1)イ(被控訴人が受けた損害)について

(1)  賃貸保証料、礼金、賃料等、引越料、エアコン工事代金 七四万〇六九二円

ア 前記一の事実及び証拠<省略>によれば、①控訴人が前記二の告知義務に違反することがなかったならば、すなわち、本件賃貸借契約を締結するに先立ち、被控訴人に対し、本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実がある旨告知していたならば、被控訴人が、本件賃貸借契約を締結することはなく、賃貸保証料、礼金、賃料等を支払ったり、本件建物への引越し・入居をしたりすることはなかったこと、②したがって、控訴人が上記告知をしていたならば、被控訴人が次の(ア)ないし(ウ)の金員(合計七四万〇六九二円)を支払うことはなかったことが認められる。

(ア) 賃貸保証料、礼金、賃料等 四四万〇六九二円

上記四四万〇六九二円は、①賃貸保証料三万二〇〇〇円、②礼金二四万円、③平成二四年八月分(八/二九~八/三一)日割り賃料七七四二円、④同年九月分賃料八万円、⑤住宅保険代二万六七〇〇円、⑥「暮らし安心サポート24」代金一万五七五〇円、⑦防虫・消毒費一万七五〇〇円及び⑧仲介手数料二万一〇〇〇円の合計である。

(イ) 引越料 一八万円(四万五〇〇〇円×四)

(ウ) エアコン工事代金 一二万円(六万円×二)

イ 前記アの七四万〇六九二円を支払ったことに係る被控訴人の損害の発生は、本件賃貸借契約を締結する時に通常予見し得ることが認められるから、控訴人が前記告知義務に違反して前記自殺に係る事実を告知しなかったことと被控訴人が受けた上記損害との間には相当因果関係があるというべきである。

これに対し、控訴人は、賃貸保証料、住宅保険代、「暮らし安心サポート24」代金について、被控訴人には、自ら返還を求めるべき義務があるとして、損害拡大防止義務違反がある旨主張する。しかしながら、被控訴人に自ら返還を求めるべき義務があると解すべき理由はないから、控訴人の上記主張は、採用することができない。

(2)  治療費

治療費についての認定・判断は、原判決一〇頁一五行目から一八行目までのとおりであるからこれを引用する。

(3)  慰謝料 三〇万円

前判示のとおりの本件不法行為の態様、結果その他諸般の事情に鑑みれば、本件不法行為によって被控訴人が受けた精神的苦痛に対する慰謝料として、三〇万円を認めるのが相当である。

(4)  弁護士費用 一〇万円

弁護士費用についての認定・判断は、原判決一一頁一一行目から一三行目までのとおりであるからこれを引用する。

(5)  損害合計

前記(1)の七四万〇六九二円、前記(3)の三〇万円及び前記(4)の一〇万円の合計は、一一四万〇六九二円である。

四  以上によれば、控訴人は、被控訴人に対し、不法行為に基づき、損害賠償金一一四万〇六九二円及びこれに対する不法行為の日の後である平成二四年一一月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務を負うというべきである。

五  争点(2)ア(本件建物について、民法五五九条、五七〇条、五六六条にいう「隠れた瑕疵」及び「契約をした目的を達することができないとき」に該当する事実があったといえるか)について

(1)  前記一の事実によれば、①本件建物に居住していたCは、平成二三年五月五日頃、本件建物内で自殺したこと、②控訴人は、その一年数か月後である平成二四年八月二九日、被控訴人との間で、本件建物を前記約定で賃貸する旨の本件賃貸借契約を締結したこと、③本件賃貸借契約は、被控訴人が本件建物に居住することを契約の目的とするものであったことが認められる。そして、本件建物について建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることは、居住を目的とする建物賃貸借契約において、目的物にまつわる嫌悪すべき歴史的背景に起因する心理的欠陥であり、目的物が通常有すべき品質・性能を欠いているといえる。したがって、上記自殺に係る事実があることは、民法五五九条、五七〇条、五六六条にいう「瑕疵」に当たるというべきである。そうすると、前記一の事実及び弁論の全趣旨によれば、被控訴人は、本件賃貸借契約締結当時、上記自殺に係る事実を知らなかったこと、また、知らないことにつき過失がなかったことが認められるところであるから、本件建物には、本件賃貸借契約が締結された当時、上記自殺に係る事実があるという上記各条項にいう「隠れた瑕疵」があったことが認められる。

また、前判示のとおり、本件賃貸借契約は、被控訴人が本件建物に居住することを契約の目的とするものであったところ、上記契約締結時点で、本件建物について建物内で一年数か月前に居住者が自殺したとの事実があることは、一般的に、本件建物を賃借してそこに居住することを実際上困難ならしめる可能性が高いといえる。そして、前記一の事実によれば、被控訴人及びAは、本件建物に入居した翌日である平成二三年八月三〇日に、Dから上記自殺に係る話を聞くと、本件建物に居住することはできないと考え、直ちに本件建物を退去し前の住所に戻ったり実家に帰ったりしたことが認められる。これらに照らせば、本件建物につき上記「隠れた瑕疵」があることにより、本件賃貸借契約は、被控訴人が本件建物に居住するという契約をした目的を達することができないというべきである。

(2)  以上によれば、被控訴人は、民法五五九条、五七〇条、五六六条に基づき、本件賃貸借契約を解除することができるというべきであり、本件通知等がなされた当時、本件賃貸借契約の解除権を有していたものである。

六  争点(2)イ(本件通知等は、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示を含むと解すべきか)について

(1)  前記前提事実(5)によれば、①木村らは、平成二四年九月二〇日、被控訴人の代理人として、控訴人に対し、本件通知等をしたこと、②本件通知等の記載された書面の内容は前記前提事実(5)のとおりであり、「本件建物は前所有者が競落後にその中で自死したこと」などを根拠として「本件賃貸借契約の取消し」をするとの文言の記載があるが、解除するという文言の記載はないことが認められる。

控訴人は、本件通知等によりなされた意思表示について、本件賃貸借契約の解除の意思表示であると解することはできない旨主張する。

(2)  そこで検討するに、被控訴人は、本件通知等をした当時、前判示のとおり、「本件建物内で過去に居住者が自殺したとの事実があること」などを根拠として本件賃貸借契約を解除することができ、本件賃貸借契約につき解除権を有していたものである。そして、契約の解除と契約の取消は、当該契約により発生した契約上の債権債務を消滅させる点で共通しているのであるから、本件賃貸借契約につき解除権を有する被控訴人の代理人である木村らが、本件通知等をする根拠として、解除権発生の根拠である上記事実を挙げた上、「本件賃貸借契約の取消し」をする旨の意思表示をした場合、その趣旨目的は、当該意思表示により本件賃貸借契約により発生した契約上の債権債務を消滅させることにあると解すべきである。そうすると、表意者の合理的意思を探求するという見地から上記意思表示の解釈をすると、本件通知等によりなされた「本件賃貸借契約の取消し」をする旨の意思表示は、本件賃貸借契約の解除をする旨の意思表示を含むと解するのが相当である。

したがって、控訴人の前記(1)の主張は、採用することができない。

七  争点(2)ウ(被控訴人に賃料支払義務があるか)について

(1)  控訴人は、前記争点(2)ウ(控訴人の主張)のとおり、被控訴人には、本件賃貸借契約に基づき、平成二四年一〇月一日以降の賃料及びその遅延損害金の支払義務がある旨主張する。

(2)  しかしながら、前判示のとおり、①被控訴人は、本件通知等がなされた当時、本件賃貸借契約の解除権を有していたこと、②木村らは、平成二四年九月二〇日、被控訴人の代理人として、控訴人に対し、本件通知等をしたこと、そして、木村らは、本件通知等をするに先立ち、被控訴人からその代理権の授与を受けたこと、③本件通知等によりなされた控訴人に対する意思表示は、本件賃貸借契約の解除をする旨の意思表示を含むことが認められるのであるから、本件賃貸借契約は、上記解除の意思表示が到達した日の翌日である平成二四年九月二一日以降の将来部分につき解除されたものと解すべきである(民法六二〇条)。

したがって、本件賃貸借契約について、平成二四年一〇月一日以降の賃料債権は存在せず、控訴人の前記(1)の主張は、採用することができない。

八  争点(3)ア(被控訴人は、控訴人に対し、本件建物の明渡しをしたか。被控訴人は本件建物を占有したことにより利得を受け、そのために控訴人に損失を及ぼしたか)について

(1)  前記一の事実及び証拠<省略>によれば、次の事実が認められる。

ア 被控訴人及びAは、前記一(1)のとおり、平成二四年八月二九日及び三〇日頃、本件建物に引越しをしたが、同月三〇日頃、本件建物を出て、被控訴人は引越前に居住していたマンションに戻り、Aは実家に帰った。被控訴人は、その後、休日を利用して引起業者に依頼し、数回に分けて本件建物から前住居に家財等の搬入を行い、同年一〇月一九日、本件建物内の残留物を搬出し本件建物を退去した。

イ 被控訴人は、平成二四年一〇月三一日、本件訴訟を提起した。その後、被控訴人の母は、被控訴人から預かっていた本件建物の鍵を控訴人に返還しようと考え、平成二五年五月二一日頃、a社に鍵を交付し、控訴人に返還するよう依頼した。控訴人は、同月二八日までに、a社から本件建物の鍵を受け取った。控訴人は、それまで、被控訴人に対して本件建物の鍵の返還を求めたことはなかった。被控訴人は、平成二四年一〇月一九日に本件建物から残留物を搬出し退去した後、本件建物の鍵を控訴人に返還することを失念していたものであり、仮に控訴人から鍵の返還を求められていれば直ちに返還していたであろうと推測される。

被控訴人は、平成二四年八月三一日以降、本件建物に居住したことはなく、同年一〇月一九日に本件建物から残留物を搬出し退去した後は、本件建物を使用収益していなかった。控訴人は、本件通知等がなされた平成二四年九月二〇日以降も、また、本件訴訟が提起された同年一〇月三一日以降も、被控訴人がした本件賃貸借契約の取消し・解除は効力を生じておらず、本件賃貸借契約は存続している旨主張していた。また、本件建物については、平成二四年九月以降、現在に至るまで、「本件建物内で平成二三年五月五日頃に居住者が自殺したとの事実があったか」及び「控訴人は、被控訴人との間で、本件賃貸借契約を締結した当時、上記自殺に係る事実があることを知っていたか」などが問題とされている紛争・本件訴訟があった。本件通知等がなされた平成二四年九月二〇日以降、本件建物の鍵が控訴人に返還された平成二五年五月二八日までの間、控訴人が本件建物につき使用収益をすることを欲することはなかった。

(2)ア  前記(1)の事実によれば、被控訴人は、遅くとも平成二五年五月二八日、控訴人に対し、本件建物の鍵を返還し、本件建物の明渡しをしたことが認められる。

イ  これに対し、控訴人は、「本件賃貸借契約には、一〇条二項に、『本件建物の明渡しに際しては、借主(被控訴人)は、貸主(控訴人)の点検を受けなければならない。』旨の約定があるところ、本件において、被控訴人は、貸主である控訴人の点検を受けていないので、本件建物につき明渡しの効力は発生していない。」旨主張する。しかしながら、建物賃貸借契約を締結する当事者の合理的意思を探求するという見地からすれば、上記約定は、双方の協力を伴うものであることから、貸主が当該賃貸借契約につき終了したとして借主に対して建物明渡しを求める意思を有する場合における借主の義務(建物明渡しに際して貸主の点検を受けるべき義務)を定める趣旨の規定であると解するのが相当である。本件訴訟において、控訴人は、本件賃貸借契約につき解除の効力は生じていない旨主張して賃料の支払を求めており、控訴人が、平成二五年五月二八日当時、「本件賃貸借契約につき終了したとして被控訴人に対して建物明渡しを求める意思」を有していたとは認められない。そうすると、被控訴人が控訴人の本件建物明渡しに係る点検を受けていないことは、前記アの判断を左右するものではなく、控訴人の上記主張は、採用することができない。

(3)ア  控訴人は、予備的に、「被控訴人は、本件建物の明渡しをするまでの間、本件建物を占有したことにより利得を受け、そのために控訴人に賃料相当額の損失を及ぼした」旨主張する。

イ  そこで検討するに、前判示のとおり、本件賃貸借契約は平成二四年九月二〇日に解除により終了したのであるから、被控訴人は、同月二一日から同年一〇月一九日(被控訴人が本件建物から残留物を搬出し退去した日)までの間、占有権原がないのに本件建物を占有し本件建物内に残留物を存置する方法で本件建物を使用収益し、これにより法律上の原因なく一定の利得を受けたことが認められる。

これに対し、平成二四年一〇月一九日に本件建物から残留物を搬出し退去した後については、被控訴人は、本件建物を使用収益していなかったのであるから、上記搬出日の翌日である同月二〇日から平成二五年五月二八日(本件建物明渡しの日)までの間について、本件建物を占有することにより利得を受けたとは認められない。

ウ  そうすると、被控訴人は、上記イのとおり、平成二四年九月二一日から同年一〇月一九日までの間、本件建物を使用収益し、これにより法律上の原因なく一定の利得を受けたことが認められるところ、控訴人は、そのため、上記期間、本件建物を使用収益することができなかったのであるから、被控訴人が上記利得を受けたことにより、控訴人に上記期間の賃料相当額の損失を及ぼしたものというべきである。

したがって、控訴人の上記アの主張は、上記の限度で採用することができる。

九  争点(3)イ(控訴人の不当利得返還請求は、権利の濫用・信義則違反に当たり許されないか)

前記八のとおり、被控訴人は平成二四年九月二一日から同年一〇月一九日まで残留物を本件建物に存置したことにより一定の利得を受けたこと、そのことにより、控訴人に上記期間の賃料相当額の損失を及ぼしたものというべきである。しかしながら、①被控訴人が本件建物に家財等を搬入しその占有を開始したのは、控訴人が本件建物内での自殺に係る前記事実を知りながら、告知義務に違反し、上記事実を秘匿し故意に告知しなかったという不法行為に起因するものであること、したがって、被控訴人の上記利得及び控訴人の上記損失が生じたのは、控訴人の上記のとおりの故意の不法行為に起因するものであるというべきこと、②残留物を本件建物に存置した期間は、平成二四年九月二一日から同年一〇月一九日までの約一か月にとどまること(この期間は、被控訴人が前記八(1)のとおり残留物を本件建物から搬出し前住居に搬入するのに要する期間としてやむを得ないものと認めることができる。)に照らせば、上記利得につき、控訴人が被控訴人に対して不当利得として返還請求することは、権利の濫用に当たり、許されないというべきである。

第四結論

以上によれば、被控訴人の請求は、控訴人に対し、損害賠償金一一四万〇六九二円及びこれに対する不法行為の日の後である平成二四年一一月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、その限度で認容すべきところ、原判決はこれと結論を異にするが、被控訴人から控訴がない本件において、原判決を控訴人に不利益に変更することは許されない。また、控訴人の請求は、いずれも理由がないから棄却すべきであり、これと同旨の原判決は相当である。よって、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 志田博文 裁判官 下野恭裕 井田宏)

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