大阪高等裁判所 平成3年(う)230号 判決 1992年9月09日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人横内勝次作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官重冨保男作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意中理由不備ないし訴訟手続の法令違反の主張について
論旨は、要するに、原判決は本件速度違反の事実に関し、有罪の判決をしたが、本件自動速度測定装置(以下オービスⅢという。)自体の精度についての疑問、被告人車の本件現場における走行状態測定の際の誤測定の可能性、被告人車備付けの運行記録計(以下タコグラフという。)から読み取れる本件現場における被告人車両の矛盾等について、十分合理的な説明を付していない点において、理由不備ないし訴訟手続の法令違反に該当する事由がある、というのである。
しかしながら、記録を調査して検討しても、原判決には、刑事訴訟法三三五条所定の有罪判決に必要な理由がすべて付されており、かつ原審における訴訟手続に違法な点は全く認められない。論旨は理由がない。
控訴趣意中事実誤認の主張にいて
論旨は、要するに、原判決は、被告人が原判示日時ころ、最高速度が六〇キロメートル毎時に制限された原判示道路において、一一一キロメートル毎時の高速度で大型貨物自動車を運転した、との事実を認定したが、右時点において被告人は、約七〇ないし八〇キロメートル毎時程度の速度しか出していなかったから、前記のように認定して被告人を有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。
よって、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せ検討するに、以下に説示するとおり、原判決には、オービスⅢの測定結果と被告人車備付けのタコグラフ記録紙の示す速度との矛盾について、その検討に不十分な点があり、右タコグラフ記録紙が示す速度の機械的誤差がせいぜい数キロメートル毎時に止まる可能性を考慮すると、オービスⅢの測定結果との矛盾は軽視し難く、原判決の認定には合理的な疑問が残るといわざるを得ない。
すなわち、原判決挙示の関係証拠によれば、本件速度違反の捜査及び公判経過として、以下の事実が明らかである。
被告人は、本件の当時、長距離トラックの運転手として広島市内の運輸会社に勤務していたが、本件の前日すなわち昭和六二年七月一六日昼前ころ大型貨物自動車に荷物を積載して愛知県大府市に向けて会社を出発し、同月一七日午前五時ころ加古川バイパスの本件現場付近道路でオービスⅢのフラッシュが光ったように感じたがそのまま運転を継続し、大府市で荷物を降ろしたのち同月一八日午前一一時ころ帰社した。
同社では運転手は帰社後すみやかに運転日報と備え付けのタコグラフ記録紙を会社に提出し、次の運転の指示を受けるとともにタコグラフ記録紙点検の結果九〇キロメートル毎時以上の速度が出ていた場合には一種の罰金として五〇〇円を徴収し福利厚生資金に積み立てるシステムとなっていたため、被告人も帰社後まもなく三日タコといわれる三日間連続して記録できるタコグラフ記録紙三枚及び運転日報を会社に提出した。
他方本件オービスⅢは兵庫県警高速道路交通警察隊において七月二一日現像され、その結果一一一キロメートル毎時の速度表示及び被告人の顔と車両が明瞭に撮影されていたため、同隊所属警察官が八月二七日被告人を呼び出して取り調べたが、被告人は、自分はそのような高速度は出していない、暴走族が追い抜いた際にカメラが光ったのではないかと述べて否認したため、同警察隊は一一月一三日には会社から被告人車両の運転日報と本件日時ころ運行中であった会社所属の全車両のタコグラフ記録紙の提出を求め、そのうちの被告人車のものと考えられる前記タコグラフ記録紙三枚の速度を兵庫県警察本部刑事部科学捜査研究所において鑑定した。
すると右タコグラフ記録紙の本件の時刻ころの速度は、ほぼ六〇キロメートル毎時と鑑定されたが、その際、タコグラフの針が本来記録紙上に印字する基準点より五キロメートル程度低くなるように工作されていることが判明し、鑑定の際には右の点を考慮して修正せざるを得なかったほか、右タコグラフ記録紙によって計算される全走行距離が広島から大府市を往復した場合の推定距離より約一〇〇キロメートル少ないことが判明した。
その他、本件オービスⅢが五月七日に定期点検をして異常が認められず、本件当日右オービスⅢによって摘発された他の二二台の速度違反車両の運転手からは異議が出なかったこと、タコグラフは一〇パーセントから一五パーセント程度の許容誤差があり機械的精度が劣ることなどから、被告人の否認にもかかわらず本件速度違反の事実は動かし難いとして、検察官は被告人を原審裁判所に起訴した。
これに対し原判決も基本的には、右捜査機関の証拠評価を是認し、さらに他の同種事件における、本件と同一のオービスⅢの正確性に関する証人尋問の結果、すなわちオービスⅢの製造会社係員と本件オービスⅢ設置警察官に対する証人調べの結果等をも併せ考慮し、その精度に疑いを容れる事情がないうえ、前記タコグラフ記録紙はその設置方法に疑問があって信用性に乏しい、と説示し、被告人を罰金一〇万円に処した。
しかしながら、当審において本件タコグラフ記録紙三枚の状況についてさらに検討すると、62.7.16とボールペンにより手書きで記入された一枚目の午後九時過ぎに速度を示す折れ線グラフの記入が開始されてから同じく62.7.18と記入された三枚目の午前一一時ころにグラフの記入が終了するまでは、機械的にみてグラフの線は完全に一本で連続していると認められるから、その最終時間が前記のとおり被告人の帰社時刻とほぼ一致している点を考慮すると、特段の事情がない限り、七月一六日午後九時ころからの記録は継続してすべて機械的に概ね正確に記録(例えば七月一七日午前二時前後には九〇キロメートル毎時の速度に近い記録も残されているから、上限のみ低くなるような故障があったとも考えられない。)されており、本件速度違反の時点(七月一七日午前五時八分ころ)においても右タコグラフが作動していたと解するほかはない。
そして本件違反があったとされる右日時頃の速度は、本件記録紙二枚目の右時刻ころの速度変化を秒単位で詳細に鑑定した右タコグラフ製造会社職員須鎌悦男作成の事故チャート解読報告書及び当審における同人の証人尋問の結果を参酌しても、前記のように針を少し折り曲げて速度の表示を低下させるという工作があった点を考慮して修正してもなお、前記科学捜査研究所の鑑定結果と同様に六〇キロメートル程度としか読み取れないことが明らかである。
また走行距離が足りないとの点は、被告人が捜査段階の当初から当審に至るまで一貫して、運転開始の当初タコグラフに記録紙をセットするのを忘れ、約一〇〇キロメートル進行した三原ドライブインでセットしたため、当初の記録が欠けているにすぎないと供述しているところ、前記認定のとおり被告人が帰社した時間がタコグラフの最終時点とほぼ矛盾しない点を考慮すると右供述は不合理とはいえず、また本件記録を検討してもそのほかに右弁解を覆すに足りる証拠は窺えず、右の点が本件タコグラフ記録紙の本件現場付近における記録内容の正確性を著しく損なう事情と考えることはできない。
以上の認定をふまえ、しかも仮に本件起訴の決定的証拠となったオービスⅢの計測に誤りがないと仮定すると、本件タコグラフに許容範囲を著しく越えた機械的故障があったと考えるか、あるいは検察官が答弁書で主張するように、証拠として取り調べられたタコグラフ記録紙が実は本件当時のものではなく他のタコグラフ記録紙または書き換えられたものが鑑定に付された可能性を考慮するほか、両者の矛盾を合理的に説明できる方法はないといわざるを得ない。
そこで当審において、本件当時被告人が勤務していた会社において、車両運行管理者の立場にあった証人福岡萬喜男を取り調べたところ、同社においては、給与計算を運転手の走行距離に応じて行うため、提出された運転日報とタコグラフ記録紙は車番別にファイルに綴じ込んで保管し、事後的にも検査できるようになっており、タコグラフ記録紙が他人のものとすり替えられる可能性はない、これまでにそのようなすり替えないし書換えの事故例はなく、またオイル交換時には車両の距離計と運転日報ないしタコグラフの走行距離との対比が行われるため、虚偽の報告あるいはタコグラフの異常は直ちに発見されるシステムとなっているところ、本件タコグラフあるいは被告人の運転日報に異常を示す兆候はなかった、と供述した。
右証人の供述内容にことさら虚偽を述べていることを窺わせる形跡はなく、被告人が現在では同社を退職している点を考慮すると、被告人のためにことさら有利な虚偽供述する動機にも乏しいと考えられ、右供述内容に信用性を認めるのが相当である。
また、原判決も指摘するように、タコグラフには、機械的精度に誤差があり得るものの、「道路運送車両の保安基準」(昭和二六年運輸省令第六七号)四八条の二第二項によって、「運行距離計の瞬間速度の誤差は、平坦な舗装道路で速度三五キロメートル毎時以上において正一五パーセント、負一〇パーセント以下であること」と定められており、その誤差の許容範囲内にあるか否かは、毎年の車両検査で点検される制度になっていることをも、右福岡証言に併せ考慮すると特段の事情がない限り本件タコグラフに故障ともいえる大幅な誤差があったと考えるのは合理的とはいえない。
そうとすると残る可能性は結局、検察官が主張するように被告人が運転免許取消等の行政処分を免れるため速度違反の事実を隠ぺいしようと企図し、他のタコグラフ記録紙を本件当時のものとすり替えかつ日時を書き換えて提出した、という可能性の有無のみとなる。
しかしながら、前記福岡証言によれば、運転手に対する給与計算及び次の走行指示の前提となるタコグラフ記録紙が被告人ないし同僚の手元に残っているとは考えられないから、すり替えないし書換えの機会は、被告人から会社に提出された後、証拠として警察に提出されるまでの約四か月間に限定されるところ、福岡はタコグラフ記録紙が会社に提出された後は事務員が保管し、運転手がこれを見る機会は原則としてない、というのである。
そうすると、被告人が会社に無断で何等かの機会に事務員が保管中のタコグラフ記録紙のうち、本件当時のものと他の機会の類似記録紙とをすり替え、かつ両者の日時と運転日報の記載を符号するようにそれぞれ書き換えたという可能性を考慮することとなるが、記録紙にはその都度、運転年月日のほか、車両の走行距離、すなわち出発前・後の走行距離をそれぞれ記載することとなっているところ、本件タコグラフ記録紙の一枚目の走行後の距離の一部を書き換えた形跡があるものの走行前のそれは運転日報記載の表示と完全に一致し、年月日も書き換えた形跡はないから、本件タコグラフが他の機会に走行したものを書き換えて流用した、と考えるのは甚だ困難といわざるを得ない。
なるほど本件タコグラフ記録紙の年月日の筆跡が一枚目と二枚目ないし三枚目との間で異なることは検察官指摘のとおりであるが、いわゆる三日タコといわれる折れ線グラフが完全に連続した三枚の記録紙の二枚目あるいは三枚目の年月日の記載は必ずしも重要とは考えられず、他の事務員が適宜補充して記入し、そのため筆跡が異なったと考えても、不自然とは考えられない。
さらに、本件タコグラフ記録紙から判明する走行距離と速度変化は被告人が当審において供述する走行経路の変化と必ずしも合致しているとはいえないものの、被告人の供述する走行経路はあくまで数年前の運転に関する記憶に基づくものであるから、一致しないことがただちに不自然とは解されないし、被告人の記憶があいまいであるからといって、その点のみを根拠に、記録紙のすり替えないし書換えがあったと疑うのは、かなり飛躍があるといわざるを得ない。
他方、翻って、オービスⅢの誤測定の可能性がないかという点について改めて検討するに、原審において取り調べたオービスⅢの機械的構造に関する関係各証拠によれば、オービスⅢは、道路内に走行方向に直角に、かつ約七メートルの間に等間隔に埋設した三本のループにより車両の通過を感知して、その一本目と三本目のループの通過時間から時速を計算する(中間のループは渋滞や異常走行車両を検知するもので速度測定には直接関係しない。)とともに予め設定した速度以上の車両の運転席をカメラによって撮影するシステムであるため、一台の車両が一本目のループを通過した直後に追い抜き車両があり、その追い抜き車両が三本目のループを先に通過した場合や、前記ループ付近で車線変更しループに対して直角に入らなかった場合等、稀にではあるが正確に測定できない事例のあり得ることが認められる。
右事実に加え原審及び当審において被告人が、本件大型貨物自動車には無線の設備があり、運転手仲間から本件現場付近において暴走族の接近を知らされ、そのため車線変更し、暴走族らしい車が追い抜いていったことがあり、その時フラッシュが光ったので、自車でなく右暴走族の車両が撮影されたものと思い、右の点について特に気にすることもなくそのまま運転を続けて帰社し、通常のとおりタコグラフと運転日報を提出した、と供述している点を考慮すると、前記オービスⅢの誤測定の可能性もあながち否定できないと考えられる。
以上検討した結果によれば、本件タコグラフ記録紙には本件当時の速度が表示されていると考えることにも十分合理的根拠があるといわざるを得ず、前述のようにタコグラフの機械的精度にマイナス一〇パーセント程度の誤差があることを考慮してもなお、被告人運転車両の速度は最大で約六六キロメートル毎時程度としか推認できないから、これとオービスⅢの測定結果である一一一キロメートル毎時との間には合理的に説明できない矛盾が存在すると考えられ、他方前述のようにオービスⅢに誤測定の余地がないとはいえないことも考慮すると、結局本件公訴事実を認定するには、疑問が残るといわざるを得ない。また右推認にかかる速度と本件道路における制限速度との差はわずかであるから、速度違反そのものの存在を認定することもまた困難と考えられる。
従って、前述のように本件タコグラフに機械的ないし人為的誤差があり得ることのみを強調し、、その誤差の程度を厳密に検討せず、これとオービスⅢとの矛盾を軽視して被告人を有罪とした原判決には事実誤認があるといわざるを得ない。論旨は理由がある。
よって刑事訴訟法三八二条、三九七条一項により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書きにより更に判決することとし、前述のとおり本件は結局犯罪の証明が無いことに帰するから、同法三三六条により被告人に対し無罪の言い渡しをすることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官村上保之助 裁判官米田俊昭 裁判官安原浩)