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大阪高等裁判所 平成4年(う)844号 判決 1993年8月24日

主文

原判決を破棄する。

本件を大阪地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は弁護人元地健、同西垣泰三連名作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

そこで、所論にかんがみ記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討する。

一  関係証拠によると、本件の訴訟審理の経過は、以下のとおりである。

1  被告人は、平成二年六月二六日、本件業務上過失致死罪で大阪地方裁判所に起訴され、同裁判所第一一刑事部(以下「第一次第一審」という。)で審理を受けた。その公訴事実は「被告人は、平成二年四月四日午後一一時二五分ころ、業務として普通貨物自動車を運転し、大阪府茨木市<番地略>先の甲川右岸堤防道路を南から北に向かい時速約五〇キロメートルで進行するに当たり、前方を注視して進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、右方の甲川を見て前方注視不十分のまま漫然前記速度で進行した過失により、折から北から南に対向してきたA(当時五七歳)運転の自転車を前方約11.9メートルの地点に初めて発見し、急制動の措置をとるとともに左に転把するも及ばず、自車右前部を右A運転車両の前部に衝突させて同人を路上に転倒させ、よって、同月五日午前一時四二分ころ、同市<番地略>所在の乙病院において、同人を脳挫傷により死亡させたものである。」というのである。これに対し、弁護人は、①被告人には事故当時脇見運転の事実はなく、また、②本件事故現場の状況下では、たとえ被告人が前方注視を尽くしていても、相手方を発見できる、いわゆる視認距離と制動距離との関係から結果回避可能性はなかった、と主張した。

2  第一次第一審では、主として右②の点が争いとなった。まず、第二回公判期日で、検察官から司法警察員作成の平成二年四月五日付け実況見分調書(同月五日午前〇時〇五分から同日午前〇時五五分にかけて被告人運転の普通貨物自動車(以下「被告人車」という。)を使用して実施。以下「四月五日付け実況見分調書」ともいう。)の証拠調べの請求がなされ、弁護人の同意があり、決定、取調べが行われた。同じく同意決定済となっている司法警察員作成の平成二年一〇月八日付け報告書本文では、冬制服上下(紺色)着用の警察官を前方約39.5メートルの地点で認めることができ、前方約一六メートルではっきりと認めることができる旨の説明と、その添付図面(前出四月五日付け実況見分調書添付の照射範囲見取図もほぼ同一である。)には照射可能範囲は39.5メートル、人が十分に確認出来る範囲が自動車の先端から16.0メートルであるという記載がある。これについては、同公判期日において、検察官から本文の説明は被告人がそのようにした旨の釈明がなされた。そして、平成二年一一月一六日午後一一時三〇分から同日午後一一時五七分にかけて本件事故現場の検証が実施された。その結果は、被告人車と同種の自動車を停止させ、同車運転席に被告人を座らせた上、前照灯を下向きに点灯した状態で視認距離を推定したところ、前方約39.5メートルの位置に立っている紺色の制服着用の警察官が、よく目を凝らせば確認できる程度であった、というのである。その後、被害者の本件事故時に着用していた衣服が紺色よりも明るいものであったということから、第三回公判期日で検察官から、「本件事故当時、被害者が着用していた衣服を前提として本件車両の制動距離外での視認可能距離」を立証趣旨として現場検証の請求(以下「再検証の請求」ともいう。)がなされたが却下され、異議の申立てがあったが、これも棄却された。続いて、第四回公判期日で、被害者が本件事故時着用した服装や被害感情を立証趣旨とする証人Bの取調べ請求と再度、前回と同じ立証趣旨で現場検証の請求がなされたが、いずれも却下された。さらに、第五回公判期日(平成三年一月一六日、以下、平成三年についてはその記載を省略する。)に検察官から弁論再開の申立てがなされたがこれも却下された。

3  第一次第一審は、右公判期日に、被告人に対し無罪の言渡しをしたが、その理由とするところは、被告人車の速度を時速約五〇キロメートル、被害自転車の速度は証拠上明らかでないから時速約二〇キロメートルと想定するほかないとした上、これを前提として、被告人車と被害自転車の各制動距離の和を39.5メートルと算出し、第一次第一審の検証調書によると前方39.5メートルの地点で紺色制服着用の警察官を、よく目を凝らして見れば確認できる程度であるから、時速約五〇キロメートルで走行中の車中から被害者ないし被害自転車を39.5メートル手前の地点で発見することはかなり困難である、というのである。これに対し、検察官は控訴の申立てをした。検察官の控訴趣意は、事実誤認の外に、第一次第一審が検察官のした補充立証のための証拠調べの請求(前記再検証の請求及び証人調べの請求等)を一方的に却下したのは審理不尽の違法があるなどというものであった。

4  右の控訴審である大阪高等裁判所(以下「第一次控訴審」という。)は、被害者の着衣と同等のものによる視認状況についてという立証趣旨で、司法警察員作成の一月二七日付け実況見分調書(第一次第一審判決後である一月二六、七日に実施された実況見分に関するもの。)を、事故現場の状況という立証趣旨で司法警察員各作成の交通事故現場立体写真撮影報告書及び一月五日付け実況見分調書をそれぞれ刑訴法三二一条三項書面として、また、被害者着用のズボンの切れ端を証拠物としてそれぞれ決定取調べした。このうち、一月二七日付け実況見分調書は、被害者の長男Cが立ち会いの上で実施されたもので、その結果によると、自動車の前照灯を下向きにした場合の視認距離は、前方四〇メートルでは、全体的にぼんやりとしてであるが人であることははっきりわかり白色カッターシャツが浮いて見える、自転車もぼんやりとしているがペダルの反射板は黄色に反射してよくわかった、などというものであった。

第一次控訴審は、第一次第一審が実施した検証では、39.5メートルの前方に佇立した警察官の着衣は紺色の制服であったから、被害者がこれと異なる着衣であったことはいうまでもなく、もし検察官が立証しようとしたような着衣であったなら、夜間の視認距離に有意の差が生じたことは明らかであるのにかかわらず、第一次第一審が、検察官において被害者の着衣について新たな立証をし、その着衣で視認可能か否かの検証を求めたのに、これを却下し直ちに被告人を無罪とする判決を言い渡したのは、証拠の採否に関する裁判所の合理的裁量の範囲を著しく逸脱し、検察官の立証の機会を奪い、審理不尽の違法を犯したもので、それが判決に影響を及ぼすことは明らかである、として、本件を大阪地方裁判所に差し戻した。なお、差戻し判決は、括弧書きで、被害自転車の時速を二〇キロメートルとする証拠はなく、また、被害者の服装についての検察官の主張が認められない場合でも、第一次第一審判決の過失のとらえ方に疑問がある、と判示している。

この差戻し判決に対し、被告人から上告の申立てがあり、最高裁判所は、平成四年二月七日上告棄却の決定をした。

5  差戻しを受けた原審(第二次第一審)では、検察官から、被害者の着衣、ペダルに反射板が付いていた等の被害自転車の状況及び被告人が脇き見をしていたと言って詫びたことを立証趣旨として、証人B及び同Cの取調べ請求があり、いずれも採用され、証人Bは撤回決定取消となり、証人Cだけが取り調べられた。しかし、本件事故現場の検証については検察官からの請求はなく、弁護人も請求せず、原裁判所の職権による検証も行われなかった。

そして、原審は、①被害者の自転車のペダルに反射板がついていたという事実は証拠上明らかでないこと、②一月二七日付け実況見分調書にかかる実況見分で被害者の衣類として使用されたのは、被害者が事故当時着用していた衣類そのものではないが、色合いにおいて被害者が事故当時着用していた衣類とほぼ同一であると認められること、③右の実況見分調書によると、被告人は、本件事故当時、被害者と約四〇メートル離れた地点で発見することが可能であったと認められること、④事故当時被告人が右方の甲川を見ていたとの脇見運転の事実は、当時の事故現場の状況を考えると、これを否定する被告人の公判期日における弁論も全く信用できないとは言い切れないのであるが、被告人は約11.9メートル先の地点まで被害者に気付かなかったのであるから、右の脇見運転がなくても、アルコールの影響による注意力の減退あるいは油断からくる注意力の弛緩を含む、何らかの事情を原因とする前方不注視、したがってまた自己の進路の安全不確認という過失があったことは明らかであること、⑤結果回避の可能性に関し、弁護人の主張する摩擦係数0.55は、本件事故現場のように乾燥したアスファルトの摩擦係数0.55ないし0.75のうち一番低い数字であることや、また、弁護人の主張する被害者の自転車の速度が時速23.186キロメートルであることについても、五七歳の被害者が真っ暗な堤防道路を進行していた速度としては、やや実情に合わないきらいがあることなどからして、実際には制動距離がもっと短くなる可能性も十分考えられるから、結果回避は可能であったこと、⑥仮に、回避可能性が否定されることになれば、今度はそのような速度で進行すること自体の過失が問われること、などを説示した上、被告人には、前方を注視し進路の安全を確認しつつ進行すべき注意義務があるのに、これを怠り、前方を十分注視せず漫然と進行した過失があるとして、禁錮一年・三年間執行猶予の有罪判決を言い渡した。

二  本件控訴趣意の論旨は、要するに、①被告人には前方不注視の事実がない上、一月二七日付け実況見分調書については、その実施時刻と明るさの関係や、用いた衣類の類似性その他に疑問があり、四〇メートル手前から明瞭に被害者を視認し得たか疑問であって信用し難く、また、被害者の自転車の速度が時速23.186キロメートルであることや摩擦係数0.55も十分根拠のある数字であるのに、これらと異なる原判決の認定には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があり、また、②第一次控訴審が、検察官の再検証の申立を却下した第一次第一審判決には、審理不尽の違法があるとして差し戻したにもかかわらず、当事者から検証の申請がなかったにせよ、検証を実施しないまま有罪の言渡しをした原審の審理には、審理不尽の違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

三 前示一で認定した審理の経過をふまえ、論旨について検討する。

1 確かに、第一次控訴審は、前示のように再検証などの検察官の証拠調請求を採用・実施しないまま無罪判決をすることは審理不尽の違法があると判示したにとどまり、有罪判決を言い渡すための証拠上の問題点については、直接触れるところがない。また、差戻しを受けた原審では、当事者から検証の請求はなく、前示の一月二七日付け実況見分調書が一応再検証に代替し得るといえないではない。したがって、事故当時における被害者の服装等に関する証人Cを取り調べたことで、有罪の認定判断ができるとした原審の措置も首肯できないわけではない。

しかし、右の実況見分調書は、同意書面として取り調べられたものではなく、実況見分の立会人もCであり、被告人や弁護人には立会の機会が与えられていないのであるから、その証明力には自ずと限度があるといわなければならない。第一次控訴審が右の実況見分調書を含む相当数の証拠調べを実施しながら、あえて自判せずに事件を差し戻したのも、ただ単に、被害者の服装等の証人尋問だけが必要であるとしたのではなく、右実況見分調書のほかに、再検証の実施が必要であると判断したからにほかならないと解される(なお、当審取調べの「社団法人日本自動車連盟監修『JAF MATE』平成三年八月号」によると、前照灯をいわゆる下向きにした場合、前方四〇メートル先に白いズボンを着用して乗った無灯火の自転車を視認した結果は、自転車の反射板の反射の光は弱く、ズボンはほとんど見えない、というのである。)。また、被害者の事故時の着衣については、ズボンの切れ端が証拠として提出されているが、なお、念のため、死体見分の際の写真のなかに、未提出分として着衣を纏ったものがあるか調査することも必要である。

2 なお、第一次控訴審判決が括弧書きではあるが触れているところの被害自転車の速度については、原審では格別の審理がなされていないばかりか、原判決は、前記⑤のように判示したにとどまり、具体的な数値も示していない。しかし、前示視認距離の認定如何によっては、被害自転車の速度を具体的に認定する必要があり、所論の主張する時速23.186キロメートルはもとより、第一次第一審が想定した時速二〇キロメートルというのも、足踏み自転車の速度としては相当の高速であるところ、まず、そのような高速を認定するに相応する状況が認められるか疑問がある。天候や気象状況の影響を含め、本件事故時における現場の明るさの程度は必ずしも明確でなく、被告人の弁解するように被害自転車が無灯火であるとしたら、更にどうなるかが検討されなければならない。

3 被害自転車のペダルの反射板について、同意により取り調べられている四月五日付け実況見分調書添付の写真第七ないし一〇号を拡大するなどして検討する必要がある(ただし、九号の拡大写真は取り調べられている。)。

4 さらに、本件公訴事実では、被告人が「右方の甲川を見て前方注視不十分のまま」と、被告人の本件過失を脇見運転に求めているところ(被告人の捜査段階における自白調書ではいずれも「甲川のほうを見ていた」となっている。)、原判決では、前示一・5・④のとおり判断している。しかし、事故現場から甲川方向に対する見通しについては、前出各実況見分調書等、さらには、第一次第一審の実施した検証の調書を見ても記載がない。被告人は、本件事故の際には日中ゴルフをしての帰りであり、本件事故現場の進行方向右側(東側)すなわち甲川方向の少し手前(南側)には丙ゴルフセンターがあり、付近に人家があることも窺われ、その方向を脇見をしながらその西側道路部分を通過したとしても不自然ではなく、被告人の前示自白に加えて、事故直後に被害者の遺族に対して土下座して謝ったときの被告人の言動に照らすと、被告人の前示弁解があるからといって、本件事故現場の少し手前から甲川方向の見通し状況を明確にしない以上、直ちに、脇見をしていたことが認められないとするのは相当ではない。

5 なお、審理の結果、仮に、制動距離外において被害者ないし被害自転車を認めることができない場合には、第一次控訴審判決の指摘するとおり、被告人車の高速度進行に関して過失が認められる余地もあり、訴因の変更手続きが検討されなければならない。

四  以上検討のとおり、原審の審理には、審理不尽の違法(訴訟手続の法令違反)があり、ひいては事実誤認があり、これらが判決に影響を及ぼすことは明らかであるといわざるを得ない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である大阪地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小瀬保郎 裁判官萩原昌三郎 裁判官長岡哲次)

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