大阪高等裁判所 平成9年(ネ)987号 判決 1998年10月22日
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
二 被控訴人は、控訴人甲野太郎に対し二九四九万五〇〇〇円、同甲野一郎及び同甲野二郎に対し各一四一四万七五〇〇円、同乙山松夫に対し三五〇万円並びに右各金員に対する平成元年四月一九日から各支払済みまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。
三 控訴人らのその余の各請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを一〇分し、その二を控訴人乙山松夫を除く控訴人らの負担とし、その一を控訴人乙山松夫の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。
五 この判決は、第二項に限り仮に執行することができる。
理由
【事実及び理由】
第一 当事者の申立て(平成九年(ネ)第九八七号事件)
一 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人甲野太郎に対し三四八八万円、同甲野一郎及び同甲野二郎に対し各一七九八万円並びに右各金員に対する平成元年四月一九日から各支払済みまでいずれも年五分の割合による金員を支払え(ただし、控訴人甲野太郎の被控訴人に対する右請求は、同人の主張する損害額三六八八万円の内金として請求するものである。)。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
4 仮執行宣言。
二 控訴の趣旨に対する答弁
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人甲野太郎、同甲野一郎及び同甲野二郎の負担とする。(平成九年(ネ)第一五〇一号事件)
一 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人乙山松夫に対し八七五万円及びこれに対する平成元年四月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え(当審において請求減縮。)。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
二 控訴の趣旨に対する答弁
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人乙山松夫の負担とする。
第二 事案の概要等
本件事案の概要及び当事者双方の主張は、次に付加、訂正するほか、原判決「事実及び理由」中の「第二 事案の概要」(原判決四頁六行目冒頭から同二四頁一一行目末尾まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。
(原判決の補正)
一 原判決四頁八行目の「甲事件原告ら」の次に「(ただし、原審甲事件原告乙山ハナは、本件訴訟提起後の平成五年九月二五日死亡したため、同人の本訴請求権の四分の三を同人の夫である控訴人松夫がその法定相続分にしたがって当然に承継した。)」を加える。
二 原判決五頁一行目の「不法行為」の次に「(主位的請求)」を、同一、二行目の「債務不履行」の次に「(予備的請求)」を各加える。
三 原判決一二頁四行目、同一七頁二行目の各「表れる」をいずれも「現われる」と訂正する。
四 原判決二二頁六行目の末尾に「仮に因果関係が中断していないとしても、花子の死亡については控訴人らの注意義務違反及び看護義務違反の関与は極めて重大であるから、相当の過失相殺がなされるべきである。」を加える。
五 原判決二三頁一行目の「下ることはない。」の次に、改行のうえ、「なお、甲事件原告乙山ハナ子は、本件訴訟提起後の平成五年九月二五日死亡したため、同人の本訴請求権の四分の三を同人の夫である控訴人乙山松夫がその法定相続分にしたがって当然に承継した。」を加える。
六 原判決二三頁三行目の「三四八八万円」を「三六八八万円」と、同二四頁六行目の「各二〇〇万円」を「控訴人甲野太郎につき四〇〇万円、控訴人甲野一郎及び同甲野二郎につき各二〇〇万円」と各改める。
(当審における追加的主張)
一 控訴人ら
1 花子が糖尿病性ケトアシドーシスであったか否かとは関係なく、PH七・一〇一という異常値に対して、被控訴人病院担当医師は、問診、諸検査、点滴と切開手術を行ったにとどまり、経過観察のための入院さえ検討せず、当日中に花子を退院させている。
右のPH七・一〇一という数値は、その数値を示した原因を直ちに取り除く努力をしなければ死に至りうるものであるのに、被控訴人病院担当医師が花子を退院させたのは、右数値を軽視したか見落としたかによるものであろうが、いずれにせよ被控訴人病院担当医師に過失ないし債務不履行責任があることに変わりはない。
2 被控訴人病院担当医師が花子を経過観察のため入院させ、PH値が正常値に戻るか否かを観察していれば、正常値に戻らないときの原因究明やそれに対する適切な対応措置が講じられ、花子を死に至らしめることはなかったから、前記過失ないし債務不履行と花子の死亡との間には因果関係がある。
二 被控訴人
本件の争点は、花子が糖尿病性ケトアシドーシスに罹患していたのか否かではない。真の争点は、花子の死因は何か、その死亡につき被控訴人に責任があるかである。
原審では、控訴人らが死因は糖尿病性昏睡(糖尿病性ケトアシドーシス)であると主張したから、それに対する判断がなされたのであり、この点についてはもはや改めて述べることはない。
1 花子は、PHの低下によって死亡したのではない。花子はPH値が七・一くらいに下がっても割とけろっとしている状態であったのであり、退院時においても、被控訴人病院の医師、看護婦、その他複数の医療従事者に花子の容体が悪いと認識させるような徴候はなく、また退院後も容体に変化はなく、花子の夫の控訴人太郎は翌日は出勤しようと考えていたほどである。
2 花子が寝ている状態のまま突然死亡したことは、花子の体内で突然の死をもたらす瞬間的かつ致命的な変化が生じたとしか考えられない。
仮に退院時に控訴人らが主張するように花子の意識状態が悪かったというのであれば、花子の看護をする家族が花子の意識状態の変化に注意すべきであり、その注意をしておれば当然に意識の変化の程度や昏睡に陥ったかどうかも分かったであろうし、昏睡に陥ってからでも救急病院(須磨赤十字病院が当時の花子の自宅である甲野宅の近所にある。)に収容していれば一〇〇パーセント救命できた。
3 控訴人らは、被控訴人としては花子を退院させるべきではなかったと主張する。しかし、花子の死因は心臓突然死であり、体力の低下や低い栄養状態からの、予測しえない、予期しない急速な経過をたどった死である。
被控訴人は、原因疾患である急性化膿性乳腺炎の切開排膿に加え、点滴による十分な栄養補給をし、退院時に患者と家族に対して、退院後は食事が十分取れなくともまず水分を十分に補給するよう具体的指示をして退院させているのであって、被控訴人に落ち度はなく、また、退院時の症状からも、花子が急性の循環不全で死亡することを予測することは不可能であった。
第三 当裁判所の判断
一 診療経過及び花子の全身症状について
右の点についての当裁判所の認定判断は、原判決二五頁二行目冒頭から同四四頁八行目末尾までに記載されたものと同様であるから、同説示を引用する。
二 花子の死因について
1 花子の死因についての当裁判所の認定判断は、次に訂正、削除するほか、原判決四四頁一〇行目冒頭から同七八頁八行目末尾までに説示されたものと同様であるから、同説示を引用する。
(一) 原判決七二頁末行冒頭から同七三頁五行目末尾までの記載を削除する。
(二) 原判決七八頁四行目の「糖尿病性ケトアシドーシスであったとは認められない。」を「糖尿病性ケトアシドーシスであったことが明らかであるとまでは認められない。」と改める。
2 原判決七八頁八行目末尾の次に、改行のうえ、次のとおり付加する。
(八) 藤原医師の解剖所見における鑑定結論の相当性
花子の死体を司法解剖した藤原医師が、その解剖所見に基づく鑑定の結論として、花子は、体力の低下や低栄養状態のために、心臓機能にも影響が及び、急性循環障害を起こして死に至ったものと考えられる旨の見解を明らかにしていることは前認定のとおりである。
しかし、花子の死因が右鑑定の結論のとおり体力の低下や低栄養状態のための急性循環障害であると断定するについては、これをためらわせる次のような疑問がある。
(1) 藤原医師は、花子の死体解剖を行った結果、花子の生前の機能的な状態を知ることが花子の死因の鑑定をするうえで有用であると判断して、被控訴人病院に対し、花子のカルテを閲覧したい旨要請したが、被控訴人病院がこれを拒んだため、花子の生前の機能的な臨床情報を得ることができず、そのため、藤原医師は、花子が、被控訴人病院に搬入された当時、糖尿病に罹患しており、かつ、血液PH七・一〇一という相当な異常値を示す代謝性アシドーシスの状態であったとの事実を知ることなく、死体解剖による形態学的な所見のみに基づいて花子の死因を鑑定したものであるところ、右鑑定においては、糖尿病の形態学的な所見が現われていなかったため、花子が糖尿病に罹患しているものとは判断しなかったものであり、藤原医師自身も、糖尿病はもともと機能的な病気であるため形態学的な所見としては現われにくいところから、仮に、右鑑定に際して、花子のカルテを閲覧して平成元年四月一七日午前五時一四分における花子の前記の血液ガス分析結果を知り、その結果をも鑑定の資料に加えて判断した場合には、鑑定の結論が変わることもあり得ると考えていることが認められる。
(2) 藤原医師の右解剖所見に基づく花子の死因に関する判断は、同医師が花子の外表一般所見、前胸部炎症巣及び手術創所見、内臓所見、血液型検査所見、組織学的検査所見を検討した結果、<1>特に死因となり得るような顕著な既往症が認められないこと、<2>乳腺炎による感染は乳房の局所にとどまり、敗血症を生じるには至っていなかったものとみられるから、乳房膿瘍のみが原因で死に至るとは考えられないこと、<3>乳房膿瘍の治療としての右乳房の切開排膿手術は、適切なもので、手技そのものも妥当であり、直接死因に大きく関与したものとは思われないこと、<4>心臓及び肺臓には病的な異常は認められないことなど、死因となり得る可能性があるものを一つずつ検討してその可能性のないものを除外した結果、最後に残った、解剖時の身長は一五三センチメートル(一五八センチメートルと記載された箇所も存在するが、同記載は誤記と認める。)、体重五三キログラム、特にるいそう(羸痩)は認められなかったが、全身にわたり衰弱状を呈していた、との所見から、低栄養状態が疑われる点に注目し、花子は、右乳房の急性化膿性乳腺炎が広範囲かつ高度の乳房膿瘍に発展したため、その間に体力の低下及び低栄養状態を来たし、このことが主たる原因となって急性の循環障害を来たし、死亡したものと考えられるとの結論を導いたものであって、その判断は、花子の死因を一義的に特定し得る顕著な形態学的所見に基づいたものではなかったことが明らかである。
(3) そして、藤田医師の判断の基礎となった低栄養状態の点に関して、前認定の平成元年四月一七日午前七時四五分における花子の血液検査の結果をみると、TP(総蛋白)値が九・一(基準値六・五~八・五)、総コレステロール値が二三九(基準値一五〇~二二〇)、TG(トリグリセリド)値が三一〇(基準値四〇~一四〇)と、いずれも基準値よりも高い値を示していたことが明らかであるが、右の血液検査の結果からみる限り、花子が低栄養状態にあったとすることには疑問がある。
3 花子の代謝性アシドーシスの原因が糖尿病か飢餓かのいずれかであることは引用にかかる原判決の説示のとおりであるところ、以上を総合すれば、花子の代謝性アシドーシスは、確定的に糖尿病性ケトアシドーシスであるとまでいうことはできないものの、その蓋然性が相当程度高いことを否定することもできない。
そして、花子の死因については、体力の低下や低栄養状態のための急性循環障害であると断定することが相当でないことは藤原医師の鑑定結果に対する右の疑問その他前記説示から明らかであるが、一方、花子が、被控訴人病院に搬入された当時糖尿病に罹患し、かつ血液PH七・一〇一という相当な異常値を示す代謝性アシドーシスの状態であったという前認定の事情を考慮しても、代謝性アシドーシス及びその原因が直ちに花子の死に結びつくものと断定できる証拠もないのであるから、糖尿病性ケトアシドーシスをもって花子の死因であると断定することもまた相当でない。
よって、花子の死因については、結局、これを確定し得ないものと判断せざるを得ない。
三 被控訴人病院担当医師の過失ないし被控訴人の債務不履行責任について
1 本件事故における花子の死因が確定し得ないものであることは右説示のとおりであるが、そうであるからといって、直ちに花子の死亡につき被控訴人に過失ないし債務不履行がないとはいえない。けだし、被控訴人において、花子の死亡についての予見可能性及び結果回避可能性があり、かつ、社会通念上または契約上、結果回避措置を講ずることが要請される場合には、本件事故に対する被控訴人の過失ないし債務不履行の責任を認めるべき余地があるからである。
2 そこで、前認定の診療経過及び花子の全身症状(原判決二五頁二行目冒頭から同四四頁八行目末尾までの記載)を前提として検討するならば、被控訴人病院の各医師につき、次の各過失を認めることができる。
(一) 被控訴人病院の救急担当であった島田医師は、花子が低酸素状態あるいは肺梗塞に陥っていないかを判断するために、花子の動脈から採血して血液ガス分析を行い、平成元年四月一七日午前五時一四分、花子の動脈血のガス分析結果として、PH値七・一〇一(正常値七・三八~七・四二)、PCO2(血液中の炭酸ガス濃度)値五・九(正常値三二~四六)、HCO3(重炭酸塩)一・八(正常値二一~二九)、BE(ベースエクセス)値マイナス二五・五(正常値マイナス二~プラス二)との報告を得たものであることは、前認定のとおりである。
一般に人間の血液PHは通常七・三八ないし七・四二に調節されているが、七・三五以下の場合はアシドーシス、七・二以下の場合は明らかに強いアシドーシス、七・〇以下の場合は強度のアシドーシスと判断され、PH値七・二以下が続くときは生命が危険とされ、異常値をみた場合には、原因を究明するとともに、異常の程度によっては緊急に治療を開始する必要があり、治療の評価、経過観察のために繰り返し検査を行うことが大切であるとされる。
以上によれば、島田医師は、花子の動脈血のガス分析結果の報告を得た時点で、右ガス分析結果が明らかに強いアシドーシスの状態を示しているものと判断して、その原因の究明及び強いアシドーシスの状態を解消するための治療を早急に行うべきであったということができる。そして、花子のアシドーシスに関する病態は、右ガス分析結果からみて、代謝性アシドーシスが基本にあって、二次的に呼吸性アルカローシスがそれに加わった混合性病態であったと認められるところであり、代謝性アシドーシスが起こる原因として考えられる飢餓、糖尿病、アルコール中毒及び乳酸(アシドーシス)のうち、花子についてはアルコール中毒が明確に否定されることは前認定のとおりであるから、島田医師が、花子に対して糖尿病の既往症についての問診をしたり、尿検査及び血糖検査を実施したりしていれば、花子の代謝性アシドーシスの原因を究明し得た可能性があることを否定できない。
なお、島田医師は、花子の動脈血の右ガス分析結果が代謝性アシドーシスの状態を示していることは認識したが、臨床所見等から花子の代謝性アシドーシスの原因は経口摂取が不十分であることによる飢餓状態と考えたうえ、右ガス分析結果が報告された時点では花子の脈拍数や呼吸回数の状況が落ち着いていたため、代謝性アシドーシスは改善の傾向にあるものと判断し、その原因の究明が必要であるとは考えなかったものであることが認められる。しかし、代謝性アシドーシスが起こる原因としては、飢餓、糖尿病、アルコール中毒及び乳酸(アシドーシス)が考えられることは前記のとおりであるうえ、一般に、飢餓は、脂質代謝を増加させるので、ケトアシドーシスを起こすが、飢餓によるPHの低下は軽度で、七日間の完全絶食でHCO3が一四にまで減少するにすぎないのに対し、右血液ガス分析結果におけるHCO3の値が一・八にまで低下している点は飢餓のみでは説明がつかないものであるから、(飢餓によるケトアシドーシスに局所的な乳酸アシドーシスが加わることにより、著しいPHの低下が生じ得ることは前記のとおりであるとしても、)花子に対する糖尿病の既往症についての問診や尿検査及び血糖検査を実施することなく、臨床所見等のみからその原因を飢餓であると即断することは相当でなく、また、代謝性アシドーシスにおいては、血液PHが七・二以下になるとクスマール大呼吸が現われ、呼吸数が増加するのが普通であるが、血液PHが七・〇まで低下すると逆に呼吸抑制が起こることが認められるから、花子の脈拍数や呼吸回数の状況が落ち着いたことを根拠に代謝性アシドーシスは改善の傾向にあるものと判断することも、必ずしも相当とはいえない。
(二) 被控訴人病院の外科医(当直)であった林医師は、平成元年四月一七日午前八時一〇分、救急外来からの連絡を受けて救急外来処置室に来診し、花子の右乳房の膿瘍につき、急性化膿性乳腺炎であると診断し、まず切開排膿が必要であると判断し、その判断に基づき島田医師が林医師立会いのもとに局部麻酔の上で十字切開排膿術を施行し、その術後に、林医師が花子に対し、しばらく外来で経過観察した上で午前一一時ころ帰宅してよいと指示したことは前認定のとおりである。そして、林医師は、救急外来処置室に来診して花子のカルテを見た際に、花子の動脈血の右ガス分析結果を見て、右ガス分析結果が代謝性アシドーシスの状態を示していることを認識したものであるが、その重篤性には深い注意を払うことなく、切開排膿を行えば代謝性アシドーシスの状態も是正されると判断して、切開排膿術を施行する治療のみを行ったものであることが認められる。
以上によれば、花子の動脈血のガス分析結果を見てそのガス分析結果が代謝性アシドーシスの状態を示していることを認識した林医師としては、右ガス分析結果が明らかに強いアシドーシスの状態を示していることから、その重篤性にも十分な注意を払う必要があり、少なくとも、右切開排膿術の施行から相当時間経過後に動脈血のガス分析の再検査をするなどして、検査数値上においても代謝性アシドーシスの状態が解消されていることを確認するまでは、花子に帰宅してよいとの指示をすべきではなかったものということができる。
(三) 被控訴人病院外来外科の小縣医師は、平成元年四月一七日午後一時一五分ころ、一般外科外来診療室で花子を診察し、先に切開、排膿された主膿瘍の横に、それとは交通がなく排膿されていない娘膿瘍を発見したことから、その切開排膿を行ったが、この時の花子は、呼吸は少し早めであったものの、皮膚温に特に冷感はなく、脈や血圧も正常であり、特に意識障害と思われる症状もみられず、筋肉も弛緩したような状態ではなかったこと、小縣医師は、右切開排膿を行った後、ソリターT三・五〇〇mlとビクシリン二gの点滴を行った後、花子に対して退院することを許可したことは前認定のとおりである。そして、小縣医師も、花子を診察した際に、花子が被控訴人病院に救急で搬入された時点での動脈血のガス分析結果である前記ガス分析結果を見て、右ガス分析結果が代謝性アシドーシスの状態を示していることを認識したものであるが、同医師は代謝性アシドーシスの主要な要因を飢餓的な状態によるケトアシドーシスであると考え、切開排膿により感染巣を取り除けば、花子は痛みや発熱もなくなって食事もできるようになり、代謝性アシドーシスの状態が自然的に回復されると判断し、かつ、診察時には代謝性アシドーシスを示す臨床所見が認められなかったところから、動脈血のガス分析の再検査をすることなく、花子の退院を許可したことが認められる。
以上によれば、花子の動脈血のガス分析結果を見て右ガス分析結果が代謝性アシドーシスの状態を示していることを認識した小縣医師についても、右ガス分析結果が花子の被控訴人病院に救急で搬入された時点でのものであるとしても、そのガス分析結果は明らかに強いアシドーシスの状態を示しているのであるから、その重篤性には十分な注意を払う必要があり、臨床所見等のみからその原因を飢餓であると即断することが相当でないことは前記と同様であり、少なくとも、動脈血のガス分析の再検査をするなどして、検査数値上においても代謝性アシドーシスの状態が解消されていることを確認するまでは、花子の退院を許可すべきではなかったものということができる。
3 以上によれば、被控訴人病院の島田医師、林医師及び小縣医師は、花子が被控訴人病院に救急で搬入された時点での動脈血のガス分析結果である前記ガス分析結果を見て、右ガス分析結果が代謝性アシドーシスの状態を示していることをそれぞれ認識したものであるところ、右ガス分析結果は明らかに強いアシドーシスの状態を示しているのであるから、その原因の究明及び強いアシドーシスの状態を解消するための治療を早急に行い、また、少なくとも花子の退院を許可するにあたっては、動脈血のガス分析の再検査をするなどして、検査数値上においても代謝性アシドーシスの状態が解消されていることを確認すべきであったにもかかわらず、これを怠ったまま退院を許可した点において過失があり、被控訴人には各医師の過失に基づく不法行為による責任ないし債務不履行による責任があるものといわざるを得ない。
四 被控訴人病院担当医師の過失と花子の死亡との因果関係について
1 花子の死因を確定し得ないものであることは前記説示のとおりである。
しかし、仮に花子の死因が相当程度に蓋然性のある糖尿病性ケトアシドーシスであったとするならば、糖尿病性ケトアシドーシスは、インスリン治療が確立した現代では死亡率は数パーセントに低下し、診断がつきさえすれば所定の治療によりほぼ一〇〇パーセント救命・完治が可能であることが認められるものであるから、被控訴人病院の医師らが代謝性アシドーシスの原因の究明のための努力を続けていれば、花子の代謝性アシドーシスの原因が究明され、さらには代謝性アシドーシスの状態を解消するための治療が効を奏して、花子の死亡を回避し得た蓋然性が極めて高かったものということができる。また、仮に花子の死因が体力の低下や低栄養状態のための急性循環障害であったとするならば、前認定によれば、島田医師及び小縣医師は、いずれも花子の被控訴人病院に救急で搬入された時点での動脈血のガス分析結果が示す代謝性アシドーシスの状態の原因を飢餓的な状態であると考えていたものであるから、右ガス分析結果の重篤性に十分な注意を払い、動脈血のガス分析の再検査をするなどして、検査数値上においても代謝性アシドーシスの状態が解消されていることを確認するまで飢餓に対する治療を含めた花子に対する入院管理を続行していたならば、血圧や脈拍数の急変等から花子の急性循環障害を事前に察知してその治療をすることができたものであり、花子の死亡を回避し得た蓋然性が極めて高かったものということができる。
2 なお、被控訴人は、花子が被控訴人病院から帰宅後、控訴人らが通常の看護義務を尽くしていれば、花子は、十分に救命の機会があり、死亡するには至らなかったとして、因果関係の中断を主張するが、被控訴人の過失が、花子の動脈血のガス分析の再検査をするなどして、検査数値上においても代謝性アシドーシスの状態が解消されていることを確認すべきであったにもかかわらず、これを怠ったまま退院を許可した点にあることは前記説示のとおりであるから、被控訴人病院から帰宅後の花子に対する控訴人らの看護の適否は、被控訴人の過失と花子の死亡との因果関係を中断する事由となり得る余地はなく、被控訴人の右主張は理由がない。
また、被控訴人は、花子の死亡については控訴人らの注意義務違反及び看護義務違反の関与は極めて重大であるから、相当の過失相殺がなされるべきである旨主張するが、前認定のとおり、控訴人松夫、同太郎及び竹夫とは、花子を車に乗せて、甲野宅まで行き、花子を寝かせたが、花子は、控訴人太郎の就寝する午後九時ころまではずっと眠ったままの状態であり、控訴人太郎が目を覚ました翌四月一七日の午前三時ころ、目を開けたままの状態で呼吸をしていなかったものであり、このことに、原審における控訴人太郎本人尋問の結果、甲八、その他本件各証拠を検討しても、花子が、被控訴人病院から帰宅後から死亡に至るまでの間、特に重篤な臨床症状を呈したような事情が窺われないこと、また前記説示に照らして、花子の死亡は、第一次的には医療機関である被控訴人の過失によって発生したものであり、一方、控訴人らは医療についてはまったくの素人であり、かつ、控訴人らの注意義務違反及び看護義務違反は花子の死亡に対しては副次的、第二次的なものと判断するのが相当であることなどを併せ勘案するならば、被控訴人の過失相殺の主張を採用することは相当でない。
五 損害額について
1 控訴人松夫の損害賠償債権額について
(一) 以上の認定事実及び本件にあらわれた諸事情を総合勘案すれば、花子の死亡により原審甲事件原告乙山ハナ及び控訴人松夫の被った精神的苦痛に対する慰謝料は、それぞれ二〇〇万円をもって相当であると判断する。
(二) 弁論の全趣旨によれば、原審甲事件原告乙山ハナは、本件訴訟提起後の平成五年九月二五日死亡したこと、ハナの子亡花子の代襲相続人である控訴人一郎及び同二郎は相続放棄の申述をなした結果、ハナの兄弟と控訴人松夫とが相続人となるところ、右兄弟のうち行方不明で連絡の取れない者がおり、遺産分割協議が困難な事情にあること、そこで、ハナの夫である控訴人松夫は、ハナの本訴請求権の四分の三をその法定相続分にしたがって当然に承継したとして、受継の申立てをしたことが認められる。よって、控訴人松夫は、原審甲事件原告乙山ハナの被控訴人に対する二〇〇万円の損害賠償債権のうち一五〇万円の損害賠償債権を当然に承継したものである。
(三) よって、控訴人松夫の被控訴人に対する損害賠償債権額は三五〇万円となる。
2 控訴人太郎、同一郎及び同二郎の損害賠償債権額について
(一) 花子の損害賠償債権額 五一七九万円
(1) 花子の逸失利益 三三七九万円
弁論の全趣旨によれば、花子は、死亡当時三四歳で、本件事故がなければ六七歳までの三三年間家事労働に従事することができたものであり、これを平成元年度賃金センサス「産業計・企業規模計・女子労働者・学歴計三四歳」の給与額を基礎として右期間中の花子の生活費として四〇パーセントを控除し(前記説示によれば、花子は、死亡当時、必ずしも完全な健康体ではなかったことが窺われるから、通常の健康な主婦に比較して若干多めに生活費を控除することとする。)、新ホフマン係数により中間利息を控除して逸失利益を計算すると、三三七九万円(一万円未満切捨て)となる。
(計算式)2,935,900×19.183×0.6=33,791,621
(2) 花子の慰謝料 一八〇〇万円
以上の認定事実及び本件にあらわれた諸事情を総合勘案すれば、花子の被った精神的苦痛に対する慰謝料は一八〇〇万円をもって相当であると判断する。
(二) 控訴人太郎、同一郎及び同二郎の固有の慰謝料
控訴人太郎、同一郎及び同二郎は、花子の法定相続人であるから、花子の慰謝料請求権を相続することによって精神的苦痛は慰謝されるものと認めるのが相当であり、別途に固有の慰謝料を認めることは相当でない。
(三) 葬儀費用 一〇〇万円
弁論の全趣旨によれば、控訴人太郎は、花子の葬儀費用を負担したことが認められるところ、右葬儀費用相当損害金としては、一〇〇万円をもって相当であると判断する。
(四) 弁護士費用
控訴人太郎につき二六〇万円、控訴人一郎及び同二郎につき各一二〇万円をもって相当であると判断する。
(五) 控訴人太郎は花子の夫であり、同一郎及び二郎は、いずれも控訴人太郎と花子の間に生まれた子であることは前認定のとおりであるから、控訴人太郎は花子の損害賠償債権の二分の一を、同一郎及び同二郎はそれぞれ花子の損害賠償債権の四分の一を各相続した。
(六) よって、控訴人太郎の控訴人に対する損害賠償債権額は二九四九万五〇〇〇円、同一郎及び同二郎の控訴人に対する損害賠償債権額は各一四一四万七五〇〇円となる。
六 よって、控訴人らの本訴各請求は、控訴人甲野太郎については二九四九万五〇〇〇円、同甲野一郎及び同甲野二郎については各一四一四万七五〇〇円、同乙山松夫については三五〇万円並びに右各金員に対する花子の死亡日の翌日である平成元年四月一九日から各支払済みまでいずれも民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるから認容し、その余の部分はいずれも理由がないから棄却すべきであるから、原判決を右のとおり変更し、訴訟費用の負担について民訴法六七条二項、六一条、六四条、六五条に従い、仮執行の宣言につき同法二五九条一項、三一〇条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岨野悌介 裁判官 古川行男 裁判官 杉本正樹)