大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。
官報全文検索 KANPO.ORG
月額980円・今日から使える・メール通知機能・弁護士に必須
AD

大阪高等裁判所 平成9年(行コ)18号 判決 1998年3月05日

奈良市西登美ヶ丘六丁目八番二号

控訴人

井ノ上昭松

右訴訟代理人弁護士

吉田麓人

宮尾耕二

奈良市登大路町八一番地

被控訴人

奈良税務署長 田里眸

右指定代理人

山崎敬二

長田義博

平田豊和

村松徹哉

主文

原判決中、奈良税務署長に関する部分を取り消す

本件のうち右取消部分を奈良地方裁判所に差し戻す。

事実及び争点

第一控訴の趣旨

主文と同旨。

第二事案の概要

一 本件の事案の概要は、次に付加訂正し、二に付加するほか、原判決事実及び理由第一請求、第二事案の概要のとおりであるから、ここに引用する。なお、控訴人は、当審で、国税不服審判所長に対する本件裁決取消請求にかかる訴えを取り下げた。

1 原判決五頁七行目「という」の次に「の入った郵便物(以下「本件郵便物」という)」を加える。

2 同八行目「送達」を「配達」と改める。

3 同一〇行目「原告は、」の次に「昭和四七年八月一〇日から平成九年八月一三日まで」を、「甲一三」の次に「、二九」を各加える。

二 出訴期間の遵守に関する当事者の主張

1 控訴人

以下の事実関係によると、本件裁決書謄本が控訴人の本宅に配達されて平成七年五月一九日に、控訴人が右決裁を知ったとの推定を覆す特段の事情がある。控訴人が本件裁決書謄本を入手し、これを知ったのは同月二〇日である。したがって、本件訴えは出訴期間内に提起されている。

(一) 本件裁決書謄本の送達当時、控訴人の生活の本拠は奈良市西登美ヶ丘の肩書地の自宅にあった。生駒市の本宅には居住しておらず、同所は生活の本拠たる住所ではなかった。

(二) 本件裁決書謄本を入れた本件郵便物が控訴人の本宅に郵送されたとき、受領したのが靜子であることは、以下の点を検討しても認められる。

即ち、靜子は、外出時、右受領の際用いた「井上」名義の印鑑を携行していた。これは一般に見られる習慣である。靜子は通常は「いのうえ」と名乗っており、「井上」名義の印鑑を使用していた。靜子は、自宅では、二階に居住している関係上、宅配便を階下で受領する際、サインして受領することがあった。靜子が堀口和見から二〇万円を借用した際の借用書には、前記印鑑を使用している。控訴人の本宅では、光子は農作業のために不在であることが多く、善太郎の妻初枝は離れに居住し、靜子らと疎遠であったことなどから、靜子が宅配便等を受領することが多かった。

平成七年五月二〇日本件裁決書謄本を公訴人の本件事務所に持参したのは房吉である。同人は常日頃、本件事務所に隣接する倉庫に出入りしていたからである。

(三) 控訴人の日記帳の平成七年五月一九日欄には本件裁決書謄本の送達に関する記載はなく、同月二〇日欄にその記載がある、右各欄や該当頁に事後的に手を加えた形跡はない。

2 被控訴人

以下のとおり、本件裁決書謄本は、平成七年五月一九日控訴人の住所に送達されており、控訴人は同日本件裁決を知ったから、本件訴えは、行政事件訴訟法一四条四項に定める出訴期間を徒過した不適法なものである。

(一) 課税処分にかかる書類の送達は、郵便による送達の場合、送達場所である住所又は居所に配達されて、受送達者の了知しうる状態に置かれたときに、送達の効力が生じる。郵便物が、直接受送達者に交付されなくとも、直ちに受送達者に入手されうることが期待しうる状態に置かれたときは送達の効力が生じる。

(二) 本件では、控訴人の住民票上の住所は本宅であり、本宅にはその妻及び長男が居住していること、控訴人は本件の確定申告書、異議申立書において、本宅を住所と表示し国税不服審判所長に対し、住所を本宅に統一する旨陳述していること等から、本宅が控訴人の住所である。

控訴人は、当時、所得税の確定申告書で、光子と善太郎、その家族を扶養親族と記載しており、善太郎の長男井ノ上泰雅の通っていた幼稚園へ行っている。したがって、控訴人は、本宅における家族と接触があった。

(三) 以下に述べる点等から、平成七年五月一九日、本件裁決書謄本を受領したのは、靜子ではなく、本宅の家族である光子又は善太郎である。

靜子が本件裁決書を受領したとする事実経過は、本宅を訪れたのが花を仏壇に供えるためであるのに、印鑑まで携帯していた点、受領後本宅から持ち出した点等不自然である。本件裁決書謄本の受領印である「井上」の印鑑は、本宅へ配達された宅配便の受領に際し、多数押印されている。これらを靜子が受け取り、本宅の家族である光子や初枝らが留守にしていたとは不自然である。他方、靜子は、宅配便をサインで受領している。靜子が右印鑑を使用したという借用証については、そのもとになる金銭貸借の存在が疑わしい。

(四) 仮に、靜子が平成七年五月一九日、本件裁決書謄本を受領したとしても、靜子から遅滞なく控訴人に手渡されることが期待できたから、靜子の受領時点で社会通念上、控訴人の了知しうる状態になった。

(五) 控訴人の日記帳には、本件課税処分に関する主要なできごとのすべてが記載されているわけではないし、当日の記載でなく、翌日以後の追加記載が見られ、その記載の正確性に疑問がある。

理由

一  出訴機関の遵守について

1  行政処分の取消訴訟は、裁決があったことを知った日から三か月以内に提起しなければならない(行政事件訴訟法一四条一項)。ここに「裁決があったことを知った日」とは、当事者が裁決の存在を現実に知った日を指すが、裁決を記載した書類が当事者の住所に郵便により配達され、社会通念上裁決のあったことを当事者の知り得る状態に置かれたときは、反証のない限り、当事者はその裁決のあったことを知ったものと推定できる(最高裁昭和二七年一一月二〇日第一小法廷判決・民集第六巻第一〇号一〇三八頁)。

2  まず、控訴人の住所について検討する。

(一)  甲四、七ないし一〇、一二ないし一六、一八、二四、二九ないし三三、三七の1、2、三八、三九の1、2、四〇、四一の1、2、四二、四三の1ないし10、四四、四五の1ないし12、四六の1、2、四七の1、2、四八の1ないし8、四九、五〇、五三、五五ないし五七、倹甲四ないし三六、三八、三九、証人小林靜子、控訴人本人、弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

控訴人は、もと本宅において、光子ら家族と同居していた。しかし、控訴人は、光子と不仲になって、昭和三七、八年ころ、本宅を出て他に移り住んだ。控訴人は、昭和四四年九月、生駒市俵口町に建物を購入して移り住み、次いで、昭和四六年四月に肩書住所地の土地を購入し、同年一二月に、右地上に居宅を建築完成させて移り住み、以降は同所に居住し続けている。控訴人は、同所に居住当初から、喜多よしゑと同棲していて、内縁関係にある。控訴人と喜多よしゑとの間には、昭和四七年四月二五日喜多貴史が出生し、以後同人も同居している。さらに西川香代子(婚姻後の姓は「喜多」)が平成五年一〇月八日喜多貴史と婚姻し、以後同居するようになり、平成六年四月二二日には右両名間に喜多浩実が出生し、以後同人も同居するようになった。

控訴人は、昭和五一年ころ以降、知人や奈良県職員、建設会社、不動産会社等の取引先、生駒市水道局とのはがき、手紙をはじめ、通信、書状のほとんどを肩書住所地でやりとりするようになっていた。もっとも、主に生駒市役所や租税関係役所の通知は、本宅になされていた。

本宅には、控訴人が家を出た以降、その母イクヱ(平成五年一二月三一日死亡)、光子、善太郎が概ね引き続いて居住し、後に初枝が昭和六一年三月善太郎と婚姻して以降同居し、さらに善太郎と初枝間の子である井ノ上泰雅(昭和六三年八月三〇日生まれ)、井ノ上沙樹(平成三年二月二二日生まれ)、井ノ上諒人(平成六年四月九日生まれ)が加わり居住していた。控訴人は、昭和四〇、四一年ころ以降は、光子と戸籍上離婚こそしないものの、甚だ疎遠となり、イクヱの通夜葬儀や法事等を除き、本宅への出入りはごくたまにしかしない状態であった。

控訴人は、本宅に近接して、事務所兼倉庫を所有し、同所を牛乳販売業用の事務所(本件事務所)及び倉庫として使用し、かつ農業用及び建設用機械の倉庫として使用していた。控訴人は、毎日午前二時ころ、右事務所兼倉庫に赴いてから、牛乳配達等に出かけ、午前八時ないし九時ころ右事務所兼倉庫に戻り、午前九時半ころからは、牛乳販売の集金や農業関係の仕事等に出かけていた。控訴人は、午後六時ないし七時ころには、右事務所兼倉庫に戻り、翌日の牛乳配達の点検をすることが多かったが、戻らないこともよくあった。

控訴人が肩書住所地に居住している間、控訴人宛の郵便物が本宅に配達された場合、光子が、控訴人の本件事務所に届けて、机の上に置いておくことが通例であった。もっとも、光子は、日中、生駒市内の畑へ耕作に出て本宅を留守にすることがよくあり、本宅への郵便物、宅配便の配達については、初枝ら他の者が受領することが多かった。善太郎は、控訴人とともに牛乳配達に従事するほか、日中、控訴人所有の田において農業に従事していた。初枝は、本宅内の居住場所である奥の離れにいて表に出てこないことが多かったうえ、出かけることもしばしばあった。

房吉及び靜子は、控訴人の本宅及び事務所兼倉庫の近所に居住しており、平成七年当時戸籍上離婚していたものの、内縁関係にあって、靜子は日常生活上井ノ上姓を使っていた。房吉は控訴人の事務所兼倉庫にある機械を借り出すため、頻繁に同所に出入りしていた。靜子は、イクヱや光子と親密な交際を続けており、イクヱの死後もその仏前に線香をあげたり花を供えるなどのため、時々本宅に出入りしていた。

(二)  右認定事実によると、本件裁決書謄本の入った本件郵便物が配達された平成七年五月一九日当時、控訴人の生活の本拠は肩書住所地にあり、本宅へはごくたまに出入りしていただけであった。

(三)  そうすると、本宅は、控訴人の住所とすることはできないから、ここに郵便物が配達されたことから、控訴人が裁決を知ったものと推定することはできない。もっとも、控訴人は本宅を住民登録上の住所とし、国税不服審判所にもここを住所として統一する旨述べ、これが混乱の原因となったことについて控訴人に責任があるが、そのことから本宅を住所として認めるべきものとは考えられない。

3  次に、控訴人が本件裁決を知ったのが五月一九日と認められるかどうかについて検討する。

(一)  平成七年五月一九日、本件郵便物が本宅に配達された時、控訴人がこれを直接受領したと認めるべき証拠はない。

右配達の時、本件郵便物を、本宅の家族である光子又は善太郎らが受領したとか、受領後その日のうちに、控訴人に渡したものと認めるべき直接証拠もない。

かえって、前記2(一)認定の控訴人の生活状況等によると、控訴人が右本件郵便物配達時に受領した可能性は極めて低く、本宅の家族が受領した可能性を否定はできないが、そのように断定することもできない、また、仮に本宅の家族が配達を受けたとしても、その日のうちにこれが控訴人に渡ったものとの推測もできない。

(二)  他方、証人小林靜子の供述中には、当日本宅で本件郵便物を受領したのは、靜子であり、その際、外出時常時携行している「井上」名義の印鑑を押印した旨、当日、本件郵便物を控訴人はもちろん光子等本宅居住者らにも渡さず、自宅に持ち帰り、翌日房吉をして、控訴人に本件事務所で届けさせた旨の部分がある。

これら靜子による印鑑の常時携行、本件郵便物受領及び右印鑑押捺の事実や、本宅で郵便物を受領しながら自宅へ持ち帰った事実については、控訴人において、疑問を呈するところである。

倹甲一ないし三、乙一、四ないし七、弁論の全趣旨によると、本件郵便物は書留郵便であって、その表面には、受領印として「井上」名義の印鑑が押捺されていること、本宅に配達された控訴人宛(平成七年七月二三日配達)、光子宛(平成七年六月二日配達)、善太郎宛(平成七年一一月三〇日配達二通)の各宅配便の伝票には、右と同一と思われる印鑑が押捺されていることが認められ、他方、乙八、証人小林靜子によると、自宅で宅配便を受領した際、印鑑を使用せずサインを使用していたことが認められる。これら事実からすると、本件郵便物受領の際使用された「井上」名義の印鑑を保有し、これを使用して本件郵便物を本宅で受領したのは、むしろ本宅居住者である光子、善太郎らではないかとの疑問が生じ得ないではない。

しかし、前記靜子の証言にある「井上」名義の印鑑を常時携行していたこと自体は、あえて異とするに足りない。

本件郵便物に押捺された「井上」名義の印鑑の保有者や押捺した者についても、前記認定及び証人小林靜子によると、光子や善太郎は、日中本宅を留守にすることが多く、初枝も奥にいて表に出てこないことが多い一方、靜子は本宅に時々出入りしていたことやその身分関係からも、靜子が繰り返し郵便物や宅配便を受領する可能性はあったものと言うべきである。他方、本宅に配達された宅配便等の総数や、うち右印鑑が押捺されていた物が占める割合は、乙一〇に照らしても、証拠上明らかではない。静子が自宅で宅配便を受領した際、サインした理由として供述するところは、首肯しうる。したがって、本件郵便物への「井上」名義の印鑑使用から、これが靜子によるものではなく、本宅居住者によるものと見ることはできない。

靜子が本件郵便物を受領した後、自宅に持ち帰ったというのも、控訴人に確実に渡るようにするために、あり得ない方法ではない。

(三)  甲四九及び控訴人本人によると、控訴人作成の日記帳には、平成七年五月一九日欄には本件裁決書謄本送達についての記載がなく、同月二〇日欄に「不服審判所より裁決届く」との記載があることが認められる。

右記載の信憑性について検討するのに、甲一、二、三五、四九、五〇、控訴人本人、弁論の全趣旨によると、右日記帳には、本件処分及び裁決を含めた課税、徴収に関する税務関係官庁からの通知について、概ね記載していること、その他の租税関係の記載と併せ、控訴人が税の賦課徴収、とりわけ本件処分、裁決にかかる課税、徴収手続に多大の関心を寄せていたこと、平成七年五月十九日欄や同月二〇日欄については、後日抹消や付加した痕跡は特にないことが認められる。

甲四九、五〇を通覧すると、日記の各年月日欄に当日記載したのではなく、後日訂正付加されたことを窺わせる記載があり、控訴人は右日記について、その日のできごとを当日記載したのではないものもあると推測されるが、日記全体としては各年月日欄の記載がその日ないし近接した日に記載されたことや、実際に起きた年月日どおりに記載されたことを疑うほどのものはない。

右認定の本件処分及び裁決に関する記載内容等によると、控訴人が本件裁決書謄本を平成七年五月一九日に入手したのであれば、その重要性と、控訴人の関心の高さ等から見て、日記帳の同日欄に記載したものと考えられる。

(四)  以上の検討によると、本件郵便物は、平成七年五月一九日、本宅に配達されたものの、これを控訴人はもちろん、光子ら本宅居住者らも受領したことはなく、靜子が受領して自宅に持ち帰り、翌日房吉により本件事務所に届けられて、控訴人が初めて入手した可能性が高い、

したがって、控訴人が、同年五月一九日、本件裁決の存在を知ったとまでは、証拠によって認めることはできない。

4  そうすると、本件処分取消訴訟の出訴機関は、平成七年五月二〇日から起算するべく、同日から三か月後の休日明けである同年八月二一日に提起された本件訴訟については、出訴期間は遵守されているものと解される。

二  よって、これと結論を異にする原判決を取り消し、本件を奈良地方裁判所に差し戻すこととする。

(裁判長裁判官 井関正裕 裁判官 河田貢 裁判官 高田泰治)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例