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大阪高等裁判所 昭和33年(う)491号 判決 1960年11月18日

被告人 野原春治

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役六月に処する。

訴訟費用は第一、二審とも全部被告人の負担とする。

理由

一、原審及び当審における証拠調の結果を総合すると、昭和三一年五月二日午後三時過ぎ頃、尼崎市難波小学校五年生角間祥憲(昭和二一年二月一一日生、当時一〇才)が、同市難波南通三丁目八五番地の自宅から、同市昭和南通三丁目三三番地の友人清島靖夫方へ遊びに行くために、同市難波新町二丁目一六〇番地神戸地方裁判所尼崎支部構内を、同所北側の垣根の破れた個所から東側にある正門へ通り抜けようとし、当時の本館北側空地に被告人が運転手として東方に向けて駐車させておいた尼崎拘置支所の囚人護送用自動車(兵八―一、一四五号)の車体北側を通りながら、何気なく車体に右手を触れたが、そのとき医者の着るような白い上つ張りを着たその自動車の運転手が、自動車の反対側で、車体を掃除しているのを認め、祥憲はおこられると思つて手を放して通り過ぎ、同所から一〇メートル余隔たつた、東に面している本館正面玄関の近辺の、本館東側地上に、細い白紙テープで帯封をした古い札で、厚さ二、三センチある千円札束が裸のまま落ちているのを発見して拾い取つたこと、右帯封には青インクで三菱のマークをはさみ横に三菱、その下に横に神戸西と表わして長方形の線で囲んだ印と日付印とが押され、その下部に朱肉で約二個の認印が押されており、なおテープのどこかに赤か青のボールペンで日高良雄と書いてあつたと思われるが、祥憲はテープの字を見て赤字で何かむづかしいことが書いてあると考え、且つその札束の多額であるのに驚き、直ちに前記自動車のあるところへ引き返し、来たときと反対側(北側)の車体の、乗降口のドアの辺を布切れでふいていた、前記の運転手に「あそこに落ちていた」と言つて渡すと、同人は何かつぶやきながら、ありがとうと言つて受け取りどこかのポケツトに入れて本館北側入口から裁判所内へ入つて行つたこと、祥憲が右札束を拾つたときには、同人は右裁判所玄関前に黒色及び色不明のタクシー各一台が駐車しており、幼稚園に行つている男女子一人が、正門前道路の方から右裁判所の方へ通つて行くのを認め、同人らが通り過ぎるのを見定めてから右札束を拾つたこと、祥憲が右札束を白衣の男に渡したのは、かねて兄祥郎から、右自動車が悪いことをした人を運ぶバスであつて、警察の人が同乗しているということを聞いて知つていたので、その運転手に渡せば警察の人に渡してくれると思つたからであること、祥憲はそれから清島靖夫方へ行き、同人及びその母敏恵に対し、厚さ二、三センチの裸の千円札束を拾つて白い服を着て自動車を掃除していた運転手に渡したと話し、敏恵から交番所へ届けた方がよかつたと注意され、しばらく遊んで後、午後五時頃帰宅すると、ちようど夕食時であつたので、食事をしながら右のとおり両親らに告げ、両親はその札束は一〇万円であると判断し、母は祥憲をつれて札束を拾つたという場所へ行つて同人の説明を受け、祥憲の説明ぶりによつてそのことが真実であると信じ、その足で尼崎中央警察署玉江橋巡査派出所へ行き、同所勤務巡査佐々木昇に対し右事実を届け出たこと、祥憲は佐々木巡査の問に対し「拾つたときには近所の五、六才の子供が二、三人いたが、拾つたときも渡したときも誰も見ていなかつた、渡した人は白い服を着た、いつも悪い人を乗せてくるバスの運転手で、自動車を掃除していた。そのバスにはいつも警察の帽子をかぶつた人が一緒に乗つているから、この人も警察の人だと思い、その白い上つ張りを着て自動車を掃除していた人に渡した」と言い、なお「その人の顔はどんな顔とは説明できないが、顔をはつきり覚えているから見ればすぐわかる。年は四〇才位」という趣旨を答えたこと、そこで佐々木巡査は尼崎拘置支所へ電話をかけ、右自動車の運転に当つたのは被告人であるが、その日はすでに帰宅したことを知り、祥憲母子に対し、翌五月三日は休日であるから五月四日の午後出頭するように告げたので、同日午後二時半頃祥憲母子が近所の木村ヤエノとともに右派出所に出頭し、同人らのわかるところで佐々木巡査は神戸地方裁判所尼崎支部へ電話をかけ、居合わせた被告人に出頭を求めた上、祥憲らを派出所内で椅子にかけさせ、祥憲に対しよく見ているように言つて待たせ、やがて被告人が、前記と同一の自動車を背広服を着て運転して来て、右派出所前に停車させて自動車を降り、右派出所に入つて来るのを見て、祥憲は「このおつちやんに渡した、まちがいない」と言い、更に被告人が派出所内に入つてからも、祥憲はまちがいないと言つたが、被告人は祥憲を知らず、同人から何も受け取つたことはないと強く主張し、祥憲は佐々木巡査の問に対し、どこをどうとは言えないが、顔を覚えているので、渡したのは被告人にちがいない旨を答えたこと、佐々木巡査は同月八日付で尼崎中央警察署長に対し「拾万円拾得届受理の状況について」という書面を提出して、祥憲母子から前記届出を受けて、被告人と面接させた状況を報告したが、遺失届が提出されないので、刑事事件として捜査は開始されるに至らず、祥憲の父祥隆の投書により、尼崎中央警察巡査部長田中要は、同月二二日祥憲を伴つてその拾得したという現場について同人の説明を聴取し、同日付で同警察署長に対し「現金拾得少年の調査結果報告書」という書面をもつて報告したことが認められる。なお右報告書及び当審第五回公判における証人田中要の供述調書中、祥憲が、その拾つた札束を渡した相手は白い服を着て制帽をかぶつていたと説明したという趣旨の記載は前記佐々木巡査の報告書中に、祥憲の答として「お金を渡した人は白い服を着た人でいつも悪い人を乗せて来るバスの運転手です。そのバスにはいつも警察の帽子をかぶつた人が一緒に乗つているから、その人も警察の人だと思い、その白い上つ張りを着て自動車を掃除していた人に渡した」とあること及び祥憲の司法警察職員及び検察官に対する各供述調書、同人の原審及び当審における証言調書中には相手が帽子をかぶつていた旨の供述記載が全然ないこと等にかんがみ、田中要の聞きちがい又は思いちがいによるものと認める外なく、信用するに足りないことは原判決に説示するとおりである。一方前記証拠によると、神戸市生田区山本通四丁目六〇番地日高良雄は、四月四日兵庫警察署に対し口頭により、千円札束十万円を遺失した旨の届出をし、同月二五日右届出録取書が尼崎中央警察署に回付され、又日高良雄は同月二四日同署に出頭して右遺失状況についての供述をしており、その結果三菱銀行神戸西支店員岡忠男の供述により、同月一日日高良雄に対し千円札束で十万円を払い渡していることが判明しており、祥憲の拾得した札束は右日高良雄の遺失したものと同一物であることに疑はないこと、尼崎拘置支所専用の囚人護送用自動車は同年四月二八日頃から修理に出され、神戸刑務所から前記自動車(兵八―一一四五)が前記支所に貸し出されていたがこれを同年五月二日右刑務所で使用する関係上、その前日の同月一日神戸刑務所の運転手森田保が、同刑務所の別の車を右支所まで運転して行き、これと前記車とを交換し、更に同月二日午前中もとどおり交換するために、森田運転手が前記車を前記裁判所まで運転して行き、被告人が囚人護送のため同裁判所へ運転して行つて、同所構内に掃除した上駐車させておいた別の車と交換したこと、被告人は元来きれい好きで自動車をよく掃除し、五月一日森田運転手が車を交換したときも、本件自動車がよく掃除されており、車の中にはぼろ切れ等が入つていたこと、被告人は右五月二日午後帽子をかぶらず白い上つ張りを着用して右車を運転して右裁判所へ行き、祥憲が通り過ぎたという同じ場所に駐車させておいたことが認められる。

なお被告人の司法警察員及び検察官に対する供述調書を検すると、被告人は当初は司法警察員に対しては、当日午後一時二五分頃右自動車を右裁判所に着け、自動車から降りて同裁判所内の留置場見張室へ行き、二〇分位休んで後検察庁事件係へ行つたりなどして二、三〇分を費し、二時三〇分頃前記自動車へもどり座席で新聞を読み、一〇分位仮眠した後再び検察庁へ行き、裁判所へもどつて便意を催して便所へ行き、午後四時五分頃尼崎拘置支所へ帰着したと供述し、後に改め、車を停車させてから留置場見張室へ行き、身体の調子がわるいので自動車へもどり座席で三〇分位眠り、便所の洗面所で顔を洗つて後、右自動車を運転して右支所へ帰り更に囚人及び刑務官各一名を乗せて午後二時一五分頃右裁判所へ行き、前と同一場所へ駐車させ、検察庁事件係へ行つた後自動車へもどつて運転席左座席で新聞を読み約一〇分又は三〇分位居眠りをし、午後三時一五分又は三時三〇分頃に眼をさまして検察庁事件係へ行つて後便所へ入り、午後四時五分頃右支所へ帰着したと述べ、検察官に対しても同趣旨のことを述べていること、又被告人は司法警察職員に対して当初は、当日右裁判所構内では自動車の掃除は一切していないと述べ、後には当日午前中に同構内でガラスをふいたかも知れないと述べ、更に当日右構内では掃除をしていないように思うがしたとすれば午後三時一〇分頃手のとどく車体下方を掃除したかも知れないと述べ、検察官に対しても午後三時前後にウインドウ位はふいたかも知れないと述べていることが明らかである。

二、ところで被告人は祥憲から本件札束を受け取つたことを終始否定しており、しかも問題の札束は発見されてはいないし被告人が金一〇万円に相当する又はそれに近い金員を費消したという事実も証明されていないので、被告人の本件についての黒白は、もつぱら満一〇才の児童である角間祥憲の供述の証明力如何にかかつていると言わなければならないので、この点については慎重に検討を要する。

一般的に言つて児童は成人よりも記憶力の点においては優れているが、他面被暗示性が成人よりも強く、認識力及び判断力の点において成人に劣ることは否定しうべくもない。しかしながら児童であるという一事をもつてその供述の証明力をいちがいに軽視することは許されない。その供述に証明力があるかどうかは、その児童の知能程度並びにその供述内容の具体性、合理性及び真実性等によつて判定さるべきはいうまでもない。

原判決書によると(1)祥憲は、前記自動車の北側わきを通り過ぎたときには、白い服を着て自動車に手を接触させていた男の顔を正面から見る機会はなかつたであろうし、又その顔を記憶しうる程度に、格別に注意して見ることをしたとは考えられない。(2)祥憲が右の男に拾つた札束を渡すときは相手の顔を見たであろうが、それは短時間であつたと認められ、祥憲は拾得金の高額であるのに驚き、恐怖の念にさえおそわれて、異常の興奮状態にあつたので精神年令の未発達な児童である同人の相手の形状や人相等に対する観察に不正確なものがなかつたとは断言できない。しかも同人は札束を相手に手渡したことによつて、興奮、緊張から解放され、ことの重大性を意識しなかつたものと考えられ、従つて同人によつて、相手の人相等に対する認識が反省され、その認識を意識にとどめ置こうとする努力がつくされた形跡は認められない。

それゆえ祥憲の相手の人相等に対する記憶が正確性を保持していたかについては疑問の余地がある。(3)一般に満一〇才ごろの児童は、記憶力の点ではすぐれているが、同時に被暗示性が強いといえるから、祥憲が、前記五月四日玉江橋巡査派出所において、被告人を見て札束を渡した人にちがいないと断言したのは、祥憲は、初めは白い服を着た相手を、右自動車の運転手と推測する程度であつたのに、祥憲から事情を聞いた両親及び佐々木巡査が、相手方が右自動車の運転手であると判断し、これを祥憲に告げたことにより、それが同人にとつて権威的存在である両親や警察官の意見であるだけに、児童である祥憲の心理に強い影響を与えたため、相手を運転手と確信するに至つたことと想像されることと、右面接が、あらかじめ佐々木巡査によつて、右自動車の運転手が来ることを予告され、巡査派出所という特異な場所において、両親及び佐々木巡査らの立会のもとで行われるという環境下のものであつたこととにより、札束を渡した者と被告人とが同一人であるとの暗示を受け、そのように錯覚して信じ込むに至つたためであつたかも知れない。祥憲の供述中相手の人相等に対する説明は、右面接及びその後の数次の面割りの際の認識に基いてされたものであるという疑がある。(4)相手が白い服を着て自動車の車体の一部を掃除していたという祥憲の供述については、被告人の外に白い上つ張りを着用して、前記裁判所の構内に立入る者があつたこと及び右自動車に近づいて車内にたばこを投入する者があつたことが認められる証拠があるから、祥憲がこれらの者を被告人が自動車を掃除しているところを誤認したことがないとはいえない。祥憲は、札束拾得前には相手に対し深い関心を持たなかつたであろうし、拾得後には異常な興奮にかられた精神状態のもとに短時間相手をながめたに過ぎないから、同人は相手が自動車に手を接触させて動かしている程度のことを認識しえたに止まると考えられる。相手が自動車を清掃しているところであることを弁識しえたかは疑問であるということができる。祥憲の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中同人の、相手が布切れを使つて自動車をみがいていたとか、ふいていたという旨の供述の記載部分は同人の前記五月二日の札束拾得交付の際の認識自体に基くものではなく、同人が右状況について捜査官や家族らからくり返し詳細な質問を受けて応答を重ねているうちに、同人の当初の認識に対する記憶に変容をきたした結果生じたものであるという疑があるとし、以上(1)ないし(4)の趣旨の理由によつて原判決は、札束を渡した相手が被告人にちがいないとする角間祥憲の供述は証明力が乏しいとして、被告人に対し無罪の言渡をしたことが明らかである。

三、 そこで次に以上の各点その他について検討する。

(一)  祥憲が車体に右手を触れながら前記自動車の北側を通り過ぎようとしたときには、相手の人は自動車の反対側にいたことは、前記認定のとおりであるから、祥憲は相手の顔を見たとしても、くわしく見る機会があつたとは考えられない。この点について原判決は、相手は自動車の北側におり祥憲は相手の背後を通り過ぎたとしており、その認定が誤つていることは後に詳記するとおりであるが、祥憲が相手の顔を注視しなかつたと判断したのは結局正当である。

(二)  原判決は、祥憲が札束を拾つたときには、その多額であるのに驚き、恐怖の念さえ覚えて異常の興奮状態となり、その状態で相手にその札束を渡したので、相手の人相等に対する観察は不正確であつたことを免れないという趣旨の判断をしているが、記録を精査しても祥憲がそのとき恐怖の念を覚えたという証拠は見当らない。祥憲は原審において証人として「お金拾つてうれしかつたか」と聞かれて「気持わるかつた」と答えまた当審における祥憲に対する証人尋問調書によると、「札束を拾つてびつくりした」と言い「びつくりしたとはどういうことか」と尋ねられ「映画みたいだと思つた」と答え、「こわかつたか」と聞かれて「こわくない」と答え「びつくりしてあわてたのではないか」と問われて「はい、ひやつとした」と答えていることが明らかであるが、これにより祥憲がそのとき多少の精神的動揺を受けたことは肯認されるが、これをもつて同人が恐怖の念を覚えたとする証拠とすることはできない。また鑑定人横瀬善正の作成の鑑定書には「現金一〇万円を拾得したということは、一〇才程度の児童にとつて、当座はかなりシヨツキングなことがらであろう。そしてその足で直ちに少し離れた場所に、たまたま居合せた白衣を着た運転手らしい人に、お金をことづけたと称しているところを見ると、児童は心理的にかなり興奮した状態で相手にお金を渡したことになる。従つて手渡す際に見た相手の顔の印象は、冷静な場合と異り、やや不安定であつたと想像される。」と記載されており、原審第一六回公判調書中の証人横瀬善正の供述の記載によると、同人は、右鑑定書作成に当つて単に記録の一部を見て事件の概略を知り、且つ公判廷における祥憲の証言の一部を傍聴した上、心理学の記憶に関する文献を五、六冊読んだだけであることが明らかであり、前記鑑定書中の記載は、具体的事実に基かない、根拠の薄弱なもので、採るに足りないものであるのみならずその内容は祥憲が恐怖の念にかられたという資料にはならない。そこで祥憲が札束拾得及び交付の際、果して異常な興奮状態にあつたかについて考察すると、中村照子、春名一之の各司法巡査に対する供述調書等によると、祥憲の小学校の成績は中位で知能は普通であると認められるし、佐々木巡査作成の前記「拾万円拾得届受理の状況について」という報告書、祥憲の司法巡査に対する昭和三一年五月二四日付供述調書、司法警察員に対する同年六月一日付供述調書、検察官に対する各供述調書を総合すると、祥憲は右札束が多額であるのに驚いたが、しかしそれが細い白紙テープで束ねられたもので、厚さ二、三センチあり、札は真新らしいものではなく、テープには赤字で何かむずかしいことが書いてあることを確認していること、又そのときには前記裁判所正面玄関前に黒色及び色不明のタクシー各一台が駐車しており、幼稚園に行つている位の男女子各一人が正門前道路の方から前記裁判所の方へ通つて行つたのを現し認同人らが通り過ぎるのを見定めてから札束を拾つていること、祥憲は、自分が通り過ぎた自動車は、悪い人を運ぶ警察の人が同乗しているバスであることを兄から聞いて知つていたので、その運転手も警察の人だと思い、その運転手に渡せば同人が警察の係りの人に渡してくれるものと判断して右自動車の運転手に渡したのであること、その判断が当を得たものであるかは別として、そのように判断したことをもつて、祥憲の知能が劣つているとか、異常な感情に支配されて正常性を欠いていたとするには足りないこと、祥憲は、札束を渡すとき相手は、医者の着るような白い服を着て、来るときとは反対側の車体の乗降口の辺を掃除しており、祥憲の方を向いて口の中で何かつぶやいてから、ありがとうと言つて札束を受け取り、これをどこかのポケツトに入れて右裁判所建物の中へ北入口から入つて行つたのを見たので、警察の係りの人に渡しに行つたものと考えたことが明らかであり、これらの事実に徴し、祥憲は当時大金を拾得したことによつて多少精神的動揺があつたがその認識及び判断は正常であつたと考えられ、同人が当時異常な興奮状態に陥り、そのため正常な認識力及び判断力を失つており、従つて相手に対する観察が不正確であつたとする趣旨の原審の見解は容易に賛同しえない。

(三)  祥憲は検察官に対し、相手の人は年四十幾つ位で、わりあいに肥えており、眼鏡をかけて、ちよつとだんご鼻で、頭の前の方がちよつとはげていたと供述し、原審及び当審において証人として同様のことを供述しているが、相手の人相の特徴に関する右供述は、前記五月四日玉江橋巡査派出所において、被告人と面接の際の認識に基いたものであるとすべき疑が濃いことは原判決説示のとおりである。しかしながら祥憲は右面接以前である五月二日当日、両親に対し、相手は、お父ちやんより若く、四〇位の人で、顔は覚えていると言い、又同日前記派出所において佐々木巡査に対し「どんな顔とは説明できないが、顔を見れば直ぐわかる。はつきり顔を覚えている」と供述していることは、佐々木巡査作成の前記報告書、佐々木昇の検察官に対する供述調書、原審第九回公判における証人角間祥隆の供述調書等によつて明らかであり、祥憲は原審及び当審において証人として、札束を渡すときは相手の顔をよく見たと供述しており、しかもそのとき祥憲の認識力及び判断力が異常の障害を受けていたとは認められないことは前記のとおりであり、これらによつて考察すると、札束を渡すとき祥憲が異常の興奮状態にあつたということはなく、従つて相手の形状及び人相等に対する認識作用は正常であり、その際の相手に対する観察は精密ではなかつたが、相手の形状や人相に対する大体の印象を把握しえたものと考えられる。又原判決は、札束交付後祥憲が、交付の際認識した相手の形状や人相を思い出し、これを記憶に止めようとする努力をつくした形跡は認められないから、その記憶も正確とはいえないという趣旨を説示しているが、祥憲の司法巡査に対する昭和三一年五月二四日付供述調書、司法警察員に対する同年六月一日付供述調書、検察官に対する同年七月一日付供述調書、清島敏恵の司法巡査及び検察官に対する各供述調書、清島靖夫の検察官に対する供述調書、角間佐多子の司法巡査に対する各供述調書等によると、祥憲は右交付後清島靖夫方へ行き、同人及びその母に対し、札束を拾つたことを話し、それを白衣を着て自動車を掃除していた運転手に渡したと説明し、帰宅後も両親らに対し同様のことを告げていることが明らかであるから、その度ごとに相手の形状及び人相等に対する印象を心中に再現し、これに関する記憶をあらたにしていたことが推認され、従つて祥憲の相手の形状及び人相等に対する祥憲の記憶が不確実であつたとは断言できない。この点に関する原審の判断は正確なものといえない。

以上によつて考察すると、祥憲が、前記五月四日玉江橋巡査派出所において、背広服を着て五月二日と同一の自動車を運転して来た被告人を見て、直ちにあのおつちやんに渡したと言つたのは、祥憲が、札束交付の際感得して記憶していた相手の形状、人相等に対する印象と、現実に面接した被告人のそれとが、完全に一致していることを確認したことによると判断される。

(四)  原判決は、祥憲が右自動車のあるところを通り過ぎるとき、白衣を着た人が自動車の北側すなわち通過側で車体に手を触れており、その背後を通過し、札束を拾つて引き返し、同じ側でドアの辺に手を接触させていた同じ人に右札束を手渡したと認定しているが、祥憲の通過した側(自動車の北側)に白衣を着た人がいたという事実を確認すべき資料は記録上存在しない。かえつて前記巡査部長田中要作成の昭和三一年五月二二日付「現金拾得少年の調査結果報告書」によると、祥憲が右手で車の北側の車体にさわつて車体の前部へ出ると、反対側(車の南側)に白い服を着た人が自動車を掃除していたので、怒られると思つてさわるのを止めて通り、札束を拾つて車のところへ戻ると、もとと反対の車の北側で矢張り車を掃除していたので、その人に札束を渡した旨を説明したという記載があり、祥憲の検察官に対する第一回供述調書には同趣旨の記載があり、更に祥憲の当審における各証人尋問調書によると、同人は自動車の後方から三分の一位進んだときに、白衣の人が自動車の北側の車体下方をしやがんで布でふいているのが、車体の下から見えたので、それまで車体にふれていた右手を離した旨を供述していることが明らかであつて、原判決が祥憲が白衣の男の後方を通過したとしたのは誤りである。しかし当審の現場検証の結果によると、右自動車の車体の下部から、反対側にいる者を見透すことは不可能であることが明らかで、自動車の後方から三分の一位進んだときに反対側の白衣の男を見たという祥憲の供述は思い違い又は記憶違いによるもので、前記田中報告書によつて判断すると、車体の前部へ進んだときに、祥憲の視野に入つた車の反対側に白衣の男が居つたのであつて、そのとき相手を見たのであると考えられる。この点に関する祥憲の供述は正確を欠いているが、さらばといつて祥憲の供述全部が信用性がないということはできない。

(五)  原判決は、祥憲は右自動車の側を通り過ぎるときも札束を渡すときも白衣の男が車体に手を触れているのを見たのを、捜査官や家族からくりかえし質問を受け応答を重ねているうちに、記憶に変容を来し、白衣の男が車体を掃除していたと供述するに至つたのであると考えられ又白衣を着た被告人以外の者が、たばこを車内に投入するなどのために、被告人の駐車させておいた自動車に近寄つたのを、被告人が車体を掃除しているところと、祥憲が誤認したかも知れない旨を判示しているが、記録によつても判示の日時に白衣着用の男子が同裁判所構内ことに右自動車周辺にいたことを認むべき資料は全然なく、しかも祥憲は当初から友人の清島靖夫を初めその母及び自分の家族らに対し、白衣の相手は車体の一部を掃除していたと言明していたことは、前記佐々木昇作成の昭和三一年五月八日付の「拾万円拾得届受理の状況について」と題する書面、角間佐多子の司法巡査及び検察官に対する各供述調書、清島敏恵の司法巡査及び検察官に対する各供述調書、原審第二回公判期日における角間佐多子、清島敏恵の各証言調書、清島靖夫及び角間祥郎の各検察官に対する供述調書、原審第三回公判期日における証人清島靖夫、角間祥郎の各証言調書、原審第九回公判期日における証人角間祥隆の証言調書によつて明らかであり、また祥憲の右の点に関する供述が終始変らないことは、同人の司法警察職員及び検察官に対する各供述調書、原審第二回公判期日における証言調書、当審における同人に対する各証人尋問調書によつて明らかであり、なお祥憲が札束交付の際、その認識能力を喪失又は低減するような異常な精神状態でなかつたことが認められることは前記のとおりであるから、札束交付の際相手が自動車の北側の乗降口の辺を掃除していたという認識は正確なものであり、同人のこの点に関する説明が、原判示のように他人の暗示によるもの又は自分の誤認に基いたものとはとうてい考えられない。

(六)  被告人は本件当日午後の右裁判所内における行動について前記のとおり供述をしているが、被告人の供述によつても被告人が札束交付の際に、右自動車の傍にいなかつたとは確認することができないし、記録を精査しても右事実を証明する資料は見当らない。

(七)  弁護人は本件札束の遺失主が、起訴状記載の日高良雄であるかは疑わしい旨を強調するが、同人は昭和三一年五月三日午後七時三〇分頃兵庫警察署新開地派出所に口頭で千円札束で十万円を遺失した旨を届出ていることは、同警察署巡査緒方一郎作成の口頭願届録取書等によつて明らかにされており、日高良雄の同月二四日付司法巡査北村弘に対する供述調書等によると、日高は同月一日三菱銀行神戸西支店から千円札束で十万円の払い出しを受けておること右札束は押収されている帯封と同様のものでくくられておること、同銀行支店員岡忠男の上記司法巡査に対する供述調書によると、右同日右帯封でくくつた千円札束で十万円を日高良雄に支払つたことが認められ、又同人及び奥田幸子の司法巡査及び検察官に対する各供述調書、同人等の原審公判における各証言調書、長野秀雄の同月二四日付実況見分調書、原審公判における同人の証言調書を総合すると、日高は右札束を裸のまゝ背広の上衣内ポケツトに入れて、同月二日午後二時頃右裁判所へ秘書の奥田幸子を同乗させて自家用の自動車で行き、祥憲が札束を拾取したという地点の辺にその自動車を駐車させてたとき、自動車前部を同裁判所玄関前の車寄せ側壁コンクリートに接触させたこと、そのためコンクリートの一部と自動車前輪の一部に損傷の跡ができたこと、日高はそのとき下車してから上体を曲げて両手を地につけてうづくまるようにして車体の下をのぞいたこと、同人は午後三時頃同裁判所を立ち去つたことが認められ、以上の事実を総合すると、祥憲が拾得したという札束は日高良雄が遺失した物と同一物であつたことを認めるに充分であり、祥憲の供述に信用性のあることが肯定される。

四  以上によつて明らかなとおり、被告人は前記日時前記場所において角間祥憲から受け取つた千円札束十万円を着服横領した事実が認められるのに、原判決が被告人に対し無罪を言渡したのは事実を誤認したもので破棄を免れず、本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三九七条、第三八二条、第四〇〇条但書に従い原判決を破棄し更に裁判をする。

(罪となるべき事実)

被告人は昭和三一年五月二日午後三時頃尼崎市難波新町二丁目一六〇番地神戸地方裁判所尼崎支部構内本館北側において角間祥憲から日高良雄が遺失し祥憲が拾得した一〇万円(一〇〇〇円札一〇〇札束)を、警察署に届出でられたい趣旨で手渡され、これを保管中同所で勝手に自己の用途に充てるため着服して横領した。

証拠の標目(略)

(適条)

刑法第二五二条第一項、刑事訴訟法第一八一条第一項本文

(裁判官 松村寿伝夫 小川武夫 柳田俊雄)

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