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大阪高等裁判所 昭和34年(ネ)262号 判決 1960年9月22日

控訴人 被告 国 代表者法務大臣 小島徹三

指定代理人 今井文雄

被控訴人 原告 野尻修一

訴訟代理人 吉川幸三郎 外五名

主文

原判決中「原告のその余の請求を棄却する」とある部分を除く、その余を左のとおり変更する。

控訴人は被控訴人に対し金二万円及び之に対する昭和三〇年九月七日以降右完済迄年五分の金員を支払うことを命ずる。

被控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審共之を三分し、その二を控訴人、その一を被控訴人の各負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決中、控訴人敗訴の部分を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする」との判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述並に証拠の提出援用認否は、

被控訴代理人において、「被控訴人は真実に反する前科の訴訟費用として、札幌地方検察庁から支払請求を受けた昭和三〇年三月五日より、それが訴外中川勢一の前科であることが判明した同年四月二八日に至る迄の間に被つた精神上の苦痛につきその損害の賠償を求めるものであり、本件損害は通常生ずべき損害である」と述べ、

控訴代理人において「本件については、被控訴人に対し損害賠償支払の問題となるような通常生ずべき損害もなく、又現実的損害の発生もない。すなわち、(一)不法行為による損害賠償責任は原則として、相当因果関係の範囲内における通常の損害に限るべきものであるから、本件においては、控訴人が被控訴人に対し、警察官を以て刑事事件の訴訟費用の請求をしたこと、及び国の内部において被控訴人名義の前科二犯の登録をしたことにより如何なる通常の損害が生じたかを問題とすべきである。又被控訴人が訴訟費用の請求を受けて数日後、同人の義兄山添義弘が近くの派出所に行き、他の巡査に訴訟費用を支払わないとき身柄拘束の有無を尋ねたところ、同巡査が収監状が出れば逮捕すると告げた事実はあるがこの応対は京都府の職員で国の公務員でない巡査によつてなされたものであるから、国の侵害行為と謂えないばかりでなく、右の言明も松原警察暑員により直ちに訂正されたのであつて、侵害としても短期間且つ軽微な結果を生じたにすぎない。一般に身に覚えのない刑事事件の訴訟費用の請求を受け、而も知らぬ間に前科二犯として登録されていることを聞けば、何人も意外に驚き、不快の念を抱くのは当然である。併し、通常人としてはそれは何かの間違いでないかと考え、相手方に抗議し、是正を求め、法律に精通しない者であれば然るべき者に相談し、方途を策すのが普通であり、現在の我が国民感情としては、国が誤つて前科者として取扱つても、過誤が発見されれば之を改めることを期待する筈であつて、過誤を発見しながら之を是正せず、終生前科者として取扱うような非違を敢えて行うであろうとの不信の念を抱くとは考えられない。又たとえ身に覚えのない不当な請求や取扱いを受けても相手方にその不当を説明し、相手方もこの抗議に耳をかし、誤ならば是正するとの態度を示すならば一応その後の措置を俟つ寛容の精神をも持つ筈である。被控訴人は訴訟費用の請求を受け、意外に驚きながら、直ちに之に抗議し、警察も真相を調査することを約しているのであり、自己に前科のないことの立証は極めて容易であるから、当局の是正を期待するのが通常で終生前科者としての扱いを受けるのではないかと恐れ、極度の不安を感じ寝込み食事も進まず、仕事に手もつかないというごときは過度の反応であつて、通常の損害といえない。(二)不法行為において賠償を要する侵害は現実に生じたものでなければならない。然るに本件においては被控訴人は前科あるものとして一般に知られたわけでなく、不知の間に不利の取扱を受けたこともなくその他現実に名誉信用を害されたこともない。前科簿は外部に公表される性質のものでなく、公表の事実もなかつた。又警察官が被控訴人に対し前科二犯と記載されている旨を告げても、之には公然性を伴わないから現実に名誉信用に対する実害はない。前科簿に登録されたため、不利の取扱或は名誉信用の侵害のおそれは生じたが、実害を生ずる前に登録は抹消されたのである。身に覚えのない刑事事件の訴訟費用を請求され、前科二犯と登録の事実を告げられても、之により通常受ける現実の損害は事の意外に対する驚きと不快の念に止まるのみである。このような精神的衝動に対し損害賠償請求権が生ずるか否かは、本件侵害行為の態様と考え併せると、むしろ違法性のないものとして、消極に解すべきである」と述べ、

被控訴代理人において、甲第四六乃至第四九号証を提出し、当審における被控訴人本人尋問の結果を援用し、控訴代理人において、右甲号証の内第四七号証の成立は不知、その余の成立を認めると述べ、当審証人高柳馨の証言を援用したほか、

いずれも原判決事実摘示と同一であるから、茲に之を引用する。

理由

当裁判所は、被控訴人(昭和八年生)が義務教育終了後肩書地で織物業に従事していること、及び次の(一)乃至(三)の事実認定及び法律上の判断に付ては、原判決の認定をすべて相当と認め当審における証人高柳馨及び被控訴人本人の各尋問の結果に依つても、以上の認定は何等変りがないので、右認定に付ては原判決理由冒頭より「三、過失」の項の末尾(原判決十四枚目表八行目)迄の記載を引用する。

『(一) 被控訴人は過去において何等刑事上の事件を起したことが無いのに拘わらずその従兄に当る訴外中川勢一が自己の刑事事件において取調を受けた際被控訴人の氏名を詐称したため、その名義を以て

(イ)  二七年八月一三日静岡家庭裁判所浜松支部において審判を受け、保護観察に付せられ、

(ロ)  昭和二八年六月一六日静岡地方裁判所浜松支部において窃盗罪により懲役一年執行猶予三年の言渡を受け、

(ハ)  同年一一月六日札幌地方裁判所において窃盗罪により懲役八月の言渡を受け、

その結果、被控訴人名義の前科人名簿が大阪市此花区役所及び大阪、静岡、札幌の各検察庁で作成され、夫々前科の登載が行われたが、昭和三〇年三月五日札幌地方検察庁から警察官を介して被控訴人に対し右(ハ)の刑事事件の訴訟費用の支払請求のあつたことから、氏名詐称の事実が判明し、同年四月二八日前科抹消の措置がとられた。

(二) 被控訴人は自己が前科二犯として登録されていることを知り、又警察官より訴訟費用を支払わないときは、身柄を拘束されることがあると聞かされ、法律を知らないため之を信じ又終生前科者として取扱われるのでないかと恐れ、極度の不安を感じ、氏名詐称の事実の判明するまでの間は寝込み、食事も進まず仕事に手のつかない状態で、精神的打撃を受けた。

(三) 右のごとく中川の氏名詐称の事実を発見できなかつた原因としては、(イ)の事件の調査に当つた家庭裁判所調査官が、警察官及び調査官に対する中川の陳述と本籍地の区役所警察署及び出身学校に対する照会の回答との間に夫々若干のくいちがいがあり、少くとも学歴、生活歴に付中川の陳述に疑問があるので、更に調査を重ねることによつて、人違いの事実を発見できた筈であること、及び中川は右(イ)の事件以前にも、本名を以て起訴され、有罪判決を受け、二度にわたり指紋を採取され、その指紋原紙は国家地方警察本部に保管されていたに拘わらず、(イ)の事件に付、静岡県東浜名地区警察暑より指紋照会をなす際、左中指の指紋分類を誤つたため、国家地方警察本部より該当者見当らずとの回答をなしたことの二つが挙げられる。而も、その後本件の問題が起る以前昭和三〇年四月の整理の際に、中川名義の指紋と被控訴人名義の指紋とが同一であることが発見されているのであつて、慎重に分類及び検索を行えば、当初の誤りは避け得られた筈である。一方(ロ)及び(ハ)の各刑事事件の際にはすでに(イ)の事件において被控訴人の名義で保護観察に付せられており、之を前提として順次取調が進められ、又指紋照会も被控訴人の氏名で検索され、(イ)の事件において作成された指紋原紙が発見されたため、それ以上指紋番号による検索は行われなかつたのであるから、右(ロ)(ハ)の事件において氏名詐称を発見することは著しく困難であつた。従つて本件のごとき事態を生じた原因は(イ)の事件担当の調査官及び警察官の過失の競合によるものであり、(ロ)(ハ)の事件の担当係官には過失は無かつたと認められる。』

以上の認定に基いて、本件に付果して被控訴人に対し権利侵害があつたか否かについて考察する。先ず不法行為における侵害は現実に発生したことを必要とし、単に侵害のおそれを生じたのみでは足りないと謂わなければならない。すると、本件において、国家の前科簿に被控訴人の名義で前科の登録が行われたのみで、世間一般に公表され、或は本人に告知されない段階においては、将来刑事事件その他において、前科ある者として一般に公表され、或は不知の間に不利益な取扱を受ける名誉信用を害されるおそれは生ずるけれども、この段階においては、いまだ被控訴人に対する現実の侵害があつたと見ることはできないのである。従つて本件においては、専ら昭和三〇年三月五日札幌地方検察庁より警察官を介し、被控訴人に対し前科の登録の旨の告知と共に(ハ)の事件の訴訟費用の支払請求をなしたことの結果として、それが誤りであることが判明し、前科抹消の手続のとられた同年四月二八日迄の間に被控訴人に及ぼした侵害の有無を判断するを要し、又、之を以て足るものと解すべきである。(右の問題の起つた後、被控訴人の近隣の派出所巡査が、訴訟費用を支払わないときは身柄を拘束されることがある旨答えたことは、原審証人山添善広の証言によれば、同署員により直ちに訂正されており、且つ軽微な問題であるから、之を考慮の中に入れるべきでない。)

ところで、違法行為のため直接肉体的傷害を生じた場合、民法第七〇九条にいわゆる権利侵害があつたものと謂うべきことは勿論であるが更に、直接には肉体的傷害を何等生じていなくとも、違法行為のため先づ精神衝動を起し、その結果として神経或は身体の健康を害した場合においても、この結果と右違法行為との間にいわゆる相当因果関係が認められる限り、之亦右法条にいわゆる侵害があつたものと謂うことができる。次に全く神経その他身体の健康を害することなく、単に、一時的な不快又は驚愕等の精神的衝動を生じたのみの場合に付ては、その因果関係の立証が頗る困難な場合が多く、解釈上疑問の余地も大きいけれども、右違法行為によりかかる衝動を受けたことが合理的且つ明確に立証され、尚当該本人のみでなく、通常何人もかかる衝動を受けるものと認められる限り之亦慰藉料の請求を許すべきであると解する。従つて、控訴人の謂うように、身体的有形的な健康侵害を全く欠き、単に一時的な不快驚愕の念を起したに止まる場合に付ては、慰藉料の請求を許すべきでないとの見解は採らない。而して以上の解釈を前提として、本件は右のいずれの場合に該当するかを考えると、先に認定したごとく、被控訴人は前科登録の告知と、訴訟費用の支払請求のため極度に不安を感じ、寝込み、食事も進まず、仕事に手の付かない状態で精神的打撃を受けたのであるから、著しい身体的傷害を受けたことまでは認められないが、単なる一時的不快驚愕等の精神衝動を生じたに止まるものでもなく、一時的乍ら神経の健康に対する障碍を生じたと認定すべきである。又控訴人は、この点に付、自己に覚えのない前科を告げられたとしても、通常人はその誤りを主張することにより、之が是正されることを信ずる筈であつて、被控訴人のごときは過度の反応を呈したものであり、通常生ずべき損害ではないと主張する。確かにこのような場合通常の社会人の多数が被控訴人と全く同一の反応を呈するか否かに付ては疑問の余地もあり、このことは侵害の程度を判断し、慰藉料の額を算定するに付ては考慮に入れることを要する一つの要素たることを失わないけれども、さればとて、被控訴人のみが過度に神経質で、そのため通常人に全く見られない程の稀有異常の反応を生じたものとして、法律上全く保護に値しないと断じ去るわけにもゆかないのであつて、法律上侵害と見るべき結果が発生したものと認定しなければならない。

結局本件においては、前記(イ)の事件の担当係員の過失の競合により順次(ロ)(ハ)の各刑事事件における氏名詐称の看過という事態を生じその結果右に認定したような被控訴人に対する侵害が起つたのであるから、正しく国の公権力の行使に当る公務員がその職務を行うについて、過失により違法に被控訴人に精神的損害を加えたものであつて、控訴人はその賠償の責を負わなければならない。仍て慰藉料の数額に付て考慮するに、被控訴人がこの事故のため打撃を受けたのは、先に一言したごとく同人が普通人に比し稍神経質にすぎたことも原因となつていることは否定できないところであり、又当裁判所が真正に成立したと認める甲第四七号証によつても、本件の事故を聞いて、被控訴人に同情し、進んで誤りの是正に協力を申出た人は数多いけれども、近隣その他一般世人に対し、被控訴人を前科者と誤信させるような結果を生じたとは全く認められない。又成立に争のない甲第四六号証同第四八、四九号証(各新聞紙)に依つても本件に関する新聞記事はすべて、被控訴人が覚えのない前科者として登録された旨の記載のみであつて、之亦何等世人に対し右のような誤認を生ぜしめるおそれのある記事の掲載された事跡は無い。かように考えると、被控訴人が本件のため迷惑を受けたことは事実であるが、その受けた侵害の結果は比較的軽微であると謂うべきである。一方国の公務員の過失は決して小さいものと謂えないが、過失の大小と侵害の大小とは之を切り離して考える必要がある。かような観点から、被控訴人の学歴経歴その他本件につき以上に認定した諸般の事情を総合して考察すると、被控訴人に対し支払うを要する慰藉料の額は金二万円が相当であり、原判決が之を金五万円と算定したのは過大と認める。

従つて控訴人は被控訴人に対し金二万円及び之に対する本件訴状送達の日の翌日であること記録上明な昭和三〇年九月七日以降右支払済迄民法所定年五分の遅延損害金を支払う義務があり、被控訴人の本訴請求は右の限度においては相当であるが、その余は失当として棄却すべきであり、原判決中被控訴人敗訴の部分を除くその余は一部不当として変更しなければならない。仍て民事訴訟法第三八五条第九六条第九二条本文を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 加納実 裁判官 沢井種雄 裁判官 千葉実二)

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