大阪高等裁判所 昭和36年(ラ)320号 決定 1962年5月11日
抗告人 小山民男(仮名)
相手方 上村啓一(仮名)
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告の趣旨及び理由は、別紙記載のとおりであつて、これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。
抗告理由一のその一ないし六について。
原審判挙示の各証拠によれば、原審認定の各事実を認めることができ、本件記録中の証人岡本清一及び抗告人本人並びに添付の原裁判所昭和三十四年家第一八八六号遺言の確認審判事件の記録中の抗告人本人の各供述記載中、原審判理由らん記載の2ないし5の事実認定に反する部分は、いずれも原審判挙示の当該認定の各証拠に対比して採用し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。右認定の事実関係によると、抗告人は、被相続人亡小山年子に対し民法第八九二条所定の虐待をなし、年子は、これを理由に本件遺言で、抗告人がその推定相続人たることを廃除する意思を表示したものであると判定することができる。従つて、遺言執行者たる相手方のなした本件廃除の申立は理由があり、右と同様の判断のもとに、該申立を認容した原審判は正当である。
所論は、ひつきよう、原審認定と異る事実を主張し、原審が所論の各事実を認定した上、これに基き抗告人が年子に対し前記法条所定の虐待をなしたものであると判断したのは、事実認定及び判断に誤りがあるというのである。しかし、抗告人主張の原審認定と異る各事実は、前記不採用の証拠を除き他にこれを認めるに足る証拠はなく、前記のように、原審判の事実認定及び判断にはなんら誤りはないから、所論は、いずれも採用できない。
抗告理由一のその七について。
本件遺言は、所論のように、民法第九七六条所定の危急時の特別遺言であつて、添付の前記事件の記録によると、右遺言の際は、年子の父上村新吉、母上村みつ、兄上村啓一、姉松本清子及び隣人藤原作次の五人が、いずれも証人として立会い、かつ遺言書に各署名押印したこと、当時年子の推定相続人は、抗告人と年子間の長男幸一及び抗告人の二人であつたことが認められるから、右証人のうち、上村啓一、松本清子及び藤原作次の三人は立会証人としての法定の適格者であつたが、上村新吉及び同みつの二人は右幸一の直系血族であるから、欠格者であつたというべきである。しかし、民法第九七六条所定の特別遺言においては、法定の適格者たる証人三人以上が立会い、これら証人により法定の方式がなされた以上、該遺言は、同条所定の方式を遵守してなされたものであるというべく、右適格者の外に同時に欠格者が証人として立会い、遺言書に署名押印しても、右方式遵守になんらの消長を及ぼすものではないと解するを相当とする。添付の前記事件の記録によれば、本件遺言は、前記適格者たる三人の証人が立会い、法定の方式に従いなされたものであることが認められる。さすれば、右説示により、欠格者たる前記二人が同時に証人として立会い、遺言書に署名押印したからといつて、右遺言の方式遵守になんら影響を及ぼすものではない。しかも、右記録によれば、原裁判所も同趣旨の見解のもとに、年子が昭和三十四年九月二十七日本件遺言をなしたことを確認する旨の審判を昭和三十五年二月二十三日になしたものであつて、右審判は、既に確定したものであることが認められる。従つて、本件遺言は、確定判決によつて無効とされない限り有効である。以上の次第であるから、所論は採用できない。
抗告理由二のその一について。
上来説示したように、原審判挙示の証拠により認定せられる事実関係により、抗告人が年子に対し民法第八九二条所定の虐待をなしたものと判定することができ、また、本件遺言は有効なものである。所論は、結局右認定と異る事実を前提とし、又は、独自の見解にたつて原審の認定及び本件遺言の効力を争い、もつて、原審判に法令の適用、解釈の誤りありというものであつて、採用することはできない。
抗告理由二のその二について。
本件記録及び添付の前記事件の記録を通じ、これを精査するも、相手方の本件廃除の申立が所論のように不当不純な意図のもとになされ、その申立を認容することが家事審判法第一条の法意に背反するものであることを肯認することはできず、所論は採用できない。
以上の次第であるから、本件推定相続人廃除の申立は理由があり、これを認容した原審判は、相当であつて、本件抗告は理由がない。よつて、主文のとおり決定する。
(裁判長判事 岩口守夫 判事 安部覚 判事 藤原啓一郎)
参考
原審(京都家裁 昭三六(家)一〇三一号 昭三六・一一・二四審判 認容)
申立人 上村啓一(仮名)
相手方 小山民男〔仮名〕
被相続人 亡小山年子(仮名)
主文
相手方が被相続人小山年子の推定相続人であることを廃除する。
理由
本件申立理由の要旨は左記のとおりである。
申立人は被相続人の実兄であつて、相手方は被相続人の夫であつたが、被相続人はその生存中相手方から次に記載するような虐待や重大な侮辱を受けた。すなわち相手方は(イ)昭和三十二年春頃から京都駅前パチンコ店の女店員と肉体関係を生じて、帰宅はおおむね午後十二時前後となり、(ロ)故なく被相続人に対して妊娠中絶を強い、そのため被相続人は前後三回にわたつて中絶を余儀なくせられ、(ハ)昭和三十二年夏頃から相手方の母や弟妹と共に被相続人につらく当り、とくに昭和三十四年五月二十七日には共同して被相続人の全身を殴りつけて被相続人の右限に直径十センチ位の創傷を負わせ、(ニ)同年八月十四日妹美子の結婚資金を得るため被相続人に退職を迫り被相続人からこれを拒絶されるや、被相続人の全身を強打し、とくに下腹部を強蹴し、かつ眼部に二週間の治療を要する傷を負わせながら被相続人を病院へも連れて行かず、(ホ)日常被相続人に対し気狂いとか年上の女に用がないと罵りなどして、暴行侮辱の限りをつくした。このような次第で、被相続人は相手方との同居に堪えられないで、同年八月十五日相手方と別居したのであるが、当時心身ともに疲れ果てていた被相続人は同年九月二十七日申立人宅において突然発病し、まもなく重体になつたため、上記のような事情ですでに夫婦としての実体を失つた相手方が被相続人の配偶者として被相続人の遺産を相続することを防ぎ、その遺産全部を長男幸一の教育資金保険に充当しようとして、相手方を被相続人の推定相続人から廃除する趣旨の別紙目録記載のような危急時特別方式の遺言をなし、そのうちにおいて申立人を遺言執行者に指定した。それ故申立人において相手方の推定相続人の廃除を求めるため本申立に及んだというのである。
よつて案ずるに、本件記録添付の戸籍謄本の記載によると、相手方と被相続人とは昭和三十一年十一月十七日婚姻した夫婦であつたが、被相続人は昭和三十四年九月二十七日死亡するに至つたことが明らかであり、また当庁昭和三十四年(家)第一八八六号遺言確認事件記録中の審判書の記載によると、被相続人が前記死亡の当日別紙目録記載のような死亡の危急に迫つた際の特別方式による遺言をなしたこと並びにこの遺言により申立人がその遺言執行者として指定されていることを認めることができる。そこで先ず、相手方と被相続人との婚姻生活の実情並びに前記遺言のなされるに至つた経緯につき考察するに、当庁家庭裁判所調査官津田太郎、同浜本幸男の各調査の結果、医師小川妙子及び同安住義人作成の各診断書の記載、証人桑名キク江、同大屋次子、同小川妙子、同安住義人、同中西豊治の各証言、証人七条一治、同寺田泰三の証言部分、申立人及び相手方各本人の供述部分並びに前掲当庁昭和三十四年(家)第一八八六号事件記録中の各証人及び申立人本人の各尋問調書、審判書原本及び同添付の遺言書写の各記載を綜合すると、
一、被相続人は京都市内の小学校の教諭として在職中、昭和三十一年五月頃相手方と恋愛により結婚し、次いで同年十一月十七日婚姻の届出をすまし、相手方の実家なる伏見区柿ノ木浜町において相手方の母及び弟妹らと同居しながら相手方と同棲し、昭和三十二年二月二十四日相手方との間に長男幸一をもうけるに至つたこと。
二、被相続人は相手方と恋愛結婚をしたにもかかわらず、数ヵ月後には相手方の女関係のこと、帰宅の遅いこと及び被相続人の夕食時間が深夜に及ぶことなどで物議をかもし、たがいに反目して争うことが多く、又相手方の母スエや妹美子との折合も極度に悪くなり、ことに昭和三十四年五月二十六、七日頃には長男幸一の保険のことなどで相手方及び上記スエや美子らと激しく口論した末、相手方のため手拳で顔面を殴打されて右顔面及び右眼に打撲傷を負わされたので、被相続人は日ならずして実家なる宇治市五ケ庄の申立人宅に帰つてきたこと。
三、その後相手方は被相続人に対し相手方の母などと別居して暮す旨申入れたので被相続人はこれを容れ、昭和三十四年七月十二日以来相手方の借受けた伏見区矢倉町中村昭吉方二階において同居生活を始めたが、ここにおいても夫婦たがいに和することなく、昭和三十四年八月十四日には相手方の妹美子の結婚資金のことにからんで相手方はすさまじく被相続人と論議を重ね喧嘩した上、被相続人の顔面を強打して左眼に治療約二週間を要する眼瞼皮下溢血症などの創傷を負わせ、かつ被相続人の腹部を蹴る等の暴行を加え、これがため被相続人は生命に危険を感じるほどに恐れ、悲鳴をあげて隣室なる寺田泰三の居室に逃げ込み、ようやくにして難を避けることができたこと。
四、しかし被相続人はここに至つて相手方との婚姻継続に希望を失い、申立人等近親の勧めもあつて、とりあえず相手方から身をかくすため相手方に無断で被相続人の勤務する学校にほど近い下京区西七条名倉町のアパート名倉荘に移り住むようになつたこと。そして当時妊娠中の被相続人は同年九月十一日東山区毘沙門町の安住医院において切迫流産の手術をしたのであるが、それは前記三の暴行が原因と思われると診断されたこと。
五、被相続人は上記のような事情で心身ともに疲労し、相当衰弱していたところ、同年九月二十七日前夜来宿泊していた前掲申立人の居宅において、朝から不快を覚えて容態は急激に悪化し、正午過ぎには被相続人自身死亡の危機にあることを予感したので、以上述べたような相手方及びその近親との不和並びにこれに対する憎しみのため自己の遺産や退職金などが相手方に承継されることを阻止する目的で、危急時の特別遺言をすることを思い立ち、同日午後一時頃申立人、その妹松本清子及び隣人藤原作次等を証人として別紙目録記載のような特別方式の遺言をなし、その後まもなく危篤の状態におちいつたので、いそぎ国立京都病院に入院させられたが、心臓衰弱等のためついに同日午後四時三十分頃死亡するに至つたこと。
をそれぞれ認めることができる。
以上認定の事実に徴すると、相手方は被相続人との婚姻中当初数ヵ月間を除き終始たがいに相争うて協和すること少なく、また相手方の母や妹と被相続人の折合もことのほか悪く、その上相手方は被相続人に対し再三にわたつて激しく暴行虐待を加えて被相続人の顔面左眼部その他に創傷を負わせたため、被相続人は昭和三十四年八月十五日頃以後は心身ともに極度に疲労し、かつ相手方との婚姻継続に何の希望も持てなくてこれを著しく厭い、両人の夫婦としての結びつきは事実上破綻にひんしたことが明らかであるので、この事実に、別紙目録記載の如く、その表現形式において激しい語調を示している遺言書の内容、ことにその第二項において、「民男、スエは親から貰つた金も俸給もボーナスも全部しぼり取つたから民男らには一円の金もやれないし、うちの物や退職金などには指一本もふれさせへん」という記載を照し合せて判断すると、被相続人は本件遺言によつて、相手方の相続分を零としたものというよりは、むしろ相手方から自己の推定相続人としての遺留分を奪つて一物一円をも与えまいとしたもの、すなわち、相手方を被相続人の推定相続人から廃除する意思を表示したものと解するのが相当であり、しかも相手方には、前認定のところにより法定の廃除理由たる被相続人に対する暴行虐待があつたものと認めるのが相当であるから、前記遺言の執行者である申立人の本件廃除の請求を理由あるものとして認容し、主文のとおり、審判する。
別紙
目録(遺言)
前から遺言を書こうと思つていたが書けなかつたので、これから言う事を紙に書いてほしい。
一、もうしんどうて息苦しくてたまらん、小山にけられた下腹が痛うてたまらん、小山のところへ行つてから苦労ばかりやつた、特に民男、スエ、美子にはいじめられた。
二、民男、スエは親から貰つた金も俸給もボーナスも全部しぼり取つたから民男らには一円の金もやれないし、うちの物や退職金などには指一本もふれさせへん。
三、もしもの事があつたら、美子の嫁入道具やスエの遊び金になるから退職金、貯金、保険金の全部で兄啓一が幸一の高校以後の教育資金のために確実な教育保険に加入してほしい。そして学資の足しにしてほしい。
四、もしもの事があつたら宇治で葬式をしてや。それから幸一は出来るだけ面倒をみてほしい。
五、年子の頼んだことは啓ちやんが実行して下さい。
六、保険は三井とにつさん、貯金は郵便局だけで誰にも借金はしていない。私(小山年子)の遺言は右の通りです。
昭和三十四年九月二十七日一時十分 於 上松新吉宅
年子の言つた事を記入したもの
松本清子
右記入後松本清子は他の証人四人並びに遺言者小山年子に読みきかせたところ記入事項が相違ないことを申立てたので各署名捺印した。
昭和三十四年九月二十七日午後一時三十分
字治市五ケ庄坂五
於 上村新吉宅
年子は手がしびれて署名できないといつたので署名捺印を省略
立会証人 折坂町 松本清子<印>
〃 〃 上村みづ<印>
〃 〃 上村新吉<印>
〃 〃 藤原作次<印>
〃 〃 上村啓一<印>
本書の中訂正箇所は一枚目九行及び十二行、各一箇所である。
藤原作次<印>
松本清子<印>
上村新吉<印>
上村みづ<印>
上村啓一<印>