大阪高等裁判所 昭和37年(う)962号 判決 1963年1月28日
控訴人 検察官
被告人 山県隆治
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、検察官二川武の提出にかかる検察官片岡平太名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。
検察官の控訴趣意について、
所論は要するに、被告人は昭和三六年一一月三日大阪市東住吉区加美橘町五八番地の密造酒飲食店吉苗こと張蘭子方において、橋本秀雄と些細なことから喧嘩になり手拳で同人の顔面を殴打し、更に同人を突き飛ばしたため同人をして附近で酒を飲んでいた池内伍一(当四〇才)に衝突させ、その激突により右池内をしてその場のカウンター台で左側胸部を強打せしめ、因つて同人に左側胸部打撲傷第六肋骨骨折の傷害を負わせ、同月五日同人をして生野区猪飼野東五丁目八番地生野病院において前記肋骨骨折による左肺損傷に起因する外傷性肺炎により死亡するに至らしめたものであるとの公訴事実に対し、原判決は被告人が昭和三六年一一月三日頃大阪市東住吉区加美橘町五八番地飲み屋吉苗こと張蘭子方において、橋本秀雄と些細なことから口論した挙句喧嘩に及び、同人に対しその顔を手拳で二、三回殴打し更に左手で同人の身体を突く等の暴行を加えたとの事実を認定したに止まり、右被告人の橋本に対する暴行と被害者池内の傷害、死亡との間には刑法上の因果関係を認めるに十分な証明がなく、又被告人が特に池内に対して暴行を加える意図があつたとも認められないとして被告人に対する傷害致死の訴因を否定したのである。
しかしながら、被告人が橋本を突いたため、橋本が池内に衝突して池内が肋骨骨折等の傷害を受けて死亡するに至つたこと及び右被告人の橋本に対する暴行と池内の死亡との間に因果関係があることは十分認められるのであつて、原判決は証拠の取捨選択ないし価値判断を誤り、経験則に反し事実を誤認し犯罪となるべき事実を無罪としたので、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであり到底破棄を免れないものと思料するというにある。
よつて案ずるに、原審において適法に取調べられた関係各証拠の内容を逐一検討し、これに当審証拠調の結果を参酌するときは、原判決が証拠を取捨選択しながらなした詳細な理由の説明及び事実の認定は、被告人の橋本秀雄に対する暴行と池内伍一の死亡との間には刑法上の因果関係が認められないとの判断の部分を除き、おおむねこれを肯認することができるのである。すなわち、被告人が原判示の如く橋本秀雄と些細なことから口論し、同人に対しその顔面を手拳で二、三回殴打し、更に左手で同人の身体を突いたこと、そのため突かれた橋本秀雄がよろめいて橋本の後方約一米余のカウンター台にもたれて腰かけて飲酒中の池内伍一の足許に倒れ、その衝撃により池内が所論指摘の如く負傷し、因つて死亡するに至つた事実を認め得るのである。所論は被告人が橋本の胸を強く突き突ばしたため、ふつ飛んで体あたりに池内に衝突したものであると主張するけれども、所論に照応するが如き被告人の検察官に対する供述は被告人の司法警察職員に対する供述と対比し、又橋本秀雄の検察官に対する供述、張照子の司法警察職員及び検察官に対する各供述は当審証人橋本秀雄、張照子の各証言と対比するときは、容易に信用し難く、その他所論に鑑み記録を精査して見ても、被告人が橋本を突くことによつて背後の池内をも突き又突く意思があつたものと認めるべき証拠は記録上絶えて存しないし、その他所論を肯認するに足る証跡はついに見当らないのである。そうして見ると、原判示の如く被告人が原判示土間のどの位置から橋本をどの方向に向つて突いたか、その突きの強さはどの程度のものであつたか、又果してよろめいて倒れたとき橋本の体が池内の体のどの部分に衝突したかどうかということは必ずしも明瞭ではなく、被告人、橋本、池内は何れも当時飲酒酩酊していたものであるから、或は被告人がそれ程強くない程度に橋本を突いたのに、橋本が酩酊のためよろめき、池内の足許に倒れたので、池内はこれを避けようとして自らその体をカウンターの台にぶつつけたために所論の如き負傷をしたのではないかとの心証もあながち惹起できないことはないのであつて、これを要するに、被告人が池内をも突く意思をもつて橋本を突き飛ばして、池内の身体に衝突せしめたとの事実は到底これを認めることはできないのである。
しからば次に原判決が叙上の諸事実から被告人の橋本に対する暴行と池内伍一の死亡との間には刑法上相当と認むべき因果関係がないと判断したことの当否を案ずるに、この点に関する大審院以来の伝統的判例の立場はいわゆる条件説を採用しており、いわゆる相当因果関係説は採らないところであるから、原判決が従来の伝統的判例に反し相当因果関係説に立脚して本件につき被告人の橋本に対する暴行と池内の死亡との間には刑法上の因果関係は認められないと判断したのは、所論の如く違法のそしりを免れないのである。もしそれ被告人の橋本に対する突く等の暴行行為がなかりしならば、橋本がよろめいて池内の身辺に倒れることもなかるべく、従つて又池内の負傷、引いては死亡という結果も発生しなかつたであろうという条件関係は十分認められるから、被告人の橋本に対する暴行と、池内の死亡との間には刑法上の因果関係を否定することはできないものというべきである。
然らば被告人の橋本に対する暴行と池内の死亡との間に刑法上の因果関係を否定することができない以上、所論の如く被告人は直ちに傷害致死の罪責を負うべきであるかどうかの点について考察することとする。
刑法第二〇四条の罪(傷害)は同法第二〇八条の罪(暴行)の結果犯であり、又同法第二〇五条の罪(傷害致死)は同法第二〇四条の罪(傷害)の結果犯であつて、何れも傷害又はその致死の結果につき犯意が認められない場合でも、結果の発生を重視して重く処断する趣旨の規定であるけれども、致傷(刑法第二〇四条)、致死(同法第二〇五条)の結果は暴行(刑法第二〇八条)の客体について発生することを要するものであつて、所論の如く暴行の客体に致死傷の結果が発生しなくとも他の第三者に発生すれば足るということを得ないものと解すべく、もしそれ第三者に対し致死傷の罪が成立するためには、更にその第三者に対して刑法第二〇八条の罪に該当する暴行行為の存在を必須条件とするのである。思うに、因果関係論は構成要件を充足する行為と結果との間の関係であつて、単に因果関係があるとの所以をもつて、因果関係をして構成要件該当の行為に代らしめることは行為と結果との本末を転倒し且つ罪刑法定主義に反し到底許容し得られないところであるからである。今本件について見るに、前叙の如く被告人が橋本に対して突く等の暴行を加えた事実は認められるけれども、被告人が池内に対しても同様の突く等の暴行行為(直接は勿論、橋本を通じての間接の行為もない)があつたものとは認められないから、たとえ被告人の橋本に対する暴行と池内の死亡との間に刑法上の因果関係が認められるとしても、被告人に傷害致死の罪責ありということはできない。所論援用の判例は何れも講学上、方法又は打撃の錯誤に関するもので、打撃が相手方以外の者に対して加えられた(すなわち、第三者に対しても犯人の打撃行為がある)場合であつて、本件の如く打撃が相手方(橋本)に対して加えられ終つた(すなわち打撃の錯誤はない)後に、被告人の打撃行為なくして生じた相手方以外の者の死亡との間における因果関係のみが問題となるに過ぎない場合とは、その事案を異にするものであるから、所論の判例は本件に適切ではない。
これを要するに、原判決には因果関係の判断の点を除き何等所論の如き証拠の取捨選択、その価値判断に過誤ありと思料すべき事由は認め難く、又その判断が経験則に違反する等の違法があるものとも認められないし、又原判決の因果関係の判断の誤りは原判決に何等影響を及ぼすものでもないから、結局原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認の違法は存しない。さすれば、る述の所論はついに採るを得ない。論旨は理由がない。
よつて刑事訴訟法第三九六条に則り主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 児島謙二 裁判官 畠山成伸 裁判官 松浦秀寿)