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大阪高等裁判所 昭和38年(く)28号 判決 1963年7月15日

被告人 中村実こと鄭実

決  定

(被告人氏名略)

右の者に対する恐喝、同未遂、詐欺、外国人登録法違反被告事件について、昭和三八年四月八日京都地方裁判所がした上訴権回復請求棄却の決定に対し、弁護人小林為太郎から即時抗告の申立があったので、当裁判所は、つぎのとおり決定する。

主文

本件抗告を棄却する。

理由

本件即時抗告の理由は、被告人は恐喝、同未遂、詐欺、外国人登録法違反被告事件により、昭和三八年三月一三日京都地方裁判所において、有罪判決の言渡を受けたので、新たに弁護士小林為太郎を弁護人に選任し、同人は同月一六日原裁判所に大阪高等裁判所宛の控訴申立書を提出して控訴の申立をしたところ、その後被告人は同月一八日京都拘置所長を通じ同裁判所に控訴取下申立書を提出して右控訴の申立を取下たため被告人に対する右判決は形式的に確定し、被告人は、形式的に上訴権を喪失したのである。しかしながら被告人のした右控訴の取下は錯誤による無効のものであるから、控訴取下の効力を争うことによつて右判決の確定を阻止するため申立人より上訴権回復の請求をしたところ、原裁判所は、本件は上訴権回復の請求をなし得べき場合に当らない、として申立人の請求を棄却したのであるが、上訴権回復の請求は、上訴権喪失後の判決の確定を阻止する手段として認められた制度であるから、前記のような事情で形式的に喪失した上訴権の回復を求める申立人の請求は許容せらるべきであり、これを棄却した原決定は失当である、と主張するのである。

およそ、上訴権回復の請求は、上訴権者が自己又は代人の責に帰することができない事由によつて上訴の提起期間内に上訴をすることができなかつたときにかぎり、これをすることができるのであつて、上訴の提起期間内に適法な上訴があつた場合には右回復の請求をなす必要はないし、又その請求をすることも許されないのである。ところで本件についてこれをみるに、被告人は恐喝、同未遂、詐欺、外国人登録法違反被告事件により昭和三八年三月一三日京都地方裁判所において懲役八月に処せられ、同日新たに弁護士小林為太郎を弁護人に選任し、同人から同月一六日原裁判所に大阪高等裁判所宛の控訴申立書を提出して控訴の申立をしたこと及び同月一八日被告人から京都拘置所長を通じ同裁判所に控訴取下申立書が提出されたことは、被告人に対する京都地方裁判所昭和三七年(わ)第一、四七三号事件記録に徴し明白である。しかして原審弁護人でない同弁護人は被告人のため独立して上訴をすることができないから、右控訴の申立は原決定説示のとおり同弁護人において被告人を代理して控訴したものと認めるのが相当である。そうすると本件については上訴の提起期間内に適法な控訴の申立があり、しかも後に被告人から提出された前記控訴取下申立書が弁護人所論のごとく無効のものであれば、原判決は未確定の状態にあり、これに対し重ねて上訴権回復を求める必要もなく、またその実益もないものといわなければならない。蓋し、上訴権の回復は上訴期間の徒過により形式的に確定した判決に対する原状回復を求める制度であるからである。そこで、被告人の提出した前記控訴取下申立書が弁護人所論のごとく無効のものであるか、どうかについて案ずるに、当審における証人鄭権祚、同河谷清市、同初田利一の供述及び被告人本人審尋の結果を綜合すると、被告人の父鄭権祚は、被告人が第一審裁判所において実刑の判決の言渡を受けた当日弁護士小林為太郎に控訴審における被告人の弁護を依頼すると共に、被告人の保釈と控訴の手続を依頼し、同日京都拘置所に赴き、被告人に面会の上、同人に対し弁護士を頼んだので近い内に出所できる旨告げた事実が認められる。ところが被告人は同月一八日に至り突如同拘置所長を通じ大阪高等裁判所宛の控訴取下申立書を提出したのであるが、弁護人は、被告人の右控訴の取下は被告人が拘置所において担当看守に対し控訴申立の用紙の交付を請求したところ、同看守が誤つて控訴取下申立の用紙を手交したのに、被告人は文字を十分理解できないまま同房の者に右控訴取下申立書用紙に所要事項、及び被告人の氏名を記載して貰い指印の上看守に提出したものであつて、右書面が控訴取下の趣旨であることを知らなかつた旨主張し、且その審尋の結果によると一応右主張は認められる。さらに証人鄭権祚の供述によると被告人は自己の氏名は、どうにか書くことができるが読み書きは十分できない事実、竝びに本件控訴取下申立書の記載は被告人の自筆でない事実が認められる。しかし、前記証人河谷清市は、被告人から控訴取下申立の用紙を貰い度い旨の申出があり、該用紙を被告人に交付した旨供述し、被告人の右供述と全く相反し、何れが真であるか俄に断定し難い。ところで在監中の被告人が控訴の取下をしようとする場合は、被告人自ら申立書を作ることができないときは、監獄の長又はその代理者は、これを代書し、又は所属の吏員にこれをさせなければならないことは、刑事訴訟法第三六七条第三六六条第二項に明示するとおりであり、しかもこの場合監獄の長は、つとめて便宜をはかり、殊に被告人が自ら申立書を作ることができないときは、これを代書し、又は所属の吏員にこれを代書させなければならない、と同規則第二九七条は命じている。これは、文字の読み書きの十分できない被告人に対する手続の確実性と被告人の人権の保障を期するためである。しかるに本件においては、前記証人河谷清市、同初田利一の供述によると、担当看守である河谷清市は、当時用務多端であつたにせよ、被告人が殊に第三国人であるから日本語の読み書きができない虞れがあるのに、右事実を認めることなく、また該用紙の趣旨を説明することなく、被告人の申出に従い控訴取下申立書の用紙を手交したのみであり、しかも被告人が同房の者に代書して貰つた右控訴取下申立書の文字が間違つていたので、その訂正を命じた際被告人は字が書けない、と申し述べたのであるから、自から被告人のため代書してやり、その書面の趣旨を説明すべきであつたのに、それすらなさず、被告人がさらに、同房の者に文字を訂正して貰つた右申立書の被告人の氏名の下に指印をさせ、その手続を了した事実が明らかである。さらに、京都拘置所において使用している控訴取下申立書の用紙は、「私儀某々事件に付昭和某年某月某日京都某裁判所に於て言渡された第壱審判決全部に対し曩に控訴申立しましたが該申立は取下致します」と不動文字をもつて記載され、右某の中に適当な文字を挿入し得るようになつており、他の拘置所において使用している「何月何日控訴を申立てましたが都合により控訴を取下げます」と記載された控訴取下書用紙に対比して教養の低い被告人には理解し難く、且つ手続の確実性において劣るものがあるといわなければならないのに、本件について担当看守の執つた措置は不親切なばかりでなく、刑事訴訟法、及び同規則の前記各法条に反するものといわなければならない。また他方控訴の取下は、すでに控訴の申立がなされていることを前提とするものであるのに拘らず、被告人は判決宣告当日父親より弁護人を依頼したこと、及び保釈の手続をしたので近く出所できる旨聞かされたに過ぎず、弁護人から被告人のためすでに控訴の申立がなされた、との事実を被告人が知つていたと認めるに足る資料は見当らない本件において、被告人が突如控訴取下申立書を提出した理由は、被告人が述べるとおり、被告人としては控訴する積りで担当看守に対し控訴申立の用紙の交付を請求したところ、或は被告人において控訴取下の用紙と言い違つたか、或は担当看守において被告人の申立を聞き違えたか、さらに或は担当看守において間違つた用紙を交付したものでないか、との疑は多分に存し、そのいずれとも確定し難いけれども、それはともかく、少くとも被告人には控訴を取下る意思が全くなかつたことだけは明らかな事実である。このように明らかに控訴取下の意思なくして提出された控訴取下申立書は恰も被告人の意思にかかわりなく、被告人名義を冒用してなされた控訴の取下が何等の効力を生じない場合と同視すべきであつて、原決定説示のように右控訴の取下は有効であるとは、到底認め難く、弁護人のなした前記控訴の申立の効力は存続し、原判決は未確定の状態にあるものといわなければならない。従つて控訴取下により原判決が形式的に確定したことを前提とする本件上訴権回復の請求は失当であり、これを棄却した原決定は結論においては正当であり、本件抗告は理由がない。(なお、本件控訴取下申立書は無効のものであるから、原判決は未確定の状態にあり、原裁判所は記録を大阪高等裁判所宛に送付すべきであり、若し記録未送付の間に検察官より被告人に対し原判決の宣告した刑の執行の指揮があれば、このとき被告人は刑事訴訟法第五〇二条による異議を申立てることによつて裁判所に対し、その救済を求め得ることを付言する。)

よつて刑事訴訟法第四二六条により主文のとおり決定する。

(裁判官 松本圭三 三木良雄 細江秀雄)

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