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大阪高等裁判所 昭和39年(ネ)222号 判決 1974年6月27日

控訴人

本寿院

右代表者代表役員

滋野敬孝

外八名

右九名訴訟代理人

山中康雄

河合伸一

被控訴人

園城寺

右代表者代表役員

福家俊明

被控訴人

福家俊明

右両名訴訟代理人

信正義雄

主文

本件各控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

第一当事者間に争のない事実

被控訴人園城寺が宗教団体法が施行せられる以前から独立の寺院であつたこと、控訴各寺院、被控訴人園城寺が宗教団体法および宗教法人令による宗教法人であつたこと、昭和二六年施行の宗教法人法のもとで控訴人正蔵坊のみは同法による宗教法人設立の手続をとらずに解散し、目下清算中であるが、その余の控訴各寺院と被控訴人園城寺が同法による宗教法人となつたことはいずれも当事者間に争がない。

第二本件の判断の進め方について

控訴人の主張は極めて多岐にわたるが、主要の争点である、控訴各寺院が本件各建物の所有権を有することの根拠として主張するところは前掲事実摘示欄記載の控訴人の主張(二)の1ないし4の四点であつて、本訴の勝敗は、終局的には、これらの主張のいずれかが採用されるか否かにかかるわけである。ところで、右各主張事実はいずれも重要な論点を含むものとして、十分の検討を重ねるべきこともちろんであるが、これらを通読して、先づ気づくことは、右四点の主張に関するかぎりにおいては、その殆んど全部が明治年間以降の事柄であつて、その以前に遡る論議としては僅かに1の主張のうちにおいて、「明治以前においても、同様であつたと考えられる。」というにすぎない。当裁判所はこのことが後記第三の項において、本件各建物が徳川時代の末期までは園城寺の所有に属したと判断するについて、一つの有力な根拠となるものと考えるのであつて、右第三の項の冒頭の証拠の列挙に続いて、本件口頭弁論の全趣旨を挙げるのはその意味である。

ところで、宗教界の問題は、永年の歴史と伝統とに支配される分野であるだけに、本件の判断においても、園城寺の開基以来の歴史的事実関係をふりかえることは必要欠くべからざることである。もちろん、かかる歴史的事実についても当事者双方とも、それぞれに詳細な主張立証を重ねているのであるが、この点についての双方の相違は、控訴人らにおいては、控訴各寺院が明治以前においても永年にわたつて、寺領を受け、動産不動産を所有し得る古い寺院であり、園城寺とは別個の宗教法人であつたことを史実に基づいて、詳細に主張した上、これを前掲1、の主張に結びつけようとするのに対し、被控訴人は本件各建物が園城寺の開基以来の発展の経過において終始自己の所有に属した事実を立証しようとしている。

そこで、当裁判所の判断の順序としては、先づ明治年間より以前の時代において、本件建物が果して被控訴人主張のごとく園城寺の所有に属したか否かを控訴各寺院の生成発展の経過と併せて検討し、若しこれが肯定される場合は、控訴人の前掲1ないし4の主張を順次検討して、明治以後のいずれかの時点において、右所有権が控訴各寺院に移つたものと認められるか否かの判断に及ぶこととする。

なお、控訴人らは大徳寺、高野山その他、他宗派の塔頭寺院との比較検討を詳細に行なつており、もとよりこれらとの間には類似点も多々あることは推察できるけれども、一面各宗派それぞれにより、当然歴史と伝統に相違点もあると考えられるので、本件建物の所有権の帰属の問題を論ずるについては、当事者以外の他宗派の寺院につき言及する必要はないと考える。

第三被控訴人園城寺の開基より、徳川時代の末期までの間における園城寺および控訴各寺院の生成発展の経過、および、右期間中における本件各建物の所有権の帰属。

<証拠>を総合すると、次の事実が認められ(当事者間に争のない事実を含む)、他に右認定を覆えすに足る確証はない。

(1)、被控訴人園城寺は天武天皇の一五年大友村主与多王がその氏寺として創建したものと伝えられ、智証大師円珍が貞観元年大友氏の請により園城寺に遷り、同八年園城寺を比叡山延暦寺の別院とし、円珍は朝命を受けてその別当となり、園城寺の別当は永く円珍の法脈を用いて寺家を簡定すべき旨の勅宣を下され、同一〇年六月二九日清和天皇は園城寺を円珍に賜つた。

(2)、円珍寂後百余年を経て、比叡山延暦寺において慈覚大師と智証大師の二大学閥の対立が生じ、それが政治的勢力の抗争にまで発展するに及んで、正暦四年智証大師門下の千有余人が比叡山を退去し、園城寺に移住するに至り、天台宗は山門と寺門の二派に分裂し、ここに比叡山に対立する一個の教団(天台宗寺門派)が発生した。

(3)、古来、園城寺の長吏は、京都の聖護院、実相院、大津の円満院の三門跡がその法位法階に応じてその地位につく慣しであり、特に皇族がなられる聖護院門跡が長吏につく例が非常に多かつたが、長吏はその門跡寺院に居住して園城寺に居なかつたので、園城寺はこれを守る衆徒によつて維持運営せられ、衆徒中の長老がこれが指導にあたつた。そして、奈良時代までに建立された寺院では、その寺の学生等は伽藍内の三面僧坊に起臥していたが、山岳寺院では僧坊を分散的に造り、一僧坊中に、僧侶と学生数人を配し、個別的に修行させることにした。園城寺においても、同寺が隆盛となり、その規模が増大するに従つて、これに奉仕勤侍する人員も増大し、それらの者の止宿する建物(住房)も必要となり、これに伴つて順次これらの住房が造立せられ、また修行所として観学院の如き建物が建設せられた。右の如き住房は園城寺自らが建設したもののほか、高僧の開基したもの、高僧入寂の地にその法嗣法弟が開基したもの、皇室、権門、盛家が創建し、高僧を住職せしめたものなどその起源には種々のものがあつた。そして、住房は右の如く僧侶の住居であつたため、平安時代頃から僧侶が房内に本尊を安置し、これを礼拝するようになつたが、当時は、それは一般の信仰の対象となるものではなく、いわゆる「お内仏」であり、「持仏堂」であつたにすぎなかつた。

(4)、その後の住房の変遷過程についてはこれを詳かにしないが、大津市志下巻(乙第一三号証)には、控訴人光浄院、上光院が慶長二年頃すでに存在し、慶長一二年の秀吉再興朱印状には、控訴人円宗院、同光浄院、同財林坊、上光院の記載があり、また控訴人光浄院、同本寿院、同定光坊、同専光坊、同正蔵坊がすでに元禄時代に存在していたこと、控訴人両願寺が寛永五年の創建にかかること、控訴人万徳院も控訴人光浄院と同じ位古いものであることの記載がなされており、本件係争建物はすべて、徳川時代あるいはその以前の建築に係るものである。

(5)、園城寺興隆のためには源頼朝、足利尊氏、足利義詮、豊臣秀吉、その他歴代の為政者より園城寺領が寄進されている。一例を挙げると、秀吉が慶長三年に寺領四、三二七石余を三井寺衆徒中に宛てた安堵状を以て寄進しているが、これも園城寺一山の経費に当てるためのものであつて、これが一山の各坊に割当てられたものであり、山中の各坊が一定の所領(領地)を所有したものではなかつた。徳川時代に入つても特に弊害がないかぎり、豊臣の寺領を踏襲しており、したがつて江戸時代の末期までは、園城寺は山内のすべての子院(境内寺院)諸坊を包含した寺院であり、控訴寺院を含むいわゆる塔頭ないし子院は、その歴史は古くとも園城寺の一部分として発生附属して来たものである。以上のとおり認定されるので、控訴各寺院が徳川時代或いはその以前においても、園城寺とは別個の宗教法人であつたとの控訴人らの主張は採用できない。したがつて、本件係争建物は右時代の終りまでは園城寺の所有に属したと見るべきである。

第四控訴人が本件各寺院を自己の所有と主張する前掲1ないし4の論点の検討

前項の考察の結果、本件の争点は、徳川時代の末期まで被控訴人園城寺の所有に属したと認められる係争各建物の所有権が明治以降のいずれかの時期に控訴各寺院に移つたと見られるか否かに焦点が絞られるわけである。この点につき、当裁判所は右各建物の所有権の帰属をめぐる紛争の発生したのは終戦により合同天台宗が再び三派に分れた後のことであつて、その以前には天台宗の他の二派、特に山門派との間には激しい抗争があつたけれども、寺門派内部において、園城寺と控訴各寺院との間の紛争は全くなかつたと見られることに極めて重要な意味があると考えるので、以下このことを念頭に置いて各主張を判断する。

(一)  控訴人の1の主張について、

<証拠>によると、園城寺関係の寺院明細帳には、

滋賀県管下近江国滋賀郡別所村字長等山

総本山

天台寺門本派  園城寺

本尊  弥勒菩薩

以下省略

金堂  一四間四面

以下省略

境内寺院三六ケ寺として、円満院、控訴人円宗院、同万徳院、同本寿院、同光浄院、同財林坊等三六ケ寺を記載し、その本尊、由緒、建物を記載し、更に飛地境内寺院二九ケ寺として、法明院、近松寺、その寺中として控訴人定光坊、尾蔵寺等の五坊を、微妙寺、その寺中として控訴人専光坊、同正蔵坊等四坊を、水観寺、その寺中として三坊を、控訴人両願寺等を記載して、その本尊、由緒、建物を記載している

ことが認められ、<証拠>によると、右寺院明細帳には控訴人財光坊、同専光坊、同正蔵坊、同定光坊を始め一山寺院中のある者が土地を、控訴人光浄院が滋賀県農工銀行債券を所有している旨の記載があることが認められる。

ところで、右寺院明細帳は、明治一二年その制度が制定せられ、同年六月二八日内務省達乙第三一号明細帳製式の件に基き作成せられたものと解せられるところ、寺院明細帳は寺院の存在を公認し、その内容を明瞭ならしめるために、地方長官の職権によつて調整せられる公簿であるからその記載内容は相当信憑力の高いものであると共に、事実寺院としての体をなしていても明細帳に登載がなければ寺院ではなく、また事実廃寺の状態であつても、明細帳からその寺院名を削除しない限り、依然存在を継続するものとして取扱われ寺院の存立と明細帳の記載とは不可分の関係にあるものといえる。そして、昭和一五年四月一日施行の宗教団体法附則第三二条により、寺院明細帳の控訴各寺院についての前記記載が、同条項にいう、同法施行の際現に寺院明細帳に登録された寺院に該当するとして、控訴各寺院が同法により設立を認可せられた寺院と看做されたことは弁論の全趣旨により明らかである。その事実と右の如く寺院明細帳に前記内務省達で記載を要請せられている境内仏堂、境内庵室と異る境内寺院なる概念のもとに、控訴各寺院を記載し、かつこれらが土地等を所有している旨の記載のあることを合せ考えると、控訴各寺院の内には明治一二年当時において、すでに法人格を取得していたものもあつたことが明らかであり、ひいては、その他の控訴各寺院も同様であつたと推認することも可能であつて、被控訴人のすべての主張立証を精査するも、以上の判断を覆えし、控訴各寺院が法人格を取得したのは明治末年であつたとの被控訴人の主張を採用することはできない。

しかしながら、法人格を有したにしても、そのため直ちに控訴人主張のように控訴各寺院が右の当時本件各建物を所有したと見てよいか否かには大きな疑問の余地がある。すなわち控訴人らは、本堂庫裡は寺院にとつて不可欠のものであり、従つて本件各建物は控訴各寺院の本堂庫裡として、控訴各寺院の所有に属するものであると主張し、その根拠としてまず、宗教法人法第一条第一項に「この法律は、宗教団体が礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運営し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする」旨規定せられていること、明治一一年九月九日内務省達乙第五七号社寺取扱概則第一条等明治時代の通達を挙示する。

しかしながら、寺院が法人であるためには、本堂、庫裡等の物的施設を備えることは必要であるが、それが自己の所有に属することまでは必要でないと解する。右法第一条第一項の規定は宗教団体の健全な発達に資するための宗教法人法の目的をかかげたにとどまり、同法第二条によるも寺院は礼拝の施設を備えることをもつて足るものと定められているのであり、前示内務省達乙第五七号も「其地所建物社寺ノ体ヲ具フル」こと、すなわち、寺院が本堂、庫裡などを備え寺院としての体を備えていることを要求しているにとどまり、それらが寺院の所有に属していることまでも要求しているものとは到底解せられないし、明治一八年二月六日社寺局通牒本局第一一号と対比しても、当然に本堂、庫裡が寺院の所有に属さなければならない理由を発見しえず、その他控訴人ら挙示の通達を仔細に検討しても、控訴人らの主張を根拠ずけるものは何ら存在しない。却つて、明治五年一一月太政官布告三三四号無檀無住寺院廃止の件によると、「堂宇建物ノ儀ハ最初営造ノ次第ヲ追ヒ官営ハ公収シ、私造ハ其人民所分ニ可相任官私ノ別不分明ノ向ハ適宜ニ取計ヒ云々」と記載し、堂宇建物が寺院以外の者の所有に属しうべき場合のあることを前提にして規定し、また明治八年内務省達乙第一一三号廃合寺院跡地竝建物処分規則に基く廃合の場合における寺院の具備した財産の処分に関する詳細を通覧すると、堂宇建物の所有権は必ずしも寺院に属するを要しないことが明らかである。その所有関係は寺院生成の由来、その他歴史的事情により異るのであつて、一般には本堂庫裡はその寺院の所有に属する事例が多いというにすぎない。

しかも、すでに判断したとおり、徳川末期までは右各建物が園城寺の所有に属したのであるから、明治初年に園城寺より控訴各寺院に譲渡されたことが認められない以上、単に当時法人格があつたというだけでは、到底控訴人主張のようにその所有と推定することはできない。このことは寺院の法律上の性格が財団であるか、社団であるかの問題とも無関係であるから、この点の判断を省略する。

(二)、同じく2ないし4の主張について、

右の三つの主張について共通して考えたいことは、前記のとおり、本件紛争が終戦後に初めて発生したことである。すなわち、先づ明治一二年の寺院明細帳(甲第四九号証)について言えば、本件建物が控訴各寺院所属と記載されていることは控訴人所論のとおりである。しかしながら、明治初年頃に控訴各寺院が法人格に該当するものを具えていたにしても、それは先きに認定したように、自然発生的のものであつて、特定の日時に法人格を取得したわけではない。しかも、この当時本件当事者間に何らの紛争もなかつたことは先きに述べたとおりである。

してみると、徳川末期まで被控訴人園城寺の所有に属した建物を、控訴各寺院に譲渡するというような根本的変革が明治初年に行なわれたと見るべき客観的な裏付けは全くないと謂うほかはない。したがつて、単に右明細帳の「所属」の二字によつても、当時すでに本件建物の所有権が控訴各寺院に移つていたということは到底認め得ないのである。

次に、昭和一七年の宗教団体法に基づく園城寺および控訴各寺院の寺院規則認可申請書(甲第一ないし一二号証)によると、本件各建物についてはそれぞれ控訴各寺院の所有と明記され、園城寺所有建物の内には全く記載されていないこと、および、これらの書類がすべて園城寺事務所において作成されたことは控訴人らに対し、寺院明細帳の記載よりも遙かに有利な論拠を提供しているかのごとくである。また、右各申請書の作成が提出期限の切迫のため十分の調べもなしに誤まつた記載がなされたか否かについても当事者間に論争が交わされている。

しかしながら、当裁判所はこの点の判断についても、その当時の政治的社会的諸情勢を考慮に入れなければならない。すなわち、天台宗三派(山門派、寺門派、真盛派)がいわゆる臨戦態勢の非常時下に強権を以て合同の申請をさせられ、しかも即日当時の文部大臣橋田邦彦により認可が下されたのが昭和一六年三月三一日であり、これに続いて前記各認可申請書の提出されたのは、その満一年後、すなわち大東亜戦争の勃発より僅かに五ケ月以内のことである。このような国難の時に当つて、幾百年間激しい対立関係にあつた山門派との合同さえも強制されたのであるから、寺門派の内部において何らの対立紛争があつた筈もなく、将来本件のごとき紛争、ましてや本訴の提起というようなことは夢にも考えなかつたと見るほかはない。してみると、先きに認定したように、控訴各寺院が園城寺の一部分として永年発展して来た経過から見ても、両者の区別などは考えず、恐らくは寺院明細帳の記載を基として、法律的考察なども行なわず、作成されたものと見るべきである。このような苛烈な情勢の下に作成された認可申請書であるから、これに控訴各寺院の所有と記載されたからとて、そのことが直ちに園城寺の所有権の否定ということに結びつくものとは到底考えられず、したがつて、その後全く事情を異にする時期に提起された本訴において、右の記載を以て控訴人らに有利な判断をすることはできない。このように右各申請書そのものが、本件において控訴人らに有利の認定をするだけの信憑力を持たないものである以上、その内控訴人光浄院の申請書が、その後園城寺の住職となつた福家守明の名義でなされたからと言つて、同人はこれを禁反言的に否定し得ぬ立場にあつたとの主張も到底採用できない。

次に、寺院台帳に本件各建物が控訴各寺院の所有として登録され、その後その訂正のなされていないことは弁論の全趣旨により明らかであるが、寺院台帳制度は前記寺院明細帳に替るものとして登記制度と共に、宗教団体法により新設されたのであり、同法施行規則第六一条により地方長官が職権によりこれを調整するもので、前記記載内容は寺院規則認可申請書に基き作成されたものと解されるところ本件訴訟の経過に徴すると、被控訴人園城寺がこれを知つたのは本訴係属後であることが推測されるから、前記不訂正の事実をもつて、本件各建物が控訴各寺院の所有に属することの証憑とすることもできない。

なお、昭和一七年制定の園城寺寺院規則第九九条に基く園城寺資産台帳、同規則第一〇五条に基く園城寺財産目録が作成されていることについてはこれを認むべき証拠がないから、右台帳、目録に本件各建物が被控訴人園城寺所有と記載されていないことを前提とする控訴人らの主張も理由はない。

以上要するに、本堂庫裡は一般にはその寺院の所有に属するのが通常の態様ではあるが、本件各建物は園城寺およびその一山寺院間の古き伝統と歴史に基き、被控訴人園城寺の所有に属するものと認定するのが相当である。

第五控訴人光浄院の請求について、

控訴人光浄院と被控訴人園城寺間に原判決目録二の物件につき使用貸借がなされあるいは土地につき地上権が設定せられたことを認むべき証拠はなく、却つて右物件中の建物および庭園は前認定のとおり同控訴人主張の昭和一九年七月ころは園城寺関係者間では被控訴人園城寺の所有に属するものと考えられていたものであるから、控訴人光浄院がこれを被控訴人園城寺に使用貸することはありえないことであり、また右建物所有のために国との間に地上権を設定するが如きことも考えられない。

第六結び

そうすると、本件各建物が控訴人らの所有に属し、あるいは右目録二の物件につき引渡請求権を有することを前提とする控訴人らの本訴請求はその余の判断をなすまでもなく理由がないからこれを失当として棄却すべく、これと同旨の原判決は相当であるから、民訴法第三八四条第八九第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(沢井種雄 大野千里 野田宏)

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