大判例

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大阪高等裁判所 昭和40年(う)524号 判決 1965年9月15日

被告人 森野真二

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役三年に処する。

原審における未決勾留日数中三〇日を右の本刑に算入する。

押収してある登山用ナイフ、皮サツク付一本(昭和四〇年当庁押第一九七号)はこれを没収する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人阿部甚吉、同川越庸吉連名の控訴趣意書記載のとおりであるからこれを引用する。

論旨第一、二点について

所論は要するに、原判決は被告人が殺意をもつて田中の右胸部を突き刺したと認定しているが、被告人は毫も殺意を有していなかつたものであるからこの点に重大な事実の誤認がある。また原判決が正当防衛の成立を否定したのは法律の解釈適用を誤つたものであるというのである。

よつて案ずるに、記録に現われている証拠、及び証拠物を精査し、かつ当審の事実取調べの結果を検討すると、被告人は真面目でおとなしく、平素の勤務成績も中以上であり、人に恨みを買うようなことはなかつたが、被害者田中憲二は酒癖が悪く、酔つては乱暴する癖があり、藤永政明は傷害罪で罰金刑に処せられた前歴がある上右両名は、時折原判示男子寄宿舎に起居している工員を呼び出して理由もなく殴る、蹴る等の暴行を加えるので、同寄宿舎の工員達から乱暴者として恐れられていたところ、昭和三九年一〇月一六日午後一一時頃の深夜被告人は右両名より呼び出しを受け、同寄宿舎一階奥の洗面所において田中より「お前生意気なかつこうするな」とか「藤永を知つているのに何故口をきかない」等と因縁をつけられたので、被告人はひたすら「すみません」といつて謝つたけれども聞き入れて貰えず、「俺は殴ると思つたら殴るのや、とにかく屋上にあがれ」とおどされて、同寄宿舎屋上に連行され、同所においても「すみません、勘弁して下さい」と哀願したにかかわらず、藤永からいきなり右手拳で被告人の顔面を殴打され、続いて田中が、右手拳を振りあげて殴打しようとしたので、被告人は二人から袋叩に逢うものと狼狽し突嗟に所携の登山用ナイフをもつて同人の右胸部を刺し、因つて同人を死亡させた事実を認めることができる。被告人は田中らから制裁を受けねばならないような非違を全く犯しておらず、同人らの理不尽な言い掛りに対し、隠忍に隠忍を重ね、ひたすら謝つているにかかわらず、乱暴者で知られている両名から二人がかりで殴つてこられたのであるから、これに対し防衛行為をなし得ることはいうまでもなく、被告人が素手で立ち向つたのでは相手を制し得ないばかりか相手を憤激させてさらに強い攻撃を受ける虞のある状況の下において、所携の登山用ナイフを使用して相手を刺したとしても、特段の事情のない限りそれは已むを得ないでした防衛行為であると認めるのが相当である(ただし、正当防衛ではなく過剰防衛であることは後に判示するとおりである)。しかるに原判決は被告人が呼び出しを受けたとき、田中らから暴行を受くべきことを予測していたから田中らの暴行は急迫な侵害といえず、暴行を予測して登山用ナイフを携えて出たことは、相手方の暴行に対し刃物を用いて応待せんとしたもので違法であるから被告人の所為は防衛行為と認められないと判示する。よつて案ずるに、被告人は司法警察員に対する同月一七日付供述調書、検察官に対する同月三〇日付供述調書、及び当審公判廷において、登山用ナイフを持つて出た理由は、それを抜いておどせば、おとなしくなるだろうと思つたからで、当初から相手を刺すとか、傷つけるという意思ではなかつたと述べており、被告人が隠忍に隠忍を重ねている言動に徴し、被告人が当初から争闘のための用意準備として登山用ナイフを持ち出したと認めることはできない。また被告人が予め侵害を予見していたからといつて藤永らの被告人に加え、加えようとした暴行が正当防衛の要件たる急迫性を欠くとは考えられない。従つて被告人が登山用ナイフを携行したことや予め侵害を予見し得たということは、必ずしも被告人の所為を急迫不正の侵害に対する防衛行為とみることの妨げとならないことは弁護人所論のとおりである。問題は被告人が登山用ナイフで田中を刺したときの被告人の意思である。原判決は、本件刺創は相当強い力が加わつて生じたものと考えられるから、被告人が強力に田中めがけて突き刺したものと解すべきであり、田中を刺した後藤永に対しても攻撃的言辞を弄していることを理由に被告人が憤激の余り殺意をもつて田中の右胸部を突き刺したと判示して確定的殺人の故意を認定し、被告人の所為は田中らの攻撃に挑発せられ、これに応戦しようとした攻撃的なものと認められ防衛行為ではないと説示しているのである。よつて検討を加えると、被告人は原審及び当審の公判廷において、殴りかかつてきた田中の腕を振り払うためにナイフを右から左に振り廻したとき、偶々同人の胸部に当つて生じた傷であると述べているが、右のような動作で原判示のような深い刺創を生ずる可能性の極めて少ないことを考えると被告人が捜査官に対して田中の胸部に向つて登山用ナイフを突き出したと述べていることが、真相に合致するものと認められ、兇器が登山用ナイフで、しかも相手の胸部に向つて突き出し、同部に刺創を与えたという事実に被告人の各供述調書を綜合すると、被告人に少くとも殺人の未必の故意があつたと認めざるを得ないのである。従つて被告人に全く殺人の故意がなかつたという論旨は採用できない。しかしながら、被告人は田中、藤永の両名についてその名前と非行を知つていた程度で、面接したこともなく、同人らに恨みを抱いていたという証拠もないこと、同人らに殴られたからといつて、その程度のことで同人らを殺害しようと決意する程憤慨していたとは考えられないこと、被害者の胸部に受けた刺創はかなり深いけれども、被告人の突き出した登山用ナイフに被害者の急激な攻撃の前進力が加わり、それがむしろ主因となつて刺創を深めたと認め得る余地が多分にあること、被告人が故意の点につき最も詳細明白に供述している検察官に対する前示供述調書においても、死のうと生きようとどうなつてもかまわないという気持であつたと述べているに過ぎないこと等を考慮すると被告人が殺人の確定的故意を有していたとは到底認められず、原判決のこの点に関する判断には誤りがある。しかしながら被告人が憤慨の余り専ら攻撃の意思で田中を刺したとすれば、未必的な殺人の故意であつたとしても防衛行為としての性格を失うこととなる。よつてこの点につきさらに検討を加えると、理由もなく殴打されて憤慨しない者はなく、被告人が憤慨したとしても当然のことであり、不正に対する憤りの感情は必ずしも防衛意思を否定するものと考えるべきではない。前示状況の下において被告人は田中らの暴行を甘受しなければならない義務はなく、田中らの不正に対する憤りの外にこれ以上殴られてはかなわないから殴られないように防止しようという気持がなかつたとは到底考えられない。被告人は原審及び当審の公判廷において防衛意思で行為したものであると強く訴えており、右の供述こそ真相に合致するものと認むべきである。被告人の検察官に対する前示供述調書中には相手の乱暴に腹が立つて、やつつけてやろうという気持の方が心を占めていたという供述記載があるが、検察官の理詰めの質問に迎合した供述ではないかという疑があり、たやすく信用できない。ところで証拠によると、田中を刺した後、被告人は後ろに下つて登山用ナイフを右脇下に構え藤永に対し「まだくるか、俺も少年刑務所まで行つた男や、なめたまねするな」と放言し、同人の尻を一回蹴つた事実を認めることができる。原審はこの事実を捉えて被告人が田中を刺したのは攻撃的意思のみに基いたものであり、かつ殺意の認められる証左であるとする。しかしながら、被告人としては田中を刺したが、藤永がそれを見て反撃を加えてこないかという虞から突嗟狼狽の間に出た強がりの言動であると解されるばかりでなく、被告人が、真に激怒して田中らを殺害しても已まないという程の気持であつたとすれば、右の強がり程度の言動に止まらず、田中或いは藤永に対し、さらに登山用ナイフをもつて突き、刺す等の積極的行動に出たであろうと推測されるのであつて、被告人の前示言動は反つて、被告人に積極的な殺意のなかつたこと、憤慨の程度は防衛の意思を否定する程強くなかつたことの証左と考えることができるのである。

そうしてみると、被告人の所為は自己の身体に対する急迫不正の侵害を防衛するための行為と認めるのが相当であり、ただ相手が二人がかりであるにせよ手拳で暴行を加えてきたのに対し、登山用ナイフを使用して相手の胸を刺し、しかも死亡させるに至つたという点において已むことを得ざる防衛の程度を超えたものといわなければならず過剰防衛と認定するのが相当である。従つて正当防衛が成立するという弁護人の論旨は採用できない。そうすると、原判決が、被告人に対し確定的殺人の故意を認定し、被告人の所為を専ら攻撃行為であつて防衛行為としての性格を持たないと認定した点は事実を誤認し、ひいては過剰防衛の規定の適用を誤つた違法があるといわなければならず、右の誤りは判決に影響を及ぼすこと明らかであるから原判決は破棄を免れない。

よつて弁護人の量刑不当の主張に対する判断を省略して、刑事訴訟法三九七条によつて原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は陸上自衛隊を除隊後、昭和三八年四月から大阪市都島区友渕町一二三番地鐘紡淀川工場に捺染工として勤務し、同工場内にある男子寄宿舎一階一一号に起居していたものであるが、昭和三九年一〇月一六日午後一一時頃の深夜右自室にいた際、かねて同寄宿舎内で同僚工員達に理由もないのに、暴行を加えるので乱暴者との噂の高かつた藤永政明(当二六年)、田中憲二(当二一年)の両名から呼び出しを受け、同寄宿舎一階洗面所で生意気だと因縁をつけられ、ひたすら謝つたが、「殴るといえば必ず殴るのだ」といつて同寄宿舎屋上に連れて行かれた上、同所でも謝つているにかかわらず、先ず藤永より顔面を殴打され、次で田中から顔面を殴打されようとしたので、狼狽の末自己の身体に対する急迫不正の侵害を防衛するため、已むを得ず携行していた登山用ナイフ(昭和四〇年当庁押第一九七号)を取り出し、死の結果を生ずるかも知れないことを認識しながら、意に介することなく、右ナイフで同人の右胸部に向つて突き出し、同人が被告人を殴打しようとして前進した力と相俟つて、同人の前胸部に肺動脈を刺通し、右気管支を切破し、右前下葉に達する刺創を負わせ、これに基く出血のため間もなく同所で同人を死亡させたもので、已むこと得ざるに出た行為ではあるが防衛の程度を超えたものである。

(証拠の標目)(略)

(適条)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するから、所定刑中懲役刑を選択し、過剰防衛行為であるから同法三六条二項、六八条三号により法定の減軽をした刑期の範囲内で処断すべきところ、諸般の犯情を考慮して被告人を懲役三年に処することとし、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中三〇日を右の本刑に算入し、押収してある登山用ナイフ、皮サツク付一本(昭和四〇年当庁押第一九七号)は本件犯行の用に供したもので、被告人以外の者に属しないから刑法一九条一項二号、二項によりこれを没収し、原審及び当審における訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部被告人をして負担させることとする。よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 畠山成伸 松浦秀寿 八木直道)

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