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大阪高等裁判所 昭和41年(う)1071号 判決 1968年11月13日

控訴人 原審弁護人

被告人 清水祥男

弁護人 寺嶋芳一郎 外三名

検察官 金丸歓雄

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用中、証人野口剛(昭和四二年一月一七日分、同年七月二五日分、昭和四三年四月三日分、同年五月一七日分)、証人蓑原源[阜昜](昭和四三年四月三日分)、証人矢田哲郎(昭和四二年一〇月五日分、昭和四三年二月二八日分)、証人川島盛夫(昭和四三年二月二八日分)、証人亀山忠直(昭和四二年一一月二一日分、同年一二月一二日分、昭和四三年一月三一日分)、鑑定人亀山忠直(昭和四二年三月二八日分)、証人古郷恒彦(昭和四二年一〇月五日分)、証人川上栄作(昭和四二年七月二五日分)、証人山田直勝(昭和四二年二月七日分、昭和四二年七月四日分)、鑑定人山田直勝(昭和四二年二月七日分)、証人永島公太郎(昭和四二年二月六日分、同年七月二四日分)、証人木村秀政(昭和四二年二月二〇日分、同年七月二四日分)、鑑定人木村秀政(昭和四二年二月七日分)、証人向笠高正(昭和四二年六月二二日分)、証人善重徳雄(昭和四二年六月二二日分)、証人磯海治(昭和四二年六月二二日分)、証人平田健治(昭和四二年五月二五日分)、証人田中誠三(昭和四二年五月二五日分)、証人寺坂功(昭和四二年四月二五日分、同年五月二五日分)、証人時田次男(昭和四二年二月六日分、同年二月九日分)、証人本行泰彦(昭和四二年二月九日分)、証人高橋義郎(昭和四二年二月九日分)、証人有働武俊(昭和四二年二月八日分)、証人野尻幹男(昭和四二年二月八日分)、証人西村淳(昭和四二年二月七日分)、証人関口孝(昭和四二年二月七日分)、証人柿本勝(昭和四二年二月六日分)に支給した分は、いずれも被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、記録に編綴の弁護人寺嶋芳一郎作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一事実誤認について

論旨は、原判決には、第一点、本件飛行機の計器飛行性能につき、第二点、自動方向探知機等の計器のみに頼つて右層雲を無事通過できるものと軽信したと認定した点につき、第三点、視界不良の場合における緊急着陸の内容につき、第四点、本件飛行機の飛行に影響を与えた風に関し、第五点、変針点の認定につき、それぞれ事実の誤認があると主張するのである。

よつて案ずるに、原判決が証拠によつて認定した事実は、被告人は、もと陸軍軽爆撃機の操縦をしていたが、昭和三三年四月、事業用操縦士の技能証明を受け、昭和三五年一一月不定期航空運送事業を営んでいた旧日東航空株式会社(昭和三九年四月一五日、富士航空株式会社、北日本航空株式会社と合併して日本国内航空株式会社に改組)に入社し、昭和三七年七月、上級事業用操縦士の技能証明を受け、同会社所有の飛行機D・H・C-3型アツターの機長、次いでグラマン・マラードの機長となり、飛行時間約三、〇〇〇時間の経験を有し、右会社の大阪徳島間不定期路線にも機長として多数回にわたり経験を有するものであるが、昭和三八年五月一日、同会社の飛行命令(乗務割)に基づき、大阪発、徳島行第一便である前記の水陸両用単発飛行機デ・ハビランド式D・H・C-3型アツター(JA三一一五号機)の機長として、機長補助者野口剛(当時三七年)とともにこれに乗務し、乗客岩城覚(当時四八年)外八名を乗せて大阪国際空港を出発することになつたので、同日午前七時四五分頃、大阪航空保安事務所に対し「大阪、徳島間を往路の巡航高度二、五〇〇フイート、真対気速度時速一一〇マイルで、有視界飛行方式により就航する。」旨の飛行計画を通報し、かつ、同日午前七時現在の右空港の地上視程が、有視界飛行方式による離陸許容視程三マイル未満の視程二・五マイルであつたので、特別有視界飛行方式による離陸の承認を求め、同空港管制塔から「高度一、五〇〇フイートまたはそれ以下で有視界気象状態を維持し、南西に五カイリ飛行して大阪航空交通管制圏から離脱し、有視界気象状態になつたら報告せよ」との管制承認を得て、午前八時一一分、同空港を磁方位三二〇度の方向に離陸し、右管制指示どおり飛行して、西宮市鳴尾附近上空で、右管制圏を離脱し、午前八時一六分頃、堺市西方海上附近上空に達したが、そのころ高度二、〇〇〇フイートで視程三マイルとなり有視界気象状態となつたので、右管制塔に対し超短波無線電話通信機でその旨の通報をしたうえ、同管制塔の承認を得てその管制を離れ、大阪湾東海岸沿いに南下するうち、午前八時二四分頃、岸和田市西方海上附近上空で、右会社大阪国際空港営業所から、同空港の地上視程一・五マイルになつた旨の通報に接し、同空港の視程が出発時よりかなり悪化していることを知り、引き続き右会社運航規定に定める最低安全高度二、〇〇〇フイート、制限視程三マイルを維持しながら飛行を続け大阪府泉南郡岬町淡輪西方海上附近上空に達したところ、その頃から前方の層雲のために視程が狭まつて来たので、この層雲を避けて右制限視程三マイルを維持しようとして高度二、〇〇〇フイートから徐々に高度を下げながら飛行径路上の目標である和歌山市加太所属の友ケ島へ向けて飛行を続け、そのころ右淡輪西方から友ケ島に至る海面の白波の状態から一〇ノツトないし二〇ノツトの南風が吹いていると判断したが、午前八時三九分頃、右最低安全高度を下回る高度五〇〇フイートで、右友ケ島の中の地ノ島上空に達したところ、淡路島および飛行径路上の目標である兵庫県三原郡南淡町所属の沼島は、一面層雲におおわれて視認できなかつたため、徳島方面への通常の変針点である友ケ島上空で変針せず、視界の良好な磁方位一八〇度の方向に機首を向け約一分間南下してみたのであるが、沼島、徳島方面は、依然として層雲と霧との混合した状態で視界が妨げられ、視程わずかに一マイル足らずであるうえ、その状態がはるか南方にまで続いていて、その間に雲の切れ間は認められず、雲と海面との間にも視界の開けた個所は全く見当らなかつたけれども、被告人は、同日午前八時三九分現在の徳島飛行場の地上視程が六マイルであつて、気象状態が比較的に良好である旨の通報を受けたため、鳴門海峡に至るまでの間を一時的に視界を失つて層雲中を飛行しても、同海峡に達すれば、通常、同海峡は視界が良好であるからその後は無事徳島飛行場に飛行しうるものと判断し、同所において徳島無指向性無線標識施設の周波数に合わせていた自動方向探知器の指針が零度を示すように変針して磁方位二五〇度の方向に機首を向けて三、四分間飛行し、同機を層雲中にはいらせて視界を失つたまま雲中飛行を続けたため、淡路島南岸の山腹を認めることができず同日午前八時五六分頃、同機を兵庫県三原郡南淡町灘吉野所在の論鶴羽山系通称重助山の標高約三〇〇メートルの山腹に衝突炎上させ、よつて同飛行機を破壊するとともに、前記乗客九名を焼死させ、かつ、前記野口に対し加療約四ケ月半を要する左腸骨、左第七ないし第一〇肋骨骨折等の傷害を負わせたという事案である。

これに対し原判決は、第一に、被告人は、既に淡輪西方海上及び友ケ島附近で認めた海面の白波の状態から一〇ノツトないし二〇ノツトの南風が吹いていると判断したのであるから、沼島、徳島方面へ変針してそのまま同方向に飛行すれば間もなく層雲中に突入して視界を全く失つて飛行機の現在位置および飛行方向を的確に把握することが極めて困難となり、かつ、前記のように判断した南風の状況により、当然推知することのできたはずの友ケ島方面から沼島方面への飛行径路をも含めた附近一帯にわたり吹いていた偏流によつて被告人が想定した沼島附近上空を通過する飛行径路よりも北方へ流されて淡路島南岸の山腹へ衝突する危険を予知できたのであるから、このような場合、航空運送事業に従事し、有視界飛行方式にのつとり飛行機を操縦する機長としては、航空機ならびに乗客等の生命、身体に生ずる危険を避けるために、当時の大阪国際空港の地上視程がかなり不良であつたとしても、緊急事態による着陸は可能であつたのであるから、徳島方面へ変針して飛行することを断念し、当時まだ比較的視界の良好であつた東側の海岸線沿いに途中有視界気象状態を維持しながら右空港に帰投すべく引き返し、その間有視界気象状態を維持して飛行することが困難な気象状態になるおそれがあつた場合には、同空港管制塔に対し緊急事態に立ち至つた旨の通報をして、レーダーによる誘導等の非常措置を受け、同管制塔の指示に従いながら引き返し、安全に同空港に着陸して事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにかかわらず、鳴門海峡に至るまでの間を一時的に視界を失つて層雲中を飛行しても、その後は無事徳島飛行場に飛行しうるものと速断し、大阪国際空港に引き返さなかつたこと、第二に、安全な雲中飛行をするに充分な計器類の搭載装置もなく、かつ、計器飛行方式による飛行が許されていない同機にたまたま搭載装置されていた自動方向探知機等の計器のみに頼つて、右層雲を無事に通過できるものと軽信し、同所において、徳島無指向性無線標識施設の周波数に合わせていた自動方向探知機の指針が零度を示すように変針して磁方位二五〇度の方向に機首を向けて三、四分間飛行し、同機を層雲中に突入させて視界を失い、かつ、おりから同所附近一帯に吹いていた平均一八ノツトの南風のために北方に流されながら、これに気付かず数分間では到底偏流を測定することが不可能な自動方向探知器等の計器のみに頼つて右層雲中を視界を失つたまま飛行したため、淡路島南岸の山腹を認めることができずこれに飛行機を衝突させた点に過失を認定したのである。

控訴趣意第一、事実誤認の主張中第一点について

所論第一点は、本件飛行機には計器飛行を行うに必要な計器は、完全に装備されており、ただ雲中飛行の際気温によつては生ずるであろう凍結防止装備がなかつたに過ぎないから、凍結の危険のない温度下においては、安全な雲中飛行ができたことは明らかであり、従つて、原判決には、本件飛行機の計器飛行性能につき重大な誤認があるというのであるから検討する。

本件事故機に装備された計器類は、司法警察員田島行雄作成の昭和三八年五月二日附捜索差押調書(記録一六九丁以下)、杉本伝一作成の昭和三八年五月二七日附鑑定報告書三通(記録二四五丁ないし二五二丁)および同年七月三日附鑑定報告書(記録二五三丁ないし二六六丁)によれば、磁器羅針盤、ジヤイロ式定針儀、自動方向探知器、気圧式高度計、ジヤイロ式旋回計、気圧式速度計、気筒温度計、吸気温度計、ジヤイロ式水平儀等が装備され、当時いずれも完全に作動していたことが明らかである。そして当審における鑑定人亀山忠直および鑑定人木村秀政作成の各鑑定書によれば、これらの計器類の装備があれば、計器飛行は、充分可能であり、本件アツター機によつて計器飛行を行うに支障はなく、ただ、本件事故機が当時有視界飛行方式による飛行のみ許されて、計器飛行方式による飛行が許されていなかつたのは、雲中飛行の際、気温摂氏零度ないし零下一〇度になれば、翼およびプロペラの凍結を生ずるおそれがあり、その凍結防止の装備がなかつたからに過ぎないのであつて、凍結のおそれのない場合であれば、特に計器飛行に凍結防止装置がなくても計器飛行をしうることが認められる。したがつて、原判決が「安全な雲中飛行をするに充分な計器類の搭載装置もなく」と判示した点は、本件事故の発生が五月一日であつて、当時の気温は、午前九時現在において、洲本で摂氏一七・五度(洲本測候所回答書、記録三二三丁)、徳島で摂氏一七・八度(徳島測候所回答書、記録三〇一丁)、由良で摂氏一六度(伊吹進の検察官に対する供述調書、記録三五八丁)であるところからみれば、本件変針点から衝突現場附近においては、少なくとも一〇度以上の気温であつたことが推認できるのであるから、凍結のおそれのなかつたことが明らかであり、このことを併せ考えると、本件事故機は計器飛行の性能はあつたものといわなければならない。従つて、この点に関する原判決の認定は誤がある。しかし、本件事故機は有視界飛行方式による飛行のみが許され計器飛行は許されていないものであつたのみならず、原判決が本件事故に対する被告人の過失を認定したのは、有視界飛行方式による飛行をしていたのであるから、層雲により針路の視界をさえぎられている以上、後記変針点において徳島に向けて変針せず、視界の明らかな東側海岸沿いに大阪国際空港に引き返すか、その他適切な措置をとるべきであつたにもかかわらず、あえて徳島に向けて飛行を続けた結果雲中飛行となり、南風に流されて本件事故に至つたことに存するのであつて、所論の点は、被告人の過失を認定する縁由的経過の一部に過ぎないから、仮にこの点について原判決に事実の誤認があるとしても判決に影響を及ぼすものではない。所論は採用しがたい。

控訴趣意第一、事実誤認の主張中第二点について。

所論第二点は、自動方向探知器の性能につき、原判決は「自動方向探知器等の計器のみに頼つて、層雲を無事通過できるものと軽信し」たと判示するのであるが、この点につき事実の誤認があると主張するから考察する。なるほど前掲鑑定人木村秀政の鑑定書および鑑定人亀山忠直の鑑定書によれば、自動方向探知器(Automatic Direction Finder.A・D・Fと略称する)は、無指向性無線標識または、レンヂビーコンに対応させて飛行機の方位を測定し、また、二つの地上無線局に対する方位を測定して二つの方位線の交差点によつて飛行機の位置を測定するために使用されるものであつて、その姿勢を示す装置ではないから、これだけでは計器飛行ができないことは所論のとおりであるが、原判決の判示するところは、本件飛行につき、自動方向探知器のみに頼つたとしてはいないのであつて、「自動方向探知器等の計器」というのであるから、自動方向探知器およびその他の計器を指すものと解しなければならない。現に、被告人は、後記証拠によつて明らかなように自動方向探知器および羅針盤、定針儀などの計器を使用して、本件飛行をしているのであるから、原判決が自動方向探知器のみに頼つたと判示したものとしてこれを非難する所論は採用しがたい。

控訴趣意第一、事実誤認の主張中第四点について。

所論第四点は、原判決には、本件事故機の飛行に影響を与えた風に関する認定に誤があるといい、原判決は、「午前八時三九分友ケ島の地ノ島上空に達し、高度五〇〇フイートで磁方位一八〇度の方向に機首を向け約一分間南下し、ここで磁方位二五〇度の方向に機首を向けて三、四分間飛行し、同機を層雲中に突入させて視界を失い、同所附近一帯に吹いていた平均約一八ノツトの南風のために北方に流され、午前八時五六分頃、通称重助山の標高約三〇〇メートル(九八〇フイート)の山腹に衝突した」と認定し、右時刻、右航跡附近における本件飛行機の飛行に影響を与えた風に関し平均約一八ノツトの南風があつたとするけれども、当時前線の影響を受け、由良において午前九時現在一六メートル(三二ノツト)という南南西の風が吹いていたのであるから、それ以上の風が急激な変化により淡路島南方、雲に突入した以後の空域に吹いていたものであると主張するから、考察する。

凡そ水上を飛行する有視界飛行方式による飛行機が風向風速を知るには、水面に立つ波頭によりその倒れる方向を風上とし、その白波の多寡によつて風速を推知するのであつて、風の影響による予定の針路と現実の航跡との間の角度を偏流角といい、航跡が航路と一致するよう風上側に針路を修正する角度を偏流修正角というのであるが、まず時間帯について検討すると、野口剛は、検察官に対し、「地ノ島通過の時徳島営業所と交信したのであるが、それは午前八時三九分から午前八時四〇分までであつた」と供述し(昭和三八年六月六日附供述調書、記録二四二一丁)、中西忠司は、検察官に対し、「本件事故当日の午前八時三九分頃、アツター三一一五号機が、日東徳島を呼び出した。そして『乗客九名、清水、野口搭乗、着予定九時』と送信してきた。それで私は『了解、徳島の現在の気象を送ります。一、〇〇〇フイート-スキヤタード、三、〇〇〇フイート-ブロークン、七、〇〇〇フイート-オーバーキヤスト、地上視程-六マイル、小雨、東南東の風-二ノツト、なお上り乗客は一一名』と送信した。すると『大阪の気象を調べておいてもらいたい』と送信して来たので『了解』と送信した」と供述し(供述調書記録四七七丁以下)ているところに徴すると、地ノ島通過時刻は、午前八時三九分であることが認められる。衝突時刻が午前八時五六分頃であることは、森都司作成の兵庫県警察本部科学検査所長宛鑑定報告書中「本件飛行機搭載の航空時計の停止時刻は午前八時五六分一七秒であることが確認された」旨の記載により明らかである。

次に、本件事故機の当時における真対気速度および風向風速について検討するに、航空機の速度計は空気の動圧によつて速度を測定する機構となつているのであつて、当然空気密度によつて誤差を生ずるから、真対気速度を知るためには、計器に現われる計器速度に高度および気温によつて定まる修正値を加える必要がある。そして、本件事故機の計器速度は時速一一〇マイルであり、これに友ケ島通過当時の高度約五〇〇フイート、変針後の高度約四〇〇フイート、由良の気温摂氏一六度を計算に入れると本機の真対気速度は毎時一一〇マイルである。野口剛は、検察官に対し、「本件事故機は、高度約二、〇〇〇フイート、巡航速度、時速一一〇マイルであつた。友ケ島の近くまで飛んだ頃に海上を見る様子をしていた清水機長が、私に『えらい南風が吹いているな』といつたので、右下の海面をみると、視野にはいる海面の六、七〇パーセントくらいに白波が立つており波頭が南に倒れていた。波頭は風上に倒れるので、私は南風が吹いていることを知つた。そして白波の立つている状態から風速は八ノツトないし一〇ノツトくらいであると思つた。飛行機が友ケ島上空にさしかかつた頃には、前方の視程は精々二マイルくらいになつていた。右側の視程は一マイルくらい、左側は三マイル以上であつたと思う。和歌山の下津の石油タンクがぼんやりであつたが見えていた。飛行機が友ケ島の二つの島のうち東側の島(地ノ島)の中央上空を通過した際の高度は五、六〇〇フイートくらいに下つていた。それは前方に垂れ下つている層雲の中にはいらないために徐々に高度を下げたものである。私は飛行機が友ケ島の上空を通過してから、清水機長に対し合図をしたうえで、A・D・Fの周波数を徳島ホーマーの周波数に合わせてボリユームを上げると、徳島ホーマーのコールサイン(T・S)がはいつて来た。清水機長も聞いているはずであるが、それから私はV・H・F(超短波)で会社の徳島営業所と交信した(中略)。私がかように徳島営業所と交信したのは、午前八時四〇分前後の一分間であつた。この時飛行時計をみたので大体の時刻を記憶する。私が徳島営業所と交信を終つた際には、飛行機は三〇度の角度で右旋回中であつた。それで私は、運航補助者席の右側の窓を開けて外を見たところ、右下の海面が見えただけで、左斜前方はほとんど見えなかつた。海面には白波が立つていたが、どの程度の白波が立つていたか記憶しない。高度計をみたところ、針は四〇〇フイートを指していた。飛行機は何時の間にか四〇〇フイートに高度を下げていたのである。これは会社の運航規程や航空法の最低安全高度を下まわるのであるが、所定の高度を保てば層雲中にはいる危険があつたからである。しかし、この層雲は近づくと雲の端がどこであるかはつきりわからない。そのうえ当時は小雨が機の風防ガラスに当つて水玉を作つていた。飛行機の場合は三六〇度を二分間で旋回するのが標準旋回であるが、その時は九〇度までは旋回していないから、三〇秒以内には旋回を終了している。私は、飛行機が旋回を終つたので、前方の海面を見ようと中腰になつて見ると、斜面方一〇〇メートルくらいまでの海面が見えたが、機の右側は翼端が見えるだけであつた。私は、少しでも早く沼島をみつけようと思い、右側の窓を開け放したままにしておいて、右の方を見たり、中腰になつて斜前方の海面を見たりして沼島を捜した。しかし沼島は見つからず、その中に何時の間にか飛行機は層雲中にはいつてしまい海面も見えなくなつた。私としては、清水機長が沼島の上を飛ぶコースをとつていると思つていたので、このままでは沼島に衝突する危険があると思つて、清水機長に『四〇〇フイートじや沼島を越えられないだろう』と言つた。当時、私には南風の影響を受けて機が北に流されているだろうかという考えは浮ばなかつた。清水機長は、うなづいて、高度を九〇〇フイートに上げた。私は高度計の針を見て確認している。その標準上昇率は一分間に五〇〇フイートになつているので、私は、九〇〇フイートに上昇するまで一分くらいしか、かかつていないと思う。飛行機は九〇〇フイートまで上昇すると水平飛行に移るので、私は沼島の発見に一生懸命でしたが、その中に飛行機は輸鶴羽山に衝突炎上した」旨供述し(昭和三八年六月六日附供述調書、記録二四一七丁以下)、右供述は、関係証拠に比照して十分信用することができるのであつて、本件事故機の当時の真対気速度は毎時一一〇マイルであり、その高度は四〇〇フイートないし九〇〇フイートであつたことが明らかである。そして、当日午前九時現在において淡路島由良町生石山(標高一〇四メートル、観測マストの高さ二五メートル)において、南南西一六メートル(三二ノツト、海上自衛隊淡路警備所長作成の捜査関係事項に関する回答書、記録三四六、三四七丁)、徳島航空基地において、北北東、九ノツト(海上自衛隊第三航空群司令部二等海佐久保山秀夫作成の報告書および添付の天気図、記録三四三、三四四丁)、洲本において、南南西、六メートル(一二ノツト、洲本測候所長作成の気象資料送付回答書、記録三二二、三二三丁)、和歌山において、南、五・九メートル(一一・八ノツト)、徳島測候所において、北北西、三メートル(六ノツト、三原警察署長の電話回答書、記録三一二、三一三丁)の風があり、野口剛は、本件事故機の旋回点附近では、風があり海面には白波が立つていた(前掲検察官に対する供述調書)というのであるが、被告人は、原審第一四回公判廷において、「淡輪附近にかかつた時、飛行機が若干ゆれだしてきたので、風が出たと判断し、波頭と視界の二〇ないし三〇パーセントの白波によつて、南の風で風速一〇ないし二〇ノツトと思つたこと、予定では、まつすぐ友ケ島に出て沼島を標定して徳島にはいることになつていたが、前方視界がよくないので左側にある海岸線を目視し、これに沿つて南下し、右側の淡路由良方面および沼島方面は層雲が低くたれこめているに反し、左側の和歌山方面は明るくてガスタンクが見えるくらいであつたので、進路を変え、明るい方へ一八〇度の方向をとり高度を下げながら約一分くらい飛び、大体和歌ポイントの線上に来たように思つたので、徳島の方向に変針した。友ケ島上空では、まだ若干白波を見たように思う。その風速は一〇ないし二〇ノツトの中間で大体一五ノツト程度と思つた」旨供述し(記録一八三二丁)、原審第一九回公判廷において「淡輪上空で飛行機が上下左右に動き風が強いということがわかつたが、変針点で海面を見た時には、飛行機もゆれず白波も見えなかつたので、無風と判断して南風の影響を考慮しなかつた」と供述し(記録二〇五四丁)、検察官に対し「私は、雲のすぐ下を縫うようにして三、四分飛んだ際には、海面には白波を見なかつたと記憶する。そしてA・D・Fの針は偏流があれば、プラスかマイナスかどちらか一方に振れるのに、プラス、マイナス各五度以内振れただけであるから、偏流はないものと判断した」と供述し(検察官に対する昭和三八年六月一九日附供述調書、記録一七八八丁)、更に、当審第一〇回公判廷において、裁判長の問に対して、「南風は淡輪附近で認めていたが、変針点附近では無風と考えていた、しかし南風が吹いていることは、最初認めているから頭からなかつたわけではないが、変針点で風がないので風を修正する根拠は何もないと思う。淡路島に当つたのは、思わん風があつて流されたためと思う。衝突する前のA・D・Fは一〇ないし一五度の半円を指していた。思いがけない風が吹くと、A・D・Fの針は動くはずであるが、針の動きは余り変らなかつた。動いてもおそらく五度か一〇度ぐらいで、偏流に流されておるほど動いていなかつた」旨供述し(記録四二四八丁以下)、変針点においては無風であり、その後においても、A・D・Fの振れ工合から風がなかつたと判断したと述べている。しかし、当審における鑑定人山田直勝作成の鑑定書および同人の当審公判廷における供述を総合すると、「昭和三八年五月一日午前九時の天気図には、千島南方洋上から南西にのびて関東地方、中部地方南部、紀伊水道附近、四国地方、九州の南岸部を経て華南に達する不連続線が表示され、これはモンゴル人民共和国に中心を持つ大陸高気圧(一、〇二七ミリバール)と本州東方洋上の太平洋高気圧(一、〇二四ミリバール)の間にできた前線で、全般的には密度の小さい太平洋高気圧の方、すなわち、南東に進んでいるので寒冷前線であつたこと、線上の本州附近は低圧部となつており、部分的には太平洋高気圧の勢力がやや勝つているところもあつて、中部地方と四国地方には波動性の弱い低気圧が形成され、この波動性低気圧の前面(東側)では、温暖前線の様相を呈していたところもあつたこと、当時、徳島気象台、北北西風-六ノツト、海上自衛隊徳島航空基地、北北東風-九ノツト、海上自衛隊淡路警備所(由良町)、南南西風-三二ノツト、洲本測候所、南南西風-一二ノツト、和歌山地方気象台、南風-一二ノツトと割合近距離にある土地の風の観測結果が極端に異る数値を示している点と、右不連続線の影響との関係については、当時、淡路島附近に前線が存在していたことは明らかであつて、その位置は徳島の南、洲本の北にあつたこと、従つて前線は徳島のやや南から北東にのび淡路島南部を通り洲本の北を経て大阪湾を北東に抜けたものと考えられること、この前線を境にして徳島と由良とでは僅か四〇数キロメートルの近距離にもかかわらず、一方は北北東ないし北北西、他方は南ないし南南西という正反対に近い風向の相違のあるのは右前線の影響であることは間違いないこと、風速については、総括的に見て、この前線の北西側は一〇ノツト以下であるのに対し、南東側は一〇ノツト以上となつていることに徴し、ペクトル合成風の数値から計算すると、本件空域での風向は南ないし南南西であり、風速は、七・三ないし一九・四ノツトであつて、平均値は、一三・四ノツトであるか(この数値算定の根拠には由良の三二ノツトを含む。)、一般に陸上に比較して海上では風に対する抵抗が少いために一・五ないし二倍ぐらいの風速になるといわれていること、海面から五〇〇ないし九〇〇フイートの上空にあつたことなどを考慮すると、当時淡路島附近南海上空域の風は、南ないし南南西、一一ないし一五ノツトから二九ないし三九ノツトの間にあつて平均値は二〇ないし二七ノツトになること、後記のように由良の三二ノツトの異常強風の局地性からみて附近一帯の標準にはしがたいところから、当時の附近一帯の空域における風は二〇ノツト近く吹いていたものと考えてよいこと、一般論として前線附近では、局地的に風向変化が起つたり強風が吹いたりする可能性があり、当時の淡路島南海上四〇〇フイートないし九〇〇フイートの上空を考えて見た場合、風向は紀伊水道に収れんして吹き集るような南寄りであつたこと、前線の近傍であつて前線の影響を受け易い空域であつたことなどを総合して、局地的強風の起りうる可能性のあつたことは考えられるであろうけれども、由良がとくに強く南南西三二ノツトであつたからといつて異常強風の局地性から考えて、その附近一帯がこれに近いか、または、これ以上の強風域でなくてならないとはいえない。」ということになる。もつとも、同鑑定人は「由良だけがとくに強い風が吹いているという点に関しては、単に前線の影響というだけの説明では不充分であろう。なお、一般気象業務では、風速について一〇分間平均をとるのに対し、航空気象業務では一分間平均をとつている」として、前記淡路警備所の観測に多少の疑をはさみながら、鑑定の資料に入れているのであつて、また、同観測地点が標高一〇四メートルの山上であることから考えて他の測候所の地上観測値と同視するわけにいかないが、由良が本件事故発生地に最も近いから判断の資料に供する次第である。以上に徴すると、本件事故当日は、寒冷前線が南東に移動していて、午前九時頃には淡路島附近に前線があり、徳島のやや南から北東にのび、淡路島南部を通り、洲本の北を経て大阪湾を北東に抜けており、前線の南東側では、北西側に比べて強い風が吹いていたから、淡路島南方海上の四〇〇ないし九〇〇フイートの空域において、局地的強風の起りうる可能性のあつたことは考えられても、所論のように変針点附近では無風であり、三、四分後雲中に突入してから急に四〇ないし五〇ノツトの局地的な異常強風が南方から現実に吹いていたことを認定するに足りる何らの証拠がないのみならず、由良において三二ノツトの強風があつたから、本件附近一帯が三二ノツトないしそれ以上の強風が吹いていたと断じ得られないことも前記認定のとおりであり、結局、二〇ノツト近い風が南ないし南南西から吹いていたものといわなければならない。従つて、原判決が「平均約一八ノツトの南風」と認定しているのは相当であつて、この点に関して原判決には、なんらの事実誤認はないから所論は採用しがたい。

控訴趣意第一事実誤認の主張中第五点について。

所論第五点は、原判決の変針点に関する事実の誤認をいい、原判決は「午前八時三九分頃、友ケ島の地ノ島上空に達し、徳島方面への通常の変針点である同島上空で変針せず磁方位一八〇度の方向に機首を向け、約一分間南下し、同所において、徳島無指向性無線標識施設の周波数に合わせていた自動方向探知機の指針が零度を示すように変針して磁方位二五〇度の方向に機首を向け」たと認定しているけれども、まず、変針は何を基準にして行つたか、変針点はどこか、それらの適否、変針後の針路選定の適否等について具体的な判断を示していない。次に、被告人は和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線に乗ることを意図し、そのため変針にあたつて、和歌山の見え方を基準としたのであつて、その時間を後から考えてみると一分間ぐらいであつたというのであり、その記憶は必ずしも正確ではなく、約一分間南下した地点で変針したという原判決の認定は誤つている。被告人は、地ノ島を通過し、和歌山市が左真横に見える地点(当審第一回検証調書附図B点)まで南下したのであつて、地ノ島通過後変針開始までの時間は一分間でなくて二分三〇秒であるから、変針開始時刻が午前八時四〇分というのは誤であり、変針終了時刻は午前八時四五分である。更に、原判決は、「徳島無指向性無線標識施設の周波数に合わせていた自動方向探知機の指針が零度を示すように変針して磁方位二五〇度の方向に機首を向け」と判示しているが、被告人がインバウンドした後の磁方位二五〇度と供述しているのは二六〇度の誤であつて、被告人は、インバウンド後二六〇度の方位を確認することによつて、機位が和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線のやや北にあることを知り、右コースは沼島のやや北方を通ることになるので針路を沼島の南方を通過するように二五〇度と定めたものである、従つて、本件事故機の変針点は、徳島ホーマーから真方位七四度の線と地ノ島の中央から真方位一七四度の線との交点をTとした場合、変針開始点は、T点から真方位三五四度の方向約〇・六マイルの地点であり、変針終了点は、T点から真方位二五四度の方向約〇・六マイルの地点(北緯三四度一四分三〇秒、東径一三五度二分三〇秒、和歌山港西北西約九キロ)である、と主張するから、判断する。

そこで、まず変針点の決め方について、被告人の供述の経過をみると、司法警察員に対し、事故当日である五月一日「友ケ島を通過して約一分くらいして、一八〇度くらいの方向で、高度五〇〇フイートで飛び、徳島へ向け二五〇度でインバウンドした。これでは、沼島を通るコースになり、沼島は高度五〇〇フイートでは危いので、高度九〇〇フイートに上げた。時間は八時四〇分くらいであつた」旨供述し(記録二四五四丁)、同月二日には、「友ケ島上空から約一分くらい南下し、徳島と和歌ポイントを結ぶ線附近までさしかかつた時、高度二、〇〇〇フイートであつたのを徐々に五〇〇フイートに下げ、それから一八〇度の方向を二五〇度の方向に変更した。そのコースで沼島の南方海上の上空を飛行することになると思つた。(中略)それが淡路島に激突したのは、私が変針した地点が私の考えている地点より五キロ余り北であつたという判断の誤か、または南風のために機が北に流されてコースが狂つたのかもわからない」と供述し(記録一六一四丁以下)、意識的に二五〇度の方向に変針したように言つていたが、同月六日には、「私が友ケ島から一八〇度の方向に飛んで徳島の方に機首を向け、方向変換をしたのは、大体、信太山ホーマーから二二一度の方向の線と徳島ホーマーから八四度の方向の線とが交わる点を和歌ポイントと呼んでおり、その和歌ポイントと徳島を結ぶ線の附近まで南下していると思つたので、徳島の方向に機首を向けてみて計器ではつきりした方向をつかもうとして、一八〇度の機首を自動方向探知器が零を指すように向けたところ、定針儀が二五〇度を指した。自動方向探知器は淡輪沖上空附近で、徳島ホーマーに切り替えていたが、機首を徳島の方に向けたとき針が零に向つて動いたのを見ているので、故障なく作動していたことに間違いない。その時、定針儀、羅針盤共に二五〇度を指しているのを確認し、私としては、徳島ホーマーから七〇度の線上にあり、この線を直進すれば、沼島の南方海上上空を通り、徳島の松茂飛行場北端に出られると判断した」旨(記録一六四一丁以下)供述し、同月一〇日にも同趣旨の供述をし、機首を徳島ホーマーに向けA・D・Fの針が零度を指した時、定針儀および羅針盤ともに二五〇度を指していたと供述を変更し、更に、同月二〇日、「友ケ島上空を越え、私の感じで約一分間磁気コンパスが一八〇度をさす方向に飛んだが、当時南風が吹いていたので、仮りにそれを一五ノット(秒速七・五メートル)とすると、計器速度一一〇マイル(一七六キロ)から風速を引く必要があり、巡航で一分間飛んで二、九一六メートル進むところを、二、四六四メートルしか飛ばなかつたことになる。真方位と磁方位との間には五度五〇分の偏差があるが、私は、この偏差や風速を頭に置かず、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線の附近まで南下したと思い徳島ホーマーにインバウンドしてまつすぐ飛べば沼島の南側上空を飛ぶことになると考えた。和歌ポイントは、大体、和歌山市の国鉄和歌山駅北東附近にあると記憶する。和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線附近に来ただろうと判断したのは、和歌山から下津の方にかけて視野がよかつたので、和歌山方面は見たけれども、注意力の七〇パーセントくらいが西側の雲の方に注がれていたため、ほとんどが勘によつたわけである。この時、A・D・Fは徳島にセットしてあつたが、正しく作動していることはホーマーの切替つど確認していた。A・D・Fの針が零度を指すようにインバウンドして見ようと思い飛行機を右に二七、八度から三〇度かたむけ、A・D・Fの針が零度を指すまで右に旋回した。A・D・Fが零度を指した時には、旋回を停止しており、定針儀を見ると二五〇度をさしており、すぐに磁気コンパスをチエツクすると二五〇度をさしていた。この時、定針儀と磁気コンパスの指度は合つていたが、あと短時間に誤差を生じないように、定針儀の下についている『つまみ』を押して引つぱる操作をした。インバウンド後の定針儀の指度が二五〇度であることを確認した時、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線より北でインバウンドしたということを感じたが、その角度で徳島に直進しても沼島の南を通るだろうと思つていた。(この時警察官は、百万分の一の航空図を被告人に示しプロツターを使用して針路を記入させた)、今まで申し上げてきた針路を線に引いてみると誤つていたことがわかつた。それは磁気コンパスの偏差を忘れ、かつ、インバウンドの地点と角度に思い違いがあつたのである。友ケ島の地ノ島中央上空から磁気コンパスが一八〇度を示す方向に飛んだので真南を飛んでいたと思つていたが、磁気コンパスの自差がなかつたものとすれば、偏差が五度五〇分あるから、飛行機は真方位一七四度一〇分の方向に飛んでいたわけである。私は偏差を頭に入れていなかつたから、飛行機は、私の思つた方向より五度五〇分東よりに飛んでいたと思われる。次にA・D・Fの針が零度を指すところまで右旋回し磁気コンパスが二五〇度を指したので、これも偏差のあることに気づかず二五〇度が真方位と思つていたのである。(中略)計器に現われていたままのA・D・F零度磁気コンパス二五〇度で線を引くと友ケ島の少し南から沼島と淡路島の中間を通つて徳島の飛行場に進入するコースになる。当日は南風もあつたのでその影響を受けて、インバウンドした地点が友ケ島から磁方位一八〇度の線と徳島から磁方位七〇度の線が交わる点から、少し北の方になり、それから徳島に直線コースを飛んでいた可能性が強いと思う。私が予想したコースと実際に飛んだと思われるコースに約三キロメートル余の開きがあるわけで、このような開きが生じたのは私の判断の誤りであつて、この誤りは飛行機に搭載してあつた航空図とプロツターを使つて安全なコースを決定することができたのにかかわらず、これをしなかつたことになる」旨供述し(昭和三八年五月二〇日附供述調書、記録一六七二丁以下)、更に同年六月二一日には「友ケ島から約一分間南方に磁方位一八〇度に飛んだことは間違いない。これを前提にして徳島ホーマーから七〇度の赤線を引いた場合、磁気コンパスが二五〇度を指していたのであるから、友ケ島から約一分間飛んだと仮定した地点から線を引く場合、真方位の地図上には偏差六度を引いた二四四度の線を引けば、それが磁気コンパスが二五〇度を指していた場合の航跡ということになる。ここでA・D・Fが零度を指していたとすると、A・D・Fに六度の誤差があつたといえる。またA・D・Fが全く誤差がなく正しく指示していた場合、飛行機の航跡は航空図(昭和三八年六月七日附検察官に対する供述調書添付の地図)に赤線で指した線上ということになり、磁気コンパスは二五六度を指さなければならないのに二五〇度を指していたのだから六度の自差があつたといえる。(中略)、私が和歌ポイントと徳島ホーマーを結ぶ線附近に到達したと判断して飛行機を徳島の方に向けてインバウンドした際の判断の点は、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線に到達したということを確認するには、A・D・Fを徳島ホーマーにセツトして磁方位一八〇度に飛んでいたのであるから、A・D・Fが八六度を指すまで飛べば、それで確認ができるのであるが、私は有視界飛行方式による飛行をしていたのであるから、A・D・Fを徳島ホーマーにセツトしたものの、それを判断の基準と考えずに、目で左の方に見える和歌山市の市街地を見て判断したのであつて、その時、確か和歌山市は飛行機の真横に見えたのではなく、左斜前に見えたので、もう和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線の附近に来たと判断した。和歌ポイントは和歌山市内の国鉄和歌山駅附近にあるから、少くとも和歌山市の市街を真横に見えるくらいまで南下する必要があつたと思う」旨供述し(昭和三八年六月二一日附供述調書記録一七〇五丁以下)、更に、被告人は検察官に対し、「飛行機が友ケ島の二つの島のうち東側の島(地ノ島)の上空を通過した際、右側は視程二、三マイル、左側は下津の石油タンクがはつきり見えるくらい視程がよかつた。飛行視程二〇マイルくらいあつたと思う。機首を前方の視程の明るい方向に向けて一分間くらい飛んだが、従来のように高度二、〇〇〇フイートで飛んだのでは、雲の中にはいつてしまうと思い、高度を徐々に下げて五〇〇フイートくらいにした。定針儀は一八〇度を指していた。A・D・Fの針が当時四五度以上をさしていたが、はつきり何度であつたかは記憶がない。島の中央上空を通過して一分間くらい飛んだあたりで、飛行機が和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線あたりまで来たと思つた。和歌ポイントというのは、信太ホーマーから磁方位二二一度の線と徳島ホーマーから磁方位八六度の線が交わる地点の上空であつて、航空用語では、ノンコンパルソリー・リポーテイング・ポイントと呼ばれ、計器飛行方式で飛ぶ場合、管制塔の求めにより位置通報若しくは通過報告をする地点である。私はそこで右旋回して、A・D・Fの針が零度を指すように徳島ホーマーに機首を向けた。その時定針儀の目盛が二五〇度を指し、磁気コンパスも二五〇度を指しているのを見て沼島の南側の上空を飛ぶと思つた」旨供述し(昭和三八年五月二九日附供述調書、記録一七五二丁以下)、更に、「地ノ島上空を通過して最も明るい方向に巡航速度一一〇マイルで、一分間くらい飛んでから、A・D・Fの針が零度を指すように徳島ホーマーに機首を向けた際に羅針盤の針が二五〇度を指しているのを見て、自分では和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線まで来たと思つて転針したのであるが、それは間違いで右線より北で転針していることを知つた。これは、右徳島ホーマーが和歌ポイントから磁方位二六〇度の方向にあることを平素から知つていたからである。しかし、私が思つていた位置よりどのくらい北で転針しているのかわからなかつた。これを明らかにしようと思えば、航空計算盤を使用し一〇分くらいかからないと計算できないし、有視界飛行方式で飛んでいたからかような計算の必要がなかつたからである」旨供述し(昭和三八年六月七日附供述調書、記録一七七五丁以下)、原審第一四回公判廷において、「A・D・Fは運航補助者の野口剛にテストしてもらい、正常に作動することを確めた、友ケ島上空を過ぎ明るい方へ一八〇度の方向をとり高度を下げながら飛び、大体和歌ポイントの線上に来たように思つたので徳島の方向に転針した。その間約一分と思う。時計でははかつていないから正確な数字ではない」と述べ(記録一八三八丁)、また、原審第一九回公判廷において、「変針点を判断したのは、飛行した方位と私が身に感じた時間で約一分間くらいのところであるが、変針する時和歌山市の山が見えていた。田倉崎および鉢巻山附近が見えていた。一八〇度から二五〇度に変針するのに半円で進んで二マイルないし三マイルの視程で二〇秒ないし二五秒かかる。友ケ島上空から一八〇度、一分間飛行してその地点から二五〇度変針したら作図上は沼島の北側を通過することになる。徳島ホーマーと和歌ポイントとを結ぶ線は鉢巻山より遙か南を通つていることは知つているが、相当な高度で飛ぶとその線の北も南も大して変りないように見える。地図で見ると鉢巻山と和歌山市は距離があるが、実際に上空から見ると和歌山市も山もすぐ近くに見える」旨供述し(原審第一九回公判調書記録二〇五四丁以下)ているのであつて、捜査段階から原審公判廷を通じて、被告人は、地ノ島中央上空を高度五〇〇フイートで通過後約一分間南下し、その地点から、徳島ホーマーに向けてA・D・Fの指度零度、羅針盤定針儀各磁方位二五〇度にセツトして変針したのであり、変針の時、田倉崎ならびに鉢巻山が見え、和歌山市は左斜前方に見えていたと供述しているのであるが、被告人は、当審公判廷において、「徳島ホーマーは和歌ポイントから磁方位二六四度であるから、まずA・D・Fを零度にして徳島ホーマーに向けたところ磁方位二六〇度を指したので、和歌山ポイント徳島ラインよりも多少北に寄つていると思い針路を磁方位二五〇度にした。変針点では風は認めなかつたが、淡輪あたりでがぶつたので南風一〇ないし二〇ノツトあると考えた。それと淡路の山なみは何時も飛んでいるのであるから大体二五〇度の方向にあるのを知つているので、それに平行して飛べば安全だと考えた」と供述し(当審第九回公判調書記録四一四四丁以下)、また「針路の修正は最初からせずに磁方位二五〇度で飛んだ。淡路の南端の方向が二五〇度だからそれに平行するつもりで飛んだ。南風は淡輪附近で認めていたが変針点附近は無風と判断した。二六〇度を二五〇度に変えたのは、最初の風も関係しているが、淡路の南端の山脈と平行に飛ぶ方がより有利だと思つたからである。南風が吹いていることは、最初認めているので頭からなかつたわけではないが、変針点で風がないので、風を修正する根拠は何もないと思う」旨供述し(当審第一〇回公判調書記録四二四八丁以下)て、磁方位二六〇度で変針したが多少北に寄つていると思い針路を二五〇度にした旨、捜査段階及び原審公判廷における供述を変更しているのであるけれども、当審における第一回検証の結果(記録二一九〇丁以下)に徴すると、原審認定の磁方位一八〇度の方向に高度五〇〇フイートで南下し地ノ島通過後一分の地点(A点)からの和歌山市街の見え方は、進行方向から二〇度ないし二五度くらいの左斜前方に認められ(検証調書添付の写真(17)、(26)参照)、被告人の指示する変針点(B点)から和歌山市街の見え方は、ほぼ直角に東方、すなわち真横に認められ(検証調書添付の写真(8) ないし(10)、(33)ないし(37))、地ノ島通過後変針時までの所要時間は二分四五秒であり、当審証人高橋義郎の供述(記録二九五四丁以下)、当審証人亀山忠直の供述(記録四一八一丁以下)によれば、変針点を被告人の主張するB点とすれば、そこから衝突地点まで磁方位二七七度の方向となり、針路を二五〇度にとりながら衝突地点に至るには、四五ノツト以上の猛風に吹き流されなければならないが、さような風があつたことを認めがたいことは、前段認定のとおりであるから、被告人の捜査段階および原審公判廷における供述の方が合理的であり、かつ、関係証拠と対比し措信するに足り、当審における供述は信用できがたい。次に、地ノ島通過後変針開始までの時間および変針終了時刻について考察すると、前掲中西忠司の検察官(記録四七七丁以下)、野口剛の司法警察員(記録二三七三丁以下)に対する各供述調書によれば、本件事故当日中西忠司が、本件事故機と交信した時刻は、午前八時三九分頃であり、野口剛は、地ノ島上空辺で、清水機長が飛行時計を指さし時刻を確認しているのを見て徳島へ機首を向けインバウンドするための秒読みと察し、A・D・Fの周波数を徳島ホーマーの周波数に切り替え、ボリユームを上げコールサインがはいつたのですぐに徳島営業所と交信しているのであり、その時刻は、午前八時四〇分前後の一分間であつて、この時刻は飛時時計を見たから記憶があるといい、徳島営業所と交信を終つたころには、飛行機は三〇度の角度で徳島へ向けて右旋回中であつたというのであるから、地ノ島通過後、変針開始点(A点)までの飛行時間は、前掲被告人も自認しているように、約一分間であつたことが明らかである。変針終了点(C点)は、飛行機の標準旋回時間は三六〇度旋回して二分間であるが、前掲証拠によれば、被告人は、一八〇度から二五〇度に右旋回したというのであるから七〇度旋回したことになり、六〇度ないし七〇度の旋回時間は、二〇秒ないし二三秒であることは計算上明らかである。そうすると、被告人の操縦する本件飛行機の旋回終了時刻は午前八時四〇分二〇秒であると断ずるの外はない。従つて、当審証人野口剛は、地ノ島通過後においてA・D・Fの切替と徳島との交信をし、その所要時間は、三分間ぐらいかかるので、地ノ島通過後変針点まで約三分を要したと供述し(昭和四二年七月二五日証人尋問調書、記録二八三〇丁以下)ているけれども信用しがたい。そして、原審証人深見和雄の供述(添付図面を含む)中、「時速一一〇マイルの飛行機が磁方位一八〇度で地ノ島上空を通過して一分間南下して到達した地点は、無風の場合では、地ノ島上空から一・八マイル(約二・八九キロメートル)である。そして、地ノ島から、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線までの距離は四・六マイル(約七・四〇キロメートル)であるから、右同一条件下における所要時間は二分三〇秒である。しかし、秒速九メートル(一八ノツト)の南からの向い風があるとすれば、地ノ島上空から、右和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線に到達するに要する時間は三分一〇秒である。和歌ポイントは、信太ホーマーから磁方位二二一度の線と徳島ホーマーから八四度の線との交点であるから、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線は、磁方位二六四度の線であつて、沼島の上空を通る。磁方位一八〇度で、地ノ島から一分間南下した地点で磁方位二五〇度に変針した場合の航跡は、淡路島と沼島との間、沼島の北端近くを通つて、右和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線に達するが、時速一八ノツトの南風が横から吹いた場合には、偏流は一〇度で、対地速度は時速一〇三マイルに減殺されることになり、二五〇度の磁方位は、その北方の磁方位二六〇度の線に流され、変針点から約一〇分で本件衝突地点に達することになる」旨の供述(原審第一一回公判調書、記録一、四五一丁以下)を基礎にして、前認定のとおり本件事故地附近に二〇ノツトの南風が吹いた場合の変針点を考察すると、地ノ島から和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線に到達するまでの所要時間は約三分三〇秒であり、地ノ島から一分間南進した地点は約一・四マイル(約二・二四キロメートル)となる。当審証人高橋義郎証人尋問調書(添付図面を含む)中「地ノ島から一分南下した変針開始点(A点)から変針終了地点(C´点)にいたりそこで二五〇度に変針すると、無風の場合であれば沼島の北端を通ることになるが、磁方位一八〇度から一八ノツトの風が吹いていたとすれば、磁方位二六二度で衝突地点に達する。地ノ島から二分三〇秒南下したB点で変針開始し、C″点で変針終了したとして、そこから二五〇度の線を引くと、沼島の南方海上三キロメートルを通ることになるが、衝突地点は、右のC″点から磁方位二七七度にあるから、衝突地点に達するには二一〇度の方向すなわち南南西および南西との中間から秒速五〇ノツトの風が吹いたことになる」旨の記載(記録二九五四丁以下)および本件事故機が雲中にはいつてから突如として、局地的に右のような異常強風が吹いたという証拠もないことを総合すると、変針点は、地ノ島から磁方位一八〇度線上約一・四マイル南方で、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線から約三・二マイル(約五・一二キロメートル)北方の地点であり、地文上、田倉崎ならびに鉢巻山の西北方で、和歌山市街を左斜前方に見通せる位置に当る、これを前掲地図上で判断すると、北緯三四度一六分、東経一三五度三分の地点であると断じなければならない。所論は、被告人が和歌ポイントと徳島ホーマーを結ぶ線を基準として、和歌山市街が左真横に見える地点によつて変針点を決定したもので、その変針点は、北緯三四度一四分三〇秒、東経一三五度二分三〇秒の地点であり、地ノ島から約二分三〇秒経過後変針を開始し、変針終了時刻は午前八時四五分であると主張するけれども、前段認定に徴し、不合理であつて首肯できない。以上の次第で、所論は採用の限りではない。

控訴趣意第一、事実誤認の主張中第三点および同第二、法令適用の誤の主張中第六点について。

所論は、その第三点において、原判決には、視界不良の場合における緊急着陸の内容につき事実の誤認があるといい、原判決は大阪国際空港に緊急事態による着陸が可能であつたとし、また、帰投途中有視界気象状態を維持して飛行することが困難な場合には、同空港管制塔に通報してレーダーによる誘導等の非常措置を受け、その指示に従いながら安全に着陸することができたというけれども、被告人は、上級事業用操縦士としてその技量は、一般的計器飛行は十分可能であるが、G・C・A着陸の訓練は不十分な段階にあつて、原判示のように、レーダーによる誘導等の非常措置を受け、管制塔の指示に従いながら安全に着陸することは期待できなかつたものであると主張し、その第六点において、原判決には、変針決意に関する過失について注意義務の誤解があるといい、原判決は、「沼島、徳島方面に変針すれば、間もなく層雲中に突入して、視界を全く失い、飛行機の現在位置および飛行方向を適確に判断することが極めて困難となる。淡輪西方海上附近および友ケ島上空で認めた海面の白波の状態から一〇ノツトないし二〇ノツトの南風があると判断した以上、友ケ島方面から沼島への飛行径路を含めた附近一帯にわたつて同程度の強さの南風が吹いているであろうこと、したがつて、右偏流のため、被告人が想定した沼島附近上空を通過するときの飛行径路よりもかなり北方に流されながら飛行することになるであろうことは予知できた。したがつて、その結果淡路島南岸の山腹に衝突する危険が多大であることも予知できた。一方、大阪国際空港の地上視程はかなり不良であつたけれども、緊急状態による着陸は可能であつた。大阪湾東海岸はまだ比較的視界は良好であつたのであるから、大阪湾東海岸沿いに引き返し、有視界気象状態を維持して飛行することが困難な気象状態になるおそれがあつた場合には、大阪国際空港管制塔に対し緊急事態に立ち至つた旨の通報をしてレーダーによる誘導等の非常措置を受け管制塔の指示に従いながら引き返し安全に同空港に着陸すべきであつた」とするのであるが、層雲突破よりも引返しを選ぶべきであつたというためには、引き返す方が層雲突破よりも安全であり、少くとも引き返えせば、本件のような事故は確実に避けられたと言い得なければならないが、本件の場合、被告人は、通常の計器飛行については自信があつたけれども、G・C・A着陸の訓練はほとんど行つていなかつたりえ、大阪国際空港周辺では天候悪化によりG・C・Aを要求する飛行機は激増するであろうし、本機のような小型機で識別符号の発信装置もないものが地上のレーダーに識別してもらうことは困難であり、大阪国際空港に引き返すことは危険であつた、一方、被告人が変針前入手した情報は、大阪国際空港においては、特別有視界飛行による着陸すら困難な視程悪化を来たす程天候が悪化していたことと、徳島空港においては、視程天候ともに好条件であつたので、この場合、機長のとるべき方法として危険度は、大阪国際空港引返しによる障害の方が、雲中飛行による障害をはるかに越えるのであるから、原判決は、小さな危険を避けるために、大きな危険を犯すことを求めるのであつて、明らかに注意義務の解釈を誤つたものである。変針決意の時点において大きな危険を回避しようとした被告人の判断に誤はなく、本件事故は、後記予測を越えた偏流によつて招かれたもので被告人には責むべき過失はない、と主張するから、判断する。

本件アツター機は、有視界気象状態を維持しようとして行なう飛行の方法、いわゆる有視界飛行方式(Visual Flight Rules-V・F・Rと略称される)による飛行のみ許された航空機であり、航空法第二条第一三号は、有視界気象状態を「視程及び雲の状況を考慮して運輸省令で定める視界上良好な気象状態」と定義し、航空法施行規則第五条は、右有視界気象状態について、飛行視程を定め、航空機の水平上下所定範囲内に雲がないことを要求し、特に管制区および管制圏外の空域を地表または水面から二〇〇メートルを越えない高度で飛行する場合には、飛行視程が一、五〇〇メートル以上であり、航空機が雲から離れて飛行でき、かつ、操縦者が地表または水面を引き続き視認できなければならない旨定め、また、同規則第一七四条は、最低安全高度について地表面または水面から一五〇メートル以上と定めており、前記会社が所属航空機の航行の安全と併せて円滑な運航業務を推進するため、航空法第一二二条、第一〇四条により制定して運輸大臣の認可を得た運航規程中第二編航路規定は、さらに安全度を強化する目的をもつて、大阪、徳島間における最低安全高度を水上は二、〇〇〇フイート以上、陸上は地上の最も高い物件の上端から二、〇〇〇フイート以上、径路上の最低気象条件を友ケ島、沼島において雲高一、五〇〇フイート、視程三マイルと定めていたこと、通信については、航空法第六〇条、同施行規則第一四五条第一号別表第六は、電話送信機、同受信機を設備し、航行中いかなるときにおいても、航空交通管制の機関と連絡できることを条件とし、前記運航規程は、機長は飛行中常時会社専用無線により本社、白浜基地、徳島基地、大阪国際空港基地、串本基地の地上固定通信局と受信可能な空域および高度を飛行しなければならないと定めていたことが明らかである。そして、航空機の機長が前記の新規則に従う義務を有することはもちろんであるが、わが国における観測法の実態と地形の複雑さとは、天候の適確な予想を困難にしている点もあるので、乗客ならびに乗組員の生命、身体に対する現在の危難を避けるために絶対に必要な場合には、前記諸規則に従わないこともできるといわなければならない(国際民間航空条約附属書参照)。しかし、機長は、運航業務の円滑な遂行と同時に乗客や乗組員の生命の安全を守るべき重大な責務を負担しており、これらの者は生命の安全を機長に一任するほかないものであるから、機長たるものは、一般交通機関よりも、なお、一層慎重な運航態度を要求されるのであつて、緊急事態を理由として、前記航空法規や会社の運航規程に違反することが許されるのは、乗客や乗組員の生命身体に対する現在の危難を避けるために他に採り得べき合理的な方法がない場合に限られるといわなければならない。

そこで、まず、大阪と徳島における気象状況を比較してみると、当審証人矢田哲郎は、「昭和三八年五月一日当時、私は、大阪航空測候所予報課長であつたが、当日午前三時現在の天気図および大阪航空測候所長作成の『日東航空徳島便の墜落事故について』と題する書面添付の別紙第五の天気図(午前三時現在)、同第七の天気図(午前九時現在)から判断すると、千島の南の方から前線が関東、中部、近畿、四国、九州南部を縦断しており、その前線の中心の性質は、寒冷前線であるが、所々に低気圧が附随しているから、その低気圧の東側では一部温暖前線があつて、南東に移動している。午前九時では、中部地方の低気圧と四国西部の低気圧があり、淡路島の南東方、友ケ島、紀伊山脈の方に波動性の低気圧がかかつていた。この低気圧は楕円形のもので、長い方が二、三〇キロメートルくらいのものである。それを前線が結んでいる。午前九時現在の前線の位置は、徳島の南から淡路島南附近、大阪の少し南にある(中略)レーダー・エコー・スケツチだけでは、大阪で雨が降つていることは、はつきりするが、それ以外の所は各地の実測値からみるほかはない。そして、レーダー・エコーに映つていない南方部分については、九時の天気図によれば大阪よりは比較的いい天気になつているようであり、徳島の方もそういえると思う。(中略)大阪における気象状況については、前記の天気図によれば、午前七時では、雲は一、七〇〇フイート、約五〇〇メートルのところはスキヤタード、すなわち、雲の量が全天の10分の1から10分の5までであり、二、六〇〇フイート、約九〇〇メートルくらいはオーバーキヤスト、すなわち、雲の量が全天の10分の10、視程二マイル2分の1、弱々雨、低い霧、気圧一、〇一〇・六ミリバール、気温六二度華氏、露点温度六一度すなわち、空気の湿度が一度下れば露を結び始める、風は静穏、雲量10分の5、霧のため空の10分の1が見えない。視程のうち北方は四マイルであり、午前八時においては、空の状態は一部分が霧で隠ぺいされ、雲は三層観測される。第一層の雲の高さは八〇〇フイート、雲量はスキヤタード、第二層は、高さ一、四〇〇フイート、雲量ブロークン、すなわち10分の6ないし10分の9、第三層は、雲高二、五〇〇フイート、雲量はオーバーキヤスト、視程二マイル、天気は弱雨と霧、気圧一、〇一〇・七ミリバール、気温六二度華氏、露点六一度華氏、風静穏、部分雲量、第一層10分の2、第二層10分の7、第三層10分の10、霧は全体の10分の2、視程中南東方向は、一マイル4分の1である。午前九時においては、空の状態は一部分が霧で隠ぺいされ、雲が二層あり、第一層、雲高一、一〇〇フイート、雲量ブロークン、第二層雲高二、三〇〇フイート、雲量オーバーキヤスト、視程一マイル4分の1、天気弱雨と霧、気圧一、〇一〇・四ミリバール、気温六三度華氏、風静穏、部分雲量、第一層10分の7、第二層10分の10、霧は全体の10分の2、視程中南東方向は8分の7マイル、雲形は層雲である。徳島における気象状況については、午前七時、空の状態は雲が三層解測され、第一層、雲高一、〇〇〇フイート、雲量スキヤタード、第二層、雲高五、〇〇〇フイート、雲量ブロークン、視程八マイル、気圧一、〇一〇・一ミリバール、気温六五度華氏、露点六二度華氏、南風二〇ノツト、部分雲量は、第一層10分の2、第二層10分の8、第三層10分の5、午前八時、空の状態は、雲が三層観測され、第一層、雲高一、〇〇〇フイート、雲量スキヤタード、第二層、雲高三、〇〇〇フイート、雲量ブロークン、第三層、雲高七、〇〇〇フイート、雲量オーバーキヤスト、視程六マイル、天気雨(弱雨)、気圧一、〇一〇・四ミリバール、気温六五度華氏、露点六二度華氏、風東南東二ノツト、部分雲量、第一層10分の3、第二層10分の8、第三層10分の10、午前九時、空の状態は、雲が二層観測され、第一層、雲高一、〇〇〇フイート、雲量スキヤタード、第二層、二、五〇〇フイート、雲量オーバーキヤスト、視程五マイル、天気雨(微弱)、気圧一、〇一〇・二ミリバール、気温六四度華氏、露点六一度華氏、風北北東、九ノツト、部分雲雲は、第一層10分の1、第二層10分の10、全三時間の気圧変化量はプラス〇・六ミリバール(上昇後下降)、雲形層量、最低気温五九度華氏となつている。したがつて、午前七時から同八時にかけて、大阪の方は視程が二マイル2分の1、二マイルと落ちており、徳島の方も八マイルから六マイルに落ちているけれども、大阪の方が下の方で落ちているから、徳島の方が天気がよかつたということになる」旨供述し(第八回公判調書、記録三九八三丁)ており、これに斎藤将一の検察官に対する供述調書中「私は、大阪管区気象台管内の大阪航空測候所所長であるが、本件事故当日大阪国際空港における視程は、午前七時、地上水平二・五マイル、同八時二二分、同一・五マイル(南東8分の7マイル)、同九時一〇分、同8分の7マイル(南東2分の1マイル)と悪化し、その後、同九時三〇分、同一マイル(南西一・五マイル)、同九時四五分、同二・五マイル(南方一・五マイル)、同一〇時、同三マイルに回復した」旨の記載(記録三七八丁以下)を総合すると、大阪における気象状況は、次第に悪化し、午前八時における視程二マイルが、午前九時では、視程一・二五マイル、同九時一〇分には8分の7マイルに低下したのであるが、大阪国際空港における特別有視界飛行の最低気象条件の昼間視程は、航空局長の通達によれば一マイル、大阪国際空港における運用としては、一マイル半(原審証人本行泰彦の証言-記録九〇一丁以下、および航空局長辻章男昭和三四年一一月二四日特別有視界飛行承認実施要領に基く運用要領第一〇号特別有視界飛行承認実施細則-記録九三二丁以下)と指定されていたから、運用による最低の視程以下になつていた(ビロー・ウエザー・ミニマムまたはビロ・ミニマムー飛行場の視程ならびにシーリングに基づき判断した状態がその飛行場に許容されている発着許容基準に達していない。)ことが認められる一方、徳島においては、午前七時の視程八マイル、午前八時の視程六マイル、午前九時の視程五マイルであつて比較的に気象状態は良好であつたことが認められる。そして当審証人大阪管区気象台技術部観測課レーダー係長古郷恒彦の証言ならびに同人提出にかかる大阪管区気象台作成の昭和三八年五月一日のレーダー・エコー・スケツチ・シート写九枚(午前四時六分から同一一時五一分まで毎時間)によれば、大阪管区気象台レーダーは大阪市生野区勝山通九丁目にあるが、当日数十キロにわたる寒冷前線が午前四時頃から同八時頃にわたり北西から南東に移動し、同九時頃には、大阪気象台附近に降雨があり、電波の減衰により七、八〇キロ以遠の映像が現われていないことが認められるから、大阪附近における天気は不良であつたことが明らかである。そこで、被告人の操縦する本件事故機は、有視界飛行方式による飛行を続けて友ケ島の地ノ島上空を通過した際、進路西側は一帯に層雲におおわれ、淡路島はもとより目標とすべき沼島も全然見えない状態に遭遇したのであるが、本件の飛行機は有視界飛行方式による飛行のみ許されており、雲中飛行や高度二、〇〇〇フイート以下の低空飛行は禁じられていたことと、大阪国際空港も徳島空港もともに気象状態が悪化しつつあつたが、後者の方が前者よりも気象状態が良好であるという通信を受けていることと比較考慮し、被告人が飛行機操縦士として、大阪国際空港に引き返さず、層雲を突破して徳島空港への飛行を続けたことの当否について判断すると、原審証人田中誠三は、「私は、日東航空の操縦士であり、事故当日運航部長、飛行課長、同補佐各不在のため、私が運航指揮をしたのであるが、天候良好の時は洲本上空を経由して徳島にはいるコースをとるけれども、当日は、前線の接近にともない南風が吹いているだろうと思い洲本経由コースは気流が悪いことをおそれ友ケ島経由で行くように言い、私と清水の二人が天気図により天気の解析をした時、二人とも同意見であつた。本件アツター機出発前に、清水に対して途中の天候に気をつけて行け、悪かつたら遠慮なく引き返えすように言つた」旨供述し(原審第八回公判調書記録一一七九丁)、被告人は、司法警察職員に対し、「燃料は、燃料計によつて確認したが、中央タンク六〇ガロン、後部タンク四〇ガロン合計一〇〇ガロンあつたから、九人の乗客を乗せ二時間二〇分は飛行可能であり、大阪から徳島を往復し、大阪上空を一時間飛行することができる量であつた」と供述し(昭和三八年五月五日附供述調書、記録一六三三丁以下)、検察官に対し「有視界飛行方式で飛んでいる場合、同方式で飛べないような気象状態に遭遇したら、同方式で飛べる方向に迂回して飛び、それもできなければ引き返さなければならない。今回の場合は、前面には層雲が一杯にたれ下つて居り、左右には切れ目がなかつたので迂回しても雲の中にはいらないで飛ぶことができたかどうか分らんから、私としては引き返すべきであつた。当時、大阪国際空港も八尾飛行場も視程が一・五マイルであつたが、有視界飛行方式で飛ぶことができない気象状態に遭遇したことを通報して指示を求めたならば、大阪国際空港の管制塔としては着陸の承認を与えたと思う。もし何らかの理由で大阪国際空港もしくは八尾飛行場に着陸することの承認が得られなかつたとしても、西宮の新明和工業株式会社甲南工場の海面に着水することの承認は得られたと思う」旨供述し(昭和三八年六月一九日附供述調書、記録一七九一丁以下)、野口剛は検察官に対し、「現在では最低安全高度以下の四〇〇フイートで層雲の下を通り抜けようとして飛んだ際に、当然層雲の中にはいるかも知れないということを予測すべきであつたと考えるが、当時は左様なことは一向に思い至らず引き返そうという気は全く起らなかつた。これは徳島飛行場の気象が視程六マイルでよかつたため、ここさえ無事飛べたら、先は大丈夫だという気持があつたのと、慣れたコースであるのと、清水機長も私も計器飛行の資格を持つているので、両名とも雲の中にはいつても飛べるという横着な気持が心の中にあつたのではないかと反省している。当時、大阪国際空港の視程は一・五マイルであり、八尾飛行場の視程は二マイルであつて、引き返すとしても、両飛行場には、すぐに着陸できんが、管制塔に特別有視界飛行方式による着陸の許可を求めるとか、レーダーによる着陸の誘導を求めるとかすればよかつた。なお、かような方法で着陸できなければ、管制塔に報告して新明和工業甲南工場の海面に着水すればよかつたと思う。工場には飛行艇の格納庫があり、この海面から飛行艇が離着水しているからである」旨供述し(昭和三八年六月六日附供述調書、記録二四〇七丁以下)、原審証人寺坂功は、「私は事故当時日東航空株式会社運航部次長兼飛行第一課長であつたが、最低安全高度が維持できないとか、あるいは有視界気象状態で飛行することができなくなるおそれがあればもどれということは、日頃徹底して訓練していた。本件清水の場合、大阪国際空港の気象状態が相当悪化したということと、徳島空港の天候はかなりよいということを聞いていたので、引き返さないで徳島へ向つた方が安全と判断したと思うが、しかし、その時の自分の位置がはつきりわからなかつたのが事故の原因になると思うので、一番よい方法は、自分がだんだん気象状態が悪い中へ飛んで行くのを続けるよりも、もつと南よりの海の方へ出ながら徳島管制塔や大阪国際空港の管制塔に連絡して非常事態だといつて助けを求めた方がよかつたと思う。自分の位置がわからない場合には、レーダーで測定をしてくれることもある。大阪国際空港の気象状態が悪くても着陸する時頼めばレーダーで誘導してくれる」旨供述し(原審第六回公判調書、記録九九七丁以下、もつとも当審証人として管制塔との連絡は、その当時、本件飛行機の高度では困難であると述べている)、原審証人柿本勝は、「私は本件事故当時日東航空航務課長補佐であつたが、昭和三七年五月運航規程の変更認可申請をし、同三八年四月二二日最低気象条件について認可があり、飛行視程が三マイル以上あること、飛行機からの垂直距離が上方五〇〇フイート、下方一、〇〇〇フイートある範囲内に雲がないこと、航空機から水平距離が二、〇〇〇フイートの範囲内に雲がないこととなつた」旨供述し(原審第九回公判調書、記録一三〇七丁以下)、原審証人時田次男は、「私は、日東航空の操縦士であつて、本件のアツター機で徳島路線を約二、〇〇〇時間飛んでいる。その間、友ケ島を過ぎてから雲をさけるため、高度を五〇〇フイートに下げ有視界飛行を維持しながら二一〇度で約一〇分間飛び右旋回して二八〇ないし二九〇度で徳島へ飛んだことがある。一応パイロツトの常識としては、徳島が天気がよくても、前面が全然見えないという状態の時は、有視界気象状態は維持できないから、雨雲がたれているのに沼島や淡路島に接近高度で飛ぶことをさけるのが常識である。飛ぶ前に徳島の気象状態はよかつたが飛んでから悪くなつた場合は引き返す。白浜路線の時、友ケ島を確認できないような状態であつたため引き返えしたことがある」旨供述し(原審第一〇回公判調書、記録一三四四丁以下)、原審証人向笠高正は、「私は、本件事故当時日東航空の操縦士で、アツター機の機長として徳島路線に約五〇〇時間の飛行経験があるが、雲や霧の中のように、有視界飛行状態が維持できないような場合に飛行したことはない。私が双発のグラマン・マラードの運航補助者として乗つていた当時雲の中にはいつたので引き返した経験が二、三回ある。雲へはいると危険であるから、この場合瞬間的にはいつて来た方に引き返して安全な方向へ逃げる。上がすいていれば上へ逃げる。天気のよい方へ逃げることがだめだつたら引き返すのである」旨供述し(原審第一〇回公判調書、記録一三八七丁以下)、原審証人西村淳は、「私は運輸省航空局航務課勤務で定期運送用操縦士の資格を有し飛行時間約一万時間の経験があり、本件事故の原因調査を担当したのであるが、推定事故原因として、友ケ島通過後の変針時における航空機の位置および針路の決定が不明確であり、かつ、その後の航法にあやまりがあつたことによるものと推定される、という結論になつた。当時清水の操縦していたアツター機は、有視界気象状態を維持しつつ飛行しなければならない航空機であるのに有視界気象状態を維持していなかつたのである。かような場合に機長としては、もよりの飛行場に向うなり、あるいは、有視界気象状態を維持するために変針、上昇するなどの措置をとる必要がある。まず第一に考えなければならないことは運航の安全であるから、有視界気象状態を維持することができなくなつた場合には、安全な場所に不時着をするか、あるいは、有視界気象状態を維持することができないため、もよりの飛行場に安全に行けると考えられる場合には、そこに行くべきである。そのためには、もよりの飛行場の管制塔にラヂオで交信し、管制塔が誘導する必要があると考えた場合には、その飛行場附近を飛んでいる飛行機をどかすなり、何らかの方法をもつて安全に着陸できるような措置が考えられる。もよりとは八尾飛行場、伊丹飛行場等である。伊丹の天候は発進した時よりも悪くなり、視程が一・五マイルまで落ちていたと記憶するが、清水は、伊丹と徳島間のコースを相当飛んでいるので、地形や障害物を相当知つていると思われるので、安全に伊丹基地へ帰れると考える。管制塔との交信は、高度が低いとできないことがあるので高度を上げる必要がある。実際問題として当時の気象データによると、徳島飛行場の上空の気象はよかつたのであるから、引き返すよりも、途中有視界気象状態を維持することができなくてもそれを突破して徳島飛行場へ着陸する方がよかつたのかということは、むつかしい問題であるが、本件アツター機は、有視界飛行方式のみ許されているのであるから、有視界気象状態を維持することができなくなつたときには、引き返すのが規則となつている。たとえ、徳島飛行場の気象はよくても、徳島に到達するまでの気象状態がわからないから、一応引き返すべきだと思う。やむなく雲にはいつたとしても、直ちに、今飛んで来た方向へ機首をかえて雲から出るべきであつた。」旨供述し(原審第一六回公判調書、記録一九〇一丁以下)、更に、「この飛行機は有視界飛行方式で目的地まで飛ばなくてはならないので、途中で有視界飛行が維持できなくなつた場合には引き返すか、もよりの飛行場へいくか、あるいは安全と思われる場所へ不時着すべきだと思う。そのほかに、とるべき手段として、引き返えすこともできないという場合には、目的地まで行くために、障害物よりも高い安全な高度で飛行すること、もう一つは、障害物を遠くに避けるため被告人の変針点よりも更に、南下して変針すれば、安全なコースが得られたと思う。(中略)本件の場合、大阪および八尾飛行場の天候状態は、伊丹を出発した当時よりも視程が少し悪くなつているが、一応は下が見える状態で飛べたと思われるので、引き返すべきであつた」旨供述し(原審第一七回公判調書、記録一九三三丁以下)、なお、当審証人として「八尾、伊丹の飛行場へ引き返えすについて、それらの飛行場がビロー・ミニマム(G・C・Aによる着陸の場合の最低気象条件は雲高三〇〇フイート、視程2分の1マイル)といつても、視界が零ではなくてある程度見えると考えられるから、管制塔と交信し、自分の位置、高度、気象状態を報告し、着陸したいと言えば、管制官はこれを拒否する権限はないから、他の飛行機と衝突しないような措置を講じておいて、その飛行機を飛行場上空にまで誘導する。本件事故機は、A・D・Fを装備しており、しかも上級事業用操縦士であるから、安全高度を指定しA・D・Fによつて着陸させる方法と、高度と磁針方位を指示しレーダーでその飛行機を捕えてG・C・Aで着陸させる方法によつて、優先的に着陸させることになつているから、引返しは可能であり、かつ、引き返えすべきであつた」と供述し(記録二七五〇丁以下)、原審証人関口孝は、「私は、日東航空の操縦士で、定期運送用操縦士で、約六、五〇〇時間の飛行経験がある。有視界飛行方式による飛行をする航空機の進路前方に、雲があつて有視界飛行方式による飛行ができない状態の場合は、操縦士としては雲を迂回するか、もしくは、引き返えすかである。ただ帰つて来て着陸する場合に、飛行場のコントロールタワー(管制塔)の許可を得ることになつている、(中略)急に霧につつまれたとか、雲がやつて来てその中にはいつてしまつたという場合は、エマージエンシーとして緊急処置によると教えられた。夜間知らず知らずの間に雲の中にはいることがある。しかし、前方に雲があつた場合には迂回するか、または引き返すべきである。私の経験では、白浜航路で途中から引き返えしたことが二、三回ある。(中略)、白浜に日東航空の専用飛行場があるが、誘導設備はないから有視界飛行に限る。しかし、会社の無線の施設はあつたから、飛行機との無線連絡はできた。白浜の施設は白浜湾を利用して、着水、離水の滑走帯、けい留施設、乗降施設、乗客休養施設等があつて、水上基地となつており、湾の中の天然の防波堤を利用していた。外海は、日によつて波とうねりの両方が立つので、水上着水は地上着陸よりもむつかしいと思う。新明和工業の西に着水場があり、琵琶湖は水上機練習用に使われている」旨供述し(原審第一八回公判調書、記録二〇二四丁以下)、原審証人蓑原源[阜昜]は、「私は、本件事故当時、運輸省大阪航空保安事務所航務課長で、約六、〇〇〇時間の飛行経験を有するものであるが、事故発生を約一時間後に知り、航空局に報告し、検査官ほか二名を伴い現場に急行し、翌五月二日病院で清水に二〇分間、野口に一〇分間くらい質問した。清水は、意識ははつきりしており、友ケ島附近で天候が悪くなつたこと、磁方位一八〇度で南下し、A・D・Fの針が四五度近くで変針し、磁方位二五〇度で徳島に抜けようとして雲の中にはいつたと言つた。私は雲中飛行をしたことが山に衝突した一つの大きな原因と判断した。五月二一日豊中市民病院で再度事情聴取をしたが、本件は、有視界飛行方式で飛行すべきところを雲中飛行を行い、かつ、友ケ島を通過して変針する地点の確認がまずかつたのが、事故の原因と思う。淡路島、沼島の方面が曇つている場合には、雲の中にはいる前に引き返さなければならない。出発の飛行場から飛行時間にしても、わずか三〇分余、かつ、悪い方に向つているのであるから、前方が悪ければ当然もと来た航路をもどつて、出発した飛行場に帰えるべきではなかつたかと思う。出発飛行場の気象状態が多少悪くなつていても引き返すことは可能である。出発の時に、特別有視界飛行方式で飛行しているのであるから、引き返す時も、その特別有視界条件ならば、何時でも帰つて降してもらえるのである。視程一・五マイルなら特別有視界飛行ということになる。そのうえ、事情を述べて、今緊急だ、いくところがないんだから降してくれということになれば、安全に飛行場に降すのが保安施設の在り方である」旨供述し(原審第一八回公判調書、記録一九七六丁以下)、当審証人本行泰彦は、「私は大阪航空保安事務所保安部長であるが、本件事故当日、大阪国際空港において視界不良のため着陸できなかつた飛行機は全然なかつた」旨供述し(記録三〇五九丁)ている。

前段各認定事実を総合すると、本件飛行機は、有視界飛行方式による航空機であるから、視界上良好な気象状態において飛行すべきであり、そのため、航空法施行規則は、前叙のように、規程と最低安全高度とを定め、かつ、航空機の所定範囲内に雲がないことを要求し、さらに、会社の運航規程は、安全度強化のため、視程ならびに最低安全高度および雲のない範囲を拡張しているから、前叙のように、合理的な理由なくして、雲中を飛行し、または、所定の最低安全高度以下の低空を飛行することは許されないものであり、本件事故当日大阪国際空港保安事務所に通報した飛行計画にも、大阪徳島間往路の巡航高度を二、五〇〇フイートとして通報してあつたのである。当日の気象状態は、寒冷前線が北西から南東に移動して弱雨であり、午前七時、大阪国際空港における地上視程は二・五マイルで、有視界飛行方式による離陸許容視程三マイル未満であつたため、当日予定された双発グラマン式マラード機を、水陸両用単発デ・ハビランド式アツター機に変更し、特別有視界飛行方式による離陸承認を受け、燃料として、大阪徳島間を往復し、なお、一時間滞空するに足りる量を積載し、午前八時一一分離陸し、同八時一六分頃、堺市西方海上において高度二、〇〇〇フイートで視程三マイルとなり、有視界気象状態となつたので、右空港管制塔に対しその旨通報し、その管制を離れ、大阪湾東海岸沿いに南下するうち、同八時二四分頃、岸和田市西方海上で、右会社大阪国際空港営業所から、同空港の地上水平視程が一・五マイルになつた旨の通報に接し、同空港の視程が出発時よりも悪化していることを知つたのであるが、実際は、前線通過の現象として、同九時ないし九時一〇分頃の地上水平視程は一・二五マイルないし8分の7マイルと悪化し、その後次第に回復し、九時三〇分には地上水平一マイル、九時四五分には同二・五マイル、一〇時には、同三マイルとなつた。その一方、徳島空港における気象状態は、午前八時ないし九時において、雨ではあつたが、五ないし六マイルの視程があつた。被告人は、会社運航規程の定める最低安全高度二、〇〇〇フイート、最低視程三マイルを維持して南下を続けたが、淡路島は層雲におおわれて見えず、一方、東側は視程が良好で、葛城山脈の稜線がはつきり見える状態であつた。淡輪西方海上に達した頃から、雲の下に出て視程を維持しようとして高度を下げ、午前八時三九分頃、友ケ島の地ノ島上空を高度五〇〇フイートで通過した。それから、野口副操縦士を通じ、徳島飛行場営業所と無線電話で交信し、徳島飛行場の視程六マイル、気象は比較的に良好であることを知つた。しかし、淡路島や飛行径路上の目標である沼島は、一面、層雲におおわれ視認できなかつたが、前方や東側は視程良好であつて、前方の視程二〇マイル、下津の石油タンクも望見でき、東側は、加太町、羽倉崎、和歌山市がはつきり見えたのである。そこで、被告人は、徳島への通常の変針点である友ケ島上空で変針せず、視界の良好な磁方位一八〇度の方向に機首を向け真対気速度一一〇マイルで約一分間南下してみたのであるが、淡路島や沼島方面は層雲と霧とでおおわれ、その状態がはるか南方にまで続いていて、その間に雲の切れ目は認められなかつた。そして、淡輪西方海上および友ケ島附近海上の波頭が南に向つて倒れている状況から、一〇ノツトないし二〇ノツトの南風が吹いていると判断した。事実、友ケ島方面から沼島方面への飛行径路を含めた附近一帯の海上の四〇〇ないし九〇〇フイートの空域は、当時、南ないし南南西から時速約二〇ノツトの南風が吹いていたのである。被告人は、日頃通り慣れた航路であり、通常、鳴門海峡に出れば視界が良好となるので、この層雲の空域を突破すれば安全に徳島飛行場に到達しうると判断し、午前八時四〇分頃、地ノ島から南風下に約一分間南下した地点、すなわち一・四マイル南方において、標準旋回により、A・D・Fの針が徳島無指向性無線標識(徳島ホーマー)に向け零度となるように変針開始し、約二三秒間で変針を終了し、磁方位二五〇度に機首を向けて飛行を続け、さらに、雲と水面との間に出ようとして高度を四〇〇フイートに下げたが、雲と霧のため水面を視認することができず、左右は、かろうじて翼端を見ることができる程度で全くの雲中飛行となつた。そして、前記の偏流によつて北方に流される偏流角は約一二度、磁方位二六二度の方向に流され淡路島の山に接近しつつあることに気付かず、したがつて偏流修正角を考慮することなく、沼島の上空を通過しうるものと誤信し、野口の勧告により沼島との衝突を避けるため高度を九〇〇フイートに上げただけで飛行を続け、午前八時五六分頃、淡路島南岸の諭鶴羽山系標高約三〇〇メートルの山中に斜横に衝突したのであつて、被告人は、その直前操縦席の左窓にはじめて赤茶けた陸地のようなものに気付いたといい、また、いつの間にか雲の中にはいつたので、時間的関係は明らかでないというのである。そして、航空法規ならびに会社の運航規程によると、航行中何時でも航空交通管制機関と連絡することができ、また、会社の基地の地上固定通信局と交信できる空域ならびに高度を飛行しなければならないのであつて、大阪国際空港の空港管制塔と交信するには、当審第二回空中からの検証結果により一、五〇〇ないし二、〇〇〇フイートの高度であることを必要とすること、雲中にはいつてから鳴門海峡中央に至るには、その距離と対地速度とから考えて少くとも約一〇分間を要することが、それぞれ明らかである。

以上に徴すると、本件事故当日の午前九時ないし同九時一〇分における大阪国際空港の気象状態は、同空港における運用として定められている特別有視界飛行の最低視程一・五マイル以下になつていたけれども、地表の物標が全然見えない状態ではなく、一般的特別有視界気象状態の最低基準一マイル程度の視程はあり、かつ、大阪湾東側沿岸地帯は視程良好であつて、葛城山脈を望見することができたのであり、しかも燃料も十分搭載しているのであるから、航空機の安全を確保し、乗客の生命を守るためにも、緊急方式(Emergency Procedure )を利用して大阪国際空港に引き返すか、または他の代替飛行場等に着陸または着水するなどの措置をとるべきであつたといわなければならない。また仮に引き返しの途中更に気象状態が悪化したとしても、前線の通過による気象変化のあることは、被告人の予知するところであつたのであるから、空港管制塔に連絡して旋回待機し、視界の回復を待つか、または、航空機が計器飛行を行うに適した諸計器を備え、かつ、操縦士がその資格を持つているから、空港管制塔に連絡して計器飛行方式に変更し、大阪国際空港上空附近に到着後、レーダーによる着陸誘導を受けることができ、この場合航空交通管制官は、緊急着陸の意思を有する航空機を援助し優先権を与えることになつているから、安全に着陸することも可能である。所論は、本件のような小型機が地上のレーダーに発見してもらうことは困難であるというけれども、本件事故機は、水陸両用機であるから、レーダーに発見してもらうことは困難ではない。そのうえに、視程のよかつた白浜空港に不時着水することも可能であり、また引き返さないで徳島空港に着陸しようとするならば、和歌山市街およびその南方の視程は良好であつたのであるから、雲の切れ目を発見するに至るまで南下を続けて然るのち西に変針する方法もある。また緊急の必要のためどうしても層雲中を突破するほかに方法がないと判断したときは、淡路島や沼島との衝突を避けるため、所定の最低安全高度以上に高度をあげ、かつ、和歌ポイントと徳島ホーマーとを結ぶ線を確実にとらえてその線の南に飛行し、安全圏内に達した後に徳島方面に向う方法も考えられないことはない。したがつて、被告人が航空法規ならびに会社の運航規程に違反して雲中を低空飛行するについて、他に採りうべき合理的な方法がなかつたものとはいえないのである。

所論は、大阪国際空港に引き返す場合、被告人は上級事業用操縦士として、その技量は、一般的計器飛行は十分可能であるが、G・C・A着陸の訓練は不十分な段階にあつて、レーダーによる誘導等の非常措置を受け、管制塔の指示に従いながら安全に着陸することは期待できなかつたものであるから、層雲を突破するよりも、はるかに危険度が大きいものであつたと主張するから判断する。

元来、刑法上過失犯における注意義務の標準について諸説があるが、業務上の過失犯については、人の生命、身体に対する危険を伴う業務に従事する者に、特に重い注意義務を課する趣旨であるから、その注意義務の内容は、客観的標準によるべきものであつて、行為者の主観的標準によるべきものではなく、行為者に業務上必要な注意義務をはたす能力がない場合でも、その責任は阻却されないと解すべきである。したがつて、上級事業用操縦士の技能証明を有し、旅客運送を業務とする航空機の機長として、乗客ならびに乗務員の生命の安全を掌握し、航行の際における一瞬の過失は、一挙に多数の生命を失わせる結果を招く危険業務に従事する者が、その資格要件に属するG・C・A着陸方式を、訓練未熟をもつて期待し得ないとして、気象状態不良の場合に出発空港へ帰投しなかつたことの言訳とすることは許されないというべきである。

そもそも、被告人が昭和三七年七月二三日上級事業用操縦士としての航空従事者技能証明を受けるに当り、航空法第二五条により航空機の種類、等級、型式につき、「飛行機-陸上単発、型式無限定」および「飛行機-陸上多発、グラマン式G-七三型」という限定を受け、次いで、同年九月二七日「飛行機-水上多発、グラマン式G-七三型」、同年一一月二二日「飛行機-水上単発、型式無限定」という各限定を受け、当初は、陸上基地から陸上基地へ飛行する場合のみの限定を受けていたが、その後、無限定となつており、かつ、航空機乗組員免許(航空免状)を受有しており、本件当時、本来は計器飛行方式による飛行が許されるグラマン・マラードの機長であつたことは、上級事業用操縦士技能証明書写、航空免状写(記録七〇七丁以下)、被告人の司法警察職員に対する昭和三八年五月四日附供述調書(記録一六二二丁以下)、同検察官に対する同年五月二四日附供述調書(記録一七三一丁以下)の記載により明らかである。そして、上級事業用操縦士は計器飛行の技能証明を受ける必要があり、その際航空法施行規則第四六条ならびに別表第三により、実地試験として、定期運送用操縦士と同様、計器飛行の操縦技術の一部として「G・C・Aによる着陸」技術試験に合格することが必要であるから、通常の上級事業用操縦士を標準とするときは、G・C・Aによる着陸の技量がなかつたものとはいえない。元来、G・C・AとはGround Controlled Approach(地上誘導進入装置)の略語であつて、鑑定人木村秀政作成の鑑定書によれば、進入着陸指示方式にG・C・AとI・L・Sとがあり、前者は夜間又は視界不良の場合に進入着陸する航空機の安全を期するため地上からレーダーを用いて誘導を行う装置であつて、航空機には特別な装置を必要とせず、地上の設備としては、空港の周囲を飛んでいる航空機の位置を受像する監視レーダー(または、捜索レーダー)と、進入角に対する航空機の上下位置および進入方向に対する航空機の左右位置を受像する精測レーダー(または精密レーダー)の二つが備えられ、このレーダーで得られる情報を無線電話により刻々操縦者に通知し、進入着陸を誘導するものであり、後者のI・L・Sとは、Instrument Landing System (計器着陸方式)の略語であり、進入角を示すグライド・パス発信機、滑走路の方向を示すローカライザー発信機、滑走路端から二箇所の位置を示すマーカー・ビーコンから発信される電波を操縦者が受信し、正しい針路に添つて進入を行うもので、G・C・Aがいちいち地上からの指示を受けそれに従つて操縦するのに反し、I・L・Sは操縦者が計器を頼りに自主的に判断しつつ進入する方式であることが明らかである。この点について鑑定人亀山忠直作成の鑑定書に「通常上級事業用操縦士にはG・C・Aによる進入技術の練達は期待されておらず、被告人がこれに慣熟しておらないことは当然である」という趣旨の記載があり、原審証人藤本直(旧日東航空専務取締役兼運航部長)は、原審第一二回公判廷において、「清水機長は計器飛行の資格を持つており、ある程度の能力を持つていたので、完ぺきではないにしても、レーダーによる誘導を受けることができると思う。ただし清水が常用しているのはA・D・Fアプローチで、耳から聞く英語を解釈して降りるというテクニックにはまだ至つていない。恐らく、G・C・Aをやつた経験はないと思う」旨供述し(記録一五六〇丁以下)ているが、被告人は、前掲のように、上級事業用操縦士として計器飛行証明の資格を有する者であり、その実地試験として計器飛行の操縦技術のみならず、G・C・Aによる着陸技術の科目に合格しているのであるから、練達又は慣熟の字義にもよることではあるが、被告人が地上からの無線電話による誘導によつて進入着陸する能力がなかつたものとは認めがたい。それのみならず被告人は、検察官に対する昭和三八年六月一九日附供述調書において「有視界飛行方式で飛ぶことができない気象状態に遭遇したことを大阪国際空港の航空管制塔に通報して指示を求めたならば、同管制塔としては着陸の許可を与えたと思う」旨供述し(記録一七九二丁)、引き返すべきであつたといつているところからみるとG・C・A方式による誘導を受けて着陸する自信と技量のあつたことが認められる。また、原審ならびに当審証人本行泰彦は、原審第五回公判廷において、「私は、大阪航空保安事務所保安部長であるが、大阪航空保安事務所の管制部には運用第二課があつて、その業務は、レーダーの発射する電波の反射によつて受信し、ブラウン管上に与つた映像を見ながら航空機に対して進入着陸するための誘導を行うのである。(中略)航空機が管制圏外を飛行して有視界気象状態を維持できなくなつた場合の一番手つ取り早い方法は、出発した飛行場の管制塔に対して有視界気象状態を維持できないから着陸の指示を要求すると言えば管制塔において引き返す方法を指示するから、それによつて飛行場に帰つて来るという方法である。飛行場を飛び立つた航空機が、急変のためにその飛行場に帰投するに当り気象が前よりも悪くなつていても、地上が見える状態であれば、地上の物件を確認しながら飛行場に帰つてくることは可能である。その場合管制塔では他の航空機との衝突を予防するのである。なお、地上物件を確認しながら帰つてくることができないとき、その航空機が計器飛行をし得る計器を持つていて計器飛行ができるなれば、無線標識所を利用さすか、コンパスによる飛行を管制塔が指示し、あるいは適当な高度を指定して飛行させることができる。それに関連して管制塔では直ちにレーダー施設に連絡をとつて、レーダー管制と航空機同士に無線を設定させて、レーダーによる誘導を行うことが可能である。なお、最悪の場合、本当の非常事態になつた時に、航空機が自己の位置を見失つたり、計器飛行ができるけれども、コンパスによる方位に対する飛行ができない場合には管制機関の捜査救難機関に連絡をとつて、その航空機を誘導着陸させることは可能であるから、上級事業用操縦士の計器飛行の技量の有無にかかわらず着陸できる」旨供述し(公判調書、記録九〇二丁以下)、更に、当審において「レーダー管制は、計器誘導着陸を意味する。大阪国際空港におけるG・C・A着陸の場合の最低気象条件は、シーリング三〇〇フイート、視程〇、五マイルの規制がある。G・C・A誇導による着陸は、たとえ有視界飛行しか許されていない飛行機でも、やむを得ない時には利用できる。航空機が無線送受信の装置を搭載しており、レーダーにその映像が写る以上、いかなる場合でも利用することができる。非常に視界が悪いために、G・C・Aで引張つてもらう場合、通常の有視界気象状態でないために、G・C・Aで引張つてもらう場合には、結局、有視界気象状態であれば、計器飛行を行つてはいけないから、この場合においては、レーダーによる地上誘導に従いながら、外部の物標を見て、進入してくるわけである。天候が計器気象状態であれば地面が見えれば、見える範囲内において、外部の物標と自己機の関連を見ながらはいつて来るわけである。これは、あくまで計器飛行方式ではいつてくるわけである。この時においても外部が全然見えないこともあり得るが、この場合には純然たる計器飛行を行うのである。(中略)無線器があればG・C・Aは可能である。管制官は、航空機が飛んで来てレーダーの誘導をお願いしますと言えば、そのままレーダーに入れて誘導するのである。それができない場合は、セスナ機のような小型機でレーダーに映像ができない場合だけであつて、本件アツター機は大きなフロートを持つているので、電波反射面積がふえて、セスナ機やビーチクラフト機よりも映りがよいと聞いている。本件事故当時、大阪国際空港の視程がどの程度悪かつたか記憶しないが、たとえ視程が悪くても着陸が危険ということは絶対にない。その間においても、航空機は、どんどんG・C・Aによつて着陸しているからである。G・C・Aによる誘導ができないことは考えられない。二、三機の誘導が一機ふえるというだけである。(中略)G・C・Aによる着陸は、結局、一部の計器で水平の姿勢が保てるならば、皆管制の指示に従つて高度を上げるとか、下げるとか、右、左に何度変針と指示に従つてはいつて来るのであるから、定期、不定期にかかわらず少くとも路線を飛ぶ操縦士であれば、当然、G・C・A着陸は何の不安なしにできると思う。(中略)五〇〇時間以上の飛行経験があれば、一回のG・C・Aの訓練がなくても、緊急の場合には、一応、安全にその航空機を降下させることができると思う」旨供述し(証人尋問調書記録三〇三八丁以下)ている。しかるに、当審証人有働武俊(全日本空輸株式会社操縦士)の証言によると、「飛行機が飛行場に進入する方式に、V・F・R進入(有視界飛行方式による進入)、A・D・F進入(航空機に発見しやすい地点に設けられたホーマーの近くに降下して来て飛行場が見えたら、あとは目で見て進入する)のほか、G・C・A進入、I・L・S進入、V・O・R進入があるが、G・C・A進入には、英語と専門用語、管制方式の理解を必要とし、実地に当つては、ビームが次第に小さくなるので誘導の幅から機をはみ出させないようにし、はみ出すとやり直しをしなければならないので、二、三〇回程度の練習を必要とする」と供述し(証人尋問調書、記録二九〇三丁以下)ているけれども、被告人は、上級事業用操縦士として、路線による旅客運送業務に従事し、乗客および乗組員の生命を掌握している機長として、気象状態不良等緊急事態において、地上からの誘導によるG・C・A着陸能力がないという主張は許されない。それのみならず、被告人は、計器飛行の技量を有し、G・C・Aによる着陸技術の実地試験に合格し、しかも約三、〇〇〇時間の飛行経験を有する者であるから、G・C・Aによる着陸能力がないものとは認めがたい。したがつて、計器による雲中飛行の能力はあるけれども、G・C・Aによる着陸の能力はないから、大阪国際空港に安全に引き返えすことは期待できないという所論は採用できない。

所論は、層雲を突破するよりも大阪国際空港に引き返えす方の危険性が大であるとし、原判決が、小さな危険を避けるために大きな危険をおかすことを求めるのは、注意義務の解釈を誤つていると主張するが、被告人は、淡輪西方および友ケ島附近の海上において一〇ないし二〇ノツトの南風が吹いていたことを知つていたから、友ケ島通過後沼島方面一帯の空域において相当の南風が吹いているであろうことは当然予想できたところであり、その偏流によつて被告人が想定した飛行径路に変動を生じ、その結果、沼島または淡路島南岸に衝突する危険があつたといわなければならない。かような場合に、航空機操縦士は、風向風速を測定し、機上作図等により航空機の地表面に対する対地速度や偏流角を算出し、風上に機首を振るべき角度すなわち偏流修正角を判定しなければならない。その風向風速を測定するために、水面上の白波の倒れ方ならびに白波の率によつておよその推測をするというのは、まことに原始的な方法であつて驚くのほかないが、通常、偏流測定器といつて、一種ののぞき眼鏡を通じ地表の物標が航空機の首尾線の方向とどれくらい異つた方向に流れるかを測定する機器を使用するのであるが、雲中においては、いずれの方法も使用できない。そして、雲中にはいつて物標を視認することができなくなつた場合に、自動方向探知器による方向測定を通じて偏流角ならびにその修正角を知る方法があるけれども、一基だけでは、操縦士の技量にもよるが、少くとも五、六分間を要するといわれ、急速には間にあわないものである。そうすると、目的地である徳島飛行場の気象状態が比較的に良好であつたとしても、針路前方に淡路島南岸や沼島が迫つている地形において、広範囲にわたる層雲中を低空で飛行することは、はなはだ危険である。そして、前述のように、当日午前九時頃の大阪国際空港の気象状態が悪化していたから、被告人が前記の変針点で徳島に向わず同空港に引き返えしたものとすれば、九時一〇分頃最も視程の悪い時刻に帰投することになるのであるが、シーリング一、〇〇〇フイート以上で、一マイル前後の視程はあつたから、G・C・A利用による進入方式の最低気象条件であるシーリング三〇〇フイート、視程2分の1マイルを越えており、飛行機に積載された計器によつて飛行機の水平姿勢を保ちながら、管制塔からの誘導によつて進入するか、または、管制塔と連絡して待機し気象状態の回復を待つなどの方法により、安全に着陸することは可能であり、事実、当日大阪国際空港において着陸不能の航空機は一機もなかつたのであり、かつ、上級事業用操縦士として不定期運送路線の旅客運送に従事している者の注意能力を標準としてみても、はたまた、被告人の経験に徴しても、G・C・Aによる進入が期待できないとはいえないから、すべからく、高度を上げ、無線電話による航空交通管制機関と連絡し、視程のよかつた大阪湾東沿岸地帯を引き返えし、レーダーによる着陸誘導を受けて安全に帰着する方法をとることができたのである。そうすると、大阪国際空港へ引き返えす時の危険よりも、航空法規ならびに会社の運航規程に違反して雲中飛行をすることの危険の方がはるかに大であるといわなければならない。

これを要するに、被告人が、かような地形と気象条件のもとにおいて、慣れた航路であるところから、慎重な考慮を払わず、大阪国際空港その他の代替飛行場に帰投することを考慮することなく、したがつて、大阪国際空港の管制塔その他の飛行場の基地に緊急着陸または着水しうるかいなかを問い合わせるなど緊急事態の飛行に対する援助を求めるための交信をすることもなく、また、他の合理的な方法を考究しないで、大いなる危険を伴う層雲突破を決意し、航空法規ならびに会社の運航規程に違反して雲中を四〇〇ないし九〇〇フイートの低空で飛行して視界を失い、飛行機の現在位置、飛行方向すら判断困難となり、前方に淡路島南岸の山脈が迫つているのにそれを視認し得ない状態に陥り、しかも、右海域に二〇ノツトの南風が吹いていたのに偏流修正角を考慮せず、漫然として雲中飛行を継続したことは、機長としての注意義務に違反したものといわなければならない。所論は理由がない。

控訴趣意第二、法令適用の誤の主張中第七点について。

所論第七点は、変針後の航法に関し、原判決は、安全な雲中飛行をするに十分な計器類の搭載もなく、かつ、計器飛行方式による飛行も許されていない同機に、たまたま搭載されてはいたけれも、数分間ではとうてい偏流測定不可能な自動方向探知器等の計器のみに頼つて層雲中を無事突破できるものと軽信して層雲中に突入して視界を失つたまま飛行し、そのため析柄同所附近一帯に吹いていた平均約一八ノツトの南風により北に流されていることに気づかなかつた過失があるというのであるけれども、被告人は、自動方向探知器のみに頼つて航法を行つたものではなく、偏流はないと信じて磁方位二五〇度ぐらいを保持すれば安全であると思つて飛行していたのであるから、機長としてむしろ自然な判断であつたところ、雲にはいつてから予想だにしなかつた五〇ノツト前後と推定される強風が真方位二一五度の方向から吹いて来たため北方に流されて本件事故となつたものであるから、原判決は無理な注意義務を被告人に課するものであつて、被告人には過失はないというのである。

よつて案ずるに、原判決が被告人において自動方向探知器のみに頼つて航法を行つたと認定したものでないことは前段認定のとおりであり、偏流がないと判断したという所論については、被告人は、出発前飛行計画を作成するに当り南風のあることを知つており、友ケ島通過前、淡輸西方の海上において、海面の白波の状況から一〇ノツトないし二〇ノツトの南風があると判断していたこと、したがつて、友ケ島通過後、沼島を含む附近一帯の海域においても当然、南風の吹いていたことが予想できたのにかかわらずこれを考慮に入れず層雲中にはいり、二〇ノツトの南風が吹いていたことを気づかず、何等偏流を考慮せずに飛行を継続して北方に流されて淡路島の山に衝突したことは、前段認定のとおりである。所論は五〇ノツトと推定される強風が吹いていたために北方に流されたというのであるけれども、これは変針点を前段認定の地点よりも更に南方に設定し、それと衝突地点とを結びつけるために考え出された風向風速であつて、これを証明する証拠はない。前段認定のように鑑定人山田直勝の鑑定書および同人の当審における供述は、「本件事故当時前線の近くでもありその影響を受けやすい海域であるから、由良で南南西三二ノツトという局地的強風が吹いていた事実からこの附近の海上およびその上空五〇〇フイートないし九〇〇フイートにおいてそれ以上の風速であつた可能性はあるが、このような局地性から考えて淡路島南岸附近海上においておしなべて二一五度から四五ノツトという強風が吹いていたかどうかは疑わしい。」というのであつて、単にその可能性を示唆するにとどまる。したがつて被告人に過失のあることは明白であるから、所論は採用しがたい。

控訴趣意第二、法令適用の誤の主張中第八点について。

所論第八点は、原判決が変針点を具体的に確定しないまま、被告人が強風による大偏流を予知しなかつたことと事故の発生との間に因果関係があるとしたのは理由不備であると主張するのである。

しかし、本件変針点は、前段認定のように、時速一一〇マイルの飛行機が地ノ島上空を通過し磁方位一八〇度で一分間南下して到達した地点であり、その場所は無風の場合では地ノ島から約一・八マイル(約二・八九キロメートル)の距離にあるが、当時約二〇ノツトの南風が吹いていたから、その地点は、地ノ島から約一・四マイル(約二・二四キロメートル)の距離にある。この地点は、地文上、田倉崎ならびに鉢巻山の西北方であり、和歌山市街を左斜前方に見通せる位置にあり、地図上では北緯三四度一六分、東経一三五度三分の地点であることが明らかである。そしてこの地点において磁方位一八〇度から磁方位二五〇度に標準旋回し、その所要時間が二〇秒ないし二三秒であつたことも前段認定のとおりである。そうすると、「友ケ島上空で磁方位一八〇度に進路をとつて、一八ノツト(時速)の南風を受けながら約一分間南下し、同所において磁方位二五〇度の方向に機首を向けた」とする原判示とほぼ合致し、ただ旋回半径と変針終了点を判示していない点においてやや詳細を欠くきらいはあるけれども、変針開始地点と終了地点との間隔は円周にして〇・六マイルに過ぎないから、被告人が南風に流される角度を考慮しなかつた過失の認定を左右するものではない。そして被告人が、本件変針点および沼島附近一帯の海域に南風のあることは当然予想されたにかかわらずこれに気付かず、雲中にはいつて偏流なしとして飛行を継続したことは、前段認定のように被告人の業務上の過失というべきであり、この過失に基因して北方に流されて本件事故を引き起したのであるから、右被告人の過失と事故発生との間に因果関係があることは明らかである。原判決には所論のような理由不備の点はないから採用の限りではない。

控訴趣意第二、法令適用の誤の主張中第九点について。

所論第九点は、原判決は「右の偏流によつて、想定した飛行径路よりもかなり北方へ流されながら飛行することが予知できた」と判示するけれどもその理由にはくいちがいがあると主張するのである。

しかし、原判決は、被告人が偏流によつて想定した飛行径路よりもかなり北方へ流されることを予知できたはずであつたのに過失によつてこれに気付かなかつたというのであつて、この点に理由のくいちがいはないから、所論は採用できない。

以上の次第で各論旨はいずれも理由がない。

よつて刑事訴訟法第三九六条により本件控訴を棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山崎薫 裁判官 竹沢喜代治 裁判官 大政正一)

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