大阪高等裁判所 昭和41年(う)2266号 判決 1975年9月11日
本籍 香川県坂出市坂出町一八一四番地
第一
住居 大阪府枚方市川原町四―九―二六
飲食店経営 木沢恒夫
昭和七年三月三一日
<ほか五名>
右木沢恒夫に対する汽車往来危険(一審認定暴力行為等処罰に関する法律違反)、爆発物取締罰則違反、器物損壊、斎藤勇に対する汽車往来危険(一審認定暴力行為等処罰に関する法律違反)、爆発物取締罰則違反、暴力行為等処罰に関する法律違反、Aに対する汽車往来危険(一審認定暴力行為等処罰に関する法律違反)、村田不二男に対する爆発物取締罰則違反、暴力行為等処罰に関する法律違反、B′(旧性B)、国頭利雄に対する爆発物取締罰則違反、器物損壊各被告事件について、昭和三〇年一二月二四日大阪地方裁判所が言い渡した有罪判決に対し、被告人村田不二男の原審弁護人古川毅及びその余の被告人並びに検察官からそれぞれ控訴の申立があったので、当裁判所は次のとおり判決する。
検察官 正木良信、同岡田照志 出席
主文
原判決中、被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aに関する部分を破棄する。
被告人木沢恒夫、同斎藤勇を各懲役一年二月に、
被告人Aを懲役八月に処する。
但し、右被告人三名に対し、いずれも、この裁判確定の日から三年間右各刑の執行を猶予する。
原審における訴訟費用中、証人味岡豊明、同谷水浩(昭和二八年三月一三日の裁判所外の証拠調の分)、同藤沢広雄、同松田正孫、同稲田清(昭和二八年三月一三日の裁判所外の証拠調の分及び第六回公判の分)、同佐波幸雄、同坪内知九志(第四回及び第六回各公判の分)、同大隅為五郎に支給した分は被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aと原審相被告人出上桃隆との連帯負担とし、証人籾井一、同籾井静子、同籾井宏明(以上いずれも昭和二八年四月一一日の裁判所外の証拠調の分)、同対田順太郎、同井上恵永、同加藤栄吉に支給した分は被告人斎藤勇と相被告人村田不二男との連帯負担とし、証人森田惣兵衛、同長谷川栄三郎、同浜本辰己、同橋本助一、同大道栄吉に支給した分は被告人木沢恒夫と相被告人B′、同国頭利雄、原審相被告人出上桃隆との連帯負担とし、証人妻木龍雄(第八回公判の分)に支給した分はこれを五分し、その一宛を被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aの各負担とし、国選弁護人古川毅に支給した分は被告人斎藤勇の負担とし、差戻後の当審における訴訟費用中、証人出上桃隆(第二三回及び第五四回各公判の分)に支給した分は被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aと相被告人B′、同国頭利雄との連帯負担とし、証人橋本助一に支給した分は被告人木沢恒夫と相被告人B′、同国頭利雄との連帯負担とする。
検察官の被告人村田不二男、同B′、同国頭利雄に対する本件各控訴及び同被告人らの本件各控訴を棄却する。
差戻前の当審における訴訟費用中、証人西城正一(第三回及び第四回各公判の分)、同吉田叡、同川上秋次、同成内貞義に支給した分は被告人国頭利雄の負担とし、差戻後の当審における訴訟費用中、証人出上桃隆(第二三回及び第五四回各公判の分)に支給した分は被告人B′、同国頭利雄と相被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aとの連帯負担とし、証人末吉勝義に支給した分は被告人村田不二男の負担とし、証人川上秋次に支給した分は被告人B′の負担とし、証人橋本助一に支給した分は被告人B′、同国頭利雄と相被告人木沢恒夫との連帯負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、大阪地方検察庁検事藤田太郎作成の控訴趣意書(但し、第一項は陳述しない。)及び大阪高等検察庁検事片岡平太作成の昭和三四年一二月一五日付意見書(但し、二項は陳述しない。)、並びに被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同A、同村田不二男、同国頭利雄(被告人国頭利雄の昭和三一年五月二二日付のもの。同被告人作成の昭和三三年四月八日受付の控訴申立の趣意と題するものは撤回)及び被告人六名の弁護人古川毅それぞれ作成の各控訴趣意書(同弁護人作成の昭和三五年一月一九日付意見書は陳述しない。)のほか、右被告人及び弁護人の控訴趣意書を補充する意味で当審で援用された弁護人毛利与一ほか五八名連名作成の上告審弁論書及び弁護人阿形旨通作成の昭和四九年一〇月一八日付書面(当審第五三回公判で提出)に記載のとおりであり、検察官の控訴趣意第二点に対する答弁は、当審で援用された弁護人古川毅作成の上告趣意書第三項及び弁護人毛利与一ほか三〇名連名作成の上告審弁論書(その二)(但し一八頁三行目から四行目にかけての空間破裂の主張は撤回)にそれぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。
第一、弁護人古川毅の控訴趣意一、五、並びに被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同A、同村田不二男の自白調書の任意性を争う各控訴趣意について
論旨は、いずれも、原判決は、判示第一の事実認定の証拠として被告人木沢、同斎藤、同A、元原審相被告人野上銀次郎、同出上桃隆の検察官に対する各供述調書、判示第二の事実認定の証拠として、被告人斎藤、同村田の検察官に対する各供述調書、判示第三の事実認定の証拠として被告人木沢、元原審相被告人出上、同井内秀雄の検察官に対する各供述調書及び被告人Bの司法巡査に対する供述調書を挙示しているが、右各供述調書はいずれも任意性がなく、したがって証拠能力がないから、これを事実認定の証拠に供した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。
よって案ずるに、原判決が、(一)判示第一の事実認定の証拠として元原審相被告人野上銀次郎(以下単に野上と略する。)の検察官に対する第一回ないし第四回各供述調書、被告人木沢の検察官に対する昭和二七年一〇月一〇日付第一回、同年一一月六日付第二、第三回、同月七日付第四回、同月二〇日付第五回各供述調書、被告人斎藤の検察官に対する第三、第五、第六回各供述調書、元原審相被告人出上桃隆の検察官に対する同年一〇月一一日付第一回、同年一一月六日付第二、第三回、同月七日付第四回、同月二〇日付第五回各供述調書、被告人Aの検察官に対する第一回ないし第五回各供述調書を挙示し、(二)判示第二の事実認定の証拠として被告人斎藤の検察官に対する第三、第四、第六回各供述調書、被告人村田の検察官に対する第一回ないし第七回各供述調書を挙示し、(三)判示第三の事実認定の証拠として被告人木沢の検察官に対する昭和二七年一〇月一七日付第一回、同年一一月四日付第二回各供述調書、元原審相被告人出上桃隆の検察官に対する同年一〇月二八日付第二回、同年一一月四日付第三回各供述調書、同井内秀雄の検察官に対する第一、第二回及び第四回各供述調書、被告人B(現姓B′、調書との関係上、以下「B」という。)の司法巡査に対する第四回供述調書を挙示していることは原判決に徴し明らかである。そして、右事実認定に用いられた証拠のうち、(一)の野上銀次郎の検察官に対する第一回ないし第四回各供述調書、被告人木沢の検察官に対する昭和二七年一〇月一〇日付第一回供述調書、被告人斎藤の検察官に対する第三、第五、第六回各供述調書、被告人Aの検察官に対する第一回供述調書、(二)の被告人斎藤の検察官に対する第三、第四、第六回各供述調書、(三)の被告人木沢の検察官に対する昭和二七年一〇月一七日付第一回、同年一一月四日付第二回各供述調書については、いずれもその各供述の任意性に疑いがあるとして既に当裁判所昭和四八年三月二七日付決定により証拠から排除されたことは、本件記録中の同決定に徴し明らかであり、当裁判所は現在もその決定を変更するの要を認めないから、右証拠とできない各供述調書を各事実認定の証拠に供した原判決にはこの点において既に訴訟手続に法令違反があるわけであるが、その違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるか否かは、その余の各供述調書の任意性の存否について判断をしたうえ、その結果とあわせて検討することとする。
一、最高裁判所の破棄差戻判決の拘束力
本件は、上告審である最高裁判所が、被告人等の自白調書の任意性を肯定した原判決(差戻前控訴審判決以下「旧第二審判決」という。)は、結果的に審理不尽であるから、なお審理を尽くすべき必要があると認められるとして、当裁判所に差し戻したものであるが、弁護人は最高裁判所の右破棄差戻判決の拘束力について、最高裁判所は、野上の分離後の第一審公判における被告人らの証言速記録謄本を含む書面(以下「別件の証言速記録の謄本」という。)を取り調べた結果、本件被告人らの捜査官に対する全供述調書の任意性に関する旧第二審の判断について強い疑問を抱いて差し戻したのであるから、いわゆる松川事件の上告審の差戻判決について仙台高等裁判所が昭和三五年五月一日に示した見解と同様に、本件自白調書の任意性について最高裁判所が抱いた疑いをその証拠だけで、ないしはそれと従前の証拠とを総合しても解消するに足りるような新たな証拠の出ない限り、最高裁判所の判決時までにあらわれて取り調べられた証拠のみで旧第二審判決がした任意性についての判断と同一の判断をすることは許されないというので、この点について考えてみることとする。
本件起訴にかかる事案は、(一)昭和二七年六月七日午後七時半頃大阪市東淀川区木川町国鉄宮原操車場内において駐留軍用臨時列車の軸箱に砂等を投入したという汽車往来危険の事実(以下「宮操事件」という。)(二)同日午後七時半頃同区木川西之町五丁目鉄道公舎籾井一方裏庭にいわゆるラムネ弾を投入して破裂させ、数人共同して家人を脅迫したという爆発物取締罰則違反と暴力行為等処罰に関する法律違反の事実(以下「籾井事件」という。)及び(三)同年七月一四日午後九時半頃同区国次町二七五番地大西保三郎方奥三畳間にいわゆるラムネ弾を投げ込み破裂させ硝子を損壊したという爆発物取締罰則違反と器物損壊の事実(以下「大西事件」という。)であって、宮操事件については被告人斎藤、同木沢、同A、元原審相被告人野上銀次郎、同出上桃隆が、籾井事件については被告人斎藤、同村田が、大西事件については被告人木沢、同B、同国頭、元原審相被告人出上、同井内秀雄が起訴されたのであるが、まず被告人国頭を除くその余の被告人並びに元原審相被告人の自白調書(被告人国頭には自白調書はない。)の任意性に関する調査の経過についてみるに、原審は第八回公判(昭和二九年四月二三日)において別所検事の立会検察事務官であった妻木龍雄(木沢、斎藤勇、A、野上、出上の取調状況について)、同坂根武義(斎藤勇の取調状況について)、同小林清隆(斎藤勇、野上の取調状況について)、同川口武四(斎藤勇の取調状況について)、第九回公判(昭和二九年五月二八日)において取調警察官であった広田正男(A、野上の取調状況について)、同平岡繁三(木沢、出上の取調状況について)、同井村正雄(木沢、出上の取調状況について)、同福安寿雄(木沢の取調状況について)、第一〇回公判(昭和二九年七月七日)において取調警察官であった西条宗次郎(出上の取調状況について)、同前未三男(斎藤勇の取調状況について)、同花谷清次(斎藤勇の取調状況について)、同古池泰博(野上の取調状況について)、第一四回公判(昭和三〇年二月二四日)において前記検察事務官妻木龍雄(井内、村田の取調状況について)、取調警察官であった川上秋次(井内、Bの取調状況について)、同末吉勝義(村田の取調状況について)、同道吉一一(村田の取調状況について)、同花谷清次(村田の取調状況について)、同西条宗次郎(国頭の取調状況について)をそれぞれ証人として尋問し、右証人らはすべて被告人及び元原審相被告人に対する強制、拷問、利益誘導を全く否定する旨の証言をし、被告人側からこれら証人に対し反対尋問をしているが、右証人らはこれに対しても強制、拷問、利益誘導の事実を否定しており、原審においては被告人質問も行なわれないまま、前記被告人及び元原審相被告人らの警察官及び検察官に対する自白調書を任意性ありとし証拠として採用して取り調べた(原審はこれらの調書を刑事訴訟法三二一条、三二二条により採用した旨公判調書に記載されているが、各司法警察職員に対する供述調書は刑事訴訟法三二二条により当該被告人のみの関係において、又、各検察官に対する供述調書は同法三二一条一項二号及び三二二条により当該被告人のみならずその他の被告人の関係において、それぞれ証拠として採用され、取り調べられたものと解せられる。)。原審は昭和三〇年一二月二四日の第二〇回公判において、前記(一)の訴因については汽車往来危険罪には当らないとして暴力行為等処罰に関する法律を適用し、(二)(三)の各訴因については各本件ラムネ弾は爆発物取締罰則にいう爆発物には該当しないとし、(二)については暴力行為等処罰に関する法律違反、(三)については器物損壊の訴因のみを有罪とし、所論の原判決挙示の各自白調書を事実認定の証拠に挙示した。旧第二審は、汽車往来危険罪の危険性の有無、本件ラムネ弾が爆発物に該当するか否か等についての証拠調に終始し、弁護人及び被告人らが主張する自白調書の任意性に関しては、任意性があるものとした原判決に対し被告人らからこれを争う控訴趣意書が提出されているにも拘らず、弁護人からは何らの立証活動もなかったためか、裁判所も職権による証拠調も行なわないまま、昭和三六年二月一日、原判決挙示の各被告人の供述調書は原審で取り調べた前記各証人の証言によると、取調に際し、拷問、脅迫あるいは正座を特に強制したことはなく、又その調書の形式内容よりしてその任意性は十分認められるとし、本件ラムネ弾が爆発物取締罰則にいう爆発物に該当する旨の検察官の主張を容れ、被告人Aに関する双方の控訴を棄却したが、その余の被告人木沢、同斎藤、同村田、同B、同国頭、並びに元相被告人出上、同井内に関して原判決を破棄し有罪判決を言い渡した。これに対し本件被告人六名及び元相被告人出上、同井内は上告したが、出上は昭和三六年三月二二日上告を取り下げて懲役三年六月の刑に服し、井内は昭和三七年二月三日死亡(昭和四〇年四月六日公訴棄却)するに至り、本件が上告審に係属中、病気のため原審第一六回公判(昭和三〇年四月一九日)以来、分離され審理中断の形となっていた原審相被告人野上の第一審公判が従前とは全く異なる構成の裁判官により再び開かれるに至り、関係自白調書の任意性に関し、その第二三回公判(昭和三七年九月三日)において被告人野上に対する質問が行なわれたのを初めとして、第二四回公判(同年一〇月一二日)及び第二五回公判(同年一一月二六日)において木沢、第二七回公判(昭和三八年二月一四日)においてA、第二九回公判(同年六月二七日)において出上、第三〇回公判(同年九月一二日)において斎藤勇及び弁護人古川毅、第三一回公判(同年一一月一四日)において野上の取調警察官であった広田正男、青木浅雄、古池泰博、第三二回公判(昭和三九年一月二二日)において右広田正男、第三七回公判(同年八月一二日)において立会検察事務官であった妻木龍雄、取調警察官であった奥野一雄、同花谷清次、第三八回公判(同年八月一四日)において村田、第三九回公判(同年一〇月五日)においてBをそれぞれ証人として取り調べたうえ、右被告人野上について検察官から新たに請求のあった斎藤治の検察官に対する供述調書五通のみを任意性ありとして採用して取り調べ、同じく新たに請求のあった水嶋晢の検察官に対する供述調書を任意性なしと認めてその請求を却下し、さきに木沢ら宮操事件関係の相被告人らとの併合審理のあった第一二回公判において、採用され証拠調がなされた木沢、斎藤勇、A、野上、出上の司法警察職員及び検察官に対する全供述調書を任意性なしと認めて証拠排除をするに至った(野上の事件は第一審の有罪判決、控訴審の控訴棄却判決があったのち、上告中)。本件弁護人は右別件である野上の分離後の公判における前記証言速記録の謄本等を最高裁判所に事実取調の請求をし、最高裁判所は、これを公判に顕出して被告人らの捜査官に対する自白調書の任意性に関する原判断の当否を判断する資料に供した結果、本件第一審においては、汽車往来危険罪における危険性の有無、本件ラムネ弾が爆発物に該当するか否かについての鑑定等に証拠調が集中し、自白調書の任意性に関する立証としては、取調立会の検察事務官並びに取調警察官を証人として尋問しているにすぎず、その際における右証人らに対する被告人側の反対尋問は極めて不活溌で被告人側の防禦権の行使は全体として不充分であり、この点についての被告人らに対する本人質問も行なわれていないから、本件記録に関するかぎり、捜査段階における所論の強制、拷問、利益誘導を疑うべき証拠は認められず、この点に関する旧第二審の判断には所論の違法は存しない、としながら、前記顕出にかかる別件の第一審相被告人野上の公判における被告人ら及び取調警察官の証言を記載した証言速記録謄本によれば、被告人木沢、同斎藤、同A、同B(現姓B′)、第一審相被告人野上はいずれも警察署における取調に際しては手錠をかけられ、正座をさせられ、その他各般の不当な処遇を受けたというており、取調警察官であった証人広田正男、同青木浅雄、同古池泰博はいずれも手錠をかけて取り調べた事実その他被告人らの主張する不当な処遇を否定しているのであるが、正座の点は必ずしもこれを否定せず、ただこれを強制したことはないと証言していることが窺われると判示したのち(なお、右証人広田、同青木、同古池の証言速記録謄本によれば、右証人らはいずれも野上を取り調べた際の状況についてのみ証言していることが窺われるから、右上告審判決のいう右取調警察官であった証人らの証言要旨についての判示の趣旨が野上を取り調べた際の状況についてのみならず、被告人木沢、同斎藤、同A、同Bを取り調べた際の状況についての証言も含む趣旨であるならば、右の判示は妥当ではない。)、勾留されている被疑者が捜査官から取り調べられる際に手錠を施されたままであるときは特段の事情のないかぎり、その供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきであるとの法律上の見解を示したうえ、本件において被告人らの取調に際し捜査官が手錠を施したままであったか否か、並びにこれを施用したままであったとしても、その供述の任意性を肯定すべき特段の事情が存したか否かの点その他被告人らの自白調書の任意性の有無、(前記速記録謄本においては被告人らは検察官の取調の際の状況については直接には触れていないが、検察官の取調についても警察官の取調の際における影響が遮断されていたか否かの点についても同様)については、なお審理を尽くすべき必要があると認められるとし、この点において旧第二審判決は結果的に審理不尽の違法をきたし、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するとして旧第二審判決を破棄し、当控訴審に審理を尽くすよう命じて差し戻したのである。
ところで、破棄差戻判決の拘束力はその判文を解釈することによって決すべきものであるところ、前記判文によれば、本件上告審判決は自白調書の任意性の有無についてはいずれも判断していないことはもとより、その判断の基礎となる事実、すなわち手錠の施用の有無、正座の強制等各般の不当な処遇の存否についてもいずれとも認定せず、これらの事実の確定及び任意性の判断はすべてこれを当控訴審の審理の結果に委ねていることが明らかであるから、本件差戻判決の拘束力は、前記判文にいう法律上の意見と審理不尽を指摘する点についてのみ生ずるものと解すべきが相当である。弁護人はいわゆる松川事件の上告審差戻判決を引用して本件差戻判決の拘束力を云々するけれども、その破棄理由が本件と異なるものであるから、これと同様に解することはできず、所論は採るを得ない。もっとも、本件上告審が別件の証言速記録謄本を資料に供した結果、旧第二審の任意性に関する判断に審理不尽の違法があるとして破棄差戻をする以上、右速記録謄本によって被告人及び元相被告人らの自白調書の任意性に何らかの疑いを投げかけたものであることは否定しがたいところであるが、右速記録謄本中の被告人木沢、同斎藤、同A、同村田、同B、元相被告人野上、同出上の供述に対比すべき捜査官側の証言としては右速記録謄本中には相被告人野上の取調状況についてのものが存在するだけで、元相被告人井内の取調状況に至っては本人の死亡の故もあって、右速記録謄本中には右本人は勿論のこと捜査官側の証人の供述もなく、さらにこれら被告人及び元相被告人らの供述に対比すべき第一審公判における捜査官側証人らの供述は総体的に極めて抽象的で双方の供述の信憑性を判断する資料としては極めて不十分なものであることがうかがわれるのである。したがって、当裁判所としては右速記録謄本中の各書証又はこれに代わる被告人あるいは証人のほかにも証拠資料を取り調べなければならず、これらを取り調べて双方の供述の信憑力を検討したうえであるならば、任意性判断の基礎となる事実の存否及び任意性の有無についていずれとも判断し得るものと解する。(したがって、結果的には、双方の供述の信憑力を検討することによって上告審判決の投げかけた疑いが解明されることとなるわけである。)
二、自白の任意性に関する一般的考察
弁護人及び被告人らが控訴趣意書並びにその補充としての上告審弁論書において自白の任意性に関して主張するところは多岐にわたるが、これに当審の審理過程において弁護人から主張のあった自白の証拠能力に関する点なども含め、その主要な点について一般的な考察をすることとする。
(一) 取調に際しての手錠の施用
既に勾留されている被疑者が捜査官から取り調べられる際に、さらに手錠を施されたままであるときは、その心身に何らかの圧迫を受け、任意の供述は期待できないものと推定せられ、反証のない限り、その供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきものと解すべきことは最高裁判所の判例(昭和三八年九月一三日判決、刑集一七巻八号一七〇三頁)の示すところであり、本件差戻判決もこの見解のもとに差し戻し、当裁判所もこれに拘束されるところである。右の判例は両手錠施用の事案についてのものであるが、その判示自体からみれば両手錠施用の場合と片手錠施用の場合とを特に区別していないようにもみられる。思うに、右判例が、手錠を施用したままの取調につき「心身に何らかの圧迫を受け、任意の供述は期待できないものと推定される。」というのは、手錠の施用が身体の自由を直接拘束するだけでなく、被疑者に卑屈感を抱かせ、取調に対して迎合的になり易いということによるものと考えられるのであるが、その傾向は被疑者の年令、境遇、社会的地位などによって異なるところがあるのみならず、両手錠か片手錠かによっても差異があることは是認されるところであろう。両手錠の場合は、身体の拘束の程度が強く、そのために受ける心理的圧迫感も相当強いと思われるのに対し、片手錠の場合は、両手はかなり自由で起居動作には支障がなく、片手錠施用による身体の拘束はきわめて軽度であるから、その者にとって勾留されていること自体によるある程度の心理的、肉体的圧迫感は免れないとしても、片手錠施用によって受ける心理的圧迫感は両手錠の場合に比べて弱く、人によっては心理的圧迫感がきわめて微弱な場合のあることも否定しがたいところである。してみると、取調に際し両手錠を施用したままであったときは、被疑者が逃亡、暴行、自殺のおそれが濃厚であるなど、その施用が何人も是認し得る場合や、前記判例の指摘するようにその取調が終始おだやかな雰囲気のうちに進められる等、手錠の施用と自白との間に因果関係がないと認められる特段の事情のある場合にはその取調の際の自白には任意性があるものというべきであるが、然らざる場合にはその自白の任意性に疑いがあるものと解するのが相当であり、他方、取調に際し片手錠を施用したままであったときは、両手錠施用のときのようにしかく厳格に解すべきではなく、被疑者の年令、境遇、社会的地位、性格、その他取調の状況等からみても、片手錠の施用と自白との間の因果関係が存在しないと認められる場合にはその取調の際の自白には任意性があるものというべきである。
(二) 正座の強制
正座は、それが、短時間である場合は特に肉体的苦痛を感ずるものではないが、ある程度長時間にわたって続けられた場合には、正座に馴れない者は勿論、たとえ馴れている者であってもそれが習性となっている者はともかく、相当の肉体的苦痛を伴なうものであることは、吾人の経験に徴し明らかなところである。したがって、取調に際しその正座が被疑者の習性となっている場合、あるいはその自由意思に基づくものである場合はともかく、これを強制することは、一種の肉体的苦痛を与える手段として供述の任意性を疑わしめる一つの資料となりうるものというべきである。しかしながら、取調警察官が自分が正座をするところから取調の当初被疑者に対しても一応正座をさせることがあっても、それが比較的に短時間であったり、あるいは時間が経つにしたがって被疑者の自由に任せて取り調べたような場合には、正座を強制したものといえないことはいうまでもない。
(三) 供述の押しつけ
捜査官が被疑者の意思に反する供述を押しつけるような取調をすることは、虚偽の自白を誘引するおそれがあり、このような取調による自白は任意性に疑いがあるものというべきである。しかしながら、自白に任意性があるためには徹頭徹尾自発的になされたことを要するものではなく、黙秘し否認している被疑者に対し条理を説いて供述を促し、記憶を喪失し又は他の証拠と矛盾する供述をする被疑者に対し、収集された資料に基づいて記憶の喚起を促し、又は矛盾をただすということは、それが強制にわたらないかぎり、取調の方法としては許されなければならない。そして、強制にわたるか否かは、捜査官の取調状況、被疑者の受けとめ方、その他諸般の事情を考慮して、事案ごとに個別的に検討すべき事柄である。
(四) 警察官の取調の際における強制と検察官調書の任意性との関係
検察官に対する自白が、その前の警察署における警察官の取調の際における肉体的苦痛を伴う強制の結果なされた自白を反覆しているにすぎないのではないかとの疑いがある場合においては、警察官の取調の際における心理的影響が遮断され前示肉体的苦痛と検察官に対する右自白との間に因果関係が存在しないなどの事情が認められないかぎり、検察官に対する自白はその任意性に疑いがあるものと解するのが相当である。そして、右の影響が遮断されているかどうかは、(1)強制が加えられた警察官の取調と検察官の取調との間の日時の間隔、(2)両者の取調場所が同一かどうか、異なるとしても留置場所が同一かどうか、(3)検察官の取調に際して警察での取調に関与した警察官が立ち会ったかどうか、(4)被疑者の性格、健康状態等の事情を具体的かつ個別的に考慮して判断すべきものと考える。ことに、警察官の強制により自白した被疑者が、警察署に留置されたまま検察官の取調を受けるときは、その取調場所が警察署である場合はもちろんのこと、検察庁である場合であっても、検察官の取調に対し、もし黙秘又は否認をしたならば、再び警察官の取調を受け、前と同様の強制が加えられるのではないかという心理的な畏怖感ないし圧迫感を抱いて、検察官に対しても従来どおりの自供の態度に出るおそれのあることが考えられ、これとは反対に、被疑者を警察署の留置場から拘置所に移監のうえ、検察官が検察庁あるいは拘置所で取調をするときは、移監によって警察官の取調の際における影響が物理的に遮断されることは勿論、このことによって心理的にも影響が遮断されることもあり得ることは十分考えられるところである。このことは、当審証人野上銀次郎が「拘置所へ移されて後は警察から離れたというふうに思って、検事の調べでは供述を拒否した。」旨供述しており、又、被告人斎藤も当審第二五回公判において「拘置所へ移ってすぐ弁護士の面会があり、本来の黙秘の気持に戻った。拘置所は警察とは、第一、食事が全然違うし、警察と比べたら雲泥の差だったので、拘置所に移ってからは精神状態、身体等の状態はかなり回復していた。」旨供述しているところからもうかがわれるところである。
(五) 起訴後の取調
刑事訴訟法一九七条は、捜査については、その目的を達するため必要な取調をすることができる旨を規定し、同法一九八条一項は、捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる旨を規定している。そして、右一九七条は、捜査官の任意捜査について何ら制限的規定を置いていないから、起訴後当該起訴事実について被告人を取り調べることは、右一九八条の被疑者という文字にかかわりなく許されるものといわなければならない。しかしながら、他面、被疑者も一たん起訴されるや、検察官と対立する当事者としての地位にも立つのであるから、起訴後も当該起訴事実について被告人を無制限に取り調べることができるものとするときは、その実質的防禦権を侵害するおそれのあることは十分考えられるところである。したがって、起訴後捜査官が当該事実について被告人を取り調べることは、できるかぎりこれを避けるべきはもとよりのことであるけれども、これによって直ちにその取調が違法であるというべきではなく、ただその場合の取調は被告人の防禦権を実質的に侵害しないよう必要最少限度にとどめるべきであり、ことに被告人が現実に検察官と対等の当事者としての活動を開始する第一回公判期日後は許されないものと解するのが相当である。捜査官が、起訴後第一回公判期日前の間に、被告人についてその余罪を取調中に被告人自らの申出により起訴事実に関して取調をする場合や、起訴前に既に被告人が捜査官に対して供述している事項について、補充的に説明を求めたり、あるいは共犯者の面通しをするために被告人を取り調べるような場合は、被告人の防禦権を実質的に侵害するものとは解されない。
(六) 宮操事件捜査集団による集団的自白強制の主張について
弁護人は、本件の宮操事件、籾井事件、大西事件の捜査を担当した警察、検察の捜査集団、ことに警察の捜査集団は、捜査集団としての事件の全貌を想定し、黙秘権を行使する本件被告人及び相被告人全員に対し暴行、脅迫、手錠の施用、正座の強制、その他不当な処遇を加えて自白を強制したものであるというのである。しかしながら、集団による犯行と思われる特殊事件についての捜査のため、特に捜査本部が設置され多数の警察官がその捜査に当る以上、互に緊密な連絡をとり、各その被疑者の取調状況やその結果得た情報を交換し、その後の取調に資するための打合わせをすることは、捜査方法として当然のことであり、本件記録及び当審における事実取調の結果によっても本件捜査当局が相談のうえ、黙秘する被告人及び相被告人ら全員に対しもれなく所論のような強制を加えて自白を強制したことを認むべき証拠は存在しない。思うに、被疑者の取調は、取調に当る捜査官対被疑者という人対人の問題であるから、同一の捜査官による取調であっても、相手の被疑者の性格、態度、捜査の進捗状況等種々の事情によって、その取調状況が異なることは十分考えられるところであり、したがって、同一捜査官がある被疑者の取調に際し所論のような強制にわたる行動に及んだことがあったとしても、共犯とされる他の被疑者の取調に際しても必ずこれと同様の行動に及ぶものとはいえないのであって、本件においても、自白の任意性判断の基礎となる事実の存否、ひいては任意性の有無は被告人あるいは元相被告人らの個々について個別的に判断すべき筋合のものといわなければならない。弁護人の主張は採用しがたい。
三、任意性に関する個別的検討
前記証拠排除された供述調書を除くその余の供述調書の任意性の有無について、以下に検討することとする。
(一)、被告人木沢恒夫の拘置所在監中の検察官調書四通について
(1)、弁護人及び被告人木沢は、同被告人の大阪拘置所在監中の検察官に対する昭和二七年一一月六日付(二通)、同月七日付、同月一〇日付各供述調書は、警察官の取調の際に受けた不当な強制の影響下に作成されたもので任意性がないと主張するので、警察官の取調以来の同被告人の自白調書について、同被告人が野上の第二四回、第二五回各公判、並びに差戻後の当審第二四回、第五四回各公判を通じ、その任意性を争う供述をみるに、その要旨は次のとおりである。
(イ)、警察官の取調について
昭和二七年九月一五日吹田事件で逮捕され、曽根崎署に引致され、同月一六日西署の畳の部屋で平岡部長刑事等に片手錠のまま調べられたが、黙秘し、その日大淀署に移され、同月一七日同署の一〇畳位の畳の部屋で平岡、井村両刑事に調べられ、最初あぐらをかいていると、「人の家へ来てちゃんと座らんかい。」と言われて正座させられ、しばらくすると、手錠を前両手錠にされた。午後検察庁で弁解をきかれたが黙秘した。大淀署に帰って右両刑事に調べられ、ずっと正座させられ、同月一八日裁判所で勾留質問後大淀署で右両刑事に調べられ、平岡部長から正座を命じられたので、「拷問やないか、拷問する気か。」と言うと、「こんなもの拷問のうちに入るか。」と言われ、結局正座させられて午後五時まで続いたが、黙秘を続けた。房に帰るときはしびれが切れて歩きづらく井村刑事の肩をかりた。同月二〇日(土)であったか、前両手錠で正座させられていたところ、井村刑事に後手錠にかえられ、「まだしゃべらんのか。」と言って手錠のひもを足の太腿に巻きつけて来て足の太腿を両手で押え、耳元で大声でどなったり、顔に息を吹きかけたり、顔を寄せて来て「名前は何というんじゃ、よう言わんのか。」と言うので、腹が立って井村刑事の肩か腕のところへかみついたと思う。すると「この野郎。」と言って頬を二、三発どつかれ、後ろから肩を押えたりもんだりされ、「お前みたいなやつは壁に鼻をひっつけて座っておれ。目をつぶってよく反省しろ。」と言われ、夕方五時頃までやらされ、すねがすりむけて痛く、房へ帰ったときは頭がふらふらしてあぶら汗が出、房へ入るなり「あいつらが拷問しやがった。」と大声でどなって倒れるようにして横になった。同月二二日(月)は調室で午前も午後も正座、後手錠のままおかれ、刑事らは雑談していて、正座がくずれると手で直された。同月二三日は午前から正座、後手錠で調べられていたが、鼻水が出て来て、刑事が「鼻紙をやるからかめ。」と言って手錠をはずしてくれたので、「鼻紙はいらん、わし持っとる。」と言ったところ、「鼻紙どないした。」と聞かれて、うっかり「同志にもらった。」と言ってしまい、誰にもらったかと追及され、後手錠にして正座させられた。その人に迷惑がかかったらいけないし、前日に相当拷問を受けたためにふらふらだったので、名前、住所、本籍を言い、吹田事件に参加したことだけ言った。すると、手錠をはずしてくれ、あぐらにさせ、煙草をすわせてくれた。房へ帰ってから、自分の意思に反して供述したことで情なくなった。同月二四日は片手錠、あぐらの状態で調が始ったが、前日の供述を撤回して黙秘すると、再び後手錠、正座にさせられ、午後も同じ状態であった。同月二五日西署に移され、午後から二階の畳の部屋で平岡、井村両刑事に後両手錠にされたが、正座を拒否して足を投げ出したところ、相手は、後手錠のまま左右から押えつけ、足をまげて無理に正座させようとし、私が正座させられまいとして足をばたつかせて暴れたため、レスリングのようになった。そのため何回も身体を持ち上げられて下に落ちるとき、手を後ろにとられているので首や肩から落ちるようになった。そのときシャツがビリビリに破れた。それでも正座しなかったので、その日は相手もあきらめた。同月二六日には平岡、井村両刑事のほかに岡刑事が加わり、三人がかりで正座させようとするので、前日同様に暴れたが、三人に後手錠のままむりやりに正座させられ、倒れないように左右から支えて正座を続けさせられ、何時間位かわからないが、ふらふらになって大声で泣いた。岡刑事が「お前も一ぺん調書ができかかっており、何もかもわかっているんだから、井村刑事の言うとおりにしたらええ。」と言ってパンを買って来てくれたので、それを食べ、煙草もすわしてくれ、あぐら、片手錠にしてくれた。そして、このような拷問に耐えかね、刑事が言うのをうなずくといった調子で吹田事件についての自供調書が作られた。翌二七日からはあぐらの姿勢で片手錠位だったと思うが、腑抜けのようになって刑事の言うとおりにうなずくだけで、宮操、大西、吹田事件についての調書をとられた、というのであって、要するに、被告人の警察官に対する供述調書は警察官による手錠の施用、正座の強制、暴行、脅迫、供述の押しつけにより作成されたものであるというのである。
(ロ)、検察官の取調について
別所検事は警察調書などを持っていて、こうだなときき、自分がうなずくと、それを事務官に書かせて調書を作った。検事の調は警察での調を清書するような感じがした。一〇月二、三日の吹田事件についての取調の時などは午後六、七時頃から午後一一時半頃までかかり、立会事務官が南海電車の難波発の終電車に間に合わなくなると言ってとんで帰ったことがあった。
拘置所に移監後の検察官の取調はとにかく何もかも早くすんでしまいたいという気持で、もう一度頑張って言いたくないことは言わんでおこうという気持にならなかった(差戻後当審第二四回公判)。警察の留置場から拘置所に移監されるときに附添の警察官から裁判でひっくり返したら承知せんぞといわれた。拘置所へ来ていよいよえらいところへ来たと思った。検事は刑事の総元締めと感じていたし、警察で三人がかりでやられてむりやりに自供調書をとられてからは腑抜けみたいな状態だったので、拘置所での検事調べにはもう一度黙秘するという気持になれなかった(証拠排除決定後の当審第五四回公判)、というのであって、検察官に対する供述調書は警察の留置場に拘束中の取調にかかるものは勿論、拘置所に拘束中拘置所での取調にかかるものもすべて前記警察官の取調の際における影響が遮断されていない状況下に作成されたものであるというのである。
(2)、そこで、被告人木沢(以下木沢という。)の自供の経過についてみるに、原審で取り調べた証拠(さきに証拠排除したものも資料とする。)に当審における事実取調の結果をも総合すると、木沢は昭和二七年九月一五日別件の吹田事件で逮捕され、同月一六日は西署で、同月一七日から二四日までは大淀署で、同月二五日から同年一〇月三〇日までは西署で、主として平岡繁三巡査部長及び井村正雄巡査の両名に取り調べられ、その間同年一〇月七日吹田事件で起訴され、その後同年一一月四日大西事件で起訴、勾留され翌五日大阪拘置所に移監され、同月二一日宮操事件で起訴、勾留され、検察官の取調は西署在監中及び拘置所在監中になされているが、木沢は逮捕されて以来被疑事実である吹田事件について黙秘を続けていたが、逮捕後九日目の九月二三日に吹田事件について自供し、翌二四日鼻紙の問題があって途中、自供を撤回し、同月二六日再び自供し、翌二七日宮操事件について自供し、爾来、吹田、宮操、大西の三事件について交互に入り組んでの取調の都度、警察官に対し終始自供し、検察官に対しても自供を続けていたことが認められる。
しかし、木沢の野上の公判及び当審公判における供述や原審証人に対する反対尋問の内容の中には、その警察官から受けたという強制に関し誇張と思われる点がうかがわれないではないけれども、結局は、木沢の警察官に対する自白及び西署に勾留されている際における検察官に対する自白には任意性に疑いがあることは、さきに証拠排除決定に示したとおりである。
ところで、木沢が大阪拘置所に勾留されている際における検察官の取調は、同拘置所に移監された日の翌日である昭和二七年一一月六日(二通)、同月七日、同月二〇日の三回にわたり行なわれたのであるが、右の取調はいずれも、木沢が警察官から肉体的苦痛を伴なう強制を加えられた最後の日であるという九月二六日から既に四〇日ないし約五五日を経過したのちの取調であって、その間警察官及び検察官から不当な強制を受けたことのないことは木沢が自らも認めるところであり、しかも、警察官の木沢に対する取調は既に一〇月中頃にはほぼ終了し、その後はいわば散発的に補充的な取調が二、三回行なわれた程度であって、拘置所に勾留された段階においては警察の取調は全く終了していたことは記録により明らかであり、木沢もその事情は知っていたものと思われ、又、木沢の昭和二七年一一月六日付の菅原、古川両弁護人連署による弁護人選任届によれば、同届には木沢の拇印であることの証明者として巡査部長平岡繁三の署名捺印がなされているところからすると、右選任届は木沢が一一月五日に拘置所に勾留される前の警察にいる際に右両弁護人を選任したことが認められ(一一月六日に原裁判所に提出されているところからみて、その際同日付にされたものと思われる。なお、木沢は当審第二四回公判で弁護人と初めて会ったのは保釈((釈放は同年一二月二五日))されてからと思うというが、そうすれば第一回公判後となり不合理である。野上、Bの右両弁護人選任届((野上のは一一月六日付、Bのは一〇月二九日付))もいずれも一一月六日に原裁判所に提出されており、野上は一〇月末頃、Bは一〇月二九日頃に古川弁護人と面会していることが記録上認められるところからして、木沢も弁護人選任の際弁護人と面会したのではないかと推測されないではないが、認定はしがたい。)、木沢としても弁護人との連絡がついて気分的に大きな支えを得たことがうかがわれる。木沢は、当審第五四回公判において、拘置所に移監されるときに附添の警察官から裁判でひっくり返したら承知せんぞと言われたというが、右は従来供述していなかったことであり、とうてい信用できず、又、拘置所へ来てえらいところへ来たと供述するのは拘置所が規律が厳正なところからそのように感じたのであろうが、野上や斎藤が警察から解放されたとか、警察よりも待遇がよかった趣旨の供述をしている点とも対比して、警察で強い強制を受けたと主張する木沢としても拘置所へ移って野上と同様の感じを持ったのではないかと思われ、又、腑抜けの状態であったというが、その意味が捜査官の言うがまゝであったとの趣旨であるとするならば、木沢の拘置所における自白調書の供述内容からしても、そのような状況でなかったことがうかがわれる。以上の諸事実を合わせ考えると、拘置所における検察官の取調の際には、木沢が検察官に対して否認、黙秘、その他警察官の取調の不当性を述べても、再び警察官から圧迫が加えられるようなおそれのある状態ではなく、かつ又、木沢自身もそのような圧迫感を抱いていたものとは認められない。そうすると、拘置所在監中の木沢の検察官に対する自白は、警察官の取調の際に受けた強制の影響から遮断され、これとの間に因果関係が認められないから、右自白には任意性があるものというべきである。
(二)、被告人Aの拘置所在監中の検察官調書四通について
(1)、弁護人及び被告人Aは、同被告人の大阪拘置所在監中の検察官調書四通は、警察官の取調の際に受けた不当な強制の影響下に作成されたものであると主張するので、警察官の取調以来の同被告人の自白調書について、同被告人が野上の第二七回公判及び差戻後の当審第二六回、第五四回各公判を通じ、その任意性を争う供述をみるに、その要旨は次のとおりである。
(イ)、警察官の取調について
宮操事件で緊急逮捕された翌日の一〇月四日(土)に大淀署から天満署に連れて行かれ、二階の畳の部屋で青木刑事に前手錠、正座で約三〇分間「黙っていたら、ためにならんぞ」など言って取り調べられた。一〇月六日(月)午前八時過から大淀署の三階の畳の部屋で広田部長刑事、青木、古池刑事が前に渡辺刑事が後ろにいて、足をくずしていると、広田部長が「わしも正座しているのに、お前も正座せんかい」と言って、前手錠のまま正座させられ、広田部長が「名前を言え。」「黙っとったら不利になるぞ。」「黙ったままでは帰らさないぞ。」などと言い、さらに「ほかの者がしゃべっておって調書もある。」と言って調べられた。その時だったか後だったか、他の者の調書の署名を見せるなどして調べた。足が痛くてくずそうとすると、「正座せい。」と言って前に座っている相手に蹴られた。午後もまた正座、前手錠で調べられ、房に帰るときまともに歩けず、階段のへりにすがりながら帰った。一〇月七日も広田、青木刑事らに前同様の方法で調べられ、他の者の調書を持って来て「こうじゃないか。」「嘘を言うな。」と言って、広田部長に手で両頬を殴られ、「よく考えろ。」と言って、壁に向って正座させられ、青木刑事から「お前も早く言って帰らしてもらった方が得だ。」などと言われ、夕方頃から相手の言うとおりにうなずいてメモをとられた。供述しかけてからは手錠をはずし、あぐらをかかせ、毛布まで敷いてくれ、渡部刑事はお茶を入れてくれた。一〇月八日も途中違ったことを言うと正座させられ、広田部長が「まだ隠しとる、まだわからんのか。」と言って首筋を押え、前の座机に頭を二、三回こつんこつんとぶっつけた。そのため相手の言うとおりに調書が作られた。一〇月九日、一〇日も正座の状態で調べられ、相手の言うのをうなずくままに調書が作られた。現場検証(一〇月二〇日)に連れ出され、十三橋署に立ち寄ったときに、拳銃の分解掃除をしている部屋に連れ込まれ、古池刑事が拳銃持って来ていて、渡辺刑事から「嘘を言ったら後ろから撃ち殺されるんぞ。」と脅された。というのであって、要するに、被告人の警察官に対する供述調書は、警察官による両手錠の施用、正座の強制、暴行及び供述の押しつけにより作成されたものであるというのである。
(ロ)、検察官の取調
別所検事は、警察官調書に従って質問し、大淀署で夕方から調べられたときに自分が違うと言うと「嘘を言うと罪が重くなるぞ。」などと言われた。一一月二〇日拘置所へ移監される途中、古池刑事だったか青木刑事だったか、供述をひっくり返したらこらえんぞ、と言われた。拘置所は陰気臭くて警察よりも恐しい所だと思った。とにかく早く出たいという気持で一杯だった、というのであって、被告人Aの検察官調書は警察の留置場に拘束中の取調にかかるものは勿論、拘置所に拘束中拘置所での取調にかかるものもすべて前記警察官の取調の際における影響が遮断されていない状況下に作成されたものであるというのである。
(2)、そこで、被告人A(以下、Aという。)の自供の経過についてみるに、原審で取り調べた証拠(さきに証拠排除したものも資料とする。)に当審における事実取調の結果をも総合すると、Aは、昭和二七年一〇月三日午後二時頃宮操事件で緊急逮捕され、天満署で広田正男巡査部長の弁解録取を受けて被疑事実を否認し、大淀署に留置され、翌四日(土)に天満署において青木刑事の取調を受けたのち、別所検事の弁解録取、裁判官(石松竹雄)の勾留質問を受け、午後一時一〇分頃大淀署に勾留され、それ以後その日の取調はなく、翌五日(日)も取調はなく、六日には広田部長、古池刑事が午前九時半頃から大淀署三階宿直室の畳の部屋でAを取り調べたが、午前中は黙秘し、午後一時頃から午後五時頃までの取調において、Aは家族関係、経歴について供述したのち、「被疑事実については後でよく考える。」旨供述し、翌七日午前中から大淀署で広田部長、古池刑事が取り調べ、夕方頃になって宮操事件について自供し、爾後宮操及び吹田両事件について交互に取調を受け、その都度警察官及び検察官に対し自供し、その間同年一一月五日に大阪拘置所に移監され、同年一一月一三日家庭裁判所に宮操、吹田の両事件で送致されるとともに観護措置として大阪少年鑑別所に収容され、同月二〇日検察官送致となり、同月二四日宮操事件につき起訴されたことが認められる。
しかし、Aの警察官に対する自白及び大淀署に勾留されている際における検察官に対する自白には任意性に疑いがあることは、さきに証拠排除決定に示したとおりである。
ところで、Aが大阪拘置所に勾留されている際における検察官の取調は、同拘置所に移監された日の翌日である昭和二七年一一月六日(二通)、同月七日の二回、並びに同月一三日宮操、吹田の両事件で大阪家庭裁判所に送致されて観護措置として大阪少年鑑別所に収容され、同月二〇日検察官送致となった当日右拘置所で一回、計三回にわたり行なわれたものであるが、右の取調は、いずれも、警察官によるAの最終の自白調書が作成された同年一〇月一〇日から二七日ないし四一日、警察官によるA及び斎藤治の指示説明に基づく宮原操車場における実況見分の行なわれた同年一〇月二〇日から一七日ないし三一日を経過した後の取調であって、その取調の状況からしてA自身も拘置所に移監される段階では自己に対する警察の取調が終了したものであることは知っていたことがうかがわれ、右警察官による実況見分以来は、警察官及び検察官から不当な強制を受けたことのないことはAが自らも認めるところである。Aは、差戻後の当審第二六回公判において、拘置所に移監されるとき古池刑事か青木刑事かから「警察の調べをひっくり返したら、こらえんぞ。」と言われた旨供述し、当審第五四回公判でも、一一月五日と思うが、野上と一緒の車で拘置所へ移されるときに、その途中で、古池刑事から前記のようなことを言われた旨供述するのであるが、当審証人野上はこの点について触れていないし、Aの供述はたやすく信用しがたい。又、Aは拘置所は警察よりも恐ろしい所だと思った旨供述するが、それは拘置所が規律が厳正なところからそのように感じたのであろうが、野上が拘置所へ移って警察から解放されたと供述をしている点とも対比して、警察で強い強制を受けたと主張するAとしても、拘置所へ移って野上と同様の感じを持ったのではないかと思われ、又、Aの当審第二六回公判における検事と刑事との区別がつかなかったとの供述及び当審第五四回公判における拘置所内で圧迫感を持った旨の供述は、ともに当時のAの年令を考慮しても採用しがたい。以上の点を合わせ考えると、拘置所内における検察官の取調の際には、Aが検察官に対して否認、黙秘、その他警察官の取調の不当性を述べても、再び警察官から圧迫が加えられるようなおそれのある状態ではなく、かつ又、A自身もそのような圧迫感を抱いていたものとは認められない。そうすると、拘置所在監中のAの検察官に対する自白は、警察官の取調の際に受けた強制の影響から遮断され、これとの間に因果関係が認められないから、右自白には任意性があるものというべきである。
(三)、被告人村田不二男の検察官調書七通について
(1)、弁護人及び被告人村田は、同被告人の検察官調書は、警察官の取調の際に受けた強制の影響下に作成されたものであると主張するもののようであるから、警察官の取調以来の同被告人の自白調書について、同被告人が野上の第三八回公判、差戻後の当審第二五回及び第五五回各公判を通じ、その任意性を争う供述をみるに、その要旨は次のとおりである。
(イ)、警察官の取調について
一〇月三日午後一時頃逮捕され西署へ連れて行かれ、その時西署の便所の窓から手帳を投げ捨てたため、逮捕した警察官と思うが「こんなことしやがって。」と言って殴ったり蹴ったりされた。西署で約五分位いて天満署に連行されたが、その時警察官に東中弁護士に連絡をとってくれるよう頼んだ。その日は曽根崎署に留置され、翌四日午前一〇時頃から天満署で別所検事の弁解録取、ついで裁判所で裁判官の勾留質問を受けたのち、午後一時頃から五時頃まで天満署の畳の部屋で末吉、道吉両刑事から片手錠、正座で調べられ、「斎藤、木沢が供述しているのに、お前だけ否認しとっても何ともないんだ、むしろ、否認しているほうが損ではないか、早くしゃべったほうがいいんではないか。」と追及され、言わないと言うと、末吉が蹴っとばしたり、顔を殴ったり、手錠の一方の紐をぐいぐい引っ張ったりした。しかし、連絡してくれるように頼んでおり、弁護士がくることを期待していたので黙秘していた。その後六日も両刑事に調べられ、七日の第二回目の供述調書をとられる前に否認していると、一時間でも一時間半でも正座をさせたまま片手錠を施用し、反対の片手錠を机の足に引っかけて自分達は昼寝したり雑誌を読み、「早くしゃべってしまえ。」と言うては机の下から蹴っとばしたり、木沢や斎藤の調書をちらつかせて時々その内容なんかを話したりした。弁護士もなかなか来てくれないので自分がしゃべらなくても大体わかっているようなものだし、しゃべった方が身体の方も楽だし家族にも累が及ばないだろうと思って一〇月七日に自供するようになった。一〇月一三日朝実地見分で曽根崎署から車で宮原操車場の野球場の近くへ行ったが、斎藤の自供の内容と違うということでその車の中で花谷刑事に足を踏まれたり、蹴っとばされたり、手拳で腹の辺を殴られた。それから天満署に行って花谷刑事に調べられたが、正座させられ、刑事の言うとおりのことを言わないと鉄筆をつきつけたり蹴ったりした。しかし、相手の言うとおりにすると、足をくずさせてくれたり煙草をすわせてくれた。警察の調の当初から私はたしか東中弁護士と言ったと思うが、調の都度にも弁護士に会わせてほしいと言うたが、「お前らのようなチンピラに会いにくるような弁護士はおらん、東中さんも忙しくてお前らのところへこれるか。」といわれた、というのであって、要するに、被告人村田の警察官に対する供述調書は、警察官による弁護人選任権の侵害、正座の強制、殴る蹴るの暴行、供述の押付により作成されたものであるというのである。
(ロ)、検察官の取調について
逮捕された翌日の一〇月四日天満署で別所検事の弁解録取のとき、黙秘権を行使すると言うと、同検事は、「黙秘権というのは、法律を守る国民のためにあるんだ、お前らのような連中には黙秘権はない。えらそうなことを言うとひどい目に会うぞ、さっさと自供した方がお前のためだ。他の被疑者は全部しゃべっている。いつまでも黙秘なんかしていると絶対いいことはないから、早くしゃべってしまえ、いつまでも否認していると、家族の利益のためにならん。弁護士というが、弁護士もさっさと来てくれるものではない。」と言い、私が机の上に両手を置いていると、態度が生意気だといって鉛筆の先で手の甲をつついた。その後の検事の調は警察調書を要約し、これを口述して調書をとり、違うと言っても「警察で言ったことと違うじゃないか。」と言って受けつけてくれず、結局、警察調書どおりのものが作られた。(当審第五五回公判においてさらに)検察官にも東中弁護士に連絡してほしいと頼んだ。拘置所で別所検事に調べられたが、黙秘したりするとまた警察の連続で殴られたり蹴られたりすると思った。というのであって、被告人村田の検察官調書は弁護人選任権の侵害、供述の押しつけによるものであるとともに、前記警察の取調の際における強制の影響が遮断されていない状況下において作成されたものであるというのである。
(2)、そこで、被告人村田(以下、村田という。)の供述を末吉勝吉の原審第一四回公判(昭和三〇年二月二四日)、差戻後の当審第三〇回公判(昭和四七年七月三日)における各供述、原審証人道吉一一、同花谷清次、同妻木龍雄の第一四回公判における各供述、野上の第一審第三七回公判における証人妻木龍雄、同奥野一雄の各供述と対比し、これに本件記録中の関係証拠(さきに当裁判所の決定により証拠排除したものも資料とする。)を参酌して検討するに、右各証拠を総合すると、(イ)村田は、昭和二七年一〇月三日午後一時三〇分頃籾井事件で緊急逮捕され、一旦西署に連行され、そのとき宮操事件の逮捕者野上、木沢、斎藤そのほか北野高校生のことや、逮捕された時の対策等についてもメモをしてある手帳を所持していたので、これを西署の便所の窓から外へ投げ捨てたところ、通りがかりの通行人に拾われて同署に届けられるということがあり、その際村田は、警察官から叱責され、殴られる等された疑いがあるが、その後、午後三時半頃、天満署に引致されて、奥野一雄警部補の弁解録取を受け、被疑事実については供述を拒否し、その日は曽根崎署に留置されたこと、(ロ)翌四日午前九時過頃天満署に連れて行かれたが、当時天満署に置かれていた捜査本部に配属されて四日目の捜査の経験の浅い大阪市警視庁刑事部捜査第三課の末吉勝義巡査が、突然班長の奥野警部補から村田の取調を命ぜられたので、午前九時半頃から同署二階宿直室の畳の部屋で先輩の道吉一一巡査立会のもとに村田を取り調べたが、取調中は片手錠、座り方は自由で、村田に対し、供述拒否権を告げて質問したところ、村田は「黙秘権を行使する。」と言って供述を拒否し、ただ村田から弁護人を選任できるかという話はあったが、特定の弁護人を選任するというものではなく、右の取調は約三〇分程の比較的短い時間で終り、午前一一時頃に検察官に送致手続がなされ、同日午後〇時一五分頃別所検事が天満署において村田より弁解録取をし、引き続いて裁判所で裁判官(石松竹雄)の勾留質問が行なわれたこと、しかし村田はいずれも供述を拒否し、同日午後二時四〇分頃曽根崎署に勾留され、同日午後の取調はなされていないこと。この点に関し、村田は右一〇月四日は午前一〇時頃より検察官の弁解録取、ついで裁判官の勾留質問を受けたのち午後一時頃から五時頃まで天満署で末吉、道吉両刑事に片手錠のうえ正座を強制されて調べられ、「斎藤、木沢が供述している、早くしゃべったほうがいいんではないか。」と追及され、「言わない」と言うと、末吉刑事に殴る蹴るの暴行を受け、手錠の一方の紐を引っ張られたというが、前記のように当日の警察官の取調は午前中だけで午後はなされていないから、この点右村田の供述は思い違いをしているのではないかと思われ、かりに、右供述が午前中の取調の際のことであるとしても、その取調中片手錠ではあったけれども座り方は自由であり、取調時間は約三〇分間という短い時間に過ぎないことを考えると、その間に末吉巡査が調べと調書の作成にかゝり、弁護人の選任の話も出るなど、とうてい村田のいうような正座の強制や警察官の発言、末吉刑事の暴行等の事実があったとは認められないこと。又、村田は、右別所検事の弁解録取の際同検事から「黙秘権というのは法律を守る国民のためにあるんだ。お前らのような連中には黙秘権はない。他の被疑者は全部しゃべっている。否認していると家族の利益のためにならん。」などと言って、机の上に両手を置いていると態度が生意気だと言って鉛筆の先で手の甲をつついたというが、立会検察事務官であった妻木龍雄の原審第一四回公判、野上の公判における証言にみられる別所検事の取調態度からして右のような発言や行為があったことは認めがたいこと。(ハ)一〇月六日は末吉刑事は村田の取調には当っていないが、道吉刑事あるいは他の刑事が取調に当ったのではないかとうかがわれること、(ニ)一〇月七日には曽根崎署の三階畳の部屋で道吉刑事が末吉刑事の立会で午前一〇時過頃から午後四時頃まで座り方は自由にして村田を取り調べ、村田はその当初頃から自供していたこと。当審末吉証人はその取調の際に村田に対しては片手錠もかけず腰なわであったと思う旨供述するが、それは留置警察署での取調であるから当時の取扱からいって腰なわであったと思うというのであって、それが事実と合致するかは必ずしも明確ではなく、片手錠を施用したまま取り調べたのではないかとの疑いもないではないこと、村田は、一〇月七日の第二回目の供述調書をとられる前に、末吉、道吉両刑事から、否認していると一時間でも一時間半でも正座させたまま片手錠を施用し、その一方を机の足に引っかけて、刑事等は昼寝をしたり雑誌を読み、「早くしゃべってしまえ。」と言うては蹴っとばしたり、木沢や斎藤の調書を散らつかせて時々その内容なんかを話したりしたといい、原審証人末吉に対して「証人は他の刑事が取り調べてその側にいた時(当審証人末吉の供述によれば一〇月七日の調べを指す。)爆発物で捕ったのだから罪が重い、……今のうちに言えば軽くなるだろうから、早く言えと言ったことはないか。」と反対尋問し、又原審証人道吉一一に対しても「第二回目か第四回目か忘れたが、証人が私を調べる時、朝早く取調室へ引っ張り出しながら三〇分位も証人は本を読んで待たせたことはないか。」と反対尋問をしているが、前記のように右取調中取調警察官が正座を強制した事実はなく、片手錠をしてその片方を机の足に引っかけたとの点についても、当審末吉証人がこれを否定するや、村田は「もしその机に引出があったとすれば、その桟に手錠をかけたのではないか。」と仮定的な質問に変えるなど、村田の供述自身あやふやであるうえ、右末吉証人の証言と対比し、そのような事実はあったとは認められず、その他の点についても、右末吉、道吉の証言に徴し、「他の者が言うている。」という程度のことは言うたことは考えられるとしても、それ以外に村田のいうような警察官の発言や行動があったとは認められないこと。(ホ)一〇月一三日花谷部長刑事に連れられて曽根崎署から車で宮原操車場のグランド近くへ実地見分に行き、その帰途天満署の畳の部屋で花谷部長の取調を受け調書が作成されたが、その際片手錠を施用していた疑いがあること。なお、村田は実地見分の際、斎藤の自供と違うということで車の中で花谷刑事に足を踏まれたり、蹴っとばされたり、手拳で腹の辺を殴られたりし、天満署に寄って取調を受けた際、花谷刑事に正座をさせられ、言われるとおりに言わないと鉄筆を突きつけたり蹴ったりし、相手の言うとおりにすると足をくずさせてくれたり煙草をすわせてくれたといい、原審証人花谷清次に対して実地見分の際の暴行の点について反対尋問もしているけれども、右花谷証人の証言及び村田の花谷巡査部長に対する昭和二七年一〇月一三日付第三回供述調書の供述内容に徴し、村田のいうような事実があったとは考えられないこと。(ヘ)その後の道吉刑事の取調に際しては村田に対し片手錠を施用していたのではないかとの疑いはあるとしても、正座の強制、暴行等強制を加えた事実は存在しないこと。(ト)村田は、司法巡査道吉一一に対する昭和二七年一〇月一四日付供述調書において、西署の窓から捨てた手帳を示されたうえ「この手帳には新聞で発表された宮操事件の逮捕者野上、木沢、斎藤そのほか北野高校生のことをメモしてあり、何時か逮捕されたときの対策等についても書き入れてあったので、この手帳を刑事さんに見られて読まれたときは、私が黙秘権を行使する予定であったため、その手帳を見られることによって、黙秘権を行使しても宮操事件の友達の名前を現わしている関係で隠し切れないと思って手帳を捨てた。」旨、手帳を捨てた事情について供述し、自供の動機の一つとみられる供述をしていること。(チ)検察官の取調については暴行、その他強制等の事実は存在しないこと。もっとも、村田は、別所検事は警察調書を要約して供述調書を作り、違うと言っても受けつけてくれず供述を押しつけられたというが、立会検察事務官妻木龍雄の原審第一四回公判及び野上の公判における証言に照し、かつまた、警察調書と検事調書を比較検討しても、そのような事実はなかったことが認められること。(リ)なお、村田は逮捕後天満署で警察官に対し、たしか東中弁護士と言ったと思うが、連絡をとってくれるよう依頼し、その後警察官にも言い、検察官にも頼んだが、結局連絡をとってくれず、弁護人選任権を侵害されたというのである。村田が最初警察官に依頼したというのは奥野一雄警部補の弁解録取の時のことを指すものと考えられるが、逮捕の翌日の末吉刑事の取調の際にはさきに認定したように、村田から弁護人を選任できるかという話はあったが、特定の弁護人を選任するという話はなく、村田が東中弁護士という特定の弁護士の名を出したのは当審第二五回公判における弁護人の誘導的質問に基づくもので、すなわち、弁護人の質問に対し、「警察で弁解録取書をとられたのは記憶がないし、自分は何もしゃべらなかった。」と答えたのち、「沈黙だったんでなくて、弁護人に会って相談した上で述べるということで供述を断ったということじゃなかったのか。」という質問に対し、「そういうことは言いました。」と答え、さらに弁護人の質問に対し「東中弁護士のことをたしか言ったと思う。」と答え、弁護人の「その人に連絡をとってくれと要求したのか。」との質問に対し「しております。」という弁護人の誘導的な質問による供述であることが認められ、しかも弁護人の「弁護人に会って相談したうえで述べるということで供述を断ったんじゃなかったのか。」という右の質問は、警察での弁解録取書が証拠として取調請求もなされておらずその内容も明らかではないところからして、恐らくは一〇月四日付末吉巡査に対する第一回供述調書の記載に基づく質問ではないかとみられるのであって、このような、誘導的質問に基づく供述はそれ自体信憑性に乏しいものであるばかりか、「東中弁護士とたしか言ったと思う。」というような不明確なものであること、又、村田はその後一一月六日に他の被告人と同様に菅原昌人、古川毅両弁護士を弁護人に選任していることなどを勘案すると、村田が逮捕当日の弁解録取、その翌日の警察官の取調に際し東中弁護士に連絡方を依頼したことはもとより、その後の警察官や検察官の取調に際しそのような連絡方を依頼したことも認めがたい。もっとも、村田の司法巡査に対する第一回供述調書には「私の出生地、経歴等一切の事については弁護人と相談のうえ決めることにし、只今は黙秘権を行使する。」旨の供述記載があるところからすると、村田としては弁護人選任の気持を持っていたことがうかがわれるとしても、それは前記認定のように特定の弁護人選任という形で連絡を申し出たものでなく、村田が当審で供述するようにのちに国民救援会の加古藤なる者が面会に来てくれていることからみて、警察での弁解録取に際しこのような団体あるいは友人に対して連絡方を依頼し、それらの者と連絡のうえ特定の弁護人を選任する意図であったのではないかと忖度されるのである。そして、野上の第三七回公判における証人奥野一雄の証言速記録謄本によれば、本件捜査当時被疑者から弁護人選任の要求があれば、警察の方で直ぐ連絡していたが、当時被疑者が多く(吹田、枚方事件等もあった)、弁護人のくるのがおそかった実情にあったことが認められ、このことから、もし村田から右のような連絡依頼があれば警察の方で連絡したであろうことが、うかがわれるのである。村田が検察官と、「弁護人のくるのがおそい。」と話したことがあるというのは右のようなことを話したのではないかと考えられるのであって、その後の警察官、検察官の取調に際しても東中弁護士への連絡を依頼したことは認められない。結局、捜査官側に弁護人選任権侵害の事実は存在しないこと。以上のような事実が認められるのである。そして、前記(イ)の西署でなされた疑いのある警察官の暴行は、たとえそれが手帳を捨てたことに対する叱責の意味でなされたものであるとしても、甚だ遺憾な行為といわざるを得ないけれども、その後の取調状況、自白のあった日時との間隔からみて右暴行によって自白がなされたものとは認めがたい。又、前記(ロ)の一〇月四日の警察での取調に際しての片手錠の施用は、当日の取調においては村田は黙秘していたのであるから、固より自白の任意性の問題はおこらない。その後村田が自白した一〇月七日以降の警察官の取調の際にも片手錠が施用されていた疑いはあるが、その取調状況からして特に村田に対し自白を強要する手段として片手錠を施していたものでなかったことがうかがわれるうえに、村田は原審公判において、道吉証人に対してはその反対尋問が裁判長によって関連性がないとして許されなかったためその後の尋問をすることができなかった事情はあるにしても、その前になされた末吉証人の尋問に際して取調の際の状況について反対尋問をしながら手錠施用の点については尋問をしていないこと及び野上公判の証人として証言した際にもこの点について触れておらず、差戻後の当審第二五回公判に至って初めて供述するに至ったものであり、その取調に際し他に暴行、脅迫、正座の強制等がなかったことからすると、村田が片手錠を施されていることの苦痛あるいはみじめさに堪えかねて自白するに至ったものであるとか、その他右の自白が片手錠を施されていたことを原因としてなされたものとは認められず、結局村田に対する片手錠の施用がその警察官に対する自白の任意性に影響を及ぼしたとはいわれない。又、前記(ニ)のように取調に際し、他の者が供述している旨告げることは、それが全くの虚偽のものであれば、偽計を用いて自白を得ようとしたものとして、場合によっては、これによって得られた自白の証拠能力が否定される場合もあるけれども、本件はそのような事実は全くなく、ただ他の者が供述しているという事実を告げ説得しようとしただけで、このことによって自白を強要したものではなく、むしろ村田自らの自由意思に基づき自白したものと認められるから、固よりこれをもって違法とはいわれない。その他証拠を検討しても、村田の取調に際し警察官及び検察官に拷問、脅迫、正座の強制等の不当な行為があったことは認められず、結局、村田の検察官に対する供述調書七通にはその供述の任意性に疑いがあるとは認められない。
(3)、ただ村田の検察官に対する供述調書七通のうち第四回ないし第七回の供述調書四通は、村田が昭和二七年一〇月二三日籾井事件で起訴されたのち、当該事件について取り調べられたいわゆる起訴後の取調にかかるものであるけれども、いずれも第一回公判期日(同年一二月二三日)前におけるものであるうえ、その第四回、第五回の各供述調書は従来の供述の補充を内容とするものであり、第六回、第七回の各供述調書は共犯者の面割りを主たる内容とするものであるから、さきに任意性に関する一般的考察として説示したように、起訴後の取調であることから直ちに右各供述調書の証拠能力を否定することはできない。
(四)、被告人B(現姓B′)の司法巡査に対する供述調書について
(1)、被告人Bの司法巡査に対する昭和二七年一一月七日付供述調書について、同被告人が別件の野上の第三九回公判(昭和三九年一〇月五日)、差戻後の当審第二六回公判(昭和四七年三月二七日)及び第五五回公判(昭和四九年一一月二七日)を通じて、その任意性を争う供述の要旨は次のとおりである。すなわち、「昭和二七年一〇月一四日に逮捕され、その翌日から日曜日を除いて連日、川上、成内、その他時には福安、徳留刑事らに港署の畳の部屋で取り調べられたが、一切黙秘した。取調中は正座を強要されたり、正座をしないときでも女だから足を横にくずす程度にしていたため、かなり足がしびれた。正座を強要されたときは正座をくずすと、刑事から両手で足をギューとしめつけられた。手錠をかけられるのはいつもではなく、はずされていたこともあるし、前両手錠のときもあった。供述拒否権は告げられたし、自分も知っていた。黙秘を続けていたため刑事が『他の者は供述しているから早く言え。』とか、『何も言わないと刑が重くなる。』など言い、木沢、井内らの調書をめくってちらつかせながら一部を読んだりし、さらには一〇月二九日に二人位の刑事が井内を連れて来て、井内をして『早くしゃべってしまえ。しゃべった方がよい。』と言わせたこともあった。一一月四日に大西事件で起訴されたことを後日知り、二〇日間位で釈放されると思っていたのに、それ以上も勾留が長引き、その間精神的、肉体的な苦痛で動揺したため、一一月七日取調室へ連れ出されて調べを受けたときに大西事件について一部供述しかけた。しかし、刑事が自分の言わないことをどんどん調書に書き、自分の気持と違うことが書かれるので、途中でやめてくれと言ってやめさせた。署名はしたくなかったが、ペンを持たされ、無理に署名せよ、と言うので、ついふらふらと署名した。しかし指印は拒否した。」というのであって、要するに、取調中、正座を強制されたり手錠をかけられていたことがあり、他の者が供述しているからと言ってその調書の一部を読み聞かされ、早く言わんと、刑が重くなると言われたり、取調警察官が井内をして自供を勧めさせたりし、不当に長く拘束され、精神的、肉体的な苦痛で動揺し、一部供述しかけたが押し付けの供述であり、むりやりに署名させられたというのである。
(2)、そこで、右被告人B(以下Bという。)の各供述を証人川上秋次の原審第一四回公判(昭和三〇年二月二四日)、差戻後の当審第二九回公判(昭和四七年六月九日)における各供述と対比し、これに本件記録中の関係証拠を参酌して検討するに、右各証拠を総合すると、(イ)Bは、昭和二七年一〇月一四日午後五時過頃大西事件についての容疑で逮捕され、翌一五日港署で川上刑事が徳留刑事とともにその取調に当り、供述拒否権を告げて取調を始めたところ、Bは『権力の犬に対して何も言う必要はない。』と言っただけで黙秘し、以後毎日のように取り調べたが一言も発言せず、同月二四日には黙秘調書を作成した。その四、五日後には古川毅弁護士がBに面会して、同弁護士が弁護人に選任され、同月二九日午後四時頃には川上刑事が同じく大西事件の被疑者として調べていた井内秀雄を港署に連れて来てBに会わせて話をさせたということもあったが、Bの黙秘の態度は固く、同月三一日には川上刑事の上司で班長の福安巡査部長がBの取調に当ってみたもののやはり黙秘を続け、取調警察官らは意思の強固なBの説得にはいわば匙を投げた状態であった。ところが、Bは黙秘のまま同年一一月四日大西事件について起訴され、その起訴状謄本が同月六日午前一〇時五〇分港署に送達され(送達報告書)てこれを受領したことにより右の起訴を知るに至った。翌七日川上刑事が成内貞義刑事とともに吹田事件について同被告人を取り調べるため調室に出していた際、突然、Bが『言うから書いてほしい。』と言い出したので、川上刑事等は意外のことに驚き、その供述するところを録取していたところ、途中で『今日はこれでやめておく。』と言うので、そこで調書の録取を打ち切り、Bはその調書に署名はしたが、指印することを拒否するに至ったものであること、(ロ)Bの取調に際しては、Bは女性のことでもあるから自分で正座していたが、正座が続かないようになると自ら横に足をくずしたりするなど、正座をするもしないもBの自由にまかされており、取調警察官が正座を強制したような事実はなく、また取調中に手錠を施用したような事実もなく腰なわをした状態であったこと、また、(ハ)Bのいう他の者の調書の一部を読み聞かされたという点については、Bは当審第二六回公判においてその旨の供述をするが、当審第五五回公判においては、取調警察官からは他の者の具体的な供述内容については聞かされていない旨供述しているところからすれば、Bのいうような他の者の調書読み聞けの事実があったとは認められない。しかし、他の者が供述していると言われたとの点については、井内をBに会わせ話をさせていることからしてみて、そのような事実のあったことは否定しがたいこと、(ニ)Bのいう井内をして自供を勧めさせたとの点については、それは、川上刑事が井内の取調も担当していた関係上、同人にBが黙秘していることを話したところ、井内がBに会わせてくれと言うので、同刑事が上司の指揮を仰いで井内をBに会わせ、井内がBに供述するよう勧めるに至ったもので、結果的にはBのいうような事実があったこと、(ホ)前記Bの自供調書はBの供述するところを録取したもので、Bは自分でこれに署名したが指印をしないで、川上刑事が指印するよう求めたが、Bはこれを拒否したものであり、その自供調書をみても、そのとおりになっており、その内容も七月一三日の共謀の内容、翌一四日の行動の一部についての供述記載があるほか、随所に記憶がない旨の供述記載があって、その記載の内容からみても取調警察官がBの言わないことまでどんどん書いて行ったものとは到底考えられず、その署名もむりやりに書かされた書体とは認められず、Bのいうような自分の供述しないことが録取されたり署名をむりやりにさせられたという事実はなかったこと、(ヘ)右Bの自供調書は逮捕の時から(逮捕日を入れて)二五日目に録取されたものであること、以上の事実が認められる。そして、右(ハ)のように、取調に際し、他の者が供述している旨告げることは、それが全くの虚偽のものであれば、偽計を用いて自白を得ようとしたものとして場合によっては、これによって得られた自白の証拠能力が否定される場合もあるけれども、本件はそのような事実は全くなく、ただ他の者が供述しているという事実を告げて説得しようとしただけで、このことによって自白を強要したものでないことは、Bの供述するに至った経緯、その供述内容に徴し明らかであるから、これをもって違法とはいわれず、又、井内の申出によるとはいえ、井内をBに会わせ、結果的には供述を勧めさせるということになったことは、取調方法としては妥当ではないが、必ずしも違法とはいいがたく、又、逮捕後二五日目の自供をもって不当に長く拘禁された後の自供ともいわれない。そして以上認定の事実に徴すると、Bが弁護人と面会し、井内と会ったのちにもなお黙秘を続けていたのに自供するに至った動機としては、黙秘していたにも拘らず起訴されるに至った事実を知り、黙秘していても起訴されるのなら自供したほうがよいだろうかと心が動揺してその翌日自供するに至ったのではないかと推測され、Bの供述する如く「二〇日位で釈放されると思っていたのに、それ以上も勾留が長びき……動揺したため……」という自供の動機は十分考えられるところであり、このことは、Bが自ら取調警察官に申し出て任意に供述するに至った点及びその後再び黙秘するに至っている点からみて、右自供はBの取調に際し警察官に拷問、脅迫、正座の強制等不当な行為があった故によるものではなく、Bの自由意思に基づき任意になされたものということができ、結局Bの右調書にはその供述の任意性に疑いがあるとは認められない。
(3)、ただ、右の供述調書は、大西事件で起訴後、同事件についての供述を録取したもので、いわゆる起訴後の取調にかかるものであるが、前記当審証人川上秋次及び被告人の当審公判における各供述により認められるように、川上刑事がBを別件の吹田事件について取り調べるため取調室に出していたところ、突然同被告人からの申出により供述したものであって、起訴後三日目、第一回公判期日(昭和二七年一二月二三日)前のものであるから、さきに任意性に関する一般的考察として説示したように、起訴後の取調の故をもって直ちに右供述調書の証拠能力を否定することはできない。
(五)、元相被告人出上桃隆の検察官調書七通について
(1)、弁護人は、元相被告人出上の検察官に対する供述調書七通は、警察官の取調の際に受けた強制の影響下に作成されたものであると主張するもののようであるから、警察官の取調以来の同人の自白調書について、同人が差戻後の当審第二三回及び第五四回各公判を通じ、その任意性を争う供述をみるに、その要旨は次のとおりである。
(イ)、警察官の取調について
昭和二七年九月二九日宮操事件で逮捕され、天満署に引致され、弁解録取をとられた。その弁解録取書の署名と出上という捺印は自分のものである。それからすぐ東署に連行され留置された翌三〇日東署の二畳か三畳の畳の部屋で平岡、井村両刑事から黙秘権を告げられ、手錠をはずして朝から夕方まで調べられたが、はじめ三人共あぐらをかいたままであったところ、住所氏名を黙秘したことから態度がかわり、刑事の一人が「おれも正座するからお前も正座せよ。」と言って、その後長時間正座させられ、足が痛くてくずそうとすると、二人の刑事が「くずしたらあかん。」と言い、井村刑事が私の足をゆさぶって「どうや、もうそろそろ話そうじゃないか。」など言って、肩を上から押えつけたこともあった。その日は住所氏名も言わなかったが、長時間の正座で足が痛くて普通に歩けず、刑事二人が房まで肩を貸してくれたと思う。その正座というのは、足が痛くなってくずそうとすると、「おれが正座しているのに、足をくずすのは失礼じゃないか。」と言って正座を求めただけで、脇の下を抱えてむりやり正座さすというものではなかった。相手は二人おるので時々一人が外へ出たりしていた。一〇月一日も朝から午後も取調があったと思う。一〇月二日は朝から平岡、井村両刑事の調べを受け、最初あぐらをかいていたが、名前や住所を言わなかったので正座させられ、午後も五時か六時頃まで調べられたが、はじめは正座させられ、私がものを言い出すと足をくずしても何もいわず、煙草もすわせてくれた。その後の取調はあぐらの姿勢であったが、私が忘れていたり、他の者の供述と違うことを言うと、「どうや、もう一回考えなおすか。」と再び正座をさせかねないような口振りをして脅した。それで、その後は正座をさせられることはなかったかもしれないが、正座している膝の間に千枚通しを立てられたことがあることからすれば正座させられることがあったわけである。取調の当初から「他の者が供述しているから、黙秘していても裁判にかけられるんだ。」とか、「黙秘すると裁判で情状が悪くなるぞ。」とか、「名前を言ったら煙草をすわせてやる。」など言われ、事実、供述を始めると、煙草をすわせてくれた。又一〇月一日からの取調中、井村刑事が度々私の横から正座している膝の間の畳に千枚通しを突き刺したり、座机をへだてて対している私の方に向って千枚通しを投げつけたりして脅した。そのような千枚通しを突き刺したり投げたりすることは黙秘しているときのみならず、供述を始めてからもあり、一〇月中頃か二〇日頃まであった。というのであって、要するに、出上の警察官に対する同年一〇月二日から同月一五日までの間の第二回ないし第一〇回各供述調書は、正座の強制、千枚通しによる脅迫、他の者が供述していると言われたり、言えば煙草をすわせてやると言われたことにより作成されたものであるというのである。
(ロ)、検察官の取調について
別所検事の取調には警察官は同席せず、その取調に無理はなかったが、検事が東署へくると、東署の偉いさんまでへいへいしているし、こちらは二〇歳そこそこで圧倒されてボーッとなってしまった(当審第二三回公判)。拘置所は警察の留置場よりも規則的には厳しかったので、拘置所に移監されてから黙秘すれば再び正座を強制されるかもしれないという気持があり、黙秘する気持にならなかったというのであって、検察官に対する供述調書七通はすべて警察官の取調の際に受けた強制の影響が遮断されていない状況下になされたものであるというのである。
(2)、そこで、元相被告人出上(以下、出上という。)の供述を証人平岡繁三の原審第九回公判(昭和二九年五月二八日)、差戻後の当審第二七回公判(昭和四七年五月八日)における各供述、証人井村正雄の原審第九回公判、差戻後の当審第二八回公判(昭和四七年五月二九日)における各供述、原審証人妻木龍雄の原審第八回公判(昭和二九年四月二三日)、同西条宗次郎の原審第一〇回公判(昭和二九年七月七日)における各供述と対比し、これに本件記録中の関係証拠を参酌して検討するに、右各証拠を総合すると、(イ)出上は昭和二七年九月二九日午後二時三〇分頃宮操事件で緊急逮捕され、天満署で花谷刑事から弁解録取を受けたが被疑事実を否認し、同調書に署名して出上の印を押捺したのち、東署に留置され、(ロ)翌三〇日午前中は平岡部長、井村刑事の二人が西署で木沢の取調に当り、午後は井村刑事一人が東署で午後二時前頃から午後六時頃(東署の留置人カードに午後一時四〇分出場、午後六時一五分入場の記載がある。―当審第二三回公判の証人出上桃隆に対する尋問参照)まで出上の取調に当ったが、出上は本籍、住所、氏名など殆んどの質問に対して「言えない。」と答え、宮操事件には関係がない旨の供述をしたこと。したがって、当日は朝から調べられたという出上の当審証言は右の客観的事実からして採用しがい。又、出上は、当日平岡、井村両刑事に調べられたというが、当審証人平岡は、自分が出上の取調に関与し始めたのは一〇月三、四日頃で、それから一〇月一四日頃までの間、主として井村刑事と一緒に取り調べたもので、取調に当った当初には既に出上はすなおに供述する態度であったから、それ以前の取調には関与していない旨その証拠を示して述べており、右供述は単に九月三〇日及び一〇月二日付の調書に自己の署名がないという形式的なことからのものではないことがうかがわれ、当審証人井村も出上取調の当初頃は自分一人で取り調べた旨供述しており、右両刑事が木沢の取調に当った場合においては取調の当初からその調書に両名の署名のあることなどを考えると、九月三〇日より一〇月二日頃までの取調に平岡部長刑事が関与していたとは認められない。もっとも、出上は、原審証人平岡に対して反対尋問する際、「九月三〇日と思うが、証人と井村刑事から調べを受けたとき……」と恰も右両刑事が取調に当ったことを前提とした尋問をしているけれども、それはその前提自体に問題があるのに右両刑事に取調を受けたものと決め込んでの尋問であって、必ずしも事実に合致したものとはいえず、かかる尋問があるからといって右認定の妨げとなるものではない。右出上の供述は採用しがたいこと。(ハ)一〇月一日は平岡部長刑事は西署で木沢が選挙の投票に行くということで上着を貸与するというようなことがあり、出上について検察官への送致手続がとられて午後一時三〇分頃検察庁で検察官(服部光行)の弁解録取が行なわれ、その際出上は宮操事件の被疑事実について初めてこれを認める供述をし、又当日平岡部長、井村刑事は西署で木沢を吹田事件について取調をするなどのことがあって、出上に対する取調は行なわれていないこと。出上は当日朝から夕方まで取り調べられたというが採用しがたいこと。(ニ)一〇月二日は午前中裁判所で裁判官(笠松義資)の勾留質問が行なわれ、その際、出上は前日同様宮操事件の被疑事実を認める供述をし、午後から井村刑事が東署の畳の部屋で夕方頃まで三、四時間出上を取り調べたところ、出上は、経歴、家族関係等について述べたのち、宮操事件についても述べ、「宮原操車場の列車妨害事件に参加したことなどについては後刻申し上げます。」と供述し、その間別段黙秘あるいは否認するというようなことはなかったこと。出上は当日午前中も調べられたというが、採用しがたいこと。(ホ)その後、警察官の取調に対して宮操事件、大西事件について自供し、黙秘あるいは否認することはなく、検察官の取調に対しても右両事件について自供し、昭和二七年一一月四日大西事件の起訴の際の裁判官の勾留質問に対してもその事実を認める旨の供述をしていること。以上のような事実が認められる。以上要するに、出上は九月三〇日午後二時前頃から午後六時頃までの井村刑事の取調に際しては宮操事件を否認していたところ、翌一〇月一日午後一時三〇分頃の検察官の弁解録取に際して初めてその事実を認め、引続き翌二日午前中の裁判官の勾留質問に際しても同様に事実を認め、勾留質問後東署に帰り午後から行なわれた井村刑事の取調に対しても経歴、家族関係等を述べたうえ事実を認め、同日約三、四時間の取調の間に調書が作成され、その後警察官及び検察官に対し、宮操、大西両事件について自供を続け調書が作成されたわけである。ところで、出上は自供するに至った大きな動機として、正座の強制、千枚通しによる脅迫、他の者が供述しているといわれたこと、言えば煙草をすわせてやるといわれたことを挙げるのである。そして、出上は、原審第九回公判の証人平岡繁三に対し「逮捕された翌日と思うが、黙秘権を行使したところ、正午過頃から午後六時頃までの間正座させられたことはどうか。」「他の調書とくい違いがあるといって井村刑事が私に向って錐を投げたことはどうか。」と反対尋問し、同じく証人井村正雄に対しても「九月三〇日の取調に対し黙秘権を行使したところ、正座させたことはどうか。」「正座させられておると五時過になると足が痛くて耐えられなくなるが、その時証人が私の左側におってこちらを向けと言って引っ張られたりしたがどうか。」「私の膝を揺すぶったりしたことはどうか。」「取調中、私の目の前へ錐を突きつけたりぶっつけたりしたことはどうか。」「脅迫だと抗議したところ、これが脅迫かと言うて怖しい顔をしたことはどうか。」と反対尋問しており、当審第二三回公判においては前記摘示のような九月三〇日朝から一〇月二日夕刻頃までの連日にわたる正座の強制、他の者が言うているとか煙草をすわせてやるとかの誘導、一〇月一日からの千枚通しによる脅迫により自白するに至り、その後も正座をさせかねない口振りで脅されたり、千枚通しによる脅迫があったと供述し、他方、原審及び当審証人井村正雄、同平岡繁三は、そのような事実を否定し、当審井村証人は千枚通しを所持した状況についてはただ取調に当って、調書を綴じるのに使用する千枚通しを入れた筆箱から鉛筆と消しゴムを出して、筆箱は自分の後方の被疑者の手の届かぬところに置いていた旨供述するのである。しかし、正座の強制の点については、井村刑事は当審証人として自分は正座しても、二、三〇分程度で、出上に正座を命じたこともなく、出上は自ら正座するなりあぐらを組むなり自由にしていた旨供述していること、出上は初めて宮操事件の被疑事実を認めるに至った検察官の弁解録取やこれに続く裁判官の勾留質問について、当審証人として右各調書の署名指印は自己のものであることを認めながら、そういう弁解録取や勾留質問のあったことについては記憶がない旨供述し、又、強制されて自供させられたというのであれば最初にした自供について最も印象深く残っておるべき筈であると思われるのに、右弁解録取とその翌日の勾留質問の二回の、しかも両日にわたる自供について記憶がないというのであり、その供述には不自然、不合理さがみられること、右勾留質問後の取調においてもすなおに自供していることなど彼此考え合わせると、九月三〇日以来の取調において取調警察官が出上に正座を強制するという事実はなかったものと認められるから、この点に関する出上の供述は採用しがたいこと。又、千枚通しによる脅迫の点については、出上は、井村刑事が千枚通しを膝の間の畳に突き刺したという時期について、当審第二三回公判では第二回目の取調(出上は昭和二七年一〇月一日も取調があったというから、この日を指していうものと考えられる。)の時といい、当審第五四回公判では「錐の話は、最初の時からあったかもわからないし、最初の時はなかったかもしれない。」と供述したのち、「正座しているときやから最初のときからですね。」と極めてあいまいな供述をしており、又、千枚通しを投げつけたという点については、当審第二三回公判において「座机をはさんで井村刑事と向い合っているときに約一メートル前後の位置から投げつけられ身をかわすこともあった。」というのであるが、かりに井村刑事が千枚通しを投げるということがあったとすれば、同刑事が出上に当らないように出上の方に向って投げたとしても、投げるときの手のくるい、あるいはもののはずみによって相手の身体に突き刺さり、傷付けるという事態が起りうるおそれもあるのであって、このような千枚通しを突き刺すとか投げるとかいうことは手錠の施用、正座の強制とかとは異なり、捜査官としても言い逃れの余地のない異常な行動であり、しかも、出上は、そのようなことは、自供を始めてから一〇月中頃か二〇日頃まで続いていたといい、同人の警察官に対する全自供調書の作成された期間、すなわち一〇月二日から同月一五日に至る間千枚通しを畳に突き刺したり投げつけたりすることがあったと供述するに至っては、その供述するところは極めて不自然、不合理であり、ことに、当審第二三回公判においては、弁護人の質問に対しては「黙っておったり、向うの言うとおりに言わないと、いきなり千枚通しを投げてくるので必死になって避けた。」旨供述し、検察官の質問に対しては「刑事が千枚通しを持った手を振り上げると投げるなとわかり、近距離なので、当てられると思うから必死になって避けた。」旨熱心に供述していたのに、当審第五四回公判においては、「顔の正面にとんできたのを自分が避けるわけでなしに体の傍とか顔の傍をスッと投げるわけです。」と、従来とは異なる供述をしていて、その供述は極めてあいまいな点があることなどを考え合わせると、千枚通しに関する出上の供述はたやすく信用しがたく、出上のいうような千枚通しによる脅迫そのものもあったとは認められないこと。又、出上は、警察官の取調の当初から「他の者が供述しているから黙秘しても裁判にかけられる。」とか、「言えば煙草をのませてやる。」といわれたというが、「煙草」の点については取調中出上が取調警察官からもらってすったことはあったもののようであるけれども、それが自白を得るための手段としてなされたものとはとうてい認めがたく、又、「他の者が供述している」との点については、その頃の捜査の状況、ことにある程度証拠が収集されていた状況にあったことからみて取調警察官がそのような発言をしたことはうかがわれないではないが、もし、それが全くの虚偽のものであれば、偽計を用いて自白を得ようとしたものとして、場合によっては、これによって得られた自白の証拠能力が否定される場合もあるけれども、本件にはそのような事実はなく、出上自身も認めるように、供述者の氏名もその供述内容も知らさないで、ただ他の者が供述していることの事実を告げて説得しようとしただけで、このことによって自白を強要したものではないから、固より他の者が供述していると言ったことをもって違法とはいわれない。その他証拠を検討しても、出上の取調に際し警察官及び検察官に拷問、脅迫、正座の強制等の不当な行為があったことは認められず、結局、出上の検察官に対する供述調書七通にはその供述の任意性に疑いあるとは認められない。
(3)、ただ、出上の検察官に対する供述調書七通のうち昭和二七年一一月六日付(二通)、同月七日付、同月二〇日付のものは、いずれも出上が同年一〇月二一日宮操事件で起訴されたのち当該事件について取り調べられたいわゆる起訴後の取調にかかるものであるが、いずれも第一回公判期日(同年一二月二三日)前におけるものであるうえ従来の供述の訂正ないしは補充、あるいは共犯者の面割を内容とするものであるから、さきに任意性に関する一般的考察として説示したように、起訴後の取調の故をもって直ちに右供述調書の証拠能力を否定することはできない。
(六)、元相被告人井内秀雄の検察官調書三通について
(1)、弁護人は、元相被告人井内の検察官調書三通は警察官の取調の際に受けた強制の影響下に作成されたものであると主張するもののようであるから、警察官の取調以来の同人の自白調書について、その任意性を争う供述をみるに、同人は旧第二審判決後上告中に死亡したため、同人の供述としては吹田事件第一審第二四七回公判における証人としての供述のみであって、その要旨並びにそれに基づく弁護人の主張は次のとおりである。
(イ)、警察官の取調について
選挙の投票日の前の晩一二時頃に大西事件で逮捕されて淡路署に連行された。同署の取調のときは同署の全体の刑事部屋で一〇人程の人間が集って、食事時間も抜きにして畳の上に壁とにらめっこで正座させ、うしろから蹴とばされたりした。そういう中で調書をとられた。翌日から都島署で徳留刑事ともう一人の刑事に朝の六時か七時頃から晩の九時頃まで調べられたり、ある時には壁に向って正座させられて壁とにらめっこさされたり、又正座させられたうえ後ろから足の上へ乗ったり頭の毛を持ってお前とぼけるなというような調子で調べられた。精神攪乱状態になって夢うつつの中で一切をしゃべらされたとしか思えない。供述調書の指印も私の手をとってむりやりに拇指をぐっと握って押させた。というのであり、なお、弁護人は、右に加えて、九月三〇日の少くとも自供前の取調の際には井内に手錠を施用していた疑いは濃厚であり、又当日井内が一部供述しかけたあとで、取調警察官がこれを維持しさらに供述させるために、翌一〇月一日衆議院議員総選挙の投票日に井内の投票に同行し、その帰途井内方に立寄って母や家族に会わせ、その情を利用してその後も供述させるに至ったというのであって、要するに、井内の警察官に対する供述調書は、警察官による正座の強制、食事時間を抜きにする等の不当な処遇、蹴とばしたり足の上に乗ったり頭髪をつかむなどの暴行、拇印の強制、母や家族の情を利用した利益誘導により作成されたものであるというのである。
(ロ)、検察官の取調について
吹田事件の関係で都島署で一〇月二八日付検察官調書がとられた時、検事から「生かすも殺すもおれの胸三寸で自由なんだぞ。」と、いわば早く言うたら寛大にしてやるんだと暗に言われ、立会事務官からも「早く頭を下げて素直に言うて寛大にしてもらえ。」というようなことを言われ、警察の調書を鵜呑みにして調書が作成された。調書は一応読んで聞かせてくれたかもしれないが精神攪乱状態で何を言っていたのかわからなかった。検察官調書の指印も事務官にむりやりに押させられた、というのであって、弁護人は、右の供述から本件大西事件についても検察官から供述を押しつけられるとともに、前記警察官の取調の際に受けた強制の影響が遮断されていない状況下に検察官の取調を受けたものであるというのである。
(2)、そこで、右元相被告人井内(以下、井内という)の供述を証人川上秋次の原審第一四回公判(昭和三〇年二月二四日)、差戻後の当審第二九回公判(昭和四七年六月九日)における各供述、証人妻木龍雄の原審第一四回公判、野上の第一審第三七回公判における各供述と対比し、これに本件記録中の関係証拠を参酌して検討することとする。まず、井内に対する取調の経過についてみるに、(イ)井内は昭和二七年九月三〇日午前〇時三〇分大西事件で緊急逮捕されて午前〇時四五分に淡路警察署に引致され(逮捕状一一七丁)、同日朝出勤した当時の大阪市警視庁刑事部捜査第三課司法巡査川上秋次が井内の取調を命ぜられ、午前一〇時頃から淡路署一階宿直室の畳の部屋で西条宗次郎刑事とともに井内の取調に当り、井内に対しては手錠はかけず腰なわの状態で供述拒否権を告げて取調を始めたところ、井内は午前中の取調では黙秘を続けていたが、午後の取調になってから経歴、家族関係、ことに共産党に入党し淡路細胞の民主青年団員であることについても述べたうえ大西事件について自白し、その詳細については後程述べる旨供述したこと、(ロ)翌一〇月一日(水)は衆議院議員総選挙の投票日であったので、川上刑事は午前中から淡路小学校の投票所に井内を同行して投票させ、その帰途井内が着替えをさせてくれないかということで井内の自宅に寄って着替えさせ、その際井内の母及び妻に会わせ、川上刑事が母から「井内が共産党へ入って困っている。しっかり説得してもらえんか。」と頼まれ、その後井内にそのことを話したことがあったが、同日帰署後、井内は午後三時二〇分頃検察庁で検察官(服部光行)の弁解録取、これに引続き裁判所で裁判官(坪井三郎)の勾留質問を受けて、いずれもラムネ弾投入の事実を認めたこと、(ハ)一〇月二日頃都島署へ移監され、同月三日川上、徳留朝美(録取者)両刑事が同署一階宿直室の畳の部屋で午前九時半頃から手錠はせず腰縄の状態で井内を取り調べたところ、井内は事実をすなおに供述し、これを機会に脱党してまじめな道を進みたい旨述べ、一〇月六日(月)は吹田事件について、同月九日、一三日には大西事件について補充して供述したこと、(ニ)井内は逮捕当日の午後自供をして以来警察では黙秘したり否認したりなどすることはなく、川上刑事に対しては自分が供述したことを誰にも言わんといてくれ、自分はある程度頑張ったと言うといてくれ、でないと自分の立場が困るからと言うていたこと、(ホ)その後同月一七日、二七日、一一月四日の別所検事の取調に対しても自供し、その取調に当って同検事が誘導、脅迫により供述を押しつけた事実はないこと、(ヘ)一〇月二〇日大西事件で起訴されたこと、以上の事実が認められる。弁護人(吉岡)は当審第五二回公判において、当審第二九回公判での川上証人の尋問に際し、山下弁護人の「一番最初の日(九月三〇日を指す)には何にもしゃべらなかった時に、宿直室へ連れ出した時にはどうですか。」との問いに対し、同証人が「それも手錠だったか腰なわであったかという……はっきり……」と供述している点をとらえて、少くとも九月三〇日の自供前の捜査においては手錠が施されていた疑いが濃厚であると主張するが、右山下弁護人の質問はその質問の文言及びその直前の質問の趣旨からも明らかなように、井内を留置場から調べ室へ連れ出すその道程及び調べ室に入った時に、手錠をかけていたのか腰なわであったのかという趣旨の質問であると解せられ、したがって川上証人の供述も右趣旨の質問に対する供述であることがうかがわれるのみならず、川上証人は右証人尋問の際九月三〇日の取調に際しては手錠は施用しなかったと思う旨供述していることに徴すると、右弁護人の主張は採用しがたい。井内は吹田事件の公判において、右逮捕当日の淡路署での取調について食事時間抜きで調べられた旨供述するが、井内は本件原審第一四回公判における川上証人に対しては「都島署で母が来ているから早く言って罪を軽くしてもらえと言って……食事も与えずに調べたことはどうか。」と食事抜きの日時場所について異なる尋問をしているのみならず、井内の右供述を記載している吹田事件第二四七回公判調書は当審第三一回公判において弁護人の請求により証拠調がなされていて、当審第二九回公判における川上証人尋問の際には未だ証拠とされていなかったため、右証人尋問に際しては、弁護人その他訴訟関係人から逮捕当日淡路署で食事時間抜きで取り調べられたか否かについて何ら尋問されていないけれども、井内に対する当日の取調は午前一〇時頃から夕刻頃までには終っていたのであるから、井内のいう食事時間というのは昼食時間を指すものと考えられるところ、右川上証人は当日の調を午前中の調と午後の調とを区別して証言しているところからすると、逮捕当日川上刑事らが井内を昼食時間抜きで調べたものとは認めがたいから、右井内の供述は採用しがたい。又、井内は、逮捕当日の取調の際、畳の上に正座させられ、壁とにらめっこで、後ろから蹴とばされた旨供述し、井内は原審証人川上秋次に対し、「淡路署での取調の時、証人はむりやりに私の膝を合わさせ、後ろを向けと言ったのに、私が後ろを向かなかったので蹴ったことはどうか。」とか、「私があぐらを組んで坐ったところ、証人は何じゃと言って足を合わさせ頭髪を掴んで体の向きを変えたことはどうか。」と反対尋問しているけれども、川上秋次は原審証人として井内の右の反対尋問に対し強くその事実を否定し、当審証人としても当日の取調に際しては正座を強制したりその他不当な処遇のなかったことを証言しており、井内も当日の取調において既に共産党員でその入党の動機等についても語っていることに徴すると、前記井内の供述は、後日の取調に際しても正座の強制等不当な処遇を受けたという供述と同様、川上刑事に対して述べたように、逮捕当日から自供を始めた自己の立場を繕わんがための供述としか考えられず採用しがたい。つぎに、弁護人は、取調警察官は右一〇月一日の投票の帰途井内を同人の自宅に同行し、母や家族に会わせ、その情をその後の取調に利用したというが、前記認定のように川上刑事らが投票の帰途井内の自宅に立寄ったのは井内が着替えをしたいということで立寄ったものであり、その際母親からまじめになるように説得してくれるよう依頼され、それをその後井内に話したからといって、故意に利益誘導の行為に出たものとはいいがたいから、右主張は採用しがたい。又、井内は、警察官及び検察官に対する各供述調書の指印は警察官又は検察事務官などに手をとってむりにさせられたものであるというが、さきに認定したように他の共犯者に対する立場上、自分はある程度頑張っていたもので、たやすく自供したものではないことを示さんがための弁解とも考えられるうえ、前記当審証人川上秋次の証言及び妻木龍雄の野上公判における証言に徴しても右事実は認められず、右井内の供述は採用しがたい。又、井内は、都島署での取調に際し、朝六時か七時頃から晩の九時頃まで壁に向って正座させられたり、正座させられた後ろから足の上に乗られたり、頭髪をつかまれたり、検察官から暴言を言われ立会事務官からも自白を誘導するようなことを言われたというのであるが、原審及び当審証人川上秋次、原審証人妻木龍雄(第一四回公判)はいずれも右のような事実の存在を否定しており(井内は、吹田事件第三一八回公判における川上証人に対し、正座の強制などの点についてくわしく反対尋問をしているが、井内が自供したのは逮捕当日からであることは客観的にも明らかであるのに、右公判においては自分が自供し出したのは逮捕後一〇日も過ぎてからであることを前提として反対尋問をしていることがうかがわれる。)、逮捕当日から共産党員であることを述べたうえ被疑事実を自供し、その翌日の検察官の弁解録取及び裁判官の勾留質問に際しても事実を認め、その後の取調に際してもすなおに供述していたことが認められる井内に対し、警察官、検察官、検察事務官らが井内のいうような行動に出る必要は毫も考えられず、井内のこれらの点に関する供述はきわめて不合理であって、採用しがたい。その他証拠を検討しても、井内の取調に際し、警察官及び検察官に拷問、脅迫、正座の強制、利益誘導等の不当な行為をした事実はなく、結局、井内の検察官に対する供述調書三通にはその自白の任意性に疑いがあるとは認められない。
(3)、ただ、井内の検察官に対する供述調書三通のうち、昭和二七年一〇月二七日付及び同年一一月四日付のものは、いずれも井内が同年一〇月二〇日大西事件で起訴されたのち、当該事件について取り調べられたいわゆる起訴後の取調にかかるものであるが、いずれも第一四回公判期日(同年一二月二三日)以前のものであるうえ、その前者は従来の供述の訂正ないしは補充を内容とするものであり、後者は従来の供述の訂正ないし補充と共犯者の面割を内容とするものであるから、さきに任意性に関する一般的考察として説示したように、起訴後の取調の故をもって直ちに右供述調書の証拠能力を否定することはできない。
(七)、結論
以上のとおりであるから、(一)ないし(六)において任意性ありとした被告人らの各自供調書に関するかぎり、これらを事実認定の証拠としたことに何ら訴訟手続の法令違反はないものといわざるを得ない。
四、証人審問権侵害の主張について
被告人木沢、同斎藤は控訴趣意書において、弁護人はその補充として上告審弁論書において、原審において、被告人らの供述の任意性についての証人に対する審問権が侵害された旨主張し、当審公判廷において、被告人木沢、同A、同村田、証人出上は、原審公判廷において被告人等が証人に尋問を続けていると裁判長から制止された旨るる供述するのである。しかし、当時、その証人等の証言の記載された公判調書の正確性については訴訟関係人から異議の申立があった形跡は記録上見当らず、又、公判調書に記載のない事項については、もとより公判調書以外の資料をもって証明することはできるのであるが、被告人らの供述のみをもってその事実の証明があったとも断じがたく、原審裁判長の訴訟指揮に被告人らの証人審問権を侵害する事実があったかどうかは公判調書によってこれを判断しなければならないと考える。そこで、記録を調査するに、(イ)原審第一四回公判において証人道吉一一に対し、被告人村田が「第二回目か第四回目か忘れたが証人が私を調べるとき、朝早く取調室へ引張り出しながら、三〇分位も証人は本を読んで待たせたことはどうか。」と尋問したのに対し、裁判長が「任意性に関係ないから右の質問は許さない。」旨尋問を制限し、これに対し、被告人村田が裁判長に対し「右のような不真面目な取調方法が調書に反映すると思う。」旨申し立てたのに対し、裁判長が重ねて被告人村田に対し「任意性に関係がないから右の質問は許さない。」旨述べてその尋問を制限したこと、(ロ)原審第一〇回公判において、証人古池泰博に対し原審相被告人野上が古川弁護人に続いて同証人に対して反対尋問をし、九月二〇日の取調状況についての尋問と答があったのち、九月二一日の午前の取調状況について尋問に入り、野上がその尋問をしていたところ、検察官から「右尋問は反対尋問の範囲を逸脱している。」旨の異議があり、裁判長が野上に対し「第七回供述調書作成とその取調の範囲内で尋問するように」と促したが、野上がさらに尋問を続けて証人の答があり、ついで九月二一日午後の取調状況について詳細な尋問と応答があり、野上が「おいどれ奴、おれの方は痛くもかゆくもないと言ったことは」と尋問し、証人が「覚えない。」と答えたので、さらに野上が「その時私はこう言ったことを覚えておるか」と尋問した際、裁判長が野上に対し、反対尋問の範囲を越えている旨注意したが、これに応じず、さらに又主尋問に応ずる反対尋問をするよう命じたところ、野上は「こんなでたらめな裁判」と発言したので、裁判長が野上に退廷を命じ、これに対し、古川弁護人が「記憶喚起のために関連事項を聞かねばならない、心証を得るためにも必要である。」旨異議を申し立て、右異議は第一二回公判において却下されたことが認められる。ところで、被告人の証人審問権は憲法に保障された権利であるから十分尊重しなければならないことはいうまでもないところであるが、訴訟の円滑な進行をはかるため、重複尋問、関連性のない尋問、その他不相当な尋問は裁判長がこれを制限し得るものとされているのであって、本件(イ)(ロ)の場合、いずれも被告人村田及び相被告人野上がそれぞれ各自の取調警察官であった証人等に対し、自白の任意性に関しその取調状況を尋問し、あるいはせんとしたもので、訴訟技術になれない被告人村田及び相被告人野上が尋問するものである以上、その尋問が相当でない場合には、その趣旨を質し、あるいは弁護人と相談させ、もしくは弁護人をして尋問させる等して、できるだけ尋問を尽くさせるようにするのが相当であり、原審裁判長のとった前記(イ)(ロ)の訴訟指揮は最高裁判所の本件差戻判決でも指摘するように必ずしも適切なものとはいえないけれども、(イ)の村田の尋問内容それ自体は任意性に影響を与えるものではないから、関連性がないとみられる尋問であり、(ロ)の野上の尋問は検察官が証人古池の作成にかかる野上の第七回供述調書の任意性を立証趣旨としていたのに対し、野上がその範囲を越えて尋問したというものであるうえ、野上の第二回ないし第六回公判調書の任意性については、原審第九回公判において証人広田正男に対し検察官が尋問し、野上がこれに対し詳細な反対尋問をしているところからして、(ロ)の野上の尋問は立証趣旨からいえば尋問の範囲を越えた相当でない尋問といえないことはないから、原審裁判長が右(イ)(ロ)の各尋問を制限したことをもって証人審問権を侵害したものとはいえない。右主張は採用しがたい。
五、証拠能力のない供述調書を事実認定の証拠とした違法と判決に及ぼす影響の有無
以上に判断したとおりであるから、当裁判所がさきに任意性に疑いがあるとして証拠排除した自白調書のうち、原判決が事実認定の証拠に供したものは、冒頭に掲げた証拠のみであることになり、したがって、これを事実認定の証拠に供した原判決には訴訟手続に法令の違反があるものというべきところ、さらに右法令違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるかどうかについて検討することとする。(一)原判示第一の事実の関係については、原判決挙示の関係証拠のうち任意性に疑いのある前示各証拠及び司法警察員広田正男作成の昭和二七年一〇月二〇日付実況見分調書中の被告人Aの指示説明部分(右調書は原審において検察官が取調請求し弁護人が同意して証拠調がなされたものであるが、右指示説明部分は同被告人が大淀署に勾留中になされた実況見分に際しての同被告人の指示説明であって、既に証拠排除された同被告人の警察官に対する自白調書についてと同様の理由から、右指示説明部分を証拠とすることは相当ではない。)、司法警察員平岡繁三作成の同年一〇月一七日付実況見分調書中の被告人木沢の指示説明部分(前同様右調書は原審において検察官が取調請求し、弁護人が同意して証拠調がなされたものであるが、右指示説明部分は、同被告人が西署に勾留中になされた実況見分に際しての同被告人の指示説明であって、既に証拠排除された同被告人の警察官に対する自白調書についてと同様の理由から右指示説明部分を証拠としない。)を除くその余の証拠のほか、旧第二審が実施した宮原操車場についての検証調書によっても、ほぼ原判示のような経緯からして、被告人木沢、同斎藤勇、同Aが野上銀次郎、槌田敦、出上桃隆、辻井道明、斎藤治、水島晳と共謀のうえ原判示の日時場所において被告人木沢、野上、辻井において共同して留置中の駐留軍専用旅客列車の三車両の車、軸箱五個について被告人木沢が三個、野上、辻井が一組となって二個の各車軸箱のナットを被告人斎藤が準備し同人から交付を受けたモンキー(原判決はスパナーともモンキーとも判示するが、二丁ともその形状からいって「モンキー」というのが正当である。)ではずし、前蓋及び紙パッキングを除却して砂、小石等を投入して給油具を汚損せしめたり前蓋をしなかったり垂下せしめたまま放置して車軸箱の効用を害し、その間、出上、A、水島、斎藤治が見張をし、槌田が全般的指揮をとり、右客車の車軸箱五個を損壊したことを認めることができ、又、(二)原判示第二の事実の関係についても、原判決挙示の関係証拠のうち、任意性に疑いのある前示各証拠を除くその余の証拠によっても、ほぼ原判示のような経緯により、被告人斎藤、同村田が共謀のうえ同判示のように両名において籾井一方裏道路から塀越しにカーバイド入りラムネ弾一本ずつをその裏庭に投げ込んで、うち一発を破裂させて共同して脅迫したことを認めることができ、さらに又、(三)原判示第三の事実の関係についても、原判決挙示の関係証拠のうち任意性に疑いのある前示各証拠を除くその余の証拠(但し、被告人Bの司法巡査に対する第四回供述調書は同被告人の関係においてのみの証拠とする。)によっても、ほぼ原判示のような経緯により被告人木沢、同Bが出上桃隆、井内秀雄と共謀のうえ、原判示の日時場所において、被告人木沢が大西方玄関土間よりカーバイド入りラムネ弾一本をガラス扉越しに奥三畳の間に向って投げ込んで同三畳の間で破裂させ、結局ラムネ弾を投げ込んだため、右ガラス扉のガラス一枚及び奥三畳の間仕切戸の中間部のガラス一枚、計二枚を破壊したことが認められるのであって、右(二)(三)についてはラムネ弾が爆発物取締罰則にいわゆる爆発物に該当するか否か、該当するとしても人の身体財産を害する目的があったか否かによって原判決の判示と異なる場合もあるけれども、その外形的事実は原判示と同様であり、しかも、後記第二のとおり検察官の控訴趣意第二についての判断に示すように、右ラムネ弾はいずれも右罰則にいわゆる爆発物には該当しないから、この点は原判決の判断と同様であり、又、右(三)については右後記判断に示すようにガラス二枚の破壊はラムネ弾の投入によるものであって、その破裂によるものとは認められないから、この点投入のほかに破裂に伴うラムネ瓶の破片によるものとする原判決とはやや事実を異にするけれども、ガラス二枚の破壊がラムネ弾の投入を契機としてもたらされたものである点にはかわりはなく、結局、右(一)(二)(三)のいずれについても原判決認定の犯罪事実とはさして異なるところはないことが明らかである。そうすると、原審が証拠能力のない証拠を事実認定の用に供した訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるとはいわれない。論旨は、結局理由がない。(なお、原判決は判示第三の事実を認定する証拠として、被告人Bの司法巡査に対する供述調書を特に同被告人の関係の証拠として限ることなく挙示しているけれども、右供述調書はさきにも触れたと同様、同被告人の関係においてのみの証拠として挙示した趣旨と解せられる。)
第二、検察官藤田太郎の控訴趣意第二及び検察官片岡平太の意見一について
論旨は、被告人斎藤、同村田の原判示第二の事実、並びに被告人木沢、同B、同国頭の原判示第三の事実について、法令の解釈適用の誤りを主張し、原判決は、その判示第二に判示する被告人斎藤、同村田が各自投擲したいわゆるラムネ弾二本(内一本のみ破裂)、並びにその判示第三に判示する被告人木沢が投擲して破裂したいわゆるラムネ弾一本は、いずれも、爆発物取締罰則にいわゆる爆発物ではないと判断した。すなわち、原判決は、右罰則にいわゆる爆発物とは、具体的には火薬又は爆薬と同等以上、又はこれに準ずべき破壊力を有するもの、抽象的にはその爆発性能が極めて高度で瞬時に威力を発生して不特定多数人の身体財産に対し通常の人力等による破壊力を隔絶した甚大な被害を与えるに足る能力を有するものと解する旨判示している。しかし、本件にいわゆるラムネ弾が理化学上の爆発性能を有する爆発物であることは鑑定人山本祐徳作成の鑑定報告書により認められ、原判決も亦本件ラムネ弾の破壊力についてその破裂によりガラスの破片を四散せしめ、ある程度不特定多数人の身体財産に対し被害を与えることを認めながら、爆発物の定義として、(イ)極めて高度の爆発性能と、(ロ)不特定多数人の身体財産に対する甚大な被害を与えるに足る能力とを二大要件と解しているようであるが、本罰則第一条の法意よりみても、爆発物とは叙上理化学上の爆発を惹起し得べき物件のうち爆発作用そのものにより治安を妨げまたは人の身体もしくは財産を害するに足りるものとして社会通念上危害を感ぜしめる程度の性能を有するものを指すものと解すべきであって、さらになおそれ以上に「極めて高度」とか「甚大な被害」とかいうような加重要件はこれを必要としないものといわねばならない。原判決の判示および関係人の証言によると本件ラムネ弾は人の身体もしくは財産を損傷することはもとより、その爆音は附近人心にも不安脅威の念を生ぜしめ、延いては社会の平安を害するに足りるものとして社会通念上危害を感ぜしめる程度の性能を有するものと認められ、本罰則にいわゆる爆発物に該当するものであるというのである。
よって案ずるに、原判決が、爆発物取締罰則にいわゆる爆発物の意義を定めるについては、その破壊力の点において如何なる程度のものであるを要するか、最も合理的にして、かつ客観的な基準を定める必要があり、その基準も罪刑法定主義の見地からみだりに拡充してはならないとし、右罰則の立法理由、並びに右罰則が刑法等の類似の犯罪行為の場合に比し著しく重い刑罰を定め、又、著しく犯罪行為の範囲を拡大して規定していることを論拠として、右罰則にいわゆる爆発物とは、具体的には火薬又は爆薬と同程度若しくはこれに準ずる破壊力を有するもの、抽象的にはその爆発性能が極めて高度で瞬時に威力を発生し不特定多数人の身体財産に対し甚大な被害を与えるに足りる性能を有するものと解し、所論の本件ラムネ弾の破裂は理化学上の爆発現象であると認めながら、その破壊力の点において到底火薬ないし爆薬又はこれらに準ずべきものの破壊力に及ぶべくもなく、かつ不特定多数人の身体財産に甚大な被害を与え得る高度の危険性も認められないとして、右罰則にいわゆる爆発物に当らないと判断していることは、所論のとおりである。
しかしながら、爆発物取締罰則にいわゆる爆発物とは、理化学上のいわゆる爆発現象を惹起するような不安定な平衡状態において、薬品その他の資料が結合した物体であって、その爆発作用そのものによって公共の安全をみだし又は人の身体財産を害するに足りる破壊力を有するものと解するのを相当とすることは、最高裁判所の累次にわたる判例の示すところであり(最高裁判所昭和三一年六月二七日大法廷判決刑集一〇巻六号九二一頁、同昭和三三年一〇月一四日第三小法廷判決刑集一二巻一四号三二六四頁、同昭和三四年五月七日第一小法廷判決刑集一三巻五号四八九頁、同昭和三四年八月二八日第二小法廷判決刑集一三巻一〇号二七七六頁等)、当裁判所も右見解に従うものである。したがって、右罰則によって取締りの対象となるべき爆発物の範囲は、爆発作用そのものにより公共の安全をみだし又は人の身体財産を害するに足りる破壊力を有するものであれば足りるのであって、原判決のいうようなその爆発性能が「極めて高度」であるとか、「不特定多数人」の身体財産に対する「甚大な被害」を与えるに足りるものであるとかの加重要件はこれを必要としないものといわなければならない。そして、爆発性能が右にいう公共の安全をみだし又は人の身体財産を害するに足りる破壊力を有するものであるかどうかは、前記罰則が一般法たる刑法の規定する類似の犯罪行為に対比して特に重い刑罰をもって臨んでいるほか同罰則四条、五条、あるいは七条、八条の規定からもみられるように犯罪行為の範囲を拡大している点にかんがみるときは、社会通念に従って合目的的に判断すべきであり、みだりにこれを拡張してどのような軽微な被害であっても被害を与える可能性のあるものをすべて右罰則にいう爆発物であると認めることは相当ではなくその爆発性能がかなり弱く、その爆発作用そのものによって、公共の安全をみだすには足りず、又、人の身体財産に対し極めて軽微な損傷を与える程度に過ぎないものは、たとえ、それが理化学上の爆発物であっても右罰則にいわゆる爆発物に該当しないものというべきである。
ところで、本件で問題とされるいわゆるラムネ弾は、原審鑑定人山本祐徳の鑑定書によれば、ラムネ瓶にカーバイドを詰めこれに水数十グラムを注入し、これを倒して直ちに投擲するという方法によって使用するものであって、その際カーバイドと水の化合による化学変化によりアセチレンガスが急激かつ多量に発生し、一方ラムネ瓶を倒すことによりラムネ玉が瓶の口のゴム輪に詰まって密閉するため瓶内で噴出を続けるガスの圧力が急上昇し、七、八気圧に達して遂にラムネ瓶の外壁を爆音を伴なって破るに至り、その瓶の破片を飛散させるものであって、右のようなラムネ弾は理化学上いわゆる爆発現象を惹起し得るように調合装置された物件に該当することは明らかである。しかし右のようなラムネ弾の破壊力は、これに使用されるカーバイドの純度、形状、カーバイドと水の混和量、ラムネ瓶の硬度、形状、容量等の構造及び装置、並びにそれに基づくその性能及び威力は多種多様であって、爆発物取締罰則にいわゆる爆発物に該当すべきいわゆる「ラムネ弾」の一般的基準なるものはなく、ある特定の事件における「ラムネ弾」が右罰則にいわゆる爆発物に該当するかどうかは、それぞれの事実について具体的、個別的に考察されるべき事実問題であり、かつ、法律問題でもある。したがって、当該ラムネ弾の爆発物取締罰則にいう爆発物該当性の有無は、それが未だ破裂していないものである場合には、その物件についての鑑定等によってこれを判定することになるであろうが(最高裁判所昭和三四年一二月二二日第三小法廷判決、刑集一三巻一三号三三一二頁参照)、それが現実に破裂したものである場合には、そのものの破裂状況、被害の程度等具体的事実関係、並びにそのものと相似の物件についての鑑定の結果等を勘案して(同様の構造装置により作られたラムネ弾二個が同一機会に投擲され、一個が破裂し、他の一個が破裂しなかった場合、後者については前者の破裂状況、被害の程度等が参考となるであろう。)、判定すべきものと解するのが相当である。
本件について、まず、籾井方及び大西方からの証拠物件の領置状況及び鑑定人山本祐徳の鑑定経過についてみるに、籾井方からの領置物件については、被告人村田の検察官に対する第一回供述調書、原裁判所の籾井方についての検証調書、前記山本祐徳の鑑定報告書、原審証人籾井宏明、同籾井静子に対する証人尋問調書、籾井宏明の提出書、司法巡査森脇為一の領置調書、領置にかかる不発ラムネ弾一本、ラムネ瓶破片若干によれば、被告人斎藤は同じ分量位のカーバイドの入ったラムネ瓶二本のうち一本を被告人村田に渡し、それぞれこれに水を注入して瓶を逆さにしたのち、被告人斎藤が籾井方裏庭に、被告人村田が同家屋根の上に投擲し、前者のラムネ弾は裏庭のほぼ中央に落下して破裂し、後者のラムネ弾は同家東側六畳の間南側硝子戸前の裏庭に落下したのみで不発に終り、右不発弾は当夜、破裂した破片は翌朝、いずれも籾井方家人から鉄道公安官を経て警察に提出、領置されたものであることが認められ(弁護人は右不発弾の提出経過が不明であり、右不発弾は宮操事件捜査集団によって捏造された証拠物であるというが、右主張は採用しがたい。)、又、大西方からの領置物件については、井内秀雄の検察官に対する第一回供述調書、前記山本祐徳の鑑定報告書、原審証人大西博子に対する証人尋問調書、大西保三郎の任意提出書、司法警察員橋本助一の領置調書、領置にかかるラムネ瓶の破片若干、当審証人橋本助一の証言によれば、被告人木沢がカーバイド入りラムネ瓶一本に水を入れて瓶を逆さにしたのち、玄関土間カウンターぎわから扉越しに奥三畳の間にこれを投擲し、同室内で破裂し、右領置にかかる破片は、当夜警察官が現場で収集したラムネ瓶の破片の一部で、大西保三郎から任意提出の形をとって領置したものであることが認められる。そして、前記山本祐徳の鑑定報告書によれば、同鑑定人は、前記領置物件を鑑定資料とし、市販のラムネ瓶五本にそれぞれカーバイド二〇グラム、一〇グラム、三〇グラム、三〇グラム、五〇グラムを入れ、これにいずれも五〇立方センチメートルの水を注入してラムネ玉で栓座を密閉するという実験結果に基づき、カーバイド一〇グラムの場合は瓶は破裂されず、他の四例の場合はいずれも瓶が破壊され、六〇ないし九〇個位のガラス片となって四方に飛散し、その破片の状況は一グラム以下のものは数えないとして、二〇グラム以上の破片が時に数個、二〇グラム以下一〇グラム以上の破片が数個ないし一〇個、一〇グラム以下の破片が五〇ないし九〇個生じ、その飛散状況は瓶の横方向に多く飛び、一片一〇グラム以上の破片は時として五〇メートル以上に飛ぶこともあるが、常に確実に一五メートル範囲に飛散し、その際その破片の威力は窓ガラスに当って辛うじてこれを割る程度のもので、人体に当るとしてかすり傷を負わせる程度であるが、しかし近接物件に対しては二〇グラム位の破片が約一メートル離れた厚さ四分(約一・二センチメートル)の杉板を貫通するものもあり、一グラム以下の無数の小破片が板に突き刺さり、頑丈な器物を破壊するような作用はないと思われるが、近くにいる人体に対しては相当の傷害を与え、急所に突入すれば場合によっては一命に関することもあり得ると推定されるといい、右の結果からして前記領置にかかる不発のラムネ弾には風化カーバイド二〇グラムが入れられてあり、これを最初のカーバイド量に還元すると一八・五グラム位になり、これに四〇ないし五〇立方センチメートルの水を加えて密栓すると瓶がこわれることとなり、その人の身体財産に及ぼす影響は前記実験の結果と同様であるというのである。
そこで、まず、籾井方におけるラムネ弾の投擲状況、破裂状況及び被害状況等について検討し、投擲されたラムネ弾二本が前記罰則にいう爆発物に該当するかどうかについてみるに、原審の籾井方についての検証調書(昭和二八年四月一一日実施)、差戻し後の当審第五八回公判(昭和五〇年二月四日)において取り調べた司法警察員谷水浩作成の昭和二七年六月八日付実況見分調書の一部(同調書は、原審で検察官の取調請求に対し弁護人が同意しなかったので、その後作成者が証人として尋問されていながら、検察官からあらためて取調請求がなされないままに経過し、差戻後の当控訴審において後記大西方についての実況見分調書とともに、弁護人から各実況見分調書の一部についてのみ取調請求があって検察官がこれに同意し、検察官からその全部について取調請求があったのに対し、弁護人において右弁護人の取調請求部分についてのみ同意したので、当裁判所は右各同意部分についてのみ証拠として採用し証拠調をした。)、原審証人籾井宏明、同籾井一、同籾井静子、同井上恵永、同加藤栄吉、同谷水浩(昭和二八年四月一一日のもの)に対する証人尋問調書及び被告人村田の検察官に対する第一回供述調書並びに領置にかかる不発ラムネ弾及びラムネ瓶破片若干によれば、本件当時の籾井方裏庭は、同家家屋の南側にあり、南北約三・六メートル、東西約一〇・八五メートルの長さで、南、東、西の三方は板塀が回らされており、右裏庭に面する同家家屋東側にある六畳の間の窓にはガラス戸四枚、右六畳の間の西に続く四畳半の間の裏庭に面した幅約九〇センチメートルの廊下には下方が廊下面に達するまでのガラス戸四枚があり、右ガラス戸の外側には雨戸が入れられるようになっていて、戸袋は西側にあり、本件当夜雨戸は締められておらず、廊下のガラス戸も中央部が左右にあけられていたこと、当夜同人方裏通りから板塀越しに投げ込まれたラムネ弾二個のうち一個は直接裏庭のほぼ中央で、西側板塀から約四・六五メートル、四畳半の間の廊下のガラス戸から垂直の方向約一・三メートルの地点に直接落下して破裂し、他の一個は四畳半の間の上の屋根に当って瓦一枚を破損したのち前記六畳の間のガラス戸から垂直の方向約一・三メートル(原審の検証調書の見取図によれば二・四メートルと記載されているが、事件発生の翌日になされた司法警察員の実況見分調書の見取図によれば距離の記載はないが、二個のラムネ弾の落下地点は籾井方建物の南端線からほぼ等しい距離にあったように図示されているから、前記破裂したラムネ弾同様建物南端線から約一・三メートルの地点に落下したものと認められる。)、東側板塀から約一・七メートルの裏庭に落下したが不発に終ったこと、右破裂したラムネ弾の破片は翌朝家人が裏庭に散乱しているのを発見し、同日午前八時頃から司法警察員谷水浩が現場に臨んで実況見分をした際には破片の大半は取り片づけられていたというので、あるいは家人らがその大半を拾い集めたのではないかと思われるが、領置にかかる破片若干は警察における領置後の取扱によってあるいは多少こわれたものもあるかも知れないが、破片四三個とラムネ玉一個(合計四五五グラム)となっていて、破片の重さは二〇グラム以上の破片が四個、二〇グラム未満一〇グラム以上の破片が七個、その他が一〇グラム未満であって、その飛散状況は、東は南側板塀の東から二番目の柱のところ(原審検証調書見取図第一図によれば、破裂地点から約四メートル)まで、西は便所横の物置のところ(右第一図によれば破裂地点から約四・五メートル)まで飛び、北は前記廊下の下にも飛んでいて、雨戸の戸袋(証人籾井宏明に対する証人尋問調書に同人の証言として「雨戸」との記載があるが、雨戸は破裂当時戸袋内に納められていたことが認められるから雨戸の戸袋を指して証言したものと考えられる。)には鋭利なものでえぐられたような傷跡がついていた(しかし実況見分調書添付の写真によっては判然としない。)が、その他破片の飛散状況の詳細については証拠上明白ではなく、裏庭に面する前記ガラス戸のガラスは一枚も破損せず、財産についての被害は皆無といえる状況であったこと、又その破裂音について、籾井方六畳の間にいた証人籾井静子はドカンという普段聞きつけない自転車のパンクより大きな音がして怖かったといい、四畳半の間にいた証人籾井宏明は自転車のパンクのような音がし、自分は別に怖いとは思わなかったが、母静子は声がどもって家をとび出すというようにあわてふためいたといい、籾井方隣家の裏側に居住する証人井上恵永及び破裂地点から約一〇メートル位の家屋にいた証人加藤栄吉はいずれも自転車のパンクのような音がしたといい、被告人村田は自動車のタイヤがパンクしたような物凄い音がした旨供述していることが認められる。前記司法警察員谷水浩作成の実況見分調書の一部によれば、現場の模様についての説明として、「見分時には便所の南側の地上に別添写真第三に示す如く微量のカーバイド粉末とラムネ瓶の小片が見出だされるが、他のラムネ弾(不発)及び破片の大半は取り片付けられていたが、その散乱状況は……別添見取図第三の通りである。」と記載し、その第三図に破片の散乱場所として裏庭西側の板塀近くに「破片」として二箇所及び四畳半の間の廊下に近いところに一箇所図示されているが、右実況見分は事件発生の翌日になされているところからして見分当時には四畳半の間にはラムネ瓶の破片はなかったことが明らかであり、四畳半の間に関する右図示は何人かの指示に基づいてなされたものであるかもしれないが、右実況見分調書からは判明せず、また原審証人籾井静子、同籾井一、同籾井宏明は破裂後四畳半の間に破片が飛んで来ていたことについては何ら証言していないから、右実況見分調書に図示するところのみをもってしては、四畳半の間に破片が飛散したことを認めるには足りない。以上に認定の破片の飛散状況に徴すると、破裂地点から東側約四メートルの地点までは破片が飛散していたというのであるから、そこから東側板塀までなお飛散し得る余地があるのに飛散しなかったということとなり、これに破裂地点から約一・三メートルの近距離にある廊下のガラス戸(左右両側にあけられていた)のガラスさえ一枚も破壊されておらず、破裂音もタイヤのパンクのような音でこれに畏怖感を抱いたのは籾井方家族及び近隣の人の中で籾井宏明の母静子のみであることなどを勘案すると、右破裂したラムネ弾の性能は、前記鑑定人が実験した結果によって指摘するようなラムネ弾の性能とは異なり、その性能はかなり弱く、その投擲による爆発作用そのものによって公共の安全をみだすには足りず、又、人の身体財産に極めて軽微な損傷を与える程度の破壊力を有するにすぎないものと認めざるを得ない。(最高裁判所昭和三四年七月二四日第二小法廷判決参照)。そして、前記不発のラムネ弾は右破裂したラムネ弾とは瓶がやゝ軽量(風化カーバイド約二〇グラム入りのままで四四六グラム)であることがうかがわれるが、同一人によってほぼ同量のカーバイドが詰められたもので、これを検しても、ラムネ瓶の栓座のゴム輪も正常に取り付けられていてラムネ弾がこれに密着しうる状態にあることが認められ、したがって不発となったのはラムネ玉が瓶の口を密閉する状態にならぬうちに投擲されたためであることが推測されるのであるが、その性能は右破裂したラムネ弾の性能と同様のものと推認するのが相当である。そうすると、籾井方に投擲されたラムネ弾二個はいずれも爆発物取締罰則にいう爆発物には該当しないものといわざるを得ない。
つぎに、大西方におけるラムネ弾の投擲状況、破裂状況及び被害状況等について検討し、投擲されたラムネ弾一本が前記罰則にいう爆発物に該当するかどうかについて検討するに、原審の大西方についての検証調書(昭和二八年四月一一日実施)、差戻後の当審第五八回公判において取り調べた司法警察員橋本助一作成の昭和二七年七月一五日付実況見分調書の一部(その取調経緯は前掲籾井方における実況見分調書と同様である。)、原審証人橋本助一、同大道栄吉、同大西博子に対する各証人尋問調書、原審証人森田惣兵衛、同長谷川栄三郎、同浜本辰己の各供述、井内秀雄の検察官に対する第一回供述調書、当審証人橋本助一の供述、並びに前記領置にかかるラムネ瓶の破片若干によれば、被告人木沢は、大西方玄関近くのカウンターぎわの土間から奥三畳の間を目がけて本件ラムネ弾を投げ込んだところ、ラムネ弾は表の応接室と奥三畳の間との出入口となっている片開きのガラス扉の上部ガラスを突き破って、そのガラスの一部を破壊したのち奥三畳の間に突入して破裂したこと、当時の奥三畳の間の状況は玄関の方向を北とすれば(原審検証調書の方向指示に従う。警察の実況見分調書では西として記載されている。)、北側は前記片開きのガラス扉と透明ガラスの入れられたガラス戸二枚の窓となっており、東側はガラス戸四枚の窓と壁となっている。西側は舞良戸四枚によって仕切られ、そのうち北三枚の部分が押入れとなっていて、その下方の敷居の下は高さ約三〇センチメートルの腰板となっており、南端の舞良戸の奥は南から北に向って押入れの上部を昇るかたちの階段の昇口となり、その昇口は便所前の板の間にも続いている。南側は幅〇・九七メートル、高さ一・六四メートルのガラス障子(以下、仕切戸という。)二枚によって裏側の板の間と仕切られており、右仕切戸は、それぞれ、上部は一枚のすり板ガラスでその三畳の間の側には格子模様の木枠の桟がはめられ、下部は木製板となっており、中間部は左右に一枚ずつ高さ約〇・八四メートルの割合大きな化粧ガラスがはめられ、右仕切戸下方の敷居の下は高さ約三〇センチメートルの腰板となっており、右三畳の間東南隅には大型金庫が置かれ、その横(西側)に折畳式のちゃぶ台が畳んで立てかけられていたこと、当夜右奥三畳の間にラムネ弾が投入された結果、前記のように三畳の間出入口の片開きの扉のガラスが一部割れてその前後に落ちたほか、破裂したラムネ弾の破片は主として三畳の間の倉庫と階段昇口の腰板との間に落ち、その破片は大きなものが多く、その他三畳の間の所々や階段昇口及び同間の裏の板の間に小片が落ちており(領置にかかる大西方関係のラムネ弾の破片は九個で二〇グラム以上のものが三個、二〇グラム未満一〇グラム以上のものが四個、一〇グラム未満五グラム以上のものが二個、合計重量一六〇・八グラムにすぎないから、当夜収集したものの一部であることがうかがわれるのであるが、大西方のどの場所に落ちていたのを収集したものかは明らかではない。)、又、三畳の間南側の仕切戸二枚のうち西側(階段寄り)の仕切戸の左側(東側)中間部の板ガラス一枚が殆んど全部割れ落ち、そのすぐ上部の板ガラス(その当時までにその中央よりやや東寄りのところにほぼ縦にひび割れがしていて、その割れ目に補修のための目張りが施されていてこわれ易い状態であったと思われる。)の左方の一部も割れ落ち(原審検証調書には、大西博子の指示に基づき本件によって割れたのは、右仕切戸の上部及び中間部のガラスの右側(西側)である旨図示しているが、本件直後に撮影された実況見分調書添付の写真(6)及び現場見取図(3)によると、右検証調書の記載は誤った指示に基づくものであることが明らかである。)、それらの破片(但し、その殆んどは中間部の板ガラスの破片である。)が前記金庫と階段昇口の腰板との間に多く散乱しているほか、右仕切戸後方に置かれている茶箪笥やさらにその奥の板の間にも多少落ちており、又、右金庫と階段昇口の腰板とのほぼ中間で、畳の目数からして仕切戸に垂直方向に約四〇センチメートル手前、金庫横に立てかけられていたちゃぶ台面から垂直方向に約三五センチメートルの畳の上には消石灰の白い粉末が小範囲に集まって多く附着し(その位置をA点という。)右ちゃぶ台の下方及び前記階段昇口腰板の下方(その間約一・三四メートル)にはいずれも消石灰の粉末が吹きつけられたような状況で附着していて、右A点を中心として放射線状に飛び散った状況を呈しており、又、畳の上に落下した数多の仕切戸のガラスの大きな破片がA点を中心として、畳の目数から算定して直径約四〇センチメートル位の空間を置いてほぼ円形ないし楕円形に吹き飛ばされたかのような状況になっていて、そのガラス破片の表面に消石灰の粉末が附着し、さらに前記仕切戸下部板の左上方角の木枠が稍稍はじけた状態となっており(これを(イ)の損傷という。)、さらにその稍々上方にある破損したガラスを狭んでいた木枠で手前の薄い部分が上方から下方へ縦に稍々裂けて内側へ押し込まれた状態になっており(これを(ロ)の損傷という。)、これら(イ)(ロ)の損傷は新らしいものであったこと、以上のほかにはガラスの破損はなく、又、右仕切戸下部の板やその下方の腰板、舞良戸やその下方の腰板、ちゃぶ台その付近の畳等にラムネ瓶の破片が突き刺さって損傷を与えたとの痕跡は見当らないこと、又、そのラムネ弾の破裂音については、大西方二階にいた証人大西博子はガラスの壊れるひどい音がしたというのみであり、大西方向いに居住する証人長谷川栄三郎は時々大西方へ酒呑みが見えるので喧嘩でもしてガラスを割ったのかと思ったがひどい音だったといい、大西方から約一〇メートルのところに居住する証人森田惣兵衛は厚いガラスが二、三枚割れたような音がしたといい、たまたま大西方から一〇ないし一五メートルの所を通行していた証人浜本辰己は電球が割れたときのようなそれよりも大きい音がしたと供述していることが認められる。原審検証調書及び原審証人大西博子に対する証人尋問調書によれば、同人は原審の検証に際し、ラムネ瓶の破片及びその中の白いものが……階段八段目まで散乱した旨指示し、その際証人としても、階段の上から二、三段目のところまでガラスの破片が落ちていた旨証言するが、後に認定するように本件ラムネ弾は三畳の間の前記A点において破裂したものと認められ、しかも当時三畳の間の西南隅は階段昇口への出入のため約六、七〇センチメートル程あけられていたのみで、その余は舞良戸が閉められていたのであるから、A点で破裂したラムネ弾の破片が階段の八段目(上から二、三段目)まで飛ぶということは、破片が舞良戸に遮ぎられていたところを鍵型に飛んだことになり不自然であり、司法警察員橋本助一作成の実況見分調書の一部にはこの点に関する記載も又その写真もなく、かつ、右大西博子は、前記のように仕切戸のガラスの破損箇所について誤った指示をしていることをも勘案すると、同女の前記指示及び証言はそのまま採用することはできない。また原審証人大道栄吉(警察官)に対する証人尋問調書によれば、同人は玄関の土間に確かに瓶の破片のようなものと思われる破片が落ちていた旨証言するが、前記実況見分調書の一部にはこの点に関する記載も又その写真もなく、右証言からしてもラムネ瓶の破片とは断定しがたいから、右証言も亦そのまま採用することはできない。以上の事実関係のもとに本件ラムネ弾の破裂地点について検討するに、右に認定したように、ラムネ弾の破片が主として三畳の間の金庫と階段昇口の腰板との間に落ちていたこと、前記A点を中心とする消石灰及びラムネ瓶を含むガラス破片の飛散状況ことにそれが放射線状に飛んでいたこと、並びに前記鑑定人山本祐徳の鑑定報告書によって認められるようにラムネ瓶の破片が瓶の横方向に多く飛ぶこと、さらに差戻後の当審において取り調べた一柳正和の鑑定報告書によれば、同人の実験の結果、ラムネ瓶の破裂に伴ない瓶内の消石灰も瓶の破片と同様、瓶の横方向に多く飛び、かつ又、板ガラス破片を適当と思われる程度の均等さで畳の上に分布させ、その中心部分にカーバイド入ラムネ瓶を横にして破裂させると板ガラスが瓶破裂地点を中心にほぼ楕円形状に吹き飛ばされることが認められること、並びに右鑑定報告書によればカーバイド入りラムネ瓶に注水して密栓後破裂するまでの時間は最も低いものでも一〇・七秒であることが認められるから密栓後直ちに投擲したとすれば破裂するまでの所要時間は概ね約一〇秒であることが推認されること、などを考え合わせると、本件ラムネ弾は前記A点においてその瓶が仕切戸に垂直の形で畳上に静止した状態で爆発したものと認めるのが相当である。然らば、右仕切戸の上部及び中間部のガラスの破損は本件ラムネ弾の爆発に伴なって飛散したラムネ瓶の破片によるものであろうか、すなわち、これらガラスの破損と本件ラムネ弾の破裂の先後の関係について検討するに、前記認定のように畳の上に落下した仕切戸のガラスの大きな破片がA点を中心として直径約四〇センチメートルのほぼ円形ないし楕円形に吹き飛ばされたかの状況になっていて前記一柳正和の鑑定結果と符合し、前記警察官作成の実況見分調書及びその添付の写真(6)(7)(その拡大写真参照)並びに当審証人一柳正和の第六二回公判における供述によれば、仕切戸上部のガラスと中間部のガラスとは若干模様が異なるところから、右円形ないし楕円形の円周上付近にあるガラス破片の殆んどは中間部板ガラスの破片であるが、上部板ガラスの破片も若干あることがうかがわれるところ、右の証拠によれば、これらのガラス破片にはいずれもラムネ弾の爆発に伴なって飛散した消石灰の白い粉末が附着していることが認められるのであって、これらの事実に徴すると、右仕切戸が本件ラムネ弾の爆発以外の何らかの衝撃を受けて、その上部板ガラスの一部及び中間部板ガラス(全部破損したのかどうかは後に判断する。)が破損して仕切戸の手前及びその後方に落下したのち、仕切戸手前の前記A点において本件ラムネ弾が爆発したものと認めざるを得ない。そして、当時右仕切戸のガラスが破損する程の衝撃を与えたものとしては本件ラムネ弾以外には考えられないから、本件ラムネ弾が衝撃を与えたものと考えるほかはないのである。ところで、前記実況見分調書添付の写真(8)によれば、さきに認定したように仕切戸の木枠に前記(イ)及び(ロ)の損傷が認められ、右写真(8)の説明として、右(イ)(ロ)の損傷は炸烈による損傷である旨記載されている。なるほど、右(イ)の損傷はラムネ瓶の破片によって生じた可能性は十分考えられるのであるが、右(ロ)の損傷については右写真を仔細にみると、(ロ)の縦方向の裂け目のすぐ下方部分が小範囲にわたって白っぽくなっていて鈍体に圧迫されたような痕跡が認められ、(ロ)の損傷の状況並びにその白っぽくなっている痕跡の状況からみて、ある程度幅のある物体がその白っぽい痕跡のある部分に強く当って(ロ)の損傷を生じさせたことがうかがわれるのである(当審証人橋本助一も(イ)(ロ)の部分に鋭利なもので引っかったような損傷があったけれども、そのいずれもがそうであったとは記憶がないという。)。そして、このような損傷を生じさせる物体としては、本件の場合、破裂前の本件ラムネ弾以外には考えられないところであり、しかも、大西方玄関土間から投擲されたラムネ弾が三畳間入口の扉上部のガラスを突き破って右(ロ)の損傷下部のガラス枠に当るということは、その通過経路の可能性の点からみても十分考えられるのである。してみると、投擲された本件ラムネ弾が前記仕切戸の左側中間部ガラスの木枠に当って仕切戸に強い衝撃を与えると共に一部が中間部の板ガラスにも当った結果、すでにひび割れして補修を施し強度も弱まっていた上部板ガラスの一部及び中間部板ガラスを破損させたものと認めるのが相当である。しかし、右衝撃によって左側中間部板ガラスの一部を破損させたことは確実ではあるが、その全部を破損させたものであるかは証拠上必ずしも明確ではなく、一部破損後残存部分がラムネ瓶の破片によって割られたという推測もできないではない。この点に関し、原審証人橋本助一は「ガラス障子の破片が裏の土間まで飛んでいた。」旨供述するが、同人作成の実況見分調書の図面にはその点について何ら記載されていないため、どの程度の破片が土間のどの辺に飛んでいたかもわからず、前記衝撃で仕切戸後方に落下した破片がさらに落下の衝撃で割れて土間に飛ぶということも考えられないではないから、右の供述をもってラムネ弾の破片によって割られたガラス障子の破片が土間に飛散したものと即断することはできず、又前記認定のように仕切戸後方の板の間に落ちていたラムネ瓶の破片は小さなものであり、かつ又前記衝撃により破損した仕切戸の空間を通って飛ぶということもないとはいえず、右ラムネ瓶の破片が半壊後の板ガラスを破損したものとは断定しがたい。結局、この点については被告人の利益に従い、ラムネ弾がガラスの木枠に当った衝撃により中間部板ガラス全部を破損落下させたものと認めるのが相当である。(検察官は当審において前記(ロ)の部分にラムネ瓶が当って傷つけたとしても、ラムネ瓶はガラスそのものを突き抜けて向う側の板の間に落下する筈であると主張するが、実況見分調書添付の写真(8)及び原審検証調書添付の見取図第二図から明らかなように前記(ロ)点直近の板ガラスの後方には水屋が背を向けて置かれており、かりに検察官主張のように(ロ)に当ったラムネ瓶が板ガラスにも当ったとしても、水屋の背に当って三畳の間にはね返ることが考えられるから、ラムネ瓶が向う側の板の間に落下するという検察官の主張及びこれを前提とする検察官の主張は採用しがたい。又、一柳鑑定によると、仕切戸上部のガラスの破損はその上部に掲げられていた額縁が落ちてその下端が当ったことに因るとも推認されるというけれども推認の域を出ないものであるうえ、額縁落下の原因についても人を納得させるものがなく採用しがたい。以上要するに、奥三畳の間仕切戸のガラスの破損は、すべてラムネ弾が木枠に当った衝撃によるものと認めるのが相当であって、ラムネ弾の爆発作用によって生じたものとは認められない。そして以上のようなラムネ弾の破裂状況、すなわち、前記仕切戸前約四〇センチメートルの破裂地点を中心に約四、五〇センチメートルの範囲内に大部分の破片が飛び、小破片は三畳の間及び右破裂地点から約一メートル前後の階段昇口並びにガラス破損後の空間を越え右破裂地点から直線距離約一メートル余の板の間に飛んでいる程度で、その爆発によって破裂地点からそれが垂直方向であるとはいえ、約四〇センチメートルの近距離にある仕切戸の右側ガラス一枚は全く破損されておらず、爆発作用そのものによって被害は殆んど皆無であり、その破裂音もガラスか電球のわれるような音がしたというにとどまる程度のものであることなどを勘案すると、本件ラムネ弾の性能は、前記山本鑑定人が実験した結果によって指摘するようなラムネ弾の性能とは異なり、その性能はかなり弱く、その投擲による爆発作用そのものによって、公共の安全をみだすには足りず、又、人の身体財産に対し極めて軽微な損傷を与える程度の破壊力を有するにすぎないものと認めざるを得ない。(前記最高裁判所昭和三四年七月二四日第二小法廷判決参照)。結局大西方に投擲されたラムネ弾は爆発物取締罰則にいう爆発物には該当しないものといわざるを得ない。
検察官が引用するラムネ弾が右罰則にいう爆発物にあたるとした判例は、そのラムネ弾の性能、威力等において本件とは事案を異にし、本件には適切ではない。
以上のとおりであって、原判決が、本件ラムネ弾が投擲爆発により生じた具体的状況について十分な審理を尽さず、ただ爆発物取締罰則の立法理由その他主として法的解釈の面から爆発物の意義を設定し、本件ラムネ弾は右罰則にいう爆発物にあたらないものとし、かつ大西方の仕切戸のガラスの破損が本件ラムネ弾の爆発に伴なう破片の飛散によるものであるとしたことは、いずれも法令の解釈適用の誤り及び事実誤認があるけれども、結果的に本件各ラムネ弾が爆発物取締罰則にいう爆発物にあたらないとした判断は正当であるから、論旨は結局理由がない。
第三、弁護人古川毅の控訴趣意二について
論旨は、原判示第一の被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aの暴力行為等処罰に関する法律違反の事実について訴訟手続の法令違反を主張し、原判決は、起訴状記載の汽車往来危険の事実及び罰条に対し、何ら起訴状に記載されていない数人共同による器物毀棄の事実を認定し該当罰条を適用して処断したのは、被告人に不意打を食わせるものであって、被告人の防禦に実質的な不利益をもたらし刑事訴訟法三一二条、同規則二〇九条の精神に違反し、訴訟手続に法令違反があるというのである。
よって記録を調査するに、原判決が、「被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aは、槌田敦、野上銀次郎、出上桃隆、水嶋晢、斎藤治、辻井道明らと共謀のうえ、駐留軍専用列車の脱線、顛覆を企て、昭和二七年六月七日午後七時半頃大阪市東淀川区国鉄宮原操車場内において、東二番線に留置中の駐留軍専用旅客汽車の車軸オミ二七五二号の一位、オハネ三六〇二号の二位、六位及び八位、オロ三一一号の二位の各軸箱内に砂、小石等を投入し、(中略)もって汽車の往来の危険を生ぜしめたものである」との汽車往来危険の公訴事実及び刑法一二五条一項、六〇条の罰条に対し、訴因、罰条の変更手続を経ることなく、被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aは駐留軍専用の後記各客車の車軸の軸箱を損傷するものであることを知りながら、野上銀次郎、槌田敦、出上桃隆、辻井道明、水嶋晢と共謀のうえ前記同日時場所において数人共同して前記駐留軍専用の各客車の車軸軸箱のナットをそれぞれ所携のスパナーで廻して無理に外し、前蓋及び紙パッキングを除却して所携の砂及び同所付近の砂並びに小石を軸箱内に投入して給油具を汚損せしめ、かつ軸箱の一部の前蓋をせず、又はこれを垂下せしめたままに放置して車軸箱の効用を害し、もって右客車の当該車軸箱を損壊したものであるとの趣旨の暴力行為等処罰に関する法律違反の事実を認定し、同法一条一項、刑法六〇条を適用していることは明らかであり、したがって、起訴状記載の公訴事実にあたる汽車往来危険罪と原判決認定の事実にあたる数人共同による器物損壊罪とはその構成要件を異にし罰条も異なるものであることは所論のとおりである。しかしながら、右両者を比較すると、原判決認定の事実は、右起訴状記載の汽車往来危険の訴因中に包含せられていることは明らかであり、ただ汽車往来の危険がないというだけのものであって、公訴事実の同一性の範囲内で、いわば汽車往来危険の訴因を縮小した態様、限度において認定したに過ぎないものというべきであり、しかも、汽車往来危険の訴因についての審理に際し数人共同による車軸箱損壊の事実について被告人等の防禦権行使の機会は与えられているから、このように訴因の縮小された態様、限度において数人共同による器物損壊という暴力行為等処罰に関する法律違反の事実を認定しても、被告人等の防禦権の行使に実質的な不利益を与えるものとは認められない。したがって、本件においては必ずしも訴因罰条の変更手続を必要とするものではなく、その変更手続をしなかったことをもって刑事訴訟法三一二条、同規則二〇九条の精神に違反したものとはいえないから、原判決には所論のような訴訟手続に法令違反の廉はない。論旨は理由がない。
第四、弁護人古川毅の控訴趣意三について
論旨は、原判示第一の事実につき事実誤認を主張し、原判決は汽車往来危険の訴因に対し数人共同による車軸箱損壊の事実を認定したが、汽車往来の危険がない以上、器物の効用を害することがないから、数人共同による器物損壊罪は成立しないというのである。
しかしながら、原審で取り調べた鑑定人岩田的夫、同斎藤誠一の各鑑定書によれば、本件汽車車両の車軸箱は、車両用平軸受軸箱と称し、車軸の軸頸部とこれに適合する砲金製台金にホワイトメタルを裏張りした軸受金及びこれらを包被する鋳鉄製箱よりなり、軸頸の下部には油を含んだ木綿糸屑の給油具を納め軸に対する完全な給油作用によって車体重量を支え、同時に軸箱守と相俟って車体と輪軸との関係位置を保持せしめ、又、雨水、砂塵の侵入、油の溢出を防ぐため軸箱の奥に塵除を装着し、前部に前蓋を有するもので、その機能は車軸の回転と共に給油具の油が軸について軸受金と軸頸との間にごく薄い油膜を造り、摩擦を軽減しつつ車体重量を支えることにあることが認められるところ、原判決挙示の関係証拠(但しさきに排除された証拠を除く)によれば、被告人木沢等は共同して原判示客車の車軸箱五個について、そのナットをモンキー(スパナーと判示するがモンキーが正当)で廻して無理にはずし、前蓋及び紙パッキングを除去して砂及び小石を投入して給油具を汚損せしめ、かつ右軸箱の前蓋をせず、又は垂下せしめたまま放置したことが十分認められる。そして前記認定の車軸箱の果す機能に照らすと、被告人等の行為はたとえ汽車往来の危険がなかったとしても、車軸箱本来の効用を害したことは明らかであるから、数人共同による器物毀棄罪の成立は免れず、原判決の事実認定には所論のような誤りはないから、論旨は理由がない。
第五、検察官藤田太郎の控訴趣意第三について
論旨は、被告人国頭利雄の原判示第三の幇助の事実について事実誤認を主張し、原判決は被告人国頭を幇助犯と認定した理由として、同被告人は昭和二七年七月六日頃大阪経済大学三階の社研部屋において出上より大西保三郎方にラムネ弾を投げ込み、かつビラを撒く理由及びそれらの行為に出る計画のあることを説明され承知していたが、本件前日の七月一三日夜の被告人木沢等が行なった共同謀議に出席しておらず、又、被告人木沢からの連絡により本件当夜淡路駅西口パチンコ店前に集合し指導者格の被告人木沢の指示命令に従って行動したが、被告人国頭はただ右被告人木沢より同人等が大西方に入るのを見届けてから同被告人が作成した犯行の趣旨ともいうべき紙を貼付することだけを命ぜられ、これのみを実行したにすぎないというのであるが、出上桃隆の検察官に対する第二回供述調書によれば、本件パチンコ店前で、被告人木沢、同B、同国頭、出上及び井内が参集し、皆で手分けして井内が持って来ていたと思われるビラを各戸に配ったが、出上はこれに一時間半位を費したころ井内に呼ばれて淡路駅一番ホームに沿った道路の暗い箇所に行ったとき、既に他の被告人達が参集していたというのであるから、その間前夜行なわれた、いわゆる共同謀議の内容が被告人国頭に未知のまま放置されていたとは経験則上も窺えない。要するに、被告人国頭は被告人木沢等が大西方にラムネ弾を投入することを知ってこれに参加し、その犯行に加功したものであるから共同正犯をもって問擬すべきである、というのである。
よって案ずるに、出上桃隆の検察官に対する同年一〇月二八日付第二回、同年一一月四日付第三回各供述調書及び井内の検察官に対する第一、第二、第四回各供述調書によれば、昭和二七年七月五日の夜か六日の朝、出上は被告人木沢から「六日午後二時に経済大学で大西をやっつける話があるから行ってくれ。」と頼まれ、六日午後二時頃大阪経済大学社研部室に赴き、同大学三階の部屋において、学生の大槻某、被告人国頭と氏名不詳の学生のいるところで、大西市会議員に関する従来の経緯を説明し、大槻某から「ラムネ弾を投げこもう、それについては大西が悪い奴だというビラを同時に撒くべきであり、経大の方で二〇〇枚位作るから、居住地の民青の方でも二〇〇枚位作ってくれ。」といわれ、大槻とビラを先に撒いてその直後にラムネ弾を投げようということを話し合い、被告人国頭及び氏名不詳の学生が先に退室したのち、出上は大槻とともにビラの原稿を作成し、その後午後四時頃帰宅して一人で謄写版で二〇〇枚のビラを作ったうえ、これを被告人木沢に渡すとともに同被告人に当日の経済大学での打合せの模様を報告したこと、翌七月七日夜、被告人木沢方で同被告人及び井内のほか幾人かが集まったうえ、その翌八日午後八時頃に淡路駅に集合してビラを配り大西方にラムネ弾を投げ込む話がなされたが、出上は七日の夜は自己の就職希望先の入社試験が終ったのち尼崎市内の親戚へ右入社の際の保証人になってもらうべく依頼しに行ったため、右の会合には出席せず、被告人国頭もこれに出席した形跡はないこと、翌八日午後八時頃淡路駅西口に被告人木沢、大槻、柏原、出上、井内が集合したが、これより先当日昼頃井内は斎藤勇から、右の計画を中止して十三の磯部方にくるようにとの連絡を受けていたので、その旨を被告人木沢に伝えたところ、結局当夜の実行は中止されたが、被告人国頭はその際集合しなかったこと、その後被告人木沢と井内が相談の結果、同月一三日夜、出上の部屋に被告人木沢、同B、出上、井内の四名が集合し、計画を翌一四日夜実行するにつき一四日夜午後八時頃、淡路駅西口に集合することとし、実行行為は被告人木沢、井内において担当し、他の者は応援にくる経大生とともに見張りをし、ビラは全員で引江の部落に配り、ほかにラムネ弾投込みの趣旨を記載した紙を区役所の前の掲示板に貼ることなどを決めたが、右会合にも被告人国頭は出席していないこと、翌一四日、被告人国頭は午後八時頃淡路駅西口に赴くと、被告人木沢、同B、出上、井内の四名も来たので、五名そろって引江部落に行き、被告人木沢が皆にビラを分け与えて一時間前後を費して各戸にビラを配布し、井内がラムネ瓶に水を入れるなどして、一旦淡路駅一番ホームに沿った道路脇の暗い箇所に集まり、被告人木沢が前夜定めた各人の役割を重ねて説明して、出上に対し大西が悪い者である旨の内容を墨書した紙を手渡し、その後全員が少しずつ間隔を保ちながら大西方へ向い、一旦同家の前を通り過ごして内部の様子をうかがい、東淀川区役所前に至って、被告人国頭及び出上の両名はそこに残り、被告人国頭は、被告人木沢、井内の両名が道を戻って大西方に入るのを見届けたうえ、出上と協力して前記墨書した紙を同区役所前附近の看板の上に貼付し、自らはラムネ弾投入の実行行為そのものを分担したものではないことが認められる。そして、被告人国頭が右七月一四日の夜淡路駅西口に集合するに際し他から連絡を受けたことについては直接の証拠は存在しないけれども、現実に集合していることからして何人からかの連絡を受けたことは十分推測されるところである。井内は、検察官に対する第四回供述調書において、七月一三日夜の謀議には被告人国頭は参加していたように思う旨供述するが、右供述は出上の検察官に対する第二回供述調書中の供述に比照し採用しがたく、又、井内は、検察官に対する第一回供述調書において、「昭和二七年七月初頃から被告人木沢方や淀川の提防の下などで木沢、出上、国頭、B等と一緒に何回も集って引江の問題をどのように解決しようかと話した。」旨供述し、被告人国頭が引江問題ないし大西問題について当初から深い関心を寄せ被告人木沢等と密接な関係をもって相談していた趣旨の供述をしているが、右供述の採用しがたいことについては原判決の説示するとおりである。又、出上が被告人木沢から頼まれて七月六日午後二時頃大阪経済大学社研部に赴き、大槻某、被告人国頭外一名と話し合ったことはさきに認定したところであるが、出上は、検察官に対する第二回供述調書において、さらに、右の際にビラ配付及び大西方へのラムネ弾投込みの決行日を七月八日夜とし同夜午後七時三〇分に淡路駅の西出口に集合する旨決め、被告人国頭はその日は何かの会合のため行けないかもしれないと言うていた旨供述しているのであるが、しかし、引江ないし大西問題について指導的立場にあったのは被告人木沢であったことは証拠上明らかであり、出上が大阪経済大学社研部に行ったのも被告人木沢の命により単に従来の経過を学生に説明に行ったもので、その際種種の話が出たとしても、指導者たる被告人木沢のいないままに手段方法、決行日時、集合場所等まで謀議し、かつ決定したとは考えがたいから、右出上の供述はそのまま採用することはできない。
そうしてみると、被告人国頭は七月六日に大阪経済大学社研部室で出上や大槻らの説明や話を聞いたことがあったのち、本件当日何人からかの連絡により淡路駅西口に集まったものであって、その間の謀議や集合には参加していないものとみるべきであるから、右七月六日に話を聞いて被告人木沢等が大西方にラムネ弾を投入するかもしれないという事情を察知しながら、本件犯行当日である七月一四日午後八時頃淡路駅西口に集合して被告人木沢の指示により同人等とビラを配り、同人等が大西方に入るのを見届けてから、前記のように同所よりやや距った区役所前の看板に被告人木沢が墨書した紙を貼付しただけで実行行為を分担したものではなく、進んで被告人国頭において被告人木沢等の実行行為により自己の犯意を実現しようとする意思を有していたものとも認めがたい。被告人国頭の右の行為は、被告人木沢等の犯行を精神的に援助してその犯行を容易ならしめたものというべきであって、これをもって共同正犯であるとはいえない。所論は、被告人国頭と同じく、被告人木沢の指示に従って行動した被告人B、出上等の行為を共犯としながら、被告人国頭について幇助犯としたことについて事実認定の不均衡を主張するが、被告人B、出上等は本件犯行前夜の共同謀議に参加し、本件犯行の実行について賛成したのであるから、これらの者と別異の認定をしたからといって不当とはいわれないから、右所論は採用しがたい。結局、被告人国頭の所為を幇助犯と認定した原判決は正当であって、その他記録を精査しても原判決には所論のような事実誤認の廉はないから、論旨は理由がない。
第六、被告人国頭利雄の控訴趣意について
論旨は、被告人国頭利雄の原判示第三の幇助の事実について事実誤認を主張し、同被告人は、本件犯行当日である昭和二七年七月一四日夕刻頃学生自治会の委員吉田叡から翌一五日に扇町プールで開催される平和集会のビラ貼りを、学生委員某とともにやってくれないかと頼まれたので、当夜八時半頃下宿を出て友人の下宿先の大阪市東淀川区瑞光通一丁目鈴木和男方に行き三〇分余り雑談したのち、徒歩で瑞光橋まで行って、待ち合わせていた学生委員と二人で瑞光附近(淡路管内)で大きいビラを二、三枚貼り、持っていた小さな散らしビラを近くの家に撒いて回り、午後九時半頃上新圧駅の近くの踏切りの橋のところで別れ、再び鈴木方に引き返して雑談し、午後一〇時半頃自転車で下宿に帰ったものであり、被告人木沢、同B、出上、井内とは全然面識もないし、被害者大西保三郎の名前も聞いたことはなく、同人に対し恩も恨みもなく、又、本件犯行当日友人の西城正一から木沢の伝言を受けたことはなく、その頃西城は大学が既に夏期休暇に入っていたため三重県下に帰郷していて大阪にはおらず右の事実を捜査官の取調に際し供述しなかったのは大学卒業前で就職に差支えを来たし、又吉田叡に迷惑をかけると思ったためであって、大西方での事件には全く関係していないというのである。
しかしながら、被告人国頭は、被告人木沢、同B、出上、井内等が共謀のうえ原判示第三の大西方にいわゆるカーバイド入りラムネ弾を投げ込むことを知りながら、被告人木沢から頼まれて同被告人が右犯行の趣意を犯行と同時に一般人に知らせる必要があると考えて墨書した紙を、同被告人等が大西方に入るのを見届けてから直ちに出上と協力して東淀川区役所前附近の看板の上に貼付したものであることは、さきに第五として検察官の控訴趣意第三に対する判断に際し説示したとおりである。旧第二審の証人吉田叡、同西城正一(第三回、第四回各公判)はそれぞれ所論にそう供述をするが、右吉田証人の供述するように、本件犯行当日の夕方被告人国頭に対して所論のポスターを貼付することを依頼したことがあったとしても、右認定を左右するには足りず、又、西城証人の供述は同人の司法巡査に対する供述調書と対比してたやすく信用しがたい。又、当審証人出上桃隆(第二三回公判)、並びに被告人木沢(第二四回公判)の昭和二七年七月頃には被告人国頭を知らなかったとの各供述は、出上の検察官に対する各供述調書に対比し採用しがたい。その他被告人国頭のアリバイを認めるに足りる証拠は存在しない。なお、所論は、出上、井内の検察官に対する供述調書、被告人Bの司法巡査に対する供述調書の信用性を争うが、右各供述調書の内容を検討しても、前の供述を訂正変更したところは見受けられるが、不自然、不合理な点はなく、十分信用することができる。その他記録を精査しても、原判決には所論のような事実誤認はない。論旨は理由がない。
第七、検察官藤田太郎の控訴趣意第四並びに弁護人古川毅の控訴趣意四、被告人木沢恒夫、同Aの各量刑不当の控訴趣意について
検察官の論旨は被告人六名に対する原判決の刑は軽過ぎるというのであり、弁護人の論旨は被告人六名に対する原判決の刑は重過ぎるというのであって、ともに量刑不当を主張し、又、被告人木沢、同Aもその趣旨必ずしも明らかではないが、同様、原判決の量刑不当を主張するもののようである。
よって、各所論にかんがみ記録を検討するに、(一)本件宮操事件は数人共同して駐留軍専用列車の運行を妨害しようとして、客車の車軸箱に砂、小石等を投入して給油具を汚損させたり、車軸箱の前蓋をはずす等してその効用を害し、車軸箱を損壊したものであって、汽車往来の危険はなかったとはいえ、列車の正常な運行を妨げる結果を招くおそれのある悪質な犯行であり、(二)籾井事件は、被告人斎藤の対田順太郎に対する私憤から同人一家の者を脅かそうとして誤ってその隣家の籾井方裏庭にカーバイド入りラムネ弾二本を投げ込み、内一本を破裂させて家人を脅したものであって、爆発力が弱く爆発物には該当しないとはいえ、その家人に与えた影響は軽くない悪質な犯行であり、(三)大西事件は市会議員である大西保三郎が立候補の際の公約を履行しないとして、その言動に立腹し、これに制裁を加えるべくカーバイド入りラムネ弾一本を同人方座敷内に投げ込んでガラス二枚を破損させたのち破裂させたものであって、これも爆発力が弱く爆発物に該当しないとはいえ、きわめて危険かつ悪質な犯行である。以下被告人ごとに分って検討することとする。
(1)、被告人木沢は右(一)の犯行に加わり、野上に命ぜられて野上、辻井とともにその実行行為に当り、損壊させた車軸箱五個のうち三個までが同被告人の損壊にかかるものであり、しかも右(三)の犯行を自ら計画し、自ら実行行為に当った首謀者であり、いずれの被害者に対しても何ら陳謝もせず、又何ら反省悔悟の念が認められないこと、その他諸般の事情を考慮すると、同被告人に対する原判決の刑はあながち首肯できないものではない。しかしながら、右(一)の犯行については幸い犯行直後鉄道関係者によって車軸の破損が発見されて事無きを得ており、右(三)の犯行による被害は財産的にはガラスが破損した程度の比較的軽微な被害にとどまり人身の被害は全くなく、既に事件発生以来二三年、原判決後二〇年に近い歳月が経ち、それも被告人側の責にのみ帰せられない事情によって訴訟が遅延し、その間被告人木沢においても相当の精神的苦痛をなめたであろうことなどを参酌すると、現時点においては実刑を科すよりは刑の執行を猶予するのが相当と認められるので、被告人木沢に対する原判決の刑は重過ぎると考えられる。弁護人及び被告人木沢の論旨は理由があるが、検察官の論旨は理由がない。
(2)、被告人斎藤は、前記(一)の犯行の謀議に加わって車軸箱のナットをはずすのに使用するモンキー二丁を準備して実行行為者に渡し、かつ一行の道案内するなどし、さらに前記(二)の犯行を自ら計画し実行した首謀者で、私憤をはらすため手段を選ばぬ行動に出たものであって、何ら反省悔悟の念が認められないこと、その他諸般の事情を考慮すると、同被告人に対する原判決の刑はあながち首肯できないものではない。しかしながら、前記(一)の犯行については、宮原操車場に入る手前から前記(二)の犯行現場に赴いたため、右(一)の犯行の実行行為そのものには加わってはおらず、又犯行直後車軸の破損が発見されて事無きを得ており、右(二)の犯行については当初から裏庭及び屋根上へ投げ込んだものであって、財産的な被害は皆無といってもよい程度であり、しかも人身の被害も全くなく、既に事件発生以来二三年、原判決後二〇年近い歳月が経ち、それも被告人側の責にのみ帰せられない事情によって訴訟が遅延し、その間被告人斎藤においても相当の精神的苦痛をなめたであろうことなどを参酌すると、現時点においては実刑を科するよりは刑の執行を猶予するのが相当と認められるので、被告人斎藤に対する原判決の刑は重過ぎると考えられる。弁護人の論旨は、理由があるが、検察官の論旨は理由がない。
(3)、被告人Aは、前記(一)の犯行に加わり、見張行為を担当したものであるが、犯行直後車軸の破損が発見されて事無きを得ており、犯行当時同被告人は少年であり、同じく右(一)の犯行の実行行為を担当し、指導的立場にもあった野上との量刑の権衡などを考えると、執行猶予付とはいえ被告人Aに対する原判決の刑はやや重過ぎると考えられる。弁護人及び被告人Aの論旨は理由があるが、検察官の論旨は理由がない。
(4)、被告人村田は、前記(一)の犯行に加わるべく現場近くまで赴いたところを被告人斎藤の応援員として同被告人とともに前記(二)の犯行に及んだものであり、被告人Bは前記(三)の犯行の謀議に加わり、現場付近で見張り行為をしたものであり、被告人国頭は前記(三)の犯行の現場近くにいてその犯行を幇助したものであって、その各犯行の動機、態様、罪質、に照らし犯情必ずしも軽くはないけれども、さらに被告人村田については従属的立場にあったものであり、かつその財産的被害は皆無にひとしく人身の被害もなかったものであること、被告人Bについては従属的立場にあったものであり、その財産的被害は比較的軽微で人身の被害は全くなかったものであること、被告人国頭については従犯であり、正犯による被害も右のとおり軽微であったことなどその他諸般の事情を参酌すると、右各被告人に関する限り原判決の刑は検察官所論のように軽過ぎるとも、又弁護人所論のように重過ぎるとも考えられない。論旨はいずれも理由がない。
第八、結論
よって、被告人木沢恒夫、同斎藤勇、同Aの本件各控訴は理由があるから、被告人木沢、同斎藤については刑事訴訟法三九七条二項により、被告人Aについては同法三九七条一項、三八一条により、原判決中右各被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書に従いさらに判決することとし、原判決の認定した関係事実にその掲記の関係各法条及び被告人木沢、同斎藤につき刑法二五条一項を適用して主文第一項ないし第四項のとおり判決する。
検察官の被告人村田不二男、同B′、同国頭利雄に対する本件各控訴及び同被告人らの本件各控訴はいずれも理由がないから刑事訴訟法三九六条によりこれを棄却し、当審における訴訟費用の負担につき同法一八一条一項本文、一八二条を適用して主文第五項及び第六項のとおり判決する。
(裁判長裁判官 瓦谷末雄 裁判官 尾鼻輝次 裁判官 小河巌)