大判例

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大阪高等裁判所 昭和41年(ネ)263号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

【判決理由】(1)本件各建物は二〇年六月の爆撃に遭い、第一建物が屋根と柱を残した程度に破損を受け、第二建物がそれよりはかなり軽度の破損を受けたが、そのまま放置されていたところ、二一年初め、原告は近隣の米穀商吉岡惣一郎の紹介で金田某(朝鮮名斉元)から右各建物を借用したい旨申出を受けたので、自己の費用で右破損を修理するのであれば貸してよいと答えた。金田は右各建物を修理し、その費用に一、二〇〇円位要した。原告は金田に対し、本件各建物の公租公課と敷地(借地であつた)部分の地代だけを負担して貰うこととし、貸借期間を八年と定めて貸すことを承諾した。かくて、金田は同年五、六月頃入居し、第二建物に起居し、第一建物を仕事場として使用していた。

(2) 金田は本件建物を約二年間使用した(最後の約八ケ月間は留守居として安田正祚を居住させていた)が、二三年五月頃他へ転居することとなつたので、原告に対し本件建物の使用権を他に譲渡したい旨申出たところ、原告は、前記のように同人が出費して修理した建物であるから約定の貸借期間八年間は他に譲渡しようと転貸しようと自由にしてよい旨答えた。それで金田は右貸借期間の残り六年間の権利を不動産取引業佐藤某に譲渡して同人に本件建物を引渡した。

(3) その頃妻の弟である平栗登のために住居を探していた松竹友吉が右佐藤から本件建物を紹介され、平栗のために右権利を買受けた。かくして、平栗夫婦が本件建物に入居するに至つたが、平栗は第二建物に起居し、第一建物は使用していなかつたところ、二四年八月下旬右佐藤に頼まれて橋岡文子夫婦を同年一一月初めまでこれに居住させた。

(4) その後、後にも認定するように、被告野村が二四年一一月一〇日第一建物に、被告池田が二五年四月七日第二建物に、それぞれ入居して現在に至つている。

以上の事実が認められ、他にこれを覆えすに足る証拠はない。もつとも、<証拠>によると、被告ら指摘のように(イ)、二四年六月二〇日本件建物が分割登記されたこと、(ロ)、平栗および被告らが本件建物の固定資産税および敷地の地代を支出していること、(ハ)、原告が被告らに対し前記貸借期間の残り六年間を経過しても明渡等の要求をしていないことが認められる。けれども、反面、右各証拠によると、(イ)については、本件建物はもと四戸建一棟の貸家であり、登記簿上はその北隣りにありもと原告が居住していた木造瓦葺二階建居宅の附属建物とされていたのであるが、前記爆撃により右原告の居宅と四戸建貸家の北端の一戸が焼失したところ、その家屋台帳が誤つて全部滅失として閉鎖されていたこと、原告は焼け残つた貸家三戸の南端の一戸に移住したが、老父から三戸建は縁起が悪いから自己の居住家屋と貸家とを分筆するように言われていたので、二四年五月三〇日家屋台帳の復活手続をし、翌月二〇日一部滅失による変更登記をした際、本件建物二戸を分割登記したのであつて、他に目的はなかつたこと、(ロ)については、本件建物の公租公課および敷地の地代は前記のとおり金田に貸す当初から借家人に負担して貰う約束であつたし、平栗や被告らに変つてからも、同人らが地主と改めて土地貸借を締結したものではないこと、(ハ)についても、原告は右のように被告らに本件建物の固定資産税および敷地の地代を負担させているし、日が経つにつれ交際も親しさを増したので、つい明渡しの要求をしそびれていたが、三七年春頃被告池田が第二建物を他へ売却するとして原告にその所有権移転登記を求めたために、原告が立腹して明渡しを要求し、この機会に被告野村に対しても明渡しを要求することとし、本訴提起に至つたものであることが認められるので、右をもつてしてはいまだ前記認定を左右するに足らない。

(二)、以上の認定事実によると、本件各建物は当初金田某が前示のように当時としては相当多額の出費をして修理したものであり、そのため、原告が同人に対し貸料を八年間は本件建物の公租公課とその敷地の地代相当額とし、かつ、予め賃借権の譲渡転貸を認めて賃貸したものであると解するのが相当……<以下略>

(乾久治 前田覚郎 新居康志)

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