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大阪高等裁判所 昭和42年(ネ)161号 判決 1972年11月29日

控訴人 森正気

右訴訟代理人弁護士 森茂

同 前川信夫

被控訴人 岩野岩市

<ほか五名>

右訴訟代理人弁護士 横田静造

同 松岡清人

主文

原判決を取消す。

被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴人らは「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上・法律上の主張および証拠関係は、次に附加するほか、原判決事実摘示と同じであるからこれを引用する。

第一、控訴人の主張

一、医師が医療契約上患者に対して負担する債務はあくまで誠心誠意当代の医学の水準に照らして充分な治療行為を行うべく努力を尽すというに尽きるのであって、医師たる者は仮に患者の死が多分に予見せられる場合ですらそれがとるべき手段である以上は万に一つの期待をかけて手術その他の治療行為を施さなければならない事例に絶えず直面しているのであるから、医師が右のようないわゆる医師の善管義務を尽した以上はその債務はすでに履行されたものであり、仮にその過程で医学上通常考えられない不測の事態が生じたとしても、それは医師の責に帰しうべき問題ではない。

医師の医療契約上の債務についての債務不履行を財産法上の債務不履行と同視することは医療の特殊性を無視したものであり、以下これを詳述する。

すなわち、物の引渡債務その他財産法上の債権債務関係に関する債務不履行(特に履行不能)の場合には給付の不存在という外形事実から債務者の有責性を事実上推定でき、実質的に立証責任が転換されることは判例の示すとおりであろうが、医療契約上医師の負担する債務はこれと趣を異にし医師が前記の善管義務を尽しても予測外の不結果が生ずることは往々ありうることであり、且つ医学の現状においては一見極めて単純な事例においてさえ、未だに原因、結果の関係やその間の法則性が解明されていない未知の分野が多いのであるから、結果についての無過失の立証責任を医師が負担するとなれば、事実上結果責任を追及されるにも等しい不当な事態を招来し、ひいては「萎縮診療」という由々しい問題にまで発展することが危惧されるのであるから、単純に右不結果―極端な場合には患者の死亡―を財産権上の給付の不存在と同一視してそこから医師の責任を事実上推定し、医療の過程で現実に生じた不結果につき医師が無過失を証明しない限り医療契約上債務不履行の責を免かれないとするのは医療の内容や医学の実相を無視した誤った見解であり、本件の如き医療過誤が問題となっている事案にあっては財産法上の債務不履行(履行不能)に関する判例の事案とは異り、債務不履行の立証責任は債権者にあるといわねばならない。

二、訴外亡岩野キミヱの本件ショック死は本件当時―昭和三八年一一月現在―控訴人を含めた一般臨床医にとって予見できない不測の事態であり不可抗力による事故であって控訴人には何らの過失もなかったものである。すなわち、

(一)、控訴人が亡キミヱに施用したザルピラエス注射液は当時絶対安全なものとして一般医家に公認され大病院から一般開業医にまで広く使用されていた普通薬で年間約六〇〇万本も市販され、控訴人自身も長年に亘り月間一五〇ないし二〇〇本使用してきたが、本件以前にはこれによる事故はなかったし、又全国的にみてもこれによるショック死の事例はなかったのであるから、本件ショック死のような事態は医学常識として考えられないところであった。

尤も同注射液の注意書にはピリン過敏症には注意を要する旨ならびに静脈注射の場合は極めて徐々に注射すべき旨の記載があるが、右は何もショック死の可能性という認識に基づくものではなく、ジンマシン等の局部的副作用が稀にありうること、注射速度が早過ぎると血管痛または一過性のめまい、嘔気の発生をみることがあることにかんがみ記入されたものであって、薬液の副作用に関する医家一般の認識もこれが限度であったのであり、一開業医たる控訴人が当時の医学の常識にしたがって本件注射液の安全性を信頼しこれを使用した点には何ら責めらるべき不注意はなかったのである。

(二)、のみならず控訴人は本件注射に際し亡キミヱに慎重に聴診、問診、触診を加えたうえ右注射液二〇CCを使用し、最初から徐々に注射してゆき二ないし三CC注入の時同女に気分に異常があるか否かを尋ね異常のないことを確かめて五CC注入し、重ねて異常のないことを確かめ引続き五CC分注入して一〇CCに達した時気分が悪いとの訴に接して注射を中止したのであって、控訴人の右注射はその使用量及び使用方法につき何らの過誤もなかったのである。

(三)、亡キミヱの本件ショック死は同女の異常体質によるものであるが、異常体質という用語自体医学的には必ずしも内容が確定されておらず、普通では考えられないショック死という異常な事態から逆にこれを定義づけているのが現状であり、しかもこのいわゆる異常体質とショック死との間の因果関係すら未だ充分に解明されているわけではないのである。

ところで亡キミヱはピリン敏感症ではなかったが、副腎の重量が同女の年令では通常七・八八グラム(プラス、マイナス一・九五グラム)あるべきところ、左右とも二グラムにまで萎縮していたことからみても右にいわゆる異常体質であったことは明らかであり、かかる事実は解剖する以外これを確かめる方法はなく、外部からの診察によって察知することは不可能であったから、控訴人が本件注射時同女の異常体質であったことを知りえなかったことには何らの過失もないのである。

第二、新たな証拠≪省略≫

理由

一、控訴人が開業医であること、及び昭和三八年一一月七日午前一〇時頃兵庫県佐用郡佐用町二八三九番地の二控訴人方において胸部に痛みを感じて受診に来た訴外亡岩野キミヱ(大正六年六月三〇日生)の診療に当り、同女より左肺部の圧痛の訴を受けて診察し、その治療のため注射液ザルピラエス二〇CCにビタミンB二CCを混合したうえ右手肘部に静脈注射を施し、約一〇CC注射したところ同日午前一〇時一〇分頃右医院において同女をショック死させたことは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫を綜合すると、控訴人は同日、亡キミヱの病状を診察し聴診では異常を認めなかったが、触診によって左胸部に圧痛を感じ左胸部の労働による筋肉痛と診断し、同女の右肘の肘窩部に本件ザルピラエス注射をすることとし、先ず「変ったことはないか。」と尋ねた後五CC注入して反応を尋ね「ちょっと温かくなった」との答をえて安心して一〇CC注入したところ、同女が気分の異常を訴えたので注射を取止めたことを認めることができ(る。)≪証拠判断省略≫

二、右事実(争いない事実及び認定の事実)に対し、被控訴人らは先ず債務不履行による慰藉料請求をしているので考えるに、右各事実によれば亡キミヱと控訴人との間には、患者である同女が自己の胸部の痛みの医学的解明とこれを治療する事務処理を目的とした準委任契約の申込をなしたのに対し、医師である控訴人がこれを承諾し、右当事者間に、開業医として要求される臨床医学上の知識技術を駆使して可及的速かに患者の疾病の原因ないし病名を適確に診断したうえ、適宜の治療行為をなすという事務処理を目的とする準委任契約(診療契約)が成立したと解するのが相当であり、控訴人は亡キミヱに対し右のような診療契約上の義務を負担していたにもかかわらず、控訴人の履行した診断、注射等一連の給付内容は患者である同女に対する治療としては外形的にみる限り不完全であったといわざるをえない。

そして診療契約のように病的症状の医学的解明と治療行為という事務処理を目的とする債務について、その履行が債務の本旨に従ってなされたか否かを検討する場合、医師である控訴人のなした治療行為につき患者側(患者またはその遺族)に右治療行為が債務の本旨に従わないものであることを具体的に主張立証する責任を負わせることは、右が医療の如き高度に専門的、技術的な業務を内容とするものだけに難きを強いる結果となることにかんがみ、結果からみて外形的に不完全な治療がなされたと認められる以上、控訴人のなした前記治療行為は債務の本旨に従わない不完全履行と推認すべく、右の不完全履行による債務者たる控訴人の責任は控訴人においてその帰責事由の不存在―亡キミヱの本件ショック死が一般開業医の能力をこえた不可抗力によるものであること―を主張立証しない限り免かれないと解するのが衡平の観念等に照らし相当であり、これに反する控訴人の当審主張は採用し難い。

三、ところで控訴人は亡キミヱの本件ショック死は同女の異常体質によるもので不可抗力による事故というべく、控訴人には帰責事由はない旨抗争するので進んでこの点につき検討する。

(一)、≪証拠省略≫によれば、亡キミヱは死体解剖の結果ではピリン過敏症であったとは認められないが、心臓の肥大及び拡張が軽度に認められる外、肝臓に軽度の脂肪変性がみられ、左右副腎とも重量二グラムで副腎皮質の機能が低下していた(≪証拠省略≫によれば、四一才ないし五〇才の女性―亡キミヱが当時四六才であったことは当事者間に争いがない―の正常な副腎の重量は七・八八グラム―プラス、マイナス一・九五グラム―であることが認められるから亡キミヱの副腎は左右とも著るしく萎縮していたことは明らかで、このことから同女の副腎機能低下の点は裏付されているといえる。)のであって、同女の右のような体質はいわゆる薬物ショックを起し易い体質であったと認められ、これに反する証拠はない。

(二)、≪証拠省略≫によると、異常体質の定義は医学会に於て必ずしも確立しているとはいい難いが、要約すれば、使用した薬品の分量、内容及びその使用方法に間違いがなく、普通の人ならば何らの異常な症状を起さないような分量、方法で薬品を使用したにもかかわらずショックを起した場合、その者を異常体質または特異体質と呼んでいることが認められるところ、≪証拠省略≫によれば前に一で認定したような控訴人の亡キミヱに対する本件注射は、その方法も慎重であり、部位も正当であったと認められるから、右各事実と後記(四)で認定するとおり本件注射液であるザルピラエスの安全性に疑問がもたれないことを併せ考えると、亡キミヱは本件注射時においては右にいう異常体質であったといわざるをえない。

(三)、ところで、≪証拠省略≫によれば、患者が右のような異常体質であることは、特にその点を目的として精密な化学的検査をすれば或程度予知しえないことはないが、右はそのような設備を具えた大病院において始めていえることであり一般開業医において前記異常体質を発見するのは不可能であったと認められるから、控訴人が本件注射の結果につき疑念を抱かなかったとしても、これをもって控訴人に過失があったということはできない。

尤も≪証拠省略≫によると、亡キミヱは昭和三〇年頃肝臓等を患って姫路国立病院に入院し、重態に陥ったが回復した病歴を有すること、又本件注射の約二ヶ月前である昭和三八年九月九日控訴人方で喘息の治療をうけ本件診療時にもその旨控訴人に告げていることが認められるが、前者については亡キミヱが問診の際右病歴を控訴人に告げたか否か明らかでなく、且つ一開業医たる控訴人にその旨の顕著な後遺症でもあれば格別約一〇年も以前の病歴まで逐一問いただすことまで要求することは酷に過ぎ、後者についても、約二ヶ月以前の喘息の治療をしたことから同女にアレルギー体質の有無を疑うは格別、そのことから直ちに前示のような異常体質の予知を求めることはできないと解せられるから、右各事実は何ら前段の説示を左右するに足るものではない。

(四)、≪証拠省略≫によれば、本件注射液であるザルピラエスは杏林製薬株式会社製のザルピラを主剤にスルピリン、アロピラペリン、塩醗プロカインを加えた解熱、鎮痛、鎮静剤で、ペニシリン等の抗生物質と異り、又劇薬でもない(≪証拠判断省略≫)普通薬であって、昭和三七年中に三八〇万本余、昭和三八年中に三七五万本余も大量に市販されており、控訴人自身も長年に亘り月間一五〇ないし二〇〇本を使用してきたが本件以前には一件の事故もなかったし、又全国的にもこれによるショック死の実例は知られていなかったことが認められ、同注射液の安全性については何らの疑問ももたれていなかったことが認められるから、この点からしても控訴人が本件注射当時不測の事態の発生を予測しなかったことを責めることはできないといわねばならない。

尤も≪証拠省略≫によれば、右ザルピラエスについてはピリン敏感症には注意を要する旨及び静脈注射の場合は極めて徐々に注射することとの注意書のあることが認められるが、≪証拠省略≫によれば、その趣旨は右注射液は前示のように軽度のピリン剤を含有しているところから、使用者に対しピリン剤としての局部的副作用すなわち若干の発赤、ジンマシン、頭痛程度の副作用に対する注意と使用上の通常の注意を促したにすぎず、前示の安全性についての注意を喚起するためのものとは解し難いものであることが認められるから、右注意書の存在は何ら前段の説示に消長を及ぼすものではない。

(五)、のみならず、≪証拠省略≫によれば、控訴人は本件注射中亡キミヱが気分の異常を訴えると右注射を中止し直ちにショック止めのノルアドリナリン一CC、ネオフィリンM二CCを注射したが同女が呼吸停止を来したので、人工蘇生器で人工呼吸を始め、循環麻酔器で約一時間人工呼吸を続けたことが認められるから、控訴人としては本件ショック事故の発生後ショック死の発生防止のため相当の努力を払ったものと解せられる。

(六)、してみると本件ショック死につき控訴人に危険発生予見義務違反も認められずまた結果発生回避義務違反も認められないのであり、その他本件において控訴人に診療契約上の善管義務に違反したと認むべき証拠もないので、右につき控訴人には過失はなかったものといわざるをえない。

四、以上の次第で控訴人と亡キミヱ間の前記診療契約上の外形的不完全履行は亡キミヱの異常体質に基づく不可抗力による事故であり、控訴人の責に基づかないものであったといわざるをえないから、控訴人の右診療契約上の債務不履行を原因とする被控訴人らの本位的請求は爾余の点につき判断するまでもなく失当であり、上来説示したところから明らかなように控訴人に治療業務の執行につき過失があったとは認められないから不法行為を原因とする被控訴人らの予備的請求も失当である。

五、よってこれと異なる原判決を取消したうえ被控訴人らの本件請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条、九三条本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 加藤孝之 裁判官 今富滋 上野国夫)

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