大阪高等裁判所 昭和45年(う)160号 判決 1970年5月01日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、記録に編綴の弁護人家郷誠之作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。論旨は、原判決の事実誤認をいい、要するに、本件事故につき、被告人にはなんらの過失はないというのである。
よつて所論に鑑み、記録を精査して案ずるに、本件公訴事実は、「被告人は自動車の運転を業とするものであるが、昭和四三年一一月五日午後一時一五分ごろ和歌山市西浜七六五番地先道路において普通貨物自動車を運転し時速五五キロメートル位で北進中道路中央線を右にこえて南進してくる普通乗用自動車を前方三〇メートル位で認め、これとの接触を避けるため進路を左に変更しようとしたのであるが自動車運転者としては左後方からの交通の安全を確め変更しようとする進路を進行してくる車両が危険な距離にある場合は直ちにブレーキをかける等して後車との衝突を防止しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り、五〇キロメートル位に減速したのみで六〇センチメートル位左に進路を変えた過失により、折から後方から進行してきていた太田守運転の自動二輪車が八メートル位の位置に接近していたのに気付かず自車左後部に同車を衝突させ、因つて同人に対し加療三週間の右第三中指骨職骨折右中指示指皮剥離創等の傷害を負わせたものである」というのであつて、これに対し原判決は、被告人が進路を変更した幅を約二メートルと認め、又直ちにブレーキをかける義務を否定した外、訴因事実とおりに認定し、本件事故は、被告人がセンターラインを超えて対向して来る普通乗用車を避けるために、左後方の安全を確認せずに減速して左側に進路を変えて進行した過失に基因するものであるとしているのである。
そこで、先ず本件事故現場の状況について見ると、実況見分調書によれば、本件事故現場は、和歌山市西浜七六五番地先道路(県道和歌山市停車場新和歌浦線)上であり、該道路は、南北に通じ現場附近は直線、平坦、見透し良好な道路であつて、コンクリート及びアスファルトで舗装され、歩車道の区別がなく幅員約14.70メートルあり、道路中央線東側(南行車線)は、中央線から3.30メートルの部分はコンクリート舗装、それより約四メートルの部分はアスファルト舗装され、道路中央線西側(北行車線)は、中央線から3.30メートルの部分はコンクリート舗装、それより約二メートルの部分はアスファルト舗装、それより更に約二メートルの部分は未舗装の状態であることが認められる。(右道路には通行帯の区別はされていないが、前記舗装材質の相違により、一見、南北行とも各二車締の如き観を呈する)又原審認定の事実(原判決事実摘示及び被告人および弁護人の主張に対する判断)によれば、当時、被告人は普通貨物自動車(和歌山四な八〇七九)を運転し、道路中央線の西側を右中央線から約1.60メートル(同線と自車右端)の間隔を置き(同車の車幅は1.7メートルであるから、同車の左端はほぼコンクリート舗装の左端にあることとなる)、時速約五五キロメートルで北進中、前方約三、四〇メートルの地点を道路中央線を車体の半分以上超え、時速約七〇ないし七五キロメートルの高速で反対方向から南進して来た対向車を認め、同車と正面衝突の危険を感じ、ある程度減速すると共に左にハンドルを切つて左側に約一メートル寄つて進行し(衝突地点が道路左端より約三メートル内側であることは実況見分調書により明らかなところであるから、前説明の如き被告人車の進行位置から約一メートル左に寄つたことは計算上明らかであり、これを約二メートル左に進路を変えたと認定した原判決は、この点事実誤認といわざるを得ない)対向車と離合し、同一速度で約八メートル進行したとき、自車左後部を太田守運転の自動二輪車と接触せしめ、更に約六メートル進んで停車したこと、その間被告人が進路変更前に方向指示器による合図をしたか否か、或は被告人がその際左後方の危険の有無を確認した上進路変更をしたか否かについては疑わしいこと、一方、被害者について見ると、当時、被害者太田守は自動二輪車を運転して、時速約五五キロメートルで事故現場から七、八〇〇メートルくらい手前から被告人の車の後方約一〇メートルに追随する谷口和真運転の自動車と併行して、その左側約一メートルの間隔をおき、被告人車との車間距離約九メートルで北進していたのであるが、(その進路は道路西側のコンクリート舗装部分の左端よりやや左のアスファルト舗装部分を進行していたと認められる)本件現場で先行する被告人の車が急に速度を緩めて左に切込んで来たため、瞬間ブレーキを踏み、左に逃げたが間に合わず被告人の車の後部左端に衝突し約九メートル前進して車と共に倒れ本件事故となつたことが認められ、これらの点については、前記の如き被告人車の進路変更の幅の点を除き、原判決に事実誤認の疑はない。
以上に徴して判断するに、被告人が本件現場において左にハンドルを切り約一メートル左に寄つて進行したのは、道路中央線を超えて対向する自動車を認めてこれとの衝突をさけるためにやむを得ざるに出た行為と認むべきである。なるほど被告人車は中央線から約1.6メートル離れて進行していたものであり、対向車(普通乗用車)の車体の半分乃至八割が中央線を超えていたとしても、計数上はそのまま直進してすれ違い得る如くであるが、本件の場合の如く双方の車が高速である場合(被告人車は時速約五五キロであるから秒速約15.3メートルとなり、対向車は時速約七〇ないし七五キロであるから秒速約19.4メートルとなつて、両車が一秒間に接近する距離は約34.7メートルとなる)前記の如き間隔のまますれ違うことは危険であるし、車を運転する者としては、このような状況の下では、自車を左に寄せて接触を避けんとすることは当然の措置と考えられる。ただ本件の場合、被告人が左に進路を変えるにあたり、法定の進路変更の合図をし、又左バックミラーで後方の安全を確認しているか否かは、原判決の説示のとおり疑問であるから、(少くとも道路交通法第五三条、同法施行令第二一条の要求する安全措置は満たしていない本件が通常の状況の下に発生したものならば、後続車太田守の車の操作に遺憾の点があつたとしても、被告人は進路変更につき安全措置をとらず且後方の安全確認を怠つたため本件事故を惹起したものとして過失責任を問われることは免れないところであろう。しかしながら本件にあつては、前記説明のとおり、被告人は三、四〇メートル前方に中央線を超えて高速度で対向して来る車を発見し(前記計算の如く、両車がこの距離を走行するに要する時間は一秒前後であり、又対向車は被告人の車との距離約15.6メートルに接近した際自車線に復帰したことは原判決の認定するところであるが、この際の両車の距離は約0.5秒の走行時間に過ぎない)これと衝突の危険を感ずる状態になつたのであるから、正に自己の生命身体に対する現在の危険な状態にあつたものという外はなく(このような状態に達するまでの間に被告人側に過失と認むべきものはない。)、この衝突の危険を避けんとして把手を左に切り、約一メートルに寄つた被告人の行動は、現在の危難を避けるため已むことを得ない行為といわざるを得ない。
その際多少減速した点は対向車との衝突を避けるためには不必要な処置かも知れないが、高速で進行したまま把手を操作すること自体危険な措置であるから、その際被告人が咄嗟に原判決の認める程度の減速をしたこともまたやむを得ぬ処置と解すべきである。しかも被告人のとつた右行為により。後続する被害者太田守運転の自動二輪車と衝突したことによつて同人に被らしめた損害が、前記対向車との正面衝突により発生すべき損害を超えるものとは考えられないから、本件は刑法第三七条第一項前段に所謂緊急避難行為であるといわなければならない。本件公訴事実中、本件の場合の注意義務として、対向車を認めて進路を左に変更しようとする際は左後方を追進してくる車両が危険な距離にある場合は直ちにブレーキをかける等して後車との衝突を防止しなければならない業務上の注意義務があるというのであるが、本件の場合にかかる注意義務を科することが不当であることは原判決の説明するとおりであり、更に原判決は、かかる場合、進路を変えることなく直進するか、あるいは進路をかえるにしても、その速度、守る距離等を考えて進路を変えるなりして後続車の進路を妨げることのないよう適切な運転をする業務上の注意義務があるというのであるけれども、進路を変えずそのままの速度で直進すること自体、道路中央線を突破して対向してくる車両との衝突の危険があるから無謀というの外はなく、しかも対向車両は七〇ないし七五キロメートルの時速であつたのであるから危険の切迫している際に、その速度、寄る距離を考えて進路を変えることを要求することは不可能を強いるものといわなければならないから、左後方の確認をすることなく、且法定の時間進路変更の指示をすることなく、約一メートル(この点に関する原判決の誤は前記のとおりである)左に寄つた行為を、たやすく被告人の過失と認定した原判決には、本件行為当時の緊急状態の認定を誤つた点において判決に影響すること明らかな事実の誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。
よつて刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により更に判決する。
本件公訴事実は、前掲のとおりであるが、被告人の行為は前段説示の如き理由により、刑法第三七条第一項前段に所謂緊急避難と認むべきであるから、刑事訴訟法第三三六条により主文第二項のとおり判決する。(田中勇雄 竹沢喜代治 知識融治)