大阪高等裁判所 昭和45年(く)79号 決定 1970年12月11日
少年 I・O(昭二六・一二・一七生)
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告申立の理由は、少年作成の抗告申立書記載のとおりであるが、その理由として掲げるところは、少年が本件審判に付されるまでの行動経過を詳細に述べた上、やくざと付合いがあること、東京へ行つていること、正当な仕事でない仕事についたこと、ボンド等を吸つていたことについて種々弁解し、再び少年院に入院しなくてはいけない程のミスはしていないし、少年院送致は処分がきつすぎると主張するものであるが、これを要するに、原決定の虞犯理由を争うと共に少年院送致とした原決定の処分が著しく不当であるというものと解される。
よつて、所論にかんがみ、本件保護事件記録および少年調査記録に基づき調査し、次のとおり判断する。
一 虞犯事由及び虞犯性について。
昭和四五年六月一七日大阪家庭裁判所において保護観察処分に付された以後の少年の行動経過をみるに、少年は大阪市内のいわゆるミナミの喫茶店等で友人のバンドの手伝をして上京費用を貯め、同年六月下旬さきに同棲したことのある○川○美をたずねて上京したが所在が判明せず、知人のアパート等に宿泊し新宿に行つて遊んでいたところ、警察のフーテン狩りにひつかかつて補導されて大阪に帰つた。そして、同年八月初から知人の紹介で暴力団神戸○○組系△△組事務所の電話当番となり、同組の事務所に宿泊し、週に一回位帰宅していたが、同年同月三〇日ごろ同組組員○島某にさそわれ共に上京したが、○島某とはぐれ新宿に出てフーテンの溜場にいたところ、警察のシンナーの一斉取締りにあい検挙され、同年九月一〇日立入禁止の花壇に無断で立入つたという軽犯罪法違反保護事件により東京家庭裁判所で審判の結果不処分決定を受け、その儘東京で生活することにし、再び新宿に出て徘徊していたところ警察官に補導され、家からの送金を得て同年九月一四日帰宅した。帰宅後は部屋に閉こもつてシンナーを吸い続け、その行動、言動は次第に横暴となり、シンナーの吸飲に反対する母や弟に対し手許にあるものを手当たり次第に投げたり、暴力を振つたりしていたが、遂には中毒症状を呈し夜中に奇声を発し近所から文句を言われるという状態に立至つたことが認められ、以上の如く少年の家出徒食が習慣化し、再度警察の補導を受け、シンナーの吸飲に反対する親の指導に従わないのみかこれに対して暴力を振うという少年の行動は保護者の正当な監督に服しない性癖のあることに該当し、暴力団事務所の電話当番をしたり、暴力団組員と上京して行動を共にし、あるいはフーテンの溜場を徘徊するという少年の行動は不道徳な人と交際し、いかがわしい場所に出入りすることに該当し、シンナーを吸飲し、中毒症状を呈するに至つたことは自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあることに該当することが明らかである。そして、少年がすでに家出徒食中大阪市内ミナミの繁華街で知りあつたフーテン仲間に誘われるまま行動を共にし窃盗事犯を敢行している事実からも十分に推察されるところであるが、少年をこの儘放置すれば、その性格環境に照らし、将来犯罪を犯す虞れがあることもまた明らかなところである。
以上にみたとおり、少年の行動は前記虞犯事由に該当し、かつ少年には虞犯性が認められるのであるから、少年が少年法三条一項三号にいう審判に付すべき少年にあたることは多言を要しないところであり、これと同趣旨に出た原決定は相当であつて、その他所論にかんがみ、記録を精査しても事実誤認の事跡は発見できず、所論は理由がない。
二 保護処分について
少年は既に三回にわたつて家庭裁判所において保護処分に付されているのに拘らず、依然としてその遊惰放縦な生活態度を改めることなく、家出徒食の生活を反覆し、本件虞犯行動に及んだものであること、その性格は、依存心強く現実逃避的傾向があり、遊惰性強く生活目標も夢想的であつて、意地つぱりで自己主張的で自己の行動につき内省しようとせず自己を合理化しようとし、社会規範についても自己に直接関係のないものとして善悪の区別にも無関心であるというもので種々の問題を含んでいることなど少年の生活歴、非行歴、環境、質質、ならびに本件虞犯行動の実態、ことに少年はシンナーを吸飲し始めてから約三年になり、かなり強度の嗜癖を有し、とくに前記の如く昭和四五年九月一四日帰宅してからは家に閉籠つて連日シンナーを吸飲し、その態度も次第に横暴になり人前でもこれをはばからず、これを止めさせようとする母や弟に対して物を投げつけたり暴力を振うなどし、果ては夜中に大声で狼の鳴き声を発するという奇行に及ぶなどシンナーの長期濫用による中毒症状を呈し、この儘放置すれば遂に精神異常を来たし人格の崩壊を招く虞がありまた犯罪を犯す危険性も大であること、少年の両親も少年の行動に手を焼きそれが他の兄弟に影響を及ぼすことを恐れむしろ少年の施設に収容されることを強く望んでいるほどでもはやその監護には全く期待し難いものがあることを具に考察すると、少年が現時点においては幾分過去のことを反省し再び同種の行動を繰返さないと考えている心境にあることを考慮しても、その要保護性はすこぶる大であつて、少年に対する指導監督も既に在宅保護の限界を超えているものと考えられ、むしろこの際少年をして健全な生活意欲と生活目標に向つて努力する忍耐力を培い、社会適応性を回復させるために少年を矯正施設に収容し、規律ある団体生活のもとで適切な矯正教育を受けさせるのが相当であると認められ、これと同趣旨に出た原決定はもとより相当であつて、その処分が著しく不当であるということはできず、所論は理由がない。
よつて、本件抗告はその理由がないから少年法三三条一項後段により本件抗告を棄却することとし、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 瓦谷末雄 裁判官 原清松井薫)
参考二 抗告理由(少年抗告)
私は、さきにセッ盗事件により和泉少年院に入院し、昭和四五年五月六日、同院を仮退院し、門真市○○町××の×の実父のもとに帰住しました。その後、同月八日より親戚の経営する製紙品工場へ行きましたけれど、仕事の内容がおもしろくなく両親に相談して同工場を一日行つただけでやめました。
その後、自分に向いた仕事をさがしておりましたが、自分は水商売の方が向いているので、大阪市南区にある深夜喫茶「○ン○」という店で、ウエイターのアルバイトをしていました。同月、末ごろ仕事中に、警官の少年保導があり、私も一八歳未満ではないかという疑いで保導されました。私はもちろん一八歳になつていましたが、その前日、友人より登山に行こうということで借りていた登山ナイフ(刃渡十三・八センチ)を足にまきつけておいたのを忘れていて出頭していましたので、身体検査をされて、刀剣不法所持ということで、大阪少年鑑別所に送致されました。
そして、六月中旬、大阪家庭裁判所で審判を受け、少年院仮退院後の保護観察はうちきられ、新たに保護観察という判決を受けました。
その後私は、七月二〇日頃まで仕事をさがしておりましたが、自分は絵(イラストレーション)が好きだし、以前同棲していた、○川○美(二十歳)という女が、東京の新宿でイラストレーターをしておりましたので、私は○川のもとで働きたくなりましたので、両親や保護司と相談しますと、東京へ行く費用を自分で貯めてからなら行つても良いと言われました。そこで私の友人がバンドを組んでおり、南区のほうに出ていましたのでそれを手伝つて一万円ほどためて東京へ行きました。
しかし私が以前記憶していた住所は新宿にはなく、また、その場所も、さがすことができなかつたので、私は別の友人(大阪で昔一緒にバーテンをやつていた男)のアパートが北区○町という所にあつたのを思い出したので、しばらく泊めてもらつていました。そして池袋の工事現場で働き、別の友人(一緒に現場で働いた○谷○ゲ○という男)と、北区○町×の×の×の○荘という所に住みました。そして、七月のある日、二人で新宿へ遊びに行つたところ、保導を受けました。それで事情を話すと、刑事は、一度大阪へ帰るようにと言いました。それで、私は、○谷と二人で、次の日大阪へ帰つてきました。帰つてからも別に用事は、なかつたので、二人で海へ行つたりしてすごしていましたが、○谷が帰京すると言つて帰つていつたので、私は、家で仕事をさがして、働かなくてはと思つていたので新聞を見て奈良県の方に、店員の仕事があつたのでそこで働くことにしました。そして両親に相談しましたら、住込だし、当時経済的にも苦しかつたので反対されてしまいました。
私は、東京で働いていたら帰つてこいと言われるし、大阪で働こうかと思つていたら反対されるので、いやになつて前記の南区の深夜喫茶の「○ン○」に、夜、遊びに行きました。そこで私が以前から知つている、○井という男(二三歳位)に偶然出合いました。そして、○井の知つているスナックにバーテンとして働くように世話してもらいました。そのスナックは、三国にあり「○」という名前の店でした。が、そこは○○組系の△△組の人間の経営している店でした。でも自分は、仕事だと割り切つていました。
その後認められ、八月の一日から△△組の○岡事務所という所で、電話の取りつぎをしていました。そして、同月の三〇日までそこにいましたが、同日、夜八時ごろ事務所の人で、○島○次という男から東京へ仕事でゆくが、一人では、途中つまらないので、一緒に来てくれと言われたので、ついてゆくことに成りました。でも次の日の夜には、帰るということだつたし時間もなかつたので保護司や両親には連絡しないで、その日の夜の最終の新幹線で東京へ行きました。その夜は、新宿の旅館で泊りました。
同、八月三一日、○島は、仕事で上野へ出かけました。私は、新宿へ残つて、○島を待つている間に、あちこちと遊びに行つたので金を全部使つてしまいました。仕方なく、駅前で○島の帰りを待つていました。ところが私の座つていた所はフーテン等の溜り場だつたのです。そのうえ、そこは立入禁止の場所だつたので、刑事に逮捕されてしまいました。そして九月三日まで留置され、同日、東京少年鑑別所に収容されました。
そして、同九月一〇日、東京少年鑑別所より東京家庭裁判所で審判を受けました。結果は不処分でした。なお、私が東京へ住む事を希望しましたので、裁判官は、それを認めてくれました。それでとりあえず私の知人が杉並区に住んでいましたので、そこから仕事に行く、ということになりました。なお、私が北区に借りていた、前記のアパートは、○谷が、家賃をはらわなかつたので入れませんでした。
私は、その時無一文なので、タクシーで杉並まで行こうと思つていましたが、もしも不在だつたらこまるので、歩いて新宿まで出かけることにしました。なぜなら、その人は、夜の九時ごろにかならず新宿へ寄つてくるからです。それで、私は、新宿に出てきて、町角に立つて待つていました。ところがその日のうちに、又、刑事に保導されてしまいました。そこで、裁判所での事を言つても、聞いてもらえず、家に連絡せられたので、しばらくして、家から電話があり、電車賃を送るから帰つてこいと、言われました。それで、その日は、上野にある上野青少年センターで夜をすごしました。
翌日一一日、三時頃、金がとどいたので、同センターを出て、新宿駅のコインロッカーにあずけてあつた荷物を出しに行きました。ところがコインロッカー代は千五百円で食事代その他に千円あまり使い、残り二千五百円位になつてしまいました。これでは大阪まで帰れないので、私が北区に住んでいた時付き合つていた○秋という女の子をさがし一一日の夜と一二日新宿をぶらぶらしていました。そして一三日夜、○秋に逢つたので、夜、一〇時ごろの電車で帰りました。このとき三千円ほど借りました。なお、当日、昼ごろ、先日の刑事に会い、又、帰る事を強調されました。
九月一四日、朝帰宅しましたが、無理に帰らされたので、シャクにさわつていたので、気持がイライラしていましたのでボンドを吸つて気持をまぎらわせて、約一週間位、ぶらぶらしてすごしていました。そして母からボンドをやめる様に注意され、私は母に手向かつたり又、弟と、ちよつとしたことでケンカをしたりしていました。又、私は、ノイローゼ的になつていたので、父は保護司の相談を受けに行つたようです。
私は数日後、保護観察所から呼び出しがありましたので出頭し、いつごろから、ボンドを吸つているか等のことを聞かれました。私は、正直に答えてその日は、帰つてきました。私は呼び出しの前日から、ボンドは、やめていました。
さらに数日過ぎて、私が家でそうじをしていますと、観察所の人達がやつてきて話があるから、と言つて、つれ出され、大阪家庭裁判所へ出頭させられ、大阪少年鑑別所へ収容されました。そして、一〇月一四日裁判所で審判があつて、今回の少年院送致となりました。
私の今日までの経過は以上の通りです。
私はこのような生活をしておりましたが、自分で考えてみましても、今回の少年院送致になるには、少し罪がきつすぎるように思われて仕方がありません。鑑別所の先生や、少年院の先生の話を聞きましたところ、私が少年院送りになつたのは、やくざとのつきあいがあつたことや、東京へ行つていること、正当な仕事でない、水商売についていたこと、ボンド等をやつていたということ、その他が原因ではないかと教えられ、自分で考えてみましたが、それらのことについては、弁解できると思つています。
やくざとつきあいがあつたこと。
このことは、あくまでも、仕事上のつきあいでありました。それは店での上下関係であり、又、自分はやくざになるために店に行つたのではなく、バーテンとして、仕事として行つたのです。そして店の主人は、現在も組関係がありますがあくまで自分の店の売り上げで生活しており、犯罪性のある人ではありません。
東京へ行つていること。
このことは、一回目に行つた時は保護司の許可をえています。二度目の時は、時間がなかつたのです。夜の八時頃言われ、八時すぎには出発していました。それに、次の日の夜には帰る予定だつたからです。三日以上の長期の旅行ではありませんでした。又、裁判官は「裁判官である私が、行つてはいけないと言つているのに、保護司が良いと言つたからといつて行くことはない。私の言つた事が守れてない」と、言われましたが、これは裁判官自身の感情であると思われます。審判決定以後は保護司、観察所の指示によつて行動しても良いと信じています。
正当な仕事でない仕事についていたこと。
私は水商売だつて正当な職業だと思います。人には、それぞれ適当な仕事があるし、私は、水商売のほうが自分に向いていると思つています。それに水商売につくことについては観察所や保護司の許可を得ていました。
ボンド等を吸つていたこと。
ボンドを吸つていたときに弟とケンカしたし、母に手向かいましたけれど、それは次の様なことです。弟とケンカする位はよくあることだと思います。それはボンドを吸つていたこととは直接関係なく、弟も私ほど力もあるので、男と男として、意志が対立したのです。それに、ケンカと言つても、そんなに大げさなものではありません。母は元来大げさなところがあり、本人同志は、そんなに思つてなかつたと思います。母に手向かつたのも、そんなに力一ぱいたたいたのではなく、ほんのちよつと、かるくたたいたのです。ふだんよくふざけてたたいても大げさに言うので、自分は、そんなに気にしていませんでした。もちろん母に手向かつたり、弟とケンカしたことについては、悪かつたと思つています。ボンドにしても、父母が離婚するという話が出てからは、ボンドもやめるし、仕事もして、真面目に成るんだ、と、弟に話をしたり又、その時から、ボンドは吸つていませんでした。そして審判の時に、今後ボンドをやめるかと言われたとき、やめるかどうかわからないと言つたのは、本当はやめる意志があつたし、現にやめていたけれど、未来のことは、わかりかねるということだつたのです。自分でも、当時は悪かつたと思つていますが、自分からやめたし、そのうえ真面目にやろうとしていたのに、有無を言わさず、鑑別所に送られたことが不満に思われます。私はあの時、そのままほおつておいてもらつていたら、弟と二人で話し合つていたように、真面目に働いていたように思われてくるのです。
それから、審判の時今後どのようにするかと言われたとき、自分にはどうして良いかわからないと言つたのは、自分が仕事をすると言つても、自分のさがす仕事はみんな反対されるので、もう自分でさがしても無理だから、両親の言うとおりにするしか仕方がないという意味だつたのです。このことは、調査官には、よく話をしていたのですが、裁判官は私が仕事をする意志がないというふうにとられたように思われます。自分自身で自分は仕事をしなければいけない立場にあることを自覚していますので、仕事をしなくてはいけないということは、わかつています。
私は、和泉少年院を仮退院して以来、色々なことに出会いましたけれど、自分自身考えてみて、再び少年院へ入院しなくてはいけないほど重大なミスはおかしてないつもりです。そのうえ、私は、家にいるときなど、よく両親と「自分は絶対に少年院や刑務所に行かなくてはいけないような罪になることはするつもりはないし、したくもない」と話していたものでした。自分の不注意より、軽犯罪にふれたことはありますけれども、みずからもつて悪の道に歩んだつもりはありませんでした。
私がぐ犯としてとられたのは、ボンドを吸つていたことだろうと思いますが、私は前記にあるようにやめようと決心し、やめてからのちにぐ犯として、あつかわれるのは、あまりにも不公平だと思われます。そして、私は、今後も、絶対に罪をおかすつもりはありません。そして、今でも、真面目に生活しようという決心に変わりはないと信じています。
どうかこの抗告が受理され、今一度、審判が開かれることをのぞんでおります。以上おねがいします。
右のとおり相違ありません。