大阪高等裁判所 昭和46年(ネ)869号 判決 1974年9月30日
控訴人
藤林清司
右訴訟代理人
田辺哲崖
外一名
被控訴人
株式会社富士銀行
右代表者
佐々木邦彦
右訴訟代理人
吉川大二郎
外五名
主文
原判決を次のとおり変更する。
控訴人の主位的請求を棄却する。
被控訴人は控訴人に対し金七一万八、八〇〇円及びこれに対する昭和三五年一〇月二八日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。
控訴人のその余の予備的請求を棄却する。
訴訟費用は第一審、差戻前の控訴審、上告審、差戻後の控訴審を通じ、被控訴人の負担とする。
本判決は第三項に限り仮に執行することができる。
事実《省略》
理由
一控訴人被控訴人間において昭和三五年四月七日当座勘定取引契約を結び、右契約の中で、控訴人は控被訴人に控訴人振出の手形を控訴人の被控訴銀行東九条支店に対する当座預金から支払うことを委託し、被控訴人は控訴人があらかじめ提出した印鑑票の印影と手形上の印影とを照合し、両者が符合する場合に控訴人のため手形の支払をなすべきことをとりきめたこと、被控訴人は本件手形五通を右当座預金から支払つたこと、本件手形上の印影と右印鑑票の印影とが異つていることは当事者間に争がなく、<証拠>によれば、被控訴銀行行東九条支店においては、事務に習熟した係員が、右印鑑票と本件手形とを平面に並べて肉眼で両印影を比較照合するいわゆる平面照合の方法によつて照合した結果、両者を同一の印影と判断して右支払をなしたことが認められる。
二銀行が当座勘定取引契約によつて委託されたところに従い、取引先の振出した手形の支払事務を行なうにあたつては、委託の本旨に従い善良な管理者の注意をもつてこれを処理する義務を負うことは明らかである。したがつて、銀行が自店を支払場所とする手形について、真実取引先の振出した手形であるかどうかを確認するため、届出印鑑の印影と当該手形上の印影とを照合するにあたつては、特段の事情のないかぎり、折り重ねによる照合や拡大鏡による照合をするまでの必要はなく、前認定のような肉眼によるいわゆる平面照合の方法をもつてすれば足りるにしても、金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待されている業務上相当の注意をもつて慎重に事を行なうことを要し、かかる事務に習熟している銀行員が右のごとき相当の注意を払つて熟視するならば肉眼をもつても発見しうるような印影の相違が看過されたときは、銀行側に過失の責任があるものというべく、偽造手形の支払による不利益を取引先に帰せしめることは許されないものといわなければならない。(本件差戻前控訴審判決に対する上告審判決である最高裁判所昭和四六年六月一〇日第一小法廷判決、民集二五巻四号四九二頁)
これを本件についてみるのに、乙第五号証の一(本件届出印鑑票であることは争がない。右印鑑票は元帳にはさみ込まれており、これを照合の用に供したことが当審証人上田弘の証言により認められる。)の印影と、甲第一号証の一ないし五(本件手形)の振出人欄の控訴人名下の印影とを比較照合すると、林の字のつくりの木の右下方部分に相違があること(前者の方が後者より長い)、この相違は微細であつて一見明瞭とはいい難いが、両者を平面に並べ、一字一字についてその字画を熟視すれば、肉眼でも発見しうる程度のものであることが認められるから、これを発見するために必要とされる注意の程度は、前説示の銀行の照合事務担当者に課せられた社会通念上一般に期待される業務上の注意の程度を越えるものではないというべきである。<証拠>によつて認められる、京都市南区役所において昭和三五年七月から九月までの間四回にわたり、本件手形の印影と同一と認められる印影につき、同区役所届出印鑑の印影(乙第五号証の一の印影と同一のものと認められる。)と照合の上真正と認めて印鑑証明書を発行した事実も右認定を左右することはできない。したがつて、東九条支店の係員らが、両印影の相違を看過したことは、同係員らの過失に基づくものであるから、前説示により本件手形の支払による不利益を控訴人に帰せしめることはできない。
三被控訴人は、本件当座勘定取引契約には「手形小切手の印影が届出の印影と符合すると認めて支払をなした上は、これによつて生ずる損害につき銀行は一切その責に任じない」旨のいわゆる免責約款(その存在そのものについては当事者間に争がない。)が存し、右免責約款は、一定時間内に多数の印影照合を行わればならない銀行業務の実情、及び手形の偽造が多く預金者の不注意から生ずるものである点に鑑み、銀行の注意義務を軽減するため設けられたものであり、被控訴人はその軽減された注意義務を尽したから免責されると主張する。しかし、かかる免責約款は、銀行において必要な注意義務を尽して照合にあたるべきことを前提とするものであつて、右の注意義務を尽さなかつたため銀行側に過失があるとされるときは、当該約款を援用することは許されない趣旨と解すべきである(前記最高裁判所判決)。被控訴人が右注意義務を尽していないことは右認定のとおりであるから、右主張は採用できない。
四被控訴人は、「(1)本件手形の印影と控訴人振出の他の手形(乙第一〇号証の一ないし四)の印影とは同一である。(2)本件手形の手書部分の筆跡と控訴人振出の他の手形(乙第七号証の一、三、四同第一〇号証の一ないし四)、控訴人提出の昭和三五年四月二七日付手形取引約定書(乙第九号証の一)、同日付手形取引届出印鑑票(乙第九号証の二)の手書部分の筆跡とは同一である。(3)本件(一)の手形の控訴人の住所氏名と控訴人提出の同年同月七日付当座勘定取引約定書(乙第一号証)、同日付届印鑑票(乙第五号号証の一)、控訴人振出の他の手形(乙第七号証の二、三、四、同第一〇号証の一)の控訴人住所氏名とは同一のゴム判押捺によるものである。以上の事実によれば、印影照合における被控訴人の注意義務は軽減されるべきである。」と主張する(昭和四七年七月一八日、同年八月九日付各証拠説明書)。
しかし、乙第一〇号証の一ないし四は成立を認めうる証拠がないから、(1)の事実は認めえない。
本件手形の手書部分の筆跡と乙第七号証の一、三、同第九号証の一、二の手書部分の筆跡とが同一であること、本件(一)の手形の控訴人住所氏名と乙第五号号証の一、同第七号証の二、三、四の控訴人住所氏名とが同一のゴム判押捺によるものであることは控訴人の認めるところである。
しかし、銀行が自店を支払場所とする手形について真実取引先の振出した手形であるかどうかを確認するため、届出印鑑の印影と当該手形上の印影とを照合するあたり、銀行に要求される注意義務は、届出印鑑票(その他、取引先の提出した当座勘定取引約定書、真実取引先の振出して手形)の住所氏名と当該手形上の住所氏名とが同一のゴム判押捺による場合、又は届出印鑑票(その他、取引先の提出した手形取引約定書、真実取引先の振出した手形)の手書部分の筆跡と当該手形上の手書部分の筆跡とが同一である場合においても、軽減されないと解すべきである。けだし、右印影照合は、真実取引先の振出した手形であるかどうかを確認するにあたり調査すべき最も重要な事項であるから、上記の場合に印影照合の注意義務を軽減するのは相当でないからである。
被控訴人の右主張は採用できない。
五被控訴人は、(一)本件手形は控訴人の意思に基づいて振出されたものであつて偽造ではない。(二)控訴人は本件各手形の支払に関する被控訴人の行為を追認し、又は預金払戻請求権ないし損害賠償請求権を放棄した(三)控訴人は偽造手形の作出に原因を与えたのだから、禁反言の法理により、それによつて生じた損害を自ら負担すべきである(四)本件手形の支払は債権の準占有者に対する弁済であるから有効である、と主張するが、右各主張は次の理由により採用できない。
1、(一)の主張について、
<証拠>によれば、富貴子は控訴人の義母(控訴人の亡父の後妻)で、控訴人と同居し、その住居で控訴人の営業(菓子の原料の製造却し)の手伝いをしていたが、控訴人に無断で、控訴人の印鑑を使用して他から金員を借入れ、控訴人所有の財産を担保に供し、控訴人名義の手形を振出す等の行為をくりかえした。控訴人は当初これを追認していたが我慢し切れなくなり、昭和三五年四月以降本件手形振出までの時期に富貴子と別居し、かつ本件届出印をたえず身につけて保管し、富貴子の盗用を防止する措置を講じた。そこで富貫子は本件届出印鑑と酷以した印鑑を作製し、これを用いて本件手形を振出した(右振出の時期は定かでないが、本件手形の満期日、振出日からして昭和三五年八月下旬と推定される。)、以上の事実を認めることができ、右事実によれば本件手形が控訴人の意思に基づいて振出されたものでないことは明白である。
被控訴人は、前記四の(1)、(2)、(3)の事実((2)の同一筆跡文書として、控訴人の区役所に届出た印鑑票〔甲第五号証添付〕、を加える。)、(4)富貴子は昭和三五年六月一一日被控訴銀行東九条支店から控訴人振出の小切手と引かえに一三万円の支払を受けている、(5)富貴子は昭和三五年四月二七日控訴人が資金を借受けるにつき被訴人と交渉し、借入明細書(乙第一三号証)に控訴人の住所氏名を記載している、(6)昭和三五年九月二六日控訴人と富貴子が同伴して東九条支店を訪れ借入金を完済して担保を解消する件につき相談した、等の事実を挙げ、これを以て富貴子が控訴人の金融事務一切を処理する権限(本件手形を振出す権限を含む。)を有していたことの根拠とする(昭和四七年六月七日、同年八月九日、同年一〇月二五日付各準備書面。)しかし、前記四のとおり、(1)の事実は認めえない。乙第一〇号証を除く(2)、(3)の各書証の作成時期が前認定の控訴人が盗印防止の措置を講じたとする時期の後であることを認めうる証拠がないから(甲第五号証添付の印鑑票の受付日は、成立に争のない乙第四号証によれば昭和三二年二月一一日である。)、一部認めうる(2)(3)の事実は、(4)(5)(6)の事実を加えても、直ちに前認定を覆し、被控訴人の抗弁事実を認めるに足りない。
2、(二)の主張について、
<証拠>によれば、昭和三五年一〇月二〇日控訴人は被控訴人から本件当座預金の支払準備金が不足している旨の通知を受け、同年同月二七日控訴人振出の真正手形の目録を持つて東九条支店に趣き、控訴人名義で支払われた手形を調べたところ、右目録に記載されていない不真正な手形(本件手形を指す。不真正であることはその時印影を照合して確認した。)を発見した。そこで控訴人は本件当座勘定取引契約を解約して将来の偽造手形による支払を防止すると共に、既に振出された手形中真正な分に限り右当座預金を普通預金に改めて該預金から支払うこととし、本件手形については、証拠として保管する目的でその引渡しを求めたところ、東九条支店預金係長上田弘は整理上困るからとの理由で見返りに小切手を差入れるよう要求したのでこれに応じ、本件手形と同額面の小切手を振出し、それと交換に本件手形の返還を受けた、以上の事実を認めることができ、原当審証人上田弘の「右小切手の授受は被控訴人の本件手形の支払を承認する趣旨でなされる旨を控訴人に説明した」との供述部分は措信しない。
右認定の事実により、控訴人が本件手形の支払を承認し、又は預金払戻請求権ないし損害賠償請求権を放棄したと認定することはできない。けだし、右認定の事実によれば、右小切手の振出は、本件手形を取戻すためのやむを得ない措置であり、これを以て支払を承認し、預金払戻請求権ないし損害賠償請求権を放棄する意思のあらわれと解することは到底できないからである。
3、(三)の主張について、
前認定の事実によれば、富貴子は控訴人が盗印防止の措置を講ずる以前において真正印の印顆を模し、又は右措置以後において真正の印影を模して本件偽造印を作製したことが推定せられる。被控訴人は、控訴人が富貴子に右印顆もしくは印影を利用する機会を与えたことを以て本件偽造に原因を与えたものであり、禁反言の法理を適用すべしと主張するが、このような場合にまで禁反言の法理を適用できない。
4、(四)の主張について、
債権の準占有者に対する弁済が有効とされるためには、弁済者が善意かつ無過失であることを要するところ、本件手形の支払につき、被控訴人が過失の責を免れないことは二に認定した事実により明らかである。
六被控訴人が本件当座預金から七一万八、八〇〇円を引落して本件手形を支払つたことは当事者間に争がない。しかし、以上の認定によれば、控訴人は右支払により右預金の払戻請求権を失うものではないから、控訴人は、本件当座勘定取引契約の合意解除にともない、右払戻請求権に基づき被控訴人に対し右金員及びこれに対する商事法定利率年六分の割合による遅延損害金(その起算日は、合意解除の日の翌日である昭和三五年一〇月二八日である。)の支払を求める権利を有する。以上の認定によれば、預金払請求権の消滅を前提とし、損害の賠償を求める控訴人の主位的請求は理由がないからこれを棄却すべきであり預金の払戻を求める控訴人の予備的請求は、七一万八、八〇〇円とこれに対する昭和三五年一〇月二八日以降支払済まで年六分の割合による金員との支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余はこれを棄却すべきである。これと異なる原判決を変更し、民訴法九六条、九二条但書、一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(小西勝 入江教夫 大久保敏雄)