大阪高等裁判所 昭和50年(ネ)1894号 判決 1979年2月26日
控訴人 門内干尋 ほか二五名
被控訴人 国
訴訟代理人 岡崎彰夫 前川典和 服部勝彦 渡辺春雄 ほか一七名
主文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
一 当事者の申立
(控訴人ら)
原判決を取消す。
被控訴人は控訴人らに対し、それぞれ原判決添付別紙(一)郵便貯金額等一覧表の損害額合計欄記載の各金員およびこれに対する昭和四九年二月一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
(被控訴人)
主文同旨
二 当事者の主張
次に述べるほか、原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。
(控訴人ら)
1 政府が経済政策を立案施行するにあたつては、その担当者において対応すべき四つの政策目標がある。その一は物価の安定であり、その二は完全雇用の維持であり、その三は国際的収支の均衡であり、その四は適度な経済成長の維持である。そのうち最も重要なのは物価の安定であるが、控訴人らの主張する経済政策は、右の客観的基準への対応を怠り、不用意にもかえつてインフレーシヨンを促進したものであるから、違法たるを免れない。
2 仮りに、政府の本件経済政策の決定が自由裁量行為であるとしても、その裁量行為は一般法原則ないしは条理による限界を逸脱したものであるから、違法な行為として司法審査に服さざるを得ないものである。
3 郵便貯金法第一二条は、物価の上昇に対応して郵便貯金の決定、変更を行うべき義務を郵政大臣に課したものであるから、郵政大臣は、控訴人らが不法に損害を受けたと主張する時期において、郵便貯金の利率を引き上げる答申を求めて郵政審議会に諮問する義務がある。しかるに、郵政大臣は右義務を怠り、郵政審議会を召集せず、利率引上げのための政令改正の立案をしなかつたので、郵便貯金の減価をもたらし、それぞれ控訴人らに対し、原判決添付別表(一)の損害額合計欄記載の金員相当額の損害を与えたものである。右は国家賠償法第一条の「公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたとき」に該るから、被控訴人は控訴人らに対し、右損害を賠償すべき義務がある。
4 国民は憲法第一三条、第二五条、第二七条、第二九条によつて経済生活安定権を保障されており、この権利に対応して、国は国民の経済生活を安定させる憲法上の義務を負うところ、これらの憲法の規定を受けて、郵便貯金法第一条は「この法律は郵便貯金を簡易で確実な貯蓄の手段として、あまねく公平に利用させることによつて、国民の経済生活の安定を図り、その福祉を増進することを目的とする。」と規定し、また、同法第一二条第二項は「……郵便貯金が簡易で確実な少額貯蓄の手段として、その経済生活の安定と福祉の増進のためにあまねく国民大衆の利用に供される制度であることに留意し、……」と規定して、国民に個別的な経済生活安定権を保障するに至つたから、国民は右権利に基づいて国に対して積極的に経済生活を安定させる国家行為を請求し得るものというべきである。しかるに、控訴人らは、政府の経済政策決定の過誤によつて、控訴人らの生活防衛資金である郵便貯金の減価をもたらし、前記別表(一)の損害額合計欄記載の金員相当額の損害を被つたから、被控訴人は、それぞれ控訴入らに対し右損害を補償すべき義務がある。
5 郵便貯金法第一二条第一項は「郵便貯金には、政令で定める利率により、利子をつける。」と規定するが、この規定を設けた趣旨は、金利政策の弾力的な運用に支障を来さないようにするため、郵便貯金の利率を政令をもつて定めることとしたものであるから、被控訴人は物価の上昇に応じて郵便貯金の利率を引上げるべき義務がある。
(被控訴人)
1 経済政策は、一国の経済を望ましい方向へと誘導していくための政策であるが、わが国の自由主義経済体制のもとにおいては、政府が一国の経済を完全に制御することは事実上困難であるから、失業がなく、物価が安定し、国際収支が均衡し、継続的に適度な成長が達成されるといつた理想状態が常に確保されることを期待することは無理である。たとえば、物価の安定と完全雇用とをとつてみても、前記経済体制のもとでは競合的選択の関係にあり、さらには物価の安定を実現するための金融引締政策が経済成長を阻害する事態もしばしば見られるところである。したがつて、このような政策目標の間で、どの目標にどの程度重点を置くかの決定は、その時々の具体的状況のもとでの政治的判断に委せるより外ないのであつて、先験的に明白な経済政策選択のための法規範たる具体的客観的基準などあろうはずがない。
2 控訴人らの当審における3の主張は争う。郵便貯金の利率は、郵便貯金法第一二条第一項により、国の金利政策の弾力的な運用に支障を来たさないようにするとともに、適時適切に一般の金融情勢に相応することができるようにするため、政令で定めることとなつたもので、控訴人ら主張のように、物価上昇に対応して郵便貯金の利率の決定、変更を行うべきことを求めているものではない。しかも、郵便貯金法第一二条第二項は、同法第一条に規定する同法の目的ないし制度の趣旨から、利率を決定、変更する場合に、当然考慮すべき基本原則を表明した規定であつて、政府に対し物価の上昇率に応ずる利率改訂義務を課したものではない。したがつて、郵便貯金の利率は、政府が、前記の利率の決定、変更についての基本原則を考慮してこれを決定すればよいのであつて個々の利率の決定につき、法的責任を問われる筋合のものではない。また、郵便貯金法第一二条第三項は、郵便貯金制度の趣旨に鑑み、郵政大臣が郵便貯金の利率の改定の立案をしようとするときは、郵政審議会の諮問に付することとしているが、これも、利率改定の手続の一環として義務ずけているに過ぎないのであつて、利率改定の立案の時期までも義務づけたものではない。以上のとおり、郵便貯金法第一二条の規定は、その趣旨および文言自体から明らかなように、郵便貯金の利率の決定、変更の際に配慮すべき基本原則並びにその手続を定めたものに過ぎない。
3 控訴人らの当審における4の主張も争う。憲法第一三条、第二五条、第二七条はいずれも立法者ないし国政担当者の国民に対する政治的責務を示した綱領規定に過ぎず、また憲法第二九条は所有権を保障した規定であつて、これらの規定が、控訴人ら主張のような国民の経済生活安定権の保障をその内容とするものでないことは、その趣旨に照らして明らかである。また、郵便貯金法第一条および同法第一二条第二項の規定が郵便貯金法の目的と利率の改訂に関する基本原則を表明したものであることはさきに述べたとおりであつて、これらの規定が控訴人らの主張する法的権利としての個別的な経済生活安定権を保障したものとも解し得ない。すると、控訴人の主張する経済生活安定権なるものは、実定法上の根拠を欠くものであり、法規範とは認め得ないものであるから、これをもつて経済政策の違法性ないし権利侵害の根拠となすことはできない。
4 控訴人らの当審における5の主張事実中郵便貯金法第一二条第一項がその主張のような規定であること、および右規定の趣旨がその主張のとおりであることは認めるが、被控訴人が物価の上昇に応じて郵便貯金の利率を引上げるべき義務を負うとの点は争う。
三 証拠関係<省略>
理由
一 国家賠償法による請求について
1 右請求のうち主位的請求の要旨は、控訴人らがなした郵便貯金は、異常な物価上昇の結果、その上昇率に応ずる減価をきたし、そのため減価分相当額の損害を被つたところ、右物価の上昇は被控訴人の公権力の行使にあたる田中角栄内閣、田中首相および公正取引委員会の経済政策の過誤ないし経済見透しの誤りによつてもたらされたものであるから、控訴人らは被控訴人に対し、国家賠償法第一条第一項により損害賠償を請求するというのである。そして控訴人らは、具体的には(イ)財政金融政策に関するものとして、内閣の調整インフレーシヨン政策による大型予算の作成とその国会への提出、並びに日本銀行政策委員会に対するいわゆる公定歩合の変更に関する行政指導につき、(ロ)地価対策に関するものとして、国土総合開発法案等の閣議決定および首相の列島改造構想の発表につき、(ハ)石油需給見通しに関するものとして、内閣および関係省庁による石油輸入量の予測および石油供給制限の決定につき、(ニ)不況カルテル対策に関するものとして、公正取引委員会が認可した不況カルテルの不解消等につきそれぞれ前記の過誤があつた旨主張している。これに対し、被控訴人は、本件は損害賠償請求であり、したがつて、訴訟物としては再法審査の対象となり得るものということができるが、その請求原因は、田中内閣、田中首相および公正取引委員会等の経済政策ないし経済見通しの過誤を理由とするものであるから、控訴人らの損害賠償請求権の存否を論ずるためには、経済政策の是非を判断しなければならないところ、これら経済政策にはそもそも適法違法を審査する法規範がなく、また通常の行政機関の自由裁量とも異なり、専ら内閣、国会等の政治部門に委ねられた全くの裁量に属するものであり、裁判所の司法審査の到底及び得ないところであるから、これを前提とする損害賠償請求権の有無の判断を求める控訴人らの請求はそれ自体失当であると主張するので、判断する。
(一) 日本国憲法のもとでは、国の立法、行政の行為と雖も、これが法律上の争訟となる限り、違憲審査を含めてすべて裁判権に服することとなつたのであるが(憲法第七六条、第八一条、裁判所法第三条参照)、わが憲法の三権分立のもとにおいても、司法権の行使については、おのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきではない。たとえば、条約の締結、国家・政府の承認、議員の懲罰、衆議院の解散、内閣総理大臣の指名、国務大臣の任免など国家機関の行為のうちで高度の政治性を有するものについては、たとえそれが法律上の争訟となり、これに対する判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は、政治的責任のない裁判所の、私人の権利保護に適すべく立法された弁論主義を基調とする訴訟手続によつて、審理解決されるべきではなく、事柄の性質上、その判断は主権者たる国民は対して政治的責任を負うべき政府・国会等の政治部門の判断に委ねられ、最終的には国民の批判と監視のもとに解決されるべきものと解すべきである(このように解しないと、審査の結果、その行為が違法と判定された場合には、政治的に中立であるべき裁判所が政争にまき込まれるなど異常な結果を招来することとなる。)。この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等に鑑み、特定の明文による規定はないけれども、司法権の本質に内在する制約と理解すべきである(最高裁昭和三五年六月八日大法廷判決参照)。
控訴人らは、憲法第八一条は裁判所に国家行為の法適合性について最終審査権を与えたものであるから、高度の政治性のある国家行為と雖も、司法審査の対象となすべきであると主張するが、前記説示のように、右のような高度の政治性のある国家行為は、政治的責任を負わない裁判所の司法的判断には、本質的に適しないものであり、司法権に対するかかる制約は、司法権の本質に内在する制約と解すべきものであるから、憲法第八一条の法令審査権とは直接関わりのないものといわねばならない。すると、右規定を根拠に、高度の政治性のある国家行為と雖も司法審査の対象となすべきであるとする控訴人らの右主張は到底採用するに由ない。
(二) そこで以下、右の見地に立つて、控訴人ら主張の政府の経済政策の決定の是非が裁判所の司法審査の対象となり得るか否かについて検討する。
(1) 国の経済政策を実施するについての前記諸権限が、それぞれ国の最高の行政機関である内閣、その首長である内閣総理大臣および独占禁止法の目的達成のための行政機関である公正取引委員会等に属していることは法規上明らかであり、また前記経済政策等はその影響が国民の全体に及び、国政上重大な結果を招来するものであることはいうまでもない。
そして、一般に経済政策は国の内外の経済状勢を把握認識し、この認識の上に立つて、種々の政策手段を組合わせて決定さるべきものであるが、その認識判断は決して一義的になし得るものではない。経済状勢は常に新たな要素を含んでおり、需要、生産、物価、雇用の各動向および国際環境など経済動向を判断するための指標は、それぞれの分野において数多く存在し、それらを総合的にいかに判断し、先行きをいかに予測するか、また数字に現われない国民や企業の経済状勢に対する思わくとの関係をいかに捕えるか、いかなる経済事象を重視すべきかなど様々な困難な問題があり、これらの認識判断は経済専門家の間でもしばしば意見の分れるところであつて、決して機械的になし得るものではない。また、経済状勢が把握認識されたとしても、政策目標の間に競合関係が成立する場合が多く、したがつて、どの目標にどの程度の重点を置くかの決定は、その時々の状況に応じて政治的専門的に判断さるべき事柄であり、さらに、経済目標が設定されたとしても、それを達成するために、いかなる経済政策を採用すべきかは、当該政策の選択が現実の経済社会に及ぼす影響、利害得失を洞察するとともに、他の政治的、経済的な諸政策との調整をも考慮して、その時々の状況に応じて個別的に政治的見地から判断すべきものであることは勿論である。
このような国政の運営に重大な結果をもたらす経済政策の決定は、憲法の定める三権分立の建前よりすれば、まさに行政府の使命とするところであり、わが国自由主義経済体制の枠内において、政府の政治的部門の高度の政治的、専門的な判断に委ねられていると解するのが相当である。
(2) しかして、政府は、かかる経済政策の樹立にあたつては、国民に健康で文化的な生活を営ましめ、国民の福祉を向上増進せしめるという憲法第二五条の要請に沿うべく適切妥当にこれを決定しなければならないが、右の要請は国政についての抽象的な指導原理というべきものであつて、個々の具体的場合に、いかなる手段方法によつて政策を樹立すべきかについては実定法上の規定がなく、政策決定の適法、違法を審査するための個別的な法規範は存在しない。また各種政策の多様化、弾力化等からして、その具体的客観的基準を設定することも困難である。
控訴人らは、物価の安定などという政策目標を掲げ、経済政策にも適法違法を審査するための法規範たるべき客観的基準が存在すると主張し、<証拠省略>には、右主張に符合するような供述、記載が存するけれども、さきに説示した政策目標の競合性、各種政策の多様化、弾力化等よりみれば、自由主義経済体制のもとにおける右の見解は、余りにも単純化ないし図式化された一義的な見解であり、いまだ、前記の抽象的な政策目標をもつて、経済政策について適法違法を判断するための法規範たるべき具体的客観的基準とはなし得ない。
(3) のみならず、いま仮りに、控訴人ら主張のように政府の経済政策の決定に過誤があり、これによつて物価が上昇し、郵便貯金にその上昇率に応ずる減価を来たしたとしても、それは控訴人らの郵便貯金だけでなく、銀行その他の金融機関に対する預金および一般の金銭債権にも及び、額の多寡、発生原因のいかんを問わず、同様に物価上昇率に応ずる減価を来たしているわけであり、その数は国民の相当数に及ぶ結果、これが違法だとして、その実質的な減価分の損失を補填すべきものとすれば、その額は予測できない程膨大なものとなり、全く収拾のつかない事態が発生する。そして、これに必要な巨額の財政負担は、結局納税者たる国民に転嫁されるところ、国民の相当部分を占める債権者は、同時に国民のかなりの部分を占める納税者でもあるから、これらの債権者についていえば、一旦損失の補填を受けながら再び税負担の形でそれを失うという無意味な収支を繰り返すこととなる。しかして、この点よりみても、経済政策の是非や要否等は政治的見地から検討さるべきことであつて、いまだ裁判所による司法審査や救済になじまないものというべきである。
(三) 以上説示のように、前記経済体制の枠内における本件経済政策の決定等はすべて政府の高度の政治的専門的判断に委ねられ、その当否のごときは司法審査の対象外にあるといわねばならない。そしてこの理は、本件のように、経済政策の是非が訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様であつて、ひとしく裁判所の審査権の外にあるというべきである。よつて、控訴人らの前記請求は爾余の点について判断するまでもなく失当である。
2 次に、控訴人らは、郵便貯金法第一二条は物価の上昇に対応して郵便貯金の利率の決定、変更を行うべき義務を郵政大臣に課したものであるから、郵政大臣は、控訴人らが不法に損害を受けたと主張する時期において、郵便貯金の利率を引上げる答申を求めて郵政審議会に諮問する義務があるのにこれを怠り、郵政審議会を招集せず、利率引上げのための政令改正の立案をしなかつたため、郵便貯金の減価をもたらし、それぞれ控訴人らに減価分相当額の損害を与えたものであるから、控訴人らは、国家賠償法第一条第一項により、被控訴人に対し、右損害の賠償を請求すると主張する。
しかし、郵便貯金法第一二条第一項は、被控訴人の金利政策の弾力的な運用に支障を来さないようにするとともに、適時適切に一般の金融情勢に相応することができるようにするために、郵便貯金の利率を、政令で定めることとしたものであり、同条第二項は、郵便貯金の利率を決定、変更する場合には、国民大衆の利益を増進し、貯蓄の増強に資するよう十分な考慮を払うべきであり、また他の貯蓄手段との適正な均衡が保たれるように一般の金融機関の預金の利率についても配慮すべきであるという利率決定についての基本原則を表明したものであり、また同条第三項は、郵便貯金制度の趣旨に鑑み、郵政大臣が郵便貯金の利率の改訂の立案をしようとするときは、郵政審議会に諮問し、その意見を徴すべき旨を規定しているが、この郵政審議会への諮問は、郵政大臣に利率改定の手続の一環として義務づけたものに過ぎないのであつて、利率改定の立案の時期までも義務ずけたものとは解し得ない。
右のように、郵便貯金法第一二条は郵便貯金の利率の決定、変更の際に配慮すべき基本原則およびその手続を定めたものに過ぎず、控訴人ら主張のように、物価の上昇に対応して郵便貯金の利率の決定、変更を行うべき義務を郵政大臣に課したものではないから、郵政大臣に右義務の存することを前提とする控訴人らの前記請求も失当たるを免れない。
二 経済生活安定権に基づく請求について
控訴人らは、郵便貯金法第一条および第一二条第二項は、憲法第一三条、第二五条、第二七条、第二九条の各規定を受けて、国民に個別的な経済生活安定権を保障した規定であるから、控訴人らは被控訴人に対し、政府の前記経済政策の過誤によつてもたらされた郵便貯金の減価分相当額の損害の補償をを請求し得ると主張するが、憲法第一三条(個人の尊厳と公共の福祉)、第二五条(生存権と国の社会的使命)および第二七条(勤労の権利および義務、勤労条件の基準)は、いずれも行政府の国民に対する政治的責務を示した綱領規定であつて、その内容は国政についての指導原理を抽象的に示したものに過ぎず、また憲法第二九条は私有財産制を保障した規定であつて、必ずしも各個人の有する財産権を個別的に保障したものではなく、これらの規定が、控訴人らの主張する国民の経済生活安定権の保障を内容とするものでないことはその文言自体からも明らかである。そしてまた、郵便貯金法第一条および同法第一二条第二項の規定が郵便貯金法の目的と利率の改訂に関する基本原則を表明したに過ぎないものであることはさきに説示したとおりであつて、これらの規定が、控訴人らの主張する法的権利としての個別的な経済生活安定権を保障したものとは到底解し得ない。すると、控訴人の主張する経済生活安定権なる権利は実定法上の根拠を欠くものであり、法規範として認知し得ないものであるから、かかる権利の存在を前提とする控訴人らの前記請求も亦失当であるといわねばならない。
三 貯金契約による請求について
控訴人らは郵便貯金法第一条、第一二条の規定の趣旨からすると、被控訴人は郵便貯金の支払に際しては、貯金の名目金額が物価の上昇によつて下落した価額相当額の金員を支払う義務があり、それが債務の本旨に従つた履行であるから、右金員につき貯金契約上の債務の履行を求めると主張する。
しかし、右請求の根拠としている郵便貯金法第一条、第一二条の規定の趣旨はすでに説示したとおりであり、その趣旨からも、また文言自体からも、これらの規定が、郵便貯金の物価の上昇によつて下落した減価分を請求することができることを定めたものとは解し得ない。
のみならず、債権の目的が金銭である場合には、特段の通貨の給付をもつて債権の目的としたときは別として、債務者は弁済期において強制通用力を有する通貨をもつて債務額を支払えば足りるものとされているところ(民法第四〇二条)、契約時と弁済期との間に物価が上昇して金銭の価値に変動が生じたとしても、金銭債務は抽象的な貨幣価値の一定量の給付を内容とするものであるから、券面額による支払いで決済すれば足りるものであつて、前記変動に従つて法律上当然に債権額が増額変更されるものと解することはできない。
よつて、控訴人らの前記請求も以上の点ですでに排斥を免れない。
四 以上のとおりだとすると、控訴人らの請求をいずれも棄却した原判決は正当であり、本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却すべきものとし、控訴費用の負担について民訴法第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 大野干里 鍬守正一 鳥飼英助)