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大阪高等裁判所 昭和51年(う)1105号 判決 1977年9月20日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人高天弘房作成の控訴趣意書記載のとおりであるからこれを引用する。

控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反の主張)について。

論旨は、(一)本件公訴の提起は、原審で検察官が取調を請求した吉川正巡査作成の実況見分調書に記載された事故関係車輛の位置関係等に基礎を置くもので、右実況見分調書は同巡査が実際に事故関係者に現場で事故の状況を指示説明させていないのにその指示説明に従って実況見分した旨を記載した違法な虚偽文書であって、およそ交通事故関係の事故においては現場における関係車輛の位置関係等の捜査が最も重要であり、かつ、これを前提としてのみ公訴の提起が可能なのであるから、この点の捜査の段階で右のような違法がある以上公訴の提起自体無効であり、(二)本件は原判決が被告人を罰金刑に処し、かつ、その執行を猶予したほど軽微な事件であるのに拘らず被告人に悪感情を抱いた捜査官が感情的に公訴を提起するに至ったもので違法な公訴提起であり、したがって刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却をすべきであるのに事件の実体について審理判決した原審の訴訟手続には法令に違背した違法があるというのである。

そこで所論にかんがみ検討するのに、記録によると、原審第一回公判において検察官は証拠として他の証拠書類と共に昭和四八年八月一日付捜査官作成の所論実況見分調書の取調請求がなされたところ弁護人においてこれを証拠とすることに同意しなかったため、右実況見分調書の作成者吉川正が証人として取調べられたのであるが本件事故現場において被告人及び被害者山本旭男の両名から事故の状況関係車輛の位置関係等の指示説明を受けたことについての同証人の供述と被告人及び被害者の両名の原審の各供述との間にくい違いがありそのため右実況見分調書が果して事故当事者である右両名の指示説明に基き事故現場の状況を見分した結果を記載したものであるかどうかについて疑があって右実況見分調書が真正に作成されたものでない疑が濃厚である。もしそうだとすればその証拠能力も否定されることになるのであるがたとえそうであり又それが公訴提起のための一証拠となっていたとしても、そのことと公訴提起の効力とは別個の問題であって、固より本件公訴提起を無効とみるべきものではない。また、本件公訴は、被告人が軽四輪乗用自動車を運転中停車していた先行車に追突し同車の運転者に傷害を負わせたことを公訴事実として提起されたものであって、右公訴事実自体からみても軽微な事件と即断することができないのみならず、捜査官が被告人を感情的に差別しことさら公訴提起に至ったものと認めるべき何らの資料も見出せないから本件公訴提起を違法とすべき事由は存在しない。原審が被告人に対し公訴棄却の判決をしなかったのは固よりのことであってその訴訟手続には所論のような違法はない。論旨は理由がない。

控訴趣意第二点(事実誤認ないし法令解釈適用の誤の主張)について。

論旨は、原判決は、被告人が一時停止中の山本旭男運転の軽四輪貨物自動車を認めてその後方二~三メートルの地点に一時停止したこと、その後発進して停止中の同車の後部に自車前部を追突させ、その衝撃により右山本に対し休養および加療一週間を要する外傷性頸椎捻挫症の傷害を負わせたと認定し、被告人に業務上過失傷害罪の成立を認めているが、被告人が停車した際停止中の右軽四輪貨物自動車との間隔は二メートル位であり、また被告人は一時停止後発進して前方に停車中の右軽四輪貨物自動車後部に自車を追突させたのであるが、発進直後の追突でありその間の進行距離も右のように僅か二メートル程度に過ぎずその間に加速したとしても毎時五キロメートルを超えない低速で追突したのであって、被追突車の乗員の頸部に外傷性頸椎捻挫症(むち打ち損傷)を生ぜしめる程の衝撃力を及ぼしていないから、右追突により被害者山本に対しむち打ち損傷を負わせる筈がないし、仮に同人にむち打ち損傷の傷害の発生があったとしても事故当時同人には何らの異常もなく、事故後二〇数日を経過したのちに発生したものであって本件追突以外の原因で受傷した可能性があり本件追突と因果関係がないから、これらの点で原判決は事実を誤認しているというのであり、また仮に本件事故により被害者山本に何らかの傷害を負わせたとしてもその程度は被害者自身が僅かに圧痛を覚える程度の軽微なものであって刑法二一一条前段の業務上過失傷害罪における傷害に該当するだけの違法性がないからこれに該当するとして同罪の成立を認めた原判決には法令解釈適用の誤があるというのである。

そこで所論にかんがみ記録を調査し当審における事実取調の結果をも参酌して検討するのに、原判決挙示の証拠とりわけ被告人の検察官に対する供述調書によれば、被告人が原判示日時場所で信号待ちをしている先行の軽四輪貨物自動車の後方約二~三メートルの地点に一時停車したことが認められるところ本件現場がアスファルト舗装で路面の乾燥した道路上であること、前記のとおり一時停止をしている軽四輪貨物自動車の後方二~三メートルの地点で一時停車した被告人が地理不案内のため下を向いて地図を見ていたところ、助手席に同乗の妻から信号が青色に変ったことを知らされ前方でフットブレーキを踏み停車していた山本旭男運転の右軽四輪貨物自動車の発進を確かめないまま発進したため同車の後部に自車前部を追突させたこと、その結果被告人車は右側前照灯の硝子が割れ前部バンパー右側の一部が押し込まれる状態となり、山本車は車体後部に若干の凹損を生じたこと、そこで被告人は山本が天理市役所に勤務する公務員であり、同人の運転していた自動車も同市役所の所有車であるため同市役所まで同道してくれというので同人と共に右現場から二〇〇メートル位離れた同市役所に赴き、その際特に同人が身体の異常を訴えていなかったけれども大事をとって病院で診察を受けるよう勧告して病院に行かせたうえ天理警察署に事故発生を届出たこと、山本は右のとおり当時身体に異常を感じていなかったのであるが、被告人の勧告により天理市国民健康保険病院で苗加医師の診察を受けたことの各事実を肯認するのに十分である。

ところで記録によれば、本件公訴事実は、前認定の追突に衝撃により山本に加療七八日間を要する外傷性頸椎捻挫症の傷害を負わせたというのであり、したがって原判決が前記のとおり休養および加療一週間を要する外傷性頸椎捻挫症の傷害を負わせたと認定したことはその傷害の程度につき縮小認定をしたものと認められるのであるが、記録によれば山本の診察に当った苗加医師は右診察及び治療の状況につき原審において要旨次のとおり証言していることが明らかである。すなわち同医師は、事故当日である昭和四八年八月一日山本が追突されて首が痛いと訴えて来たため頸部のレントゲン検査及び後屈、背屈の理学的検査をなし、レントゲン検査では特に異常を認めなかったが、理学的検査に際し頸部にしこりの固さを認め部分的な圧痛の訴えがあったため一応頸椎捻挫症と診断し一週間か一〇日間の安静を求めその経過をみて再診断することにした。したがってその当時の診断結果として約七日間の休養、加療を要するとしたのは右経過観察期間を意味するものであるが、その後右期間を経過しても来院せず、ようやく同月二七日になって来院したが、その際は頸部痛及び重たい感じがあるというので再び理学的検査をした結果、頸部筋肉に圧痛及び硬結を認め当初の症状と関連したものと判断し、以後投薬及びけん引療法を施し最後の投薬期間の経過した同年一〇月二四日頃治癒したと認めた。しかし最後の投薬をした同月一七日には殆ど症状もなくなっていた。というのである。したがって右苗加医師の証言によれば、事故当日山本が原判示のようにあえて休養、加療一週間を要するものと縮小する程度の頸椎捻挫症の傷害を受けたものと確定することには多分に疑問としなければならない点があり、むしろ同医師のいう診断及び治療経過をみるかぎり山本が本件追突のため頸部頂部に痛みを覚え、その後二〇数日経過後さらにその症状が顕著となり治療の結果約七八日目にその症状が消失したとみられるのであるから、本件追突の衝撃により山本が公訴事実に記載のとおり加療七八日間を要する外傷性頸椎捻挫症の傷害を負ったと判断するのが適切であるといえる余地がある。

しかしながら、被害者山本は原審において、「追突された時身体が前に二〇センチメートルか一五センチメートル揺れたが、車は動いていない。事故当時身体に異常はなく医師の診断を受けた際も頸部の痛みを訴えたことはないし、翌日は頭がぼうっとしていたので大事をとり休養したが、三日目から出勤した。その後医師の診察を受けたのは、友人から顔色が悪いといわれ自分自身もくらくらしたからである。」といっているに過ぎないのである。また原審鑑定人馬路晴男作成の鑑定書によれば、同鑑定人は本件現場に類似したアスファルト舗装、乾燥、平坦な道路上で停車中の本件と同型の軽四輪貨物自動車(乗員一名)にその後方二メートル、又は三・五メートルの地点に停車中の本件と同型の軽四輪乗用自動車(乗員四名、うち子供二名)が発進して追突した場合衝突時の追突車の速度は標準的発進操作を行った場合、二メートル後方からでは毎時三・四五キロメートルないし四・三一キロメートル、三・五メートル後方からでは毎時四・五六キロメートルないし五・七キロメートルであり、また右速度で追突した時の被追突車に及ぼす衝撃力は右追突により被追突車が二〇センチメートル移動したと仮定(同鑑定人は本件の場合被追突車に乗車していた被害者山本が追突の際身体が前に一〇センチメートルか一五センチメートル揺れたと供述していることを根拠に右の仮定を立てたといい、同時に追突された場合身体が前に揺れるということは現実的でないとも指摘している)して〇・六三Gないし〇・二三Gと計算され、それ程大きい衝撃力ではないというのであり、また当審において取調べた鑑定人杉本侃作成の鑑定書及び同鑑定人の供述によれば、同鑑定人は、右馬路鑑定により計算された衝撃力は人体が日常屡々体験する加速衝撃力の域を出るものでないからこの程度の衝撃ではむち打ち損傷を起す余地がなく、このことは実験結果(原審で取調べたモーターファン一九六五年一一月号所収の松野正徳作成の論文を引用)によっても認められているし、本件においては被害者の身体の後部の揺れ及び被追突車輛の移動がないから衝撃力が零とみる余地もあり、仮に馬路鑑定のように二〇センチメートルの移動があったとしてもその程度の移動ではむち打ち損傷発生の原因である首と体幹のずれが生じない(同鑑定人は首と体幹のずれを生ずるには少くとも上半身の長さ程の体幹の移動が必要であるともいう)から本件の場合むち打ち損傷を起す可能性は皆無であるというのであり、さらに同鑑定人はむち打ち損傷について専門的な医師の立場から、追突された被害者が自覚症状もないのに医師の診断を受け、医師も慎重を期して種々の検査をし、かつ、安静を指示する事例が多くそのため被害者に無用の不安感を抱かせ健康人でありながら頭痛、肩こりなど些細な症状を訴えることにより安易にむち打ち損傷と診断され誤った治療法を受けて一層むち打ち損傷の症状を呈する事例があるというのである。

以上の鑑定結果に徴すると本件の場合、被告人車が山本車に対し毎時五・七キロメートル以下の低速で追突したもので、その衝撃力もむち打ち損傷を起すに必要な程度に至っていなかったものと推認されるばかりでなく、前記原審証人山本旭男の供述する自覚症状に照らし苗加医師の診断結果も被害者山本が同医師の慎重な診断と治療を受けたことの影響による愁訴に基因するものとみる余地があるのであって、結局本件追突により山本に外傷性頸椎捻挫症(むち打ち症)の傷害を負わせたと認めることには多分に疑念を抱かざるを得ないのであって、原判決が訴訟関係人の主張に対する判断の項において、説示する本件のような低速で追突した場合にもむち打ち症を起す可能性があること、診断医師の所見が十分信頼し得ることの点を考慮してみても前記疑念を払拭することはできず、その他記録を検討してもこれを認めるに足りる証拠はないから、その余の所論を判断するまでもなく被告人に対し業務上過失傷害罪の成立を認めた原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。

よって刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ同法四〇〇条但書に従い、さらに次のとおり判決する。

本件公訴事実は、

被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四八年八月一日午前八時ごろ軽四輪乗用自動車を運転し、奈良県天理市三島町一八二番地先道路を南進中、同所の交通整理の行なわれている交差点手前で信号待ちのため一時停止中の山本旭男(当時二九才)運転の軽四輪貨物自動車を認めてその後方約三・五メートルの地点に一時停止後、同車に続いて発進するにあたり、自動車運転者としては同車の動静を注視し、その発進の有無を確認すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り自車助手席の同乗者から信号が青色になった旨言われて同車の発進の有無を確認することなく漫然発進した過失により同車後部に自車前部を追突させてその衝撃により右山本に加療七八日間を要する外傷性頸椎捻挫症の傷害を負わせたものである。

というのであるが、前記説示のとおり被告人がその運転する軽四輪乗用自動車の前部を被害者山本旭男運転の軽四輪貨物自動車の後部に追突させた事実は肯認されるも、その結果同人に外傷性頸椎捻挫症の傷害を負わせたことを認めるに足りる証拠が十分でないから右公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法四〇四条、三三六条により無罪の言渡をする。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 瓦谷末雄 裁判官 青野平 裁判官山田敬二郎は海外出張中のため署名押印することができない。裁判長裁判官 瓦谷末雄)

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