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大阪高等裁判所 昭和51年(ネ)968号 判決 1977年12月28日

控訴人

甲野二郎

控訴人

甲野松子

右両名訴訟代理人

間狩昭

外二名

被控訴人

甲野梅子

右訴訟代理人

木原邦夫

外一名

主文

本訴請求についての本件控訴を棄却する。

原判決主文第二項を次のとおり変更する。

控訴人ら間の子A、BおよびCの親権者を控訴人甲野松子と定める。

反訴請求についての原判決を取消す。

控訴人甲野二郎と被控訴人とを離婚する。

控訴人甲野二郎と被控訴人との間の子DおよびEの親権者を控訴人甲野二郎と定める。

控訴人甲野二郎は被控訴人に対し金一五〇〇万円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

本訴についての控訴費用は控訴人らの負担とし、反訴についての訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

一、申立

(一)  控訴人らの申立

原判決を取消す。

被控訴人の本訴請求を棄却する。

控訴人甲野二郎と被控訴人とを離婚する。控訴人甲野二郎と被控訴人との間の子DおよびEの親権者を控訴人二郎と定める。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

(二)  被控訴人の申立

(本位的申立)

本件控訴を棄却する。

控訴人二郎は被控訴人に対し金三一八万円を支払え。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

(予備的申立)

かりに、控訴人二郎と被控訴人とを離婚するときは、

(1) 両者間の子DおよびEの親権者を被控訴人と定め、控訴人二郎は被控訴人に対し、本判決確定の日より昭和五三年四月二八日までは一ケ月当り金一五万円、同五五年一月一二日までは一ケ月当り金一〇万円を支払え。

(2) 控訴人二郎は被控訴人に対し、金二、三一八万円およびこれに対する昭和四〇年一一月一日以降支払ずみまで年五分の割合の金員を支払え。

二、事実上の主張

次に附加するほか原判決摘示のとおりであるから、これを引用する。

(一)  控訴人二郎

控訴人二郎と被控訴人との結婚が破綻のやむなきに至つたのは、結婚当初からの被控訴人の高慢かつ我儘な性格に起因するものであつて、被控訴人が精神分裂症に罹患したことのみに原因するものではない。被控訴人は、結婚すれば控訴人二郎の父母と同居することを事前に了承していたのであるが、結婚直後から控訴人二郎の父母と一緒に食事をすることを忌避して二階に閉ぢ籠り、三日間も絶食する始末で、控訴人二郎はやむなく二階ベランダに台所兼食堂を増築してその意を迎へたものの、その後も事毎にトラブルを起し、結婚一年有余後である昭和三二年八月被控訴人が長女Dを妊娠した機会に「今後は他人(二郎の父母のこと)の世話にはならない」と捨てせりふを残して勝手に実家に帰つてしまい、結局昭和三三年春に控訴人二郎はその両親と別居して被控訴人と公団住宅に入居するのやむなきに至つたものである。被控訴人の精神分裂病の発病は、それ以後のことである。なお、控訴人二郎が控訴人松子と事実上の夫婦関係に入るに至つたのは、昭和四一年四月大阪家庭裁判所に控訴人二郎と被控訴人との間の離婚調停が係属してから四年半も経過した昭和四五年一〇月のことであつて、両者間の夫婦関係が完全に破綻した以後のことである。

(二)  被控訴人

控訴人二郎は、被控訴人の九ケ月に及ぶ入院中ただ一度見舞つただけで、昭和四一年一一月一日の退院後も断固として同居を拒否し、被控訴人を悪意で遺棄していたものであるから、同日以後昭和五二年七月までの間(被控訴人が就職した昭和四二年二月より昭和四四年一二月までの間を除く)控訴人二郎は被控訴人に対し一ケ月三万円合計三一八万円の扶養料を支払う義務がある。この義務は、控訴人二郎と被控訴人とが離婚する結論となる場合も変りはない。

かりに、控訴人二郎と被控訴人とが離婚するときは、

(1)  女親でありかつ他に子供のない被控訴人こそ長女D、次女Eの親権者としてふさわしいのであるが、そのように指定された場合、右両名の養育費として、控訴人二郎は被控訴人に対し長女Dが成年に達する昭和五三年四月二八日まで一ケ月一五万円あて、また、それ以後次女Eが成年に達する昭和五五年一月一二日まで一ケ月一〇万円あて支払う義務がある。

(2)  被控訴人は退院後今日まで一一年間に及ぶ不安と苦しみは到底金銭に見積りうるものではないが、控訴人二郎は被控訴人に対し少なくとも一年当り金一〇〇万円、合計一一〇〇万円を慰藉料として支払う義務がある。

(3)  被控訴人は控訴人二郎と同居中、その博士号取得に協力し、四度も妊娠し、二人の子を育てて九年間に及んだのであるから、控訴人二郎は被控訴人に対し財産分与として九〇〇万円を支払う義務がある。

三、証拠関係<略>

理由

一<証拠>によれば、次の事実が認められる(右各証拠中、後記認定とてい触するところは、信用しない)。

(一)  控訴人二郎(昭和四年一月一一日生)は、内科小児科の開業医である父太郎の次男として生れ、昭和二五年三月大阪医学専門学校を卒業、同二六年一〇月医師国家試験に合格後内科医師として新大阪病院に勤務していた者であり、被控訴人梅子(昭和八年一月七日生)は、田辺製薬株式会社に勤務し(取締役まで昇進)、その後個人商店の相談役を勤める父乙野義男の長女として生れ、昭和二六年三月大阪府立住吉高等学校を卒業後住友信託銀行に勤務していた者であるが、両名は昭和二八年頃それぞれの勤務先における慰安旅行として三重県鳥羽へ行く車中で知り合い、その後三年間交際を重ねた後昭和三一年五月結婚した。交際期間中は、二郎は、梅子は時間にはルーズなところがあるがおとなしい性格であると思つていた。

二郎方の長兄一郎は大阪市阿部野区北畠で個人病院を開業して両親と別居している関係上、次男二郎において将来大阪市住吉田辺で開業する父太郎の病院を相続するふくみで、父太郎の診療所兼用の住居が広くて十分にその余裕があるところから、二郎は、結婚後も両親との同居を続けることとし、結婚前に梅子にその了解を得ていた。結婚後二階が新夫婦の居室に充てられた。家事は主として二郎の母昌子が担当していたが、梅子はあまりこれを手伝わず、そのうちに母の作る食事に不服なのか理由は必ずしも明らかでないが、食事時間になつても二階の居室に閉ぢ籠り階下の食堂に下りて来ないことが多く、二郎が心配して梅子分の食事を二階に運ぶなどし、そのことが三日も続いたことがあつた。このことから、結婚後しばらくして二郎は梅子のために二階のベランダに台所を増設してやり、そこで新夫婦は両親と食事を別にするようになつた。そのように計らつても、梅子にはとかく苦情が多く、出入りの植木屋に対し二階から色々文句を言つて植木屋を怒らせたこともあつた。梅子は昭和三二年三月新大阪病院で出産したが、新産児は分便障害などの生活力薄弱により三日後に死亡した。梅子はこれを二郎のせいであるといつて二郎を責めた(梅子は、これは二階暮しをさせられたことと、二郎の両親に対し気を使つたせいであると思つている)。同年八月、梅子は再び妊娠し、それを機会に大事をとるという理由で勝手に大阪市阿倍野区共立町にある実家に帰つてしまつた。家を出る時、梅子は二郎の両親に対し、「今後他人(両親のこと)の世話になりません」と捨てせりふめた言葉を残して去つた。それから後は、二郎は自宅と梅子の実家を行つたり来たりして暮らし、これでは自分達と両親との別居もやむを得ないとして住宅協会のアパートヘの入居者募集に応募した。昭和三三年四月二八日梅子は実家の近くの産院で長女Dを出産し、同年五月、二郎は妻子ともども大阪市住吉区長居にある住宅供給公社のアパートに入居した。

(二)  それ以後夫婦と子供だけの生活が始まる。その後における梅子の生活態度は次のとおりである。なお、その間、二郎は昭和三三年に甲陽病院に転職し、昭和三六年に医学博士となり、昭和三八年に仁悠会吉川病院に転職している。

(1)  梅子は、二郎が出勤する時刻(午前八時三〇分)になつても就寝していて朝食の用意をしていないために二郎は朝食をとらずに家を出て駅などでパンやそばによる朝食をとつた。夕食も梅子が用意していないことが多く、二郎が帰途副食物を買つて帰ることがしばしばであつた。

(2)  梅子は掃除や洗濯をあまりせず、二郎は帰宅後これをすることが多かつた。子供のおむつの取り替えも、始めの頃は専ら梅子があたつていたが、後次第にルーズになり、二郎がすることが多くなつた。

(3)  梅子は、アパートの近所の人とのつき合いが悪く、隣家の騒音に腹を立てて牛乳の空き瓶を隣家の扉に投げつけたこともあつた。

(4)  昭和三五年一月一二日梅子は次女Eを出産した。その後は家事に怠慢な傾向はますますひどくなり、一日中寝ていたり、起きていても部屋の隅にじつとしていることがあつた。そのため、二郎は、梅子において気がむいてこれをする時以外は、帰宅後子供のおしめの取り替え、入浴、食事の用意、夜毎の洗濯など家事全般に当るようになつた。

(5)  昭和三七年夏、二郎は娘にイソツプ物語の絵本を買つて来たところ、梅子は、「動物が人間の真似をする物語はいけない」といつて金たらいの中でこれを燃やしてしまつた。また、「外には悪い人がいる」といつて子供らをあまり外に出さないようにし、昭和三九年四月に長女Dを幼稚園に入園させたが、梅子は、二、三日に一度位の割合で理由なく幼稚園を休ませ、遠足にも行かせなかつた。また、弁当もこしらえてやらないので、二郎がこれをこしらえてDに幼稚園に持参させた。

(6)  昭和三九年頃には梅子の奇癖はますます嵩じ、玄関に靴、下駄を一〇足位並べたまま放置しておくので、二郎はこれを下駄箱に収めようとすると「しまうと自動車事故が起る」といつて怒つた。部屋の中は乱雑に放置したままであつた。

梅子の生活ぶりは以上のとおりであつた。二郎は、梅子が子供の絵本を燃やした時から梅子の精神状態に疑念を抱きはじめたが、病勢が嵩ずるようなので 梅子の両親にも断つた上昭和四〇年二月一三日に知人の浜寺病院(精神病院)の医師向井寅嘉に対し往診を乞い、梅子を診断せしめた。向井医師は梅子を被害妄想を有する精神分裂病と診断し、二郎の意見を徴した後梅子に静脈注射を施して即日これを浜寺病院に入院させた。二郎は、その翌日長女および次女をつれて旧居である二郎の両親の家(田辺)に転居した。

二郎は、梅子の入院中月に一、二度費用の支払や病状聴取のため浜寺病院に出向いたが、病床に梅子を見舞つたのは一度だけであつた。入院中の梅子の身の回りの世話は、梅子の両親においてこれに当つた。梅子は、入院後病状は次第に快方に向い、昭和四〇年六月頃には日常生活を平静に行いうるようになり、同年七月頃には外泊が許されて梅子の実家に時々帰るようになつた。外泊を許されたある時、梅子は両親に伴われて、二郎のいる田辺の家を訪れた。二郎は、二時間位面談した後これを家に泊めることなく帰した。そして、同年一〇月、二郎は梅子の両親に対し、梅子と離婚したい旨申入れた。しかし、梅子の両親は、梅子の至らなかつたことを詑び、今後は責任をもつて家事にいそしみ主婦としての責任を果させるから離婚は思い止まつてほしい旨懇願し、二郎の離婚の申出を断つた。梅子は、同年一一月、以後外来通院をすることとして軽快退院し、両親である乙野義男方に落ちついた。

(三)  これ以後は、夫婦別居の上での離婚交渉の時代に入る。

昭和四一年四月、二郎は大阪家庭裁判所に対し梅子との離婚の調停を申立てた。数次調停期日を重ねたが、梅子において離婚を承諾しないので、同年八月二三日調停は不調の見込の下に、二郎においてこれを取下げ、終了した。梅子は、翌四二年二月より住友生命保険相互会社に外勤職員として勤めるようになり、その勤めは昭和四四年一二月まで続いた。その間、梅子において二郎の歓心を買うため、贈物などをデパートから配達させたりしたが、二郎はその都度これを返送した。このような状態で両者の関係は膠着したまま時日が推移した。

昭和四五年六月、二郎は梅子の妹平井桂子とその夫治夫に二郎梅子間の協議離婚の実現につき斡旋を依頼するため、東京都武蔵野市の同人方を訪れた。同人らも現状を憂慮していたが、結局は二郎から梅子の両親に直接依頼するほかないということになつた。同年七月、八月、九月の三回に亘り、二郎は梅子の父義男と天王寺の都ホテルで会つて梅子との協議離婚につき懇願したが、義男からは積極的な返事が得られず、話の進展はなかつた。二郎はまた東京に行つて平井桂子に会つたりしたあげく、昭和四六年三月七日天王寺の都ホテルで梅子および梅子の両親と四人で離婚問題について懇談する機会を得た。しかし、二郎は離婚を主張し、梅子は離婚しないと主張し、両者の見解は平行線を辿るだけで離婚に伴う経済上の事柄について言及することなく物別れとなつた。この会談の際、二郎は梅子の挙措動作により未だ精神病が完治していないと感じ、そのように口外したりもした。

昭和四六年五月二日、二郎は再び天王寺の都ホテルに梅子を呼び出した。二郎の方は立会人として友人の泉政雄を伴つていた。食事を共にした後、離婚話の話合いに入つたが、二郎は同棲期間中の梅子の家事について難詰し、梅子は男ではわからぬことがあるというので、更に泉政雄の妻を呼び出して同席して貰うなどして、離婚に関するいわゆる膝詰め談判が午後二時三〇分頃から数時間に亘つて続けられた。午後六時頃に至り、漸く梅子は協議離婚につき肯定的な態度を示したので、二郎は予め用意して持つていた協議離婚の届出用紙に、夫の欄に自分の氏名を書き二郎が銀行で使う印章をもつて捺印し、さらに妻の欄も梅子の氏名を二郎において代筆し、二郎が病院で使う別の認め印を梅子に渡して梅子をしてこれに捺印せしめた。そして、子供の養育は引続き二郎においてこれに当ること、財産分与は後日話し合うこととして別れた。二郎はこの用紙を自宅に持ち返り、他の所要事項の記入をなした上媒酌人の木下孝、姉の夫の石田善吉に事情を話して証人としての署名を得、同月一〇日大阪市住吉区役所に二郎、梅子間の協議離婚届書として届出をなした(乙第七号証――被控訴人梅子は、右離婚届書に自ら捺印したことを争い、原審および当審における同人の本人尋問において「二郎が離婚届出用紙を出して来たので私は怒つてこれを破り捨てた。二郎が自分のポケツトから印章を出すという場面がなかつた」と供述する。しかしながら、昭和四七年二月一五日付の甲第四号証梅子より訴訟代理人宛の手記には、「電話で私と父に梅子一人でくる様にいつたのです。話合をするのならそんな時離婚用紙を持つてくる必要がない。印も二つ用意するのはあくまで悪質な計画的手段です。……」と記載してある。右手記が作成された時点で二郎が印章を二個用意していたことが梅子にわかる事情が他に見当らないので――昭和四六年一〇月一八日受付の二郎の反訴状、同年一一月二九日受付の乙第三証二郎の手記、昭和四七年二月一日受付の乙第五号証二郎の手記には、いずれも「二郎の印をかした」とあるだけであつて、二郎の印が二個用意されていたことを窺わせる記載がない――、現場に立会つた泉政雄の証言と相俟ち、前記のように判断した。)。

梅子は、離婚届に捺印はしたものの、もとよりこれには不承不承であつたのであるから、帰宅後父母にその事情を話し、父母においても梅子の離婚に反対であつたことは推察に難くなく、梅子はそこで離婚の意思を翻がえし、同月七日本籍地である鳥取県倉吉市役所に離婚不受理申出書を郵送し、右書面は同月八日に同市役所に到達した。倉吉市役所は、大阪市住吉区役所から送付された二郎提出の協議離婚届出に基き同月一七日一旦は梅子を二郎戸籍から除籍したが、それ以前に右不受理申出書を受理していたことが明らかとなつたので同月三一日法務局の戸籍訂正に関する許可を得た上同年六月二日誤記を理由に右協議離婚事項を削除し、梅子は戸籍簿に二郎の妻として回復の記入がなされた。

二郎は、前記のように梅子との離婚交渉を続けていた昭和四五年八月頃、その当時の勤務先である仁悠会吉川病院において同病院の看護婦として勤務していた小林松子(昭和一九年一二月五日生・控訴人)と知り合い、その後同女と親しくなつて同年一〇月頃より同女と同棲していたが、前記のように梅子との離婚届出をなした後に昭和四六年六月一日松子との婚姻届出をなした。右日時は、二郎梅子間の協議離婚事項が消除される以前であつたので、右届出は受理され、松子は二郎の妻として二郎の戸籍簿に記入された。右両名の間にはA(昭和四六年七月二九日生)、B(昭和四八年六月一一日生)、C(昭和五〇年七月二日生)の二女一男が生れている。

梅子は、昭和四六年八月二郎と松子を被告とし、重婚を理由として二郎松子間の婚姻取消の訴を提起し、二郎は、同年一〇月梅子との婚姻関係不存在確認(後に取下げ)もしくは離婚を求める反訴を提起した。現在訴訟係属六年に及んでいる。

二郎は、昭和五一年三月甲市で内科・小児科の個人医院(約六〇坪の敷地に約一〇坪の診療所と約三〇坪の住宅を建て二郎名義である)を開業し現在松子の外、子供五名と共に暮している。

梅子は、昭和五〇年現在における鑑定では、精神分裂病の欠陥治癒状態にあり、一般家事、家庭の対外交際、育児等に従事する能力を保持し、精神医学的治療を加える必要がないと判断されているが、現在阿部野区共立通りの名加良吉方で両親と共に暮している。

二以上認定した事実関係に基き、まず本訴の当否を判断する。

昭和四六年五月一〇日届出の二郎・梅子間の協議離婚の届出は、それ以前である同月八日梅子より離婚不受理申出書が提出されており、五月一〇日の時点では梅子に離婚の意思がないことが明らかであるから、右協議離婚は無効である。従つて、昭和四六年六月一日に届出られた二郎・松子間の婚姻は、二郎・梅子間の離婚事項が消除された後においては民法第七三二条に違反し取消しを免れない。被控訴人の本訴請求は理由がある。結論においてこれと同旨の原判決は正当であり、控訴人らの控訴は理由がない。なお、二郎・松子間に生れた子A、B、Cの親権者を控訴人松子と定めるべく、原判決主文第二項はCの関係で右の趣旨に変更すべきものである。

三次に、控訴人二郎の反訴の当否を判断する。

およそ婚姻は、夫婦相互の不断の努力によつて漸く維持・育成できるものである。自己の努力を怠つていながら、相手方にのみその努力を求めても、相手方の努力もいつしか弱まり、やがて婚姻関係は破綻に至るであろう。この意味で、夫婦相互の愛情も所詮相対的である。結婚当初は深い相互の愛情によつて結ばれた夫婦も、毎日毎日の日常生活の細々とした事柄において、夫婦の一方が婚姻生活を維持するために必要な努力を怠るとき、相手方の愛情はいつしか褪めて行くことを防ぎとめることはできない。この時に至つて結婚当初の誓いを盾にとつて相手方の心変りを責めても、所詮帰らぬこととなる。

本件において、梅子は結婚当初から婚姻関係を維持育成するために必要な努力に足りなかつたことは否定することはできない。それは二郎の両親との同居生活を円滑に行うために必要な最小限度の努力すら果していなかつたと評して過言ではないであろう。夫婦は夫婦二人だけの社会に住んでいるものではない。夫の両親や兄弟、妻の両親や妹姉など、それぞれの相手方は、それを取り巻く個有の社会を有している。そのこと自体は否定できない現実である以上、これとの調和を考えなくては配偶者はその不協和音に耐えられなくなるであろう。二郎は、この点において、二階における炊事場の設置、さらには両親との別居など、よく梅子に調子を合わせるべく努力をしたといえよう。

長居の公団住宅における夫婦・子供だけの生活の時代においても、梅子の家事に対する怠慢はやはり責められてしかるべきである。この時においても、二郎は何とか家庭を維持すべく努力したといえる。

梅子の精神病の発病はいつ頃からか明らかでないが(二郎は三七年頃と感じている)、発病以後の家事の怠慢は、その責に帰するわけにはいかない。また、梅子の精神病院への入院中および退院後の二郎の梅子に対する態度は、弱者に対するいたわりに欠けているという点において正しいとはいえない。しかしながら、それまでの間に二郎の梅子に対する愛情はすつかり冷えており、梅子の退院の見通しの立つた頃に既に二郎は梅子の両親に対し、梅子との離婚を申出ているのである。二郎の梅子に対する同居の拒否は、正式に離婚を申出た後のことであるという背景を考慮に入れてこれを評価しなければならない。

その後数年に及ぶ別居による抗争の間に二郎と松子の同棲関係の成立、その間に三子の誕生などの事実があつて、現状においては二郎と梅子との間の婚姻は完全に破綻しているといわざるを得ないが、この破綻は、その前半において梅子に責任があり、その後半において二郎に努力が足りないと評価することができる。しかし全体を通観してこの婚姻の破綻は二郎において一方的に責任があるということができないことは明らかである。結婚後発病までの間、梅子において通常の妻に見られる程度の婚姻生活維持存続のための努力を払つていたならば、二郎において、梅子に精神病が発病したことの一事をもつて離婚をいい出すとは思われないからである。二郎と松子の同棲は、二郎が梅子の家事不行届を理由に梅引の両親に梅子との離婚の申出をなし、梅子と別居してより五年も後のことであるから、妻には落度がないのに妻以外の女と同棲関係を持つことによつて婚姻関係を自ら破綻に導いた場合と本件とを同一に論ずるわけにはいかない。

以上の次第であるから現状においては二郎と梅子との婚姻には、婚姻を継続し難い重大な事由があり、かつ、それは二郎の一方的な責任によつて招来されたものではない、と認められる。よつて二郎の梅子に対する離婚の請求は理由があり、右請求を棄却した原判決は失当であるからこれを取り消すべきである。二郎と梅子間の未成年の子DおよびEは、現に二郎の許で育てられており、既に成年に近く必ずしも実母による愛育を必要としない年令に達しているから(Dは、実母の許に行くことを望まない旨証言している―D証言)、右両名の親権者を二郎と定める。従つて、また右両名の親権者が梅子と定められることを前提とした被控訴人の養育料請求は理由がない。

次に、離婚に伴う財産分与の請求について判断する。二郎とすれば自己の責任ある選択によつて梅子を妻とした。梅子の九年間の二郎との同棲生活中その後半は精神病にかかり、退院後も二郎との同居を許されず、今二郎より離婚されても齢すでに四五才に達し、今から再婚する可能性にも乏しい。まことに不幸な人生という外ない。二郎が梅子を妻とする選択を行なわなかつたならば梅子のこの不幸な人生がまた別の姿になつていたであろうことを思うとき、離婚はやむを得ないとしても、梅子の今後の人生につき経済的に困らないような配慮を払つてしかるべきである。ことに昭和四一年以後梅子に対する扶養の義務(梅子の就職中の期間を除く)を果していないことをも勘案し、二郎の梅子に対する財産分与の額を一五〇〇万円と定める。二郎は現に開業医として医院を経営中であり、医学博士の学位も梅子との同棲中に取得し得たことも配慮して然るべきである。なお、財産分与請求権は離婚によつて発生するものであるから、右金額にこれに対する本判決確定の日の翌日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を附加して支払うべきである。被控訴人の扶養料および慰藉料の各請求は、右財産分与の額の中に然るべく配慮したので別個には判断しない。

よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条、第九六条に従い、主文のとおり判決する。

(坂井芳雄 下郡山信夫 富澤達)

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