大阪高等裁判所 昭和52年(ネ)910号 判決 1980年2月22日
昭和五二年(ネ)第八九四号事件控訴人 (第一審被告)同年(ネ)第九一〇号事件被控訴人 株式会社 大丸
右代表者代表取締役 伊藤暹
右訴訟代理人弁護士 谷口義弘
同 谷口忠武
昭和五二年(ネ)第八九四号事件被控訴人(第一審原告)同年(ネ)第九一〇号事件控訴人 中尾益太郎
右訴訟代理人弁護士 伊藤公
主文
1 第一審原告の本件控訴を棄却する。
2 原判決中第一審被告敗訴部分を取消す。
3 第一審原告の請求を棄却する。
4 訴訟費用は第一、二審とも第一審原告の負担とする。
事実
第一申立
(昭和五二年(ネ)第八九四号)
一 第一審被告の求めた裁判
主文第二項ないし第四項同旨の判決
二 第一審原告の求めた裁判
1 第一審被告の本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は第一審被告の負担とする。
(昭和五二年(ネ)第九一〇号)
一 第一審原告の求めた裁判
1 原判決を左のとおり変更する。
2 第一審被告は、第一審原告から原判決添付の別紙目録一記載の物件の引渡を受けるのと引換に、第一審原告に対し、日本宝石学協会(東京都文京区湯島四―六―一二湯島ハイタウンB棟一一〇七号)並びに全国宝石学協会(東京都中央区明石町一―二四東京美宝会舘内)の鑑定により天然アレキサンドライトと認められた重量一二ないし一三カラットの宝石一個を引渡せ。
3 訴訟費用は第一、二審とも第一審被告の負担とする。
4 仮執行宣言
二 第一審被告の求めた裁判
1 第一審原告の本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は第一審原告の負担とする。
第二主張
左のとおり付加・訂正するほかは、原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。
1 原判決二枚目表九行目の「の品質」を削り、同裏六行目の「成立したから、」から一〇行目の「発生した。」までを「成立した。しかして、右契約にいわゆる実物大とは、実物大と評価される大きさのことであって、重量一二ないし一三カラットのものがこれにあたり、また、出来る限り良質とは、アレキサンドライトに等級がないところから、権威ある宝石鑑定機関によってアレキサンドライトと鑑定されたものであればこれにあたるというべきである。」に改める。
2 同三枚目裏八行目の「いるが、」を「おり、その区分に従えば、本件宝石はクリソベリルであってアレキサンドライトではないといわざるをえないが、」に改め、同一二行目の「一級品として」の次に「当時としては相当な代価である一一二万円で」を、同四枚目表一行目の「間違えて」の次に「安物を不当に高価に」をそれぞれ加える。
3 同五枚目表一二行目の「後に」の次に「昭和四五年頃から」を加える。
4 同五枚目裏八行目の「ものではない。」の次に「かりに、単なる努力目標を示しただけのものではないとしても、昭和四〇年当時の保証書による代物給付義務、商品取替義務を確認した確認書の程度をこえるものではない。」を加える。
5 同七枚目裏二行目の「原、被告」を「真正で実物大のアレキサンドライトとの交換を要求する原告と、劣悪で小粒なアレキサンドライトとの交換によってできる限り安価に責任を果たそうとする被告との」に改め、同五行目の「べきである」の次に「から、錯誤の主張は許されない。」を加える。
6 同七枚目裏六行目の「右契約」の前に「また、」を、同八行目の「である」の次に「から、そもそも錯誤ということはありえないことである。」をそれぞれ加える。
(第一審原告の主張)
1 アレキサンドライトは昭和の初年頃からわが国にも輸入され、昭和三〇年代に入ってからは、変色性ある宝石として業界でも珍重されるようになったものであるが、物質的には同一であっても変色性のないクリソベリルは、わが国では、宝石の名にも値しないとして全く珍重されなかったものであるから、昭和四〇年当時においても、クリソベリルをアレキサンドライトと称して販売するようなことは決してなく、また絶対に許されないことであった。宝石類の販売業者ならば、勿論そのことを熟知していたはずであって、現に、第一審原告に本件宝石を売りつけた第一審被告の社員も、光を当てて変色するものがアレキサンドライトであることを明瞭に認識しており、そのように変色するアレキサンドライトが非常に珍しいもので、これから値打ちの出るものだといって第一審原告にこれを買取るよう強く勧めたのである。したがって、本件交換契約について第一審被告主張のような錯誤があろうはずはない。かりに錯誤があったとしても、単なる動機の錯誤であって、契約を無効ならしめるような要素の錯誤ではない。
2 宝石業界においては信用が特に重んじられるところから、小売業者が宝石の品質を保証しながら、その保証に反するような商品を販売した場合、どのような経済的負担がかかろうとも、その保証の趣旨を実現する絶対的責任を負うとの商慣習が存在しており、第一審被告も、信用保持のため、そのような絶対的責任を負うことを明らかにする趣旨で本件「詫状」を作成したものであるから、それが錯誤によるものであるなどありえないことであり、また、その責任の上限が本件宝石の代金額によって画されるようなこともあるはずがない。
(第一審被告の主張)
1 かりに本件交換契約が有効に成立したものとしても、右契約上の第一審被告の債務は適法な供託によって消滅したものである。すなわち、第一審被告は昭和五四年一〇月八日、当審での和解期日に、天然アレキサンドライト白金台指輪一個(アレキサンドライト一・四三カラット、飾り用ダイヤモンド合計一・〇七カラット、総重量一〇・一五グラム、昭和五四年一〇月一五日現在の小売価格五二二万円、全国宝石学協会の鑑別書付)外三点を第一審原告に現実に呈示し、そのうちいずれでも第一審原告において選択の上、本件宝石と交換されたい旨申出たが、第一審原告がこれを拒絶したので、そのうち右の一個を選択して同月二六日物品供託の供託所たる京神倉庫株式会社京都支店にこれを供託した。
2 かりに右供託が有効でないとしても、第一審原告の本訴請求は暴利行為もしくは権利の濫用であって許されない。本件紛争は、もともと第一審被告のとった善意かつ公正な態度に端を発したものであり、その解決のためにも第一審被告は誠心誠意努力を重ねてきたものであるが、第一審原告は、第一審被告が昭和四〇年当時の商取引の実情を誤解して本件「詫状」を作成したのに乗じて不当な利益を得ようと考え、金一一二万円で購入した本件宝石のために金二五〇〇万円もの損害賠償を請求したり、また、本訴において、右代金額の数十倍にも及ぶ高価なアレキサンドライト指輪との交換を求めているものであるから、これが暴利行為もしくは権利の濫用であることは明らかというべきである。
(第一審原告の反論)
1 第一審被告がその主張のようなアレキサンドライト指輪を交換のために提供し、第一審原告がそれとの交換を拒絶したことは争わないが、右指輪は、アレキサンドライトの重量の点からいっても、また、その小売価格の点からいっても、とうてい「実物大で出来る限り良質のアレキサンドライト指輪」にあたるということはできず、その提供をもって債務の本旨に従った履行の提供とみることはできないから、第一審原告がこれを拒絶したのは当然のことであり、その供託は無効というべきである。
2 第一審原告は、第一審被告の社員の言により、本件宝石が値打ちの出る珍しい宝石であると信じて投機の目的で購入したものであるから、その後、一〇年以上を経過して、それが一〇倍・二〇倍にも値上りしたものとして第一審被告にその価額の賠償を要求したからといって、それを不当といわれる筋合はなく、また、その他に、第一審原告の本訴請求が暴利行為もしくは権利の濫用にあたると認めるべき事情はなんら存在しない。
第三証拠《省略》
理由
一 第一審原告主張の請求原因(一)及び(二)の事実については当事者間に争いのないところ、第一審原告は、第一審原被告間に同請求原因(三)のごとき交換契約が成立したと主張し、第一審被告は、右は単に努力目標を明確にしただけのものであって交換契約とはいえないと争うので、まずこの点について検討する。
《証拠省略》によれば、昭和四八年九月一八日付で、第一審原告宛に「昭和四〇年一二月三〇日付にて弊店貴金属部宝石売場よりアレキサンドライト指輪金一一二万円也をお買上げ賜わりましたが、弊店の鑑定不充分のためクリソベリル指輪を販売いたし、多大のご迷惑をおかけいたしました。この件につきましては、弊店として、アレキサンドライト指輪の実物大で出来得る限り良質の品をお捜しし、お取替えさせていただくことをお約束いたしますと共に、深くお詫び申しあげます。」なる本文を記載した「御詫状」と題する書面が第一審被告会社大阪店常務取締役・店長・伊藤暹によって作成され、同日第一審原告に交付されたことが認められるとともに、《証拠省略》によれば、右「御詫状」が作成交付されるにいたった経緯及びその前後の事情として、次の事実が認められる。
1 第一審原告は製材業を営むものであり、第一審被告は大阪心斎橋筋その他数か所に店舗を有して百貨店業を営む著名な会社であるが、第一審原告は昭和四〇年頃より、趣味と利殖の目的で第一審被告大阪店から出張販売の方法によって宝石や絵画などを購入するようになった。
2 昭和四〇年一二月一三日頃、第一審被告大阪店の外商部の担当社員一名と宝石商である訴外株式会社笹屋からの出向社員・伊藤収の両名が、同訴外会社から販売の委託を受けて預っていた本件宝石を持参して第一審原告方を訪れ、アレキサンドライトは人工光を当てると変色する珍しい宝石で、値打ちの出る品物であるから、利殖の目的にも適しているなどといってこれを購入するよう勧めたので、第一審原告も買う気になり、代金一三八万円のところ一一二万円に値引きさせてこれを買取ったが、その際、右担当社員から第一審原告に対し、「金一一二万円、品名・白金台アレキサンドライト指輪、品質・一級品、右の品相違ないことを保証します」と記載した大阪心斎橋・大丸貴金属売場作成の保証書を交付した。
3 その後七年余を経過した同四八年七月中旬頃、前同様、第一審被告大阪店の外商部の担当社員ほか二名の者が第一審原告方を訪問し、キャッツアイ指輪及びエメラルド指輪の購入を勧めた際、同原告から本件宝石を下取りしてほしいとの申出があったので、下取価格査定のためこれを預って持ち帰ったが、査定価格に不満をもった第一審原告との間で折り合いがつかず、結局、一旦はこれを第一審原告に返却することとなった。ところが、下取価格査定のために持ち帰った本件宝石について、第一審被告大阪店の貴金属・宝石売場の担当者の間で不審の念を持つ者があり、保証書にはアレキサンドライト指輪と記載されているけれども、現物はクリソベリルではないかとの疑問が生じてきたことから、もしもそうであれば、価値の低いクリソベリルを高価なアレキサンドライトと間違えて販売したことになり、会社の信用上由々しい事態になることを憂慮した。そこで第一審被告会社では、早速貴金属売場と外商部の責任者に第一審原告方へ赴かせ、事情を説明して、一旦返却した本件宝石を鑑別依頼のためいま一度預らせて欲しい旨懇請させたところ、第一審原告もこれを承諾したので、再びこれを預って持ち帰らせ、ただちに権威ある鑑別機関である全国宝石学協会にその鑑別を依頼した。その結果、本件宝石は、「形状・ミックスト・カット、総重量・七・六一グラム、サイズ・一四・七七×一二・一九×九・五八ミリメートル、の緑色透明石」で、「硬度・八・五、屈折率・一・七五~一・七六、偏光性・複屈折性、多色性・三色性強、螢光性・(長波短波)変化なし、分光特性・アイアン吸収バンドを認む、拡大検査・二相インクルージョン、その他の検査・フィルターにて微赤色」であり、したがって、鑑別結果は「天然グリーンクリソベリルと認める。」と記載した鑑別書が送付されてきて、本件宝石がアレキサンドライトではなく、クリソベリルであることが明らかとなった。
4 ところで、クリソベリルは金緑石の原名であって、ベリリウムと酸化アルミニウムの化合物であり、二つのギリシャ語クリソス(金)とベリロス(緑柱石)とに由来するものであるが、それ自体としては、通例宝石としてさしたる価値を有するものではない。ところが、クリソベリルのなかに、稀に、日光の下では暗オリーブ緑色でありながら、人工光(ただし、螢光灯の光は除く)を当てると赤紫、ときにはルビー紅色に変色するものがあり、それがきわめて珍しいものであるところから、人工光によって変色しない普通のクリソベリルと区別して、これをアレキサンドライトと名付け(帝政ロシアの皇帝アレキサンドル二世の誕生日に初めてロシヤにおいて発見されたのでそのように命名されたといわれている)、高価な宝石として一般に珍重しているのが現状である。したがって、クリソベリルとアレキサンドライトとは、物質的には全く同一であるが、宝石としては別異のものとみられ、その価値においても格段の差が存在する。
5 そのようなところから、第一審被告においては、みずからの鑑別ミスによって価値の低いクリソベリルを高価なアレキサンドライトとして第一審原告に売り渡したものと判断し、ただちに伊藤貴金属部長と小倉外商第八部長とを第一審原告方に赴かせて事情を説明の上謝罪させるとともに、店から持参した時価三〇〇万円ないし四〇〇万円相当の真正なアレキサンドライト指輪と交換させて欲しい旨依頼させたが、第一審原告は、買受後すでに八年も経過し、その間に地価なども約一〇倍に騰貴しているのであるから、わずか三〇〇万ないし四〇〇万円程度のアレキサンドライト指輪と交換するわけにはいかないといってこれを拒否した。そこで第一審被告は、できる限り第一審原告の意に沿うように取り計らうよりほかないと考え、同四八年九月中頃、一五カラットを超える小売価格一一〇〇万円程度のアレキサンドライト指輪を手配して再び第一審原告方に持参して交換方を願い出たが、これも品質が気に入らないといって断られてしまった。
6 そのため、第一審被告の方では困り果て、アレキサンドライトは品数が少く、特に一〇カラット以上のものは入手がきわめて困難であるので、時価一〇〇〇万円程度の他の種類の宝石との交換を考慮してほしいと懇願するようになったが、第一審原告はこれにも応ぜず、却って、「昭和四〇年一二月 日私共の勉強不足により偽の宝石アレキサンドライトを売りました つきましては同宝石の本物実物大最高級品と交換させて頂くことを約束すると共に深くお詫び申上げます」と記載した「謝罪状」の原稿を示してこれと同趣旨の書面を第一審被告会社の社長名義で作成して差入れるよう求めるにいたった。
7 このような要求を受けるにいたった第一審被告会社では、信用を重んじる百貨店の貴金属売場がみずからの鑑別ミスによってこのような事態を招いた以上、その責任をとって第一審原告のいうように謝罪状を書き事態を収拾するよりほかはないと考え、大阪店長代理名義で「御詫状」を作成して第一審原告に交付しようとしたが、店長代理名義のものでは受領できないと断られたので、再度大阪店長名義で、前記原稿の字句を若干修正しただけの「御詫状」を作成し、同年九月一八日これを第一審原告に差入れた。この書面が前認定の「御詫状」と題する書面にほかならない。
8 その後、第一審被告会社では八方手を尽して一〇カラット以上のアレキサンドライトの入手に努力し、同四八年一二月から翌四九年三月頃までの間に、二、三回、小売価格一〇〇〇万円ないし一二〇〇万円相当のアレキサンドライト指輪を入手した都度第一審原告方へ持参して本件宝石との交換方を懇請したが、いずれも気に入らないといって断られ、いくら時間をかけてもよいから「御詫状」どおり良質のアレキサンドライトを持参するよう求められた。ところが、同四九年五月頃になって、第一審原告から第一審被告に対し、現物の交換ではいつまで時間がかかるか分らないので金銭で解決したい、本件宝石を二五〇〇万円で買取ってもらいたいとの申入れがなされるにいたったので、第一審被告会社においても、あまりに理不尽な要求であるとして、以後の交渉は一切弁護士に任せることとなった。
以上認定の事実からすれば、第一審原告主張のように、第一審原告と第一審被告との間に昭和四八年九月一八日、第一審被告において第一審原告所有の本件宝石を「実物大の出来る限り良質のアレキサンドライト指輪」と交換する旨の契約(以下、本件契約という)が成立したものであり、かつ、右契約は、単に第一審被告の尽くすべき努力の目標を定めただけのものではなく、同被告に約定どおりの交換をなすべき債務を負担せしめる趣旨の合意であったと認めるのが相当といわなければならない。
二 ところで、第一審被告は、本件契約は要素の錯誤によって無効であると主張するので、次にこの点について検討する。
第一審被告が、信用を重んじる百貨店の貴金属売場がみずからの鑑別ミスによって前記のごとき事態を招来した以上、その責任をとって第一審原告のいうような詫状を書き、それによって事態を収拾するよりほかはないと考えて本件契約を締結したものであることは前認定のとおりであるが、《証拠省略》によれば、次の事実が認められるのである。
1 クリソベリル(金緑石)がベリリウムと酸化アルミニウムとの化合物で、それ自体としてはあまり価値のある宝石ではないが、そのうち人工光を当てると赤く変色するものが稀にあり、それが、変色しない普通のクリソベリルと区別してアレキサンドライトと名付けられ、高価な宝石として珍重されていることは前認定のとおりであり、かつ、このことは、宝石に関して高度の学識経験を有する者の間では、昭和二〇年代から知られていたことで、そのことを記述した著書も公刊されていた。
2 ところが、アレキサンドライトがきわめて数少い宝石で、取引事例も少く、どの宝石店の店頭にでも並べられているといったものではなかったため、宝石類の取引業界でもこの宝石についてはあまり知られておらず、昭和三八年頃に宝石類の輸入が自由化された頃から本件宝石の売買が行われた同四〇年頃にかけての時期においては、輸入先であるセイロン・ホンコンから送られてくる宝石の荷送状にアレキサンドライトの品名が表示されているものはすべて、変色性の程度いかんにかかわらず、これをアレキサンドライトとして取引し、小売店の店頭でもそのままの品名で販売するというのが実情であり、ただ、人工光によって変色する度合に応じてその価格が決定され、あざやかに変色するものほど高価に取引されたが、ほとんど変色しないようなものでも、変色しないアレキサンドライトと呼ばれて取引され、これをクリソベリルと呼んで取引されることはほとんどなかった。
3 そのような実情であったところから、昭和四〇年一二月に第一審原告に本件宝石を売り渡した第一審被告の担当者も、クリソベリルのことはよく知らず、本件宝石もアレキサンドライトと呼ばれている宝石に相違ないものと考えて売渡し、保証書にもその旨記載したものであるが、ただ価格の点については、ほとんど変色しないものであったため、当時の時価としては相当な額である金一三八万円という比較的低廉な額とし、最終的にはこれよりさらに値引して一一二万円で売渡したものである。なお、右保証書において本件宝石の品質が「一級品」と表示されていたことは前認定のとおりであるが、一般に宝石については等級をつけないで取引するのが通例であって、アレキサンドライトについても、一級品・二級品等の区別は存在しない。右の「一級品」の表示がどのような趣旨でなされたものであるかは明らかでない。しかし、本件宝石の昭和四〇年一二月当時における客観的取引価格(百貨店の店頭での小売価格)は一三〇万ないし一六〇万円程度であって、同程度の重量・形状のアレキサンドライトで変色性の著しいもの(人工光によって真赤に変わるもの)であれば、当時の価格は一〇〇〇万ないし一五〇〇万円であったと推定される。
4 ところがその後、昭和四二年頃から、宝石専門の鑑別機関が権威のある鑑別を行うようになったため、漸次アレキサンドライトとクリソベリルの区別が厳格につけられるようになり、昭和四八年頃には、よほど変色性の強いものでない限りアレキサンドライトとは認められず、その他はすべてクリソベリルとして鑑別されるにいたっており、宝石取引業界でもそれが通念となっていた。
以上の事実が認められるのであって、当審証人桶谷義一郎の証言中右認定に反する部分は、前記採用の各証拠関係並びに同証人の経歴・経験等に照らしてにわかに採用しがたく、原審及び当審での第一審原告本人尋問の結果中右認定に反する部分も、確たる根拠を欠くものであってただちに措信することができず、他にこれを覆えすに足りる証拠はない。
右認定の事実関係からすれば、第一審被告としては、昭和四〇年一二月当時取引上一般にアレキサンドライトと呼称されていた宝石をアレキサンドライトとして第一審原告に売渡し、それが右のアレキサンドライト指輪であることを保証しただけのことであり、また、一三〇万円ないし一六〇万円程度の客観的価値(小売価格)ある商品を一一二万円の対価で売却したものとみるのが相当であるから、売買の目的物である本件宝石にはなんら瑕疵は存在せず、保証された性質が欠如していたものでもなく、給付と反対給付との間にもなんらの不権衡もなかったといわなければならない。そうすると、右認定のような経緯で、昭和四八年当時においては、宝石の取引業界でも一般にクリソベリルとアレキサンドライトの区別が厳格につけられ、その区別に従う限り本件宝石はアレキサンドライトではなくクリソベリルと呼ばなければならなくなっていたとしても、それはただ宝石の取引上の呼称が変っただけのことであって、第一審被告としては、売買の目的物に存する隠れた瑕疵に基づく担保責任を負担すべき筋合はなく、第一審原告に対して代物を給付したり、損害を賠償したりする責任は少しもなかったものといわざるをえないのである。しかるに第一審被告が、昭和四〇年当時の宝石業界の取引の実情が右認定のとおりであったことを知らずに、自己に鑑別ミスがあったものと速断し、そうである以上その責任をとるよりほかないと考えて本件契約を締結したものであることは前記のとおりであって、もし、第一審被告が右当時の取引の実情を正確に知り、同被告になんら右のごとき責任のないことを十分認識していたならば、本件契約を締結するようなことはなかったはずであるといわなければならない。しかも、前認定の事実関係からすれば、第一審被告が自己の鑑別ミスによる責任をとるために本件契約を締結するものであることは、第一審原告においても十分承知していたものと認められるから、第一審被告の右の点の錯誤は、単なる動機の錯誤というにとどまらず、表示された契約の重要な前提事実に関する錯誤として、要素の錯誤にあたるものと認めるのが相当である。
三 第一審原告は、第一審被告の右錯誤については重大な過失があると主張するので、さらに進んでこの点について考えるに、第一審被告が百貨店業を営むものとして、宝石類の売買取引についても専門的知識と経験を有する業者であることは明らかであるから、昭和四〇年当時のアレキサンドライトの取引の実情についても、容易に知りうる立場にあったものと一応はいわざるをえないようであるけれども、前認定のとおり、アレキサンドライトはきわめて数少い宝石であって、その取引事例もわずかであったこと、アレキサンドライトとクリソベリルとの命名を厳格に区別するようになったのは昭和四二年頃からのことであって、本件宝石の売買の時期とかなり近接しており、しかも、特定の時期を境としてではなく、漸次に呼称が変ってきたこと、本件宝石を第一審原告に売渡してから本件契約締結のときまでにすでに八年近くが経過していたこと、右のような実情及びその後の呼称の変化の過程についてこれを明らかにする的確で入手容易な資料がただちに見つからなかったこと(この点は、《証拠省略》によって認められる)などの諸点からすれば、第一審被告が鑑別ミスをしたものと速断し、その責任を負わなければならないと誤信したことについて重大な過失があったものと認めることは困難であり、また、そのように解したからといって、第一審原告に不測の不利益をこうむらせることになるものでもないから、第一審原告の前記主張はこれを採用することができない。
四 さらに第一審原告は、本件契約は和解の性質を有するものであるから錯誤を主張することはできないと主張するけれども、前認定の事実関係から明らかなとおり、本件契約は、実質的には、売買の目的物である本件宝石に瑕疵があったことを前提として、それによる第一審被告の責任をそのまま確認する趣旨のものであって、当事者が互に譲歩してその間に存する争を止めることを約したものではないから、これをもって和解もしくはそれに類する性質を有するものとみることはできない。したがって、第一審原告の右の主張もまた、採用の限りではない。
五 以上の次第で、本件契約はその要素に錯誤があって無効であり、その履行を求める第一審原告の本訴請求はその他の点について判断するまでもなく失当であって、原判決中これを一部棄却した部分は相当であるが一部認容した部分は不当である。よって、第一審原告の本件控訴を棄却し、第一審被告の控訴に基づいて原判決中第一審被告敗訴の部分を取消し、第一審原告の請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 唐松寛 裁判官 藤原弘道 平手勇治)