大阪高等裁判所 昭和53年(う)1334号 判決 1982年7月30日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一年六月に処する。
この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。本件公訴事実中強盗殺人、死体遺棄並びに大阪産業信用金庫(五件)及び関西青果株式会社(九件)に対する各詐欺の点については、被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人佐々木哲蔵及び同内藤徹連名作成の控訴趣意書並びに被告人作成の控訴趣意書三通に、これに対する答弁は、大阪高等検察庁検察官検事松本勝馨作成の答弁書にそれぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。
第一 原判示第一の一、二の強盗殺人及び死体遺棄に関する事実誤認の主張について
各論旨は、原判決は、被告人が昭和四〇年八月三日午後八時三〇分ころ六甲山中のドライブウエイを走行中の自動車内で堀川允子を絞殺して、同女に対する三〇万円の債務の支払を免れ、その直後氏名不詳者と共謀のうえ、同女の死体を同山中大月地獄谷に遺棄した旨認定したが、被告人と右犯行とを結びつける証拠は被告人の自白調書だけであるところ、昭和四〇年一一月一一日付供述調書は、(一)違法な別件逮捕勾留中に、(二)被告人の弁護人選任権を侵害し、(三)連日長時間にわたる正座を強要して得られた任意性のない自白であつて、右供述調書には証拠能力がなく、そして強盗殺人及び死体遺棄を被疑事実とする逮捕勾留は右供述調書に基づいているから違法であつて、その期間中に作成された強盗殺人及び死体遺棄に関する被告人の自白調書も証拠能力がないというべきであり、かりにこれがあるとしても、(一)允子の死体が自白に基づいて発見されたか疑わしいこと、(二)犯行日とされている日の翌朝允子がひとりの男と一緒に清和園アパートを出るのを見たという同アパート管理人小森ヒサエの信頼すべき供述が存すること、(三)被告人の自白どおりの時間関係では本件犯行は不可能であること、(四)本件現場付近は本件犯行に及ぶには不適当かつ困難な場所であること、(五)共犯者は架空であること、(六)殺害の動機がないことなどに照らし、自白調書は信用できず、他に被告人が犯人であるとする証拠はないから、原判決には事実の誤認があるというので、所論にかんがみ記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して、以下のとおり判断する。
一 自白調書の証拠能力について
1 別件逮捕勾留について
所論は、允子の失踪事件を捜査していた警察は被告人に疑惑を抱いたが、犯人とするに足る証拠がなかつたところから、被告人の自白を得る目的で、詐欺にならないか、なるとしても軽微な事犯にすぎない大福信用金庫及び尼崎信用金庫に対する各詐欺の容疑で被告人を逮捕勾留(第一次逮捕勾留)し、右各詐欺とは関連のない允子の失踪につき強制捜査として取り調べた結果、本件強盗殺人及び死体遺棄に関する自白を得て昭和四〇年一一月一一日付供述調書を作成し、これを資料にして強盗殺人、死体遺棄を被疑事実とする逮捕状、勾留状の発付を受けて逮捕勾留(第二次逮捕勾留)し、その期間中に数通の自白調書を作成し、検察官調書も同時に作成されたものであり、第一次逮捕勾留は違法な別件逮捕勾留であるので、昭和四〇年一一月一一日付供述調書は証拠能力がなく、また第二次逮捕勾留は証拠能力のない右調書に基づくもので違法であるから、その期間中に作成された自白調書も証拠能力がないという。
この点につき差戻前の第一審判決は大略次のような経緯を認定した。すなわち、允子は昭和四〇年八月三日午後五時三〇分ころ勤務先の堺市立五箇荘保育所を退出したまま当番日の翌四日は出勤せず、行方不明となつていたところ、大阪府警察本部捜査一課三班は同年九月九日住吉署内に捜査本部を設け、允子の実兄平野安順らから事情聴取をするなどした結果被告人に疑いを抱き、尾行や身辺捜査をしたものの手がかりを得られなかつたが、一〇月初めころ被告人が大福信用金庫、尼崎信用金庫等から金員を受け取つている事実を探知し、これを詐欺罪として逮捕勾留のうえ允子の失踪事件につき併せて取り調べようと考え、一〇月二九日大福信用金庫及び尼崎信用金庫に対する各詐欺の事実につき逮捕状の発付を受けて一一月一日被告人を逮捕し、翌二日勾留状を得て住吉署留置場に勾留した。一一月一日から同月六日までは専ら右詐欺の事実について被告人を取り調べ、翌七日以降ポリグラフ検査を実施するなどして允子に対する殺害容疑につき被告人を厳しく追及し、一〇日夕刻被告人が允子の悪口を言つたため、正面の壁に允子の写真を貼り付けて問い詰めたところ、被告人はにわかに悄然となり、同日午後六時ころから犯行の一部を自供しはじめ、午後一一時ころまでの間に、允子を六甲山に誘い出して絞殺し死体を付近の山中に捨てた旨自白し、その際犯行場所を図示する略図(第一略図)を作成して提出した。捜査本部は翌一一日に前日の自白を内容とする調書を作成し、同日強盗殺人及び死体遺棄を被疑事実とする逮捕状の発付を受けて一五日に再逮捕し、一七日に勾留状により勾留してその後一二月六日まで勾留延長し、右の第二次逮捕勾留期間中に強盗殺人及び死体遺棄の取調べを続行して、これに関する被告人の司法警察員調書六通を作成し、検察官調書一通も得た。第一次逮捕勾留の基礎事実となつた詐欺については、一一月七日以降被害者側の取調べが引き続きなされたほか、一〇日検察庁で被告人の取調べが行われて一一日に起訴され、また強盗殺人、死体遺棄については一二月六日起訴された。
差戻前の第一審判決は、右のような事実関係のもとに、第一次逮捕勾留中に作成された強盗殺人及び死体遺棄に関する被告人の昭和四〇年一一月一一日付司法警察員調書は、第一次逮捕勾留の基礎事実を基準とする他事実の取調許容限度を超え、被告人を取り調べて得た自供を内容とするもので著しく令状主義に違反するとし、これをひとつの事由にしてその証拠能力を否定するとともに、同調書はすべての司法審査の資料になり得ないから、これを資料にした第二次逮捕勾留は不法拘禁に当たり、第二次逮捕勾留中に作成された被告人の強盗殺人及び死体遺棄に関する司法警察員・検察官調書も証拠能力がないと判断した。しかし、これに対する控訴審判決は、逮捕勾留の経緯については差戻前の第一審判決と同様の事実関係を前提にし、捜査当局において詐欺による逮捕勾留を利用して允子失踪事件について被告人を取り調べる意図のあつたことは否定し難いとしながら、第一次逮捕勾留の理由及び必要性の存続中に詐欺の捜査と並行して允子失踪事件につき被告人を取り調べて自白を得たのであるから、捜査当局の右意図及び捜査の過程が令状主義を潜脱した違法なものということはできないとの見解を示し、右に反する第一審判決の判断は誤りであるとし、これを破棄理由のひとつに挙げている。第一次控訴審からの差戻後に、逮捕勾留の経緯について従前と異なる事実を認めるべき新たな資料は見当たらない(当裁判所は、追起訴にかかる詐欺のうち大阪産業信用金庫及び関西青果株式会社に対する分については後記のとおり犯罪の証明がないと判断するが、右は第一次逮捕勾留の基礎事実になつていない。)から、差戻後の第一審である原裁判所はもとより当裁判所も第一次控訴審がした破棄判決の右否定的判断に拘束されるといわねばならない。原判決は、適法な逮捕勾留中にその基礎となつた被疑事実以外の事実について被疑者を取り調べることが許容されるのは、その事実が逮捕勾留の基礎事実と密接な関係があり、前者の取調べが後者の取調べとしても重要な意味を持ち、後者の取調べに付随しこれと併行して行う場合に限られるとの見解を新たに示したうえで、本件においては第一次逮捕勾留は適法であり、かつその基礎事実となつた詐欺と允子失踪事件とは密接な関係があり、後者の取調べは前者の詐欺事件についての被告人の犯罪計画、犯罪意図ないしは騙取金員の使途などを確定するうえで重要な意味をもつているから、自白が令状主義を潜脱する違法な取調べによつて取得されたとはいえない旨判断しているところ、本件全証拠によつても、第一次逮捕勾留の基礎となつた詐欺と允子失踪事件との間に右のような関係があるとは認め難く、したがつて原判決の右の判断には左袒することができないが、その結論は正当である。
2 正座の強要について
所論は、捜査本部は允子失踪事件の取調べに着手した昭和四〇年一一月七日から連日長時間にわたり被告人に正座を強要しており、その過程で得た自白を内容とする同月一一日付供述調書は任意性がなく、これに基づく第二次逮捕勾留中に作成された自白調査も証拠能力がないという。
この点につき差戻前の第一審判決は、捜査本部の帰山次夫主任らが住吉署二階の畳敷の幹部宿直室に毛布を一枚敷き、ここで被告人の取調べを行つて正座を強要したこともあり、取調べは不当であつたと認定し、これをひとつの事由にして第一次及び第二次逮捕勾留中に作成された強盗殺人及び死体遺棄に関する自白調書の証拠能力を否定したが、これに対する控訴審判決は、被告人は取調べの際正座を命じられたことはあるけれども、三〇分ないし一時間位、すなわち自己にとつて苦痛を感じない限度でのみこれに応じ、正座をくずしても取調官から暴力を用いて正座の続行を強制されたことはなかつたもので、右程度の正座の要求が直ちに供述の任意性に疑いを容れる程度の拷問と解するのは相当でなく、その他取調時間や取調方法につき任意性を疑わしめるような事実は見当たらないと判断し、右に反する第一審判決の判断は誤りであるとし、これを破棄理由のひとつに挙げていると解される。差戻後に、正座の強要に関し従前と異なる事実を認めるべき新たな資料は見当たらないから、原裁判所はもとより当裁判所も第一次控訴審判決の右否定的判断に拘束されるというべきであり、第一次控訴審の認定事実と同様の事実を前提にして正座の要求が直ちに供述の任意性に疑いをさしはさむ程度の拷問に当たるとはいえないとした原判決の判断は正当である。
3 弁護人選任権の侵害について
所論は、被告人が昭和四〇年一一月七日ポリグラフ検査を受ける前に「佐々木哲蔵を呼べ。」と言つて弁護人の選任を申し出、その後も数回同旨の発言をしたのに対し、捜査当局は「佐々木哲蔵」が弁護士であることを知りながら、同弁護士にその旨を通知しておらず、右は被告人の弁護人選任権を侵害するものであるから、第一次及び第二次逮捕勾留中に作成された被告人の自白調書は証拠能力がないという。
この点に関し差戻前の第一審判決は、被告人が昭和四〇年一一月七日佐々木哲蔵弁護士を弁護人として選任したい旨申し出たのに、捜査当局はその趣旨を十分理解しながら同弁護士あるいは所属弁護士会に何らの通知をしなかつたので、被告人の弁護人選任権を侵害したと判断し、これをひとつの理由にして第一次及び第二次逮捕勾留中に作成された強盗殺人、死体遺棄に関する被告人の自白調書の証拠能力を否定した。しかし、これに対する控訴審判決は、被告人が一一月七日に「佐々木哲蔵を呼べ。」と発言した事実を認定する一方、右発言が弁護人選任の申し出かどうかにわかに断じ難く、捜査当局において被告人の右発言に基づきその意向を被告人の内妻、実母、実兄、従兄に連絡したというのであるから、これらの者がどのような処置をとり、その結果被告人が如何に対処したかという事情が判断の重要な要素となるところ、この点につき審理を尽くすことなく直ちに弁護人選任権の侵害があつたと判断した第一審判決には審理不尽の違法があるとした。
差戻前の第一審及び原審における帰山次夫、小林史朗及び柴田昇の各証言によると、被告人は昭和四〇年一一月一日詐欺の容疑で逮捕されて同月六日まで同事実の取調べを受け、七日ポリグラフ検査終了後、帰山刑事らから允子失踪事件につき追及された際、「堀川のことを聞くんだつたら、佐々木哲蔵を呼べ。」などと発言し、この事実を帰山刑事が班長の小林警部に伝えたが、捜査当局において佐々木哲蔵弁護士や所属弁護士会に通知しなかつたことが認められる。もつとも、差戻前の第一審における帰山及び小林証言によると、第一次控訴審判決が指摘するように、帰山刑事から被告人の右発言内容を聞いた小林警部は、即日部下を通じて被告人の内妻米田美智子や実兄、従兄に連絡したというのであるが、同警部は原審において右の証言部分を訂正し、内妻等に弁護人選任の件で連絡したのは一一月二日ころであり、七日には被告人の前示発言を弁護人選任の申し出とは考えず、特段の措置をとらなかつた旨証言している。この点米田美智子は、原審において、被告人が逮捕されて四、五日ないし一週間位経つたころ警察から弁護人を選任してほしい旨連絡を受けたと証言するけれども、一方落合敏則の原審証言によれば、落合刑事は小林警部の指示で美智子に弁護人選任の意向をたずねて関与したくないとの回答を得、また数回被告人の手紙を同女に渡して返信を受け取つたというのであり、同女の昭和四〇年一一月二日付司法警察員調書には「弁護士のことなど一切関係したくありません。」と明記され、同女の被告人あて一一月四日付手紙にも同趣旨の記載があるところからみると、原審における小林証言のとおり、内妻等に弁護人選任の件で連絡したのは一一月二日ころであつて、一一月七日にはそのような連絡をしていないと認めるのが相当である。右のとおり捜査当局が弁護人選任に関し内妻等に連絡した経緯については、第一次控訴審判決と異ならざるを得ない。
そこで、被告人の前示発言の真意について検討すると、差戻前の第一審及び原審における帰山次夫の証言、原審における米田美智子、落合敏則の各証言、被告人の司法警察員及び検察官に対する各弁解録取書、勾留質問調書二通、米田美智子作成の手紙二通、被告人作成の手紙二通(当庁昭和五三年押第六一五号の六五、六六)、取調日誌(同号の六七)、捜査手控(同号の六八)、差戻前の第一審第一回ないし第三回公判調書、記録中の弁護人選任関係書類によれば、次の事実が認められる。すなわち、被告人は昭和四〇年一一月一日自宅において詐欺容疑で逮捕された際、美智子に対し、宇佐美弁護士を弁護人に選任し、その費用は家財を売却するなどして捻出するように指示したが、翌日落合刑事が美智子に弁護人選任の意向を尋ねたところ、関与したくない旨の返事を得、同日ころ実兄荒木隆治方へ赴いた三好刑事らも隆治の同様の態度に接した。また、被告人は美智子に手紙で弁護人の選任を依頼したが、同女は一一月四日付の返信でこれを断り、六日付の手紙において被告人には一片の未練も同情もない旨書き記し、これらはそのころ被告人に届けられた。一方、一一月一日の司法警察員による弁解録取時、二日の検察官による弁解録取時、同日の勾留質問時にそれぞれ弁護人選任権につき告げられた際には、被告人は「弁護人についてはよくわかりました。」「弁護人を依頼できることはわかりました。」などと述べるにとどまり、特定の弁護人を選任する旨の申し出をせず、七日に前示のとおり「佐々木哲蔵を呼べ。」などと発言したが、佐々木哲蔵弁護士とは特段の面識がなく、翌八日「堀川のことであれば弁護士を入れなければ話さない。」「裁判官にでなければいわない。」などと言つたけれども、このときは佐々木弁護士の名前を出したものではなかつた。強盗殺人及び死体遺棄につき自白後、一一月一五日に同事実により逮捕された際の弁解録取時、同月一七日の検察官による弁解録取時及び同日の勾留質問時には、いずれも特定の弁護人を選任する旨申し出ておらず、かえつて一一月一五日に警察官に対し「弁護士は国からつけていただきたいと思います。」と依頼し、第一次逮捕勾留の基礎となつた詐欺につき起訴後弁護人選任の照会に対して、一一月一三日付で貧困のため弁護人を選任できないから国選弁護人を請求する旨回答し、強盗殺人及び死体遺棄につき起訴後同旨の照会に対しては、一二月九日付で弁護人を選任しないし、国選弁護人も講求しない旨回答し、昭和四一年一月一二日付の手紙で美智子に対し「弁護士さんも成る可く私の方で頼みたいのですが結局お金ですからね、大至急頼みます。」と送金を頼んだが応しられないまま、さらに詐欺につき追起訴後の弁護人選任の照会に対して、同月二一日付で再び貧困のため弁護人を選任できないから国選弁護人を請求する旨回答した。これを受けて同月二七日宮崎秀夫弁護士が国選弁護人に選任され、同弁護人出席のもとに、同年二月二日第一回公判が開かれた。そしてその翌日の同月三日に知人の紹介で佐々木哲蔵弁護士と面談したが弁護人選任手続がとられることなくそのままであつたため、同月二一日に宮崎弁護人出席のもとに第二回公判が開かれたが、同弁護人病気のため同月二四日解任され、同年三月三日得律正熈弁護士が国選弁護人となつて同年四月一三日第三回公判が開かれたものの、辞任届に基づき同弁護人も同年五月六日解任され、そして同月二七日に至つて佐々木哲蔵弁護士の弁護人選任届が提出された。
以上の事実に徴すると、被告人は第一次逮捕勾留の当初は宇佐美弁護士を弁護人に選任するつもりであつたが、自からは資力がなく美智子や実兄の援助も得られなかつたので、その後差戻前の第一審第一回公判期日である昭和四一年二月二日ころまでは私選弁護人を選任することを断念しており、前示の「佐々木哲蔵を呼べ。」との発言は、取調べが允子失踪事件に及んだため、その追及を避け取調べを回避する意図のもとに、咄嗟に著名な弁護士の名前を口走つたものであつて、弁護人選任の申し出ではないと認めるのが相当である。
被告人は、昭和四〇年一一月七日ポリグラフ検査前に数時間にわたつてこれを拒否する際、しきりに佐々木弁護士を呼んでくれと言つて押問答し、それ以後も自白当日まで同様の要求を繰り返したというが、警察技術吏員大西一雄ほか一名作成の昭和四〇年一一月三〇日付鑑定書、司法巡査栢木義一ほか二名作成の昭和四一年三月二日付捜査復命書、前示捜査手控によれば、被告人は昭和四〇年一一月七日午前九時四五分出房し、午前一〇時八分ころにはポリグラフ検査を受けるに至つている事実が認められるのであり、被告人のいうような長時間の応酬がなかつたことは明らかであり、その余の点も前掲各証拠に照らし措信できない。また、帰山刑事の差戻前の第一審における証言中には、被告人の前示発言を弁護人選任の申し出と理解した旨の部分があるけれども、同刑事は原審においてこれと異なる証言をしているばかりでなく、被告人の真意は帰山刑事がどのように理解したかとは直接関係がないところであり、前示認定を左右するものではない。
そうすると、捜査当局において被告人の弁護人選任権を侵害した事実はないと認定した原判決は正当である。
4 結論
以上のとおり、強盗殺人及び死体遺棄に関する被告人の自白は、所論のような違法不当な捜査によつて得られたものではないから、第一次及び第二次逮捕勾留中に作成された右に関する自白調書にはいずれも証拠能力があり、これと同趣旨の原判決は正当である。
二 自白調書の信用性について
(一) まず、被告人の自白調書の信用性を裏付ける事実について検討を加える。
1 死体は自白に基づいて発見されたか
所論は、原判決は被告人が昭和四〇年一一月一〇日に自白した際書いた第一略図に基づいて死体が発見されたとするが、第一略図は現存せず、その紛失ないし滅失の経緯が不可解かつ不分明であるうえ、内容も不明確であること、一一月七日にハイカーが允子のハンドバッグ等を死体遺棄現場付近で発見し、これを最寄りの交番に届け出ているので、捜査本部においては第一略図作成前に右現場を知り得る状況にあつたことからみて、取調官が被告人の自白以前から死体の遺棄場所を知りながら、被告人を無理に誘導して第一略図を書かせた疑いがあるという。
差戻前の第一審判決は、捜査本部において允子の死体を被告人の自白に基づかずそれ以前に発見していた疑いがあると判断したが、これに対する控訴審判決は、被告人の自白と第一略図が不当な取調べによつて得られたのでないとすれば、第一審の判断は行き過ぎであると判断した。第一略図を含め被告人の自白が不当な取調べにより得られたのでないことは前示のとおりであり、所論にかんがみ允子の死体が被告人の自白に基づいて発見されたかどうかについて検討を進める。
第一略図が現存しないことは所論指摘のとおりであるが、被告人は昭和四二年七月一六日付上申書とともに吉益裁判長に宛てた手紙において、昭和四〇年一一月一〇日の自供直後に書き示した図面どおりのものであるとしてこれを図示しており、それによると、六甲山ケーブル終点駅から山頂に向かつて道路が蛇行し、途中の道路左側にある茶店付近から右方に分かれる道があつて、その道を入つたあたりが死体を捨てた場所であるというのである。被告人は、法廷においては、右の図面は第一略図と同じものではなく、しかも第一略図では茶店など具体的な表示はしなかつたなどと供述するが、右手紙中の文言に徴し措信できるものではなく、かえつて差戻前の第一審及び原審における帰山次夫、小林史朗、片岡義盛の各証言、差戻前の第一審における三好咲一、落合敏則、山崎久夫の各証言、司法警察員落合敏則ほか二名作成の「被疑者米田文穂こと荒木弥一郎の自供による堀川允子の死体発見報告書」、前示取調日誌中帰山刑事が一一月一〇日に書きとめたと認められる供述調書原稿にあらわれた第一略図の状況などに照らすと、第一略図はほぼ右手紙中の図面どおりであり、これに加えて、茶店付近から右に分かれる道が石段状になつている旨図示されていたと認められるそして右取調日誌中の供述調書原稿によると、被告人は死体の遺棄場所について車を停めたのは、六甲山の頂上に近いあたりで山の上に向かつて左側に茶店があり、その茶店から頂上の方に少し登つた所で、死体を捨てたのは車を停めた場所から、山の頂上の方へ別に作られている段々のついた細い道を一五、六メートル登り右の方へ一寸入つたあたりの谷間である旨述べているところ、前掲小林史朗の証言によると、同人は被告人から直接右死体の場所を確認したうえ第一略図を持つて翌日死体の捜索に出掛けた事実が認められる。
他方死体発見現場付近の状況をみると、司法警察員作成の実況見分調書、前示死体発見報告書、差戻前第一審裁判所(昭和四二年八月三日実施)及び原審裁判所(昭和五一年八月二三日実施)の各検証調書、差戻前第一審裁判所(昭和四三年一二月一九日実施)及び原審裁判所(昭和四八年三月一八日、同年五月一八日実施)の各証拠調調書によれば、六甲山ケーブル山上駅から山頂に向かうドライブウエイは、曲折はあるものの一本道でこれを約二キロメートル登つた付近の左側にある茶店谷口商店を過ぎたところで左に大きく曲がつており、そこから右方に幅員約四メートルの地道が分岐し、この地道を分岐点から約62.5メートル進むとその先は切石を敷き詰めた幅員約2.7メートルの石畳の坂道となり、途中に石段様の踏込部分の広い階段が設けられ、これを約48.3メートル登ると右側に山腹を通る幅員約一メートルの山道があり、その右側は地獄谷と通称される深い谷で樹木が茂り、左側は急なのぼり斜面をなしており、この山道を入口から約二七メートル進み、そこから谷側へ約7.7メートル下つたところに允子の死体が遺棄されていた。そして、右死体のあつた場所は、谷合で樹木や下草が茂つているので普通には気がつきにくいところであるが、急な斜面で山道からは見下ろす形になり比較的見易いうえ、一一月一一日ごろは下草も枯れはじめる時期であり、山道から七メートル余離れているにすぎないので、そのつもりで注意して覗き込めば、死体の着衣の一端ぐらいを発見することは十分可能な状況にあることが認められる。さらに差戻前の第一審における谷口孝道の証言によると、六甲山ケーブル山上駅から山頂に向かうドライブウエイの傍にある茶店としては、谷口商店が最初のものであり、そのほかには前示の石畳の坂道を登りきつたあたりにある一軒だけであることが認められる。
そうすると、第一略図は六甲山ケーブル山上駅付近から死体遺棄現場までの状況に近似していてその特色をよく捉えており、これに小林警部が被告人から直接得た知識を併せれば、同人らが谷口商店前に達することは比較的容易であつたと解される。右小林の前掲証言によれば捜索開始後一〇分ないし一五分位の短い時間内に小林自身において死体を発見したのであるが、その経緯は小林は同行した捜査員らに谷口商店前から頂上に向かつて付近一帯を捜索するよう指示したうえ、自身は指揮者として捜索地域全体の地形を確認するとともに、捜索状況を把握するために部下一人を連れて先行し、前示ドライブウエイから右に分岐して頂上に向かつている地道を進み、その先の石段の坂道を登り、その途中に右方へ谷沿いに山腹を通る小道があつたので、その小道に入り笹などをかき分けて谷側を覗きながら進んでいるとき、たまたま着衣の一端が目につき死体を発見するに至つたとするものであつて、小林の右行動は指揮者として自然のものであり、その経路は前示被告人の供述に副うものであり、その間の小林の行動に何ら異とする点はない。
右に関して所論は、被告人の自白以前に捜査本部において死体を発見していたというのでその点について考察する。差戻前の第一審における鎌谷照夫の証言、同人の司法巡査に対する供述調書によると、鎌谷は被告人の自白に先立つ昭和四〇年一一月七日に六甲山をハイキング中、死体遺棄現場付近で白革製ハンドバッグ等を発見し、同日帰途宝塚署宝塚駅前派出所に立ち寄つたが、警察官不在のため隣りのカメラ店にこれを託し、その際自己の住所氏名と拾得場所として「六甲山凌雲荘下一〇〇メートル位のところ」と記載した紙片を渡したところ、同月九日宝塚署から拾得物受領通知を受けとつたが、同月一一日允子の死体が六甲山中で発見されたことを報ずる新聞記事を読んで右ハンドバッグ等は允子のものではないかと思い、同月一四日宝塚署にその旨電話したことが認められる。そして、司法巡査赤木淡三郎作成の昭和四〇年一一月二五日付写真撮影報告によると、右ハンドバッグ中には允子の住所氏名が記載された高島屋の「ご依頼品お届票」(当庁昭和五三年押第六一五号の二三)及び「清和園堀川允子」と記入された「読売新聞領収書」(同号の三一)がはいつていたことが明らかである。
捜査本部が右ハンドバッグ等を入手した経緯について、差戻前の第一審及び原審における小林史朗、竹原隆房、栢木義一の各証言、差戻前の第一審における松原久、三好咲一の各証言、当審における西谷伊八、山崎久夫、山崎勲の各証言によると、宝塚駅前派出所の松原久巡査は一一月七日午後五時ころ派出所に戻つて隣りのカメラ店から鎌谷が書いた紙片とハンドバッグ等を受け取つたが、在中品については十分な調査をしなかつたため允子の遺留品であることに気付かず、翌八日宝塚署会計係員竹原隆房に引き継ぎ、同人もこれが允子のものであるとは知らないまま保管倉庫にしまい込んでいたところ、同月一四日鎌谷から前示のような電話連絡を受け、竹原がハンドバッグ在中品をあらためて調べた結果、前示の「ご依頼品お届票」と「読売新聞領収書」を発見して、允子の遺留品であることが判明し、即日宝塚署から兵庫県警察本部、大阪府警察本部を経由して住吉署の捜査本部にその旨が伝達され、翌一五日捜査本部の栢木義一刑事らが同本部に配置された自動車で宝塚署に赴いてハンドバッグ等を受領した、というのである。
ハンドバッグ等が宝塚駅前派出所に届けられた当時、すでに允子失踪事件についての手配書が宝塚署や右派出所にも配布され、同手配書には允子の所持品として白革製ハンドバッグの記載もあつたとはいえ、原審における竹原隆房の証言によれば、前示の「ご依頼品お届票」と「読売新聞領収書」はハンドバッグ内側ポケットにはいつており、しかもポケットは漏れてくつついていたというのであるから、松原巡査や竹原が「ご依頼品お届票」等を見落としたとしても不自然ではない。鎌谷が紙片に書いた「六甲山凌雲荘下一〇〇メートル位のところ」との文言にしても、十分場所を特定したものとはいえず、右紙片だけに基づいて死体を発見しようとすると、現場付近の状況に照らし大規模かつ広範囲な捜索を要するのにその形跡がなく、鎌谷に指示説明を求めた事実も認められない。また、西谷伊八作成のメモ(当庁昭和五三年押第六一五号の七三)には右ハンドバッグや「ご依頼品お届票」の発見に関し連絡を受けたとして、その日時につき「一一月一四日午前11.30分受」との記載があり、その用紙や文面等に徴し、西谷が当審で証言するように受信直後に書いたものと認められ、ハンドバッグ等を一一月一五日押収した旨の同日付押収品目録交付書、同日ハンドバッグ等を大阪府警捜査一課へ払い出した旨の拾得物処理票の記載も同様に虚偽とは考えられない。
なるほど、栢木刑事らが一一月一五日ハンドバッグ等を受け取るため捜査本部の車で宝塚署に赴いたというのに、捜査本部で使用している自動車二台(車両番号大四め六六―〇八号及び大八た〇六―九六号)についての運転日誌中当日の欄には宝塚まで行つた旨の記載がなく、かわつて大四め六六―〇八号につき「輸送区間 住吉―尼崎―住吉、走行キロ数八〇」、大八た〇六―九六号につき「輸送区間 住吉―大阪地検―南、走行キロ数六六」とあるけれども、鎌谷がハンドバッグ等を届け出た一一月七日以降被告人が自白した同月一〇日までの間に宝塚まで赴いた旨の記載も運転日誌にはないこと、大四め六六―〇八号は九月三〇日、一一月八日、同月一二日に住吉と尼崎を往復した旨の記載があつて、走行距離がそれぞれ六三キロメートル、五五キロメートル、六五キロメートルとなつており、これに比べると一一月一五日の「住吉―尼崎―住吉」の走行距離八〇キロメートルは大巾に長いこと、原審における片岡義盛、栢木義一の各証言によれば、運転日誌には一か月分をまとめて記入していて必ずしも正確なものではなく、一一月一五日は住吉から宝塚までの往路は豊中、池田経由であつたが、帰路は尼崎経由であり、また昭和四六年に住吉と宝塚の往復走行距離を測定したところ七七キロメートルであつたというのであること等にかんがみると、運転日誌中の一一月一五日の欄の「住吉―尼崎―住吉」の記載は、その日の行先を正確に記録したものとは認め難く、したがつて、これをもつて、前示ハンドバッグ等が一一月一五日に捜査本部に届いたことを否定する資料とするのは相当でない。
第一略図が現存しないのはまことに遺憾なことではあるが、その内容が前示のとおりであるとすれば、捜査当局がこれを破棄する必要はないから紛失したと考えるべきであり、また被告人の昭和四〇年一一月一一日付司法警察員調書に添付された図面は、最初に作成されたものではなく後に別に作成されたものではあるが、その内容は、前示第一略図の域を出ておらず、茶店と死体遺棄現場との道路の状況、位置関係など重要な点が実際と一部そごしたり、不明確のままの杜撰なものであり、したがつて、右図面が死体発見後その結果に符合するように、取調官の指示によつて作成されたものとは到底解せられない。第一略図が紛失したこと、被告人の最初の自白調書添付の図面が当初作成されたものではなく後に作成されたものであることをもつて、死体の発見が被告人の自白によるものではなく、捜査本部は被告人の自白以前に死体を発見していたとするのは失当である。
以上を要するに、第一略図と被告人の供述によつて本件死体を発見することは可能であり、被告人の自白以前に捜査本部において死体を発見していたとは認められず、本件被害者堀川允子の死体は、被告人の自白に基づいて発見されたといわざるを得ない。
2 被告人の自供と死体の頸部のタオルについて
押収してある取調日誌中の前示供述調書原稿、差戻前の第一審における帰山次夫の証言等によると、被告人は、允子の死体が発見された日の前日である昭和四〇年一一月一〇日夜に、同女の殺害方法について、同女の首へ左腕を回しぐつと絞め同女がぐつたりとなつたところ、ふと運転している男の横に置いてあつたタオルを見つけたのでそれをとり上げ、同女の首へ巻きつけ夢中で絞めた旨供述しているところ、助川義寛作成の鑑定書等によれば、堀川允子の死体の頸部にはタオルが巻かれており同女はこれで首を絞められたものである事実が認められる。すなわち、被告人の自白と被害者の殺害方法とが符合している訳である。
3 被告人の自白状況に関する録音テープについて
昭和四〇年一一月一一日に被告人の自白状況を録音したテープが存する(当庁昭和五三年押第六一五号の五一)ところ、その供述内容は、被告人の同日付供述調書と同一であつて、債務の支払いを免れるため氏名不詳の男の運転する車で堀川允子を六甲山中に連れ出して殺害したうえその死体を捨てたことを自白している。そして、それはおだやかな雰囲気の中で、平静な口調で素直にすらすらと述べられており、質問に対してはまことにこと細かであり、中には会話体でそのときの対話をそのまま再現している態の個所もあるほか、供述が殺害の点に及んだときには声をつまらせる等真に迫つた状況も存するうえ、自白するに至つた心境や反省悔悟の言葉も含まれており、一見真実を思わせるものがある。
もつとも右録音自体のほか、前示取調日誌、帰山次夫の証言等によれば、右録音は、被告人がはじめて自白した際のものではなく、既に前日一度した自白を全くそのまま繰り返したものであることが認められる。
4 被告人の詫状等について
押収してある被告人が堀川允子の両親にあてた手紙一通(当庁昭和五三年押第六一五号の六〇)によると、被告人は堀川允子の両親にあてて
「私ことこの度御二方の最愛の娘の允子さんを死に致らしめ御両親をはじめ御兄弟の方々を悲しみの底深く沈めました極悪にして非道なる米田文穂こと荒木と申します
今更如何ようにつくろつた詫言を並べましたところで心底からのお憎しみが眼底にうつりお許しが得られようなどとは毛頭考えておりません
この冷酷無比なる私をお責め下さいませ今更何一つ弁解の余地すら残されず、前非に対する悔悟と絶望に対する虚無が交錯して書き綴るこの文も遅々として進まず瞑目と合掌の連続です(以下略)
その当日も私のために不帰の人と夢にも思わず私の胸の中で何一つ苦痛の色なく死んで逝つた允子さん私は今更ながら全く極悪にして非道な男であつたのです
四十の坂も越え人一倍分別盛りであるべき私がかかる大罪を犯せし以上御両親様からも世間からも如何なる憎悪も罵倒も甘受しいさぎよく極刑に処せらるるも決して取り乱すようなことは致しません(前同)
亡き允子さんの霊をとむらい冥福を祈り(前同)」
という書面を送つて允子を殺害したことを明らかにするとともにそのことについて、両親に謝罪している。
また押収してある米田美智子宛の手紙一通(前同号の五三)、同女の両親宛の手紙一通(前同号の五九)、新聞記者の質問事項に対する回答書一通(前同号の六二)によると、被告人は米田美智子にあてた文中において
「よく考えた末私の犯した罪の一切を自供しました私は今更弁解がましい殺害の動機など話したところで致し方ないのですが君に去られること君を失うことが人殺しするより大切だつたのかもしれません」
と記しており、米田美智子の両親あての文中にも、「この度はとんだ大罪を犯し米田家はもとより世間の皆々様にまで多大の迷惑をおかけ申し全くお詫びの言葉もなく」とあり、さらに報道関係者の質問に答えるための書面にも、「この度かかる大罪を犯し世間の皆様方をお騒がせ致しましたことその罪の深さを今更ながら胸奥深くしめつけられています、まづ当の堀川允子さんの冥福を祈ります」と書いていて、それぞれ本件犯行を犯したことを認め謝罪している事実が認められる。
5 ポリグラフ検査の結果について
大西一雄外一名による被告人に対するポリグラフ検査の結果によれば、允子の殺害方法につき「首を絞めた」(反応程度())允子の行動につき「三日の夕方保育園からアパートへ帰り、すぐに一人で出た」(同(+))、允子を殺害した犯人の人数は「一人」(同(+))、殺害場所につき「兵庫県」(同(+))に特異反応が、允子殺害の動機につき、借金の返済をせまられていたこと(同±)に特異反応らしきものがあらわれており、これらについては被告人の自白内容と符合している。他面允子の死体の捨てられた場所につき草むら(同(+))に特異反応があつて、自白の谷間というのと必らずしも一致しないし、允子を呼び出した方法につき、直接会つて約束したという自白内容に副う質問に反応がなく、允子の殺害日時につき、三日夜一二時までという項目ではなくて、四日〇時より七時(同(+))という項目に特異反応が出ていて、自白調書と異なつていることが認められる。
6 被告人の上申書について
被告人は差戻前第一審裁判所に対して昭和四一年二月一一日付上申書を提出し、第二回公判期日において、公訴事実に対する意見として右上申書を陳述したが、右は被告人の捜査段階における自白は虚偽であり、真実は次のとおりであるというものである。
すなわち、被告人は、時々行く四海楼パチンコ店で見かけたことのある不良運転手上りのやくざつぽいが義理堅いと思われる篠崎か篠原という男に、一〇万円払う約束で、堀川允子との邪恋(三角関係の処分方の相談)の清算をしたいので、一〇日か一五日間同女を被告人の面前より連れ去つてほしい旨頼み五千円渡した。そして八月三日年午前一〇時すぎ、アパートで允子に会い、比叡山ヘドライブする旨約束したうえ、同日午後七時すぎ、篠崎に、「私は都合で一足先に六甲山頂の山頂ホテルで待つている、私の友人が自動車で迎えに行くから同乗してくるように」との允子宛の手紙を渡し、約束のKYK喫茶店で待つていると篠崎が車で今一人の男と允子の三人で来たので三万円渡して別れた、そして、同月五日朝九時ごろ南海電車難波駅西側のフローラ喫茶店で篠崎と会つて報告を受けたが、同人は、三日は六甲山頂まで行つたが始末せず、翌朝処分したといつて、允子の定期と身分証明書の入つた定期入を証拠としてよこしたので、殺害した状況などを聞き、殺せといつた覚えはないとなじつたうえ死体を捨てた付近の見取図をメモに書かせ約束の金として六万円を渡し、お互に会つたことも見たこともないといつて別れたというのである。そしてその後同年七月一六日付上申書で、篠崎から報告を聞いたのは五日ではなく一五日であつたとその一部を訂正している。
右二月一一日付上申書は、昭和四〇年八月三日夜堀川允子をドライブに藉口して誘い出し、一〇万円で不詳の男に六甲山へ連れて行かせた結果、同女が同山中で殺害遺棄されたというもので、外形的事実は被告人の捜査段階における自白と同じであり、允子の殺害と死体遺棄が被告人の意思によるものではないという点で右自白と異なつているが、他面被告人において允子の殺害方法と死体の場所を知つていることをも明らかにしている。
被告人は後になつて右上申書の内容事実を全て否定するに至つたが、それでは何故そのような上申書を書いたかについては、そのときはそう思つていたからとか、異常な精神状態にあつたためなどと弁解するけれども、右上申書から五ケ月余を経た七月一六日付上申書でも右二月一一日付上申書についてその中の篠崎から允子殺害に関する報告を受けた日にちが誤りであるとしてその点だけを訂正し、したがつてその他の部分はこれを維持しているのであり、右弁解はそれ自体不合理であるうえその後の右経過に照らしても到底措信できない。もつとも右上申書の内容には不自然な点があるうえ、被告人がアパートで允子に会つたという八月三日午前一〇時過ぎころは、同女は藤沢正子と外出中であつた(同人の原審における証言)など事実に反する点もないではないが、右は本件の審理に際して被告人が裁判所にその弁解を明らかにするために全くその意思ですすんで作成陳述したものであるのに、その中で被告人はあえて被告人において、堀川允子をドライブに藉口して六甲山に誘い出した結果、同女が殺害遺棄された事実を自認しているのであるから右によつて被告人が少なくとも本件犯行と深いかかわりを有している事実は明らかといわざるを得ない。
(二) 次に、被告人の自白調書の信用性を疑わしめる事実の有無内容について検討する。
1 被告人の自白する時間内での犯行は可能か
所論は、被告人が允子を清和園アパートから誘い出して車で出発し、六甲山中で殺害、遺棄したのち帰宅するまでの時間につき、被告人の供述調書は必ずしも一貫しないものの、昭和四〇年一一月一九日付司法警察員調書によると、八月三日午後七時すぎころ出発して午後八時三〇分ころ殺害し、帰途阪急六甲駅の時計を見たら午後九時一〇分で、帰宅は午後一〇時三〇分ころであつたというのであり、原判決は右と同じ認定をしているが、裁判所の検証結果や弁護人がタクシー運転手に依頼して測定した結果では右のような短時間で殺害現場に到達せず、午後九時一〇分に阪急六甲駅に着くことはあり得ず、帰宅時刻もはるかに遅くなるはずであるという。
第一次控訴審判決は右の点に言及していないが、犯行前後の時刻に関する被告人の昭和四〇年一一月一九日付司法警察員調書の内容は、所論指摘のとおりであるところ、犯行所要時間に関してはいくつかの内容を異にする資料が存するが、そのうち司法警察員落合敏則ほか二名作成の昭和四一年三月八日付捜査復命書によると、落合刑事らが昭和四一年三月八日午後七時被告人らの発車地点とされる住吉区役所前を自動車で出発し、被告人の自供どおり犯行当日の立寄先などでの停車時間や走行時速などをそのまま生かしながら試走したところ(走行時速は大阪市内平均四〇キロメートル、第二阪神国道平均六〇キロメートル、六甲ドライブウエイ平均四〇キロメートル)、殺害現場には午後八時四五分、死体遺棄現場には午後八時五〇分、阪急六甲駅には午後九時二〇分に到着し、同駅で午後九時三一分発の梅田行普通電車に乗り、梅田で地下鉄に、難波で南海電車にそれぞれ乗り換え、沢ノ町駅から歩いた結果、清和園アパートには午後一〇時四八分に着いたことが認められる。ところで、自動車の運行所要時間を左右する交通事情は絶えず変化しているし、その経路や時間帯によつても大きな差異の存することも自明であるところ、右資料は比較的犯行日に近い日に、被告人の自供どおりの時間帯に、自供どおりの経緯、経路を辿つて試走した結果であるから、他の資料に比し、最も価値あるものというべきである。そして、右によると、阪急六甲駅に到着するまでの所要時間に、被告人の自供する時間と一〇分程の差がある訳であるが、交通事情はその日、その時によつて同じではないから、二時間余りの走行時間における一〇分程度の差は重視するに足りないのみならず、司法警察員落合敏則外一名作成の昭和四〇年一一月二七日付捜査復命書中には、被告人を同行して犯行の日の経路を辿つて大阪市内を走行しているとき、前示三月八日のときと同じ時速四〇キロメートルで走行していたのに対して、被告人から、犯行の日はもつとスピードを出した旨の説明がなされたこと後記のとおりであり、これらの点を勘案すれば、被告人が犯行当日午後九時一〇分ころまでに前示駅に至ることは可能であつたと解される。そして、右復命書によると、阪急六甲駅を午後九時一九分に発車する梅田行普通電車があるので、被告人の自白どおり阪急六甲駅に到着したのが午後九時一〇分であれば、同駅で右電車に乗ることが可能であるから、清和園アパートには午後一〇時三〇分ころに到着できたことが推認されるのである。以上によれば、被告人の自白する時間内での犯行は可能ということになる。もつとも、この点に関しては右に反する資料も存するので、それらについて検討するに、前示昭和四〇年一一月二七日付捜査復命書によれば、住吉区役所前から自動車で、殺害現場まで約二時間、死体遺棄現場付近まで約二時間一〇分を要したとあるが、右の測定は被告人を同乗させて指示説明させるとともに、一部裏付捜査をしながらのものであつて、その分手間どつているうえ、できるだけ自供どおりの速度で走行したとはいえ、日中であり、交通が錯綜して円滑に進行できず、被告人が「あのときはもつとスピードを出しスムースに行つた。」などと説明したというのであるから、犯行所要時間の資料としては不適当である。差戻前の第一審裁判所が昭和四二年八月三日実施した検証調書も、右によると出発地点から死体遺棄現場付近まで二時間五九分を要したことが認められるけれども、これも犯行時と時間帯を異にする日中に被告人に指示説明させながら測定したもので、しかも被告人の自供する走行経路を一部変更していること等からして、正確な資料とはいえない。さらに、弁護人作成の報告書にしても、出発地点から死体遺棄現場付近まで車で二時間一〇分かかつたというが、交通事情は年々変化しているところ、右は事件後約六年経過した日の、しかも時間帯を異にする午後四時から走行したもので、その走行速度も明らかでないから、これに依拠するのは相当でない。また、原審が昭和四八年三月二八日試走した結果では、死体遺棄現場付近まで二時間五〇分を要しているけれども、これも前示のとおり年々交通事情が変化している中で時間帯も異にして、事件後約八年経過した日中に一部経路を変更するなどして走行した結果であり、途中写真撮影などに時間を費やしている事情も認められるので、これをもつて、本件犯行の時間的能否を判断する資料とすることはできない。
そうすると、被告人が自白する時間内での犯行は可能というべきである。
2 現場は犯行に不適当な場所か
所論は、被告人が死体を運び出すため自動車を停めたとされる場所付近には、夜景の見晴らし台として利用される駐車場や谷口商店、山の家さらには飯場などがあつて、夜間でも人通りが絶えず、しかも街灯があるうえ夏の午後八時ころは薄明るく、このような場所で死体を運ぶとは考えられないという。
第一次控訴審判決は右の点に触れていないが、司法警察員作成の実況見分調書、差戻前の第一審裁判所(昭和四二年八月三日実施)及び原審裁判所(昭和五一年八月二三日実施)の各検証調書、差戻前の第一審裁判所(昭和四三年一二月一九日、昭和四五年九月一七日各実施)及び原審裁判所(昭和四八年三月二八日、同年五月一八日各実施)の各証拠調調書、差戻前の第一審における谷口孝道の証言、原審における小塩実三郎の証言によると、被告人と氏名不詳の男とが自動車を停めて死体を運び出したという場所は、六甲山ドライブウエイに面する谷口商店前から地道を約四〇メートル入つた阪神土木工業株式会社の飯場の前で、当時同飯場には山頂の凌雲荘増築工事のため人夫が相当数宿泊中であり、谷口商店前には駐車場があつて見晴らし台ともなつているため、夏期には夜間でも駐車車両が少なくなく、同商店も午後一〇時ころまで営業しており、また付近には毎日新聞山の家をはじめ会社の保養所が散在し、夜になつても工事に通う人夫や少なからぬ納涼客が地道とこれに引き続く石畳道を通行しており、さらに石畳道と山道との分岐点付近に街灯もあるが、他方霧が出て見通しがきかなくなることがあり、そのようなときは通行車両や通行人も著しく少なくなることが認められる。以上によれば、右場所は、普段は死体を運ぶのに適しない場所であるが、しかし、霧が深いときには必ずしもそうとはいえない場所であると解される。そして、神戸海洋気象台長作成の気象照会についての回答書、原審における志貴泰二の証言によると、昭和四〇年八月二日から四日にかけて神戸地方には煙霧ないしもやが発生していたことが認められるところ、被告人の供述調書中には、六甲山の中腹で一旦下車し夜景を見るふりをした際、允子に対し「えらいガスやなあ、こんなにガスがきつかつたら夜景も楽しめんな」といつたとか、下山する途中車の運転者に「ガスがきついから気をつけてや」と霧が多く前方がぼおつとしているのでいつたとの記載や死体を遺棄するため車を停めた際、濃い霧が立ち込めていて一五メートル位先までしか見通せなかつた旨の記載があり、これらによれば当夜は六甲山中は深い霧であつたことが判る。そうすると、被告人が自動車を停めたという前示地道は、当時死体を運び出すのに適しない状況であつたとはいえない。のみならず、被告人の自供調書によると、被告人が允子を殺害したとき、車を運転していた男がびつくりしたものか急に車を停めたので、「行つて行つて」とせかせたうえ、「これの始末をするところへ行つてくれ」と頼んだところ、二、三分走つたころ、その男が「もう頂上ですぜ」といい、その後すぐハイウエイから地道の奥へ入り、車を停めたというのであり、右によれば、車を運転していた男は、思いもかけず車内で殺人が行なわれ、驚愕しているところへ死体を始末するよう頼まれ、止むなく走つているうち頂上も近くなつてしまつたとき、脇道があつたのでその道へ車を乗り入れたものであり、それが前示場所であつたことが推認される。すなわち、前示場所が選ばれたのは、そこの客観的状況を冷静且つ合理的に判断したうえなされたものではなく、差し迫つた突嗟の間になされたものであり、このような点をも考え併せれば、前示場所に車を停めたことは十分理解できるところであり、所論には同意できない。
3 小森ヒサエの証言は信用できるか
所論は、原判決は被告人が允子を殺害しその死体を遺棄した日時につき昭和四〇年八月三日午後八時三〇分ころと認定しているが、清和園アパートの管理人小森ヒサエは翌四日朝允子が男と連れ立つて外出するのを見たと証言しており、右証言は信用できるという。
この点につき差戻前の第一審判決は、「昭和四〇年初めの保育園から電話があつた日(昭和四〇年八月四日)の朝六時半ころ、掃除のため階段を降りていくと、堀川允子の部屋から男の人が先に出で、次に堀川允子が出てくるのにばつたり出会つた。その男は背が高く眼鏡をかけた男で被告人ではないと思つた。」旨の第一四回公判における小森ヒサエの証言を覆すに足る証拠はないとしたが、これに対する控訴審判決は、允子の実兄平野安順が昭和四〇年八月五日允子の居室に立ち入つた際の新聞の所在状況からみると、允子が最後に清和園アパートを出たのは八月三日付夕刊配達の後で翌四日付朝刊配達の前であつたといえるから、同日付朝刊の配達時刻は小森証言の信用性を判断する重要な資料となり、また小森の司法警察員に対する昭和四〇年九月一三日付供述調書、平野の司法警察員に対する同月一〇日付供述調書によると、小森が、男と一緒に出ていく允子を見た際の同女の服装は「濃い焦茶色様地に黄色や桃色様の色が三色程混つた花柄のある上衣とスカート」であつたというのであるが、允子が八月三日保育所に出勤した当時及び死体で発見されたとき着用していた衣服は、無地の濃紺レースの半袖スーツであつて、小森が見た際の服装とは明らかに違つており、右は単なる服装についての小森の認識ないし記憶の誤りであるのか、全く別人を允子と見誤つたのか、あるいは実際に允子は小森が見たような服装であつたのかという点も、小森証言の信憑性を判断する重要な資料となるところ、第一審で取り調べた証拠では明確でなく、このほか八月五日允子の部屋に盛夏だというのに日傘が残つており、取り入れた洗濯物が未整理のまま置かれていたことも認められ、これらの事実との関連も検討されるべきであつて、さらに審理を尽くすべきであるとした。
小森の差戻前の第一審における証言の要旨は前示のとおりであり、原審証言もおおむね同旨であるが、仔細にみると第一次控訴審判決が指摘するとおり問題がないわけではない。まず、目撃時の允子の服装についてみると、小森は、差戻前の第一審において、服装については記憶がない旨証言しながら、原審における昭和四八年八月三日の証人尋問期日においては、色は忘れたが花柄の服であつたとか白つぽい花柄の服であつたとか証言し、他方司法警察員に対する昭和四〇年九月一三日付供述調書においては、允子は濃い焦茶色様の生地に黄色や桃色様の色が三色位混つた花柄のある上着とスカートを着用していた旨供述しているが、司法警察員作成の実況見分調書、押収してある濃紺レース半袖スーツ上下(当庁昭和五三年押第六一五号の八)、水色レース袖なしブラウス(同号の九)によると、死体発見時における允子の着衣は濃紺レース半袖スーツ上下で、スーツの下には水色網目のレース袖なしブラウスを着用していたことが明らかであり、しかも原審における平野安順、矢野幸子、平野茂子、藤沢正子、堀川美遊喜の各証言によれば、允子は濃い焦茶色様の生地に黄色や桃色様の色が三色位混つた上下の服を持つていなかつた可能性が大きい。しかしながら、前示の司法警察員に対する昭和四〇年九月一三日付供述調書は、差戻前の第一審における小森ヒサエの証言に対する刑事訴訟法三二八条の弾劾証拠として採用されたものであることを考慮しなければならず、原審における昭和四八年八月三日の証言以前にすでに差戻前の第一審において前示のとおり服装については記憶がない旨証言しているところに照らすと、小森が白つぽい花柄の服を見たと前提するのも必ずしも相当でなく、しかも着衣の色、柄などは往々記憶違いをしやすいうえ、小森は日ごろ女性の服装に関しあまり関心がなかつたと証言しているところに徴し、この点に誤りがあるからといつて、小森証言が信用できないものとは直ちにはいえない。なお、帰山次夫の差戻前第一審及び原審における証言によると、小森が允子と男を見たという状況について清和園アパートで二回実験したところ、帰山刑事をなかなか識別できないほどに近眼であつたというが、その内容を具体的にみると、一回目は昭和四〇年一〇月二一日午後五時ころ同アパート一階裏出入口から帰山刑事が一号室付近の小森に近づくと、表出入口廊下の端より9.27メートルの地点に来たとき、小森は帰山刑事に気付き、右廊下の端より1.30メートルの地点に来たとき、小森が「刑事さんでしたか。」と声を出したというものであり、二回目は翌二二日午前六時四〇分ころ帰山刑事が表出入口玄関に立つていると、裏出入口の方からきた小森は一〇号室あたり(一〇号室の入口中央は表出入口廊下の端より9.27メートル)で帰山刑事に気付き、1.30メートルに接近したとき「やつぱり刑事さんでしたか。」というものであり、一方小森証言によると、小森が男を見たときの両者間の位置は六〇センチメートルないし一メートル位で、そのとき允子が出てきた一号室入口まで約2.10メートルであるというのであるほか、視力も別段不自由するほど悪くないというのであるところからみて、小森が近眼のために允子と別人とを見間違えるとは考え難い。
次に、小森が目撃したという男の格好についてみると、小森の差戻前の第一審における証言によれば、男の顔ははつきり見ていないけれども、三五、六歳で背が高くサングラスをかけており、服は白つぽいようでもあつたがはつきりしないというのであり、原審における昭和四八年八月三日の証言によれば、男の顔はわからないが、三五、六歳で背が高く普通の眼鏡をかけており、霜降りのズボンを着用したというのであるところ、司法警察員に対する昭和四〇年九月一三日付供述調書では、男は三〇歳前後で背は五尺五、六寸はあつたと思われ、顔色はあまり黒くなく長めの顔形で頭髪を長く伸ばしていたがすつきりとした髪形であつて男前に見え普通の肉付をしており、服装は白カッターシャツだけであつたかその上に背広を羽織つていたかはつきり覚えていないが、ズボンは色物で霜降りがかつたものであつたと思われ、靴は黒色の皮短靴で、はつきりしないけれどもあるいは眼鏡をかけていたようにも思うなどと詳細に供述しているのであつて、相互に齟齬がみられる。しかしながら、右供述調書は前示のとおり三二八条書面であることを考慮しなければならず、また時日の経過をも参酌すると、右程度の食い違いがあつたからといつて小森証言が措信できないとは直ちにはいえない。
目撃日時について検討を進めると、小森は、差戻前の第一審においては、男と一緒の允子を見たのは保育所から電話があつた日(岡本晴雄の司法巡査に対する供述調書、同人及び岡田逸子の差戻前の第一審における各証言により八月四日であることは明らかである。)で、娘の勤務が遅番であつたので、午前六時三〇分ころ起床後すぐ掃除をするため二階の居室から階段を降りて行つたときである旨証言し、原審における昭和四八年八月三日の証人尋問期日には、允子を見たのは保育所から電話があつた日の午前六時三〇分ころであるという点では従前と同様であるが、右のように時間を明確にできる根拠として掃除道具を取りに一階へ降りて行く前に時計を見たなどと従前にない証言をするに至つている。そして、小森の司法警察員に対する昭和四〇年九月一三日付供述調書においては、男と一緒にいる允子を目撃したのは八月四日午前七時すこし前のころで、ちようど二階の掃除を終え一階の掃除をしようとして階段を降りて行つたときである旨を供述し、司法警察員に対する同年一月一八日付供述調書においても、日にちははつきりしないが午前七時ごろであつたと供述しており、また前示捜査手控や押収してある岡田逸子の手帳(当庁昭和五三年押第六一五号の七〇)にも、小森が話した内容として、八月四日午前七時前ころに男と一緒に出て行く允子を見た旨の記載があり、差戻前の第一審において、岡田逸子は八月八、九日ころ、小森から右同旨のことを聞いた旨証言している。さらに田守義夫の昭和四〇年八月三一日付司法巡査に対する供述調書によれば、同人が八月八日清和園アパートを訪れた際、小森から允子と男が四日朝早く出かけるのを見た旨聞いたというのであり、当審における松清珵子の証言によれば、允子の兄が清和園アパートに来た日に、小森が珵子に対して允子が数日前の朝早く男と出て行くのを見たと話していたというのであつて、以上にみる限り允子の失踪した日にちについては、小森は一貫して八月四日あるいはこれと同旨と解される「朝」と言つていることが認められる。
もつとも平野安順の昭和四〇年九月一〇日付司法警察員に対する供述調書同人の差戻前の第一審における証言によると、同人が昭和四〇年八月五日と九日の二回清和園アパートに赴いた際、小森が八月三日晩か四日朝かはつきりしないが、允子と見知らぬ男とが出て行くのを見たと言つたというのであるが、平野は、一方で、允子が出て行つたのは三日の夕方だという話だつたともいい、また、三日の晩ともいい四日の朝のようにも言つた旨証言し一貫しないうえ、小森の対応は要領を得ない、話にならん感じであつたというのであり、そして平野がたずねたのは允子が出かけて間のない日であり、その前後ころには前示のように岡田逸子や田守義夫に四日朝出て行つたと話していることを考え併せると、小森が平野に対して果して前示のとおり述べたか疑問であり、右はむしろ允子の部屋の様子から三日の晩ではないかと思つていた平野が、小森においてはつきり言わないため、三日の晩か四日の朝かはつきりしなかつたと理解したという趣旨に解するのが相当と思料される。してみると、右平野の供述は、允子の失踪の日に関する前示小森の供述の一貫性を左右するものではない。そして、允子が清和園を出かけたときの時間については、前示のとおり午前六時三〇分ころといい、午前七時前といつて齟齬がない訳ではないが、たかだか三〇分程度の相違にすぎないし、また当時掃除前か掃除中であつたかについても、時日の経過による記憶の減退等を考慮すると、その程度の食い違いが生じても異とするに足りないから、これらの点をもつて允子の失踪日時に関する小森の前示証言を信用できないとするのは相当でない。
さらに、八月四日の小森と五箇荘保育所職員らとの電話による応対状況について考えると、小森の差戻前第一審及び原審における証言によれば、允子が見知らぬ男と出て行くのを見た日の午前一〇時三〇分ころから昼前ころまでの間に、保育所のほうから允子が在室しているかどうかの問合わせが二回位あり、いずれも「堀川さんはけさ早く出て行つたから留守です。」と答え、相手方の要請でその都度部屋を見に行き、留守であることを確認してその旨返事した、というのである。これに対し、岡本晴雄の司法巡査に対する供述調書、同人及び岡田逸子の差戻前の第一審における各証言、前示岡田逸子の手帳によれば、五箇荘保育所の用務員である岡本は、八月四日午前八時三〇分の出勤時刻を過ぎても允子が出勤しないので、同日午前一〇時ころ清和園アパートに電話をし、電話口に出た管理人に自分が保育所の者であることを明らかにしたうえ允子の所在を尋ねたところ、「出て行きましたやろう。」という程度の返事であつたので、部屋を確認してほしいと頼んだものの、しばらくして「留守です。部屋に鍵がかかつています。」との答えがあつた程度で電話が切れ、その後間もなく岡本から連絡を受けた允子の友人岡田が清和園アパートに電話すると、管理人が「留守です。」とうるさそうな返事であつたので一旦電話を切り、再度電話して部屋を確認するように頼むと、しばらくして「ガス漏れも何もしていません。鍵もかかつています。留守です。」という答えであつた、というのであつて、これによれば、けさ出かけたということには言及していないことになる。しかしながら、この点差戻前の第一審における岡田逸子の証言によると、小森はいつの応対もうるさそうにしていたというのであつて、同女は逐一詳細にことを伝える性格ではないことが窺えるので、保育所の職員らに対する返事が同人らの供述どおりであつたとしても、そのことから允子がその日の朝出かけたことを否定するに足りず、かえつて右のように岡本が電話した際、小森は允子が保育所に行つていないと聞きながら、「出て行きましたやろう。」と答えたところよりして、当日朝允子が出かけるのを見ていたからそのように答えたと解することもできないではなく、したがつて、小森が保育所の職員に允子が今朝出かけた旨言わなかつたとしても、そのことをもつて小森の允子は同日朝出かけたとの証言を左右するに足りない。
以上の次第で、小森の証言自体からは、それが信用できないとしてこれを排斥するに足りる事情は見出せない。そこで、小森が允子を八月四日朝に清和園で目撃することはあり得ないとする客観的事実が存するかどうかについてみる。
小森が允子を見たという日時については、この点に関する前示各証拠を総合すると、八月四日午前六時三〇分ころから午前七時前ころまでであると認められるところ、平野安順の司法警察員及び司法巡査に対する各供述調書、同人の差戻前の第一審及び原審における各証言によれば、平野が昭和四〇年八月五日允子の行方不明を聞いて清和園アパートの同女の居室を訪れると、入口扉は施錠され、扉の隙間に新聞紙がはさまつていたがこれを引き出そうとして内側に落としてしまい、その後合鍵で扉を開けて入ると、扉の内側の床上に八月四日付朝刊、同日付夕刊、八月五日付朝刊が落ちており、奥の部屋のピアノの横にある箱の上には八月三日付夕刊をいちばん上にして多数の新聞紙がきちんとたたんであつたことが認められ、これに徴すると、第一次控訴審判決が指摘するとおり、允子が最後に清和園アパートを出たのは八月三日付夕刊配達の後で翌四日付朝刊配達の前であることが明らかである。そして、八月四日付朝刊(読売新聞であることは明白である。)の配達時刻については、原審における高木定敏の証言によれば、允子の居室に読売新聞を届ける同新聞住吉直販所では、朝刊配達のため店を出るのが午前五時一〇分前後で、午前七時ころまでには終了しており、清和園アパートに配達後も六〇部位の配達が残つており、それを終えるのに一五分か二〇分位かかるというのであり、原審における斉藤礼三の証言によれば、清和園アパートの住人である同人は、購読する読売新聞の配達時刻はわからないが、午前六時二〇分か二五分の食事のときには大体新聞を読んでいたというのであり、原審における斉藤ツヤ子の証言によれば、前示斉藤礼三の妻である同女が起床する午前五時すぎから六時ころまでの間にほとんど読売新聞が配達されており、年数回同女の出勤時刻である午前八時前後になつても配達されないことがあつたというのであつて、これらに照らすと、読売新聞が允子の居室に午前七時以降に配達されることはほとんどないが、午前六時三〇分から午前七時までの間に配達された可能性、すなわち朝刊が配達される前に小森が允子を見た可能性が残るのであつて、新聞配達時刻の点から小森証言を排斥するのは困難である。
次に、平野安順の前示各供述によれば、平野が八月五日允子の居室に入つた際、洗濯物がビニールの洗濯紐に取りつけられたまま畳の上に丸めて置いてあつたことが認められるところ、原審における藤沢正子の証言によれば、同女が昭和四〇年八月三日午前八時三〇分から九時ごろにかけて姪の允子の居室を訪問した際、部屋の中に綱を引いてあつた記憶はあるが、洗濯物をかけてあつたかどうか今となつてはわからないというのであり、これに対し原審における矢野幸子の証言によれば、允子と従姉妹関係にある矢野が昭和三八年一二月ころから昭和四〇年四月ころまで清和園アパートで允子と同居していた当時、允子は三日に一度位の割合で洗濯をしており、夜にするときもあつてその場合は大体洗濯物を洗濯器の上に干していたことが認められる。そうすると、允子が八月三日夜洗濯してビニールの洗濯紐に取りつけ、翌四日外出前に洗濯紐ごと取りはずして畳の上に丸めて置いた可能性が残ることとなり、洗濯物の状況から小森証言を排斥することも困難である。
また、平野安順の前示各供述によれば、八月五日同人が允子の居室に入つた際、四畳半の畳の上に允子が日ごろ外出時に使用している日傘が置いてあつたことが認められるところ、原審における藤沢正子の証言によれば、八月三日午前九時三〇分ころ允子と一緒に外出した際、允子は日傘を持つていたようにも思うが、現在では明確な記憶がないというのであり、原審における矢野幸子の証言によれば、允子は夏期は毎日日傘を使つていたというのであるが、小森のいうように午前六時三〇分ころから七時前ころにかけて外出したということになれば、盛夏とはいえ朝まだ早い時間帯のことであるし、大阪管区気象台長作成の回答書によれば、大阪市東区内の同気象台所在地において、八月四日午前は晴れたり曇つたりの天候で、午前六時には視程2.5キロメートル、午前七時には同2.7キロメートルの煙霧が発生していたと認められるから、允子が外出時に日傘を携帯しなかつたとしても別段不合理ではなく、日傘の点から小森証言が信用できないとすることは困難である。
さらに、平野安順の前示各供述によると、平野が八月五日允子の居室に入つた際、ミシンの上には同女が保育所に持つて行く弁当箱が洗つた状態で空のまま紙袋に入つて置かれており、炊飯器の中には炊いた御飯が真中から半分位残つていたことが認められる。しかし、弁当箱については、矢野幸子の司法警察員調書によれば、允子は週に一回位保育所で給食のあるときは弁当を持つて行かなかつたというのであるところ、允子が八月四日に弁当箱を持つて行くことになつていたかどうか証拠上全く不明であることなどからみて、これまた小森証言を排斥する根拠にならず、炊飯器の中に御飯が残つていた点は、允子が八月四日朝外出したとすることと矛盾するとは考えられない。
允子の家計簿(当庁昭和五三年押第六一五号の一)の記載について考えると、右家計簿の記載が昭和四〇年八月二日までであるのは明らかであるところ、矢野幸子の司法警察員に対する供述調書及び原審における証言によれば、允子は几帳面な性格で家計簿を毎晩つけていたというのであるが、家計簿を仔細にみると、一日分の記載欄中に鉛筆書きとペン書き、あるいはペン書きとボールペン書きなどが混在したり、鉛筆の下書きのうえにボールペンでなぞつていたり、「不明金」の記載があつたりしており、必ずしもその日に記載されたとはいいきれないものがあるところに徴すると、八月二日分までの記載しかないからといつて允子が八月三日夜外出したとは限らず、この点でも小森証言を覆すことは困難である。
そのほか検討するも、小森が八月四日朝に允子を見ることはあり得ないとするに足りる証拠は見当らない。かえつて、小森の証言は細部においては齟齬する点やあいまいな点がないではないが、堀川允子が失踪した日にちについては終始一貫しており、そしてこれが記憶については、独身の女性が早朝男と部屋から出て行つたという特殊な事情があるうえ、特にその日のうちに度々そのことで保育所等からたづねられているので印象も深く、記憶に残るところへ、その後も日を接して平野安順、田守義夫、岡田逸子らから次々たづねられているので、その記憶が深められたものと解され、したがつてその証言はかなり信憑性の高いものといわねばならない。
以上を要するに、小森証言を覆えすに足りる確証はなく、したがつてこれを排斥することはできないということになる。
4 共犯者は実在するか
所論は、被告人の自白にあらわれる氏名不詳の共犯者は、被告人の同人に関する供述内容よりしてその実在感に乏しいうえ、三〇万円の債務を免れるため、一〇万円も支払い且つ犯罪発覚の危険を犯して素姓のわからぬ者を用いる必要はなく、また殺人の意図を告げていない者の運転する車中で矢庭に人の殺害行為に及ぶというようなことは考えられないところであつて、共犯者は存在しない。この点からも被告人の自白には信用性に疑問があるという。
第一次控訴審判決は右の点に言及していないが、共犯者(正確には、殺人に関しては同行者にすぎず、死体遺棄についてのみ共犯者であるが、ここでは便宜一括して共犯者という。)に関しては、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書にあらわれているところによると被告人は、以前允子にドライブに行こうと話していたことから、同女をドライブを口実にして誘い出し遠方へ連れて行つて殺害しようと決意したが、自分では運転もできず自動車もないので誰かに頼もうと思つているとき、たまたま八月二日パチンコをしに行つた大阪市南区内のパチンコ店四海楼で、パチンコに負けて金に困つている様子の男を見掛け、同人が入つたうどん屋で話しかけ、自動車の運転もでき、車を借りることもできるというのでその男を利用しようと考え、女のことで頼みがある、一〇万円礼をするから明日午後六時半から七時ごろまでの間に高野線沢ノ町駅まで車を持つて来てくれないかと頼んだところ承知したので、当日は右駅近くのパチンコ店で落合う旨約したうえ千円渡して別れた。翌三日午後六時三〇分ごろ右パチンコ店に行くとその男が来ており車も持つてきたというので、允子方を訪れて前にも言つていたドライブに友達の車で比叡山へ行こうと言つて誘い七時に住吉区役所前の交差点で待つている旨約し、同女が来るまでの間に、その男に小指を示して、実は私のこれなんやが比叡山へドライブに行くと誘つてあるんや、君は僕の友人ということにしてあるので「しばた」という名前にしておいてくれというと、比叡山は知らない六甲なら知つているが六甲ではいけないのかというので六甲に行くことにしたうえ、実は今日二人の仲を清算しようと思つている、一〇万円という金を払うのもそういつたことがあるからだ、その点十分納得しておいてくれ、それでも行つてくれるかと聞くと、むずかしい仕事とは思つていたがやるといつて引き受けた。そして、允子を同乗させて六甲山に赴いたのであるが、山上への途中の道路脇が深い谷間になつているところで、夜景を見るふりをして下車し、允子をつき落そうとしたが決心がつかないまま再び乗車し、さらに頂上に向つて走つているとき、早くなんとかせんといかんと焦り頭もかつかしていたがそれを允子に見破られんために、歓心を買うべく、同女の身体を引き寄せ左腕を首に巻いてキッスをし愛撫するような形をとつているうち、ふとこのまま腕を締め首を絞めてやろうと考えつき、左腕にぐつと力を入れて首を絞めさらに手の平を右首筋に当てて力を入れているとぐつたりなつた、そのとき運転席の男はびつくりしたのか急停車したので、あわてて「行つて、行つて」というと車は走り出した、そのあと運転席にあつたタオルでさらに首を絞めたがその男も余程びつくりしたのか車の速度もぐつと落ちていた。男がどこまで行くのかと言つたが、被告人は允子を殺してしまつたことで頭も転倒してしまい、死体を始末する元気もなくなつてしまつたので、何処かで処分してというとしぶつている風であつたが、間もなく停車した。允子の死体を車外にひきずり出してその男に処分を頼むと、困るなあ、困つたなあといつてしぶつていたが、なおもそんなこと言わんとちやんと礼もするようにしているのだから、やつてと何回も頼むと、やつと承知したのか允子の身体に手を掛けた、そして、死体と所持品の始末をしたあと、えらいすまなかつたねこれ約束の金や勘定してんか、といつて一〇万円渡すと、その男は一寸勘定する風をしたあと、えらい仕事でしたわ、といいすぐ引つ返すといつて六甲山をおりた、そして、六甲口駅の少し手前で、ここでいい、いろいろとすまんかつたね、今日のことは勿論今までもあんたとは見たことも会つたこともなかつたことにしておいてくれ、と口止めしその男もよろしいと了解してそのまま別れた、その男は二七、八才から三〇才ぐらいで背丈1.65メートルぐらい、中肉で骨組みがつちりしており色浅黒く角張つた顔で長髪を分けていた、服装は、紺色に縞の入つたズボンに皮靴で二日の日は茶色つぽい枠の太いサングラスをかけ濃紺の半袖スポーツシャツを着ていたが三日の日は眼鏡なしで白カッターシャツを着ていた、住所氏名、職業については大阪かの問に、尼や、と答えたのみでそれ以外の点については聞きも名乗りもしていない、なお被告人は初めはその男に允子の殺害まで頼むつもりであつたが、その男は黙々車を運転して行くという様子であつたのでそこまで言い出せなかつた、というのである。
被告人のいう右共犯者については、本件全証拠によるも、その存在を裏付けるに足りないが、同人はその氏名も住所も職業も不明というのであり従つてこれが捜査には限界があり不十分たるを免れないので、同人に関する裏付証拠がないからとて直ちにその存在を否定するのは尚早である、すなわち、同人は氏名住所等は不詳であるがその人相風態は詳細であるし、前示のように行先が当初比叡山のつもりが六甲山に変更された経緯など同人の実在を窺わせるものもある、しかも被告人は、允子の殺害を決意しその方法として以前ドライブに行こうと話したことがあることから同女をドライブに誘い出して殺害する、それには運転ができ自動車の都合もつく者が必要である、そのためにパチンコ店で見かけた金に困つている男を利用したというのであつて、一応筋は通つているし、このようなことはその例は少ないとしても必ずしもあり得ないこととはいえず、そしてその者の氏名も住所も職業も不詳のままという点についても、被告人はその者に允子殺害の意図を打明けてはおらず、したがつて単に目的地まで自動車を運転させるという関係にすぎなかつた訳であるから、その限りではその者の身元を深く詮索しなかつたとしても必ずしも不可解というに足りない。
右のとおり被告人の共犯者に関する供述については理解できなくはない点もあるものの、前示のように当初はそのつもりはなかつたとしても結局は、右不詳者の運転中の車の中で、同人をはばかることなく允子を殺害したうえ、その死体の遺棄もさせたというのであり、允子を車内で殺害するに至つたのは、前示のようにそのときの俄かの思い付きで、死体の遺棄をさせたのはその成行であつて、当初からの予定ではなかつた点、また前もつてその男に当時としてはかなりの額である一〇万円という金を払う旨約し、女との仲を清算しに行く旨話しており、同人に尋常な仕事ではない様子を仄めかしていた点を考慮しても、畢竟、従前面識がなく、住所氏名も不明ないわば行きずりの、気心も知れない者の前で、いきなり殺人という重罪を犯したうえ、死体の始末もさせたことになるが、このようなことは、自分の身元を明かしていなくても、警察などへの通報の危惧があるうえ、たとえ相手が行きずりの者であつても、その前で殺人を犯すというのは人の本性にもとるところであり、この点常人の理解を超えるといわざるを得ない。
以上の次第で被告人の自供調書中共犯者に関する部分は、果してそのとおりか疑いなきを得ない。
5 殺害の動機はあるか
所論は、被告人の供述調書によれば、被告人は允子から二五万円ないし三〇万円を借り受けていたところ、返済期日として約した昭和四〇年七月末までに返済することができず、また内妻美智子が被告人と喧嘩して七月二六日ころから実家に帰つたまま戻らないのは被告人と允子との情交関係を察知したためと思い、借金の返済を免れ、信用見栄自尊心を守るとともに美智子とのよりを戻すため允子を殺害した、というのであるが、允子は返済をきびしく求めておらず、一方美智子は被告人の女性関係を疑つたことがないから、右のような動機で被告人が允子を殺害するとは考えられず、この点においても被告人の自白調書には信用性に疑問があるという。
右の点につき第一次控訴審は言及していないが、被告人の自白調書によると、被告人は、昭和三九年六月下旬ころ、同じアパートに住んでいた堀川允子と口をきくようになり、同年九月初めごろ肉体関係を生じ、以後内妻美智子の目をかすめてホテルやアパートで関係を続けていた。そして、その傍ら、同年七月下旬から、有利な利殖先があると詐つて、允子から金を預るようになつたが、見栄と信用を得るため、利息として月三分位の割合による金を自腹を切つて同女に支払つていた。右預り金はその後一部を返したり、また新たに預つたりして、結局昭和四〇年七月には三〇万円位を預つている計算となつていた。しかるところ、被告人はそのころ允子が他の男と結婚することになつたことを知つたため、預つていた右三〇万円を七月一杯で清算してやる旨進んで允子に約束した。しかしながら、被告人は期日が来ても金策がつかなかつたので手持の金一二、三万円から、元金一〇万円と利息だけを支払い、残りは待つてもらうよう頼むつもりで、同月三一日と翌八月一日允子方へ行つたが、留守で会えないまま約束の日も過ぎてしまつた。そこで被告人は、今まで大きなことを言つて信用させていたのに、約束の日が過ぎてしまつても金が返せないし、この先金の工面ができるあてもない。いつそのこと允子さえいなくなれば信用を落とすこともなく、自分の見栄や自尊心も傷つかず金も返さなくて済むと考えるに至つた。また、被告人は、七月二五日ごろ内妻美智子に無断で家を明けたところ、同女からどこへ行つていたと問われて口論となり、その日から同女が帰つてこなくなつた。そして、それまでは怒つても二、三日で帰つてきていたものがそのときは日が経つても帰つてこなかつたので、允子との関係は美智子には秘していたものの、同月初めごろ同女から、あんたなんかあつたのと違う、などと被告人と允子の間柄が普通でないように感じ、それを探るような質問をされたことが時々あつたほか、そのころ、允子の部屋にいるところを見られたこともあつたし、あるいは友達や允子が同女と被告人との関係を話したため、美智子が怒つて帰つてこないのではと想像したが、被告人は美智子を信頼しており、同女に去られたくないと深刻に考え、そこで允子を亡きものにすれば、美智子を取り戻せると思つた。こうして、被告人は、金員の返済を免れ、信用と見栄、自尊心を守るとともに、美智子を取り戻すために允子を殺害したというのである。
被告人は、その供述調書に見られるように、大学を卒業していないのにしていると学歴を詐称するなど見栄の強い性格であり、それが日ごろ大きなことを言つていた手前、自らした金員返済の約束の実行ができないとあつては、その見栄が傷つき信用、自尊心が損われることを人一倍強く気にしたことが認められる。また、内妻美智子との仲を取り戻すためという点についてみるに、被告人の供述調書と米田美智子の供述調書によると、被告人は結婚相談所を通じて美智子と知り合い、昭和三〇年一二月に挙式し、同三二年一〇月に入籍し、その後以前同棲していた女性からの子供の認知問題にからんで同三五年一二月に協議離婚届をなしたものの、実際上はひきつづき夫婦生活を続けてきたもので、その家計は美智子が実家の商売の手伝いをして得る収入でその殆んどを賄つており、被告人は専ら同女に生計を依存していた。被告人は美智子と知り合う前二度の結婚と一度の内縁関係を経験しているが、いずれも短い期間で破綻しているのに、美智子とは一〇年に及んでおり、同女を信頼し、同女との関係の継続を強く望んでいた様子が窺えるところ、美智子が実家に帰つてしまい数日しても帰つて来ないのを、允子と不貞行為をしていたことから同女との関係を知られたためと憶測したとしてもあながち不自然ではなく、そして、允子との関係で美智子との縁が断たれるかも知れないと深刻に案じたことは十分に首肯できるところである。
以上のように、被告人は約束の日が過ぎてしまつたのに金が返せず、この先もそのあてがなく窮していたうえ、そのことによつて自分の見栄や信用、自尊心が傷つくことを強く気にしていたこと、允子の存在によつて美智子との縁が断たれることを深く恐れていたという事情に、もともと犯罪と動機との関係は必ずしも一様ではないうえ、一旦思いつめるとそれ程でない動機から思いがけない重大な犯罪を犯すことのあることは時にある例であり、被告人も現に本件についてどうしてあんなことをしたのか今考えると自分でも判らん旨述懐している(録音テープ当庁昭和五三年押第六一五号の五一)ところであり、これらの点を考え合せると被告人には允子を殺害する動機がなかつたと断ずることはできない。
しかしながら、他面、右の債務の支払いを免れるという点については、村井琴子の司法巡査に対する供述調書によると、允子は昭和四〇年七月二六日友人の村井に対し、米田さんは一〇月まで待つてくれというのや、そこでその金はあんたから一〇万円借りたことにし、友達が二六日にとりに来るから五万円でもいいから返してと米田さんに言つているので、あんたに来てもらつたんや、と話し、村井も被告人に会うつもりでいると、同日婚約者の田守義夫が来訪したため村井は帰ることとなり、その際允子に、米田さんに毎日でも請求して金を返してもらいなさいよ、と忠告すると、允子は、同じアパートにおつてそんなきついこといわれへんし、と答えたことが認められる。そうすると、允子の被告人に対する返済請求がきびしかつたとは考えられず、他方、被告人にその自白するような氏名不詳の男に一〇万円の謝礼を渡すだけの持ち合せがあれば、それを返済に充てて残りの分は当分の間猶予してもらうというのが自然であるし、現に被告人は、八月一日までは手持金一二、三万円のうちから一〇万円と利息だけを払つて、残りについては待つてもらうつもりで允子に会いに行つたというのであるから、それからさらに一日約束の日が過ぎてしまつたからといつて允子の殺害を決意するというのは不自然の感を免れ得ないのみならず、被告人は米田美智子、米田為松の供述調書等に見られるように、自己中心的で、金を借りても返済の約束を守らず、不義理を敢えてすることが稀ではなかつたし、また、口先が巧くその場を糊塗する術にも長けていたことが窺えるので、このような被告人が允子との前示金員の返済の約束が一部実行できないからといつて、殺人という大きな危険を冒すというのは考え難いところである。
また、美智子とのよりを戻すため允子の殺害を決意したという点についても、米田美智子の司法警察員に対する各供述調書、原審における証言によれば、同女は、昭和四〇年七月二五日ころ被告人と喧嘩し別れるつもりで翌日から実家に帰つたまま八月五日まで清和園に戻らなかつたが、右の喧嘩は被告人が定収もないのに麻雀で外泊したことが原因であつて允子との関係によるものではなく、美智子は被告人に女性関係があるとは思つておらず、したがつて允子との関係も全く気付いていなかつたことが認められる。そして、被告人においても、美智子が允子との関係に気付いたのではないかと憶測したにすぎず、美智子にそのことを確かめてもいないので、そのような憶測だけから直ちに殺人という重大な犯行を決意するというのは如何にも不自然の感を免れ得ない。
これを要するに、被告人が允子殺害の動機として自供しているところはいずれも説得力に乏しい感がある。
(三) 結論
被告人と堀川允子の殺害および死体遺棄とを結びつける証拠は被告人の自供調書のみであるところ、その自供調書の信用性については以上のとおりこれを裏付けるものと疑わしめるものとが存する。よつて以下にこれを判断する。
堀川允子の死体が被告人の自白に基づいて発見されたこと、同女は被告人の自白どおりタオルで頸部を絞められていたこと前示のとおりであるところ、被害者の殺害方法およびその死体の遺棄場所は犯人が最もよく知るところであり、普通には、犯人しか知り得ない事柄であるところ、右のように被告人が死体発見前にした被害者の殺害方法および死体遺棄の場所に関する自白と死体の状況および場所とが符合しているということは被告人の自白の真実性を物語る重要な資料であり、被告人の自白調書は信用性が高いといわねばならない。
右に加えて、録音テープにあらわれている被告人の前示自白の状況(右は前日した自白の繰り返しであることを考慮する要があるが、)被告人が堀川允子の両親に対して、允子を殺害したことの詫状を出していること、内妻米田美智子とその両親および報道関係者にも本件犯行を認める書面を書いていること、ポリグラフ検査の結果が自白の内容とかなりの点で符合していること、さらに被告人が本件の審理に際して裁判所にその弁解を明らかにするためにその意思によつて、すすんで作成陳述した前示上申書において、被告人が本件犯行の日に堀川允子をドライブに藉口して六甲山に誘い出した結果同女が殺害遺棄された旨本件の外形的事実を自認していること等の点をも併せると被告人の自白調書は一層信用性を増すものというべく、したがつて、被告人が本件を犯したとの疑いは濃いといわねばならない。
しかしながら、被告人の自白調書は被告人が堀川允子を誘い出して殺害した日にちを昭和四〇年八月三日の夜としているが、前示のとおり、允子が住んでいたアパートの管理人であつた小森ヒサエは八月四日の朝允子がアパートを出かけるのを目撃した旨証言し、その証言を覆えすに足りる確証は存しないので、右自白調書はその点で信用性に疑問が存することになるところ、被告人の自白は本件犯行の日が八月三日夜であることを基盤として成立つており、したがつて、允子が殺害された日が三日夜ではなくて四日の朝以降であるとすると、被告人の自白はその根底からゆらがざるを得ないことになるので、右の疑問は重大である。
また、被告人の自白調書では、前示のとおり、身元も気心も知れず、共謀関係も存しない氏名不詳の男の運転する自動車の中で、いきなり本件殺人を犯したということになつているが、そのようなことは常人の理解を超えるものであり、被告人の自白調書中共犯者に関する部分は果してそのとおりか疑いなきを得ず、ひいて、被告人の自白調書がそのまま信用できるか強い疑問が残るところである。
さらに動機の点においても、被告人の自白するところは、被告人は本件被害者から借金していたが約束の日までに返済できなかつたのでその返済を免れ、信用、見栄、自尊心を守るとともに、被害者との不倫関係に気づいて実家に帰つてしまつた内妻とのよりを戻すため本件犯行を犯したというにあるところ、前後の事情を勘案すると右は殺人の動機として薄弱の感を免れ得ないこと前示のとおりであり、被告人の自白調書にはこの点においてもその信用性に疑問が存する。
そうすると、被告人の自白に基づいて堀川允子の死体が発見されたこと、その自白どおり被害者の頸部がタオルで絞められていたことなどから被告人が本件犯行を犯したとの疑いは払拭できず、前記上申書によつても少なくとも被告人が本件犯行に深いかかわりを有していることは明らかであるが、しかし被告人の自白調書には前示のとおり共犯者と犯行の動機について疑問があり、特にその犯行日と矛盾する小森ヒサエの証言が覆されない以上被告人が原判示事実どおりの犯行を犯したとの確信に至らず、右自白調書に則つて本件犯行を認定するには合理的疑いが存するといわざるを得ない。そして、右自白調書以外には本件犯行と被告人とを結びつける証拠は存しないので、疑わしきは被告人の利益にの法理にしたがい、被告人に対して有罪の認定をすることはできない。
被告人の自白調書を信用できるとして、これに基づき被告人に対し強盗殺人、死体遺棄の事実を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすべき事実誤認が存することになり、各論旨は理由がある。
第二 原判示第二の各詐欺に関する事実誤認の主張について
各論旨は、原判決はすべての詐欺事実につき有罪を認定したが、その外形的事実については争いないが、被告人には詐欺の犯意がなく、被害者にも被害意識がなかつたから、原判決には事実の誤認があるというのである。
所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討するに、原判示各詐欺の事実中、尼崎信用金庫、大果大阪青果株式会社および株式会社大阪魚市場関係については、関係証拠に照らし、被告人の弁解を容れる余地は全くなく、事実誤認は存しない。
大福信用金庫関係については、別表(一)1ないし8については、その担当者高沢靖、松井十四夫において、被告人のいうとおり広告が掲載されると信じて出金したものであること同人らの証言によつて明らかであるから詐欺罪の成立に疑問の余地はないが、9についてはその担当者の大野富也の当審における証言によれば、前任者からの引継事項として本件のような場合には金を支払わなければ仕方がないということで被告人が広告を掲載しないということも聞き知つていたというのであるが、大野に申し送りをしたと認められる松井十四夫は当審において、被告人の請求額は広告料として割高なので、高いという裏付けを求めたことがあり、その際被告人はゲラ刷のような紙片を見せ、また情報提供もしているというので、これを信じるほかなかつたというのであつて、大野も右証言中で警察の取調べの際述べたことは記憶の新しいときだから間違いないと思うとも証言しているところ、同人の司法警察員に対する供述調書には原判示に副う記載があるので、原判示関係証拠を併せ考えると大野は前任者が欺岡されていた状態を引き継いだものとみるのが相当であり、同人に対しても欺岡があつたというべく、したがつて9についても詐欺罪が成立する。
東大阪信用金庫関係については、同金庫理事長の上野義雄は差戻前の第一審において、広告の効果があるとは思わないからいわばお付き合いというような気持で金を出すにすぎない旨証言しているが、その前後の証言内容をふまえると、右は広告を掲載することを当然の前提として唯その効果には期待していなかつたという趣旨であると解するのが相当であるから、右証言をもつて詐欺罪の成否を左右するに足りず、同金庫に対する詐欺罪はいずれも成立するといわざるを得ない。
大阪商工信用金庫関係については、別表(四)1ないし7については詐欺罪の成立を疑わしめるような証拠は存しないが、8については、差戻前の第一審における担当者西本一郎の証言によれば死亡した前理事長の土橋幸太郎から聞いたところでは、被告人に賛助料として出していたとのことであつたというのであるが、土橋の司法警察員に対する供述調書によれば、大阪年鑑が出版され、広告も掲載されると信じていたというのであり、そして、西本の司法警察員に対する供述調書によれば、被告人には右理事長のお声がかりでその請求に応じて出金していたというのであるから、8についても詐欺罪が成立することになる。
浪速信用金庫関係については、理事長の山口忠一は、差戻前の第一審において、被告人には協賛という立場で金を払つていたと思う旨証言しているが、他面その支出は総務部長に一任していた旨供述しており、この種の金銭支出は総務部長の権限で処理されると認められるところ、総務部長で本件金員を支払つた金田清の司法警察員及び検察官に対する供述調書によれば、同人は産経大阪年鑑が発行され、広告も掲載されると思つていたというのであるから、同金庫に対しても詐欺罪が成立するといわざるを得ない。
大阪厚生信用金庫関係については、同金庫理事長細川練一の、被告人に対して原判示の出金をした事実がない旨の証言があるが、右証言は、同金庫の経理元帳や受領証に基づいて作成された岸本進の供述調書に照らして到底措信できず、右金庫に関する詐欺罪の成立は明らかである。
清風学園関係については、平岡英信は、差戻前の第一審において、被告人から被害を受けたという認識はなく、業界新聞などが来たとき寄付を出すことがある旨証言しているが、警察の取調べを受けたときは多分ありのままに話したとも証言しており、同人の司法巡査に対する供述調書では、同人は当時受領証を受け取るまで被告人を産経新聞社の社員と信じ込んでおり、受領証に「大阪情報通信社」の記載があるのを見ても、産経新聞社の傍系会社だと思つていたとの記載があり、支払つた金額も一万二〇〇〇円に二万円と当時としては決して少ない額ではなく、また二回にわたり金を支払つたのであるが受け取つた領収証にはそれぞれ「産経大阪年鑑掲載広告料」「産経全国学校名鑑掲載広告料」と各異なつた記載があり、その名目もその都度違つていたというのであるから、これらに照らすと、長い年月を経過しそのときの印象も薄れ、貨幣価値も変化した後における前示証言をもつて、詐欺にあつたとの前示司法巡査に対する供述を否定するに足りず、清風学園についても詐欺罪の成立が認められる。
以上のとおりであるから、大阪産業信用金庫及び関西青果株式会社に対する詐欺を除く分については、その成立を認めた原判決には所論のような事実誤認は存せず、論旨はいずれも理由がない。
次に大阪産業信用金庫に対する詐欺について検討するのに、総務課長補佐次いで総務課長になつた芝崎武司の司法警察員に対する供述調書によると、同人は産経大阪年鑑が刊行され、同金庫の広告も掲載されると信じたから広告料等を支払つたのであり、それが虚偽であるとわかつていれば金を渡さなかつたというのであるけれども、同人は、当審において、米田実専務理事に呼ばれて被告人に金を渡してくれとの指示を受け、その際金の趣旨については触れなかつたが、指示通り支払つたもので、実際の趣旨が情報提供料とか賛助金であつても広告料という勘定科目の名目で処理する旨証言しており、米田実専務理事も、差戻前の第一審において、被告人は年一、二回来訪して業界の情勢について話し、それが営業上も多少役に立つので、情報を提供してもらう見返りに多少の賛助金はやむを得ないと思つて出しており、被告人が新聞とか書巻とかを刊行しているとははじめから考えていなかつたと証言し、前示の芝崎証言とも符合している。そうすると、別表(五)の金員の各交付が、芝崎武司において、被告人が産経大阪年鑑に広告が掲載されると信じてなされたとの点について疑いが存するところであり、結局、右各事実については犯罪の証明がないというべく、したがつて、同金庫に対する詐欺を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすべき事実誤認が存するといわねばならない。この点に関する各論旨には理由がある。
最後に、関西青果株式会社に対する詐欺について考察するのに、同社総務部次長次いで総務部長になつた酒井康夫の司法警察員に対する供述調書によれば、産経大阪年鑑が刊行され、同社の広告が掲載されると信じ、同業他社も依頼しているとのことであつたので、広告料を支払つたというのであるけれども、同人の当審証言によれば、昭和三五年一二月二六日の分は福原正作社長自ら支払指図書に広告料との趣旨の記載をし、同社長の指示で酒井が金を支払い、それ以降の分は形式的手続で支払つてきたというのであり、福原正作も、差戻前の第一審において、被告人は市場関係の情報をよく知つており、来社すると情報を提供するので心付けを渡しており、しかも同社には多数の業界新聞関係者が出入りし、その中には広告料として授受しながら広告を掲載しないものもあるので、被告人についても広告を載せてもらうことはあまりあてにしておらず、詐欺にかかつたという意識はない旨証言している。そうすると、別表(八)の金員の交付が、酒井康夫において、被告人が産経大阪年鑑に広告を掲載するとの誤信に基づいてなされたとの点について、疑いが存するところであり、結局右各事実については犯罪の証明がないというべく、したがつて同社に対する詐欺を認定した原判決には判決に影響を及ぼすべき事実誤認が存するといわざるを得ない。この点に関する各論旨は結局理由がある。
第三 破棄自判
以上のとおりであるから、原判決中強盗殺人、死体遺棄、大阪産業信用金庫及び関西青果株式会社に対する詐欺につき有罪を認定した部分については破棄されなければならないが、その余の詐欺は右と刑法四五条前段の併合罪の関係にあるとされているから、結局原判決は全部につき破棄を免れない。そこで、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い次のとおり自判することとする。
(罪となるべき事実)
<以下詐欺事件に関する判示省略>
(証拠の標目)<省略>
(一部無罪の理由)
本件公訴事実中、強盗殺人、死体遺棄、の要旨は、
被告人は、
一昭和三九年七月ころから昭和四〇年六月ころまでの間、被告人と同じ大阪市住吉区殿辻町七六番地所在の清和園アパートの一号室に居住していた堀川允子(当三五年)より数回にわたり現金合計約三〇万円を借用し、同年七月末日までに全額返済する約束をしていたが、同年八月二日になつてもこれを返済することができず、かつかねてより同女と情交関係を結んでいたところ、同年七月二八日ころ内妻米田美智子が親許に帰つたまま被告人の居室(同アパート二〇号室)に戻らなかつたので、同女が被告人と堀川允子との情交関係を察知したものと考え、この際堀川允子を殺害して右債務の支払いを免れるとともに、内妻米田美智子の疑いをも払拭しようと決意し、同年八月三日午後六時三〇分ころ右堀川允子に対し「ドライブに行こう」と声をかけて同アパートから誘い出し、かねて打合せをしておいた顔見知りの氏名不詳者運転の自動車に同女を同乗させ、同日午後八時三〇分頃神戸市東灘区住吉町西谷山六甲山一、七八八番地の一一付近に至り、走行中の車中において、左腕で同女の頸部を抱きかかえて絞めつけ、更にタオルをもつて右頸部を絞めつけ、同所において同女を窒息死させて殺害し、もつて右三〇万円の債務の支払いを免れて財産上不法の利益を得
二前記氏名不詳者と共謀のうえ、同日同時刻ころ被告人において殺害した前記堀川允子の死体を、前記殺害の場所より約四五〇メートル北方の同町無番地六甲山大月地獄谷に突き落として遺棄し
三、四<詐欺事件に関する部分省略>
たものである、というのであるが、いずれも前示のとおり犯罪の証明がないので、刑事訴訟法三三六条により右各事実につき無罪の言渡しをする。
よつて、主文のとおり判決する。
(村上幸太郎 逢坂芳雄 山田利夫)