大阪高等裁判所 昭和53年(ラ)80号 決定 1979年2月28日
抗告人
小川早苗
右法定代理人親権者
父兼抗告人
小川薫
右法定代理人親権者
母兼抗告人
小川淑子
右三名代理人
村林隆一
外四名
被抗告人
宮崎県
右代表者知事
黒木博
抗告人らを原告、被抗告人及び申立外鹿児島市を被告とする
奈良地方裁判所昭和五二年(ワ)第八七号損害賠償請求事件において、
抗告人及び右申立外人がなした移送の申立につき同裁判所が昭和五三年二月二〇日なした移送決定に対し、
抗告人らから即時抗告の申立があつたので、当裁判所は次のとおり決定する。
主文
原決定中申立外鹿児島市の申立を却下した部分を除きこれを取消す。
被抗告人の本件移送申立を却下する。
理由
一抗告の趣旨及び理由は別紙抗告状記載のとおりである。
二当裁判所の判断
1 民訴法三一条は、複数の管轄裁判所が存在する事件について、そのうちの一つの裁判所を選択して提起された訴訟を、「著キ損害又ハ遅滞」を避ける必要があることを要件として、他の管轄裁判所に移送したうえ審理することを認めている。右要件のうち「著キ損害」の有無の判断は、当事者の訴訟遂行上の具体的な利益を中心として判断されるべきであり、右にいう「著キ損害」を避ける必要があるか否かの判断に際しては、直接的には訴の相手方当事者である被告側の受ける不利益が考慮されるべきことは勿論であるが、それと同時に事件が移送されることにより原告側が受けることになる不利益についても十分な配慮をする必要がある。この観点から裁判所としては、移送の要否の決定については、当事者の訴訟遂行能力についても十分検討すべきものといわなければならない。これに対し「著キ遅滞」を避ける必要があるか否かの判断は主として公益的な見地からなされるものであり、結局右損害及び遅滞の両要件を総合的に比較考量して判断すべきものである。
2 そこで、本件における移送の当否を検討する。
記録によれば、本件は、昭和四九年六月一四日鹿児島市立病院で当時鹿児島市に居住していた抗告人薫、同淑子の間の子として早産した極小未熟児であつた抗告人早苗が、同病院で保育中に未熟児網膜症に罹患し、その後県立宮崎病院に転送されて治療を受けたがその効果がなく、遂に失明したことから、その後奈良県内に転居した抗告人らにおいて、右失明を鹿児島市立病院における保育上の過失及び県立宮崎病院における治療上の過失に原因するものと主張し、大阪弁護士会所属の弁護士に訴訟委任して被抗告人及び申立外鹿児島市を相手取り義務履行地である奈良地方裁判所に債務不履行又は不法行為によるその損害賠償を請求し、被告ら側は右請求に対し病院の過失を全面的に否認し、抗告人早苗の失明は当時の医学水準に応じた最高の注意義務をつくしても避けえなかつた不可抗力に基づく事故であると主張していること、抗告人らは第一回口頭弁論期日前生計の中心である抗告人薫の昭和五〇年分所得一三〇万円(給与所得控除前)の証明書を付して訴訟救助の申立てをして訴訟救助の決定を得たこと、なお前記委任した弁護士はいわゆる法律扶助によるものでないこと、被告ら側はいずれも弁護士に委任し、第三回口頭弁論期日までに双方、訴状、答弁書、準備書面(その丁数計一六五丁)を提出し、カルテ等を含む書証の提出、証拠申請(抗告人(原告)らから県立宮崎病院の眼科医長新城歌子、抗告人薫同淑子の本人尋問となお鹿児島市立病院の担当医二名、鑑定証人的証人産科、小児科、眼科の医師各一名、抗告人早苗の保母、教諭右一名を予定し、被抗告人(被告)宮崎県から右新城歌子と、宮崎病院の小児科医長梶原昌三の二名(いずれも宮崎市に居住)と保育器等の現場検証、被告鹿児島市から鹿児島市立病院の担当産科医師外西寿彦、同川辺幹生、眼科医師村上文代、看護婦是枝知江、同堀之内とし子(ただし堀之内は現在福岡市に居住、他は鹿児島市内に居住)の五名)があつた後に、被告鹿児島市及び同宮崎県からそれぞれ本訴をその普通裁判籍所在地及び不法行為地を管轄する鹿児島又は宮崎地方裁判所への移送申立があり、原決定がなされたことが認められる。
右のとおり本訴はいわゆる医療過誤訴訟であり、しかも当事者の主張が根本的に対立していることからすれば、今後相当期間の慎重な審理を必要とし、証拠調の嘱託は考えられない事案であることが窺われるところ、右奈良地方裁判所と宮崎地方裁判所とは遠距離にあるから、抗告人らとしては奈良地方裁判所で被抗告人としては宮崎地方裁判所で審理を受けるほうが経済的にも時間的にも多大の利益を有することはいうまでもないが、本件訴訟の中心は極小未熟児であつた抗告人早苗に対する保育ないし未熟児網膜症治療上の過失の成否であり、今後の審理が右の点を中心として進行することは明らかであり、本件において既に申請されている証人はすべて被抗告人らの過失責任の成否に関連する証人で、直接審理が必要であるところ、同人らは奈良地方裁判所から遠隔の地に居住し、かつ、各申請者ら申出の尋問予定時間によつてもいずれも尋問に相当長時間を要することが推測されるから、奈良地方裁判所で審理する方が宮崎地方裁判所で審理する場合よりも費用がかかることもいうまでもない(抗告人の予定する証人が採用されるとしても鑑定的証人については宮崎地方裁判所で審理する場合近畿所在の証人に限られるものではない。)しかし抗告人らは、訴訟救助を受け経済的に恵まれないから、本件が宮崎地方裁判所へ移送されて審理されることになれば、弁護士の出張費用等を負担しなければならず、本件の審理が相当期間にわたることが予測されることからすれば、その経済的負担は極めて大きく、抗告人らの訴訟継続を事実上不可能にする危険があるものといわなければならない。これに対し、被抗告人は地方自治体であり、その訴訟遂行能力に欠けるものがあるとは思われない。
次に、「著キ遅滞」を避けるため宮崎地方裁判所へ移送する必要があるか否かについて見るに前記の今後の審理を考えれば、従前の弁論の準備が奈良地方裁判所でなされていることを考慮しても、宮崎地方裁判所で審理する方が裁判所にとつて便宜である。奈良地方裁判所で今後審理すれば、現場検証あるいは証人を出張して尋問するときは裁判所の負担が大きくなり、証人を呼出して尋問しても証人が遠距離に居住し、かつ、尋問時間が長いことから、その呼出しや審理についての労が多く訴訟の遅滞が生じるおそれがある。そして証人にとつても便宜である。
以上のとおり審理の便宜費用の点では移送を可とするが、なによりも移送すれば抗告人は経済的な損害のため裁判を受ける権利にも影響を受けることが考えられる以上本訴は繋属中の奈良地方裁判所で審理し、宮崎地方裁判所へ移送しないのが相当である。このことは抗告人らの住所が本件事故以後移転し、義務履行地の管轄裁判所が変つたことを考慮に入れても左右されない。
3 よつて、本訴を宮崎地方裁判所へ移送することとした部分を取消し、被抗告人の本件移送の申立を却下することとし、主文のとおり決定する。
(村瀬泰三 林義雄 弘重一明)
即時抗告の趣旨
原決定中被告鹿児島市の申立を却下した部分を除きこれを取消す。
相手方からの本件移送申立を却下する。
との裁判を求める。
即時抗告の理由
一、原決定が本件を宮崎地方裁判所に移送すると判断した理由は訴訟経済、訴訟遅滞につきるがその前提として著しい事実誤認、理由不備あるいは齟齬がある。以下詳述する。
二、本件の性格
本件は、抗告人薫及び同淑子夫婦が鹿児島市に居住中、所謂未熟児として出生した抗告人早苗が、申立外鹿児島市立病院に入院中未熟児網膜症に罹患し、その治療を求めて相手方宮崎県立病院に転医したが、効を奏せず失明したという事実について、後に奈良市に移送した抗告人等が、右申立外鹿児島市及び相手方を相手取つて奈良地方裁判所に損害賠償請求の訴えを提起したものである。
一方、抗告人等は生活困窮者であるため、訴訟提起に当つてその事実を疎明して同裁判所に訴訟救助の付与を求めた。これに対し同庁は抗告人等に対する訴訟救助付与を決定した。
右を要するに本件は、地方自治体という強大な組織の不法行為乃至は債務不履行によりわが娘を失明に至らしめた組織も資金も持たない一小市民が民事訴訟法第一一八条の保護の下に蟷螂の斧を振わんとするものである。
三、担当医師の当事者的性格
本件はそもそも、担当医師の過失に起因して生じた抗告人らの損害について、相手方らの責任を問おうとするものであり、担当医師らは純粋な第三者ではありえないのである。従つて本来ならば、担当医師らをも被告とすべきところであるが、彼等は所謂勤務医であり、多額の損害賠償請求事件の被告席に据えることについて、抗告人等の好意的配慮から、これを回避したまでである。
故に本件の担当医らは、鑑定証人としての医師とは全くその性格を異にするものであるということを、裁判所は先ず銘記せられたい。
原決定は担当医師の尋問は出張尋問によるということを既定の事実のように前提としている。なる程医師は多忙な職業であり、医師の証言を得ようとすると、容易に証人調期日を決し得ないことは吾人の日常体験するところである。しかし乍ら、振り返つて考えて見るならば、医師にあらずとも、多忙である職種の人は多々居るのであつて、医師に限つて証人調べの方式を優遇することは必ずしも理由のないことである。しかも本件の担当医の場合、前述のごとく、本来は当事者として被告席に在るべき人であるのだから、これを抗告人早苗の失明と全く無関係の第三者の如く、あたかも鑑定医の如く遇する原決定の判断には、全く従うことが出来ないのである。
従つて、本件の担当医師らの尋問は奈良地方裁判所の法廷に出頭せしめて行うべきであり、両医師の被告本人的立場から見ても訴訟経済から見てもそれが最も妥当性を得ているのである。
四、訴訟経済の問題
本件を宮崎地方裁判所に移送する旨の原決定の判断の根拠は、両病院の担当医師が尋問の為に出張するとすれば、恐らく、数次に亘ることになるであろうから、訴訟経済上移送をすべきであるという点にある。しかし乍らこれについては次の諸点において首肯し難いものである。
(一) 本件において抗告人等が申請する人証は、その大半が奈良地方裁判所管内もしくはその周辺近県に居住する人々であり、宮崎若しくは鹿児島に居住する証人は、両被告病院の担当医合わせて僅々数名にすぎない。これらの人々についてその居住地で尋問を行うために本件を移送すれば、他の大半の人証に遠方への出頭を強いる結果となり、却つて訴訟経済を失するという事態となることは明白である。
(二) 担当医の尋問には多くの回数を要するとの考えであるが、担当医に限らず、鑑定証人についても、本件の如き性格の医療裁判については、長時間の証言を得なければその真相を解明し難いことは明白である。従つて僅か数名の証人が宮崎もしくは鹿児島に居住していることのみを理由として本件を、移送したならば、却つて訴訟上の不経済を招く結果となることは必至である。
(三) 本件口頭弁論期日において、奈良地方裁判所は、「この種の医療事件は先ず担当医師から調べを始めるべきである」旨の考えを示された。この点については抗告人等も全く賛同するところである。従つて、原決定は証拠調の冒頭の段階で移送決定をしたものである。そうするとその後の全ての人証は宮崎地裁で調べられねばならぬこととなり奈良県若しくはその近県に居住する証人又は本人達は、遙るばる宮崎まで遠距離旅行を強いられることになるが、この人達の中には、抗告人小川早苗担当医らと異なり本件に関し純然たる第三者としての立場に立たれる人も含まれるのであるからその不当性は極めて甚しいものといわねばならない。
(四) さらに原決定は本件のごとき医療過誤訴訟の場合人証の取調に多大の時間と労力を要することを理由としているが、それでは何故宮崎地方裁判所に移送されれば裁判所としての時間と労力が節約されるのかについては全く理由が示されていない。
宮崎地方裁判所で審理されようが、「各証人に対する尋問は相当長時間を要することが予想され、それゆえ尋問回数も多数回にわたることは多分に予想され」るし、宮崎地方裁判所においても「医療過誤事件はすべて書記官の要領調書ではなく、速記官の速記録による逐語調書によつて」なされるはずであり且つ「担当医師の尋問は、速記の時間的制約から数回に及ぶのが常」であろう。
してみると、原決定の理由の中心は抗告人側に宮崎地方裁判所に出張させる時間、労力、経済の負担をかけるか、相手方らに奈良地方裁判所に出張させる同様の負担をかけるかの比較衡量のうえ前者を採用したのにつきると言わざるを得ない。その判断が誤りであることは以下に述べる。
五、訴訟救助の付与を得た抗告人らの経済的負担 前記の通り抗告人らは奈良地方裁判所から本件について訴訟救助の決定を得ている。もし原決定が維持されたならば、右の恩恵はたちまち無意味に帰することは明白である。抗告人らの生活状況は訴訟救助決定を付与された時点とくらべて、今日、むしろ諸物価高騰のため生活は却つて苦しくなりこそすれ、改善されたところは全くないのである。
本件が宮崎地方裁判所に移送されたとすれば抗告人等の代理人(事件の性質上最低二名)が一回の弁論に出張するだけでも、その最低限度の交通費・宿泊費はおそらく一〇万円程度となり、抗告人らの家庭の月収の大きな部分に相当してしまうことに御留意を願い度い。
これに対し、申立人及び相手方はいずれも市乃至県という地方公共団体であつて、右のような問題はすくなくとも抗告人ら程には深刻ではない筈である。
原決定はその理由中において「原告に経済的余裕のないことは窺われるが、そのためにこそ当裁判所は本訴を維持継続するため訴訟救助を付与したのであつて、もちろん本件を移送すれば、原告らに多少の経済的負担をかけることになるが、前記損害遅滞は原告らの右損害に比してより重大であると認められ」と述べているが、訴訟救助は遠隔地での訴訟を維持するために付与されたものではなくまさしく奈良地方裁判所での本件訴訟を維持するために付与されたものであるし、以上に述べたごとき抗告人らの負担が何故「多少」でしかなく、前記四の(四)で分析したように訴訟経済において奈良地方裁判所と宮崎地方裁判所では何らの差異がない以上、相手方らの負担の方を抗告人等の負担よりも重視すべきであるという理由も全く示されていない(そのような理由があるはずもないが)。
六、以上いずれの点よりするも原決定は取消を免れないので本申立に及ぶ次第である。