大阪高等裁判所 昭和54年(ネ)1307号 判決 1980年10月23日
控訴人 乙山株式会社
右代表者代表取締役 甲野太郎
右訴訟代理人弁護士 中里栄治
同復代理人弁護士 大畑浩志
被控訴人 株式会社協和銀行
右代表者代表取締役 色部義明
右訴訟代理人弁護士 中村健太郎
同 中村健
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
1 被控訴人は控訴人に対し金六〇七万五二一〇円及び内金四六七万五〇〇〇円に対する昭和五一年一〇月二二日から、内金一四〇万〇二一〇円に対する昭和五二年七月二三日から、各完済まで年六分の割合による金員を支払え。
2 控訴人のその余の請求を棄却する。
二 訴訟費用は第一、二審を通じて五分し、その二を控訴人の、その余を被控訴人の各負担とする。
三 右一の1の金員の支払を命ずる部分については、控訴人において金二〇〇万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。
事実
一 控訴人は、「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し金一〇〇〇万〇三〇〇円及びこれに対する昭和五一年四月三日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決及び金員支払を命ずる部分につき仮執行の宣言を求め、
被控訴人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。
二 当事者双方の主張及び証拠の関係は、次のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおり(ただし、原判決五枚目表一行目の「3」を「2」と訂正し、同一八枚目裏一一行目の「小切手」の次に「(小切手番号四六七一四)」を付加する。)であるから、これを引用する。
1 控訴人の主張
(一) 代表者実印と銀行取引印の関係につき、預金取引や当座取引では実印を使用するのはむしろ異常であり、実印と銀行取引印とは大小の関係にあるのではなく、むしろ異質のものである。
(二) 本件手形・小切手について、たまたま印鑑届の裏面をみて、実印と一致していたので、控訴人に照会せずに支払っても過失はない、との考え方は採りえない(なお、この点について控訴人は、たまたまでも右裏面との照合はしておらず、記憶による照合だと思われてならない。)。なんとなれば、届出印鑑と異なる印影については、その印影が更に実印でないか否か、印鑑届の裏面と照合しなくてはならないことになるが、これでは毎日多数の手形・小切手を取扱う銀行として、その業務は完全に麻ひしてしまうであろう。
本件手形・小切手については被控訴人から控訴人に対しなんらの照会もないまま支払がなされてしまった。
2 証拠関係《省略》
理由
一 原判決理由一ないし三(原判決一一枚目表一二行目から同一五枚目表五行目まで)に判示するところは、同判決一一枚目裏一一行目の「存在」の次に「及び控訴人主張どおりの印影であることに争いない検甲一号証の一、二」を付加し、同一二枚目表二行目の「四八・九年」を「四七・八年」と訂正し、同七行目の「ころ」の次に「(その後昭和四四年ころには総務部経理担当主任となった。)」を付加し、同一三枚目表四行目と五行目の間に次のとおり付加するほか、当裁判所の判断と同一であるから、これを引用する。
(5) 本件取引印は直径一六ミリメートルの丸印で縁(外周)が二重になっているのに対し、本件実印は直径一八ミリメートルの丸印で縁(外周)は一重であり、字体も字の大きさも異なり、両者の印影に差異のあることは肉眼にて一見明白である。
二 被控訴人は、抗弁2として、実印は通常本人が自ら保管し、銀行取引印以上に真正の推定が働くこと等を理由として、銀行取引印でなく実印の押捺された本件手形・小切手の被控訴人による支払には過失はないと主張する。
前記判示事実のほか、《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められ、反証はない。
1 (一)の手形は受取人明昌特殊産業株式会社が株式会社三和銀行野田支店を通じて、(三)の小切手は所持人松本観光株式会社が株式会社住友銀行備後町支店を通じてそれぞれ取立てに回したもので、被控訴人福島支店によって交換払いされ、(二)の小切手は被控訴人福島支店で同支店の甲野太郎の普通預金口座に入金することによって支払われた後、同日同金額が右口座から出金され、同支店の丁原夏子の普通預金口座に入金され、更に同日住友銀行神戸支店の堤商事株式会社の普通預金口座へ送金され、(四)の小切手は株式会社住友銀行三鷹支店へ受取人丙川春子として送金されることによって支払われた。
2 右被控訴人福島支店の支払に際しては、(一)(三)の手形・小切手については係員横井省造が、(二)の小切手については係員宮里和子が印鑑照合をした((四)の小切手の印鑑照合については証拠上明らかでない。)が、本件手形・小切手は同支店が交付した手形・小切手用紙に控訴人が昭和四四年六月一六日(甲野太郎が社長となった時点)同支店に届出た法人印章、記名判、控訴人の法務局への届出印(実印)が押捺され、右実印は同支店への右届出に使用されていたので、少なくとも横井は本件取引印(届出印)でなくても実印が使用されておればよいとして照合手続を終え、いずれの手形・小切手も照合した係員から上司や控訴人に連絡されることなく支払われた。
3 なお、右手形・小切手の要件に不備はなく、事故届も出されておらず、控訴人は被控訴人福島支店にとってかなり大口の取引先であり右手形・小切手の額面金額は不自然と思われる程高額ではないことその他右手形・小切手には印影の点を除き偽造を疑わせるような事情はなかった。
しかしながら、本件取引印(届出印)鑑との相違につき被控訴人が取るべき措置としては、当裁判所は、《証拠省略》を参酌して、以下述べることが要請されるものと判断する。すなわち、銀行の手形・小切手の当座勘定取引においては、その取引約定書によって明らかなように、所定の手形・小切手用紙と銀行取引印(届出印)とに基づいて行われ、銀行が偽造、変造の小切手を支払った場合の免責の規定も、右用紙、届出印について規定されている。もちろん、実印は、当座勘定取引においても、取引開始時及び取引印喪失による改印の時にあっては、本人確認を行ううえで重要な働きをなしその意味で基本的な印形ともいえるけれども、それは取引開始時及び取引印喪失による改印時に限られ、いわば一過的なもので、それ以外の通常の取引にあっては、手形・小切手取引はもちろん、住所変更、代表者変更等の届出に至るまですべて取引印のみで行われ、取引印は銀行、取引先の双方にとって実印以上に重要な価値を有しているものである。したがって、取引先においても、仮に取引印以外の印形(実印を含めて)が手形・小切手において冒用されたとしても、銀行が支払をすることはないとの信頼を有し、銀行取引印と実印とでその保管方法に差等を設けることもあろうし、仮に実印のみを紛失したり改印したりしたとしても、右について印鑑喪失届や改印届を銀行に提出する義務が発生するものではない。銀行としては、所定の手形・小切手用紙が使用され、届出でた法人印章、記名判が押捺されていても、押捺された印影が銀行取引印でない以上、それがたとえ実印であったとしても、支払をなすべきではなく、右のように手形・小切手面からすれば取引先が真正に振出したものである可能性が十分あり、かつ、取引先からの届出等により取引先が確定的に支払委託の意思を有しないで振出したことが明らかである事情がない以上、取引先に対し相当な方法により支払委託の意思を照会することが当事者間の取引関係及び事案に適したものというべく、右照会により取引先の支払委託の意思が確認されたときに限って支払うべきものである。
したがって、被控訴人には前記債務不履行について責に帰すべき事由がなかったということはできない。被控訴人の右抗弁は失当である。
三 被控訴人は、抗弁3として、(二)の小切手につき、(1)丁原が直接被控訴人福島支店の店頭へ持参し呈示したこと、(2)丁原は控訴人の当座取引、貸付、手形割引に関し度々被控訴人福島支店に来店していたこと、(3)丁原は(二)の小切手につき支払を受けた金員を控訴人代表者個人名義の普通預金口座に振替入金し、更に持参していた同代表者個人の届出印鑑をもって払戻手続をしたこと、(4)丁原の控訴人における担当職務、地位権限、控訴人代表者との関係、を理由に、丁原には控訴人代表者の指示により右小切手を振出し持参したものと認められるような状況があったので被控訴人のなした支払には過失がなかったと主張する。
しかし、仮に右(1)ないし(3)の事実が認められ、かつ、これに右(4)につき先に認定したところ(引用にかかる原判決一二枚目表四行目から同裏四行目まで及び同一三枚目裏一行目から同一四枚目表三行目まで)を総合したとしても、被控訴人において、右小切手に押捺された控訴人の印影が本件取引印でない事情につき、控訴人代表者に対してはもちろんのこと丁原に対してすら照会したことを認むべき証拠はない以上、右小切手につき被控訴人のなした支払につき責に帰すべき事由がなかったということはできず、右抗弁も失当である。
四 抗弁4の追認又は承認の主張について判断する。
被控訴人が控訴人に対し、当座勘定の受払の明細を記載した照合表を、当座勘定元帳が一枚終るごとに(昭和四八年二月にオンラインが開始された後は一か月に一回)送付したことは当事者間に争いがないが、毎年二月及び八月に当座勘定残高を送付した事実を認むべき証拠はない。
また、本件契約において、当座勘定の受払の明細や残高の報告に対し控訴人が二週間内に異議の申出をしないときはその支払や残高を承認したものとみなす旨の特約がなされていたとの被控訴人の主張については、《証拠省略》によれば、本件契約は昭和四四年一一月一八日にその内容が一部改訂されたところ、右改訂前の契約においては、当座勘定約定書第一五条に被控訴人主張の特約のごとき内容の規定が存在したが、右改訂後の当座勘定約定書においては右内容の規定は存在しないことが認められるので、少なくとも右契約改訂後において被控訴人主張の特約があったということはいえず、他にこれを認むべき証拠もない。
したがって、右特約の存在を前提として、控訴人は被控訴人の支払を追認したとする被控訴人の主張は失当である。
被控訴人は、更に、異議を述べなかった場合には後日異議の申立ができない旨の取引慣行があったとも主張するが、これを認むべき証拠はなく、右慣行の存在を前提とする追認又は承認の主張も失当である。
五 抗弁5の、(四)の小切手についての追認及び責任免除の主張につき判断する。
《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、反証はない。
控訴人においては、昭和四八年一一月下旬ごろより控訴人の会計に不足金のあること及び右不足が丁原の不正行為によることの疑いを持ち、調査を進めていたが、同年一二月二四日になって被控訴人福島支店に当座勘定残高の照会をしたところ、(四)の小切手により支払がなされた分だけ残高が減少している旨の回答があった。しかし、控訴人代表者としては右小切手の振出には心当りがなかったので、更に、同支店に右小切手の印影につき照会したところ、同支店より「本件取引印と違っているから本件取引印を押捺したものと差替えてほしい。」旨の回答があった。そこで、控訴人代表者が翌二五日に丁原にただしたところ、本件実印を冒用して右小切手を振出し支払を受けたことを自白したので、控訴人代表者は同支店に対し、「実は控訴人従業員の横領事件が発生しているが、現在なお調査中で詳細は分らないので、後で話をすることとして、とりあえず本件取引印を押捺した小切手と差替える。」旨を断ったうえ、右差替をした。
右認定事実によれば、未だ、右差替によって控訴人が(四)の小切手についての被控訴人の支払を追認したということはいえず、他にこれを認むべき証拠はない。
また、被控訴人は、控訴人は昭和四九年一〇月四日右小切手の支払について被控訴人の債務不履行の責任を免除したと主張するところ、右主張に沿う《証拠省略》は、原審における控訴人代表者本人尋問の結果に照らして、にわかに採用できず、他に右主張を認めるに足る証拠はない。
六 次に、本件手形・小切手の被控訴人による支払により控訴人の被った損害につき判断する。
本件のように、控訴人名義の偽造手形・小切手につき被控訴人によって支払がなされた場合は、特段の事情がない限り、控訴人は右手形・小切手と同額の当座預金が減少し同額の損害を被ったというべきである。
ところで、被控訴人は、(一)の手形、(三)の小切手につき特段の事情があったので右支払によるも控訴人に損害は発生していないと主張するので、右主張につき検討する。
1 前記認定事実のほか、《証拠省略》によれば、控訴人は明昌特殊産業株式会社に対し債務を負担していたところ、右債務の支払のため、丁原において、控訴人代表者より本件取引印の押捺を受けた額面二五〇万円の小切手を、右会社に交付することなく横領してしまったため、右小切手に代わるべきものとして(一)の手形を偽造し、これを右会社に対する債務の支払のため交付したもので、右手形は結果的に控訴人の右会社に対する債務の支払に充当されたことが認められ(る。)《証拠判断省略》
したがって、(一)の手形の被控訴人による支払によって控訴人が損害を被ったということはできず、(一)の手形についての被控訴人の主張は理由がある。
2 (三)の小切手につき、控訴人が松本観光株式会社から借入れた債務の返済のために交付されたとの被控訴人の主張については、これを肯定する《証拠省略》は、《証拠省略》と対比し、採用することができず、他にこれを認むべき証拠はない。
したがって(三)の小切手についての被控訴人の主張は理由がない。
七 次に、過失相殺の抗弁につき判断する。
前記認定事実のほか、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
前記認定の、控訴人における本件実印、手形帳、小切手帳の保管方法の下にあっては、経理担当主任たる丁原が、控訴人代表者等が不在の折や丁原が一人で残業をする折等に、手形帳、小切手帳から手形用紙、小切手用紙を抜取り、届出法人印章、記名印はもちろん本件実印を冒用したりすることは容易になしうる状況にあったといえるところ、控訴人代表者は同人と肉体関係もあった丁原に秘書的役割を担当させる(本件実印の保管場所たるダイヤル式手提金庫のダイヤルナンバーを知らされていたのは丁原のみで、丁原の上司たる海山川夫(昭和四四年ころから総務部長、同四八年から取締役総務部長)も右ナンバーを知らされていなかった。)などして同人を信用するあまり、控訴人の経理面の細部については専ら丁原に任せきりにして、みずから又は丁原の上司を通じての丁原の監督を十分になさず、手形・小切手の振出状況についても、毎月の決算を示す月次試算表(被控訴人等各取引銀行口座の残高一覧表が記載されている)に目を通すだけで、被控訴人等各取引銀行から定期的に送付されてくる当座勘定元帳写や当座勘定照合表(当座勘定の残高のみならず受払の明細が記載されている)を見て当座勘定の受払の明細をみずからチェックし又は丁原の上司をしてチェックさせることもせず、手形・小切手の振出等の状況の把握を怠っていたものである。したがって、右を怠らなければ、(一)の手形につき丁原の不正を発見し得て、(二)ないし(四)の小切手の偽造行使を未然に防止し得たであろう。更に、(四)の小切手の件は、右偽造行使の約一ヵ月以前より、控訴人の会計に不足金のあること及び右が丁原の不正行為によることにつき疑いを抱き、同人に監視人を付けて調査を進めている間の出来事であって、右小切手の偽造行使を未然に防止することはある程度可能であったはずなのに、右偽造は丁原があらかじめ盗んでいた小切手用紙に本件実印を押捺してなしたものであるにせよ、控訴人代表者出張のため監視人に依頼していた控訴人顧問税理士月星海夫において監視を怠り、丁原をして単身被控訴人福島支店へ赴くことを許容して右偽造小切手の行使の機会を与え、もって、右による損害発生を防止しなかったものである。
右認定事実によれば、丁原の偽造した(二)ないし(四)の小切手の被控訴人による支払により控訴人が損害を被ったについては、控訴人代表者において、その親密な秘書的立場にある経理担当主任たる従業員丁原の小切手偽造行使行為を誘発し、これがため被控訴人の過失とこれによる損害賠償義務を招いたという意味で、控訴人代表者にも相殺されるべき過失があったというべく、その過失割合は、被控訴人の債務不履行が銀行業務の基本的な支払調査義務についての注意を怠ったことに基づく点を考慮し、(二)、(三)の小切手の件につき一割五分、(四)の小切手の件につき三割とみるのが相当である。
八 そうすると、控訴人は被控訴人の債務不履行により、(二)の小切手の支払のなされた昭和四八年三月三〇日に四〇〇万円の、(三)の小切手の支払のなされた同月三一日に一五〇万円の、(四)の小切手の支払のなされた同年一二月二四日に二〇〇万〇三〇〇円の各当座預金が減少し各同額の損害を被ったところ、前記七の過失相殺事由があるので、控訴人は被控訴人に対し、(二)の小切手につき三四〇万円、(三)の小切手につき一二七万五〇〇〇円、(四)の小切手につき一四〇万〇二一〇円の各損害賠償請求権を有することになる。したがって控訴人の被控訴人に対する本訴請求は、右合計金六〇七万五二一〇円及び内金たる右(二)、(三)の合計金四六七万五〇〇〇円に対する本件訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和五一年一〇月二二日から、右(四)の一四〇万〇二一〇円に対する昭和五二年五月二〇日付控訴人(第五)準備書面(請求の拡張の申立)によりその請求をした翌日であることが記録上明らかな昭和五二年七月二三日から、各完済まで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で正当として認容すべきであり、その余は失当として棄却すべきである。
よって、原判決を右のとおり変更することとし、民訴法九六条、八九条、九二条、一九六条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 村瀬泰三 裁判官 古川正孝 篠原勝美)