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大阪高等裁判所 昭和54年(ネ)2166号 判決 1981年2月24日

控訴人

大石初野

控訴人

大石與四郎

控訴人

大石博

右三名訴訟代理人

門司恵行

岡野幸之助

被控訴人

大阪市信用保証協会

右代表者理事

稲田芳郎

右訴訟代理人

尾崎亀太郎

主文

原判決中控訴人ら敗訴部分を取消す。

被控訴人の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも全部被控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一<証拠>によれば、請求の原因一ないし六の事実が認められる。右事実によれば、被控訴人は亡大石広吉に対し訴外株式会社三和銀行に対する代位弁済金残元利金一〇七万六一〇〇円及び内元金九五万二八一四円に対する弁済期後の昭和四九年四月六日から完済まで約定利率年18.25パーセントの割合による遅延損害金債権を有することが明らかである。

二大石広吉が昭和五一年一月三一日死亡したこと、控訴人初野がその妻、控訴人博、同與四郎及び訴外池田輝司がその子であることは当事者間に争いがなく、右事実によれば、控訴人らは広吉の第一順位の相続人であることが明らかである。

控訴人らは、民法九一五条一項に定める期間内に相続放棄の手続をしたので広吉の債務を相続しないと主張し、<証拠>によれば、控訴人らは、昭和五三年九月八日大阪家庭裁判所に相続放棄の申述をし、昭和五四年五月一日右申述が受理されたことが認められるが、被控訴人は、右相続放棄の申述は法的期間内になされたものではなく、控訴人らの相続放棄の手続は無効である旨主張するので、以下検討する。

1  <証拠>を総合すると次の事実を認めることができる。

(一)  昭和五一年二月二日頃控訴人初野、同與四郎のもとへ千葉県柏警察署から大石広吉が同年一月三一日死亡した旨の電話連絡があり、控訴人ら三名は、早速同警察署へ赴き、遺体と対面し広吉であることを確認のうえ火葬に付し、遺骨を持ち帰つた。広吉は、後記のとおり昭和五〇年自己所有の全財産を処分して出奔し、以来家族との音信を絶ち行方不明となり、死亡当時はわずかに現金二万円余と自己の衣類等を入れた風呂敷包一個を所持するだけという、いわゆるゆきだおれ同然の状態であり、控訴人らは、広吉の右所持金に三万円を足して検死料、火葬代等を支払つた。

(二)  控訴人初野は、昭和四年頃大阪市で当時雑役夫をしていた大石広吉と結婚し(昭和九年八月一日届出)、昭和六年二月九日控訴人博(長男)、昭和一〇年一〇月三日訴外満(三男)、昭和二一年八月一日控訴人與四郎(五男)をそれぞれ出産した(二男健三、四男悦三郎は幼時に死亡)。広吉は、結婚後建築の仕事(大工)を始め、昭和九年頃一家をつれて満州へ渡つたが、生活は苦しく、控訴人初野の手内職で生活費の一部をまかなう状態であつた。戦後福岡県筑紫野市の本籍地へ引き揚げた広吉一家は、昭和三三年頃再び大阪市へ転居し、広吉は建築業を始め、三男満、控訴人博、同與四郎らがこれを手伝つていたところ、自宅を建て、数軒の貸家を取得できるまでになつた。しかし広吉は、家庭を省みず酒色に耽り、女性関係をめぐつて控訴人初野といさかいが絶えず、昭和四八年八月頃同女に対し顔面が腫れあがる程の暴力を振つたため、初野は、当時既に自宅二階で父親と別所帯をもつていた控訴人博の世話になり、同年一二月頃控訴人與四郎のもとへ行つて扶養を受け、以来広吉が死亡するまで夫婦別居を続けた。その間広吉は、妻の生活費の援助をしないばかりか、昭和五〇年四月頃にはそれまで父親の仕事を手伝つて自宅二階の一室に住んでいた博の一家に立退きを求め、家族の協力によつて取得することのできた広吉所有名義の自宅、貸家等一切の不動産を他に処分し、その売却代金を家族に分配することもなく独り占めにし、行先を告げずに出奔してしまつた。控訴人博は、そのためモーテルの管理人などをして家族の生活をつながざるを得なくなり、以来控訴人らは、その夫であり父親である広吉から全く音信を受けたことはなく、前記死亡通知を受けるまでその所在すら知らなかつた。

(三)  控訴人らは、広吉の死亡を知つた際、自分らが第一順位の相続人であることは知つていたが、前記のとおり広吉には死亡当時相続すべき財産など全くなく、かつ生前からその資産内容について説明を受けたこともなく、数年の別居と音信不通のため広吉に本件で請求を受けているような多額の債務があるとは全く知らず、広吉の財産を相続するとか、相続に関する何らかの手続をとる必要があるとかいうことに全く思いつかなかつた。

(四)  広吉は、まだ建築業をしている昭和四七年六月二二日請求の原因一のとおり株式会社三和銀行から一二〇万円を借受け、その際被控訴人との間に請求の原因二のとおり保証委託契約を結んだ。しかし広吉は、三和銀行へ返済すべき分割金を同年一二月の第一回目の支払から怠り、そのため被控訴人は、請求の原因五のとおり昭和四八年九月一三日三和銀行に元利金を代位弁済したのであるが、広吉は、被控訴人に対しても保証委託契約に反して約定どおり弁済をせず、度々の請求にわずかに同年一二月四日に各金額一〇万円、支払期日昭和四九年二月五日、同年三月五日、同年四月五日の約束手形三通を交付し、これらの手形が各支払期日に決済されただけで残金の弁済を全くしなかつた。しかし被控訴人は、右約束手形を受領してからは広吉に対する請求をしばらく放置し、昭和五一年八月頃から広吉が死亡していることを知らないまま債務者本人である広吉及び保証人である三男満に対し請求していたが、広吉は既に全財産を処分して行方不明となつているという程度のことを把握しただけで、三男満の所在がわからず同人にも連絡がとれない状況となつた。そこで被控訴人は、もう一人の保証人である訴外丹生正義に対し昭和五二年一〇月頃保証債務の履行を求めたところ、丹生は、手を尽して広吉の所在を捜し、広吉が既に死亡し相続人として控訴人らがいることをつきとめ、その旨被控訴人に報告するとともに、自らも直接控訴人博、同初野に面接し、同控訴人らに相続人として広吉の債務を履行することを求めた。

(五)  丹生からの報告を受けた被控訴人は、右事実を本籍地照会等によつて確認し.広吉の相続人として控訴人らと訴外池田輝司(広吉と先妻池田オトエとの間の長男)がいること及びその各住所を確かめ、昭和五二年一一月四日控訴人初野、同與四郎のもとへ電話連絡し、電話に出た控訴人初野に対し広吉の債務の支払について話し合いたいからと出頭を求め、なお右電話のやりとりの中で、控訴人らがそれまでに相続放棄の手続をしていないことを察知した。控訴人博は、同年一一月一〇日控訴人らを代表して被控訴人大阪市信用保証協会を訪れ、担当者である新谷昭二郎と面談し、同人の説明によつて初めて広吉に本件債務があつたことを知り、保証委託契約書(甲第一号の一)、金銭消費貸借契約書(甲第三号証の一)に押捺されている広吉の実印が父親のものであることを確認した。新谷は、控訴人博に対し控訴人らは広吉の相続人であるので本件債務を支払うように求めると、控訴人博は、「自分は現在雑役夫をしており、家族五人とともに勤務先の倉庫の二階に無償で住み、十数万円の給料では家族の生活費でせいいつぱいで広吉の債務を支払う余裕は全くない、控訴人初野、同與四郎親子の生活も同様である。しかも控訴人らは、広吉の財産を何ら相続しておらず、生前にも夫及び父親としてそれらしいことをしてもらつていないので、広吉の債務を支払う筋合ではなく、控訴人らに対して支払を請求するのは不合理である。」旨主張して支払を拒んだ。これに対し新谷は、控訴人らはこれまで法定の期間内に然るべく相続放棄の手続をしなかつたのであるから、もはや現時点で広吉の債務の相続は免れず、法律上支払義務があることは明らかなので、一括して支払えないのであれば分割ででも支払つてほしい旨申し入れた。新谷から右のような説明を受けた控訴人博は、被控訴人の請求に対し直ちに相続放棄の手続をして支払義務を免れるなどということには全く思い到らず、新谷の請求に対しては前記のような主張をくり返すだけであつたので、双方の主張は平行線をたどるばかりであり、一時興奮した控訴人博との間で口論にさえなつた。そこで控訴人博は、他の相続人とも相談のうえ返答する旨告げて一旦被控訴人のもとをひきあげたが、控訴人らが広吉の債務につき支払義務を負うという被控訴人の主張には納得がいかず、母である控訴人初野(明治三五年生)に対しては、「被控訴人と話をして解決した、心配しなくともよい。」と報告するだけで具体的な債務の内容は知らせず、弟である控訴人與四郎に対しては、前記交渉の経過を説明するとともに、「父親の借金があるらしいが、支払う筋合はないと断つてきた。」旨報告し、控訴人與四郎もこれに同調したので、控訴人博は、数日後被控訴人に対し電話で「控訴人らには支払う意思がない。訴訟になつても致し方ない。」旨回答した。

被控訴人は、訴外池田輝司に対してもその頃広吉の債務の弁済について話し合いたいという趣旨の呼出状を送付していたが、同人の母池田オトエから「三〇年も前から縁の切れている被相続人の債務について支払義務はない。」と電話で回答があり、同女との間で控訴人博と同様のやりとりがあつたが、これも訴訟になれば致し方ないという態度であつた。

(六)  被控訴人は、昭和五三年六月頃再度控訴人らに対して本件債務の支払を求め、担当者である新谷は、同月一三日自ら控訴人初野、同與四郎宅へ赴き、家族構成、財産状態等を調査したが、立会つた控訴人初野は支払能力がないと弁解するばかりで支払に応じてもらえず、あくまで支払を拒否する控訴人博には面会することすらできず、池田輝司の母は、自宅を訪れた新谷に対し前回同様の趣旨を述べ、けんもほろろに支払を断つた。そこで被控訴人は、本件債務の支払を求めて同年七月二四日、広吉の相続人である控訴人ら三名と池田輝司、保証人である大石満(相続人でもある。)、丹生正義を相手に本件訴訟を大阪地方裁判所に提起した。右訴状は控訴人初野、同與四郎及び池田輝司には同年八月三日、控訴人博には同月四日に送達されたが(本件記録上明らかである。)、控訴人らが被控訴人からこのように文書でもつて支払の請求を受けたのは本件訴状が初めてであり、広吉の債務を支払う義務はないと信じていた控訴人博は、訴状を受取つて驚き、事実支払義務があるかを確認するためその頃大阪弁護士会が行つている無料法律相談へ本件訴状を持参して行つたところ、「気の毒だが所定の期間内に相続放棄の手続をしていないので現に支払義務がある。」との回答を得、さらに第一審控訴人ら訴訟代理人弁護士事務所に相談に行き、同弁護士の指示で控訴人らは同年九月八日大阪家庭裁判所に相続放棄の申述をした。しかし大阪家庭裁判所は、控訴人らの右申述は、控訴人らが被相続人広吉の死亡を知つた昭和五一年二月三日の翌日から起算して三か月を経過した同年五月三日までになすべきところ、既に熟慮期間を経過しているという理由で却下の審判をした。そこで控訴人らが抗告したところ、抗告審において右審判が取消され、大阪家庭裁判所へ差戻され、同裁判所において昭和五四年五月一日控訴人らの相続放棄の申述が受理された。

なお、長男輝司も、本件訴状受領後昭和五三年八月二二日直ちに相続放棄の申述を大阪家庭裁判所にしたところ、同人の申述は直ちに受理され、被控訴人は、同年九月一八日の原審第一回口頭弁論期日において同人に対する本件訴を取下げた。

以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

2  民法九一五条一項にいう「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」とは、相続人が、単に相続開始の原因たる事実を知つただけではなく、そのため自分が現実に相続人となつたことを知つた時と解すべきであり、相続人たる地位にある者が、被相続人死亡の事実は知つていたが、先順位相続人の相続放棄の事実あるいは相続法の規定(例えば民法八八九条一項一号に定める逆相続)を知らなかつたため自分が相続人になるとは思いつかなかつたなど、事実誤認あるいは法の不知のため具体的に自己が相続人となつたとの認識を有しなかつた場合は、未だ自己のため相続の開始があつたことを知つたものとはいえない(大阪高裁昭和四九年(ネ)第二一一七号、昭和五一年九月一〇日判決、判例タイムズ三四五号二一九頁。)。そればかりでなく、純然たる財産相続を基調とする現行法のもとにおいては、右の「自分が現実に相続人となつたことを知つた時」の中には、その相続すべき遺産(積極、消極財産)の存在を認識し、これを相続するとの認識が必要であると解すべきであり、相続人が被相続人死亡当時遺産が全く存していないと認識している場合には、およそ遺産相続ということは起り得ないと考えるのが当然であつて、たとえ第一順位の相続人が被相続人死亡の事実を知つたとしても、相続の承認、放棄に関する手続をしないのは当然といえる。このような場合、将来万一遺産が現われるかもしれないことを予想し、被相続人死亡の事実を知つた時から三か月以内に相続の単純若しくは限定承認又は放棄の手続をしておくべきであり、これをしなかつた以上単純承認したものとみなされ、たとえ後に発覚した遺産が債務のみであつてもこれを承継すべきであると解するのは、相続人に余りに酷であり妥当でない。したがつて相続人が遺産の存在を認識していない場合は、未だ民法九一五条一項の熟慮期間は進行しないものといわなければならない。

3  そこでこれを本件についてみるに、前記事実によれば、控訴人らは、被相続人広吉の第一順位の相続人であり、遅くとも昭和五一年二月三日には広吉の死亡を知つたのであるが、広吉は、全財産を処分して出奔し、死亡当時は野たれ死にひとしく、相続の対象となる財産は全く有せず、もちろん本件債務の存在も明らかでなく、相続人である控訴人らは、広吉の遺産が存在するとの認識をもたなかつたのであるから、広吉の死亡の事実を知つた時から熟慮期間が進行するということはできない。もつとも新谷が控訴人博に本件債務の支払を請求した際、前記認定のとおり「相続放棄の手続をしなかつたのであるから、法律上支払義務がある。」と支払を迫つたのは、控訴人らが広吉死亡の事実を知つた時から三か月以内に相続放棄していないのであるから債務の相続は免れないとの見解に立つことを前提としているのであつて、その際新谷は、「あくまで支払に応じたくないのであれば今からでも相続放棄をすればよいではないか。」などと控訴人博に説明したわけではない。このように新谷から説明を受けた控訴人博は、前記のとおり一面では広吉の債務のみを相続するはずがないと思う反面、同時にそのような相続はこれを免れる手段として一般に相続放棄の制度があることを知つたものの、現時点ではもはや熟慮期間を経過していて相続放棄はできないと信じ込み、相続放棄をして債務を免れることなど全く思いもつかなかつたのである。そしてこのことは控訴人初野、同與四郎についても同様であつて、このように控訴人らが被控訴人から広吉の債務の請求を受けたにもかかわらず相続放棄をしなかつたことは、法の錯誤に基づくとはいうものの、控訴人らの独断とは言い難く、むしろ前記の事情に照らせば已むを得ないことである。このような控訴人らに対し、被控訴人から広吉の債務の存在を知らされた時から三か月以内に相続放棄をすべきであつたと要求するのは不可能を求めるにひとしく、その期間内に相続放棄をしなかつたからといつて債務のみの相続を強制するのは現行相続法の理念に照らして極めて不合理である。そもそも相続の単純若しくは限定承認又は放棄のための熟慮期間は、相続人が相続の承認又は放棄をできることを知つていることが前提であり、それにもかかわらずその期間内に限定承認又は放棄をしなかつた場合にはじめて単純承認をしたと看做されても已むを得ないということが言えるのである。民法九一五条一項にいう「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」についての冒頭の解釈は、事実誤認あるいは法の不知によつて相続人が相続放棄の機会を逸し、債務の相続を強制される結果を回避しようとの配慮に基づくものであり、この考え方を推し進めるなら、本件のように已むを得ない事由に基づき相続放棄はできないと錯誤している場合も、熟慮期間は進行しないと解するのが相当である。この場合、法(民法九一五条一項)の錯誤は相続人の責任であるとして相続債権者を一方的に保護することは、本来債権者は当該取引の相手方たる債務者の資力、人的、物的担保から弁済を受けるべきものであり、相続人の特有財産から弁済を受けるなどということは全くの僥倖であること、現行相続法は純然たる財産相続を基調とし相続人保護にその主眼があることに照らし相当でない。以上によれば、既に広吉死亡の事実を知つていた控訴人らは、昭和五二年一一月に被控訴人から広吉の債務につき支払請求を受けたことによつて相続すべき遺産(消極財産)の存在を知つたのであるが、他方控訴人らは、前記のような已むを得ない事情により、民法九一五条一項に定める熟慮期間は既に経過し相続放棄はできないと誤信していたのであるから、法の不知によつて相続人となつたことを知らなかつた場合に準じて、なお同条項の熟慮期間は進行せず、控訴人らが本訴提起を受け、担当の弁護士の助言でなお相続放棄ができることを知つた昭和五三年八月から右期間は進行すると解すべきである。そうすると、同年九月八日になされた控訴人らの本件相続放棄の申述は右条項の期間内になされたものであり有効である。よつて控訴人らは広吉の本件債務を相続しない。

三仮に控訴人らの前記相続放棄の申述が熟慮期間経過後になされたものとして無効であり、控訴人らは広吉の債務を相続するとしても、次のような理由で被控訴人の本訴請求は信義則に反するものとして許されないと解するのが相当である。

現行法における相続の根拠は、遺産の中に含まれる相続人の潜在的持分の払戻し、あるいは相続人に対する生活保障にあると解せられるが、これは積極財産を相続する場合に妥当するものであつて、消極財産(債務)の相続にはかならずしも妥当しない。積極財産と合わせて消極財産をも相続人に承継させる根拠は、相続債権者の保護及びこれによる法的安定性の確保という点にもあるというべきである。すなわち、相続人が遺産の中の積極財産だけを相続し債務は相続しないというようなことを認めることは、積極財産を引当てにしていた相続債権者の利益を不当に害する結果となり、到底容認できないことだからである。このように債務についてその引当てとなる積極財産が存在し、相続人が債務を積極財産とともに承継する場合は抵抗なくこれを容認することができるが、本件のように遺産として債務しかなくその引当てとなる積極財産が存しないような場合にはさらに別の考慮をすべきである。けだし、相続人が(道義上の責任を感ずるなどして)債務だけの相続でも積極的にこれを承認する場合はともかく、そのような債務承継の意思が全くないにもかかわらず法定単純承認の規定(民法九二一条二号)を適用することによつて相続人に債務のみの相続を強制するときは、債権者は、本来相手方たる債務者の給付のみを期待すべき地位にしかないにもかかわらず、債務者が無資力であつてもその相続人の特有財産からまでも債権の満足を得られ、債権者が不当に利得をする反面、相続人は、自己に責任なく自己の意思に基づかないことによつて不利益を強いられる結果となり、現行法の基本原則の一つである個人責任主義に抵触することになりかねないからである。また権利の行使は信義則に従つてこれをなすことを要するのであるから、債権者が適切な債権管理あるいは権利行使を怠つたため債務者その他の第三者に不当に不利益を及ぼすようなときは、場合によつてその権利行使が信義則違反あるいは権利の濫用として許されないものとなるのはいうまでもない。したがつて現行法上債務のみの相続があるとしても、相続債権者が信義則に従つた適切な権利行使を怠つて被相続人から債権を回収する機会を失い、相続開始後もこれを放置したため相続人らにおいて債務の存在を知りえず相続法規にも暗いことから早期に相続放棄をすることができないでいる場合に、相続人らの法の無知、錯誤にも乗じその相続放棄をしていないことを理由に債務の承継を強制するようなことは許されない。これを本件についてみるに、前記二1(四)の事実によれば、被控訴人は、広吉が三和銀行に対し第一回の分割弁済金の支払から怠つたため昭和四八年九月一三日同銀行に対する代位弁済を余儀なくされ、その後も広吉は被控訴人に対し同年一二月右代位弁済金の内入弁済として各金額一〇万円の手形三通を差入れた以外全く約定どおりの弁済をせず、広吉が不誠実な債務者であることが当初から明らかであつたにもかかわらず、広吉に対し何らの権利実行のための具体的手段を講ずることなくこれを放置し、広吉の死亡後昭和五一年八月(この時点で代位弁済後既に三年を経過している。)に至つてようやく広吉及び保証人の所在調査を開始しているのである。もし被控訴人が代位弁済の後広吉の債務不履行に対し適切に権利実行の手段を講じていれば、広吉は当時自宅のほか数軒の貸家を有していたのであるから、本件債務を完済する程度の資力は十分有していたと認められるが、被控訴人は、広吉の右債務不履行に対し債権回収のための何らの手段も講ぜず、広吉がこれらの不動産をすべて処分し被控訴人に対する債務を弁済することなく他へ出奔したのを漫然と看過し、結局自らの怠慢によつて債権回収の機会を失つたというべきであり、被控訴人が一時に多数の債権を管理しているという事情を考慮しても、広吉の債務につき長期間その管理を怠つていたとの非難は免れない。一方控訴人らは、被控訴人が相続開始後早い機会に本件債務の存在を主張し請求しなかつたため、広吉の死亡後三か月以内に相続放棄をすることによつて債務の相続を免れることに思い至らなかつたのである。しかるに被控訴人は、前記のとおり控訴人らの所在をつきとめ本件債務の請求をするにあたり、熟慮期間について従来の多数説に従つた主張をしたとはいえ、控訴人らにおいて現に本件相続債務の支払義務がある旨主張し、控訴人らにその支払を迫り、控訴人らをもはや相続放棄によつて債務の相続を免れる手段はないものと誤信させ、所定の期間内に相続放棄の申述をする機会を失わせたものであり、そのことは、被控訴人が当初から意図して行つたことではないとしても、結果的には自らの怠慢が招いた事由をもつて他人に不利益を強い、控訴人らの相続法規の無知、錯誤に乗じたといわれても仕方のないことである。以上のことを勘案し、その他諸般の事情を考慮すると、仮に控訴人らの相続放棄が熟慮期間経過後になされ無効であり、控訴人らが本件債務を法定単純承認により相続することは余儀ないこととしても、被控訴人の本訴請求は信義則に従つたものとはいえず、このような被控訴人の本訴請求は、著しく信義則に反し、また権利の濫用にあたるものとして排斥を免れないというべきである(なお、被控訴人は、池田輝司に対する本訴請求を取下げているが、池田輝司は、既に三〇年前に他家へ養子に行つているという点を除けば、広吉と池田オトエとの間の長男として広吉の相続人であることに変りなく、かつ前記認定のとおり被控訴人から請求を受けて本件債務の存在を控訴人らと同時期に知つていたのであるから、同人が本訴提起後にした相続放棄は、控訴人らの相続放棄を無効とする限りこれと同様に無効であり、本件債務につきその相続分に応じて支払義務があるといわなければならない。もし池田に対する本訴取下げの理由が、同人の相続放棄の申述が家庭裁判所によつて受理されたので、その判断を尊重したというのであれば、控訴人らに対する訴についても、前記認定のとおり控訴人らの相続放棄の申述が一旦は家庭裁判所によつて却下されたものの後には受理されているのであるから、池田に対する訴と同様の考慮がされてしかるべきである。しかるに、被控訴人が池田に対する訴を取下げ、控訴人らに対してはあくまでも本訴請求に固執するということは、池田が長期間広吉との関係を絶つているという事情を考慮しても、彼此均衡を失するといわねばならない。)。

四以上によれば、被控訴人の控訴人らに対する本訴請求はすべて失当としてこれを棄却すべきである。よつて、これと異なる原判決中控訴人ら敗訴部分を取消し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(朝田孝 岨野悌介 大石一宣)

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