大阪高等裁判所 昭和55年(う)1732号 判決 1981年11月24日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役八月に処する。
本裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。
原審及び当審における訴訟費用はいずれもその四分の一を被告人の負担とする。
理由
<前略>
第一検察官の控訴趣意について
論旨は、義務上過失傷害の点につき被告人を無罪とした原判決には、次にあげる点において事実の誤認がある、というのである。
所論は先ず原判決が、制動距離との関係から、被告人が自動二輪車操縦の自由を失つた地点においては本件結果発生の予見可能性がなかつたとする点につき、検察官が原審において訴因として主張した注意義務即ち、道路交通法三八条一項に規定する「横断歩道の直前で停止することができるような速度で進行しなければならない。」との注意義務は、急制動等の非常措置をとつてでも横断歩道の手前で停止することさえできる速度であればよいというようなものではなく、不測の事故を惹起するおそれのあるような急制動を講ずるまでもなく安全に停止し得るようあらかじめ十分に減速徐行することをも要するとする趣旨のものであり、したがつて、時速二五キロメートルでは一一メートル以上手前で制動すれば横断歩道上の歩行者との衝突が回避し得るからといつて右の速度で進行したことをもつて右の注意義務を尽したことにはならない、と主張する。
よつて按ずるに、検察官が訴因とした本件交差点手前において交差点の出口にあたる南側横断歩道直前で直ちに停止できるような速度に減速する義務は、いわゆる急制動で停止できる限度までの減速でよいという趣旨ではなく、もつと安全・確実に停止できるような速度にまで減速すべき義務をいつていることは所論のとおりである。ただ、被告人は、本件交差点に進入するにあたり本件交差点手前において、一応時速四〇キロメートルから時速二五キロメートルにまでは減速しているのである。だとすると、その程度の減速では十分ではなかつたのかどうかが問題となるが、本件全証拠によつても、右の程度の減速では不十分であつたとか、時速何キロメートルまで減速すれば本件事故を回避できたかを確定することはできないのである。従つて、単なる減速義務が訴因となつている限りは、原判示のとおり被告人に有利に解し、横断歩道手前で停止できる最高限度のスピード(本件では被告人が現に出していた時速二五キロメートル)とその場合の制動距離(本件では原判示のとおり一一メートル)を前提にして、回避可能性の有無を判断せざるをえない。原判決は、このようにして、制動義務の発生する地点(被害者の位置より一一メートル手前)では、すでに被告人車は転倒していたから回避可能性はなかつたと判断しているのである。右判断は、その限りでは正当であり、所論のような事実誤認はない。
所論はまた、田尾に陰部をくすぐられてのけぞつたため自車操縦の自由を失い転倒した旨の被告人の公判供述は信用できず、被告人車転倒の真相は、田尾が被告人の腰に回していた両手を動かしその腰を抱え直したのを被告人がくすぐつたく感じたと認めるが相当であり、この点被告人の公判供述どおりに認定した原判決は事実を誤認している、と主張する。
しかしながら、原審における訴因を前提とする限り転倒の原因自体は過失の内容とはされていないから、転倒原因について判断するまでもなく、原判決には判決に影響を及ぼすような事実誤認はなく、所論は採用できない。
所論はさらに、本件事故のように後部同乗者の動作によつて自動車の安全運転に影響を受けるおそれの場合には、運転者としては同乗者に対してかかる安全運転を妨害するような動作を中止するように注意してこれを中止させてハンドル、ブレーキ操作の的確を保持し続けるべきであり、それにもかかわらず同乗者において妨害となる行動を中止しない場合には、同乗者を降車させるなり運転を中止するなりして自動車の安全運転にいささかの影響をも受けないように努めなければならない注意義務がある、しかるに被告人は、かかる措置を講じなかつた結果操縦の自由を失つたのであるから、それはもつぱら被告人自身の過失に帰せられるべきであり、これを不可抗力であるとした原判決は事実を誤認している、と主張する。
しかしながら、原審で検察官は、かかる運転中止義務を訴因には掲げていない。検察官が訴因とした過失と右運転中止義務違反の過失とは明らかに過失の態様及び判断時点を異にしており、訴因を変更することなく右の如き過失を認定することは許されないところである。したがつて、原審がかかる過失を認定しなかつたことをもつて原判決に事実誤認があつたとはいえない。なお、所論にそう的確な証拠もなかつた。
以上のとおりであるから、原判決には所論のような事実誤認の廉はない。論旨は理由がない。
第二弁護人の控訴趣意について
論旨は、要するに、本件事故は本件交差点の東側から交差点に進入、左折して走行した白色マツダルーチエ車が惹起したことが推認できるから、被告人に原判示第二のひき逃げの責任がなく無罪であり、原判決には、事実の誤認があるというのである。
しかしながら、原判決挙示の証拠によると、原判示第二の事実は優にこれを肯認することができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。論旨は理由がない。
第三職権による判断
職権をもつて原審記録に基づき本件業務上過失傷害の点を審究するに、本件交差点北側入口には一時停止の標識があり、被告人はこれに従つて右交差点入口で一時停止すべき道路交通法上の義務があり、被告人がこれを怠つたまま南進するため交差点に進入したことは明らかである。そして、右交差点の手前付近で後部座席の同乗者は、交差点南側にある横断歩道を東から西へ渡りかけようとする被害者を発見していたくらいだから、被告人が右義務に従い適確に一時停止できるような措置をとつておれば、当然被害者の存在にも気づいて慎重に運転して転倒もせず本件結果は回避できたことも疑いない。そこで右一時停止義務違反を、本件事故に対する刑法上の過失責任として問えるかについて按ずるに、右一時停止義務違反と本件事故との間には条件的因果関係が存在すること、本件のように、南北約5.5メートルないし7.3メートル、東西約6メートルないし7.5メートルの道幅の道路が交差し、右一時停止の道路標示と南側出口までの距離が約一五メートルで信号機の設置されていない交差点において、その南側出口に接して幅員約四メートルの東西に通ずる横断歩道が設置されている場合には、右一時停止義務は、横断歩道の通行に優先権をもつ右横断歩道上の歩行者に対する関係でも課せられているものと解すべきであること、被告人には一時停止義務が発生する時点における前方注視義務違反が認められること、一時停止をせず前方不注視のまま時速二五キロメートルの速度で本件交差点に進入すれば、横断歩道上の歩行者の発見が遅れ、急制動をかけても間に合わず歩行者に衝突するであろうことは十分予見可能であること、本件の実際の経過は、右一時停止義務違反後に後述認定の事由によつて転倒しそのまま滑走して結果を発生させたものであるところ、その経過は著しく通常性を欠くものではなく、また予見可能性を否定するに至るようなものでもないこと、以上のような事情を総合すると、被告人の本件交差点手前における一時停止義務違反及び前方注視義務違反は本件事故結果と因果関係があり、かつ右判断基準時における結果発生の予見も可能であつたというべく、被告人はその意味での刑法上の過失責任を負わなければならない。
ところで、右の義務違反のうち一時停止義務違反は、原審における起訴状の公訴事実中の訴因には掲げられていたが、原審第一一回公判期日において、検察官が、これを削除し、直ちに横断歩道上の直前で停止できるように減速して横断歩道上の安全確認をすべき旨の義務違反が被告人の過失であるように訴因変更を請求し、原裁判所は直ちにこれを許可したことが記録上明らかである。そこで原審の右訴訟手続について按ずるに、原則的には、当初の訴因について有罪の判断が得られるような場合であつても、検察官から訴因変更の請求があれば公訴事実の同一性を害しない限りこれを許可しなければならないが(最高裁判所昭和四二年八月三一日第一小法廷判決、刑集二一巻七号八七九頁参照)、本件のように、変更後の訴因では無罪となるような場合には、これを単純に許可すべきではない。また許可後においても本件にあつては、検察官は、原審の論告において、削除したはずの一時停止義務違反を本件事故の原因たる過失として主張しているのであるから、原裁判所としては、よろしくその趣旨につき釈明を求めるべきであつた。
しかるに、原裁判所が、右のように漫然と訴因変更を許可し、かつ、一時停止義務違反を本件の過失とするよう訴因の変更を促し、またはこれを命じないで直ちに無罪の判決をしたのは、審理不尽の違法があり、その訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである。そして右事実とその余の部分とは刑法四五条前段の併合罪の関係に立ち一個の判決を以て処断すべき場合に該当するので原判決は全部破棄を免れない。
よつて、刑訴法三九七条一項、三七九条により原判決全部を破棄するが、業務上過失傷害の点については、当審において予備的訴因の追加が行われ、本位的訴因の証明はないので、右予備的訴因にもとづき、同法四〇〇条但書にしたがつて更に判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は
第一 公安委員会の運転免許を受けないで、昭和五四年一〇月二九日午後九時三〇分ころ、大阪市東淀川区井高野町一三番地先の道路上において自動二輪車(大阪か四三九九)を運転した
第二 自動車運転の業務に従事するものであるところ、後部座席に田尾敏幸を同乗させたうえ前記自動二輪車を運転し、井高野巡査派出所方面から前記場所に向け時速約四〇キロメートルで南進していたものであるが、同所は東西に通じる道路との交差点となり、その南側には横断歩道が設けられているうえ、その手前(北側)には一時停止標識も設置されていたのであるから、同標識手前で一時停止し右横断歩道上の安全を確認し、もつて横断歩行者に対する衝突事故を防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右田尾と話し合うなどして右横断歩道上における横断歩行者の有無及び安全確認をせず時速二五キロメートルに減速したのみで一時停止地点で一時停止することなく右交差点に進入しようとした過失により、折から右交差点南側横断歩道上を東から西へ横断のため歩行中の矢倉チエノ(当時五三歳)を見落し、右交差点に進入直前に右田尾が被告人の脇腹を抱え直したのをくすぐられたと感じてのけぞり自車の安定を失わせ、自車を転倒滑走させて右矢倉に自車を衝突させ、よつて同女に加療約一か月を要する右鎖骨々折等の傷害を負わせた
第三 前記人身事故を起こしたのに、直ちに前記矢倉を救護せず、かつ事故発生の日時、場所、死傷者の数及び負傷の程度等、法令に定める事項を直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかつた
ものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)<省略>
よつて、主文のとおり判決する。
(矢島好信 杉浦龍二郎 石塚章夫)