大阪高等裁判所 昭和55年(う)1887号 判決 1981年8月20日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役二年に処する。
押収してあるあいくち一振(当庁昭和五六年押第一八号の一)を没収する。
原審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
<前略>
控訴趣意中事実誤認の主張について
論旨は、被告人には北牧に対する未必的殺意すらなく、被告人につき未必的殺意を認定した原判決には事実誤認がある、というのである。
よつて記録を精査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討するに、まず、原判決が挙示する関係各証拠及び当審における事実取調の結果を総合すると、以下の事実を認めることができる。
即ち、被告人は暴力団酒梅組系田中組組長の舎弟であり、北牧敬康や暴力団山口組系北山組内殿組組員の関東孝一とは麻雀仲間として交際があつたものであるが、昭和五五年二月二二日ころの夜、被告人が右関東方へ麻雀を誘う電話をしたところ、関東は北牧らと現に麻雀をしていたのにこれをかくし、ねむいからと言つて被告人の誘いを断わり、北牧と口裏を合わせて被告人にはこのことを内密にしておくことにした。しかし被告人は、本件犯行当日の三月一一日そのことを知るに至り、右両名から馬鹿にされたと思つて腹を立て、気晴しに酒を飲んでいるうちにますます憤まんの情が募り、右両名を謝らせてやろうと考え、暴力団員である関東に対する用心から、原判示あいくち(刃渡り約17.5センチメートル)を携行したうえ、原判示の場所へ右両名を呼び出し、同所において、右関東に対し原判示の如く怒鳴りつけながら右あいくちを同人に突きつけ、その際同人の前頸部に切創を負わせた。これを見ていた北牧が「ナーちやん、やめときいな。」と言つたので更に北牧に対し、「何ぬかしてるんや。お前らのことで来たんや。なめとつたらあかんぞ。」と怒鳴りつけ、右あいくちを北牧の頬に二回ほどあてて脅したところ、同人が一瞬驚がくのあまり黙つたまま立ちすくんでいるのを見て、なお謝罪する態度を示さないものと即断して激こうし、右手に持つていた右あいくちで同人の左脇腹を一回突き刺した。その際の被告人と北牧との間隔は約五〇センチメートルであり、北牧の受けた傷は、ブレザー、トックリセーター、腹巻、シャツを突き抜け、腹腔内に長さ約二センチメートル、深さ約一〇センチメートルに達した刺創であつて、左腎臓及び下行結腸に損傷を生じたもので、あと数センチメートル深ければ、生命に危険を生じたものであつたが、着衣の関係からか外観上分明でなかつた。しかも北牧は、右受傷の痛みを感じないまま近くに駐車しておいた自動車を運転してそこから一〇分ほどの距離にある自宅に帰り、自宅に入つて初めて右受傷に気づいた。他方関東に制止された被告人は関東に「車に乗つて話をしようや」と言われるまま、関東と二人で近くに停めてあつた被告人の車まで行き、被告人は、車中で前記麻雀の件について話合によつて決着をつけるとともに、その際関東の前記切創に気づいて、同人を枚方市民病院へ連れていきその治療を受けさせ、再び同人を前記現場まで送りとどけた。その際被告人は、そこにパトカーが来ているのを目撃した。そのあと自宅に戻つた被告人は、妻にあいくちを渡し、「これうめとけ、いつてもうた。」と言い、妻はこれを埋めて隠した。
判旨右の認定事実によると、原判決が未必の殺意を認定する徴表のひとつとして挙げている事実、すなわち、被告人が事件後帰宅した際妻に本件のあいくちを隠匿させたことは右あいくちをもつて関東に傷害を負わせたためである旨の被告人の当審における弁解は、新証拠によつて被告人が関東の傷の手当のため病院に同道したことが窺われる現段階にあつては、直ちにこれを一蹴することはできず、また、関係証拠によると、被告人の本件兇器による北牧に対する加害行為の際、その場に居合わせた関東はもとより、被害者自身もこれに全く気づいておらず、被告人もまた大事になるとは思つていなかつた事情が窺われ、更に、前示の如き犯行の経緯、態様や犯行後の状況等をあわせ考察すると、被告人において被害者に対し本件あいくちをもつて力一杯、しかも同人の身体の枢要部を狙つて突き刺したものであるかどうか甚だ疑問といわざるをえない。このことは本件犯行に至つた動機を考えてみても、これを裏付けるに足りる。すなわち、そもそも本件の発端は麻雀の誘いを嘘を言つて断つたという程度のものであり、被告人があいくちを携行したのも暴力団員である関東を謝らせるためで、当初からこれを用いて殺傷に及ぶことは考えていなかつたこと、前記の経緯からも窺えるとおり被告人は直接応対に出た関東に対して、より腹を立てており、現場においてもまず関東にあいくちを突きつけて謝らせようとしていること、北牧に対して攻撃の意思を生じたのは、同人がその場で第三者的な態度で仲裁に入つた段階であること、被告人と北牧とは八年来の長い知り合いであつて、麻雀の賭金の清算につき若干のいきちがいはあつたものの、殺傷沙汰に及ぶような間柄ではなかつたこと、このような事情に照らすと、被告人が北牧の態度に立腹、激こうしていたとしても、同人の死の結果発生の可能性を認識し、かつこれを認容までしていたとは認めがたく、殺意を認めた被告人の検察官に対する供述調書の内容も、その限りにおいてたやすく信用しがたいものといわざるをえない。
以上を要するに、本件公訴事実中被告人が北牧に対して殺意を有していたとの点については、なお合理的な疑いがあり、本件の全資料を検討しても、他に右の疑いを払拭するに足りる証拠は存在しないから、結局本件公訴事実はこの部分につきその証明がないものといわなければならない。従つて、被告人に対して殺意を認定した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。
よつて、控訴趣意中量刑不当に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は、かねてからの麻雀仲間である北牧敬康(当時四五年)と関東孝一とがいつしよに麻雀をしていたのに両名とも口裏を合わせてこれを内密にしていたことを知つて腹を立て、刃渡り約17.5センチメートルのあいくち一振(当庁昭和五六年押第一八号の一)を携行したうえ、昭和五五年三月一一日午後一〇時ころ、枚方市招提元町一丁目四番一六号喫茶店「潤」前路上に右両名を呼び出し、同所において、右関東に対し右あいくちを突きつけながら右麻雀の件について難詰していた際、横にいた右北牧から関東にくみするように「ナーちやん、やめときいな。」と言われたので、更に北牧に対し、「何ぬかしてるんや。お前らのことで来たんや。なめとつたらあかんぞ。」と怒鳴りつけ、右あいくちの峰を同人の頬に二回程当てて脅したところ、同人が一瞬驚がくのあまり黙つたまま立ちすくんでいるのを見て、なお謝罪する態度を示さないものと即断して激こうし、「おつちやんいいかげんにせいよ。今まで俺と関東とどつちがつきあい長いんや。」と申し向けつつ、右あいくちで同人の左脇腹を一回突き刺し、右北牧に入院加療約二週間を要する腹部刺創による左腎損傷及び下行結腸損傷の傷害を負わせたものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示所為は、暴力行為等処罰ニ関スル法律一条の二・一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、押収してあるあいくち一振(当庁昭和五六年押第一八号の一)は、本件犯行の用に供した物で被告人以外の者に属しないから刑法一九条一項二号、二項を適用してこれを没収し、原審における訴訟費用については刑訴法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。
よつて主文のとおり判決する。
(矢島好信 杉浦龍二郎 石塚章夫)