大阪高等裁判所 昭和55年(ラ)149号 決定 1980年4月24日
抗告人 山口たみこ
主文
本件抗告を棄却する。
抗告費用は抗告人の負担とする。
理由
一 抗告の趣旨及び理由
別紙記載のとおり。
二 当裁判所の判断
当裁判所も、本件相続放棄の申述は却下すべきものと判断するものであつて、その理由は、次のとおり訂正、付加するほかは原審判の理由と同一であるから、これを引用する。
1 原審判二枚目表一〇行目の「被相続人」から一一行目の「過ごす中、」までを削除する。
2 相続人が被相続人の死亡の事実を知つた場合には、それにもかかわらず相続人となつたことを認識しなかつたものと認めるべき特段の事情があるのでない限り、自己のために相続の開始があつたことを知つたものと推認して妨げないものというべきである。本件において、抗告人が明治三七年一〇月二〇日生(被相続人川井文子死亡当時七五歳)の女性で、文子といわゆる逆相続の関係に立つものであることは前認定のとおりであり、また、抗告人の学歴がその主張のように旧制高等小学校卒業であつたとしても、これをもつて未だ右の特段の事情があるものということはできず、抗告人において文子がその生前に多額の債務を負担している事実を了知していたことをも勘案すると、仮令抗告人が相続放棄の具体的手続を知らなかつたとしても民法九一五条所定の熟慮期間の進行を妨げるものではないと解するのが相当である。
よつて、本件抗告は理由がないからこれを棄却し、抗告費用は抗告人の負担として、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 大野千里 裁判官 岩川清 島田禮介)
抗告の趣旨
原審判を取消し、本件を大阪家庭裁判所に差戻すとの裁判を求めます。
抗告の理由
一、原審は民法第九一五条の解釈につき「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」とは、被相続人の死亡の事実を知り、かつそれによつて自己が相続人となつたことを覚知した時と解しており、この見解は大決大一五・八・三、大高判昭四一・一二・二六、大高判昭五一・九・一〇外多数の判例の見解と同旨のものである。
この見解によれば、たとえ相続人が被相続人の死亡の事実を死亡当時すぐに知つたとしても、法律の不知(相続の順位、相続の放棄等)や事実の誤認のために自己が相続人となつたことを覚知しない間は「相続人が自己のために相続の開始があつたことを知つた」とはいえないから、被相続人の死亡により、ただちに民法第九一五条所定の期間が進行を始めるとは言えないはずである。
二、ところが原審は上記の見解を採りながら、抗告人が被相続人の死亡した事実及び被相続人が生前多額の債務を負担していた事実を認識していたことを認定しただけで、抗告人が具体的に自己が相続人となつたことを覚知した事実を認定することなく、本件において民法第九一五条所定の期間進行の始期を被相続人死亡の日の翌日である昭和五四年八月二七日にもとめ、従つて同条の考慮期間はそれから三か月目の同年一一月二六日に終了したものとしている点重大な理由の齟齬があると言わなければならない。
三、抗告人は明治三七年一〇月二〇日生まれの七六歳になる老婆であり、しかも旧制尋常高等小学校卒の学歴しか持たないため、相続関係の知識(相続の順位、相続の放棄等)を全く持つていなかつたものである。
さらに本件の被相続人である川井文子(抗告人の長女)は昭和三六年一二月二一日に件外川井一雄と婚姻して以後死亡するまで約一八年の間抗告人との交渉はあまりなく、従つて抗告人としても被相続人の起した事件の概要を漠然と知つていたにとどまり、拘置所へ面会に行つた時も被相続人が事件のことをあまり話したがらなかつたために被相続人の死亡当時相続のことは全く意識せず、漠然と川井の家(夫・川井一雄、先妻の二人の男子・長男川井太郎、次男川井次郎-いずれも被相続人が幼少の頃から育て上げてきたもの)において処理されるものと考えていた(このことは原審も認めている。-理由IIの(五))。
以上のような抗告人の相続についての意識は抗告人の社会的地位や当時の状況さらには本件が通常の相続の形態とは異なり親が子を相続するといういわゆる逆相続のケースであるということから考えて誠に無理からぬものがあると言えるのである。このことは一般社会常識(法律知識が相当普及してきている今日の社会においても)から考えても、もし普通一般人が抗告人のような地位、状況に立たされれば同様の意識をもつであろうことは疑いを容れないところである。
四、昭和五五年一月二四日突如抗告人のところへ大阪地方裁判所より訴訟手続受継申立書ならびに訴状副本が送達されてくるに及んで、びつくりして当職のところへ相談にきてはじめて抗告人が法律上被相続人の法定の相続人であることを当職より知らされて自己が相続人となつたことを覚知したのである(抗告人は送達書類を見た段階においても何のことかわけがわからなかつたものである。)。
従つて本件においては相続放棄の申述期間は抗告人が自己が相続人となつたことを覚知した時、すなわち上記昭和五五年一月二四日からその進行を開始し、それから三か月後の同年四月二三日に終了するものと解するのが相当である。よつて同年二月七日になされた抗告人の相続放棄の申述は法定期間内になされたものであり有効であると言わなければならない。
五、以上の理由から原審の相続放棄申述申立却下審判は重大な理由の齟齬があるばかりでなく、被相続人の死後二年九か月後の相続放棄を有効とした大高判昭四一・一二・二六ならびに被相続人の死後五か月後の相続放棄を有効とした大高判昭五一・九・一〇の各判例の趣旨に違背し、一般社会常識のうえに立脚した相続放棄制度の根幹を誤解する不当なものであるからここに即時抗告の申立をする次第である。