大阪高等裁判所 昭和56年(ネ)1866号 判決 1984年8月16日
控訴人
医療法人仁風会
右代表者理事
小原知次郎
控訴人
小原知次郎
控訴人
姜坤中
右三名訴訟代理人
田原潔
同
大搗幸男
被控訴人
平田康代
被控訴人
平田勝人
右法定代理人親権者母
平田康代
右両名訴訟代理人
山本弘之
主文
一 原判決中控訴人ら敗訴の部分を取消す。
二 被控訴人らの請求を棄却する。
三 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
事実
<前略>
八 控訴人らの主張
1 医学界及び臨床医家は、本件当時、複合ブスコパンを従来のアトロピン、スコボラミン系薬剤、その他の自律神経遮断剤に比して副作用の極めて少い薬剤と評価していたが、事実同注射薬投与による死亡事例は極めて少なかつた。
右薬剤が昭和四七年七月その在庫限りで販売中止となつたのは、第八改正日本薬局方によりスルピリン注射液極量が一回一グラムと改められたほか、より強力な新薬(ベンタゾシン注射液)が現れたゝめであつて、特異ショックが原因ではない。
2 本件事故は、薬液注射後可成りの時間を経て発生したことに着目すると、薬剤アレルギーのうちのアナフラキシー型(即時反応型)以外の異状反応(副作用)であつて、ピリン剤による副作用ではないといわねばならない。
3 仮に複合ブスコパンによる異状反応であつたとしても、いわゆる薬剤ショックは、薬剤固有の性状に関連する過敏反応素因のみでなく、心臓、肝臓等の機能異状、自律神経、ホルモン等の機能異状並びにこれら相互の平衡関係の失調を原因とするものが少なくなく、それらの予見並びに結果回避可能性の有無は、個別的、具体的に検討されねばならない。
本件についてこれをみるに、控訴人姜は、前日の同薬施注において薬効が良好で副作用もみられなかつたゝめ、患者の施注希望を容れ、看護婦に指示して静注させたものである。
当時の診療経過及び臨床所見に照らすと、前記投薬指示前に右患者につき抗原抗体反応の発症を予見することは、不能を強いるものであるのみならず、更に注射後患者が疼痛の緩解によりテレビのプロレス放映を観戦して心因的影響(刺激、興奮)をうけ、長期療養による肉体的精神的疲弊と相まつて相乗効果を生ずることまで予見することは、到底不可能であつたというべきである。<以下、省略>
理由
一交通事故の発生
請求原因一の1のうち(5)を除くその余の事実(昭和四五年一二月一一日平田光雄が交通事故により左下腿両骨折、左大腿骨骨折、左肘部切創、右前頭部擦過創、頭部外傷Ⅰ型、左膝関節脱臼、靱帯挫創等の傷害を受けた事実)は、当事者間に争いがなく、同(5)の事実は、<証拠>によりこれを認めることができる。
二本件の経過
<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。
1 平田光雄(昭和九年一月一一日生、神明工業株式会社タンク仕上工)は、前記交通事故により前示傷害をうけ、同日午前一時三〇分控訴人仁風会の設置、経営にかゝる小原病院に救急担送により緊急入院した。
2 小原病院は、内科、外科、整形外科、循環器科、放射線科を併設する救急病院で、常勤医師は、外科医に院長外四名、内科医に二名居り、外に非常勤医師三二名、看護婦準看護婦四五名、事務員炊事婦等三五名を擁し、病床一五七、八床を置く病院である。
3 入院後平田は、各種外科治療のほか同月二三日大腿部の骨折についてキュンチャーの骨髄釘挿入手術をうけ、腰部以下をギブスで固定して引続き加療し、昭和四六年四月九日受傷創の軽快によりギブスを除去し、以後マッサージ、その他の機能回復訓練を開始した。
4 この間平田は、患部痛、左足関節部痛、頭痛、不眠症状等を訴えることが多く、その治療のため、昭和四五年一二月一三日から同月一七日までの間にピリン系鎮痛解熱剤であるメチロンを三回、同月二四日から同四六年一月一三日までの間に同系鎮痙鎮痛剤であるアバピラを五回いずれも筋注した。
5 昭和四六年五月四日午後六時頃平田は、悪心、嘔吐はなく、血圧一二〇ないし六〇、脈博九二、体温36.6度の容体であつたが、腰痛及び腸炎症状の腸疝痛である右下腹部痛を訴えたので、同病院の常勤医羽田医師の指示によりブスコパン筋注を施行した。同日午後七時頃尚も腹痛を訴えたので、常勤医藤沢医師が回診したうえ、ブドウ糖二〇パーセント液一五c/c及び複合ブスコパン五c/c混合液を静注するよう看護婦に指示したが、その席には控訴人姜も同席していた。その後同控訴人は、平田から、右施注により痛みが消去し、気分が良くなつたと聞いたが、副作用の反応を呈した形跡はなかつた。
6 翌五月五日午後七時平田は再び前日と同様の症状(腹痛)を同病院の準看護婦下出(旧姓畑)孝子に訴え、前日の複合ブスコパン注射の薬効が良好であつたから再度同注射をしてほしい旨求めたので、同準看護婦は、平田の診療録(カルテ及び看護日誌)を当直医である控訴人姜(神戸大学医学部第二外科所属、非常勤医師、昭和四三年国家試験合格)の許に持参して指示を仰いだところ、同控訴人は、右診療録を点検し、平田が過去、多数回にわたりピリン系薬剤の投与を受けているが異状反応を呈した形跡がないことを確かめ、かつ前日、藤沢医師から同様の症状につぎ複合ブスコパンの静注が指示され、それにより腹痛が消去したことを知つていたので、同人はピリン系薬剤の過敏症ではなく、同一薬剤の投与により痛みが緩和するものと診断し、同準看護婦に前日同様ブドウ糖と複合ブスコパンの混合液を平田に緩徐に静注するよう指示した。そこで同準看護婦は、ブドウ糖二〇パーセント液一五c/c及び複合ブスコパン五c/cを患者の反応を観察しつゝ一分半ないし二分間かけて平田の右橈骨静脈(右肘窩部)にゆつくり注射した結果、間もなく痛みは消去した(右注射の事実は争いがない)。一五分後同準看護婦が経過観察のため病室を訪れた際は、同人は落付いた雰囲気でベッドに伏臥し、枕許におかれた一四インチの白黒テレビのプロレス番組の放映を熱心に観戦していた。
7 ところが、同日午後七時三〇分頃、平田の付添婦岸あい子から、平田が急に顔面蒼白となり苦悶している旨連絡があつたので、控訴人姜坤中は直ちに病室に急行し、畑準看護婦らに指示して、救急措置として予め定められた手順に従い、点滴注射をしたうえ、ノルアドレナリンとブドウ糖の混合液を心注したほか、ビタカンファー(強心剤)デキサシエロソン(脱ショック剤)を筋注し、デカドロン(ステロイド)を筋注並びに静注し、テラプチク(呼吸促進剤)を筋注し、更に心マッサージや、アミューズバック(手動式人工呼吸器)、バード呼吸装置を使用して人工呼吸を試み、蘇生術を施行したが、同日午後七時四五分平田は、急性循環不全(心不全)により死亡した(平田が小原病院に入院中死亡した事実は争いがない)。
以上のように認めることができ<る。>
三複合ブスコパンの成分及び作用効果
1 <証拠>によると、複合ブスコパンは、鎮痙剤ブスコパン(ヒヨスチン―N―ブチルブロマイド)と鎮痛剤スルピリンの複合剤で注射液一アンプル五ミリリットル中ブスコパン0.02グラム、スルピリン2.50グラム含有され、ブスコパンは、腹部中空臓器の副交感神経節に特異的に作用して刺激伝導を遮断する鎖痙作用を有し、スルピリンは、強い中枢性鎮痛作用のほか鎮痙作用を有し、血管の透過性を抑制することによる消炎作用をも有し、その静注は、疝痛の緩解に劇的な効果を現わし、徐々に静注を行えば通常は注射し終らぬうちに疼痛は著るしく軽減し、完全に消失することもあり、胃腸管、胆管、泌尿器等腹部臓器のあらゆる疝痛、痙撃性疼痛に適応し、副作用としては、口渇、一時的嘔気、心悸亢進等が判明していたほか、効能書に「複合ブスコパンに配合してあるスルピリンは、アミノピリン誘導体であるため、アミノピリン過敏症患者にはきわめて稀にアレルギー反応を起こすことがあるので注意を要する、同注射液の静注に際しては徐々に静注すること、そのために生理食塩液又はブドウ糖注射液に希釈して注射することが望ましい。」と記載されていた。
2 本件当時の医学界及び臨床医家の間では、複合ブスコパンは鎮痙作用が著明で副作用の少い臨床効果の優れた薬剤と評価されて、広範囲かつ多量に使用されていたが、同剤に配合してあるスルピリンの副作用については、以下に示すように実例が少いため殆んど注目されていなかつた。
3 昭和四六年までに公表された主たる文献をみるに、松倉豊治「薬物ショック死剖検例について―日本法医学会課題調査」日本医師会雑誌五六巻三号二一三頁以下(昭和四一年八月一日発行)は、薬物ショック死及び異常反応死例二八九件中ピリン剤によるもの三一件(注射二七件、内服一件)を分析し、複合ブスコパンによるもの一件(四一才の男性、腹痛手当のため複合ブスコパン五ミリリットル静注、注射後二、三分で悪心あり、五分後死亡、心臓右室拡張肥大あり、三か月以内に同剤の注射三〇本施行した例)を挙げている。しかし、吉村三郎「診療事故死(薬物ショック死を中心として)」日本医師会医学講座昭和四四年度七二四頁以下(昭和四五年発行)によると、東京都(区部)における診療事故死三七九例中薬物ショック三一七例あるが、ピリン剤(鎮痛、鎮痙剤)によるもの四例(内訳の摘示はなく、複合ブスコパンによるものが含まれるか否か不明)がみられるに過ぎず、ブドウ糖の静脈点滴による死亡五例と比較すると、ピリン剤全部についてみても事故死例は必ずしも多くはない。
4 本件事故発生当時複合ブスコパンは、従来のアトロピン、スコボラミン系薬剤及び他の自律神経遮断剤に比して、副作用が極めて少いと医学界及び臨床医家の間で定評があったが、それにも拘らず昭和四七年七月在庫限りで販売中止となつたのは、第八改正日本薬局方によりスルピリン注射液極量が、従来の一回2.5グラムから一回一グラムに改められたことによるものであつた。
因みに、本件以後公表された文献を参照すると、若杉長英・四方一郎「最近一〇年間の医療事故死について」日本法医学雑誌三〇巻六号三九一頁以下(昭和五一年七月二九日受付)は、昭和四一年一月一日から同五〇年一〇月三〇日までの全国法医学教室及び監察医務機関(計四二機関)で取扱われた医療事故関係死亡例四七四件中、ピリン剤関係三五件(他剤併用四件)を挙示しているが、そのうち複合ブスコパンによるものは既述の一件を含め二件に過ぎず、現在に至るまで右二件以外に報告されたものはなく、当審証人松倉豊治の証言によればその使用数量に比較すると極めて少いことが明らかである。
四亡平田の死体解剖の結果
<証拠>によれば、神戸大学医学部法医学教室講師龍野嘉紹は、昭和四六年五月七日平田の死体を解剖検査したが、その結果は次のとおりであつた。まず心臓は、心筋の排列に乱れ、断裂がなく、横紋は明瞭で異常を認めず、胸線は大部分脂胞織化していて極く一部遺残があつた、また肺臓には著明な浮腫があるが、膵臓、腎臓、尿道等には特に異常を認めず、肝臓では肝細胞索の配列がやや乱れ中心静脈のうつ血が著明である、しかし副腎は、皮質、髄質は尋常であるが、重量が左2.9グラム、右2.8グラムで発育が貧弱で機能減退不良が推測されるとした。既往症としては、左大腿部手術痕、大動脈弁の軽度肥厚のほかさしたるものはなく、左大腿骨々折部は癒合しており死因とは直接関係はなく、複合ブスコパンのような副作用の極めて少い注射の直後死亡したのは、当時同患者が完全に健康を回復していなかつたか或いは多少特異体質的素因があつたものといえるとし、死因を急性循環不全と判定した。
五亡平田の死因と控訴人姜の過失の有無
1 <証拠>を総合すると、当時平田は、交通事故による受傷と長期療養による肉体的衰弱、精神的不安定の状態にあり、健康を回復していなかつたうえにテレビのプロレス観戦による刺激、興奮があり、このような身体的条件の負荷に副腎の発育不全、機能不良といういさゝか特異体質的素因及び同一薬剤(複合ブスコパン)の投与を原因とする抗原抗体反応の異状反応が相乗的に作用して、不可逆性ショック症状(急性循環不全)を発症して死亡したものと推認するのが相当である。
控訴人らは、亡平田がチアノーゼを伴うショック症状を惹起し急性循環不全により死亡したのは、複合ブスコパンの静注が原因ではなく、本件交通事故により重傷を受け、大腿骨骨折の手術後遺により大腿骨骨髄内の循環相が変化し、全身的な循環不全因子を拡大したことと、同人が精神的不安定状態にあつたところへテレビのプロレス番組を観戦したことによる刺激、興奮も影響して、強い迷走緊張を生ぜしめたゝめであると主張し、<証拠>中には同旨の部分もあるけれども、前掲他の証拠に照らして採用し難く、他には右主張を認めるような証拠がない。
2 ところで、前掲証拠によれば、本件のような薬物性ショック(抗原抗体反応)の発生機序は、現在に至るまで究明されていないため、確たる治療方法がないのはもとより、予備テストの方法も未開発のため、試薬はなく、事前予知の方法としては僅かに問診による過敏性の推定法があるだけで、他に臨床実務上対策がないことが認められ、これに反する証拠はない。
3 そして本件における平田の腹痛は、前記のとおり腸炎症状の腸疝痛と認められるから、その疼痛緩解のため複合ブスコパンを選定した控訴人姜の治療方法の選択に過誤はなかつたというべきところ、過去多数回にわたるピリン剤の投与並びに前日の複合ブスコパン投与に対しても何らピリン剤過敏症の反応がみられなかつた本件においては、控訴人姜が平田に対し直接問診をしなかつたとしても前記のようにしてこれに代替する事前予知の方法を尽くしたものというべきであるから、右投薬を原因とする抗原抗体反応の発症を予測できないまゝ複合ブスコパンの投与を指示した控訴人姜の診療には、当時の同薬剤に対する臨床医の一般の認識及び当時の医療水準に照らし、医師として患者の診療に際し危険発生予見義務を怠つた過失はなかつたものと認められ、また前記ショック発症後の同控訴人の措置についても、前記認定事実並びに前掲証拠によれば、患者の死亡結果発生回避のため努力を尽くさなかつた過失を認めることができない。
4 被控訴人らは、控訴人姜の薬剤投与は無診行為であつたと非難するが、医師の患者に対する診察は、患者個人に対する直接の触診、聴診、打診、問診、望診(視診)の方法に限られるものではなく、現代医学上疾病に対して診断を下し得ると認められる適当な方法によることができるのであるから、医学的知識経験に照らし特別の変化が予想されなかつた本件のような場合には、従前の診察の結果、患者の要望、看護婦の報告等に基づいて治療したとしても、無診治療ではなく、医師法二〇条に反する違法があるということはできない。
5 更に、看護婦は医師の指示を受け、準看護婦は医師又は看護婦の指示をうけて傷病者等に対する療養上の世話又は診療の補助をなすことを業とする(保健婦助産婦看護婦法五条、六条、三七条)者であるから、主治医の指示をうけ患者に医薬品を注射することは、医師が行うのでなければ衛生上危害が生ずるおそれがあるような場合でない限り違法ではなく、右特別の事情の存在につき立証がなく、当該準看護婦の施注技術が拙劣で欠陥があつたと疑うような事実の存しない本件では、右準看護婦による本件薬剤注射に違法不当があつたということもできない。
6 本件の注射量は、複合ブスコパン五c/c、ブドウ糖二〇パーセント液一五c/c合計二〇c/cであり、前記のとおり、下出(旧姓畑)準看護婦は、注射施行中患者の反応を観察しながら約一分半ないし二分かけてゆつくり注射したものであつて、前掲甲第一号証(鑑定書)中には、複合ブスコパンをブドウ糖と混注する場合は、五分以上かけて行う必要がある旨の記載があり、又前掲乙第五〇号証には、「腎疝痛あるいは胆石疝痛、激烈な痙攣性腹部疼痛には1/2〜一管(2.5〜5ml)を徐々に静注(一〜二ml/分)する。」旨の記載があるけれども、一方原、当審証人龍野嘉紹の証言によれば、前記甲第一号証中の記載の趣旨は、必ずしも特定の時間に拘わるものではなく、要するに不測の事態の発生に機敏に対応すべく患者の反応を観察しながら緩徐に施行すべき旨の趣旨に過ぎないというのであり、又当審証人松倉豊治の証言によれば、前記乙第五〇号証の記載もブドウ糖で希釈し、心臓に対する影響を緩和した混合液の注射については妥当しないことが認められ、注射一五分後の患者の容態が何ら異状を呈さず所期したとおり疼痛緩解し、気分も良くなり、テレビのプロレス放映を観戦していた状態であつた本件においては、準看護婦の施行した右注射方法についても責むべき過誤はなかつたといわなければならない。
7 そうすると、控訴人姜の診療に過失があつたことを前提として、不法行為又は債務不履行に基き控訴人らに対し損害賠償を求める被控訴人らの本訴各請求は、その余の判断をなすまでもなく全部失当として排斥を免れない。
六よつて、原判決中控訴人ら敗訴の部分を取消し、本訴各請求を棄却することとし、第一、二審の訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(藤野岩雄 仲江利政 蒲原範明)