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大阪高等裁判所 昭和56年(ネ)2478号 判決 1983年5月25日

控訴人 乙山春夫

右訴訟代理人弁護士 村田敏行

同 水野武夫

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 宮永基明

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

第一申立

一  控訴人

主文同旨

二  被控訴人

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

第二主張

当事者双方の主張は、それぞれ次のように付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

一  控訴人

(一)  被控訴人主張の示談契約がその強迫に因るものであることは、次の事実によって明らかである。

1 被控訴人方店舗における昭和五四年二月二四日の出来事について同年三月五日はじめて控訴人と被控訴人は話合いをしたが、その際被控訴人は控訴人に対し、「マスコミに訴え、公表する。それが不誠意に対する報いだ。」、「週刊誌の記者をよく知っている。私のことを悪く書く筈がない。週刊誌に公表されたらどうなるか、よく考えよ。」と述べた。当時控訴人は二五億円に及ぶ巨額の製作費をかけた超大作映画の監督としてその公開準備中であり、監督のスキャンダルを公表されたら困ると事情を説明し、公表を思い止まらせるため「身に覚えがないが、もし顔に傷をつけたのなら謝る。」と陳謝したが、被控訴人は「勘弁できない。」といい張った。

2 同月八日頃被控訴人の母から、「娘が興奮している。決着をつけてくれ。店を半年間休むとして、月五〇万円の割合で三〇〇万円払え。払わねば公表する。どちらか選べ。」と迫られ、やむなく控訴人は金額一五〇万円の小切手及び現金一五〇万円を同女に交付し、被控訴人はその小切手を換金して三〇〇万円の定期預金とした。

3 同年七月に至り、被控訴人は興奮して「今までの約束はなかったことにする。」といい出し、「七月二三日までに来なければ公表する。」と告げて、東京で前記仕事に忙殺されていた控訴人を強引に京都まで呼び出したうえ、市内のフジタホテルのロビーにおいて、女友達二人を同席させ、約四、五時間にわたり、こもごも「あなたのことはすべて調べてある。三〇〇万円位痛くも痒くもない筈だ。」、「女の顔は命だから金にはかえられない。」、「そうはいっても金銭で解決するより方法はない。」と申し向け、時には被控訴人が泣き出し、ハンドバッグを投げつけるなどの行為をすると、すかさず友達が「自殺するかもしれない。」と合の手を入れ、損害賠償金一億円、などとふっかけてから徐徐に減額し、最終的に一〇〇〇万円を提示し、しかも被控訴人は、「この人はマスコミに公表されるのを一番恐れている。」といって、公表をちらつかせながら金銭を要求した。

4 被控訴人は、かつて著名な映画俳優との関係を「さようなら、私の愛した宇津井健さん」と題する手記にして週刊誌に発表し、その雑誌を自己の店にもおいていた。

控訴人は、週刊誌、ことに女性週刊誌、芸能週刊誌、スポーツ新聞等が芸能関係者の行動や風評を興味本位に、誇大に報道し、その無責任な記事により関係者が大きな打撃を受けることを職業柄熟知しており、前記の出来事を公表されると、右映画の監督の座を降され、監督としての生命が終るかもしれないと畏怖し、被控訴人の要求に屈して一〇〇〇万円の示談に応じたものである。

5 前記出来事があった後被控訴人が受けた治療処置は、五、六分かせいぜい一〇分以内で終ったのであり、被控訴人はその後も休業することなく営業を継続しており、当時バーテンもホステスもおいていなかったから、営業上の損害(逸失利益)は僅少である。なお、その後の治療が長引いたのは、鼻の傷口が化膿したことと被控訴人が隆鼻材の除去を承知しなかったためであるが、化膿と前記出来事との因果関係は不明であり、化膿はむしろ被控訴人の厚化粧、飲酒など不摂生、不養生に原因があを。

右治療後に遺った傷は、顔面目頭の長さ五ミリメートル、幅一ミリメートル程度の線状痕で、化粧によって隠れてしまうものと、鼻の中の長さ一センチメートル、奥行三ミリメートル、深さ一ミリメートル程度のでこぼこ状の傷で、外から見えず、日常生活や発声には影響のないものであり、労災基準でいえば一四級にもあたらない程軽微である。

かようなわけで被控訴人の損害額は、大目にみても(1)治療費二一万円、(2)休業損害半月分二五万円、(3)通院に伴う精神的肉体的苦痛の慰藉料五一万円、(4)後遺症に伴う慰藉料三〇万円合計一二七万円であって、当初の示談金三〇〇万円を超えることはなく、示談金一〇〇〇万円は異常に高額である。

(二)  仮に被控訴人主張の示談が強迫に該らないとしても、被控訴人が控訴人に対し実損害額の数倍に当る損害賠償金一〇〇〇万円の支払を強硬に請求したのは権利の濫用であり、その結果成立した示談は無効である。右示談の履行請求も権利の濫用に該当する。

(三)  仮に昭和五四年三月被控訴人の母と控訴人との間に成立した示談が効力を生じないとすれば、控訴人は被控訴人に対し三〇〇万円の返還請求権を有することになる。そこで控訴人は本訴においてこれをもって一〇〇〇万円の示談金支払義務と対当額につき相殺する旨の意思表示をした。したがって右範囲において控訴人の債務は消滅した。

二  被控訴人

控訴人の右主張中被控訴人の従来の主張に反する点は否認する。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1の事実は、当事者間に争いのないところ、右事実に《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一)  事件の発生

1  被控訴人は、昭和一六年七月二日生れの女性で、同三八年一〇月頃滋賀県立膳所高等学校中退後、京都、大阪、東京など各地のナイトクラブの歌手としてシャンソンなどを歌って生活していたが、同四六年四月頃から京都市下京区《番地省略》アサヒ五号館ビル地下室にテーブル三台を置き、「キンコンカン」の屋号でスナック店を開業し経営していたもの、控訴人は、昭和五年七月三日生れの男性で、同二八年三月日本大学芸術学部を卒業後東映株式会社に入社し、助監督を経て、同三六年二月監督となり、「仁義なき戦い」、「柳生一族の陰謀」など多数の映画を手掛け、各種受賞歴のある著名な映画監督の一人で、昭和四七、八年頃から被控訴人の前記店舗に出入りする馴染客であった。

2  昭和五三年二月、控訴人は、角川春樹製作、東宝株式会社配給による、小松左京原作、公称製作費二四億五〇〇〇万円の映画「復活の日」の監督となり、同年一二月頃から南極を始めとする外地ロケに入り、同五四年二月帰国し、同年六月以降国内ロケの予定であった。(因みに同映画は昭和五五年六月完成、同月二八日全国一斉公開された。)

3  被控訴人は、昭和五三年一一月一七日若い男から顔を殴られ、それより一〇年位以前に東京の整形外科医からうけた隆鼻術の挿入材料が変位し、内出血を起したので、翌一八日より京都市中京区御池通柳馬場の黒田形成外科医院黒田正名の治療をうけ、更に同五四年二月二〇日鼻変形の修正のための再度の隆鼻術(鼻の穴の内側二、三ミリメートル入ったところを一センチメートル位切り皮膚の下と骨の間を剥離し、シリコン樹脂を注入し、左右三針ずつ縫合)および両内眼角形成術(目の鼻寄りを五ミリメートル位切り込み、左右三、四針づつ縫合)をうけて、黒田医師からは同月二七日抜糸予定であり、その間洗顔、化粧、入浴、飲酒などを禁ずる旨告げられていたが、被控訴人は、トンボ眼鏡を掛け、黒の皮ズボン、ブーツをはき、メキシコ風の袖無しポンチョを着て、同月二三日も酒場の営業を続けた。

4  同日控訴人は、前記映画の下調べのため京都に赴き、助監督らと会食した後、知人と酒場二軒を飲み歩き、翌二四日午前三時頃一人で前記「キンコンカン」を訪れ、ブランデーの水割り三、四杯を重ねるうち相客は居なくなり、控訴人と被控訴人の二人だけとなった。

控訴人は傍の椅子に座した被控訴人に南極ロケの話などをしながら飲酒を続けていたが、午前六時頃になって、酩酊のあげく被控訴人の唇を求め、あるいは肌にふれようとした。大柄な被控訴人は、同じ位の背丈しかなく酩酊している控訴人の意のままにはならなかったが、その振舞に対し顔をそむけて身を避けた際、眼鏡の中央部が鼻を圧迫し、胸部、両膝関節、上腕が椅子の角などに当った。

5  このため被控訴人は、鼻背一面に内出血し、左右鼻前庭縫合部の二本の糸がほどけ、隆鼻材料の足の部分が露出し、両内眼角縫合部も一本ずつ糸がはずれる損傷をうけたので、同月二六日黒田医師から鼻の部分につき糸二本で再縫合する処置、化膿止めと消炎剤の投与をうけ、内眼角の傷は縫合用テープを貼る治療をうけたが、この治療は五、六分程度で終った。

ところがその後同年三月五日鼻の切開個所に黴菌が入り化膿し始めたことが判明したので、黒田医師の処置をうけたが、シリコン樹脂を除去しないまま治療を続けたこともあって、その治療が意外に長引き、同年七月一九日になってシリコン樹脂を抜去し、同年八月二〇日まで通院加療した。

そして昭和五五年四月二八日被控訴人は黒田医師から再びⅠ字型隆鼻材を注入する隆鼻術をうけた。

以上により被控訴人には、外から見えないが右側の鼻橋の内側一ミリメートル位の所に縦一センチメートル位、奥行三ミリメートル位の凸凹状瘢痕と両内眼角部に化粧で隠れる程度の長さ五ミリメートル位の線条痕が残った。

(二)  事後の状況

1  前記負傷後被控訴人は控訴人に対し、主として電話により頻繁に被害の賠償を要求し、応じなければ右被害の事実(以下事件ともいう)を週刊誌等に公表すると迫ったので、控訴人は昭和五四年三月八日被控訴人の前記店舗において、被控訴人の母甲野ハナの要求に応じ、株式会社東映京都スタジオ専務取締役小高正己を立会人、ハナを被控訴人の代理人として、損害賠償金三〇〇万円を控訴人が支払い、被控訴人において今後事件につき訴訟、損害賠償請求、公表等一切の手段に訴えないことを確約する旨の示談を成立させ、被控訴人はハナを介し、右金員を受領し、銀行の定期預金とした。

2  しかるに被控訴人は、これにあき足らず、同年七月頃には今迄の約束はなかったことにするといい出し、事件の公表を口にして尚も控訴人に金銭を支払うよう要求した。折しも前記映画の公開を控え、後記のように、自己の進退、映画興行への影響を危惧した控訴人は、止むなく被控訴人の求めに応じ、同月二三日午後五時頃京都市中京区《番地省略》「ホテルフジタ京都」のロビーで被控訴人及びその友人であるナイトクラブのマダムら女性二名と会い、話合をはじめた。被控訴人らは事件を週刊誌等に公表することをほのめかして高額の金銭を要求し、控訴人はこれに応じかね、午後九時頃に及んでも決着がつかず、更に控訴人と被控訴人の二人だけで、同区《番地省略》の被控訴人の自宅において話合いを続けた結果、翌二四日午前二時頃控訴人が前記三〇〇万円に追加して更に一〇〇〇万円を支払うことで二度目の示談が成立し、控訴人は「控訴人から被控訴人に対し一〇〇〇万円を損害賠償その他一切を含む費用として支払う、但し内金五〇〇万円は昭和五四年八月末日まで、残る五〇〇万円は同五五年四月末日までに支払う、右の条件をもって過去一切の行きがかりを解消することをお願いする。」旨記載した「示談書」を作成して被控訴人にこれを交付し、他方被控訴人は、「右示談書の条件をもって和解の合意に達したことを承認する、今後一切を水に流し、訴訟、公表等の手段に訴えないことを確約する。」旨記載した書面に署名押印して控訴人にこれを交付した。

以上のとおり認めることができ(る。)《証拠判断省略》

二  右認定事実によれば、控訴人は被控訴人との間で一〇〇〇万円を支払う趣旨の示談契約を締結したものというべきであるから、次に控訴人の強迫の抗弁について判断する。

前記のとおり控訴人は被控訴人の母ハナとの間で三〇〇万円を支払う旨の和解をなしてこれを履行し、被控訴人は右金員を受領しながらも更に控訴人を追及したものであるところ、前記一冒頭掲記の証拠によれば、被控訴人は過去において週刊誌に著名な男優との関係を手記として公表した経験があり、週刊誌の記者にも知人がいて報道機関(以下「マスコミ」という)の影響力の大きさ、ことにいわゆるスキャンダル記事が芸能関係者に屡々重大な打撃を与えることを熟知していたこと、被控訴人の負傷は、前記のとおり軽微であり、化膿のため完治が遅れたとはいえ、後遺傷痕も手術により必然的に生ずる線条痕及び被控訴人の年令をも参酌すれば、客商売をしている点を考慮しても、さしたるものではなく、治療期間中の営業もほぼ継続しており、被控訴人の店舗は、被控訴人一人だけの営業で休業損害も僅少と推測され、当初の示談金三〇〇万円は損害賠償の金額として低きにすぎるものではないこと、それにも拘らず、被控訴人は、控訴人が著名な映画監督で多額の費用をかけたいわゆる超大作映画の製作に従事中であり、もし被控訴人に対する酒場での行為がマスコミに公表されると、その種の記事の常として誇大かつ興味本位に報道されることによって、右映画のイメージに傷がつき、その興行成績を著しく低下させる虞れから、控訴人としては監督の座を降され、ひいては映画監督の生命も終りになるかもしれないと畏怖しているのに乗じ、女友達二人を加え、マスコミへの公表を手段として執拗に金銭の支払を要求し、その結果一〇〇〇万円の追加示談金の支払いを約せしめた事実を認めるに十分である。

以上の事実に徴すると、被控訴人の右所為は、損害賠償名下に過大な利得をうる目的をもって、控訴人の名誉、地位等を害すべきことを告知し、控訴人に多額の金銭の支払を約させたものであって、社会的に許容される限度を超えてなした違法な行為であり、民法九六条一項の強迫に該当すると認めるのが相当であるから、控訴人において昭和五五年三月二七日(原審第四回口頭弁論期日)になした前記一〇〇〇万円の示談契約取消しの意思表示により、同契約は適法に取消されたものといわなければならない。

三  そうすると、被控訴人の本訴請求は、全部失当として棄却を免れないから、これと異る原判決中控訴人敗訴の部分を取消し、第一、二審の訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石川恭 裁判官 仲江利政 蒲原範明)

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