大阪高等裁判所 昭和56年(行ス)9号 決定 1981年7月29日
抗告人(申立人) 有富孝 外一八五名
相手方(被申立人) 尼崎市教育委員会
主文
本件各抗告を棄却する。
ただし、原決定添付別紙〔六〕廃校処分等執行停止申請書の別紙「児童氏名とその保護者」一覧表(二)五「昭和五六年度新五年生」の二枚目末尾の児童名欄に「三浦由友」、保護者名欄に「三浦弘充伸代」と各追加して更正する。
抗告費用は抗告人らの負担とする。
理由
一 抗告人らの抗告の趣旨及び理由は別紙(一)、(二)、(三)記載のとおりであり、相手方の意見は別紙(四)、(五)記載のとおりである。
二 当裁判所の判断
当裁判所も抗告人らの本件各申立をいずれも失当として却下すべきものと判断する。その理由は原決定の理由と同一であるから、その記載を引用する(ただし、原決定一八枚目表四行目「昭和五六年度」を「昭和五五年度」と改め、同裏一二行目「一六二台」を「一四四台」と改める。)。
したがつて、原決定は相当であつて、本件各抗告は理由がないからこれを棄却し、ただし、原決定添付別紙〔六〕廃校処分等執行停止申請書の別紙「児童氏名とその保護者」一覧表(二)五「昭和五六年度新五年生」の児童名欄に記載すべき児童「三浦由友」とその保護者名欄に記載すべき同人の保護者「三浦弘充、伸代」が明らかに脱落しているので、主文第一項ただし書のとおり追加して更正し、抗告費用は抗告人らに負担させることとして、主文のとおり決定する。
(裁判官 小西勝 大須賀欣一 吉岡浩)
別紙(一)
抗告の趣旨
一 原決定を取消す。
二 被抗告人のなした尼崎市立御園小学校の廃止処分(以下廃校処分という)、並びに、抗告人らに対してなした、抗告人らの被保護者である別紙「児童氏名とその保護者たる抗告人」一覧表(一)記載の各児童の昭和五六年四月一日以降就学すべき小学校として尼崎市立開明小学校と指定した各処分、同一覧表(二)記載の昭和五六年四月一日以降各児童の就学すべき小学校として尼崎市立竹谷小学校と指定した各処分、及び同一覧表(三)記載の各児童の昭和五六年四月一日以降就学すべき小学校として別紙「児童とその校区の学校」記載の各学校と指定した各処分は、本案判決確定に至るまで、いずれもその効力を停止する。
との裁判を求める。
抗告の理由
第一廃校処分と被申立人の権限の関連
原決定は明らかに法令の解釈を誤るものである。
一 教育委員会制度は、戦前の教育行政における中央集権的、政治的影響を払拭し、地方教育行政の政治的中立化と一般行政からの文化的独立を確立すべく住民参加的教育自治としてアメリカの制度の導入を図つたものである。元来は教育予算原案送付権(旧教育委員会法第五六条等)、教育予算執行権(同法第五九条)を含む教育財政自主権をはじめとして、一般行政権に対してかなり高度な職権の独立を持つ行政委員会として発足した。その使命は地域教育行政の文化的独立性を担保するところにあり、学校その他の教育機関の設置及び廃止に関する事務(同法第四九条)も、単純な事務執行を超えた実質的内容に及ぶものであつた。地教行法施行後も、原則的には教育委員会に課せられた使命に変化はないものである。従つて、地方自治法第二四四条の二の解釈に当つても教育委員会の機能と使命を十分に加味する必要があり、設置又は廃止の決定について実質的にはその一部が被申立人に分属すべきものとみるか、あるいは議会の議決は被申立人に対する事務執行の同意に止まるものとみられるべきものである(基本法コンメンタール新版教育法二九九頁参照)。即ち、教育機関の設置主体は地方公共団体であるが、被申立人は公立学校に対する全面的な管理執行機関たる行政的代表機関として、条例に基づいて、議会の同意を得、能働的、主体的に設置、管理、廃止の事務を行うものと解すべきである。現に、原決定の認定する事前準備行為ないし事後の事務処理のいずれをとつてもこれらなくして議会の議決を可能ならしめ、あるいは実効を確保しえないものであつて、議会の議決は実質的当否に触れない単なる追認ないし同意という程度を超えないものである。原決定が設置又は廃止の決定ということに重きを置くのは廃止手続の実情を踏まえない形式的論理でしかなく、被申立人は議会の議決という制約を受けつつも実質的権能に基づいて廃校執行処分を行う主体官庁である。廃校執行処分は差当つて、昭和五五年一二月二三日の市議会議決決定後における就学指定校変更等の各処分と併せて、又はこれらの前提として不可分一体的になされている物的施設の封鎖、取毀しに向けての一連の全体的行為である。
二 仮りに右の点をしばらく措くとしても原決定の論拠は到底容認できない。そもそも処分の取消しの訴えは、行政庁の処分のみならず、「その他公権力の行使に当る行為」についても認められ(行政事件訴訟法第三条二項)、行政庁の事実行為的処分が公権力の行使に当る行為であることはほぼ異論なく承認されているところである。被申立人のなす廃校の事務執行処分(取敢えずは児童を営造物たる学校施設から切離し、次いで教師を異動させやがて設備の封鎖、廃棄に至ることによつて顕在化する一連の物的施設に対する処分)は、その優越的地位に基づき一方的に行う事実行為的処分であるが、それによつて申立人らの法的利益たる営造物利用権を侵害するものである。学校施設に対する利用権が法律的利益であることは反論書において述べている通りである。右は正しく一般に定義される行政庁の公権力行使の要件を充足するものであることにほかならず(注釈行政不服審査法三七頁参照)、また「具体的な行為が、行政争訟の対象としてとりあげるに値するだけの表象を具えているかどうか、いいかえれば、権限ある行政庁又は裁判所が公の権威をもつてこれを取消し、その存在を否定するのでなければ、あたかも人民を拘束する力を有する行政行為が存在するかの如く誤解させるに足るだけの外観上の表象を具えているかどうかについて、客観的に社会通念に従つて判断」すべきとする見解(法律学全集行政法総論田中二郎三二七頁)に従うならば尚更本件の処分性は肯認されるべきものである。
原決定の所論は、要するに効力と処分ないし執行の概念を区別せず、更には本件廃校が縦続的事実行為的処分であることを十分に斟酌しない結論であつて失当と言う外にない。
第二昭和五六年度新一年生に対する就学通知処分と執行停止の関連
就学校指定は、就学学校との関係において具体的な就学義務を発生せしめる命令的行政処分と解される。執行停止の一般的な理解なり効力としては原決定の如く解せられよう。しかし、開明、竹谷小への就学指定の効力が将来に向かつて停止されるのみで、新一年生の就学すべき学校が存在しなくなる結果を招来するだけであるとするのは、本件廃校処分がなかつたとすれば、従前の通学区に従つていずれもが御園小学校への就学指定が当然になされたものであり、しかもそれは学校教育法施行令第五条に基づく法規上の義務として被申立人に課せられていること等を十分に検討したものとは言い難い。即ち、就学指定が行政法学的に命令的処分と言いうるとしても、それは飽くまで憲法上の明定による父母の子女を就学させる義務の実行に資するために認められたものであつて、常に、かつ当然に何らかの形で洩れなくなされるべきものであり、就学指定のない状態というのはおよそ法体系上予定されていないのである。しかも廃校処分に伴う通学区変更による新一年生に対する就学通知は、むしろ実質的には、当然になされる筈であつた就学校指定の変更通知処分と捉えることができよう。執行停止決定はいわば申立人らが被申立人に対し、当然になされるべき筈であつた御園小への就学通知を求めうる法的地位を暫定的に付与するものであり、これに対しては被申立人も法規上の義務としてそれに対応する処分をなすべきものであつて、少くとも申立人らに対する被申立人の新たな行政処分を期待できるだけの法的地位乃至利益が確保されているというべきである。拒否処分についてその効力を停止しても、申立人らに対し、新たな行政処分が期待できないとされることとは明らかに次元を異にするのであつて、何よりも違法な命令的処分を暫定的に回避するための制度であることに即した解釈が図られるべきである。被申立人や原決定の所論は、爾後における根拠のない不作為を当然の前提とするものであつて、結果的に行政の前に司法が譲歩、後退するものとの批判が該当しよう。
第三本案判決確定時点において原状回復が無意味となることを認定しなかつた原決定の違法性
原決定は、「被申立人の推計がそのまま現実化するとは断言しえないまでも、遠からず一学年一学級に近づくがため、何らかの対策が必要だと考えた被申立人の見解そのものは首肯しうる」と認定した。
右認定が、本件廃校処分、就学通知、就学指定変更(以下一括して就学指定処分という)の違憲・違法性裁量権濫用の有無、合理的理由の有無について明確な判断を下したものでないことは明らかである。しかるところ、それにもかかわらず、申立人が主張した、公民館建設を目的とした御園小学校の校舎の取りつぶし等による本案判決確定時点において本案で勝訴しても原状回復が不可能な事態について、それが「回復の困難な損害」に該当するか否かについての判断を原決定は全く行なわなかつた。その結果、原決定は、回復の困難な損害についての判断を根本的に誤る違法を犯している。
一 原決定の本件廃校・就学指定処分についての判断
原決定は、本件廃校処分、就学指定処分(以下両者をあわせて指称する場合、単に本件処分という)について、前述した見解を述べるのみであり、申立人が様々の根拠から主張した本件処分の違憲性、違法性、裁量権の濫用、合理的理由の不存在に関する判断を下さなかつた。
このことは、以下の点から疑い無い。
1 「何らかの対策」というのが統廃合のみを意味するものでないことは、仮りに人口減少を前提としても校区変更もありうることからも明らかである。ましてや、南部地域、御園校区における人口定着を図る開発・振興策が地域発展にとつて望ましいとする尼崎市の総合開発計画の基本方針からすれば、学校統廃合が構想される余地は無い。
2 昭和五六年度において本件処分を行なうことの必要性について言及されていない。
かえつて、原決定も、昭和六〇年度という将来における対策の必要は認めているのみであることから、その反面として、昭和五六年度における統廃合の必要は認められなかつたものと考えていたことが伺われる。
3 原決定は、昭和六〇年度において一学年一学級に近づくとの推計を前提に、「何らかの対策が必要と考えた被申立人の見解そのもの」を「首肯しうる」としたのみである。しかるところ、学校統廃合政策がこの「必要」のみから、合法、妥当、合理的と判断されるべきものでないことは、新通達等から明らかであり、その判断は原審において申立人が主張したことも含めて総合的に行なわれなければならない。であるところ、原決定が右「必要」を認めたのみで、総合的に右判断を行なつたものでないことは明らかである。
以上から、原決定は、本件処分の違憲、違法、不合理性は少なくとも本案で判断されるべきものとの立場に立つていることが明らかである。
二 本件処分の違憲、違法、不合理性
本件処分の違憲、違法、不合理性については、原審において「申請書」及び「反論書並びに申請の理由補充書」で詳述しているところであり、詳しくはそれを参照していただくとして、ここではその要点のみを整理して補充する。
まず、本件処分が違憲・違法たる法条の根拠は以下の点にある。
1 教育は、人間的発達にとつて絶対的な不可欠性を有しており、ことに発達可能態である児童にとつては本源的なものである。児童の教育権は人権の基底であり、人権中の人権といわれている。
憲法・教育諸法令は、このように重要なものとして、児童の教育を受ける権利、親の教育を受けさせる権利を保障している。
その権利の内容は、小学校児童は、基礎的な知識を学習することのみならず、情緒、精神、身体、審美、社会的意識の発達等全人格的発達を保障されることである(詳細は後述)。この教育権を国あるいは地方公共団体が積極的に侵害するならば違憲・違法との評価は免れない。
2 学校統廃合政策については、文部省新通達によると、以下の点が重視されなければならないとする。
<1> 「学校規模を重視する余り無理な学校統合を避けなければならないこと」
<2> 「小規模学校には教職員と児童・生徒との人間的ふれあいや個別指導の面で小規模学校としての教育上の利点」を尊重しなければならないこと
<3> 通学途上における「児童・生徒の安全」・その「学校の教育活動の実施への影響等」を十分検討しなければならないこと
<4> 「学校の持つ地域的意義等をも考え」ること
<5> 「現に適正規模である学校について更に統合を計画するような場合は、統合後の学校における運営上の問題や児童・生徒への教育効果に及ぼす影響などの問題点をも慎重に比較考慮して決定すること」
新通達の示した基準は、行政先例法ないしは統廃合行政における教育的見地からの内在的制約基準を明確化したものと把握することができる。
3 義務教育諸学校施設費国庫負担法施行令一三条一項及び学校教育法施行規則一七条が定める小学校の学級数の基準である一学校一二ないし一八という学級数は、統廃合行政における統合後の学級数の教育的基準たる意義を有している。
4 最高裁は、国民の権利自由を制限剥奪し、又は義務を課する行為については行政庁の自由裁量は否定される旨明示している(最判昭三一・四・一三)。
教育行政とりわけ統廃合においては、子どもらの自然権とも言うべき学習権並びに親の教育権に重大かつ直截的な影響が生ずるのであるから、統廃合の目的は、教育条件のより充実を目指すものに限定されるべきである。そして統廃合によつて学習権・教育権の充実を招来することができるか否か、厳密に比較考量すべきであり、また司法審査は、細部にまで及ぶべきである。統廃合という教育行政の裁量には教育的見地からの内在的制約があることが重視されなければならない。
しかるところ、本件処分は、教育行政としての合理的裁量を逸脱し、教育的見地ならびに教育的基準に反して合理的理由なしに、後述するとおり教育権を侵害するものであるから、その違憲・違法性が明らかである。申立書において述べたので主要な要点のみをここに記する。
1 将来に対する対策という名の下に、現在の段階において、御園小学校の良好な教育条件を奪い、それに代えて、劣悪な教育条件を強いることに、教育行政上の合理的根拠は存在しない。
2 相手方の本件処分の理由は、学校規模の適正化ということであるが、それは教育的見地から導き出されたものではなく、尼崎市の現状から割り出された平均値を基にしたものに過ぎず、その政策は教育的見地と背反する。
3 本件処分は文部省の新通達及び「従来の見解」において示された基準に背反し、著しく教育上の配慮を欠いたものである。
4 御園小学校の良好な教育環境・内容は原決定において認定されているところでもあるが、このような教育実態に照らして本件処分を行なう教育上の理由はどこにも見い出しえない。
5 本件処分によつて教育条件が整備される事はなく、学校統廃合が本来めざすべき教育条件整備の目的は本件処分には一切存在しない。
6 小規模校の欠点と指摘される諸点は、御園小学校においては全く存在せず、将来一学年一学級となつたと仮りに仮定したとしても、それに具体的に弊害が生じているか否かは、その時点における教育実態に照らして検討し、かつ、その利点との総合的な判断が加えられなければならない。教育実態を無視することによつて単に数字の少なさにのみ着目して行なわれた本件処分は、その根本において教育の破壊をもたらす源となつている。
しかも、一学年一学級となるのは昭和六〇年度以降に過ぎない。
7 相手方は、将来の推計を立てそれに基づいて将来的展望の観点から本件処分を合理化している。しかし、その推計は、昭和五六年度において既に大幅にその誤差を生じており、その誤差は年をおうとともに増大している。
このような誤つた推計に基づいて行なわれた処分であるところに裁量権の濫用が認定される。
原決定は、推計が正しいかどうか断言しえないまでも、昭和六〇年度において一学年一学級に近づくことをもつて何らかの対策の必要性を肯定している。しかし、右見解は、本件処分を正当と認定したものではない。
しかも、推計に誤りが生ずれば、おのずからその対策は違つたものになる蓋然性が強く、「ともかく減少する」といつた理由で本件処分を正当化することはできない。
8 本件処分により、様々の教育侵害が生じ、他方、教育条件整備に資する面はない。これこそ端的に教育(権)を侵害するものである。
9 将来の学級数の減少を前提として、これに対する対策としての統廃合も決して教育条件整備に奉仕しえない。小規模校の利点を活し、一般的な短所は教育行政の努力により解決されるべき問題である。
過密校の解消と小規模校の対策とは全く異なるのである。この点にも、教育上の配慮を著しく欠いた裁量権の濫用がある。
10 本件処分は跡地利用等といつた教育外の目的に基づいて行なわれたものである。
11 本件統合後の竹谷小学校の学級数は一二ないし一八学級という文部省基準、諸法令の基準を上回るものである。
以上の如く、本件処分は、教育権を侵害し、教育上の合理的裁量を著しく逸脱したものでありその違憲・違法性は明白である。
三 回復の困難な損害について
本件廃校処分により、御園小学校は閉鎖されその跡地に地区公民館が建設予定でありその計画は具体的に進行しており尼崎市の予算において計上されている(疎甲第一〇〇号証中の書証)。御園小学校は間もなくその施設すら消え去ろうとしているのである。
又、本件処分により、御園小学校児童はそれまで築いてきた教師と児童、児童間の密接な関係、地域と学校との間においてはぐくまれてきた良好な教育環境を一挙に失なつてしまう。
又、本案判決確定時点においては、小学校を卒業しあるいは何年間か御園小学校での教育を受けることができなくなつてしまわざるを得ない。
このような損害は、執行停止されず本案判決確定時点をまつていては不可避の事態として生ずるのである。そして、これらが著しい損害に該当することも全く疑いない。
そして、これらは、本案判決確定時点において勝訴してもその原状回復は全く不可能である。
本件処分は、一、二から明らかなとおり、合理的理由なしにおこなわれたもので教育権を侵害し教育的見地を著しく逸脱して行なわれたものである。このような場合、本案において権利保全を図る必要性が大である。
執行停止制度の趣旨からすれば、当然回復の困難な損害に該たるとされなければならない。
ちなみに、昭和五四年三月二六日横浜地方裁判所昭五四(行ク)三号執行停止申立事件(判例時報九三四号)において、「本件疎明資料によると、町当局においては牧野校舎を目下のところ処分することを考えておらず、本案訴訟終了まで牧野校舎の取毀しをしないことは勿論、本件統合問題が完全に解決した場合にも社会教育施設として利用することを予定していることが一応認められるから、申立人らが本案訴訟において勝訴すれば、牧野中学校の復活も可能であり、その意味においても回復の困難な損害があるとはいえない。」とされた。
この判断からすれば、右事件と異なり本件においては校舎の取毀しが行なわれる予定であるから、当然、回復の困難な損害が認定される。
第四本件廃校処分による教育環境の破壊を回復困難な損害と認定しなかつた原決定の違法性
原決定は、「御園小学校の廃止は地域における文化的中枢機能を奪い、児童の遊び場を消失させるといつたような問題もないではない」ことを認めながら、総合的に見て「未だ各処分によつて申立人らに回復の困難な損害が生ずるものとは認められ」ない、とした。
しかし、他の諸問題を総合的に見るならば直更であるが、本件廃校処分によりもたらされる学校と地域との一体性の破壊による教育上の損害が生ずるものと優に認めることができる。
この点においても、原決定は、御園小学校とその校区地域において形成されてきたその一体性が小学校児童にとつて極めて重要な教育上の意義を有していることの評価を根本的に誤つた違法がある。
一 地域における御園小学校の意義
1 御園小学校は創立以来既に三〇年の年輪を重ねており、その発展過程は御園校区に該たる地域の発展と軌を一にしている。
その地域は、被申立人も言うとおり狭く、かつ中央商店街を中心とした商業地域であり、阪神電車以南の御園小学校及び寺社を除けば、阪神電車以北においてスーパーマーケツト、銀行、娯楽施設及び多数の商店が連なつている。それが為、竹谷・開明校区と異なつた特色のある地域的に同質性の強い地域となつている。
2 そのような中にあつて、地域住民が御園小学校の教育環境の整備に特段の努力と協力を惜しむことなく続けてきた(疎甲第八五、八六号証)。
この努力と協力無しには、御園小学校の教育環境の整備とその発展は無かつた。又、この努力と協力は、地域住民のその児童に対する充実した教育を希む熱い期待によるものであつた。
他方、御園小学校は、原決定も認定しているとおり、すぐれた教育内容をその児童に保障してきた。その成果は、御園小学校の父兄から、<1>教育がいきとどいている <2>子どもがのびのびと育つている <3>児童の指導性と協調性が養われている <4>非行が全くない等の理由から高く評価されている(疎甲第六二ないし六四号証)。
このように、学校と地域との間に固い信頼関係と深い絆が築きあげられている。これは、ひとえに、学校と地域住民との協力関係の歴史的蓄積によるものであつたことは、自明の事柄である。
かくして、御園小学校と地域住民との連帯は強固であり、極めて良好な関係にあつた。
3 学校が地域の文化的・教育的機能の中心であるとの認識は普遍的なものである。ことに、父兄と児童との関係が密接で、かつ、全人格的発展が教育の課題となる小学校にあつては、より一層その機能は深くなる。
しかも、御園校区は商業地域で、風俗営業も多いのであるから文化的・教育的機能を果たす機関が地域の健全な発展に不可欠でありそれが無ければ地域の頽廃が不可避であつて、かつ、御園小学校に代替しうる教育施設は皆無である。このような条件下にあつては、御園小学校が地域において果たす文化的・教育的機能には絶大なものがある。
児童にとつて御園小学校が唯一といつていい遊び場であつたことの意義は、小学生児童の行動範囲はその居住地を中心として歴史的に形成されてきた比較的狭い地域に限定されるのであるから、竹谷・開明小学校では代替できるものではない(被申立人の意見は、児童の行動特性を無視した暴論である。従前、尼崎市教育委員会も遊び場確保には何ら対策が立てられていないことを表明していたところである―甲第二〇号証)。子どもの遊び場の問題も、地域の文化的・教育的機能として考えられなければならない。又、育友会や地域の諸団体の施設利用もその一つである。運動会への地域住民の参加も同様である。
もつとも、御園小学校の文化的・教育的機能は、言うまでもなくこれらに限られたことでは無く、包括的・全体的な精神的な作用として存在してきたのである。それは、御園小学校の有する教育力の地域への浸透である。
4 御園小学校は、地域住民が、育友会活動や学校行事への参加を通じて、相互に関係を深める唯一の場となつている。御園小学校を通じて、地域は連帯性を深めているのである。このような住民相互の連帯は、児童の地域社会での成長に大きな役割を果たし続けてきた。
又、このような役割を果たすことによつて、校区を連帯関係を有するまとまつた一つの地域として形成し、他の校区の地域とは自ずから異なつた個性を有して今日に至つている。
5 以上のとおり、御園小学校は、同質性の強い地域と連帯関係を築き、商業地域にかけがえのない文化的・教育的機能を果たし、かつ商業地域の住民の一体性維持に重要な役割を果たしてきたのである。
二 地域と学校との一体性が確保されること等の教育的意義
1 疎乙第三三号証によれば、尼崎市においても、家庭・学校・社会の相互の連係と幅広い連帯の形成が重要であることが強調されている。
これは、家庭・学校・地域社会とが連帯していくこと無しには、児童・生徒の心身の発達や教育効果の達成が不可能あるいは著しく困難であることをも意味すること自明である。
この認識は、今日では、尼崎市に限らず全国における共通の認識となつていると言つて寸分の誤りも無い。
例えば、生徒・児童の非行問題が発生したならば必ずといつてよいほど地域と学校との連携の重要性が叫ばれることを見ても分かる様に、地域と学校との協力・連帯関係なしには児童の健全な成長や教育の達成は不可能なのである(疎甲第一〇一、一一〇号証参照)。
換言すれば、地域と学校との一体性が確保されることによつて、学校の教育機能は高まり、また、地域における児童への教育力が増進されるのである。
2 学校が地域の文化的機能の中心として重要な役割を有しておりそれを重視しなければならないことは文部省の確定した見解となつている(新通達、「手びき」等)。小学校及び風俗営業の多い商業地域において極めてその重要なことは前述したとおりである。
3 学校を通じて形成された地域住民の連帯が、地域社会における子どもの健全な発達を保障する極めて重要な意義を有する。
児童は、地域社会において、居住を機縁として他の人々と社会的相互作用を営むが、その中で児童は成長を遂げていく。しかるところ、学校を軸として住民社会における住民相互間に形成された連帯関係が、その成長に極めて良好な役割を果たしているのである。
4 教育とは、多言するまでも無く、人間的成長・発達を図る営みの総称である。それは、決して、学校で知識を授けられることに限定されるものではない。ことに、小学生児童にあつては、学校教育も基礎的知識の習得に限定されるものでなく、全人格的発展を図るものであることは、教育法令・文部省指導要領によつて明らかにされている。
このような全人格的発展は、学校に対する地域社会の協力・支援がなければ達成しえないことは明らかである。
それがあつてはじめて、全人格的発展を図る学校の教育力は高まるのである。
又、全人格的発展にとつて地域と学校との有機的結合も絶対的要請である。この有機的結合による教育的機能も、それが学校で行なう教育でないから憲法・教育法令上の教育権の範ちゆうに入いらないとする根拠はどこにも存在しない。
同様に、学校を通じて形成された地域住民の連帯によつて保障される児童への教育的機能も、児童の人間的成長に不可欠であるから、教育作用の一つとして憲法・法律上保護されなければならないことも自明である。
これらが教育上副次的とする見解は、教育を全く理解しないものの採るところである。
三 回復の困難な損害の発生
本件廃校処分は、地域と学校の連帯関係を破壊し、地域の文化的・教育的機能を奪いさり、かつ、学校を軸として形成されてきた地域の一体性を崩壊させるものである。その結果、必然的に、地域の教育環境は著しく悪化し、地域の教育力を衰退させてしまう。
それは、御園校区の児童全体の心身の発達に大きな悪影響を与え、非行化という現象を招かざるを得ない。御園校区は風俗営業も多数存在する商業地域であるにもかかわらず、この五年間をとつても非行児童が皆無であつた大きな原因は前述した御園小学校が地域に果たしてきた役割にあることも自ずから明らかであろう。
同じ事は、遊び場の喪失及び御園小学校の廃校によつて御園小学校の周辺にまで風俗営業が新たに設けられる事態を招くことについてもあてはまる。これらが児童の非行化に途を開く教育環境の荒廃を生じさせること不可避である。なぜなら、児童にとつて良い遊びはその心身の発達に重要な役割を果たすものであるところ、右事態は風俗営業の遊びに走らせるといつた心身の発達を阻害し、非行化を誘発する環境しか児童の周辺には無いことを結果するからである。
以上、本件廃校処分は児童の教育環境を著しく劣悪化させる結果児童の心身の発達を保障する教育を奪い、児童の教育を受ける権利、その保護者の教育を受けさせる権利を著しく侵害するものである。
本件の特殊性にかんがみ、地域の教育環境の破壊をもつて優に「回復の困難な損害」が認められる。
名古屋高裁金沢支部決定は、居住地域の自然との接触、それについての理解、旧小学校と家庭との親密感、近距離感等旧小学校への就学によつて維持される人格形成上、教育上の良き諸条件を失なうことをもつて回復の困難な損害を認定した。
この決定の意味するところは、児童の人格形成(成長・発達)が、一定の具体的な自然的・社会的・歴史的に形成されてきた良好な教育環境の中で保障されるものであり、それを奪い劣悪化させることは児童への教育保障を侵害しその人格形成を低滞、後退させるのであるから、それをもつて回復の困難な損害に該当すると認定したところにある。この見解は、正しく教育学及び教育法学の今日到達している一般的な水準を反映したものであると評価される。
四 原決定の違法性
原決定は、名古屋高裁金沢支部決定より著しく後退するものであり、教育学と教育法学の一般的常識から遠くへだつたもので、その誤謬が明白であるから、「回復の困難な損害」についての判断を誤つた違法がある。
第五教育上の損害、教育権の侵害についての判断を誤つた原決定の違法性
一 学習権・教育権の重要性
1 原決定は抗告人らが、その「申請書」及び「反論書並びに申請の理由補充書」に展開した子ども達の学習権、親達の教育権について、何らの判断も示していない。回復困難な損害にあたるか否かの判断をするにあたり、その蒙る損害の性格特質を吟味すべきは勿論のことである。裁判所は国民の如何なる基本的人権を侵害することとなるか慎重に検討すべきであろう。統廃合によつてもたらされるものは、直截的に子どもの学習権、親の教育権に直接影響するものであるから、学習権、教育権の性質を検討すべきは当然のことと思料する。しかし、原決定は右の判断を欠落させてしまつている。
また原決定は、子ども達にとつて、その重要な精神的基盤である小学校を破壊することが、成長と発達に如何なる悪影響を及ぼすことになるのかについても、あるいは小学校教育の特質についてもいずれも判断を回避している。
また、「御園小の廃止は地域における文化的中枢機能を奪い、児童の遊び場を消失させるといつたような問題もないではないが………」との記述はあるが、右の事実をどのように価値判断したかは全く不明であり、小学校のはたす地域における役割ないしは、目指すべき教育において小学校のはたす役割という問題について判断を示さず、また、御園小が地域において果たしている役割という具体的事実についても、評価しなかつた。
2 国民の学習権、とりわけ子ども達の学習権は、その人間的な成長と発達の権利と不可分一体のものであり、人間としての可能性を無限に開花させるために、自ら学習し、教育を受けて成長することは、文化的な社会における基本権であり、生来的権利あるいは自然権と言うべきものである。
抗告人らが申請書において種々引用したように、子ども達の学習権、親の教育権は、その基本的人権としての位置づけ、並びにその権利としての性格が、教育法学の分野を中心に豊富化されており、前述の如く、人間の生来的権利として把握することが今や一般的となりつつある。「知る権利」が国民主権を支える不可欠の基本権として脚光を浴びつつあるが、学習権も知る権利と並び、人間が人間である以上譲り渡すことのできぬ権利として保障されるべきである。
学校統廃合によつて子ども達の教育環境は一変する。御園小において子ども達が享受していた教育条件は、とりもなおさず、子ども達の学習権の具象化したものというべきである。
本件統廃合は、この子ども達の学習権、そしてそれに応える親達の教育権が、問題とされているということを銘記すべきである。
二 統廃合それ自体によつてもたらされる教育上の損害
原決定も申立人ら主張の通り御園小学校の教育内容にすぐれたものがあり、各方面において相当の教育効果をあげていること、更には運動場や教室等の諸設備に相当の余裕があることを肯認する。そうとすれば、低学年児童や障害児に対して保障すべき教育条件としては、これを守り育むことこそが期待され望まれているあるべき教育条件整備義務であつて、とりわけ教育諸環境が、有機的な連環をなす多数の人間関係に規定され、簡単には他によつて代替しえぬものであることに着目するならば、申立人らが一貫して主張しているように、統廃合によつて更に充実した教育内容と教育諸条件が整えられる保障がない限り、現に享受している教育諸環境が奪われないこと自体に積極的な法的利益を見出すことができるのであり、転校処分事例をも既に引用してきたところである。
しかも、以下、述べるとおり様々な教育上の悪化・低下がもたらされる。
この低下を「回復の困難な損害」という法律上の要件に該当するか否かは、小学校児童にとつての教育の意義及び教育権の重要性を充分斟酌して評価されなければならない。原決定は、この点を根本的に欠落させている。
三 物的・人的諸設備の低下
原決定は、開明・竹谷両校ともに一人当たり校地面積、一人当たり運動場面積は適正な範囲からはずれると認め、教育設備の面で右両校は御園小に劣ると認定している。御園小が統廃合されれば、右の一人当たり校地、運動場面積は一層狭隘となるのであるから、右の教育設備の低下は明らかである。
四 公害問題、交通問題等
原決定は「国道四三号線は特に車輛の通行量が多く、かねてから二酸化窒素汚染を中心とする公害が問題視されており、調査の結果、同国道から一五〇メートル乃至二〇〇メートル以内の地域に影響が顕著にみられ………」(第二、三5項)と事実認定した上で、御園小は約三三五メートル、開明小は約一九五メートル、それぞれ、四三号線から離れているとし、また御園小は車輛の通行量の多い道路には面していないが、開明小西側道路(五合橋線)は交通の激しい幹線道路であるとそれぞれ認定しておきながら、学校の環境として四三号線との関係をみた場合に、両校の間に左程の差等があるとも思われないと判断している。
二〇〇メートル以内は顕著であると暗に認めながら、両校の間に左程の差はないとの判断は、不可解極まりないと言うべきである。疎甲六九ないし七二号証及び疎乙三九号証からも、両校の差は顕著である。公害は居住地と関係があるとし児童は、学校において、年間の全生活時間の約二〇パーセントを過ごすと判断するのであれば、学校の位置は公害のより少い地域に設置すべきであり、統廃合においては、より公害の影響が少なくなるよう配慮すべきである。学校は子どもらにとつて第二の居住空間であることを肝に銘ずべきである。尼崎が公害都市であり、何よりも公害の防止を第一にするのであれば、統廃合にあたつては何よりも公害の問題を重視すべきであろう。
公害の影響が顕著であると認められる開明小で、子ども達は全生活時間の五分の一を過ごさせられるのであるから、本件統廃合は、御園小の約半数の子ども達に健康上の被害を及ぼすことは明らかである。
また騒音についても、その差は歴然としており、人体への影響も科学的に明らかであるのに、原決定は、授業に対する支障というレヴエルで騒音問題をとらえている。また交通事故についても、過去に通学途上の交通事故が発生していないことを重視して、「事故の危険」の問題を事故の発生へとすりかえている。そして、交通事故の危険騒音は、都市部においてある程度まではやむを得ないとしている。然し、御園小の場合統廃合を強行する教育上の理由は何ら存在しないのであるから、子どもらを交通事故・騒音の危険にさらすこと自体、教育行政としてあるまじき蛮行といわなければならない。
なお、通学途上における交通事故の危険性、学校及びその周囲の騒音、空気汚染問題は重要な教育条件である。
ちなみに、名古屋高裁金沢支部決定においては、交通事故の危険等の通学途上における条件を教育条件に含ましめ、その悪化を「回復の困難な損害」としてとらえている。
五 障害児教育への打撃
原決定が障害児ないし障害児教育に対して示した判断は、決定的な歴史的立ち遅れを示しており、障害児教育にたずさわる関係者の失意は、はかりしれない。
原決定は、御園小の三名の障害児は殆んど普通学級で学習しているからまた他の一名も若干の時間をかければ新しい環境に順応しうると独断し、竹谷小でも障害児教育が行なわれているし、内容的に遜色がないから、回復困難な損害とは言えぬと論結している。繰り返すが、障害児教育は、日々の粘り強い接触と積上げによつてかろうじて可能となるものである。周囲の熱意と障害児の努力が一体となり、そして接続して初めて学習と教育が行なわれる。統廃合は、障害児達が漸く獲得した人間関係と学習教育の場を一瞬にして打ちくだくものである。彼らにとつて御園小における「普通学級」は、障害児にとつて、安心して学習が可能となる場であるが、竹谷小の「普通学級」はこのような場ではない。また御園小では、竹谷小にはない全面的な統合教育が行なわれており、障害児と健常児との精神的交流は両者にとつて貴重な存在である。障害児にとつて本件統廃合によつてもたらされる傷痕はその回復が余りにも困難と言わざるをえない。長らく障害児教育に献身して来た教師の言葉をここに付記する。「障害児にとつて一メートルの距離は、一〇〇メートルにも一〇〇〇メートルにも匹敵するのです。」
更に、御園小学校で実施されている統合教育は充実したものであり、この統合教育が障害児への教育方法として今日最もすぐれた方法であるといわれている。
本件における障害児は、竹谷小学校やその他の障害児教育の行なわれている学校への就学することを希望せず、やむなく原籍校へ就学することとなつた。これは、それらの学校へ通学しても教育条件の悪化は免れないと判断したからに外ならない。その結果、原籍校では障害児教育は行なわれておらず、障害児にとつての教育条件の著しい悪化は避けがたい。
障害児教育の行なわれている学校に通学できるという可能性をもつて現実の問題を避けることは許されない。この点にも原決定の違法性がある。
六 学校規模の増大による教育条件の悪化
原決定は、統合後の学校規模の問題について、「竹谷小学校においては昭和五六年度で二六学級であり、校区検討委員の基準とする三〇学級を下回るだけでなく文部省の都市部における基準である二四学級をわずかに上回るにすぎず、開明小学校においては、昭和五六年度一八学級で、義務教育諸学校施設費国庫負担法施行令第三条第一項第一号の適正規模の範囲内にある。なお、現在の御園小学校程度の小規模校には、申立人ら主張のような種々の利点があるが、その反面、被申立人が指摘するような欠点も児童数の推移に伴い次第に増大するということが十分考えられるところである」とした。
しかし、原決定の判断は誤りである。その理由の要点を述べる。
1 竹谷小学校の規模がそれが義務教育諸学校施設費国庫負担法施行令第三第一項第一号の適正規模をはるかに上回ることを意識的に看過している。
2 御園小学校の昭和五五、五六年度の規模は、教育上の諸々の利点があるのみでその規模から生ずる欠点がなかつた事実について、それに対する積極的評価が軽視されている。
3 小規模校における一般的な欠点は教育上の努力により克服できるものである。御園小学校が果たす諸々の積極的役割を将来における児童数の減少を予測して、それを前提に欠点が増大するというのは、右の点を無視したものであり、余りにも形式論理であるとの批判を免れない。
4 竹谷・開明小学校における学校規模の増大は、申立書において指摘した大きな規模の学校の欠点をその度合に応じて増大させることを不可避とする。
5 竹谷小学校における二六学級に教育上種々の弊害が生ずることは文部省も指摘しているところであり、教育学上自明のものとなつている。これを、尼崎市の平均値を下回る故をもつて合理化することはできない。これに反する見解は、統廃合における教育的見地を無視するものであり、かつ、学校規模の平均と統廃合の基準とを混同するものである。
6 文部省の都市部における基準が二四学級であるとしているが、文部省はそのような基準を示していない。校区検討委答申に右記載があるが、それ自体誤つた記載である。このような誤つた事実に依拠して「わずかに上回るにすぎ」ないとしたことは、端的に原決定の誤りを示すものである。
別紙一覧表及び「児童とその校区の学校」<省略>
別紙(二)
抗告人らは原審主張並びに抗告状記載の主張を以下の通り更に補充する。
一 廃校処分と被抗告人の権限
原決定は、抗告人らが対象となる処分を御園小学校の廃校処分と表示したことを捉えて、被抗告人は廃校(廃止)の効力を生じさせる何らの処分もしていないと帰結したものであるか、抗告人らは反論書以下提出した書面において、廃校処分の意味するところを継続的事実行為的処分たる校舎の封鎖等に関する営造物利用関係上の処分を言うものとしてその趣旨を明らかにしている。即ち、被抗告人が地方教育行政の組織及び運営に関する法律第二三条一号に基づいて、廃止に関する一連の事務を管理し、執行することは、少くとも継続的事実行為的処分に該当するものであつて、なお一層限定してそれを端的に特定すれば、昭和五六年三月末から四月初めころに被抗告人がなした校舎封鎖処分を言うものである。(疎検甲五、疎甲一一八号証)全体としての一連の廃校事務につき、被抗告人が広汎な実質的権限を有することは既に指摘しているところであるが、次のような事実からもこれを裏付けることができる。即ち、条例の施行期日は本年四月一日とされているが、事実行為としての廃校は、被抗告人の事務執行によつてなされるのであり、過去の事案をみても、条例に定める施行期日と具体的現実的な廃止の時期とは必ずしも一致していない。
例えば、名古屋高裁金沢支部昭和五一年六月一八日決定(判例時報八四二号七〇頁)の要旨に示された事実によれば、当該教育委員会は、条例において当の小学校を昭和五〇年三月三一日限り廃止するものとされていたにも拘らず、右以降も教員を派遣して授業を行い、一年を経過した昭和五一年の三月二九日に至つて就学校変更通知をなしたうえ、同年四月一日ころ校舎に施錠してこれを封鎖しており、また、横浜地裁昭和五四年三月二六日決定(判例時報九三四号四三頁)に示された事案においても、条例の施行期日が昭和四六年九月一日とされながら、統合するための校舎新築が遅延したことにより、実質的統合手続は昭和四八年に至つてようやく就学通知がなされるという状況で進行したものであつた。こうした時期の不一致は取りも直さず、具体的な事務執行について、教育委員会が市当局とは異なつた教育的観点からこれをなすからに外ならず、むしろそれは教育委員会制度の設けられた趣旨からすれば当然視さるべきことである。換言すれば、被抗告人は飽く迄教育的観点に立脚した独自の見地から事務執行をなすものであつて、事実的廃止処分の限りにおいては施行期日を含めて、条例の施行期日に関わりなく、その使命と権限に基づく固有の処分をなすのである。尚これに関連して触れておけば、前記事例等における具体的廃校の事務執行が、相当の猶予ないし準備期間を設けたうえでなされているのに比し、本件処分は教育的配慮を一顧だにしない拙速さの点において際立つものである。
二 新一年生に対する就学指定処分の性質
新一年生に対する就学指定処分と執行停止の関係についての抗告人らの主張は、抗告の理由第二に述べている通りであるが、要するに、本件廃校処分(具体的には通学区変更手続)がなかつたとすれば、従前の通学区に従つて御園小学校への就学指定が法規上の義務として当然になされた筈であり、執行停止決定は、そのような当然かつ強行的になされるべきであつた御園小学校への就学指定を求める法的地位を抗告人らに暫定的に付与するものであつて、拒否処分事例とは明確に異なるとすることを明らかにした。
右趣旨を更に補足すれば、原決定は、児童の通学すべき学校につき、抗告人が指定処分を行なうことによつてはじめてその都度就学校との学校法律関係が発生すると解しているかの如くであるが、義務教育としての制度上、就学が開始していない児童についても居住地を基準として常に特定の学校との間においていわば入学予定法律関係が継続的に成立していると言うべきである。そして教育委員会のなす就学指定はそもそも個々の児童の個別事情を斟酌して決定するような性質のものではなく、居住地を基準とする形式的嵌め処理でしかないのであるから、処分の実質的内実は確認行為たる性質の濃いものと認められるのである。それ故、就学指定の執行停止は、従前から継続的に存在していた御園小学校への就学予定関係を復活させるものであり、そして既に就学年齢に到達し、かつ学年が開始している以上、被抗告人は法規上の義務として就学関係を「確認」すべき筋合いであり、仮に被抗告人がこれをもなさない不作為の態度に出たとしても、「確認」の要件が整つている以上、これを拒みうるというような裁量権限はないのであつて、むしろ期限の到来ないし条件成就の妨害に準じ、就学関係の確認が当然になされたものとして、抗告人らは御園小学校との学校法律関係の成立を主張しうるものと言わなければならない。ちなみに、保育所への入所申込をしたのに対し、市福祉事務所長が申込外の保育所への入所措置決定をなしたことに関し、兄弟のうち継続申立をした兄のみならず新規申込をした弟についても回復困難な損害を認めて執行停止を認容した事案が存するが(福岡地 決 昭和五二年五月一九日 行集二八巻五号四九八頁)、右の趣旨は、新規申込にかかる弟についても継続申込者たる兄と同様に希望する保育所に入所できることを予定したものと解せられるのであつて、本件はそれ以上に就学関係の成立が法規によつて義務付けられている背景があることに照らすと、尚更右決定の趣旨が妥当するところである。
ちなみに、右決定は、「被申請人は、本件処分の効力が停止されると本件児童を保育すべき保育所が存在しないことになり、却つて回復困難な損害を主張するけれども、本件児童について保育所入所措置が必要であること自体は争いがないところであるから、本件児童を貴船保育所に入所させる旨の効力が停止された暁には、被申請人において更に本件児童を適切な保育所に入所させる措置をとるにつき法律上の妨げとなるものはないと解すべきである」と述べている。
本件について、新たな就学通知をなすにつき法律上の妨げがあろう筈はなく、却つて憲法第二六条以下の教育諸法規の趣旨からして、新たな就学通知をなすべき法規上の義務があるものと認められるのであつて、就学すべき学校がなくなるという原決定の論旨は形式論のそしりを免れない。
別紙(三)
第一アンケート結果について
育友会は、昭和五六年四月下旬、御園校区から竹谷又は開明小学校に通学している児童の父兄を対象に、アンケート調査を行なつた。
御園校区から竹谷又は開明小学校に通学している児童の世帯で、一年生の児童のみしかいない世帯を除いた総世帯数は二〇五世帯であるところ、アンケート結果を回収できた世帯数は一七一世帯であり、回答率は八三パーセントである。
回答率は疎甲第一三三号証の鈴木報告書のとおりであるが、特筆すべき点を以下に記載する。
1 問二三の「御園小学校が再開されたら御園小学校に戻りたいと思いますか?」との問いについては、八九パーセントの人が戻りたいと考えている。その理由は多岐にわたるが、ともあれ、御園校区の圧倒的多数の父兄が御園小学校に戻りたいと考えているのである。このような住民の意思を頭からふみにじつた点に本件処分の誤りが端的に証明されている。ちなみに、同二二の「御園小学校の廃校は地域住民の意思を尊重して進められましたか?」との問には、無視されたと考えている父兄が九七パーセントにも及んでいるのである。本件処分の反民主性を明瞭に示している。
2 通学途上の問題点については、八五パーセントもの多数の父兄が危険になつたと考え、通学経路、通学時間の変更によつて生ずる児童への悪影響については九七名の父兄が心配しており、通学時間の増大による疲労の増加、悪い遊びに走つたり不祥事の発生等の問題が新たに発生していることを危惧している。
3 大気汚染の悪化についても七二名の人が健康への悪影響が生ずると考えている。
学校統廃合を行なう場合、当然これらの問題に対する充分な対策がとられて後行なわなければならないところ、これらの問題について何らの対策もとられていないところに本件処分の大きな問題がある。また、交通事故の危険性、大気汚染による健康の悪化及び通学途上に生ずる様々な悪影響は、いずれも児童の成長に重大なるマイナスを生ぜしめるものであり、回復の困難な損害に該当する。
御園小学校と竹谷、開明小学校との教育条件、環境面における比較については以下の結果が出ている。
1 学校設備については、便所、運動場、廊下等が悪くなつたと考える人が一〇四名も存在する。人間関係の交流が疎外されると考える人は、教師と児童間、児童間、それぞれについて八二名、父兄間については一〇七名にものぼつている。
2 学校規模、学級規模のいずれについても御園小学校に比較して増大する結果教育上マイナスであると考える人が約半数弱あり、学校全体のまとまりについては九〇名の父兄が悪くなると答え、学校教育が御園小学校に比べて沈滞していると考える人が五四名も存在する。
以上のとおり、竹谷、開明小学校への統廃合は、御園小学校に比し、教育条件、教育環境の悪化をもたらすものであり、これは回復の困難な損害にあたる。ことに、障害児にとつての教育環境の悪化については三分の二の父兄がそれを認めており、障害児の特殊性からすれば重大な弊害といわざるをえない。
更に、学校統廃合によつてもたらされる児童の成長に与えるマイナスについても、父兄はこれを深く憂慮している。
1 児童の成長にマイナスであると答えた人が六八名(問一六)
2 非行の可能性の増大については六三名(問一四)
3 学習学習意欲の低下については四七名(問一七)
存在している。又、竹谷、開明小学校では、児童に様々な問題が生じており、元御園小学校の児童がいじめられたり、暴力をふるわれたり、学校へ行きたがらない等の教育上絶対容認できない事態にたちいたつている。これら教育上及び児童の心身の発達への障害は、まさに、回復の困難な損害に該たるものである。
地域の問題についても、学校と地域、家庭のつながりの稀薄化を指摘する者七〇パーセント、地域環境を悪化させるとする者七〇パーセント、児童の遊び場を奪うと答えた者九〇パーセントに及んでいる。これらの数値に示される様に、本件処分により地域に与えるダメージは大きく、その結果児童の成長に決定的なマイナスが招来されている。これも回復の困難な損害に該当する。
なお、アンケート結果によれば、問一から問二三のいずれについても、本件処分の結果良くなる点があると答えた者は極く少人数であることにも注意が払われなければならない。
以上のとおり、アンケート結果は、本件処分により重大なマイナスのみが生じていることを証明している。従つて、いまや、回復の困難な損害の発生は客観的に証明されている。
第二統廃後の教育荒廃―報告書を中心に
一 統廃合にともなう児童相互間のトラブル
廃校処分の執行にともない、御園小学校の児童たちは、本年四月から竹谷小学校と開明小学校にふり分けられて通学している。御園小学校の親たち、そして子ども達が憂慮していた事態が、竹谷小学校でも開明小学校でも想像以上に現実化している。それは、竹谷小学校、開明小学校の児童らによる御園小児童の排斥である。精神的に肉体的に「御園いじめ」が行なわれている。それは一過性の児童間の軋轢ではなく、本件統廃合によつて、御園小学校の児童そして竹谷小学校、開明小学校の児童にももたらされた、教育上の人為災害であつて、児童の教育権保障の観点からすると非常にゆゆしき問題である。
「御園いじめ」はとりわけ開明小学校で顕著に見受けられ甲第一二一ないし一二三、一二六、一二七号証の報告書にあるように、開明小学校の児童(上級生が約半数を占めている)達は、御園小学校の児童を精神的に、そして肉体的に排除し、小学校教育で最も重要と思料される学級における仲間づくりに逆行した行動をとつている。
単に「いじめる」の範ちゆうではとらえられない暴力事件が発生しており、事態は深刻である。御園小学校ではみられたことのない不祥事が発生している。原山卓也君は、とがつた鉛筆の先で手のひらを刺され、金山さとこさんは、石を投げられたり、ヤリの様な棒で追いかけられたりしている。また「つぶれた御園へ帰れ。開明があるからあんたたち助つたんやで」という言葉の中には、本件統廃合が落とした暗い影を如実に見てとることができよう。
このように、本件廃校処分によつて、憂慮されていた事態が発生し、損害が現実のものとなつており、右損害は最も重要な発達過程にある児童達の精神と肉体に生じているものであるだけに、その回復は非常に困難である。従つて一日も早く廃校処分の停止が求められなければならない。
二 強盗事件が示すもの
甲一二五号証の報告書、甲一二一号証の二の新聞記事に明らかなように、四月二日小学生三名が老婆を襲い、サイフを強奪した。右三名のうち二名は竹谷小学校の児童であつた。
市教委は主張していた筈である。竹谷小学校でも御園小学校にひけをとらない教育が行なわれていると。しかし、御園小学校では非行事件が一件も発生していない。まして本件強盗事件の如き重大事件は想像もできぬことであつた。児童が何故かかる非行に及ばざるをえないのかを、その根源まで深く堀り下げて、児童を暖かく見守り育てる教育が竹谷小学校では行なわれていなかつたのである。あるいは、学校規模の面で行なうことができなかつたのである。御園小学校と竹谷小学校を比べ、その優劣を競うつもりはないが、このような事件が発生したことのない御園小学校では、個々の児童を見守り育てる教育がはつきりと行なわれていたのである。その意味で、御園小学校の児童らは竹谷小学校に編入されることによつて、教育上の損失を蒙つているものであるし、竹谷小学校の児童らも御園小学校児童の増加によつて、教育上の損失を蒙つている。
また、本件非行事件は、市教委の主張が如何にいい加減で抽象的なものであるかを暴露したものと言える。
三 交通事故の発生
四月二二日、下校途中、開明小学校の五年生児童が、国道四三号線と五合橋の交差点でトレーラーに左足をはねられ、左足足首裂傷骨折で加療二ケ月という重傷を負つた。一つまちがえば即死であつた。いつも対立反目していた上級生に追いかけられ、逃げ場を失い思わず車道に飛び出したところをトレーラーにはねられたものである。
市教委は、御園小学校の児童が開明小学校へ通学するようになり、五合橋線を越えなければならなくなつても、今まで通学途上の事故は発生していないから、危険ではないとうそぶいていた。しかし本件事故は、開明小学校への通学途上の交通事故がいやがおうでも高いものであることを如実に示した。抗告人らは、五合橋線で事故が多発している以上、交通事故の危険性は高いと言わざるをえず、通学途上にかかる高度の危険を生じさせることとなる本件統廃合は、許されないと主張してきた。
市教委は、本件統廃合にあたり、交通の危険を一顧だにしなかつた。そして安全幻想をふりまいてきた。これは決して許されることではない。
御園小学校の児童らは、廃校処分の執行により、開明小学校の場合は五合橋線、竹谷小学校の場合は出屋敷線という幹線道路を毎日登下校の際通過する。即ち毎日交通の危険にさらされている。そして右交通の危険はとりもなおさず本件廃校処分がもたらしたのである。事故が発生してからでは、取り返しがつかない。御園小学校の児童が、日々遭遇している交通の危険は、回復困難な損害と言わざるをえない。
四 教育実践上の問題点
1 教育の外的条件である運動場、校舎等の物的諸設備、就中一人当りの児童に換算した設備条件が著しく低下することは申請書において比較表(別表二)を添付して明らかにしているところであるが、現実的にも例えば竹谷小学校においては最も初歩的設備に属する便所の利用に支障を生じており(二箇所にしか設けられていない)、また児童数の増加に伴つて(最大規模では一学級四五名に達する)、教室空間も手狭なものとなつている。これらは必然的に教育実践にも困難をもたらし、教師が子どもを正確に掌握しえないことから、児童の学習意欲は減退傾向を強めている。
また、放課後の生活指導が行届かない間隙をぬつて盛り場やゲームセンターに出入する子どもも増加している。これらは、過大校の弊害とされるものが、個々の教師の努力や工夫によつて克服しきれない限界があることを示すものであつて、一般論として指摘される小規模校の弊害のかなりの部分が、個々の教師の力量や学校全体の取り組みによつて解決可能であることと対比せられるべきである。
2 御園小学校における障害児教育は高い実践の歴史をもち、その先進的統合教育方針は一応の基礎固めの時代を経てより一層の発展を目指すべき状況にあつた。しかるところ、本件統廃合は障害児教育において最も重視されるべき積上げの歴史を一挙に断切るものであつて、他に一定の教育環境が与えられても、それは当の児童にとつて仮のものとしか映らないものであり、かなり後退した地点からの教育を余儀なくされている(疎甲第一三二号証山根意見書五七頁参照)。そればかりか、竹谷小学校における障害児教育の実情は一二名の対象児童に対して二名の教員が配置されているのみで、教師と児童との濃密な関係は望みうべくもなく、またそこにおける統合教育は形式的な試行の域を出ない程度でしかない。かくして、障害児に関する教育環境の悪化は重大かつ顕著である。
叙上の通り、抗告人らは昭和五六年四月以降に生起している深刻な事態を数点に亘つて指摘したが、抗告人らのこれまでの主張の如く、本件統廃合が教育環境を改善するところは一切なく、従前の御園小学校の児童に対してのみならず、それらの児童を受け入れた竹谷、開明小学校においても看過することのできない歪みを生ずるところとなつている。いみじくも、大多数の児童らは御園小学校への復帰を希望しており(前記アンケート結果)、従前の教育内容を含めた教育環境の良さを再認識するところとなつている。被抗告人(相手方)は、抗告審での意見書において子ども達が新たな環境に適合しはじめているとするが、歪な環境を押し付けられていることを顧みない当推量でしかなく、いかなる環境に適応させるべきかという教育的視点を欠落させた主張と言わざるを得ない。
抗告人らは、「回復の困難な損害」の法理について、申請書第八項あるいは反論書第六項三において詳述しているところであるが、要するに本件処分は、尼崎市における平均学級数なる教育的見地とは無縁の基準に基づいて御園小学校を過小校とし、即時執行の必要性が全く存在しないにも拘らず廃校に付そうとするものであつて、その合理性は些かもなく、新たに生起している問題を含めて日々回復困難な損害を及ぼしていると言うべきである。なお、校舎取毀し等跡地利用をめぐる事務処理が相当程度進行していることは、それが広く喧伝されていることに照らし疑いのないところである(疎甲第一二九、一三〇号証参照)。
別紙(四)
意見の趣旨
抗告人らの本件抗告を棄却する。
抗告費用は、抗告人らの負担とする。
との裁判を求める。
意見の理由
第一 原決定の事実認定及び法律の適用はいずれも正しく、本件抗告には理由がない。
第二 被抗告人(相手方)の意見は、原審における昭和五六年三月一九日付意見書及び昭和五六年三月二三日付意見書(第二)のとおりであるからこれを援用するほか、次のとおりこれに付加する。
一 抗告状別紙「児童氏名とその保護者たる抗告人」一覧表(三)記載の児童及びその保護者たる抗告人について
1 同一覧表(三)記載の児童はいわゆる障害児である。本件統廃合実施前の御園小学校に在籍していた六名の障害児のうち四名の児童については本件取消訴訟及び本件執行停止決定申立事件が提起されたが、残り二名の児童の保護者らは訴訟行為に加わらなかつた。訴を提起しなかつた二名の児童のうち一名は卒業して中学校へ進学し、他の一名は竹谷小学校の普通学級へ進級している。
2 原審において本件執行停止が申立られた四名の児童のうち、田波靖祥については北難波小学校の言語障害児学級に、田波崇史については北難波小学校の普通学級に就学し、その保護者らは、原決定に対し本件抗告を提起していない。
3 児童高原和弘については、昭和五六年四月一日、同児童の父高原浩三から被抗告人に対し竹谷小学校の障害児学級へ入級するための区域外通学許可申請がなされたため、被抗告人は、これを相当と認め、開明小学校に就学すべき旨の就学指定校変更処分を取消し、竹谷小学校に就学すべき旨の就学指定校変更処分を行なつた。
4 本件抗告が提起された児童大城幸子については、昭和五六年四月六日、同児童の保護者大城敏子と開明小学校長並びに御園小学校で同児童の属していた障害児学級を担任していた細見・南両教諭が話合つた結果、開明小学校の四年生の普通学級へ入級させるのが望ましいとの結論に達し、抗告人たる保護者大城敏子の希望も容れたうえ現在同校の普通学級に入級し支障なく授業が実施されている。
5 そもそも、小学校、中学校及び高等学校には、特殊学級を置くことができるとされているが、(学校教育法七五条一項)、右特殊学級(障害児学級)は、政令で盲学校、聾学校又は養護学校に入学すべきものと規定された者より軽度の障害者でかつ保護者が希望する児童を対象とするものにすぎないのである(同法七一条の二、同法施行令二二条の二参照)。従つて、小・中学校の特殊学級に入級している児童については、本来的には、留意して指導するならば、普通学級において十分教育可能なものである。しかしながら、尼崎市においてはより一層の教育効果をあげるべく昭和五五年度では二二小学校・三九学級の障害児学級が設置しているのであるから、保護者が希望するならば、当該児童の校区にかかわりなく児童及び家庭の状況に応じた障害児学級への入級が可能である。右大城幸子は、いわゆる情緒障害児であるから普通学級で十分教育可能である。開明小学校においては、保護者らの意見を聞いたうえ特に留意して指導するものではあるが、もし保護者たる抗告人が希望するならば他の適切な情緒障害児学級への入級の道は開かれているのである。
二 統合後の竹谷・開明小学校の状況
統合後の竹谷・開明両小学校においては、両校とも旧御園小学校児童との対面式(始業式)、入学式ともなごやかで、打ちとけた雰囲気の中で実施され、疎乙六九、七〇号証のとおり、本件統合を原因とする欠席者もなく、何らの混乱も生じていない。むしろ、子供たちは新たな環境に適合し、既に新しい友人もでき、それぞれ竹谷・開明小学校児童としての自覚・一体感も芽生えはじめているものと推測される。現時点においては、本件統廃合が児童らの教育を受ける権利を侵害するとの抗告人らの主張は、杞憂にすぎないことは極めて明白である。
別紙(五)
第一 児童数の推計について
一 疎甲第一一六号証の意見書は、相手方(教育委員会)の推計値と実数との誤差について言及するが、その実数と称するものは、同意見書によれば昭和五六年三月上旬における育友会の調査によるものであつて、相手方が示した推計値は各年度の五月一日時点での児童数の予測数なのであるから、その批判はあたらない。昭和五六年五月一日現在での旧御園小学校に進学すべき児童の数は、疎乙七五号証のとおりであるから、相手方の推計値との誤差はわずか四人にすぎず、相手方の推計の妥当性を示している。
二 また同意見書は、昭和三五年以降の平均減少率による単純な推計方法に立脚して相手方の推計方法を批判する。しかし、同意見書のとる平均減少率による推計方法は、昨今の社会経済情勢・尼崎市における人口移動の実態及びその原因を無視し、過去の児童数の推移のみをとらえた最も単純で初歩的な方法にすぎず、年々の児童数を前年の児童数と比較し、その変動のメカニズムに即した補正要因を求めて将来数を推計するという相手方の推計方法の合理性には、はるかに及ばない。
なお、相手方の推計方法も「将来の予測」である以上、実数との誤差が生ずることは否定できない。しかし、原決定が摘示するとおり仮に、昭和五五年五月一日現在の住民基本台帳に登録の〇才から五才までの児童数を何ら補正することなくスライドさせても、児童数が減少し、近い将来一学年一学級の事態が生じることは明らかである。