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大阪高等裁判所 昭和57年(ネ)1066号 判決 1985年9月25日

控訴人

野井喜一

右訴訟代理人弁護士

大橋武弘

平栗勲

望月一虎

被控訴人

医療法人恒生会

右代表者理事

菱川和夫

被控訴人

穴原克宏

右被控訴人ら両名訴訟代理人弁護士

岩橋健

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人らは各自控訴人に対し、三三四四万七八四一円及びうち一八七六万三〇二九円に対する昭和五三年六月九日から、うち一一六八万四八一二円に対する昭和五四年五月二五日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

4  仮執行の宣言。

二  被控訴人ら

主文と同旨。

第二  当事者の主張及び証拠関係

次に付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから(ただし、原判決二七枚目表三行目の「相像」を「想像」と訂正する。)、これを引用する。

一  控訴人の当審における主張

1  控訴人の本件血管損傷が被控訴人穴原の行つた整復術により惹起されたものであることは、請求原因三・1・(一)・(2)で主張した事由のほか左記事由によつても明らかである。

(一) 肩関節脱臼に伴う血管損傷は肩関節附近に発生するものである。文献にみられる症例報告(甲第二九ないし第四〇号証)においても肩甲下動脈及び上椀回旋動脈が腋窩動脈から分岐する附近に発生することが多く、時として胸肩峰動脈が分岐する附近で発生することもある。本件血管損傷は、肩関節脱臼時における右多発例と異なり、肩関節とは離れ、より身体中心に近い外側胸動脈の分岐部分に発生している。右の胸肩峰動脈の分岐部分附近における発生例は、同動脈が小胸筋に乗り上げるように固定されているため、小胸筋が支点となつて損傷を受け易いものと説明されている。外側胸動脈は小胸筋の下側を通るものであるから、胸肩峰動脈の場合とは異なる。

右報告された症例によると、その多くは動脈硬化その他の血管病変の存在が認められるが、控訴人には血管病変はない。また、右症例によれば、脱臼時血管損傷の場合においては整復前に既に橈骨動脈の拍動はなかつたが、本件においては整復前も橈骨動脈は良く拍動していた。

右のように、本件血管損傷は脱臼時血管損傷の症例と多くの点において相異しているのであり、この相異は本件血管損傷が脱臼時に生じたものでなく整復時に生じたことを推認させるものである。

(二) 肩関節脱臼に対する徒手整復術は麻酔下に行われるのが通常であり、前記報告症例においても、橈骨動脈の拍動のない患者に対しても全身麻酔によつて整復が行われている。無麻酔で行うときは、疼痛のため筋肉が緊張して整復し難く、麻酔下よりも強い力でけん引等を行うことを必要とするから、血管損傷等を生じる恐れがある。麻酔を用いる場合は緊張を和らげることができ、整復を安全・容易に行うことができる。

被控訴人穴原は、ショック状態にある控訴人に対し、麻酔を用いることなく、しかも着衣も脱がすことなくヒポクラテス法による徒手整復を行つたのであり、このような無暴ともいうべき徒手整復により本件血管損傷を生じさせ、ないしは損傷を増悪させたものである。

(三) 被控訴人ら主張のように被控訴人穴原が初診時に控訴人の右前胸部に著明な腫脹を触知していたというのであれば、このような異常な合併症を疑える患者に対しては、より安全・容易に徒手整復術を行うために麻酔を用いるのが通常である。同被控訴人が無麻酔で、しかも着衣を脱がすことなく徒手整復を行つたことは、同被控訴人において右主張のような異常な合併症を疑うべき腫脹を認識していなかつたこと、すなわち右腫脹は存在せず、整復前には血管損傷がなかつたことを推認させるものである。

2  仮に、本件血管損傷が脱臼の際に発生したとしても、被控訴人穴原のなした整復術により増悪させられたものであることは、請求原因三・1・(一)・(2)・(イ)に記載のほか、次のとおりであるから、同被控訴人には右整復術をなすにつき診療上の注意義務違反が存した。

すなわち、本件血管損傷部位は腋窩動脈の分岐部分であるが、幹動脈である腋窩動脈の破裂と同視され、激しい出血を伴う損傷である。控訴人の右前胸部に腫脹を触診した被控訴人穴原としては、右出血により招来される危険を予期して慎重な診療を行うべきであつた。しかるに、被控訴人穴原は、橈骨動脈に良好な拍動があることから幹動脈に損傷がないものと速断し、視診もせず、血圧の測定もすることなく、直ちに控訴人が衣服を着けているまま麻酔もせずにヒポクラテス法による整復術を強行したのである。そのため右血管損傷を増悪拡大し、多量の出血による血腫圧迫により右腋窩神経麻痺等を発症するに至つたものである。

3  被控訴人穴原は、控訴人の前胸部に血管損傷若しくは筋断裂を疑わせる通常の脱臼にはあり得ない明らかな異変を見い出していたにもかかわらず、控訴人に対しそのことを一切説明しなかつた。単なる脱臼にとどまらず生命に危険を及ぼすおそれのあるような重篤な合併症が存する疑いを抱かせる腫脹が確認されたのであるから、右被控訴人としては、その所見並びに徒手整復術の危険性を控訴人に十分説明して、このまま菱川病院で徒手整復術を受けるか、他の病院で観血的手術を受けるかを選択する機会を与えるべきであつた。控訴人は、同被控訴人から右のような説明を受けておれば、救急隊員も近くにいたので、右被控訴人からあえて危険を伴う徒手整復術を受けることはなかつたはずである。

したがつて、被控訴人穴原には、重篤な合併症の存在及び徒手整復術の危険性を説明すべき注意義務違反が存した。

二  控訴人の右主張に対する被控訴人らの答弁

1  控訴人の右主張1を争う。

本件血管損傷部位が、文献に報告された症例の損傷部位と異なることをもつて控訴人の血管損傷が脱臼時に生じたものでないとはいえず、右血管損傷が整復時に生じたと推論することはできない。

2  控訴人の右主張2を争う。

被控訴人穴原は、単に控訴人の橈骨動脈が拍動していたから幹動脈に損傷がないと速断して、先ずヒポクラテス法による脱臼の整復をしたのではない。同被控訴人は、「橈骨動脈の拍動がない場合」は、末梢に血流が及ばないため末梢組織が壊死する危険性があり、また、出血による生命の危険があるから直ちに患者に応急措置を施したうえ、血管縫合術の手術可能な病院へ転送するべきであるが、「橈骨動脈の拍動がある場合」は、仮に幹動脈の一部分に損傷があつたとしても、末梢に対する血流が保持されていて末梢組織の壊死や生命の危険はないから、まず患者の脱臼による痛みを除去するために整復を行い、次いで出血症状が内部組織内で凝固することにより自然止血するかどうか観察すべきであるとの医学的判断によつて、先ず控訴人に対しヒポクラテス法による脱臼の整復をしたのである。

3  控訴人の右主張3を争う。

ヒポクラテス法による右肩関節脱臼の徒手整復術は、術者が右足を患者の腋窩に入れて自己の両手で患者の右手を握つたうえ、患者の右腕をその体側にそつて長軸方向にけん引するものであつて、わずか数秒間で終了しこれによつて健常な血管が損傷することは考えられないから、危険な治療行為ではなく、あらかじめ患者にその危険性を説明して同意を得るという性質のものではない。

被控訴人穴原が控訴人を初めて診察したときは、既に控訴人に脱臼と血管損傷若しくは筋断裂を疑うに足る前胸部の腫脹の双方が存したので、同被控訴人としては脱臼の整復と腫脹の原因(本件においては血管損傷)の治療の双方を早急にしなければならなかつた。脱臼の徒手整復と血管損傷の治療は、控訴人が主張するように右被控訴人の合併症の説明によつて控訴人が治療方法を自己決定して選択するという性質のものでもない。同被控訴人としては、脱臼の徒手整復も血管損傷の治療もしなければならなかつたが、治療順序として、先ず脱臼の整復をしたのは、控訴人に橈骨動脈の拍動があつたため、血管損傷が存しても上肢末梢に対する血流が保持されて末梢組織の壊死の危険性や出血による生命の危険性がなかつたので、控訴人の訴える痛みの軽減を図るために数秒で終了して控訴人の容体を悪化させることのないヒポクラテス法による整復を実施し、次いで血管損傷による皮下出血症状への対策を行いながら、皮下出血が内部組織内で凝固して止血するかどうかを経過観察すべきであると判断したからである。右は、専門分野の医師としての高度な医学知識による一連の治療の順序の判断であつて、患者による選択あるいは自己決定の対象とされるものではない。

三  当審における証拠関係<省略>

理由

一原判決理由一及び二(原判決三二枚目裏三行目から四二枚目表末行まで)に認定判示する事実は、次に付加・補正するほか当裁判所の認定判断と同一であるからこれをここに引用する。

1  原判決三四枚目表八行目の「被告穴原克宏」の次に「(後記措信しない部分を除く)」を、同八・九行目の「各本人尋問の結果」の次に「、当審証人武用瀧彦の証言(以下「武用証言」という。)、」を、同三四枚目裏七行目の「右肩関節の脱臼」の次に「(右前方烏口下脱臼)」を各挿入する。

2  原判決三七枚目表九・一〇行目の「痛みを訴えており、ショック状態と判断された。」を「痛みを訴えていた。」と、同三八枚目表末行の「続いて、被告穴原は、」を「その直後、前記の右前胸部腫脹が急速に拡大する傾向にあつたので、被控訴人穴原は、急いで」と、同三八枚目裏八行目及び九行目の各「甲第八号証」を「甲第八号証の一」と、同四一枚目裏六行目の「血管」を「外側胸動脈」と、同七行目の「一部」を「約五ミリメートル」と各訂正する。

3  原判決四二枚目表九・一〇行目の「原告本人」の次に「、被控訴人穴原本人各」を挿入する。

二右引用にかかる原判決理由中に判示のとおり、昭和五二年三月二一日午前一〇時ころ控訴人が菱川病院に来院して右肩関節脱臼に対する医師の診療を求め、同病院に勤務する医師被控訴人穴原が診療を開始したことにより、控訴人と被控訴人恒生会との間に控訴人の右疾患に対し診療を行うことを内容とする診療契約が成立し、被控訴人穴原は同恒生会の右契約上の義務履行補助者として診療に当つたものと認めるべきである。

三控訴人は種々の理由(請求原因三・1・(一)及び当審における主張)を挙げて被控訴人恒生会に債務不履行責任が存すると主張するので、以下検討する。

1  本件血管損傷が被控訴人穴原の行つた徒手整復により惹起されたものと認めるか否かにつき審案する。

(一)  前記引用にかかる原判決理由中の認定事実(以下「前認定事実」という。)及び<証拠>によると、前認定事実のとおり、本件血管損傷は、控訴人の右側の腋窩動脈とこれから分岐する外側胸動脈との分岐点において約五ミリメートルの亀裂が生じているものであるが、その原因は、外側胸動脈がほとんど固定されていて動き難いため、腋窩動脈が何らかの力によつて上方あるいは外方へ引つ張られたことによるものであること、右損傷は肩関節脱臼時及び徒手整復時のいずれの場合も発生する可能性のあることが認められ、右認定に反する原審証人中野謙吾の証言(以下「中野証言」という。)部分は前掲証拠と対比して採用しえない。

(二)  本件血管損傷発生の時期及び原因

(1) 前認定事実のように、控訴人は昭和四二年及び同四七年に本件と同じ右肩関節前方烏口下脱臼を起こし、これらはいずれも整骨師による治療を受けたものであるが、原審における控訴人本人尋問の結果(以下「控訴人供述」という。)によると、右二回の場合は、いずれも単独で整骨院へ行き、比較的簡単に治療を受けて治癒し、合併症はなかつたと認められる。しかるに、本件の場合は、前認定事実のように妻が付添つて病院まで行き、病院内で大声を出したり、レントゲン撮影を拒否する等いささか異常な行動があり、顔色も悪く、冷汗があるという状態であつたことからすると、今回の場合は前二回と異なつて痛みが激しかつたと認められる。控訴人供述によると、今回も前二回と痛みに差はなかつたというのであるが、右認定の異常な言動からして右供述は信用できない。

そうだとすると、今回の場合は前二回と異なり、単なる肩関節脱臼に止まらず、何らかの合併症の発症を疑わざるをえない。

(2) 前認定事実のとおり、被控訴人穴原は初診時に控訴人の右前胸部に腫脹を触知している。

控訴人は、種々の事由を挙げて被控訴人穴原は右腫脹を触知せず、腫脹そのものも存在しなかつたと主張するので、この点につき検討するに、被控訴人穴原作成のカルテには、右腫脹に関する記載はない。右カルテには「ショック状態、前胸部の腫脹著明」との趣旨の記載はあるが、右記載以前には症状に関する何らの記載がなく、右記載に続いて「一〇・一〇 B・〇五〇 触診」との記載があることと前認定事実関係からして、右腫脹に関する記載は整復後の症状を記載したものと認めるのが相当である。また、甲第八号証の一(医大病院カルテ)には控訴人主張(請求原因三・1・(一)・(2)・(ア)・(a)・(ⅲ))の記載に止まり、整復前の症状の記載はない。更に後記(5)のように被控訴人穴原の行つた整復がその事前検査等も含めて慎重さに欠ける点があり、これは同被控訴人において合併症の存在を認識していなかつた証左である旨の控訴人の主張も首肯できるようにもみえる。

しかしながら、右(一)説示の本件血管損傷の部位、発生の機序からして、脱臼時に血管損傷が発生していたならば、右前胸部に腫脹の生じることは当然ありうることであり、初診時に被控訴人穴原が控訴人のシャツの下から手を入れて右肩関節脱臼の有無を確認したことまで否定することはできないから、その時に右腫脹を触知することは通常考えうるところである。また、原審鑑定人中野謙吾の鑑定結果(以下「中野鑑定」という。)、中野証言、武用証言によると、本件において右前胸部に腫脹が存在し、血管損傷を疑われる場合であつても、先ず整復により脱臼を治すことが通常適切な治療法であり、この際麻酔を用いないことをもつて不当な方法とはいえないことが認められるのであるから、被控訴人穴原のとつた処置から同被控訴人が腫脹を認識していなかつたとまで推認することもできない。

もつとも、被控訴人穴原は、右腫脹を触知しながら、これを視診することもなく整復を行つたのであり、同被控訴人において整復前に右腫脹を正確に観察し、カルテに記録しておれば、本件解明への手掛りとなつたことは否定しえない。

右腫脹の存在は、本件脱臼についての合併症の存在を疑わせるものである。

(3) 右(1)、(2)の事実は、控訴人の右肩関節脱臼につき何らかの合併症の発症を疑わせる事実である。もちろん、これをもつて本件血管損傷が脱臼時に生じたと断定しえないが、少なくとも右(2)の右前胸部腫脹は、その部位からして脱臼時における血管損傷による出血を疑わせるものである。

(4) 前認定事実によると、徒手整復直後において右前胸部に腫脹が急速に拡大し、右胸部から右腋窩部にまで及んだのであり、右は本件血管損傷による出血に因るものであり、かつ、右整復直後から血圧が著しく低下していることからして、右整復が本件血管損傷部位からの多量の出血をみる原因となつたことは明らかである。

しかしながら、<証拠>によると、仮に脱臼時に本件血管損傷が生じていたとしても、その部位、程度からして、脱臼後の上腕骨頭その他の体内組織により損傷部位が圧迫されて一時閉鎖され、あるいは血腫により損傷部位からの出血が一時停止されていることもあり、その後の脱臼整復によつて右閉鎖が開放されて出血をみるに至ること、あるいは脱臼時における血管損傷は軽微であつたのに徒手整復により損傷が増悪し出血をみること等が理論的に考えうると認められることからして、脱臼整復直後に多量の出血をみたということをもつて直ちに本件血管損傷が被控訴人穴原の行つた徒手整復時に発生したものとも断じ難いところである。

(5) 前認定事実のように、被控訴人穴原は、簡単な問診と着衣の下へ手を差入れて患部を触診したのみで直ちに徒手整復を行つたものである。患部のレントゲン写真撮影もせず、右触診のときに合併症を疑わせる腫脹を触知しながらこれを視診することもせず、患者の着衣を脱がすこともせず、麻酔を行うこともなくして行つた右徒手整復は、一般臨床医として通常の注意を欠いたものというべきことは、<証拠>により明らかである。

右の点につき原審における被控訴人穴原本人の供述(以下「穴原供述」という。)によると、初診時の控訴人の状態が前ショック状態で麻酔を用いることは危険であり、控訴人がレントゲン写真撮影を拒否し、医師の指示に反抗的であつたためというのであるが、<証拠>を総合すると、初診時に控訴人が前ショック状態というべき程度でなかつたことが認められ、また前認定事実のように、控訴人は被控訴人穴原の指示により診察台の上に寝てその診療を受けていることからして、控訴人が終始反抗的であつたとも認められない。被控訴人穴原において、控訴人の一時の反抗的態度に藉口して、必要な処置の一部を怠つたといえなくはない。

しかしながら、<証拠>によると、本件のような新鮮な肩関節前方脱臼に対する徒手整復術としてのヒポクラテス法は一般臨床医によつて行われている整復術であつて危険なものでなく、無麻酔下でも十分可能であると認められ、本件においては骨折がなかつたのでレントゲン写真撮影の有無は結果的には関係なかつたわけであり、脱臼そのものは目的どおり完全に整復されたわけである。被控訴人穴原の行つたヒポクラテス法による整復術の実施方法そのものに不当な点があつたとも認めえない(もつとも、前記野井艶子証人の証言、控訴人供述中には、被控訴人穴原の行つた上肢けん引方法は粗暴なものであつたとの部分があるが、これは前記矢野えみ子証人の証言、穴原供述と対比し、また、整復が短時間に完全に行われていることからして措信できず、その他被控訴人穴原の行つた右上肢けん引方法が不当なものであつたと認められる証拠はない。)ことからして、被控訴人穴原が整復術の実施について一部に通常の注意に欠けるところがあつたとしても、これが本件血管損傷の原因となつたと認めることもできない。

(6) 控訴人は、肩関節脱臼に伴う血管損傷は、肩関節附近に多発し、本件損傷は右多発部位と異なることを理由に脱臼時におけるものでない旨主張(当審主張1・(一))するが、その主張によつても、本件における外側胸動脈分岐点附近よりも更に肩関節より離れている胸肩峰動脈、鎖骨下動脈附近に発生した肩関節脱臼時血管損傷の症例もあるのであり、前記(一)認定の本件血管損傷発生の機序に鑑みると、損傷部位が肩関節より離れているからといつて、これが脱臼時のものでないと断定することは困難である。

(7) 控訴人は、医大病院のカルテ中の病歴・発病欄の記載(その内容は請求原因三・1・(一)・(2)・(ア)・(a)・(ⅲ)のとおり。)及び同病院の看護記録中の同旨の記載をもつて、本件血管損傷が脱臼時に発生していないことを裏付けうる旨主張するが、濱崎証言によると、右カルテ中の記載は医大病院の濱崎医師が控訴人や被控訴人穴原から聞いて書いたものであり、看護記録中の記載は看護婦において書いたものであるが、いずれも必ずしも正確を期し難いことが認められるのであつて、前認定事実並びに上記説示の事実関係に照らし、右各記録中の記載をもつて控訴人の主張を的確に裏付けるものとはなし難い。

(8) 右に説明したとおり、本件血管損傷が整復時に発生したことを疑わせる事由が存するものの、これらの事由によつても、またこれらの事由を総合しても、未だ本件血管損傷が整復時に生じたものと認めるには疑問が存するのであり、一方には脱臼時に損傷したことを疑うべき事由も存するのであつて、結局のところ、本件口頭弁論に提出された全証拠を検討しても、本件血管損傷と被控訴人穴原の行つた徒手整復との間の因果関係を認定することはできない。

(三)  以上説示のとおりであるから、本件血管損傷が被控訴人穴原の行つた徒手整復によるとの控訴人の主張(請求原因三・1・(一)・(2)・(ア))は採用できない。

2  請求原因三・1・(一)・(2)・(イ)及び同(ウ)の善管注意義務懈怠の主張に関する当裁判所の認定判断は、左記に付加するほか右の点に対する原判決理由中の記載(原判決四六枚目表五行目から五〇枚目裏四行目まで)と同一であるから、これをここに引用する。当審における証拠調の結果によつても右認定判断を左右しえない。

被控訴人穴原の不適切な徒手整復により血管損傷が増悪した旨の控訴人の主張(右請求原因(イ)及び当審主張2)について検討する。

前に認定判示したとおり、被控訴人穴原は、控訴人の右肩関節前方脱臼に対する治療に当り、問診を十分行わず、事前に患部のレントゲン写真撮影もせず、患者の着衣を脱がすこともなく、激痛を訴えているのに麻酔を用いることもなく、直ちに徒手整復術を行つたものであり、これは肩関節脱臼の治療に当る一般臨床医師としては通常用うべき方法を用いなかつた不適切なものであつたといわざるをえない。また、同被控訴人において触診により右前胸部に腫脹の存在を認め、血管損傷を疑診したのであれば、事前にその損傷の程度を確認し、徒手整復を行うことによつて血管損傷の増悪が生じうることを予期すべきであり、予想される増悪を最少限度に止め、増悪が生じたときに対処すべき万全の対策を採つたうえで整復を行つていたならば、整復後における多量の出血を防止し、ないしは多量の出血に対して早期に適切な処置を採りえて、本件のような後遺症を残すまでに至らなかつたのでないかと考えられないことはなく、この点につき同被控訴人の医師としての注意義務懈怠の存否の問題があるかもしれない。

しかしながら、本件においては被控訴人穴原の行つた徒手整復によつて脱臼は短時間に完全に整復されており、右徒手整復術そのものに異常な点のなかつたことは前示のとおりであり、かつ、中野鑑定、中野証言、武用証言によると、本件血管損傷が脱臼時に発生し、整復時に増悪されたものであるとしても、本件における肩関節前方脱臼に対する一般臨床医師の行う治療方法としては、観血的整復術によることは相当でなく、先ず徒手整復により脱臼を整復し、その後において血管損傷その他合併症の治療に当るのが相当であり、右徒手整復を行うにあたり必ずしも麻酔を用いるべきものとはいえず、また、本件においては着衣を脱がすことなく行つたことの影響があつたとはいえないと認められるのである。これに反し、被控訴人穴原の前示不適切な処置によつて血管損傷が増悪したこと、あるいは他に血管損傷の増悪ないしは多量出血の防止につき適切な方策が存したというような事実を認めうる証拠は存在しないのである。

結局のところ、控訴人主張の血管損傷の増悪は、本件の肩関節前方脱臼の治療方法としては相当であるところの徒手整復術実施の結果、不可避的に生じたものと認めざるをえないところであつて、この点につき被控訴人穴原の責任を問うことは証拠上困難なものといわざるをえない。

3  控訴人の説明義務違反の主張(当審主張3)につき考えるに、前認定事実のように、被控訴人穴原は、控訴人の右肩関節脱臼を診断し、その際右前胸部に腫脹が存することから血管損傷ないし筋断裂の合併症を疑診したが、橈骨動脈の拍動が十分であつたことから血管損傷が存するとしても主幹動脈に損傷のないものと判断し、先ず脱臼の整復をした後に合併症の治療に当ろうとしたものであり、中野鑑定、及び<証拠>によつても、肩関節前方脱臼により血管損傷を生じる症例は稀であり、その場合においても血管損傷による症状が重篤でない場合は先ず脱臼に対する徒手整復を行つた後に血管損傷その他合併症の治療に当るのが通常であり、右徒手整復術は特段危険な治療方法ではないことが認められる。してみると、本件における整復前の右症状からして、被控訴人穴原が先ず徒手整復を行つたことは医療上当然の処置であつて、右以外の医療処置を選択的に行いうることを控訴人に説明する余地はなかつたものというべく、控訴人の右主張も理由がない。

四以上認定説示のとおりであるから、被控訴人穴原が医師として控訴人の右肩関節脱臼に対し行つた診療行為に過失があつたとの証明はなく、したがつて、被控訴人恒生会の診療契約義務不履行責任ないし使用者責任についてもその証明はないものというべきである。

五よつて、控訴人の本訴各請求はいずれも理由がなく、これを棄却した原判決は正当であり、本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条に則り、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石井 玄 裁判官高田政彦 裁判官辻 忠雄)

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