大阪高等裁判所 昭和57年(ネ)1169号 判決 1987年3月31日
控訴人(附帯被控訴人・原状回復申立人。
以下単に「控訴人」という。)
株式会社エスイーシー
(旧商号昭和電極株式会社)
右代表者代表取締役
大谷勇
右訴訟代理人弁護士
久万知良
同
前堀政幸
同
前堀克彦
被控訴人(附帯控訴人・原状回復被申立人。
以下単に「被控訴人」という。)
徳丸スミエ
被控訴人(右同)
東條啓子
被控訴人(右同)
徳丸敏昭
被控訴人(右同)
山本房枝
被控訴人(右同)
山本豊
被控訴人(右同)
山本薫
右被控訴人ら訴訟代理人弁護士
藤原精吾
同
高橋敬
同
田中秀雄
主文
一1 控訴人の被控訴人徳丸スミエ、同東條啓子、同徳丸敏昭に対する控訴をいずれも棄却する。
2 被控訴人徳丸スミエ、同東條啓子、同徳丸敏昭の附帯控訴に基づき、原判決中同被控訴人ら関係部分を次のとおり変更する。
3 控訴人は被控訴人徳丸スミエに対し、金一〇七五万円及び内金五七五万円に対する昭和四九年一月二六日から、内金五〇〇万円に対する昭和五七年六月一五日から、各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
4 控訴人は被控訴人東條啓子、同徳丸敏昭に対し、それぞれ、金五七五万円及びこれに対する昭和四九年一月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
5 右被控訴人三名のその余の請求は、当審での請求拡張に係る分を含めていずれも棄却する。
二1 控訴人の被控訴人山本房枝、同山本豊、同山本薫に対する控訴に基づき、原判決中控訴人の同被控訴人らに対する敗訴部分を取消す。
2 右控訴人三名の請求及び附帯控訴は当審での拡張請求を含めていずれも棄却する。
三 被控訴人山本房枝、同山本豊、同山本薫は、控訴人に対し、それぞれ、金三一八万三〇一三円を返還し、かつこれに対する昭和五六年一一月一一日から返還済みまで年五分の割合による金員を支払え。
四 訴訟費用は、控訴人と被控訴人徳丸スミエ、同東條啓子、同徳丸敏昭との間においては、第一、二審を通じてこれを三分し、その一を同被控訴人らの、その余を控訴人の各負担とし、控訴人と被控訴人山本房枝、同山本豊、山本薫との間においては、第一、二審とも同被控訴人らの負担とする。
五 この判決の第一項3、4は仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 控訴人
(控訴につき)
1 原判決中控訴人敗訴部分を取消す。
2 被控訴人らの請求を棄却する。
3 訴訟費用は被控訴人らの負担とする。
(附帯控訴につき)
1 本件附帯控訴を棄却する。
2 附帯控訴費用は被控訴人らの負担とする。
(原状回復等の申立につき)
原判決を変更する場合において、被控訴人らはそれぞれ控訴人に対し、金三一八万三〇一三円及びこれに対する昭和五六年一一月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被控訴人ら
(控訴につき)
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
(附帯控訴につき)
1 原判決を次のとおり変更する。
2 控訴人は、被控訴人徳丸スミエに対し金一六五〇万円、同東條啓子、同徳丸敏昭に対しそれぞれ金一一〇〇万円、及び右各金員に対する昭和四九年一月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 控訴人は、被控訴人山本房枝に対し金一六五〇万円、同山本豊、同山本薫に対しそれぞれ金一一〇〇万円、及び右各金員に対する昭和四九年一一月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。
第二 当事者の主張
次のとおり補正、付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
一 原判決事実摘示の補正
1 原判決三枚目表五行目の「である」の次に「(以下右の原告三名を『原告徳丸ら』ともいう。)」を、同八行目の「である」の次に「(以下右の原告三名を『原告山本ら』ともいう。)」をそれぞれ加え、同裏一行目の「ピッチ」を「コールタールピッチ(固体、以下「ピッチ」ともいう)」と同行の「タール」を「コールタール(液体、以下「タール」ともいう)」とそれぞれ改める。
2 原判決七枚目裏四行目の「タール皮膚症」の前に「原告ら主張のような」を、同行の「(二)のうち、」の次に「タール、ピッチに含まれる」をそれぞれ加え、同六行目の「(三)は否認する」を「(三)中、亡徳丸がその勤務の間粉砕、成形工場などでタール、ピッチに暴露される機会があつたこと、亡山本がその就業場所でタール、ピッチに暴露される機会があつたことは認めるが、その余は否認する」と改める。
3 原判決一〇枚目表末行の「支払う。」の次に「以下『上積み協定』という。」を加える。
4 原判決一〇枚目裏九行目を「被告の主張1ないし3はすべて争う。同4中、亡徳丸の死亡に係る労災保険給付が行われていること及び被告主張の上積み協定が存在することは認めるが、その余は争う。同5は争う。」と改める。
二 控訴人の当審での主張
1 因果関係について
亡徳丸が肺がんにより死亡した事実或いは亡山本が食道がんにより死亡した事実と、同人らが控訴人工場で前記(原判決摘示)の業務に従事していたこととの間には、因果関係を肯認することはできず、これを肯認した原判決は、職業がんに関し科学的に是認されている一般的知見に反し、疫学的証明の域を逸脱しているというべきである。その理由は次のとおりである。
(一) 前記のとおり、亡徳丸、亡山本が控訴人の黒鉛電極製造工場で前記業務に従事中にタール、ピッチに暴露される機会があり、タール、ピッチに含有される三―四ベンツピレンが発がん物質であることは事実であるけれども、本件で提出されている各種文献及び証人及川富士雄の証言等によれば、肺がん及び食道がんと黒鉛電極製造工程ないし右工程で発散するタール、ピッチとの因果関係を肯定する研究、学問上の証明ないし根拠はいまだ存在しないことが明らかである。
(1) タール、ピッチその他発がん物質と認められている特定の物質が人間の身体のどの部位にでもがんを発生させるというようなことは、臨床医学、生理学上肯認されていないし、疫学的証拠もない。
(2) タール、ピッチに暴露されたときがんが発生する暴露条件その他の条件については、気中タールが高濃度であること、炉内温度が高いことや暴露時間の長いこと、人の年令等が条件であることは明らかにされているが、その他には的確な条件となる事実は明らかにされていない。
(3) また、食道がん、胃がん等の消化器がんにつき、その発がん物質が何であるか、タール、ピッチがその発がん物質であるかなどの点については、臨床医学、生理学的にも、疫学的にも明らかにされていない。
(4) 労働省労働基準局安全衛生部は昭和五一年六月に「大型人造黒鉛電極製造業務従事者の疫学調査結果」(乙第一六九号証。以下「電極製造業疫学調査結果」という。)を公表したが、右は、同業務の従事者についての数少ない疫学調査の結果であり、その規模・分析手法ともにこれを凌駕する研究、調査は現在まで見当らないところ、右調査結果では、電極製造工程(においてタール、ピッチに暴露する業務)と肺がん、消化器がんとの因果関係を疫学的に肯認することはできないとされている。
(二) 右のような研究、学問の状況に鑑みると、亡徳丸の肺がん、亡山本の食道がんとその業務との因果関係の有無を判断するについては、職業と疾病との因果関係につき現在の研究・学問の世界的水準に基づいて検討し、決定された労働基準法施行規則三五条、別表第一の二に業務上疾病の範囲として規定されているところ及びこれについての認定基準(労働省労働基準局長通達昭和五七年九月二七日付基発第六四〇号「タール様物質による疾病の認定基準について」参照。以下「本件認定基準」という。)並びに右規則制定の基礎となつた「業務上疾病の範囲と分類に関する検討結果報告書」(労働省内に設けられた「業務上疾病に関する検討委員会」が昭和五二年秋に作成したもの。以下「業務上疾病検討報告書」という。)及び右認定基準通達の基礎となつた「タール様物質とがんの検討に関する専門家会議検討結果報告書」(労働基準局長の委嘱により「タール様物質とがんの検討に関する専門家会議」が昭和五五年六月七日に報告したもの、甲第八九号証。以下「タールとがん専門家会議報告書」という。)に留意、依拠して判断するのが最も健全で科学的である。
右施行規則別表第一の二中タールとがんに関する部分は次のとおりである。
「七 がん原性物質若しくはがん原性因子又はがん原性工程における業務による次に掲げる疾病
(略)
13 コークス又は発生炉ガスを製造する工程における業務による肺がん
(略)
17 すす、鉱物油、タール、ピッチ、アスファルト、又はパラフィンにさらされる業務による皮膚がん
18 1から17までに掲げるもののほか、これらの疾病に付随する疾病その他がん原性因子にさらされる業務又はがん原性工程における業務に起因することの明らかな疾病」
また、本件認定基準通達中がんに関する部分(但し皮膚がんに関する部分は省略する。)は次のとおりである。
「第1 がんについて
1 肺がん
(1) 製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側又はガス発生炉上において行う業務に従事した労働者に発症した肺がんであつて、次のイ及びロのいずれの要件をも満たすものは、労働基準法施行規則別表第一の二第七号13に該当する疾病として取り扱うこと。
イ 上記の業務に5年以上従事した労働者に発症したものであること
ロ 原発性のものであること
(2) 上記(1)の業務の従事歴が5年未満の労働者又は上記(1)の業務以外の業務であつて、その作業条件(炉の型式、炉温、タール様物質の気中濃度、作業従事歴等)からみて、上記(1)の業務に匹敵するようなタール様物質へのばく露が認められるものに従事した労働者に発症した原発性の肺がんについては、当分の間、関係資料を添えて本省にりん伺すること。
2 皮膚がん
(省略)」
(三) しかして、まず、右労基法施行規則別表第一の二に示されている疾病及びその認定基準では、タール、ピッチ等タール様物質による疾病として肺がん及び皮膚がんには言及されているが、食道がんは全く検討の対象とされていないのであり、このことがまさに研究・学問の現在の水準を示している。
すなわち、タールとがん専門家会議報告書に記述されているとおり、タール、ピッチに暴露される業務に従事する労働者についても、肺がん、皮膚がん(及びその他の皮膚障害)以外の疾病については、因果関係を認めるに足りるような疫学的証明、報告は何ら得られていないし、IARC(国際がん研究機関)その他内外の文献でも、コールタール、ピッチと食道がんとの因果関係を肯定する定説的見解は見当らない。渡部真也の指摘するハモンドやラドフォードの報告では、いまだ右因果関係が証明されたものとはいえない。
また、佐野辰雄は、亡山本の食道がんが食道の第一狭窄部に原発したものと推測して説明しているが、この推測は事実に反することが明らかであるし、タール、ピッチが、粉じんとともに咽喉頭部に付着し嚥下されて消化管に達するとか、食道狭窄部に付着して継続的刺激を与え食道がん発生の条件となるとかの見解も、いまだ科学的に確認されたものではなく、むしろ、通常は嚥下されてしまい継続的に付着、刺激することはないと考えられるし、単にタールやピッチを含む粉じんが食道に触れたり溜つたりするだけでは、三―四ベンツピレンがガス化することはないから、その粉じんが食道がん発生の原因となることはない。
(四) この点につき、被控訴人らは、証人佐野辰雄、同海老原勇、同渡部真也の各証言及び同人ら作成の意見書、論文等を提出し、
(1) 佐野辰雄は、タール、ピッチが粉じんとともに気道から吸入され、吸収されると、それが人体の全身循環に参加して、全身のあらゆる臓器に障害を与え各種のがんを発生させると述べるけれども、佐野の述べるようながん発生に関する一般論は、いまだ証明されていない仮説の一に止まる。むしろ、現代のがん発生に関する研究は特定の発がん物質とがんの原発する特定の臓器との個別、特殊の関係において進められてきており、一つの特殊から得られた結論をそのまま一般化しうる域には達していない。
(2) 海老原勇は、その証言及び論文の記述によつても、いまだ、黒鉛電極製造工程の業務従事者と食道がんとの間の因果関係を証明できるような研究成果を得ているとは見られないし、また、同人は、その研究結果に基づいて到達している免疫監視説を述べ、これは、被控訴人らの主張に符合するものであるけれども、右の説もまた仮説に止まるものである。
(3) 渡部真也が述べるところは、クロムと職業がんとの関係について研究した成果に基づいて考察するところを一般論化して、タール、ピッチと職業がんとの因果関係について言及するものであつて、現在の研究・学問の世界的水準においてはいまだ是認することはできない見解である。また、同人は、職業がんはすべて複数の臓器に発がんすることを前提としているが、現在のところそこまで研究が進んでいないことは、前記(一)(1)のとおりである。
(五) 次に前記(二)のような見地から言えば、タール、ピツチと肺がんとの因果関係は「製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガスを製造する工程における業務のうち、コークス炉上若しくはコークス炉側、又はガス発生炉上において行う業務」(以下「コークス炉上等での業務」という。)に従事した労働者に発症した肺がんについてのみこれを認めうるにすぎず、前記労基法施行規則別表でも、右工程における業務のみが掲げられている。この因果関係を一般化して「コークス炉上若しくはコークス炉側」ではない場所や「ガス発生炉上」でない場所で行う業務に従事した労働者に発症した肺がん又は肺がん以外のがん(但し皮膚がんを除く)についても因果関係を認めることは非科学的であるといわねばならない。
すなわち、タール、ピッチに暴露する労働者のうち、右コークス炉上等での業務に従事する者についてだけは、肺がんとの間に因果関係を推定できる疫学的証拠があるが、その他の業務についてはこれがなく、また、発がん物質が同じであつても、発がん条件、特に暴露条件の異なる業務に右コークス炉上等業務に関する結果を推し及ぼすことはできない。
(六) もつとも、前記認定基準では、前記コークス炉上等での業務以外の業務であつても、その作業条件からみて右業務に匹敵するようなタール、ピッチへの暴露が認められるものに従事した労働者に発症した肺がんについても因果関係を肯認すべき場合がありうることが認められている。そして、このような匹敵が考えられなければならない業務の一つとして電極製造業務が挙げられている。
しかしながら、亡徳丸が従事していた業務は、右コークス炉上等での業務とは作業条件が異なり、到底右業務に匹敵するような暴露条件があるとはいえない。
何故なら、前記コークス炉上等での業務従事者等に関する多数の研究報告によれば、肺がんを多発するタール、ピッチへの暴露条件としては、気中タールが高濃度であること、炉内温度が高いこと、暴露期間が長いことが明らかにされている。すなわち、タールやピッチはそれ自体気体ではなく、三―四ベンツピレンはガス化しなければ肺がん発生の危険はないとされているところ、右コークス炉上等での業務従事者が空気中の発がんタール様物質を多量に吸入するのは、炉内の温度が高温であるため、タールが多量に気化し、炉上、炉側にもれ出してくるからである。しかるに、電極製造工程における温度は、ねつ合・成形工程において約一六〇ないし一七〇度でしかなく、タールやピッチから三―四ベンツピレンを発生させる温度(三―四ベンツピレンの気化発散する沸点は約三一〇度である。)には至らず、まして、コークス炉上・炉側やガス発生炉上の温度(例えば、製鉄用ガス発生炉の炉内温度は約一三五〇ないし一五〇〇度である。)には到底及ばない。それ故、控訴人の電極製造工場での業務は、到底前記コークス炉上等での業務に匹敵する暴露条件にはない。
(七) なお、西宮労働基準監督署長は亡徳丸の肺がんによる死亡につき業務起因性を肯認し、労災保険給付をする旨決定したけれども、これは判断を誤つたものである。
2 債務不履行について
控訴人と亡徳丸、亡山本との長期間に亘る雇用関係のもとでは、原判決のいう労働者の健康保護義務についての履行関係は、控訴人がした日々継続、反覆された不完全履行とその不完全履行の責を問わない亡徳丸、亡山本らの日日継続、反覆した受領との法律関係として成立しているのであり、これに加えて労働安全衛生法によつて規制され秩序づけられている使用者の労働安全確保の責務と、その責務の実現に協力すべき労働者の責務との相互依存関係を併せ考えると、債務不履行についての帰責事由の判断や債務不履行による損害の性質、範囲或は損害賠償における過失相殺などの法理が全体として整合的にどのように成立するのかについては疑問がある。
殊に、債務不履行による損害として労働者の健康とか生命とかについて考える場合に、その労働力の減耗、喪失ということのほかに、精神上の損害を認めることには疑問がある。
思うに、労働者の労働保護、災害補償について公法的な制度が運営される中で、労働者に対する使用者の健康管理義務と労働者自身の健康管理義務との関係を雇用契約に基づく債権、債務関係として処理しようとするところに根本的な不合理があるのである。
3 宥恕又は損害賠償請求権の放棄
仮に、控訴人と亡徳丸、亡山本との間の雇用契約(労働契約)の内容には控訴人の同人らに対する安全保護義務ないし健康保護義務が含まれているものとして、その債務の不覆行を問題にするのであれば、そのときには控訴人のその債務不履行、不完全履行は、事実として、同人らの就労中の日日、そしてその就労の全時間中継続して現実化しているわけであり、その債務に対する債権者たる立場にある同人らは、控訴人の履行が完全でないことを常時認知しうる状況であつた。それ故、亡徳丸、亡山本は右債務の受領者として控訴人の不完全履行に対し異議を述べてその受領を拒み、完全な履行を請求することができた。それにも拘らず、同人らはそのようにしないで日日の就労を終えていたのであるから、同人らは、右不完全履行を容認して不完全履行による損害を受忍(宥恕)するか又はその損害の賠償請求権を放棄したものというべきである。
4 過失相殺
仮に、右の主張が認められないとしても、亡徳丸、亡山本が、控訴人の右債務不履行(不完全履行)を放置していたことは同人らの過失であるというべきであるから、同人らのこの過失は、民法第四一八条により控訴人の損害賠償の責任と金額を定めるにつき斟酌されるべきである。
5 労災保険給付の斟酌
労災保険給付は慰謝料的性格のものでないというのが定説であるけれども、労働者にとつて労災保険制度が存在することは、自己の生命身体についての安心感の一部を保障するものである。
それ故亡徳丸、亡山本の各死亡を同人らの損害であると認め、その賠償として同人らが控訴人に対し請求しうる慰謝料額を判断するについては、亡徳丸の遺族である被控訴人らが現に取得している労災保険給付を受ける権利及び亡山本の遺族である被控訴人らが将来取得することとなる労災保険給付を受ける権利を斟酌すべきである。
6 上積み協定金の斟酌
また、控訴人は労災保険給付を補充する目的で結ばれている上積み協定に基づき、労災保険給付を受けることが決定している亡徳丸の遺族に対し、死亡を理由とする上積み協定金五〇〇万円を支払うことになる。
しかし、控訴人がこのように上積み協定金を支払うのは死亡者に対する弔慰の目的を有するものであり、かつ、控訴人においては、亡徳丸の遺族が職業に起因した同人の死亡を理由に控訴人に損害の賠償を請求しないものと考えているのであるから、このような上積み協定金が支払われることは、控訴人が亡徳丸に対して支払うべき慰謝料額の算定につき斟酌されるべきである。
7 弁護士費用について
(一) 本件訴訟につき被控訴人らが弁護士に訴訟代理を委任した結果支出することになる弁護士費用は、債務不履行によつて生じた損害であるとはいえない。
(二) ところで、原判決は、控訴人が前記健康保護義務を怠つた結果亡徳丸、亡山本を死に至らせたことは、右両名の妻子たる被控訴人らに対する関係で不法行為を構成するとして、右弁護士費用を右不法行為に基づく被控訴人ら固有の損害として認容している。
しかし、原判決は、右弁護士費用を除くその余の金員については、亡徳丸、亡山本に対する債務不履行に因る損害の賠償であると判示しているのであつて、このように債務不履行による損害にはあたらない右弁護士費用が、不法行為による損害にはあたるとするのは到底理解しがたい。亡徳丸、亡山本両名を死亡させたことが不法行為を構成し右被控訴人らに固有の損害が生じているとしても、その損害は右両名の死亡の時に生じており、その時以後に新たな損害が生じる理由はなく、本件弁護士費用は右両名の死亡によつて生じた財産上の損害とはならない。
8 仮執行の原状回復及び損害賠償
控訴人は、昭和五六年一一月一〇日原判決の仮執行により被控訴人ら各人にそれぞれ金三一八万三〇一三円(合計一九〇九万八〇七八円)を支払つた。
よつて、控訴人は、民訴法一九八条二項に基づき、右仮執行の原状回復及び損害賠償を求める。
9 被控訴人らの当審での主張について
(一) 被控訴人らの当審主張1、2項は争う。
(二) 同3項中、控訴人と合化労連昭和電極労働組合(以下「労働組合」という)との間に被控訴人ら主張の労災特別補償協定(上積み協定)が結ばれていること及び従業員が業務上の災害、疾病により死亡した場合には控訴人はその遺族に対し右協定に基づき上積み協定金五〇〇万円を支払うことになることは認めるが、その余は争う。
亡徳丸、亡山本の死亡は業務上の疾病によるものではないから、控訴人には右金員の支払義務はない。
三 被控訴人らの当審での主張
1 因果関係について
以下のとおり、亡徳丸の肺がん及び亡山本の食道がんと同人らが控訴人工場で従事した業務との間には法的因果関係があることは明らかである。
(一) 因果関係の証明の範囲、程度、方法
(1) 本件のような職業病罹患にかかる損害賠償請求事件では、安全配慮義務懈怠或いは加害行為と労働者の疾病罹患との間の法的因果関係の存在の証明は、企業に法的責任を負わせるのに必要な範囲とそれに必要な程度に証明されれば十分である。この観点を離れて不必要にその立証を労働者に求めたり、枝葉末節に及ぶ科学論争に陥ることになれば、科学技術の進歩の中で新たな労災職業病被害を受けた労働者は裁判により救済されないことになつてしまう。
(2) 法的因果関係は自然的因果関係を前提とするが、その自然的因果関係は、前述したとおり、法的観点を離れて論ずることはできないのであつて、結局、職場における汚染物質による暴露が労働者の職業病の発症或いは増悪の原因となつていることが明らかになればよいのである。したがつて、職場における汚染物質による暴露がどのような病理機序により労災職業病を発症させたのかなどのメカニズムの証明は不必要であり、汚染物質中の特定物質を証明することも不要である。
このことは、他の原因との関係でも同様であり、食道がん、肺がんなる職業病は、いわゆる非特異性疾患であるが、職場における汚染物質暴露が疾病の発症、増悪の因子として働いているということは、決して他の要因の存在と矛盾するものでなく、他の要因の有無、関与の程度や機序を明らかにすることは全く不要である。
(3) 労災職業病における法的因果関係はこれを直接証拠により立証しうる場合はほとんどない。特に、前述の非特異性疾患の場合は、直接証拠により立証することはいかに科学技術が発展しても不可能である。したがつて、この立証は、多くの間接事実、とりわけ本件のようなタール、ピッチ暴露によるがんについては、国内外の職業病の歴史、タール、ピッチ含有の食品摂取の歴史、職場における汚染物質の程度、タール、ピッチの発がん性に関する知見などの積み上げとそれに対する経験則の適用による推認によつてこれを行うことになる。
ところで、疫学は自然科学の一分野であり、それにより解明されるのは、自然科学の法則に則つた自然的因果関係そのものであるから、法的因果関係の認定にあたつては、必ずしも疫学的立証が必要とされるものではない。
(二) 控訴人工場における職場環境の劣悪さ
控訴人工場における黒鉛電極製造工程並びに作業現場の状況は原判決摘示請求原因記載のとおりであるが、原料として使用するタール、ピッチ、石油コークスには強力な発がん物質たる三―四ベンツピレンが含まれ、製造工程中に発生する粉じん、蒸気等に暴露されるため現場労働者は常に職業がん発生の危険と背中合わせであつた。
近畿安全衛生サービスセンターが昭和四八年六月に行つた環境測定の結果及び昭和四九年三月一二日に施行された証拠保全の際に鑑定人中南元が行つた測定の結果によれば、控訴人工場がタール、ピッチの粉じんによつて高濃度に汚染され、気中タールや三―四ベンツピレンも高濃度に存在していたことが明らかである。しかも、控訴人工場は、昭和三五年及び同四一年に「じん肺指定モデル工場」とされたことからやむをえず職場に集じん装置を設備するなど環境は多少改善されたのであつて、これからすると、亡徳丸、亡山本が在籍していた当時は右測定時よりさらに劣悪な汚染状態であつたことは明白である。
(三) タール、ピッチの発がん性
(1) 職業がんの最初の発見は一七七五年ポットが煙突掃除をする労働者の陰のうにススによる皮膚がんが多数発生していることを発見したことに遡る。それ以後、数多くの調査、研究によつて、タールそのものを扱つたり、タールから抽出されてくる種々の化学物質から、皮膚がんが発生してくることが判明した。タール成分の発がん性がさらに詳しく確認されたのは一九一五年山極、市川の行つた実験報告である。山極らはタールをウサギの耳の皮膚に頻回に塗りつけることによつて皮膚がんを人工的に作ることに成功した。
タールの発がん性を分析すると、タール乾溜により分離される種々の化学物質の中でも、三―四ベンツピレン、アンスラセン、デベンゾアンスラセン等が高度の発がん性をもつ。
また、量―反応関係も確認されている。
(2) タール、ピッチに暴露する作業には、タールによる防水、防腐加工、コークス製造、製鉄用ガス発生炉、黒鉛電極の製造等があり、これらにおいては、タールやそれに含まれる三―四ベンツピレンの暴露の際の温度に関係なく、大体常温暴露で発がんがみられる。
(3) タール、ピッチの人体における発がん部位をみると、
八幡製鉄所のガス発生炉で労働者に肺がんが多発しているという報告(昭和一一年黒田、川畑)や、膀胱がんがタール系物質(ベンジジン及びべータ・ナフチラミン)取扱作業者に多発しているとの報告(石津、原論文)があり、消化器系のがんや、そのほか膵臓、前立腺、白血病などについても論議されている。
(4) タール、ピッチその他石油、石炭から抽出される化学物質には三―四ベンツピレンほかの発がん原となる物質が含まれており、これに一定期間職業的に暴露されると、皮膚、肺、消化器系その他身体の各部位に発がんがみられることが医学的に確認されている。
(四) 各種研究報告等
(1) 柴田寿彦らの報告
東海電極の電炉係男子労働者の肺がん症例の報告。
職場環境中、気中に著しい粉じんと三―四ベンツピレンが確認された。
(2) IARC Monographs(一九七九・九出版)には、次の記述がある。
煤、コールタール、クレオソート油、頁岩、切削油は実験動物の皮膚塗布や皮下注射により発がん性を示す。
石炭煤やコールタール、ピッチ、コールタールヒューム及びある種の不純な鉱物油に職業的に暴露されることは、皮膚、肺、膀胱、胃腸管を含むいくつかの部位にがんを発生させる。
最近の疫学データはこれらの結論を支持する。この効果(発がん)は、おそらく、これらの物質に含まれる多環芳香族炭化水素によるのであろう。
(3) タールに起因する職業性肺がんは、Lloyd(1971)Redmondら(1972)Redmondら(1976)の広汎な研究及び坂部ら(1974)の報告によれば、約五年以上これらの有害物に暴露する労働者には発生の危険の大きいことが認められる。
ロイド(Lloyd)の報告において、製鉄所労働者五万八八二八人を六年間にわたつて追跡調査し、その内コークス炉工場では二五四三人を六年間追跡調査した結果は、消化器系、口腔及び咽頭性のがんについても五%の危険率で有意差があることが判明している。右ロイドの報告は、世界的に権威が認められており、信頼度も高い。消化器系のがんは、コークス工場で五年以上コークス炉外で働いた労働者群に五%の危険率で有意差があること及びコークス炉で働いた労働者には有意性がないことが報告されている。
(4) ハモンド(E. C. Hammond)らの論文
屋根葺き、屋根やパイプの防水加工のために、タール、アスファルトを塗布する作業に従事する労働者に肺がんのリスクが高いこと、鼻腔、咽頭、喉頭及び食道も含め、口から鼻、のどにかけてのがんによる死亡が、肺がんと同じ位多く出ていることを周到な疫学調査によつて明らかにした。胃がんについても同様であつた。同時にこれらの人の作業環境におけるベンツピレン濃度を詳しく調べて、大体一日数百本から一〇〇〇本位の煙草を吸つたのに等しい量を吸入していると推定している。これは、本件における控訴人工場の職場環境と酷似している。
(5) ラドフォードの報告
鉄鋼産業の労働者につきなされた疫学調査の結果、肺がんが多いとともに、口、鼻、のど、食道、前立腺などのがん、白血病も多いことを明らかにしている。
(6) 肺がん或いは上気管のがんが多いということと関連して、消化器がんが多いということは、タール以外の発がん物質の暴露の場合にもいわれている。例えば、クロムについて、東京地裁判決(昭五六・九・二八、判時一〇一七号三七頁)も、肺がんと並んで、一定割合で胃がんとの因果関係を認めている。
(7) 平山雄の論文では、喫煙により引き起されるがんの種類として、喫煙による発がん物質(三―四ベンツピレン等)の吸引に伴い、肺がんだけでなく、喉頭、胃、食道のがんも増加してくることが明らかにされている。
(五) 発がん物質の摂取経路と発がん部位
(1) タール、ピッチやクロムの粉じんなどに含まれる空気中の有害物を鼻から吸入した場合、鼻やのどの内部に付着し、それが口の中に流れてきて、唾液と共に常時飲み込まれている。それが食道に作用している。
肺、気管支、細気管支の粘膜では、粘液の分泌が行なわれていて、肺に吸入された粉じんは、その粘液に付着するが、その粘液は気管支粘膜の表面にある繊毛細胞の働きで、外部に排出され痰として出てくるが、しばしばその痰を飲み込むことがあり、一旦肺に入つた有害物が痰とともに食道や消化管の方に入る可能性は常にある。
(2) タール、クロム以外でも同じことがいえる。
例えば、石綿も本件におけるタール、ピッチ粉じんと同じく、空気中に浮遊したものを経気道的に吸入することによつて人体に取り込まれるのであるが、前に述べたような経路で、喉頭や食道、胃などにも作用するのであるところ、セリコフの疫学調査によれば、石綿を取扱う労働者の肺がん死亡率が極めて高いとともに、消化管(胃、大腸、直腸及び食道)のがんによる死亡についても、3.1倍の比較危険度をもつことが明らかにされているし、マンクーゾら、エルムズら、マクドナルドらも、消化管の各がんについて同様の調査結果を明らかにしている。
また、石油精製産業の労働者についても、肺がんが多いほか消化器系のがんが多いという報告がされている。
(3) タールとがん専門家会議報告書でも、三―四ベンツピレンの動物への経口投与実験の結果、消化管での発がんの事実、量―反応関係の存在すること、発がんが食道及び前胃に見られることなどが確認されている旨記述されている。
(六) 控訴人会社の粉じん作業労働者の悪性新生物による死亡調査について
海老原勇千葉大学医学部助教授(以下「海老原」という)は控訴人会社に粉じん作業労働者として働いていた労働者について疫学調査を行い、その結果を別紙Ⅲのとおりまとめている(以下「控訴人工場疫学調査結果」という。)。
右調査の対象人員三五七名中、悪性新生物による死亡者は一四人であつた。比較危険は1.55で、日本人一般よりかなり高い。特に気管、気管支、肺の悪性新生物による死亡者は五例を数え、比較危険は4.39となり、またリンパ造血組織の悪性新生物は三例を数え、比較危険は5.66となり、有意差が認められている。その他のがんについては有意差は出なかつたものの、胃がんを除くと比較危険がすべて二以上となつており、かなり高い。
(七) 粉じん暴露と悪性腫瘍
(1) じん肺患者に肺がんの危険が高いことはこれまでの多くの疫学調査によつて報告がなされている。
(2) 海老原は粉じん暴露と肺がん以外の悪性腫瘍との関係について検討している。これによると、粉じん作業と悪性腫瘍との関係についてなされた調査報告はこれまでに数多い。例えば、① エンターラインらがアスベストセメント管製造労働者の消化管の悪性腫瘍は期待値の1.5倍であるとした報告、② ニューハウスが石綿の織物工場労働者の胃腸管のがん発生は期待値の1.5倍であるとした報告、③ シェリコフらがアメリカとカナダの石綿の断熱作業労働者一万七八〇〇名を調べ、最初の暴露後二〇年以上生存した者の胃がんは期待値の2.6倍であるとした報告などである。
海老原は、右のように明確に発がん性があるとはいいきれない粉じん(例えば石綿)を吸つた場合でも消化管のがんが多いという疫学調査報告が少なからずあるということから、粉じん作業者にいろいろな臓器のがん、特に消化管のがんが発生する可能性は否定できないと結論づけている。
(3) 海老原は、右のように粉じん作業者にがんが多発するのは免疫監視説からよく説明できるという。この免疫監視説は「動物は体内に非自己の存在を許容してはならず、それらを排除する機構がある。その機構が免疫である。」というものであるが、その免疫機構が正常に機能しているうちは、異物であるがん細胞をキャッチし排除するため、多くの人は臨床的にがんにならずにすんでいる。ところが、粉じんやある種の職業性物質はこの免疫機構を低下させ、がん罹患の可能性を高めるというのである。また、前記(六)の控訴人工場疫学調査結果の中で多発性骨髄腫や白血病などリンパ造血組織の悪性新生物による死亡例が三例と多かつたことも控訴人会社の粉じん作業労働者の免疫機能が低化していたことの裏づけとなるという。
なお、タールとがん専門家会議報告書にも「肺がんの発症及び進展のうえで免疫機構は重要な役割を持つている」と記述され、免疫学説が採用されている。
(4) そして、海老原は控訴人会社においては単なる粉じんだけでなく、強力な発がん物質であることが明らかな三―四ベンツピレンを含んでいるタール、ピッチや石油コークスをほこりとともに吸い込んでいるため、免疫は粉じんによつて押さえられ、なおかつ、物質そのものが発がん性があるのでなおさらがんに罹患しやすくなつているという。
(八) 電極製造業疫学調査結果について
労働者は電極製造工場労働者のがん発生率とその業務関連性について、疫学調査を行つたと称して右調査結果を作成しているが、その調査方法、分析、統計、評価方法には大いに疑義がある。
右調査では、① 企業から提出された情報の完全さや確かさをチェックすることなく、また不完全な点や、不確かなところを補強することもなく、きわめて安易にそれらの情報を取り扱つており信頼性の低いものであるし、② 業務との関連(業務起因性)の有無を的確に検討する方法論が駆使されておらず、中途半端な解釈に終つている。
したがつて、右調査結果は科学的に正しいとはいえず、その調査の結果、電極製造業務と肺がん、食道がんとの間に統計上有意な関係が認められなかつたとしても、それは右調査によつては積極的データが得られなかつたというにとどまり、因果関係を否定する意味あいを有するものではない。
(九) 以上によれば、本件における因果関係の証明は十分である。
(1) 他に役に立つ疫学調査がないとすれば、三―四ベンツピレンの発がん性という既に明らかになつている知見を前提に① 職場でどれ位の発がん物があつたか、② 当該労働者がどれ位の期間暴露されたか、③ 同じような濃度、同じような暴露にされされたほかの職場の集団における疫学情報などを参照して判断すべきである。
すなわち、他工場での調査の発がん物質の種類、症状、濃度、暴露期間、対象労働者の数などの科学的データに基づいて一定の推論をすることが許される。
(2) この見地からすると、肺がんについては、本件電極工場で職業的に発生したものであることが十分考えられる。
食道がんについては、この部位に発生するがんそのものの数が非常に少ないので、疫学的データが得にくいことをふまえて、タール性物質を吸入した労働者に食道がんその他の消化器がんが多く発生しているので、肺がんが多発する職場では消化器がんも多く発生してくると考えられることから、電極工場で発生した食道がんの原因には同所における発がん物質の暴露が大きく関与していると考えてよい。
少なくとも、発がんは、唯一の原因だけで生じるのではなく、多くの要因が加算、複合されて関与しているのであるから、当該職場で高濃度のタール様物質に長期にわたり暴露したことが、発がんに有力に寄与したことは否定できない。
(3) そして、医学的カテゴリーにおいてすら、この程度のことがいえる以上、被害の社会的に公平な分担という不法行為や債務不履行の損害賠償制度の目的に照らし、本件における法的因果関係を肯認することが社会正義にかなうものである。
2 慰謝料額について(附帯控訴の理由)
前記のとおり、亡徳丸、亡山本の死亡は、十数年にわたり控訴人工場の粉じん、ガス中に含まれる三―四ベンツピレン等の発がん物質を吸引、嚥下させられた結果生じたものであるし、控訴人は、粉じん、ガス等の発生の防止、飛散の抑制に対応する熱意も薄く、労働者の健康保護義務を怠つた過失があつたことは明らかである。控訴人は戦前戦後を通じて黒鉛電極の製造により多大の利益をあげ、特に、戦後の高度経済成長期には設備拡張を繰り返して利潤を追求し続けたにもかかわらず、労働者の健康保持のためには費用を惜しんだのである。控訴人は、利益をあげることにのみ狂奔し企業として当然なすべき職業病対策を怠つた結果、亡徳丸、亡山本の死亡を惹起させたのであり、これは単なる債務不履行をこえて犯罪行為とさえいわねばならない。
また亡徳丸、亡山本は控訴人工場内で有害な黒鉛電極製造作業に従事して死亡したものであり、一方的に控訴人の加害行為を受けたのであつて、加害者と被害者の間には力関係に圧倒的な差があり、地位、立場の互換性は全くない。
右の事情のほか、亡徳丸、亡山本の死に至る苦痛、無念など一切の事情を考慮すると、被控訴人らの慰謝料請求額はきわめてささやかなものであり、これを一部棄却した原判決は損害額の認定に誤りがある。
3 上積み協定金の請求(請求の拡張)
控訴人と亡徳丸、亡山本の加入していた労働組合との間には、昭和四七年度賃金協定書の労災特別補償協定(上積み協定)により、従業員が業務上の災害及び疾病により死亡した場合、控訴人はその遺族に対し、労災保険給付以外に金五〇〇万円を企業内補償として支払うとの合意があるところ、亡徳丸、亡山本は業務上の疾病により死亡したのであるから、右協定に基づき、控訴人は被控訴人徳丸スミエ及び同山本房枝に対しそれぞれ右上積み協定金五〇〇万円を支払う義務がある。
よつて、被控訴人徳丸スミエ、同山本房枝については、当審で請求を拡張し、原審での請求額各金一一〇〇万円のほかに、それぞれ、上積み協定金五〇〇万円及びこれについての弁護士費用金五〇万円の合計金五五〇万円と右金五五〇万円に対する亡徳丸、亡山本の各死亡の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
4 控訴人の当審での主張について
(一)(1) 控訴人の当審主張1項は争う。
但し、亡山本の食道がんの原発部位が第一狭窄部でないとの点は特に争わない。
(2) 労基法施行規則別表第一の二は、業務上の疾病であるか否かを認定する便宜のために疾病を例示したものであり、限定列挙したものではない。
(3) また、本件認定基準についてみるに、実際の労災認定業務は労働大臣の発する「認定基準」通達により、業務がすすめられているが、労働省の説明によれば、その「認定基準」通達は労働現場において大量にかつ日日惹起している労災や職業病について、公正かつ定型的で簡易迅速に処理するための枠組であるという。
そして、そもそも労災職業病においては、すでに、大量の災害や疾病が頻発して科学的な究明が十二分になされ、業務との関連が二義なく明確になつて、はじめて労災認定がされ給付が行われる。
そうであるから、右のような労災認定における関連性の判断条件と個別の損害賠償請求訴訟における因果関係の認定とは一致するものではない。すなわち、現実に認定基準の要件をみたしている場合は、損害賠償訴訟において因果関係を争う余地は全くない。逆に認定基準の要件をみたされないとしても、それは、定型的で簡易、迅速な処理になじまないというだけで、損害賠償訴訟における因果関係を否定する理由とはなりえない。
(4) 本件認定基準についても、事情は変らない。本件認定基準は製鉄用コークス又は製鉄用発生炉ガス製造工程におけるタール様物質による肺がん、皮膚がん及び皮膚障害の業務との関連性の認定の条件を明示しているが、そのことは電極工場における職業がんの発生と業務との関連性を否定するものではなく、電極工場における職業がんの業務との関連性につき定型的な処理をする条件が示されていないことを意味するにすぎない。このことは、実際、亡徳丸の肺がん死亡につき、西宮労働基準監督署長が業務起因性を認める決定をし、労災保険給付を行つていることからも明らかである。
(5) 亡山本の食道がんの原発部位が食道の第一ないし第三狭窄部の何れであつたかということは、その発がんの業務起因性を左右するものではなく、その何れの部位であつたにせよ、タール、ピッチの発がん性や本件の暴露条件などを総合すれば、その業務起因性は否定されない。
(6) 鑑定人中南元の鑑定結果に示された控訴人工場の気中粉じん濃度、気中タール濃度、三―四ベンツピレン濃度からすれば、亡徳丸、亡山本の従事した業務におけるタール、ピッチの暴露条件がコークス炉上等での業務に匹敵しないとの控訴人の主張は理由がない。
(二) 控訴人の当審主張2ないし7項はすべて争う。
但し、亡徳丸の死亡に係る労災保険給付が行われていることは認める。
第三 証拠関係<省略>
理由
第一被控訴人らの損害賠償請求に関して
一当事者
原判決摘示請求原因1の事実は当事者間に争いがない。
二控訴人工場の作業環境
控訴人工場の作業環境に関する当裁判所の認定判断は、次のとおり補正、付加するほかは、原判決が一三枚目表七行目から一八枚目表一一行目までに説示するところと同一であるから、これを引用する。
1 原判決一三枚目表八行目の「分れること」の次に「、原料は石油コークス、ピッチ、タール、酸化鉄を使用すること、粉砕、焼成、加工の各工場である程度タール、ピッチの粉じんが発生すること、ねつ合、成形、焼成の各工場で加熱された石油コークス、ピッチからタール分が気化することがあること」を、同九行目の「第六号証」の次に「第七号証、第一〇ないし」を<中略>を、同行の末尾に「第一七三、一八六、一八七号証(乙第一八六号証は後記調査嘱託に対する回答書)、」をそれぞれ加える。
2 原判決一三枚目裏一行目の「第二五」の次に「、五三」を加え、同二行目の「乙第七七号証」を「乙第七六号証」と改め、同四行目の「第七号証、」を削除し、同行の「第一〇号証、」の次に<中略>を、同七行目の「検証の結果」の次に「、労働省労働基準局長に対する調査嘱託の結果」を、同一〇行目の「還元材」の次に「(後記成形、焼成、黒鉛化ないし加工後の不合格製品・半製品)」をそれぞれ加え、同末行の「タール」から一四枚目表一行目の「とともに」までを「タール、ピッチとともに、ピッチは粉砕のうえ」と改める。
3 原判決一四枚目表二行目の次に、改行のうえ、左の説示を加える。
「 控訴人は、タール、ピッチによる障害が多発していることへの一対策として、昭和四六年六月ころから、タールの添加を、一部の製品関係を除いて廃止することとし、同四七年九月に特定化学物質等障害予防規則(以下「特化則」という。)所定の物質にタールが追加指定されたことも加わつて、同四八年五月ころにはタールの使用をすべて廃止した。」
4 原判決一四枚目表四行目の「ていなく」を「ておらず」と改め、同行の「生じる」の次に「石油コークス、タール、ピッチの」を、同九行目の「していた。」の次に「遅くとも昭和三一、二年ころには粉砕機の近くに集じん機が設置されたが、能力が小さく、殆んど効果がなかつた。」をそれぞれ加える。
5 原判決一四枚目裏五行目の「六年」を「七年」と、同行の「四七年」を「四八年」とそれぞれ改め、同一一行目の「増加した」の次に「(例えば、昭和三四年ころの生産量は六〇〇〇トン弱、同三六年は約一万トンであつたが、同四六年には約二万トンになつた。)」を加える。
6 原判決一五枚目表五行目の「ならず、」の次に「管理的立場の者も敢えてこれを制止することもなく、」を、同七行目の「被告は、」の次に「昭和三五年ころ西宮労働基準監督署から粉じんモデル工場に指定され、次いで」を、同九行目の末尾に「また、同年六月ころ控訴人は、兵庫労働基準局からじん肺予防のため『衛生管理特別指導事業場』に指定され、有害物の発生源の密閉、排出装置の設置等作業環境改善及び保護具の着用などの指導を受けることとなつた。」をそれぞれ加える。
7 原判決一五枚目裏四行目の「発生した。」を「発生したし、また、」と、同六行目の「過程で」を「過程でも」とそれぞれ改め、同九行目の末尾に「昭和三四年ころに集じん機が設置されたが余り効果はなかつた。」を加える。
8 原判決一六枚目表六、七行目を「前記旧工場時代の集じん機は新工場になつてからは使用されず、昭和四八年に集じん機が設置され使用」と改め、同一〇行目の次に、改行のうえ、左の説示を加える。
「 なお、粉砕・成形の新工場(三階建)の屋根の最上部に動力換気装置(ベンチレーター)を設けたが、あまり効果はなかつた。」
9 原判決一六枚目裏六行目の「測定結果」の次に「は別表1のとおりであつて、これ」を加える。
10 原判決一七枚目表二行目の「において、」の次に「特化則及びこれに関する」を、同三行目の「粉じんの」の次に「規制」を、同七行目の「測定結果」の次に「は、別表2のとおりであつて、これ」を、同八行目の「粉じん濃度」の次に「(粒子径が五ミクロン以下の粉じんについてのもの)」をそれぞれ加える。
11 原判決一七枚目裏四行目から九行目まで次のとおりに改める。
「却作業中の測定位置で4.4を示した。
(3) 右の各測定結果で示された気中粉じん濃度、気中タール濃度、気中ベンツピレン濃度は、同業他社の測定結果(別表3-1、2、3)より高く、後記六で言及する製鉄所コークス炉や屋根塗装作業における測定結果(別表4-1ないし4)と比較しても、ほぼ同程度ないしより高く、控訴人工場の粉砕・ねつ合・成形工場の作業環境は、昭和四八、九年当時においても、粉じん、タール、ピッチ等によつて高度に汚染されていたことが明らかである。
なお、右(1)、(2)の測定値は、前記(一)、(二)のとおり職場環境が逐次改善されてきた(但し、それが不充分であつたことは後に判断するとおりである。)後のものであるから、それ以前の環境条件はより劣悪であつたと考えられる。
なお、右(2)にあるベンツピレン濃度、例えば、最低値の一立方メートル当り4.4マイクログラムの空気を、安静時呼吸量(1分当り0.01立方メートル)で六時間呼吸するものと仮定して計算すると、約15.84マイクログラムの三―四ベンツピレンを吸入することになり、これはフィルターなしピース煙草約四一〇本から発生する三―四ベンツピレンの量に匹敵する。」
12 原判決一七枚目裏一一行目の「従前から」を「昭和二〇年代にはすでに」と改め、同一二行目の「存在し、」の次に「昭和四八年四、五月頃に労働組合が行つたタール・ピッチに触れる作業者の自主検診では約七〇名の受診者のほぼ全員が罹患しており、右を含め、控訴人工場には同年当時少くとも約一〇〇名の罹患者がおり、」を、同末行の「診断された者も」の次に「昭和三七年ころに数名、昭和四一年当時に一二名おり、その後のじん肺健康診断でも昭和四五、四六、四八年にそれぞれ一〇名前後がじん肺と診断され、労働組合関係の把握では、退職者も含めて昭和五〇年当時」を、同行の「存在した。」の次に「なお、控訴人の従業員数は、昭和四五年は六三九名、その後減少し昭和四八年は三六六名であり、うち粉じん作業者数は、昭和四五年は二四五名、同四八年は一五一名、特化則(コールタール)適用対象作業者数は、昭和四八年当時一〇二名であつた。また、若年の新採用者の中には、環境の劣悪さ、じん肺のおそれ、皮膚障害などを理由に、年を経ずして退職する者が相当数あつた。」をそれぞれ加える。
13 原判決一八枚目表一行目の「に対する被告の認識」を「及びこれによる障害の防止に対する控訴人の意識、熱意」と改め、同四行目の「薄く、」の次に「前記の限度の施設の改善、マスクの配布の他は、昭和四〇年から四一年にかけて、安全衛生管理室の小林資郎が中心となつて、皮膚障害の多発に対処すべく、皮膚障害関係の専門家や薬品会社、同業他社に照会するなどして対策を検討したが、結局、対症的に、従来から使用していた塗布薬の改善、奨励及び洗顔の奨励をはかつた程度であつた。」を、同五行目の「立てられたため、」の次に「安全衛生委員会等で従業員から、対策の不十分さを度々指摘されるなどのことがあつたにもかかわらず、」を、<中略>をそれぞれ加える。
三亡徳丸、亡山本の作業内容、タール、ピッチ等の暴露
亡徳丸、亡山本の作業内容及びタール、ピッチ等の暴露に関する当裁判所の認定判断は、次のとおり補正、付加するほかは、原判決が一八枚目表末行から一九枚目表九行目まで、一九枚目表末行から同裏九行目まで及び同末行から二〇枚目表三行目までに説示するところと同一であるから、これを引用する。
1 原判決一八枚目表末行の冒頭に「請求原因4の(一)、(二)の事実並びに同(三)中亡徳丸がその勤務の間粉砕・成形工場などでタール、ピッチに暴露される機会があつたこと及び亡山本がその就業場所でタール、ピッチに暴露される機会があつたことは当事者間に争いがなく、この事実及び右二認定の事実に、」を加え、同行の「第二〇号証、第六七号証の一、二」を「第一七ないし二〇号証、第二一号証の一、二九、六五号証、第六七号証の一、二、乙第一八七号証、」と改める。
2 原判決一八枚目裏一行目の「第四、五」の次に「、八」を、<中略>を加え、同七行目の「大銅」を「大同」と改める。
3 原判決一九枚目表一行目の「現場」から同三行目の「修理するが、」までを「その作業のうち、モーター等の修理はこれを機械本体から取り外して電気修理工場で修理するなど、粉砕・成形工場のように汚染されてはいない電気修理工場で行う作業が相当部分を占めたが、その場合も、モーター等を取外すには現場で厚く積つた粉じんを吹き散らし、やに状に付着したタール、ピッチを洗い落とす作業が伴つた。電気修理工場で作業する以外は各現場で作業し、夜勤の場合は、昭和三九年に成形工場内に設けられた電気保修詰所で待機しつつ必要の都度作業した。その現場作業の主な部分を占める粉砕・成形工場での修理は、」と改め、同七行目の「同人」の次に「は、後記病気休業するまでは、殆んど休勤することなく勤務し、時間外労働も毎月数十時間従事し、例えば、昭和四二年から四五年までの出勤日数、総労働時間は一二四五日(平均年三一一日)、一万一七三七時間(同二九三四時間)であつた。そして、そ」を、同九行目の末尾に「昭和四一年七月から四六年五月までの間の亡徳丸の作業時間比率は、電気修理工場内修理が約四二%、粉砕・成形関係修理が約一二%、焼成・含浸・加工・事務所関係修理が約二八%、夜勤保修が約一八%であつた。但し、右の作業時間数及びその比率の算出には、前記モーター修理作業の際の取り外し等の作業や短時間の作業は考慮されていないなどの点があり、現場での作業時間は、かなり控え目に計算されている。そして、亡徳丸は、昭和四七年一〇月病気休業し、同四九年一月二五日死亡退職した。」をそれぞれ加える。
4 原判決一九枚目裏一行目の「生まれ、」の次に「日立造船配管工、神崎製紙下請配管工、昭和自動車鈑金工を経て、」を、同行の「三〇年」の次に「三月」を、同三行目の「粉砕、」の次に「ふるい分け、袋詰め、」を、同四行目の末尾に「、かたわら一部粉砕作業にも従事し」を、同五行目の「粉砕機」の次に「、ねつ合機等」を、同六行目の末尾に「その作業の主要なものを見ると、チューブミル粉砕機の修理では、直径三〇インチ、長さ五メートルの粉じんの付着した機内に入つて、アセチレンガスで溶接、溶断作業を行い、粉砕・成形旧工場施設の撤収、解体でも、アセチレンガスによりタール、ピッチの付着した機械の溶断作業を行い、新工場へ移設後のねつ合機の整備では、その機内に入つて付着したタール、ピッチをアセチレンガスで溶融させる作業を行つた。」を、同九行目の「機械修理」の次に「、集じん機の補修、清掃、バックフィルターの粉じん落とし、清掃」を、同行の末尾に「そして、亡山本は、昭和四七年九月に五五才で一旦定年退職後、引き続き嘱託として右作業に従事し、昭和四八年一〇月病気休業したまま、昭和四九年一一月二日死亡退職したが、右休業までは殆んと欠勤もなく、時間外労働も毎月数十時間従事してきた。」をそれぞれ加える。
四亡徳丸、亡山本の罹病
1 亡徳丸
前記のとおり当事者間に争いのない原判決摘示請求原因4(一)の事実に、<証拠>を総合すれば、次の各事実が認められる。
(一) 亡徳丸は、昭和四七年七月ころから、咳が出てのどの痛みを訴え、木村医院で気管支ぜんそくとの診断のもとに治療を受けたが、改善が見られず、同年一〇月二三日、明和病院でのレントゲン検査で無気肺と診断され、入院し、同四八年二月、気管支鏡により左肺にがん細胞が発見された。そして、同年三月県立尼崎病院に入院し、同月一九日に手術を受けたが、腫瘍の摘出は不能であつた。その後、一時退院したが、結局、昭和四九年一月二五日、肺がんにより死亡した。
(二) 亡徳丸の病理解剖の結果(要旨)は次のとおりである。
左肺門部S3‐4原発の偏平上皮がんで、両肺門部及び左側頸部リンパ節に転移していた。
肺に中ないし高度の炭粉沈着が見られたが、線維増殖性変化は見出されていない。気管支炎を示す記載もない。また高度の線維性胸膜癒着が見られたが、その他には、肺にもその他の臓器にも結核性病変の瘢痕等は見出されていない。
全身に黒色面疱、白斑が見られる。
(三) 北条憲二医師(大阪市大助教授、以下「北条」という。)、小林庸次医師(大阪市大講師、以下「小林」という。)、橋本重夫(近畿医大教授、以下「橋本」という。)らは、その意見書(北条は乙第六四号証、小林は同第六五号証、橋本は同第七一号証)及び証言(橋本)において、右病理解剖所見に線維増殖性変化等の記述のないことを根拠に、亡徳丸はじん肺に罹患していたとはなし難いとするが、じん肺病理学の専門家である佐野辰雄医師(労働科学研究所主任研究員。以下「佐野」という。)は、右病理解剖結果及びその際の肺臓標本(スライド写真)を検討した結果、亡徳丸はじん肺(黒鉛肺)に罹患していたと判定されると述べている(同人の証言)。
また、小林、橋本は、右解剖所見からして、亡徳丸には慢性気管支炎は認められないとするが、佐野は、右解剖所見及び前記スライドから見て、気管支にも炎症をきたしていたと判定されるとしている。
これらの点については、その専門分野及び判断資料からして、佐野の見解を採用するのが妥当であると解され、これを左右するに足りる証拠はない。
(四) 更に、亡徳丸は、昭和四七年の入院より相当以前から、露出部の皮膚が黒ないし赤くなる、鼻の周りが腫れる、日光に当ると顔面が痛むなどの皮膚障害を訴えており、前記入院中の昭和四八年六月、阪大病院皮膚科の田代実医師により、日光過敏症、瘡、紅斑、疣贅状皮疹、色素沈着、白斑の症状があり、タールによる皮膚障害(タール皮膚症)に罹患していると診断され、治療を受けた。
前記病理解剖の所見でも、全身に黒色面疱や白斑等の皮膚病変が認められている。
2 亡山本の罹病
前記のとおり当事者間に争いのない原判決摘示請求原因4(二)の事実に、<証拠>を総合すれば、次の各事実が認められる。
(一) 亡山本は、昭和四八年四月、労働組合の自主検診で阪大病院の田代医師の診断により、タール、ピッチによる皮膚障害及び呼吸器系などの内科的症状が認められたが、その後同病院の精密検査は受けず、同年五月及び七月、控訴人会社指定の神戸労災病院で受診したところ、日光性タール皮膚症と診断された以外は、呼吸器、消化器等は異常なしと診断された。しかし、同年夏ころから、咳嗽が激しく、嚥下障害も自覚するようになり、同年九月一三日阪大病院で受診したところ、タール、ピッチによる皮膚障害及び慢性気管支炎と診断された。
そして、同年一〇月八日、消化器レントゲン撮影で食道に腫瘍が発見され、同月一四日、同病院に入院して、同年一一月一六日に食道がんの摘出、胃瘻、頸瘻造設の手術を受けた。
右手術時のカルテによれば、病名は「胸部食道がん」で、部位は鎖骨下方第二生理狭窄部付近とされている。
手術後の経過は良好であつたが、咳嗽は多かつた。同四九年二月八日に一旦退院したが、同年六月ころから咳嗽が高度となり、呼吸困難をきたし、加納病院に入院し、同年八月一四日のレントゲン検査で左無気肺、その後悪液質、更に肺性心の状態となり、同年一一月二日、食道がんにより死亡した。
(二) 亡山本の病理解剖の結果(要旨)は次のとおりである。
食道がん姑息的手術後一年状態。偏平上皮食道がんである。腫瘍塊は第一狭窄部から第三狭窄部までを占有し、壊死傾向をみる。転移は、右鎖骨下、右肺門、傍気管及び膵体部リンパ節。左肺上葉に腫瘍細胞の誤嚥を見る。
慢性気管支炎及び気管支肺炎が存在する。両肺に高度の炭粉沈着が見られる。肺の線維増殖性変化は見出されていない。
頸胸部、両側上肢に色素沈着、黒色面疱が見られる。
残存食道については、上部は著変なく、下部で軽度の食道炎が見られる。
(三) 北条、小林、橋本は、右解剖所見に肺の線維増殖性変化等の記述のないことを根拠に、亡山本はじん肺に罹患していたとはなし難いとするが、前記佐野は、右解剖結果並びにその際の肺臓標本(スライド写真)、昭和四八年一〇月一六日及び四九年六月一一日撮影の各レントゲン写真を検討した結果、亡山本はじん肺(黒鉛肺)に罹患していたと判定されると述べている。
右の点については、亡徳丸に関して説示したのと同様、佐野の見解を採用するのが妥当であると解され、これを左右するに足りる証拠はない。
(四) 更に、亡山本は、昭和四〇年以前から、顔がひりひり痛む、顔その他露出部が赤黒くなるなどの皮膚障害を訴えており、昭和四八年四月、前記田代から、瘡、粉瘤腫、色素沈着、色素脱失、疣贅様皮疹、日光過敏症、ガス斑を示し、タール、ピッチ皮膚障害と診断され、同年七月には神戸労災病院でも日光性タール皮膚症と診断された。
五因果関係―その一 タール、ピッチと健康障害
1 タール、ピッチ
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
(一) タール(コールタール)は、石炭を乾留して得られる黒色ないし褐色の粘稠性液体である。一〇〇〇ないし一二〇〇度で乾留する高温乾留タールと四五〇ないし六〇〇度で乾留する低温乾留タールがある。低温乾留は、日本では、戦時中に盛んに行われたが、現在はすべて廃止されている。タール(高温乾留タール)は複雑な化学組成を有し、多種類の芳香族多環炭化水素類を含有している。その中で、三―四ベンツピレン(以下「ベンゾ(a)ピレン」或いは「B(a)P」ともいう。)は一%前後である。低温乾留タールは、高温乾留タールと異なり芳香族炭化水素の含有量は少く、発がん性も強くない。
タールには、他に木材を乾留して得られる木タール等があり、また、石油を熱分解する際にもタール様物質(石油タール様物質)が得られる。
(二) ピッチ(コールタールピッチ)は、コールタールを蒸留した時の蒸留残渣で、黒色固状の物質である。
他に、石油系重質油の熱分解によつて得られる黒色固状の石油ピッチがある。
(三) 以上は、いずれも芳香族多環炭化水素類を多種、多量に含有しており、一括してタール様物質と総称することもできる。
(四) また、タールを取扱う職場における作業者へのタール侵入経路として最も重要なのは気道と考えられる。この侵入経路に関与するタールは職場に存在するタールのうち、空気中へ飛散した粒子状のタールか浮遊粉じんに付着して存在するタールである。
2 タール、ピッチによる健康障害(がんを除く)
一般に、予防措置をとらない限り、タール、ピッチの粉じんの吸引がじん肺の原因となること及びタール分が被控訴人ら主張のようなタール皮膚症の原因になることは当事者間に争いがなく、右争いなき事実に、<証拠>によれば、次の事実が認められる。
(一) タール、ピッチによる健康障害としては、がんの他に、主として皮膚障害と呼吸器障害が見られる。
(二) 皮膚障害
タール、ピッチ暴露による皮膚障害(タール皮膚症)の主たる病変は、光過敏性皮膚炎(日光の直射を受けると皮膚露出部、特に顔面、頸部、前胸部などに灼熱感、掻痒感があり、紅斑、腫脹を呈し、時には水疱が見られる。)、黒皮症などの皮膚色素異常(色素沈着、脱失(白斑)等)、角化、斑状の毛細血管拡張、瘡様皮疹、面皰、粉瘤、多形皮膚異状、限局性毛細血管拡張症(タール、ピッチに暴露した作業者の上腕、手背、頸部、胸部、背部等にしばしば見られるバラ様皮疹、当初製鉄業労働者でよく知られ、通称「ガス斑」といわれるものがこれである。)ピッチ疣贅等である。
ガス斑は、タール暴露を裏付けるよい指標であるといわれている。後記八幡製鉄所におけるタール暴露による職業性肺がんの報告において、川畑(一九三九年)は、その二一例中ほぼ全例にガス斑を認め、更に、その後、同製鉄所労働者に関する河合らの報告(一九六〇年代)では、肺がん症例三一例中、ガス斑あり二八、なし一、不明二とされている。このように、殆んどの症例にガス斑等の皮膚障害の見られることが、そのタールによる肺がんの臨床的特徴であるとされた。
また、そのガス斑は腫瘍より早く出現するので、その高率出現者についてはがんを念頭においた健康管理が必要であるともいわれている。
(三) 呼吸器障害
タール、ピッチ暴露の直接経路の一つである呼吸器は、タール、ピッチによる局所性障害を受けるとされる。上気道については報告がないが、下気道に関しては、その末梢ほど吸入されたタール、ピッチの喀出が容易でなく、滞留時間が長くなるため、タールの粒子状物質、ガス、蒸気の作用が強くなり、気管支炎、肺胞炎等が起こりやすくなる。また、その刺激の継続と慢性炎症の結果として気管支拡張や気腫性病変が随伴する可能性がある。その場合は更に粉じん、蒸気等の作用及び粉じんの肺内沈着が助長されることになり、そのような状態で発がん性物質が共存すると、増殖性病変が起こりうるとされる(後記タールとがん専門家会議報告書一一九、一二〇頁)。
佐野も、粉じん、タール分等の継続的刺激が加えられると気管支に炎症が生じ、それが継続する。じん肺症患者にはこのような気管支炎変化を起こすことが多い。そして、これが継続し慢性炎症となると、気管支の上皮細胞に異常繁殖、化生が生じ、発がんしやすい組織素因が形成されると述べ、橋本、小林もほぼ同旨のことを述べる。
また、タール、ピッチ及び黒鉛、コークスの粉じんは、他の粉じんと同様、これを暴露、吸入すると、肺に粉じん沈着、線維増殖性変化等が生じ、じん肺に罹患することも知られている。
3 タール、ピッチの発がん性
タール、ピッチに含まれる三―四ベンツピレンが発がん物質であることは当事者間に争いがなく、これに、<証拠>を総合すれば、次の各事実が認められる。
(一) タール、ピッチによるがんの研究は、一七七五年にポット(Pott、イギリス)が、煙突掃除人に多発している陰のうがんを報告し、その原因は煤(この煤にはタール分が含まれている。)に暴露したことにあると述べたことに始まる。それはまた、職業がんの最初の発見とされている。
(二) その後、タール蒸留作業者に発生した皮膚がん(Volkmanrrドイツ、一八七五年)、頁岩蒸留パラフィン生産工場での皮膚がんの多発(Bell、一八七六年)、コークス炉タール、ピッチにさらされた労働者の陰のうがん(Manouvr-iez、フランス、一八七六年)、タール労働者の中での高い皮膚がん罹病率(Bell、アイルランド、一八八五年)、煙突清掃人がんに関する広範な調査等の報告が続いた。
タールによる皮膚がんは、その後も欧米では少からず発生し、Eckardt(一九五九年)は職業がんに関する文献を整理し、職業がんの七五%以上が皮膚がんで、その六〇%がコールタールによるものであると報告しているし、Henry(一九四七年)によれば、イギリスにおける一九二〇年から同四五年の間の職業性皮膚がんの届出件数三七五三例のうち二二二九例がタール、ピッチその他のタール物質によるものであつた。更に一九四六年から五五年の間の職業性皮膚がんの届出二〇四一例のうち一〇五三例がタール、ピッチによるものであつた(Bogo-vski一九六〇年)。
(三) 一九一五年に山極と市川は、兎の耳介皮膚にタールを塗付して皮膚がんを発生させることに成功した。これは化学物質による発がん実験の最初の成功であつた。以後筒井(一九一八年)、Mu-rray(一九二一年)がマウスの皮膚に粗コールタールを塗布して皮膚がんを発生させることに成功し、Bonser(一九三二年)は各所の溶鉱炉から得られたタールにもマウスに発がん性のあることを報告し、以後同様の動物発がん実験が数多く行われ、皮膚に対するコールタール、ピッチ、煤などの発がん性は、動物実験において比較的早く確立されたといわれている。
そして、KennawayやCook(一九三三年)らにより、発がん作用を有する蛍光性炭化水素(三―四ベンツピレンなど)が抽出され、以後タール(及びその他の有機物熱分解産物)から、三―四ベンツピレンその他数多くの芳香族多環炭化水素系の発がん物質が抽出、同定され、これらにつき数多くの動物発がん実験が重ねられ、動物への皮膚塗付や皮下注射(他の投与方法による実験については後記六、七の各2で認定する。)等によつて容易に発がんを起こすことが確認されてきた。そのうち、三―四ベンツピレンは、特に強力な発がん性を有するものの一つであることが明らかにされ、動物実験における量―反応関係も確認されている。
(四) 右(一)ないし(三)の各報告、実験結果並びに後記六、七記載の各報告、実験結果等により、タール及びこれから抽出される芳香族多環炭化水素系の三―四ベンツピレン等にも発がん性のあることは、疑う余地のない事実であるとされるに至つている。
(五) そして、国際がん研究機関(IARC)もその一九七九年の論文集補遺で、次のとおり記述している。
「煤、コール・タール、クレオソート油、頁岩、切削油は実験動物の皮膚塗布や皮下注射により発がん性を示す。
石灰煤やコール・タール、ピッチ、コール・タールヒューム及びある種の不純な鉱物油に職業的に暴露されることは、皮膚、肺、膀胱、胃腸管を含むいくつかの部位にがんを起こす。
最近の疫学データはこれらの結論を支持する。
この効果(発がん)はおそらく、これらの物質に含まれる多環芳香族炭化水素によるのであろう。」
(六) 但し、動物実験の成績をもつて、特定の物質の人間に対する発がん性を論じるには、大きな困難があることに注意が必要であるとされる。例えば、タールとがん専門家会議報告書では、別紙Ⅰの「まとめ」での言及のほか、「多くの実験成績が未だマウス、ラット、ハムスター等小実験動物を使用した成績であることを忘れてはならない。被験動物へのばく露方法がヒトへのタール物質、あるいはタール中の単一物質のばく露状態とどのような相違や類似があるのか、また、投与量がヒトへのばく露量とどのような関係にあるのかを充分考慮に入れて評価する必要がある。また投与方法については、極めて非現実的な方法がしばしば用いられることに留意すべきであり、同時に実験動物とヒトとの間の形態学的並びに解剖組織学的な相違や生理学的な相違を考慮すべきである。」(同報告書五二頁)と記述されている。また、その他、環境因子の差、単一物質暴露の非現実性等も指摘されており、その発がん実験の結果をそのまま直ちに人間に外挿できる現状ではないとされる。
4 タール、ピッチによるがんと臨床・病理像
(一) 右3記載の事実及び後記六の1、8、七の1、10、12の(一)記載の各事実に、<証拠>を総合すれば、次のとおり認められる。
一般に、発がん物質に対する反応は、組織、臓器毎に異なるとされている。特定の発がん物質により複数の臓器につきがんの多発が見られるとの報告が、たばこ、クロム、石綿等について報じられているが、通例は、ある発がん物質と発がん部位との間に特異選択的な関係があるとされ、一臓器(標的臓器)ないし最近ではこれに加えていくつかの臓器についてのがん発生がいわれ、調査検討されているだけであつて、すべての、或いは多数の臓器につき一様にがん発生の危険を示すという報告、文献は見られない。
タール、ピッチについても、このことは同様である。
(二) また、<証拠>によれば、次のとおり認められる。
一般に、特定の起因物質に関連して発生したがんといえども、その経過、部位、組織型等の臨床、病理像は他の原因で起こつたがんと差異はないのが通例で、完成されたがんにつきその臨床、病理解剖所見から原因を決定することは不可能であるとされ、このことは、タールに関連したがんについても、前記のようにガス斑等のタール皮膚症の先行併発が報告、論じられ、そのガス斑の存在はタール暴露を裏付けるよい指標と考えられている以外は、何ら変るところはないと解されている。
5 発がん性に関する疫学的研究の意義
(一) 動物実験成績は直ちには人間に外挿し難いとされていることは前記3記載のとおりであるし、<証拠>によれば、発がんの機序については未解明の部分が多いこと、発がんには、内因、外因の多様な因子が複合関与していると考えられていること、発生したがんを病理学的に検索してもその所見には原因を特定する特徴がなく、病因との間に特異性が乏しいとされていることが認められる。
(二) そして、右掲記の各証拠によれば、右記載の事情に鑑み、特定物質の人間への発がん性の有無、発がん部位(標的臓器等)、暴露許容量、濃度等を判断するには、疫学的調査研究が欠かせず、その調査研究結果が、職業がん等の因子を確認するための最も重要かつ適切な根拠であるとされていることが認められる。
六亡徳丸の肺がん罹患及びその死亡とタール、ピッチ暴露との因果関係
1 タール、ピッチと肺がんに関する症例報告、疫学的研究報告
(一) <証拠>によれば、次の各事実が認められる。
(1) 黒田、川畑の報告(一九三六年ないし一九三九年)
① 黒田らは、一九三六年、日本製鉄八幡工場の製鋼用ガス発生炉作業者に肺がんの多発していることを報告した。これは、タール蒸気吸入による職業性肺がんの最初の報告であり、我が国における職業がん報告の嚆矢でもある。
② すなわち、黒田らは、右ガス発生炉からのタール蒸気に暴露した作業者に昭和八年から同一〇年までの間に一二例の肺がんが発生したことを報告し、次いで、同一一年に五人の、同一二年に四人の各肺がん発生を見、結局この間二一人の肺がんが発生し、これは期待値を上回ると報告している。
罹患者の就業期間は、最短九年三月、最長二三年三月、平均一六年八月、発がん年令は三五ないし五四才、平均43.3才であつた。
③ 当時のガス発生炉は石炭を一二〇〇度の温度で乾溜するもので、攪拌、装炭用の孔からは火炎とともに、0.7%のタール成分を含むガスが噴出していた。
(2) 河合ら及び原田らの報告(一九六一、六七ないし六九年)
① 右黒田の報告に続き、河合、原田らは、右製鉄所の製鋼用ガス発生炉(これは一九五三年に閉鎖されている)の作業者に、一九三三年から一九六五年までの間に、黒田ら報告分を含めて合計三三例の肺がん発生を報告するとともに、その発生を時期別に考察し、予防対策も不備で高濃度に暴露していた一九三三年から一九三八年の時期は対照労働者に比べて五二〇倍のリスクを示し、一九四六年以降はそれが三二、三倍に減少していると報告した。
② 黒田ら報告以後の一〇例(未報告二例を除く。)の就業期間は一二年五月ないし三六年七月、平均二七年四月で、発がん年令は四五ないし五六才、平均51.7才であつた。河合は、工場閉鎖から一九六五年までの一三年間に配転された労働者の追跡調査で、別表5のとおり報告し(一九六七年)、一〇年以上の暴露で発がんの危険が高まり、高濃度暴露では比較的若年で発がんし、低濃度ではがん年令に達してから有意に高い発がんを示すと述べている(一九六九年)。
③ 右一〇例のうち、喫煙の記載があるのは六例で、非喫煙が二例、一日当り一二本が一例、一五本が一例、二〇本が二例で、多量喫煙者は見当らなかつた。このことから、河合は、発がんの職業的因子が立証されるとしている。
④ また、右三一例中、記載のない二例を除くと、ガス斑ありが二八例、なしが一例であつた。他方、先行する呼吸器疾患を見ると、三一例中慢性気管支炎と考えられるもの二例にとどまつた。
肺がんの発症経過は、中心型(肺門型)一七例、末梢型(肺野型)一四例であり、組織型を見ると、七例中扁平上皮がん二例、腺がん二例、未分化がん三例であつて、いずれも特異のものは見い出しえないとされている。
(3) Kennawayら(一九三六、一九四七年)
一九二一年から三二年までのイングランドとウェールズでの死亡診断書の調査で、ガス製造労働者に肺がん死亡の多いこと並びに他の石炭乾留及び副産物労働者が期待値以上の肺がん死亡率を被つた可能性があることを示した(一九三六年)。
次いで一九二一年から三八年の間の肺がんの死亡診断書を一〇〇種類の職業別に検討した結果、ガス製造工、煙突掃除工及びガス工場従業員に肺がん死亡率が高いことを報告した。とりわけ、ガス炉の火夫、コークス炉の投入係の死亡が理論値の2.8倍であつたと報告している(一九四七年)。更に、舗装工、街路の石工、コンクリート工及びアスファルト工における肺がん死亡率の六四%の超過を報告する一方、タール蒸留労働者及びコークス炉労働者の肺がん死が少ないこと(期待値の五二%)も報告している。
(4) Reidの報告(一九五六年)
イギリスのNational Coal Boardのコークス炉労働者を調査した結果、同じような社会階層に属する大企業労働者の死亡率を用いて計算した期待値と比較して、肺がん死亡の超過危険度(エクセスリスク)は認められないとした。
(5) イギリス職業別死亡統計表(Briti-sh Register General Report、一九五八年)によれば、石炭ガス及びコークス製造従事者(二〇ないし六四才)として登録されている男子一万六九二九人の調査で、別表6のとおり発生部位別のがん死亡の観察値と期待値が示され、肺がんについては有意性が認められている。
(6) Dollの報告(イギリス、一九五二、六五、七二年)
垂直発生炉ガス暴露労働者の肺がんを調査し、期待値13.8に対し観察値二五で有意性があつたと報告している(一九五二年)。
またGas Board労働者の一二年間にわたる追跡調査の結果、職種を三群に分けたうちで、ガス炉工場群の肺がん死亡は、イングランドとウエールズ一般人のそれと比較して1.8倍、三群の職種のうちガス工場へ出入りしない群と比較すると2.4倍になると報告している(一九六五、七二年)。
なお、一九六五年の報告では、対象労働者の一〇%抽出人口に対し喫煙について個人面接をした結果、イングランドとウエールズの一般人口と変らないとしている。
(7) Lloydら(一九六九、七〇、七一年)及びRedmondら(一九七二年)の各報告
① 右Lloyd, Redmondらは、アメリカのペンシルバニア州Allegheny郡の七つの製鉄所労働者五万八八二八人について大規模な追跡調査を行い、次のとおり報告している。
② 一九五三年又はそれ以前にコークス工場に雇用された三五三〇人の労働者についての右同年から一九六一年までの観察結果で見ると、別表7―1のとおりで、コークス工場労働者のうち、コークス炉作業労働者の肺がん発生は期待値の2.5倍で、五年以上従事した者では3.5倍であつた。更に、作業部署別に見ると大きな差があり、炉上作業専従者では期待値の七倍であるのに対し、炉側作業専従者では1.25倍(非有意)であつた。また、五年以上の炉上作業専従者では一〇倍に達していた。
③ 次にコークス工場労働者二五四三人に対する一九五三年から一九六六年までの観察結果で見ると、別表7―2のとおりで、コークス工場労働者二五四三人の観察で、肺、気管、気管支のがん死亡は期待値24.5に対し観察値は四四であり、比較危険度2.01で有意に高かつた。コークス炉作業に従事した労働者とコークス炉外作業労働者に区分して見ると、前者では比較危険度は3.31で有意に高く、後者は1.01で有意性はなかつた。また、五年以上コークス工場に従事した労働者の肺、気管、気管支のがんの比較危険度は2.05、そのうちコークス炉労働者の比較危険度は3.67で、共に有意に高かつた。
④ その後、Redmondらは、更に調査範囲を広げ、右のAllegheny郡以外の地域の一〇の製鉄所のコークス工場コークス炉労働者三三〇五人及び右All-eghery郡製鉄所のうち二工場のコークス炉労働者一三五六人について追跡調査を行い、その結果を別表7―3のとおり報告している(一九七二年報告)。
右調査結果でも前記②、③と同様の結論が確認された。すなわち、コークス炉労働者の肺がん死亡の相対危険度は2.9で有意に高い。五年以上従事者では3.5で、そのうち炉上作業専従者では6.9であつた。
⑤ 右各報告は、その調査の規模、方法等において、信頼性の高いものであると評されている。
(8) Mazumdarらの報告(一九七三年)
Mazumdarらは、アメリカ・ペンシルバニア州の一〇の製鉄所コークス工場・三一九測点での作業環境中の気中タール(コールタールピッチ揮発成分)濃度の測定結果を解析し、これと前記Re-dmondらの報告(別表7―3)によるコークス炉労働者のがん死亡との関連を研究し、次のとおり報告している。
濃度測定結果により、一一職種のコークス炉労働者を暴露程度の類似した三群(炉上部、炉側部、その他(押出機や消火車の操作等))にまとめると、各群毎の平均環境濃度は前記(別表4―4の(4))のとおりであり、コークス炉上部群では炉側群に比して二ないし三倍高かつた。
次に、右の濃度と各労働者の作業従事期間(月数)との積をもつて、累積暴露量の指数とし、これとがん死亡との関連を見ると、別表10及び図1のとおり、非白人コークス炉労働者では、累積暴露指数と肺がん死亡率との間に量―反応関係のあることが認められ、累積暴露指数が約二〇〇mg/m3・月あたりから肺がん発生の増加が見られる。白人労働者については、人数が少く、殊に高暴露指数群に人数が少く、コークス炉労働者全体としては非コークス炉労働者に比べて1.6倍の比較危険が認められたものの、量―反応関係は認めるに至らなかつた。
右の結果によれば、従来から確立されている気中タールの許容濃度0.2mg/m3は、それが平均三〇年間にわたる作業によつても肺がん死亡を増加させないためのものとして適当であろうと解される。
なお、死亡率調査(前記Redmond報告)の対象集団の喫煙量は調査されていないが、対照として同一製鉄所の他の職場の集団を用いており、両群は同一の社会的地位に属し、近似した喫煙習慣を持つものと考えられるから、相対危険度における喫煙の影響は最小にとどめられていると述べている。
(9) 新日本製鉄八幡製鉄所の報告(昭和四七年)
新日本製鉄八幡製鉄所は、コークス工場労働者の肺がんについて調査し、次のとおり報告している。
コークス炉作業従事在職労働者(昭和三〇年四月から同四五年三月まで)延一万四一四九人年からは肺がん発生はなく、コークス炉作業従事退職者(昭和二二年四月から同四七年一〇月まで)延3674.25人年からは、六例の肺がん発生があつた。これにつき、同製鉄所の右作業以外の工場労働者(在職者及び退職者)を対照群として検討すると、コークス炉作業従事在職労働者では、期待数0.56、観察数〇であり、コークス炉作業従事退職者では、期待数3.16、観察数六で有意差はなかつた(危険率10.2%)、在職・退職者合計でも期待数3.72、観察数六で有意差はなかつた(危険率17.42%)。
但し、右調査は、同製鉄所のコークス炉作業以外の工場の労働者を対照群としたものであるが、それらの工場も汚染されていること別表4―1のとおりであるのに、日本人男子一般との比較検討もない点において批判の余地があるとの意見もある。
(10) タールと職業がんの因果関係の解明に関する専門委員会の検討結果中間報告(委員長坂部弘之、昭和四九年。以下「労働者・コーク炉作業者疫学調査結果」ともいう。)
昭和四七年労働省に設けられた標記の委員会は、わが国の製鉄業四社、都市ガス製造業四社、コークス製造業三社のコークス炉作業従事者について、がん発生状況の調査を行い、その結果を次のとおり報告している。
右一一社のコークス炉作業者のうち昭和二四年から四八年までの退職者中追跡可能者二一七八人について、全悪性新生物及び肺がんの発生を見ると、別表8(1)のとおりで期待数と有意差はなかつた。
次に、右のうち製鉄業、都市ガス製造業各四事業場のコークス炉作業者で昭和二四年から四八年までの退職者各六七四人と一二六一人について見ると、別表8(2)のとおり全悪性新生物についてはいずれも期待数と差がなく、肺がんについても、都市ガス製造業コークス炉作業者群では差がなかつたが、製鉄業コークス炉作業者群では有意に高かつた(期待数の2.37倍)。また、右につき、全悪性新生物に対する肺がんの比率を見ると、別表8(3)のとおりで、製鉄業コークス炉作業者群では有意に高かつた。
次いで、製鉄業及び都市ガス製造業コークス炉作業者の肺がん発症例一八(在職者三例を含む)の作業従事期間と発病年令を見ると、別表8(4)のとおりで、肺がん発生は、五年以上の作業歴者で、おおむね五〇才以上の者であつた。
なお、右肺がん症例一八の喫煙を見ると、喫煙の習慣のあつた者一〇人、なかつた者二人、不明六人であつたが、喫煙量については信頼しうる資料が得られなかつたとしている。
(11) 大久保・土屋の報告(昭和四九年)
大久保・土屋は、全国の一〇〇〇人以上の従業員を雇用する工場の主任衛生管理者に対する郵送質問調査の方法で、昭和四一年から四三年までの従業員がん死亡の状況を調査した。
有効な回答を寄せた五一五工場の男子従業員合計九六万一八〇五人に関してがんの部位別に検討した結果、肺がんが鉄鋼業の生産部門に有意に多く、取扱物質の解析ではコークスを取扱う工場に多く、殊に鉄鋼業のコークス取扱工場に最も多い、コークス取扱工場五九の従業員の肺がん発生状況は別表9のとおりで、生産部門の五〇〜五四才では有意に多いとしている。なお、全産業で見ると肺がん死亡者では他部位がん死亡者に比して喫煙者の割合が多いのに、鉄鋼業の肺がん死亡者にはかかる傾向はなかつたとして、鉄鋼業における肺がん発生の危険度は喫煙によるそれよりも大きいことが推定されたと記述している。
(12) Hammondらの報告(一九七六年)
Hammondらは、屋根葺き職人が屋根のタール塗装作業時に暴露される三―四ベンツピレン量を測定して前記(別表4―4の(7))のとおり報告するとともに、米国の屋根葺き職人組合(その組合員は主に屋根塗装又は防水加工の基礎としてピッチ、アスファルトを塗布する作業に従事している。)の組合歴九年以上の組合員五九三九人につき、一九六〇年から七一年まで追跡調査を行い、その結果を別表11のとおり報告している。そして、組合歴二〇年以上の群では、肺がんの死亡比が1.59と高く、それはまた、組合歴とともに増加しているとし、結論として、屋根葺き職人の受ける職業上の暴露は、二〇年以上経過ののちに肺がんその他数個所のがんによる高死亡率に結びついてくると述べている。
(13) 柴田寿彦らの報告(症例報告、昭和四七年)
某電極工場労働者に発症した肺がんの一症例を報告している。年令は二八才、一六才で就職以来発病までの一二年間の大半を右工場電炉係として従事していた。剖検で肺に黒色粉じんの沈着があり、柴田らは、ピッチ、タール、石油コークスからなる粉じんによるじん肺に肺がんが合併したものとした。
そして、右職場の作業環境を測定し、別表3―1のとおり著しく粉じん及び三―四ベンツピレンに汚染されていると報告している。
(14) Davies(一九七七年)の報告
イギリスの製鉄業におけるコークス炉作業者六一〇名の五年間の追跡調査で、期待値一〇に対し、一四例の肺がん死亡者を観察したが、他の解析などから意味のある差ではないとした。
(二) 右認定のとおりの各報告が認められ、これによれば、作業環境気中のタール、ピッチに経気道的に暴露することにより肺がん発生のリスクの高まることが、内、外各種の疫学的研究によつて確認されており、特に、高度にタール暴露を受ける製鉄用コークス炉労働者に関しては、複数の報告により、定性的・概括的な関係の限度ではあるが、タール暴露と肺がん発生との量―反応関係も確認されているものということができる。
(三) もつとも、有意差は見られなかつたとの報告も一部見られるけれども、それらにおいても、肺がん発生数は期待数を上回つており、何ら右(二)の認定判断を妨げるものではない。
(四) タール、ピッチによる肺がんの潜伏期間
<証拠>によれば、タール(様物質)による肺がんの潜伏期間については、本件証拠上次のような記述が見られる。
他の職業がんと同じく一〇ないし三〇年の長期である(タールとがん専門家会議報告書)。
最初の暴露から肺がん死まで一〇ないし四〇年、平均二五年(前掲Mazum-darの報告)。
九ないし二三年、平均一六年(Hue-per)。
2 経気道系投与の動物実験結果
<証拠>によれば、次のとおり認められる。
(一) タール、ピッチないしこれらから抽出される芳香族多環炭化水素系物質を経気道的に動物に投与し、肺がんを発生させた実験結果も、別表12(1)記載の報告例等相当多数報告されており、中でも三―四ペンツピレンについては、気管内注入実験でも量―反応関係が認められていると評価されている(タールとがん専門家会議報告書五一頁)。
(二) また、タールとがん専門家会議報告書では、前記五3(六)の記述に続けて、次のとおり記述されている(報告書五二頁)。
「これらの点を考慮した上で、動物実験をもとにした成績をタール成分のヒトに対するがん原性へ外挿するとき、皮膚がん、呼吸器系がんについては比較的類似性が高(い)……と言えよう。」
3 タールとがん専門家会議報告
(一) <証拠>によれば、次の事実が認められる。
労働省労働基準局長の委嘱により土屋健三郎外九名からなる「タール様物質とがんの検討に関する専門家会議」(タールとがん専門家会議)が設置され、同会議は、タールの物性タールへの暴露濃度を測定した各種結果、タールとがんに関する疫学的諸研究結果及び各種動物実験成績等の現在までに得られた知見を詳細に整理吟味したうえで、昭和五五年六月七日、タールのがん原性を中心とした健康影響に関する「判断基準のための指針」を「タール様物質とがんの検討に関する専門家会議検討結果報告書」(タールとがん専門家会議報告書)として提出している。
右報告書は、その「まとめ」として別紙Ⅰのとおり述べている。
(二) 右報告によれば、同会議は、タールと肺がんとの関連については、次のとおり結論づけているものと解される。
(1) タール、ピッチ暴露による肺がん発生のリスクが高いことが、臨床及び疫学的研究の文献から確認された。
(2) 動物実験では、三―四ベンツピレン等がん原性の強い単独物質に関しては量―反応関係が認められるが、これを直ちに人間に外挿できる現状ではない。
(3) 職業性肺がん発生のリスクが、タール暴露の激しい製鉄用コークス炉のような作業場で高いことは認められているが、その量―反応関係は、ある程度定性的に認められることがあるにすぎない。
(4) タール及びこれを含有する物質については、特化則に従つて十分な管理が必要で、作業環境濃度をベンゼン可溶分として0.2mg/m3以下に保つようにしなければならない。
4 電極製造業疫学調査結果
(一) <証拠>によれば、次の事実が認められる。
(1) 労働省労働基準局安全衛生部は、大型黒鉛電極を製造している事業場八社一四事業場の従事者(昭和二三年一月一日から同四九年一二月三一日までの期間に右製造作業に一年以上従事した者。下請労働者を含む。)を対象として、悪性新生物死亡率と作業環境因子(汚染物質、特にタール、ピッチ揮発物)との関連を検討する疫学調査(電極製造業疫学調査)を実施し、昭和五一年六月その結果を報告した。その観察・解析結果及び考察の要旨は別紙Ⅱのとおりである。
(2) そのうえで、同報告は、結論として、肺がんにつき次のとおり述べている。
「肺がん死亡数は期待死亡数を上回つてはいるが、例数が少く、電極製造業における作業環境因子との関連は明確でない。」
(二) しかし、右調査結果につき、渡部は、その証言及びこれにより成立を認める甲第八五号証において、次のような不備、不完全な点があり、信頼性が低い旨指摘している。そして、その指摘の妥当性を左右するような証拠はない。
(1) 右調査は、企業から提出された情報のみに依拠してされ、労働者個々人に確認していないため、その情報の信頼性は確保されていない。
(2) 調査対象者中の追跡不能者が退職者の一五%(四〇二名)と多数に上つているうえ、実際に観察・解析対象となつたのは、調査対象者六五七七人中五二二一人、判明死亡者総数三一八人中二二五人で、それぞれ一三五六人(20.6%)、九三人(29.2%)もの人数が脱落している、しかも死亡者の脱落率がより高く、脱落者の死因構造も示されていない、という欠陥があり、死亡率が低く評価されている可能性がある。
(3) 前記製鉄コークス炉労働者の肺がん例等から見ると、一年が発がんの危険を生ずる最短年数とは考えにくいのに、調査対象者を一年以上従事者とし且つ(成型群以外)従事年数別の検討をしていないのは、問題を希釈する結果となつていると解される。
(4) 実際の観察対象者の観察終了時までの平均従事年数は12.4年で、大半が昭和四九年に近い一〇年間に位置しており、その短かさからして、発がんの危険を検討するには適当な対象とはいえない。
(5) 総死亡や結核、不慮の事故死が有意に少いこと(別紙Ⅱの表(ロ))及び昭和二五ないし二九年の総死亡が著しく低率であること(同表(ハ))に鑑みると、死亡者の脱落がある疑いがある。
(6) 従事作業別分類にあたつては、発がん要因への暴露の程度による分類方法を採るべきであるのに、これがされていない。なお、右分類による同表(ヘ)では、比較的配置移動が少く有害作業の機会もかなりあると思われる装置保守係及び検査係が、ともに、胃がん、肺がんの比較危険の高いのが注目される。
(三) そのうえで、渡部は、その証言及び甲第八五号証において、次のとおり述べている。
右調査結果では、前記のような不十分さの中でなお、全悪性新生物死、呼吸器がん死、消化器がん死、白血病死が、統計的には有意ではないものの、多い傾向があること、期間別に見ても、全悪性新生物死は、昭和二五ないし二九年を除きすべて比較危険が一を超えていること、事業別で見たときも、対象の比較的多い殆んどの事業場では共通して比較危険が一を超えていることなどの点は重視されるべきである。
(四) 結局、右調査結果では、右(二)記載のような批判の余地のある調査のもとで、なお、呼吸器がん死が期待値を上回つていたことに留意すべきであると解される。但し、それは有意差には至つておらず、それのみで直ちに、タール・ピッチ暴露との関連性を肯認する資料としうるほどのものではない。
(五) また、<証拠>によれば、同表(ホ)の事業場別死亡数の表中「9番」が控訴人工場と解されるところ、その肺がん死には少くとも一人(訴外林金三郎)の脱落があると認められ、仮に右を加えると、肺がん死は二、その比較危険は約五で有意に高くなることが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
5 控訴人工場疫学調査結果
<証拠>によれば、干葉大学助教授の海老原勇(以下「海老原」という。)は、控訴人工場の労働組合及び本件被控訴人ら代理人の協力により、控訴人工場の従業員名簿及び死亡者の死亡診断書をもとに、控訴人工場の粉じん作業労働者(作業年数五年以上の者。一九五七年以前の退職者を除く。)三五七人について、一九五八年から一九八一年まで追跡調査を行い、その解析結果を、別紙Ⅲのとおりまとめていることが認められる。
右によれば、控訴人工場では、肺がん死亡のリスクが有意に高いことが示されている。
もつとも、<証拠>によれば、右海老原報告では、解析対象集団が小さいため作業年数や暴露濃度との関係(量―反応関係)の検討はなしえなかつたこと及び喫煙関係等の調査はなされていないことが認められ、この点において不十分性を免れない面が残つている。
6 亡徳丸の臨床・病理像について
(一) 亡徳丸には、かねてからタール、ピッチによる皮膚障害が存在していたことは前記四、1記載のとおりであり、このことは、同人が少くとも皮膚に対し、長期にわたるタール、ピッチの暴露を受け、その影響、反応が顕在化していたことを示すものと解することができ、小林、橋本もこれを肯認している。
(二) また、亡徳丸には、肺に中―高度の炭粉沈着があり、且つじん肺に罹患し、気管支に炎症をきたしていたものと判定されることも前記四、1記載のとおりであり、前記五、2で認定したところ及び証人佐野辰雄の証言によれば、右のことは、その肺、気管支にタール、ピッチの粉じん等が吸入され、その暴露による影響、反応が顕われていたことを示すものと解することができ、前掲乙第六五、七一号証中これに反する部分は、前提事実を異にし採用できない。
(三) 右(一)に記載したタール皮膚症の点を除けば、一般に、タールに関連したがん(肺がんその他)についても、その臨床、病理像は、その他の原因によるがんと差異がないとされていることは前記五3のとおりであり、<証拠>によれば、亡徳丸の肺がんについても、右に記載した一般的見地からの立論と異なるところはなく、その肺がんの経過、部位、組織型等自体には、タール、ピッチの作用を裏付けるような点も見当らない(但し、北条は、乙第六四号証の意見書で、その部位、組織型は経気道的に作用した外来性発がん物質による肺がんである可能性としては一応肯定的な所見であると述べている。)が、他方、タール、ピッチが作用していたものと解することの妨げとなるような事情も見当らないものと認められる。
7 労災認定
また、亡徳丸の肺がん死亡について、西宮労働基準監督署長が、その業務起因性を肯認して労災保険給付をする旨決定したことは当事者間に争いがない。
8 喫煙と肺がんとの関連について
<証拠>によれば、次の各事実が認められる。
(一) 別表13―1、2に記載の各種疫学調査等数多くの調査・研究の結果、喫煙により肺がん発生の危険(リスク)が高まることは殆んど疑問の余地がないとされている。
(二) 喫煙による煙には、タール、ベンツピレンその他の芳香族多環炭化水素系物質が含まれており、これが、肺がん発生のリスクを増大させる主要な要因の一つになつていると考えられている(但し、喫煙の煙には、右以外にもニコチンその他多種の物質が含まれている。)。
(三) 禁煙の効果については、別表13―1の(4)記載の各調査結果があり、平山雄は、禁煙後一五年で非喫煙者と同程度のがん死亡率になると述べている。
9 タール、ピッチ暴露者の肺がんと喫煙との関連について
<証拠>によれば、タール、ピッチ暴露による職業性肺がんを検討するについては、タールと同じく芳香族多環炭化水素類への暴露を伴う喫煙(及び大気汚染)を無視することはできないとされているところ、前記1記載の各事実及び同掲記の各証拠によれば、次のとおり認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
(一) 前記1記載の疫学的研究では、喫煙(及び大気汚染)の要因を考慮に入れて評価を加えたものは多くはないが、前記のとおり、
(1) 河合らの報告では、肺がん発症例一〇例中六例の喫煙関係の分析結果を考慮のうえ、発がんの職業的因子が立証されるとしており、
(2) Dollの報告では、対象労働者の喫煙関係は一般人と異ならないとされ、
(3) Mazumdarらの報告では、喫煙量の調査はしていないが、対照として同一製鉄所の他の集団を用いたので、喫煙習慣は近似しており、相対危険度における喫煙の影響は小さいと述べているし、
(4) 大久保・土屋の報告では、全産業で見た場合は、肺がん死亡者中での喫煙者割合は他部位がん死亡者のそれより多いのに、鉄鋼業の肺がん死亡者にはかかる傾向はないとして、鉄鋼業における肺がん発生の危険は喫煙によるそれより大きいと述べている。
(二) そして、前記Rloyd、Redm-ondらの各報告等についても、対照群の喫煙が近似的であると考えられ、右(3)のMazumdar報告の記述と同様に解することができる(また大気汚染に関しても同様に解することができる。)。
(三) またRloydは、コークス炉上労働者の肺がん死亡率は、仮にすべてのコークス炉労働者が多量喫煙者であると考えた場合に期待されるレベルを超えるものであると述べている(一九六六年)。
(四) 更に、米国NIOSHの勧告(criteria for a recommended stavdard, Occupatinal Exposure to Coke Oven E-mission一九七三年)においては、米国退役軍人の喫煙に関する調査成績(Kahnによる)とコークス炉労働者の肺がん死亡率とを比較検討し、コークス炉労働者の肺がん死亡が異つた喫煙様式に関連する可能性を除外するものではないが、コークス炉炉上労働者の肺がん死亡率は、退役軍人の多量喫煙者のそれよりも著しく高いことから、炉上労働者と他の鉄鋼労働者との間の肺がん死亡率の著しい差を喫煙様式のみから証明することはできないとしている。
以上(一)ないし(四)によれば、タールとがん専門家会議報告書(一四一頁)にもあるとおり、タール、ピッチへの職業性暴露により、喫煙(及び大気汚染)を考慮に入れても、なお、肺がん発生のリスクが高まることは証明されていると解することができる。
10 亡徳丸の肺がん死亡に関する因果関係についての判断
前記二ないし五及び右1ないし9で認定、判断してきたところ、とりわけ、(一) タール、ピッチ及びこれに含まれる三―四ベンツピレン等に発がん性があることは明らかであること、(二) 作業環境気中のタール、ピッチに経気道的に暴露することにより肺がん発生のリスクの高まることが各種の疫学的研究によつて確認されていること、(三) このことは動物に対する経気道的投与実験の結果によつても支持されること、(四) 特にタール暴露の高度な製鉄用コークス炉ではタール暴露と肺がん発生との概括的な量―反応関係が確認されていること、(五) 我が国の電極製造業疫学調査の結果では、前記のような批判の余地のある調査のもとで、例数が少く統計的有意差には至らず、関連性は明確でないとの結論となつたが、電極製造業従事者の肺がん死は期待値を上回るものではあつたこと、(六) 右疫学調査結果の補正解析及び海老原の行つた控訴人工場疫学調査の結果では、控訴人工場において肺がん死のリスクが有意に高いとの結果が示されていること、(七) 控訴人工場の作業環境は劣悪で、気中タール、気中三―四ベンツピレン及び気中粉じんの濃度は逐次改善後の昭和四八、九年の測定結果でも、同業他社より高度で、前記疫学調査等のされている製鉄所コークス炉や屋根タール塗装作業などにおけるものと比較しても、ほぼ同程度ないしより高度であること、(八) 亡徳丸は控訴人工場での作業において、少くとも約一二年間タール、ピッチに高度に暴露されてきたこと、(九) 亡徳丸はかねてからタール皮膚症に罹患しており、これは長期にわたりタール、ピッチの暴露を受けていた証左であると解されること、(一〇) その肺がんの原発部位(左肺門部S3―4)、組織像(偏平上皮がん)は、タール、ピッチ暴露が作用して発症したものと解する妨げとなるものではない(むしろ、外来性発がん物質による肺がんである可能性は一応肯定的に考えられるとの意見もある。)こと、(一一) 亡徳丸は、肺に中―高度の炭粉沈着があり、且つじん肺に罹患し、気管支に炎症をきたしており、これは、その肺、気管支にタール、ピッチ暴露による影響が生じていたことの一証左であると解されること、(一二) その他、亡徳丸の臨床・病理所見中には、その肺がん発症にタール、ピッチ暴露が作用していたことを裏付けるほどの事情はないまでも、それを肯認する妨げとなるような事情は見当らないこと、以上の諸点に、証人佐野辰雄、同橋本重夫(一部)、同海老原勇、同渡部真也の各証言を総合考慮すると、亡徳丸の肺がん罹患とその死亡には、控訴人工場での作業におけるタール、ピッチ暴露がその一因子として作用しているものと認めるのが相当であり、したがつて、その死亡による損害賠償(及び労災上積み協定金)請求の本件訴訟上は、右タール、ピッチ暴露と肺がん死亡との間には因果関係を肯認するのが相当である。
11 控訴人の主張について
(一) 亡徳丸のタール、ピッチ暴露作業時間について
(1) 控訴人は、亡徳丸の全作業時間のうち粉砕成形関係の修理作業時間の比率は低い旨主張するところ、なるほど、前記三認定のとおり、亡徳丸の全作業時間中粉砕・成形関係作業と電気修理工場内作業の比率はほぼ控訴人主張のとおりであるけれども、同時に、粉砕・成形関係作業の合計労働時間が年平均少くとも三七四時間であつたこと及び右両作業以外の作業は大部分が焼成、含浸、加工関係修理及び夜勤保修であつて、これも、粉砕・成形ほどとはいえないにしてもタール、ピッチの粉じん、ガス、蒸気の発生している工場での作業であることも前記三認定のとおりであり、このことに同三認定の亡徳丸の勤務期間、前記二認定の控訴人工場の作業環境の劣悪さ、前記四1及び六6認定の亡徳丸の皮膚、呼吸器症状並びに証人佐野辰雄の証言を合わせ考え、これに前記六1記載の各事実を勘案すると、亡徳丸の作業時間の比率が右記載のとおりであることをもつては、前記10の認定判断は左右されないものというべきである。
(2) また、<証拠>によれば、一般に、一定のがん発症には各種の内因、外因が複合的に関与しており、一定の外的発がん要因の作用を受けても、これにより発がんするか否かについては、当然個人差が大きいとされていることが認められるから、仮に、控訴人主張の如く、亡徳丸と同一の勤務状況ないしより強度の暴露状況下にあつた従業員で今なお健康に勤務している者が存在するとしても、そのことは、何ら、亡徳丸のタール、ピッチ暴露と発がんとの因果関係を肯認することの妨げとはならない。
(二) 亡徳丸の暴露条件(温度)について
(1) <証拠>によれば、Lloydは、前記報告(一九七一年)の中で、従来の調査報告を基に、別表15を作成し、肺がんの発生と乾留、蒸留の炉の温度には相関関係があるように見えると述べている。
しかし、右の表は炉の温度だけでなく炉の様式、調査の主体、時期、場所等も異なる個別の調査報告、しかも、石炭を乾留する工程に従事する労働者の発がんに関する調査結果を集約、検討して推測したものであることが右<証拠>から明らかであるから、これと事案を異にし、既に生成されているタール、ピッチを材料の一部として粉砕、成形、ねつ合等の工程を行う本件事案につき、たやすく右のLloydの所説をあてはめることは妥当でないと解される。
(2) もつとも、高温乾留タールがより発がん物質の含有量が多いことは前記五1記載のとおりであり、Lloydの前記所説も高温乾留タールがより発がん性が強いことを述べ、これを踏まえて論じられている(控訴人主張の如くタール等自体の存在形態や温度に言及しているわけではない)ところ、控訴人工場で使用するタール、ピッチが発がん物質含有量の低い種類のものであると窺うべき主張立証はなく、逆に、高濃度の三―四ベンツピレンが発散していることは前記のとおりである。
(3) また、Lloyd, Redmond, Mazum-darらの一連の報告では、コークス炉上労働者において炉側の労働者より高いがん発生率が示されていることは前記のとおりであるけれども、これも、Mazumd-arの報告にあるとおり、作業環境中のタール濃度の差として説明されているところであり、それ以上に、控訴人ら主張の如く気中タールの形態や温度については何ら言及されていない。
(4) 控訴人は、タールや三―四ベンツピレンは気体化しなければ肺がん発生の危険はなく、(タールを発散させる)炉温が高くなければならないと主張するが、<証拠>ではこれを認めるに足りず、他にこれを認めるに足りる証拠もなく、むしろ、右(1)ないし(3)記載の点、前記五1記載の事実及び<証拠>にも鑑みると、控訴人の右主張は採用できない。
(5) 以上説示したところ及び前記認定の控訴人工場の作業環境、亡徳丸の作業内容、期間等に鑑みると、亡徳丸のタール、ピッチ暴露条件に関する控訴人の主張に沿う証人小川捨雄、同及川冨士雄の各証言は採用しがたく、他に控訴人の右主張を支持する証拠はない。
(三) 亡徳丸の既往歴(結核)及び体質について
(1) <証拠>によれば、なるほど、亡徳丸は、昭和三四、五年ころ肺結核との診断のもとに、約四か月間明和病院に入院加療していることが認められるが、前記四1記載のとおり、亡徳丸の病理解剖の結果では肺(及びその他の臓器)に結核病巣や瘢痕等の結核性病変は全く見出されていないのであり、且つ、<証拠>によれば、北条、小林、橋本は、一致して、右の病変不存在の点及び亡徳丸の肺がんの原発部位、組織型からして、その発がんに結核性病変の瘢痕や空洞壁等が関与していたとは考え難く、亡徳丸の結核との診断による治療の既往と肺がん発生との間に関連性の存在を疑わしめる事情は存在しないと述べていることが認められるから、結局、亡徳丸の右既往歴は何ら前記10の因果関係肯定の判断を左右するものではない。
(2) また、右の結核との診断による治療の事実では、亡徳丸が呼吸器その他において虚弱な体質であつたものと認むべき根拠とはならないし、他に亡徳丸が虚弱体質であつたと認めるに足りる証拠はない。もつとも、<証拠>によれば、亡徳丸は昭和三一年一月の控訴人会社入社時の健康診断レントゲン撮影の際、「右肺門部僅かに紋理増強」との所見がされたことが認められるけれども、証人橋本重夫、同佐野辰雄の証言に鑑みると、右の点もまた、虚弱体質との控訴人主張の根拠となるものではなく、何ら前記10の認定判断を左右しない。
(四) 亡徳丸の喫煙について
(1) <証拠>によれば、亡徳丸は、昭和三四、五年ころまでは一日約二〇本の紙巻き煙草を喫していたが、右の頃これを止め、その後昭和四五、六年ころから再び(約二年間)、一日一〇ないし一三本喫煙していたことが認められ、証人谷口正志、同溝口大介、同長石修宏の各証言では右認定を覆すに足りない。
(2) したがつて、北条、小林の意見書(乙第六四、六五号証)中、亡徳丸が一日三〇本喫煙していたことを前提として、これと同人の肺がんとの関連について述べる部分は、その前提が事実に符合しないから、採用できない。
(3) もつとも、前記8で認定したところによれば、右認定の亡徳丸の喫煙歴程度でも、ある程度肺がん発症のリスクが増大するとされているけれども、前記二及び三記載の控訴人工場の作業環境と亡徳丸のタール、ピッチ暴露状況に前記9で認定判断したところ並びに証人佐野辰雄の証言を合わせ考えれば、亡徳丸の右喫煙歴をもつては、控訴人工場でのタール、ピッチ暴露がその肺がん発生の因子として作用したものと認めることを妨げるには足りないというべきである。仮に、橋本意見書にあるように、両者が協同で肺がん発生の因子として作用した可能性が考えられるとしても、そのことは何ら、タール、ピッチ暴露と肺がん発生との間の訴訟上の因果関係を肯認する妨げとなるものではない。
(五) 本件認定基準について
(1) 労働基準法施行規則三五条、同別表第一の二には、労働基準法七五条にいう業務上の疾病として控訴人主張のとおり定められているところ、<証拠>によれば、労働省労働基準局長は、右規則の定めに関して、タールがん専門家会議報告を参考にして、控訴人主張のとおりの本件認定基準通達を定めたことが認められる。
(2) しかしながら、元来、労働基準法施行規則三五条に関して労働省の発する通達は、労働基準監督署長が労働者災害補償保険給付を行うか否かを決定するにあたつての、行政庁内部の処理基準を定めたものにすぎず、このことは本件認定基準通達についても何ら変りはない。
したがつて、本件認定基準通達の定めの如何は、私人間の本件訴訟における前記因果関係の認定判断に何らの関係を有するものでもない。
もつとも、前記二、三で認定したところからすれば、亡徳丸の控訴人工場でのタール、ピッチ暴露状況は製鉄用コークス炉上等での業務に十分匹敵するものと認められるのであるから、その肺がん発症が業務と因果関係を有する(すなわち業務上のものである)との前記10の認定判断は、何ら本件認定基準通達の採つている見解と相反するものではない。
(3) なお、本件認定基準通達を定める参考となつたタールとがん専門家会議報告は何ら前記10の認定判断に抵触するものではなく、むしろその認定の一根拠たりうることは前記3記載のところから明らかである。
(六) そして、<証拠>中、これまで言及してきた以外の部分をもつては、前記因果関係の認定判断を覆すことはできず、他にこれを覆すに足りる証拠はない。
七亡山本の食道がん罹患及びその死亡とタール、ピッチ暴露との因果関係
1 タール、ピッチと食道がん(及びその他のがん)に関する症例報告、疫学的研究報告
(一) <証拠>によれば、タール、ピッチと食道がん等の消化器がん(及びその他のがん)との関連性に言及した疫学的研究報告、症例報告は次のとおりであると認められる。
(1) Lloydら及びRedmondらの報告(前掲一九六九、七〇、七一、七二年)
① 前記ペンシルバニア州Alleghe-ny郡の七つの製鉄所労働者五万八八二八人の追跡調査の結果、別表7―1のとおり、一九五三年から六一年までの観察結果では、コークス工場でコークス炉外で働いた労働者に消化器がん死亡が有意に高かつた。それは、従事期間の五年以上、以下を問わず同程度の危険であつた。その大部分は腸がんによるものであつた。これに対し、コークス炉労働者にはかかる多発は見出されていない。
② 一九六六年までの観察結果でも、別表7―2のとおり、コークス炉外労働者には消化器系のがん死亡が高く、有意性があつたのは五年以上の従事者群のみであつた。これに対し、コークス炉労働者では有意性がなかつた(期待値と変りがなかつた。)。
また、口腔、咽頭部のがんは、別表7―2のとおり、コークス工場のコークス炉外労働者に五例が見出され、その比較危険度は有意に高かつた。
なお、他の器官では、別表7―2のとおり、泌尿器系のがんが有意な比較危険度を示した。これは腎がんの観察数が多かつたことによる。また、右はコークス炉、コークス炉外共に高率であつた。
更に、前記Allegheny郡以外の製鉄所を含めたコークス炉労働者の調査結果(前掲Redmond一九七二年)では、腎臓がんが相対危険度7.5という高さを示し、前立腺がんの相対危険度も、非有意ではあるが、1.64でかなり高い。しかし、その他のがんは、消化器系のがんを含めて差がない(別表7―3)。
(2) Doll(前掲、一九六二年)の報告
垂直発生炉ガス作業者の調査で、胃、十二指腸がんは期待値23.3に対し観察値32であつたが、有意性はなかつたと報告している。
(3) イギリス職業別死亡統計表(前掲British Register-General Report、一九五八年)
右統計表によれば、石炭ガス及びコークス製造従事者一万六九二九人の調査で発生部位別のがん死亡の観察値と期待値は別表6のとおりであるが、有意性があるのは肺と膵臓のがんのみであつた。他に、胃がんが、有意差には至らないが高率であつた。
(4) Bruusgardの報告(一九五九年)
ノルウエーのガス工場労働者の死因調査を行い、死亡者一二五人中、五人の肺がん、五人の膀胱がん、三人の咽頭がん、二人の喉頭がん、二人の鼻腔がんとともに、三人の食道がんが含まれていたことを報告しているが、詳しい統計的処理は施されていない。
(5) Hammondらの報告(前掲、一九七六年)
Hammondらは、前記屋根葺き職人組合員五九三九人の一九六〇年から七一年までの追跡調査の結果、別表11の(1)のとおり、組合歴二〇年以上の群では、口腔・咽頭・喉頭・食道を一括したがんの死亡比は1.95と高く、その他胃、結腸・直腸等のがん死亡数もかなり高いと報告している。
(6) なお、渡部は、「右の他ラドフォードの報告があり、同報告では、鉄鋼産業の労働者につきなされた疫学調査の結果、肺がんが多いとともに、口、鼻、のど、食道、前立腺などのがん、白血病も多いことを報じている」と述べている(同人の証言)けれども、その報告を記載した文献も提出されていず、その詳細、信頼性等は不明である。
また、田代は、その意見書(甲第八号証)で、「タールを含有する燻製食品を多量に食べる北欧諸国に食道がんの頻度が高いという疫学的事実がある」と記述しているが、その報告を記載した文献の掲記等もなく、詳細、信頼性等は不明である。
(7) 他方、前掲大久保・土屋報告(昭和四九年)では、その調査の回答を事務部門と生産部門にわけて、がんの部位別に検討した結果、食道がん死亡率は事務部門従業員にやや多く(期待数9.4に対し観察数11)、生産部門に少なかつた(同23.1に対し10)し、また、産業群、取扱物質に関して検討しても、特定の因子との関係は見つからなかつたとしている。むしろ、鉄鋼業等の産業群の生産部門従業員では、食道がん死亡は期待値を下回つていた。
そのほか、平山・遊佐の報告(昭和三七年)では、昭和三三年のがん実態調査の結果から、食道がんは販売業に多く、昭和二五、二六年の東京都死亡票の分析からは、食道がんは管理的職業に多かつたとしている。
更に、Buellら(一九六〇年)によると、カリフォルニア(一九四九年から五一年)では、低社会層である半ないし未熟練労働者に食道がんが多いというが、Logan(一九五四年)による英国(一九四九年から五三年)の例や、Clemmesen(一九五一年)によるコペンハーゲン(一九四三年から四七年)の例などでは、専門技術的職業で占める最上級の階層にも食道がんが多く、U字型の分布になると報告されている。
(二) 右認定のとおりの各報告が認められるが、前記六、1掲記の各報告中右(一)で触れた以外の報告(黒田・川畑報告、河合・原田報告、Kennaway報告、Mazumdar報告、労働省・コークス炉作業者疫学調査結果報告等)では、食道がんその他消化器がんが多発しているとの報告は見当らず、加えて、本件証拠上は、右(一)以外には、タール、ピッチと食道がんその他消化器がんとの関連性に触れた疫学報告、症例報告は見当らない。
また、<証拠>によれば、被控訴人山本房枝の申立にかかる労災保険給付請求手続において、労働保険審査会が日本科学技術情報センターの文献検索(国立がんセンター経由)によつて一九七二年一月から一九八三年二月までの間の食道がん症例について検討したところ、外国文献ファイルでは症例三八六二件中タールと関連がある例は皆無で、国内文献ファイルではデータ不足ではあるが食道がんとタール、ピッチとの関連を示す例は皆無であつたとされている。
更にまた、<証拠>によれば、現在までのところ、タール、ピッチと食道がんとの関係をテーマに調査研究し或いは論究した報告は見当らず(但し、関係を否定する類のものも見当らない。)、また、一般の成書類でも食道がんとタール、ピッチとの関係は言及されていないとのことであり、本件に提出されている成書類(<証拠>、気管食道科学、消化器外科学、癌の科学第4巻、臨床腫瘍学)でも、成因、病因として、アルコール、喫煙、食事等は掲記されているが、タール、ピッチに言及したものはない。
(三) 右(一)、(二)で認定判断したところによれば、本件に提出されている証拠で見る限り、現在までのところ、タール、ピッチ暴露により食道がんその他の消化管がんの発生のリスクが高まることを確認するに足りる疫学的報告、症例報告、成書的見解は存在しないものといわざるをえない。
(四) もつとも、前記(一)では、Lloydらの報告で消化器系がんの多発が報じられているが、これはタール、ピッチの暴露程度と相関しない(むしろ逆相関的な面もある。)ものであり、調査対象を広げたRedmondらの報告(一九七二年)ではその多発傾向は確認されていない。
また、胃、十二指腸がん(Doll)、胃がん(イギリス職業別死亡統計表)が高率であつたとの結果も出されているが、いずれも統計的有意差はない。
また、Hammondらの報告では、口腔・咽頭・喉頭・食道を一括したがん及び胃、結腸・直腸がんの死亡比の高いことが報じられているが、有意差の検定結果の記述はなく、また、そのうち食道がんの占める値も定かでない。
ラドフォード報告では、食道がんが多かつたとされるが、その程度、有意差の有無等を示す証拠はない。Bruusgardも食道がんの多発を報じるが、有意差等は判明しない。
以上検討したとおり、有意な多発を報じる一例はタール、ピッチの暴露程度と相関性がなく、他はいずれも有意差がないか、それを確認しえないものである。したがつて、結局、右の各報告例では、タール、ピッチの暴露と食道がんその他消化管がんとの間に関連性があることを確認することはできない。
そして、証人渡部真也、同佐野辰雄、同海老原勇の各証言では、右(三)の認定判断を左右することはできず、他にこれを左右する証拠はない。
2 経口投与の動物実験結果
(一) <証拠>によれば、三―四ベンツピレンを経口的に動物に投与し、食道や前胃等にがんを発生させた実験結果が、別表12(2)記載のものなど相当数報告されていること及びその他、7H―ジベンゾカルバゾール、ジベンゾアクリジン、ベンゾアントラセン等若干の芳香族多環炭化水素についても経口投与によりマウスの前胃等にがんを発生させた例の報告があることが認められる。
(二) 但し、タールとがん専門家会議検討結果報告では、前記五3(六)及び六2掲記の記述に続けて、次のとおり記述されている(報告書五二頁)
「動物実験の成績をタール成分の人に対するがん原性に外挿するには、皮膚がん、呼吸器系(及び尿路系)がん以外の部位のがんに関しては、タール成分の人への暴露、侵入経路に鑑み、現時点では、明瞭な関係を示す裏付けは得られていないと言えよう。」
また、経口投与の動物実験成績に関しては、本件証拠上は、いまだ量―反応関係が確認されていると評価する文献は見当らない。
3 タールとがん専門家会議報告(前掲)
前記のように、右専門家会議は、その報告書を提出し、その「まとめ」として別紙Ⅰのとおり述べているところ、右報告によれば、同会議は、タールと消化器系のがんの関連については、次のとおり結論づけているものと解される。
消化器系のがんについては、コークス工場で五年以上のコークス炉外労働者に有意に発生が高いがコークス炉労働者には有意性がないとの報告が見られるものの、その解釈は因難であり、他の研究では、ガス発生炉労働者における胃、十二指腸がんについては有意性が認められていない(別紙Ⅰの「まとめ」及び同報告書一三五頁。)。
コークス炉労働者の呼吸器系以外のがんについては、現時点における疫学的知見からは職業と関係づけることは困難と考えられる(同報告書一三七頁)。
4 IARC論文集補遺(一九七九年)について
IARCの一九七九年の論文集補遺で、「胃腸管にがんを起こす疫学データがこの結論を支持する」と記述されていることは、前記五3で認定したとおりであるが、右論文集補遺では、本件のようなタール、ピッチによるものだけでなく、石炭煤や鉱物油等に暴露される事例も含め、かつ、胃腸管に限らず皮膚、肺等のがん発生も合わせて、一括して記述されており、その記述は、本件のようなタール、ピッチと胃腸管のがんとの関連性が疫学的報告で裏付けられているとの趣旨とは断じがたく、むしろ、その文献注記中にもタール、ピッチと消化器がんに係わりのある報告としては前記1掲記以外のものは見当らないこと及び証人及川冨士雄の証言に鑑みると、右論文集補遺の記述では、前記1で認定判断したところを超える見解に至つているとは認めがたいといわざるをえない。
5 電極製造業疫学調査結果(前掲)
(一) <証拠>によれば次の事実が認められる。
(1) 労働省の行つた前記電極製造業務従事者に関する疫学調査の結果、要旨別紙Ⅱのとおりの報告がされている。
(2) 右調査結果では、電極製造業従事者の食道がん死は、統計的有意差には至らないものの、期待値を上回つており、その他の消化器がん(胃、肝臓、膵臓)についても同様である。従事作業別で見ると、粉砕では、胃がん死亡例がない。これに対し、ねつ合、成型では胃がん死は有意に高いが、従事年数との相関関係は見られない。食道がんも期待値を上回つているが、例数は一にすぎない。他に、肝臓がんも期待値を上回つている。
(3) 右調査結果に立つて、同報告は、消化器がんについての結論として、次のように述べている。
「成型従事者群における消化器がんの超過死亡は、その作業環境因子と関連しているかもしれない。しかし、消化器がんの大部分をしめる胃がんでは従事年数の影響(量―反応関係)が見られず、また、タール、ピッチ発散物と胃がんとの関係を確実に示す医学的報告もないので、この関連についてはなお検討を要する。」
(二) なお、同報告については、渡部により前記六4の(二)、(三)記載のとおりの指摘がされている。
(三) 右(一)、(二)で認定したところによれば、右調査結果では、電極製造業務従事者においては、右(二)のような批判の余地のある調査のもとで、食道がん死、胃がん死その他消化器がん死は、期待値を上回つていたことが注目される。但しそれは有意差に至つておらず、それのみで直ちに、タール、ピッチの暴露との関連性を肯認する資料となしうるほどのものではないといわざるをえない。また、成型従事者群で消化器がん死(胃がん死)が有意に多い点も、量―反応関係のないこと、他群では同様の傾向はないこと、タール、ピッチの暴露の程度及びそれについての他群との比較並びにこれらと右胃がん死亡との関連性の調査、検討がないことなどに照らし、これまた、直ちに、タール、ピッチの暴露と胃がん等との関連性を肯認する資料とするのは困難である。他方、タール、ピッチの暴露と消化器がんとに関連性がないことを示すような結果は見受けられない。
6 控訴人工場疫学調査結果(前掲)
海老原が控訴人工場労働者三五七人について一九五八年から一九八一年まで追跡調査し、解析した結果を別紙Ⅲのとおりまとめていることは前記のとおりである。
なお、証人海老原勇の証言によれば、右海老原報告に食道の悪性新生物の観察例一とあるのは本件の亡山本を示すことが認められる。
右調査結果では、控訴人工場で胃がん発生のリスクが高まつているとはいえないと解される。また、食道がんについては、例数が亡山本の一例しかないので、これのみでは食道がん発生のリスクの増加の有無を評価することはできないと解される。
7 佐野意見書記載の死因統計及び疾病分類について
<証拠>によれば、次のとおり認められる。
(一) 佐野は、昭和五一年一〇月ころ、亡山本の死亡に係る労災保険法による遺族補償給付等の請求手続において、兵庫労働者災害補償保険審査官に対し、亡山本の死亡には業務関連性がある旨の意見書(以下「佐野意見書」という。)を提出した。
(二) 右意見書では、別表14(1)、(2)の表を掲記している。(1)の表は、控訴人会社を含む電極製造会社三社の労働組合が既往約一〇年間におけるタール、ピッチ作業者の死亡一二五例を調査、集計したものであり、A会社とあるのが控訴人会社である。同(2)の表は、控訴人会社の労働組合が、控訴人工場におけるタール、ピッチ作業者中一〇年以上の従事者一二〇人が受診した疾病例を調査、集計したものである。これらの表の中で控訴人工場の食道がん一例とあるのは亡山本のことである。
(三) 佐野は、右(1)の死因統計表によれば、肺死が多いほかに消化管疾病の死者は22.4%、肝、膵のような消化器疾病によるものは12.8%に達していると述べ、しかも、その中で、かなりの部分が、肺がんの他、食道がん、胃がん、腸がん、肝がんによるものであり、控訴人工場等電極製造工場でのタール、ピッチの暴露を受ける作業では、消化管、消化器その他全身のがんが多発していることが示されたと述べ、また、右(2)の疾病分類表によれば、控訴人工場では皮膚、肺による受診者が多いほかに、食道、胃、腸等の消化管(20.8%)及び肝(9.0%)の疾病による受診者の多いことが示されていると述べる。
(四) しかしながら、<証拠>に照らすと、右の死因統計及び疾病分類は、その調査対象集団(母集団)の範囲、数も定かでないし、情報の信頼性、網羅性も明らかではないうえ、対照群との対比、統計的分析もされていないので、これらの表をもつては、控訴人工場で食道がんその他の消化管がん(更にはその他全身のがん)発生のリスクが高まつていることを示す資料とすることはできないといわざるをえない。
8 亡山本の臨床・病理像について
(一) 亡山本にも、かねてからタール、ピッチによる皮膚障害が存在していたことは前記四2記載のとおりであり、田代の述べるとおり、このことは、同人が少くとも皮膚に対し、長期にわたるタール、ピッチの暴露を受け、その影響、反応が顕在化していたことを示すものと解することができ、北条、小林、橋本もこれを肯認している。
(二) また、亡山本には、肺に高度の炭粉沈着があり、慢性気管支炎に罹患しており、且つじん肺に罹患していたものと判定されることも前記四2記載のとおりであり、前記五2で認定したところ、前掲乙第六七号証(小林意見書)及び証人佐野辰雄の証言によれば、その肺、気管支にタール、ピッチの粉じん等が吸入され、その暴露による影響、反応が顕われていたことを示すものと解することができる。
(三) 右(一)に記載したタール皮膚症の点を除けば、一般にタールに関連したがんについても、その臨床、病理像は、その他の原因によるがんと差異がないとされていることは前記五3記載のとおりであるところ、<証拠>によれば、亡山本の食道がんについても、右に記載した一般的見地からの立論と異なるところはなく、その食道がんの経過・部位・組織型等自体には、タール、ピッチの作用を裏付けるような点は見当らないし、タール、ピッチが作用していたものと解することの妨げとなるほどの事情も見当らない。
なお、残存食道下部の軽度の食道炎については、小林はタール類によつて引き起こされた慢性炎症性病変であるかは不明である、とする。
9 タール、ピッチの暴露経路について
(一) <証拠>によれば、次のとおり認められる。
佐野、渡部は、タール、ピッチの摂取経路と作用につき要旨次のとおり述べる。
タール、ピッチ(ないしこれの付着した)粉じん、蒸気等を気道に吸入した場合、その粉じん等が鼻腔や咽、喉頭に付着し、それが唾液とともに嚥下されて消下管に入るか、或いは、肺、気管、気管支等に入つた粉じん等が、気道粘膜表面の絨毛細胞の働きで痰として外部に排出されるに際し、その一部が嚥下されて消化管に入る。このようにして、タール、ピッチは食道その他消化管にも作用を及ぼすものと考えられる。
そして、右のような経路で、タール、ピッチが食道その他消化管に作用を及ぼす可能性については、北条、橋本もこれを肯定している。
(二) しかしながら、<証拠>によれば、右のようにして嚥下される量は吸気中の粉じん等の一部にすぎないと解されるし、且つ、食道は肺や気道とは異り、嚥下物の通過器官であつて、滞留するところではなく、緩徐な排出の過程でその物質の作用が気道粘膜に持続的に働くのと同様な構造にもなつていないうえ、通常嚥下物の食道通過は速かに行われるものであること、したがつて、食道が外来性物質の作用を受ける程度は肺や皮膚に比べて著しく少いと考えるのが自然であることが認められ、これを左右する証拠はなく、佐野意見書にも一部右の前者の事実を肯定する記述がある。
また、一般に、特定の発がん物質による発がんの危険は、組織、器官により異り、これはタール、ピッチでも同様とされていることは前記五4記載のとおりであるから、肺がんのリスクの高いことをもつて、直ちに、それが消化器系に作用したときにがんが多発すると考えることもできない。
10 喫煙及び飲酒と、食道がん(及びその他のがん)との関連について
(一) <証拠>によれば、次の各事実が認められる。
(1) 別表13―1、2記載のとおり、喫煙により食道がん(及び口腔がん、胃がん等)の発生の危険が高まるとの疫学調査結果も相当数報告されており、Burdet-te(一九六五年)やMartinez(後記(二)参照)等も同様の報告をしている。
(2) また、早くから、飲酒が食道がん発症に関連性を有している疑いがあると指摘、重視されてきている。例えば、中山恒明は、食道がん患者の53.6%に飲酒の習慣があるとし、Wu&Loucksらも五〇%にこれを認めている。Martin-ez(一九六九年)もプエルトリコの八〇〇例の口腔・咽頭・食道がん患者の調査の結果、飲酒、喫煙等と相関関係があるとしている。更に、平山の疫学調査報告(一九七六年)によると、毎日飲酒者の食道がん死亡は非飲酒者に比べて有意に高い(標準化死亡比1.82)とされている。但し、因果関係は認められないとのLiらの報告(一九六四年)もある。
(3) 特に、喫煙に常習性飲酒が伴うと、食道がん発生の危険が一層高まるといわれている。例えば、前記平山報告(一九七六年)では、毎日二〇本以上喫煙でかつ毎日飲酒者の死亡比は2.47であると示されている。
(二) 亡山本の喫煙、飲酒状況
<証拠>によれば、亡山本は生前、遅くとも昭和二八年以降、毎日約二〇本喫煙し、約二合の晩酌をしていたことが認められ、<証拠>中これに反する部分は採用できない。
(三) 右(一)及び(二)で認定したところに、<証拠>を合わせ考えれば、亡山本の場合は、その飲酒、喫煙歴は、優に食道がん発生のリスクを高めるとされる程度に至つており、したがつて、その食道がん罹患の要因たりうることは否定できないものと解される。
11 まとめ
前記二ないし五及び右1ないし10で認定判断したところを総合考慮すると、次のとおり判断される。
(一) 次の各事情は、控訴人工場でのタール、ピッチ等の暴露が亡山本の食道がん罹患とその死亡にその一因子として作用しているか否かにつき、積極的な方向で考えるための資料たりうると解される。
① タール、ピッチ及びこれに含まれる三―四ベンツピレン等に発がん性のあることは明らかであること。
② 控訴人工場の作業環境は劣悪で、気中のタール、三―四ベンツピレン、粉じんの濃度は、同業他社より高いのは勿論、前記製鉄所コークス炉や屋根タール塗装作業と比較してもほぼ同程度ないしより高度であること。
③ 亡山本は、控訴人工場での作業において、少くとも、約一八年間タール、ピッチに高度に暴露されていたこと。
④ 亡山本は、かねてから、タール皮膚症に罹患しており、また、肺に高度な炭粉沈着があり、じん肺、慢性気管支炎に罹患しており、これは、長期にわたりタール、ピッチやこれを含む粉じん等の暴露を受け、少くとも、皮膚、肺、気管支にその暴露による影響が生じていたことを示していること。
(二) しかし、右の各事情のみをもつて、タール、ピッチの暴露と亡山本の食道がんとの因果関係を肯認することは到底できない。
(三) 次に、動物実験の結果について見ると、経口投与により消化管にがんを発生させた報告例があることは前記のとおりである。しかし、それは、大半が前胃発症例で食道発症例は少く、皮膚、皮下、経気道的投与の場合と異なり、量―反応関係の確認があるとされてはいないし、タールとがん専門家会議報告では、暴露、侵入経路等に鑑み、いまだ明瞭な関係を示す裏付けは得られていないとされているのであつて、これらの事情に鑑みると、消化管がん、殊に食道がんについては、動物実験の成績は、いまだ人間における関連性を肯定的に考える資料としては不十分なものといわざるをえない。
(四) 進んで、亡山本の臨床、病理所見について見るに、同所見中には、亡山本の食道がん発症にタール、ピッチ等の暴露が作用していたことを肯認する上で妨げとなるような事情は見当らないが、これも、タール、ピッチの暴露が作用していることを裏付けるような点があるというのではなく、単に、妨げる事情はないという消極的なものにすぎないのであるから、他の事情との総合考慮にあたつて、補助的な一事情として位置づけうるにすぎない。
(五) 一方、気中のタール、ピッチ粉じん、蒸気、ガス等に暴露した場合に、それが消化管、特に食道に暴露、作用する量、程度は、皮膚や肺の場合と比べて、相当低いと解されるのであるから、皮膚や肺において影響が顕在化したことをもつては、直ちに、食道その他消化管に影響を生ぜしめるほどに作用したとは即断できない。
(六) そして、何よりも重要なことは、ある物質が一般に職業がんの因子となつているか否かの判断において最も重要かつ不可欠とされる疫学的調査研究の面において、(タール、ピッチの暴露と食道がんの発生のリスクの検討自体を目的とした調査はないものの)、気中のタール、ピッチの暴露とがん発生の調査は相当ある中で、タール、ピッチの暴露が消化器系がんの発生のリスクを高めるものと確認しうるような報告は、本件証拠上は、いまだ存在しないことである。このことは、食道がん自体については尚更である。
(七) もつとも、電極製造業疫学調査結果では、前記のような批判の余地のある調査のもとで、食道がん、胃がんの発生が期待値より高いこと及び成型従事群での消化器がん(胃がん)の有意な多発が報じられているが、右の前者は有意性がなく、後者も、成型群のみの傾向で、量―反応関係も見られないなどの点からして、右調査結果は、他の諸事情と総合考慮する上での補助的資料としての意義は格別、電極製造業務におけるタール、ピッチの暴露と消化器がん、とりわけ食道がんとの関連性を肯定的に考えるための疫学的裏付資料とすることはできない。
また、控訴人工場疫学調査結果では、控訴人工場で食道がん、胃がん等の発生のリスクが高まつているものとは解しえないこと前記のとおりであるし、佐野意見書の死因統計、疾病分類は、判断資料となし難いこと前記のとおりである。
(八) これに対して、亡山本の飲酒、喫煙歴は、疫学的調査研究結果において、優に食道がん発生のリスクが高まるとされる域に達していた。
以上の諸事情に、<証拠>を総合考慮すると、亡山本の食道がん罹患とその死亡に控訴人工場でのタール、ピッチの暴露が一因子として作用していたものと認めるのは困難といわざるをえない。
12 被控訴人山本らの主張について
(一) タール、ピッチの摂取経路との消化管のがんについて(他の物質の事例による類推の可否)
(1) <証拠>によれば、次の事実が認められる。
① 佐野は、クロム(を含む)粉じんの暴露者において、肺がんのリスクが高いとともに、食道がんの多発の報告(ソ連)、消化器系の潰瘍とがんの指摘(ドイツ、Teleky)等がされていることを挙げて、クロムの場合も、前記9(一)記載の経路、メカニズム(及び経気道的に血行に移行する経路―この点は後記)によつて、消化管へ侵入して作用を及ぼし、発がんをもたらすのであり、このことはタール、ピッチの場合も同様であると述べる(甲第五六号証の論文及び証人佐野の証言)。
渡部も、同旨のことを述べる(証人渡部の証言)。
② 更に、渡部は、喫煙によつて肺がんの他食道がん、胃がん等のリスクも高まつていること、並びに石綿の暴露者においても、肺がんのリスクが高いとともに食道、胃、大腸、直腸のリスクも高いとされていることを挙げ、これらもまた前同様の経路、メカニズムによるものであると述べ、更に、石油精製労働者に関する調査でも、肺がんの多発と同時に消化器がんの多発が報告されていると述べる。
③ 加えて、海老原も、後記(四)の粉じん作業と発がんの検討において、粉じんが胃がん発生をもたらす経路として、右と同様の嚥下による摂取を重視している。
(2) しかしながら、上来認定の各事実に、右(1)掲記の各証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、タール、ピッチによる発がんの機序は未だ解明されておらず、これは喫煙、クロム、石綿等についても同様と認められ、且つ、タール、ピッチの暴露と喫煙やクロム、石綿の暴露とでは、物質の性状、暴露吸入の態様、程度等も同一とはいえず、観察されているがんの発生状況(部位、頻度等)にも差異があると認められるのであるから、これらの間で、相互に類推考察しうる前提条件が示されていない以上、喫煙、クロム、石綿等の例をもつて、タール、ピッチに当てはめ、タール、ピッチの暴露により食道がんその他消化器がんの発生のリスクが高まると推認することは困難である。
(3) したがつて、他物質の事例を援用してタール、ピッチの摂取経路と消化器系がんについて述べる被控訴人らの主張は、疫学的或いは病理学的裏付けのない限り、いまだ、亡山本のタール、ピッチの暴露と食道がんとの因果関係を肯認する根拠としては採用できない。
(二) 全身循環、作用説について
佐野は、甲第六三号証の意見書(及び同第五六号証の論文)で、「タール、ピッチは皮膚から若干吸収されるほか、粉じんとともに気道から吸入され、吸収されて血行に移行し、全身循環に参加する」、「タール、ピッチの作用はこのようにして全身諸臓器に及ぶ……、もつとも高濃度に作用するのは肺、消化管、肝等である」、「タール、ピッチによる作用は、皮膚、肺に限局せず全身諸臓器にその濃度に対応した影響(炎症)、発がんを惹起する」と述べているけれども、前掲甲第八九号証、その他本件で提出されている各文献、証言にも、佐野の所説を支持するような報告、見解等は何ら見当らない以上、佐野の右所説は、いまだ、同人の独自の理論にとどまり、亡山本の食道がんの因果関係を判断する根拠として採用することはできない。
(三) 食道がんの発生部位について
(1) 佐野及び渡部は、その各証言において、要旨次のとおり述べる。
食道は、生理的狭窄部が三か所あり、その部分にはタール、ピッチの粉じん等の外来性発がん物質が付着、滞留、作用しやすく、これが継続的に作用、刺激を及ぼすと、発がんしやすい状態となると考えられる。
(2) また、佐野は、その証言及び意見書において、次のとおり述べる。
亡山本の食道がんは最も口側に近い第一生理的狭窄部に原発しており、この部分は食道中最も高い濃度で発がん物質(タール、ピッチ)に接触する部位であるから、タール、ピッチの作用を受けて、食道上部炎が継続し、がん化にいたつたものであろうと考える。
(3) しかしながら、右(1)の所説については、これを実証的に裏付ける資料も提出されておらず、まして、生理的狭窄部位に原発したがんは、タール、ピッチ、粉じん等の外来性発がん物質と関連している蓋然性があると解するに足りる根拠は何ら提出されていない。
また、(2)の所説については、右に説示した点のほか、そもそも、亡山本の食道がんが第一生理的狭窄部に原発したものでないことは前記認定のとおりである。
したがつて、右(1)、(2)の所説も、亡山本のタール、ピッチの暴露と食道がん発症との因果関係を積極的に解する資料とはなし難い。
(四) 粉じん作業と発がんについて
(1) <証拠>によれば、次のとおり認められる。
① じん肺患者に肺がんの危険が高いとの疫学的報告が相当多数ある。
② また、それ以外のがんと粉じん作業との関連についても、例えば、前記のとおり石綿暴露者の胃腸管のがん多発が報告されているほか、珪酸じん、滑石じん、カーボンブラック等の各種粉じん暴露者や炭鉱夫らに胃がんが多発しているとの報告が少なからず見られる。
更に、胃がん以外の消化管のがん(食道、直腸等)と粉じんとの関係を示す疫学的成績も、石綿の他にも、少いながら見られる。
その他、粉じん作業と肺、胃腸管以外のがん発生については、現状では、検討不十分であるが、その中でも、粉じん作業による全がんの発生の多いことや膀胱がん、腎臓がん等の多発を示す報告がいくつか見られる。
③ 海老原は、右②に関する報告例を整理、検討し、要旨次のとおり述べている(甲第七九号証の論文及び証言)。
各種の粉じん暴露と胃がん発生につき、多くの疫学的研究が正の相関を認めている。このことは、偶然の所産ではなく、粉じんが胃がん発生に重大な役割を果たしていると考えられる。これら、石綿じん、石炭じん等自体には、変異原性があるとは考えられないことに鑑みると、いかなる粉じんの暴露によつても胃がん発生のリスクが高まると考えるのが自然であろう。胃以外の消化管のがんについても、粉じん作業者にはリスクが高いであろうと強く示唆される。更には、消化管に限らず、その他各種臓器のがんについてもリスクの高まることが強く示唆されていると考えられる。
④ 更に、海老原は、右③に述べた粉じん作業者の発がんのリスクの原因として、要旨次のとおり述べている(甲第八〇、八一号証の論文及び証言)。
がんの発症、進展の上で体内の免疫機構(がん細胞やその他の異物(非自己)を体内から排除する機構)は重要な役割を持つている。がん患者においては、免疫機能が傷害されている。
粉じん暴露が継続すると、それに相関して免疫機能に異常が生じてくる。
その結果、粉じん作業者では免疫異常が基盤となつてがん発生のリスクの高まる可能性が生じ、これが、粉じん作業者に各種のがん発生の多いことの主要な要因となつているものと考察される。
⑤ しかして、右④のうちの点については、前記タールとがん専門家会議報告書(一三二頁以下)にも同旨の記述があり、大方の支持を得ている。また、粉じん暴露者に種々の免疫異常が見られるとの研究報告も多い。
(2) しかしながら、
① 現在までのところ、疫学的に確認されているのは、各粉じんの種類毎に、特定の部位についての、それぞれの頻度でのがんの発生にすぎないことは右掲記の各証拠から明らかであり、且つ、粉じんの種類を問わずその性状、人体への作用が同一であると解すべき資料は何ら提出されていないのであるから、これを一律に捉えて、粉じんに暴露すると当然に消化管のがん(及びその他各種のがん)発生のリスクが高まると訴訟上判断するには、いまだ実証的裏付けがなく、現在のところでは、個々の粉じん、個々の部位のがん毎に疫学的裏付けを必要とすることは揺がし難いといわざるをえない。
② そしてまた、右(1)④の海老原の結論的見解()も、海老原自身が、その証言で述べているとおり、いまだ仮説の域にとどまり、実証的裏付けはないものである。
(3) したがつて、右の粉じん作業と発がんに関する海老原の所説をもつては、亡山本の控訴人工場におけるタール、ピッチ及び石油コークスの粉じん等の暴露と食道がん発症との因果関係を積極的に考える資料とはなし難い。
(4) なお、海老原は、同人の行つた控訴人工場疫学調査結果(別紙Ⅲ)において、リンパ造血臓器の悪性新生物の発生が有意に高値であつたことを基に、控訴人工場の労働者は集団として免疫機能が低下しているものと推測している(同人の証言)けれども、その自認するとおり、免疫学的検討はされていないのであるから、右の調査結果のみをもつて控訴人工場労働者の免疫低下を結論づけることは困難であるし、まして、そこから、各種がんを通じるような、発がんの基盤の一般的強弱を論ずることの困難は一層大きいといわざるをえない。
したがつて、この点も、前記因果関係を積極的に解する資料とはなし難い。
13 そうすると、本件訴訟上、亡山本のタール、ピッチの暴露と食道がん死亡との間には因果関係を肯認することはできないものといわざるをえず、<証拠>中上来言及した以外の部分では、以上の認定判断を覆して右因果関係を肯認するに足りず、なお、<証拠>によれば、亡山本の食道がん手術執刀医であつた阪大病院の佐谷稔医師は、その意見書で亡山本の食道がんとタール、ピッチの暴露とは関係がある旨述べている由であるが、その論拠としてはタール、ピッチの発がん性と亡山本が毎日タール、ピッチを取扱つていた事実のみを挙げていると窺われるので、同人の右意見もまた、前記認定判断を左右するものではない。
そして、他に前記認定判断を覆して、亡山本が控訴人工場でタール、ピッチの粉じん等に暴露したことと、その食道がん罹患、死亡との間に因果関係を肯認するに足りる証拠はない。
八被控訴人山本らの本訴損害賠償請求の当否
被控訴人山本らの本訴損害賠償各請求は、いずれも亡山本の食道がん死亡と控訴人工場でのタール、ピッチの粉じん等の暴露との間に因果関係の存することを前提とするものであるから、その因果関係を肯認しえない以上、その余の判断に及ぶまでもなく、同被控訴人らの本訴損害賠償各請求はすべて失当たるを免れない。
九そこで、以下被控訴人徳丸らの本訴損害賠償請求に関し、検討、判断する。
一〇控訴人の債務不履行責任
当裁判所も、亡徳丸のタール、ピッチ暴露による肺がん死亡につき、控訴人は労働契約上の債務不履行責任を負うものと判断する。その理由は、次のとおり補正、付加するほかは、原判決が二四枚目裏二行目から同二五枚目裏二行目までに説示するところと同一であるから、これを引用する。
1 原判決二四枚目裏六行目の「発生する」を削除し、同七行目の「の発生を」を「が発生するのを」と、同八行目の「及び四」を「及び当判決理由五、六」と改め、同九行目から一〇行目にかけての「又は嚥下」を削除し、同一〇行目の「がんにかかりやすく」を「肺がん等にかかるおそれがあり」と改める。
2 原判決二四枚目裏一一行目の「であるから、」を次のとおりに改める。
「である。そして、前記各事実並びに、<証拠>によつて認められる次の①ないし⑦の各事実を総合すれば、控訴人としては、遅くとも昭和三〇年代半ばころには、控訴人工場のタール、ピッチの粉じん等により従業員にじん肺、肺がん等の重篤な呼吸器系障害を惹起するおそれのあることを優に予見しえたものというべきである。
① 控訴人工場の設備状況、作業環境が劣悪であることは、早くから従業員間で問題視され、控訴人も十分認識しえたはずであるし、労働基準監督署から昭和三五年、同四一年には改善勧告や指導も受けていること。
② 控訴人工場では、昭和二〇年代から既にタール、ピッチによる皮膚障害が多発して、従業員間でピッチ負けとして問題視されており、控訴人も、遅くとも昭和三〇年代半ばにはこれを認識しており、また、昭和三七年ころには、じん肺健康診断で数名のじん肺罹患者が判明し、昭和四一年当時で既に一二人に上つていたこと。
③ 右のころ労働組合から控訴人に対し、皮膚障害及びじん肺についての善処要求がされ、控訴人の安全衛生係の小林資郎も、昭和四〇、四一年ころ皮膚障害の対策を調査、検討したこと。
④ 古来、粉じん作業による職業病としてじん肺(けい肺)が問題となり、日本でも戦前からけい肺の研究がされていたが、戦後じん肺一般の研究が組織的に行われるようになり、昭和三〇年にはけい肺法が制定され、同三五年には、対象を広く鉱物性粉じん一般としたじん肺法が制定され、粉じん作業を行う事業者に対し、じん肺予防措置、じん肺健康診断等が課せられるようになり、控訴人工場でもじん肺健康診断を実施してきたこと。
⑤ 前記のとおり、タール(に含まれる三―四ベンツピレン等)に発がん性のあることは古くから広く知られており、また、例えば、控訴人工場の安全衛生係となつた小林資郎が、「入社時(昭和三六年)には、常識的判断として、発がん性のあることを知つていました」と述べ(乙第七七号証の一、二の別件証人調書)、同人が昭和四一年に前記皮膚障害対策を調査した際には、専門家への照会書面に発がんの危険性という問題もあることを明記しているし、控訴人申請の谷口正志証人や年代孝夫証人も、遅くとも昭和四〇、四一年ころ以降には発がん物質三―四ベンツピレンの含まれていることや皮膚がんを発症するおそれのあることを聞き知つていた旨証言していること。
⑥ 控訴人は古くからタール、ピッチを原料の一つとして使用し、その性状等について研究してきているのであるから、右⑤の事情に鑑みると、遅くとも昭和三〇年代には、タール、ピッチに発がん性のあることを十分認識していたはずであること。
⑦ 右の点に、前記六1、2のとおりタール、ピッチによる肺がん多発の疫学的報告及び経気道系投与の動物実験結果も相当早くから出されていることに照らすと、控訴人としては、遅くとも昭和三〇年代半ばころには、タール、ピッチにより肺がんを生じる可能性があるといわれていることを知りえたものと解されること。
したがつて、」
3 原判決二四枚目裏一一行目の「被告としては、」の次に「請求原因5記載のとおり、」を、同末行の「抑制」の次に「、労働者への防じん対策」をそれぞれ加える。
4 原判決二五枚目表四行目冒頭の「には」の次に「、若干の集じん装置が設置されたが、効果は極めて不十分であり、その他には、これまた効果の薄いマスクの支給があつたのみで、」を、同七行目の「密閉化」の次に「、集じん装置の設置」を、同行の「残され」の次に「、労働基準監督署等からもその改善が指摘、要請され」を、同一二行目の「安全衛生措置」の次に「(原判決摘示『被告の主張1』)中、(一)ないし(三)の実施内容、程度は前記二で認定したとおりであり、これら及び同主張(四)の措置」をそれぞれ加える。
5 控訴人の当審主張2項について
控訴人は当審主張2項において右債務不履行責任の成立について、法理論上の疑義を述べるけれども、右は独自の見解にすぎず、採用できない。
一一控訴人の不法行為責任
右一〇で認定判断したところによれば、控訴人は、亡徳丸に対し、一般不法行為規範上の注意義務としても、右一〇に記載したのと同様の健康保護義務を負つていたものというべきところ、同じく右一〇及び前記三、四、六の認定判断によれば、控訴人は、右注意義務を懈怠し、その結果亡徳丸を肺がんにより死亡するに至らせたものというべきである。
したがつて、控訴人は、右によつて生じた損害につき、不法行為に基づく損害賠償義務を負う。
一二請求の併合関係について
1 被控訴人徳丸らは、第一次的に債務不履行、予備的に不法行為に基づく請求として、本訴損害賠償請求をする旨表示しているが、右両請求はいわゆる請求権競合の関係にあり、両立しうる請求権であるから、その併合は、真正な意味での予備的併合ではない。加えて、被控訴人徳丸らは、不法行為に基づく請求の場合の結論(認容額)が、債務不履行に基づく請求の場合より有利であつても、なお、債務不履行による請求が一部理由ありとされる限り、同請求の認容しか求めない意思であるとは到底解しえず、債務不履行に基づく請求による認容部分を超える部分については、不法行為に基づく請求として認容を求めているものと解される。
2 しかして、本件の場合、上来認定判断した諸事情によれば、認容されるべき慰藉料額は右両請求いずれによる場合も差異がないものとなると解されるが、弁護士費用の賠償請求の可否及び損害賠償債権元本に対する遅延損害金の起算日の点においては、不法行為に基づく請求がより有利となる。その理由は次のとおりである。
(一) 被控訴人徳丸らの主張する弁護士費用は、労働契約の当事者である亡徳丸においてその負担を余儀なくされたものではなく、その相続人ではあるが右契約の当事者でない被控訴人徳丸らがこれの負担を余儀なくされたものであるから、右弁護士費用は労働契約上の債務不履行による損害として請求するのは困難といわざるをえず、不法行為に基づく、被控訴人徳丸ら固有の損害として初めて請求することが可能であると解される。
(二) 債務不履行に基づく損害賠償債務は、期限の定めのない債務であり履行の請求があつた時にはじめて履行遅滞に陥り、遅延損害金の起算日は右の翌日となるのであつて、このことは、安全配慮(健康保護)義務違反の場合に何ら変りはなく、本件の場合は訴状送達の日の翌日が右起算日となるのに対し、不法行為に基づく損害賠償債務は、損害発生と同時に遅滞に陥り、その時から遅延損害金が起算されることとなるから、本件の場合は、亡徳丸の死亡日の翌日である昭和四九年一月二六日からの遅延損害金を求める被控訴人徳丸らの請求は、右起算日に関する限りすべて正当ということになり、したがつて、不法行為に基づく請求の方が遅延損害金の起算日が早く、被控訴人徳丸らに有利となる。
3 したがつて、本訴損害賠償請求については、まず、第一次的と表示された請求である債務不履行に基づく請求に拠つて判断し、次いでそれに拠つては認容されない弁護士費用及び遅延損害金(一部)につき不法行為に基づく請求に拠つて判断し、以上いずれかによつて是認しうる部分をすべて認容すべきものである。
一三宥恕若しくは賠償請求権の放棄、免責、損害の填補の各抗弁について
控訴人の宥恕若しくは賠償請求権放棄の抗弁(原判決摘示「被告の主張」3及び控訴人の当審主張3)、労災保険給付若しくは上積み協定金による免責の抗弁(原判決摘示「被告の主張」4)並びに損害の填補の抗弁(同「被告の主張」5)についての当裁判所の判断は、次のとおり補正するほかは、原判決が二六枚目表九行目から二七枚目表一〇行目までに説示するところと同一であるから、これを引用する。
1 原判決二六枚目表九行目の「宥恕」の次に「又は損害賠償請求権の放棄」を加え、同一〇行目の「・山本」を削除し、同行から同一〇行目にかけて及び同末行の各「不履行」を「懈怠」と改める。
2 原判決二六枚目裏一行目の「不履行」を「懈怠」と改め、同行の「ものと」の次に「も、これによる損害の賠償請求権を放棄したものとも」を、同二行目の「宥恕」の次に「、請求権放棄」を加え、同一二行目の冒頭から「によると、」までを削除する。
3 原判決二七枚目表二行目の「が認められる」を「は当事者間に争いがない」と改め、同三行目の「損害」の次に「又は右協定が填補の目的、対象とした費目以外の損害」を加える。
一四過失相殺の抗弁について
控訴人は、亡徳丸が控訴人の健康保護義務の懈怠を放置していたとして、これは過失相殺の事由として斟酌されるべきである旨主張するが、前記一三で宥恕の抗弁について説示したのと同様、控訴人と亡徳丸の立場、力関係に鑑みると、亡徳丸が控訴人の健康保護義務懈怠につき特段の意思表示をしなかつたからといつて、それをもつて過失相殺の事由として斟酌するのは相当でないというべきである。
そして、その他、本件に顕われた諸般の事情を検討しても、亡徳丸(或いは被控訴人徳丸ら)に過失相殺として斟酌すべき事由は見当らない。
一五損害
1 慰藉料
上来認定の控訴人の健康保護義務懈怠の態様・程度、亡徳丸のタール、ピッチの暴露状況、死因、死亡に至る経緯、財産的損害に関しては、被控訴人徳丸スミエが労災保険の受給権を取得し、現に支給を受けていること及び上積み協定金の支払請求が認容されること、その他本件に顕われた諸般の事情を勘案すれば、亡徳丸に対する慰藉料は、亡徳丸死亡時の現価で算定して、金一五〇〇万円をもつて相当と認められる。なお、これは債務不履行に基づく請求においても不法行為に基づく請求においても同額となると解される。
2 相続
被控訴人徳丸スミエ、同東條啓子、同徳丸敏昭が、亡徳丸の右慰藉料請求権を、各三分の一の割合で相続承継したことは、前記一記載の事実に徴して明らかである。
3 弁護士費用
本件損害賠償請求訴訟の難易度、審理の経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、控訴人の本件健康保護義務懈怠と相当因果関係のある損害にあたる弁護士費用としては、亡徳丸死亡時の現価で算定して、右認容すべき慰藉料額の一割五分の額をもつて相当と認められる。
4 そうすると、控訴人の支払うべき損害賠償元本額は、被控訴人徳丸ら三名に対して、それぞれ金五七五万円となる。
5 遅延損害金の起算日
前記一二で説示したとおり、被控訴人徳丸らの右損害賠償請求権については、同被控訴人ら請求のとおり亡徳丸の死亡の日の翌日である昭和四九年一月二六日からの遅延損害金を認容すべきものである。
一六被控訴人徳丸らの本訴損害賠償各請求に関するまとめ
以上の次第で、被控訴人徳丸らの本訴損害賠償各請求は、それぞれ右損害賠償金五七五万円とこれに対する昭和四九年一月二六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度では正当であるが、その余は失当である。
第二上積み協定金の請求について
一上積み協定の存在
控訴人と亡徳丸、山本の加入していた労働組合(合化労連昭和電極労働組合)との間に被控訴人らの当審主張3項記載の上積み協定(原判決摘示「被告の主張」4記載のものと同一)が結ばれており、控訴人の従業員が業務上の災害、疾病により死亡した場合には、控訴人はその遺族(当事者双方とも労災保険の遺族補償給付の受給権者たる遺族―第一順位は配偶者―を指していると解される。)に対し右協定に基づき上積み協定金五〇〇万円を支払うことになることは当事者間に争いがない。
二被控訴人徳丸スミエの上積み協定金請求権
1 前記第一で認定判断したところによれば、亡徳丸は業務上の疾病により死亡したものと認められるから、控訴人は、その遺族たる被控訴人徳丸スミエに対し、右上積み協定金五〇〇万円を支払う義務がある。
2 ところで、右上積み協定金請求と前記慰藉料(及び弁護士費用)請求との重複の有無について検討するに、<証拠>によれば、右上積み協定は、一般に労災保険給付のみをもつては従業員の業務上死亡による財産的損害が填補しきれないため、これを補う趣旨において上積み協定金を支払う旨約したものと認めるのが相当であり、これを左右すべき証拠はないから、右上積み協定金は前記第一で判断した慰藉料(及び弁護士費用)とは別の費目のものと解される。
したがつて、右の両者は併わせ求めることができるものである。
3 また、同様にして、右上積み協定は、労災保険給付による財産的損害の填補に現実に不足が生じているか否か及びその程度の如何を何ら問うことなく、従業員が業務上死亡したことのみを要件として、労災保険給付に加えて、所定の上積み協定金を支払う旨約したものと認めるのが相当であり、これを左右すべき証拠はないから、被控訴人徳丸スミエが労災保険給付を受けている事実及びその額の如何は、右上積み協定金の支払義務に何ら消長を来さない。したがつて、控訴人の損害填補の抗弁が、右上積み協定金の支払請求に対しても主張されていると解しても、その主張はやはり失当である。
4 遅延損害金の起算日
右上積み協定金は、亡徳丸の業務上死亡による損害を補充填補する目的のものであるとはいえ、その支払債務自体は、損害賠償債務ではなく、右上積み協定による合意に基づいて生じた債務であるから、右合意その他において弁済期の約定があつたとの主張立証は何もない以上、それは期限の定めのない債務と解される。したがつて、それは、履行の請求を受けた時にはじめて遅滞に陥るものであるから、これに対する遅延損害金の起算日は、これを主張・請求する旨記載した本件附帯控訴状が控訴人に送達された日の翌日である昭和五七年六月一五日となる。
5 弁護士費用について
右に認定判断したとおり右上積み協定金の支払を求める被控訴人徳丸スミエの請求は、合意に基づく約定金員自体の支払請求であるから、これについて、仮に弁護士費用を要したとしても、民法所定の遅延損害金以外に右弁護士費用相当額の支払を求めうべき根拠はない。
三被控訴人徳丸スミエの上積み協定金支払請求に関するまとめ
そうすると、被控訴人徳丸スミエの本訴上積み協定金請求は、右上積み協定金五〇〇万円とこれに対する昭和五七年六月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度では正当であるが、その余は失当である。
四被控訴人山本房枝の上積み協定金支払請求の当否
亡山本の食道がん罹患とその死亡が控訴人工場でのタール、ピッチ等の暴露と因果関係があるものと認められないことは前記第一で認定判断したとおりである。そうである以上、同人の死亡は、右上積み協定にいう業務上の災害、疾病による死亡とはいえない。
したがつて、被控訴人山本房枝の上積み協定金(及び弁護士費用)の支払請求は、その余の判断に及ぶまでもなく失当たるを免れない。
第三控訴人の原状回復等の申立について
一原判決中、被控訴人山本らの請求を一部認容した部分が取消されるべきものであることは前記第一で判断したところから明らかである。
二そして、控訴人が民訴法一九八条二項による原状回復等の申立の理由として主張する事実(控訴人の当審主張8項)については、被控訴人山本らは明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。
三そうすると、原判決の仮執行宣言によつて控訴人が被控訴人山本らに給付したそれぞれ金三一八万三〇一三円の返還を求めるとともに、これに対する右給付の翌日である昭和五六年一一月一一日から右返還済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める控訴人の申立は理由がある。
四なお、前記第一で判断したところによれば、原判決中被控訴人徳丸らの請求を認容した部分は維持されるべきことが明らかであるから、控訴人の民訴法一九八条二項に基づく申立中、右被控訴人らに関する部分は、その前提を欠き、判断の要がない。
第四結論
以上の次第であるから、被控訴人徳丸スミエの本訴各請求は、第一の一六及び第二の三で説示した限度では正当として認容すべきであるが、その余は失当として棄却すべきであり、被控訴人東條啓子、同徳丸敏昭の本訴各請求は、第一の一六で説示した限度では正当として認容すべきであるが、その余は失当として棄却すべきである。
したがつて、原判決中、被控訴人徳丸らに関する部分は、右の判断と一部結論を異にし、被控訴人徳丸らの附帯控訴及び当審での拡張請求は一部理由があるから、原判決中同被控訴人ら関係部分を右判断の趣旨に従つて変更することとし、他方、控訴人の同被控訴人らに対する控訴は理由がないからいずれも棄却する。
次に、被控訴人山本らの本訴各請求はすべて失当として棄却すべきものであり、原判決中同被控訴人らの請求を一部認容した部分は取消を免れず、控訴人の同被控訴人らに対する控訴は理由があるから、原判決中右の部分を取消して同被控訴人らの請求をいずれも棄却することとし、したがつてまた、同被控訴人らの附帯控訴及び当審での拡張請求も理由がないから棄却する。
更に、控訴人の被控訴人山本らに対する民訴法一九八条二項に基づく原状回復等の申立は理由があるから認容する。
よつて、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官上田次郎 裁判官道下徹 裁判官渡辺修明)
別紙別表1〜15<省略>
図1<省略>
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ<省略>