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大阪高等裁判所 昭和57年(ネ)1953号 判決 1985年12月23日

昭和五七年(ネ)第一九四九号事件被控訴人

昭和五九年(ネ)第二四〇五号事件附帯控訴人<一審原告>

(亡堀内達三訴訟承継人)

中村道子

昭和五七年(ネ)第一九四九号事件被控訴人

昭和五九年(ネ)第二四〇五号事件附帯控訴人<一審原告>

(亡堀内達三訴訟承継人)

吉川敏子

昭和五七年(ネ)第一九四九号事件被控訴人<一審原告>

昭和五九年(ネ)第二四〇五号事件附帯控訴人

宮路忠

昭和五七年(ネ)第一九四九号事件被控訴人<一審原告>

昭和五九年(ネ)第二四〇五号事件附帯控訴人

森川ヤスヱ

昭和五七年(ネ)第一九五三号事件控訴人<一審原告>

森川松太郎

右五名訴訟代理人

浦功

浅野博史

上野勝

高野嘉雄

石川寛俊

中北龍太郎

昭和五七年(ネ)第一九四九号事件控訴人

同第一九五三号事件被控訴人<一審被告>

昭和五九年(ネ)第二四〇五号事件附帯被控訴人

右代表者法務大臣

嶋崎均

右訴訟代理人

井上隆晴

右指定代理人

布村重成

外六名

主文

一  一審被告の控訴に基づき、原判決中一審被告の敗訴部分を取り消す。

二  一審原告森川松太郎を除くその余の一審原告らの一審被告に対する請求をいずれも棄却する。

三  一審原告森川松太郎の本件控訴及びその余の一審原告らの附帯控訴をいずれも棄却する。

四  訴訟の総費用は第一、二審を通じて全部一審原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一昭和五七年(ネ)第一九四九号控訴事件

1  一審被告(以下単に「被告」という。)

(一) 原判決中被告敗訴部分を取り消す。

(二) 一審原告(以下各一審原告を単に「原告」という。)森川松太郎を除くその余の原告らの被告に対する請求をいずれも棄却する。

(三) 訴訟費用は、第一、二審とも原告森川松太郎を除くその余の原告らの負担とする。

2  原告森川松太郎を除くその余の原告ら

(一) 被告の本件控訴を棄却する。

(二) 控訴費用は被告の負担とする。

二昭和五七年(ネ)第一九五三号控訴事件

1  原告森川松太郎

(一) 原判決中、原告森川松太郎と被告に関する部分を取り消す。

(二) 被告は右原告に対し、一〇〇〇万円及びこれに対する昭和五一年九月四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(三) 右原告と被告との間における訴訟費用は、第一、二審とも被告の負担とする。

(四) (二)、(三)につき仮執行の宣言。

2  被告

(一) 右原告の本件控訴を棄却する。

(二) 右原告と被告との間における本件控訴費用は同原告の負担とする。

三昭和五九年(ネ)第二四〇五号附帯控訴事件

1  原告森川松太郎を除くその余の原告ら

(一) 原判決中、原告森川松太郎を除くその余の原告らと被告に関する部分を次のとおり変更する。

(1) 被告は原告中村道子及び同吉川敏子に対し、各五〇〇万円及びこれに対する昭和五一年九月四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を各支払え。

(2) 被告は原告宮路忠に対し、一〇〇〇万円及びこれに対する昭和五一年九月四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(3) 被告は原告森川ヤスヱに対し、七〇〇万円及びこれに対する昭和五一年九月四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 訴訟費用は第一、二審とも被告の負担とする。

(三) 仮執行の宣言。

2  被告

(一) 原告森川松太郎を除くその余の原告らの本件附帯控訴をいずれも棄却する。

(二) 附帯控訴費用は原告森川松太郎を除くその余の原告らの負担とする。

第二  当事者の主張及び証拠関係

次のとおり付加・訂正するほかは、原判決事実摘示中の原告宮路忠、同森川ヤスヱ、同森川松太郎及び亡堀内達三(以下これらの者を「原審原告ら」と総称する。)と被告との関係部分と同じであるから、これを引用する。

一原判決事実の付加・訂正

原判決二八枚目裏八行目の「診断できると」を「診断できること」と、三八枚目表五・六行目の「行うようとの」を「行うようにとの」と、四二枚目裏一〇・一一行目の「同年月四日」を「同年九月四日」と、五五枚目表八行目の「瀘過布」を「濾過布」と、同表一二行目の「遂次」を「逐次」と、六六枚目表三行目の「労災認定以降を」を「労災認定以降も」と各改め、六八枚目裏一〇行目の「二二号証」の次に「、第三五号証」を加える。

二原告らの当審における主張

1  労働基準監督行政と反射的利益論について

「行政上の規制はもつぱら公益一般を保護することを目的として実施されるものであるから、たまたまそれによつて国民の一部が利益を受けることがあつても、それは、国や公共団体が公益目的の実現を図る作用を実施する過程において、偶発的に生ずるところの法の意図せざる反射的な利益にすぎず、法律上の権利というべきものではない。それゆえ、行政庁が権限の行使を怠り、その結果として関係国民が社会的害悪から守られないという事態が起こつたとしても、被害者たる国民の側には、行政庁の権限不行使の違法を問い、適正な権限行使を要求する法的権能は一切認められないとするものである。」とする反射的利益論は、労働基準監督行政の分野においてこれを容れる余地は全くない。その理由は、次のとおりである。

労働基準法(以下「労基法」という。)は、憲法二五条、二七条二項に基づいて労働者の生存権を確保することを目的として制定された法律であり、法上の監督機関は、労働者保護法としての労基法及びその関連法令の実効性を確保するための必要不可欠の機関として設置され、使用者をして労働者に対して労基法等を遵守させるよう監督することを目的とするものであるから、労働者は、本来の直接的受益者である。労働基準監督行政においては、監督機関である行政庁と被規制者である使用者と受益者である労働者が三面的関係に立つことを労基法それ自身が予定しているのである。したがつて、労働基準監督行政は、薬品・食品などに関する国民全体に対する福祉行政の中から、自らの労働力を商品として売買することを余儀なくされている労働者を特別に取り上げてその生存権を確保するために保護を図ろうとしたものであつて、反射的利益論が克服されるべき要請は、食品・薬品行政における分野よりもいつそう強いものがあるといわねばならない。

2  裁量権収縮論について

行政庁が行政上の規制権限を行使するかどうかの判断は一般に行政庁の自由に属するものであつて、「行政庁には、権力発動の要件が満たされている場合であつても、必ずしも権限を発動しなければならないということではなく、行政庁は公益全体を管理する立場から取締権を実際に発動するかどうかをその自由な裁量的判断によつて決定する権限があるものと解されている。取締権をもつ行政庁には、法律上与えられた行政権限を発動して行政介入をするかどうかについて、つねにその裁量で決定できる第一次的な判断が留保されている。」との行政便宜主義の適用が原則的に承認されている。しかし、これを絶対視することはできず、重大な危険が存するなど一定の要件が存する場合に特殊・例外的に行政庁の行政権限発動の裁量がゼロに収縮し、行政権限の発動が義務づけられるという見解、すなわち、裁量権収縮論が多くの論者により提唱されている。裁量権収縮論が適用されるための要件については、「具体的状況に応じ、予想される危険が大きければ大きいほど、行政庁に認められた裁量判断の幅は狭められ、(イ) 人の生命、身体、財産、名誉など行政法規の保護法益への顕著な侵害が予想され、(ロ) こうした危険が行政側の権力の行使によつて容易に阻止できる状況にあり、(ハ) 民事裁判その他被害者側の個人的努力では危険防止が十分には達成され難いものと見込まれる事情のあるとき、行政庁側に認められた裁量の幅は裁量条項の適用においても極端に収縮し、ついに、行政庁には権限を行使せずにいる自由を失つて積極的に介入し、危険防止を図る以外の選択はありえなくなることを承認し、右(イ)、(ロ)、(ハ)の三要件があれば、行政裁量の幅は漸次後退して、ついにはゼロに収縮し、行政庁が不介入のままで不作為を続けることは、被害を被る国民に対する関係で法的義務となることが認められる。」とする見解が有力である。

しかし、右の裁量権収縮論は未だ最高裁判所の採るところではなく、最高裁判所昭和五九年三月二三日判決(民集三八巻五号四七五頁)の判旨によれば、行政庁の不作為が違法とされるためには、① 国民の生命、身体の安全が確保されないことが相当の蓋然性をもつて予測され、② このような状況を行政庁が容易に知りうること、をもつて足ることとなる。右最高裁判所判決としては、行政庁と被規制者との関係を媒介とすることなく、行政庁と被害者との関係から端的に国家賠償法一条一項により損害賠償責任を負うべきか否かを判断しているのであつて、行政庁の不作為が違法とされる要件としては右の二要件で足りるというべきである。

3  監督機関の不作為の違法と国家賠償について

(一) 経済発展とともに労働者の生命・健康に対する危険・有害な作業環境が増大し、それによつて労災、職業病の多発をはじめ労働者の健康を害する状況が現出されたことにより、労働者自らの生命・身体と健康に対する権利意識と行動力が従来の法理論への批判と修正を迫り、労働者の健康権概念の確立と発展を促進している。労働者の健康権は、憲法一三条、二五条、二七条に由来するもので、その内容は、健康的な労働条件基準の確立と実施ばかりでなく、労働内容・労働環境に関しての労働者の健康に障害を生ずることを防止し、障害発生の際に健康の回復を図り、更に労働者の健康を増進させるために必要な基準の確立と実施についても国の立法上及び行政上の措置を要求しうることを根拠づけるのである。このように解することにより、労働基準監督行政の分野では、労基法、労働安全衛生法(以下「労安衛法」という。)等に基づいて国の監督機関は作為を義務づけられ、その権限の行使について自由裁量を認める余地は少なく、労働基準監督行政における不作為が違法であるとして損害賠償義務を認める範囲は広くなるのである。

(二) 個々の労働者は、労働者の健康権に基づき、健康的な労働条件で働く権利を有し、国との関係でいえば、国に対して健康的な労働条件を使用者への監督によつて維持することを請求する権利を有しており、これを国の側からみれば、国は労働者の健康に危険・有害な状況の発生とその状況の継続を許してはならない義務及び右の状況を改善させるべき義務(作為義務)を負い、これを国の労働安全衛生確認義務として把握すべきである。

原判決は、労働基準監督機関の不作為違法判定基準として、① 甲事項 人間の生命・身体に対する危険が切迫していること ② 乙事項 監督機関において右の危険の切迫を知つているか又は容易に知りうる場合であること ③ 丙事項 監督機関においてその権限を行使すれば容易にその結果の発生を防止することができる関係にあり、監督機関が権限を行使しなければ結果の発生を防止しえないという関係にあること ④ 丁事項 被害者―結果の発生を前提―として監督権限の行使を要請し、期待することが、当時において社会的に容認される場合であること、の四要件を示しているが、前掲最高裁判所判決を考慮すると、損害賠償訴訟における監督機関の労働安全衛生行政における不作為違法の要件としては、  生命・健康の法益について、監督機関にその毀損が予見可能であること   監督によつて結果を回避する可能性があること、の要件をもつて足りるものというべきである。

のみならず、本件では、原判決が示した四要件についても完全にこれを充足している。

4  被告の本件における作為義務について

(一) 原審原告らの従来のマンガン中毒等による症状は、原判決事実摘示第二の一7(一)記載のとおりである。原判決は、亡堀内の難聴とボールミルにおける騒音との因果関係を否定したが、昭和四三年五月一三日に本件事業所の経営者植田文次(以下「植田」という)名で提出された改善計画(丙第九号証)には騒音対策についての詳細な記載が存すること、近隣住民による公害防止運動には本件事業所の騒音防止についても指摘されていたこと、昭和四九年三月一五日に実施された大東市の騒音測定の結果によればボールミルからは一〇〇デシベルを超える騒音が測定されているところ、騒音性難聴は一〇〇デシベル前後の騒音を発する工場において発生し、このような工場で長年働いていると次第に耳が遠くなつてくるとされていること、また、労働省は騒音が常時一〇〇デシベルを超える職場を有害職場としていることなどからすれば、亡堀内の難聴は業務に起因することは明らかであり、これは本件事業所が職場における騒音防止等を欠いたことによるものであることは疑う余地がない。更に、社宅は、工場の一画にあつて工場から飛散するマンガン粉じんを遮蔽する設備は全くなかつたため、社宅内における右の粉じん量も多量であつた。原審原告らは、このように作業中だけでなく社宅における生活をも含めて多量のマンガン粉じんに暴露していたもので、これも植田の粉じん防止義務懈怠によるものである。

そして、原判決後における原審原告らの症状は、次のとおりである。

(1) 亡堀内は、原判決後の昭和五八年三月ころから肺癌を発症して入院していたが、同年六月二六日に肺癌で死亡した。亡堀内の肺癌による死亡は、同年八月一日に守口署により業務災害であるじん肺に起因するものと認定された。亡堀内は、このように本件事業所における劣悪な作業環境の中で職業病に罹患した結果、ついに死亡するに至つたものである。

(2) 原告宮路は、易疲労性、歩行障害、精神集中困難、情緒不安定、不眠、頭痛、筋肉痛(特に四肢に時々強い筋肉のけいれんを伴う。)、その他日常生活に支障のある諸種の全身障害を伴うような症状があり、突進現象が出現するなど増悪傾向がある。

(3) 原告森川松太郎は、強度の運動失調が持続し、歩行障害、言語障害、書字障害があり、歩行障害についてはわずかずつではあるけれども進行傾向を示し、前のめりに倒れる頻度も増加してきている。

(4) 原告森川ヤスヱは、手指振せん、歩行障害、構音障害、書字障害、四肢の知覚異常・しびれ・痛み・脱力感等があり、歩行障害の程度はやや増悪傾向を示して突進現象が出現してきている。

(二) 植田が昭和四七年六月八日法律第五七号による改正前の労働基準法(以下「旧法」という。)及びこれに基づく昭和二二年一〇月三一日労働省令第九号の労働安全衛生規則(以下「旧労安衛則」という。)に違反していたことは原判決事実摘示第二の一6(四)(2)(エ)Aで述べたとおりであるが、そのほか、植田は、旧法五〇条に基づく安全教育を一切行わず、じん肺法に基づくじん肺健康診断も昭和三六年以降昭和四五年までの間は実施せず、同法にも違反していた。また、植田は、マンガン精錬の業務を行つていたので、旧労安衛則五五条三号ロの「金属の精錬の業務」に該り、それは旧法五四条の「衛生上有害な事業」であるから、同条により「建設物、寄宿舎その他の付属建設物又は設備を設置し、移転し、又は変更しようとする場合」に旧労安衛則一七二条以下の諸規定で定める「危害防止等に関する基準に則り定めた計画を、工事着手一四日前までに、行政官庁に届け出なければならない」のであつたが、これに違反していたし、騒音防止に関する同規則一七六条、一八三条にも違反していた。

(三)(1) 大阪局労働衛生課の昭和三四年三月三日付労働環境測定調書(丙第二号証)には気中マンガン量抑制目標濃度として6mg/m3と記載され、昭和三四、五年ころ発表の大阪市立大学医学部医師の「特異なるマンガン中毒の一例」と題する医学論文(甲第一四号証)には気中マンガン粉じん恕限量が6mg/m3とされており、昭和三八年度労働環境測定調書(甲第三六号証)にはマンガン恕限量5mg/m3と記載され、また、関係各事業所に配布された同年八月労働省労働基準局発行の「全国労働衛生週間のしおり」においてA・C・G・I・Hの一九六一年の勧告濃度の抜粋を示し、マンガンについては5mg/m3として発表されている。そして、その後の昭和四六年四月二八日労働省告示二七号により特化則六条二項の規定に基づき労働大臣が定める値をマンガンについて5mg/m3としている。気中マンガン粉じん恕限量6mg/m3あるいは5mg/m3という数値は、科学的根拠を有するものであつて、マンガン気中濃度の規制基準値としては昭和三四年又はそれ以前から科学的に確立していたものである。

マンガン中毒症は、古くから知られた職業病であつて、大正八年一二月農商務省工務局発行工場資料一三輯「金属中毒ノ予防注意書」(甲第三八号証)中でマンガン中毒症とその予防法が指摘されていること、旧労安衛則三五条が旧法七五条二項の業務上の疾病として七号に「粉じんを飛散する場所における業務に因るじん肺症及びこれに伴う肺結核」、一六号に「マンガン又はその化合物に因る中毒及びその続発症」を掲げて、マンガン取扱作業において労働者らに職業病としてマンガン中毒症の職業病が発症し又粉じんによつてじん肺が発症することを指摘していること、昭和三一年五月一八日に労働省労働基準局長が基発三〇八号「特殊健康診断指針について」を発してマンガン中毒について特殊健診をなすべきことを指示していることなどからすれば、被告としては、職業病としてのマンガン中毒について熟知し、旧法施行後も毎年マンガン中毒症の発症は報告されていたのであるから、職業病の発生を防止すべき行政機関として遅くとも昭和三一年に基発三〇八号を発するまでにマンガン粉じんの気中規制値を定めておくべき義務があつた。

のみならず、損害賠償請求における行政庁の不作為の違法性の問題は、行政庁の被規制者に対する権限不行使の濫用の有無を媒介とせず、行政庁と被害者との間で端的に行政庁が国家賠償法一条一項によつて損害賠償義務を負うかどうかを考慮すれば足りるのであるから、マンガン粉じんについて有害の基準が定められていないことをもつて、旧法五五条一項、旧労安衛則一七三条の権限不行使があつても被告が損害賠償義務を負わないとすることは許されない。

(2) 労働省労働基準局昭和二六年一月一七日基発二五号「防じんマスクの使用に関する指導並びに監督要領」通達の内容は極めて詳細であり、現実に労働者使用中のマスクまで点検すべきことを求めている。被告の機関である監督官らは、右要領に基づいて防じんマスクの使用について監督指導しなければならないのに、後述するようにこれに従つた監督指導を全くしなかつた。

5  被告の本件における不作為の違法性について

(一) 本件においては、原判決の挙示する甲、乙、丙、丁各事項の四要件をすべて充足していたものであつて、そのうちの丙事項及び丁事項の充足について述べると、次のとおりである。

(1) 丙事項の充足

植田は、古くから一貫してマンガンは危険物ではなく薬であると信じていて、マンガン中毒の危険性を否定して従業員にもそのように教え、昭和二六年以降はある種の信仰に凝つて原審原告らの発病はマンガン中毒ではなくて憑依現象であり信仰によつて取り除けると信じていたもので、原告森川松太郎及び杉本光二の発病時に労災認定に協力したものの、病名がマンガン中毒であることを否定しており、当時、原告森川ヤスヱから医師より診断されたとして夫の原告森川松太郎の病名を告げられた際にも同じ態度をとつていたのであるから、このような植田に自発的な是正措置を期待することは全くできなかつたのであり、また、植田が従業員らに安全教育もしていなかつたため、原審原告らがマンガン粉じんの危険性に気付くことは不可能であつた。そして、植田は、原告森川松太郎及び杉本光二の労災認定後も、従業員らに対し、右原告らがマンガン中毒ではなくて他の原因による疾病である旨を力説してきたのであるから、このような植田との関係において、原審原告らを含む従業員から自主的な作業環境改善の動きを期待することも不可能であつた。ところで、労働者に保障された違反申告権は、使用者が旧法あるいは旧労安衛則に違反している事実を申告する権利であるといつても、それは、監督機関に臨検等の措置をとるべき職務上の作為義務まで生ぜしめる権利ではない。

以上のとおりであつて、本件は、行政庁が動かなければ本来的責任者が結果防止措置をとることを到底期待しえない事案に属し、丙事項を充足するものである。

(2) 丁事項の充足

丁事項についてはこれを不要と解するが、仮にこれを具備することを要するとしても、前述した植田のマンガンに対する認識と種々の法違反の事実からすれば、本件においては、丁事項を充足することも明らかである。労働者の生命・身体の安全に係る事項とくに本件のようにマンガン中毒という重大な結果に係る事項に対して行政指導に従わないときに司法処理や使用停止の処分を行うことは、昭和二七、八年ころにおいても社会的に容認されていたというべきである。まして、本件事業所では原告森川松太郎らのマンガン中毒の多発をみていたにもかかわらず、これについての十分な是正措置をとろうとしなかつた植田に対して右処分を行うことはむしろ社会的に期待されていたと解すべきである。

したがつて、本件においては丁事項も充足されていたというべきである。

(二) 本件事業所におけるマンガン中毒発症についての差し迫つた危険は昭和二七、八年ころから昭和四八年ころまで継続し、被告国において昭和二七、八年ころから差し迫つた危険を知り又は容易に知り得たものというべきである。これを詳述すると、次のとおりである。

(1) 昭和二七年ころから昭和三四年原告森川松太郎が労災認定を受けるまで

本件事業所においては、昭和二五年ころから増産が始まつてクラッシャーとフレットミル二基が設置され、昭和二九年ころからマンガン需要の拡大に応じて生産量は一層急速に増大し、昭和三二年ころまでにはクラッシャーの大型化と東ボールミルの設置が行われた。昭和三四年三月三日になされた労働環境測定結果(丙第二号証)によれば、本件事業所では粉砕作業者の鼻の位置で「粉砕機囲い扉を閉じた時、金属マンガン量は36mg/m3、囲い扉を開放したとき金属マンガン量は84mg/m3」とおびただしい量のマンガン粉じんが発散しているが、右環境測定はその時期からみて原告森川松太郎の労災認定を契機に行われたものと認められ、その結果の記載からみて右粉砕機とは同原告の担当していたフレットミル一台を指すものと解されるから、本件事業所におけるマンガン粉じん量は、他の粉砕機等によるものを含めて考えると恐るべきものであつたと考えられ、右環境測定結果からして、その以前の昭和二七、八年ころの本件事業所におけるマンガン粉じんの発散状況は右と同程度かむしろ激しいものであつたと推認される。

しかるに、本件事業所においては、右各機械設備に何らの粉じん防止措置も施されておらずマンガン粉じんが発散するまま放置されており(旧労安衛則一七二条、一七三条違反)、保護具も全く備えつけられておらず(同規則一八一条、一八三条の二、一八四条違反)、右期間中に従業員らに対し安全教育も健康診断も全く行われなかつた(旧法五〇条、五二条違反)。

本件事業所における右マンガン粉じんの発散状況はマンガン中毒症発症の危険があつて原審原告らの生命、身体及び健康の保持に差し迫つた危険を生ぜしめるものであつたから、原告森川松太郎は、昭和二九年ころからマンガン中毒症の初期症状を発し、次第に症状を悪化させ、昭和三四年に典型的なマンガン中毒症として労災認定を受けるに至つた。

守口署は、遅くとも昭和二七年ころから定期監督とおぼしき臨検を行つていたのであつて、本件事業所における右のような粉じんの発散状況を視認によつて十分に把握できたのであるから、右作業環境が労働者の身体の安全及び健康の確保に差し迫つた危険のあることを知り又は容易に知り得たはずである。

大阪局や守口署としては、右のような作業環境について少なくとも旧労安衛則一七二条、一七三条により粉じん防止対策をなさしめるよう昭和二三年一月一六日基発八三号、同年二月一三日基発九〇号に基づいて是正勧告等をなし、更に右規則一八一条、一八三条の二、一八四条及び昭和二六年一月一七日基発二五号に基づいて保護具を備えつけるように是正勧告等をなすべき義務があつたといわなければならない。

そして、昭和三一年五月一八日基発三〇八号「特殊健康診断について」が発せられ、別紙8によつてマンガン及びその化合物を取り扱う作業について特殊健診の検査項目及び検査方法が定められ、これに基づいて特殊健診を行つたうえ、その結果を昭和三二年三月末日までに報告するよう指示がなされた。本件事業所は前記のように危険な作業環境にあつたのであるから、監督機関としては、右指針に基づいて結果報告をするのはもとより、その後も植田に対し労働者らに特殊健診を受診させるよう指導すべき義務があつた。

更に、植田が大阪局や守口署の指導や勧告に従わないときは、監督官としては、植田に対し旧法五五条、一〇三条により事業の建設物その他の付属建物若しくは設備等について全部又は一部の使用停止、変更、労働者の立ち入り禁止等の措置をとり又は即時の処分をし(以下「使用停止等の処分」という。)、更には法一〇二条の司法警察官としての権限を行使する(以下「司法処理」という。)などの義務があつた。

しかるに、被告は、植田に対し、昭和三四年に原告森川松太郎をマンガン中毒症として労災認定をするまでに粉じん防止対策等のマンガン中毒防止のための具体的な指導を行つていない。

以上のとおりであつて、本件事業所における作業環境は、昭和二七、八年ころからおそるべきマンガン粉じんを発していて、そのまま放置しておくと従業員らにマンガン中毒症の発症など生命、身体、健康に差し迫つた危険があつたのであり、被告としては、臨検等を通じてこれを知り又は少なくとも容易に知り得たもので、原判決の挙示する丙、丁の各事項も右時点で充足されていたから、原告森川松太郎に対する関係でも不作為に違法があり、右原告に対しても損害賠償義務がある。

(2) 原告森川松太郎の労災認定から昭和三九年二月まで

昭和三四年に原告森川松太郎がマンガン中毒症として労災認定を受けたが、このことは、何よりも本件事業所の作業環境が劣悪でマンガン粉じんにより労働者の生命・身体の安全又は健康の保持に極めて差し迫つた危険があつたことを示すものであつた。

本件事業所においては、昭和三六年ころから昭和三七年ころにかけて西ボールミル、ベルトコンベアー、ロータリーキルン、フレットミルが相次いで設置され、旧工場を鉄骨ストレート葺工場に改築したり、工場を増築するなどしてマンガン粉砕量は以前の二倍以上と飛躍的に増大したが、右設備には粉じん防止装置等の設備は一切なされておらず、大量のマンガン粉じんが発散するままに放置され、旧労安衛則一七二条、一七三条違反の状態は続き、保護具についても労働大臣の検定を受けた防じんマスクは備えつけられておらず同規則一八一条、一八三条の二、一八四条に違反していた。その結果、昭和三七年に杉本光二がマンガン中毒症として労災認定を受けたが、このことは、本件事業所の作業環境が従来にも増して従業員らの生命、身体、健康に対し差し迫つた危険のあることを示すものであつた。

昭和三四年に原告森川松太郎の労災認定申請がなされたことにより、本件事業所に勤務する他の労働者にとつても生命・身体の安全及び健康の保持に差し迫つた危険が存在することが明らかとなつたのであるから、国の監督機関としては、植田をして従業員全員に対し前記特殊健康診断指針(昭和三一年基発三〇八号)に基づく特殊健診を行うよう指導し、その結果の報告を求め、右健診結果に基づいて適切な措置をとるべき義務があり、また、右のような状況下で是正勧告等を行なつたときは、植田を再監督して右是正勧告を履行したか否かを確認し、これがなされていない場合、法規違反があるときには使用停止等の処分をしたり司法処理をなすべき義務があつたというべきである。そして、杉本光二の右労災発生に際しても、被告としては前同様の義務を負つていたのである。

しかるに、右いずれの時期においても、本件事業所では特殊健診は行われておらず、被告の監督機関において植田に対し指導等を行つていなかつた。

以上のとおりであつて、原告森川松太郎の労災認定後から後述する昭和三九年二月の昭和三八年度労働衛生実態調査に至るまで、本件事業所の作業環境は一貫して危険が切迫していて、被告の監督機関としては、右危険を知り又は容易に知り得たことが明らかであつたから、原判決の挙示する丙、丁の各事項も充足されていたというべきである。

(3) 昭和三九年二月から昭和四六年夏ころまで

本件事業所においては、昭和三九年二月ころから昭和四六年夏ころまでの間、機械設備の粉じん防止装置は不十分で局所における吸引排出、機械若しくは装置の密閉がなかつたもので旧法四二条、四五条、旧労安衛則一七二条、一七三条に違反し、検定品の防じんマスクを備えつけておらなかつたから旧法四二条、四五条、旧労安衛則一八一条、一八三条の二に違反し、また、旧法五二条一項・五項、旧労安衛則四八条二号(二)、四九条三項、五〇条、昭和二三年基発一一七八号(二)により年二回の健康診断を「一 感覚器、循環器、呼吸器、消化器、神経系その他臨床医学的検査 二 (省略)」の項目について検査又は検診を行わなければならないのにこれが行われていないから、右法条に違反していた。

昭和三八年度労働衛生実態調査の目的は「地方において労働衛生上問題がある課題について……局を中心とする特別調査班を設けて行い、地方における懸案事項の解決と労働衛生意識の向上を図るとともに、将来全国的な問題となる課題の早期把握に資し、もつて中央及び地方を通じ労働衛生行政の強力な推進を図るために実施する」とされており、大阪局が労働省からの労働衛生実態調査の指示を受けて調査対象としてマンガン及びその化合物を取り扱う事業場の大がかりな昭和三八年度調査を行つたことは、同局において、大阪府下におけるマンガン中毒発症が極めて重大な事項であつてその予防こそが同府下における懸案事項の解決になるものと考えていたからであつた。大阪局としては、このような大がかりな調査を行つた以上、その調査結果を調査対象事業場における作業環境の是正及び改善、健診を受けた従業員のうち異常が発見された者に対しては精密健診をしたうえ、マンガンとの接触を避けて早期の治療を受けさせるなど、最大限に生かすべきである。そして、大阪局は、昭和三八年度労働衛生実態調査によつて、本件事業所については、事前通告のうえなされた粉じん測定であつたにもかかわらずその結果は極めて高い値を示していて、粉じん防止策も極めて不十分であり(旧労安衛則一七二条、一七三条違反)、保護具も規格について労働大臣の検定を受けたものが備えられておらず(同規則一八一条、一八三条の二、一八四条違反)、食堂や更衣室等の保護施設の清潔保持も不十分であつて(同規則一七二条違反)、特殊健診も行われていないことをそれぞれ確認し、健診の結果、亡堀内及び原告宮路が「要精診a」に該当することが診断されたのであるから、右調査に基づき、植田に対し粉じん防止策や保護具などについて具体的な措置を指導すべきであつたのに、右調査に基づいて行つたことは、調査対象となつた事業場に対し昭和三九年二月一七日大基発一九四号(乙第四号証)を送付しただけであつて、本件事業所における法令違反とその是正に関する具体的指摘は全くなく、粉じん防止策に関する是正は完全に欠落していた。

大阪局としては、従業員らに対し特殊健診すら受けさせていない植田に右健診結果を送付するだけでは極めて不十分であり、少なくとも亡堀内及び原告宮路に対し診断結果を通知すべきであつた。右健診結果に基づいてしかるべき予防措置が講じられていたら、右原告らのマンガン中毒症の進行は防止できたはずであり、同原告らに直ちに精密健診を行い又は行わしめていたならば、その回復も可能であつたのである。

植田は、昭和四五年ころ以降近隣住民から公害問題を指摘され、昭和四八年ころからの被告や大阪府からの強い指導によつて、不十分ながら防じん対策を講ずるに至つているのであつて、このような点からすると、被告の監督機関が植田に対し一貫した強い行政指導、是正勧告等を行えば、植田としてもこれに従つたとみることができ、昭和四〇年一月ころに植田がこれに従わなかつたとすれば、より強力を使用停止等の処分や司法処理までに行えばよいと考えられるから、本件事業所に対する関係において、被告の不作為の違法性は、原判決の判示に従つたとしても、健康診断に関する指導等を含めて、遅くとも昭和四〇年一月以降において認められるべきである。

大阪局は、守口署に対して昭和四二年度衛生管理特別指導(以下「衛特」という。)を指示したので、守口署は、これを受けて、従前マンガン中毒症を多発していた本件事業所を昭和四二年度衛特の対象事業場として指定した。しかし、守口署による右衛特における指導監督は、極めて不十分なものであつた。

第一に、守口署の本件事業所に対する指導監督の実施回数は二回にすぎず、しかも衛特の結果報告も昭和四三年四月二四日に提出されたが、いずれも大基発四二六号に反するものであるうえ、本件事業所から守口署に対して改善計画が提出されたのは更に遅れて同年五月一〇日であつて、このように昭和四二年衛特における守口署の本件事業所に対する監督指導が大阪局の指示である大基発四二六号に反するものであつたことの一事をもつてしても、守口署の右監督指導がいかに不十分なものであつたかは如実に示されている。

第二に、守口署の指導に対する本件事業所の改善計画(丙第九号証)は不十分極まりないものであつて、① マンガンの特殊健診については「大東市民病院に交渉中」、② ボールミル、フレットミルの局所吸引排出装置については「完成五月二〇日」、③ フレットミルの囲いの密閉については「五月一五日までに補修完了」、④ 騒音防止対策については「目下改装中五月二五日完成」というようにいずれも「交渉中」であるとか、将来の完成予定期日を記載しているにすぎなかつたのであるから、守口署としては、本件事業所において提出した改善計画の実施の有無を確認するために本件事業所を再監督し、もし改善がなされていなければ更に是正を求め、なおも是正しなければ、使用停止等の処分や司法処理を行うべき義務があつた。しかるに、守口署は、再監督の重要性をあえて無視し、かつ、大基発四二六号の指示に反して、再監督による効果的な把握をなさず、本件事業所が改善計画に基づいて改善を実施したか否かの確認を全く怠つた。

そのため、本件事業所は、特殊健診を右指導時はもとよりその後も継続して実施せず、粉じん防止策も講ぜず、規格について労働大臣の検定を受けたマスクも備え付けず、かつ、騒音防止策も講ぜず、旧労安衛則一七二条、一七三条、一八一条、一八三条の二、一八四条、一七六条、一八三条違反の状態は昭和四二年度衛特以降も続いた。

このようにして、亡堀内及び原告宮路は、昭和三八年度労働衛生実態調査における健診で「要精診a」との診断を受けたが、そのまま精密健診を受けることなく放置されたうえ、その後も特殊健診を実施されず、また、保護具も備え付けられない作業環境下で症状を憎悪させ、新たに原告森川ヤスヱが昭和四三年ころマンガン中毒症の初期症状を発症するに至つた。

(4) 昭和四六年夏以降の被告の不作為の違法について

昭和四六年九月一〇日の環境測定結果によれば、総粉じん中のマンガン気中濃度は比較的低い値となつているが、本件事業所においては唯一の集じん装置として昭和四六年一月にロータリーキルンに湿式収じん装置が設置されたものの、多量のマンガン粉じんに対して右装置も効果がなく、昭和三八年以降これ以外にみるべき粉じん防止措置は一切とられていなかつたのであるから、昭和三八年の労働衛生実態調査に際しての環境測定結果に照らし、昭和四六年九月一〇日の環境測定結果は信用できない。のみならず、公害対策として大阪府が同年六月一五日から同月一八日にかけて行つた工場周辺の環境測定結果において、工場敷地外で空気一立方メートル中のマンガン量が〇・二ミリグラムを超える数値が記録されているのであつて、工場内の方が工場敷地外よりも低い数値となることは考えられない。昭和四六年に労働基準監督署が環境測定を行う場合には事前通告がされていたのであるから、本件事業所において、あらかじめ工場内を掃除し、散水により鉱石を湿らせ、粉砕機に投入する鉱石量を調節するなどして粉じん発生量を人為的に減少させていたのである。したがつて、本件事業所では昭和四六年夏以降も原審原告らの生命、身体及び健康に対する切迫した危険が継続していた。

被告の監督機関は、昭和四六年四月二八日の特化則施行に伴う一せい監督を行つたが、右危険の切迫を知つていたにもかかわらず、その監督指導はずさんであり、その後の昭和四八年三月の大阪局労働衛生課と守口署との監督指導においてその不備が指摘された。

昭和四八年三月の大阪局労働衛生課と守口署との監督指導において、四項目にわたる特化則違反が指摘され、これらを是正するようにとの行政指導がなされた。植田は、右行政指導に従い、三か月後に局所排気装置を各所に設置するとともに初めて特化則に基づく健康診断を実施した。これらの行政指導に従つた各処置については写真等を添付した具体的な是正報告書の提出がなされるとともに、監督官が現場に赴いてその実施状況を現認し、あわせて再度の監督指導をなした。このように監督機関がまともな監督行政を行つたのは、植田が廃業する一年前であつて、遅きにすぎていた。

被告の監督機関は、昭和四六年夏ころ以降も作為義務を負つていたものであつて、遅くとも昭和四八年の監督指導までの作為義務の懈怠は違法である。

(三) 原審原告らが本件事業所において業務に従事中マンガン粉じんによつてじん肺に罹患したが、これは、本件事業所の作業環境の劣悪さによるものであつた。昭和三六年一月一八日に監督機関の指導によりじん肺健診が行われた。じん肺法六条は使用者が定期的にじん肺健診を実施すべきことを定めているが、植田は、昭和三六年以降昭和四五年までこれを実施していなかつたのであり、これに加えて、原告森川松太郎や杉本光二がマンガン中毒症に罹患し、有所見者が続出していた本件事業所の作業環境のもとでは、マンガン粉じんによるじん肺発生について遅くとも杉本の労災認定がなされた昭和三七年ころには差し迫つた危険があつたといえるし、少なくとも昭和三七年の調査を通じて被告の監督官としては右状況を知り又は容易に知ることができたといえる。このようなじん肺発生の差し迫つた危険の存した状況下において、監督機関としては、本件事業所に対し、前述したマンガン中毒を防止するための粉じん防止策をとらせ、かつ、じん肺法六条に基づくじん肺健診を実施させてその報告を求め、あるいは昭和三六年におけるじん肺健診のように自らこれを実施すべき義務があつたというべきである。

しかるに、被告の監督機関は、その後、本件事業所に対し、じん肺について何らの防止策もとらせず、じん肺健診も実施させず、自らもこれを行わなかつたものであつて、被告の不作為の違法性は、前記マンガン中毒についてと同様に、じん肺についてもまた認められるべきである。

そのため、亡堀内は、右期間にじん肺を発症し、昭和五八年六月にじん肺により死亡するに至つたのであり、原告宮路及び同森川ヤスヱも右期間中にじん肺に罹患し病状が改善しないまま現在に至つている。

(四) 本件事業所においては、昭和三六年ころボールミルが設置されて稼働をはじめ、全設備が稼働するようになるや、作業場の騒音は極めて強烈なものとなつた。それにもかかわらず、本件事業所では旧労安衛則一七六条に規定する騒音防止対策は全くとられず、同規則一八三条に規定する耳せんその他の保護具も備えられておらず、右各規定に違反していた。そして、本件事業所においては、廃業直前の昭和四九年三月一五日における騒音測定結果でも一〇〇デシベルを超えていたのであるから、その間の騒音の強烈さは容易に推認でき、これをそのまま放置すれば、従業員に難聴等の耳の疾患が発生する差し迫つた危険があつたというべきであつて、監督機関としては、遅くとも昭和三七年の調査に際し、右状況を知り又は容易に知り得たものであつた。それゆえ、被告の監督機関としては、右各規定に基づき本件事業所に対し騒音防止対策を講じさせ、耳せん等の保護具を備えるよう是正勧告等をすべき義務があつたにもかかわらず、その間の指導等において本件事業所に対し右行為をさせる義務を尽くさず、昭和四二年の衛特に基づく調査の結果、ようやく昭和四三年四月になつて騒音対策を指導したに止つたのである。

亡堀内は、本件事業所で強烈な騒音を発するボールミルの作業を担当していたため、昭和三九年か昭和四〇年ころに難聴となつたものであつて、この点についても被告の不作為の違法は肯認さるべきである。

(五) 原審原告らは、本件事業所の廃業後である昭和五〇年二月から大阪局及び守口署と交渉を始め、同年三月一〇日に総評大阪地域合同労働組合植田マンガン分会(以下「組合」という。)を結成してその後の交渉にあたつた。

守口署長北澤恒男は、同年七月一日、組合及び支援団体に対し、「昭和三八年を除き、昭和三一年以降昭和四六年までの特殊健康診断及び昭和四七年度の特化則に基づく健康診断の未実施、事前通告等による立ち入り調査の不備、健康診断結果の検討不足等にみられる守口署の監督指導の怠慢が、本件事業所における従業員の健康破壊(マンガン中毒、じん肺)を助長してきた」ことを認め、監督行政の怠慢を自認した。

大阪局は、昭和五〇年七月四日、組合等に対し、「昭和三八年調査はそもそもマンガン中毒予防のために実施したものであるが、……調査の趣旨は生かされず、調査で見つかつた異常者すら現在まで放置し、また、マンガン中毒から従業員を守るために何もしてこなかつた行政の責任を深く認めて謝罪し、今後は労働者の健康を守るために労働者の側に立つて予防監督行政に徹する」として、昭和三八年度衛生実態調査における健診に際しての不作為の違法を認めた。また、大阪局は、昭和五〇年七月二九日、組合等に対し、「特化則に基づく健康診断をさせる行政指導を怠つてきた責任を認めて深く謝罪します」と特化則に基づく健康診断について、監督機関の不作為の違法を認めた。

6  被告主張の原告森川松太郎に関する時効について

被告は、原告森川松太郎については時効が成立している旨主張するけれども、民法七二四条によれば、不法行為による損害賠償責任は被害者が損害及び加害者を知つたときから時効期間が進行する旨を定めているのであつて、右原告において被告が加害者であることを知つたのは、昭和五〇年以降の大阪局や守口署との交渉を通じてであつて、本訴を提起した昭和五一年八月一九日には未だ三年の時効期間が経過していないことは明らかである。

7  亡堀内達三は昭和五八年六月二六日死亡し、その子である原告中村道子及び吉川敏子は、相続人として亡堀内の権利義務を二分の一ずつ承継した。

8  原審原告らの損害は、原判決事実摘示中の請求原因7に記載のとおりであり、各原告につき一〇〇〇万円を下ることはない。

三被告の当審における主張

1  行政の権限不行使の違法性について

公権力の行使にあたる公務員の不作為が違法として国が賠償責任を負うためには、当該公務員に作為義務が存しなければならない。そして、その作為義務は、賠償を求める個人に対し負うものであつて、行政上の責務又は道義上の作為義務では足りず法律上の作為義務であることを要し、また、具体的な作為義務であることを要する。労働保護行政は、公共の福祉増進のため積極的な行政活動を行うが、その場合でも経済活動を行う事業所に対する規制をとおして事業者の責任のもとに労働者保護を図るとの構造をとつているのであり、労働者個人に対する義務として行われるものではない。

本件において問題となる行政の根拠法条は、旧法五五条(労安衛法九八条)による行政官庁の使用停止等命令権、労基法一〇二条(労安衛法九二条)による労基官の司法捜査権であるが、右の使用停止等命令権などの行使についての規定は、命ずることができる旨又は司法警察員の職務を行う旨を定めていて、これらの権限をいつ、いかなる場合に行使するかは行政庁の自由裁量に委ねられているのである。すなわち、旧法、労安衛法においては、行政は、労働者の安全衛生を確保するための規制基準を定め、事業者らにその遵守義務を課し、事業者らの監督指導を通じて事業者の自主的な行為により右規制基準の履行確保を図り、その結果として労働者の安全衛生の確保に努めているのであるが、その際に行政が右の権限を行使するのは、事業者が規制基準を無視しているため事業者の自主的な安全衛生活動を全く期待しえないといつた場合に必要に応じて行うのであつて、ここでもいわゆる行政比例の原則が働くのである。

右の理は、人の生命、身体が侵害された場合にも同様であり、行政庁の不作為による不法行為については、人の生命、身体が侵害されていても不作為だけでは不法行為責任を問われる余地はなく、不法行為が成立するためには、単に権限不行使があるだけでは足りず、不作為が作為と同視される程度であることが必要である。本件における根拠法規である労基法及び労安衛法などは、労働者の安全、衛生を守ることを使用者の責務と定め、労使一体となつて労働環境の向上を図ることをめざしており、行政庁がこれを後見的に取り締まることとしている取締法規である。しかも、行政庁の監督権限は、自由裁量として定められていて、義務とはされていない。このような場合には、権限不行使が法規違反となる余地はなく、作為と同視される余地もないから、被害者との関係で作為義務が生じることはないといわねばならない。

2  裁量権濫用の法理ないし裁量権収縮理論について

行政権限の行使・不行使が公務員の裁量に委ねられているときは、原則としてその行使・不行使について当・不当の問題が生じても、違法の問題を生ずることはない。

本件における国の責任を考察するにあたつて重要なことは、職業性疾病を含む労働災害の予防と補償に関しては、特別の責任法理と補償制度が確立していることである。すなわち、労働災害の予防に関して、工場法(明治四四年法律第四六号)、旧法、労安衛法は一貫して労働災害の予防のために措置を講ずべき義務を使用者に課しているのであり、また、労働災害に対する災害補償に関しても工場法、労基法とも無過失責任主義に基づく補償責任を使用者に課しているのである。更に、当該労働災害の発生に関して使用者に労働契約上の債務不履行(たとえば、安全配慮義務違反)がある場合又は当該労働災害が使用者の不法行為によつて発生したものである場合には、使用者は被災労働者に対して民法上の損害賠償責任を負うとするのも確立した法理である。

このように加害主体が明らかであり、かつ、その責任法理が確立している労働災害の場合においては、労働災害の防止は労使一体となつて行われるべきものであり(労安衛法四条参照)、労働災害の問題は労使の当事者間において処理さるべき事柄であるから、国が損害賠償責任を負うとしても、それは、直接の加害者の不法行為に加功・加担したとみなされるような特殊・例外的な場合に限られるべきである。

前述のとおり、行政庁の監督権限の不行使が違法とされるためには行政庁に作為義務がなければならず、行政庁の監督権限の行使が自由裁量とされ、しかも本来の責任者が存する場合には、行政庁の作為義務は生じないというべきであるが、仮に、裁量権が収縮する場合、すなわち、行政庁の監督権の不行使が違法とされる場合があるとすれば、それは、「権限の不行使が裁量の範囲を超えて著しく合理性を欠くとき」と解すべきである。そして、これが認められるためには、行政庁としてとりうる権限の行使が一義的に明確であつて、権限の不行使が作為と同視される程度のものであることを要し、そのような場合にはじめて作為義務が成立するとみるべきである。しかも、「権限の不行使が裁量の範囲を超えて著しく合理性を欠く」か否かは、各行政庁の具体的権限によつて異なるものであるから、具体的法規の趣旨と具体的状況とによつて判断さるべきである。

3  本件における作為義務の不存在について

本件において、大阪局及び守口署の本件事業所に対する監督権限の不行使が裁量の範囲を超えて著しく合理性を欠くものでなかつたから、右各行政庁に権限行使の作為義務はなかつた。これを詳述すると、次のとおりである。

(一) 大阪局及び守口署が本件事業所に対して行つてきた労働環境についての臨検調査やマスクの備付、健康診断などについての行政指導並びにこれに対する本件事業所の対応は、原判決事実摘示第二の二6(五)(1)ないし(13)記載のとおりであつて、右記載の経過にみられるとおり、大阪局及び守口署は、機会あるごとに本件事業所に臨んで調査測定を実施し、あるいは本件事業所から各種の報告を受けたりして、それに基づく指導を何回も行つてきた。その結果、本件事業所の労働環境も徐々に改善され、昭和四六年の調査ではマンガン粉じんの気中濃度がコンマ以下の数値にまでなり、また、従業員の健康診断においても昭和四一年以降は「異常なし」との判定報告がなされていたのである。

(二) 本件における行政権限行使の根拠法条である旧法五五条一項の使用停止等処分の要件である「安全及び衛生に関し定められた基準」は、旧法四二条、四三条、四五条、旧労安衛則一七三条であるが(旧労衛則一八一条については、前記のとおり、検定マスクの備付が確認されている。)、旧労安衛則一七三条の規定にある「場内空気のその含有濃度が有害な程度にならないように」の「有害な程度」の基準は右旧法当時に示されていなかつたのであり、しかも、使用停止及びこれに準ずるような処置をとることは事業者ひいてはそこに働く労働者に大きな犠牲を強いることになるため慎重になされるべきことであり、行政指導に従つて曲りなりにも環境改善を行つてきている事業者に対し安易にとりうることではなかつた。また、旧法四二条、四三条、一一九条一項の司法処理についても、犯罪の嫌疑がなければなしえないことであり、右のように具体的基準の示されていない要件であること及び当時の本件事業所の状況からして、旧法四二条、四三条違反の犯罪までの嫌疑があるとすることはできなかつた。

(三) 以上のとおりであつて、行政庁の指導と本件事業所の対応とにより労働環境の改善が一応なされつつあり、従業員の健康診断も異常なしとの報告が繰り返されていた状況において、行政庁が強制権限を行使せずに行政指導によつて事業者の任意履行を待ちつつ労働環境の改善を図つたことが「権限の不行使が裁量の範囲を超えて著しく合理性を欠くとき」に該当するとはいえないし、また、前記のような本件事業所の対応及び労働環境状況が行政庁の裁量の余地がなく権限行使の作為義務が生じる事態であつたといえないことは明らかである。

4  行政庁の不作為の違法に関する原判決のいう四要件について

(一) 原判決は、行政庁の監督権限の不行使が違法となる場合の要件として、前記のとおりの甲、乙、丙、丁各事項の四要件をすべて充足することを要するとしている。

しかし、前述のとおり、行政庁の監督権限の不行使が違法とされる場合があるとしても、それは「権限の不行使が裁量の範囲を超えて著しく合理性を欠くとき」であつて、原判決のいう四要件をもつて裁量権収縮の要件とすべきではない。なぜならば、第一に何ゆえにこの要件に該当すれば裁量が収縮するのかその根拠が十分でなく、第二に具体的事件においてはその内容、態様等がそれぞれ異なつていて、当該事案ごとの個別的事情を無視して同一の要件で判断することは本来不可能であり、不当でもあるからである。

(二) のみならず、本件においては、原判決のいう四要件を充足していない。これを詳述すると、次のとおりである。

(1) 甲事項について

本件におけるマンガン中毒のように遅発性の疾病について危険の切迫を認めることができないのであり、そのうえマンガン粉じんの暴露量、暴露期間については業務の内容、業務歴による個人差があるほか、毒性が比較的低いマンガンの場合には中毒発症に関しても相当の個人差が認められるのであるから、危険の切迫も各々の事情に応じたものでなければならない。

本件事業所において、昭和三四年の労働環境測定調査では三六及び八四mg/m3、昭和三八年度労働衛生特別実態調査では四・二、八・四及び一七・一mg/m3のマンガン気中濃度の測定値が得られているが、このデーターは、発じん量の最も多いと思われる粉砕機周辺における局所的なものであつて本件事業所の全体的な気中濃度とみることはできないし、当時健康管理の参考とするためにA・C・G・I・Hの勧告値(マンガンに関しては、一九五〇年代は六mg/m3、一九六〇年代は五mg/m3であつた。)が用いられることがあつたが、この勧告値は、労働者の健康に関して有害・無害の判断基準となるものではないから、本件事業所における測定データーと右の勧告値を対比して評価するのは妥当でない。

そして、防じんマスクの装備は検定合格品を用いることによつて九〇パーセント以上の粉じんの吸入を防止できるのである。

以上のとおりであつて、本件においては甲事項を充足しないというべきである。

(2) 乙事項について

危険の切迫に関する予見可能性の程度については一見して明らかな程度でなければならないところ、本件事業所におけるマンガンの気中濃度は、昭和三四年の測定値に比して昭和三八年のそれが大幅に減少しており、昭和四六年、四八年、四九年の測定では特化則で定められた許容限度に比して問題にならない数値となつていること、昭和三八年の調査において一部従業員に「要精診」の結果がでたものの、昭和四一年、四五年の健康診断結果報告において「異常なし」となつていたことからして、監督機関において危険の切迫していることを容易に知りえなかつたばかりか、その予見可能性を認める余地もなかつたのである。

したがつて、本件においては乙事項も充足していないというべきである。

(3) 丙事項について

丙事項は、規制権限の行使によつて結果回避が可能であり、かつ、権限行使がなければ結果発生を回避しえないとするもので、結果回避可能性と補充性とが相関関係にあつてそれぞれが重要な要素とされている。

本件における結果回避可能性とは、事業者をしてマンガン粉じんの発散抑制の措置を講じさせるか又は労働者に防じんマスクを完全に着用せしめることである。この点については、マンガン気中濃度の推移からも明らかなように環境改善は徐々にではあるが行われていたこと、また、防じんマスクの備付及びマンガン特殊健康診断の実施も十分とはいえないまでもなされていたこと、しかも、これらの措置は数次にわたる監督指導を受けてのものであつて、本件事業主が監督指導に全く耳をかさないような状態ではなかつたのであるから、規制権限を行使しなければ結果発生を防止しえないという関係にはなかつた。

更に、捜査は、犯罪の成立に関し確たるものがなければ着手すべきではなく、これが犯罪捜査以外の目的をもつてなされてはならないことが自明の理であるから、司法処理すなわち司法捜査権限の行使をもつて結果回避策の一つとすることは許されない。

してみると、本件においては丙事項も充足していないというべきである。

(4) 丁事項について

昭和四三年以降の本件事業所の状況においては、行政指導はともかくとして司法処理や使用停止等の処分まですることが社会的に容認せられていたとは認められないから、本件においては丁事項も充足されていなかつた。

四証拠関係<省略>

理由

一原審原告らと植田との雇用関係及びこれらの者と被告との関係、本件事業所における作業環境、原審原告らのマンガン中毒・じん肺罹患等並びにこれらの情況に関する植田の対応についての当裁判所の認定判断は、次のとおり付加・訂正するほかは、原判決理由中の右の点に関する認定判断の記載(原判決七〇枚目表六行目から八三枚目裏三行目まで)と同じであるから、これを引用する。

1原判決七二枚目表四行目の「第四一号証、」の次に「第六一号証の一、二」を、同一二行目の「第三号証の一、二、三、」の次に「弁論の全趣旨により真正に成立したと認める甲第六二号証の一、二、第六三、第六四号証、」を、同裏一行目末尾に「当審における原告宮路忠、同森川ヤスヱ各本人尋問の結果、」を各加える。

2原判決七七枚目表一〇行目から同裏二行目までを次のとおり改める。

「亡堀内は、昭和五〇年一月当時に左耳難聴、緩慢歩行、方向転換困難、突進現象、握力低下、筋強剛等の症状があり、同年二月二六日にマンガン中毒症として労災認定を受け、昭和五八年六月二六日に肺癌で死亡したが、同年八月一日に守口署により右死亡は業務災害であるじん肺に起因するものと認定された。」

3原判決七七枚目裏一〇行目から七八枚目表一行目までを次のとおり改める。

「原告宮路は、昭和五〇年九月六日にマンガン中毒症として労災認定を受け、現在は易疲労性、歩行障害、精神集中困難、情緒不安定、不眠、頭痛、筋肉痛(特に四肢に時々強い筋肉のけいれんを伴う。)があり、突進現象が出現するなど増悪傾向がある。」

4原判決八〇枚目裏四行目を次のとおり改める。

「原告森川松太郎の現在の症状は、強度の運動失調が持続し、歩行障害、言語障害、書字障害があり、歩行障害についてはわずかずつではあるけれども進行傾向を示し、前のめりに倒れる頻度も増加してきている。」

5原判決八〇枚目裏一二行目から八一枚目表三行目までを次のとおり改める。

「原告森川ヤスヱは、昭和五〇年一二月二四日にパーキンソン症状として労災認定を受け、現在は手指振せん、軽度の歩行障害・構音障害・書字障害、四肢の知覚異常・しびれ、痛み、脱力感等があり、歩行障害の程度はやや増悪傾向を示して突進現象が出現してきている。」

6原判決八三枚目表一一行目の「但し」から同裏三行目末尾までを次のとおり改める。

「なお、亡堀内の難聴については、成立に争いのない甲第六〇号証、当審における原告宮路忠本人尋問の結果により真正に成立したと認める甲第五九号証、原審証人佐川守の証言により真正に成立したと認める丙第九号証に原審における原告堀内達三及び当審における原告宮路忠各本人尋問の結果を総合すると、亡堀内は、昭和三七年ころ本件事業所に西側ボールミルが設置されて以降昭和四四年ころまで右ボールミルにマンガン鉱石を投入する作業に一日八時間以上も従事していたが、昭和三九年か四〇年ころに難聴となつたこと、右ボールミルにマンガン鉱石を投入した際に発生する騒音は極めて強烈なものであつたため、昭和四三年四月ころ守口署から騒音対策を指示され、その対策が講じられたが、それでも昭和四九年三月一五日に大阪府大東市によつて実施された本件事業所における騒音測定では右ボールミル付近の騒音は一〇〇デシベルを超えていたこと、日本産業衛生協会許容濃度専門委員会の勧告に係る健康な大人の男子労働者が一日八時間労働を行う場合の騒音許容レベルは、ほぼ九〇デシベルであることが認められ、以上の事実を総合すると、亡堀内は、昭和三九年か四〇年ころ、前記作業中に右ボールミルから発生する強烈な騒音により難聴に罹患したものと確認され、他に右認定を覆すに足る証拠はない。」

7亡堀内達三が昭和五八年六月二六日に死亡し、原告中村道子及び同吉川敏子がその子として亡堀内の権利義務を二分の一ずつ相続により承継したことは、被告において明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。

二そこで、被告が原告らに対し国家賠償法一条一項に基づく損害賠償責任を負うべきか否かにつき、判断する。

1原告らは、被告の監督機関が旧法五四条、五五条及び第一一章の各規定に基づき、あるいは憲法二五条、二七条、旧法一条、一三条を根拠に、労働者の生命、身体及び健康に悪影響を及ぼすおそれのある事業場に適宜臨検し、使用者に対し作業環境の改善等の指導、助言、勧告をなすなどの行政指導をし、場合によつては作業の停止や変更をなすことなどの行政措置を講じて、労働者に労働災害若しくは職業病が発生することを未然に防止し、あるいは早期に発見して危険を除去しその増悪を防止すべき義務がある旨を主張(原判決事実摘示第二の一6の(一)ないし(三)、当審原告ら主張の1)するので、検討する。

労働基準法は、労働者の生活を保障するために、労働条件の最低基準を設定し、これを民事上実現する(一三条)と同時に、罰則を設けてこれに違反する使用者に刑事罰を科することとし、その実効を確保している。そして、右労働条件の維持、労働者の安全衛生、労働災害の防止は第一次的には使用者の義務とされ、国は後見的立場において使用者の右義務履行を監視し、場合によつては罰則を背景としその圧力によつて違反行為の発生を未然に防止し、またこれを終息させるべく行政指導を行うものである。

右の理は、現行労基法及び旧法ともに変わりはないところであるが、右行政的監督につき、労働者に対する関係で監督義務を直接的に定める規定はない。原告ら主張の旧法五四条は、事業場設置等の場合の使用者の届出義務と行政官庁の使用者に対する工事の差止め又は計画変更の権限を定め、旧法五五条は、労働者を就業させる事業の建設物、寄宿舎、設備、原料、材料等が安全衛生の基準に違反する場合の行政官庁の使用者に対する使用停止等の命令権限を定め、更に、旧法一〇一条一項ないし三項は、労基官による臨検、帳簿書類の提出、尋問、強制検診、有害物収去に関する権限を規定し、旧法一〇三条は、使用者が右安全衛生の基準に違反し、かつ、労働者に急迫した危険がある場合、労基官は、五五条の規定による行政官庁の権限を即時に行うことができると定めていた。しかし、右は行政官庁の権限行使を直接に義務づけたものとは解することはできず、また、旧法五四条二項は、同条一項により届出された計画を審査した結果、その計画による建設物又は設備の設置、移築又は変更が労働者の安全衛生上不備であると認める場合には、所轄労働基準監督署長は、工事の着手を差し止め、又は計画の変更を命ずることができる旨を規定し、旧法五五条一項も、建設物、設備又は原料、材料が安全及び衛生に関し定められた基準に反する場合には、その全部又は一部の使用の停止、変更その他必要な事項を命ずることができると規定し、更に、旧法一〇二条は、労基官の司法警察員としての職務権限を規定しているけれども、右各規定をはじめ旧法及びその関連法令における労働者の安全衛生及び労働災害防止に関する諸規定は、いずれも使用者をして第一次的かつ最終的義務者であることを前提とし、行政官庁の権限は右使用者の義務履行を後見的に監督するものとされているのであつて、このような労働基準監督行政の性質からして、行政官庁による右諸規定に定められた権限の行使は、その合理的な裁量に委ねられたものと解するのが相当である。

また、右労働基準監督行政の性質及び国としては労働者災害補償保険法に基づき労災保険を管掌運用することにより労働災害に対する行政的救済を図つていること並びに安全衛生と労災防止については労働者もこれに努めるべきものであること等を併せ考えると、原告らが主張するような憲法二五条、二七条、旧法一条、一三条を根拠にしても、右労働基準監督機関に原告ら主張のような行政上の措置ないし行政指導をなすべき義務を労働者との関係において直接に認めることはできない。

原告らの右主張は採用できない。

2次に、原告らは、原審原告らのマンガン中毒症、じん肺等の罹患及び憎悪について、被告の監督機関による監督権限の不行使につき違法性が存したと主張(原判決事実摘示第二の一の6の(四)、当審原告ら主張の2ないし5)するので、以下これを検討する。

(一)  労働者の安全と衛生は、第一次的に使用者においてその責任を負担し、労使の協力によつて確保すべきものであり、本件のような労働災害は、使用者と労働者の間において発生するものであつて、これにより労働者が被つた損害に対しては使用者においてこれを賠償すべきものであることは多言を要しない。また、一定限度の労災補償については労働者災害補償保険法によつても確保されている。

労働基準監督行政は、使用者の安全衛生ないし労災防止義務の履行を確実ならしめるために行政的監督を行うものであり、監督機関による監督権限は使用者に対して行使され、労働者に対して行使されるものでなく、監督機関が労働者に対して直接的に責任を負うものでなく、右権限の行使も監督機関の裁量に委ねられていることは前説示のとおりである。したがつて、監督機関の権限の行使、不行使と本件のような労働災害による損害との間においては、本来、法律的に相当な因果関係はないものであり、このように解したとしても労働者の労働災害による損害の補填について格別の支障はないはずである。

しかしながら、労働基準監督行政が労働者のために最低の労働条件を保障することを目的とし、監督機関の使用者に対する広範な監督権限を認め、労働者の安全衛生については前記のように使用者に対して建設物、設備等又は原材料について使用の停止、変更を命じることができ、更に司法警察員としての権限を行使することができる等、強力な権限を監督機関に与えているのであり、右権限の行使は個別、具体的な事業場につき当該事業場の労働者保護を目的としてなされることに鑑みると、監督機関が具体的事案について右権限の行使・不行使について著しく合理性を欠く場合においては、当該労働者との関係で違法であり、国家賠償責任の生じる場合がないとはいえない。いかなる場合がこれに当たるかは、具体的事案について個別的に検討すべきであり、これを一般的抽象的に論じることは当をえないけれども、上来説示の労働基準監督行政の目的、性質並びに監督機関、使用者及び労働者の関係からして、少なくとも当該事業場につき労働者に対し切迫した重大な危険の発生が予見され、監督機関の監督権限行使以外の方法によつては危険の発生を防止できず、かつ右権限の行使によつて危険の発生を防止することが可能であるのに、監督機関が右権限を行使しなかつた場合にこれを認めるべきであるということができよう。

右に反し、労働基準監督行政において、監督機関は労働者に対して直接責任を負うことなく、仮に責任を負うとしても使用者の違法行為に加功・加担したような特殊例外的な場合に限る旨の被告の主張(原判決事実摘示第二の三の6の(二)及び(二)、当審被告主張の2)は採用できない。

また、原告らは最高裁判所(二小)昭和五九年三月二三日判決の判示を引用し、本件においても監督機関によつて原告らの生命、健康の危険を予見でき、その権限行使によつて右危険の防止が可能である場合であるから、右監督機関の権限不行使に違法がある旨主張(当審主張2)するが、右判決にかかる事案は警察官の職務執行権限に関するものであつて、本件とその事案を異にするものであるから、原告らの右主張をそのまま採用することはできない。

(二)  (事実関係)

まず、本件における労働者の安全衛生及び労災防止に対する被告の監督機関の対応についての事実関係をみるに、前記引用にかかる原判決認定の事実(争いない事実を含む)、<証拠>を総合すると、次の事実を認定することができる。

(1) 本件事業所の業務は、マンガンの原鉱石を粉砕して粉末を製品化するものであり、その工程は、おおむね、原鉱石の搬入、検査、貯蔵、乾燥(天日、火力)、粗砕、ふるい選鉱、比重選鉱、微粉砕、秤量袋詰及び出荷である。

右工程のうち、粉砕、乾燥、運搬の工程について、当初は、胴突、東フレットミル及び西フレットミルで行われていたが、昭和二五、六年ころクラッシャーが新設され、同二八年ころ東ボールミルが新設され、胴突が廃止され、同二九年ころ火力乾燥が導入され、同三五年ころベルトコンベアが新設され、同三七年ころにはボールミルにサイクロンが付設され、同三八年ころにはロータリーキルン、フォークリフトが導入され、フレットミルも大型に更新され、同四二年ころにはクラッシャーの更新、同四三年ころには小フレットミルの新設がなされるなど、その工場設備は漸次増設、更新されて行つた。

従業員も当初は五、六人位であつたが漸次増加し、昭和三〇年代には二〇人を超えるようになつた。

これにともない、製錬量は、少なくとも、当初は〇・五トンないし一トン(一日当り平均量、以下同じ。)であつたのが、昭和二五年以降約一・五トン、同三一年以降約六トン、同三八年以降約一八トンと増加して行つた。

作業時間も、昭和二五年以降は粉砕機械が毎日稼働するようになり、同二八年以降は残業、休日労働も増加し、同三〇年以降は残業時間も月平均四〇ないし四五時間に及ぶこともあつた。

(2) 原鉱石搬入から製品出荷に至るまでの各作業工程においてマンガン粉じんは発生し、設備の増設にかかわらず工場敷地が拡張されなかつたこともあり、マンガン粉じんは強弱の差はあれ工場内各所に飛散し、工場敷地内の社宅にも及び、更には附近住宅にも及ぶ状況であつて、昭和四三年ころには附近住民から公害であるとの苦情が出るようになつた。

(3) 既に認定のとおり、原審原告らは本件事業所に雇用されていたものであるが、亡堀内達三(大正四年三月一七日生、昭和五八年六月二六日死亡)は、昭和二一年九月から同四六年七月まで従事し、同三六、七年ころ発症し、同四六年にはじん肺、同五〇年にはマンガン中毒症により各労災認定を受けた。原告宮路忠(昭和五年六月一三日生)は、昭和三五年一一月から同四九年一〇月まで従事し、同三八年ころ発症し、同五〇年九月マンガン中毒症により労災認定を受けた。原告森川松太郎(明治四五年三月四日生)は、昭和二〇年から同三三年まで従事し、同三〇年ころ発症し、同三四年にマンガン中毒性パーキンソン症により労災認定を受けた。原告森川ヤスヱ(大正元年五月三〇日生)は、昭和二〇年ころから原告森川松太郎とともに前記本件事業所敷地内に居住し、同三七年四月から同四五年まで従事し、同四二年ころ発症し、同五〇年にマンガン中毒によるパーキンソン症として労災認定を受けた。

他に本件事業所に雇用されていた労働者(明治四四年八月九日生)一名が昭和三七年にマンガン中毒症を発症し、同年末に労災認定を受けた。

(4) 労働省労働基準局長は、毎年都道府県労働基準局長宛に労働基準行政の運営方針を示し、大阪局長はこれに則り管内労働基準監督署長に運営方針を示し、守口署長は管内の特有事情を考慮して監督実施計画を立てた。

監督機関の行う行政の範囲は、一般労働条件の確保、労働災害の防止等多岐にわたり、経済の発展とともに事業場が増加し、その取扱分野も広まり、労働監督行政の需要は拡大する一方であり、監督官一人当たりの事業場数は、これを守口署についてみると、昭和三七年度において署長を含む監督官三名に対し適用事業場数三四七七、同四五年度において五名に対し一万〇〇四三、同五〇年度において七名に対し一万九三六三という状態であり、右監督官のうち署長は、その職責にかかる業務の関係から事業場に行き直接に監督指導をなしえなかつた。

かかる監督機関の体制をもつて行政の需要に応じるためには社会的要請等を考慮して要急分野を重点的効率的に取扱うほかはない。昭和二〇年代の監督行政の重点は労働基準法の周知普及であり、昭和三〇年代前半は、一般労働条件特に繊維産業等における女子、年少者の時間外、深夜労働等の取締りであり、労働衛生面では結核対策と職業病対策であり、昭和三〇年代後半から昭和四〇年代前半にかけては一般労働条件の確保と労働安全対策であつた。

監督指導の基本方針は、昭和三一年ころまでは、違反の実態と原因の把握、納得と協力をもつて基本方針とし、その後は法の厳正な運営を加えて両者相まつて行うこととされた。

事業場に対する臨検監督は、労働基準局長通達等に示された方法に従つて行われるが、計画的に監督対象を選定して行う定期監督、定期監督等の結果、重大若しくは悪質な法違反の認められた場合に是正のための再監督、労働者の申告のあつた場合に必要に応じて行う申告監督、死亡災害等重大な災害が発生した場合に必要に応じて行う災害時監督が一般的である。法違反等に対する措置としては、重大なものについては司法警察員としての捜査を行い送致するもの、特に危険のおそれが大きいものに対する使用停止等の命令をなすが、その他の法令違反に対してはその是正を求める是正勧告書の交付、是正のための技術的手法等を指導する指導票の交付又は口頭指示をなし、右監督を行つた労基官は所属の長に監督結果を報告し、是正の確認のため再監督を行うもの以外は事業者から是正報告書を徴して是正の確認を行うのが通例である。

(5) 守口署労基官は、昭和二五、六年ころから、本件事業所に対しても臨検・監督を行つていたが、当時は測定機もなく、視認して、フレットミル周辺の粉じんが多いから減らすように注意して指導し、機械設備の改善を指導する等したが、その詳細を明らかにする資料はない。

(6) 労働省労働基準局長は、昭和三一年五月一八日基発三〇八号をもつて都道府県労働基準局長に対し特殊健康診断指導指針(甲第三三号証)として衛生上有害な業務、又は有害のおそれある業務一六種並びに検査項目、検査方法を示し、右業務に従事する労働者に対し特別健康診断を実施し、その結果と使用者の意見を同三二年三月末日まで報告するよう指示した。なお、右特殊健康診断は使用者の自発的措置を勧奨するものであるので強制にわたることのないよう注意した。

右検査対象とすべき業務のうち、じん肺を起こすおそれのある粉じん発散場所における業務、マンガン鉱粉砕作業も指定され、前者につき検査項目を胸部の変化、検査方法をエックス線直接撮影とし、後者につき検査項目を四肢特に手指の振せん、書症、突進症等、握力、背筋力の障害、検査方法を視診、スメットレ式握力計を用いる方法、KY式背筋力計を用いる方法によることとした。

守口署は右調査を行い、所定の報告をなしたが、右調査結果を明らかにする資料はない。

(7) 大阪労基局(大阪局)は昭和三四年三月三日本件事業所に対し、労働環境測定を実施した。その結果によると、最も粉じんの発生する場所と見られる粉砕機附近の粉砕作業者の鼻の位置において、インピンジャーによる採取方法の測定濃度は、囲い扉を閉めたときで金属マンガン量三六mg/m3、囲い扉を開放したときで金属マンガン量八四mg/m3である。そして、抑制目標濃度値は六mg/m3(これら三六、八四、六という数値は気中濃度であつて、二酸化マンガン量を金属マンガンとして換算したもの)であつた。そこで、守口署は、本件事業所に対し、衛生設備の不備を指摘し、粉砕機の囲いを完全にして粉じん漏洩を防止することを指導し、そのころ従業員にマスクを着用させるべきことを指導した。右の指導の結果、本件事業所は、その後、ボールミルについてはタンクの上部に濾過布の筒を二八本、収じん室に一〇数本を設けて、粉じんの漏洩を防止し、マスクを購入して従業員に着用させるようにしたが、監督機関の調査時はともかく、その着用は必ずしも励行されなかつた。

本件事業所に備え付けられたマスクの種類は明確ではなく、当初は労働衛生保護具検定規則(昭和二五年労働省令三二号)の規定に基づく検定を経たものではなかつたが、後に本件事業所から守口署に提出された昭和三七年九月一七日付工場調書(丙第六証の二)には右検定に合格したマスクを粉砕工及び雑役夫に装着させている旨の記載がある。

(8) じん肺健康診断の実施

じん肺法の施行(昭和三五年四月一日)にともない、大阪局ではじん肺健康診断実施要領を定め、同年一二月各監督署を通じ関係事業場に右実施を指示した。

右指示に基づき、本件事業所の従業員中六名(原告宮路を含む。)が当時、関西労災病院検査班によりじん肺集団健康診断を受けたところ、全員が正常と診断された。

(9) 大阪局は、昭和三七年九月ころ、本件事業所の従業員一名にパーキンソン症状発生の報告を受けたので、同年一〇月二三日、本件事業所ほか二事業場のマンガン製錬工場に臨検し、実態調査を行つた。

その結果、本件事業所の防じん対策は、設備、作業方法についてかなり充実した除じん、収じん装置が設備されており、マンガン中毒についても教育が行われ、防じんマスクの着用・管理も行届いているが、一部秤量、袋詰、運搬等に附随した作業については今後なお改善することを要するものと考えられ、マンガン中毒の特殊健康診断は実施されていないので、実施する必要がある旨の報告がなされている。右報告書には発じん量の具体的数値の記載はない。

守口署は、右従業員につき同年一二月一五日にマンガン中毒による労災認定をした。

(10) 労働省労働基準局長は、昭和三七年度においても労働衛生特別実態調査の実施を指示したが、同三八年度も同年四月五日基発三八八号をもつて労働衛生特別実態調査の実施を指示した。これらは労働衛生行政を推進するための資料とすることを目的とし、各都道府県労働基準監督局において、各地方における職業病を中心とした労働衛生上の諸問題を調査事項に選定し、それについて実態調査を行うものである。大阪局では、大阪府下において何名かのマンガン中毒患者の発生があつたことに鑑み、マンガン及びその化合物を取り扱う事業場を調査対象とすることとし、守口署ではマンガン製錬所として本件事業所ほか三事業場を選定し、昭和三八年一二月から同三九年二月にかけて、これら事業場の従業員の健康状態、作業工程における衛生管理状態について調査をした。その調査結果及びこれに基づく監督指導等は、次のとおりである。

(イ) 本件事業場の発じん状況

測定場所

粉じん量mg/m3

マンガン量mg/m3

フレットミル

二六・二

四・二

ボールミル(大)

三一・三

一七・一

ボールミル(小)

二一・三

八・四

右測定は、インビンジャー並びに労研式じん埃計により作業者の口鼻附近で行われた。右調査当時、労働基準監督において内部的にマンガン恕限量は五mg/m3とされていた。

本件事業所において、原鉱石の運搬、特に粉砕機前への集積、粉砕機への投入についての発じん抑制措置は採られていなかつた。

(ロ) 本件事業所ほか三事業場のマンガン鉱を取り扱う労働者四七名につき大阪局の依頼により大阪市立大学医学部で行つた神経学的診断及び血液、尿の調査によると、神経学的有所見者は七名、血液、尿の有所見者は一九名、右双方の有所見者は八名という結果であつた。

(ハ) 本件事業所の従業員一一名も受診し、亡堀内達三、原告宮路忠を含む五名が神経学的な所見を有し、精密診断を要するとされた。右検査項目、検査結果の詳細は原判決添付の「検査結果」と題する表のとおりであるから、ここにこれを引用する。

(ニ) 大阪局長は、昭和三九年二年一七日右の調査結果につき各事業所関係部分、特殊健康診断判定基準を、左記(a)ないし(f)に記載の各留意事項と共に各事業者に通知し、マンガン中毒予防に努力するよう指導した。

留意事項

(a) 作業工程における発じん箇所、発じん状況を確実に把握し、作業方法の改善及び発じんの抑制措置を研究し、その措置を確実に実施すること。

(b) 少なくとも労働省において勧奨している特殊健康診断指導指針(前記(6))に基づく健康診断を年一回実施し、労働者の健康状態の把握及びその推移を観察して衛生管理に努めること、血液、尿所見と神経学的所見とは必ずしも一致しないようであるから、出来れば双方の検診を実施することが望ましい。

(c) バックフィルター、サイクロンの集じん装置設置の事業場においても多量のマンガン粉じんの発散が見られるので新検定合格の一級防じんマスクを整備し、その着用の励行をはかること。

(d) 収じん装置設置の事業場にあつては装置の実検整備を定期的に行い、最も効果的な運転を行うこと。

(e) 労働者に対しマンガン中毒並びにその予防法についての衛生教育を実施し、労働者と使用者の不安を除き、かつ使用者の行う中毒防止対策に積極的に参加させること。

(f) 職場の清掃にあたつては、電気クリーナーの活用あるいは清掃の湿式化をはかり、清掃時の発じんを出来るだけ抑制する措置をとること。

以上であつて、これを結んで、粉じん測定、労働者の健康状態の把握、発じん抑制、マスクの整備着用の励行、衛生教育という一貫した職業病対策の推進の必要を説いている。

(ホ) しかし、本件事業所においては、右指導に基づいていかなる改善がなされたのかこれを明らかにする資料はない。大阪局長、守口署長も右以上の指導をすることもなかつた。前記(ハ)の検査結果は各従業員には知らされなかつた。

(11) その後において、本件事業所でも従業員の定期健康診断は行なわれていたが、マンガン中毒、じん肺の特殊健康診断が適正に実施されていたか否かは明らかでない。

(12) 昭和四二年度衛生管理特別指導

大阪局は、粉じんを含め有害物を取り扱う事業場につき衛生管理の向上をはかるため、特定の事業場を指定して衛生管理に関する特別指導を実効ある強力な指導監督として行うこととし、昭和四二年四月八日大基発四二六号をもつて管下各監督署長に対し左記要領を指示した。

指導期間を昭和四二年四月一日より翌四三年三月三一日までとし、四二年四月から五月までを事業場選定・指定期間、五月から七月までを当初監督並びに指導期間、一〇月から一一月までを中間指導期間、四三年二月から三月までを最終監督指導並びに効果把握期間とする。

指導の重点事項は、法令並びに特殊健康診断指導指針による職業病健康診断の実施とその事後措置、環境改善に関する技術的な事項、衛生管理責任態勢の確立、その他必要と認める事項とする。

指導の進め方として、違反事項並びに指導事項について是正勧告書並びに指導票を交付し、司法処理基準、使用停止等処理基準に該当する事案があれば処理するとしたほか、事業者からの是正改善計画書の提出、改善計画進捗状況の把握、改善にあたつての問題点の指導、効果の確認等を指示している。

当時、大阪局から各事業者に対し右特別指導につき、前記の趣旨、期間、重点事項、指導の進め方が通知された。

守口署はこれを受けて本件事業所を対象事業所に指定して労働衛生特別指導を二回実施した。その結果、本件事業所は、昭和四三年五月一三日、守口署に対し、改善指示事項に対する改善計画として次の(イ)ないし(ヘ)記載の改善計画を報告した。

(イ) 従来実施している年二回の健康診断(エックス線大型撮影)のうち一回をマンガン特殊健康診断に切り替え、労災指定病院の大東市立病院で実施することを交渉中である。

(ロ) ボールミル、フレットミルの製品(粉末)取出口の粉じんの漏洩はサイクロンに送る排風機を利用し、取出口の袋(製品を入れる袋でサイクロンの下部取出口に差し込んである)に細いパイプを突込み袋中の空気を吸い取ることによつて漏じんを防止する(完成は五月二〇日)。

(ハ) フレットミルの囲いからの粉じんの漏洩は、既存の囲いの老朽により接ぎ目、合わせ目に間隙が生じ、そこから出るものであつて、これを封ずることによつて防止できる。囲内の粉じんは五馬力のファンで集じんしている。五月一五日までに補修を完了する。

(ニ) 小型ボールミル、小型クラッシャーのベルトのむき出しは五月二〇日までに被覆を完了する。

(ホ) 大型クラッシャーへの電力線の架設完了。

(ヘ) 騒音対策。

しかしながら、本件事業所が右改善計画を実施したか否かは明らかでなく、守口署は再調査をして履行の確認をしなかつた。

(13) 昭和四五年九月二五日有害物質取扱事業所に対する一斉監督指導の実施

昭和四五年度全国労働衛生週間準備月間に有毒物質取扱事業場に対する一斉監督指導が実施されたが、この一環として、守口署は、同年九月二五日本件事業所に臨み、製錬工程、発じん状況について調査したところ、当時公害関係で大阪府等の指導を受けていたこともあり、局所排気装置は十分ではなかつたが何個か設けられていて、湿式除じん装置も設置され、防じんマスクの使用状況は認められ、一般定期健康診断、じん肺健康診断が実施されていたが、マンガン特殊健康診断が行われていなかつたので、その検査項目を示して受診を指導した。

(14) 昭和四六年九月一〇日特定化学物質等取扱事業所に対する一斉監督指導に基づく作業環境測定(特定化学物質等障害予防規則((特化則という))は昭和四六年四月二八日制定、同年五月一日施行、全面施行は同四七年五月一日)

労働省労働基準局長は、右特化則の適正な実施をはかるため、特定化学物質取扱事業所に対する一斉監督指導を行うこととし、これにより大阪局衛生課と守口署は、合同して、昭和四六年九月一〇日本件事業所に臨み、工場内のマンガン粉じんの気中濃度の測定、粉じん抑制装置の点検、特殊健康診断の関係書類の点検等をした。この結果、工場内の総粉じん、マンガン粉じんの各気中濃度は次のとおりであつた。

総粉じんmg/m3

うちマンガン粉じんmg/m3

一・八四〇八

〇・一九四二

〇・八八五九

〇・一二六一

そして右の数値は、特化則に基づく昭和四六年四月二八日労働省告示第二七号の五mg/m3(局所排気装置の規制最高濃度で昭和四七年五月一日から適用)よりはるかに低かつた。

粉じん抑制装置については特化則四条に定めるマンガン粉じん発散源における局所排出装置が何個か設けられており、特化則八条に定めるマンガン粉じんを含有する気体排出における除じん装置が何個か設けられていた。

特殊健康診断(特化則三五条)については、守口署監督官が本件事業所の事務員にきいてみると有害業務従業者一五名で全員受診し、有所見者なしとのことであつた。

守口署監督官は、その際、特化則二九条に定める六か月ごとの作業所におけるマンガン気中濃度の測定を指導し、同年一一月一〇日までに改善状況の報告を求めた。

(15) 昭和四八年三月一六日大阪局労働衛生課と守口署の監督指導

昭和四八年二月ころ、本件事業所の附近住民が守口署に対して監督の強化を求めたり、本件事業所のマンガン公害問題が新聞紙上に報道される等したため、昭和四八年三月一六日、大阪局労働衛生課と守口署は、合同して本件事業所に臨検して左記(イ)ないし(ホ)のとおり違反事項を指摘し是正を求めた。これに対する本件事業所の是正と報告は後記(ヘ)のとおりである。

(イ) 労働安全衛生法二二条、特化則四条。

ベルトコンベアにマンガンを投入する箇所及び袋詰の場所に局所排気装置を設けていなかつた。是正期日は同年五月三一日。

(ロ) 同法二二条、特化則三六条。

マンガンを扱う屋内作業所において六か月以内に一回の空気中のマンガンの測定を実施していなかつたこと。是正期日は前同日。

(ハ) 同法二二条、特化則三七条。

マンガン作業者の休憩室に次の(a)ないし(c)の措置を講じていなかつたこと。是正期日は同年四月三〇日。

(a) 入口に水を流し、又は十分に湿めらせたマットを置く等労働者の足部に付着した物を除去するための設備。

(b) 入口に衣服用ブラシの備付。

(c) 床は真空掃除機を使用して、又は水洗によつて容易に掃除できる構造。

(ニ) 同法二二条、特化則三九条。

マンガン業務に従事させる労働者に、六か月以内ごとに一回の特化則による健康診断を実施していなかつたこと。是正期日は同年五月三一日。

(ホ) 同法及び特化則違反にならない分。

クラッシャー、フレットミル、ボールミルに設備してあるバックフィルターについて一年ごとの定期自主検査を実施していなかつたので、これを行うこと、補修をしたときはその内容を報告すること、改善状況報告期日は同年四月三〇日。

(ヘ) 右の結果本件事業所は前記(イ)につき、是正勧告どおり昭和四八年六月二六日、左記(a)ないし(f)記載のとおり是正し写真を付してその内容を報告し、守口署の確認を得た。

(a) 西ボールミル(五〇馬力)の投入口。

(b) 西ボールミル(五〇馬力)の袋詰か所。

(c) フレットミルの投入口と取出口(既設ずみ)。

(d) 東ボールミル(三〇馬力)の投入口は直投入でボールミルからの吸引で飛散せず。

(e) 東ボールミル(三〇馬力)の取出口から集じんしたものは、同ミル囲上に一馬力のファンを設置。

(f) ロータリーキルンのコンベアベルトからの投入口及び出口からの粉じんは湿式集じん機を設置(既設)あり。

前記(ロ)につき社団法人関西労働衛生技術センターに気中マンガン量測定を依頼し、同センターは同年六月一日実施して本件事業所に報告した。測定数値(気中濃度)は左記のとおりである(いずれも作業中)。

位置

インビンジャー法

グラスファイバー法

(mg/m3)

西ボールミル投入口

〇・〇五五

〇・〇七八

〃  取出口

〇・〇九五

〇・一一九

フレットミル取出口

〇・一二四

〇・一三二

〃  投入口

〇・二三五

〇・二五五

東ボールミル取出口

〇・五〇二

〇・四〇八

前記(ハ)につき、昭和四八年五月八日指導のとおり是正しその旨を守口署に報告した。

前記(ニ)につき、昭和四八年五月八日、日本労働協会関西支部に依頼して同月中にすること、毎年五月、一一月に実施することを報告した。

(16) 昭和四九年一月一七日環境測定、健康診断の指導

守口署は、本件事業所に対し、昭和四九年一月一七日、特化則に基づく環境測定と健康診断の実施を指導した。同年一月二九日本件事業所から、環境測定は同年二月一五日関西労働衛生技術センターにより、健康診断は同年二月二三日全日本福祉協会関西支部により実施予定である旨の報告を受け、その後、実施結果として、健康診断は受診者一四名全員(原審原告らが含まれているか否か不明)異常なし、環境測定は作業場の気中のマンガン量はフレットミル取出口ほか六か所が〇・〇一三ないし〇・一六一mg/m3であるとの報告を受けた。

(17) 昭和四九年一〇月一八日環境測定、健康診断の報告

守口署は、同年一〇月一八日本件事業所から同年八月三一日住友病院で特殊健康診断を実施したところ受診者一二名(原審原告らが含まれているか否か不明)全員異常なしと診断され、同年九月五日関西労働福祉センターにより気中マンガン量の測定をしたところ、フレットミル取出口ほか四か所の気中マンガン量は、〇・〇三二ないし〇・六〇六mg/m3であるとの報告を受けた。

(18) 原審原告らに対する特殊健康診断が行われた状況は、前認定事実を含めて次のとおりである。

(イ) 原告宮路忠については、じん肺につき昭和三六年一月(前記(8))、同四五年九月、同四六年五月、同年一一月、同四八年七月、同四九年二月に各検査を受けたがいずれも異常なしと判定された。マンガンについては、同三八年一二月(前記(10)、要精診a)、同四六年五月(正常)、同年一一月(手指振せん有、正常)、同四八年七月(手指振せん有、異常なし)、同四九年二月に各検査を受け、右括孤内記載の判定を受けた。

(ロ) 亡堀内達三については、じん肺につき昭和四五年九月、同四六年六月に各検査を受けたが特段の異常を指摘されず、マンガン中毒につき同三八年一二月(前記(10)、要精診a)、同四六年五月(正常)に各検査を受け、右括弧内記載の判定を受けた。

(ハ) その余の原審原告らについては、じん肺、マンガン中毒につき特殊健康診断を受けたとの記録は存在しない。前記(6)、(8)、(10)、(12)、(14)、(16)、(17)等の時期に受診したとも考えられるが、これを証する記録はなく、反面、本件書証中には本件事業所の従業員が特殊健康診断を受けたことを記録した書類が存するが、これによつては何人がいかなる診断を受けたかを明らかになしえない。

(19) 本件事業所の経営者である植田は、幼少のころから父のマンガン製錬業を手伝い、昭和二〇年ころから父に代わつて経営するようになつたが、昭和二六年ころからは長谷川良一に本件事業所の指揮監督を委せ、事業所へ出入することも少なく、被告の監督機関との対応も多くは長谷川がこれを行つていた。

植田は、右経歴からしてマンガン中毒の危険を軽視し、原告森川松太郎が前認定のようにマンガン中毒に罹患した後においても、なおその危険性を十分に認識するに至らなかつた。したがつて、本件事業所内における安全衛生設備についても必ずしも積極的に改善する姿勢は見られず、前記(15)のような改善策を採るに至つたのは、労働安全衛生もさることながら、当時、事業所周辺の住民から粉じんによる公害の苦情が多く、これがために大阪府からも公害防止のための強力な指導があつたことや、右住民らを含む労働組合員らの圧力によるところが大であつた。

右のような状態であつたため、上来認定した被告の監督機関の指導による特殊健康診断の結果はもとより、定期健康診断の結果等についても、植田から従業員に伝えられることはほとんどなく、原審原告らを含む従業員も強いてこれを知ろうともしなかつた。

原審における原告(亡)堀内達三、被告植田文次、原・当審における原告宮路忠、同森川ヤスヱの各供述中右認定に反する部分は措信できず、他に右認定を左右する証拠はない。

(三)  以上認定の事実により大阪労働基準局、守口労働基準監督署並びに所属の労働基準監督官(以下一括して「監督機関」ともいう。)の監督権限行使につき著しい不合理が存したか否かを審案する。

(1) (危険の存在)

<証拠>によるとマンガン粉じんによるマンガン中毒罹患の危険は昭和一〇年代以前にも識者により指摘されていたことが認められること、前認定のように昭和二五、六年ころには監督機関は本件事業所に対する臨検監督をなし、多量の粉じんの発生をみて指導をしていること、昭和三一年五月一八日基発三〇八号の通達においてマンガン鉱粉砕作業を衛生上有害な業務と指定して特殊健康診断を指導していること、右通達において示されている検査項目は前記の原審原告らのマンガン中毒症の症状と一致していること、この症状は右甲第三九ないし第四〇号証の文献にも指摘されていること等からして、遅くとも右通達のあつた昭和三一年当時において、監督機関としては本件事業所の従業員につきマンガン中毒症罹患の危険性のあることを予見しえたものと認めるのが相当である。

前記引用にかかる原判決理由中に説示のとおり、マンガン中毒症は、これを早期に発見して治療すれば治癒する可能性もあるが、発見が遅れて症状が進行した場合には治療が困難となり、種々の症状を呈して重大な健康障害となるものである。しかしながら、その暴露される粉じん量により発症の程度に差があり、その症状の発現には個人差があり、比較的緩慢な場合もあり、また、弁論の全趣旨により認められるように本件事業所においてマンガン粉じんに暴露された者が例外なく発症したものではない。

してみると、本件事業所従業員のマンガン中毒罹患の危険は、その発生の蓋然性が存するという意味において切迫していたといいえても、時間的な意味において切迫していたとはいい難く、したがつて、これが対応に緩急が生じたとしてもやむをえないところである。

じん肺についても右と同様のこと(成立に争いない甲第一六号証によると、じん肺については昭和二四年から全国的な検診が実施されていたことが認められ、前記昭和三一年基発三〇八号の通達にもじん肺を特殊健康診断の対象としている。)がいえるし、その健康障害は重大である。

そうすると、右のような重大な危険は、前認定(14)の如く気中マンガン粉じん濃度が著しく減少したと認められる昭和四六年ころまでは継続して切迫した状態において存在したものといわざるをえない。

なお、亡堀内達三の難聴については、その程度を確認できる資料がないから、これにつき切迫した危険が存在していたとは認め難い。

(2) (危険の防止)

これに対する本件事業所の状況をみるに、前認定(7)のように昭和三四年三月当時においてなお多量のマンガン粉じんの存在(気中濃度三六ないし八四mg/m3)をみ、同年には原告森川松太郎が、続いて同三七年には他の従業員一名がマンガン中毒症により労災認定をされていることからして、本件事業所の状況は容易に改善されなかつたものと認められる。

しかしながら、同三八年の特別実態調査ではマンガン粉じん量が気中濃度一七・一ないし四・二mg/m3と右三四年に比較して減少し、特化則施行にともなう同四六年九月の作業環境測定では総粉じん気中濃度一・八四〇八ないし〇・八八五九mg/m3、うちマンガン粉じん気中濃度〇・一九四二ないし〇・一二六一mg/m3と著しく減少し、特化則に基づく労働省告示に示された規制最高濃度五mg/m3以下であつて、以後右規制最高濃度を超えることはなかつた。

右のような粉じんないしマンガン粉じんの気中濃度の漸減は、緩慢ではあるが防じん・排除じん設備が漸次整備されて行つた結果によるものであり、前認定事実経過からして監督機関の指導監督もこれに寄与したものと認めるのが相当である。しかしながら、右指導監督も、使用者植田がこれに従うか否かによつてその成果に影響があり、前認定(19)のように植田においてマンガン中毒の危険性についての認識が欠けていたこと並びに前記のようにマンガン中毒の危険が時間的に切迫したものとはいえない性質のものであることをも併せ考慮せざるをえないところである。

じん肺についても、本件事業所においてはじん肺の原因たる粉じんとマンガン中毒の原因たる粉じんとは同様に考えることができるところであり、昭和三五年じん肺法施行とともに監督機関において定めたじん肺健康診断実施要領に従つて本件事業所の従業員も健康診断を受け、当時は全員につき異常なしとの結果が出ている。

(3) (危険の防止)

原告らが指摘する防じんマスクについては、監督機関の指導をまつまでもなく、これが備え付けと着用は使用者と労働者において容易になしうるところであり、昭和三四年ころには本件事業所に右マスクが備えつけられ、一部着用されていたこと前認定のとおりである。

また、原告ら主張の本件事業所の従業員に対する特殊健康診断や安全教育についても、労働者に対する健康診断及び安全教育は、いずれも使用者の義務(旧法五二条、五〇条)であるのみならず、前認定のように昭和三一年あるいは同三四年において監督機関は使用者に指示して特殊健康診断を実施させており、その他においても本件事業所の使用者に対して右健康診断の実施を勧告し、現に行われていたのであり、右健康診断ないしその結果通知並びに安全教育についても、本件においていずれも監督機関の関与なくしては行いえないという性質のものではないのであり、使用者と労働者の協力により容易にこれをなしうる性質のものである。

(4) (指導監督について)

監督機関の使用者に対する監督権限の行使については、前認定(4)のように司法警察員としての権限行使(旧法一〇二条)、使用停止等の命令(旧法五五条、一〇三条)及び是正を求める指導、勧告等によるもの(以下「指導監督」という。)に大別されるので、以下これに従つて検討する。

まず、指導監督についてみるに、原審原告らのマンガン中毒症及びじん肺罹患の原因が本件事業所内に発生するマンガン粉じんに因ることは明らかであるから、結果からみるならば監督機関において早期に前認定(15)程度の強い行政指導を行つていたならば、右発症を防止しえたと考えられないことはなく、また、特殊健康診断による早期発見についても類似のことがいえるであろう。

しかしながら、労働者の安全衛生、労災防止の義務は使用者が負担するものであり、被告ないし監督機関が労働者に対し直接負担するものでなく、監督機関は使用者の右義務の履行を監督するものであることは前記のとおりであるから、監督機関としては、使用者において右義務履行の意思あるいは能力のないことが明らかである場合は別としても、そうでない限りは使用者をしてその義務を尽くさせるべきものである。

前認定事実によれば、本件においては使用者植田において右義務履行の意思あるいは能力がなかつたとはいえず、漸次設備の改善も行い、遅きに失したとはいえ相当程度の改善をなしえたのである。また、監督機関においても本件事業所に対する監督を放置していたわけでなく、早くから粉じんの多発を指摘し、粉じんの防止、設備の改善の指導を続け、あるいは特殊健康診断の指導を行つていたのであり、植田においても右危険の発生については早期に予見しえたはずである。しかしながら、結果としては植田がなすべき設備等の改善が遅れ、特殊健康診断の実施とその結果利用の不充分さから原告らにマンガン中毒症等の発症及びその増悪をみるという重大な危険の発生をみるに至つたのである。

してみると、右危険の発生は、危険防止の第一次義務者である植田によつてこれを防止しえたものというべく、監督機関の前認定以上の指導監督なくしてはこれを防止しえなかつたものと認めることはできないのみならず、監督機関の指導監督に対応する使用者植田の行為ないし労働者である原告らの協力なくしては、これを防止しえないことも明らかである。しかも、監督機関において使用者植田の右義務履行につき指導監督していたことを考慮すれば、監督機関の指導監督権限の不行使につき著しい不合理があつたと認めることは相当でない。

(5) (使用停止等の命令について)

弁論の全趣旨からして、本件においては旧法五五条、一〇三条に定める事業場の建設物、設備又は原材料の使用停止、変更等の命令権の行使はなかつたと認められる。

ところで、本件において前記の危険が存在したと認められる昭和四六年ころまでにおいては、右法案の命令権行使の要件とされた「安全及び衛生に関し定められた基準」としては、旧法四五条に基づき定められた労働安全衛生規則(昭和二二年労働省令九号)一七三条に粉じんを発散する屋内作業場における措置として「ガス、蒸気又は粉じんを発散する屋内作業場においては、内空気のその含有濃度が有害な程度にならないように、局所における吸引排出又は機械若しくは装置の密閉その他新鮮な空気による換気等適当な措置を講じなければならない。」と定められた以外に右「含有濃度の有害な程度」について具体的に定められたものはなかつた。しかし、監督機関の内部においては、マンガン粉じん気中濃度恕限量の目安を前記(7)の昭和三四年の実態調査時においては六mg/m3、前記(10)の昭和三八年の実態調査時においては五mg/m3とされていたこと及び右のような専門技術領域においては抽象的基準の設定もやむをえない場合もあると考えられることからして、右基準が法令上具体的に定められていなかつたことをもつて一概に監督機関において右命令権限を行使しえないものともいえない。

しかしながら、右基準が具体的に設定されていなかつたに止まらず、右使用停止等を命じた場合においては、当該事業場における事業自体はいうまでもなく、これに従事する労働者に対しても少なくない影響を及ぼすものであることが明らかであるから、右命令権は具体的事案に則して監督機関の合理的裁量の下に慎重に行使されるべきものである。

本件のように、使用者において安全衛生に関する設備等改善についての意思と能力を有し、監督機関の指導監督を無視するようなことはなく、緩慢であつたとはいえこれに従つて改善が行われており、かつ、マンガン中毒等の危険がその性質上時間的に切迫したものといえない等の事情を考慮する場合においては、右命令権の不行使をもつて著しく不合理なものとすることは相当でない。のみならず、右指導監督について説示したと同様に、右命令権の行使以外の方法によつては危険を防止する方法がなかつたとはいえない。

なお、原告らは旧法五四条違反をいうが、同条一項の「危険防止等に関する基準」については旧法五五条に関し右に述べたと同一であり、同条所定の権限の不行使をもつて著しい不合理といえないことは右と同様である。

(6) (司法警察員としての権限行使について)

旧法一〇二条の司法警察員としての権限行使については、粉じんの気中濃度につき安全衛生の基準が具体的に定められていなかつたこと及び使用停止等の命令権行使につき右に述べたような事由を考慮すれば、本件において監督機関が司法警察員としての権限を行使しなかつたことをもつて著しく不合理であつたとすることは相当でない。

(7) 原告らは、右に判示した以外にも種々の事由を挙げて本件事業所においては数多くの旧法ないし労働安全衛生規則違反の事実があり、監督機関においてこれを放置したことの違法を主張するのであるが、本件の基本的な問題点は本件事業所におけるマンガン中毒症、じん肺の原因となつた粉じんの防止、粉じんに対する労働者の保護及び健康診断に帰するのであつて、その余はいずれも右三点に附随するものである。そして、右三点につき既に監督機関の権限行使に違法性の認められない以上、原告ら主張の右法令違反の点につき逐一その当否を検討するまでもなく、監督機関の権限の行使・不行使につき、原告らに対する関係において違法は存在しなかつたものというべきである。

(8) (結論)

以上説示したとおりであつて、本件事業所においては、労働者がマンガン中毒症及びじん肺に罹患しこれが憎悪するという重大な危険が存在し、かつ、その危険を予知しえたものではあるが、これが危険防止の義務と責任は使用者植田に存するのであり、同人によつて防止することも不可能ではなかつたものであり、労働者である原審原告らにおいてもこれが防止に協働できないわけではなかつたと考えられる。ただ、使用者植田につきマンガン中毒等の危険に対する認識の欠如が本件のような重大な結果を招いた一因となつたことは否定しえないが、既に昭和二五、六年から監督機関による指導があり、同三一年には監督機関によるマンガン中毒、じん肺につき特殊健康診断も実施されていたことからして、使用者植田においてマンガン中毒、じん肺の危険についての認識を得ることは可能であつたわけである。このようなことを考え合せると、監督機関の右程度を超えた更に強力な監督権限の行使がなければ危険を防止しえなかつたということはできず、右権限不行使に著しい不合理があつたと認めることはできない。

よつて、右につき違法性が存した旨の原告らの主張もまた採用しえないところである。

3なお、原告らは、被告の監督機関がその監督権限の不行使による不作為の違法を認めていた旨主張するところ、<証拠>によると、原審原告らのマンガン中毒症等の罹患及び増悪に関する被告の監督機関の責任を追及する組合及びその支援団体と被告の監督機関との交渉において、守口署長北澤恒男は、昭和五〇年七月一日、「昭和三八年度を除き昭和三一年以後昭和四六年までの特殊健康診断及び昭和四七年度の特化則に基づく健康診断の未実施、事前通告等による立入調査の不備、健康診断結果の検討不足等にみられる守口署の監督指導の怠慢が本件事業所における労働者の健康破壊(マンガン中毒、じん肺)を助長してきた。」旨を記載した確認書を、大阪局次長原敏治らは、同年同月四日付、同月二九日付で前記と同旨の行政指導を怠つてきた責任を認め、深く謝罪する旨を記載した確認書を、それぞれ組合等に交付していることが認められるけれども、その交付の経緯及び右各確認書の性質、文言に照らすと、右は、本件事業所の法違反に対する被告の監督機関による監督是正が十分でなかつたことを認めるに止まるものであつて、それ以上に右確認書等によつて被告の監督機関の監督権限の不行使による不作為の違法を認めるのは相当でないから、原告らの右主張は採用することができない。

4したがつて、原告らが主張する被告の監督機関の作為義務違反又は監督権限不行使の違法は認められないから、その余の点について判断するまでもなく、被告に原審原告らのマンガン中毒症、じん肺等の罹患及び増悪についての国家賠償法一条一項に基づく損害賠償責任はないというべきである。

三以上の次第であつて、原告らのその余の主張について判断するまでもなく、原告らの被告に対する本訴請求は失当として棄却を免れない。

四よつて、被告の控訴に基づいて、右の判旨と一部異なる趣旨に出た原判決中の被告敗訴部分を取り消したうえ原告森川松太郎を除くその余の原告らの被告に対する本訴各請求を棄却し、原告森川松太郎の本件控訴及びその余の原告らの附帯控訴はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九五条、九六条、九三条一項本文、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石井 玄 裁判官高田政彦 裁判官辻 忠雄)

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