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大阪高等裁判所 昭和57年(行コ)22号 判決 1987年7月16日

《目次》

(当事者及び代理人)

(主文)

(事実)略称

(当事者の申立)

(当事者の主張)

第一 請求の原因

一当事者等

二本件忠魂碑の建立・移設・敷地利用

三慰霊祭の挙行

四本件忠魂碑、本件慰霊祭への関与と憲法違反

五本件忠魂碑についての本件売買、本件移設・再建及び本件貸与の法律違反

六本件忠魂碑に関する怠る事実の違法確認、損害賠償請求

七本件各慰霊祭に関する損害賠償請求、不当利得返還請求

八監査請求

九結論

第二 請求原因事実に対する認否

第三 証拠<省略>

(理由)

第一 略称

第二 本件各訴えの適法性

一当事者の地位

二監査請求

三訴訟の併合

第三 第一審被告市長が本件忠魂碑の除去及び市遺族会に対する本件忠魂碑引渡、本件敷地明渡の請求を怠る事実の違法確認請求について

一本件忠魂碑の所有関係

二結論

第四 第一審被告市長が市遺族会に対する本件忠魂碑収去、本件敷地明渡の請求、公社に対する本件売買代金返還の請求を怠る事実の違法確認請求について

一憲法違反

二法律違反

第五 第一審被告市長が本件土地の使用制限の請求を怠る事実の違法確認請求について

第六 第一審被告らに対する本件忠魂碑に関する損害賠償請求について

一訴えの適法性について

二四号前段の請求について

三四号後段の請求について

第七 第一審被告中井に対する本件各慰霊祭に関する損害賠償請求について

一訴えの適法性について

二市の財産を本件各慰霊祭の開催準備又は挙行のために提供したことによる損害賠償責任

三市の職員が本件各慰霊祭に関して労務提供をしたことによる損害賠償責任

四教育長の給与を過払いしたことによる市長の損害賠償責任

第八 本件教育財産の提供による亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同橋本、同河野に対する損害賠償請求について

一第一審原告らの主張の要点

二本件教育財産の管理権限

三本件教育財産の貸与と憲法二〇条、八九条、学校教育法八五条、法二三七条二項

第九 教育長に対する監督についての亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同橋本に対する損害賠償請求について

第一〇 第一審被告河野に対する給与の過払分の不当利得返還請求について

第一一 結論

(別紙(一))第一審原告らの補充主張

第一 本件忠魂碑の宗教施設性と反憲法的性格

一 忠魂碑一般の起源と歴史

二 本件忠魂碑の歴史と慰霊祭の実施状況

三 宗教施設の要件と概念

四 神仏交替の慰霊祭の宗教性

五 本件忠魂碑の反憲法的性格

第二 本件各慰霊祭の宗教性と反公益性

一 慰霊

二 戦没者慰霊祭の沿革と性質

三 本件各慰霊祭の反憲法的性格

第三 市遺族会の宗教団体性及び反憲法的性格

一 市遺族会と「宗教上の組織若しくは団体」

二 市遺族会の反憲法的性格

第四 本件各行為の違憲性

一 本件各行為の性格と憲法二〇条一項後段、三項、八九条前段違反

二 本件各行為の反公益性

(別紙(二))第一審被告らの補充主張

第一 忠魂碑の歴史、現況及びその性格

一 忠魂碑の歴史

二 忠魂碑の現況

三 本件忠魂碑の歴史と現況

四 忠魂碑の性格

第二 慰霊祭

一 はじめに

二 式場(開催場所)

三 方式(形態)

四 その他(主催者等)

第三 遺族会の宗教団体性

一 憲法八九条の「宗教上の組織若しくは団体」の意義

二 市遺族会と「宗教上の組織若しくは団体」

第四 本件各行為の合憲性

一 憲法二〇条三項の宗教的活動と本件貸与・移設・売買

二 目的効果基準と本件貸与・移設・売買

三 憲法八九条と本件貸与・移設・売買

四 教育長の参加と政教分離

五 教育長の参加と憲法二〇条三項

六 慰霊祭への市の関与

昭和五七年(行コ)第二一号事件被控訴人、

同第二二号事件控訴人、

同第二三号事件附帯控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件控訴人、

同一四号事件被控訴人(第一審原告)

神坂玲子

昭和五七年(行コ)第二一号事件被控訴人、

同第二二号事件控訴人、

同第二三号事件附帯控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件控訴人、

同第一四号事件被控訴人(第一審原告)

小西ちよ

昭和五七年(行コ)第二一号事件被控訴人、

同第二二号事件控訴人、

同第二三号事件附帯控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件控訴人、

同第一四号事件被控訴人(第一審原告)

角南喜美代

昭和五七年(行コ)第二一号事件被控訴人、

同第二二号事件控訴人、

同第二三号事件附帯控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件控訴人、

同第一四号事件被控訴人(第一審原告)

古川二郎

昭和五七年(行コ)第二一号事件被控訴人、

同第二二号事件控訴人、

同第二三号事件附帯控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件控訴人、

同第一四事件被控訴人(第一審原告)

古川佳子

昭和五七年(行コ)第二一号事件被控訴人、

同第二二号事件控訴人、

同第二三号事件附帯控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件控訴人、

同第一四号事件被控訴人(第一審原告)

神坂哲

第一審原告ら補助参加人

(昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件についてのみ)

中川健二

第一審原告ら補助参加人

神坂直樹

第一審原告ら及び同補助参加人ら訴訟代理人弁護士

熊野勝之

藤田一良

加島宏

坂和優

小坂井久

川下清

昭和五七年(行コ)第二一号事件控訴人(第一審被告)

箕面市長

中井武兵衛

昭和五七年(行コ)第二一号事件控訴人、

同第二三号事件附帯被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

中井武兵衛

昭和五七年(行コ)第二二号事件被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

亡佐佐木茂八訴訟承継人

佐佐木越路

昭和五七年(行コ)第二二号事件被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

亡佐佐木茂八訴訟承継人

佐佐木茂雄

昭和五七年(行コ)第二二号事件被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

亡佐佐木茂八訴訟承継人

福田美和

昭和五七年(行コ)第二二号事件被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

亡佐佐木茂八訴訟承継人

高倉美知

昭和五七年(行コ)第二二号事件被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

天野景治

昭和五七年(行コ)第二二号事件被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(第一審被告)

菅生浩三

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人(一審被告)

橋本正治

昭和五七年(行コ)第二一号事件控訴人、

同第二三号事件附帯被控訴人、

昭和五八年(行コ)第一三号事件被控訴人、

同第一四号事件控訴人(第一審被告)

河野良作

第一審被告ら訴訟代理人弁護士

菅生浩三

葛原忠知

笹川俊彦

石川正

塚本宏明

宮崎誠

須知雄造

丸山恵司

川本隆司

藤田整治

井上進

菅生浩三訴訟復代理人弁護士

村尾勝利

中村成人

主文

一  昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件について

1  第一審被告箕面市長、同中井武兵衛、同河野良作の第二一号事件控訴に基づき、

(一)  原判決中、第一審原告神坂哲の請求に関する部分、同原告を除くその余の第一審原告らの第一審被告箕面市長に対する請求に関する部分及び第一審被告中井武兵衛、同河野良作に対する請求に関する同被告ら敗訴部分をいずれも取り消す。

(二)  第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの第一審被告箕面市長に対する主位的、予備的各請求及び第一審被告中井武兵衛、同河野良作に対する各請求をいずれも棄却する。

2  第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの第二二号事件控訴及び第二三号事件附帯控訴を棄却する。

二  昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件について

1  第一審被告河野良作の第一四号事件控訴に基づき、

(一)  原判決中、第一審原告神坂哲の請求に関する部分及び同原告を除くその余の第一審原告らの第一審被告河野良作に対する請求に関する同被告敗訴部分を取り消す。

(二)  第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの第一審被告河野良作に対する請求を棄却する。

2  第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの第一三号事件控訴を棄却する。

三  本件訴訟のうち第一審原告神坂哲の請求に関する部分は、昭和六一年一月二一日同原告の死亡により終了した。

四  訴訟費用は、第一、二審とも第一審原告らの負担とする。

五  補助参加によつて生じた費用は、補助参加人らの負担とする。

事実

以下の事実摘示については、つぎのとおり略称を用いる。

一第一審被告箕面市長=第一審被告市長。第一審被告中井武兵衛=第一審被告中井。第一審被告亡佐佐木茂八=亡佐佐木。第一審被告天野景治=第一審被告天野。第一審被告菅生浩三=第一審被告菅生。第一審被告河野良作=第一審被告河野。第一審被告橋本正治=第一審被告橋本。なお、箕面市は単に市と略称することもある。

二別紙物件目録記載一の土地=本件土地。同目録記載二の土地=本件敷地。同目録記載一、三の土地=「公社土地」と総称。同目録記載四の物件=本件忠魂碑。なお、本件忠魂碑が本件敷地に移設される以前の状態のものを旧忠魂碑という。

三箕面市土地開発公社=公社。箕面市教育委員会=委員会。箕面市教育委員会委員長=教育委員長。箕面市教育委員会委員=教育委員。財団法人日本遺族会=日本遺族会。箕面市戦没者遺族会=市遺族会。箕面地区戦没者遺族会=区遺族会。旧帝国在郷軍人会=在郷軍人会。旧帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会=分会。箕面市立箕面小学校=箕面小学校。箕面市立西小学校=西小学校。

四昭和五一年度、同五二年度箕面地区戦没者慰霊祭=五一年慰霊祭、五二年慰霊祭、(これらを総称して「本件各慰霊祭」)。

五地方自治法=法。公有地の拡大の推進に関する法律=公有地拡大法。地方教育行政の組織及び運営に関する法律=地教行法。町村制(明治四四年法律第六九号)=町村制。財産の交換、譲与、無償貸付等に関する条例(昭和三九年四月一日箕面市条例第四号)=財産貸付条例。箕面市財産及び営造物条例(昭和三三年一二月二四日箕面市条例第一〇号)=市財産及び営造物条例。箕面市契約規則(昭和三九年四月一日箕面市規則第四号)=市契約規則。箕面市会計規則(昭和三九年四月一日箕面市規則第六号)=市会計規則。箕面市立学校管理運営規則(昭和三三年一月二九日箕面市教育委員会規則第一二号)=市学校管理規則。箕面市教育委員会教育長に対する事務委任規則(昭和三二年一一月三〇日箕面市規則第七号)=教育長に対する事務委任規則。箕面市庁舎管理規則(昭和四一年四月一日箕面市規則第六号)=市庁舎管理規則。箕面市財産規則(昭和三九年四月一日箕面市規則第五号)=市財産規則。

六「公葬等について」(昭和二一年一一月一日発宗第五一号内務次官、文部次官通牒)=「公葬等について」。「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」(昭和二一年一一月二七日内務省警保局長通牒)=「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」。

(当事者の申立)

第一  昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件

一第一審原告ら

1  第二二号事件控訴の趣旨

(一)  原判決中、第一審原告らの亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生に対する金員請求に関する部分を取り消す。

(二)  亡佐佐木訴訟承継人佐佐木越路、同佐佐木茂雄、同福田美和、同高倉美和、第一審被告天野、同菅生は、各自、箕面市に対し、つぎの金員を支払え。

(1) 昭和五一年三月二一日から本件忠魂碑が本件敷地から除去されるまでの間、一日金一万〇七九八円及びこれに対する各期日の翌日から各支払ずみまで年五分の割合による金員。

(2) 金八一六万三八四〇円及びこれに対する昭和五一年三月二一日から右支払ずみまで年五分の割合による金員。

(三)  訴訟費用は、第一、二審とも右第一審被告ら及び訴訟承継人らの負担とする。

(四)  (二)項につき仮執行の宣言。

2  第二三号事件附帯控訴の趣旨。

(一)  原判決中、第一審原告らの第一審被告中井、同河野に対する金員請求に関する部分をつぎのとおり変更する。

(二)  第一審被告中井、同河野は、各自、箕面市に対し、つぎの金員を支払え。

(1) 昭和五一年三月二一日から本件忠魂碑が本件敷地から除去されるまでの間、一日金一万〇七八九円及びこれに対する各期日の翌日から各支払ずみまで年五分の割合による金員。

(2) 金八一六万三八四〇円及びこれに対する昭和五一年三月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員。

(三)  訴訟費用は、第一、二審とも右第一審被告らの負担とする。

(四)  (二)項につき仮執行の宣言。

3  第一審被告市長、同中井、同河野の第二一号事件控訴の趣旨に対する第一審原告らの答弁

(一)  本件控訴を棄却する。

(二)  控訴費用は、右第一審被告らの負担とする。

二第一審被告市長、同中井、同河野

1  第二一号事件控訴の趣旨

(一)  原判決中、第一審原告らの第一審被告市長に対する請求に関する部分及び同中井、同河野に対する請求に関する同被告ら敗訴部分を取り消す。

(二)  第一審原告らの第一審被告市長に対する主位的、予備的各請求及び第一審被告中井、同河野に対する各請求をいずれも棄却する。

(三)  訴訟費用は、第一、二審とも第一審原告らの負担とする。

2  第一審原告らの第二二号事件控訴及び第二三号事件附帯控訴に対する第一審被告らの答弁

(一)  本件控訴及び附帯控訴をいずれも棄却する。

(二)  控訴費用及び附帯控訴費用は、第一審原告らの負担とする。

第二 昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件

一第一審原告ら

1  第一三号事件控訴の趣旨

(一)  原判決をつぎのとおり変更する。

(二)  第一審被告中井は、箕面市に対し、金一万五〇四一円及びこれに対する昭和五二年七月六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(三)  亡佐佐木訴訟承継人佐佐木越路、同佐佐木茂雄、同福田美和、同高倉美和、第一審被告天野、同菅生、同橋本、同河野は、各自、箕面市に対し、金三八三三円及びこれに対する同日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(四)  訴訟費用は、第一、二審とも右第一審被告ら及び訴訟承継人らの負担とする。

(五)  (二)(三)項につき仮執行の宣言。

2  第一審被告河野の第一四号事件控訴の趣旨に対する第一審原告らの答弁

本件控訴を棄却する。

二第一審被告ら

1  第一審被告河野の第一四号事件控訴の趣旨

(一)  原判決中、第一審原告らの第一審被告河野に対する請求に関する同被告敗訴部分を取り消す。

(二)  第一審原告らの請求をいずれも棄却する。

(三)  訴訟費用は、第一、二審とも第一審原告らの負担とする。

2  第一審原告らの第一三号事件控訴の趣旨に対する第一審被告らの答弁

本件控訴を棄却する。

(当事者の主張)

第一 請求の原因

一当事者等

1  第一審原告ら及び補助参加人らは、箕面市の住民である。

2 後記の本件忠魂碑に関する本件売買、本件移設・再建、本件貸与(二2、3)及び本件各慰霊祭への関与・助成(三3)がなされた当時、第一審被告中井は市の市長であり、亡佐佐木は教育委員長であり、第一審被告天野、同菅生、同橋本(昭和五〇年一〇月ころ就任)はいずれも教育委員であり、第一審被告河野は教育委員兼教育長であつたものである。亡佐佐木は、昭和五八年八月二一日死亡し、妻の佐佐木越路、子の佐佐木茂雄、福田美和及び高倉美知が同人の権利義務を承継した。

3  市遺族会は、市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置している。

二本件忠魂碑の建立・移設・敷地利用

1  旧忠魂碑

(一)  本件忠魂碑の碑石及びその基壇は、昭和五〇年一〇月ころまでは箕面市百楽荘一丁目七番二の箕面小学校校庭内の一隅に建てられていた(以下、建設場所はともかくとして、これを「旧忠魂碑」といい、その敷地を「旧敷地」という。)。旧忠魂碑は、大正五年四月一〇日、分会の提唱により、市の前身である箕面村が建立したものである。

(二)  仮に、旧忠魂碑が分会の建立したものであるとしても、旧忠魂碑は建立と同時に右土地に附合して同土地の一部となり箕面村の所有となつた。同附合がなかつたとしても、同碑は建立に当たり箕面村に寄付された。

(三)仮に、旧忠魂碑が建立と同時に附合・寄付されず、分会が同碑を所有していたとしても、分会が大正末年消滅したので、同碑は無主物となり、その所有権は同土地の所有者である箕面村に帰属した。仮にそうでないとしても、旧忠魂碑は、昭和二二年までに分会により放棄、遺棄又は廃棄され、仮に同年までに何らの処分がなされなかつたとしても、同年三月ころ同碑は破壊又は撤去されたので、右放棄、遺棄、廃棄、破壊又は撤去の時に同碑は所在の村有地に附合した。

(四)  仮にそうでないとしても、少なくとも、碑石は右破壊又は撤去の際に同土地中に埋没されこれに附合した。残存した旧忠魂碑のその余の部分は同土地に残されたまま、同土地が箕面村に返還されたが、その際同部分の分会の収去権も放棄され、又は時効により消滅した。これにより、箕面村は、旧忠魂碑の所有権を取得した。

(五)  以上のように、いずれにしても、旧忠魂碑の所有権は市に帰属していたものであるから、その敷地利用権が市以外の第三者に帰属したことはなく、これらは、市、委員会及び箕面小学校により、従前から小学校の教育財産(行政財産)として管理されており、他人の権利の目的物として取り扱われたことはない。

2  本件売買

委員会は、市が公社から借り受けていた公社土地につき、西小学校の仮運動場としての用に供することを決定し、右用途に供していたところ、昭和五〇年五月ころ、公社土地の一部である本件土地内の本件敷地に旧忠魂碑を移設するため、本件土地の仮運動場としての用途を廃止する旨の決定(以下「本件廃止決定」という。)をした。そして、市長は、昭和五〇年七月五日、公社から本件土地を代金七八八二万六八二四円で買い受けるための代金支出命令を発し、これに基づき、市は、同月一〇日、公社との間に右売買契約を締結し(以下「本件売買」という。)、右金員を支出した。

3  本件移設・再建、本件貸与

市は、昭和五〇年一二月二〇日、旧忠魂碑を本件敷地に移設・再建するために建設会社との間でその請負契約を締結して移設・再建を実行し(以下「本件移設・再建」といい、これによつて本件忠魂碑が現状に設置されている。)、市長が同月二七日ころ請負代金七三〇万円の支出命令を発して右金員を支出し、しかも、分会ないし市遺族会が忠魂碑及び旧敷地の利用権を取得したことがないにもかかわらず、旧敷地利用権喪失の補償として、市遺族会に対し、そのころから本件敷地を管理使用させ、その後の昭和五一年三月一二日にこれを無償貸与した(以下「本件貸与」という。)。そして、市は、本件貸与とともに、本件土地のうち本件敷地を除く部分を、専ら市遺族会及びその会員に参拝及び祭礼に際して支障のないように随時使用させ、そのために市遺族会にこれを管理させている。

三慰霊祭の挙行

1  市遺族会と慰霊祭

市遺族会は、本件忠魂碑を「箕面地区忠魂碑」と称し、箕面地区出身の戦没者で靖国神社祭神となつている二九八柱の英霊を本件忠魂碑に合祀し、その前で箕面地区戦没者慰霊祭と称して、これを祭祀する儀式を毎年一回定期的に挙行していた。

2  本件各慰霊祭

昭和五一年度、同五二年度の箕面地区戦没者慰霊祭(本件各慰霊祭)は、つぎのとおり挙行された。

(一)  五一年慰霊祭

(1) 五一年慰霊祭は、同年四月五日、本件忠魂碑の前で神社神道式で挙行されたが、その祭場は、神社神職の指示指導により設営された。

(2) 本件忠魂碑正面の玉垣の内側には白木の台と白布を被せた机で祭壇がしつらえられ、祭壇中央部には榊の幣が立てられ、その左右の幣旗には神鏡と神剣が飾られ、その前の七基の三方の上には神酒、餅、果物、野菜等の神饌が供えられ、玉垣の外側には左右に各一脚の白布を被せた長机が置かれ、それぞれに数十本の玉串が載せられた。

(3) その主宰者は、式服(衣冠束帯)を着用した神社神職で、同日午前一〇時三〇分ころから午前一一時三〇分ころまで、式次第に則つて、開会の辞、修祓の儀、降神の儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、昇神の儀、謝辞、閉会の辞が行われた。

(4) 司会者は、開会の辞につづき「これより神事に入ります。」と告げ、昇神の儀の後に「これにて神事を終ります。」と告げた。

(5) 参列者は、市遺族会の会長、役員その他の会員、市議会議長、市議会議員数名、市職員多数、西小学校校長、市長(第一審被告中井)、教育委員長(亡佐佐木)ら合計百数十名であつたが、教育長(第一審被告河野)もこれに参列し、玉串奉奠の際、神前に進み出て本件忠魂碑に向つて二礼二拍手一礼して玉串を祭壇に捧げた。

(6) 市長(第一審被告中井)及び市会議長は、祝詞奏上に続いて、式辞を読んだ。

(二)  五二年慰霊祭

(1) 五二年慰霊祭は、同年四月五日、本件忠魂碑の前で仏教式で挙行されたが、その祭場は、仏教式に設営された。

(2) 本件忠魂碑の前に白布を被せた祭壇がしつらえられ、その上に供物、花が置かれ、玉垣には幕が張られ、祭壇の前に参列者のための椅子が並べられた。

(3) その主宰者は、架裟、法衣を着用した七名の僧侶で、同日午前一〇時三〇分ころから午前一一時三〇分ころまで、式次第に則つて、開会の辞、黙祷、読経、導師表白文及び慰霊追悼文の朗読、参列者一同の焼香、謝辞、閉会の辞が行われた。

(4) 参列者は、五一年慰霊祭のときと同様で、教育長(第一審被告河野)も、これに参列し、祭壇前で焼香を行つた。

(5) 市長(第一審被告中井)及び市議会議長は、式辞を読んだ。

3  第一審被告らの関与・助成

(一)  第一審被告中井は、市長として、つぎのとおり、本件各慰霊祭にかかわつた。

(1) 同被告は、市長として、本件各慰霊祭挙行のため、その管理に属する市の財産を、左のとおり、自ら使用若しくは消費し、又は他人に使用若しくは消費させた(つぎの(イ)ないし(ヘ)の各財産を、以下「本件市財産」という。)。

(五一年慰霊祭に関して)

(イ) 同被告は、昭和五一年三月六日、五一年慰霊祭の開催を協議する目的で開かれた市遺族会箕面地区理事評議員会のために、市役所庁舎(同市西小路四丁目六番一号所在)会議室を使用させた。

(ロ) 同被告は、市の職員をして、右理事評議員会招集通知書(少なくとも三〇通)や、五一年慰霊祭の案内状(少なくとも五〇〇通)を、市所有の事務用紙を使用して作成させ、更に、右通知書発送のため、市福祉事務所用の市所有の封筒(少なくとも三〇枚)を使用させた。

(ハ) 同被告は、五一年慰霊祭の参列者のため、阪急箕面線牧落駅から祭場までの間を、市の職員をして市所有のマイクロバスを往復運転させ、右参列者の送迎に当たらせた。

(ニ) 同被告は、五一年慰霊祭に自ら参列するため或いは参列する市の職員のため、市の職員をして、市所有の乗用車を少なくとも五台運転させた。

(五二年慰霊祭に関して)

(ホ) 同被告は、市の職員をして、五二年慰霊祭の案内状(少なくとも五〇〇通)を、市所有の事務用紙を使用して作成させた。

(ヘ) 同被告は、五二年慰霊祭に自ら参列するため或いは参列する市の職員のため、市の職員をして、市所有の乗用車を少なくとも二台運転させた。

(2) 同被告は、市長として、支出命令を発することにより、左のとおり、それぞれ、その勤務時間中に、本件各慰霊祭について、少なくとも一時間、慰霊祭の開催準備や挙行のための事務に従事し又はこれに参列した市の職員に対し、右時間に相当する分の給与(左記(イ)ないし(ホ)で、市の職員が、本件各慰霊祭のために要した時間は、職員一人当たりに換算して少なくとも延べ三一時間に相当する。)少なくとも合計金一万〇四一六円を支給した。

左記(イ)ないし(ホ)の各行為は、すべて第一審被告中井が市長としてさせたものである。仮にそうでないとすれば、同被告はこれを知りながら差し止めず又は許容した。

(五一年慰霊祭に関して)

(イ) 市の職員のうち、少なくとも一名が前記(1)(ロ)の通知書作成事務に、少なくとも一名が同通知書を入れる封筒宛名書きの事務に、少なくとも一名が同通知書配送事務に、少なくとも一名が前記(1)(ロ)の案内状作成事務に、少なくとも一名が同案内状封筒宛名書き事務に、少なくとも一名が同案内状配送事務に、各従事した。

(ロ) 市の職員のうち少なくとも一名が前記(1)(ハ)のマイクロバス運転に従事した。

(ハ) 市の職員のうち少なくとも二〇名が前記(1)(ニ)の乗用車の運転、同祭の設営及び祭場内の案内整理に従事し、又は参列した。すなわち、参列者は、市民福祉事務所長、同事務所遺族会書記担任職員、市長秘書、市議会事務局長ほか五名以上、乗用車運転者五名以上、マイクロバス添乗者(運転者を除く)一名、同祭設営準備の地区理事評議員会の陪席一名(書記)以上、祭式場の設営の事前準備、現場手伝い、後片付け、案内整理に八名以上であつた。

(五二年慰霊祭に関して)

(ニ) 市の職員のうち、少なくとも一名が前記(1)(ホ)の案内状作成事務に、少なくとも一名が同案内状封筒宛名書きの事務に、少なくとも一名が同案内状配送事務に、各従事した。

(ホ) 市の職員のうち少なくとも六名が前記(1)(ヘ)の乗用車の運転、同祭の設営及び祭場内の案内整理に従事し、又は参列した。すなわち、五一年慰霊祭と同じく参列者五名以上、乗用車運転者二名以上、陪席者一名以上、祭式場の事務の従事者四名以上であつた。

(3) 同被告は、市長として、支出命令を発することにより、教育委員兼教育長である第一審被告河野に対し、同被告が本件各慰霊祭の参列に要した少なくとも各一時間に相当する分の給与少なくとも金三五五六円を支給した。

第一審被告中井は、右給与が右参列に要した時間分であることを知つていた。

第一審被告河野は、前記2のとおり、本件各慰霊祭に参列し、そのため、各年度とも少なくとも各一時間を要した。

(二)  亡佐佐木は、教育委員長として、同天野、同菅生、同橋本は、教育委員として、つぎのとおり、本件各慰霊祭にかかわつた。

(1) 右被告らによつて構成された委員会には、市所有の西小学校の備品、校舎及び校地を管理する権限がある。

(2) 委員会は、本件各慰霊祭の挙行のため、西小学校の備品、校舎及び校地を、つぎのとおり、使用し又は使用させ、仮にそうでないとすれば、委員会及び教育長は、西小学校の校長が使用し又は使用の許可をしたことを知りながら、これを差し止めず又は許容した(つぎの(イ)ないし(ヘ)の各財産を、以下「本件教育財産」という。)。

(五一年慰霊祭について)

(イ) 参列者、受付をする者の座席とするため折りたたみ式の椅子(少なくとも一三〇脚)が、祭壇、玉串台、受付事務の用に供するため折りたたみ式長机(少なくとも五脚)が、式次第掲示用に移動式黒板一台が、各使用された。

(ロ) 神職の装束の支度場所及び参列有力者の休憩用の部屋として校長室が、一般参列者の利用に供するため便所が、各使用された。

(ハ) 一般参列者の駐車場とするため、西小学校玄関前広場及び車寄せが使用された。

(五二年慰霊祭について)

(ニ) 参列者、受付をする者の座席用にするため折りたたみ式椅子(少なくとも一三〇脚)が、祭壇、焼香台、受付事務の用に供するため折りたたみ式長机(少なくとも五脚)が、各使用された。

(ホ) 僧侶の装束の支度場所、休憩室用に校長室が一般参列者の利用に供するため便所が、各使用された。

(ヘ) 一般参列者の駐車場とするため、西小学校玄関前広場及び車寄せが使用された。

(3) 右被告らは、委員会を構成し、それぞれ、教育長である第一審被告河野を指揮監督する職務権限があるところ、同被告をして、本件各慰霊祭に前記2のとおり参列させ、又は参列するのを知りながらこれを放任した。同被告は、そのため、各年度とも少なくとも各一時間以上の時間を要した。

(三)  第一審被告河野は、教育委員兼教育長として、つぎのとおり本件各慰霊祭にかかわつた。

(1) 同被告は、前記(二)の被告らとともに委員会を構成するところ、右被告らについての前記(二)(2)と同様に、本件各慰霊祭にかかわつた。

(2) 第一審被告河野は、教育委員兼教育長として、前記2のとおり、本件各慰霊祭に参列し、そのため、各年度とも少なくとも各一時間以上の時間を要した。

(3) 同被告は、前記2(一)(3)のとおり、右各参列に要した時間に相当する分の給与の支給を受けた。

四本件忠魂碑、本件慰霊祭への関与と憲法違反

1  本件忠魂碑の宗教的性格、反公益的性格

(一)  本件忠魂碑の宗教的性格

(1) 本件忠魂碑は、霊魂を合祀しこれを鎮魂慰霊するという宗教上の目的と意思により建立され、現にこれを合祀し同碑に入魂し、その客観的具現物として霊璽を蔵納し、また、霊魂の象徴として礼拝の対象物(霊代)とされ、玉垣・敷砂利・基壇石積・植栽等の意匠をこらした祭壇場・参拝場を設備し、例年そこで慰霊祭が行われている。すなわち、本件忠魂碑は、大正初年ころ西南戦役又は日清・日露戦争以後の地元地域出身の従軍戦没者の霊魂を祀り、これを慰霊するために建造され、敗戦直後に一度廃棄された碑を昭和二七年以後復建したもので、昭和四一年までの間に太平洋戦までの従軍戦没者が同碑に合祀されたこと、在郷軍人会は町村単位の忠魂碑の建立、忠魂碑による慰霊行事の執行をその重要な業務内容とし、学校教育と並んで、地域における国家神道の教義の公布、住民の教化の一翼を担うことをその重要な目的としていたこと、右廃棄前の碑においても、復建後の碑においても、碑により神道式又は仏教式による宗教上の祭祀儀式としての戦没者の招魂・慰霊祭式が定例的に挙行されてきたこと、国家神道においては、公式の行事として、天皇への忠誠を他の一切に優越させる国家的・軍隊的性格の強い神式の儀式と、個人の霊魂救済の性格が強く、荘厳さと崇高さによつて個人を満足させる仏式の儀式とが併用され、現在もその性格が引き継がれ宗教的に相乗効果をもたらしていること、碑石を石積の二重の基壇の上七メートルの高さに立てた同碑は、祀られた霊魂の象徴物(御霊代すなわち神体は偶像である。)とされ、慰霊祭その他の祭礼時又は平常時の礼拝若しくは参拝の対象物とされてきたこと、本件忠魂碑には、合祀者の霊璽が胎蔵され霊璽の標柱が埋設され、本件移設工事着工前に脱魂式を行つて合祀された霊魂を同碑から抜いたうえ解体し、再建工事完了後の竣工祭において入魂の儀を行つて再び同霊魂を入れたのであつて、右各祭事は神社神職の司祭による神道祭式によつたこと、本件忠魂碑は、在郷軍人会の慰霊の意思を受け継ぐ趣旨で慰霊の目的に供され、そのために維持管理されていること、本件忠魂碑前には、礼拝又は参拝に必要な土地として広場が確保されており、神聖な場所を象徴して俗世間と区別するため、玉垣をめぐらされ、区画された右広場と玉垣内には、一面に白砂利が敷きつめられていること、例年の慰霊祭は、忠魂碑基壇を祭壇とし、碑前広場を礼拝場としてこれを拝む形で、合祀された御霊を対象として行われていること、このような建立の主観的意図、その目的に副う設備の物的構成、維持運営の実体を総合すると、本件忠魂碑は、宗教的活動の目的に供される宗教上の施設(祭祀場又は礼拝所)の物的要素となつている。

(2) 墓碑は参拝の目的物として宗教性を有するが、記念碑は目的物とはならず宗教施設性を有するものではない、と考えることはできない。参拝の目的物となり、したがつて宗教施設性を具有するに至るものはひとり現実に遺体を埋葬し或いは遺骨を収めた地点に建てられる墓碑に限られないことは、社寺・仏像・自然の山・石・木などが参拝の目的物となつているわが国の実情によつて明らかであるから、忠魂碑は墓碑ではなく記念碑であるといつたところで、当然にはその宗教施設性の不存在を論証したことにはならない。死者に対する弔慰の意を表わすための碑は、まさに宗教的動機に基づいて建設された碑であり、それ故に、それは本来、戦没者が祀られている碑と観念されるようになり、参拝の目的物・祭祀の対象物となる性格を有しているのである。また、神籬を立てるから忠魂碑そのものは祭祀の対象物ではないとの主張も、特定の神道学者にしか通用しない理屈であり、忠魂碑が社会的実態として、参拝の目的物になつていたかどうか、祭祀の対象物であつたかどうかを判断するのに、特定の神道学者のみが理解している理論をもつてするのは、方法を誤つているといわねばならない。

大正二年四月二一日付社第一三五号神社局通牒「大正二年内務省令第六号ニ関スル注意事項ノ一」は、神社境内において、墓碑に紛わしきものの建設は無条件に禁止し、その他の記念碑は同一のものを一町村内に二箇所以上の建設を禁止することとし、その取扱いを異にしたが、忠魂碑は、後者ではなく前者の「墓碑に紛わしきもの」に属するのである。すなわち、右通牒は、神社と宗教との混同を避ける趣旨から、神社境内地に忠魂碑等を建設することを禁じたもので、神社は非宗教施設でなければならないのに、忠魂碑等の実態が宗教上の施設に類するものであることを認めていたからにほかならない。ところで、実際には、神社境内地外においては、警察署に願い出て、墓地の内外において建設の許可を受けることができる法制が存在したのであり、従前から既に参拝の目的物としての招魂碑、忠霊碑等は多数建設された合法的存在であつた。更に、忠魂碑が国民自らのイニシアティブによつて建設されたからといつて、自発性は宗教の本質的要素ですらあるから、なんら宗教性を否定する根拠とならないし、そもそも、忠魂碑は、国家神道を補完する公的祭祀施設の性格を有し、しかも地方長官或いは半官製の在郷軍人会等官側の音頭取りによつて建設されたものである。翻つて、忠魂碑という碑銘は、靖国神社の祭神を表わしており、それは、靖国から招魂への思想の基本的観念であり、天皇軍忠死者の碑が明治初年、招魂碑として発生し、日清・日露戦役後に至つてようやく靖国神社の祭神観念としての忠魂の語が一般に普及・定着したものであつて、忠魂碑の素材は、少し手を加えられた自然石が殆んどであり、どれも非常によく似通つているのは、日本古来の石神信仰に由来しているのである。

(3) 忠魂碑は、戦没者(英霊)の慰霊と顕彰のために建てられ、その目的のために機能してきたことは歴史的事実であり、本件忠魂碑もその例外ではなく、むしろその典型である。右にいう慰霊は、生者が建碑又は碑を媒介とする祭祀行為を通じて死者の霊に働きかけ、これを鎮める作用を有し、俗界と霊界との交流の一態様であり、それは専ら碑の宗教的な機能である。また、右にいう顕彰は、死者の事績を讃え一般公衆に広くその感化を及ぼそうとする生者に対する現世的作用であり、この碑の作用には、慰霊して顕彰し又は顕彰して慰霊するという超世俗的、宗教的機能とともに、死者の記念(メモリアル又はモニュメント)として世俗的機能の側面がある。

一般に、碑が死者のために建てられるときは、純粋に記念碑としてでなく、慰霊、招魂、供養という宗教的な目的、機能を併有するものが多い。それは、碑が墓標から発生したことを考えると極めて自然なことである。右のような忠魂碑の目的・機能の二面性(宗教性と記念性)は、観念上これを区別することができ、また、区別して考察すべきであるが、現実にはそれらは別々の場面で個々に機能しているのではなく、相互に他の内実となり、複合して作用することにより、それぞれの機能を具体化し充実させ補強する。

したがつて、忠魂碑が世俗的なメモリアルないしモニュメント(記念碑)の性格をもつことをもつてその宗教性を否定することはできない。むしろ、本件忠魂碑は、当初から戦没者慰霊の目的をもつて、具体的には同碑により宗教祭祀を執り行うことを目的として建立されたものである。この点で、忠魂碑は、宗教祭祀を目的とせず専ら無縁遺骨の収納施設である千鳥ケ渕戦没者墓苑とも基本的に異る。忠魂碑の非現世的作用(霊界に対する作用)が専ら宗教的、超世俗的機能であることはもちろんであるが、宗教は超世俗的思想を現世において説くものであるから、碑の現世的作用(生者に対する作用)もまた宗教的機能の一部であり、これに世俗的記念的機能があるからとはいえ、その宗教性を否定する事由とすることはできない。両機能は、前記のように複合して作用しており、分離することが困難であり、神体も仏像も宗教的実体の現世的作用のための現象形態である。本件忠魂碑は、慰霊という宗教的機能を果たしつつ、死者のメモリー(記念)とモニュメント(顕彰)になつている。

(二)  本件忠魂碑の反公益的性格

忠魂碑は、在郷軍人会の各分会等が、全国各地に、地域出身戦没者を「忠君に殉じた英霊」として誉めたたえ、これを「忠魂」と表現してその功績を顕彰し、「忠死」を勧奨し、これに続く大量の「朕が忠良の臣民」を再生産するために建立したものである。碑前においては、毎年招魂祭が催され、国民に対しその拝礼が強制され、同碑は、いわゆる神勅思想に基づく天皇制絶対主義と軍国主義を鼓吹する役割を果して来た。このように、忠魂碑は、絶対君主神権天皇に対する滅私奉公のため勇躍死に赴いたことを讃美する忠君思想を表わし、天皇への忠義に殉じた武勇を公衆に広く顕彰しようとしたものであつて、全体主義的軍国主義と主権在君の思想を表現して、これを広くかつ永遠に宣布伝承する働きを客観的に持つている。したがつて、忠魂碑を維持管理し、これにより戦没者を追悼ないし慰霊することは、その主観的意図や利用目的の如何にかかわらず、国民を主権者として、個人を尊重し、人権を保障し、平和を希求し、戦争放棄、戦力不保持を定めた憲法前文一項、一条、九条及び一一条ないし一四条以下の人権規定、九九条の理念に反するものである。

2  本件各慰霊祭の宗教的性格、反公益的性格

(一)  本件各慰霊祭の宗教的性格

(1) 本件各慰霊祭を含む現在わが国で行われている多くの戦没者慰霊祭は、非業の死を遂げた者の霊を鎮め、神として祀る御霊信仰を起源としており、この伝統は、幕末から明治初期にかけて、天から死者の霊を招き鎮祭するという観念及び味方の死者のみを国事殉難者として弔祭する招魂の思想に基づく招魂祭として受け継がれ、この思想が天皇への忠誠を基準とする新たな神道に整備されるべく、政府は東京招魂社を靖国神社と改称したが、旧憲法下におけるわが国の戦没者慰霊祭は、すべて国家神道の一定の観念に基づく一定の儀礼であり、この系譜が今日に至るまで脈々と続いている。わが国の戦没者慰霊は国家神道の存在を抜きにしては考えられないものであつて、その宗教性を否定できないことは疑問の余地がない。神社神道は神霊等の超自然的、超人間的存在の確信によつて成立しているものであり、国家神道は、神社神道の祭祀と宗教を分離したものにすぎず、これが宗教以外のなにものでもないことは明らかである。そして、靖国神社の教義は、忠魂を慰める招魂の思想そのものであり、国家神道の教義と同根同質であり、現在の国家神道ともいうべきものである。

(2) 本件各慰霊祭は、神仏交替形式で行われているが、神仏併用は国家神道下の市町村レベルの招魂祭ではむしろ通常であつて、その形式をそのままに引き継いでおり、靖国神社に合祀された祭神が同様に祀られていると観念されている忠魂碑の前で行われ、あくまでも忠魂にこだわつてこれを慰めるものであり、靖国神社の祭祀と同根同質の宗教儀礼であつて、宗教性が極めて濃密である。

(二)  本件各慰霊祭の反公益的性格

本件各慰霊祭は、忠魂碑を祭儀の中心とし、これを礼拝し、戦没者を忠魂として慰霊するものであるから、前記四1(二)のとおり前記憲法の各条規と理念に違反する。

3  市遺族会の宗教団体性、反公益性

(一)  市遺族会の宗教団体性

(1) 日本国憲法の定める政教分離原則は、大日本帝国憲法下での国家神道体制が招来した宗教弾圧、思想弾圧、軍国主義体制の歴史の深刻な反省の上に立つて立法され、信教の自由を保障し民主主義を確立することによつて、政府の行為によつて再び戦争の惨禍を起こさないようにすることを目的としており、そのためにこそ国家と宗教とを完全に分離することを理想として規定されたものであるところ、憲法八九条前段は、右のごとき趣旨を有する政教分離原則を、財政面から規定した条項である。したがつて、右前段の「宗教上の組織若しくは団体」の解釈としては、宗教団体はもちろんのこと、広く宗教に関係ある事業若しくは活動そのものを指すと解すべきである。

(2) 市遺族会は、大阪府遺族会(但し、のちに大阪府遺族連合会と改称された。)の支部であり、大阪府遺族会は日本遺族会の支部である。市遺族会の会長は、大阪府遺族会箕面市支部の支部長であり、当然に大阪府遺族会の評議員となり、大阪府遺族会で選出された者が日本遺族会の評議員となる。したがつて、市遺族会、大阪府遺族会、日本遺族会は、全国的一体組織である。

日本遺族会及び各単位遺族会の第一の目的は英霊の顕彰であるが、市遺族会は、右英霊顕彰事業の一環として、つぎの各宗教的活動を組織的に常時又は定期に継続して行つている。すなわち、市遺族会の活動は、本件忠魂碑を御霊代として、これに戦没者を英霊として合祀し慰霊祭祀する事業、本件忠魂碑による神式又は仏式の戦没者慰霊祭の例年執行、毎年度の靖国神社への集団参拝の事業、大阪護国神社の毎年春秋各例大祭への団体協賛と役員及び会員の集団参拝並びに同大祭への神饌料の奉献を主とし、これらは、日帰りで行われる秋季バス慰安旅行を除き、いずれも宗教活動である。

(3) このように、市遺族会は、戦没者遺族のうち、公務死と認定された戦没者が靖国神社に神として祀られているという信仰を持つ人々によつて構成され、靖国神社の教義に基づき、靖国神社の祭神たる英霊の慰霊・顕彰をすることを目的とし、靖国神社における英霊の祭祀を維持、継続しこれに参加することを主な事業とし、靖国神社に対する内閣総理大臣の公式参拝によつて靖国神社信仰に対する国家的支持を公証させ、更には、靖国神社の国家護持による靖国神社の公営化と靖国神社信仰の国教化を策動し、これの実現にむけて運動している靖国神社崇敬者(信者)の団体である日本遺族会の箕面市における支部であり、支部の活動として、靖国神社の参拝、大阪護国神社における英霊祭祀への参加とこれの維持(護持)への協力、そして本件忠魂碑を含む箕面市内の各地区における忠魂碑の維持(護持)と各忠魂碑前での慰霊祭の挙行による英霊の祭祀の執行を行つている団体であつて、忠魂碑の前でする戦没者慰霊祭を今後ますます盛んにすることが会の方針であり、慰霊祭を各年交替により神社神道式、仏教式の各宗教祭祀として行うことを定めている。そして、市遺族会は、前記のとおり、本件忠魂碑に戦没者を合祀し、本件忠魂碑を礼拝の対象物としており、右のような組織及び事業の実態からすれば、憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に該当することは明らかである。

(二)  市遺族会の反公益的性格

日本遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデオロギー・国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰することを本質的な体質とするものであり、同会にとつて民族の伝統、民族精神、愛国心の尊重を謳うことと、戦没者を「民族の伝統」に従つて靖国神社に祭り崇敬することを要求することは、表裏一体の主張なのであつて、このような主張、思想、観念は、日本国憲法の根本規範に反し、国民主権の否定、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与するものといわなければならない。市遺族会は、そのような性格を有する日本遺族会の一地方支部である。そして、支部としても、本件忠魂碑により、毎年前記のごとき内容の慰霊祭を執行するなど憲法理念に反する活動を重ねてきた。このような性格を有し、活動を行つている団体は、団体そのものが反憲法的であると評価せざるをえない。

4  本件各行為と憲法二〇条一項後段、同条三項、八九条前段、憲法前文、一条、九条、一一条ないし一四条以下、九九条違反

本件忠魂碑についての本件売買、本件移設・再建、本件貸与(前記二2、3)、本件各慰霊祭への関与ないし助成(前記三3)(以下これらを総称して「本件各行為」ともいう。)は、信教の自由の保障、政教分離の原則を規定した憲法二〇条、八九条に違反し、かつ、絶対平和主義、主権在民、基本的人権尊重を規定した憲法前文、一条、九条、一一条ないし一四条以下、九九条に違反する。

(一)  本件忠魂碑は市の所有であり、市はこれを市有地上から市有地上へ、市の費用で市が自ら移設・再建したものであり、敷地の貸与は辻褄あわせにすぎないのであるから、市が本件忠魂碑を維持しているかどうかを論じるまでもなく、これが市による宗教行為となることは明白である。

(二)  仮に、本件忠魂碑の所有権が分会から市遺族会へ移転し、これにあわせて本件貸与がされたとしても、

(1) 市は、市有地上にあつた本件忠魂碑が宗教的活動の目的に供される宗教上の施設(祭祀場又は礼拝所)の物的要素となつていることを認識しながら、これを市自身の手で、市有地である本件敷地に移設・再建し、本件忠魂碑前における慰霊祭のための用地確保の目的を含めて本件貸与を行つたものであり、一方、市遺族会は、本件忠魂碑の所有名義人であるにとどまり、敷地が市遺族会に対する貸与の形式をとるとはいえ、この間及びその後、市遺族会は、本件忠魂碑の維持のため何らの支出をしておらず、何の負担も負うことなく、本件忠魂碑維持のための人的経済的負担をすべて市に負わせており、その祭祀たる慰霊祭に対してすらも、市遺族会の会員は単に参加し或いは儀礼的行為をするのみで、慰霊祭の準備や執行の作業に市の職員が勤務時間中に従事しているほか、同祭のために市の財産(校舎の一部や学校の備品)が利用されているのであつて、その実質的運営の大半を市職員に行わせていることなどの事情を総合的に評価すれば、市が自ら本件忠魂碑を維持しているということができるものであり、市による宗教活動そのものと評価しなければならない。本件各慰霊祭がそれ自体宗教的儀式であること、その挙行場所である本件忠魂碑及びその敷地部分が宗教施設であること、その主催者である市遺族会が憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体であること、市が、前記三3の各関与ないし助成行為のほか、市遺族会において右移設以前から旧忠魂碑前で毎年定期的に行つていた慰霊祭の挙行のためにも、本件各慰霊祭の場合と同様に箕面小学校の校舎・備品等を使用させていたこと、市福祉事務所内に、市遺族会がその事務所を置くことを許容し、市福祉事務所の職員をして、慰霊祭の開催準備等の事務を含む遺族会の事務をその勤務時間中に行わせていたこと、市遺族会に対し、市社会福祉協議会を通じて補助金を交付し、市遺族会が毎年行う慰霊祭を継続的に援助し、昭和五一年度では、四四万五〇〇〇円の補助金を市遺族会に交付したことなどの諸事情によれば、本件各慰霊祭は、本件忠魂碑の祭祀として挙行されたものであり、実質的には市の主催若しくは市遺族会と市の共催であり、市長及び教育長の忠魂碑礼拝は、それぞれの公務上の地位により、市或いは委員会を代表して行つたものであり、いわゆる公式参拝であつて、市の宗教行為に当たることはいうまでもない。

以上のとおり、本件各行為は、市が自ら或いは市遺族会と共同して、本件忠魂碑を維持(護持)し、その祭祀を主催若しくは共催し、市長・教育長らがこれを礼拝したというものであり、いずれも市の宗教行為である。したがつて、市の前記各行為は、いずれも国及び地方公共団体で行うことを憲法が禁止した宗教的活動であつて、その目的・効果などを論ずるまでもなく、憲法二〇条三項に違反する。

(2) 仮に、前項のように、本件各行為を総合的に評価して、市自身の宗教行為に当たるという構成を採らず、あくまで市と市遺族会との関係において構成するとすれば、市は市遺族会に対し、解体費用の請求の免除、再建費用の負担、本件敷地の無償貸与、本件各慰霊祭の挙行援助という形態で、市遺族会が本件忠魂碑を維持(護持)し、その祭祀を執行するのを援助するとともに、市長・教育長が本件忠魂碑を礼拝したということになるが、市遺族会は、前記のとおり、その組織・団体性において固有の意味における宗教団体であり、これに対する右の援助行為は、債務の免除、資金援助、不動産の無償貸与、動産の無償使用許可及び役務の無償提供というもので、いずれも憲法八九条前段の禁止する公金その他の公の財産を宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出し、又はその利用に供する行為に該当し、仮に、市遺族会が固有の意味における宗教団体とは認められないとしても、前記各行為はいずれも、市遺族会の忠魂碑維持とその祭祀という宗教活動の援助のために支出されたものであることは明白であるから、憲法八九条の禁止する宗教に対する援助である。

本件各行為、特に本件貸与は、高価な土地をそれも運動場として使用していたのをわざわざ廃止して、忠魂碑維持とその祭祀のために無償で貸与したというものであり、他の宗教団体には望んでも与えられない特別の援助である。憲法二〇条一項後段の特権には、法律的・経済的・政治的のいつさいの保護・優遇を指すと解すべきところ、本件各行為は、いずれもこれにあたるから、憲法二〇条一項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与に該当する。

(三)  更に本件各行為は、忠魂碑を維持し、その祭祀を行い、礼拝するというものであつて、個人の尊厳を規定した憲法一三条に違反し、生命を維持することが人間の幸福追求の前提であるとした憲法二五条一項に違反し、戦没者のみを優遇する点で憲法一四条に違反し、戦前の天皇主権回帰の思想を喧伝することにおいて国民主権の理念に反し、対外戦争肯定の理念が表象されていることから憲法前文、九条で具体化された平和主義、国際協調主義の理念に反する。

五本件忠魂碑についての本件売買、本件移設・再建及び本件貸与の法律違反

1  本件売買の違法

(一)  公益目的違反

本件売買は、前記四のとおり、本件移設・再建、本件貸与の目的のためにされたものであつて違憲であるから、法二条一六項、民法九〇条の規定により無効である。

(二)  公有地拡大法違反

本件土地は、公社が公有地拡大法一七条一項一号ニの土地とすることを目的として、具体的には同項一号ニのうち、同法施行令七条一項一号の「自然環境を保全することが特に必要な土地」として取得したものであるから、取得目的と同一目的に使用される場合でなければ、これを処分することができない。しかし、本件土地は、忠魂碑建設及びこれにより戦没者慰霊祭を行う用地として市に対し売却されたものであり、これは明らかに取得目的と合致しない。したがつて、本件売買は、公社の業務の範囲外の行為若しくは憲法の理念等に反する違法な目的のためになされたものとして、民法九〇条により無効である。

仮に本件売買が無効でないとしても、同契約は目的の違法性(土地違法供用)と行為の違法性(業務範囲外処分)の点で瑕疵があり、両当事者はこれを取り消し又は解除することができる。

(三)  予算の目的外支出

本件売買の代金は、西小学校の仮運動場用の土地を買い受ける目的で総務費(款)及び総務管理費(項)に計上されたものであるから、法二一六条、二二〇条二項により、分会に無償で貸与するための用地の購入費としては右の歳出予算を使用することができず、これを使用した支出は、予算の目的外支出として違法であり、また、同予算措置も違法である。普通財産の取得であるならば、それは通常、事業目的を有するものとはいえないので、その取得費は、諸支出金(款)、普通財産取得費(項)に計上すべきであつた。

2  本件移設・再建、本件貸与の違法

(一)  分会に補償すべき旧敷地使用権の不存在

(1) 敗戦前における旧敷地使用権の不存在、消滅

(イ) 旧敷地使用権の不存在、消滅

(a) (土地の同一性の欠缺)旧敷地の現在地名は、箕面市百楽荘一丁目七番地の一部である。同土地全体は、明治末年ころ箕面村が数筆の合体地を買い受け、これを一体画地として同末年ころ、豊能郡長に申請しその許可を受けて公立学校敷地及び役場敷地として公用に供し、同地上に箕面小学校及び同村役場を建設し、その後合併により一筆地としたものである。ところで、第一審被告らは、箕面村は分会に対し、旧忠魂碑敷地として箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番の二の土地を貸し付けたと主張しているにすぎないが、同貸付地と旧敷地とは別個の土地である。よつて、旧敷地の使用権は当初より存在しなかつた。

(b) (郡長の許可の不存在)仮に、右両土地は同一の土地であると認められるとしても、同貸付についての村会議決は、郡長の許可を得なければ効力を生じないところ、その許可がなかつた。

(c) (契約の不存在)市契約規則によれば、市が契約を締結したときは、契約書二通を作成し、その一通を市長において保管すべきことが定められている(市契約規則一六条)。これは町村制下も同様であつた。また、契約書を作成する場合は市長と相手方の双方が契約書に記名押印しなければ契約が成立しない(法二三四条五項)。したがつて、現に旧敷地貸与の契約書が存在しない以上、右契約は不存在である。

(d) (行政財産の恩恵的使用関係)旧敷地は、村有地の公用廃止を経ることなく、当時の軍事国策から、公益上の目的をもつた忠魂碑の用に供されたが、その使用関係は、不動産管理とされ、期限の定めなく無償貸与するという行政財産の性質変更をきたす処分としての議決がなされなかつたから、土地に使用借権を設定してその占有を分会に移転したものでなく、公用施設管理者たる村又は学校の当局が直接占有支配し、随時必要に応じ構内に立ち入らせ、又は右碑における参拝や儀式に際し、分会に対し旧敷地を利用させる関係であつたというべきであり、一種の恩恵的なものにすぎなかつた。

したがつて、分会の旧敷地の使用上の利益は、分会が昭和二〇年右碑の利用を廃止したときに、土地の引渡返還等の何らの法律上、事実上の行為をまたずに消滅したものである。

(e) 以上のとおり、分会の旧敷地の使用権は敗戦前に不存在又は消滅していたのであるから、その存続を基礎とする対分会補償行為は違法である。

(ロ) 分会の消滅

(a) (陸軍管区表の改正)在郷軍人会の支部は、規約により、内地においては連隊区内にある連合分会又は連合分会を組織しえない分会をもつて組織することとなつていたところ、明治四〇年九月一七日発令の軍令陸第三号「陸軍管区表」により設置されていた篠山連遂区は、大正一四年四月六日発令の軍令陸第二号「陸軍管区表」改正により廃止されたので、在郷軍人会篠山支部は解団して消滅した。したがつて、その下部組織たる分会もまた同時に消滅した。

(b) (在郷軍人会令の施行)仮に、分会が右時期に消滅していなかつたとしても、分会は、昭和一一年在郷軍人会令施行により、同令に基づく団体若しくは篠山支部の分会としていずれも存在する余地はなかつた。

(2) 敗戦直後における旧敷地使用権の消滅

(イ) 在郷軍人会の解散

(a) (民法五九九条の類推適用)在郷軍人会は、昭和二〇年ポツダム宣言受諾後、同会本部、支部及び分会のすべてが解散し、組織体としての活動は不可能になつた。よつて、自然人である借主が死亡した場合に準じて、旧敷地の使用貸借は民法五九九条により終了したものとみなければならない。

(b) (期限の利益の喪失)社団法人は解散によつてすべての債務について期限の利益を喪失するから、権利能力なき社団である在郷軍人会及びその下部団体は、解散によつて旧敷地の明渡債務について期限の利益を喪失し、直ちにこれを明け渡す義務が発生した。

(ロ) 旧敷地使用権の目的の終了

(a) 旧敷地の使用権の目的は、忠魂碑の建設、維持及び碑前における慰霊祭の挙行であり、神勅思想に基づく天皇絶対主義と軍国主義を鼓吹することにあるから、ポツダム宣言の受諾により否定され、許されないものとして達成不能となつたので、右目的に従つた旧敷地の使用収益は終了した。また、忠魂碑の建設、維持及び慰霊祭の挙行は、在郷軍人会の目的である「聖旨ヲ奉体シテ軍人精神ヲ鍛錬シ軍事能力ヲ増進スルヲ以テ本旨トナシ延テ社会ノ公益ヲ図リ風致ヲ振作シ恒ニ国家ノ干城国民ノ中堅タルノ実ヲ挙クル」(帝国在郷軍人会規約八条)ことを実現するためのものであり、この目的は、ポツダム宣言の受諾、在郷軍人会令の廃止並びに在郷軍人会本部及び分会の解散によつて完全に否定され、達成不能となつたので、右目的に従つた旧敷地の使用収益は終了した。更に、忠魂碑及びその敷地は、前述のごとく神勅思想に基づく天皇絶対主義、軍国主義を鼓吹する精神教育施設であると同時に、戦没者の霊を祀り、宗教行事である慰霊祭を行う宗教施設であるところ、昭和二〇年のいわゆる神道指令及び昭和二一年の「公葬等について」によつて忠魂碑の維持すら許されなくなり、右目的はいずれも否定されたので、右目的に従つた旧敷地の使用貸借は終了した。

(b) 以上のとおり、いずれの点からみても旧敷地の使用貸借の終了したことが明らかになつたので、昭和二五年三月末ころ、分会の費用をもつて旧忠魂碑の碑石部分を撤去、埋土して旧忠魂碑を廃棄し、旧敷地が箕面村に返還されたのである。

(ハ) 法定存続期間の満了

旧敷地の使用権は、民法六〇四条の類推適用により、二〇年を経過した昭和三〇年ころには期間満了で終了した。

(ニ) 碑石埋土による忠魂碑の廃棄

憲法施行直後の昭和二二年三月末、分会若しくは箕面村は、旧忠魂碑の碑石部分を撤去、埋土し、旧忠魂碑を廃棄したので、これによつて忠魂碑の建設、維持及び碑前での慰霊祭の挙行という目的に沿つた旧敷地の使用収益が終了し、旧敷地は村に返還された。したがつて、その後に何びとかが土中に埋もれていた碑石を掘り出して旧忠魂碑を復旧しても、分会の旧敷地の使用権が新たに生ずることはなく、その存続を基礎とする分会に対する補償行為は違法である。

(3) 法の規定に基づく旧敷地使用権の消滅

(イ) 昭和二三年七月二〇日に改正された法二一三条二項は、「条例で定める特に重要な財産又は営造物」についての独占的な使用の許可に該当するものは、法律施行の日から一〇年以内にそれぞれ改正後の同条の規定による手続を経て必要な同意を得なければ、法律施行の日から一〇年を経過したときは、将来に向つてその効力を失う、と規定した。

箕面市では、右改正規定に基づく条例の制定が右一〇年内になされず、ようやく昭和三三年一二月二四日に市財産及び営造物条例として制定され、同条例二一条によれば、学校及び市役所庁舎はいずれも特に重要な財産及び営造物とされており、旧敷地を含む箕面市百楽荘一丁目七番地の土地の全部は、右条例制定当時も引き続き学校及び市役所庁舎の用に供されていたから、旧敷地は当然に特に重要な財産及び営造物として、改正後の法二一三条二項の規定が旧敷地の使用関係にも適用されることとなつた。しかるに、同条例制定の日以後、同使用の許可については、議会の出席議員の三分の二以上の者の同意がなかつた。よつて、旧敷地の使用権は、右条例の施行の日である昭和三三年一二月二四日消滅した。

(ロ) 仮に、分会の旧敷地の使用権が右同日に消滅することなく存続したとしても、同土地は後記のとおり行政財産であるから、法の一部改正(昭和三八年法律第九九号)による二三八条の四第一項の規定の施行により、昭和三九年四月一日以降(法付則一条)は、右使用権は、私法上の使用関係としては存続を許されなくなり、消滅した。したがつて、旧敷地の使用権は遅くとも昭和三九年四月一日には消滅し、その存続を基礎とする分会に対する補償行為は違法である。

(二)  分会の本件敷地使用権取得手続の違法

(1) 昭和五〇年五月二一日の市と市遺族会との間の合意(以下「本件合意」という。)の不存在

第一審被告らは、市が市遺族会と交渉した結果、市遺族会に対し本件敷地を貸与し、本件土地中のその余の部分の付随使用を認める内容の合意に達したというが、本件合意は、市が、市の費用で本件敷地に移設することを行政の方針として決定するとともに、旧忠魂碑に重大な関心と利害関係を有する箕面市政上の圧力団体である市遺族会に対し、右行政方針を説明し、同意を得るという行政手続の一政治過程にすぎず、何らの法的効果も生じない。すなわち、当時、市は、旧忠魂碑について明確な権利者が存在しないと判断し、遺跡という取扱いをしようとしていたのであるから、碑の移設は単純な行政の執行であり、これにつき第三者との契約など必要としないし、市遺族会は、碑の存在による反射的利益を享受し、清掃や旧忠魂碑前での慰霊祭を挙行していたのみで、旧忠魂碑及び旧敷地について何らの権利を持たず、また主張したこともない。また、市を当事者として何らかの法的効果を予定した合意をするのであれば、少なくとも書面を作成する必要があるし(市契約規則一六条、法二三四条五項)、市は、当時、旧忠魂碑について、明確な所有権者が存在しないから遺跡として取扱うという意思であつたから、遺跡である碑の敷地として市有地を使用することが、何びとかに対する貸付になるなどとは考えていなかつたはずである。仮に、市が本件合意において貸付ということを考えていたのであれば、昭和五〇年六月に本件敷地の購入費と移設費用の予算措置を講じた際か、遅くとも同年一二月の移設までに、本件敷地の無償貸付の承諾を得ることを市議会にはかつていたはずである。このような措置を講じていないのは、懈怠や所有者不明によるものではなく、貸付と考えていなかつたからにほかならない。

(2) 本件合意の無効

(イ) 予算外の債務負担行為

第一審被告らは、市が移設費用を負担することが本件合意の内容であると主張するが、そのような債務負担を内容とする合意をするのであれば、法二一四条により、事前に予算措置を講じることが必要であり、予算外の債務負担行為はもとより無効である。

(ロ) 分会のためにする意思の不存在

市遺族会は、自己の慰霊祭挙行や碑の清掃等の便宜を考慮して専ら自己の利益、目的から市の忠魂碑移設計画に同意したのであつて、不特定の権利者や分会その他第三者のために本件合意をしたものではない。

(3) 本件合意の追認の無効

(イ) 分会清算人の権限踰越

仮に、分会清算人が本件合意を追認したとしても、分会が市から本件敷地の無償貸付を受ける行為は、既に解散した分会に新しく本件敷地の返還義務を負わせるものであるから、民法七八条一項により、清算人の権限を超え、無効である。

(ロ) 本件合意の瑕疵の承継

仮に、形式上有効な追認をすることができるとしても、本件合意の瑕疵(書面の不存在、予算なき債務負担行為、貸付についての議決の欠缺など)は重大であり、これらは追認行為の瑕疵となるので、右追認は無効である。

(4) 市と市遺族会と分会清算人との間の昭和五一年三月八日の合意の無効

本件忠魂碑及び本件敷地使用権が分会の清算未了財産であるとすれば、忠魂碑等の処分について在郷軍人会及び分会の規約には何の定めもないのであるから、清算人は主務官庁の許可を得て分会の目的と類似の目的のためにこれらを処分すべきである(民法七二条二項)が、分会の目的は新憲法下では公序良俗に反するものであるから、類似の目的のための処分は不可能であり、また、社団の総会の決議を得ることもできない。よつて、本件忠魂碑のごときは国庫に帰属させるしかなく(同条三項)、その敷地の使用権もまた無条件に消滅させる以外にない。なお、在郷軍人会解散要領(昭和二〇年八月三一日在郷軍人会本部)は、非合法文書であり、かつ、本部の文書であるから、分会清算人の行為の根拠とすることはできない。

(三)  市遺族会に対する補償手続の違法

(1) 行政財産としての補償不要

旧忠魂碑は、箕面小学校敷地又は箕面市役所庁舎(旧箕面町・村役場)敷地(市役所庁舎が他所へ移転後は、箕面市立保険センター敷地となつた。)のいずれかにあつたから、その敷地は、行政財産たる土地内にあつた。したがつて、分会の旧敷地使用権は、行政財産許可使用権(法二三八条の四第四項)としてのみ存在しえた。

普通地方公共団体の長は、公用又は公共用に供する必要を生じたときは、行政財産の使用許可を撤回することができる(法二三八条の四第六項)ところ、旧敷地は箕面小学校のプール建設という公用に供するため明渡を迫られたのであつて、行政財産の使用権者は、特別の事情のない限り、右取消による使用権の喪失について補償を求めることができないから(最高裁判所第三小法廷昭和四九年二月五日判決・民集二八巻一号一頁)、旧敷地の明渡についてはなんらの補償を要しない。

(2) 普通財産としての補償不要

仮に、何らかの理由で旧敷地が普通財産であつたとしても、分会が、忠魂碑を維持運営すべき事業をすでに廃止しており、かつ、同事業を再開し継続することができなくなつていたことは明らかであり、したがつて、旧敷地の使用権を存続させるべきいかなる利益も有しないから、その使用関係を解約し、使用権を消滅させたとしても、分会に何ら損失が生じない。また、分会は、同使用権を存続させ、忠魂碑とともにこれを特定又は不特定の第三者に帰属させるべき義務を負つているものでもなく、したがつて、同使用権を消滅させたとしても、分会が第三者を害することはなく、これにより同会が第三者から損害賠償等の請求を受けるおそれも存しないから、この点でも分会に損失の生ずる余地はない。

仮に、解約によつて損失が生じると認められたとしても、旧敷地の使用関係は無償使用関係であること、及び貸主たる市の公用又は公共用の必要(法二三八条の四第六項)、借主たる分会の解散と組織の消滅、忠魂碑と旧敷地の分会における無用性とその放置状態、学校施設の緊要性等の事情を総合考量すると、旧敷地使用権の消滅に対しては何らの補償も要しないと解すべきである。

(3) 現物補償の不許

仮に、旧敷地使用権の消滅について、分会に何らかの損失が生じ、かつ、これを補償すべき何らかの理由があると認められるとしても、地方財政の総計予算主義の原則及び公有財産を交換し又は支払手段として使用することの禁止規定(法二三七条二項)の存在等により、原則として現物補償は許されず、金銭支出によるべきである。本件の場合、忠魂碑の移設と本件敷地の貸与の方法によらなければならない事情も存しなかつたから、分会に対し、旧忠魂碑の撤去及び旧敷地の明渡を求め、相応の金銭賠償をすれば足りたのである。しかるに、八〇〇〇万円をこえる経費を支出して、本件移設・再建、本件貸与を行つたことは、過大・違法のそしりを免れない。

(4) 市議会の議決の欠缺

仮に、本件合意とその追認が有効であつたとしても、本件敷地については、市議会の分会に対する貸付議決を得て初めて使用借権が発生するのであつて、これがない以上、分会は本件敷地について何の権利も有しない。したがつて、市が本件敷地使用権の譲渡を承認することも不可能である。そして、これが財産貸付条例二条一号所定の議会の議決を要しない場合に当たらないから、法九六条一項六号、二三七条二項に違反する。

(四)  違法な随意契約

市が本件移設・再建のために建設会社との間に締結した請負契約は、随意契約又は指名競争入札によつてなされたところ、そのいずれの要件(法二三四条二項、法施行令一六七条)をも欠くから、違法無効である。

(五)  公有地拡大法違反

本件貸与は、前記1(二)のとおり、本件土地の取得目的に反するから、違法無効である。

(六)  公益目的違反

本件貸与が違憲であることは前記のとおりであるから、本件貸与は法二条一六項ないし民法九〇条により無効である。

(七)  本件貸与は、市が市遺族会に対し法二三条の二所定の補助をしていることにほかならないところ、本件敷地は、本件忠魂碑を建立し、同碑前で慰霊祭を行うために使用されているのであつて、右使用は、前記のとおり、憲法の理念に反する反公益的なものであるから、本件貸与は、法二三二条の二に違反し、法二条一六項により無効である。

六本件忠魂碑に関する怠る事実の違法確認、損害賠償請求

1  第一審被告市長に対する怠る事実の違法確認請求

(一)  第一審被告市長は、本件忠魂碑に関し、つぎのとおり、市の財産に関する違法状態を是正する措置を怠つている。

(1) 本件忠魂碑の除去及び市遺族会に対する本件忠魂碑引渡、本件敷地明渡の請求

本件忠魂碑は、前記二のとおり、市の所有であるから、市は、市遺族会に対し、所有権に基づいて、本件忠魂碑の引渡と本件敷地の明渡を求めることができるとともに、前記四1のとおりの性格を有する本件忠魂碑を市有地である本件敷地上に存置してはならないから、これを除去すべきである。

(2) 市遺族会に対する本件忠魂碑収去、本件敷地明渡の請求

仮に、本件忠魂碑が市遺族会の所有であり、市が本件敷地を市遺族会に無償貸与しているものとしても、本件貸与が違憲・違法、無効であることは前記四1、3、4、五2のとおりであるから、市は市遺族会に対し、本件忠魂碑を収去して本件敷地を明け渡すことを求めるべきである。

(3) 公社に対する本件売買代金の返還請求

(イ) 本件売買は、前記四1、3、4、五1のとおり、違憲・違法であるから、無効である。したがつて、市は、公社に対し、本件土地の引渡と引き換えに、売買代金七八八二万六八二四円の返還を求めるべきである。

(ロ) 仮に、本件売買が無効でないとしても、本件売買は目的の違法性(土地違法供用)と行為の違法性(業務範囲外処分)の点で瑕疵があり、両当事者はこれを取り消し又は解除することができる。したがつて、市は、本件売買契約を解除したうえ、公社に対し、売買代金七八八二万六八二四円の返還を求めるべきである。

(4) 市遺族会に対する本件土地の使用制限の請求右(1)ないし(3)がいずれも理由のないものとしても、市は、前記四3の性格を有する市遺族会に対し、市遺族会が本件土地を神社神道上若しくは仏教上の祭祀場又は忠魂碑の礼拝所のいずれの目的のためにも使用しないように使用目的を制限すべきである。

(二)  第一審被告市長は、法一四九条により市の財産を取得・管理し、処分する権限を有するものとして、市の財産に関する右違法状態を是正すべき職務上の義務がある。

2  第一審被告らに対する本件忠魂碑に関する損害賠償請求

(一)  違法な財務会計上の行為又は債務不履行(類似)ないし不法行為

(1) 第一審被告らは、共同して、前記四4、五のとおり違憲・違法な本件売買、本件移設・再建及び本件貸与を目的として、本件忠魂碑の移設事業を計画、執行したが、その具体的内容は、忠魂碑移設事業の計画・決定・執行をした、本件合意を成立させた、債務負担行為の定めをする予算を作成しなかつた、本件移設のための補正予算を作成した、本件廃止決定をして、その使用借権の放棄をした、本件土地の売買契約を締結した、本件移設工事の請負契約を締結した、本件土地の買受代金の支出命令を出した、本件移設工事請負代金の支出命令を出した、本件貸与をした、以上の行為(以下「本件移設事業の計画、決定及び執行」ともいう。)である。そして、本件移設事業の計画、決定及び執行は、その事業の全体について学校の施設の整備に関する事務であり、委員会の職務に属し、市長は、委員会の主体的意思決定に基づく意見、申出により、委員会と共同して以上の具体的行為をしたものである。

(2) 本件売買、本件移設・再建及び本件貸与を含む本件移設事業の計画、決定及び執行は、法二四二条所定のいわゆる財務会計上の違法な行為に当たり、仮にそうでないとしても、これらを共同して実行したことにおいて市に対する債務不履行(類似)ないし不法行為に当たる。

(二)  被告適格

(1) 法二四二条の二第一項四号にいう当該職員とは、法二四二条の住民監査請求の対象とされている職員であると考えられるが、法二四二条によると、住民監査の請求の対象者は当該普通地方公共団体の職員とのみ規定され、何らの限定も加えられておらず、また、法二四二条の二は、地方自治体の財務運営の正当性を保障することを目的とするとされてはいるが、その代位訴訟の規定自体が、当該職員だけではなく当該行為若しくは怠る事実に係る相手方をも請求の対象者として認めているのであつて、この規定からみても、当該職員に係る請求について、その者固有の職務権限いわんや決裁権限の有無によつて、被告適格を限定すべきことなどを予定していない。この趣旨は、最高裁判所第三小法廷昭和五三年六月二三日判決・裁判集民事一二四号一四五頁(判例時報八九七号五五頁)によつても明示されている。

(2) 第一審被告らは、法二四二条の二第一項四号にいう当該職員又は怠る事実の相手方として、後記の損害を賠償する義務がある。すなわち、法二四二条の二第一項四号に基づく代位請求(以下「四号請求」という。)においては、市の機関による実体法上の請求権の不行使(違法な怠る事実)自体が、それのみで財務会計上の非違行為(不作為)である。それ故、その実体法上の請求権が一定の違法な財務会計上の行為により生じたものに限る理由は全くないのであり、財務的先行行為が非財務的事項を規律する憲法その他の法規範に違反して違法である場合に、これを前提として又はその執行としてなされる公金の支出等の財務行為が違法となる。実体法上成立する市の損害賠償請求権を、市に代位して請求する四号請求の場合には、そもそも、後行の財務的行為(例えば支出行為)に先行の非財務的又は財務的な行為の違法性が承継されたか否か、後行の支出行為等が違法か否か、などは全く無用の論議である。本件移設事業の計画、決定及び執行は財務会計上の行為に当たるから、これに関与した第一審被告らは「当該職員」に当たり、仮にこれらの行為が財務会計上の行為に当たらないとされるときは、これに関与した第一審被告らは「怠る事実の相手方」に当たる。

(3) なお、第一審被告らは、第一審被告中井が法二四三条の二第一項後段の職員に当たると主張するが、右にいう職員とは、長から権限の委任を受けて支出負担行為や支出命令を行う者(具体的には主管の部長・課長)を指すというべきである。これらの者は、平たくいえば必ずしも自発的にその職務についたわけでもなければ、その人の個人的な識見を買われてその職務についたという関係でもなく、また裁量の範囲もその権限も必ずしも広いというものではない。同時に行政機構内部の階層構造の中において定められた責任も、おのずと限定されているといえる。長が法二四三条の二第一項後段の「職員」たりえないことは明白であり(最高裁判所第一小法廷昭和六一年二月二七日判決・民集四〇巻一号八九頁)、また、教育長、教育委員らは、支出命令を発する権限を有する職員又はその権限に属する事務を直接補助する職員、すなわち同条の「職員」に当たらない。そして、これらの者の責任の有無は、民法の一般原則によるべきことになる(右最高裁判決)。

(三)  第一審被告らの職務権限

本件移設事業の計画、決定及び執行は、その事業全体について学校の施設の整備に関する事務であり、委員会の職務に属する。

(1) 教育委員

(イ) 地教行法は、教育行政と一般行政との調和を進めるため、委員会の職務権限と地方公共団体の長の職務権限を明定し、委員会が大学及び私立学校に関する事務を除き教育本来に関する事務を担任することとし、教育事務のうちいわゆる財務事務に属する特定の権限を地方公共団体の長の権限に移行するとともに、これらの財務事務について、委員会の意思の反映をはかり、委員会を存置した趣旨の実現を期するものとしているのであり、教育に関する財務事務のうち地方教育予算(案)その他教育関係議案の作成、教育財産の取得・処分、委員会所掌事項に関する契約の締結及び委員会所掌事務に関する予算の執行といつた特定の事務を地方公共団体の長の職務権限としたが、それはあくまで、対外的又は形式的な部分に当たる行為に関するものであり、その実質的かつ主体的な意思決定部分の権限は、依然として委員会に残されている。

(ロ) 本来、教育に関する事務の管理及び執行は、包括的に委員会の職務権限に属しており(法一八〇条の八第一項、地教行法二三条一九号)、これらの各事務は、多くの事実行為及び法律行為の複合として執行され、それは当然にその各部面において、財務事務を包括的に伴つており、これなくして、本来的教育事務の執行をなすことはできない。そして、右教育に関する事務に属する財務事務のうち、極めて限られた一定の事務(教育関係予算案・議案の作成、教育財産の取得・処分、教育事務契約の締結、予算の執行)のみが地方公共団体の長の職務権限とされているのであるが、これらの事務も長の単独になしうる専権事項ではなく、委員会の申出、意見等に基づくことが法律要件とされているから(地教行法二八条二項、二九条)、その執行は、長と委員会との法定の必要的共同行為ということができる。

(ハ) 本件移設は、箕面小学校プール建設事業にかかる関連事業としての忠魂碑移設事業としてなされたものである。したがつて、それが具体的に市の教育行政上必要かつ正当なものであつたか否かはともかくとして、本件移設事業が教育に関する事業(地教行法二三条二号、七号、一九号等)としてなされたものであることは明らかである。そして、本件移設事業は、忠魂碑移設という目標に向けて企画された一連の事実行為及び法律行為の全体を意味し、その要素たる各行為が個別になされても事業にとつて何らの意味をもたず、かつその一つをも欠くときは、事業全体が成就せず、したがつて、本件移設事業の計画、決定及び執行は、その事業の全体について学校の施設の整備に関する事務(同法二三条七号)であり、委員会の職務に属する。

(ニ) 本件合意は、第一審被告らのいうように契約であるとすれば、市遺族会(又は分会事務管理人)と市長・委員会との話し合いにかかる契約は市長及び委員会の共同実行行為をしてのみ成立しえた。また、同合意が契約であるとすれば、市の負担において移設工事をなすこと及び本件敷地を買受けて貸与することを約する部分は、債務負担行為であるから、予算の定めを要し(法二一四条)、その定めをしなかつたのは、市長と委員会の違法な共同的不作為である。そして、市長は、委員会の意見に基づき、歳出歳入予算中に本件移設のための忠魂碑移設工事費及び西小学校仮運動場用地(実は本件移設事業用地)取得費の歳出を計上した昭和五〇年度一般会計補正予算を作成した。また、教育財産の用途が廃止された本件土地の使用借権は、これを処分すべき旨の委員会の申出とともに、市長に引き継がれ、市長は、同申出に基づきこれを放棄し、貸主たる公社に返還(教育財産の処分)した(地教行法二八条各項)。右一連の各行為は、委員会と市長との連繋・共同によつてのみ可能である。なお、第一審被告らは、旧敷地は、箕面小学校の隣接地であり、その上に存した在郷軍人会分会ないし市遺族会の使用借権を消滅させ、同小学校の敷地としたというが、そうであれば、それは教育財産の取得であり、また、本件土地の買受と本件忠魂碑の移設は、箕面小学校プール建設事業にかかる関連事業としての忠魂碑移設事業の執行として、教育に関する事務の一部であり、委員会の所掌にかかる事項であるから、これについての市長及び委員会の職務権限とその行為の共同関係は右で述べたところと同様である。

(ホ) 本件売買契約は、本件買受代金の支出負担行為であるところ、委員会がその成立に不可欠の意思形成機能を担任し、市長は意思表示機関になつたにすぎないだけでなく、市長及び委員会は当初、同土地を仮運動場用地として取得して、仮運動場のままこれに忠魂碑を建てることを企画していたのであつて、本件土地の買受は教育財産の取得であり、市は委員会の法定の申出を待たなければならないのであるから(地教行法二八条二項)、委員会は、単に前記支出負担行為の成立に不可欠の意思形成機能を担当したにとどまらず、市長の意思表示機能の発動にも決定的権限を有したとすらいえる。本件移設工事の請負契約も、委員会の所掌事務に関する契約であるから、右と同じである。

(ヘ) 本件合意のうち、本件敷地の分会又は市遺族会に対する無償貸与に関する部分は、市議会の議決を要する契約である(法二三七条三項)。市長は同議案の作成につき委員会の意見をきかなければならないのであり(地教行法二八条三項)、これにより委員会は同無償貸与の成否及びその内容に対する決定的な職務権限を有した。

(2) 教育長

(イ) 委員会の権限に属するすべての事務は、委員会がその執行の責任を負うものであるが、教育長はこれらすべての事務の執行者として、委員会の指揮監督の下で個々の事務執行にあたる(地教行法一七条一項)。すなわち、委員会が教育委員の合議により決したところに従い、教育長がその具体的事務処理を行う。また、委員会は、委員会規則で定めるところにより、その権限に属する事務の一部を教育長に委任することができる(同法二六条一項)。この場合に、委員会から教育長に委任された事務の執行については、法律の規定に基づいてその権限が教育長に移されたことになるので(いわゆる外部委任)、その委任された範囲の事務については、教育長は自己の名においてそれを処理するが、委員会の一般的な指揮監督は受ける。

(ロ) 委員会は、地教行法二六条一項の規定により、教育長に対する事務委任規則を定め、その権限に属する事務のうち一定の具体的事項の権限を留保したうえ、その余の事務を包括的に教育長に委任している(同規則一条)。右規則により教育長に委任されることなく、委員会の固有の事務として、その権限を委員会が留保しているもののうち、本件移設事業に関連する部分を摘示すれば、つぎのとおりである。

(a) 市教育行政の基本的計画に関すること(同条一号)として、本件移設事業の計画。

(b) 教育機関の敷地の変更に関すること(四号)として、本件移設のための西小学校仮運動場の一部用途廃止及び旧敷地の処理。

(c) 教育機関の重要な運営方針に関すること(五号)として、本件移設による箕面小学校のプール建設等の施設の整備とそのための西小学校仮運動場の一部用途廃止。

(d) 教育財産の取得及び処分に関すること(七号)として、本件移設のための使用借権の放棄。

(e) 教育予算、条例その他議会の議決を経るべき議案について意見を申し出ること(八号)として、本件合意について債務負担行為の定め及びその実行としての歳入歳出予算のそれぞれに関する予算措置、同じくその実行としての分会ないし市遺族会に対する本件敷地の無償貸与。

(ハ) 右のとおり本件移設事業は、委員会の固有の職務権限に属する事項を主要な部分とする諸行為により構成されており、教育長に委任された事項ではない。教育長がその独自の職務権限(受任事務権限を含む)によりその全体を計画し決定し執行することのできないものであつて、現にそれは委員会により計画され決定され執行された。教育長は、委員会の名による委員会の固有の権限に属する事務の執行をその指揮命令により担当したにすぎない(地教行法一七条一項、地方公務員法三二条)。

(四)  故意・過失

第一審被告中井は市長として、亡佐佐木は教育委員長として、第一審被告天野、同菅生は教育委員として、第一審被告河野は教育委員兼教育長として、本件移設事業の計画、決定及び執行につき、相互に協議ないし意思の連絡をして形成された共同意思の実行として、これらが違法であることを知りながら又は過失によつてこれを知らずにしたものであり、若しくはこれに関与し或いはこれを阻止する義務を尽さなかつたものである。

(五)  因果関係

第一審被告らの右各行為は、いずれも本件忠魂碑移設事業の完成にとつて欠くことのできない同事業の構成部分であつた。したがつて、第一審被告らの右各行為は、それぞれが各個別的に又は競合的に本件売買、本件移設・再建及び本件貸与による市の損害と客観的に相当因果関係がある。

(六)  損害

(1) 本件移設費用(解体費用相当分を含む)の損害金七三〇万円。

本件忠魂碑の本件敷地からの除去は本件忠魂碑の所有者である市がその費用と責任においてすべきものであり、同撤去のためには、少くとも右解体費用相当額以上を要するところ、市は存置させるべきでない本件忠魂碑を直ちに収去すべき義務があるから、現に同解体費用相当の損害を負担しているものである。したがつて、本件忠魂碑の解体費用の支出は適法であるとしても、本件移設により同費用相当額の損害が本件敷地からの本件忠魂碑除去費用として生じたことになり、結局、少くとも本件移設に要した七三〇万円相当額は市の損害であることを免れない。

(2) 本件売買代金に対する年五分の割合による一日一万〇七九八円の損害金。

(イ) 市は、返還を受けるべき本件土地の一部が本件忠魂碑の敷地となつているために、これを有効に活用しえないのみならず、本件売買は市が市遺族会に対して本件土地を本件忠魂碑敷地及び慰霊祭用地として使用させる目的で締結され、現に本件合意によつてそのように使用されて違憲の供用行為が継続されているのであるから、市は、本件売買代金相当額の市の資金が流出せず、適正に運用されていたならば得られたであろう利益に相当する額の損害を被つている。右損害については、本件忠魂碑が除去される前に売買代金が返還されることがあるとすれば、右除去の日と返還の日のいずれか早い日まで請求することができるものというべきである。したがつて、本件売買代金七八八二万六八二四円が支出されたことにより、市は、遅くとも昭和五一年一月一日から右支出金額に対する年五分の割合の一日金一万〇七九八円の損害を現に被つている。

(ロ) 仮に、本件合意に基づく本件土地のうちの本件敷地部分の付随使用によつてその部分の市の使用が妨げられていないものとすれば、本件敷地部分についてのみ、右と同様の損害が生ずる。その一日当たりの額は、本件土地全体についての一日当たりの損害金一万〇七九八円に対する本件敷地の面積割合である金二一五九円を下らない。

(七)  以上のとおりであるから、第一審被告中井、亡佐佐木訴訟承継人佐佐木越路、同佐佐木茂雄、同福田美和、同高倉美知、第一審被告天野、同菅生、同河野は、(1)本件移設費用相当損害金七三〇万円及び昭和五一年一月一日から同年三月二〇日までの八〇日分の本件売買代金に対する年五分の割合による損害金八六万三八四〇円の合計金八一六万三八四〇円並びにこれに対する本件訴状送達の日の後である同年三月二一日から右支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を、(2)昭和五一年三月二一日から本件忠魂碑が本件敷地から除去されるまでの間、一日一万〇七九八円の割合の金員及びこれに対する各期日の翌日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金をそれぞれ支払う義務がある。

七本件各慰霊祭に関する損害賠償請求、不当利得返還請求

第一審被告らは、前記のとおりの市と本件忠魂碑、本件各慰霊祭及び市遺族会との一連のかかわり合いの一環として、前記三3のとおり本件各慰霊祭に関与したものであり、これらはいずれも前記四2、3のとおり違憲・違法であるから、第一審被告らは、つぎのとおり、自らの違法な職務執行ないし不法行為により市に対して損害を与え、更に、第一審被告河野は、法律上の原因なくして市から利得を受けた。このように、市の職員が財務会計上の行為以外の行為に基づく何らかの行為により市に損害賠償義務を負担している場合、市の執行機関がその請求を怠つているときは、住民は法二四二条一項により債権の管理を怠る事実を改めるための住民監査請求をすることができ、その結果をまつて、同職員に対し、怠る事実の相手方に対する損害賠償の請求を代位して四号請求をすることができる筋合である。この場合は、怠る事実が財務会計上の職務の違法な不作為と評価されているわけであり、その請求の原因となつた職員の行為が財務会計上の行為と評価されているからではない。したがつて、四号請求は、前記六2(一)と同様に、当該職員又は怠る事実の相手方に対して損害賠償請求の原因があれば足り、当該職員が法二四二条所定の財務会計上の行為を違法に行つた結果によるものであることを要しない、と解すべきである。

1  第一審被告中井

(一) 市の財産の提供(前記三3(一)(1))

(1) 市役所庁舎会議室については、市庁舎管理規則五条六号により、集会等のため多数が庁舎を使用するときは市長の許可を受けなければならないのであつて、その権限は、事務所管主管課長には与えられていない。市遺族会の箕面地区の理事及び評議員は、三〇名以上の多数であり、その会議のために市庁舎を使用することは、市長の許可を要する事項に当たるから、市長がその権限により使用を許可したものであつて、第一審被告中井が市長としてこれを許可した事実は争いのない事実である。また、マイクロバス、乗用車は、市長が右使用権限に基づいてこれを使用させたものであり、同様に、事務用紙及び封筒もまた、右使用権限に基づき市長が自ら使用し又はその指揮命令により市長の事務を補助執行する市長の補助職員をして使用させたものである。市がその行政執行上の必要のために使用することを目的として所有している財産を、市長がその執行機関として自ら使用し又は補助職員に使用を命ずる(ないし使用して職務を執行することを命ずる)権限を有することは当然であり、右使用上の権限を市長が他の者に委譲ないし外部委任した事実はない。本来、使用を目的として所有する財産の管理は、使用のためになされるものであり、管理の目的でありかつ対象でもあるところの使用とは別個の概念であるから、財産の使用上の権限が、管理権の外部委任に伴つて市長の手から離れ、市長に残されていないとすることはできない。

(2) 第一審被告中井は、市長として、自ら本件市財産を使用し又は使用させたものであり、仮に市長以外の者が本件市財産の管理権を有していて、その者がその管理を怠ることにより、又はその者が本件市財産を使用し若しくは使用させたとしても、同被告が補助職員に対して指揮・命令して使用させたことになるのであり、少なくとも市長が本件市財産の違法な使用及びその管理を怠る事実を防止しうる権限を有しているのであるから(法一五四条、地方公務員法三二条)、同被告は、故意又は過失によりこれを停止又は防止する権限を適正に行使せず、又は尽さなかつたものであつて、本件市財産の使用による損害に原因を与えたものである。

(3) 右使用された本件市財産の単位数量当たりの一回の使用損害金及び消費された本件市財産の単位数量当たりの価格は、少なくとも各金一円以上である。

(4) したがつて、同被告は、右の行為によつて、市に対し、少なくとも右使用損害金及び価格の合計額金一〇六九円相当の損害を与えたことになる。

(二) 市の職員の労務提供(前記三3(一)(2))

(1) 第一審被告中井が、違法に前記三3(一)(2)の事務に市の職員を従事させ或いは参列させたうえ、同職員のこれに要した時間分の給与につき支出命令を発し、これを支給したことは、同被告の故意又は重大な過失により同給与相当額の損害を市に与えたことになる。

(2) 右各職員は、法規範によつて公務員としてすることを禁じられている事務をしたから、給与請求権を有しないというべきである。違法な事務に従事すべき旨の職務命令はそれ自体違法であり、法令に従い職務を遂行する義務を負う職員に対し(地方公務員法三二条前段)、客観的な強制力をもちえないことはいうまでもなく、このことはそれが信教の自由の侵害となると否とにかかわりない。原判決が、本件各慰霊祭業務が違法な事務であるか否かの判断をなすことなく、直ちに公務として評価したうえ、公務として従事した以上これに対する給与の支払が、過払になる余地はないとしたのは法令の解釈を誤るものである。なお、反面、違法な事務に従事すべき旨の違法な職務命令といえども、職員に対し事実上の強制力を有することは否めないところであり、事情によつては職員が同命令を拒否すべき期待可能性がない場合も少なくない。また、職務命令が客観的に違法であることが明白でないことにより、前記法令に従うべき義務と職務命令に従うべき義務(同法三二条後段)とが牴触し、後者が優先すべき場合がある。原判決が、このような場合に当たるものとして、本件各慰霊祭業務を公務として評価できるとしたものとすれば、まさに、違法な同業務をなすべきことを指揮命令し、又は少なくともこれを抑止することを怠つた市長が、同業務により労務を違法に浪費したことによる市の損害に原因を与えたものというべきである。

仮に、右の職務命令の違法性が客観的に明瞭であるとはいえないとした場合は、市職員は服従の義務を免れず、この命令に従つて従事した本件各慰霊祭の準備行為やあと片付け行為についても当然給与の支払いを受けうると解される。この場合にはまさに、市職員にかかる命令を発した者の責任が追及されるべきである。いずれの場合も、第一審被告中井は、違憲な職務命令を発し、市職員らをこれに従事させ、これに当該時間分の給与の支出命令を発することによつて、当該行為の時間の給与相当分の損害を市に与えた。

(3) 右各職員はいずれも一般職の職員であるところ、同人らが違法に事務に従事し又は参列した時間に対し支給された給与は、前記三3(一)(2)のとおり少なくとも金一万〇四一六円である(市一般職の職員の給与に関する条例二条、五条、一一条の二、一三条、市職員の勤務時間その他の勤務条件に関する条例二条)。

(4) 以上のとおり、第一審被告中井は、右各職員に対する違法な指揮命令又は指揮監督及び支出命令により、市に対して少なくとも金一万〇四一六円の損害を与えた。

(三) 教育長への給与支払(前記三3(一)(3))

(1) 同被告が、前記三3(一)(3)のとおり、第一審被告河野に対し、同人の違法な本件各慰霊祭の参列に要した時間分の給与につき支出命令を発したうえこれを支給したことは違法であり、これにより第一審被告中井は故意又は重大な過失により同給与相当額の損害を市に与えたことになる。

(2) 前述のとおり、教育長の本件各慰霊祭への参列行為も、市職員のした本件各慰霊祭準備行為やあと片付け行為も、憲法に違反し、給与支払の対象とすべき公務として評価できないことは明らかである。右のうち、教育長の本件各慰霊祭への参列行為は、誰に命令されたものでもなく、第一審被告河野が自発的に行つたものであり、これを給与支払の対象となる公務とは評価できない以上、同被告はその時間分の給与支払を受けることはできない。この意味において、本件各慰霊祭への参列行為は、第一審被告河野の主観的意図や、主催者である市遺族会のこの点についての認識及び本件各慰霊祭において同人をいかに取り扱つたか等にかかわらず、教育長の職務ではありえず、同人は、職務専念義務に反したことになる結果、給与の支払を受ける権利を有しない。

(3) 給与は全額払が原則であるから、過払分を次期以降の給与から差し引いて相殺・調整することは、厳格な要件のもとに極めて限られた範囲において許される例外にすぎず、一般的に、給与の一部に過払があつた場合には、まず、第一次的に、過払を受けた職員との関係でこれを清算することが自治体の内部で予定されている、とすることはできないのであつて、市長と教育長の各責任に先後関係はない。住民訴訟制度のうえからも、右過払給与受給者に対する請求権が回収不能となるまでの間、右支出命令権者に対する請求を許さないとすることは、極めて不都合な結果を生ずる。

(4) 教育長について一般職の給与に準じて算定される同時間分の給与(教育長の給与及び勤務時間に関する条例二条、三条)は、前記三3(一)(3)のとおり少なくとも金三五五六円である。

(5) 同被告は、右の違法な支出命令により、市に対して少なくとも金三五五六円の損害を与えた。

(四)  よつて、第一審被告中井は、市に対し、右(一)ないし(三)の損害金合計一万五〇四一円の支払義務がある。

2  亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同橋本

(一) 本件教育財産の提供(前記三3(二)(2))

(1) 前記三3(二)(2)の本件教育財産の提供は、委員会の権限に基づくものである。

(イ) 委員会による教育長に対する権限の委任及び教育長の同受任権限の校長に対する復委任については、明文の規定がある(地教行法二六条一項、二項)が、委員会が直接に校長にその権限を委任し得る規定は存在しないし、教育長に委任された事務や教育長が本来有する権限に属する事務は、法律に別段の定がない限り、これについて教育委員会規則を制定することができないことを考え合わせると、委員会が教育長に委任することを留保した事項の権限の一部を、教育長を飛び越して、校長に直接委任することはできないと解すべきである。したがつて、市学校管理規則九条ただし書(いわゆる定例軽易条項)の規定は、委員会による校長に対する外部委任と解することはできない。同規則は、地教行法三三条一項に基づくものであるが、同項は権限の委任に関する規定ではなく、学校等の管理運営の基本的事項を規則をもつて定めるべき規定である。そして、市学校管理規則九条ただし書のいわゆる定例軽易条項は、同規則四条にいう校長の専決事項から除外されたものに当たるとみるべきであるから、結局、同規則九条ただし書は、外部委任ではなく、学校の管理運営についての委員会の補助機関たる校長の補助執行権限たる専決権(内部委任)を定めたものと解さざるをえない。

また、定例軽易は、極めて抽象的な概念であり、その内容が一義的に明確でないから、個々の事実についてその定例軽易性の有無は画一的に明白ではない。したがつて、定例軽易性は、行政庁と外部関係者との利害にかかわる処分権限の配分を画する要件とはなりえないから、同ただし書を外部委任と解することはできず、このことからも、同ただし書は内部的な補助執行の事務配分を定めたものと解するほかないのである。

(ロ) 本件教育財産の提供はいずれも定例なものではない。市学校管理規則九条ただし書にいう定例軽易とは、定例かつ軽易と解すべきであり、定例又は軽易と解すべきではない。右定例性は、西小学校の管理運営について判断されるべきものであり、かつ、使用目的たる行事の定例性と財産提供の定例性とは区別すべきものである。本件忠魂碑による慰霊祭が行われたのは昭和五一年慰霊祭が最初であり、これに対する西小学校の教育財産の提供が同祭以前に行われたことはない。したがつて、西小学校の管理運営にとつて、同祭への本件教育財産の提供は、全く新規なものであつて、定例性はなかつた。

(ハ) 本件教育財産の提供は、軽易ではない。すなわち、市学校管理規則九条ただし書が、学校の施設及び設備の貸与の許可を特に委員会の権限として留保し、「定例軽易」なものに限り校長に専決させることにしている趣旨は、学校の管理運営の観点から、児童生徒に対する不当な教育的影響、学校運営上の支障、教育関係法令の趣旨不適合等の有無・程度及びその判断の難易により、これらの各事実がいずれも存しないか又は微弱なものを軽易とし、その軽易性は一義的には必ずしも明白ではないから、原則として軽易なものも校長の意見をきいて(九条本文)委員会が判断し許可することとし、過去において委員会のテストを経て、軽易なものと判断され、その定期性により繰り返された実績を得たものを定例軽易なものとして、校長の専決に委ねることとしたものと解すべきである。そうすると、軽易性は単なる物理的、時間的及び経済的な規模や日常性を表わす外形的な概念ではなく、極めて教育的で経営的で法指向的な性質を表わす理念的概念である。なぜならば、外形的基準のみからは、財産の内容が何に照らして軽微であるのか何に照らして許容されうる使用時間なのかを明らかにすることができないからである。

右理念的基準に照らして、本件教育財産の使用をみるときは、その非軽易性は明らかである。すなわち、本件各慰霊祭執行の当時すでに、その宗教的、反公益的性格からこれへの公けの関与が問題とされている事案であつたことから、憲法や教育基本法の理念に対する適合性と児童生徒に対する教育的影響の判断は重大であり慎重になされなければならず、決して軽易として取扱うことができない。また、本件教育財産の提供が学校教育法八五条にいう学校教育上支障のない、社会教育その他公共のために欠けるところはないかどうかに関しても同様である。以上、外形的基準からも理念的基準からも、本件各慰霊祭のための本件教育財産の貸与を軽易とすることはできないというべきである。

仮に、校長が事実上、許可の意思決定をしたとしても、それは、委員会の権限に属する事項を委員会の補助機関として補助執行したにすぎない。また仮に、これを定例軽易な事項として、補助執行権又は受任権限により校長が許可すべきものとしても、不確定概念である定例軽易性の判断は、前述のとおり明白かつ容易なものではない。したがつて、権限の競合を防止するためには、委員会の校長に対する訓令ないし指示が不可欠である。むしろ、ある一定の施設又は設備の貸与が、右委員会の訓令ないし指示により初めて定例軽易性を付与されるといえる。昭和五二年慰霊祭にあたり西小学校校長が委員会にした問合せは、まさにこの訓令ないし指示を仰いだものであり、委員会の返事は、同訓令ないし指示である。

仮に、右返事が、定例軽易な事項として校長限りで処理せよとの趣旨であるとすれば、それは処理権限(専決権又は委任権限)の配分を指示する訓令であり、委員会は、少なくともその判断と授権につき責任があるとともに、校長に対する監督を尽くさなかつたことについて責任がある。

(2) 委員会の前記三3(二)の行為は、前記四2記載の各条規に違反するとともに、本件各慰霊祭の挙行のため、本件教育財産を使用し、或いは、それを西小学校の校長が使用させ又は使用の許可をしたことを許容又は放任したことは、憲法二〇条、八九条、学校教育法八五条、法二三七条二項に違反する。

学校教育法八五条は、学校教育上支障のないこと及び社会教育その他公共のためであることを要件として、学校(私立・公立を含む)の施設を利用させることができるものとしている。しかるに、子供会や自治会のような社会教育その他の公共性は、本件各慰霊祭につき認めることができず、第一審被告ら主張の社会儀礼や地域の円満なつきあいのために学校施設を利用させることは、同条に違反するとともに、学校施設の確保に関する政令(この政令は、ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく文部省関係諸命令の措置に関する法律一条の規定により法律としての効力を与えられている。)三条にも違反する。

(3) 同被告らは、これによつて、委員会を構成する委員として、故意又は重大な過失によつて、教育財産の管理に関する職務を怠つたことになる。

(4) 本件教育財産の使用損害金は、単位数量一件当たり、一回につき少なくとも金一円として、その延べ件数は二七七件で、合計金二七七円となる。

(二)  教育長に対する監督

(1) 委員会は教育長の任命権者であり(地教行法一六条三項)、教育長を指揮監督する(同法一七条一項)。教育長は委員会の職務命令に忠実に従わなければならない(地方公務員法三二条)。委員会は、教育長が職務専念義務(同法三五条)及び憲法二〇条三項に違反して勤務時間中に教育長の職名をもつて違法に本件各慰霊祭に参列したことにつき、これを防止する権限と職務を有する。

委員会を構成する委員たる各被告らは、右教育長の違法な参列に関し「地方自治法上右職員の違法行為または怠る事実を防止しうる権限と義務を有している職員」に当たり、これに対し住民が市に代位してその損害の賠償請求をなしうることは、前記のとおりである。

(2) 同被告らが、前記三3(二)(3)のとおり、第一審被告河野を本件各慰霊祭に参列させ又は参列するのを放任したことにつき、同被告らは、故意又は重大な過失によつて、第一審被告河野を違法に指揮命令し又はその監督義務を怠り、同被告をその本来の職場から離脱させたことになる。

(3) したがつて、同被告らは、市に対して、第一審被告河野に対し違法に支給された前記三3(一)(3)の給与少なくとも三五五六円相当の損害を与えた。

(三)  よつて、亡佐佐木訴訟承継人佐佐木越路、同佐佐木茂雄、同福田美和、同高倉美和、第一審被告天野、同菅生、同橋本は、各自、右(一)、(二)の損害金合計三八三三円の支払義務がある。

3  第一審被告河野

(一) 本件教育財産の提供(前記三3(三)(1))

同被告は、教育委員兼教育長として、委員会を構成する者として、前記2(一)と同様の責任がある。

(二) 給与の受給(三3(三)(2))

同被告は、前記1(三)のとおり、故意又は重大な過失により違法に本件各慰霊祭に参列し、同参列に要した時間分の給与少なくとも三五五六円を違法にかつ法律上の原因なく受給して、市に対し同金額相当の損害を与えた。

(三)  よつて、第一審被告河野は、右(一)の損害金及び(二)の損害金にして不当利得金の合計三八三三円の支払義務がある。

八監査請求

1  本件忠魂碑への関与

第一審原告ら及び補助参加人中川健二は、昭和五〇年一一月二九日(右補助参加人を除く)及び昭和五一年一二月二二日、市の監査委員に対し、第一審被告らの前記二、四4、五の違法行為を防止、是正するための措置を講ずるよう請求したところ、同監査委員は、昭和五一年一月二七日及び昭和五二年二月一四日、その理由若しくは必要がないとしてその旨を第一原告ら及び右補助参加人に通知した。

2  本件各慰霊祭への関与

第一審原告らは、昭和五二年四月五日、市の監査委員に対し、前記三、四4により市が被つた損害を補填する措置を講ずるよう請求したところ、同監査委員は、同年六月三日、その理由若しくは必要がないとしてその旨を第一審原告らに通知した。

九結論

よつて、第一審原告らは、

(昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件)

1  法二四二条の二第一項三号の規定に基づき、第一審被告市長に対し、同被告が、(一)(1)市遺族会に対し、市遺族会は箕面市に対して本件敷地を明け渡せとの請求をし、本件忠魂碑及びその付属物を本件敷地から除去すること、又は、(2)市遺族会に対し、本件敷地の市からの無償貸付が無効であることを理由とし、又は同無償貸付解約の意思表示をして、市遺族会は本件忠魂碑を本件敷地から除去して本件敷地を市に明け渡せとの請求をすること、(二)公社に対し、市が昭和五〇年七月一〇日付で公社と締結した本件土地の売買契約が無効であることを理由とし、又は同契約解除の意思表示をして、本件土地の引渡の提供をしたうえ、公社は市に対し七八八二万六八二四円を支払えとの請求をすること、右(一)、(二)の請求がいずれも認められないときは、(三)市遺族会に対し、市遺族会は神社神道上若しくは仏教上の祭祀場又は忠魂碑の礼拝所のいずれの目的のためにも本件土地を使用してはならないとの請求をすること、以上の各行為を怠ることが違法であることの確認を、

2  法二四二条の二第一項四号の規定に基づき、市に代位して、第一審被告中井、亡佐佐木訴訟承継人佐佐木越路、同佐佐木茂雄、同福田美和、同高倉美知、第一審被告天野、同菅生、同河野に対し同被告らが、(1)本件移設費用相当損害金七三〇万円及び昭和五一年一月一日から同年三月二〇日までの八〇日分の本件売買代金に対する年五分の割合による損害金八六万三八四〇円の合計金八一六万三八四〇円並びにこれに対する本件訴状送達の日の後である昭和五一年三月二一日から右支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を、(2)昭和五一年三月二一日から本件忠魂碑が本件敷地から除去されるまでの間、一日一万〇七九八円と、これに対する各期日の翌日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金をそれぞれ市に支払うことを、

(昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件)

3  法二四二条の二第一項四号の規定に基づき、市に代位して、(一)第一審被告中井に対し、同被告が、本件市財産使用損害金、市職員労務提供損害金及び教育長給与損害金合計一万五〇四一円、(二)亡佐佐木訴訟承継人佐佐木越路、同佐佐木茂雄、同福田美和、同高倉美知、第一審被告天野、同菅生、同橋本に対し、同被告らが、各自、本件教育財産使用損害金及び教育長給与損害金合計三八三三円、(三)第一審被告河野に対し、同被告が、本件教育財産使用損害金及び給与の不当利得金合計三八三三円、及びこれらに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和五二年七月六日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金をそれぞれに市に支払うことを求める。

一〇なお、第一審原告らは、別紙(一)のとおり、主張を補充する。

第二 請求原因事実に対する認否

一請求原因一の各事実は認める。

二1 同二1(一)の事実中、旧忠魂碑が箕面村によつて建立されたものであることは否認し、その余の事実は認める。旧忠魂碑は分会が建立したものである。なお、旧忠魂碑が建てられていた敷地は、箕面市百楽荘一丁目三二七番であり、役場不用地であつた。

(一)  大正五年四月一〇日、分会長宮地八郎は、箕面村長中井吉左衛門に対し、「箕面村役場敷地内不用地無償借用請願」をもつて、忠魂碑建設用地として豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番の二畑(現況役場敷地)一反三畝一〇歩のうち、現況不用地四九坪の無償借用を願い出た。これを受けた箕面村は、右役場敷地不用地が村基本財産ではなく、したがつて右無償貸与は町村制一四七条五項所定の「不動産ノ管理」に相当するところ、箕面村会の全会一致で箕面村有不動産管理無償貸与の議決を経て豊能郡長の許可を受けたうえで、そのころ、分会に対し、右現況不用地である旧敷地(実測178.51平方メートル)を無償で貸し与えた。

(二)  そこで、分会は、そのころ、旧敷地上に会員の勤労奉仕により旧忠魂碑を建設したものであつて、分会は、在郷軍人会の下部団体としてその指導を受けながらも、それ自体独立したいわゆる権利能力なき社団であるから、旧忠魂碑の所有権及び旧敷地の使用借権はいずれも分会に帰属するものであつた。また、分会は、予備役、後備役等を会員とする団体であり、箕面村の成人男子のほぼ全員が一度はその構成員となる団体であつたから、その名称は「帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会」というものの、その実態は箕面村の成人男子の集まりにすぎなかつた。

2 同二1(二)ないし(四)の各事実は否認する。旧忠魂碑は、戦後まもなく碑石部分が取りはずされ、地中に埋められたことはあるが、これが箕面村ないし箕面市の所有であることは否認する。

敗戦後、連合軍総司令部のわが国に対する占領政策の一環として「公葬等について」及びこれを具体化した「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」が出されるに至つた。これらによれば、忠魂碑は、「一 学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する。……四 撤去の責任者は、1 建造物の管理者又は所有者 2 建造物所在の土地の所有者又は管理者 3 建造物所在の市町村長」とされていたが、国民は、必ずしも占領軍の忠魂碑撤去の方針に素直に従つたわけではなかつた。すなわち、措置された場合でも、忠魂碑の碑石部分のみを取り外してその部分を地中に埋め隠し、忠魂碑の基礎台部分等はそのままの状態にしていたものが多く、何ら措置されなかつた忠魂碑も全国各地で相当数存在した。本件の場合、碑を建設した分会の旧会員等が中心となり、昭和二二年三月末ころ、進駐軍の眼を避けるため、当時の箕面村がその費用を負担し、他の多くの忠魂碑同様、その碑石部分のみを取り外してこれを地中に埋め隠し、基礎台部分等はそのままにしていた。なお、碑はあくまで役場敷地不用地上に存していたのであり、当時、旧敷地とその隣接の箕面小学校とは柵によつて区画されていた。

箕面遺族会は、昭和二七年九月ころ、箕面町遺族会となり、更に昭和三一年、箕面町が箕面市となつたのに伴い箕面市戦没者遺族会(すなわち市遺族会)と改称されたが、市遺族会は、その活勤の一つとして、碑を復旧し、今日まで継続して碑を維持管理してきており、市遺族会が実施してきた碑の維持管理の内容は、碑の清掃、植樹、植木の剪定、碑前での慰霊祭の執行等である。例えば具体的には、碑の清掃は、市遺族会会員が旧大字である箕面、西小路、牧落、桜、半町、瀬川及び新稲の別に月当番を定め順繰りで実施してきたのであり、植樹、植木の剪定は、新稲在住の市遺族会会員等が実施してきたものであり、慰霊祭は、市遺族会の下部組織である区遺族会が毎年一回、戦没者を追悼・慰霊し、平和を祈念するために主催してきている。

3 同二2、3の各事実は認める。ただし、分会ないし市遺族会が忠魂碑及び旧敷地の利用権を取得したことがないとの主張を争う。また、本件移設のために支出した金額は、七〇四万二一二〇円である。なお、旧敷地は実測約五四坪であつたが、その周囲に約一〇〇坪の空地があり、これが付随的に分会に利用されていた。この空地は、箕面小学校の校庭の一部としても使用されていたもので、本件敷地の周囲地に対応するものであり、第三者が何らの権利を有するものでない。市が本件敷地を貸し付けたことの付随義務として、貸付の目的を達するため、周辺土地を空地としておく義務を負うことにより、第三者が反射的利益を受けているものにすぎない。遡つてこれをみれば、旧敷地においても貸与地の周辺は空地として参拝等の際支障のないように利用されており、これは貸付の当初から予定されていたから、周辺土地がなければ本件敷地の貸与の目的は達せられないので、市としては、右周辺地を空地としておく義務を負つており、ここに学校施設等を設置することはできなかつた。

三1 同三1の事実は不知。

2 同三2の事実のうち、第一審原告ら主張の日時、場所で本件各慰霊祭が概ね第一審原告ら主張のとおりの式次第で挙行されたことは認めるが、その詳細の事実は不知。

3 同三3(一)(1)(イ)ないし(ヘ)の各事実は、本件市財産(数量を除く)が使用されたことは認め、その余は否認する。(イ)の会議室の管理権者は、市庁舎管理規則三条により、総務部庶務文書課長であり、(ロ)ないし(ヘ)の事務用紙、マイクロバス及び乗用車の管理権者は、市会計規則九九条、一〇一条により、各課等の長である。

4 同三3(一)(2)の冒頭の事実は認め、(イ)ないし(ホ)の各事務に市の職員が従事したことは認めるが、その余は否認する。右各事務に従事した市の職員の人数、従事した時間は争う。

5 同三3(一)(3)の事実は認める。

6 同三3(二)(1)、(2)の主張は争う。ただし、移動式黒板、校長室、便所及び校地(駐車スペース)が使用されたこと、折りたたみ式椅子、折りたたみ式長机(いずれも数量は争う)が使用されたことは認める。

本件教育財産の管理権限は、市学校管理規則六条、八条により、西小学校校長にある。本件各慰霊祭を挙行するため本件教育財産が提供されたのは、西小学校校長が、同規則九条ただし書にいう定例軽易な事項として、その使用を許可したことによるものである。したがつて、委員会は、何ら関与をしていない。

7 同三3(二)(3)の事実は否認する。ただし、教育長である第一審被告河野が本件各慰霊祭に参列し、各一時間以上の時間を要したことは認める。

8 同三3(三)(1)の事実は否認する。

9 同三3(三)(2)、(3)の事実は認める。

四同四の主張はいずれも争う。

1  いわゆる忠魂碑は、明治一〇年ころから、全国的に、特定の宗教・宗派の如何にかかわりなく、人間の自然の心情の発露である死者の追悼・慰霊の観念に基づき、戦没者を記念するために、戦没者出身地の民間有志により建設され始めたものである。旧忠魂碑は、分会が大正五年ころ箕面村出身の戦没者を追悼・慰霊し、記念するため建立したもので、一般の忠魂碑と別段異なるところはなく、この意味において、忠魂碑(本件の忠魂碑を含む)は、政府、地方公共団体、都道府県遺族会等が、戦後、沖縄、南方諸島等に建設した戦没者慰霊碑等と何ら異なるところはない。分会の会員は、予備役、後備役等であり、成人男子のほぼ全員が一度はその構成員となるものであつた。旧忠魂碑も、右のような民間有志によつて建立された死者に対する追悼・慰霊のための記念碑であるというべきである。第一審原告らは、本件忠魂碑を忠霊塔と混同しているものであり、本件忠魂碑は、地域出身の戦没者を追悼・記念するための記念施設にすぎない。政府は、当時、右のような忠魂碑の建設に対しては消極的な態度をとり、むしろこれを制限、抑制しようとさえした。ところが、昭和一四年七月七日、陸軍を推進母体とし、当時の首相平沼騏一郎を名誉会長とする大日本忠霊顕彰会が発足し、忠霊顕彰のため一市町村一基の忠霊塔建設を計画した。右忠霊塔は、靖国神社の祭神の遺骨を安置して永遠に祀り、七生報国の精神の昂揚を期するものであつて、忠魂碑とは著しくその性格を異にする。本件忠魂碑前で、宗教儀式を伴う慰霊祭が行われることは、本件忠魂碑の宗教施設性を基礎づけるものではない。すなわち、塔、碑、像等の前で特定の宗教、宗派の宗教儀式を伴う死没者慰霊行事が行われていても、それら塔、碑、像等をもつて、宗教施設といわないのが、社会一般の通念である。民間団体が主催し、地方公共団体が助成し、公務員が参列する行事に、左記のものがあるが、これら塔、碑、像等も宗教施設とは考えられていない。

(一)  広島市平和記念公園内原爆供養塔前での原爆死没者供養行事(毎年八月六日)。教派神道、神社庁、キリスト教両派及び仏教がそれぞれ宗教儀式を主宰。

(二)  長崎市平和公園内平和祈念像前での原爆犠牲者慰霊祭(毎年八月九日)。神社神道、仏教が隔年交替でそれぞれ宗教儀式を主宰。

(三)  東京都慰霊堂での大正大震災遭難者・都内戦災殉難者慰霊大法要(毎年春、秋各一回)。仏教(各派合同)が宗教儀式を主宰。

(四)  神奈川県戦没者慰霊堂での神奈川県戦没者追悼奉賛行事(毎年五月一日)。神社神道、カトリック、教派神道及び仏教(各派合同)がそれぞれ宗教儀式を主宰。

(五)  大阪城公園内砲兵工廠記念碑前での元大阪砲兵工廠被災者追悼慰霊祭(毎年夏一回)。日蓮宗が宗教儀式を主宰。

(六)  大阪市国分寺公園内地下鉄工事現場ガス爆発犠牲者慰霊碑前でのガス爆発物故者追悼式(毎年四月八日)。真言宗が宗教儀式を主宰。

2  遺族会は、宗教上の組織でも宗教団体でもない。市遺族会は、箕面市に居住する戦傷病者遺族等援護法二四条等に定める戦没者遺族及びこれに準ずる者(戦没者が靖国神社に合祀されているかどうかは問うところではない。)を会員として組織された団体である。その目的は、箕面市戦没者遺族会会則三条に定める会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、もつて遺族の福祉向上に資することであり、同会則四条に定める事業を行うことにしている。現に市遺族会が行つているのは、遺族の慰藉激励、遺族の処遇改善の推進、政府主催全国戦没者追悼式参列、戦跡慰霊巡拝参加、戦没者遺骨収集参加、大阪府主催戦没者追悼式参列等の案内、申込み取りまとめ、市主催戦没者追悼式参列、戦傷病者戦没者遺族等援護法の遺族に対する周知徹底、遺族の実態調査、生活・職業その他厚生福祉に関する研究指導等の事業である。市遺族会は、かような事業を行つて、遺族援護行政に協力し、これを補完しているのである。市遺族会は、慰霊祭のみを行う団体ではない。このような団体の実態からして、市遺族会ないしその下部組織である各地区遺族会が特定の宗教上の組織でも宗教団体でもないことは明白である。

3(一) 本件各慰霊祭は、民間団体である市遺族会の下部組織である区遺族会が挙行したものであり、市遺族会自体は、後記のとおり、宗教上の組織でも宗教団体でもない。したがつて、請求原因三3記載の各関与行為を目して、市が宗教活動をしたり、宗教上の組織又は宗教団体に財政的援助をしたということはできない。そうすると、右各関与行為が、憲法二〇条一項後段、三項、八九条に違反する旨の第一審原告らの主張は、失当である。なお、憲法八九条は、広く宗教的意義を有する事業ないし活動に対し、公の財産を支出し、利用させることが、その宗教活動に対する援助、助長、促進等の結果をもたらす場合には、厳格な意味での宗教上の組織若しくは団体に対するものに限らず、これを一切禁ずる趣旨であるとする見解がある。しかし、この見解は、同条の文理上からも、同法二〇条三項との関係からも、到底とることができない。

(二) 仮に、前記各関与行為が、宗教とかかわり合いをもつものと評価される点があるとしても、本件忠魂碑、市遺族会、本件各慰霊祭の性格及び実態は第一審原告ら主張のようなものではないこと、本件各慰霊祭は、民間団体である市遺族会が主催したもので、市自ら主催したものではないこと、右各関与行為は、市が遺族援護行政の一環として行つたものであり、決して特定の宗教を援助、助長するような行為ではないこと、この程度の関与は、全国多数の地方公共団体においてもなされていること、その関与の程度においても社会通念上相当と認められる範囲にとどまるものであり、その効果において特定の宗教を援助、助長、促進又は他の宗教に圧迫、干渉を加えたりするものではないこと。以上を総合すると、右各関与行為は、わが国の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を逸脱して宗教活動にかかわつたものとはいえない。すなわち、前記各関与行為は、それ自体何ら宗教的意義をもつものではなく、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉等になるような行為でもない。市は、右各行為を、遺族援護施策ないし福祉施策の一つとして、或いは、社会儀礼上の当然の配慮としてしたものである。請求原因三3(一)(1)、(2)の本件市財産及び市の職員の労務の提供は、いずれも、市の遺族援護施策ないし福祉施策の一つである。同三3(二)(2)、(三)(1)の本件教育財産の提供は、いずれも、社会儀礼上の当然の配慮である。また、同三3(一)(3)、同(二)(3)、同(三)(2)の教育長の参列は、あくまで、区遺族会が戦没者を追悼・慰霊し平和を祈念することそれ自体に着目して、区遺族会に対し、遺族援護施策、福祉施策ないし社会儀礼上の配慮をする目的で参列したものであり、決して、その際僧侶又は神職が宗教儀式を主宰するからとか、或いはその宗教儀式のために、本件各慰霊祭に参列したわけではない。なお、教育長が本件各慰霊祭に参列したことについては、「戦没者の葬祭などについて」と題する昭和二六年九月一〇日文宗第五一号発宗第四七六号文部次官・引揚援護庁次長通達及び「『戦没者の葬祭などについて』に関する解釈について」と題する同月二八日付各都道府県総務部長宛文部大臣官房宗務課長代理発があり、いずれも、民間団体が慰霊祭を行うに際し、その慰霊祭が、特定の宗教、宗派の宗教儀式を伴う場合であつても、知事、市町村長その他の公務員がこれに列席し、その際、敬弔の意を表し、又は弔詞を読むこと等はさしつかえない、とされている。

(三)  仮に、第一審被告らの前記各関与行為が違憲・違法であるとしても、第一審被告らには、各自の行為が、違憲・違法であることにつき、故意は勿論、過失すらない。すなわち、市長、教育長等が慰霊祭に参列したのは、主催する区遺族会に対し、遺族援護施策、福祉施策ないし社会儀礼上の配慮として参列したものであること、前記通達があること、各地の民間団体主催の死没者慰霊行事に地方公共団体の公務員が参列し、敬弔の意を表しており、このような行政実務が定着していること、これらのことが司法判断で違憲・違法とされた事例は一度もないこと、以上のことを総合すると、第一審被告らには、教育長が本件各慰霊祭に参列したことについて過失すらないといわなければならない。

五1 同五1(一)ないし(三)の主張は争う。

2 同五2(一)(1)(イ)(a)の事実は否認する。旧敷地は、分会が、大正五年四月一〇日無償貸与の願出をしていた箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番ノ二であつて、その後地名呼称の変更により箕面市百楽荘一丁目三二七番地となつたが、箕面村議会が無償貸与を承認議決したのも右旧敷地以外の何物でもない。

3 同五2(一)(1)(イ)(b)は争う。箕面村は、分会に対して旧敷地を無償貸与するに当たつて所定の手続をすべて履践しており、したがつて豊能郡長の許可を得たうえでなされたことも明らかというべきである。

4 同五2(一)(1)(イ)(c)の主張は争う。旧敷地の無償貸与行為は、普通財産に関する随意契約であつて行政行為ではないから、契約書の作成は必要でなく口頭でも足りるというべきであつて、主張自体失当といわざるを得ない。

5 同五2(一)(1)(イ)(d)のうち、旧敷地の無償貸与行為が行政財産の恩恵的使用関係であるとの主張は争う。町村制一四七条五項所定の不動産の管理の範疇に貸借行為が含まれることは、解釈上争いがない。また、旧敷地は行政財産ではないから、行政財産たることを前提とする主張については一々認否する必要を認めない。仮に、町村制において行政財産という観念が認められ、かつ、旧敷地に何らかの公共の使用関係があつたとしても、本件無償貸与行為によつて右使用関係は終了し普通財産に属することとなつた。

6 同五2(一)(1)(ロ)(a)(b)の事実は不知。

7 同五2(一)(2)(イ)(a)の事実のうち、分会が解散したことは認め、その余は争う。

(一)  在郷軍人会及びその下部団体は、昭和二〇年八月三一日、今次の敗戦に伴い、帝国在郷軍人会解散要領(昭和二〇年八月三一日在郷軍人会本部)によつて解散することとなつたが、帝国在郷軍人会令等廃止ノ件(昭和二〇年勅令第六一九号)附則が、「帝国在郷軍人会令ハ帝国在郷軍人会ノ清算ニ関シテハ其ノ結了ニ至ル迄仍其ノ効力ヲ有ス」と定めるように、在郷軍人会及びその下部団体は、清算の目的の範囲内においてはその清算の結了に至るまでなお存続することはいうまでもない(民法七三条参照)。右解散要領は、その第四項で、「各団体ノ御下賜金其他ノ財産ハ第五、第六及第九其他ニ必要ナルモノ以外ノ全部ヲ其団体区域ニ於ケル軍人遺家族援護並厚生施設ニ使用スル条件ノ下ニ夫々ノ地方自治体其他ニ移管ス」と定めるところ、法令用語で「移管」とは、物品又は施設に対する管理を国又は地方公共団体の一の機関から他の機関へ移すことをいい、所有権等の移転までは意味しないのが通例である(国有財産法四三条参照)こと、右条項は、各団体が移管の対象物及び移管先について選択することを予定していること等からも明らかなように、解散要領は、各団体がその所属財産を右条項の趣旨で清算すべき旨を定めているにすぎないのであつて、各団体の何らの行為をまたずに直ちに各団体所属の財産権が地方自治体その他に移転することを決めたものではない。

(二)  しかるに、分会に関していえば、少なくとも旧忠魂碑の所有権及び旧敷地の使用借権について、昭和五一年三月までにその清算手続が行われた事実はない。

8 同五2(一)(2)(イ)(b)の事実は否認する。

9 同五2(一)(2)(ロ)、(ハ)の事実は否認する。旧敷地の無償使用の目的が、前記のように、戦没者の慰霊と遺族の心情を和げること、ひいては平和を祈念することにあつたから、在郷軍人会の存在や軍国主義的傾向が否定されても、右戦没者を追悼し、かつ、遺族の心情を和げるという目的は、唯物史観に立たない限り永久に不滅のものというべきである。

10 同五2(一)(2)(ニ)の事実は否認する。碑石を取り外したのは占領軍の目を遁れるためであつて、旧忠魂碑を抹殺して使用関係を終了させる意思など毫もなかつたし、まして、旧敷地が返還された事実などあるはずがなかつた。

11 同五2(一)(3)の主張は争う。旧敷地は、元来役場敷地内の不用地であつたもので、本件貸与により忠魂碑の敷地となつたのであるから、これが学校及び市役所庁舎敷地であることを前提とする第一審原告らの主張は、それ自体失当である。

12 同五2(二)(1)の主張は争う。箕面小学校施設整備事業に伴う旧忠魂碑の移転の経緯は、つぎのとおりである。

(一)  市は、箕面小学校の敷地が狭隘なこと、校舎が老朽化したこと、昭和四〇年以降児童数が急増したこと等に伴い、箕面小学校校舎その他の施設の合理的再配置並びに校舎の改築の必要に迫られ、昭和四八年ころ、箕面小学校施設整備事業を計画した。市は、箕面小学校は地形上拡張できる土地が限定されていること、箕面小学校隣接土地所有者との交渉が難航し用地買収が極めて困難であること、右事業の執行は急務であること等から、既存の老朽化したプールを壊したうえ校舎を新築する等の実施が是非とも必要となり、昭和五〇年四月ころ、碑の旧敷地の明渡を受けこれを学校用地に編入し、その位置に新しいプールを建設する以外には方法はないと判断した。

(二)  そこで、市は、旧忠魂碑の所有権及び旧敷地の使用権の権利者との間で旧忠魂碑の撤去・移転及び旧敷地の明渡に関する協議を行いたいと考えたが、前記のように、権利者については、従前は分会であつたこと、戦後は市遺族会が碑の清掃、植樹、植木の剪定、碑前での慰霊祭の執行等を内容とする碑の維持管理を行つてきていること等の事実が認定でき、更に、昭和五〇年当時判明していた諸事情からすると旧忠魂碑及び旧敷地使用権につき、市遺族会が時効取得していたと考える余地と、旧忠魂碑及び旧敷地使用権が依然分会にあり市遺族会の維持管理は事務管理行為と考える余地とがあり、現時の権利者を明確には認めることができなかつた。しかしながら、市としては、昭和五〇年四月当時、市遺族会が紛れもなく旧忠魂碑の所有権及び旧敷地の使用権の権利者であると明確に断定するまでの確信は持てなかつたものの、市遺族会の右の永続した旧忠魂碑及び旧敷地に対する権利行使があるとみられる事実状態は尊重すべきであること、箕面小学校施設整備事業の執行は急務であること等から、市遺族会との間において碑の撤去・移転及び旧敷地の明渡に関する協議を行うこととし、市長らが市遺族会と数回にわたり交渉を重ねた結果、市遺族会は、当初は会員が高齢なので碑の撤去・移転に伴いその維持管理が非常に不便になること等から難色を示していたが、児童の教育のためならやむをえないということで了承し、同年五月二一日、両者間に、(a) 市は、旧忠魂碑を付属物一切とともに現状有姿のまま、公社土地の北隅部分のうち本件敷地178.51平方メートル部分に移転する、(b) 市は、移転に要する費用を負担する、(c) 旧忠魂碑及び旧敷地の権利者は、市に対し、旧敷地49坪(実測178.51平方メートル)に対する使用借権を消滅させ、周囲の付随使用土地を含め505.76平方メートル全部を返還する、(d) 市は、右権利者に対して、本件敷地を本件忠魂碑所有の目的をもつて無償で期限の定めなく貸与するとともに、その周囲の土地につき付随使用を認める、等の合意が成立した(これが「本件合意」といわれるものの内容である。)。

(三)  市が旧忠魂碑の移転先として公社土地の北隅部分の本件敷地を選んだ理由は、以下のとおりである。すなわち、従前、公社土地上では地主がマンション建設を計画し、第一審原告らを含む一部住民がこれに反対し、市に対し再三にわたり公社土地の買上げの陳情をし、市は、昭和四九年、右陳情を入れて公社に公社土地を先行取得させ、これによりマンション建設計画は中止となつたが、市は、たまたま、市遺族会との間で本件合意の成立したころ、公社から、公社土地と道路一つ隔てて存在する西小学校校舎建替えのため公社土地を仮運動場用として使用借りしていたところ、(a) 西小学校仮運動場のうち北隅部分(すなわち本件土地)の仮運動場の用途を廃止してその一部を碑の敷地としても、残地の広さ、形状(矩形)等からして西小学校仮運動場としては十分であること、(b) 将来、公社土地を公共施設用地として使用するとしても、同土地の北隅部分は不整形の三角地であるため利用価値が少ないこと、(c) それよりは、本件敷地に旧忠魂碑を移転して旧敷地の明渡を受け、これを箕面小学校敷地に編入し学校敷地拡張に当てる方が、はるかに土地の有効利用となり、市財政にとつても負担が軽減されること、等を比較勘案したものである。

(四)  かくて、市は、右事業に伴つて旧忠魂碑を移転するための本件敷地を確保するにあたり、公社から、公社土地の北隅部分の本件土地を普通財産として買い受けることとし、これに要する予算措置として、昭和五〇年度箕面市一般会計補正予算(第一号)中歳出予算第二款総務費、第一項総務管理費、第五目財産管理費、第一七節公有財産購入費に金七八八二万七〇〇〇円を計上し、また、碑の移転に要する予算措置としては、右歳出予算第九款教育費、第二項小学校費、第三目教育施設費、第一五節工事請負費に金八〇〇万円を計上し、市議会において、箕面小学校新プール建設に伴う碑移転に関する交渉の経過等を説明し、市議会文教常任委員会及び市議会本会議において、右予算案を慎重に審議し、昭和五〇年六月三〇日、全会一致でこれが可決された。市は、これにより、昭和五〇年七月一〇日、公社から本件土地を購入し、同年一二月二〇日、旧忠魂碑を本件土地のうち本件敷地へ移転して、旧敷地の明渡を受けて整地したうえ、これを箕面小学校用地に編入してその位置にプールを建設し、急務であつた右事業を執行した。

(五)  しかし、市の監査委員は、その間の昭和五〇年一一月二九日、第一審原告神坂哲外一二名から、市長らが行つた旧忠魂碑の移転等の措置は違法又は不当であるとする法二四二条一項所定の住民監査請求を受けた。そこで、市の監査委員は、これを慎重に審査した結果、市長らの行つた碑の移転等の措置は、市が箕面小学校施設整備事業の緊急の要請に応ずるための措置であり、その措置には違法又は不当な点はなく、請求人らの請求はいずれも理由がないものと認められる、しかしながら、市と市遺族会との間の本件合意は、やむをえない措置として一応是認できるものの、市長は速やかに権利者の確定を求めたうえ、本件敷地の貸付に必要な市議会の議決を求めるよう処置すべきである旨の監査結果に達した。

(六)  そこで、市は、更に慎重を期すため、大阪地方裁判所に対し、民法七五条の規定により、市が利害関係人となつて、分会清算人の選任を請求した(同裁判所昭和五一年(チ)第一号事件)ところ、大阪地方裁判所は、昭和五一年一月二八日、弁護士荒鹿啓一を分会清算人に選任した。分会清算人は、同年二月二五日、市遺族会が旧忠魂碑に対し最も密接な利害と関心とを有し、忠魂碑所有権及び本件敷地使用借権の権利者として適切な団体であること等を考慮し、分会を権利者として、市と市遺族会との本件合意を追認したうえ、同清算人と市遺族会並びに市とが検討した結果、同年三月八日、(a) 分会は、市遺族会に対し、本件敷地について有する使用借権を譲渡し、本件敷地所有権者である市は、市議会の議決を得ることを条件として市遺族会の本件敷地の無償使用を承認する、(b) 分会は、市遺族会に対し、右市議会の議決を条件として忠魂碑を贈与する、(e) 市遺族会は、忠魂碑を戦没者慰霊の目的に供することを約する、との合意が成立した。

(七)  市議会は、昭和五一年三月一二日、法九六条一項六号の規定に基づき、市が市遺族会に対し本件忠魂碑の敷地として本件敷地を無償にて貸し付けることを可決した。

13 同五2(二)(2)(イ)の主張は争う。

14 同五2(二)(2)(ロ)の事実は否認する。

15 同五2(二)(3)の主張は争う。

16 同五2(二)(4)の主張は争う。

(一)  単に清算目的のためにのみ存する権利能力なき社団については、民法七二条二項の適用はなく、総会の議決も主務官庁の許可も不要である。

(二)  公益法人が公益に関する業務を営むことを条件として設立を認められた存在である以上、主務官庁のこれに対する監督が広範かつ強大であることは、いわば当然である。かかる見地から、まず、民法は、一般的監督規定として、法人の業務は主務官庁の監督に属すると定め(同法六七条一項)、更に、個別的監督規定として、同法三八条二項、六七条二項、七一条、七二条二項、七七条、七三条等の規定を設けている。また、「厚生大臣の所轄に属する公益法人の設立及び監督に関する規則」(昭和四八年厚生省令第四七号)は、民法の規定をより具体化させる趣旨から、種々の監督規定を置いている。主務官庁が法人格を付与することと、公益法人が当該主務官庁の広範かつ強大な監督のもとに置かれることとは、いわば表裏一体の関係にある。つまり、主務官庁による監督規定は、法人格を前提とする規定であるということができる。ところで、いわゆる権利能力なき社団については、社団法人の法人格を前提とする規定を除くものはすべて類推適用されるが、民法七二条二項もそれが監督規定である以上、それは法人格を前提とする規定そのものであつて、権利能力なき社団には類推適用できない。

(三)  なお、民法七二条二項の目的の解釈について付言するに、帝国在郷軍人会規約九条五号には、過去の戦役を記念し戦役死亡者及び公務に起因する死亡者の祭典を幇助し、かつその遺族並びに戦(公)傷病軍人を優遇することが、同規約八条所定の目的を具体化した事業内容として掲げられているのであるから、右の限度において、分会と市遺族会が類似する目的を有することは明らかである。

17 同五2(三)の主張は争う。

一般に講学上の公物概念は、その供用される目的の差異によつて公共用物と公用物とに二分される。ここでいう公共用物とは道路、公園、河川等のように一般公衆の共同使用に供せられる物をいい、公用物とは官公署の敷地・建物、公立学校の敷地・建物等のように行政主体自身の使用に供せられる物をいう。そして、一般には、公共用物を廃止する場合には公用廃止が必要であるが、公用物を廃止する場合には特に公用廃止を必要とせず、事実上、その使用を廃止することによつて公物としての性質を失う、と解されている。したがつて、仮に旧敷地が行政財産であつたとしても、公用廃止決定をする必要はない。

市議会は、昭和五一年三月一二日、法九六条一項六号の規定に基づき、市が、市遺族会に対し、本件忠魂碑の敷地として本件敷地を無償貸与することを可決した。

18 同五2(四)ないし(七)は争う。

六1 同六1(一)(1)の事実のうち、旧忠魂碑が市の所有であることは否認し、その余の主張は争う。

2 同六1(一)(2)ないし(4)の主張は争う。

3 同六1(二)の事実のうち、第一審被告市長が第一審原告ら主張のとおりの権限を有することは認める。

4 同六2(一)の主張は争う。

5 同六2(二)、(三)の主張は争う。

(一)  教育長、教育委員らの本件移設事業の計画、決定及び執行に関する行為は、住民訴訟の対象とならないものである。第一審原告らの主張は、本件合意の成立、公社土地の北隅部分に関する仮運動場の用途廃止、学校敷地拡張計画、本件土地の売買契約の締結、本件移設工事の請負契約の締結、本件土地の買受代金の支出命令、本件移設工事の請負代金の支出命令、本件敷地の無償貸与といつた一連の行為を一体のものとして把握し、これらに市長、教育長及び教育委員が共同意思の実行として関与したから、いずれも法二四二条の二第一項四号に定める損害賠償義務があるというのである。しかしながら、住民訴訟の制度趣旨から考えると、住民訴訟の対象となるのは、地方公共団体の執行機関又は職員の行政行為一般の非違行為全般にわたるものではなく、法二四二条一項所定の地方公共団体の執行機関又は職員による一定の財務会計上の違法な行為又は怠る事実に限定されるのであり、非財務事項は住民訴訟の対象たりえないこととなる。そして、ここにいう財務事項とは、財務的処理を直接の目的とするものである。

(二)  教育長たる第一審被告河野は教育長として仮運動場の廃止、箕面小学校施設整備事業の計画・立案に関与し、教育委員たる亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同橋本は教育委員として箕面小学校施設整備事業の計画・立案に関与したが、右各関与行為は財務会計上の行為ではない。

(1) 仮運動場の用途廃止は、財務会計上の行為には当たらない。

住民訴訟の対象たる「財産」は法二三七条以下に定められている公有財産(法二三八条一項)、物品(法二三九条一項)及び債権(法二四〇条一項)並びに基金(法二四一条一項)に限られる。けだし、法は重要な財産的価値を有するものに限定し、これらに限り財産的管理の対象としたからである。ところで、使用借権は、法二三八条一項四号にいう地上権、地役権、鉱業権のいずれにも当たらないことは明らかであり、また、右にいうその他これらに準ずる権利は、地上権、地役権及び鉱業権が例示されていて、その意義が限定されていることにかんがみれば、法律上確立している用益物権的性格を有する権利、例えば、永小作権、入会権、漁業権、入漁権、租鉱権、採石権等に限定されると解するのが相当であるから、使用借権はこれにも当たらないといわなければならない。一般に、法二四二条の二第一項二号による請求の対象は、行政処分に限られると解するのが通説・判例であり、そこにいう処分性の有無は、行訴法三条の抗告訴訟についてと同様に解釈されている。そして、抗告訴訟の対象たる行政処分とは、公権力の主体たる国又は公共団体の行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう。ところで、本件でのいわゆる廃止決定は、私法上の使用借権を公社に返還する旨の内部的意思決定にすぎないものであり、右廃止決定に伴い、当該仮運動場を利用していた者につき運動場として利用しえなくなる効果があるとしても、利用者としては、運動場利用権を喪失したわけではなく、単に委員会がその借地を運動場の用に供していたことに基づく反射的利益を失つたにすぎないのである。したがつて、右廃止決定は、直接国民の権利を制限するものに当たらず、処分性を有しない。以上により、本件土地についての仮運動場のための使用借権は、法二四二条一項にいう財産に当たらず、しかも、仮運動場の廃止それ自体に処分性はないのであるから、いわゆる廃止決定は、財務会計上の行為に当たらない。

(2) 箕面小学校施設整備事業の計画・立案も財務会計上の行為ではない。

(イ) 右事業は、昭和四八年に計画立案されたもので、箕面小学校の校舎の著しい老朽化と児童数の急激な増加に対処するため、是非とも実施しなければならない教育行政上の緊急課題であつた。右の緊急の必要性を踏まえて、教育委員、教育長らは、箕面小学校の校舎等の配置計画案の作成、平面図の作成等右事業の一般計画を立案するところとなつたのである。その一般計画案は、北側隣接地を買収してプールを配置し、旧校舎(東館)を取り壊して、東側部分を拡張し、講堂兼体育館を配置する計画のもとに、工事を一ないし三期に分け、順次実施するというものであつた。しかし、隣接地所有者と再三の交渉を重ねたが結局買収金額の折り合いがつかず、この買収交渉はまとまるに至らなかつたため、委員会は右一般計画の修正作業に入つたのである。修正計画立案作業上での最大の問題点は、狭い土地の中での校舎敷地の確保であつた。この校舎敷地を確保するためには、当時同校北東端にあつたプールを移設することが必要不可欠であり、そのための案として、箕面小学校西側に隣接する市有地内(旧敷地)に建てられている旧忠魂碑の移設及び商工会事務所の撤去という案が採用され、市当局によつて実施されることとなつたのである。教育長、教育委員らは、いずれも右のような事業の一般計画の立案、決定に関与したものであり、右事業の計画の立案、決定は、あくまで教育行政上の必要性に基づいて一般計画の策定をしたものにすぎないのであつて、その直接の効果として請負代金の支出等の公金の支出をもたらす行為とはいえないから、教育長、教育委員らの右行為は、財務会計上の行為とは到底いえない。

(ロ) 第一審原告らは、議会に提出すべき教育関係予算(案)その他教育関係議案の作成、教育財産の取得及び処分、学校建築のための請負契約、教育財産の取得、貸付、処分等のための契約その他一般に委員会の所管事項に関する契約の締結等の行為を行うについては、委員会の意見の申出等が必要であるから、教育財政事務の主体的意思決定権限は委員会にあるとし、それを理由に本件での教育長及び教育委員らの行為も住民訴訟の対象となると主張する。しかしながら、右のような見解は、法及び地教行法に定められた長と委員会の職務権限についての正当な解釈とはいいがたい。すなわち、地方公共団体の長は、総括的に地方公共団体を統轄、代表するという立場において、自治事務を管理・執行するという権限をもち(法二条、一四七条)、これを踏まえ、法一四九条は、普通地方公共団体における予算の執行その他の財務会計に関する事務は、法令に別段の定めのあるものを除き、すべて当該地方公共団体の長の権限に属する、と定めているのであつて、長が地方公共団体の事務の管理・執行について広い権限の推定を受け、法令によつて積極的に他の機関に権限があるとされていない限り、それらは長の権限に属するのである。これを具体的にみれば、まず、教育に関する議案の発案権は長にあり、議案提出の前提としてこれを作成するについては、委員会の意見を聴くこととされているが(地教行法二九条)、これは旧教育委員会法に認められていた二重予算、原案送付等の制度とは全く異なるものである。したがつて、長は、地方自治の統轄責任者として独自の権限と責任において、議案を作成しなければならないが、議案の提出そのものについては、意見を聴く必要はない。つぎに、予算の調整権は普通地方公共団体の長に専属するもので、議会及び他の執行機関はそれを有しない。教育関係の歳入歳出予算の作成については、委員会の意見を聴かなければならないが(地教行法二九条)、この場合も予算の調整権自体はあくまでも長にあり、また、予算の執行については、成立した予算に基づいて歳入を収入し、支出の原因となるべき契約その他の行為(法二三二条の三にいう支出負担行為)をして支出を命令し、或いは債務負担行為(法二一四条)に基づく債務負担をして経費の流用をする等予算を実行するための一切の手続の執行権は、地方公共団体の長に専属するものであり(法一四九条二号)、支出の手続のうち支出命令に基づく現金の出納事務だけが長の予算執行権から分離されて出納長又は収入役の職務権限とされているのであり(法一七〇条)、これらのことは、委員会関係の予算の執行(支出負担行為を含む)その他の財務会計に関する事務についても全く同様であつて、委員会が長から独立した地位を有するからといつて、委員会関係の財務運営までが委員長や委員の権限とされているわけではなく、議会及び委員会等はこれを有しない(法一八〇条の六第一項、地教行法二四条四号)。したがつて、これらの機関がその事務に関し、支出負担行為、支出命令その他の予算執行を必要とするときは、原則として、長に対し、これらの手続をとるべきことを求める必要があるが、この場合でも、長は、自らの責任と権限において、予算執行上支障があるか否かを判断し、あくまでその責任においてこれに応じるかどうかを判断しなければならないのである。更に、地方公共団体においては、財務事務の統一的な処理・運営をはかる観点から、公有財産の取得・管理・処分は、原則として、長の専権に属し(法一四九条六号)、その例外として、公有財産のうち教育財産については、その管理に限り、委員会の職務権限に属するものとされており(地教行法二三条二号、二四条三号)、公有財産につき契約を締結する権限が長に専属していることは、契約が法二三二条の三にいう支出負担行為に該当することからいつても明らかであり、仮に、これが委員会の所掌に係る事項であつたとしても、それに関する契約締結権はやはり長に留保されているのである(地教行法二四条四号)。以上のように、長は、教育行政の実施については、教育財務事務の執行も含め委員会の意見・申出等を十分に尊重して行うものではあるが、最終的には、長自らの権限と責任において独自に判断決定し、実行することになるのである。これを学校建築の実施についてみると、学校建築の意思決定、学校の位置の決定、校舎の配置・計画・平面計画の作成等学校建築の一般的計画に関する事務は委員会の掌るところであり、予算編成、国庫負担又は国庫補助及び起債の申請とその受入れ、設計図、仕様書、工事予定価格調書等の作成、入札事務、建築確認の申請、請負契約の締結、工事監督、検収、業者への支払及び敷地買収等は長の事務であるということになる。したがつて、教育長及び教育委員らの行為が住民訴訟の対象になるとする第一審原告らの主張は、その前提において既に誤つており、本件土地、本件忠魂碑及び本件敷地は、いずれも教育財産ではなく、長の専権に服する一般的な公有財産であることは明らかであるから、それに関する契約や仮契約の締結権限もまた長に専属しているといわざるをえない。それ故、これらに関する各行為をする職務権限が教育長及び教育委員にあるとする第一審原告らの主張は、失当である。

(三)  第一審被告河野は、本件移設についての決裁権限を有していない。けだし、忠魂碑の撤去・移設は地教行法二三条二号に規定する教育財産の管理に関することに当たらないからである。

(四)  教育長及び教育委員に第一審原告ら主張の権限がない以上、同人らは、法二四二条の二第一項四号の当該職員には該当しない。そして、四号請求の当該職員に該当するか否かという点を被告適格の問題と理解するか、請求が認められるための実体要件と理解するかによつて訴えの却下か請求棄却かの違いはあるにせよ、第一審原告らの主張が容れられないことについては変わりがないのである。なお、法二四三条の二第一項後段各号の中には、支出負担行為とか支出命令といつた本来的に長の権限に属する事項が規定されているから、長を職員に含める方が自然であること、法二四二条の二第一項四号の職員に長が含まれることは、解釈上異論がなく、法二四三条の二第一項後段の職員についても同様に解すべきであること、法二四三条の二第三項に長の賠償命令があること等の理由から、自らに対しそのような命令をすることになり不合理であるとの批判があるが、機関としての長が個人としての長に賠償命令を発することは法理上も可能であり、自らに対し賠償命令を発しない場合には、住民は怠る事実の違法確認訴訟を提起しうるから何ら問題がないことからみて、長たる第一審被告中井は、法二四三条の二第一項後段の職員に該当し、その余の第一審被告らは、同項後段の職員に該当しないというべきである。

(五)  第一審原告らは、主位的主張として当該職員に対する損害賠償請求を主張し、さらに、予備的主張として、四号請求の当該職員を相手方と読み替え、怠る事実の相手方に対する損害賠償請求を主張している。四号請求中、損害賠償請求の類型としては、

(1) 職員の違法な財務会計上の行為により損害賠償請求権が生じた場合、

(2) 職員の違法な怠る事実により損害賠償請求権が生じた場合、

(3) 相手方が不法行為をしたため損害賠償請求権が生じた場合、

の三つがある。そして、当然のことながら、(1)の損害賠償請求権は、職員の違法な財務会計上の行為を発生原因事実とし、(2)の損害賠償請求権は、職員の違法な怠る事実を発生原因事実とし、(3)の損害賠償請求権は、相手方の不法行為を発生原因事実とするだけで、職員の違法な財務会計上の行為は必要ないのである。そして、執行機関又は職員の一定の類型の行為又は怠る事実(違法な財務会計上の行為又は怠る事実)を原因とする一定の類型の請求(財務的事項に関する訴え)を普通地方公共団体に代位して行うものには、(a)当該職員たる個人(当該執行機関を占める者を含む)に対する損害賠償の請求、(b)相手方に対する損害賠償の請求の二種類があるが、(a)は、前記(1)及び(2)に対応し、(b)は、前記(3)に対応する。すなわち、職員に対する損害賠償請求の類型は、必ず当該職員による違法な財務会計上の行為又は怠る事実が必要であるのに対し、相手方に対する損害賠償請求の類型はそうではない。けだし、後者の場合、損害賠償請求権の行使を怠ることそれ自体が財務事項だからである。ところで、第一審原告らは、主位的に前記(1)の類型の損害賠償請求を、予備的に前記(3)の類型の損害賠償請求を求めているのであるが、第一審原告らのような読み替えによつて、前記(3)の類型中に、職員が不法行為をしたため損害賠償請求権が生じた場合をも含ませようとするものであつて、結局、非財務事項をもすべて住民訴訟の対象として争いうるとするのである。

しかしながら、公金の支出、財産の取得その他の積極的行為の違法を主張しうる場合に、あえて、公金支出等の結果生じた損害賠償請求権の不行使を怠る事実ととらえ、怠る事実の相手方に対する損害賠償請求と構成しなおすことは、本来、法の予定しないところというべきである。その理由はつぎのとおりである。すなわち、

(1) 監査請求期間を定める法二四二条二項の規定は怠る事実について適用がないと解釈されているが、もし公金支出等の違法を主張して監査請求をしたときは期間徒過で不適当とされる場合にも、公金支出等の結果地方公共団体が取得することとなつた損害賠償請求権の行使を怠つていることが違法であると構成することができるとするならば、右期間制限を容易に潜脱しうることになり、極めて不合理な結果を生ずることになる。

(2) 法文が職員に対する請求と相手方に対する請求とを分けて規定している以上、相手方とは職員以外の者を意味すると解釈するべきである。

(3) 公金支出等の違法を主張しうる場合に、あえて公金支出の結果生じた損害賠償請求権の不行使の違法を主張するならば、前者の要件事実に加えて後者の要件事実を付加して主張することとなり、行政の財務会計上の非違を是正する方法としては、あまりにも迂遠であつて、このような迂遠な方法をも法が予定しているものと考えることはできない。

(六)  原判決は、本件移設についての決裁権限を第一審被告河野が有していたと認定しているが、前記のとおり、碑の撤去・移設は地教行法二三条二号にいう教育財産の管理に関することではない。すなわち、右にいう教育財産とは、一般に行政財産といわれるものであり、それは現に教育機関の用に供する財産のほか、将来教育機関の用に供するものと決定した財産を含むものであり、右の将来教育機関の用に供するものと決定されたものについては、長から引き継がれたものを委員会が管理するということになるのである。旧忠魂碑のあつた旧敷地は碑移設後において長から引き継ぎを受けた後に初めて教育財産になることは明らかであり、また、忠魂碑については、現に教育機関の用に供されていたものでも、将来教育機関の用に供するものと決定されてその引き継ぎがなされていたものでもないから、いかなる意味でも教育財産に該当しないことは明らかである。箕面小学校施設整備事業において委員会が当初計画・立案した一般計画は、箕面小学校の北側・東側隣接地を取得することが前提となつていたが、市長が委員会からの買受申出をうけ買収交渉に当たつたものの不成功に終わつたので、委員会は右経過を踏まえて計画を修正することとなり、その結果、旧敷地等の学校用地への所管替えを前提とする一般計画が策定され、旧忠魂碑の移転について市遺族会の承認も得られたので、これを文書としたものが乙一五号証である。したがつて、乙一五号証は、委員会による市長への一般計画の提示とそれによる将来学校敷地に必要とされるに至つた敷地の明示とその敷地の委員会への所管替えとを申し出たものなのである。以上のとおりであるから、地教行法二三条二号、教育長に対する事務委任規則一条を根拠として、教育長たる第一審被告河野が本件移設についての決裁権限を有していたとすることはできない。

6 同六2(四)の事実は否認する。

(一)  職員の賠償責任は、故意又は重過失がある場合に限つて発生する。

(1) 第一審原告らは、職員の賠償責任の内容を債務不履行(類似)又は不法行為に基づく損害賠償請求権と表現し、責任の根拠条文を一般私法規定に求めているが、職員の賠償責任の実体法上の根拠は、まず、法二四三条の二第一項に求めるべきである。すなわち、同項の規定は、民法七〇九条又は四一五条の特別規定であつて、所定の行為に関する限り、一般法である民法の規定の適用は排除される(同条九項)。換言するならば、法二四三条の二第一項所定の職員は、本条の責任のほかに民法上の責任を負うということはありえないのであつて、そのように解釈しないと、法二四三条の二の存在意義は完全に没却されてしまうことになる。また、職員の賠償責任の実体法上の根拠として、法二四三条の二第一項と一般私法規定のいずれをも主張しうるとすると、その主張の選択の仕方によつて、賠償の有無(軽過失の職員の場合)及び範囲(複数の職員が関与する場合)が区々となつて不合理である。

(2) ところで、右の趣旨を徹底して、賠償命令がない以上、法二四三条の二第一項の賠償責任は生じず、これに対する四号請求は許容されないとする考え方があるが、この解釈では、逆に、住民訴訟を設けた法の趣旨を没却するおそれがある。それ故、いずれかの規定を無視することではなく、法二四二条の二と二四三条の二の両規定の存在を是認し、これを統一的・調和的に解釈することが必要であり、そうであるとすれば、職員の賠償責任については民法の適用を排除し、かつ、その責任追求の方法としては、住民訴訟と賠償命令の二つの制度があり、法はどちらの手段が選択されることも許していると解釈することにならざるをえない。すなわち、法二四三条の二第一、二項は、職員の賠償責任に関する実体法上の根拠規定であり、法二四二条の二第一項四号と法二四三条の二第三項ないし第八項は、いずれも右賠償責任を実現する手続的規定であると理解できる。そして、法二四三条の二第九項は、文字どおり実体法上の根拠規定としての民法を排除する旨規定しているにとどまり、住民訴訟という訴求手続までをも排除する趣旨とは解されない。

(3) かように、法二四二条の二と法二四三条の二とを調和的に解釈するならば、職員の賠償責任の根拠規定としては、まず、法二四三条の二第一項が考えられるべきで、その主観的要件も、原則として、故意又は重過失のある場合に限られ、分割責任の原則が適用されると理解すべきである。

(二)  法二四三条の二第一項後段各号以外の違法行為をした職員の賠償責任については、職員の行為が法二四三条の二第一項が予定するものに当たらない場合並びに職員が同項所定の職員に当たらない場合には、賠償責任の根拠を一般法たる民法の規定に求めざるをえないことになろうが、このような場合においても、職員が賠償責任を負う主観的要件を故意又は重過失のある場合に限定すべきである。行政機構が肥大化し、その職務の内容も複雑多岐にわたる現在において、単に、軽過失があつたというだけで職員に数億円の賠償責任を負わす結論が妥当ではないからである。

(三)  仮に、過失をもつて足りるとしても、本件においては、第一審被告らに過失があつたものとはいえない。けだし、本件のような忠魂碑は全国各地に存在し、しかもその宗教性は一般に明白に認識されていたものではなく、むしろ一般には記念碑とみられていたものである。このことは、例えば、神道指令下においても、単に忠魂碑と銘された碑については必ずしも公有地から撤去することを要しないとされていたことによつても明白であろうし、今なお全国各地において公有地上に忠魂碑が数多く存置されている事実に照らしても明らかである。忠魂碑についての一般的な考え方が右のようなものであつた以上、第一審被告らが旧忠魂碑を宗教施設と考えず、もつぱら教育行政上の観点から箕面小学校の増改築事業を立案し、その事業遂行の必要性に基づき、旧忠魂碑を移設する計画を立て、或いはこれらの計画に予算的措置をとつてこれを実行したことは特に非難されるべきことではなかつた、すなわち非難可能性はなかつたものというべきである。少なくとも第一審被告らに故意、過失を認めることはできないのである。

7 同六2(五)の事実は否認する。

8 同六2(六)の事実は否認する。

(一)  本件において、市は本件売買代金と引き換えに土地所有権を取得し、かつ、この土地の価格が売買代金額に比べ特に低いものであるとの根拠は全くないのであるから、本件土地売買により箕面市に損害が発生したものとは到底いいがたいのである。また、本件移設に関する移設費の反対給付として移設工事の引渡を受けているから、市は何ら損害を受けていない。なお、法二条一項は、およそ地方公共団体の行為で法令に違反するものはすべて無効ないし取り消しうべきものとする趣旨を定めたものではなく、地方公共団体の行為が法令の規定に違反する場合においては、その規定の重要性、その行為と同種の行為に関する従来のいきさつ及びそれに対する関係者その他一般住民の態度等を勘案して、その効力を決すべきものと解するのが相当であるとされているのであつて、ことに本件土地の売買は私法上の契約としてなされ、市は現実に当該土地を取得し、利用しうる地位に立つたのであるから、あえてこれを無効としなければならない理由はないというべきである。また、仮に売買契約が無効であるとしても、土地を返還するまでの間は、市は、当該土地を利用しえたことにより、利得をしているものといわねばならず、結局本件売買によつては市には具体的損害はないというべきである。

(二)  仮に、本件移設及び本件売買が無効であるとしても、市は、不動建設株式会社及び公社に対し、それぞれ支出額と同額の不当利得返還請求権を有しているのであつて、損害はないというべきである。原判決は、本件売買が無効であることを前提として、市は支出済の代金の運用益を失つている反面、取得した土地からは何の利益も得ていないから、代金の運用益相当額が損害となるというが、四号請求の損害額を認定する際に行われる損益相殺は、当該財務会計上の行為のみに限局して考えるべきではない。思うに、市であれ民間の団体であれ、およそ事業主たるものは、事業全般からみて最も効率的で経済的な手法を選択するのであつて、当該財務会計上の行為のみに着目すれば一見損害が生じているかのごとく見える場合でも、他に膨大な波及的利益を受けていることがありうるのである。そして、このような場合に波及的利益の損益相殺を認めないとなると、結果的に、市は、職員の犠牲のもとに被つた損害以上のものを取得することになり、極めて不当である。ところで、本件移設及び本件売買は、いずれも箕面小学校施設整備事業の一環としてなされたものであるところ、旧忠魂碑を移設せず箕面小学校の北側の敷地を買収する方法を採れば一億六五〇〇万円の出費をしてもなお用地の確保が困難であつたのに対し、旧忠魂碑及びこれに隣接していた商工会議所を移転して学校敷地を確保する方法によれば金一億一八七五万二〇〇〇円の出費で済んだのであつて、後者の方法を採ることにより四六二四万八〇〇〇円以上の利益が生じたことが明らかである。そうすると、少なくとも四六二四万八〇〇〇円は、損益相殺の対象となつて然るべきである。

(三)  第一審原告らは、予備的請求として、怠る事実の相手方に対する損害賠償請求の代位を主張するが、仮に、右の予備的請求が適法であるとしても、一般に、事実上弁済を免れている相手方の債務それ自体は、当該怠る事実のもたらす損害ではない。したがつて、仮に、教育長及び教育委員が市に対し損害賠償債務を負担しているとしても、市長が、右債務の履行を怠ることにより右債務と同額の賠償義務を負うわけではない。市長が同額の賠償義務を負う場合は、当該怠る事実により右債権が時効にかかり消滅したような場合をいうのである。

七1 同七1(一)の主張及び事実は争う。

2 同七1(二)ないし(四)の主張及び事実は争う。

(一)  教育長の本件各慰霊祭への参加行為をもつて私人としての行為と解するほかはないとした原判決の判断は、公務とはその内容が職務命令の対象となるものでなければならない、との命題を基礎としてなされているものである。しかしながら、その内容が職務命令の対象となるもののみが公務たりうるというような解釈が一般にされているものとは解しがたいところである。行政機構を構成する職員の職がピラミッド型の階層的構造をしている以上、上位の職にあるもの又は特別職にあるものは、下位一般職の公務員に比べ、上司からの職務命令を受ける機会が必然的に少なくなる。そうして、その半面、当該公務員の手に委ねられる裁量権の範囲は可及的に広範なものになつていき、上位の職にある公務員及び特別職の公務員にとつては、自分の専権で判断できる事項、自発的にその執行を決定しうる事項が多々存するのであるから、これらの公務員の職務をも国又は地方公共団体の職務と観念するためには、どうしてもこのような自分の専権で判断された職務、自発的に執行された職務等をも公務の概念に包摂せざるをえなくなるのである。

(二)  また、職務命令の対象たりうるもののみが公務であるとし、また、それのみが給与支払の対象となるとすると、違法な内容をもつ職務命令が発せられる場合、それに従つて行動した公務員は、原判決の立場からは当該命令が本来職務命令の内容となしえないものであつたという理由で常に給与の支払を受けられないということにならざるをえないであろうが、かかる解釈は到底妥当とはいいがたい。公務員が自発的に行つた職務執行行為が公務に当たるか否かは、当該公務員の意思、当該公務員の地位、役職及び職務権限並びに当該事務の態様、当該事務を執るに至つた事情、社会的慣行等を基礎事情として総合勘案し、事後的・客観的に決めうるのである。例えば、本件のような任意の参列についてみるならば、主催者側が当該公務員の役職に着目して招いたものか、当該公務員側が全く個人的な縁故から参列したのか、行政運営上の配慮から参列したものか等を総合配慮して、客観的に判断すれば足るのであり、公務員の宗教儀式への参加が公務として行われたか、私的行為として行われたかは、当該参加の際の具体的事情に基づいて判断するべきものであるというべきである。そして、このような理解を前提として第一審被告河野の本件参加行為の性質を論ずるに、区遺族会は、同被告が教育長という要職にあることを特に着目し来賓として招いており、かつ、同被告は職名を呼び上げられるのに応じて祭壇に進んだこと、同被告自身、当該学区内の戦争犠牲者及びその遺族に対する慰霊及び弔意を表することにより、教育長としての社会的儀礼を尽くし、もつて地元の教育行政の運営を地域に根付いた円滑なものとするべく参加していることからすれば、このような参加行為は、公務員としての仕事の一内容としての参加であり、公務であることは明白である。

3 同七2、3の主張及び事実は争う。なお、西小学校の施設、備品は、条例により使用料を徴収すべきものではないから、使用料相当の損害金は発生しない。

八同八の事実は認める。

九第一審被告らは、別紙(二)のとおり、主張を補充する。

第三 証拠<省略>

理由

第一  略称

一略称は、事実摘示欄記載の略称のとおりであるから、これをここに引用する。

二併合前に提出された書証については、本件記録中の各書証目録記載の書証番号のみをもつて表示し、昭和五一年(行ウ)第四九号の一事件(原審)、昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件(当審)の各書証目録記載の書証を表示するときは、書証番号に「慰」の文字を冠する(例えば、慰甲一号証)。

三書証及び検号証の成立の真正については、争いのないものはその旨の記載を省略し、争いのあるものは括弧内の証拠によつてその真正を認める。

第二  本件各訴えの適法性

一当事者の地位

1  第一審原告らの本訴請求は、法二四二条の二の規定に基づく住民訴訟であるところ、住民訴訟は、地方公共団体の執行機関又は職員による法二四二条一項所定の一定の財務会計上の違法な行為又は怠る事実が当該地方公共団体の構成員たる住民全体の利益を害することに鑑み、これを防止ないし是正するため、法律をもつて住民に対して右違法な行為又は怠る事実の予防ないし是正を裁判所に請求する公法上の権限が付与されているものであるから、住民訴訟の原告は、訴え提起時だけでなく、訴訟係属中も当該地方公共団体の住民たる資格を有することを要し、かつ、かかる原告の地位は、右のような公益目的に出た公法上の地位に基づくものであるから、一身専属的なものであるというべく、したがつて、原告が死亡した場合には、その訴訟を承継する理由はなく、住民訴訟は当然に終了するものというべきである(最高裁判所第二小法廷昭和五五年二月二二日判決・裁判集民事一二九号二〇九頁)。

2  本件記録によれば、第一審原告神坂哲は、昭和六一年一月二一日死亡したことが明らかであるから、本件訴訟中、同原告の請求に関する部分は、その死亡により当然に終了したものというべきであり、右部分についてなされた原判決は取消を免れない。

二監査請求

1 第一審原告らが、請求原因四1、2記載のとおり、箕面市の監査委員に対し監査請求をなし、同監査委員が右各請求に理由若しくは必要がないと判断したことは当事者間に争いがない。右監査請求は、<証拠>によれば、第一審原告らは、昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件に関し、第一審被告市長、亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同河野につき、本件忠魂碑の原状回復、本件売買、本件移設・再建に基づく支出の差止め、本件貸与の禁止及びこれらによつて市が被つた損害の賠償を勧告すべきことを請求したこと、昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件に関し、第一審被告中井、亡佐佐木、第一審被告天野、同橋本、同河野につき、本件貸与の取止め、昭和五一年慰霊祭、同五二年慰霊祭に際して便益を供したこと及び職員を参加させたことによる損失を補填する措置、市遺族会の行事に市の財産・役務を供しないことの勧告を請求したことを認めることができる。

2  右事実によれば、第一審原告らは、昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件に関して第一審被告中井につき、また、昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件につき第一審被告菅生につき、監査の対象者として明記しなかつたこととなるが、法二四二条一項の規定する住民監査請求は、同項にいう当該行為又は怠る事実によつて普通地方公共団体の被つた損害を補填するために必要な措置を講ずべきことを内容とすれば足りるのであつて、具体的に損害賠償請求の不行使が怠る事実に当たることまでを主張しなければならないものではない。本件においては、右各監査請求の趣旨からみると、第一審原告らは、昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件に関し、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与による損害の賠償を命ずる措置をとることを求めているのであるから、第一審被告中井に対し、市長としての立場を離れた個人として、同人の違法行為をも監査請求の対象としているものとみるのが相当であり、また、第一審原告らは、昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件に関し、教育委員が本件各慰霊祭を実施するに当たり便益を供したことによる損害を補填する措置をとることを求めているのであるから、第一審被告菅生に対しても、教育委員の一人として、その違反行為を監査の対象としているものとみるのが相当である。したがつて、本件各訴えは、監査請求の手続を経由したものというべきである。

三訴訟の併合

本件記録によれば、第一審原告らは、第一審被告ら及び第一審相被告委員会を相手方として、大阪地方裁判所に対し、昭和五一年(行ウ)第九号運動場一部廃止決定無効確認等請求事件を提訴したところ、同裁判所は、昭和五七年三月二四日、第一審原告らの請求につき、第一審相被告委員会に対する訴えを却下し、第一審被告市長に対する主位的請求を認容し、その余の被告らに対する請求の一部を認容して一部を棄却する判決を言い渡したため、第一審原告ら及び第一審被告らそれぞれが各敗訴部分に対して控訴の趣旨記載のとおり控訴ないし附帯控訴をし(ただし、第一審相被告委員会及び同橋本については確定)、当裁判所に昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件として係属したこと、また、第一審原告らは、第一審被告市長を除くその余の被告らを相手方として、大阪地方裁判所に対し、昭和五二年(行ウ)第四九号の一慰霊祭支出差止請求事件を提訴したところ、同裁判所は、昭和五八年三月一日、第一審原告らの第一審被告河野に対する請求の一部を認容して一部を棄却し、その余の被告らに対する請求を棄却する判決を言い渡したため、第一審原告ら及び第一審被告河野がそれぞれ各敗訴部分に対して控訴の趣旨記載のとおり控訴し、当裁判所に昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件として係属したことが認められる。当裁判所は、右両事件を併行して別個に審理中、両当事者の第一審以来の求めに基づき、昭和六〇年一二月五日の各口頭弁論期日において両訴訟を併合する決定をした。右併合は、右両事件がいずれも行訴法所定の民衆訴訟であることに鑑みると、同法四三条三項、四一条二項、一六条、一三条の適用上ないしその解釈上若干の疑義を生ずる点も存するのであるが、本件においては、当事者双方とも一方の事件で主張した事実の一部及び提出援用にかかる証拠の多くを他方の事件にも援用することを求め、そのことは関係全当事者にとつて訴訟経済に適い、かつ訴訟の迅速処理にも適うこと、及び両事件の請求原因事実とこれに関連する間接事実ないし事情は互いに多くの共通性を有し、ことに法律上最も重要な争点とされている憲法諸条の解釈については多分に共通性を有していることが明白であること等の事情に照らし、弁論終結に先立ち特に併合したものである。

四なお、損害賠償請求の訴えの適法性については、後記第六の一、第七の一のとおりである。

第三  第一審被告市長が本件忠魂碑の除去及び市遺族会に対する本件忠魂碑引渡、本件敷地明渡の請求を怠る事実の違法確認請求について

一第一審原告らは、本件忠魂碑が市の所有であることを前提として頭書の請求をするので、まず、本件忠魂碑の所有関係について検討する。

1  <証拠>によれば、つぎの事実を認めることができ、この認定を覆えすに足る証拠はない。

(一) 旧忠魂碑の建立

旧忠魂碑は、大正五年四月一〇日、分会が会員の勤労奉仕を受けて、箕面小学校用地に隣接した箕面村役場敷地の不用地上に建てたものである。在郷軍人会は、明治四三年一一月、聖旨を奉体して軍人精神を鍛練し軍事能力を増進することを本旨とし、ひいて社会の公益をはかり風教を振作し恒に国家の干城国民の中堅たる実を挙げることを目的として予備役、後備役等をもつて組織された団体であり、分会は、その下部団体であつて、箕面村の成人男子のほぼ全員が一度はその構成員となるものであつた。この分会が、旧忠魂碑の建立に際し、箕面村に対し、当時箕面村役場の敷地であつた大阪府豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番の二(一反三畝一〇歩)のうち四九坪の無償貸与を申し入れたところ、箕面村は、村議会の議決を経たうえで分会にこれを無償かつ無期限で貸し付けた。そして、右貸付に伴つて、箕面村は、分会が旧忠魂碑の前で慰霊祭をするにつき、分会に対し、貸与地の周囲約一〇〇坪の空地を利用することを許諾し、分会は、昭和一四、五年ころまで同所で毎年慰霊祭を催していたが、その後は戦争が激しくなつてその余裕がなくなつた。

(二) 旧忠魂碑の再建

わが国政府は、敗戦後、連合国軍司令部の占領政策を受けて、通牒「公葬等について」及び「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」により、忠魂碑を撤去する方針を打ち出したため、旧忠魂碑は、昭和二二年三月末ころ、箕面村桜ケ丘地区に駐留していた駐留軍を虞れた分会会員の手により、その碑石部分だけが取りはずされてその付近の地中に埋められたが、基台部分はそのままの状態で放置された。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い駐留軍が箕面村から引揚げを始めるにつれ、戦没者遺族等の間で碑を再建する話が持ちあがり、昭和二六年ころ、埋められた碑石が掘り出され、旧忠魂碑が元どおり再建された。右再建は、遺族の援護、厚生、福祉及び戦没者の追悼・慰霊等を目的として戦後まもなく結成された箕面遺族会が中心となつて実行したものであつた。その後、箕面遺族会は、昭和二七年九月ころに箕面町遺族会と改称され、更に、昭和三一年一二月一日箕面町に市制が施行されたのに伴い、箕面市戦没者遺族会(市遺族会)と称されるに至つたが(なお、市遺族会は、市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区域を箕面、萱野、豊川、止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置しており、この事実は当事者間に争いがない。)、市遺族会の支部である区遺族会の会員が旧忠魂碑を順繰りに清掃管理し、区遺族会が、昭和三〇年ころから、慰霊祭を原則として毎年一回同碑前で主催していた。

(三) 旧忠魂碑の移設計画

市は、人口の流入に伴つて箕面小学校の児童数が昭和四〇年以降急増し、しかも昭和初期に建築された校舎の老朽化が進み、また、特別教室の新築に迫られたので、その増改築・整備拡充を行う計画をたてたが、昭和四五年ころには委員会の調査により校舎が危険な状態にあることが判明し、昭和四八年には校舎の建替え・増築・校庭拡張が急務となつたところ、そのためには箕面小学校用地に隣接する役場敷地上の旧忠魂碑を他に移転し、その敷地の明渡を受けてこれを学校用地に編入する必要に迫られた。そこで、市は、当時、旧忠魂碑の所有者が誰であるかを明確に判定することはできなかつたものの、市遺族会がこれを清掃し、同碑前で慰霊祭を行うなどしてこれを管理、使用していたところから、分会の有していた旧忠魂碑の所有権及びその敷地利用権を市遺族会が取得していたものと判断し、市遺族会を旧忠魂碑明渡請求の交渉相手に選び、昭和五〇年一月ころからその代表者と折衝のうえ、同年五月二一日、市遺族会との間で、旧忠魂碑を現状有姿のまま、かつ碑前で慰霊祭を行うために必要な広さを確保するなどの条件で本件敷地に移設する合意を取りつけた。

(四) 本件廃止決定

本件敷地は、当時、公社の所有であつた。すなわち、本件敷地をその一部とする公社土地は、昭和四七年ころ同地の所有者であつた安宅産業株式会社が地上にマンション建設を計画したところ、付近住民がこれに反対して市に対し市が右土地の買取るべきことを陳情していたため、昭和四九年一月、公社がこれを公共用地として確保する趣旨で公有地拡大法に基づいて代金五億五九五一万六七九〇円で先行取得したものであつた。その後、市が右公社土地を公社から無償で借り受け、委員会において、これを道路一つ隔てた西小学校の校舎建替えのための仮運動場としての用に供することを決定し、昭和四九年五月一日から右用途に供していたが、昭和五〇年五月ころ、本件土地内の本件敷地に旧忠魂碑を移設するため、本件土地の仮運動場としての用途を廃止する旨の決定(本件廃止決定)をした(本件廃止決定がなされた事実は当事者間に争いがない。)。なお、公社土地のその余の部分は、昭和五五年六月一八日、仮運動場としての用途が廃止されて公社に返還された。

(五) 本件売買、本件移設・再建

かくして、市は、旧忠魂碑を移設するための代替敷地を確保するため、昭和五〇年七月一〇日付で公社から本件土地を七八八二万六八二四円で買い受け(本件売買)、その引渡を受け、同年一二月二〇日、旧忠魂碑を本件敷地に移設・再建し(本件移設・再建)、市遺族会に本件敷地を管理使用させた(これらの事実は当事者間に争いがない。)。そして、市は、本件移設・再建の工事を不動建設株式会社に発注し、同会社に代金七〇四万二一二〇円を支払つた。

(六) 本件忠魂碑

本件忠魂碑は、9.5メートル四方で高さ0.7メートルの石積が底部となり、中央部が幅4.3メートル、奥行4.5メートルで高さ3.2メートルの石積でできている二重の石積の基台の上に、高さ0.6メートルの台石を配し、その上に幅約1.5メートル、厚さ約0.4メートル、高さ約2.5メートルの碑石が安置されており、地上から碑石最高部までの高さは6.3メートルである(原判決添付別紙第2図面参照)。その周囲は、幅12.9メートル、奥行14.2メートル、高さ0.5メートルの切石積で囲まれ、正面と両側面前部は御影石の玉垣、背面と両側面後部はキンモクセイの生け垣が巡らされており、右切石積の囲い内部には、カイヅカイブキ、マツ等の喬木、サツキ等の灌木が随所に植えられ、白砂利が敷きつめられている。

(七) 本件貸与

ところで、市の監査委員は、前記のとおり、昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件に関する第一審原告らの住民監査請求につき、その理由がないとする通知をした際、第一審被告市長に対し、速やかに忠魂碑の権利者を確定したうえ、本件敷地の貸付に必要な市議会の議決を求めるよう処置すべきである旨を勧告した。そこで、市は、大阪地方裁判所に対し、民法七五条の規定により、市が利害関係人となつて、分会清算人の選任を請求したところ(同裁判所昭和五一年(チ)第一号事件)、昭和五一年一月二八日、弁護士荒鹿哲一が分会清算人に選任された。分会清算人は、同年二月二五日、現状においては市遺族会が旧忠魂碑に対し最も密接な利害と関心とを有し、忠魂碑所有権及び本件敷地使用借権の権利者としてふさわしい団体であるものと判断し、分会を権利者として、市と市遺族会との前記合意を追認したうえ、市遺族会及び市と検討した結果、同年三月八日、右三者間で、(a) 分会は、市遺族会に対し、本件敷地の使用借権を譲渡し、本件敷地所有権者である市は、市議会の議決を得ることを条件として市遺族会の本件敷地の無償使用を承認する、(b) 分会は、市遺族会に対し、右市議会の議決を条件として本件忠魂碑を贈与する、(c) 市遺族会は、本件忠魂碑を戦没者慰霊の目的に供することを約する、との合意が成立した。これを受けて、市議会は、同年三月一二日、法九六条一項六号の規定に基づき、市が市遺族会に対し本件忠魂碑の敷地として本件敷地を無償にて貸し付けること(本件貸与)を可決した(本件貸与がなされた事実は当事者間に争いがない。)。

2  右認定事実によれば、旧忠魂碑は、大正五年四月ころ、分会が箕面村からその敷地を借り受けて建立したものであり、昭和二二年三月末ころ、碑石部分が取りはずされて地中に埋められたが、昭和二六年ころ、埋めた碑石が掘り出されて元通り再建され、更に昭和五〇年一二月二〇日に本件敷地に移設されて本件忠魂碑となり、昭和五一年三月八日、分会清算人によつて市遺族会に贈与されたものであるから、本件忠魂碑は、市遺族会の所有であることに帰着し、市が本件敷地を市遺族会に無償貸与しているものというべきであり、本件忠魂碑が市の所有であることを認めるに足る証拠はない。

3  第一審原告らは、旧忠魂碑は、箕面村の所有地に建立されたことにより、土地に附合して村有ひいては市有になり、又は、右建立の際に箕面村に寄付されたことにより村有ひいては市有になつたと主張するが、前示のとおり、旧忠魂碑は、分会が箕面村から敷地を借り受け、その権原に基づいて同地上に建立したものであるから、民法二四二条但書の規定により分会の所有にあるものというべきであり、また、右寄付を認めるに足る証拠はない。

4  また、第一審原告らは、分会が大正末年ころ消滅したと主張するところ、<証拠>によれば、大正一四年四月六日、陸軍は、陸軍管区表を改正し、第四師管第七旅管篠山連隊区を廃止したことが認められるが、他方、右<証拠>によれば、右連隊区の管轄区域であつた大阪府豊能郡は、第四師管大阪連隊区に編入されたことが認められ、また、<証拠>によれば、同府豊能郡に所在した在郷軍人会東能勢村分会も右管区表改正後の昭和九年に忠魂碑建設事業を行つていることが窺われるのであるから、分会が管区表の改正により直ちに消滅したものとみることはできないのであつて、他に右主張事実を認めるに足る証拠はない。

5  なお、第一審原告らは、旧忠魂碑の碑石部分が昭和二二年取りはずされて地中に埋められた際、分会がその所有権を放棄し又は土地に附合し、その余の基台部分の収去権も放棄され又は時効により消滅したと主張するが、碑石部分が取りはずされたのは、占領軍の目を虞れてした措置にすぎないから、これによつてその所有権が放棄されたものと認めることはできず、数年後に占領軍が撤退したのちに原型のまま碑石部分を掘り出して基台上に復原したことからみても、碑石部分が埋められた際に土地に附合したものと解することはできないし、基台部分の収去権が放棄されたとか時効によつて消滅したとする主張は、その理由を欠くから、採用することができない。

二そうすると、本件忠魂碑が市の所有であることを前提とする第一審原告らの請求は、その余の点について判断をするまでもなく理由がないので、棄却を免れない。

第四  第一審被告市長が市遺族会に対する本件忠魂碑収去、本件敷地明渡の請求、公社に対する本件売買代金返還の請求を怠る事実の違法確認請求について

一第一審原告らは、仮に本件忠魂碑が市遺族会の所有であり、市が本件敷地を市遺族会に無償貸与しているものであるとしても、本件売買、本件貸与は違憲・違法である旨主張するので検討するのに、まず、本件売買、本件貸与は、市が自ら或いは市遺族会と共同して宗教施設の物的要素であり、かつ、天皇制絶対主義・軍国主義の思想を表現、宣伝する本件忠魂碑を維持する目的でなされたものであるから、憲法前文一項、一条、九条等の理念に反する違憲な行為であると同時に、憲法二〇条三項に違反する宗教的活動であること、また、本件売買、本件貸与は、宗教上の団体である市遺族会のために又は市遺族会の宗教活動を援助するために公金その他公の財産を支出し又は利用に供するものであるから、憲法八九条に違反する宗教に対する援助であると同時に、宗教団体である市遺族会に対する特権の付与であるから、憲法二〇条一項後段に違反する違憲の行為であることをいう点につき、以下に順次判断する。

1  本件忠魂碑の由来と性格

(一)  <証拠>を総合すれば、つぎの事実を認めることができ、この認定を左右するに足る証拠はない。

(1) 忠魂碑建立の歴史

(イ)  忠魂碑、招魂碑等の文字を刻した碑は、幕末期から起きた国事殉難者に対する慰霊顕彰運動を背景に、幕末期ないし明治初年ころから建立されはじめ、西南の役(明治一〇年)における戦没者のために各地で盛んに建立され、特に、多数の戦死者を出した日清・日露戦争後は夥しい数が建立された。これらの碑の名称は、明治初年ころには「招魂碑」とされるものが比較的多かつたが、次第に多様化し、「征清紀念碑」「日露戦役記念碑」「彰功紀念碑」「忠勇紀念碑」「彰忠碑」「顕忠碑」「哀霊碑」「慰霊碑」「忠魂碑」「忠霊碑」「招魂場碑」「表忠碑」「追念碑」「殉国碑」「殉難碑」「英霊碑」等種々の名称のものが建立された。忠魂碑と銘記された最初の碑は、明治二年、戊辰の役における備州藩戦死者のために高輪の東禅寺境内に建立された「官軍備州忠魂碑」と刻された碑であるとされており、やがて建碑の風が広まつた日露戦争後に忠魂碑の名称が一般化し、明治三九年以降、戦没者の慰霊顕彰のために建立された碑の圧倒的多数は「忠魂」の碑銘が刻され、この傾向が昭和二〇年の敗戦に至るまで続いた。

(ロ)  前記官軍備州忠魂碑は、由緒が記されていないが、それに列記された戦死者の墓碑がいずれも別の官修墓地に建てられており、また、右忠魂碑の建碑目的が藩将校の戦勲に感歎してこれを祭ることにあつて、専ら戦死者の功績をたたえるための表功碑であつた。また、明治五年に建てられた山口藩の振武隊招魂碑は、戊辰の役で陣没した隊員の墓が各地に散在していたため、生還した同志が萩城外に魂を招いて墓碑を建てた由来・経緯を記したものにすぎないが、万延元年に建てられた尾州藩の道益夫妻の招魂碑は、同夫妻の墓が不明なために新たに先瑩を卜してその魂を招き、これを祀るためのものであつた。そのほかの幕末期から明治初期にかけて建立された忠魂碑、招魂碑は、一義的にその意味・性格を明らかにすることができないものが少なくないのであつて、戦死者の功績を後世に伝えるためにその頌徳・弔慰の意を表する目的で建立した一種の表功碑・記念碑の性格をもつものと、魂を招く墓碑として詣り墓に似た機能を果す招魂墓碑の性格をもつものとが混在していた。

(ハ)  そして、西南の役以後は、戦没した将兵の功績をたたえ、その霊を慰める碑が師団連隊等の部隊を単位として建立されることが多くなり、明治一二年、東京区戸長の発起で九段坂に建てられた「表忠碑」には、「碑を九段坂招魂社前に建て、以てその忠魂を慰む。」(漢文)と記され、また、明治一一年、名古屋鎮台の将兵の有志が建てた「名古屋鎮台戦死者紀念碑」には、「夫れ此の役や明治一〇年二月に起り、八月の久しき経て、漸く蕩平の功を奏し、明治維新の盛業をして、益々其の根基を鞏固ならしめしは、即ち聖朝の広武に繋ると雖も、而も将校の智略と、士卒の勇敢とに由るに非ずば、その全勝を収むる、安んぞ能く此の如きを得んや。頃者名古屋鎮台有志の将校士卒相謀り、碑を本城の南郭に建て、其の功勲を勒して永く当年の紀念とす。此の役や管民の王事に殉する者、爾く数百人、鳴呼悲しきかな。終に揆らず、聊か鄙言を陳べて、以て其の不朽を謀ると云う。」(漢文)と録され、更に、日清戦争後の明治二九年名古屋市内に建てられた「明治二七年戦役戦死者紀念碑」には、「然リト雖モ逝者ハ終ニ還ラス、生者独リ国光ノ四表ニ発揚スルヲ楽ム、同軍ノ将士殊ニ痛恨ニ堪ヘサルモノアリ。乃チ相謀リ、碑ヲ第三第五両師団ノ首地に建テ、諸氏ノ姓名ヲ録シ、以テ聊カ忠魂ヲ弔ヒ遺烈ヲ永世ニ表彰ス」と記された。このような慰霊・顕彰のための建碑活動は、出征した兵士の故郷の町村においても、碑の表面に碑題を刻しただけの簡素な様式のものではあるが活発に建てるような状況となり、戦没者の遺族及び復員した在郷軍人が担い手となつて、地元有力者を中心として進められ、これが日露戦争後に極めて顕著となつた。

(ニ)  在郷軍人の団体は、その発生当初の事情が明確ではないが、同じ連隊の除隊兵の社交クラブのような形式で随時会合を催したことが濫觴であろうとされており、明治二〇年以降、ようやく目的意識が明らかになつた尚武会、振武会及び軍人協会などの私設在郷軍人会が各地で生まれ、在郷軍人が総動員された日露戦争後の情勢に鑑み、明治四三年一一月、在郷軍人の統一的指導機関たる帝国在郷軍人会が設立されるに至つた。その組織は、陸軍大臣及び海軍大臣の監督下(ただし、大正三年までは陸軍のみ。)に予備役、後備役、退役将校等を強制加入の正会員としたもので、その設立趣意書には、「各市区町村に於ける在郷軍人の既設団体を糾合し、其の目的を定一にし、其の行動を整斉にし、尚ほ未だ其の設備を見ざる地方に於ては、其の創立を奨励し、以て在郷軍人をして地方良民の模範たらしむると同時に、益々軍人精神の鍛錬と、軍事知識の増進とを図り、併せて会員の相互扶助慰藉の方法を講ぜしめんとす。是れ帝国在郷軍人会を設立する所以なり」とあつて、この三点が在郷軍人会設立の目的であり、事業の概要であつた。在郷軍人会は、創立直後から逐次市町村の補助金の交付を受け、まもなく勅語及び内帑金の下賜を受けて社会的権威を著しく高め、やがて国庫補助金の交付を得られるようになつたところ、昭和一一年九月、帝国在郷軍人会令(勅令)が公布され、公的団体として、戦没者の弔祭・慰霊・顕彰等の事業を行い、当時の在郷軍人会会長又は副会長であつた陸軍大将の筆になる題字を刻した忠魂碑の建設をその枢要な業務とし、これを所有管理することとなつた。

(ホ)  忠魂碑は、その名称が定着した日露戦争後は、碑文が標題のみであり、その平均的様式は表面に楷書体で縦書きに大きく陰刻され、その傍に揮筆した者の姓名が小さく録され、裏面には、戦没した兵士の名が書かれることもあつたが、通常は建立年月日のみが記されていた。碑の素材や形状については、材料となる石材は、自然石をそのまま使い、ほとんど人為加工をしないものから、天然の素材を生かしながらもある程度の加工を施したもの、表面を滑らかに研磨し、人為的に規則正しい形にしたもの、その上に金属製の特別の装飾をとりつけたものなど多岐にわたつているが、形状に至つては更に多様であり、自然石の形そのままのものから、角柱式・円柱式・尖塔式・楼閣式等々多種あり、台石も平たい自然石を二、三層積み重ねた簡単なものから、石垣状のもの、整つた方形の基壇を備えているもの、石段がついているものなど、これまた多様であり、高さは、低いもので大人の背たけくらいで、大体、台石を含めて三メートルから五、六メートルまでのものが多く、一〇メートルを越えるものは少なかつた。

(2) 招魂社、護国神社、忠霊塔

(イ)  長州藩を初めとする旧藩主は、幕末期に国事に奔走して殉難した忠死者ないしは戊辰の役で陣没した官軍の戦死者の霊魂を弔慰するために、戦没地若しくは縁故地において、祭典を営む目的で招魂社(当初は招魂場といわれた。)を設置した。明治元年五月、太政官が多数の国事殉難者の墓所であつた京都東山に祠宇を建て、これら殉難者、戦没者の霊魂を合祀すべき旨を布告したのを受け、諸藩は、霊山周辺にそれぞれ小祠や碑を建て、また全国各地で忠死者のためのいわゆる招魂墳墓の傍に招魂場を作つたが、明治二年二月東京奠都が行われて間もなく、戊辰の役を含めた国事殉難者を合祀するための全国的規模の招魂社すなわち東京招魂社が造営され、明治四年廃藩置県によつてこれらの招魂場がひとまず政府の管掌下に置かれた。そして、明治七年、各地の招魂場は官費をもつて維持されることとなり、明治八年、従来京都東山に合祀されてきた殉難者、戦没者及び各地の招魂場で祀られてきた者の霊魂が東京招魂社に合祀されるに至つたことに伴い、各地の招魂場は、名称を招魂社と統一されて内務省の管下に置かれた。他方、東京招魂社は、明治一二年、靖国神社と改称され、別格官幣社に列せられ、内務省、陸軍省及び海軍省(明治二〇年からは陸軍省及び海軍省)によつて維持され、以後、西南の役、日清・日露戦争等の全戦没者の霊を祭神としてこれを合祀してきた。各招魂社においては、その後、受持神官が祭祀その他一切の業務を取り扱うことになり、更に、明治三四年、官費で祭祀を賄うものを官祭招魂社、そうでないものを私祭招魂社と称するようになつた。

(ロ)  日露戦争によつて頂点に達した建碑現象はその後小康状態にあつたが、昭和六年満州事変、昭和一二年日華事変等を経て戦没者が急増したため、その出身地において、招魂社の創建と忠魂碑の建立の動きが以前にも増して活発となつた。それまでの忠魂碑は、おおむね戦争終了後に建立されたものであるが、新たな建碑運動が戦争継続中におけるものであつたため、政府は、「支那事変ニ関スル招魂社又ハ記念碑ノ建設ニ関スル件」(昭和一三年二月一六日警保局警発甲第一四号警保局長神社局長通牌)をもつて、「支那事変ニ因ル戦死者ニ対シ、其功績ヲ頌揚スル為招魂社又ハ記念碑ヲ建設セムトスルノ計画各地方ニ有之哉ニ及聞候処、招魂社ノ建設ニ付テハ詳細通牒可致見込ナルモ、記念碑ノ建設ニ付テハ是固ヨリ国民ノ至情ニ出ヅルモノナルヲ以テ濫ニ制限スベキ義ニ非ザルモ、未ダ事変ノ終結ヲ予知シ得ザルニモ拘ラズ、徒ニ其ノ計画ノ侭ニ之ヲ建設セシムルトキハ自然建設ヲ競フコトトナリ、遂ニハ諸種ノ弊害ヲ醸成スルニ至ルベシト被存ニ付テハ、右建設ニ付テハ一時ノ情ニ駆ラルルコトナク、徐ニ前途ヲ考慮ノ上計画セシムルコトトシ、其建設スル場合ニ在テモ可成個々ノ建設ハ之ヲ避ケ、主トシテ市町村又ハ各種右力団体共同シテ之ガ主体トナリ、市町村内全戦死者合同ノ記念碑ヲ建設スルコトトシ、且其場所竝ニ設備等ニ付テハ特ニ神社境内ハ之ヲ避クルハ勿論、慎重ナル考慮ヲ払フトトモニ、其ノ維持ニ付テモ予メ恒久的方策ヲ樹立スルコトトシ、以テ忠魂ヲ千古ニ顕彰スルニ過誤ナキ様御配慮相成度。追テ将来事変終局ノ際ニ於ケル事変ニ関スル其ノ他ノ各種記念碑建設ニ付テモ概ネ本文主旨ニ準ジ御取扱相成度。」との注意を各地方長官に与え、忠魂碑その他の記念碑の建立運動に対して抑制的な姿勢で臨み、他方、政府は、日露戦争後に急速に広がつた私祭招魂社創建の動きに対しても、日常英霊を祭祀・慰安することに遺憾のないようにするため、「招魂社創建ニ関スル件」(明治四〇年二月二三日秘甲第一六号内務省神社局長依命内牒)をもつて、「近時各地方ニ於テ招魂社ノ創立ヲ発企シ、往々出願ノ向モ有之候処、官祭私祭ヲ不問、招魂社ノ現在セル地方ニ於ケル戦病死者ハ之ニ合祀ヲ許スヘキ途有之候ニ付、新ニ設立スル必要無之。若シ既設ノ招魂社ナキカ、又ハ之レアルモ位置偏倚シ極メテ不便ヲ感スル等特設ノ必要アルト認メラルゝ場合ニ在リテハ、其事由及左記ノ事項ヲ具シ稟議相成度。」との招魂社設置基準を定め、かつ、その祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加えた。しかし、戦没者の霊を広く郷土に祭りたいという国民の要望が根強かつたため、政府は、「招魂社ノ創立ニ関スル件」(昭和一四年二月三日発社第三〇号神社局長通牒)をもつて、官祭・私祭の招魂社をすべて護国神社とし、二、外の例外を除き各都道府県に一社に限つてこれを指定護国神社として創立を許可することとしたが、その祭神が靖国神社祭神と一致するようにされていたにもかかわらず、靖国神社は陸軍省及び海軍省の、護国神社は内務省の所管に置かれていた。他方、陸軍省は、昭和一四年二月、忠魂碑を単なる忠魂碑で終わらせるべきではないとの考えのもとに、一市町村を単位として戦没者の遺骨を納めるいわゆる忠霊塔の建設を支援し、これを護国英霊の瑩域として尊崇の中心とすることとし、内務省神社局も、一市町村を単位として忠魂碑等の記念碑又は忠霊塔のいずれか一基の建設を許可する方針を立てた。忠霊塔は、日露戦争後、南満州各地の戦場に建設された大型の納骨施設を伴つた建造物を嚆矢とし、昭和一〇年関東軍の援助のもとに設立された財団法人忠霊顕彰会がその維持管理に当たつてきたが、昭和一一年ころから、内地の陸軍墓地が荒廃している現状に対する反省の趣旨で市町村毎に一基の忠霊塔を建設する運動が高まつてきたため、昭和一四年五月、戦死者の遺骨を合祀しその忠霊を顕彰する目的で陸海軍、内務・外務・厚生・拓務各省を共同所管とする財団法人大日本忠霊顕彰会が設立された。右顕彰会は、内閣総理大臣を名誉会長とし、陸軍大将を会長とする組織であり、戦地において軍によつて建設された忠霊塔と同様の碑を建設し、これによつて戦没者の遺品等を収集・展示する施設を併置する事業を推進し、各市町村に対し設計図等建設のための資料を交付し、資金の調達、労働力の提供について説き、忠魂碑に手を加え遺品等を納めることができるように整備して忠霊塔にすることなどを指導した。この事業に対して、財団法人仏教連合会は積極的に賛同し協力支援をしたが、神社界は、忠霊塔が靖国神社、護国神社における国民の英霊奉斎の観念を複雑にするとの懸念を表明し、忠霊塔が神社の外苑地に建てられたり、神仏合同方式の祭典を伴うことに対し、神社祭祀の純粋性が侵されるとの危機感を抱いたものの、結局、忠霊塔が単なる墓であつて、市町村の管理する公営墳墓であり、参拝方式も特定されない一宗一派を超越したものとすることで神社界も右事業に協力するようになつた。そこで、内務省は、昭和一四年一一月、忠霊塔につき、「戦没者ノ遺骨ヲ納ムルモノニ限ルコト、又其ノ建設場所ハ神社境内地ハ勿論、境内以外ノ地域ト雖モ神社ノ風致拉ニ尊厳ニ影響ヲ及ホス虞アル場所ハ之ヲ許可セサルコトトシテ、又其ノ構築ノ様式ハ神社ノ建築物、即チ神殿、拝殿、鳥居等ニ類似スルモノヲ設ケセシメサルコト。」を内容とする「支那事変ニ関スル碑表建設ノ件」(警保局警発甲第一七八号警保局長神社局長通牒)を各府県長官宛に令達した。かくして、忠霊塔の建設が盛大になるに伴つて、忠魂碑の建立は、昭和一六年ころ以降は極端に少なくなつた。

(3) 碑前の招魂祭、慰霊祭

(イ)  碑表の建設には、明治一七年一〇月四日大政官布達二五号墓地及埋葬取締規則七条によつて、所轄警察署の許可を受けるべきものとされていたが、日清戦争後の明治三一年四月、埼玉県は、神社境内地の建碑に関し、内務省社寺局に対し、「征清ノ役、従軍死亡者ノ為メニ神事トシテハ招魂碑、仏事トシテハ忠魂碑等ト称スル建碑ヲ参拝ノ目的物トナシ、神事又ハ仏事ニヨリ其ノ祭事ヲ経営セントスルノ主旨ヲ以テ、該碑建設ノ儀ヲ伺出テタルモノアリ。右等建碑ヲ参拝ノ目的トナスコトハ、総テ不相成方ニ可有之哉。」との照会をしたところ、内務省社寺局は、紀念碑の所在場所に神籬を立てて招霊し臨時に祭ることはさしつかえないが、紀念碑は祭の目的ではないからこれを祭ることはできないとの考え方のもとに、招魂碑、忠霊碑等を参拝の目的物とし、神事又は仏事によつてその祭事を経営することを許可することはできない旨を回答し、この種の碑が参拝の目的として建てられ、祭事が営まれることを全く容認しなかつた。

(ロ)  しかしながら、在郷軍人会は、忠魂碑を建立した際、除幕式或いはこれと併せて追悼会、招魂祭、慰霊祭を挙行することを常とし、追悼会、慰霊祭の名で実施される祭典は仏式のものが多かつたが、除幕式、招魂祭は神式又は仏式或は神仏両式併用ないし隔年制で行われた。神式の場合には、忠魂碑の碑表の前に神霊の依代である神籬を立てて、その前に祭壇を設け、そのつど招霊して祭典を持ち、神仏両式の場合には、神式の祭典に引き続いて仏式で各宗僧侶の読経による供養が行われた。神社界は、神仏両式併用の招魂祭が行われることを好ましいものとは考えなかつたが、現実には広くこれが挙行されていた。

(ハ)  かくして、毎年、招魂祭又は慰霊祭が忠魂碑前において神式又は仏式或いは神仏両式併用ないし混淆(隔年制等)で行われ、戦没者遺族、従軍者各団体及び一般住民並びに児童・生徒が参列してこれを参拝した。また、日常、市町村において、児童及び生徒に対し、愛国心、忠誠心を涵養するため忠魂碑の清掃、礼拝をさせるところが多くなり、昭和一〇年内閣書記官長の通達によつて、国体の本義を明徴にしこれに基づいて教育の刷新をはかるため、忠魂碑を参拝させることを各学校長に命じた。特に昭和一〇年代には、戦線の拡大と戦没者の増加に伴い、忠魂碑前の慰霊祭が盛大に催された。

(4) 忠魂碑の戦後の取扱い

(イ)  昭和二〇年一二月一五日、連合国軍総司令部は、国家による信仰強制から解放するため、戦争を導いたイデオロギーに対して支払われた経済的負担を除去するため、神道を歪曲して軍国主義的、過激な国家主義的宣伝に利用することを防止するため、平和と民主主義に基礎を置く新日本建設に資するため等の目的で、わが国の超国家主義ないし軍国主義の解体と政教分離とを占領政策の重要な部分として、いわゆる神道指令を発した。これにより、神道を含むあらゆる宗教を国家から分離すること、神道に対する国家、官公吏による保護・監督・援助を停止すること、神棚その他国家神道の物的象徴となるものを公的施設に設置することを禁止してこれを撤去すること等の具体的措置が明示された。政府は、いわゆる神道指令を受けて、戦死者、軍国主義者及び極端な国家主義者のための公葬、追悼会及び記念碑に関する通牒として、「公葬等について」を発したが、これは、「このことに付いては政教分離の見地から今後左記の様な取扱に依つて実施するよう貴管下及関係諸団体等に対して徹底方配意せられ度令に依つて通牒する」との前文に続いて、まず第一項から第三項までは、地方官衙及び地方公共団体と公葬その他の宗教的儀式・行事(慰霊祭、追弔会等)のかかわりについて具体的な基準を定め、更に、「(1) 忠霊塔、忠魂碑その他戦没者のための記念碑、銅像等の建設、並びに軍国主義者又は極端な国家主義者のためにそれらを建設することは、今後一切行はないこと。現在建設中のものについては、直ちにその工事を中止すること。なお、現存するものの取扱は、左によられたい。(イ)学校及びその構内に存在するものは、これを撤去すること。(ロ)公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは、これを撤去すること。(2) 前項((1))のことは、戦没者等遺族が私の記念碑、墓石等を建立することを禁止する趣旨ではない。」(第四項)と定め、「一般文民の功労者、殉職者等のために、記念碑、銅像等を建設することや、その保存事業を行ふことは差支へない。」(第五項)と定めたにすぎず、公有地から既設のすべての忠魂碑を撤去することを指示したものではなかつた。

(ロ)  更に政府は、昭和二一年一一月二七日、いわゆる神道指令に沿つて「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」を発したが、その内容は、つぎのとおりであつた。

「本月一日発宗第五一号内務文部両次官通牒『公葬等について』の内第四項中現存する忠霊塔、忠魂碑、銅像等の措置については左記に拠られたい。

一 学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する。

二  公共の建造物及びその構内又は公共地に在るもので明白に次のような軍国主義的又は超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは撤去する。

イ  日本天皇は其の祖先、家柄及び特殊なる起源の故を以て他国の元首に優越するとの教義

ロ  日本国民は其の祖先、家柄又は特殊の起源の故を以て他国民に比し優越し居れりとの教義

ハ  日本諸島は特殊の起源の故を以て他国に比し優越し居れりとの教義

ニ  日本国民を欺瞞し以て侵略戦争に導入し又は他国との紛争解決の為道具としての武力行使を讃美するに役立つ其の他の教義

単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者の為の碑であることを示すに止るものは原則として撤去の必要はない。」

そして、文部省は、昭和二二年八月二九日、山口県教育部長からの照会に対し、碑文が陸海軍軍人の揮毫した忠魂碑であつても、その故をもつて直ちにそれが軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的としているとはいえないが、忠魂碑が学校及びその構内にはないものの学校の付近にある場合又は生徒・児童が通学の途上に見ることのできる路傍等にある場合、忠魂碑が生徒・児童の教育上に及ぼす感化、影響が強いと認められるときには、これを撤去すべきである旨を回答したこともあつた。

(ハ)  撤去すべき忠魂碑の基準は、右各通牒によつて明示されていたにもかかわらず、占領軍に処罰されることを恐れるあまり、いわゆる神道指令に過剰に対応し、学校、公共建造物及び公共用地に建てられていた多くの忠魂碑、忠霊塔の類が撤収されたが、文字通り撤去・破壊され又は将来の再建を見越して地中に埋められたものが多いなかで、目立たない場所に移転して維持をはかり又は碑文・碑名の模様替えをして維持をはかつたものもあつた。文部省は、昭和二三年二月、忠霊塔・忠魂碑等の撤収状況を調査したところ、何らかの措置を施された忠魂碑等の合計は七四一一基で、その内訳は、除去・破壊したもの五六一三基(75.7%)、目立たない場所に移転したもの八九〇基(一二%)、模様替えしたもの九〇八基(12.3%)であることが判明した。そして、昭和二七年四月、講和条約の発効を機会に戦没者のための碑表建設の動きが戦友・遺族を中心として再燃し、まず、「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」によつて撤去した既設の忠魂碑、忠霊塔等が相次いで復元、再建され、これと併行して新規の建設も続々と計画され、実行されていつた。建碑の主体はおおむね各地域の遺族・戦友であり、それを地方自治体が援助する方法がとられた。新たに建てられた碑・塔の素材・形状は、在来の忠魂碑以上に多岐にわたつており、材料となる石材としては、自然石のままのもの、ある程度加工したもの、表面を研磨して規則正しい形にしたもの、金属製の装飾やレリーフを嵌めこんだもの、銅・陶器製のもの等があり、形状としては、自然石の形のままのもの、角柱式・円柱式・尖塔式・楼閣式のもの、砲弾を模したもの、石像・銅像をのせたもの、剣・翼・錨・爆弾を型どつたもの等多様である。碑文・碑銘も多様であり、碑文は、ほとんどが口語体であって、漢文体、文語体のものは少なく、横書きのものもあり、また、碑銘は、敗戦前にはあまりみられなかつた「慰霊碑」「慰霊塔」の類が多く、「鎮魂碑」「弔魂碑」「哀悼碑」「鎮霊塔」「供養塔」というものもある一方、「忠魂碑」も少なくなく、「彰忠碑」「表忠碑」「英霊碑」「英魂碑」「雄魂碑」「彰魂碑」「士魂碑」「報国塔」「建勲塔」などもあり、また、「殉国碑」「殉国慰霊碑」「殉国英霊碑」などが相当数ある。

(ニ)  文部省は、右のような建碑状況のもとにおいて、講和条約発効後の昭和二七年九月一九日、「戦没者の記念碑等について」(地調第三六号富山県総務部長宛文部省調査局長回答)をもつて、宗教施設又は宗教的儀式行事を伴う施設でない限り、公の機関が殉職者・戦没者等の記念碑等を建設することは、政教分離の原則に抵触しないが、「忠霊塔」「忠魂碑」等誤解を招きやすい語をなるべく避けるべきであるとの回答をし、また、昭和二七年一一月六日、「昭和二十七年法律第八十六号について」(委調第七八号東京都教育庁総務部長宛調査局長回答)をもつて、公共団体が公の功労者・殉職者・戦没者等を記念する碑・像・塔等の建設を行うことは、それが特定の宗教施設でない限りさしつかえないが、「忠霊」「忠魂」の文字を用いないことが望ましいとの回答をし、更に、昭和二九年九月三日、校内地に忠魂碑を建設することは、学校教育上の立場から、できるだけ避けることが望ましいとの回答(委初第二九三号滋賀県教育委員会教育長宛文部省初等中等局長回答)をしたが、新たに建設された碑又は再建された碑の中には忠魂碑、忠霊碑と銘されたものも多く、これらの碑の前で神式又は仏式若しくは神仏合同式等による戦没者慰霊祭が全国各地で営まれてきた。

(5)  忠魂碑に関する実態調査

(イ)  箕面市は、昭和五八年二月一日を基準日として全国三二五五市町村を対象に行つた碑・塔に関する調査依頼に基づく合計二六九九市町村の回答結果により、つぎの集計を得た。すなわち、戦争に起因して建立された碑・塔は二六九九市町村において合計一万〇三四四基が現存し、その内訳は、忠魂碑四〇八八基、慰霊碑九二七基、忠霊塔六八五基その他であり、そのうち昭和二〇年八月一五日以降に建立されたものは、忠魂碑九八七基、慰霊碑八三〇基、忠霊塔四一四基であること、また、これらの碑・塔に関し、追悼式・供養祭等の名称の如何にかかわらず、戦没者、戦災犠牲者等に対して行われる慰霊・顕彰のための慰霊祭が実施されているものは六〇五二基(58.5%)あり(不明三一五〇基)、そのうち慰霊祭の形式の判明している碑・塔五四四九基の内訳は、仏式二五八九基(47.5%)、神式一九八五基(36.4%)、神仏合同方式二七八基(5.1%)、キリスト教式一五基(0.2%)、無宗教方式五八二基(10.6%)であり、これを忠魂碑二二六七基に限つてその内訳をみれば、仏式一〇九七基(48.3%)、神式八六〇基(37.9%)、神仏合同方式一二六基(5.5%)、キリスト教式二基(0.0%)、無宗教方式一八二基(8.0%)となつているが、これらの中には神仏隔年交替方式のものが全体で二五九基(4.7%)あること、慰霊祭の主催者は、主なものは、遺族会が一五七〇基(25.9%)、市町村が六八〇基(10.9%)、自治会が五七二基(9.4%)、奉賛会が三六五基(6.0%)、社会福祉協議会が三四三基(5.6%)であり(不明一二九八基21.4%)、これを忠魂碑二四八五基に限つてその内訳をみれば、遺族会が七〇一基(28.2%)、市町村が二六四基(10.6%)、自治会が二四〇基(9.6%)、奉賛会が一六四基(6.5%)、社会福祉協議会が一五八基(6.3%)であること(不明五〇六基20.3%)、慰霊祭が碑・塔の前で実施されている割合は、忠魂碑二四八五基中一一八八基(47.8%)、慰霊碑五五一基中二五三基(45.9%)、記念碑二一五基中九五基(44.2%)、忠霊塔四八三基中二三四基(48.4%)、慰霊塔四二〇基中二三九基(56.9%)であり、全体としてみると、碑・塔合計五六六七基中二七六九基(48.9%)につき碑・塔の前で慰霊祭が実施されていること、遺族会主催の慰霊祭が忠魂碑の前で行われているもの三七九基のうち、仏式一六五基(43.5%)、神式九九基(26.1%)、神仏合同方式二一基(5.5%)、神式仏式四三基(11.3%)、無宗教方式二一基(5.5%)であること、以上のとおりである。

(ロ)  右調査は、箕面市が、全国の市町村に「碑・塔に関する調査票」を配布し、各市町村からの回答結果を集計する方法で行われたが、調査票の記載は正式な公文書として作成されたものではなく、記載内容の正確性が全部にわたつて担保されているとはいいがたく、甲三〇九号証(大江志乃夫作成の鑑定書)が指摘するとおり、全国の市町村から回答を得たものではなく、しかも東京二三区を除外し、また、誤記入の存在も否定できないことが窺われるものの、右調査内容は比較的単純な事項にかかるもので記載者の主観によつて左右される性質のものとはいえないのであるから、調査結果が全く実態から遊離したものであるとみなければならない特段の事情がない以上、その正確な数値は別として、忠魂碑のおおよその実態・傾向を示す一資料としてこれを評価することができるものと考えるのが相当である。

(二)  右認定事実に照らして、忠魂碑の性格について按ずるに、まず、忠魂碑にはつぎの特質があることを挙げることができる。

(1)  忠魂碑ないし招魂碑は、幕末期に国事に殉じた者を慰霊・顕彰する目的で建立されたのを最初とし、招魂墓碑としての祭祀施設の性格も混在しており、碑銘も「忠魂」「招魂」だけでなく多様であつて、必ずしも一義的に明確な性格を有するものではなかつたから、当初のものは具体的に建立の趣旨・目的によつてその性格を判断する以外にない。

(2)  日露戦争後の明治三九年ころから、忠魂碑が戦没者の慰霊・顕彰のための碑として中心的な存在となり、在郷軍人会を主体に隆盛となつたが、他方、戦没者の霊を祀る招魂社を市町村単位で設立する運動も活発となつたものの、政府からその設立を抑制する方針が出され、戦没者遺族、地域住民らは、地区ごとに忠魂碑の前でその慰霊・顕彰の行事として神式或いは仏式の招魂祭、慰霊祭を催してきた。

(3)  戦没者が再び急増した昭和一〇年ころから、陸軍の支援により、遺骨を納めて合祀するための忠霊塔の建設が勧められ、これが公営墳墓として戦没者の霊を祭るようになつて以後、新たな忠魂碑の建立は少なくなつたが、教育活動の一環として忠魂碑の清掃、礼拝が生徒・児童に課された。

(4)  敗戦後、いわゆる神道指令により、日本の超国家主義、軍国主義が廃され、政教分離が実現されることとなつたが、忠魂碑は、学校及びその構内にあるものはすべて撤去すべきものとされたものの、それ以外の公共地・公共建部物内にあるものは軍国主義的又は超国家主義的な思想の宣伝の目的を有するもののみが特に撤去の対象とされたのであつて、必ずしもすべてがいわゆる神道指令にいう軍国主義的・超国家主義的思想の宣伝、鼓吹を目的とするもの又は政教分離の趣旨に反するものとはされなかつた。

(5)  忠魂碑は、現実においても、すべてが完全な廃棄という方法で撤去されたわけではなく、講和条約の発効を機会に続々と再建又は復元されたが、再建又は復元されたものと新設のものを加えてその形状は雑多であり、忠魂碑の前で慰霊祭が行われるものと行われないものとがあり、その祭式も特定の宗教宗派によるものではなく、また、その主催者も多様である。

(三)  ところで、第一審原告らは、敗戦前後を通じて忠魂碑が宗教上の観念に基づく礼拝の対象であり、宗教施設であつて、本件忠魂碑もその一つである旨を縷々根拠を挙げて主張するのであるが、その主張するところは、要するに、忠魂碑は、死者を慰霊・顕彰する目的で建立されたものであるが、戦没者の忠魂が神霊に転化するという靖国神社の教義に基づいて、霊魂を合祀する宗教上の目的で建立されたものであつて、その忠魂を慰める宗教的儀式が慰霊祭・招魂祭であるところ、靖国神社が、敗戦前は軍事機構の一部を構成していたものであり、かつ、忠魂を祭神とする国家の祭祀すなわち宗教施設であつたことからすると、右靖国神社又は護国神社と同根の忠魂碑も単に記念碑の性格だけではなく、宗教施設たる性格をも持つ、というのである。そして、甲九〇号証(村上重良「慰霊と招魂」)、一三六号証(大江志乃夫作成の意見書)、三〇九号証(大江志乃夫作成の鑑定書)、一九六号証(大江志乃夫「靖国神社」)、二一四号証(平野武「忠魂碑に関する議論について」)、三〇八号証(村上重良作成の鑑定書)及び原審証人村上重良の証言は、右主張に沿い又はこれを根拠づけるものである。しかしながら、乙五九号証(照沼好文「碑表、形像等に関する研究」)、六一号証(大原康夫「忠魂碑の研究」)、六四、一三八号証(阿部美哉の鑑定書、意見書)、九一号証(橋本公亘作成名義の鑑定書)の各記載を参酌し検討した結果は、つぎのとおりである。

(1)  国家神道の形成・変遷をみると、まず、明治元年、新政府は、祭政一致を布告し、神祇官を再興し、全国の神社・神職を新政府の直接支配下に組入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連の神仏判然令をもつて神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、明治三年大教宣布の詔によつて神ながらの道が宣布され、明治五年、教部省は、教導職に対し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思想の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。また、政府は、明治四年、神社は国家の宗祀であり一人一家の私有にすべきでないとし、更に、伊勢神宮を別として、神社を官社、諸社に分ける社格制度を定め、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認め、そして、明治一五年、神官の教導職の兼補を廃し、葬儀に関与しないものとする旨の達を発し、神社神道を祭祀に専念させることによつて宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する国家神道の体制を固め、神社を崇敬奉戴することは国民の義務であるとした。更に、明治三九年、官国幣社の経費を国庫の負担とすること及び府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とすることが定められ、ここに神社は国又は地方公共団体と財政的にも完全に結びつくに至つた。このようにして、昭和二〇年の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。そして、神社参拝が事実上強制され、信教の自由は著しく侵害されたばかりでなく、国家神道は、軍国主義の基盤ともなつていた。これらは、わが国の歴史上顕著な事実である。また、前記のとおり、靖国神社は、明治一二年、東京招魂社を改称して別格官幣社に列せられ、国家神道の体系に組込まれたが、明治維新前後からの戦死者の霊を祭神とし、その霊璽(神体)は神剣及び神鏡であり、副霊璽は合祀者の官位、姓名及び命を列記した霊璽簿(当初は巻物であつたが、後に簿冊となつた。)である。そして、明治二〇年、神官制度が神職制度に改正された際、靖国神社の神官の任免権は、内務省から陸・海軍省に移管されるに至り、昭和一四年、地方招魂社が内務省管下の護国神社に改編され、府県社に準ずる指定護国神社と村社に準ずる指定外護国神社の制度が設けられた際、護国神社の祭神はそれぞれの地域に関係のある靖国神社の祭神とすることが定められた。このように、靖国神社は、教義上も組織上も整然とした体系を有し、国家神道の中核を形成していた。

(2)  右のような事情のもとで、在郷軍人会を中心に戦没者の慰霊・顕彰のために建立された忠魂碑は、特定の宗旨によるものではなく、靖国神社においてもこれを祭祀施設として位置づけたことはなかつたうえ、神社行政を担当していた内務省においてこれを祭祀の目的物とすることを許さず、また、忠魂碑の前での宗教儀礼をも禁止する態度さえとつてきたのであるが、やがて、戦争の拡大・激化・長期化と戦没者の増加に伴い、忠魂碑を単なる慰霊・顕彰の目的にとどまらず、軍関係者を中心にして、愛国心・忠誠心の高揚をはかるために、忠魂碑の「忠魂」が忠義を尽して死んだ者の魂を意味するものであると解したうえ、該碑は戦場における死を讃えるものであると観念し、軍国主義の精神教育上、忠霊塔とともにこれを礼拝の対象とすることが要請された。このように、忠魂碑は、前記のとおり、当初は慰霊・顕彰のための記念碑の性格を有するにすぎないものから招魂墓碑の要素を備えたものまであつたが、その後、国家神道が確立してこれが軍国主義の精神的基盤となるに伴い、軍事教育・軍事政策上の観点から礼拝が強制されるようになつた結果、戦没者を祭祀する靖国神社・護国神社が国家神道を支えてきたのと同じ役割を担うかのようにして国家神道を側面から助長する機能を果してきたのであるが、ただこのような機能は昭和二〇年の敗戦に至るまでに限り続いたものと解すべきである。これを換言するに、敗戦前、忠魂碑は軍事施策上の観点から国家神道を助長する機能を果してきたものであるが、他方、靖国神社・護国神社は宗教施策上の観点から国家神道を支えてきたものであつて、両者は、戦没者を慰霊する点において共通するものがあるが、これを参拝・礼拝せしめる所以を全く異にしていたものであることが上記のような歴史的経過に照らし明白であるということができる。

(3)  しかるところ、敗戦後のいわゆる神道指令により、国家と神社神道との完全な分離がなされ、神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎の上に立つものとされたが、その際、神社と共に軍国主義的・超国家主義的思想を支える機能を果してきた忠霊塔・忠魂碑等もまたその撤去が指導され実行された。しかし、敗戦後、占領軍ないし日本政府において、忠魂碑が宗教施設であると解されたことはなく、また、単に忠魂碑であることを刻しているというだけで該碑を軍国主義的・超国家主義的思想を宣布伝承するものであると考えていなかつた。また、講和条約発効後まもなく、昭和二七年五月二日に政府主催の全国戦没者追悼式が行われたのと相前後して戦没者を記念する忠魂碑、慰霊碑、忠霊塔等多種多様の碑・塔が遺族団体等によつて建立されることが多くなり、しかも、碑・塔の前で数種の宗教の形式をもつて、或いは特段特定の宗教の形式を借りず遺族会、市町村、自治会等が主催して慰霊祭を行うことも少なくなくなつたのが実情であつて、これら全国的規模の営為は、戦後のわが国の一般的な社会風潮上、戦没者を慰霊・顕彰する碑・塔はその銘文如何にかかわらず特に特定の宗教とかかわり合いのあるものではないとの一般的な認識と、これらの碑・塔はもはや過去の軍国主義的・超国家主義的思想を鼓吹宣伝する目的とするものではない単なる記念碑であるとの共通の了解のもとになされたものであると解されるところであつて、前記のような追悼式・慰霊祭も、主催者・形式は別として、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする社会倫理的な儀礼式典として催されているものとみることができる。このように、政府が国家神道、軍国主義、超国家主義を廃止し、多くの国民もこれを支持してきている敗戦後の時期に再建ないし新設された忠魂碑は、専ら非業の死を遂げた戦没者を追悼・顕彰するために、特定の思想、信条、宗教を超えた人間本来の倫理感を表現した記念碑であるとみるのが客観的には相当である。なお、第一審原告らが主張するように、いまこれを超えて、今次大戦が幾多の国民に及ぼした悲惨な結果に思いを到し、かつての国家神道、軍国主義等を排する観点から、これらの記念碑の再建又は新設をもつて右のような過去の特定の宗教、主義、信条の復活であると解し、もつて、これらの営為を否定することも、その者らの個々の体験等からすれば、個人的心情としては理解できなくはない。しかしながら、右のような理解ができるが故に、直ちに前示の判断を覆えすことが困難であることは上来詳細に説示した認定事実関係に照らし明らかである。また、もともと、宗教は、信仰という個人の内心的な事象にかかわることがらであるうえ、宗教の要素とされる教義、儀礼、教団及び宗教体験の把握の仕方によつては多元的、多義的な性質を有するものであるから、敗戦前において忠魂碑につき感得した崇拝心を敗戦後においても保持し、これを宗教体験として認識することがありうることを否定することはできないところである。しかしながら、それは前記のとおり明治中期からの六、七〇年の間に形成、確立された国家神道という政治体制に基づくものであることに鑑みれば、敗戦後に右政治体制が全く変革してその基盤が消滅した以上、これに基づく宗教的関連性も失われたものと認めるのが客観的には相当であること前示のとおりであつて、少なくとも、経年とともに稀薄化し、世俗化し、もはや宗教類似現象を残しているにすぎないものと考えるべきである。

(4)  そして、本件における旧忠魂碑も、大正五年に分会によって建立され、昭和一〇年代までは毎年慰霊祭が神式又は仏式によつて挙行されてきたものであり、叙上の一般の忠魂碑と異なるところはなく、昭和二二年に碑名部分だけが地中に埋められたが、昭和二六年に遺族らによって再建され、その後は市遺族会が清掃管理し、毎年碑前で慰霊祭を実施していることも、前叙の一般の忠魂碑と異なるところはないのであつて、これが礼拝の対象とされていたことがあるからといつて、直ちに、そのような扱いは、忠魂碑が宗教施設であるが故になされたものであると解するのは困難である。これらは軍ないし学校教育に関する国策上要請されたものにすぎないのであり、このことは、昭和一〇年代に戦争の激化に伴つてその要請が強まつたことからも窺い知ることができるのである。そして、再建された旧忠魂碑の形態も一般の忠魂碑と異なるところがないことからして、本件忠魂碑に限つて特にこれが超国家主義、軍国主義、天皇制絶対主義の思想を宣伝鼓吹するものであるということも困難である。以上、要するに、現在、本件忠魂碑を宗教施設と解し、或いは右のような軍国主義ないし反平和主義等の思想を宣伝鼓吹するものと解することは困難であつて、かえつて、これは専ら慰霊・顕彰のための記念碑として維持されているものとみるのが相当である。

ところで、第一審原告らは、本件忠魂碑の構造、様式が周囲を玉垣で囲まれ白砂利で敷きつめられた神聖な場所を象徴しているうえ、本件移設・再建の際に脱魂式・入魂式を行い、霊璽を蔵納して礼拝の対象物としており、しかも、碑前で国家神道において公式行事として併用された神式・仏式の慰霊祭が行われているから、本件忠魂碑は戦没者を記念する世俗的機能と慰霊・顕彰という超世俗的機能を有し、後者の点において宗教的性格を有する、というのである。しかしながら、右主張は、つぎのとおりの理由により採用することができない。

(イ)  前記認定の本件忠魂碑の構造・様式からみれば、一般にこれにある種の荘厳性を感じ取るであろうことはこれを窺いうるのであるが、死者とりわけ戦没者・遭難死者等非業の死を遂げた者を慰霊・顕彰・追悼する目的で設置された施設については、忠魂碑に限らず、種々の戦没者記念碑、墓苑、追悼式式檀等に、多かれ少なかれ荘重かつ厳粛な雰囲気が生ずるように構造上・様式上の配慮がされることは、死者に対する自然な敬弔の念のしからしめるところであつて、本件忠魂碑に主張のごとき雰囲気を感得できるからといつて、それが故に直ちに他の記念碑等と性格を異にする宗教施設であると解することは相当でない。

(ロ)  <証拠>によれば、本件忠魂碑の移設・再建工事を請け負つた不動建設株式会社は、旧忠魂碑及び本件忠魂碑の前で臨時的に霊の依代となる神籬を立てて神官による祭儀を行い、その費用を負担したが、その際、市遺族会及び会員は右各儀式を移築報告祭・脱魂式、移築竣工祭・入魂式と称したことを認めることができる。しかしながら、右各儀式は、本件移設前後にそれぞれ営まれた神式の祭祀であるにもかかわらず、遺族会会員はこれを仏教用語である脱魂式、入魂式と呼んでいたことによつても明らかなとおり、その儀式本来の宗教的教義に従つたわけではないのであり、また、右各証言によれば、もともと右各儀式は死者にかかわる土木工事を行う業界の通例として行われるものであることが認められるのであつて、本件忠魂碑が戦没者の慰霊・顕彰の碑であることを併せ考えると、遺族会会員は本件忠魂碑ないしその移設に霊魂の往復を観念したものとは断定できず、本件移設・再建工事にあたり、右各儀式に脱魂、入魂の用語を俗用したにすぎないものとみるべきであるから、市遺族会及び会員が脱魂式、入魂式と称したことをもつて、本件忠魂碑が宗教施設であるとする理由とすることはできない。

(ハ)  <証拠>によれば、市遺族会会長加藤由次郎は、昭和四一年ころ、沖縄の「浪花の塔」を参考にして、過去帳記載の戦没者の氏名を丸杉板及び「霊爾」と印された木柱に移記し、これらを本件忠魂碑の基礎台中に納めたが、その際、宗教上の手続に則つてなされたものではなく、特にこれを遺族関係者に広く知らせる措置をとらなかつたため、市遺族会会員すらその存在を知らないままに経過したことが認められ、このような経過に鑑みれば、偶々、右木柱に靖国神社に存置してある霊璽簿に似た霊爾という文字が記され、また、丸杉板に戦没者の氏名が記載されていたからといつて、それは単に戦没者の名簿にすぎないものというべきであり、慰霊碑に過去帳を奉納することは原爆慰霊碑等においてもその例をみることができるのであつて(乙七八号証参照)、右木柱等が神体として礼拝の対象物とされたことも認めるに足る証拠はない。

(ニ)  敗戦前、本件忠魂碑の碑前で多くの他の忠魂碑と同様に、年一回の割合で慰霊祭が神式又は仏式で行われてきたことは、前記のとおりであるが、本件忠魂碑の碑前で右のような慰霊祭が挙行されたからといつて、本件忠魂碑が神式又は仏式の祭祀の対象とするための施設であると考えるべき必然性はないのであつて、慰霊祭をそのゆかりの碑の前で挙行することが荘重かつ厳粛な雰囲気、劇場感を作るために効果的であることは首肯するに難くなく、そのような例は忠魂碑に限られるわけではない。すなわち、<証拠>によれば、広島市の平和公園内の原爆供養塔前で毎年八月六日、広島戦災供養会主催による原爆死没者供養行事が神式、仏式キリスト教式等によつて実施され、長崎市の平和公園内の平和祈念像前で毎年八月九日、長崎原爆殉難者慰霊奉賛会主催による原爆犠牲者慰霊祭が神式、仏式隔年交替で実施され、姫路市の手柄山中央公園内の太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔前で毎年一〇月二六日、太平洋戦全国戦災都市空爆犠牲者慰霊協会主催による太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊祭が仏式二年連続、神式一年の割合で実施され、大阪市の大阪城公園内の砲兵工廠記念碑前で毎年夏期に一回、元大阪砲兵工廠被災者慰霊祭世話人会主催による被災者追悼慰霊祭が仏式で実施され、大阪市の国分寺公園内の地下鉄工事現場ガス爆発犠牲者慰霊碑前で毎年四月八日、大淀豊崎東連合町会主催によるガス爆発物故者追悼式が仏式で実施されているが、これらが一般に宗教施設であるものと認識されていないことが認められる。そうしてみると、本件忠魂碑前に慰霊祭を挙行する必要な広場が確保されていたからといって、本件忠魂碑が宗教的な祭祀ないし礼拝の対象物として維持、管理されているものであると断ずることはできないというべきである。

(ホ)  <証拠>によれば、忠魂碑の「忠魂」なる名辞は、幕末期の殉難者を京都東山に祭祀するために発せられた明治元年五月一〇日付の布告中に、祭祀の性格が忠魂を慰めることにあると記載され、殉国の将士と王事に尽した者に対して「忠魂」をもつて呼称したが、陸・海軍大臣官房監修・靖国神社忠魂史第一巻(昭和一〇年靖国神社社務所編集・発行)中に、明治天皇の「忠魂を慰むるために神社を建てて永く祭祀せしむ、益々忠節を抽んでよ。」との趣旨を体して東京招魂社が設立された旨の記述があることが認められるところ、日露戦争後に、天皇に忠義を尽した戦死者の魂の意味をもつてその慰霊・顕彰のための忠魂碑が活発に建立されたことは前認定のとおりである。しかしながら、忠魂なる名辞が幕末期の殉国者の霊の呼称として又は靖国神社の前身である東京招魂社の設立の目的を示す用語として使用されていたからといつて、そのような忠魂として靖国神社に合祀された戦没者について、これを専ら慰霊・顕彰・追悼という世俗的目的のための記念碑として忠魂碑を建立、維持することが直ちに東京招魂社ないし靖国神社と不可分の関係にあることを示すものではない。のみならず、戦没者のための碑には、種々の銘文が刻されており、特に敗戦後に建立されたものは多様な碑銘ないし碑文が使用されているのであり、忠魂碑と慰霊碑・記念碑との間に碑の性格、その建立目的の有意の差があるとも認め難い。以上のとおりであるから、一般に、忠魂碑が「忠魂」と刻されているが故に、それ以外の碑と区別して、敗戦前後を通じてこれを宗教施設であると認識されているものとみるのは相当でないというべきである。忠魂碑が、前述のとおり、敗戦前において、軍国主義、超国家主義の宣伝鼓吹に利用され、また、その結果として靖国神社・護国神社と同様に国家神道を支える役割を果してきたことを否定することはできないが、それは忠魂碑が国家神道の祭祀ないし靖国神社の宗教施設とみなされていたからではなく、戦場における死を讃える意味において国策ないし軍国主義に融和したものとみるべきものである。しかし、現在では忠魂碑に右のような意味を見出すことが困難であることも先に説示したとおりである。

(四)  以上によれば、忠魂碑は、幕末期以来、招魂墓碑ないし記念碑の性格を有するものとして建立されたが、日露戦争以後は戦没者の慰霊・顕彰のために記念碑として建立され、本件忠魂碑もその一つであつたものであり、したがつてまた、本来は、超国家主義、軍国主義を支援・助長させる目的を有するものとして建立されたものではなかつたにもかかわらず、軍国主義の精神的基盤となつた国家神道が形成・確立されてきた明治中期から昭和二〇年の敗戦までの間は、軍国主義の精神的象徴の中に組込まれ、結果として国家神道を助長する役割を果してきたにすぎず、敗戦後、国家神道の解体により、忠魂碑は軍国主義、超国家主義に利用されることがなくなり、一般に、新たに再建され又は建立された忠魂碑は本件忠魂碑を含めて専ら戦没者の慰霊・顕彰のための記念碑として認識されており、かつ、忠魂碑を再建し維持することが天皇・日本国・日本国民の優越性を誇示し又は日本国民を侵略戦争に向わせたり、紛争解決手段として武力行使を讃美するものではないと認識されているものというべきであり、右の認識が実体から遊離しているものと判断すべき資料は見当たらない。

よつて、本件忠魂碑が、天皇制絶対主義、軍国主義の思想を表現、宣伝するものであり、また、宗教施設ないし宗教施設の物的要素となつているが故に宗教的性格を有するものであることを前提として、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与が憲法前文、一条、九条等に違反し、かつ、憲法二〇条三項に違反する行為であるとする第一審原告らの主張は、その前提において失当であり、採用することができない。

2 市遺族会の由来と性格

(一)  <証拠>によれば、つぎの事実を認めることができ、この認定を覆えすに足る証拠はない。

(1) 日本遺族会の成立

(イ)  昭和二〇年一〇月、厚生省は、連合国軍総司令部の指令により引揚げに関する中央責任官庁に指定され、引揚援護事業を開始して以来、戦争によつて生じた多くの戦争犠牲者等の対策に応ずるため、海外に残留した六六〇余万人の軍人・軍属及び一般邦人を日本に迎える引揚援護事業、未帰還者とその留守家族及び戦傷病者・戦没者遺族等に対する諸般の援護事業、海外旧戦域に眠る戦没者の遺骨収集を初めとした戦没者に対する慰霊事業、更には、旧軍人等にかかる恩給・叙位叙勲に関する業務のほか旧軍関係の残務処理業務等、極めて広範かつ膨大な事業を遂行することとなつた。しかし、政府は、敗戦直後、連合国軍最高司令部から日本の軍人恩給制度が好ましくないとする覚書を受け、昭和二一年二月一日勅令第六八号「恩給法ノ特例ニ関スル件」をもつて、軍人・軍属の恩給、軍人・軍属の遺族の扶助料に関する停止・制限の措置をとらざるをえなくなり、更に、当時の国家財政が極めて窮乏していたこともあつて、これらは、国・政府から積極的な公的処遇を受けられないまま放置され、また、いわゆる神道指令により、靖国神社が国との関係を断たれたため、戦没者の慰霊・顕彰を受ける公的場所を失つたうえ、「公葬等について」により、都道府県・市町村等が戦没者に対する慰霊祭、追悼式を行い又は公務員がこれに公の資格で参列することを禁止されたため、地方自治体における慰霊・顕彰事業の実施を期待することができなくなつた。

(ロ)  こうした状況下において、同じ境遇にある遺族らは、昭和二二年一一月、相互扶助、公的処遇の付与等を求めるべく遺族らの全国組織として日本遺族厚生連盟を結成した。同連盟は、その結成に当たり、連合国軍総司令部から、遺族の相互扶助を目的とすること、戦没者遺族のほかに社会公共のために殉職した者の遺族も組織の中に加えることを指示された。このようにして結成された日本遺族厚生連盟は、大会を度々開催するなど組織をあげて政府・国会に対して遺族への国家補償を求めてきたところ、昭和二七年四月、戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、また、同年五月、政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、これを機会に各都道府県及び市町村においても戦没者の慰霊行事が行われるようになつた。そして、講和条約発効後の昭和二八年三月一一日、日本遺族厚生連盟は、その目的に沿つた活動を更に容易にするため、これを法人組織とするべく財団法人日本遺族会を設立してその認可を得た。これに伴い日本遺族厚生連盟は、発展的に解散した。

(2) 日本遺族会の組織・目的・事業

(イ)  日本遺族会は、英霊の顕彰、戦没者遺族の福祉増進、慰藉救済の道を開くとともに、道義の昂揚、品性の涵養に努め、平和日本の建設に貢献することを目的とし(財団法人日本遺族会寄附行為二条)、その支部として各都道府県に独立の法人格をもつ遺族連合会、更に各市町村に都道府県の遺族連合会の支部たる市町村遺族会を置き、昭和五三年現在で、全国の会員数は、戦没者柱数二六六万柱、遺族世帯数一八五万世帯、単位遺族会数一万四〇〇支部を有している。

(ロ)  日本遺族会は、その事業として、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、遺族の処遇向上に関する事業、遺族の生活相談事業、遺児の育成・補導、昭和二八年法律第二〇〇号により日本遺族会に無償貸与された国有財産(九段会館)の管理並びにこれを戦没者遺族の福祉のために利用する事業、上京遺族の宿泊所の斡旋、皇居の清掃・拝観その他連絡・指導、遺族の表彰その他連絡指導、機関紙の発行、その他目的達成のため必要と認める事業(前記寄附行為三条)を行つている。すなわち、英霊顕彰の事業として、靖国神社国家護持の推進、各種英霊顕彰事業の実施、靖国神社例大祭の提灯代の負担などを行つており、戦没者遺族の福祉増進に関する事業として、戦没者遺族に支給されている恩給等の増額を初め、国家処遇の改善をはかっており、日本遺族会が各支部を通じて行う遺族援護の強化対策事業、老人福祉対策事業として、海外における遺骨収集事業について、海外地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び送還等に関する衆議院決議に基づいて政府が実施した第一次計画(昭和二八年から三三年)及び第二次計画(昭和四二年から四七年)による事業に対し、民間団体として団員を派遣してこれに協力し、特に、第三次計画(昭和四八年から五〇年)の事業に対しては、国から協力を要請され、国庫補助金の交付を受けて積極的な関与をしてきており、戦跡巡拝の事業として、国が主催する戦跡慰霊巡拝についての広報活動・参加者の選考等に協力するほか、日本遺族会主催により外地戦域で戦没した英霊の慰霊巡拝事業を行つており、機関紙発行の事業として、日本遺族通信を毎月一回発行し、九段会館の経営については、九段会館は敗戦後連合国軍総司令部が使用中の旧軍人会館を国から無償で借り受けることができるようになつた際に改称したもので、遺族の利用に供するとともに、その事業収益によつて遺族の福祉増進をはかつている。

(ハ)  日本遺族会の歳出は、昭和五八年度において、一般会計一億〇六〇三万七三三一円のうち、経常費が五四六三万六五七三円、事業費が三〇九〇万〇七五八円であり、積立金その他が二〇五〇万円であるところ、事業費中の英霊顕彰費は三八七万一一五一円であり、その内訳は祭祀費一六万円、戦没者追悼式関係費一一九万六〇〇〇円、外地戦跡巡拝費二五一万五一五一円であるが、従前においてもこの傾向に特段の差異がなかつた。

(ニ)  各都道府県及び市町村の支部遺族会の事業内容も日本遺族会のそれと同じである。

(3) 支部遺族会

(イ)  財団法人大阪府遺族連合会は、敗戦後に大阪府内の遺族の間で結成された大阪府遺族援護協議会を改称した大阪府遺族連盟を母体とし、昭和三二年三月設立認可され、約五〇支部を有し、生計困難者に対する生活相談に応ずる事業、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、遺児の育成・補導に関する事業、遺族の処遇向上に関する事業、関係機関及び団体との連絡調整の事業を目的としている(財団法人大阪府遺族連合会寄附行為二条)。右のうち、英霊の慰霊巡拝事業については、国が主催する遺骨収集事業、戦跡慰霊巡拝事業、全国戦没者追悼式等に対する参加・協力のほか、大阪府主催の戦没者追悼式への協力、大阪護国神社主催の戦没者慰霊祭の協賛、大阪府遺族連合会主催の戦跡地慰霊巡拝を企画・実行している。

(ロ)  市遺族会は、昭和二七年九月箕面町戦没者遺族会として組織され、その後、大阪府遺族連合会の支部として編入されたものである。市遺族会は、箕面市内に居住する戦没者遺族約五〇〇名を会員とし、市の区域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置している(この事実は当事者間に争いがない。)。市遺族会の事業は、国の主催する全国戦没者追悼式・大阪府の主催する戦没者追悼式・箕面市の主催する戦没者追悼式その他各種の追悼式についての案内、参加申込みの取りまとめ(必要な場合には参加者の選考及び旅費の交付)、国・日本遺族会・大阪府遺族連合会等が行う戦跡地慰霊巡拝についての案内、参加申込みの取りまとめ(必要な場合には参加者の選考)、大阪府遺族連合会の行う研修会等への参加、靖国神社参拝旅行・秋季バス慰安旅行等の企画・実施、市内各地の慰霊祭(箕面地区については区遺族会主催、そのほかの地区については自治会等が主催)への参加、大阪護国神社への神饌料・初穂料の奉献、大阪四天王寺の英霊堂への燈明料の供与、戦没者遺族の実態調査・世帯調査・大阪府から交付される年末慰問品の配付、遺族手帳の配付、遺族援護法その他の遺族援護関係法についての会員への周知活動、青年部活動等多種、多方面に及んでいる。このような市遺族会の活動を昭和五一年度の決算にみれば、収入は九九万六二〇四円であり、その内訳は補助金四四万五〇〇〇円、会費三三万〇九〇〇円、その他二二万五三〇四円であり、支出の内訳は会議費一九万一三八二円、秋季バス慰安旅行二七万九四六〇円、靖国神社参拝等春季旅行七万九七八二円、その他四四万五五八〇円であつて、また、昭和五二年度の決算にみれば、収入は一二四万七三九九円であり、その内訳は補助金五三万四〇〇〇円、会費三〇万九九〇〇円、その他四〇万三四九九円であり、支出の内訳は会議費一〇万一〇七六円、秋季バス慰安旅行三三万七九〇〇円その他であつて、そのほかの年度においてもこれと格別に異なるところはない。

(ハ)  区遺族会は、市遺族会の下部組織として、約三〇〇名の会員を有し、各遺族と直接接触して市遺族会の事業を補助遂行しているほか、独自の活動として、旧忠魂碑を復旧して間もなくの昭和三〇年ころから、毎年一回四月ころ、碑前で(雨天の場合は隣接の箕面小学校講堂において)神社神職又は僧侶の主宰のもとに神式・仏式隔年交替でそれぞれの儀式の方式に則り、慰霊祭を営んできた。区遺族会の活動を昭和五一年度の決算にみれば、収入一九万八一〇〇円の内訳は市遺族会からの交付金七万九六〇〇円及び慰霊祭当日の供物一一万八五〇〇円であり、支出内容は会食費・参列者への粗供養一〇万五一〇〇円その他である。また、これを同五二年度の決算にみれば、収入二一万九一〇〇円の内訳は市遺族会からの交付金七万九六〇〇円及び慰霊祭当日の供物一三万九五〇〇円であり、支出内容は会食費・参列者への粗供養一六万〇五一〇円その他である。

(二)  右認定にかかる遺族会及びその支部の成立経緯、組織、目的及び事業内容に照らして遺族会の性格を按ずるに、日本遺族会及びその支部は、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的として設立され活動している団体であつて、特定の宗教に拘束され又は特定の宗教を排除する趣旨で組織されているものではなく、宗教の宣伝、宗教的信仰の表白その他宗教的意義を有するものを事業目的とするものではないというべきである。しかるところ、日本遺族会及びその支部が、英霊顕彰の事業として、政府主催の全国戦没者追悼式・大阪府主催の追悼式への参加・協力、外地戦跡の慰霊巡拝などの儀礼的な活動にとどまらず、靖国神社国家護持の推進運動に参画しており、<証拠>によれば、右にいう靖国神社国家護持とは、国及び国の機関において靖国神社が戦没者及び国事に殉じた者を公に祀ることを参与・監督し、財政的援助を与えることができるようにすることをいうものであって、宗教法人たる靖国神社の宗教的性格にかかわるものであることが窺えるのであつて、そのほかにも、神式・仏式の慰霊祭の挙行、靖国神社の参拝等宗教色を帯びた行事を実施していることからすれば、宗教にかかわる活動をしていることは否定できないところである。しかしながら、これらは、いずれも英霊顕彰の事業を遂行するための社会的儀礼を尽す手段・形式として宗教儀式に関与し又は実行しているにすぎず、その宗教儀式を通じて宗教上の教義をひろめ又はその信者を教化育成することを目的としたものではないことが明らかである。すなわち、日本遺族会ないしその支部は、戦没者を慰霊・顕彰するための社会的儀礼の方法として、忠魂碑その他の戦没者の碑の前で慰霊祭を神式・仏式の宗教儀式をもって行うことにつき、会員の意思を集約しその協力を求めているにすぎず、会員に神道又は仏教の信仰を得させることを目的としているわけではなく、また、靖国神社の参拝を企画実行するにあたつては、靖国神社に戦没者の霊が合祀されているがために戦没者の慰霊・顕彰の手段として右参拝事業を遂行することが組織の維持、発展のために有意義であるものと判断してこれを行つているのであつて、靖国神社ないし神社神道の信仰を目的としているものではない。

(三)  ところで、第一審原告らは、日本遺族会ないしその支部は、憲法八九条にいう「宗教上の組織若しくは団体」及び同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当する旨を主張し、その理由として、憲法八九条は本来広く宗教上の事業ないし活動に対して公的な財政援助を与えてはならないとする趣旨に解すべきであり、仮にそうでなく同条の「宗教上の組織若しくは団体」及び同法二〇条一項後段の「宗教団体」という文言を有意に解したうえ、これを一定の教義を有してこれを布教宣伝することを目的とする教団、教派、教会等の宗教団体をいうものと解さなければならないものであるとしても、日本遺族会ないしその支部は、靖国神社の信仰を目的とする団体であるから、右「宗教上の組織若しくは団体」「宗教団体」に該当する、というのである。

しかしながら、憲法八九条前段、二〇条一項後段の規定は、憲法二〇条一項前段の定める信教の自由を財政面・社会面・文化面における政教分離の原則をもつて保障する趣旨を有するものではあるが、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。したがつて、前記法条は国が財政的・社会的・文化的に宗教とかかわり合いを持つことを全く許さないとする趣旨ではなく、国が特定の宗教団体に財政的・社会的・文化的な援助をするときには、国が特定の宗教を選別し、更には国教を認めるという事態が生じ、ひいては信教の自由を侵害する結果に至ることに鑑み、右財政的援助・特権の付与を禁止しているものであると解すべきである。憲法八九条は、このような観点から、その前段においては宗教上の組織又は団体については、その事業の如何を問わず、公金を当該組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること等を禁止しているのに対し、その後段においては、公の支配に属しない慈善、教育又は博愛の事業については、その主体如何にかかわらず事業そのものに着目して財産上の援助を禁止しており、また、同法二〇条一項後段は、「宗教団体」に対する特権の付与を禁止しているのである。

そして、このような規定の趣旨・文言・体裁からみれば、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」、同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」とは、宗教的活動を目的とする団体をいうものと解すべきであり、このような目的を有しない団体が、その本来の事業の目的を遂行するうえで臨時的又は定期的に宗教的行事ないし宗教にかかわり合いのある行為を企画実行しているからといつて、これが直ちに前記各法条にいう「宗教上の組織若しくは団体」及び「宗教団体」に該当するものと解するのは相当でない。

これを本件についてみるに、日本遺族会は、前記のとおり、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的とする団体であつて、宗教の信仰・礼拝又は普及等宗教的活動を目的とするものではなく、市遺族会は、その下部組織として、会員の慰問激励・福祉向上を目的として結成され、活動しているのであつて、毎年定期的に挙行する神式又は仏式の慰霊祭、靖国神社への参拝等宗教にかかわり合いのある一部の行為は、右目的を遂行するための手段・方法として行われており、神道・仏教の信仰自体を目的として行われているわけではなく、また、かかる行為が市遺族会の存立に必要不可欠なものであるとまではいえないと考えられる。したがつて、市遺族会が憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」、同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当するものと解することはできないというべきである。

以上によれば、市遺族会が憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」、同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」に当たるものであることを前提として、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与が右各条項に違反する行為であるとする第一審原告らの主張は、その前提において失当であり、採用することができない。

(四) 更に、第一審原告らは、市遺族会が超国家主義と軍国主義のイデオロギー・国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰することを本質的な体質とするものであつて憲法の定める国民主権、基本的人権の尊重、平和主義に反すると主張するが、前記のとおり、日本遺族会及びその支部は、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的として設立され財団法人として認可されて活動しているものであつて、その事業目的を遂行するための手段・方法として靖国神社の参拝を企画・実施しているからといつて、所論の憲法違背の団体であるとすべき理由はない。したがつて、右違憲を前提とする第一審原告らの主張もまた、その余の点を判断するまでもなく、採用することができない。

3 以上のとおりであるから、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与が憲法二〇条、八九条、前文一項、一条、九条等の違反するものであることを前提とする第一審原告らの主張は、理由がないものというべきである。

二つぎに、第一審原告らは、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与に法律違反がある旨を種々主張するので、以下に順次判断する。

1  本件売買について

(一) 第一審原告らは、本件売買が法二条一六項、民法九〇条に違反して無効であると主張するが、その主張の根拠となつている本件移設・再建及び本件貸与が違憲であるとする点につき理由がないこと前述のとおりであるから、右主張は失当である。

(二) 第一審原告らは、本件売買は公有地拡大法の取得目的に違反しているからこれが民法九〇条により無効又は瑕疵があると主張する。

前記認定のとおり、本件土地は、昭和四九年本件土地を含む公社土地上にマンションが建設されようとした際に、公社が、環境悪化を理由として右建設に反対する付近住民の意向を取り入れて、公有地拡大法に基づき、公社土地全体を安宅産業株式会社から買い取つたものであるから、同法一〇条一項、一七条一項一号ニの規定に基づいて、公社が地域の秩序ある整備をはかるために必要な土地としてこれを取得したものというべきである。しかるところ、市は、旧忠魂碑の敷地を箕面小学校のプール建設用地に供するため、忠魂碑の移転先として本件土地の一部である本件敷地を確保しこれを市遺族会に無償貸与すべく、本件土地を公社から買い受けたのであるから、本件敷地は、旧忠魂碑の敷地を都市計画法(昭和五〇年法律第八七号大都市地域における住宅地等の供給の促進に関する特別措置法による改正前のもの)四条四項所定の都市施設とするに必要な代替地の用に供されたものということができる。ところで、公有地拡大法九条一項は、同法六条一項の手続により買い取られた土地につき、これを都市計画法四条四項(前記大都市地域における住宅地等の供給の促進に関する特別措置法による改正前のもの)に規定する都市施設に関する事業又はこれらの事業にかかる代替地の用に供すべきことを定めているが、公有地拡大法九条一項の趣旨は、土地の先買い制度によつて買い取られた土地については、土地所有者の負担と制限のもとに右買取りが実現できたことに鑑み、その土地の管理・処分に際しては高度の公共性・公益性の存在を必要とすることにあるから、同法六条一項の先買い手続によらないで取得した土地については、同法九条一項の定める用途に供さなければならないものではないばかりでなく、公社は、地方公共団体に代つて土地の先行取得を行うものであるから、地方公共団体が公社において地方公共団体のために同法一七条一項一号ニの規定に基づいて取得し保有している土地を公社から買い受けるにつき、その使途を制限される理由はないのであつて、地域の秩序ある整備と公共の福祉の増進に資するために公有地の拡大の計画的な推進をはかる同法の立法趣旨に沿つたものである限り、地方公共団体が公社から取得した土地の処分目的が公社のそれと同じであることを要しないことは、規定上明らかである。

本件においては、市は公社から取得した本件土地を学校施設を得るための代替地の用に供したものであつて、その過程に所論の公有地拡大法違反の違法又は瑕疵はなく、第一審原告らの主張は理由がない。

(三) 第一審原告らは、本件売買による代金支払が予算措置を欠き予算目的外の支出であるから違法である旨主張する。

(1) 地方公共団体の予算は、一会計年度における歳入歳出の見積りを内容とするものであるが、法二一五条、二一六条の規定によれば、単なる歳入歳出の見積表ではなく、款・項で区分された歳出に関して支出の金額目的及び時期を限定する法規範の性質をもつものであるというべきところ、法二二〇条一項の規定に基づく法施行令一五〇条により、長が予算を執行する場合の執行科目たる目・節を定めるべきものとされているから、款・項で区分された予算についてはこれに従わない支出は違法であるものと解すべきである。

(2) 本件においてこれをみるに、<証拠>並びに前記認定事実によれば、つぎの事実を認めることができ、この認定を覆えすに足る証拠はない。

(イ) 市は、公社から公社土地を西小学校の仮運動場として借り受けていたところ、本件敷地に旧忠魂碑を移設し、旧忠魂碑の敷地を箕面小学校のプール建設用地にあてる目的で、本件土地を公社から買い上げて本件敷地を市遺族会に無償貸与することとし、本件土地を普通財産として取得するための購入費、忠魂碑を本件敷地に移設するための工事費につきそれぞれ予算措置を講ずることとした。

(ロ) そこで、市は、昭和五〇年六月一三日、同年度箕面市一般会計補正予算(第一号)を箕面市議会の議題として提案したが、右議案は、右補正予算につき、「歳入歳出予算の総額にそれぞれ二七四、六四一千円を追加し、歳入歳出をそれぞれ一〇、七五四、二四一千円とする。」との定めを内容とするもので、予算説明書には、歳出の部として、款2総務費、項1総務管理費補正額九二、九六三千円、目1財産管理費、節17公有財産購入費七八、八二七千円と計上され、これについては説明欄に「土地購入費七八、八二七千円 新規計上 西小学校仮運動場用地」と記載され、また、款9教育費、項2小学校費、目3教育施設費、節15工事請負費八五八、九六六千円と計上され、これについては説明欄に「工事請負費八五八、九六六千円 忠魂碑移設工事八、〇〇〇千円増」と記載されていた。

(ハ) 右議会において、市企画部長から、「第二款総務費、第一項総務管理費におきまして九二九六万三、〇〇〇円の追加で、これは第五目財産管理費におきまして市有地境界確認等請求事件及び通称如意谷山口池における損害賠償請求事件に係る弁護委託等に要する経費一四二万三、〇〇〇円、箕面小学校プール建設事業に伴う商工会事務局移転新築工事にかかる経費一、二三五万円、西小学校仮運動場用地取得に係る経費七、八八二万七、〇〇〇円、計九、二六〇万円の追加。……次に、第九款教育費におきまして六、二一七万五、〇〇〇円の追加で、この内訳といたしまして第二項小学校費におきまして八〇〇万円の追加で、これは第三目教育施設費におきまして箕面小学校プール建設事業に伴う忠魂碑移設工事に要する経費八〇〇万円の追加でございます。」との説明がされ、所管の総務・文教各常任委員会に付託されて継続審議とされた。その後、昭和五〇年六月三〇日、市議会は、補正予算を継続審議し、原案どおり可決すべきものと決した旨の各常任委員長の報告に基づき、各常任委員長の報告のとおり右補正予算を可決した。その際、文教常任委員長から、「本件につきまして、再度担当課長から詳細なる説明を受けた後、種々審査いたしたのでありますが、その主なものとして、まず第一点、箕面小学校プール建設事業に関連して、同校の学校敷地内に所在する忠魂碑は大正五年四月在郷軍人会より当時の箕面村村長に忠魂碑建設の用地について土地貸与の願いが出され、村議会で議決され、箕面小学校の敷地内に建設されたものであり、忠魂碑の所有権者は在郷軍人会であつたが、戦後は在郷軍人会が消滅したため、明確な所有権者は存在しないが、現在は箕面市遺族会の奉仕のもとにお守りされている現状であり、歴史的な過去の経過を考えて、箕面市遺族会と移転について話し合い、了承をうけて西小学校仮運動場の一隅に移転を決定したものであるとの答弁をうけ、またこれに関連して、移設後の忠魂碑の管理及び移設先の西小学校仮運動場用地の残地の今後の用途計画について質したのに対して、歴史的な経過を考えて遺跡という見方であくまでも現状の形で場所を替えて継続させていくという観点から今後も箕面市遺族会の奉仕による管理はしていただけると思料されること、また西小学校仮運動場への移設先の残余の土地の用途については将来公共用地としての活用を充分考慮して計画していきたい、との答弁をうけました。」との説明があつた。

(3) 右認定事実によれば、市は、忠魂碑の新敷地として本件土地を取得するに当たり、補正予算説明書に「土地購入費西小学校仮運動場用地」と記載し、これを審議する市議会において、同用地に供するための土地購入費である趣旨を説明しているが、右記載・説明のみでは、忠魂碑の移転先用地の購入費としてこれを支弁する趣旨を明確に表現したものとはいいがたいといわざるをえないが、同時に審議された忠魂碑移設工事による経費八〇〇万円の追加補正予算に関し、旧忠魂碑が西小学校仮運動場用地に移設される旨の説明がされているのであるから、市議会においては、本件土地購入費は旧忠魂碑の移転先用地の購入費として予算計上されたものであるとの認識のもとに右補正予算が審議議決されたものと認めるのが相当である。しかも、市議会の議決の対象となる予算は、前記のとおり款・項であつて、法施行令一五〇条一、二項によつて定められる目・節は、予算執行の効率化、計画化をはかるための基準として長の専権によつて決定されるにすぎないものである。したがつて、本件売買代金七八八二万七〇〇〇円につき、補正予算の説明書に土地購入費、西小学校仮運動場用地と記載されていたからといつて、購入にかかる本件土地のうち本件敷地を旧忠魂碑の移転先として使用するための予算措置が講じられていないということはできないというべきである。そして、本件土地の購入費を款・総務費、項・総務管理費の予算に計上したことに手続上の違法があると認めることはできないから、右購入費の支出につき、これが予算措置を欠き或いは予算目的外のものであるとする理由はない。

以上のとおりであるから、第一審原告らの主張は採用することができない。

2  本件移設・再建、本件貸与について

(一) 第一審原告らは、分会が実体法上も手続上も旧敷地ないし本件敷地の使用権を取得すべき根拠を欠いている旨縷々主張するので、まず、この点について基礎となる事実関係を確定するに、前掲(第三の一の1冒頭)各証拠及び<証拠>によれば、前記(第三の一の1(一)ないし(三))認定の事実に敷衍してつぎの事実を認めることができる。

(1) もと中井善兵衛所有の大阪府豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番畑三反二畝は、明治四一年九月二二日、東西に同番の二畑一反三畝一〇歩、同番の一畑一反八畝二〇歩(以下、同字の土地は番地のみで略称する。)に分筆され、五〇七番の二は、明治四三年五月役場敷地とされてその旨土地台帳に記載され、同年八月二七日箕面村に対して所有権移転登記手続がなされ、そのころ同地上に村役場が建設された。その後、五〇七番の二は、本件訴訟提起後の昭和五二年二月一〇日、町名変更等を原因として表題部が箕面市百楽荘一丁目三二七番畑一三二二平方メートルと改められ、同年二月二四日、地目を学校用地に変更する登記手続が経由された。右村役場は、町制、市制の各施行に伴い、町役場、市役所として一新されてきたが、昭和三九年三月箕面市西小路に移転したため、その跡地は箕面市立保健検査センター庁舎として利用されている。他方、五〇七番の一は、従前の五〇八番の一学校敷地八畝二〇歩、五〇八番の二学校敷地四畝三歩、五〇八番の三学校敷地一畝二二歩及び五〇六番学校敷地二反八畝二一歩と合併されたものであるが、これについて箕面村が明治四二年四月三〇日所有権移転登記手続を経由し、そのころ同地上に箕面小学校の校舎が建設された。その後、右五〇七番の一等の合併地は、箕面市百楽荘一丁目七番学校用地六一二六平方メートルとされ、更に、昭和四四年七月一日これが同所七番二学校用地六〇六六平方メートル外二筆に分筆された。

(2) 分会会長宮地八郎は、大正五年四月一〇日、箕面小学校と村役場に挾まれた空地に旧忠魂碑を建築するため、箕面村に対し、五〇七番の二のうちの四九坪につき無償貸付を請願した。箕面村村長中井吉左衛門は、同年四月二九日、右請願につき、同月一四日付で箕面村有基本財産土地貸与の議案として村会に提出し、その許可の議決を得たが、当該役場敷地が村の基本財産ではなかつたため、町村制四〇条六号に相当する件、すなわち不動産管理の件に該当するものとする趣旨で貸与するのが相当であるとして、改めて、無償借用請願地は五〇七番の二役場敷地一反三畝一〇歩のうち不用地四九坪であることを前提に、箕面村有不動産管理無償貸与議案を村議会に提出し、村議会は、右同日、村長の案どおり可決した。そこで、箕面村は、そのころ、郡長の許可を受けて旧敷地を分会に無償貸与した。このようにして旧忠魂碑は、箕面小学校の校庭側を正面にして建立され、周囲を玉垣で囲まれていたが、更にその外周は、若干の余裕地を残して、西側(裏側)は阪急箕面線の軌道敷となつており、南側は村役場、北側は校舎に囲まれていたため、一般には箕面小学校の校庭の一隅に建てられているかのような印象を受けていた。

(3) 在郷軍人会は、明治四三年一一月ころ設立された団体で、本部、連合支部、支部、連合分会及び分会等によつて組織されたもので、箕面村分会もそのころに在郷軍人会の下部組織として箕面村に在住する会員をもつて権利能力のない社団として設立された。その後、陸軍は、前記(第三の一の4)のとおり、大正一四年四月六日陸軍管区表を改正したことに伴い、第四師管第七旅管篠山連遂区は同師管大阪連遂区に編入されたが、分会が篠山支部の名称で存続したかどうかはともかくとして、分会として活動を続けた。更に、昭和一一年一〇月帝国在郷軍人会令(昭和一一年勅令第三六五号)が施行されたことにより、在郷軍人会は会則を定め組織を整備して法人格を取得した。しかし、その支部等はその後も従前の組織体をもつて独自の活動を続けてきたものであり、箕面村分会も、陸軍管区表の改正及び右在郷軍人会令の施行にかかわりなく、独自の活動体として旧忠魂碑を所有して維持するため旧敷地を無償で使用していた。ところが、わが国の敗戦に伴い、在郷軍人会は、昭和二〇年八月三一日、解散することを決定し、帝国在郷軍人会解散要領なる文書を下部団体に通知した。右文書には、「各団体ノ御下賜金其他ノ財産ハ其ノ団体区域ニ於ケル軍人遺家族援護厚生施設ニ使用スル条件ノ下ニ夫々ノ地方自治体其他ニ移管ス」との記載があつた。そこで、在郷軍人会の下部団体も解散することとなり、それぞれ清算手続をすることとなつたが、昭和二〇年一一月二〇日帝国在郷軍人会令等廃止ノ件(昭和二〇年勅令第六一九号)が公布施行され、帝国在郷軍人会令は清算が結了するまで効力を残存するものとされた。しかし、活動を停止した分会は、その後も、旧忠魂碑及び旧敷地使用権について何ら清算手続をしないままであつたところ、昭和二六年ころ、分会の旧会員らと遺族らが(箕面遺族会が中心となつて)その間に地中に埋めておいた旧忠魂碑を復旧しこれを維持管理していた。そして、箕面遺族会は、箕面町遺族会、市遺族会と改称されてきたが、その支部である区遺族会が現実に旧忠魂碑の清掃管理に従事し、かつ昭和三〇年ころから碑前で毎年一回慰霊祭を挙行していた。

(4) 市は、昭和四八年当時、箕面小学校の児童数の増加、校舎の老朽化による校舎の建替え・増築・校庭の拡張を急務としていたため、同年から昭和五〇年三月ころまで、学校用地を確保するべく、まず、箕面小学校の東側又は北側の隣接地を買収する交渉をしようとしたが、土地所有者の協力が得られそうになく、やむなく、箕面小学校の校舎の北東端に設置されているプールを他に移設することを考え、新築予定の体育館の屋上をその移設候補地としたが、体育館建物の耐用年数・安全性に難点があつたため、この方法を採用することができず、種々検討しているうちにもはや猶予できない現状に至るに及び、箕面小学校西側に隣接する旧敷地上の旧忠魂碑を他へ移設し、その跡地へプールを移設する以外に方法がないものと判断した。

(5) そこで、市は、右移転計画を実行するにあたり、旧忠魂碑が市遺族会によつて多年にわたり維持管理されていたことから、市遺族会を交渉相手として、昭和五〇年四月ころから市遺族会会長東山伊造らと折衝したが、当初、市遺族会は、会員に高齢者が多いため右移転により碑の清掃、慰霊祭の挙行・参加に不便となる等の理由から右計画に強い難色を示していたものの、遂に地元児童の教育のためには移設もやむをえないものと判断し、市が市遺族会に旧忠魂碑の移設のための代替地を提供してこれを無償で貸与すること及び市が旧忠魂碑の移設をその負担で行うこと等を条件として旧忠魂碑の移設を了承した。そこで、市は、代替地として、公社が先行取得していた公社土地のうち、公共用地として利用価値の少ない北隅の不整形三角地すなわち本件土地を選び、同年五月二一日、市遺族会との間で、市はその責任と負担において旧忠魂碑を現状有姿のままで本件土地のうちの本件敷地に移設すること、市は右移設に要する費用を負担すること、市遺族会は、市に対し、旧敷地実測178.51平方メートル及び周囲の付随使用土地を返還すること、市は市遺族会に対し、本件敷地を本件忠魂碑所有の目的をもつて無償で期限の定めなく貸与するとともに、その周囲の土地につき付随使用を認めること等を合意(以下「本件合意」という。)した。

(6) ところで、その後、第一審原告らから昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件についての監査請求を受けた市の監査委員は、昭和五一年一月二七日、右請求を理由がないと判断するとともに、その監査結果通知書において、「市と遺族会との間の上記合意(本件合意)は、遺族会の事務管理に基づくやむを得ない処置として一応是認はされるものの、今後の事務処理の如何によつては碑及び新旧敷地の使用権の権利者が未確定のまま推移し、権利関係が浮動的なままに期間を経過する等の問題を生ずるおそれもあるので、市長はすみやかに権利者の確定を求めたうえ、市長と遺族会との間の前記合意の追認を求めるよう努めるとともに、これが得られる見込みとなつたときは、ただちに議会の議決を求めるよう処置すべきことを市長に要望するものとする。」との見解を表明した。そこで、市は、前記(第三の一の1の(七))のとおり、昭和五一年二月二五日に市と市遺族会との間の本件合意について分会清算人から追認を受け、更に同年三月八日に三者間で、本件敷地の使用権の譲渡、本件忠魂碑の贈与等に関する合意をし、市議会が昭和五一年三月一二日本件貸与を可決した。

(二) 右認定の事実関係のもとにおいて、第一審原告らの主張を順次判断する。

(1) 分会には旧敷地の使用権が存在せず又は消滅した旨の主張について

(イ) 旧敷地は分会が箕面村から無償貸与を受けた土地とは異なること及び右無償貸与につき郡長の許可がなかつたことをいう点(五2(一)(1)(イ)(a)(b))は、右認定のとおり、旧敷地は大阪府豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番の二畑一反二畝一〇歩の一部であつて、分会が旧忠魂碑の敷地として箕面村から無償貸与を受けた土地と符合するものであり、右無償貸与については郡長の許可があつたのであるから、右主張は理由がない。

(ロ) 分会に対する旧敷地の無償貸与が行政財産の恩恵的使用関係にすぎず、契約書も作成されていないことをいう点(五2(1)(イ)(c)(d))について

(a) 地方公共団体所有の財産のうち、当該公共団体において公用又は公共用に供し、又は供すると決定した財産すなわち行政財産は、法二三八条の四の規定により、同条二項の定める例外を除きこれを貸し付けることができないとされているが、昭和三八年法律第九九号による改正前の法二一三条一項は、行政財産の管理、処分等を条例の定めに委ねている。ところで、財産及び営造物条例(乙三号証)によれば、箕面市においては、まず、市の財産を行政財産(公用財産及び公共用財産)、財政財産(基本財産、特別基本財産及び積立金殻等)及び普通財産に分類し(三条)、普通財産はこれを貸し付け又はこれに私権を設定することができるが(一一条)、行政財産はその用途又は目的を妨げない限度においてのみ使用又は収益をさせることができ(一〇条)、特定の行政財産について独占的な使用許可をするには議会の議決を経なければならず(二〇条)、また、条例施行の際に現に財産の貸付許可を得ているものについてはその契約期間満了まで従前の例による(三四条)と定められている。遡つて、箕面村村有財産管理規程(昭和三年一月施行、甲一九二号証)によれば、現に公用に供しない土地建物は村会の議決を経て貸し付けることができ(五条)、村有財産を公共団体又は営利を目的としない事業のために使用する者に対し貸し付ける場合には、村会の議決を経て貸付料を徴収しないことができ(七条)、また、村有財産を貸し付ける場合には、契約書を差し入れさせなければならない(八条)と定められている。更に遡つて、町村制のもとにおいては、不動産の管理処分に関すること及び収益のためにする財産すなわち収益財産の管理処分に関することは、町村会の議決及び郡長の許可を必要とし(四〇条六、七号、一四七条一、五号)、収益のためにする財産は基本財産としてこれを維持すべきである(八九条一項)と定められていたものであり、原審証人佐茂作太郎の証言によれば、旧敷地の無償貸与がされた大正五年当時、箕面村においても右町村制に従つて財産の管理処分がなされ、箕面村村有財産管理規程に定める手続と同様の取扱をしていたことが認められるから、箕面村村有財産管理規程によつて廃止された村有財産管理規定(明治三四年六月制定)も財産の貸付につき右規程と同趣旨の定めをしていたものと窺われる。そうすると、箕面村においては、旧敷地が分会に貸与された当時、現に公用に供しない行政財産及び基本財産(収益財産)並びに普通財産につき、村議会の議決及び郡長の許可に基づき、第三者との間で私法上の貸借契約を締結することによつて第三者にその使用権を設定することが許容されていたものというべきである。

(b) そこで、本件についてみるに、前記認定事実によれば、箕面村は、分筆前の五〇七番につき、その約半分の五〇七番の一を学校用地として、残りの五〇七番の二を役場敷地としてそれぞれ取得し、そのころ箕面小学校、箕面村役場をそれぞれの用地に建築したものであり、五〇七番の二は、取得当時から土地台帳上及び不動産登記簿上、地目を役場敷地と表示されていたのであるが、当初から、村役場は同地の南側部分に建築され、学校用地(五〇七番の一)に接する北側部分(村役場の裏地に当たる。)が空地とされていたのであり、これを戦没者の慰霊・顕彰のために設置する忠魂碑の敷地としてその使用を許諾するものであつてみれば、その性質上も構造上も、長期間の使用関係の継続が予測されたところであつて、箕面村当局及び村議会が、五〇七番の二を取得して僅か五年余り後に分会に旧敷地を無償貸与するに際し、これを役場敷地のうちの不用地として取り扱つたことに鑑みれば、箕面村は、五〇七番の二全体を役場敷地として使用する目的でこれを取得したものではなく、分筆前の五〇七番から学校用地として必要とされている五〇七番の一を確保した残地を便宜役場敷地として取得したものにすぎないものと認めるのが相当である。村有財産が行政財産であるか基本財産であるか或いは普通財産であるかは、土地台帳又は不動産登記簿の記載によつて左右されるものではなく、当該財産の取得目的、利用状況及び用途計画によつて客観的に定められるべきものであることに照らすと、前記のような五〇七番の二の取得経緯、利用状況及び無償貸与の取扱いからみて、旧敷地は、公用又は公共用に供することと決定した財産ではなく、将来とも公用又は公共用に供する予定のない不用地であつたものというべきであるから、行政財産又は基本財産ではなく、単なる普通財産であつたものとみるのが相当である。もつとも、前記町村制は、町村有の財産を行政財産と収益財産すなわち基本財産とに大別しているにすぎず、行政財産及び基本財産に属さない普通財産の存在を予定した規定を設けていないが、右町村制においては、町村行政のための費用は町村住民が直接その負担に任ずべきものとされ(六条二項)、その財源をまず税外収入をもつて支弁し、町村税をもつて補充するものとされていたから(九六条二項)、基本財産でも行政財産でもない普通財産については、特に財政上の規制を設ける必要がなかつたものと思料されるところである。そして、右町村制において収益財産をもつて基本財産と定めこれを維持すべものとした理由は、旧町村制(明治二一年法律第一号)が不動産、積立金殻等をもつて基本財産とする旨を定めていたところ(八一条)、かくては町村役場又は小学校敷地建物等のように公用に供する不動産すなわち行政財産をも基本財産としなければならなくなるため、右規定を改め、財産の性質により基本財産とそうでないものとの区別を明らかにしたことにある。このようにみると、箕面村村議会が旧敷地につき当初これを基本財産とし町村制四〇条七号による貸与の議決をしたのを後日に同条六号による不動産管理として再議決をしたのは、箕面村当局が右町村制の改正の趣旨に従つた財務処理をし直したものと推認することができるのであり、したがつて、旧敷地は基本財産でも行政財産でもない財産すなわち普通財産として無償貸与されたものとみるべきであるから、第一審原告らの主張は採用することができない。

(c) 以上のとおりであつて、旧敷地は、行政財産ではなく普通財産であつて、旧敷地の無償貸与は箕面村と分会との間の使用貸借契約に基づくものというべきであるから、分会は右契約によつて旧敷地の私法上の使用借権を取得したものであるというべきである。それ故、旧敷地の無償貸与が行政財産の恩恵的使用関係であるとする第一審原告らの主張は、失当であるといわざるをえない。そして、かような契約につき契約書を作成しなければならないと定めた箕面村村有財産管理規程八条は、箕面村の執行機関が不正な契約を締結することを防止するための団体内部の手続規定であるとみるのが相当であるから、右条項の違背をもつて直ちに当該契約の私法上の効力が否定されるものではないものというべきである(最高裁判所第三小法廷昭和四八年二月二七日判決・裁判集民事一〇八号二二七頁参照)。

(ハ) 陸軍管区表の改正、帝国在郷軍人会令の施行による分会の消滅をいう点(五2(一)(1)(ロ)(a)(b))は、前記認定のとおり、分会は陸軍管区表の改正、帝国在郷軍人会令の施行の各前後を通じて権利能力なき社団としての組織を有し活動していたものというべきであるから、右主張は採用することができない。

(ニ) 在郷軍人会の解散によつて旧敷地の使用貸借契約が終了したことをいう点(五2(一)(2)(イ)(a)(b))は、前記認定のとおり、帝国在郷軍人会令は清算の結了までその効力を有するとされているのであるから、在郷軍人会及びその下部団体である分会は、清算の目的の範囲内でその清算の結了まで存続するものというべきであり、解散要領に団体の財産は地方自治体その他に移管する旨定められていたからといつて、移管を受ける地方自治体その他が具体的に特定されていない状態において、在郷軍人会ないし分会の意思表示なくして直ちにその財産権を失うものと解すべきものではない。本件において旧忠魂碑は、敗戦後は何らの措置を講ぜられないままの状態で放置され、遺族においてこれが復旧され管理されていたものにすぎず、地方自治体その他に右所有権が移転されたとすべき根拠はない。また、在郷軍人会ないし分会の解散によつて自然人の死亡に準じ、或いは直ちに明渡期限の利益を喪失するものと解する根拠もない。したがつて、第一審原告らの主張は採用することができない。

(ホ) 旧敷地の使用貸借は、軍国主義等を鼓吹する宗教施設たる忠魂碑を設置する目的であるから、ポツダム宣言の受諾によつて、目的の消滅により終了したことをいう点(五2(一)(2)(ロ)(a)(b))は、前記認定判断のとおり、旧忠魂碑は右主張のごとき性質を有するものではないから、その前提において失当というべきである。

(ヘ) 法定存続期間の満了をいう点(五2(一)(2)(ハ))は、独自の見解であつて、採用することができない。

(ト) 碑石部分を埋土したことにより忠魂碑の所有権が放棄されたことをいう点(五2(一)(2)(ニ))は、前記認定のとおり、遺族が連合国軍総司令部の目をのがれるための手段として旧忠魂碑の碑石部分を地中に隠匿したにすぎず、これをもつて旧忠魂碑の所有権を放棄する意思表示があつたものということはできないから、右主張は採用することができない。

(チ) 法二一三条二項(昭和三八年法律第九九号による改正前のもの)による旧敷地の使用権の消滅をいう点(五2(一)(3)(イ))について考えるに、同条項は昭和二三年法律第一七九号により昭和二三年八月一日公布施行されたもので、その前段で、普通地方公共団体は、条例で定める特に重要な財産又は営造物については、当該普通地方公共団体の選挙人の投票においてその過半数の同意が得られないときは、当該財産又は営造物の独占的な利益を与えるような処分又は一〇年を超える期間にわたる独占的な使用の許可をしてはならない、と定めており、右改正法附則三条は、法律又は政令に特別の定めがある場合を除くほか、この法律施行の際現になされている地方公共団体の財産又は営造物の使用の許可で右二一三条二項の規定に基づく条例により定められた独占的な使用の許可に該当するものは、この法律施行の日から一〇年以内に、それぞれ同条の規定による手続を経て必要な同意を得なければ、この法律施行の日から一〇年を経過したときは、将来に向つてその効力を失う、と定めているが、箕面市においては、右一〇年以内に所定の条例が制定されなかつた。しかしながら、昭和三三年一二月二四日公布施行された財産及び営造物条例(乙三号証)二一条の規定によれば、旧敷地の無償貸与については前記法二一三条二項所定の手続が必要とされておらず、かえつて、同条例附則三四条において、現に財産の貸付許可を得ているものについてはその契約期間満了まで従前の例による、と定められているから、旧敷地の使用貸借関係はなお存続してその効力を有するものとされたことが明らかである。したがつて、前記法二一三条二項の規定によつて旧敷地の使用権が消滅したと認めることはできないものというべきである。

(リ) 昭和三八年法律第九九号による改正後の法附則一条による旧敷地の使用権の消滅をいう点(五2(一)(3)(ロ))は、旧敷地が行政財産であることを前提とするものであるから、前記のとおり、旧敷地は普通財産であつたものである以上、主張自体失当である。

(2) 分会の本件敷地使用権の取得手続の違法をいう主張について

(イ) 本件合意が存在しないこと及び予算外の債務負担行為であることをいう点(五2(二)(1)、(2)(イ))は、前記認定のとおり本件合意が成立したことを認めることができ、これについて契約書が作成されたことの証拠はないけれども、市が契約を締結するときは契約書を作成して保管すべきことを定めた市契約規則(甲二一八号証)一六条は、市の機関ないし契約担当者が不適式・不公正な契約を締結することを防止するための内部的な事務処理手続に関するものであると解するのが相当であるから、右規則違反をもつて直ちに当該契約の成否・効力が左右されるものではなく、また、契約書が作成されない契約については、法二三四条五項の規定が適用される余地はないというべきであるから、本件合意が同条項により未確定であると解することはできない。また、本件合意において市が旧忠魂碑の移設・再建費用を負担することを約したからといつて、これによつて市が直ちに遺族会又は第三者に対して右費用の具体的な支払義務を負担するわけではなく、右支払義務は、市と請負人との間で本件移設・再建の請負契約が締結されることによつて当該請負人に対する関係で発生するものであるから、本件合意それ自体をもつてこれが予算外の債務負担行為であるということはできない。第一審原告らの主張は採用することができない。

(ロ) 市遺族会が本件合意の際に第三者のためにする意思を有していなかつたことをいう点(五2(二)(2)(ロ))は、前記認定のとおり、分会の清算人がのちに本件合意を追認する意思表示をしたのであるから、仮に市遺族会に第三者のためにする意思が欠けていたとしても、本件合意を無効であるということはできないというべきである。

(ハ) 本件合意の追認につき清算人の権限踰越、瑕疵の承継による無効をいう点(五2(二)(3)(イ)(ロ))は、前記認定のとおり、本件合意の追認は、分会の現務の結了のための職務を行う目的でされたものであるから、民法七八条一、二項の規定により、分会清算人の職務権限内の行為であることは明らかであり、また、所論のような瑕疵のないこと前記(イ)(ロ)のとおりであるから、いずれも理由がない。

(ニ) 昭和五一年三月八日成立の三者間の合意の無効をいう点(五2(二)(4))について検討するに、帝国在郷軍人会解散要領によれば、在郷軍人会及びその下部団体の財産は、当該団体区域にある軍人遺家族の援護並びに厚生施設に使用する条件で地方公共団体その他に移管する旨の清算方法が定められていたのであり、帝国在郷軍人会令は、在郷軍人会及び下部団体が清算の目的の範囲内で存続する旨を定めているところ、右清算方法は何ら公序良俗に反するものとは認められないから、第一審原告ら主張のごとく前記合意を無効とすべき理由はないというべきである。

(3) 補償手続の違法をいう主張について

(イ) 旧敷地が行政財産・普通財産のいずれであるとしても補償不要・現物補償不許をいう点(五2(三)(1)ないし(3))について考える。

前記認定事実によれば、市が市遺族会に対して旧敷地の明渡を求めたのは、箕面小学校の施設整備事業の緊急の要請に応ずるためであつたが、旧敷地は、箕面地区の戦没者の慰霊・顕彰のために建立された旧忠魂碑の敷地として、大正五年以来約六〇年間使用されてきたものであり、右事業計画が別途の方法で遂行されていれば、なお将来にわたつて永く旧忠魂碑の敷地として利用されてきたものとみられる状況にあつたのであるから、本件合意をすることは、右施設整備事業の緊急の要請を充たすために、旧忠魂碑の管理・維持にあたつてきた市遺族会の円満な協力を得る方法として、必要かつ不可欠のものであつたというべきである。この場合、市は、旧敷地が普通財産であることから、法二三八条の五第二項の規定に基づき、普通財産の貸付期間中に市が公用又は公共用に供するために必要を生じたものとして、市長において一方的に貸付契約を解除することもできる。しかしながら、法は、右の必要が生じたときは契約を解除することができる旨を定めているにすぎず、契約を解除した場合においては、借受人がこれによつて生じた損失につきその補償を求めることができると定める(同条第三項)以外に契約を解除すべきか否かについてまで具体的な基準を設けた規定はない。したがつて、市長は、市において当該普通財産を公用又は公共用に供するために必要となつた事由につき、その必要性・緊急性の程度、代替措置の可能性の有無・割合、契約解除による相手方及び社会に与える影響、一方的な契約解除ではなく合意解約の方法による場合の効果・影響等、諸般の事情を考慮して、契約を解除すべきかどうかを決定することができるのであつて、その判断は、右のような事情を総合的に考慮してされるものである以上、普通財産の効率的運用をはかるべき権限義務を有する長の裁量に任せるのでなければ、とうてい適切な結果を期待することができないものというべきであるから、市長は、第三者に貸付中の普通財産につき、公用又は公共用の必要が生じたときに、契約を解除するかどうかをその裁量に任されているものと解すべきであり、裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認められる場合でない限り、この点に関する市長の行為に違法性はないものというべきである。本件においては、本件合意が前記のようなやむを得ない事情のもとにおいて締結されたものであり、これに基づいて市が本件売買、本件移設・再建の費用を支出したこと及び本件敷地を無償貸与したことは、支出した金額及び貸与した土地の範囲・使用条件等において、裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認めることはできない。このように、本件合意に基づいてされた本件売買、本件移設・再建の費用の支出及び本件貸与は、市遺族会ないし分会の使用借権の消滅に対して法二三八条の五の規定に基づく補償の実行としてされたものではなく、前記事業計画を遂行するためのやむを得ない措置として、本件土地の売買代金及び本件移設・再建費用について予算措置をとつたものであるから、これら財産の管理・運用について地方財政法八条に違反するところはなく、また、法二三七条二項、九六条一項六号の規定に基づき、市議会が市の市遺族会に対する本件貸与を承認する議決をしたものである以上、その過程に第一審原告ら主張の違法があるものとすることはできない。

(ロ) 本件貸与につき市議会の同意を得ていないことをいう点(五2(三)(4))について按ずるに、法二三七条二項は、普通地方公共団体の財産は条例又は議会の議決による場合でなければ、適正な対価なくしてこれを貸し付けてはならない旨を規定し、右が議決事件であることは法九六条一項六号の定めるところでもあるところ、<証拠>によれば、本件貸与が財産貸付条例四条所定の議会の議決を要しない場合に当たらないことは明らかであるから、市議会の議決なくしてされた無償貸与はその効力を生じないものと解すべきである。しかし、本件においては、市議会は、本件貸与の後である昭和五一年三月一二日に法九六条一項六号による議決をしたのであるから、これによつて本件貸与の効力を生ずるに至つたものというべきである。なお、第一審原告らの援用する最高裁判所大法廷昭和三七年三月七日判決・民集一六巻三号四四九頁は、違法な行為が地方公共団体の議会の議決によつて適法な行為になるものではないとするものであつて、適正な対価なくしてする財産の貸付は、前記のとおり議会の議決があれば適法なものとされるのであるから、右判例は事案を異にするものであつて本件に適切でない。

(4) 随意契約の違法をいう主張について

第一審原告らは、市と不動建設株式会社との間の本件移設・再建に関する請負契約が違法な随意契約であると主張する(五2(四))ので、判断する。

(イ) 前記認定のとおり、市と不動建設株式会社との間の請負契約は、一般競争入札に付することなく、随意契約の方法によつたものであるところ、法二三四条二項によれば、随意契約は政令で定める場合に該当するときに限りこれを締結することができるとされ、また、これを受けた法施行令一六七条の二第一項は、随意契約によることができる場合を列記しているのであるから、これは、法が、普通地方公共団体の締結する契約については、機会均等の理念に最も適合して公正であり、かつ、価格の有利性を確保し得るという観点から、一般競争入札の方法によるべきことを原則とし、それ以外の方法を例外的なものとして位置づけているものと解することができる。そして、そのような例外的な方法の一つである随意契約によるときは、手続が簡略で経費の負担が少なくてすみ、しかも、契約の目的、内容に照らしそれに相応する資力、信用、技術、経験等を有する相手方を選定できるという長所がある反面、契約の相手方が固定化し、契約の締結が情実に左右されるなど公正を妨げる事態を生じるおそれがあるという短所も指摘され得ることから、法施行令一六七条の二第一項は前記法の趣旨を受けて同項に掲げる一定の場合に限定して随意契約の方法による契約の締結を許容することとしたものと解することができる。しかるところ、同項に列挙された事由中の「その性質又は目的が競争入札に適しないものをするとき」(二号)とは、当該契約の性質又は目的に照らして競争入札の方法による契約の締結が不可能又は著しく困難というべき場合に限定されるものではなく、競争入札の方法によること自体が不可能又は著しく困難とはいえないが、不特定多数の者の参加を求め競争原理に基づいて契約の相手方を決定することが必ずしも適当ではなく、普通地方公共団体において当該契約の目的、内容に照らしそれに相応する資力、信用、技術、経験等を有する相手方を選定しその者との間で契約の締結をするという方法をとるのが当該契約の性質に照らし又はその目的を究極的に達成する上でより妥当であり、ひいては当該普通地方公共団体の利益の増進につながると合理的に判断される場合も同項二号に掲げる場合に該当するものと解すべきである。そして、右のような場合に該当するか否は、契約の公正及び価格の有利性をはかることを目的として普通地方公共団体の契約締結の方法に制限を加えている前記法及び令の趣旨を勘案し、個々具体的な契約ごとに、当該契約の種類、内容、性質、目的等諸般の事情を考慮して当該普通地方公共団体の契約担当者の合理的な裁量判断により決定されるべきものと解するのが相当である(最高裁判所昭和五七年(行ツ)第七四号同六二年三月二〇日第二小法廷判決)。

(ロ) いまこれを本件についてみるに、<証拠>及び前記認定事実によれば、旧忠魂碑を移設することを内容とする本件合意は、昭和五〇年五月二一日にようやく成立したものの、箕面小学校の施設整備事業は、昭和四八年ころから既にその実施が緊急を要していたものであつて、昭和五〇年末までには旧敷地の明渡を受けなければならない逼迫した状況にあつたため、同年六月三〇日本件土地購入費及び旧忠魂碑移設費の予算が市議会において議決されたが、その際、市建設部は、右移設費として予定価格を七九五万一〇〇〇円と計算していたので、予算として八〇〇万円を計上したこと、市は、右予算に基づき、まず、同年七月一〇日公社との間で本件売買契約を締結し、更に、不動建設株式会社に対し、年内竣工を目処に見積表、工程表を提出させたところ、同年一〇月四日に着工して同年一一月三〇日に竣工する工事計画を七三〇万円で請負う旨を申し出たので、同年一〇月四日、同会社との間で本件移設の請負契約を締結し、同年一二月二〇日にこれが完成したこと、本件移設工事は、旧忠魂碑を解体して移設することを内容とするものであるが、単なる工作物の移築ではなく、前記認定の構造を有する戦没者の慰霊・顕彰のための碑であることから、市遺族会に対する関係でその移設作業に特に慎重な配慮をすることが妥当であると考えられたこと、以上の事実を認めることができる。

右認定事実によれば、本件移設工事を一般競争入札の方法によつた場合、右工事を適正に実施する業者を確保することが必ずしも期待しえない可能性があるものということができるのであり、また、緊急を要する工事日程を遵守しえないおそれがあつたものということができるのであるから、このような点の考慮から契約の相手方の資力、信用、技術、経験等その能力に大きな関心を持ち、これらを熟知した上で特定の相手方を選定しその者との間で契約を締結するのが妥当であると考えることには十分首肯するに足りる理由があるというべきであり、他方、工事金額が市建設部の予定した価格よりも低いことをも併わせ考えれば、本件移設工事を一般競争入札の方法によらず随意契約の方法によつて発注したことは長の合理的な裁量権の範囲内のものと認めることができるから、本件移設工事に関する随意契約は、法施行令一六七条の二第一項二号に該当して適法なものであると解するのが相当である。

よつて、第一審原告らの主張は、理由がない。

(5) 本件貸与の公有地拡大法違反をいう主張について本件貸与が同法違反となるものではないこと前記(二1(二))認定判断のとおりである。なお、公有地拡大法九条一項が都市計画法(前記大都市地域における住宅地等の供給の促進に関する特別措置法による改正後のもの)の施行後も同法四条四項について規定しているのは、同条五項をいうものであることが規定の沿革上明白である。

(6) 本件貸与の公益目的違反をいう主張について

前記のとおり、本件貸与の違憲であることを肯認することができないから、採用の限りでない。

3  以上によれば、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与に法律違反があることを理由とする主張は、いずれも理由がないというべきである。

三よつて、第一審原告らの第一審被告市長に対する、同被告が市遺族会に対し本件忠魂碑収去本件敷地明渡の請求及び公社に対し本件売買代金支払の請求を怠る事実の違法確認を求める請求は、理由がないのでいずれも棄却すべきである。

第五  第一審被告市長が本件土地の使用制限の請求を怠る事実の違法確認請求について

一第一審原告らは、第三、第四記載の請求が認められない場合の予備的請求原因として、市遺族会が本件土地を祭祀場又は礼拝所のいずれの目的のためにも使用しないようにその使用目的を制限すべきであると主張するが、前記認定のとおり、本件貸与は、市が市遺族会に対し普通財産である本件敷地を忠魂碑の敷地として使用させることを内容とする私法上の使用貸借契約であつて、適法かつ有効なものであるというべきであるから、使用権者である市遺族会が右の用法に従つて使用する限り、これに付随して本件敷地を神社神道上若しくは仏教上の祭祀場又は忠魂碑の礼拝所として使用することは、契約の趣旨に反するものではなく、また、公序良俗に反するものともいえないから、市は市遺族会に対して本件土地の使用を第一審原告ら主張のとおりに制限することを求めることはできないものというべきである。

二以上のとおり、第一審原告らの主張は理由がないから、右予備的請求は失当として棄却を免れない。

第六  第一審被告らに対する本件忠魂碑に関する損害賠償請求について

一訴えの適法性について

1 第一審原告らの第一審被告らに対する本件忠魂碑に関する損害賠償請求は、法二四二条の二第一項四号(以下、単に「四号」という。)に基づき市に代位して市の被つた損害の補填を求めるものであるが、市の第一審被告らに対する損害賠償請求権の発生原因は、第一審被告らがその各職務権限に基づき共同して本件忠魂碑につき本件移設事業の計画、決定及び執行(請求原因六2(一)(1))をしたが、本件移設事業の計画、決定及び執行は、違憲・違法な本件売買、本件移設・再建及び本件貸与を目的としたものである、というのである。そして、第一審原告らは、本件移設事業の計画、決定及び執行がすべて法二四二条一項所定の財務会計上の行為であり、第一審被告らは、これらに違法に関与したのであるから、四号前段により、「当該職員」として本件請求に被告適格を有し、仮に本件移設事業の計画、決定及び執行が右財務会計上の行為に当たらないとしても、違憲・違法な本件売買、本件移設・再建及び本件貸与を目的としたものであることにかわりはなく、これらに関与した行為は市に対する債務不履行(類似)ないし不法行為であり、市はこれによって発生した市の第一審被告らに対する損害賠償請求権の行使すなわち財産の管理を違法に怠つているから、第一審被告らは、四号後段により、「怠る事実に係る相手方」として本件請求に被告適格がある、と主張する。

2  案ずるに、住民訴訟が自己の法律上の利益にかかわらない当該普通地方公共団体の住民という資格で特に法によつて出訴することが認められている民衆訴訟の一種であることにかんがみると、当該訴訟において原告の主張にかかる財務会計上の行為が法二四二条一項所定の財務会計上の行為に該当しないと解され、或いは、当該訴訟において被告とされている者が当該訴訟において被告とすべき右「当該職員」たる地位ないし職にある者に該当しないと解されるとすれば、かかる訴えは、法により特に出訴が認められた住民訴訟の類型に該当しない訴えとして、不適法といわざるを得ないこととなるというべきである(最高裁判所昭和五五年(行ツ)第一五七号同六二年四月一〇日第二小法廷判決参照)。したがつて、第一審原告らの主張する本件移設事業の計画、決定及び執行が財務会計行為に該当するか否か、第一審被告らが「当該職員」に該当するか否かは、本案前の判断事項である。

3  第一審被告らは、第一審原告らの主張する四号後段の請求は法律上許容されていないものであると主張するが、第一審原告らの主張するところは、本件移設事業の計画、決定及び執行が財務会計上の行為に該当しないとしても、第一審被告らが民法上の債務不履行(類似)ないし不法行為を共同し、それによつて市に対し損害を賠償する義務を負うというものである以上、第一審被告らは右訴訟の被告適格を有する者であると解するのが相当である(最高裁判所第三小法廷昭和五三年六月二三日判決・裁判集民事一二四号一四五頁)。けだし、市が債務不履行ないし不法行為を理由とする実体法上の損害賠償請求権の行使を怠る事実がある場合、住民は四号後段によりこれを代位行使することができるとされている以上、右損害賠償義務を負う相手方が職員であるか職員以外の第三者であるか、更には、その職員に当該行為に関する職務権限があるかどうかによつて、怠る事実の財務性に径庭はないというべきだからである。

二四号前段の請求について

1  財務会計上の行為

(一) 法二四二条の二の定める住民訴訟は、普通地方公共団体の執行機関又は職員による法二四二条一項所定の財務会計上の違法な行為又は怠る事実が究極的に当該地方公共団体の構成員である住民全体の利益を害するものであるところから、これを防止するため、地方自治の本旨に基づく住民参政の一環として、住民に対しその予防又は是正を裁判所に請求する権利を与え、もつて地方財務行政の適正な運営を確保することを目的としたものであつて、この趣旨からみれば、右住民訴訟の対象となるものは、法二四二条一項所定の地方公共団体の執行機関又は職員による同項所定の一定の財務会計上の違法な行為又は怠る事実に限られるものというべきである(最高裁判所第三小法廷昭和五一年三月三〇日判決・裁判集民事一一七号三三七頁、同第一小法廷昭和五三年三月三〇日判決・民集三二巻二号四八五頁)。

(二) ところで、地方公共団体におけるあらゆる行政は、財政の裏付けを伴うのを常態とすることに鑑みれば、究極的に財政に関するすべての行政施策の非違行為を訴訟の対象とすることが許されるとする場合には、対象を財務会計上の行為又は怠る事実に限定した法の趣旨を逸脱することになるから、同条にいう財務会計上の行為とは、財務的処理を直接の目的とするものに限られるべきものと解するのが相当である。

2  本件移設事業の計画、決定及び執行

(一) そこで、まず、本件移設事業の計画、決定及び執行が財務会計上の行為に該当するかどうかについて検討する。

(1) 忠魂碑移設事業の計画・決定・執行をいう点は、それ自体は具体的な行為を特定して主張したものとは認められないのであつて、その趣旨とするところは、後記の各具体的な行為を総称してその違法を指摘したものにすぎないものとみるほかないから、これを独立して財務会計上の行為とすべき余地はない。

(2) 箕面小学校増築事業の計画の立案・決定をいう点については、右計画が、教育行政上の必要性に基づく校舎等の配置に関して策定された一般計画にすぎず、本件売買、本件移設・再建及び本件貸与等について公金を支出し又は財産を管理することを直接の目的とするものではないから、右計画の立案決定は財務会計上の行為に当たるものということはできない。

(3) 本件合意について予算を作成しなかつたこと及び本件移設について補正予算を作成したことをいう点は、それ自体が財務会計上の行為に当たらないことは法文上明らかである。

(4) 本件廃止決定をいう点についてみるに、本件廃止決定は、本件土地の仮運動場としての用途を廃止することを内容とするものであつて、仮運動場としての使用を目的とする私法上の使用借権を公社に返還する旨の内部的な意思決定であるにすぎないから、財務的処理を直接の目的とするものではないというべきである。ところで、市が公社から公社土地の貸与を受けたのは、西小学校の増築工事に伴い西小学校の仮運動場として一時的に使用することを目的とするものであつて、これによつて収益を得ることが期待されたものではなかつたのであり、したがつて資産的価値が評価されているわけでもなく、専ら教育行政上の観点から利用管理するためにしたにすぎないのであるから、右使用借権は、公有財産の範囲を定めた法二三八条一項四号所定の地上権、地役権、鉱業権その他これに準ずる権利に当たらないものというべきである。それ故、本件廃止決定によつて失う本件土地の使用借権は、市の公有財産に当たらないというほかないところ、法二四二条一項にいう財産とは、法二三七条一項にいう財産(公有財産、物品及び債権並びに基金)をいうものと解すべきであるから、右使用借権は、法二四二条一項所定の財産に当たらないというべく、他にこれが同条所定の財務会計上の行為に当たるとすべき理由はない。

(二) 右のとおり、第一審原告らの主張する本件移設事業の計画、決定及び執行のうち、忠魂碑移設事業の計画・決定・執行、小学校増築事業の計画の立案・決定、本件合意についての予算の不作成、本件移設のための補正予算の作成、本件廃止決定、仮運動場の使用借権の放棄については、これらを財務会計上の行為であるとみることはできないから、これを理由とする四号前段の代位請求は、その余の点を判断するまでもなく失当である。

(三) 第一審原告らの主張する本件移設事業の計画、決定及び執行のうち、本件合意は法二四二条一項にいう契約の締結に、本件売買及び本件貸与は同項にいう財産の取得、管理若しくは処分、契約の締結及び債務の負担に、本件移設・再建は同項にいう契約の締結、債務の負担にそれぞれ当たる財務会計上の行為(以下、これらを「本件財務会計行為」ともいう。)であることが明らかであるところ、第一審原告らは、第一審被告らが本件財務会計行為についてその職務権限を有するから四号前段の「当該職員」に当たると主張し、第一審被告中井を除くその余の被告らはこれを争うので、以下に判断する。

(1) 請求原因一2の事実は、当事者間に争いがない。

(2) ところで、四号前段の代位請求における「当該職員」とは、住民訴訟制度が法二四二条一項所定の違法な財務会計上の行為又は怠る事実を予防又は是正しもつて地方財務行政の適正な運営を確保することを目的とするものと解されることからすると、当該訴訟においてその適否が問題とされている財務会計上の行為を行う権限を法令上本来的に有するものとされている者及びこれらの者から権限の委任を受けるなどして右権限を有するに至つた者を広く意味し、その反面およそ右のような権限を有する地位ないし職にあると認められない者はこれに該当しないと解するのが相当である(前記最高裁判所昭和六二年四月一〇日判決)。そこで、本件財務会計行為について考える。

(イ) 地教行法の施行と同時に廃止された旧教育委員会法(昭和二三年法律第一七〇号)は、教育財産の取得及び処分、教育委員会の歳入歳出予算に関すること、教育事務のための契約に関すること、教育事務のための契約に関すること及び教育委員会の所掌にかかる予算について支出を命令すること等の事務についてこれらを教育事務として教育委員会の権限に属させていた(四九条、六〇条)。しかし、法一四九条は、普通地方公共団体における予算の調整・執行、会計の監督、財産の取得・管理・処分、公の施設の設置・管理・廃止、議会の議決を得べき事件の議案の提出その他の地方公共団体の事務は、当該地方公共団体の長の権限に属するものと定め、更に法一八〇条の六第一項の規定によれば、成立した予算に基づいて支出負担行為をし、支出命令を発する権限は、地方公共団体の長に専属し、委員会に属しないものとされている。これを受けた地教行法二四条三、四号は、教育に関する予算の調整・執行、教育財産の取得・処分の権限が長に専属する旨を定めている。他方、法一八〇条の八第一項は、教育委員会は、別に法律の定めるところにより、学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員の身分取扱に関する事務を行い、並びに社会教育その他教育、学術及び文化に関する事務を管理し及びこれを執行する旨を定め、また、地教行法二三条は、教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務及び法律又はこれに基づく政令によりその権限に属する事務で、つぎの各号に掲げるものを管理し及び執行する旨を定め、その一号として「教育委員会の所管に属する第三十条に規定する学校その他の教育機関の設置、管理及び廃止に関すること」、二号として「学校その他の教育機関の用に供する財産の管理に関すること」、七号として「校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関すること」、一九号として「前各号に掲げるもののほか、当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務に関すること」を列記している。そして、教育に関する議案・歳入歳出予算の作成については、教育委員会の意見を聴かなければならないと定めている(二九条)。これらの諸規定を通覧すれば、教育委員会は教育に関する事務のすべてについてその権限を有するのではなく、教育委員会の担当する教育行政事務が地方公共団体の事務の一部であるがために他の一般行政事務の運営の円滑をはかる必要上、教育事務を担当する執行機関としての教育委員会の権限と地方公共団体の長の権限との調整をはかるべく、教育委員会は教育本来に関する事務を担任することとし、教育事務のうち財務事務に属するものの権限はこれを地方公共団体の長に属することとするとともに、これらの財務事務については教育委員会の独立性、自主性を尊重するためにその意見を聴くべきものとしてその意思を反映させる方法を取り入れ、もつて教育委員会を存置した趣旨の実現を期しているものとみることができる。

(ロ) そこで、本件財務会計行為についてみるに、支出命令が予算の執行として長の権限に属することは明らかであり、また、その余の行為も公有財産についての管理・処分、契約の締結、債務の負担に当たるものというべきことも多言を要しない。そして、本件廃止決定の対象となつた本件土地は、その当時において学校その他の教育機関の用に供し又は供するものと決定した財産に当たらないから、これに関する本件財務会計行為が地教行法二三条三号にいう教育財産の管理に当たるものとすることもできないというほかない。

もっとも、<証拠>によれば、委員会は、管理部管理係の主管のもとに箕面小学校プール建設場所の決定及び関連事業の執行について計画を立て、昭和五〇年四月一一日、右プール及び旧忠魂碑の移設に関する計画案を策定し、同年五月二一日、教育長(第一審被告河野)及び市長(第一審被告中井)の決裁を経たこと、右決裁文書は「教育委員会の教育財産に関する綴」として分類されたことが認められる。しかしながら、本件敷地は、箕面小学校のプール建設用地とされることが予定されていたとはいえ、いまだ教育機関の用に供するものと決定されたわけではなく、市長から委員会が引き継ぎを受けた財産でもないから、これが教育財産に当たるということはできないというべきであり、したがつて、委員会は本件敷地を管理する権限を有するものではない。この場合、教育長に対する事務委任規則(甲二三〇号証)一条四号の規定によれば、委員会は、教育機関の敷地の設定及び変更に関する事務の権限を教育長に委任することはできないとされているのであるから、教育長が本件移設についてこれを決定する権限を有するものではないといわざるをえない。翻つて考えると、委員会は、前記のとおり校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関する事務を行うものとされており、したがつて、校舎の建築及び配置の計画並びにその図面の作成等に関する事務を執行すべきものとされているのであつて、市長が委員会の右申出を受けて爾後の実施を担当するのであるから、このような事務分担の仕組みに徴すれば、乙一五号証は、委員会が市長に対し、本件移設計画に関する一般計画の提示及びこれにより将来学校敷地とされる部分の明示並びにその敷地の委員会への所管替えを申し出たものにすぎない書面であり、教育長の決裁行為は右申出に対する指揮監督権の行使であるとみるのが相当である。

(3) 以上によれば、本件財務会計行為は、市長の権限に属するものというべきであるから、委員会ないし教育長、教育委員がその権限を有するものではないというべきである。

(四) してみれば、第一審原告らの第一審被告中井を除くその余の被告らに対する四号前段の代位請求は、住民訴訟の類型に該当しない訴えとして、不適法なものである。

(五) そこで、第一審被告中井のした本件財務会計行為の違法性について判断するに、本件財務会計行為を違法とすべき本件売買、本件移設・再建及び本件貸与について、これが違憲・違法であるものということができないことは、前記のとおりであるから、結局、同被告に対する四号前段による代位請求も、その余の点を判断するまでもなく、理由がないというべきである。

三四号後段の請求について

1  第一審原告らは、第一審被告らが本件移設事業の計画、決定及び執行を共同意思のもとに実行したものであるところ、これらは、違憲・違法な本件売買、本件移設・再建及び本件貸与を目的としたものであるから、市に対する債務不履行(類似)ないしは不法行為に当たると主張するのである。しかしながら、委員会は、地方公共団体における一定の教育事務の執行機関として、地方公共団体の長の所轄の下に構成され、長とは別個独立の権限を有し、他方、右長は、予算執行の適正を期するため、委員会及び教育委員に対し、所管事務の報告を徴したり必要な措置を講ずべきことを求め、また、自己の権限に属する事務の一部を委任し又は補助執行させることができるが、それ以上に一般的に一方が他方を指揮監督する権限を有するものではないとされている(法一三八条の三第一、二項、同条の四、一八〇条の二、同条の八第一、二項、二二一条一項、二三八条の二第一、二項)。したがつて、重大かつ明白な違法事由があるなどの特段の事情がない限り、教育長及び教育委員は長に対して長の専権に属する事項につきその行為を防止ないし指示する権限ないし義務がなく、また、長は教育長及び教育委員に対して委員会の専権に属する事項につきその行為を防止ないし指示する権限ないし義務はないというべきである。前記のとおり、地方公共団体の長が教育事務に関する契約について議案を提出するとき及び教育機関の用に供するために財産を取得するときは、委員会の意見を聴かなければならないものとされており(地教行法二八条二項、二九条)、この場合、教育行政の円滑化のために両者は十分に協議を尽したうえで長において適正に権限を行使すべきことが必要とされるが、右各規定は教育行政上の配慮に基づく調整規定にすぎないのであるから、これらによつて長と教育長・教育委員とが相互にその専権に属する事務につきその権限の適正な行使を指示し又は違法な執行を防止すべき義務が生ずる理由はなく、右のような協議を尽したうえで長がその権限を行使したことをもつて、これが長、教育長及び教育委員の共同意思に基づく共同行為であるとみることはできないというべきである。

2  第一審原告らの、本件移設事業の計画、決定及び執行が本件売買、本件移設・再建及び本件貸与を目的とした不可分一体のものであるとして、これらが違憲・違法であるとの主張は、これを認めることができないことは前記のとおりであり、他に本件移設事業の計画、決定及び執行に重大かつ明白な違法事由があるとすべき根拠は見当たらない。

よつて、第一審原告らの四号後段の代位請求は、その余の点を判断するまでもなく、理由がない。

第七  第一審被告中井に対する本件各慰霊祭に関する損害賠償請求について

一訴えの適法性について

1  第一審原告らの第一審被告中井に対する本件各慰霊祭に関する損害賠償請求は、四号に基づいて市に代位して市の被った損害の賠償を求めるものであるが、市の同被告に対する損害賠償請求権の発生原因は、同被告が、本件各慰霊祭のために、(一) 市の財産を使用・消費し又はその管理を怠つたこと、(二) 職員の労務の提供、参列に関して給与を支払つたこと、(三) 教育長の参列に関して給与を過払いしたことを理由として、(1) 同被告は四号前段にいう「当該職員」に当たり、(2) 仮に、(一)につき同被告にその管理権限がないために「当該職員」に当たらず、また、(二)につき同被告の指揮命令ないし監督義務違背が法二四二条一項所定の財務会計上の行為に当たらないとしても、同被告が職員を指揮命令してこれらを実行させ又は監督義務を怠つたことによる市に対する損害賠償請求権の行使すなわち財産の管理を怠つているから、同被告は四号後段の「怠る事実に係る相手方」に当たる、というのである。

2 右訴えの適法性については、「当該職員」「怠る事実に係る相手方」の意義に関して前記第六の一の2、3の説示をここに引用し、この観点から以下に判断する。

二市の財産を本件各慰霊祭の開催準備又は挙行のために提供したことによる損害賠償責任

1  四号前段の請求について

(一) 第一審原告らは、まず、第一審被告中井が、市長として、その管理に属する請求原因三3(一)1(イ)ないし(ヘ)掲記の本件市財産、すなわち会議室、封筒、マイクロバス、乗用車及び事務用紙を本件各慰霊祭及びその準備のため、違法に自ら使用若しくは消費し又は他人に使用若しくは消費させたことを目して、右各財産の管理を怠つたとし、市に対して損害賠償義務がある、と主張するので判断する。

(二) 市財産規則(甲二二五号証)二条の二第一項の規定によれば、市の行政財産の管理は、その事務を所掌する主管課長が行うとされており、行政財産であることの明らかな市役所庁舎会議室については、市庁舎管理規則(慰乙五七号証の四)三条の規定により、総務部長の総轄のもとに各課の長が庁内取締事務をつかさどるとされているところ、箕面市事務分掌条例施行規則(昭和四九年四月一日箕面市規則第七号、慰乙五七号証の一)二条の規定によれば、右の主管課長は総務部庶務文書課長であることが認められる。してみれば、市長は、法一五三条一項に基づいて制定された市財産規則、市庁舎管理規則により、本件市財産の管理を行うことを総務部庶務文書課長に対して外部的に委任しているものと解するのが相当である。もつとも、市庁舎管理規則(慰乙五七号証の四)五条六号の規定によれば、集会等のため多数が庁舎を使用する場合には、あらかじめ市長の許可を受けなければならないとされているが、右は、外部委任した事務について、管理の適正な行使をはかるための市長の一般的な指揮・監督権限(法一三八条の二)に基づく規制措置の一方法を定めたにすぎないものというべきである。

(三) また、市会計規則(慰乙五七号証の三)の九九条、一〇一条の規定によれば、備品、消耗品及び材料等の物品は各課等の長が管理すべきものとされているところ、これを前記箕面市事務分掌条例施行規則二条の規定に照らし合わせれば、市長は、法一五三条一項に基づいて制定した市会計規則により、市所有の封筒、事務用紙、マイクロバスについては総務部庶務文書課長に、公用車については企画部秘書課長にそれぞれの管理をすることを外部的に委任しているものと認めることができる。

(四) 以上によれば、第一審原告らの主張する本件市財産の管理事務の執行権限は、主管の各課長に専属し、市長は自らこれを執行する権限を有しないものというべきであるから、市長が四号前段にいう「当該職員」に当たるものとすることはできないというほかなく、したがつて、市長たる第一審被告中井に右権限があることを前提とする第一審原告らの四号前段の請求は、その余の点を判断するまでもなく、不適法というほかない。

2  四号後段の請求について

(一) 第一審原告らは、前記のとおり、第一審被告中井が、関与することの違憲である本件各慰霊祭のために、本件市財産を管理する主管の各課長に対し指揮命令してこれを使用し又は使用させたものであり、少なくとも、職員に対してその管理につき指揮監督権限を適正に行使しなかつた債務不履行(類似)ないし不法行為の責任がある、と主張するのである。

(二) しかしながら、市の事務用紙、封筒は主管課長の管理にかかる消耗品であることが明らかであるところ、本件においては第一審原告らの主張によるとしてもそれがとりたてて多量のものとはいえないのであつて、このような物品について、市長が、その具体的な使途をあらかじめ知りながらこれを使用し又は消費することを容認したこと、又はその具体的な使途をあらかじめ知りうべきであつたにもかかわらずこれを放置したことを認めるに足る証拠はない。市長は、職員に対して一般的な指揮・監督権限を有することはいうまでもないが(法一三八条の二)、市会計規則(慰乙五七号証の三)一〇四条の規定によれば、消耗品は主管課長の管理のもとにあつて適正かつ効率的に使用されなければならないと定められているのであるから、個々の消耗品については主管課長が右規定の趣旨に従つて使用することはその裁量に任されているものというべきであつて、市長にはその用途を具体的に把握して指揮・監督権限を行使すべき義務があるものとすることはできないというべきである。

(三) また、本件のマイクロバス、乗用車については、その性質上、第三者にこれを貸与してその使用料を徴収することが予定されたものとは認められず、また、これらを本件各慰霊祭で使用中に他に公用のため代替車を必要とした等の特段の事情も窺われないから、その主張にかかる使用によつて市が得べかりし利益を喪失し或いは使用相当の損害を被つたものということはできず、また、その主張にかかる使用によつて金銭で評価するに足る損耗等の使用損害が生じたことを認めるに足る証拠はない。

(四) 以上によれば、第一審原告らの主張する本件市財産の使用に関する四号後段の請求は、市長の債務不履行(類似)ないし不法行為を認めることができず、又は、市の損害の発生を認めることができないから、理由がないというべきである。

3  よつて、本件市財産を本件各慰霊祭の開催準備又は挙行のために提供したことを理由とする第一審原告らの第一審被告中井に対する損害賠償請求は、失当として棄却すべきである。

三市の職員が本件各慰霊祭に関して労務提供をしたことによる損害賠償責任

1  第一審原告らは、本件各慰霊祭の開催準備、挙行のための事務に違法に従事し、或いはこれに参列した市の職員に対し、第一審被告中井が、右のために要した時間に相当する分の各給与の支出命令を発して給与を過払いし、その結果、市に対し、右過払分相当額の損害を与えた、或いは、違法な右業務に従事することを指揮命令し、又はこれを防止しうる権限と義務を有しながらこれを怠つたことによる市の第一審被告中井に対する損害賠償請求権の行使を怠つている、と主張する。

2  しかしながら、第一審原告らの主張する損害賠償請求権は、職員に対する給与の過払をいうものであるから、その職員各個人についてこれを特定したうえで給与額、労務ないし参列にあてた勤務時間を具体的に主張・立証しなければならないものというべきであるが、本件全証拠によつても、これを明らかにすることはできないから、右請求は失当として排斥を免れない。

四教育長の給与を過払いしたことによる市長の損害賠償責任

1  第一審原告らは、第一審被告中井が、市長として違法な支出命令を発し、本件各慰霊祭に少なくとも各一時間参列した第一審被告河野に対し、右参列に要した時間相当分の給与を過払いし、その結果、市に対し、右過払分相当の損害を与えた、と主張する。

(一) ところで、支出命令により給与の過払いがされたときは、市と当該職員との関係では、給与支払担当者が、給与支払義務の不存在を知りながら敢えて過払いした場合でない限り、市は、当該職員に対し、過払分の不当利得返還請求権を取得することになるので、このような場合に、市長に対し、右過払分につき、四号による損害賠償の代位請求をすることができるかどうかについて考える。

(二) 給与担当者は、給与の過払があつた場合の簡易確実な清算措置として、一定の要件のもとに、その職員の次期以降の給与から右過払分を差し引いてこれを相殺することができるとされているが(最高裁判所第一小法廷昭和四四年一二月一八日判決・民集二三巻一二号二四九五頁)、かような自治体内部の損害填補手段があるからといつて、その手段を尽しても損害が填補されない場合に限つて市長の違法な支出命令があつたことを理由とする損害賠償請求が許され、右のような手段を尽さない限り右請求は許されないとすべき理由はない。けだし、公金の違法な支出を原状に回復する責任は、最終的には、その支出によつて違法不当に利益を得た者が負うべきものであることは当然であるとしても、それは自治体内部の求償問題であるにすぎず、本件においては、第一審被告中井に対する損害賠償請求は市の被つた損害を補填することを目的とするものであるのに対し、第一審被告河野に対する不当利得返還請求は教育長たる同被告の得た不当な利得を正義公平の見地から剥奪することを目的とするものであつて、両者の要件及び効果を異にするのであるから、いずれかの請求が満足されない限り、右両請求が併存するものというべきだからである。

2  そこで、教育長が本件各慰霊祭に参列した時間相当分の給与に関する市長の支出命令が違法であるかどうかについて按ずるに、まず、基礎となる事実関係は、つぎのとおりである。

(一) <証拠>によれば、つぎの事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

(1) 昭和五一年慰霊祭

(イ) 区遺族会は、昭和五一年四月五日午前一〇時三〇分ころから午前一一時三〇分ころまで、本件忠魂碑前で、神式で、昭和五一年慰霊祭を挙行した。

(ロ) 本件忠魂碑正面の玉垣の内側には、中央部に籬(ヒモロギ・切紙をつけた榊を立てた木製のやぐらで、神が降下して宿る所を意味する。)が、その左右には幣旗が立てられ、各幣旗には神鏡と神剣が飾られた。神籬の前部には、白木の台と白布を被せた机で祭壇が設けられ、その上には、それぞれ神酒、餅、果物、野菜等の神饌が盛られた七基の三方が置かれた。玉垣の外側には、左右に一脚ずつ白布を被せた長机が置かれ、それぞれその上に数十本の玉串(榊の小枝に切紙をつけたもの)が載せられた。そして、祭壇に向つて、左右それぞれ八脚八列(合計一二八脚)の参列者用の折りたたみ椅子が並べられた。

(ハ) 主催者側として遺族会会長東山伊造、その他遺族会の役員及び会員が、来賓として市議会議長、市議会議員、社会福祉事務所所長泉道彦、市福祉部部長市尾某、各地区の自治会長、箕面市商工会会長、西小学校校長、第一審被告中井、同河野、亡佐佐木ら合計約一〇〇名がこれに参列した。なお、一般住民の参列はなかつた。

(ニ) 式は、神社神職が、神道祭司としての式服である衣冠束帯を着用して主宰された。まず、司会者が開会の辞に続いて「これより神事に入ります。」と告げ、神社神職が修祓の儀、降神の儀、献饌、祝詞奏上を神式によってとり行い、ひき続いて遺族会会長東山伊造が「慰霊の詞」を、第一審被告中井及び市議会議長岡田弥作が「追悼の辞」をそれぞれ本件忠魂碑に向つて読み上げた。その後、司会者が職名を呼び上げるのに応じて、参列者が順次、祭壇前に進み、神職から玉串を受け取つて本件忠魂碑に向つて二礼二拍手一礼し、玉串を祭壇に捧げた。そして、神社神職は、撤饌、昇神の儀を神式によつてとり行い、最後に、司会者が「これにて神事を終ります。」と告げ、更に、閉会の辞を述べて式を終えた。

(2) 昭和五二年慰霊祭

(イ) 区遺族会は、昭和五二年四月五日午前一〇時三〇分ころから午前一一時三〇分ころまで、本件忠魂碑前で、仏式で、昭和五二年慰霊祭を挙行した。

(ロ) 本件忠魂碑の碑石の下方には、戦没者の氏名を書き連ねた過去帳が立てかけられ、その正面の玉垣内側には、中央部に香炉が置かれ、その前部に、白布を被せられた祭壇が設けられ、その上に餅、果物、酒等の供物が盛られた数個の三方が置かれ、その左右に花が飾られた。玉垣には、幕が張られ、祭壇前には、昭和五一年慰霊祭とほぼ同様に参列者のための折りたたみ椅子が並べられた。

(ハ) 参列者は、昭和五一年慰霊祭のときと同様で、第一審被告河野を含め約一〇〇名であつた。

(ニ) 式は、曹洞宗永松寺住職八木朴道、浄土真宗本願寺派光明寺住職西澤龍雄ら計七名の僧侶が、式衣に五条袈裟を着用して主宰された。まず、司会者が、式次第に則つて開会の辞を述べ、その後、参列者一同が黙祷し、阿彌陀経等の読経、導師表白文の朗読、慰霊追悼文の朗読と続いた。そして、参列者一同が祭壇前で焼香を行い、最後に、司会者が閉会の辞を述べて式は終了した。

(3) 第一審被告河野の参列

第一審被告河野は、当時、教育委員兼教育長であつたが、他の来賓と同様に、市遺族会から教育長宛の「箕面地区戦没者慰霊祭について(ご案内)」と題する案内状の送付を受け、国の行つた戦争の犠牲者である戦没者や遺族に対し弔意、哀悼の意を表わすため、本件各慰霊祭に来賓として参列し、そのために各一時間以上の時間を要した。同被告は、昭和五一年慰霊祭では、玉串奉出奠の際、神前に進み出て本件忠魂碑に向つて二礼二拍手一礼して玉串を祭壇に捧げ、昭和五二年慰霊祭では祭壇前で焼香を行つた。そして、同被告は、右各参列に要した時間に相当する分の各給与の支払を受けた。

(二) 右認定事実によれば、区遺族会の主催した本件各慰霊祭については、昭和五一年は神職が神社神道固有の祭式に則り所定の服装・祭場・祭具をもつて、昭和五二年は僧侶が仏教固有の祭式により所定の服装・祭壇・祭具をもつて行われたものであるから、開閉会の辞、来賓追悼の辞が無宗教の形式で行われたからといつて、全体としては、それらが特定の宗教とかかわり合いをもつものであることは明らかであるといわなければならず、第一審被告河野は、区遺族会から教育長としてこれに参列することを要請されたため、教育長としてこれに参列し、市長がその参列に要した時間につき同被告に対して給与を支払つたものであるということができる。

3 第一審原告らは、宗教儀式である本件各慰霊祭に第一審被告河野の参列した所要時間につき市長が同被告に対してした給与支出が、憲法二〇条一項後段、三項、八九条の規定に違反する、と主張するので検討する。

(一)  宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、それが根本的には人間の問題を扱うものであるから、時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化及び民俗風習など広汎な部分で社会生活と接触することになり、日常的な現象が宗教的行動を構成する素材とされている場合が少なくない。そのため、国又は地方公共団体が、教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れず、国又は地方公共団体と宗教との完全な分離を実現することは、不可分一体となつた日常社会と宗教価値との関係を区分しようとするに等しく実際上不可能に近いものであつて、これらのことに憲法二〇条一項後段、同条三項、八九条のいわゆる政教分離の原則に基づく諸規定は、これらが信教の自由を直接に保障することを目的とするものでないことを併せ鑑みれば、右憲法の諸規定も国又は地方公共団体が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いの程度がわが国の社会的、文化的諸条件に照らし、国民の信教の自由を保障することを確保するという制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に限り、これを許さないとするものであると解するのが相当であり、したがつて、また、同法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉などになるような行為をいうものと解すべきである。してみれば、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない(最高裁判所大法廷昭和五二年七月一三日判決・民集三一巻四号五三三頁参照)。

(二)  右の観点から教育長たる第一審被告河野の本件各慰霊祭の参列についてみるに、つぎの事情が考慮されなければならない。

(1)  死者を追悼・慰霊することは、人類普遍の感情に基づくものであつて、祖先を崇拝し又は非業の死を遂げた者の霊を恐れることから生まれた民間習俗ないし宗教習俗であるが、その方法には、特定の宗教の儀礼によつて行われる場合と無宗教の形式による場合とがあり、死者の追悼・慰霊が特定の宗教儀礼を伴つて行われるときは、その儀式は、全体としては、単なる民間習俗ないし宗教習俗というにとどまらず、宗教的意義を有する宗教的活動であるとみる余地が生ずることを否定することができない。しかし、このような追悼・慰霊行為を単なる習俗とみるべきであるのか或いは宗教的活動として把握すべきであるのかを判断するにあたつては、その追悼・慰霊行為につき、前記(一)に掲げた諸般の事情だけでなく、その主催者がこれを行うに際して宗教儀礼を用いる意図・目的、その宗教儀礼の一般人に与える効果・影響等を考慮しなければならないものと思われる。そして、かかる宗教儀礼を伴つた死者の慰霊・顕彰行為に参列することを単なる習俗とみるべきか或いは宗教的活動として把握すべきかを判断するにあたつても、その参列行為につき、前記(一)に掲げた諸般の事情、特に、追悼・慰霊行為の主催者が参加者の参列を求める意図・目的、参加者の地位・資格及び参加の意図・目的、参列行為の一般人に与える効果・影響等を考慮しなければならないものと考えられる。けだし、わが国社会においては、古来異なる宗教伝統の存在が互に許容され、これらが重畳・併存してきていることは歴史上顕著な事実であつて、それ故に、多くの国民は本来の厳格な意味での宗教現象と類似の習俗的伝統を死者に対する慰霊・顕彰行為及びこれに参加する行為に採り入れることに寛容であるため、死者の慰霊・顕彰が宗教儀礼の形式を伴つた場合にも、その宗教儀礼及びこれに対する関与が直ちに宗教的意義をもつものと解することはできないからである。

(2)  戦没者に対する慰霊は、多くは後世直接これを追悼すべき子孫を有しない若年の死者を対象としていたから、その慰霊は特に念入りにしなければならないものと考えられてきたのであるが、わが国においては、敗戦前、戦没者を慰霊するため、忠魂碑の前で慰霊祭、追悼会、招魂祭が神式又は仏式或いは神仏両式併用ないしは混淆の方法で行われ、戦争が激化し、戦没者が増加した昭和一〇年代にはこれが特に盛大に催された。しかし、このような慰霊祭等は、主として、戦没者の出身地区において、在郷軍人会を中心に遺族、地元有力者、生徒・児童の参加のもとに、国のため地元のための死を媒介として共同体としての連帯組織を強めることに利用されてきたのであつて、本件の旧忠魂碑に関しても、戦前の昭和一〇年代の前半ころまでは、このような観点からその碑前で神仏両式混淆の方法で慰霊祭が行われていた。ところが、敗戦後は旧忠魂碑が再建されるまでの間は、慰霊祭は行われず、遺族会が英霊に対する顕彰を一つの活動目的として組織されて以後、各地区で慰霊祭を挙行するようになり、市遺族会においても区遺族会の主催で昭和三〇年ころから神式仏式隔年交替の方式で旧忠魂碑及び本件忠魂碑の前で慰霊祭を行うようになつた。

(3)  戦争によつて非業の最期を遂げた者のためにする慰霊祭は、本来、戦没者に追悼の誠をささげ、故人を偲ぶことを目的とする儀式であるにもかかわらず、わが国は、敗戦後いわゆる神道指令を受けて、戦死者、軍国主義者及び極端な国家主義者のための公葬、追悼会及び記念碑に関する通牒として「公葬等について」(乙二七号証)を発した際、その第一ないし第三項において、地方官衙及び地方公共団体と公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追悼会等)とのかかわり合いにつき、文民としての功労者、殉職者について、宗教的儀式を伴う慰霊祭等を地方公共団体が挙行することは不可、宗教的儀式を伴わない慰霊祭等を地方公共団体が挙行すること及び民間主催の葬儀・慰霊祭等(宗教的儀式を伴う場合も含む。)に際して官公吏が公の資格で列席し又は弔辞を読むことは可、民間主催の葬儀・慰霊祭等(宗教的儀式を伴う場合も含む。)に際し、地方公共団体がその施設を貸すことは原則として不可とされ(一、二項)、また、戦没者について、宗教的儀式を伴う慰霊祭等を地方公共団体が挙行すること、宗教的儀式を伴わない慰霊祭等を地方公共団体が挙行すること、民間主催の葬儀・慰霊祭等(宗教的儀式を伴う場合も含む。)に際し、官公吏が公の資格で列席し又は弔辞を読むこと及び民間主催の葬儀・慰霊祭等(宗教的儀式を伴う場合も含む。)に際し、地方公共団体がその施設を貸すことはいずれも不可とされた(三項)。しかし、その後の昭和二六年九月、「戦没者の葬祭などについて」(乙二七号証)により、民主主義諸制度の確立による国内情勢の推移及び多数遺族の心情に鑑み、今後は、一般戦争犠牲者と合して葬祭などが行われる場合をも含み、個人又は民間団体が慰霊祭、葬儀などを行うに際し、知事、市町村長その他の公務員がこれに列席すること及びその際に敬弔の意を表し又は弔辞を読むことはさしつかえないと定め、ただし、信教の自由を尊重すること、特定の宗教に公の支援を与えて政教分離の方針に反する結果とならないこと、軍国主義的及び極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹にわたらないこと、並びに政治的運動に利用されないことについては、引き続き万全の注意を払うべき旨を通達した。

(4)  民間団体が主催する慰霊祭は、神式、仏式、キリスト教式等で行われることが少なくないが、原審証人甲斐直人の証言によれば、広島戦災供養会主催の原爆死没者供養行事には広島市長、広島市議会議長、広島市議会議員等が来賓で参列し、長崎原爆殉難者慰霊奉賛会主催の原爆犠牲者慰霊祭には長崎県知事、長崎市長が参列し、神奈川県戦役者慰霊堂奉賛会主催の神奈川県戦没者追悼奉賛行事には県議会議員等が参列していることが認められ、市町村においても、政府主催の全国戦没者追悼式が実施されて以後は、慰霊祭行事が復活し、学校、公園等公共施設ないし忠魂碑前で、地方の実情に合わせて宗教的儀式を伴い又は伴わないで戦没者のための慰霊祭が実施されるようになつた(<証拠>参照)。

(5)  本件各慰霊祭は、学校公園等の公共施設内で行われたものではなく、市遺族会が市から借用している本件敷地及びその使用を許諾された付随土地内で挙行されたものであるところ、教育長は、区遺族会から招待されたため、国の行つた戦争の犠牲者である戦没者に対して哀悼の意を表する目的で参列したが、単に参列者の一員として一同とともに玉串奉奠、焼香をしたにとどまり、来賓の挨拶、慰霊・追悼文の朗読をしなかつた。

(三)  右(一)、(二)の観点から、慰霊祭をめぐる諸事情(第四の一の1の(一)の(5)、同(三)の(4)の(ニ))及び遺族会の性格(第四の一の2)並びに本件各慰霊祭の実施状況(第七の四の2)に照らして第一審被告河野の本件各慰霊祭への参列行為の性格を考察すると、以下のとおりである。

(1)  非業の死を遂げた者に対する追悼・慰霊を行うことは人間の心情の自然の発露であるが、わが国における戦没者慰霊は、敗戦直後の一時期、超国家主義、極端な軍国主義を排する目的で発せられたいわゆる神道指令を受けて、その実施が制限されたことがあつた。しかし、その後遺族会を中心とした戦没者の慰霊・顕彰事業が国及び地方公共団体の遺族援護行政のもとにおいて活発となるにつれ、慰霊祭は、相応に荘厳な雰囲気を現出するために単一又は複数の宗教の方式による儀式を通じて実施され、公共用地に建立された忠魂碑、慰霊碑等の戦没者を慰霊・顕彰する碑の前で行われてきたのであつて、本件各慰霊祭も区遺族会によつてこのようなものと趣旨を同じく専ら戦没者を慰霊・顕彰するという民間習俗・社会儀礼的意義を明示する目的で挙行されたものである。主催者たる区遺族会は、本件慰霊祭に地域の公人たる市長、教育長等の参列を求めることにより、その慰霊・顕彰事業に社会的意義・共感が発揚されることを期待しているものであると解することができる。民間団体の主催する宗教的儀式を伴う慰霊祭に地域の公人が参列する例は少なくないが、いずれも慰霊事業の社会的意義に鑑みて社会的儀礼として行われているものとみることができる。第一審被告河野は、教育長として、かかる事業の一環としての本件各慰霊祭に参列することを求められ、社会的儀礼としてこれに応じ、その範囲内の行為として玉串をささげ、焼香をしたものというべきである。

(2)  右によれば、第一審被告河野が教育長として本件各慰霊祭に参列した行為は、その目的及び効果からみて信教の自由を制度的に保障すべき相当の限度を越えたものと解することはできないから、これが憲法二〇条一項後段、八九条に違反するものとすることはできず、また、その目的が宗教的意義をもち、かつ、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉になるような行為であるということはできないから、憲法二〇条三項にいう宗教的活動にも該当しないというべきである。

(四)  もつとも、第一審被告河野は、本件各慰霊祭が宗教的儀式を伴うものであることからしてその参列を職務命令をもつて強制されるいわれはないのであつて、このことは、個人の信教の自由を保障した憲法二〇条二項の規定に照らし多言を要しないところであるが、公務員が任意に自発的にこれに参加して参列・玉串奉納・焼香を行うことは、参列者の意思・地位・職務権限、参列の社会的意義等諸般の事情を考慮して、職務行為又は職務に関する儀礼的行為であると認められる場合には、これが公的行為であつて、給与支給の対象となるものと解するのが相当である。本件においては、前記のとおり、第一審被告河野の本件各慰霊祭への参列が教育長の区遺族会に対する社会的儀礼行為として相当性を有するものということができるから、市長が同被告に対しその参列に要した時間分の給与を支払つたことが過払であるとか違法な支出に当たるものであるということはできない。

4  第一審原告らは、本件各慰霊祭が違憲の存在である本件忠魂碑を祭祀の中心とするものであるから、憲法前文一項、一条、九条及び一一条ないし一四条等に違反する旨を主張するが、前述のとおり、本件忠魂碑が違憲のものであるとする点において採用することができないから、失当である。

5  以上のとおりであるから、第一審原告らの、教育長の給与の過払による市長の損害賠償責任をいう主張は、理由がない。

第八  本件教育財産の提供による亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同橋本、同河野に対する損害賠償請求について

一第一審原告らは、本件教育財産すなわち校長室、便所、椅子及び机などの備品の管理権限は市の委員会にあり、委員会が、これを本件各慰霊祭のために違法に使用させ、或いは、西小学校校長がその専決権に基づいて使用させたり使用の許可をしたことを委員会が放任したとし、これは、委員会を構成する委員である右被告らが、各自、本件教育財産に対する管理を怠つたことになるから、これにより市に対して損害賠償義務がある、と主張する。

二そこで、本件教育財産の管理権限について判断する。

1  法一四九条六号の規定によれば、地方公共団体の長は財産を管理する権限を有するものとされているが、地教行法二三条二号によると、市立学校の施設・設備その他の教育財産については、長の管理権を排除して、委員会が管理し執行するものと定められている。そして、同法一四条一項、三三条一項の規定に基づき制定された教育委員会規則である教育長に対する事務委任規則(甲二三〇号証)一条七号によれば、取得及び処分以外の教育財産の管理については教育長に委任されているのであり、また、同じく教育委員会規則である市学校管理規則(慰乙五八号証)九条は、「学校の施設及び設備の貸与は、校長の意見をきき教育委員会が許可する。ただし、定例軽易な事項については、校長が許可することができる。」と規定している。これらの規定に徴すれば、委員会は、教育財産の管理行為のうち、市立の小、中学校の施設及び設備の貸与以外の行為については、教育長にこれを委任し、右の施設及び設備の貸与については、特に「定例軽易」な貸与に限つて、委員会がこれを直接校長に委任する趣旨であると解するのが相当である。

2  第一審原告らは、委員会がその権限の一部を、教育長を経由せず、校長に直接委任することはできないと主張するが、委員会は、教育委員会規則で定めるところにより、その権限に属する事務の一部を教育長に委任することができ(地教行法二六条一項)、教育長は、更にこのように委任された事務の一部をその委員会の所管に属する学校その他の教育機関の職員に委任することができるのであるから(同条二項)、委員会が教育財産の定例軽易な貸付の権限をその所管に属する学校の長に委任することは、委員会がその権限の一部につき校長に復委任することに限定してこれを教育長に委任することと同視することができるのであつて、かかる限定委任が許されないと解さなければならない合理的理由はない。また、貸与の権限の基準となる定例軽易な貸付とは、教育財産を貸し付けること自体が慣例として行われており、かつ、貸付の目的物・期間・使用方法等によつて受ける負担が軽微なものであることをいうものと解するのが相当であるから、「定例軽易」であるかどうかは社会通念によつて具体的に判断しうる概念であるということができ、したがつて、右委任が法令の根拠によらないでその権限を他の機関に委任したものであるということはできない。

3  ところで、原審証人看舎利治の証言によると、本件教育財産を本件各慰霊祭のために使用することの許可決定をしたのは、いずれも当時の西小学校校長であつて、委員会ではなかつたこと、昭和五二年慰霊祭については、当時の西小学校校長看舎利治は、本件忠魂碑に関する訴訟が係属したことを配慮して、市遺族会からの借用方申出があつたことを委員会に連絡したところ、委員会から市学校管理規則九条に則つて処理することを指示されたため、同校長の判断に基づき使用許可決定がされたこと、西小学校においては、子供会、自治会、消防団、農業協同組合及び民間会社等から机等の貸出を申し込まれた場合、これに応じることが慣例となつていたこと、市遺族会は、本件各慰霊祭の挙行以前においても、箕面小学校から同校のパイプ椅子等を校長の許可を得て借り受けていたこと、以上の事実を認めることができる。他方、<証拠>によれば、本件教育財産の使用方法が社会通念上特に損傷、消耗を考慮すべき必要があるものであつたとはいいがたいのであるから、これらの貸付による負担は軽微なものであつたということができる。

4  以上によれば、本件教育財産の市遺族会に対する貸与は、「定例軽易」な貸与に該当するものというべきであるから、西小学校校長が独自の権限でこれらを貸与することができるものといわなければならない。そうすると、西小学校校長が本件各慰霊祭のために市遺族会に対し本件教育財産を貸与したことは、その権限に基づくものであつて、委員会の権限に基づくものではないこととなるから、これが委員会の権限に基づくものであることを前提とする第一審原告らの主張は、失当であるというべきである。

三そこで、進んで、本件教育財産の貸与が憲法二〇条、八九条、学校教育法八五条、法二三七条二項に違反しており、委員会はこれを放任してその監督責任を怠つた旨の第一審原告らの主張について、以下に判断する。

1  市が区遺族会に対し、本件各慰霊祭において、西小学校の折りたたみ式椅子、折りたたみ式長机、移動式黒板(昭和五一年慰霊祭のみ)、校長室、便所、玄関前広場及び車寄せの使用を許可したことは、当事者間に争いがない。

2  ところで、前記のとおり、憲法二〇条一項後段、三項、八九条のいわゆる政教分離規定は、国又は地方公共団体が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いの程度がわが国の社会的、文化的諸条件に照らし、国民の信教の自由を保障することを確保するという制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に限り、これを許さないとするものであると解するのが相当であり、したがつて、また、同法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉などになるような行為をいうものと解すべきである。

これを本件についてみるに、前記のとおり、本件各慰霊祭は、区遺族会が専ら箕面地区の戦没者を慰霊・顕彰するという民間習俗・社会儀礼的意義を明示する目的で挙行されたものであり、また、本件教育財産は、いわゆる定例軽易な貸与の権限を有する西小学校校長が市学校管理規則九条に則つて子供会、自治会、消防団等に対し貸し付ける場合と同一の判断基準のもとに貸与されたものであつて、しかも、主催者たる区遺族会は憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」、同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」に当たらないのであるから、これらと本件各慰霊祭の慰霊顕彰事業としての社会的意義とを併せ鑑みれば、本件教育財産の貸与は、専らこれらの事業の主催者たる区遺族会に対する社会的儀礼として行われたものであり、一般にこれが宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉などになるような効果を有する行為であるとみる余地はないものといわなければならない。したがつて、本件教育財産の貸与が憲法二〇条、八九条に違反する旨の第一審原告らの主張は、理由がないというべきである。

3  もつとも、学校教育法八五条後段には、学校教育上支障のない限り学校の施設を社会教育その他公共のために利用させることができる旨が定められているので、その趣旨が、社会教育その他公共のための使用である場合に限つて、学校教育上の支障がないときは学校施設を使用させることができるとすることにあると解せられないでもない。しかしながら、国有行政財産の管理については、国有財産法一八条の規定により、その用途又は目的を妨げない限度においてその使用又は収益を許可することができるとされており、したがつて、国立学校の施設については同条の規定に基づいて目的外使用の許否が運用されるべきものであり、また、公有財産中の行政財産の管理については、法二三八条の四第四項の規定により、その用途又は目的を妨げない限度においてその使用を許可することができるとされており、したがつて、公立学校の施設についても同条の規定に基づいて目的外使用の許否が運用されるべきものであつて、これらの規定からみれば、学校施設の目的外使用に関しては他の行政財産と異なる特別の要件を付加すべきであるとする合理的理由はないから、学校教育法八五条後段の規定は、学校の施設の目的外使用を社会教育その他公共のために利用される場合にのみ限定した趣旨であると解するのは、相当でない。もつとも、学校施設は学校教育のために設けられたものであるから、学校施設に限つてみれば、法二三八条の四第四項にいう「その用途又は目的を妨げない限度」とは、学校教育上支障のない限度をいう趣旨に理解されるべきであつて、学校教育法八五条後段もその趣旨を定めたものということができる。しかして、学校教育上支障がないかどうかの判断は、使用許可を与えることによる学校教育の物理的支障の有無・程度、使用者の社会的評価及び使用目的、貸付による児童・生徒及び社会一般に与える影響・効果等を総合考慮して決定すべき性質のものであるから、その使用許可を与えるかどうかは、許可権限者の自由裁量に委ねられているものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、本件教育財産の貸与は、西小学校校長が市学校管理規則九条に則つてしたものであるから、その過程に違法があるものと解することはできず、他に右校長がその裁量権を逸脱して右貸与をしたものとすべき事実を認めることはできない。

したがつて、これが学校教育法八五条に違反するものとは認めがたいのであり、それ故、これが法二三七条二項に違反するものということもできない。

4  よつて、委員会が西小学校校長のした本件教育財産の貸与を知りながらこれを放任して監督責任を怠つたことをいう第一審原告らの主張は、採用することができない。

第九  教育長に対する監督についての亡佐佐木、第一審被告天野、同菅生、同橋本に対する損害賠償請求について

一第一審原告らは、右被告らが、委員会を構成し、教育長である第一審被告河野を監督する権限及び義務を有していたとして、同被告が、本件各慰霊祭に違法に参列したことにつき、違法に指揮命令をし又はその監督義務を怠り、その結果、同被告の右参列に要した時間分の給与を市に過払いさせ、右過払分相当額の損害を市に与えた、と主張する。

二しかしながら、教育長に対する本件各慰霊祭の参列に要した時間分の給与の支給は、適法であり、何ら過払となるものでないことは、第七で説示したとおりであるから、右主張は、その余の点を判断するまでもなく失当であるから、採用することができない。

第一〇  第一審被告河野に対する給与の過払分の不当利得返還請求について

右請求についても、その主張にかかる給与の過払が認められないこと第七で説示したとおりであるから、その余の点を判断するまでもなく理由がない。

第二 結論

よつて、(1)まず、第一審原告神坂哲の請求にかかる訴えはこれが当審に係属中の昭和六一年一月二一日同原告の死亡により終了したものであり、また、同原告を除くその余の第一審原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却すべきであり(なお、右棄却の趣旨は、上来の説示中訴えを不適法と判断した請求部分を排斥する趣旨も含むものである。)、これと一部異なる原判決は以下のとおり変更を免れない。すなわち、(イ) 昭和五七年(行コ)第二一、第二二、第二三号事件については、第一審被告市長、同中井、同河野の右第二一号事件控訴に基づき、原判決中、第一審原告神坂哲の請求に関する部分、同原告を除くその余の第一審原告らの第一審被告市長に対する請求に関する部分及び第一審被告中井、同河野に対する請求に関する同被告ら敗訴部分をいずれも取り消し、右第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの右各請求(ただし、第一審被告市長に対する請求についてはその予備的請求を含む。)を棄却し、また、第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの右第二二号事件控訴及び右第二三号事件附帯控訴はいずれも理由がないからこれを棄却すべきである。(ロ) つぎに、昭和五八年(行コ)第一三、第一四号事件については、第一審被告河野の第一四号事件控訴に基づき、原判決中、第一審原告神坂哲の請求に関する部分及び同原告を除くその余の第一審原告らの同被告に対する請求に関する同被告敗訴部分を取り消し、第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの同被告に対する請求を棄却し、第一審原告神坂哲を除くその余の第一審原告らの右第一三号事件控訴は理由がないからこれを棄却し、(ハ) 第一審原告神坂哲の請求にかかる本件訴えは前記のとおり死亡によつて終了したからその旨を宣言することとし、(2) 訴訟費用の負担につき、行訴法七条、民訴法九五条、九六条、八九条、九三条、九四条後段を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官今富滋 裁判官畑郁夫 裁判官遠藤賢治)

別紙物件目録

一 箕面市新稲四丁目九八〇番三

宅地 914.78平方メートル

二 右土地のうち、別紙図面イ、ロ、ハ、ニ、イを順次直線で結んだ範囲内の部分178.51平方メートル

三 箕面市新稲四丁目九八〇番一

宅地 5899.85平方メートル

(実測 7398.08平方メートル)

四 二記載の土地上にある忠魂碑と刻された碑(切石積、玉垣、樹木等の物件を含む。)

別紙図面<省略>

別紙(一)

第一 本件忠魂碑の宗教施設性と反憲法的性格

一 忠魂碑一般の起源と歴史

1 敗戦までの歴史と取扱い

(一) 戦没者碑一般とその一形態としての忠魂碑

忠魂碑は、戦没者碑の一形態である。それは、戦没者のための碑であるが、戦没者のための碑のすべてが忠魂碑ではない。戦没者碑は、その建立の時代、建立者の性格、建立の目的、建立場所の性格等、様々の要因によつて、その形態を変えてきた。忠魂碑は、敗戦までの約四〇年間をとつてみれば、戦没者碑の中で最も一般的な、最も数の多い形態であつた。

(二) 忠魂碑の起源

忠魂碑の文字を刻した戦没者碑は、西南の役(明治一〇年)の後、戦死者を祀るため、各地で建立されはじめた。建立された忠魂碑の前では、招魂祭が行われた。しかし、当時は、戦没者といつても内戦によるものであつたから、おのずとその総数も少なく、加えて、忠魂という用語自体もそれほど普及していなかつたため、戦没者碑を特に忠魂碑と銘するものは、多くはなかつた。戦没者碑を忠魂碑と銘することが一般化するのは、外国との戦争によつてかつてない多数の戦死者を出した日清、日露戦争後、特に日露戦争後のことである。この時代に入つて、忠魂碑は当初、地元有力者等が中心となつて建立されたが、明治四三年に在郷軍人会が組織されてからは、多くは、在郷軍人会の各分会が主体となつて、市町村単位に、市町村有地や神社境内に建立されていつた。

(三) 忠魂碑建立の目的

忠魂碑の建立目的に、地元出身の戦没者の多くが直系の子孫のない若者であつたから、後年無縁となることのないようにこれを祀ることが含まれていたことは事実である。しかし、より重要で核心的な建立目的は、招魂祭の例年執行である。村や部落単位で毎年忠魂碑による招魂祭を行い、靖国神社の祭神となつた戦没者の霊を慰め、その戦死を偉業として顕彰する儀式を繰り返すことによつて、天皇のため・国のために命を惜しまない軍人精神を教育することにあつた。このため、招魂祭の執行には、在郷軍人会が中心的な役割を果たし、それは同会の最重要の活動の一つであつた。そのような建立目的との関係で、忠魂碑に刻される文字は、多く、陸軍大将等の現役軍人が揮毫した。

(四) 靖国神社とのつながり

靖国神社は、明治二年に創建された東京招魂社がその前身である。東京招魂社は、明治一二年靖国神社と改められ、別格官幣社に列せられた。靖国神社は、明治維新前後からの戦没者の霊を祭神とし、これを合祀した。その霊璽(神体)は、神剣及び神鏡であるが、副霊璽は、合祀者の官位、姓名等を列記した霊璽簿である。東京招魂社が創建されたことにより、これにならつて、国難に殉じた人々の霊を祀る施設として、各藩により招魂場が建てられた。明治四年の廃藩置県によつて、これら招魂場は政府の管掌下におかれ、明治八年には招魂社と名称が統一された。九万という空前の戦没者の出た日露戦争後、全国各地で建立を競うように招魂社、忠魂碑が建てられた。招魂社は、ほぼ府県単位で、忠魂碑は、ほぼ市町村単位で建立された。明治政府は、これを民心の至情の現れだとして評価する一方、明治四〇年の「招魂社創建に関する件」と題する内務省神社局長内牒により、招魂社の設置基準を定め、祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加え、これら招魂社を政府の統制の下に置くことにし、その後各社に招魂社費が交付された。さらに、各招魂社は昭和一四年、護国神社と改称され、例祭、鎮座祭、合祀祭には神饌幣帛料が供進されることとなり、政府の統制下に完全に神社化された。このように、靖国神社と護国神社との系列化が進む中で、忠魂碑による招魂祭はますます盛んになつていつた。新しく建立される忠魂碑には鳥居を設けたり、参拝用の広場を設けたりする例が少なくなかつた。忠魂碑はいわば地域の靖国神社たる地位を占めるに至つた。このように、忠魂碑を参拝の対象とすることが一般化してくると、同碑の宗教施設性は誰の目にも顕著であつた。そこで、「神社は宗教にあらず。」との建前をとつていた内務省神社局は、右の神社行政上の立場から、神社と宗教との混同を避けるため、神社境内地に忠魂碑等参拝の目的となる碑を建設することを禁止する通牒を出さざるをえない位であつた。

(五) 忠霊塔との関係

軍は、昭和一四年七月七日、内閣総理大臣を名誉会長とし、菱刈隆陸軍大将を会長とし、各省大臣、陸軍大将、海軍大将等が役員として名を連らねた財団法人大日本忠霊顕彰会を発足させた。これは、戦地において軍によつて建てられ、遺骨等を納める墳墓としての性格をもつ忠霊塔と同様の碑を国内一市町村一基の割合で建設して、皇戦に殉じた戦死者の忠霊を顕彰しようとするもので、右忠霊塔は、戦没者の遺品等を収集、展示する施設を併置するものであつた。そして、同忠霊顕彰会は、各市町村に対し設計図等建設のための資料を交付し、資金の調達、労働力の提供について説き、忠魂碑に手を加え遺品等を納めることができるように整備して忠霊塔にすることなどを指導して忠霊塔の建設を勧奨した。忠魂塔は、戦没者の遺骨や遺品を納めるという点で墳墓の性格をも有しており、従前の忠魂碑とは異なる面がみられる。しかし、忠魂或いは忠霊を顕彰し、礼拝の対象にしようとする点で、靖国神社信仰そのものであり、両者に全く変わりがなかつた。その後、遺骨を納める扱いをした忠魂碑もみられるようになつたが、そのために忠魂碑が忠魂碑としての意義を失つたわけではない。

(六) 忠魂碑参拝を強制

昭和一〇年、内閣書記官長白根竹介は通達をもつて、「国体ノ本義ヲ明徴ニシ之ニ基キテ教育ノ刷新ト振作トヲ図」るため「忠魂碑参拝」を実施するよう学校長に強制した。そして、中国大陸での戦火が拡大し、国民生活も戦時色が濃くなるにつれ、中央における靖国神社や護国神社との祭祀が強化されるとともに、各地域の忠魂碑前での招魂祭もますます盛んに行われるようになつた。これら招魂祭は、例外なく軍将校、戦没者遺族らが参列するなかで毎年神式又は仏式で盛大に催され、軍国主義と皇国史観で教育された児量、生徒、地元民の多くが参拝した。

(七) 礼拝の対象物としての社会的機能の定着

以上のような経過の中で、忠魂碑は、天皇のために忠義を尽くして戦死し、靖国神社に祭神として祭られている戦没者を、地域において慰霊・顕彰するために建てられた石碑としての認識が広く一般に行きわたつた。忠魂碑という形態の戦没者碑は、特定の時期・場所における、特定の戦死を記念する碑というよりも、個性を奪われた地域出身の戦没者全員・忠魂を祀るという意味で、霊魂の内在を推知させる礼拝の対象としても機能する社会的存在となつた。

2 敗戦後の歴史と取扱い

(一) 敗戦直後

(1) 通牒・通達の解釈

昭和二〇年八月一五日、日本は連合軍に無条件降伏し、昭和六年九月一八日の満州事変開始以来太平洋戦争にいたるまでの一五年戦争は終結した。この戦争はアジアの民衆二〇〇〇万人に犠牲を強いた日本の侵略戦争であり、日本国民を戦争にかりたてアジア侵略を正当化したものは、天皇を神の子孫とし、天皇を親とし忠孝一本、忠君愛国の家族国家を構想し、このような神国思想を他民族に拡大・強要した八紘一宇の思想にほかならなかつた。これこそまさに祭政一致の国家神道であつた。戦後、このような認識と反省の上にたつて、日本国民の課題は、まず国家神道の打破でなければならず、占領軍の発した神道指令の主題もまさに国家神道の解体にあつた。それは特に国家と神社神道との分離であり、また神社神道と密接不可分であつた軍国主義及び極端な国家主義の否定である。かくて、昭和二〇年一二月一五日、神道指令が発せられ、その一項(ル)号において、国家神道の物的象徴と国家との分離が厳命された。右指令を受けて一一か月後の昭和二一年一一月一日には、政教分離の見地から、「公葬等について」の内務・文部次官通牒が発せられ、その第四項で忠霊塔、忠魂碑等の措置が命ぜられた。その取扱いの内容は左のとおりである。<編注・左表>

所在場所

建設予定

建設中

現存

学校、その構内

中止

中止・撤去

撤去

公共の建造物、

その構内、

公共用地

中止

中止・撤去

明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の

宣伝鼓吹を目的とするものにつき撤去

所在場所

天皇・国民・諸島の優越性、

武力行使讃美の教義

単に、忠霊塔、忠魂碑等を示すに止るもの

学校等

撤去

撤去

公共の建造物等

撤去

原則として撤去不要

続いて右通牒の二六日後、「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」の内務省警保局長通達で、前記「現存」するものについての通牒解釈の具体化が示された。その内容は左のとおりである。<編注・下表>

右通達によると、学校・学校の構内及び構内に準ずる場所以外の公共の建造物、その構内、又は公共地に「現存」する場合、単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者のための碑であることを示すに止るものは原則として撤去の必要はない、とされた。しかし、ここから、公共の建造物等に存する単に忠魂碑等と刻した碑の撤去を免れたのは、宗教施設でもまた軍国主義的或いは極端な国家主義的碑でもないからだと論結する論理展開には、基本的な誤りがある。まず、この論理展開は、右通牒、通達が指示する八場面のうちわずか一場面の事例を取りだし、それを根拠に忠魂碑の全体的性格をきめつけている点にある。もし、単に忠魂碑と刻した碑は宗教施設でも軍国主義的碑でもない(無害である)という論法でいくのであれば、なぜ学校構内において建設予定のものが許されないのか、また、建設中のものの続行がなぜ許されないのか、さらに現存のものもなぜ存続が許されないのか、全く説明に窮する。第一審被告らは、たとえそれが軍国主義等を宣伝鼓吹するものではなくても、戦後間もない時期においては教育の場からはこれらを一切除去するのが望ましいと考えたからであろうとするが、一切除去が望ましいとする根拠は、まさに政教分離原則であり軍国主義排除の趣旨において他にはない。更に、公共の建造物等においてなぜ建設予定の単に忠魂碑と刻した碑がその建設を許されないのか、また、建設中のものがなぜその続行を許されないのか、ここでも全く説明に窮するのである。

神道指令、「公葬等について」等の通牒、通達を全体として考察すれば、忠魂碑の敗戦前の実態を踏まえて、これが参拝の対象となつた宗教施設であり、また軍国主義の施設と認識されていたことは明らかである。学校以外の公共の建造物等において、現存という一点に限つて、単に忠魂碑を示すに止まるものが撤去を免れるとする右内務省警保局長通達の意味があまり明らかではないが、二方面から解明できる。第一に右通達の明文には、撤去の措置しかうたつていないが、昭和五八年(行コ)第二一ないし第二三号事件甲(以下「甲」という。乙も同じ。)二〇一号証から明らかなように、模様替えという明文にはない措置も予定されていたのである。これは敗戦直後の日本側の疲弊、すなわち、人手不足、撤去(除去・移転)費用不足という理由によつて、学校以上の公共地では模様替えという次善の策で許容されたことを意味する。しかし、この現存する忠魂碑の模様替えによつて、あくまで政教分離、軍国主義除去の趣旨は貫徹されていたのであり、その事後チェックが甲二〇一号証の通知なのである。他方、第二に、学校においては忠魂碑等の全面撤去を指示され、それ以外の公共地では模様替え程度の措置で許された背景には、日本側の官僚の抵抗、及びGHQ側の深謀遠慮があつたことも見逃せない。右通牒・通達ともに内務省が関与しているが、同省がGHQの民主化政策に陰に陽に抵抗したことがつとに指摘されており(甲三三二号証)、かかる保守官僚の抵抗によつて、公共地における忠魂碑等の温存が画策されたことは想像にかたくない。日本側の引揚援護庁復員局は旧軍人のいわばかくれみのとなり、日本再軍備の温床となつた。GHQ参謀二局の意向を受けたこの復員局が公葬等について関与していたのであり、将来にわたる軍備計画、軍人復活、更に戦没者の復権・顕彰をにらんで、学校以外の公共地における忠魂碑等の撤去までは断行させなかつた背景が存在したとすることは、容易にうなずけるところである。右内務省警保局長通達の背景はともあれ、法理的には、学校以外の公共地における忠魂碑等の模様替えという措置によつて、政教分離、軍国主義排除の趣旨は貫徹されていたのである。

(2) 日本国憲法下での行政解釈

憲法が、このような神道指令の趣旨をうけて、基本原則である主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重に加え、政教分離原則(二〇条、八九条)をうたつたことは、天皇制を宗教的に基礎づけ、滅私奉公、忠君愛国を強制した国家神道体制を全く否定するものであつた。新憲法下においても、忠魂碑は明らかに宗教施設ないし軍国主義的施設として認識、解釈され、公共施設との結びつきを否定されてきており、これは昭和二六年九月八日のいわゆる講和条約締結後も全く変つていない。すなわち、

①昭和二七年六月一八日初等中等教育局長回答「公立小学校校地内の忠魂碑建立について」において、公立の学校内に忠魂碑等を建立することは、信教の自由や、政教分離を規定する憲法や地方自治法の精神に反するおそれもあり、あるいはその本来の趣旨を誤解される場合も考えられますので、これを校地内に建立することは避けたほうがよい、と明確に回答を与えていた(甲四三三号証)。

②また、昭和二七年一〇月一三日文部省調査局長回答「戦没者の葬祭などについて」において、公共団体が公共のための功労者、殉職者(戦没者を含む)等を記念する碑像等を建設することは一般的にさしつかえないが、公立学校の校地に建設される場合は教育上の見地から判断されなければならない、なお、忠魂、忠霊等の文字は避けられたい、と明確に忠魂碑を一般の記念碑と区別し、公共団体がする建立を否定した(甲一四二号証)。

③さらに、同年一一月六日文部省調査局長回答「昭和二七年法律第八六号について」の中で、公共団体が公の功労者殉職者(戦没者を含む)等を記念する碑、像、塔等の建設を行うことは、それが特定の宗教施設でない限りさしつかえないが、忠霊、忠魂の文字は用いないことが望ましい、との解釈をしていた(甲四三三号証)。

(3) まとめ

こうして、敗戦直後にあつては、法制上も実態的にも、忠魂碑は、宗教施設であり、また軍国主義的教化施設として公とのかかわりを否定された。新憲法もその趣旨に沿つて政教分離原則が樹立され、公的解釈は忠魂碑と国・地方公共団体とのかかわりを明確に否定した。

(二) 再軍備以後現在まで

昭和二五年六月二五日朝鮮戦争勃発後、日本における占領政策は大きく変り、同年七月二四日レッドパージ、八月一〇日警察予備隊が発足して、日本国憲法を空洞化させる再軍備右傾化の方針が打ち出された。翌昭和二六年九月八日対日講和条約調印と同時に日米安全保障条約の調印がなされ(いわゆる単独講和)、昭和二七年七月三一日保安隊の発足、昭和二八年八月一日には恩給法改正による軍人恩給が復活、同年一〇月二日には日本再軍備・アメリカの対日援助について池田・ロバートソン会談が行なわれた。その中で「愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長する」ことで日米の意思が確認され、昭和二九年六月九日には警察とは異なる事実上の軍隊である自衛隊の発足という矢つぎ早の日本再軍備、憲法の空洞化、反動化が押しすすめられた。また他方、これらの動きに連動して戦没者に対する慰霊・顕彰の動きも活発となり、昭和二七年一一月一六日には、日本遺族会の前身である日本遺族厚生連盟が靖国神社の慰霊行事に対する国費支出を決議し、昭和二八年一二月八日には日本遺族会が靖国神社祭祀費用国家負担を決議し政府に圧力をかける動きが出てきた(甲四三五号証)。このような政治的、社会的反動化の動きの中で忠魂碑が息を吹きかえし、再登場してきたのである。たとえば、昭和二八年八月建立の東海村における忠魂碑についてみると、右碑文作成者の徳富蘇峰は、天皇主義・国家主義者であり、右碑文では、一五年戦争を日本軍による侵略戦争とは全く見ず、アジアの解放と位置付け、戦争讃美の思想に貫かれ、同碑を仰いだ者をして、君国のためにあとにつづけと鼓舞する目的で建てられたことを明白にうたつており、忠魂碑の軍国主義的性格が最も鮮明にあらわれている。また、昭和五七年三月二四日本件忠魂碑違憲訴訟事件(大阪地裁昭和五一年(行ウ)第九号)の第一審判決以後、靖国神社国家護持、公式参拝実現、英霊顕彰運動を画策してきた日本遺族会は、昭和五七年六月二八日忠魂碑護持と参拝を推進すべく、各支部に対し、天皇のために死んだ「英霊」を顕彰する目的で戦前全国各地に建てられた忠魂碑、忠霊塔の初の大掛かりな実態調査を要請し、テコ入れを行つた。このように、靖国神社国家護持、英霊顕彰を推進する宗教団体たる日本遺族会が、忠魂碑を市町村レベルでの慰霊行事の中心と位置付け、画策していることは、まさに忠魂碑が戦前と同じく「村の靖国」としての存在であり、宗教施設であることを如実に示している。

(三) まとめ

こうして、敗戦前の忠魂碑の実態的検証を踏まえ、さらに戦後の忠魂碑の行政上の取扱いおよび実態を考察すれば、忠魂碑が、天皇のため戦死した(殺された他民族の死を一顧だにしない)人間を、忠魂として讃えこれを神として祀り、後に続くものに忠君愛国の精神を鼓舞する宗教施設であり、また軍国主義教化施設であることに一点の疑いの余地がないということがますます明確にされたのである。

二 本件忠魂碑の歴史と慰霊祭の実施状況

1 本件忠魂碑の敗戦までの歴史

(一) 建立

本件移設・再建前の旧忠魂碑は、大正五年ころ、当時の箕面村の有志によつて建立された。碑の表面の忠魂碑の文字は、当時の在郷軍人会副会長福島安正陸軍大将が揮毫したものである。同年四月、分会が、箕面村に対し、忠魂碑建立の目的で豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番の二のうち四九坪(161.98平方メートル)の無償貸付を申し入れた記録が残されているが、この申し入れを許可した記録は存在しない。なお、同土地と旧敷地とが同一の土地であるかどうかは、現在でも不明である(乙一号証)。

(二) 神式・仏式交替による慰霊祭

旧忠魂碑の前で、日中戦争が始まつたころまで、神式と仏式隔年交替で在郷軍人会主催の慰霊祭が毎年催された。その後は、戦争が激しくなつてその余裕がなかつた。旧忠魂碑は、箕面小学校の校庭の一隅にあり、同小学校の児童は昭和二〇年八月の敗戦まで、登下校時にその前を通るときにはこれに拝礼するように教育された。

2 敗戦直後における廃棄と再建、慰霊祭の例年執行

箕面村会は、昭和二二年三月二五日、旧敷地上の旧忠魂碑を撤去するための予算を議決し、同予算は同村長により執行され、碑石は埋土された。しかるに、いつの頃か、廃棄されたはずの同碑の碑石が掘り出され、旧忠魂碑が箕面小学校校庭内の元の位置に再建された。この再建を行つた者が誰であるのか、その費用を負担した者が誰であるのか、今もつて明らかでない。市遺族会が結成されてからは、旧忠魂碑の前で毎年一回、同会の主催で箕面地区の戦没者慰霊祭が、神式と仏式隔年交替で行われてきた。

三 宗教施設の要件と概念

1 政教分離原則適用上の宗教施設の概念

憲法上の政教分離原則によつて国又は地方公共団体が、その建設や維持確保のために公の財産を提供するなど(敷地及び建設費の供与等)の関与を禁じられている宗教施設の概念として、原判決は、宗教上の行為に利用されているという客観的事実(行為)と、宗教上の行為に利用されることを目的として設置されたものであるという主観的事実(目的)との両側面を問題としている。しかし、実際には、宗教上の行為に利用されることを目的として設置されたものであることをもつて、その要件としては必要十分である。なぜならば、政教分離原則をゆるやかに解釈適用する目的・効果基準に従うとしても、宗教上の行為に利用されることを目的として設置される施設を建設し、そのような目的で建設されたものを維持保存することは、その目的が宗教的意義を有することはもちろん、その効果も宗教を援助・助長・促進するものであることをなに人も否定できないからである。他にそうしなければならない特段の理由の認められない限り、このような施設の建設・維持保存に公金を支出し、公の財産を供用することは、憲法違反の行為として禁止の対象となる。

したがつて、政教分離原則適用上の宗教施設の概念規定としては、宗教上の行為に利用されることを目的として設置された施設、と定義すれば必要十分であり、これは、宗教施設の必要十分条件としての基本的要素ということができる。それが現在も宗教上の行為に利用される結果を伴うものであるときは、宗教を援助・助長・促進する効果が顕著で、継続的であるという点で、宗教上の行為に利用されることは宗教施設の付加的要素であるが、必要的要件ではない。宗教施設の要件をこのように考えることにより、寺院の鐘楼・山門・燈籠等や、神社の鳥居・玉垣・狛犬等のように、直接宗教的礼拝の対象とはなつていないが、宗教的礼拝の用に供されている周辺的施設を過不足なく捉えることができる。

2 原判決の使用した宗教施設概念

原判決は、本件忠魂碑の宗教施設性について、二重の概念規定を行つており、宗教上の行為に利用される物件という意味の宗教施設の概念の中に、礼拝の対象物の概念を位置づけている。すなわち原判決は、宗教施設の概念を、宗教上の行為に利用される物件と規定したうえ、本件忠魂碑はこれに当たると認定し、更に礼拝の対象物としての宗教的性格を有することも付加的に認定している。ところで、1で抽出したとおり、宗教上の行為に利用されることを目的として設置された施設であるということだけで、宗教施設の要件としては必要十分である。これに照らせば、原判決が、宗教上の行為に利用されることを目的として設置されたという要素に加えて、現に宗教上の行為に利用されているという要素をも併せて認定したうえで論定した、宗教上の行為に利用されている物件という意味での宗教施設の概念は、政教分離原則適用上何ら不足はなくむしろ十分すぎる位であつて、きわめて正当な定義であるというべきである。原判決が、礼拝の対象物の概念をも用いているのは、本件忠魂碑が、右宗教上の行為に利用される宗教施設の付加的十分概念に加えて、宗教施設の中でもさらに宗教性が顕著で中核的な礼拝の対象としての特性を有していることを付加的に認定したものにすぎず、礼拝の対象でなければ宗教施設ではないとした趣旨でないことは、もはや明らかであろう。

四 神仏交替の慰霊祭の宗教性

1 神式・仏式隔年交替

第一審被告らは、本件忠魂碑前での慰霊祭は、毎年神式と仏式との隔年交替で執行されており、特定の宗教に基づくものではないから、宗教性がないと主張している。しかし、靖国神社の祭神たる戦没者の慰霊の儀式が、それが招魂祭と呼ばれた時代から神仏併用で、或いは神仏混用でとり行われてきたことは歴史的事実であつて、御霊信仰の系譜をひく靖国神社信仰の特徴の表れにすぎない。本件各慰霊祭が神仏隔年交替で執行されてきたのも、同様の理由に基づく。それは、市遺族会の会員が、一人の例外もなく神道の崇敬者か仏教の信者かであつて、キリスト教の信者も無宗教者もいないから、そうしているというようなものではない。市遺族会主催の本件忠魂碑による毎年の慰霊祭が、神仏交替で行われてきたのは、戦前からの神仏併用或いは神仏混用という招魂祭に固有の祭祀形式を踏襲したものであり、まさにこの形式こそは招魂祭という靖国神社信仰の宗教行為の特質を表現するものである。

2 招魂祭の形式

国家神道における靖国神社祭祀の特質は、御霊信仰の系譜を引く招魂祭を中軸として成立した点にあつた。御霊信仰の祭祀はもともと御霊会という仏教的な宗教儀式にその起源を有している。その後、明治維新政府のとつた神仏分離政策によつて、祇園も北野も仏教色を一掃して神社神道の体系のなかに組みこまれ、伝統的な御霊会もまた国家神道祭祀として儀式化された。後記第二のとおり、靖国神社の招魂祭祭式は国家神道の体系の一環として人工的に創出されたものであり、当初から神道の祭式としての形式を整えていつた。しかし、新しく創出された神道式の祭式は、必ずしも、民衆の受けいれるところとはならなかつた。民衆は、長く民間信仰としての御霊信仰の伝統になじんでおり、それは前記のとおりむしろ仏教として説かれ、司式されてきたからである。このため、戦場で戦死した戦没者の同僚たる兵士の前で行われる招魂祭或いは郷士出身の身近な戦没者のため地方の忠魂碑前で行われる招魂祭等の場合は、往々にして神仏の混用或いは併用で祭祀が執行された。これらの場合に、公式にはまず国家宗教である神式で招魂祭を終え、次いで民衆向けに仏教による祭祀を行い、個人の霊魂救済については仏教式でなければ満足しない民衆の要求に応えるという例も少なくなかつた。ただ、さすがに靖国神社の招魂場における招魂祭だけは、民衆の心理とは別に、純粋に神道式で行われてきた。

3 神仏併用・混用の特徴

このように、招魂祭そのものが、本来、神仏併用ないしは混用の宗教儀式として成立したものである。今日でも、忠魂碑を靖国神社の招魂場に見たてての招魂祭が民衆の参列を得て行われるとき、これらの民衆を満足させるために、神仏を連続・併用して慰霊祭を行い、或いは両者を同時に混用して執行し、又は隔年交替で併用するなどの形式をとることは、むしろ常態であるといつてよい。そのことによつて、忠魂碑が神道という特定宗教に属する靖国神社の教義に基づく宗教施設としての性格を失うわけのものではない。かえつて、それは靖国神社教義の本質をしめすものである、とすらいうことができる。

4 まとめ

以上のとおりであるから、本件忠魂碑前での慰霊祭が、たとえ神仏隔年交替で行われていたとしても、それは、決して靖国神社信仰とは無縁の非宗教的性格を示すものではなく、靖国神社信仰の起源が御霊信仰に求められるという、歴史的事情を反映しているにすぎない。それは、かえつて、民衆との接点を仏教的要素に依存せざるをえない靖国神社信仰の宗教的特質を示すものとすら断定できるのである。

五 本件忠魂碑の反憲法的性格

1 本件忠魂碑の思想表現の特質・強度

(一) 思想表現形式としての忠魂碑

碑は、後世に伝えるために、石に文を刻んで建てたものであり、「いしぶみ」又は「たていし」と訓む。「いしぶみ」は碑の文を刻んで後世に伝える目的的機能的側面を、「たていし」は碑の石に刻んで建てる物理的形態的側面を、それぞれ表している。このような「建碑」現象を人間の社会的行為として捉えるとき、碑は、文字を刻んだ石造物を野外に建造するという方法による思想表現の一形式であるということができる。表現形式として碑の方法は、第一に土地の工作物という場所的な固定性によつて地域性又は地縁性があり、第二に石造という材質によつて巨大かつ耐久的な野外建造物を可能にする、という特性をもつ。碑の方法のこれらの特性は、その所在場所に地縁的に関連する事件又は人物等の事績を記念しこれを永く広く世に宣布伝承する目的で広場に高く大きく建てられるモニュメントにとつての基本的な適性である。この特性ゆえに碑の多くが記念の目的で建てられ又は事実上モニュメントとして機能しており、現代において碑はほとんど記念碑と同義語化している。忠魂碑が、一般に、宗教的性格のみならず右のような意味におけるモニュメントの性格をもつものであることは疑いを容れない。

モニュメントには、記念しようとする思想を、文字をもつて表す記念碑と、彫塑像等の造形的方法をもつて表す記念像、記念門、その他の記念建造物とがある。もとより、碑においてもその碑石、基壇等に彫刻その他の造形をこらすものがあり、むしろ碑の構造全体が一個の美的なまとまりをもつ造形物である。しかし碑の思想の中核となつているのは、文字による言語的表現(碑銘、碑文または題号)の部分であつて、造形的表現は、その思想を効果的に強調するための額縁として、補助的役割を担つている。この意味で碑は、言語を主格とし造形を補格としてこれらが結合した表現形式である。

ところで、碑のモニュメントとしての目的及び機能は、その物理的全体構造、形態的側面により支えられている。モニュメントは、ある事績を記念し顕彰しようとする一定の思想を世間公衆に広く永く宣布伝承しようとする目的をもつて建造される。その表現は、直接に現在及び未来の社会大衆に向けられており、これを積極的に教化しようとする意欲をその動機としている。このように自らを永遠の社会教化施設たらしめようとすることがモニュメントにおける表現の特質である。そのような機能をモニュメントがもつためには、公衆がこれを展観することのできる広場が必要であり、それにふさわしい環境と背景と日常的に多衆がここに集まり通過する立地とが必要であり、モニュメント自体がこれに調和しながら自らを主張して十分に目立つ必要がある。そのために風雪に耐える堅固な材質と高く力強いデザインを必要とする。

(二) 本件忠魂碑の全体構造

本件忠魂碑の全体構造は、原判決理由判示のとおりである。また、本件忠魂碑は、北を原点とし、南を底辺とした正三角形に近いほぼ二等辺三角形状の地積914.78平方メートルの宅地である本件土地の上に建ち、その東西の両底辺は各幅員約五メートルの公道に接し、南側底辺は同一平面で市立学校運動場の土地に続いている(甲九七号証参照)。東向きに建つ同碑本体は、やや不規則な直方体の花崗岩材で、表には大書した「忠魂碑」の文字と「安正書 印」の落款が、裏には「大正五年五月建之」の文字がそれぞれ彫り刻まれている。

(三) 本件忠魂碑の思想表現の特質・強度

本件忠魂碑は、右(二)のとおり、福島安正将軍筆の忠魂碑の文字を刻んだ碑石を6.3メートルもの高さに掲げるため、礎石と二重の基壇がこれを支え、その周囲に大小無数の植込みを施し、玉垣及び生垣で囲い、その外側に白砂利を敷き詰めた集団参拝を目的とする広場を伴い、その周辺に樹木を配する。巨大な石組みと重々しい質量感をもつて天空に聳え、広場周囲を塀とフェンスで限り一つの聖域を画している。広場の隣は西小学校仮運動場であり、広場前は西小学校正門入口であつて、学校の児童生徒・保護者・教職員を含む地域の大衆教化にはこの上ない立地を誇つている。つまり、本件忠魂碑の広場入口に立止まるかその中に入ればなおさらであるが、仮運動場に立つか、東側道路を通りさえすれば、白砂利の広場と樹木と玉垣と基壇等により構成され支持された忠魂碑の壮大な全容を仰ぎ見ることになり、西側道路からも天空に屹立する忠魂碑本体を見ることができる。ことに、西小学校及びこれに隣接する市立第一中学校の児童生徒は、その登下校の度ごとにこれを仰ぎ見ることとなり、更に、西小学校については授業中でも校舎内及び運動場からながめることもできる。

そして、これを眼前にする者は、仰角四五度以上の角度で頭上はるかに仰ぎ見ることになり、碑の前に立つ者は否応なくこれに見下されているという圧迫感を受ける。碑石に刻まれた文字によつて伝えられるメッセージが抗い難い力をもつて見るものに迫つてくるように威光暗示の効果が巧に計算されている。更には、公立の学校教育施設と一体をなす立地を整えていることにより、そのメッセージは単なるそれにとどまらず、あたかも真理の裏付けを与えられたかのごとき虚像を眼前に結び、児童生徒に限らず、それを見る地域住民全てに対し絶大な社会教育的機能を発揮している。

それどころか、一般に、学校教育施設或いはそれと渾然一体をなす公有地上における碑の存在は、当該学校の教育内容と決して無縁ではありえず、積極的・消極的の別を問わず、むしろ碑に対しさまざまな教育的アプローチがとりくまれることが通常であり、必然である。そのなかで教育内容に多分に影響を及ぼしながら、いつしかその碑が、名物となり重宝され、ひいては教育的シンボルとしての格付けにあずかることになることも当然にある。本来、忠魂碑もそのような教育的シンボルとして学校に集中的に建てられ、戦前、戦中教育の究極の目標は忠魂碑が体現していた。そうであるなら、本件忠魂碑も、その表現内容やそれへの評価はさておき、右(二)のような全体構造をもち常に周囲の目に触れ相当に目立つものである以上、近隣の西小学校や第一中学校ひいては箕面市全体の教育的シンボルとしてかかげられる可能性は一般的にみてすでに存在するといえる。

このように、本件忠魂碑は、その表現し訴求する内容の如何はともかく、本件モニュメントの固有の表現特質の上において、忠魂碑への参拝者又は訪問者、同広場への参集者はもちろん、小学校児童及び中学校生徒を主とする地域住民や、近接の学校機関ないし一過性の道路通行人までもが、碑自体の表現する思想の影響のまず及ぶ範囲に入る。したがつて、本件忠魂碑の構造物・付属物・環境・背景・立地・デザインのすべては、その表現する思想の顕彰のため総合的に動員されているのであつて、その態様は碑石を単に維持保存するというにとどまらず、積極的に忠魂碑のモニュメントとしての本質的機能を最高に発揮するために意図的に設計され、建設されている。その結果、碑の表現するメッセージが、教育の場という後ろだてもあり、正しいもの、至高のものとして見る者に訴求する力を十分にもつている。

2 本件忠魂碑の表現し訴求する思想内容

(一) 忠魂の文字

碑における表現は、記念すべき事績顕彰の思想を文字(碑銘、碑文又は題号)として刻み込むことにより、言語化された思想としてこれを定着する。したがつて、他の方法によるモニュメント(記念像等)における表現に比し、碑の表現する思想主張は、言語的に明確かつ直截明快であるという特徴をもつ。

忠魂碑が自らの存在により表現し社会に訴える思想は、忠魂の文字により限定され忠魂という言語の力、いわばその「ことだま」によりこれを主張しているのであつて、これ以外のものではありえない。忠魂碑の思想は、忠及び魂の二個の表意文字の国語学的意義と忠魂という言語により歴史的、社会的に形成されてきた特定の観念により明確に規定される。いうまでもなく、忠及び魂という二個の表意文字の意義や忠魂という言語の表す観念は、これに対する価値評価に異動が起こることはあつても、これ自体が内容として一変するものでない以上、忠魂碑がモニュメントとして体現する思想内容自体は、碑を取りつつむ歴史の経過や変化が仮にあつたとしても、そもそも変わることがないのである。よつて、また、原判決も判示するとおり、忠魂碑が、敗戦後は、忠魂の碑ではなくなつて、平和などの碑になつてしまつたということも、本来ありえない。まさに本件忠魂碑も、その碑面に忠魂碑の文字を刻んだからこそ建立以来いつの時代にあつても忠魂碑と呼ばれるもののひとつでありえたわけで、またそれが忠魂碑の文字を刻み込んでいる以上はそれ以外の呼ばれ方をすることもまずない。したがつて、本件忠魂碑の思想内容も当然、例にもれず、その文字「忠魂」に専ら規定されるのである。

(二) 忠魂の言語解釈論的意義

忠の字義は、己の心を空くして他人のためにつくす心の意であり、①まごころ、まこと(忠言・忠告・忠誠)、②君主にまごころをささげつくすこと(忠義・忠節)、③まじめ(忠実)等の意味をもつが、もとは、だれに対して心をつくしても「忠」といつたが、後にその対象を君主に限定することによつて完全に封建社会体制を支える中心的徳目とされてしまつたのである(甲一五三号証)。すなわち、後世(中世以後現今)において、一般的徳目として単に忠といえば、右②の意味「君主にまごころをささげつくすこと(忠義・忠節)」に限定される。特に、後述のような忠魂の意義及び忠魂碑の由来等をみれば、忠魂碑が顕彰する徳目としての忠は、右②の意義における「忠義の心」以外のものと考えることはできない。

さらに、忠魂碑及び忠魂碑の意味についての各辞書等の諸説を総合すると、忠魂とは、忠義を尽くして死んだ人の魂という意味でほぼ一致し、また、忠魂碑とは、忠義のために死んだ人を記念するために建てた碑という意味が一般的であるから、忠とは、すなわち忠義のために死ぬことである。この意味における忠は、君主に対する臣民、主君に対する臣下、主人に対する従者、上に対する下のまごころを尽くしそのために身命を捧げる滅私奉公の精神である。したがつて、原判決も判示するとおり、碑文の「忠」とは、国家、君主(天皇)に対し臣民としてその本分を尽くすことであり、「忠魂」とは、忠義を尽くして死んだ者の魂を意味することは明白である。

(三) 忠魂の歴史的社会的意義

忠魂碑は、一般に、忠魂または忠魂碑の碑銘(題号)をもつ石碑を指称するが、このような題号を掲げる碑は、世界の漢字使用国の中でも日本及び日本の植民地・占領地を除きその例がなく、かつ、わが国においても、これが登場するのは明治の近代天皇制の確立期からである。つまり、忠魂碑の出現は、日本の近代神権天皇制における固有の現象である。このような時代に発生したこの碑の忠魂の観念は、自から歴史的社会的に限定された思想を表現する。

忠魂碑は、もともと招魂の碑として、明治維新以後の尊攘派及び天皇軍の忠死者の慰霊招魂の祭祀の目的をもつて建立された招魂碑を原型として発生した。帝国憲法制定、軍人勅諭、教育勅語の各発布を経て、忠魂碑は、西南の役(明治一〇年)の後その戦没者を祀るため各地で建立されはじめ、かつてない多数の戦死者を出した日清・日露戦争後盛んに建立された。靖国神社は、明治二年に創建された東京招魂社がその前身であるが、明治一二年靖国神社と改められ、別格官幣社に列せられた。靖国神社は、明治維新前後からの戦死者の霊を祭神とし、これを合祀した。東京招魂社が創建されたことより、これにならつて、国難に殉じた人々の霊を祀る施設として、各藩により招魂場が建てられ、明治四年の廃藩置県によつて、これらは政府の管掌下におかれ、明治八年には招魂社と名称が統一された。日露戦争後、招魂社(護国神社の前身)は、ほぼ府県単位で、忠魂碑は、ほぼ市町村単位で建立された。

東京招魂社(靖国神社)は「忠魂を慰むる為に神社を建てゝ永く祭祀せしむ、益々忠節を抽でよ。」との明治天皇の意志(聖旨)により創建され、忠魂を祭神とし、これを招魂し永く祭して慰霊しその忠節を顕彰する。また、昭和一〇年七月靖国神社発行の靖国神社忠魂史(全五巻)には、同旨の記述がみられるとともに、多数の全国各府県市町村の忠魂碑の写真を配し、各地出身の同神社祭神が各地の同碑により、祭祀顕彰されていることを示している(甲一三四号証の一ないし四)。

このように、忠魂は靖国神社、招魂社の祭神を表わし、靖国、招魂の基本観念=キーワードとなつており、これと切り離して忠魂の概念の内実を理解することはできないのである。幕末の天皇派によつて弔祭する自軍の死者に対し忠魂の語が当てられ、以後同用語が常套的に多用されるようになり靖国祭神の呼称として定着する過程は、招魂祭、招魂社、靖国神社の創建と招魂、靖国の思想確立の過程に対応する。このようにみるとき、天皇軍忠死者の碑が、明治初年招魂碑として発生し、日清、日露戦争後に至りようやく靖国の祭神観念として忠魂の語が世間に普及定着するとともに皇国思想が浸透し一般化するに応じて、忠魂碑となつていつた事情が諒解される。

(四) 本件忠魂碑が表現し訴求する思想内容

忠魂碑の忠は、天皇にまごころを尽くして仕え、そのために身命を捧げることであり、神権天皇制の大日本帝国において臣民の果たすべき当然の義務、至高の理想とされた。つまり、忠魂碑は、有事において一身をかえりみず戦地に赴き、天皇の敵と戦つて命を落とすことを、忠の一字であらわし、それに絶対最高の価値をみとめて、忠死者の霊魂に対して忠魂(英霊、忠霊、英魂などもこれとほぼ類義)という特段の高い地位をあたえ、これを祀り顕彰する宗教施設である。これが表現し訴求する内容は、大きくつぎの五点の要素をもつと分析できる。

(1) 忠義による死

忠魂とは、天皇に忠義を尽して戦死した者の魂・霊の謂であるから、戦死者について、右1(一)で述べた巨大な石組みの上に天空に聳える巨大な石碑を建てることは、地域社会において、忠義による死を至高のものとして位置づけていることは明らかである。これを更に細かく分析すれば、つぎの行為を価値あるものとしていることとなる。

① 天皇・国家が命じたことは、人倫に適つたことかどうかを一切疑わず、命じられたとおりこれを実行すること。

② 天皇・国家が命じたことは、自分の生命や家族との絆をも惜しまず、これを実行すること。

③ 天皇・国家が命じようとしていることは、自発的にこれを実行すること。

④ 天皇・国家が命じたことを実行し戦死できたことを、決して恨むことなく、喜び感謝すること。

(2) 聖戦

忠魂碑は第一義的には戦死者を価値づけ、賞賛している。しかし、それのみに終わらない。戦死者を忠義の故に至高のものとして価値づけることは、論理的前提として、忠義の対象である天皇・国家は至高の存在であり、その命令は疑う余地なく正しいものであることを認めることにならざるを得ないことは明らかである。けだし、もし、命じられた行為が人倫に反するものであれば、そのような行為を疑わず、身命を賭し、自発的に行い、その結果(死)を喜ぶという忠義の主観的要件を備えていたとしても、その行為を客観的に忠義と価値づけることはできない。つまり、この主観的忠義を客観的にも忠義として広く受け容れられるには、忠義の対象とそれの発した命令が至高であり、疑う余地なく正しいものであることが不可欠の前提となるからである。忠とは命令者とその命令を至高・無謬のものとする機能をもつ概念である。したがつて、天皇・国家の命じることは常に正しいものとされる結果、天皇・国家の行う戦争も聖く正しい戦争すなわち聖戦と認めることになる。ゆえに、戦死者の死を忠義による死として価値づける忠魂碑は、これを見る者に対し、死を命じた天皇・国家の戦争を聖戦と認識することを同時に訴求する。戦死者を忠魂として価値づけることと、戦争を聖戦として価値づけることは、いわば楯の両面であり、不可分の相互補完関係にある。忠魂なくして聖戦なく、聖戦なくして忠魂はありえない。このように天皇・国家の行つた戦争を聖戦として価値づけることを通して、本件忠魂碑はつぎのことを表現し、訴求している。

① 戦争の目的が正当であつたこと。

② 戦争の手段が正当であつたこと。

③ 戦争の結果が正当であつたこと。

目的・手段・結果のいずれの正当性を欠いても、聖い正義の戦争といえなくなることは明らかである。

(3) 二九八人の死

本件忠魂碑には、戦死者の氏名等は一切刻まれていない。しかし、正面基台に穿たれた穴の中には、霊璽として戦死者の氏名を書き連ねた円い薄板が納められており、本件忠魂碑前の慰霊祭に際しては、「これに合祀されている二九八柱の英霊」云々の言葉が遺族会長等によつて述べられていることにより、二九八人の死が忠義による死であることが碑により表現されていることになる。

(4) 二九八人の死をもたらした戦争

本件忠魂碑が、二九八人の死をもたらした戦争は聖戦であるということを表現・訴求していることも、すでに右(1)ないし(3)の論理的帰結として明らかであるが、現にそう受けとめられていることは、本件忠魂碑慰霊祭の祝詞、遺族会長の式辞等が端的にこれを裏付けている。

(5) 残された者への拘束

本件忠魂碑が、(4)のとおり、二九八人の死をもたらした日清戦争以来の戦争について、聖戦としての価値づけをし、見る者をして、平和と繁栄が脅かされる事態になれば、一身をも顧みず、死地に赴き祖国日本の興隆を祈り勇戦奮闘することを誓わせることを伴う。戦死者を忠魂として価値づけることは、後の世代を忠魂となるよう心理的に拘束することになる。

3 本件忠魂碑に合祀されている戦死者の内訳

(一) 箕面地区戦死者に関する文献調査

本件忠魂碑は、西南戦争または日清・日露戦争以後の地元地域出身の従軍戦死者の霊魂を祀り、これを慰霊するために建造され、敗戦直後廃棄された碑を昭和二七年以後復建したもので、昭和四一年までの間に、一五年戦争までの戦死者が同碑に含祀された。そして、本件忠魂碑には、日清戦争によるものから太平洋戦争によるものまでの間の、日本の対外戦争による軍人・軍層の死者が合祀されており、その英霊の数は、二九八柱であると観念されている。一方、箕面市戦没者遺族会『箕面市戦没者遺族会名簿』のなかの箕面地区すなわち箕面、西小路、牧落、百楽荘、桜、桜井、桜ケ丘、新稲、半町及び瀬川の各町の欄には、合計三一二人の戦傷病死者が記載されている。

(1) 戦死時期

全戦死者の98.4%は、本件忠魂碑の建立後に戦死した。

(2) 戦死地域

戦死者の戦死地点は、西限はインドから東限はギルバート諸島に至るまで、南限は同じくソロモン諸島から北限はソ連シベリア地方に至るまで、実に広い範囲に及んでいる。全戦死者の約半数は中国全域及びフィリピンにおいて戦死しているが、全体として、箕面地区の戦死者についての戦死地域別分布は、全国の戦死者についての分布と、割合においてほぼ合致しており、標準的分布といえよう。

(3) 出生年代

出生年代の不明な戦死者は一四四人であるが、これを仮に、出生年代のすでに判明している戦死者の各年代ごとの按分割合にて配分し、それぞれの判明分と合計すると、明治四三年から大正一三年に至る一五年間に出生した戦死者が全体の八三%以上にのぼることがわかる。

(4) 戦死年齢

戦死年齢の不明も一四四人であるが、これを除く一六八人について戦死年齢の平均値を求めると、約26.1歳となる。二〇歳代前半から三〇歳代前半にかけて戦死者が集中している。

(5) 身分階級

全戦死者のうち、将校クラスは計四二人(約13.5%)、准士官・下士官クラスは計九九人(約31.7%)、そして兵クラスは計一四五人(約46.4%)である。もつとも、この数字はそれぞれ戦死による昇進後の階級におけるものであるから、こころみに、右集計の数値だけを一律に一階級ずつ下位にずらし、戦死時点の階級にもどして集計してみると、将校クラスは計三六人(約11.5%)、准士官・下士官クラスは計四四人(約14.1%)、そして兵クラスは一九九人(約63.8%)となり、全戦死者のうち戦死時点に兵クラスにあつた者の占める割合がかなりであることもはつきりわかる。日本の軍隊にあつては、これも標準的な分布といえよう。

(二) (一)で述べたとおり、数字的に見て、箕面地区戦死者の分布は、その戦死年代、戦死地点、出生年代、戦死年齢及び身分階級それぞれの別において、極めて標準的な態様をなしており、日本の行つた一連の戦争の典型的な結果を表している。つまり、まず総体として、箕面地区は、万遍なく平均的に一連の戦争を経験しており、その意味でも、日本の行つた一連の戦争ないし個々の作戦・戦闘の実態は、箕面地区戦死者の個々の死のありさまに凝縮され、自ずとその中から浮き彫りにされうるのと同時に、その逆に、個々の死のありさまは、一連の戦争ないし個々の作戦・戦闘の客観的な実態の中に、はつきりと読み取ることができるものである。

4 本件忠魂碑の合祀者の戦死の性格と戦争指導者層の責任

(一) 戦死の侵略的性格と指導者の国際的責任

日本国家が開始し二九八人の参加した日清戦争から一五年戦争に至る一連の対外戦争は、まぎれもなく日本の侵略戦争であり、被侵略国・被占領地の人民に対し甚大かつ残虐な被害を与えた。この戦争犯罪について、天皇を頂点とする日本の戦争指導者層は、国際的に明白かつ重大な責任を負う。戦後においても、戦後アジアの植民地諸民族がすべて独立国となつたのは、「大東亜戦争」によつてそれらの諸民族に対する帝国主義支配が切断された結果であり、日本は戦いに敗れたけれど、アジアの解放が達成されたことによつて「大東亜戦争」の目的は実現された、といつた趣旨の主張が散見する。しかし、この主張の虚偽は明白である。

第一に、もし日本が真にアジア諸民族を帝国主義的支配から解放しようと考えていたのならば、まず日本自身が植民地として支配していた朝鮮を独立させ、台湾を中国に返還すべきであつた。自国が欧米帝国主義政策の尻馬に乗つて植民地支配を堅持しながら、欧米帝国主義からのアジアの解放を主張することは、矛盾している。第二に、中国との戦争がどのような角度からみても侵略戦争であり、それまですでに関東州を租借し、満州・東部内蒙古を半植民地化していた日本帝国が、更に全中国を日本の植民地同然の状況に置こうとするために一五年にわたる戦争が続けられていたのであつた。中国に対し帝国主義戦争を推進し、中国民衆に残虐行為をほしいままに加えていた日本に、アジアの解放を唱える資格はなかつた。第三に、日本の南方占領が一時的に欧米列強の植民地支配を切断したことは事実だとしても、それは、決してアジア諸民族を日本を含むあらゆる帝国主義的支配から解放するためのものでなく、中国侵略を継続するための戦略物資獲得のために対米戦争を賭しても南方地域を占領するためのものである。欧米列強の支配からの解放というのは、その真の目的をカモフラージュするための美辞麗句にすぎない。初めから日本の侵略と戦い続けてきたフィリピンのゲリラやベトナムの独立同盟にせよ、また初めは日本軍を歓迎しこれに協力したが、その正体を看破して反旗を翻したビルマのオンー=サンたちや、ついに日本の傀儡に終わることを肯んじなかつたインドネシアの独立運動家にせよ、いずれも日本の植民地支配的軍政と戦つて独立を実現したのである。

したがつて、アジア諸民族の解放が日本のもたらした恩恵であるかのごとくいうのは、まつたく真実を転倒させるものとのそしりを免れない。むしろ、戦後になつても、日本軍の侵略がアジア諸民族に与えた深い傷跡はなおも癒えることなく残つているのが実情である。

(二) 戦死の消耗的性格と指導者の国内的責任

二九八人が参加した一連の戦争は、日本の戦争指導者層の侵略的野心のもとに兵をすりつぶして行われた消耗戦争であり、天皇を頂点とした指導者は国内的に明白かつ重大な責任を負う。日本軍の人命軽視の発想があつてこそはじめて遂行されてきた日清戦争、日露戦争及び第一次大戦・シベリア干渉戦争をはじめとして、それに続く一五年戦争、とりわけその第三段階としての太平洋戦争は、中国戦線の破綻や対米英戦略の見通しのなさから、本来開戦の決定自体、悲惨な結末が予見できたはずであつたのであるから、まして米軍が日本近海に接近して本土の防衛が困難となつてきた時点で、終戦の措置をとることによつて少しでも消耗を少なくするのが戦争指導者の義務であつたはずである。しかし、それにはいく度も機会があつたのに、適切な手段を尽さず、もはや完全に勝算のないことが明白になつたのちも、無意味な戦争を継続し、最悪の事態をつぎつぎに現出させた責任は大きい。そして、個々の死をとおしてみれば、戦場で二九八人の兵士の前に、常に立ち現れてきた敵は、決して、暴支の軍隊でも鬼畜米英の軍隊でもなく、実は、無謀な開戦を決意し、無謀な作戦を遂行し、そして終戦を無謀に遅延させた皇軍の指導者たちすなわち天皇を頂点とする日本の支配者たちであつたことがわかる。したがつて、二九八人個々の死は、このような戦争指導者たちの侵略的野心のために只々消耗を強いられつづけた結果に外ならない。

5 本件忠魂碑の反憲法的性格

(一) 軍国主義・戦争賛美・反平和主義

右2(四)で述べたとおり、本件忠魂碑は、まずその(1)に、忠義による死が至高の価値であるという思想を表現している。しかし、このことについては、右4で既述した戦争の実態が教えるとおり、具体的な戦争の場面において、およそ忠義や忠烈や勇戦奮闘などとは、天皇ら戦争指導者が侵略戦争を開始し、遂行し、そして新たな侵略を繰り返すために、侵略による兵士たちのその戦果をその都度誉め称えるときに使用した常套の賛辞であり、かつ、大量戦死により低下した士気をその都度回復するときに使用した常套の激励であつたと同時に、また、侵略戦争を遂行するなかで戦争反対・早期終戦要求を封殺するために、侵略や消耗の実態を国民に知られないようにその都度ごまかし隠ぺいするために使つた常套の詐術でもあつた。まず、その事実を重視しなければならない。

また、本件忠魂碑は、その(2)に、天皇・国家が命じることは常に正しく、天皇・国家の行う戦争は常に聖戦であるという思想を表現し、具体的には①戦争の目的が正当であり、②戦争の手段が正当であり、③戦争の結果が正当であつたことを表現している。しかし、このことについても、右4で既述した戦争の実態が示すとおり、天皇・国家の命令で開始された一連の戦争は、日清戦争開始から一五年戦争敗北に至る歴史経過、その各戦争ごとの経過及びその各作戦ごとの経過のいずれの観点からみても、①その目的は、その都度うたわれたような膺懲でも事変処理でも協和でも解放でも共栄でも自存自衛でもなく、常に侵略そのものであり、②その手段は、いたる戦争、いたる戦局及びいたる作戦においても残虐非道を尽くしており、そして、③その結果は、常につぎなる作戦、つぎなる戦争の根拠とするべく繰り返しもたらされた植民地・占領地の獲得収奪支配と大量の占領地軍民の犠牲であつた。また、同時に、①その目的は、対外戦争に関心をむけることで国家内部の矛盾をごまかし、そのはけ口を作ることにあり、②その手段は、国内矛盾や国民不安や悪政不況の原因を暴支、鬼畜米英などにおしつけて国民の敵愾心をあおり、また、戦争に反対し早期終戦を要求する国民を徹底弾圧しその声を封殺することであり、③その結果は、国民に大量の戦傷病死者及び大量の戦災者などの犠牲を強い、その見返りに、一つは国民をして、侵略により獲得した権益のおこぼれに預からせ、また、いま一つは戦死者をして、戦死により獲得した忠魂、英霊という至高の名誉に預からせたことであつた。

国家が国民に消耗を強いながら、それでもあくまで侵略をくりかえしたという戦争の実態に即していえば、そのように戦死者に忠魂、英霊の至高の名誉をあたえ慰霊顕彰したことが、戦死者を追悼し悲しみ慰める目的にでたものでないことは、自明である。忠魂、英霊という生命より大切な価値を幻想させ、忠義による死が至高の価値であるかのような意識を国民の間に醸成したことは、第一義的に、侵略的野心のもとに他国や自国の人民に犠牲を強いた天皇を頂点とする国家指導者層の責任をうやむやにし、犠牲となつた国民の不満と追及を却け、更に国民を犠牲にしながらつぎなる侵略を行うという支配者の目的に合致していたのである。

本件忠魂碑は、右2の(四)に既述したとおり、忠義による死が至高の価値であるという思想を通して、具体的には、天皇・国家の命令なら①人倫に適つたことかどうかをも一切疑わず、②自分の生命や家族との絆をも惜しまず、③自発的に率先してこれを実行し、肉親が天皇・国家の命令を実行し戦死でき、④これを決して恨まず喜び感謝することが正しく忠義であり、至高の価値であるという思想を表現し訴求している。しかし、右4の戦争の実態に照らせば、それと逆に、一連の戦争、個々の戦闘それぞれの開始・遂行において発せられた天皇・国家の命令のすべてについて、①それが人倫に適つたものであるかを疑い、②それより自分の生命や家族との絆を惜しみ、③それを拒否し或いはそれから逃亡し、④肉親が戦死させられたらそれを恨むことこそが、むしろ正しく真に価値あることであつたことはいうまでもない。現に、戦争反対を訴えて弾圧・拷問をうけ獄死を強いられた人たちがおり、早く戦争が終わつて欲しいと願いながら戦災や窮乏に倒れ、また同じ思いを抱きながら飢餓や病気の戦場に倒れた人たちがたくさんいる事実がある以上、いわば不忠のおこないこそが平和への道だつたはずであり、むしろ価値あるものであつたことを、否定することはできない。

ところが、本件忠魂碑は、忠義を絶対的価値とみなし、その価値基準により文字どおり不忠者を排除し、天皇に忠義であつたと認められた戦死者だけを顕彰している。その思想は、反戦平和への不忠のおこないこそが価値をもつたという事実とは到底相容れず、それを全面否定している。

したがつて、本件忠魂碑は、さらなる侵略戦争を開始・遂行し、それに国民を動員することを目的として、天皇・国家が開始し遂行した一連の侵略戦争・消耗戦争の責任を包み隠して、戦争を肯定・賛美し、戦争に反対したあらゆるおこないを否定・排除する思想を表現する忠死再生産の碑であり、日本国憲法の根本規範である平和主義に反する性格を有する。

(二) 自由抑圧・反基本的人権思想の表現

本件忠魂碑は、右2(四)に既述したとおり、その(3)として、二九八人の死が忠義による死であつたという思想を表現し、その(4)として、二九八人の死をもたらした戦争が聖戦であり、その目的・手段・結果が正当であつたという思想を表現している。

しかし、3でも明らかなとおり、二九八人のほとんどは、徴兵により死地に赴くことを強制され命を奪われた、あわれな犠牲者である。それらの死の真実は、本件忠魂碑前の慰霊祭での祝詞や道師表白文、遺族会長の式辞などが述べるに反して、実は、その誰もが一身を顧み、家をも身をも顧みながら、後ろ髪引かれる思いで戦場で狩り出され、大命(天皇の命令)によつて戦い、人を殺し自らも殺されたのであり、進んで命を捧げたものではない。そして、志願兵や特攻隊などのように、皮相的には進んで命を捧げたと見られるものを含めて、二九八人の死のすべては、天皇・国家の命令に進んで自発的に服従するように常に教育されつづけた結果であつた。しかし、それにより、一見進んで自発的に死地に赴いたとみられる一部の兵士たちも、実際の戦場を知り、飢餓や病気により、或いは出撃を前にして、いざ死と隣り合わせになつたとき、天皇・国家のために死ぬことの意味を問い続けながら無念の死を遂げていつた者がほとんどであつた。このような戦死者の遺書などを人間としての理解と共感をもつて読むとき、本件忠魂碑が体現する進んで命を捧げたとの戦死者像の虚構性は自ずと明白であり、同時に、そのことは、これら兵士を死地に赴かせた天皇制軍国主義の皇国民思想教育において、忠魂碑みずからが果たした犯罪的役割の大きさを如実に示すものである。また、遺族の多くは、かつて戦死した肉親が戦場とした場所に一度は訪れたいという願いをもちながら、実際にそれを果たせた者もいれば、また、果たせずじまいの人々も多い。このような個々の兵士の死の実態に忠実に学ぶならば、本件忠魂碑が表現するように、二九八人の死を忠義による死と意義づけ、そしてこれを勇戦奮闘され散華されたと賞賛し、大き功績と評価することなど到底許されることではない。そのような評価は、戦死の意味を厳正に見つめ、死者を正当に遇し追悼する態度ではない。ましてや、本件忠魂碑のもつ思想が、自国とアジア諸国に絶大な犠牲をもたらした戦争の現実を隠して、二九八人の戦死が祖国の日本の平和と繁栄を招来したかのように歪曲するという欺瞞に満ちたものであることに及んでは、それこそ人命無視であり死者への冒というほかない。兵士の死は、崇高なものではなく常にみじめなものであり、それは、実に消耗でしかなく、まさに無駄死であつた。われわれが、そのことに目をそらすことなく認識してこそ、戦死者の無念の思いに通じることになり、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにする上で、初めてその死が生かされることになるのである。

本件忠魂碑は、このように人権と自由を抑圧し、奴隷的苦役と忠死を心理的に強制し、また従順で真摯な青少年皇国民を仕立て上げた、社会的教育的装置であり、忠魂は、そのために現実の兵士の苦悩と悲惨な死にざまに目を覆い、戦死を美化し戦死者を英雄化する虚構の賛辞であつた。したがつて、本件忠魂碑は、日本国憲法の根本規範である基本的人権の尊重に反する性格を有する。

(三) 天皇中心・国家至上主義・反国民主権

右2(三)に既述したとおり、忠魂碑は、客観的事実として靖国神社祭神の碑である。忠魂の文字により戦死者を顕彰する、そのような忠魂顕彰の思想は、敵の死者をさげすみ、他の内外戦争犠牲者を選別し、天皇の命令を絶対的なものとし、これに殉ずることを至高のものとし、戦争を肯定美化し、好戦的・排外的・軍事的・政治的な意図を露骨に示す、反人間的な思想である。いうまでもなく、忠魂碑がそのような特定のイデオロギーとして表現している思想の根幹は、皇国的国体観念に基づく絶対的神権天皇主義である。そのために忠死した者には、忠魂碑に祀られることにより忠魂の栄誉が与えられ永く顕彰される。しかし、その実は、それに合祀された戦死者も、合祀されなかつた戦災者も、また、合祀されるはずもなかつた反戦獄死者も被侵略諸民族の死者も、すべてこの天皇の命令により繰り返し始められ遂行された戦争の犠牲者であり、専ら国体をまもるために引き延ばされた戦争の犠牲者たちであつた。そのことが何よりも、天皇主義を訴求する忠魂碑の歴史的犯罪性を裏付けているといえる。また、本件忠魂碑は、天皇のためであると同時に、国のために命を捧げたとして戦没者を称えており、現今の英霊顕彰の建前では、この方が強調される。しかし、過去の戦争における日本の侵略を、天皇のためといわず、国のために戦つたとすることで正当化することはできない。また、国のために命を捧げたことを顕彰することは、国のための名分で国家が個人の人権と自由を抑圧し人民大衆を戦争に動員する滅私奉公の思想を宣伝することに外ならない。そして、そもそも靖国の祭神をあがめ祀る忠魂碑が前提とし訴求する国家観とは、既述したとおり、国体観念に基づく絶対的神権天皇主義の国家なのである。

したがつて、本件忠魂碑は、天皇中心・国家至上主義の思想を表現し、日本国憲法の根本規範である国民主権に反する性格を有する。

(四) 本件忠魂碑移設再建及び維持保存の公益性

本件忠魂碑は、右(一)のとおり軍国主義・戦争賛美の碑であり、右(二)のとおり戦死を美化し人権と自由を抑圧して苦役を強制した道具であり、右(三)のとおり戦争を自国の繁栄の手段とし人民に滅私奉公を強いる天皇中心・国家至上主義の宣伝物である。

したがつて、本件忠魂碑を移設再建し維持保存してきた第一審被告らの行為は、著しく公益に反するものであり、憲法違反である。

第二 本件各慰霊祭の宗教性と反公益性

一 慰霊

今日俗に慰霊祭と呼ばれているものについて、これらが、なべて均しく宗教儀礼か否かという論を立てることには全く意味がない。多種多様な形態が存在しているのであり、明らかに宗教儀礼であるものもあれば、明らかに無宗教の慰霊祭というのも現に存在している状況となつているからである。そこで、比較的広く一般に慰霊と呼ばれているものは、これをすべて形式的概念による慰霊とする。これは文字通り形式的概念であつて、慰霊という名辞のみを基準とするものである。他方、超自然的・超人間的存在の確信を前提とする慰霊、すなわち宗教行為としてのそれは、これを実質的概念としての慰霊と定義づけることとする。第一審被告らが列挙する多くの慰霊は、前記定義に従えば、むろん形式的概念としての慰霊ではある。しかし、それが実質的概念の慰霊の例といえるかどうかは、個々の事例を具体的に検証する作業を経なければおよそ判断しようのないことである。したがつて、第一審被告らの論述に対する根本的な疑問は、単に慰霊碑があるとか慰霊祭が行われているというだけでは、今日のようにそれが一般化されてしまつている状況のもとにおいては形式的概念としての慰霊の存在を示すにすぎないのではないか、ということである。本件で争点となるのは、正に本件各慰霊祭の慰霊が実質的概念の慰霊かどうかということであり、その中味、意味こそが検討されねばならない。

そこで問題は、形式的概念の慰霊をその名辞以外の実質的内容を有するものとして別個に抽出することが可能かどうかということになる。もし、これが可能ならば、形式的概念の慰霊を列挙することにも意味が見出され、その意味からそれが習俗たりうるか単なる儀礼であるかとかを検討する余地があろう。これが不可能ならば、形式的概念の慰霊を個々具体的に検討する以外、それが習俗か否か(逆にいえば、実質的概念の慰霊にあたるかどうか)を判断する方法はないといえよう。結論的にいえば、右のような抽出は、不可能だと思われる。第一審被告らによれば、抽出可能なものとして、普遍人類的の人間としての自然の心情といつた実質的内容が挙げられ、それ故、習俗とか単なる儀礼といつた結論を導けるものと考えられているようであるが、わが国における戦没者の慰霊というものは、既述のとおり、そして後に詳しく検討するとおり、むしろ、右の如き実質的内容を明確に拒んでいるとみる外ないからである。

以上述べたところから、結局、本件における慰霊の問題についての把握は、本件における慰霊そのものをその具体性に則してそれ自体検討していく以外検討方法のないことが明らかとなつた。本件における慰霊とは、いうまでもなくわが国における戦没者の慰霊ということであり、その一つとしての本件慰霊祭そのものである。

二 戦没者慰霊祭の沿革と性質

1 戦没者慰霊祭の起源と歴史

(一) 御霊信仰

日本人は、古来、特に、非業の死を遂げた者につき、霊を観念し、丁重に弔う習慣をもつていたとされている。そして、非業の死によつて恨みをのんで死んだと考えられる人々に観念される霊が、その者の相手方とされている者や共同体或いは家族、子孫、更に不特定の人々に崇つて不幸をもたらし、時には人を呪い殺す程の霊力をもつとして恐れられ、その霊力を人間の幸福をもたらすものに転化させようとして、これを鎮め神として祀る信仰が、いわゆる御霊信仰と呼ばれるものである。御霊信仰は、政争の烈しかつた平安時代、仏教と習合して貴族の間で高まつたといわれ、やがては神道とも習合する。菅原道真の霊が雷神と習合して天神の信仰が成立し各地の天満宮で祀られるようになつたのはその端的な例である。非業の死、恨みを残す死の中でも、特に戦争による死亡の場合、敵方の将兵或いは敵味方を問わず、その霊の崇りは生き残つた者達の恐怖であつたことから、敵方或いは味方をも含めて怨霊を慰撫する儀礼が伝統的に行われ、古代末期から戦国時代に至るまで、戦乱がおこるたびに戦闘のあとでは崇りを恐れて戦死者に手厚い弔いが行われた。

この御霊信仰は、いわゆる民間信仰とされているが、単に死を哀しみ記念するといつた、世界中どこでも思想、信条、宗教の壁を越えて見られる人間として極めて自然の心情というレベルを超えた固有の要素が加わつており、むしろ、この要素が主になつて成立しているものである。この要素、すなわち、霊が崇るという観念、その霊力が強大であり、それによつて幸・不幸がもたらされるという観念が超自然的・超人間的存在の確信を前提とするものであることはいうまでもない。本件慰霊祭を含む今日行われている多くの戦没者慰霊祭の起源を遡つていけば、この御霊信仰の系譜に行きつくことは、疑いないところである。

(二) 招魂

ところで、この御霊信仰としての戦没者慰霊の伝統は、幕末から明治初期にかけて変容する。すなわち、幕末維新期の激烈な政治抗争・内戦の過程で、いわゆる尊王攘夷派は、自派の犠牲者の名誉回復をはかり、自派の志士達の忠誠心を高め、戦意を高揚させるため、自派の犠牲者のみを祭祀せしめる招魂祭を相ついで挙行するようになつた。この招魂祭の在り様が明治政府に受け継がれ、祭政一致、神祀官再興の布告による神道国教化の基本方針のもとで招魂儀礼の場としての東京招魂社の創建へと導かれることになる。招魂の思想は、天から死者の霊を招き降して鎮祭するという観念であつて、これはいうまでもなく超自然的・超人間的存在の確信によつて成立する思想である。同時に、この招魂の思想は、味方の死者のみを国事殉難者として弔祭し、反対派の死者・敵の死者は一顧だにしないという思想であつて、従来の御霊信仰とは異質な人間観・霊魂観に基づくものであつた(なお、その縁由は、本居宣長の国学を継承した平田篤胤の復古神道の体系的教義にみることが可能であろう。)。これによつて、日本人が歴史とともにはぐくんできた御霊信仰に内在する人間観・霊魂観は歪められ、招魂の思想は宗教観念としては特異な政治的軍事的次元の観念として、その後、暴威を奮うこととなる国家神道の成立の下地を創ることとなる(甲三八二号証)。本件慰霊祭を含む今日まで行われてきた多くの戦没者慰霊祭の内実は、右の如き招魂の思想に基づく招魂祭そのものであるといつてよい。

(三) 東京招魂社から靖国神社へ

東京招魂社が明治一二年六月に靖国神社と改称されるまでの一〇年程の期間に、右招魂の思想は、一定の観念体系としてほぼ整備されていくことになる。この間、佐賀の乱や西南戦争等の内乱があり、内政は危機的状況を経たわけであるが、この状況に対応するためにも、右招魂の思想は天皇への忠誠を基準とする新たな観念体系・新たな神道に整備されねばならなかつた。天皇の古代的宗教的権威を基盤に成立した新政府は、国民のあらゆる行動の究極的価値基準を天皇への忠誠に置く国民教化を強引に推進したのである。こうして、各府藩県に建設された招魂場を、政府が直接管轄する中央集権的態勢が採られ、招魂社と名称を統一するとともに、これらは中央の招魂社である東京招魂社の地方分社に作り替えられることとなり、幕末維新の国事殉難者を東京招魂社へ集中合祀する体制が整備されるのである。また、南朝の忠臣達をはじめとする歴代の臣下達を祭神とする諸神社が創建され、これらは別格官幣社の社格を与えられ、また歴代の天皇自身を祭神とする諸神社もつぎつぎに創建される。もとより、この間に天皇軍の戦死者を祀る招魂祭は繰り返し行われ、その儀礼も定型化され整備されていく。この過程で天皇軍の戦死者は、天皇のために忠死した神霊・忠霊とされ、忠魂と呼ばれ、やがて英霊とも呼ばれるようになる。これらが超自然的・超人間的存在の確信に基づいてはじめて成立する概念であることはいうまでもない。東京招魂社は、神様が常在する靖国「神社」となり、別格官幣社に列格されるのである。かようにして整備されていつた一定の観念体系が宗教そのものであることは、もはや自明であろう。

(四) 忠魂と靖国神社

ところで、忠魂という言葉についていえば、この語は前記招魂の思想が定着しはじめた頃から招魂の思想の要を構成する言葉として使われている。一八六八年(慶応四年)一月明治天皇が、薩摩藩主島津忠義に下した沙汰書には、「薩摩戦死者、今度兵革に就き、其藩士の輩、殉国戦死の者共、具に天聴に達し、叡情を愴ませらるる条浅からず、宜しく其葬礼、其親誉を厚くし、忠霊を九原の下に慰むべし。之に依て、営弁の資として金五百両を賜い候。藩主より領与すべきの旨、御沙汰候事。但、一社を設け、其忠魂を衆め、永く祭祀を命ぜらるべく思召され候。」と記されている。また、同年五月一〇日、太政官は一八五三年(ペリー来航)以来の国事殉難者を京都東山に祠字(京都東山招魂社、後の京都霊山護国神社)を設けて合祀する旨を布告している。右布告の中に、後に整備された招魂の思想の固有の性格は既に明確に表れているが、靖国神社が、この思想を体現した神社であることは明白である。昭和一〇年までの靖国神社祭神の名簿を掲げた『靖国神社忠魂史』の書名からも理解されるように、靖国神社の祭神そのものが忠魂であり、その祭祀は忠魂を慰むることを目的としたものである。つまり、忠魂なる言葉は、靖国神社の祭祀と結びついた独特の言葉である。忠魂を慰むる招魂の思想によつて、先に述べた宗教の機能(社会的統合機能)は国内統合の機能を十全に果たしていつた。招魂祭が右機能を全うさせるための不可欠の儀礼であつたことはいうまでもない。

(五) 聖戦下の招魂祭

右に述べたとおりの経過を経て、戦没者慰霊の儀礼は、靖国神社・招魂社による忠魂を慰める靖国神社方式による慰霊に統一される。靖国神社は、国家神道の軍国主義の側面を体現した天皇の軍隊の宗教施設として、戦没者の追悼或いは国民個々の宗教による祀りや供養等のすべてを一定の観念体系に基づく慰霊によつて独占するのである。宗教の機能は、国内統合の機能を経て(それと併せて)、国家神道体制のもと、更に、恐るべき侵略主義、排外主義を導いていくことになる。かような「聖戦」において靖国神社は、戦没者をつぎつぎと合祀して発展する。右に呼応し、招魂社も増え、市町村のレベルでは、招魂祭、忠魂碑等が続々と建てられていくことになる。国家神道の国民への浸透によつて、招魂社の創建と忠魂碑の建立が、全く同質の思想に基づいてなされていることは当然のことという外ない。招魂社についていえば、明治四〇年内務省が発した「招魂社創建に関する件」により、祭神は、別格官幣社靖国神社合祀の者に限ることになり、祭神を通じて招魂社と靖国神社は一層直結し、昭和一四年には、招魂社は護国神社となる。いうまでもないが、旧憲法下におけるわが国の戦没者慰霊(招魂)祭は、すべて国家神道の一定の観念ないし観念体系に基づく一定の儀礼であつた。少くとも、市町村レベルであつても、共同体において施行される慰霊(招魂)祭が、これを免れることはありえなかつた。というより、慰霊(招魂)祭は、そのように規定され、そのようにしか存在しないのであつて、そうでない慰霊(招魂)祭は、概念の矛盾でしかないというべきである。聖戦下の招魂祭が宗教の機能を十分に発揮する、それこそ宗教色の極めて強い儀礼であつたことは明らかである。また、例えば、神道式と仏教式が交互に行われれば、宗教色が減殺されるといつた類の議論が、およそ採るに耐えない謬見でしかないことは一目瞭然というべきであろう。神仏併用という形式は、市町村レベルでの招魂祭に固有の祭祀形式である。

(六) 敗戦後の戦没者追悼と本件各慰霊祭

敗戦後今日に至るまでの間、わが国においては、戦没者追悼の問題について、様々の模索が続けられてきたといつてよい。敗戦を機に、戦没者追悼の形式は、それなりに多様な形式を採るようになつたとはいえようし、右に述べてきた一定の観念ないし観念体系に基づく慰霊(招魂)祭しかありえないといつた状況でなくなつたことは確かである。しかし、右に述べた慰霊(招魂)祭の系譜が敗戦後今日に至るまで脈々と続いていることもまた疑いようのない事実である。いうまでもないが、右に述べた招魂の思想は、国家体制が変わればなくなるという筋合いのものではありえない。今日に至つても、思想としての、それは同時に宗教観念としての、いわば絶えることのない生命力をもつていることは確実である。戦後の国家神道の存在や日本遺族会の存在・その実態に照らしても右一定の宗教観念の存在を否定する余地はない。むしろ、今日に至つてなお、わが国において戦没者慰霊として言葉本来の意味(実質的概念)で慰霊祭が挙行されるとき、そのほとんどすべてが、右招魂の思想に基づいたまま行われているといわざるをえない。本件各慰霊祭は、右観念に基づく宗教儀礼以外ではありえないのである。

2 戦没者慰霊の背景、国家神道・宗教国家

戦没者慰霊を宗教でないと強弁するためには、戦没者慰霊の歴史的性格及びその背景を切断して無視するか、歴史的性格及びその背景を歪めるかの方法しかありえないが、後者の方法は、ほとんど神社神道・国家神道非宗教論そのものであり、前者の方法もこれに通底することは明らかというべきだからである。この両方法は、分かちがたく繋がつている。

(一) 神社神道・皇室神道

先に明治政府がその成立の基盤としたと述べた天皇の古代的宗教的権威とはいうまでもなく、古代国家成立のころ、天皇の祖先神は日本の最高神である高天原を主宰するアマテラスオオミカミであるとされ、天皇家の宗教が国家的祭祀(皇室神道・宮中祭祀)となつて祭政一致の観念を政治の基本とし、これによつて政治支配が正当化された時代の産物に外ならない。先にも述べたとおり、政府によつて、この「復活」が強引に試みられた。それは、近代的変容を受けながら、類まれな宗教国家を産みだすことになる。日本固有の民族宗教である神社神道と皇室神道の結合による国家神道の成立である。そもそも、日本固有の民族宗教である神社神道は、縄文時代のアニミズム、自然崇拝の時代を経て、農耕の定着した弥生時代前期(紀元前三世紀ころ)に、共同体の農耕生産・生活の維持繁栄を目的とする農耕儀礼を中心として成立した原始神道を直接受け継いでいる。神社神道は、古代・中世・近世を通じて、仏教・道教・儒教等と習合して多様な発展を遂げたが、その民族宗教としての骨格(社会的結合と宗教的結合が合致する特徴。いわゆる合致的宗教集団の存在。)は、地域と結びついた神社の存在によつて維持されていた。この民族宗教としての骨格の存在が国家神道成立の一大要素となつたのである。

他方、皇室神道は天皇を農耕儀礼を主宰する国の最高祭祀(即位の際の大嘗祭、霊的交流によつて天皇としての霊力が得られるとされる宗教的秘儀、稲の収穫祭である新嘗祭の執行者。)とするものであるが、古代天皇制以降、曲折ないし断絶を経ちながらも宮中祭祀としてそれなりには維持されていたものである。これに加え、明治政府は皇室祭祀の意義を全国民に普及徹底させ、国民教化の実を上げるため、更に新たなる宮中祭祀を作りだしている。例えば、皇霊祭は明治一一年に新設されたものであるが、これは天皇が国民に祖先祭祀の範を示すものとされ、日本人の宗教生活の中でおおむね仏教によつて担われてきた祖霊崇拝の観念を天皇への忠へと一体化せんとするためのものであつた。或いは、記紀神話に基づく祭祀、すなわち神武天皇祭(明治三年)・天孫隆臨の元始祭及び紀元節祭(明治五年)の新定の目的が国民に対する記紀神話の普及徹底及びそれに基づく国家意識の高揚というところにあつたことはいうまでもない。

神社神道と皇室神道を結合し宮中祭祀を基準に神宮・神社の祭祀を組み立てていつたとき、全国の大小の神社は、その歴史的な差異性を喪失し、天皇の祖先神を祀る伊勢神宮を本宗として、全国の神社がピラミッド型に統一編成され天皇と全神社が直結することになる。先にみた戦没者をめぐる招魂社の中央集権的統一も、右の一環に外ならないが、こうして、民族宗教としての神社神道が有していた合致的宗教集団の傾向は、全国民的規模に及んでいくことになる。

(二) 国家神道体制

(1) 祭祀と宗教の分離

いわゆる祭神論争(伊勢派と出雲派の幽冥界の主宰神オオクニヌシノミコトを祀るべきか否かの論争)を経て、神道界においては、神社神道を一般宗教から分離し国家の祭祀としての地位を確保しようとする意見が支配的となつたが、明治一五年、政府は、この神道界の動向にこたえて祭祀と宗教を分離する方針を定めた(内務省の神官の宗教活動を禁止する通達)。こうして、神社神道は、祭祀のみの宗教となり、神社神道と神道系各教(教派神道)は明確に区別され、宗教ではないという建前の国家神道体制が成立する。国家神道は、右建前のもと、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基三教の上に君臨していくことになるのである。

(2) 軍人勅諭

明治一五年、「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」(軍人勅諭)が発布され、「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある。」との虚構のもと、軍の性格が天皇の軍隊として規定され、天子たる天皇が最高位の軍人として陸・海軍を統率することが宣言される。これによつて前記天皇の宗教的権威と軍事力の独占者としての地位との合体が明確に宣言されたのである。「軍人は忠節を尽すを本分とすべし。凡生を我国に稟くるもの、誰かは国に報ゆるの心なかるべき。」という思想が、国家神道の軍事的側面の柱となることはいうまでもない。

(3) 大日本帝国憲法

明治二二年二月一一日には、紀元節を期して大日本帝国憲法が発布されたが、帝国憲法は、近代国家の憲法としては類例がないほど、強烈な宗教的性格をもち、いわば宗教国家の樹立を内外に宣言した文書でもあつた。至高の宗教的権威をもつ天皇が定めた欽定憲法として、臣民に下賜された帝国憲法の冒頭には、皇室典範と帝国憲法の制定を皇祖(アマテラスオオミカミから神武天皇の祖先)、皇宗(第二代綏靖天皇以後の歴代の天皇)、皇孝(天皇の父、孝明天皇をさす)の神霊に告げる告文がかかげられている。この告文は、神霊に告げることを目的とする明白な宗教文書であり、帝国憲法の宗教的性格を端的に示していた。こうして、神社神道の近代的変容によつて、国家神道体制が国家秩序の根幹となつた。神社神道の民族宗教としての骨格がそのまま生かされたうえで、特殊な創唱宗教が生まれたというべきである。もとより、これは宗教の定義に照らし、後述するとおり宗教そのものである。

(4) 教育勅語・御真影

次いで、明治二三年、「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布される。教育勅語は、国家神道の教典に外ならない。

(5) 国家神道の国民への浸透

こうして、国家神道の体制は整い、日本の国民は幼い子供のころから右のごとき教育を徹底される。国民の中に、国家神道は根深く、しかも、すみずみに至るまで浸透していくことになる。この国民への国家神道の浸透という事態を把握せずして、戦没者慰霊一般を論じようとしても、実質のない空論に終るといつても過言ではなかろう。或いは、このことを抜きにして忠魂碑建立の意味付けを行おうとする議論及びこの認識を欠いた政教分離論もまた無意味といわねばならない。

(三) 国家神道の教義

記紀神話によつて、日本は万世一系の天皇が統治するのだとし、天皇の存在を神聖不可侵としてその崇拝を強制する。そして、これに絶対随順し、皇運を扶翼し身命を捧げる国体の教義こそは、国家神道の教義である。もつとも、天上の神界・高天原を主宰するアマテラスオオミカミが、皇孫ニニギノミコトに命じ、ナカツクニに降らせ、その子孫の神武天皇が大和を平定して第一代天皇となつたとする天壌無窮神勅は、記紀の解釈としてもその正当性は疑わしいものであつたが、いずれにせよ、右のごとき観念を国家成立の前提とする国家体制は、いうまでもなく超自然的・超人間的存在の確信によつてのみ成立しうる国家体制なのであつて、その意味において、旧憲法下のわが国は、文字通り宗教国家と呼ぶ外ない存在であつた。民族宗教としての骨格、合致的宗教集団が全国民的規模・国家的規模で成立したのである。右の如き教義が聖戦に至る大きな要因となつていることは否定の余地がない。すなわち、宗教国家であるが故に文字通りの聖戦(天皇の御稜威を全世界に及ぼすための戦争)が遂行されたのである。こうして、植民地、占領地等にも神社が創建されていき(朝鮮神宮、台湾神宮、建国神廟、昭南神社等)、国家神道はファシズムの観念的支柱・その根幹となつて、恐るべき侵略主義・排外主義が八紘一宇の観念のもとに正当化され実行されていつた。

要するに、国家神道は、政治的軍事的次元の観念と宗教観念とがその構造上、不即不離・密接不可分に合体した宗教に外ならず、それらは分かち難く混淆しており、その混淆こそが国家神道の本質であるといわねばならない。そして、前記招魂の思想こそは、宗教観念でありながら、政治的軍事的観念であるという本質において、国家神道の中核に位置づけられたということができる。国家神道の教義を構造的に分析するのはもとより自由であるが、その分析の結果、恣意的に戦没者慰霊(或いは忠魂碑)を政治的イデオロギーの問題とか社会倫理的な現象とし、宗教性を否定する理論は、国家神道の本質を全く理解できないか故意に歪めようとする者の浅はかな言辞以外ではありえない。

(四) 神社神道・国家神道の宗教性

神社神道は、既に述べたとおりの起源をもつ、いわゆる民族宗教であつて、儀礼中心の宗教であり、また、多様な習合形態、歴史をもつが、神霊等の超自然的・超人間的存在の確信に拠つて成立しているものであることは疑いえない。国家神道は神社神道の近代的変容であり、先にみたとおりの系譜・経緯によつて成立している。既述のとおり、神社神道のいわゆる祭祀と宗教の分離が、国家神道体制を現実に可能なものとしたのであり、政府の公式見解は、神社は宗教に非ずというものであつた。しかし、祭祀と宗教の分離とは国家の官職に属する神官が教化(布教)活動・葬儀から手を引き、国家の祭祀にのみ専念することを意味したにすぎない。しかして、ここでいう国家の祭祀は、前記宮中祭祀を基準とする祭祀であり、いうまでもなく超自然的・超人間的存在の確信に基づいてなされているものである。その確信を欠いたとき、国家の祭祀がたちどころにすべて無意義なものになることは、先に述べたその教義に照らし自明という外ない。神社神道・国家神道が宗教以外の何ものでもないことは、今日、極一部の論者を除いては、宗教学、法律学の世界において常識である。

3 靖国神社と本件各慰霊祭

(一) 靖国神社の性格

東京招魂社の創建は、当時の軍務官によつて行われ、靖国神社として別格官幣社に列するにあたつては、内務、陸軍、海軍の各省の管理下に入つたが、明治二〇年、内務省の神官任免権が、海軍省の神職任免権に改められて以降は、一貫して陸軍省・海軍省の管理するところとなつた。もとより、その管轄如何にかかわらず、靖国神社が国家神道の一つの柱を構成し、むしろ、その基底を支えるべく位置づけられていたことは明らかである。同神社は招魂の思想に基づき国家神道の軍国主義的側面を体現した天皇軍の宗教施設に外ならない。同神社は、別格官幣社の中にあつても、国家神道の要を構成する故に、臨時大祭ごとに天皇の参拝がなされる例で、別格中の別格の扱いを受けたが、右にみたとおり、名実ともに軍の宗教施設であつたという点でも、他の神社の別格であつた。更に同神社は、多数の祭神を祀り、しかもその祭神がいわば無限に増え続けるという構造をもつという意味でも正に特異な性格をもつ神社である。同神社は、天皇軍の忠死者のみを合祀するが、前記招魂の思想及び国家神道の教義からすれば、これこそは同神社の性格の根幹部分である。いわば無名の国民が神となるのは靖国神社に祀られることによつてのみであり、そのためには天皇軍の忠死者になる外ない、という構造は、天皇と国民を結びつける機能を果たし、その教化効果は絶大であつた。ここに宗教の機能が政治によつて利用された極限の形態をみることができる。敗戦後、靖国神社は、一箇の神社として単立の宗教法人となるが、単なる戦没者追悼施設とはなりえず、宗教施設の途が選ばれたのは、いうまでもなく、国家神道の中で占めるその宗教的地位の大きさ(極めて濃密な宗教性)による。ここで、指摘しておかねばならないのは、靖国神社の性格は、今日に至るまで当然のことではあるが、全く変わつていないということである。

(二) 靖国神社の宗教性・教義

靖国神社が宗教団体であり、宗教施設であることは、もとより当事者間に争いがない。政府の公式見解もこれを認める。ちなみに宗教法人靖国神社の目的は、「本法人は明治天皇の宣せられ給うた安国の聖旨に基づき国事に殉じられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与し、その他神社の目的を達成するための業務を行う」というものである。甲二三二号証(三浦永光「遺族として靖国を問う」)は、靖国神社の教義の中味を、① 人間の死後、死者の霊が存在する。② 戦争において天皇に忠節を尽くして国に殉じた者は靖国神社の祭神とされる。③ 戦没者の霊は靖国神社の合祀の祭において招き降ろされ、祭神として本殿に鎮められる。④ 英霊は靖国神社の祭祀において戦死に至るまでの忠節を表彰され、感謝される。英霊はこれを喜び、慰められる。⑤ 慰霊祭に参加した者は英霊の殉国の精神を継承することを英霊の前に誓い、英霊の加護を祈念する、と結論づけている。

ここにみられる同神社の教義は、正に超自然的・超人間的存在の確信そのものである。むろん、そればかりではない。要するに、靖国神社教義は、東京招魂社の性格が検討された際の陸軍省第一局長名の意見書にみられる思想と同質なのである。或いは、忠魂という言葉が招魂の思想に伴つて、用いられ出したころの観念と同じである。つまりは、忠魂(英霊)を慰むる招魂の思想そのものである。更にいえば、国家神道の教義と同根同質である。なるほど、国家神道は国家体制としてのそれは解体した。しかし、その宗教の教義は、宗教である以上今日も生きていることは疑いなく、その教義の継承という意味において、現在の靖国神社は、これを戦後の(現在の)国家神道と呼んで何らさしつかえない存在である。付言すれば、むろん、宗教が宗教である以上、現憲法下において信教の自由の見地から、これが尊重されるのは当然である。いかに反憲法的性格を有していても、その性格自体を現憲法が禁ずるなどということはありえない。現憲法は、かかるものも許容する。しかし、当然のことながら、そのことと、国や地方公共団体等の公がかかる宗教的・反憲法的性格を有する団体等に関与することとは全く別個の問題である。この点においても現憲法は、旧憲法下のわが国の歴史に対する的確な反省のうえにたつてその秩序を規定している。

(三) 本件各慰霊祭と靖国神社

第一審被告らは、忠魂碑を靖国神社・招魂社(護国神社)・忠霊塔とは別個の系列下の記念碑だと主張し、他方でまた、靖国神社という宗教の宗教儀礼であるならば神仏交替形式になるはずがないと主張し、本件忠魂碑及び本件各慰霊祭と靖国神社との切り離しを試みているが、これらの主張が全く無意味な主張でしかないことは、戦没者慰霊祭の起源と歴史・戦没者慰霊の背景を理解すれば自ずと明らかであろう。前者の主張は、そもそも忠魂という言葉自体の歴史的性格・固有の意味と国家神道の国民への浸透という事態に故意に眼をつぶらない限り主張しようのない立論であり、更に、微細にみれば、第一審被告らの「忠魂碑は、政府の統制下に神社化された取扱いがなされていない。」という主張は、せいぜい内務省神社局の方針と軍の意向とがいわばずれていたという事実を示しているものにすぎないのである。もともと忠魂碑は、純然たる民間の主導で建つたものではない。後者の主張についても、神仏併用が国家神道下の市町村レベルの招魂祭ではむしろ通常であることは既にみたとおりである。靖国神社が戦後の現在の国家神道であるとき、市町村レベルでの慰霊祭が、国家神道下において神仏併用であつたその形式をそのまま引き継ぎ、神仏交替であることに何ら不思議はなく、むしろ神仏交替という形式の上に君臨する戦後の現在の国家神道の姿が視えてくるばかりである。

靖国神社に合祀された祭神が同様に祀られていると観念されているその忠魂碑前で行われ、あくまでも忠魂にこだわつて行われる「忠魂を慰める」慰霊祭は、靖国神社の祭祀と同根同質の宗教儀礼であることを否定すべくもない。それは、前記招魂の思想、靖国神社教義に基づく英霊(忠魂)信仰、の宗教儀礼という外ない。実際、本件慰霊祭における市長の式辞は「御尊霊はいく度かの戦争に一身を顧みず死地に赴き祖国日本の興隆を祈り勇戦奮闘され散華された」であり、神職の祝詞は「戦争に立ち向い輝かしく勇ましく交戦し雄々しく散つた勲功を讃え」であり、道師表白文は「国の鎮めの礎となり祖国の平和と繁栄を招来した尊いみわざごとは永久に忘れ得ぬ勲」であり、遺族会長の式辞は「今日の故国の平和と繁栄は身を以つて国難に殉ぜられた尊い生命の礎のうえに築かれていることを肝に銘じ心から崇敬と感謝の誠を捧げる」というものであつて、これは前記招魂の思想そのものという外なく、少くともそれとの著しい親和性は明白である。更にいえば、第一審被告らは、本件忠魂碑及び慰霊祭と靖国神社との切り離しを試みる一方では、市遺族会がどのような形式で慰霊祭を行おうと、それは信教の自由の問題だとして、市遺族会及び日本遺族会の靖国神社、護国神社等との抜き難い関係についてさしたる論及をしていないが、その実態を把握してなお、靖国神社による戦没者慰霊と本件忠魂碑前の慰霊祭の戦没者慰霊とを切り離すことなどは、およそ不可能である。

以上述べたとおり、本件各慰霊祭は、戦没者慰霊を規定づけた背景となる事情・その起源・歴史的沿革、現に行われているその中味、靖国神社との抜き難い関係性に照らし、疑いようもなく靖国神社(その性格、宗教性・教義)による戦没者慰霊祭と同根同質の宗教儀礼である。

三 本件各慰霊祭の反憲法的性格

本件各慰霊祭の根本的な性質は、前記の如き内容をもつ招魂の思想、靖国神社の教義に基づく英霊信仰にある。したがつて、本件各慰霊祭は、その宗教性の極めて濃密な宗教儀礼そのものであり、また、現憲法の理念、すなわち個人の尊厳、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権に悉く反する性格をもつているといわねばならない。ところで、第一審被告らの主張する社会儀礼論・習俗論等については、原判決の排斥したとおりであり、これらの主張が悉く失当であることは既述したところから明瞭に示されている。

第一審被告らは、参列・参拝が主体的参加かどうかなどということを問題としているが、その立論自体恣意的で趣旨不明であるうえ、本件事実関係からすれば、市の関与は、はなはだしい過度のかかわりで、正に主体的という外ないのである。その言うところの儀礼的あいさつすら前記招魂の思想に極めて親和性のある内容を述べてしまうのはどういうことなのだろうか、と問わねばなるまい。あわれな犠牲者といえという方がどうかしているのなら、聖戦の実態に照らし、御尊霊は祖国日本の興隆を祈り勇戦奮闘され散華したというのもどうかしているという外ない。これが、参列者個人の信念の表白ではないのならば、宗教儀礼の機能故に、その作用に拠つて、心にもないことを述べさせられてしまつたその典型例といわねばならない。これは、宗教の機能を十全に発揮するだけ当該儀礼の宗教性が濃密なことの証左である。市長個人は、宗教的寛容の精神の故、内心痛痒を感じなかつたかもしれないが、外的に表出されてしまうところの意味は重大であり、誰もが、市長同様の寛容の精神などを有しているわけではないのである。そして、その寛容さが、やがては、心の奥底で否認しながら声高に招魂の思想を喧伝することを慣習化させるのである。もとより、参加者の意識によつて宗教性を判断するという論法が、宗教学的にも全く無意味な立論であることはいうまでもない。

更に、忠魂をめぐる招魂の思想や国家神道的観念が風化しているとか、その宗教性が稀薄化しているという立論もおよそ採るに足りないものである。第一審被告らすら違憲の疑いをもつ靖国神社公式参拝を政府に実行させるだけの実力のある圧力団体が存在するのに、なお風化を肯認して語ることのできる呑気さはほとんど理解し難いから、これは故意の詭弁とみる外あるまい。今日の状況が風化にみえ、或いは本件各慰霊祭によつて戦争が讃美されているというのが、第一審原告らの妄想にしかみえないのも、あながち不思議ではないというべきかもしれない。しかし、一宗教である国家神道が他宗教のうえに君臨し、その教義を許容しない宗教を徹底的に弾圧し排除し、外にむけて聖戦の名のもとに血で血を洗う陰惨な戦争を起したのであり、これはわが国の宗教事情と決して無縁ではない。第一審被告らは、前提となる歴史認識を根本的に全く誤つており、あるいは故意に歪められているから、現状に対する認識もこれを到底措信することはできない筋合となる。むろん、復古的・伝統的な天皇制イデオロギーへの回帰にしか国民精神総動員の論理を見出せない支配層の苦悩が集中的に表出している、とはいえるかもしれない。しかし、わが国においては近代的変容によつて一千年以上前の古代的な宗教的権威がよみがえり、わずか四〇年余り前まで、その権威が絶大だつたのである。現憲法のもと、そのままの復活がありえないとしたところで、国民の不断の努力によつて、現憲法の理念が堅持されなければ、現代的変容により変装を経て、前記招魂の思想が、国民を支配していく事態がありえないという保証はどこにも存しないのである。むしろ、第一審被告らの理論こそは、現代的変装の端緒となるものという外ない。これによつて、宗教に対する公の関与が是認されるようになるのならば、正に、現代的変容・変装による新たな国家神道体制の始まりである。

なお、いわゆる風化論や習俗論に対しては、別の角度から今一度、本件各慰霊祭の宗教性の濃密さと反憲法的性格の強度さを確認しておく必要があろう。本件にとつて極めて重要な視点と思われる違和感の問題がそれである。すなわち、甲三三七号証(「戦争体験世代は忠魂碑をどうみるか」)は本件忠魂碑や本件各慰霊祭、忠魂による慰霊について多くの人が違和感(それも忌避の念や嫌悪感等の強い感情)をもつことを明らかにしている。これは、そこに存する観念ないし観念体系が特異であり、一種濃密であることからくる当然の反応に外なるまい。歴史的経緯からみても、この反応の方は決して特異なものではなく、むしろ人間としての心情といえることこそは明白である。そして、前記招魂の思想が、宗教観念と政治的、軍事的観念の混淆を本質とするところに照らすならば、この違和感は、その不可分一体となつた宗教性及び反公益性を如実に浮彫にしているといえよう。これらの違和感を無視し、風化や習俗等と主張できる感覚は正にどうかしている。

以上縷縷述べたとおり、第一審被告らの立論は、既述したわが国における戦没者慰霊を規定づけた背景・その起源・歴史に対する認識を全く欠落させ、結局のところ、今なおその内実が生きている国家神道を擁護する理論を展開するものに外ならない。

第三 市遺族会の宗教団体性及び反憲法的性格

一 市遺族会と「宗教上の組織若しくは団体」

1 憲法八九条前段の解釈

(一) 政教分離原則の立法趣旨

憲法八九条前段の公金支出禁止の規定は、同法二〇条一項、三項の規定とともに、政教分離の原則を財政面からうたつたものであり、まず信教の自由を保障するために必要とされ、つぎに、それは、国民の多様な価値観ないし良心が単一化されることを防止し、民主主義を確立するために不可欠である。更に、わが国における政教分離原則特有の立法趣旨として、国家神道が再び公認され極端な国家主義・軍国主義が復活することに対する防波堤の役割を果たすことである。憲法の定める政教分離原則は、大日本帝国憲法下での国家神道体制が招来した宗教弾圧、思想弾圧、軍国主義体制の歴史の深刻な反省の上に立つて立法され、信教の自由を保障し民主主義を確立することによつて、政府の行為によつて再び戦争の惨禍を起こさないようにすることを目的としており、そのためにこそ国家と宗教とを完全に分離することを理想として、規定されたものである。

(二) 「宗教上の組織若しくは団体」の解釈

憲法八九条前段は、右のごとき趣旨を有する政教分離原則を、財政面から規定した条項である。国家と宗教との特別の関係は、財政政策的、法制度的、人的等々さまざまの形態で起こりうる。その一部は、これを国家による特権の付与又は宗教による政治上の権力の行使ないし国家自身の宗教的活動として、同法二〇条一項後段および三項によつて規制することができる。この規制の網からもれるものについては、右の宗教と国家との特別の関係のいずれの場合にも、究極的には国費の支出ないし公有財産の供用を伴うことが予想されるところから、重ねて本条を設け、公金支出等をメルクマールとして国家と宗教との癒着を防止せんとしたものと解される。

そこで本条は、広く宗教上の事業ないし活動に対して公的な財政援助を与えてはならないとするものと解すべきである。なぜなら、もしも、本条が厳格な意味における宗教団体、すなわち本来それ自身宗教的事業・活動を目的とする団体に着目した規定であるとするならば、形式的には非宗教団体として設立されている団体でさえあれば、その行う宗教的事業・活動に対する援助や便宜の提供は禁止されないこととなり、本条の趣旨が失われることとなるからである。したがつて、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」の解釈としては、宗教団体はもちろんのこと、広く宗教に関係ある事業若しくは活動そのものを指すと解すべきである(以下、この解釈を「広義の宗教団体」という。)これに対して、これを極めて狭く、一定の教義を有し、これを布教宣伝することを目的とする教団、教派、教会等の宗教団体のみに限定して解釈する説がある(以下、これを「最狭義の宗教団体」という。)。或いはせいぜい、信仰についての意見の一般的な一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合との程度に解釈する説もある(以下、これを「狭義の宗教団体」という。)。狭義の宗教団体には、教団、教派、教会等の信者団体や奉讃団体が含まれるであろう点において、最狭義の宗教団体との間に違いがある。しかし、このような狭い解釈では、形式的には非宗教団体として設立されている団体でさえあれば、その行う宗教的事業・活動に対する援助や便宜の提供は禁止されないこととなり、本条の趣旨が失われる。最狭義の宗教団体や、狭義の宗教団体の解釈では不十分であることは、つぎの例により明らかである。一定の教義を有しこれを布教宣伝することを目的とする宗教団体でも、信者団体でもない町内会の場合を考えてみる。今もし、このような町内会が、土地の氏神の祭礼を行う費用について、国ないし当該地域の地方公共団体から補助金の交付を受けたとする。それは、そのような氏神信仰を有しない国民ないし住民の納付した税金を、それらの人々の承認し得ない目的のために使用したこととなる。それとともに、氏神信仰が公認の信仰であるかのごとき外観をつくり出し、その他の宗教・信仰を有する者や、どのような宗教をも信じない者を疎外してしまう。かくして、気づかないうちに、政治の世界に深刻な紛争を持ち込む結果となる。そこで、このような補助金支出は禁止されるべきであるが、その際政教分離の見地から当該町内会を端的に「宗教上の組織若しくは団体」と捉え、憲法八九条前段を適用するのがもつとも適当な処理であろう。また、かつて自衛隊内部で、自衛官有志が隊内に神社を建立したため憲法問題として世論に批判され、上官の命により結局これを取壊した事件があつた。この場合にも、当該自衛官有志が、神社信仰の教義を受け容れ、これを布教宣伝することを目的とする組織又は団体(最狭義の宗教団体)、若しくは神道の信徒団体又は奉讃団体と把握しうるもの(狭義の宗教団体)を結成していたとは受けとれない。ただ、当該自衛官有志が集つて、神社を建立するという一回限りの宗教上の事業ないし活動をしただけである。しかし、その有志自衛官の集りの要請に応じて、隊内に神社の建立を許容することの是非が問題となつた。そして、結論として、このようなことを許容することは、公の財産を宗教に関係ある活動に利用せしめるものとして、憲法八九条前段に違反すると解されたものと推測される。この場合にも、当該自衛官有志の集りが広い意味で「宗教上の組織若しくは団体」(広義の宗教団体)に該当すると判断されたものとみることができる。

憲法の条文にも原則規定と例外規定がある。およそ法における原則規定は、その立法趣旨に反しない限りで、できるだけ広い解釈をとるべきである。原則規定を形式的に狭く解釈することは、脱法行為を許すことにつながるからである。わが国憲法の人権保障規定は、そのほとんどすべてが、人権保障のための原則規定である。これらの規定をそれぞれの立法趣旨に従つて広く解釈することは、脱法的人権侵害を防止し、基本的人権の保障を厚くすることであり、合理的理由がある。

2 市遺族会と日本遺族会との関係

(一) 寄付行為、規約等にみる組織的つながり

日本遺族会は、各都道府県に独立した法人格をもつた遺族会を組織しており、これを支部と呼んでいる。財団法人大阪府遺族会(本件当時。但し、後に財団法人大阪府遺族連合会と改称。以下「府遺族会」ともいう。)は、大阪府に置かれた日本遺族会の支部である。府遺族会は、大阪市の各区、衛星都市及び郡に単位遺族会を組織しており、これをやはり支部と呼んでいる。市遺族会は、府遺族会の箕面支部である。すなわち、遺族会の組織は、日本遺族会、府遺族会、市遺族会という一体不可分の構造をなしている。この構造を役員構成の面から観察すると、つぎのとおりである。末端の最小単位の遺族会である市遺族会の会長は、府遺族会箕面支部の支部長であり(甲一六六号証)、当然に府遺族会の評議員となる(乙五七号証)。府遺族会をはじめとする各都道府県単位の遺族会で選出された者が日本遺族会の評議員となる(甲一七九号証)。日本遺族会の評議員は評議員会を構成し、この評議員会は執行機関である理事会構成員たる理事を選任し、かつ、会長、副会長を指名する権限を有する最高議決機関である。よつて、日本遺族会、府遺族会、市遺族会は一体的全国組織及びその各レベルにおける部分である。すなわち、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部である。

(二) 活動方針にみる組織的つながり

昭和三七年、日本遺族会は、英霊精神に関する報告書と題する文書を発表した。この報告書は、同会の理事会によつて設置された基本問題調査部が、約二年の歳月をかけて検討した結果をまとめた重要文書であり、九年後の昭和四六年、同会の理事会・評議員会は、新体制確立特別委員会のとりまとめた日本遺族会の今後のあり方についての報告書を審議のうえ、これを全面的に承認決定した。これらによれば、遺族会の活動は、不可分一体の全国的組織として展開されている。会の基礎をなす市町村遺族会の重要性は認識されているが、支部はあくまで支部であり、独自の立場は制約され、支部の特殊事情のために決定事項が実行されなかつたり、実行への熱意を欠くことは、是認しがたいとされている。特に、基本問題調査会報告書で指摘されているように、英霊の顕彰すなわち靖国神社の国家護持及び護国神社の都道府県護持と、遺族の処遇改善という基本事業については、支部が独自の立場をとることは、許されないのである。

3 日本遺族会の性格と活動の実態

往々にして、日本遺族会は戦没者遺族の代名詞のように考えられ、遺族全体の組織であるかのように取り扱われることがあるが、これは誤りである。同会は、単に遺族のうち靖国神社の祭祀を積極的若しくは消極的に支持する約半数の部分を組織しえているにすぎない。同会の思想と活動に積極的若しくは消極的に反対する遺族もほぼ同数いることを忘れてはならない。戦没者の遺族としての共通の立場にもかかわらず、このような分裂状態が存在するのは、同会のもつ特定の宗教色と、それに染まつた活動の実態がもたらした当然の結果である。

(一) 靖国神社の信徒の団体

靖国神社は、明治天皇の聖旨に基づき戦没者を神として祭つてきた神社である。戦争に破れ、わが国憲法が制定されるという大きな社会変動があつた後においても、この靖国神社の祭祀をすべての国民或いはすべての遺族が支持しているとみることの誤りは明らかである。しかるに、敗戦後においてなお変わらず靖国神社の伝統と祭祀を支持し、同祭祀が国家自身の事業であることを求める一部の戦没者遺族がいた。ある時、それら一部の遺族が集り、組織したのが日本遺族厚生連盟であり、日本遺族会であつた。日本遺族会十五年史は、「戦没者遺族に、精神的に大きな打撃をあたえたのは、前記の昭和二十年十二月十五日の神道指令であつた。国のために尊い生命を捧げた人を尊び、これに感謝することは、古今東西を通ずる人間としての至情である。わが国においては、明治天皇の思召により国のために尊い生命を捧げた人々の霊を靖国神社に奉斎し、全国民が感謝の誠を捧げることは、日本人の生活の中に、清く、深く、とり入れられていた。この神道指令によつて、靖国神社と国家とのつながりは断ち切られた。戦没者遺族は、大きな精神的な拠り所を失つた。」と記し、日本遺族会を組織したこの一部遺族と靖国神社との、切つても切れない靱帯を余すことなく伝えている。

このように靖国神社の祭祀を支持する日本遺族会の会員たる遺族は、同神社の崇敬者にほかならない。崇敬者とは神社の信徒と同義であり、神社の信者の別名である。崇敬者としての遺族は、単に靖国神社による教化育成の対象たるにとどまらない。同神社の構成員ないし機関としても重要な役割を果たしている。すなわち、靖国神社の執行機関は役員会であるが(宗教法人靖国神社規則八条)、役員会を構成する五人の責任役員(同四条)のうち三名は、神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者の中から任命されなければならないとされているのである(同五条二項二号)。更に、代表役員(宮司)の委嘱に基づき、崇敬者中から崇敬者総代一〇名が選ばれ、最高議決機関である崇敬者総代会を組織する(同一六、一四条)。このように、神社を信奉する祭神の遺族は、崇敬者の筆頭として靖国神社の組織において最も重要な地位を占めている。靖国神社が戦後宗教法人組織に衣替えをした最初の責任役員の少なくとも一名が、日本遺族厚生連盟の理事であつたのも、その後も現在に至るまで、賀屋興宣が会長に就任した昭和三七年以来はまちがいなく、日本遺族会の歴代の会長が継続的に靖国神社の責任役員に就任してきたのも、同会が靖国神社の崇敬者の団体であることによる。

一方、靖国神社も、敗戦後同神社の存続の基盤を確保するため、崇敬者の組織化に極めて熱心で、日本遺族会の前身である日本遺族厚生連盟の発足そのものに、すでに重要な役割を果たしていた。すなわち、当時の靖国神社の事務総長であつた大谷藤之助は、敗戦直後から全国各地を巡歴して遺族の組織を結成するよう勧奨して歩いていた。そして、同人は、昭和二二年一一月、連盟の結成大会に出席し、新たに結成される遺族の全国組織の理事長として、元貴族院議員の長島銀蔵を推薦、就任せしめた。大谷藤之助は、その後連盟が日本遺族会に組織替えになつてからも、長く遺族会の運動に関わり、影響力を行使した。更に、昭和二八年の日本遺族会発足当時の一二名の理事のうちに、靖国神社の初代代表役員である宮司筑波藤麿が入つていたことを見落してはならない。同宮司は、その後日本遺族会の寄附行為が改正され、理事の改選があつてからも、しばらくは議長指名理事として名を連ねていた。日本遺族会の発足直後の同年一一月、早速、同会と靖国神社とが中心となつて戦没者の合祀費用を調達するため、靖国神社奉讃会を設立した。同会の理事長には前述の富山県遺族会会長、日本遺族会理事兼靖国神社崇敬者総代の館哲二が就任した。常務理事には、主として他の崇敬者総代と権宮司、前記大谷事務総長など同神社の要職にある者が就任した。その他の理事は、全国都道府県の遺族会長がそのまま奉讃会の理事となる仕組みで、靖国神社奉讃会の実働部隊は日本遺族会が担当したのである。同会は、昭和三六年に合祀が概ね完了し目的を達したとして解散するまで、八年間存続した。

以上のとおり、日本遺族会が戦没者を祀る靖国神社の祭祀を支持し、同神社を信奉する者の団体であるという意味において、同神社の崇敬者・信徒の団体であることに一点の疑いをさしはさむ余地もない。

(二) 日本遺族会の活動実態

(1) 英霊顕彰事業の実態

遺族会の第一の目的は、英霊の顕彰である。これが最重要の目的とされている(甲一一八号証の一ないし六、乙五六号証)。日本遺族会の寄附行為「第二章 目的と事業」の第二条は、英霊の顕彰を第一に掲げ、このことを明確に規定している。府遺族会の寄附行為「第一章 総則」の第一条にも英霊の顕彰を第一とする同様の規定がある。日本遺族会の現実の活動方針も、英霊の顕彰を最重要の目的としている。このように、日本遺族会が何よりもまず英霊の顕彰を目的とする組織であることは、一点の疑いもない。英霊の顕彰を目的とする日本遺族会の最大の事業は、英霊の顕彰と慰霊の事業である。日本遺族会の寄附行為「第二章 目的と事業」の第三条は、このことを明確に規定している。府遺族会の寄附行為「第一章 総則」の第二条にも同様の規定がある。ここに示されている英霊顕彰事業の具体的内容は、戦没者が靖国神社や護国神社に祭神として祭られていることを前提にした上で、① 靖国神社及び護国神社の例大祭等への奉仕、② 毎年の慰霊祭執行、③ 遺族・遺児の靖国神社参拝の組織と世話である。

このように、日本遺族会のいう英霊の顕彰・慰霊の事業とは、何よりもまず、靖国神社(護国神社)への合祀に始まり毎年の例大祭で繰り返される戦没者慰霊の祭祀をますます盛んにすることであり、それ故に、これをとり行う靖国神社(護国神社)の国家(都道府県)護持を実現することである。

(2) 英霊にこたえる会と日本遺族会の一体性

日本遺族会は早くから、英霊顕彰と慰霊の事業の中心的内容として、靖国神社の国家護持推進を打ち出してきた。英霊の顕彰イコール靖国神社国家護持ないし靖国神社公式参拝の実現の運動は、同会の総力を挙げて極めて積極的に取り組まれてきた。昭和五一年には、日本遺族会が中心となつて、英霊顕彰、靖国神社等における慰霊顕彰、靖国神社公式参拝実現等を目的事業とする「英霊にこたえる会」が結成された。日本遺族会はその中央本部を同会内に引き受け、両会の中央・地方の各組織が緊密に連携して右事業を推進している。両会は、事実上、一体であるとみてよい。「英霊にこたえる会」というこの新国民組織のねらいは、国会と相呼応して国民運動を展開し、国民的な関心を喚起するとともに、既成事実を作りあげて行くことである。具体的には、天皇や総理、国賓等の公式参拝の実現、慰霊の日制定、憲法解釈の是正、靖国神社における国民的大慰霊祭、靖国神社国家護持に関する啓蒙宣伝活動である。このような実態に照らしてみれば、「英霊にこたえる会」と遺族会とは一体不可分であつて、前述の「英霊にこたえる会」の目的、事業はすなわち日本遺族会の目的、事業に外ならない。

(3) 遺族の処遇改善事業の実態

日本遺族会は、常々、同会が福祉団体であるとの主張をする。その時に持ち出されるのが、遺族の処遇改善事業である。

しかしながら、同会のいう戦没者遺族の処遇改善とは、つまるところ、同会会員自身のためにする戦傷病者戦没者遺族等援護法、戦没者等の妻に対する特別弔慰金支給法、戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法、戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者の父母等に対する特別給付金支給法、旧軍人等の遺族に対する恩給等の特例に関する法律、戦傷病者特別援護法等による国家補償の制度の新設、増額、継続の要求にすぎず、何ら自己以外の社会的弱者のための活動ではない。同会が自己のためにするこの要求運動にいかに熱心で、要求実現のためには集団での座り込み、断食、推薦自民党議員に対する圧力等手段を選ばず行動するかは、前掲の日本遺族会十五年史や、大阪府遺族連合会の寺野勇前会長の演説に明らかである。

ところで、日本遺族会がその復活を渇望した軍人恩給は、敗戦直後の昭和二一年二月、「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」に基づき法律的効力を有する勅令「恩給法ノ特例ニ関スル件」の公布によつて停止・制限されていた。この処置の趣旨は、社会福祉上の配慮によるものであつた。日本遺族会は、このような趣旨により停止・制限された軍人恩給等の復活を強力に推進し、朝鮮戦争勃発後の占領政策の変化と、日本政府の反動化の流れの始りの中で成果をあげてきた。前記各法律はその成果の法的表現である。受給者の貧富や困窮の度合とは無関係に、基本的に軍隊における階級を基準として支給されるこれらの給付金は、到底社会福祉の理念に基づく給付とはいいがたい。

日本遺族会にとつて、これら経済的要求は英霊顕彰事業と別個独立のものとは決して意識されていない。処遇改善といわれる時の処遇とは、あくまで国家による戦没者の位置づけ、ひいてはその遺族の位置づけなのである。したがつて、これを改善せよという要求は、単に右の経済要求にとどまらず、いわば戦没者の名誉の全面的回復の要求なのである。すなわち、経済的要求は、戦没者が敗戦までと同じように国家護持された靖国神社において公的な祭祀によつて慰霊されることの要求と切つても切れないものであり、政府と全国民が戦没者に英霊として感謝の誠を捧げるべきだとの思想に、その正当性の主観的根拠を置いているのである。

(三) 地方支部としての活動

市遺族会は府遺族会及び日本遺族会の地方支部である。市遺族会は、府遺族会に役員を派遣し、更に府遺族会は日本遺族会に役員を派遣している。このようなピラミッド型の組織体制のもとで、日本遺族会の全体としての活動の方針及び内容が決定される。日本遺族会で決定された活動の方針及び内容は、府遺族会を通じて市遺族会に浸透徹底され、実行に移される。経済面に目を向けると、市遺族会は、その収入の一部を支部分担金として府遺族会に上納し、青年部会費を日本遺族会と府遺族会に納入し、日本遺族政治連盟に支部として組織加入し、処遇改善要求のための運動資金を会員から徴収してこれを府遺族会に納入するなどして、日本遺族会と府遺族会の組織の維持発展に大いに貢献している。

(四) 市遺族会の英霊顕彰事業

市遺族会は、前記英霊顕彰事業の一環として、左の各活動を組織として常時又は定期的に継続して行つてきた。

(1) 本件忠魂碑を御霊代として、これに戦没者を英霊として合祀し、慰霊し、祭祀すること。

(2) 同碑による神式又は仏式の慰霊祭を例年執行すること。

(3) 毎年、靖国神社へ集団参拝をすること。

(4) 大阪護国神社と毎年春秋各例大祭を共催(府遺族会の支部として)し、また、役員、会員の集団参拝をし、神饌料の奉献をすること。

(5) 毎年一二月初旬、大阪護国神社発行のいわゆる神社暦を会員に配布し、同神社に対し初穂料(神社へのお供物)を奉献すること。

(6) 大阪市天王寺区の四天王寺の英霊堂の護持を目的とする事業に参加し、四天王寺の英霊お盆大祭に協賛して(府遺族会の支部として)これに集団参拝し、英霊堂に燈明料を供えること。

(五) 市遺族会のその他の活動

右(三)、(四)に列記した以外の市遺族会の活動としては、毎年日帰りで行われる秋季バス慰安旅行の外には見るべきものはない。

4 日本遺族会の宗教団体性

(一) 合祀祭

日本遺族会のいう英霊の顕彰と慰霊は、戦没者の霊が靖国神社の祭神とされ、すでに祀られている祭神と共に合祀されることによつて始まる。この合祀の祭りは靖国神社の重要な祭祀である。ところで、靖国神社において合祀祭という言葉は広義と狭義、二通りに使われている。広義の合祀祭とは、前夜に行われる①招魂式と②霊璽奉安祭及びこれらの祭を受けて、③翌日に天皇又は勅使の参拝を中心として行われる祭の全部を指す。狭義の合祀祭とは、このうち招魂式と霊璽奉安祭を除いた、③の天皇又は勅使が参拝して行われる祭のことをいう。

(1) 招魂式

招魂式は、戦没者の霊魂を靖国神社の境内に招き降ろし、霊璽簿と呼ばれる戦没者名簿に乗り移らせる儀式である。

(2) 霊璽奉安祭

招魂式に続いて、霊璽奉安祭が行われる。これは霊が乗り移つた霊璽簿を御羽車で移動し、本殿の内陣に納め安置する儀式である。このように執り行われる霊璽奉安祭の意義は、戦没者の霊を靖国の社に鎮座せしめることにある。中国大陸や東南アジアで戦死した死者の霊が靖国神社の境内に招かれて降り来たり、霊璽簿に寄りつき、本殿に鎮座するということは、誰もが信じうることではない。それはある宗教的信仰をもつて初めて受け入れることができるものであり、一つの教義であるといわねばならない。

(3) 狭義の合祀祭

最後に、狭義の合祀祭が行われる。これは、招魂式と霊璽奉安祭が行われた夜の翌日に執り行われる。この合祀祭に勅使(時には天皇自ら)が参拝し、神前に祭文を奏上する。戦没者の霊は天皇又はその代理の参拝を受けて初めて正式に祭神とされ、すでに祀られている祭神と共に合祀されることになる。祭神の決定が天皇の裁可を必要とするのと同様に、現実の合祀においても、戦没者の霊が神霊とされることを認証する天皇の行為、すなわち参拝が必要とされるのである。

日本遺族会は、靖国神社国家護持に関連して、合祀祭には天皇の御使をもつて祭主とすることを主張し、戦前の合祀の形態を継承しようとしている。

以上から明らかなように、広義の合祀祭の中に含まれる教義は、戦没者の霊がこの祭祀を通して靖国神社に招かれ、鎮座せしめられ、天皇によつて神とされるというものである。

(二) 例大祭

英霊の顕彰と慰霊において、靖国神社への合祀はあくまで条件の整備、永遠に続けられるべき祭祀の始りにすぎない。合祀された英霊に対しては、毎年春秋の例大祭が行われるのである。その祭式は、つぎのとおりである。まず清祓(神職、殿舎、諸祭器具を祓い清める儀式)が行われる。当日祭には、遺族その他の崇敬者、政財界の代表等が拝殿に多数参列する。奏楽とともに本殿の内陣の扉を開き、神霊を招き出す。奏楽とともに幣帛(神に献げる布・糸など)と神饌(山海の食物)が神前に献げられる。続いて宮司が祝詞を奏上。つぎに勅使が幣物をたずさえて参向し、祭文を奏上。鎮魂頌の斉唱の後、宮司が玉串を奉り、拝礼する。続いて、参列者がつぎつぎと本殿に昇つて玉串を奉り、拝礼して退場する。最後に、直会祭(供え物を下ろして飲食する。)を行い、例大祭を終わる。この例大祭を毎年盛んにすることによつて、英霊は慰められ、また後に触れるように、英霊の加護が期待できるとされている。これもまた、一つの宗教的観念であり、靖国神社の教義ということができる。

(三) 日本遺族会主催の慰霊祭

日本遺族会が主催又は共催して靖国神社で行う慰霊祭の祭式も右の例大祭のそれとほぼ同様である。昭和四〇年一〇月二日、日本遺族会は、靖国神社において「終戦二十周年全国戦没者大慰霊祭」を主催したが、この時の進行の次第はつぎのとおりであつた。各都道府県から集つた遺族と、来賓が参列。航空自衛隊音楽隊による「海ゆかば」の奏楽。つぎに修祓。「山の幸」奏楽のうちに、献饌。続いて宮司の祝詞奏上、及び賀屋興宣会長の祭文奏上。この後、「靖国神社の歌」の奏楽。最後に、「鎮魂歌」の曲が流れる中を賀屋会長、来賓、遺族代表らが順々に昇殿し、玉串を奉奠して拝礼。こうして慰霊祭は終了した。

(四) 日本遺族会主催の慰霊祭と靖国神社の例大祭との類似

右にみたように、日本遺族会が主催する慰霊祭は、その祭祀形態において靖国神社の例大祭と基本的に同じである。靖国神社において、靖国神社の神職の奉仕によつて行われる以上、これは当然のことであろう。また、さきにみたとおり、靖国神社の祭祀が神社神道の形をとつているから、日本遺族会の慰霊祭も、神社神道の祭祀と基本的に同じ祭式に従つているのである。換言すれば、日本遺族会はその慰霊祭の祭式(修祓、献饌、祝詞、祭文、玉串、拝礼など)を通して、戦没者の霊を、神社神道が諸神を祭るのと同じ仕方で祭り、崇敬しているのである。

(五) 祭文にみる英霊の顕彰の思想内容

さらに、日本遺族会は、祭文奏上により戦没者の生前の行為をたたえ、感謝している。彼らの従軍と戦闘が、勇戦奮闘、遂に散華され祖国のいしずえとなられた尊き御遺徳、尊き犠牲と献身と賞賛され、祖国の安泰と繁栄のために必要かつ有意義な行為であつたと評価される。それ故、国民は英霊を感謝敬仰の念をもつて記念する、というのである。戦死を有意義な犠牲として評価し、戦没者を神としてたたえる態度は、慰霊祭で演奏された「靖国神社の歌」(日本遺族会制定)の歌詞にも見ることができる。

(六) 英霊の顕彰と慰霊の関係

慰霊とは、文字どおり霊を慰めることである。霊は死者の霊、戦没者の霊を指す。右にみた慰霊祭の次第とその祭文及び日本遺族会の諸文書をみる限り、慰霊は、英霊の顕彰から分離して別個に行われるのではなく、顕彰が同時に慰霊であると考えられていることは明らかである。英霊の遺徳を顕彰することが、英霊を慰めることになる。国の平和と安全のために戦没者が尊い生命を捧げたことが、慰霊祭を通して広く国民に知られ、国民がこれを感謝し、英霊に敬意と追慕の念を表すこと、それが英霊にとつて慰めとなるのである。そして何よりも、天皇が靖国神社に参拝し、英霊に対し拝礼することが、戦没者の戦死に対する嘉賞の念を表わしたことになり、慰霊の誠を尽したことになる。神霊はこれを特別の喜びとし光栄とするのである。

現在は、靖国神社の例大祭も日本遺族会の慰霊祭も民間団体主催の儀式にすぎず、天皇の靖国神社参拝も私的な行為にすぎないが、いつか靖国神社国家護持が実現した暁には、天皇が首相、閣僚らと共に公的資格で慰霊祭に臨席することが期待されている。

(七) 日本遺族会の英霊の顕彰と慰霊の教義

以上にみたとおり、靖国神社の例大祭と日本遺族会の慰霊祭において表現される中心的内容は、英霊の顕彰・慰霊である。そしてこの英霊の顕彰・慰霊こそ、これらの祭祀を貫いて流れる根本の観念にほかならない。この観念は、つぎのように要約できる。すなわち、英霊は靖国神社の祭祀(修祓、献饌、祝詞、祭文、玉串、拝礼等)によつて神として遇され、奉仕を受ける。そして、かつての戦争における英霊の忠勇と献身が明らかにされ、誉めたたえられ、感謝される。英霊は天皇を初め国の代表及び国民からこのようにされることを喜び、慰められる。靖国神社の右のような祭祀によつて、生者が死者の霊(神霊)と相まみえることができ、両者の間に精神的交流が行われ、その結果、死者の霊が慰められるという観念は、誰もが理解し納得できることではない。それを受け容れるためには、現世を超えたもの(霊又は神霊)の存在を信じ、また死者の霊が慰められるというような超自然的な出来事が可能であると信じなければならない。このような信仰をもつて初めて、右の英霊の顕彰・慰霊の観念が受容されうるのである。したがつて、この観念は、特定の宗教的教義であるといわねばならない。

(八) 殉国と英霊の加護の教義

日本遺族会は、単に過去の戦没者の顕彰・慰霊を目的としているばかりでなく、将来の世代による殉国の精神の継承、また将来戦われる戦争によつて生ずる戦没者の顕彰・慰霊をも視野に入れている。この殉国の精神の継承が、右の祭文において英霊に対する応答として述べられ、英霊に対して誓われるのである。死者の霊に対してこたえ、誓うという形をとつて表白される殉国の精神の継承は、明らかに宗教的性格を帯びている。また、日本遺族会は、戦後日本の復興と遺族の生活の安定が神霊のご加護の結果と信じている。神霊の加護とは、神とされた死者の霊が、現世に生きている遺族及び国民を守り、平和と繁栄を享受できるよう助力することである。慰霊が生者の死者に対する働きかけであつたとすれば、神霊の加護は死者の生者に対する働きかけである。このようなことがいつたい可能であると信じるかどうかは、まさに各人の宗教的信仰に委ねられている。すなわち、神霊の加護への信仰も、靖国神社の祭祀に関連して日本遺族会の信奉している教義の一部であるといえる。

(九) 日本遺族会の教義のまとめ

以上、日本遺族会が靖国神社の祭祀の中に含まれている宗教的観念をどのように理解しているかをみてきた。これを整理すると、つぎの五項目にまとめることができる。

(1) 人間の死後、死者の霊が存在する。

(2) 戦争において天皇に忠義を尽くして国に殉じた者は靖国神社の祭神とされる。

(3) 戦没者の霊は、靖国神社の合祀祭において招き降ろされ、祭神として本殿に鎮められる。

(4) 英霊は、靖国神社の祭祀において戦死にいたるまでの忠節を表彰され、感謝される。英霊は、これを喜び、慰められる。

(5) 慰霊祭に参列した者は、英霊の殉国の精神を継承することを英霊の前に誓い、英霊の加護を祈念する。

このような思想は、どの項目においても、死者の霊の存在についての確信を前提とし、生者と死者が靖国神社の祭祀を通して精神的な交流をすることができるという、超自然的な観念に基づいている。このような現世を超えた存在や、超自然的な出来事を認める観念は、宗教的教義といわざるをえない。

(一〇) ここにおいて、靖国神社の教義が明らかになると同時に、かつ、日本遺族会もまた右のような教義を信奉し、その信仰の共通性によつて成り立つている靖国神社の信徒団体であることが明らかとなつた。この信徒団体は、単に靖国神社による教化・育成の対象たるに留まつていない。自らきわめて積極的に、靖国神社の教義と同神社に対する信仰を、国民の間に広める役割を果たしてきた。右に詳細にみたように、靖国神社の教義によれば、天皇のため、国のために戦死した者は、靖国神社に合祀されることによつて誰でも神となることができる。軍務に忠実であつたかどうかを除けば、生前の行いの良し悪しは問われない。日本遺族会に参加する一部の戦没者遺族は、このような教義に、最愛の肉親を失つた深い悲しみとやり場を知らない怒りの捌け口を見出している。そして、より多くの国民、究極的には全部の国民が、自分たちと同じように考え、同じように靖国神社を崇敬することを求め、戦後一貫して靖国神社国家護持の運動を熱心に展開してきた。全国民が、靖国神社は全戦没者を祀るわが国唯一の霊場であるとの信仰を持たなければ、戦没者の慰霊と顕彰は完全ではなく、遺族である自分たちも慰謝されることがない、というのが日本遺族会に参加している一部遺族の心理であり、論理である。日本遺族会がこのような団体であつてみれば、たとえ前記の最狭義の宗教団体の定義を用いるとしても、同会は、靖国神社の祭神に対する信仰を広め、礼拝活動を盛んにし、同神社の社会的地位の向上に努めているという意味で、同神社の宗教を布教宣伝する「宗教上の組織若しくは団体」に該当することを否定することはできない。まして、狭義の宗教団体の定義を用れば、同会に参加している遺族は靖国神社を崇敬するという点で共通の意見を持つており、同神社の信仰を目的とする団体を構成していることは、右記のとおり疑問の余地がないから、それが「宗教上の組織若しくは団体」に該当することは当然である。

5 市遺族会の宗教団体性

市遺族会は、右のごとき靖国神社の信徒団体・日本遺族会の一地方支部である。市遺族会は、このような日本遺族会の一地方支部として、それ自体もまた「宗教上の組織若しくは団体」であることを免れない。

ところで、市遺族会は、靖国神社における英霊の顕彰と慰霊の事業のほか、支部の活動としてすでに述べたように、大阪護国神社と本件忠魂碑による地域出身の戦没者の慰霊・顕彰事業を行つてきた。そしてこれら靖国神社、大阪護国神社、本件忠魂碑における英霊の顕彰と慰霊の事業以外には、同会の活動として何ら見るべきものがない。処遇改善事業なるものも、究極的には英霊の顕彰と慰霊の事業と切り離しては存在価値がないとされていることは、前述のとおりである。したがつて、このような団体に地方公共団体が公金を支出したり、便益を供与することがあれば、そのような行為は広義の宗教団体に対する援助として、憲法八九条前段に違反することとなる。

このように、最狭義、狭義、広義のたとえどのような立場に立とうとも、市遺族会は憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」であり、この結論を否定することはできない。

二 市遺族会の反憲法的性格

1 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義

憲法は、国の内外のこれらの死傷者と、残されたすべての戦争犠牲者に対して、日本国民が長く将来にわたつて果していくことを約束した戦争責任の綱領であるということができる。

日本国民は、敗戦によつて初めて、長い天皇制軍国主義の呪縛から解き離された。そして、戦争の歴史による多くの犠牲からの教訓として、国民主権主義に立つ政治体制を打ち建て、基本的人権を尊重する政治を行い、軍備を放棄し平和主義を国是とすることを決意したのである。国民主権主義、基本的人権の尊重、平和主義の三つの原則が、わが国憲法の根本規範と称される所以である。

2 日本遺族会と市遺族会の反憲法的性格

日本遺族会の英霊顕彰事業が昭和三七年に発表した基本問題調査部の報告書「英霊精神に関する報告」には、わが国の引き起こした戦争をすべて国難と捉え、自然の災厄と同視する思想が表明されている。戦争が無数のアジア諸国民にもたらした被害のことは念頭になく、かえつて戦争はアジア諸民族に自信を与えたものと積極的に評価されている。そして、戦没者は愛国心から進んでその身命を国家と民族に捧げたものと捉えられ、そのような愛国心は現代にも通じるものと積極的に肯定されている。すなわち、この報告書は、戦争の惨禍が政府の行為によつてもたらされた人為的なものであることの認識を全く欠いており、戦死を無条件に愛国心の発露と賞賛することによつて、同じ過ちの再現への道を準備しているのである。これは、超国家主義と軍国主義のイデオロギー・国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰する、日本遺族会の本質的な体質である。同会にとつて民族の伝統、民族精神、愛国心の尊重を謳うことと、戦没者を民族の伝統に従つて靖国神社に祭り崇敬することを要求することとは、表裏一体の主張なのである。このような主張、思想、観念は憲法の根本規範に反し、国民主義の否定、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与するものといわなければならない。

市遺族会は、そのような性格を有する日本遺族会の一地方支部である。そして、支部としても、本件忠魂碑により、毎年前記のごとき内容の慰霊祭を執行するなど憲法理念に反する活動を重ねてきた。このような性格を有し、活動を行つている団体は、団体そのものが反憲法的であると評価せざるをえない。

第四 本件各行為の合憲性

一 本件各行為の性格と憲法二〇条一項後段、三項、八九条前段違反

1 本件各行為の宗教的意義

(一) 市の宗教行為

忠魂碑の本件移設・再建、本件敷地の貸与、本件忠魂碑前での本件各慰霊祭への関与ないし助成(本件各行為)は、本件忠魂碑の所有権が分会から市遺族会へ移転し、これに合わせて本件貸与がなされたという構成をとるとしても、市有地上にあつた忠魂碑を市自身の手で、市有地である本件敷地に移設・再建し、本件忠魂碑前における慰霊祭のための用地確保の目的を含めて本件貸与を行つたことにかわりなく、本件忠魂碑の所有名義人が市遺族会であることや、敷地を市遺族会に貸与する形式をとるとはいえ、その前後を通じて市遺族会は、本件忠魂碑の維持のため何らの支出をしておらず、また、何の負担も負うことなく、本件忠魂碑維持のための経済的、人的負担をすべて市に負わせており、その祭祀たる慰霊祭すらも市遺族会の人間は単に参加し、或いは儀礼的行為を行うのみで、慰霊祭の実質的運営の大半を市職員に行わせていることなどの諸事情を総合的に評価すれば、市が自ら本件忠魂碑を維持(護持)していると評価できるものである。このような形態での宗教施設の維持(護持)は、いわゆる靖国神社の国家護持論におけるような宗教施設の公営化、国教化をいわば先取りしてなされているものであり、市による宗教活動そのものと評価しなければならない。本件各慰霊祭については、すでに述べたところからも明らかなように、本件忠魂碑の祭祀として挙行されたものであり、実質的には市の主催若しくは市遺族会と市の共催である。市長及び教育長の忠魂碑礼拝は、それぞれ公務上の地位により、市或いは委員会を代表して行つたものであり、いわゆる公式参拝である。これが市の宗教行為に当たることはいうまでもない。

以上のとおり、本件各行為は、市が自ら或いは市遺族会と共同して、本件忠魂碑を維持(護持)し、その祭祀を主催若しくは共催し、市長・教育長らがこれを礼拝したというものであり、いずれも市の宗教行為である。津地鎮祭事件最高裁判決の少数意見の立場こそ正当な憲法の解釈であり、宗教的活動そのものについて目的・効果の基準による限定を加えることは、憲法の禁止を緩和しすぎており、目的・効果の基準の適用場面として相当でない。

したがつて、市の本件各行為は、いずれも国及び地方公共団体が行うことを憲法が禁止した宗教的活動であつて、その目的・効果などを論ずるまでもなく、憲法二〇条三項に違反する。

(二) 本件各行為と市遺族会に対する財政上の援助

仮に、右主張が認められないとしても、市は市遺族会に対し、忠魂碑解体費用の請求の免除、再建費用の負担、本件敷地の無償貸与、本件各慰霊祭の挙行援助という形態で市遺族会が本件忠魂碑を維持(護持)し、その祭祀を執行するのを援助するとともに、市長、教育長が本件忠魂碑を礼拝したということになる。そして、前記のとおり、市遺族会の組織・団体は固有の意味における宗教団体であり、これに対する右の援助行為は債務の免除、資金援助、不動産の無償貸与、動産の無償使用許可と役務の無償提供というもので、これらはいずれも憲法八九条前段の禁止する公金その他の公の財産を宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出し、又はその利用に供する行為に該当し、仮に、市遺族会が固有の意味における宗教団体とは認められないとしても、前記各行為はいずれも、市遺族会の忠魂碑維持(護持)とその祭祀という宗教活動の援助のために支出されたものであることは明白であるから、これも既に述べたように、憲法八九条の禁止する宗教に対する援助である。

(三) 市遺族会に対する特権の付与

本件各行為、特に本件貸与は、高価な土地を、それも運動場として使用していたのをわざわざ廃止して忠魂碑維持(護持)とその祭祀のために無償で貸与したというものであり、他の宗教団体には望んでも与えられない特別の援助である。憲法二〇条一項後段の「特権」とは、法律的・経済的・政治的の一切の保護・優遇を指すと解すべきところ、本件各行為はいずれもこれにあたるから、憲法二〇条一項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与に該当する。

(四) まとめ

第一審原告らは、本件各行為については、本件忠魂碑、本件各慰霊祭及び市遺族会のそれぞれの宗教的性格についての客観的事実の認定に基づいて直ちに憲法違反との判断をすべきものと考える。しかし、さらに本件各行為の実質に立ち入つて検討すれば、その違憲性はより一層明確となるであろう。そこで、次項では本件各行為の実質に立ち入つて検討し、その違憲性を明らかにする。

2 宗教的中立性・非宗教性

(一) 宗教的中立性

国家の宗教的中立性が政教分離原則の要請であると考え、これを基準として考慮する立場は、政教分離原則の歴史とともにある。ただ、この観点からは国家の中立と呼ばれるものが一宗教を他の宗教より優遇することを禁止するのか(宗派間中立・非優先の理論)、宗教を非宗教よりも優遇することをも禁止しているのか(宗教・非宗教間中立)という点について過去に争いがあつた。国家の宗教的中立についての右の議論の相違点は、結局すべての宗教を優遇することは、政教分離原則に違反するかという点にある。これについて、アメリカ合衆国の連邦最高裁は、すでに、エヴァスン事件の判決の中でマディスンの請願と抗議及びジェファスンのヴァージニア信教自由法に示された見解に依拠して、非優先の理論は明確に排斥され、政教分離原則は宗教・非宗教間の中立を要請し、すべての宗教に対する援助も許されないとすることが明らかになつた。続くマッコラム事件の判決も、このエヴァスン事件の判決に依拠している。その後、ゾラク事件では、宗派間中立を述べたダグラス裁判官の意見が多数を制したが、この見解は同裁判官の改説とともに姿を消している。そして、公立学校における聖書朗読と主の祈りの斉唱についてのシェンプ事件、マレー事件において、エヴァスン事件、マッコラム事件の各判決に依拠して、国教条項はすべての宗派、宗教に対する平等な支援をも禁止するものであるとの解釈を確認し、同条項が多数派の宗教を支援することになる政府の行為を禁止するものであることを宣明した。かくして、修正一条の宗教条項の目的は、宗教に対するあらゆる形態の公の援助と支持とを包括的に禁止し、多数派の宗教の国教化の危険を予め排除し、少数者を生ぜしめないことにある、との分離ないし中立の原則が明示された。以来、連邦最高裁のこの立場は揺ぐことなく定着しており、カトリック教会や一部の学者が非優先の理論に基づいてこれを批判してはいるものの、圧倒的少数であり、宗教・非宗教間中立の原則はすでに確立されたものと考えてよい。

(二) 「特定の宗教」論

本件訴訟で、第一審被告らが所々で唱えている「特定の宗教」論は、要するに、本件忠魂碑は特定の宗教の宗教施設ではなく、本件慰霊祭は特定の宗教の宗教儀式ではなく、市遺族会は特定の宗教の組織・団体ではないから市の本件各行為も政教分離原則に違反しないというものであり、本件各行為を単なる死者の追悼一般の水準に引き下げて論じるとともに、神道・仏教の隔年交替式という祭祀方法に着目して宗教一般に対する援助にすりかえてしまおうとする巧妙な詭弁である。忠魂碑とその慰霊祭を死者の追悼一般として論じる立場はそのまま、靖国神社信仰を死者の追悼一般の延長として論じる立場に通じる。現に、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書は、戦没者の追悼一般と靖国神社における戦没者の追悼とを無媒介に等置している。

このように靖国神社における参拝の宗教性の問題を「戦没者の追悼」一般の非宗教性をもつて乗り切ろうとする論理は、甚だしく危険な詭弁である。神道・仏教の隔年交替式についても、これは、国家神道のもとにおいて仏教が靖国神社信仰を強制され、これを受容したことの結果として生まれた妥協の産物であり、仏教の参加によつて靖国神社の信仰の宗教性が忠魂碑から除かれるわけのものでもない。また、神道・仏教の二つの特定の宗教にかかわり合う宗教行為若しくは援助として、その宗教性をいささかも減少させ、違憲性を緩和するものではない。前記連邦最高裁のシェンプ事件判決は、アメリカ社会のユダヤ・キリスト教的伝統の中で、聖書(旧約はユダヤ・キリスト教の両者に共通する聖典である。)の朗読を禁止したのであり、また、ストーン事件では、モーゼの十戒(ユダヤ・キリスト教に共通する聖なるテキストである。)のコピーの掲示を違憲としている。更には、ニューヨーク州の教育委員会が作成した宗派に偏しない祈祷の斉唱を違憲としたエンゲル事件の判決など、いずれも単に一宗教の優遇にとどまらない複数の宗教の優遇がすべて違憲とされている。このように第一審被告らの唱える「特定の宗教」論は誤りであり、しかも、利用される危険性の極めて高い詭弁であるので徹底的に排除する必要がある。

(三) 靖国神社信仰の公定

本件忠魂碑は、箕面市の戦没者を神として祀つたものであり、その存在そのものがこの事実を表現しており、慰霊祭によつて祀られている英霊が慰められるという信仰に基づいて祭祀されている宗教施設である。かかる宗教施設を地方公共団体が維持(護持)するということは、とりもなおさず、この碑に戦没者の英霊が祀られており、その英霊は慰霊祭によつて慰められるという信仰を市が認めることを意味する。前述のエンゲル事件判決は、ニューヨーク州教育委員会の作成した宗派に偏しない祈祷文の朗読の計画について、かかる計画は、右委員会作成の祈祷に具現された信仰を公的なものとして確立するものとなるとして、政府が特定の祈祷や宗教儀式に支持の公証を与えることになり、これは宗教上の自由にとつて最大の危険とみなさなければならない、と判断したものである。

このように、市が宗教上の観念や儀式に支持の公証を与えることは、政教分離の最も排除すべき事態である。本件忠魂碑は、国家神道の重要な構成部分であつた靖国神社の教義に基づき、その信者の団体である分会によつて、靖国神社の地方分社としての意義をもつて建立され、靖国神社の教義に基づき、靖国神社の祭神たる英霊を合祀し、その祭祀としての慰霊祭を継続してきた宗教施設であり、靖国神社祭神たる英霊は、国家神道下においてはまさに公の神さまであつた。敗戦直後、国家神道の解体に伴い、本件忠魂碑は、いつたん、解体・廃棄されながら、また再建され、現在、靖国神社の公式参拝による靖国神社教義の公的支持を獲得し、更に靖国神社の国家護持(公営化)を実現し、靖国神社信仰の国教化を策動している、靖国神社の崇敬者団体である日本遺族会の箕面市における支部たる市遺族会によつて、靖国神社の祭神の祭祀(英霊の慰霊・顕彰)の一環として維持(護持)されているものである。そして、靖国神社信仰の公定・公営化の地方における試みとして、靖国神社信仰の国教化を先取りするものとして、忠魂碑祭祀の地方公共団体による維持(護持)・公式参拝がなされたのが本件の一連の各行為である。

3 目的の基準

(一) 客観的評価

まず、本件各行為の目的を客観的に評価してみる。市による宗教活動として本件各行為をみた場合、既述のとおり、全体を総合的に考慮することになり、その行為の目的は、本件忠魂碑の維持とその祭祀の執行である。また、市の市遺族会に対する援助としてみた場合には、各行為について個別的評価の必要が生じるので、それぞれについてみると、援助の態様は、忠魂碑解体費用の請求の免除、再建費用の負担、土地の無償貸与、慰霊祭の挙行援助となり、右各行為に対応した援助の目的は、遺族会の財政的支援、忠魂碑の維持、慰霊祭の執行と考えられる。このようにみた場合、忠魂碑の維持(護持)は、客観的にみれば、宗教施設である忠魂碑の維持(護持)であるから、紛れもなく宗教的意義を有する。慰霊祭の挙行も、宗教儀式を挙行するのであるから、宗教的意義を否定することはできない。

そうすると、本件各行為は、これを客観的に評価すれば、その目的は宗教的意義を有し、その余の点について考慮する必要もなく、目的の基準に適合するものとはいえず、違憲であるといえる。

(二) 行為者の意図、目的

本件各行為の目的を戦没者の慰霊・追悼とみた場合、戦没者の追悼は世俗的目的といいうる余地がある。しかし、戦没者の追悼という世俗的目的を、靖国神社の教義に基づきこれを表現し、靖国神社の地方分社としての機能を有する忠魂碑を維持し、その祭祀を挙行することを通じて実現するとすれば、これは宗教的意義を有する。遺族の慰謝も世俗的目的といいうる余地があるが、しかし、これも、靖国神社の教義に基づき、これを表現している忠魂碑を維持し、その祭祀を挙行することを通じ、靖国神社の祭神としての英霊は、忠魂碑の祭祀によつて慰められるとする市遺族会の構成員たる遺族の信仰に則つて実現するとすれば、これは宗教的意義を有する。

宗教的意識の点について検討すると、市は忠魂碑の歴史的・宗教的性格を熟知していたし、忠魂碑が社会的存在として果たしてきた機能も、現在、市遺族会が、英霊の慰霊・顕彰事業の一環として、「村の靖国」たる忠魂碑を維持(護持)し、その祭祀を行つていること、遺族会は、靖国神社祭神たる英霊は国家及びその機関によつて祭祀され、公の神さまとして祀られることによつて最もよく慰められるとする靖国神社の教義を信仰し、これを実現しようとして靖国神社の国家護持の運動をしている団体であること、したがつて、忠魂碑が地方公共団体によつて維持(護持)され、市長、教育長等の公式参拝によつて、英霊が慰められるという信仰をもつている人々の団体であることをよく承知していた。

本件忠魂碑が、戦没者を祀つた碑であることを認識していたことは、第一審被告ら自身も否定していない。また、敗戦以前に教育を受けた人間であつて、靖国神社と忠魂碑との関係についての認識がないということはありえない。少なくとも、この二点を肯定する限り、忠魂碑について宗教的意識を欠くということはありえないのであつて、この二点を肯定しつつ、なお宗教的意識を欠くという論理はすべて神社非宗教論の類である。世俗的な碑をも宗教的に礼拝しようとする人があることは事実であり、それはその人間の信教の自由である。

(三) 目的自体の宗教性

前記津地鎮祭事件最高裁判決の多数意見の見解を誤用して、戦没者の追悼・遺族の慰謝という世俗的目的を、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行う方法によつて実現しようとしたものにすぎないという弁解がある。しかし、地鎮祭事件の場合の土地の平安堅固、工事の無事安全という目的は、それ自体としては世俗的で宗教的意義をもたないといいうるものであり、卑俗な言い方をすれば、かかる現世利益を目的とし、宗教儀式はそのための手段といいうる余地があるが、本件の場合は、目的自体が単なる世俗的追悼(死者の死を悼み、悲しむ行為あるいはその感情を表現する行為)を超え、戦没者の慰霊、すなわち靖国神社祭神たる英霊を慰める(控え目にみても死者の霊魂を慰める)、死者の霊魂の救済というまさに宗教の領域にあるものであり、そして、遺族の慰謝も、右のような英霊を慰める行為によつて死者が慰められると考える遺族の宗教感情の喚起を意図しているものである。このように、本件各行為は、目的そのものがすでに宗教的意義をもつているのであり、地鎮祭のように単なる手段といいうるようなものではない。

(四) 遺族の要請

本件各行為については、国家の誤つた政策に基づく戦争の犠牲者としての戦没者若しくはその遺族が国家などに対して、その追悼・精神的慰謝を要求するのに対して応えたものとしての側面を有している点が弁解とされる余地がある。狭義の戦没者(公務死者)は、爆撃による被災者のような一方的被害者或いは犠牲者ばかりではない。その中には自らも戦争政策を積極的に推進した職業軍人など戦争責任を負う者もいる。したがつて、その区別をつけないまま、あたかもその全員が犠牲者であるかのごとく振る舞い、弁解とするのは許されない。しかも、憲法二〇条三項、八九条前段の存在によつて、国家又は地方公共団体がなしうる戦没者の追悼・遺族の慰謝は世俗的なものに限定される。憲法の政教分離原則は、国又は地方公共団体が宗教的追悼・宗教的慰謝をなすことを禁じ、たとえ、国家の誤つた政策による犠牲者若しくはその遺族であつても国家または地方公共団体に対し、宗教的追悼・宗教的慰謝を求める権利を有しないことを明らかにするとともに、国家がこれを与えることも禁止しているのである。

したがつて、戦没者遺族が誤つた国家の政策による犠牲者の相続人として、不法行為による被害者のそれのように、国家に対し精神的慰謝を請求する権利を有するとしても、それは政教分離原則によつて世俗的慰謝に限定され、しかも、原則として金銭賠償もしくは補償によるべしというのがわが国の法制の基本である。このように、市の本件各行為が、遺族の要請に応じたものであつたとしても、それは憲法上応えることが禁止されている要請であり、応えてはならない要請だつたものであつて、何ら弁解とならないものである。また、土地の無償貸与を含む本件各行為は、社会的儀礼というような弁解は到底成り立ちようがない。

(五) 代替手段の問題

遺族の個別の慰謝をはかるほかに、国若しくは地方公共団体の一般的施策として、戦没者に対する追悼の行事をなすというのであれば、それ自体は正当な目的といいうるかもしれない。しかし、その場合、その実現のための手段としての行為は、政教分離原則に従い、世俗的なものに厳しく限定し、宗教色を帯びることのないよう最大限の措置を講じなければならない。例えば、広島市主催の原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、その名称に慰霊の語を用いている点に多少の問題があるほかは、宗教色を帯びることのないように注意が払われている。それ自体は正当な目的をもつた行為も、その実現のための手段を誤つた場合は、もはやその目的によつては正当化されえないのであり、本件各行為もこの場合の典型である。プール敷地の確保のために必要なことは、忠魂碑の除去のみであり、本来、市有地のしかも小学校の運動場に存在したこと自体が違憲な状態であつた忠魂碑であるから、市の所有物又は無主物であれば、直ちに撤去して廃棄するなり、国家神道の遺物として無毒化した上で史跡として保存すればよく、本件忠魂碑が市遺族会の所有物であるなら、市遺族会に対し、直ちに収去して明け渡すよう求めれば足りたのである。移設・再建はもとより土地の貸与など全く不要であつた。したがつて、本件移設・再建及び本件貸与は、プール敷地の確保という目的を超えたものであつて、市をしてこの目的を超えた行為をさせたものは、忠魂碑の市による維持(護持)という市遺族会の要求であり、市はこれに応えて忠魂碑の維持(護持)を目的として本件移設・再建及び本件貸与の各行為をなしたものである。

忠魂碑の除去そのものは、箕面小学校の校庭の一隅に存置させるべきでないものを除去したのであるとしても、この費用はあくまで市遺族会に請求すべきものであり、これを免除した行為は、本件移設・再建及び本件各慰霊祭の挙行援助という全体状況の中でみれば、やはり市遺族会の宗教的事業としての忠魂碑の維持(護持)に対する財政的援助として違憲なものである。

4 効果の基準

(一) 一般的プログラムの一環

アメリカの連邦最高裁の判例を検討すると、宗教的機関に対する援助などのかかわり合いについて、その行為が一般的プログラムの一環として行われたものであるという場合には、その点が宗教に対する援助、助長、促進にならないための重要な要素と考えられている。エヴァスン事件において、非公立学校に通う児童のバス賃の援助が合憲と認められた要素の一つは、当該立法は、彼らの宗教にかかわりなく親が子供たちを安全、迅速に認可された学校へ通わせるのを援助する一般的計画を定めるものにすぎない、という点にあつた。津地鎮祭事件最高裁判決の多数意見は、目的・効果の基準のみを採用しているが、右基準によつて検討する上でも、これと共働すべき一般的プログラムの一環の基準を要素の一つとして考慮する意味は大きい。もつとも、この一般的プログラムの一環という場合、プログラムは、政府の特定の行政措置が、一般的基準の下で住(国)民全体の福祉の達成のために実施される場合をいい、本件各行為の場合、かかる住民の福祉の達成というようなものではない点に重大な問題があるので、もし、この一般的プログラムの一環として行われたものであつても合憲性を基礎づけることは難しいが、逆に違憲性を基礎づけるものとしては検討に値する要素である。

市の本件各行為は、そのいずれをとつても、市出身の戦争犠牲者若しくはその遺族又は市に居住する遺族に対する一般的な戦没者の追悼・遺族の慰謝のプログラムによるものではなく、すべての戦争犠牲者のうちいわゆる狭義における戦没者(戦死、戦病死者など公務死者)すなわち靖国神社祭神とされている人々(神々)のみを慰霊の対象とするものであり、しかも、右の狭義における戦没者の遺族のうちの更に一部である靖国神社信仰をもつ遺族のみを慰謝するものである。市遺族会に対する援助としてみた場合には、右の一部の遺族のうちの一部にすぎない遺族会会員のみに対する援助であつて、例え、その援助の目的が戦争犠牲者の遺族に対する精神的慰謝にあるとしても、あまりにも不公平で差別的な援助である。しかも、本件各行為は、その方法においても、一般的とはいえない特定の宗教の教義・方式に従つており、到底、一般的プログラムの一環とはいえない。本件各行為によつて精神的慰謝を受けるのは、忠魂碑に戦没者が祀られているという観念をもち、更に、市が忠魂碑を維持(護持)し、慰霊祭を挙行することによつて戦没者(英霊)が慰められるという信仰をもつ人々だけであり、右信仰を受け入れない人間にとつては、慰謝としての効果が全くないばかりか、かえつて、自ら支持しない右信仰を市が支持することによる不快感を与えるばかりであろう。いうまでもなく右の信仰は靖国神社の教義であり、結局、本件各行為によつて慰謝されるのは靖国神社の教義を信じるものだけであるから、本件各行為は、この靖国神社信仰をもつものだけを優遇し、その他の遺族らを無視する点で靖国神社信仰を援助、助長、促進するものである。

(二) 世俗的機能の分離可能性

本件各行為の効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等にあたらないといえるためには、そのかかわり合いの世俗性を確保することが絶対に必要である。そして、宗教とかかわり合いをもちながらそのかかわり合いが世俗性を確保しうるためには、そのかかわり合いの目的たる世俗的機能が、宗教的機能と分離可能なものであることが必要である。ミーク事件以後、連邦最高裁が教会系の初等・中等教育機関への援助について厳格な態度を採つたのは、たとえ援助が世俗的目的をもつとしても、宗教がくまなく浸透し、その機能の実質的部分が宣教活動の中に組み込まれている機関に与えられる場合、国の援助は宗教推進の許容しえざる主要効果をもつ、と判断されたからであつた。かかる聖俗統合体としての性格上、世俗的機能を宗教的機能から分離して世俗的機能に限定した援助を行うことが不可能であり、世俗的機能の援助は、必然的に不可分なものとして世俗的機能と一体となつた宗教的機能をも援助することになるというものである。すなわち、世俗性を確保するための前提として世俗的機能の分離可能性を検討し、この可能性がない場合は、もはや確保の努力や方法を論じるまでもなく、そのような関与は、宗教を援助、助長、促進することになり、違憲だということになる。

まず、この観点から本件忠魂碑をみると、忠魂碑は、靖国神社の教義に基づき、これを表現するものとして建立された靖国神社信仰の宗教施設であり、現在も靖国神社信仰の宗教施設としての機能(地方分社)を果たしているが、これとともに市出身の戦没者の記念碑としての意義、機能をもつていることも否定できない。第一審被告らは、本件忠魂碑は戦没者記念碑であつて宗教施設ではないというが、この両者の機能は互いに矛盾しないで両立しているのであり、本件忠魂碑はこの両者の機能を兼ね備えている。そこで、本件忠魂碑の機能から世俗的機能のみを分離してこれを維持すること、又はこれの維持(護持)のうちその世俗的機能のみを援助することが可能であるかを検討する。

忠魂碑は、前述のように、大日本帝国憲法下において、靖国神社の維持・管理の主体であり、靖国神社信仰の宣伝、鼓吹組織であつた帝国陸・海軍の外郭団体或いは下部組織であつた在郷軍人会が、靖国神社信仰に基づき、村の靖国として建立したものであり、その誕生において靖国神社信仰と分ちがたく結びついており、現在も遺族会によつて靖国神社の地方分社として維持(護持)されているものである。しかも、忠魂碑の持つ戦没者記念碑としての機能は、戦没者を石碑である忠魂碑に合祀するという宗教上の手続とこれを支える観念によつて、合祀された英霊と忠魂碑が関係づけられ、記念するようになるのである。忠魂碑に合祀するという手続を欠いても、碑銘である忠魂は、靖国神社祭神たる英霊であるから、靖国神社において合祀されれば忠魂となつたことになり、忠魂碑にもそのまま関係づけられ、記念となることができるのである。つまり、忠魂碑の持つ記念碑としての性格、機能は、その核心部分において忠魂碑の宗教的機能に依存しているのであつて、宗教的機能から記念碑としての機能を分離することは不可能なのである。

もつとも、関係づけは、何らかの世俗的な関係づけの方法を新たにとることによつて、世俗的な関係づけを靖国神社信仰への依存から独立させることは可能である。しかし、その場合でも、忠魂碑は忠魂碑たることによつて、すでに靖国神社信仰を表現しており、忠魂碑から世俗的記念碑としての部分のみを取り出そうとすれば、碑銘そのものの変更によつて、忠魂碑でなくなることが必要である。すなわち忠魂碑が忠魂碑である限り、その宗教的性格を完全に除くことはできない。つぎに、市遺族会をみた場合、市遺族会の戦没者の慰霊・遺族の慰謝の事業は、日本遺族会の英霊の慰霊・顕彰の事業の一環として、靖国神社の教義に基づき、靖国神社の祭神としての英霊を靖国神社・護国神社・忠魂碑の祭祀によつて慰めるというものであり、靖国神社教義が市遺族会の全体の中にくまなく浸透しており、靖国神社抜きには戦没者の追悼も遺族の慰謝もありえないという状態にある。したがつて、市遺族会のかかる性格からみれば、市遺族会の戦没者の慰霊・遺族の慰謝の機能のうち世俗的な戦没者の追悼・遺族の慰謝のみを分離して取り出し、これを援助するというようなことは不可能であり、世俗的な戦没者の追悼・遺族の慰謝の援助は、世俗的機能で不可分一体となつた宗教的機能を援助することになる。慰霊祭については、これを宗教的慰霊祭とするか、世俗的な追悼式を行うかという問題に尽きている。宗教儀式としての慰霊祭から世俗的機能だけを分離などということは全く論じるまでもない。

以上述べたように、本件忠魂碑、本件各慰霊祭及び市遺族会は、それぞれ、その宗教的機能と世俗的機能が分ちがたく結びついており、これらに対するかかわり合いは、例え、世俗的機能を目的とするものであつても、必然的な不可分一体としての宗教的機能とかかわり合うことになり、宗教に対する援助、助長、促進の効果を否定できない。

(三) 世俗性の確保

仮に、本件忠魂碑の世俗的機能を分離することが可能であり、市遺族会の英霊の慰霊・顕彰の事業の宗教的追悼・慰謝から世俗的追悼・慰謝の機会を分離することが可能であるとした場合、この分離された世俗的機能のみとかかわり合い、宗教的機能に対する援助、助長、促進の効果をもたらさないためには、かかわり合いの世俗性を確保するための措置がなされていることが必要である。

ニューヨーク州の非公立の初等・中等学校に対する、施設の「維持と修理」についての直接的な補助及び非公立学校に通う児童の親で低所得の者に対する授業料の償還計画を違憲としたナイキスト事件判決の多数意見は、税金を財源とする国の援助が、専ら世俗的、中立的、非イデオロギー的な目的のために用いられることを保証する効果的な手段がないときには、どのような形態においても直接的な援助は無効であると判示し、その後の判決によつて判例として踏襲されているユージン市の事件についての三つのオレゴン州最高裁判決(その時間的順序に従つて、ユージン1、ユージン2、ユージン3という)のうち、ユージン3は、十字架が戦没者記念碑であるとして許容した合憲判決であり、ユージン2の結論を変更したものであるが、ユージン2とユージン3の間に、問題の十字架が世俗的な戦没者記念碑であることを確保するためつぎのような措置が講じられている。

(a) まず、市のチャーターの改正において、戦争記念物の展示という目的を例示し、問題の十字架を従軍兵士の記念碑として展示するという目的を明らかにしている。

(b) 十字架には、宗教的祭日には点灯しないで世俗的な休日のみ点灯する世俗の記念物であるということをプレートを付けて外観上はつきりさせる。

(c) そして、在郷軍人会が宗教色のない世俗的儀式でその十字架を市に献呈することによつて、世俗的記念物であるということを出発点において明らかにする。

(d) 定期的に十字架の前で在郷軍人会が世俗的な記念式典を行う。

戦没者の追悼・遺族の慰謝を目的として、戦没者追悼の記念碑を建て、或いは遺族若しくは遺族の団体がこれを建てることに対する援助をすることが可能であるとしても、その際、国又は地方公共団体は、その戦没者記念碑が世俗性を確保するように条件を付け、その他の措置を講じなければならない。ところが、本件忠魂碑については、つぎの事情がある。

(a) 碑のセッテイングそのものが玉垣や玉砂利等宗教的な環境(聖域的雰囲気)を醸し出すような環境でつくられている。

(b) 市遺族会は、前述のとおり宗教上の組織、団体である。

(c) 本件忠魂碑は、その前で毎年一回宗教儀式である慰霊祭が行われる。

(d) 本件忠魂碑には、世俗性を明示するようなプレートが付けられていない。

このように、本件忠魂碑には、世俗性確保のための最低の要素すら認められない。それどころか、本件忠魂碑では、(a)のようにわざわざ聖域的雰囲気を醸し出すように設計され、市は慰霊祭のための用地として本件忠魂碑前の土地を貸与して慰霊祭の挙行を確保してやり、碑銘には靖国神社祭神たる英霊を意味する忠魂碑の文字が刻まれたままである。更には、宗教儀式としての慰霊祭そのものの開催を積極的に支援して、設営や用具の貸出、参加者の運搬まで行い、市長を初めとして市職員が参列して宗教上の儀礼による礼拝をしたというものであつた。このように、世俗性を確保するために、静的、動的に世俗性を再生産するどころか、かえつて宗教性を再生産し、これを高めるように援助しているのが本件各行為なのである。

本件忠魂碑を世俗的な戦没者記念碑として維持し、又は市遺族会が維持するのを援助し、これによつて、市遺族会の戦没者の追悼・遺族の慰謝の世俗的機能をその靖国神社祭神たる英霊の祭祀としての宗教的戦没者の慰霊・遺族の慰謝から分離し、その世俗性を確保した上で援助し、もつて市自らも戦没者の追悼・遺族の慰謝をなそうとするのであれば、忠魂碑の実現するものの歴史的・宗教的性格すなわち靖国神社信仰を表現し、かつて国家神道のもとで、侵略戦争に国民を動員するための精神的動員の施設であつたこと、現憲法の下においては、そのイデオロギーは否定されなければならず、碑銘を変更し、その由来をプレートなどで表示して戦没者追悼・平和祈念の碑に作り替え、世俗的追悼行事によつて世俗的な社会的存在とすべきであつた。

(四) 一般人の宗教的評価及び本件各行為の一般人に与える影響

大衆の宗教的観念には、聖と俗との相互移行が体質化しているため、両者の区別、限界について合理的判断力が欠け、宗教的にルーズである。わが国の大衆のこのような宗教的状況の中で、一般人が、忠魂碑について、聖的なものと区別された世俗的なものと評価するなどと主張するのは、あまりにもご都合主義的である。もちろん、一般人は、忠魂碑が宗教であるとは考えないことも想像にかたくない。わが国には靖国神社すら宗教ではないと主張する人々がかなりの多数存在しているくらいである。神社神道が宗教ではないという人間にとつては、忠魂碑が宗教でなくともあやしむに足りない。したがつて、一般人の宗教的評価を論ずるに際しても、右のように、本件忠魂碑を見て、或いは本件各慰霊祭及び市長・教育長の参拝を見て、そこに宗教を感じるか、宗教と思うか、というような問題の立て方をしてはならない。このような問題の立て方によつて浮び上がるのは、わが国の大衆(大衆に限らない。高級知識人の中にも珍しくない。)が、いかに神社非宗教論に毒されているかということである。そこで、一般人の宗教的評価を検討するについては、それが宗教かどうかという評価ではなく、一般人が本件各行為からどういう印象を受け、どのように考えるかという点からみるほかはない。

すでに、敗戦後四〇年余りを経、敗戦前におけるわが国のあり様を示す資料は急速に失われつつある。特に、忠魂碑の建立者である在郷軍人会のように敗戦とともに消滅し、その記録も抹消されたものは残存する資料が極端に少ない。しかし、靖国神社と忠魂碑との関係は、いかなる記録、資料よりも、一般の民衆の観念の中にある。建設主体、建設時期、場所、その行政的手続、宗教的手続、祭祀の方法など、細々とした点についての関係などにとらわれない一般の民衆の意識においては、国には靖国神社、都道府県には護国神社、市町村には忠魂碑、という観念が存在しているのである。民衆にとつて、これが国家神道であるのか、軍国主義であるのか、天皇制であるのかという学問的な区別は大した問題ではない。しかし、このような観念を叩きこまれたという事実及びその叩きこまれた観念は消えはしないし、そう簡単に風化するものではないのである。敗戦前に前記の観念を叩きこまれた人々は、それをいまも受け入れているか、あるいは否定すべきものと考えるかはともかくとして、忠魂碑がそのようなものだという認識を今も持つている。家族や友人を亡した人々は、その死に対して、様々なそして複雑な思いを抱いている。靖国神社・護国神社・忠魂碑に戦没者が祀られているという観念を受け入れている人々は、今も多く、彼らはそれぞれの思いを抱いて靖国神社・護国神社・忠魂碑を訪れ、戦没者に語りかける。しかし、このようなそれぞれの思いとは別に、民衆は、靖国神社・護国神社・忠魂碑が、戦争で死ぬことを讃え、戦没者を神として、軍神・英霊・忠魂として祀るものであることを知つている。そして、とりわけ遺族会・英霊にこたえる会がそのような考え方をもち、戦没者を英霊・神として祀ることを国民全体に押しつけようとしていることも民衆は知つている。戦没者遺族でない人々は、敗戦後の四〇年の生活の中で、前述の認識を忘れたかもしれない。しかし、このように忘れかけたことを思いださせるのが本件各行為である。市の資金で広々とした場所に移設され、聖域的雰囲気を醸し出すように作られ、市が全面的にバックアップして、市職員らによつて慰霊祭が挙行され、市長・教育長らが礼拝しているのをみれば、忘れかけていたことを嫌でも思い出さずにはいられない。そういうものとして本件各行為は裁かれなくてはならない。

忠魂碑が宗教であるということは、大衆の常識には反するものがあるかもしれない。忠魂碑を祀ることが憲法に反するという判断は、一般国民の常識的な、当然自明と考えている意識からすると反発を受けるかもしれない、政教分離についてのアメリカの連邦最高裁の諸判例がそうであつたように。しかし、憲法に忠実な判断を示すと、ことに政教分離などでは常識的な宗教意識をかなりはつきり批判しなければならないのであり、逆に政教分離の原則に忠実な裁判所の判断が、国民に政教分離の何たるかを提示すべきであり、それによつて憲法の保障が守られ、憲法の精神に適合した国民の認識が形成されるのである。

5 過度のかかわり合い

(一) 過度のかかわり合いの基準

津地鎮祭事件最高裁判決の多数意見は、目的・効果の基準によつてその判断を下した。この目的・効果の基準は、アメリカの連邦最高裁が形成した判例理論の中から採られたものと推測される。アメリカの判例法は、目的・効果の基準だけではなく、これに過度のかかわり合いの基準を加えた三重の基準によつて判断しているのであるが、津地鎮祭事件最高裁判決の多数意見はこの第三の基準を用いていない。その理由は推測することができないが、世俗的目的をもち、宗教的機関の世俗的機能に限定された援助も、それが国家と宗教との過度のかかわり合いとなるときは、それが直ちに宗教の国定をもたらすものではなくとも、宗教の国定が現実の危険となりうるという考察は正当であり、わが国の政教分離の判断の基準としても考慮されるべきである。

この過度のかかわり合いの基準の適用については、アメリカの判例法は、政府と宗教とのかかわり合いが過度のものか否かを決定するための審査項目として、利益を受ける機関の性格と目的、国が供与する援助の性質、結果としてもたらされる政府と宗教団体との関係、の三点を示した。

(二) 機関の性格と目的

日本遺族会は、靖国神社崇敬者の集りとして、靖国神社の教義に基づき、靖国神社の祭祀を通じて、靖国神社の祭神である英霊の慰霊顕彰を主な事業とし、その最重要の目的として、靖国神社の国家護持を標榜する団体である。靖国神社もまた、遺族を自らの崇敬者と位置づけ、日本遺族会の会長を責任役員に迎えるなど両者の関係は密接であり、日本遺族会は靖国神社の崇敬者団体となつている。また、英霊精神なる靖国神社教義の布教伝導の組織である「英霊にこたえる会」は、実質的には日本遺族会を主たる構成部分としながら、遺族以外の靖国神社崇敬者を英霊精神の伝導者として包含した団体であり、この両者は人的集合としての靖国神社の教団の不可欠の構成要素である。市遺族会は、このような日本遺族会の箕面市における支部であり、箕面市など市町村の段階では、靖国神社教義の普及を主な活動目的とする「英霊にこたえる会」とほとんど同一の組織である。

このような市遺族会の強い宗教的性格、特に靖国神社との深い関係、すなわち、信者の団体として靖国神社の教団の不可欠の要素であり、靖国神社の教義、英霊精神の積極的布教伝導の組織であること、そして、何よりも遺族会の目的が靖国神社国家護持、靖国神社信仰の国教化であることなどに鑑みれば、市が市遺族会を援助することは、直ちに靖国神社の信仰に市が強くかかわり、特に、その宗教的課題である靖国神社の国家護持、公式参拝(靖国神社信仰の国教化)を市の段階で、先取り的に実現しようとするものにほかならず、まさに、国教を定立する可能性を強くもつた、国教を定立するための一段階としてのかかわり合いを生ぜしめるものである。

(三) 援助の性質

援助の内容的性質は、まさに靖国神社教義に基づく英霊信仰のための地方施設である忠魂碑を維持するための、再建費用、敷地の無償貸与及びその碑前での慰霊祭の挙行の支援である。これは、靖国神社信仰そのものに対する積極的支援であり、甚だしくイデオロギー的性格を持つかかわり合いである。すでに明らかなように、忠魂碑は、その碑銘にあるように、天皇に忠義を尽くして死ぬことを賞賛し、まさに天皇のために忠義を尽くして戦場に死んだ者として賞賛する碑である。このこと自体をとつても、個人の尊厳、国民主権、平和主義を原則とする日本国憲法下においては、反憲法的イデオロギーの鼓吹であり、後述するように、地方自治体のなしうる援助としての要件を欠いているものであるが、市がかかる反憲法的イデオロギーを表現する碑の維持を援助することは、これと同じ反憲法的イデオロギーに立脚する靖国神社の教義を積極的に援助する効果をもつことを否定しがたい。

援助の外形的性質は、市の所有土地の無償でしかも期限の定めのない半永久的な貸与によつて敷地を与え、市の費用で市自身が永久的建造物である本件忠魂碑を移設・再建してやるというものであり、慰霊祭の挙行援助は、市遺族会の事務を市の職員が行い、慰霊祭も市の職員が実務のすべてを実行したというもので、市長・教育長の参拝によつて外形的にも内容的にも慰霊祭の挙行を支援したというものである。

忠魂碑の維持(護持)は、その半永久性によつて市と忠魂碑との半永久的なかかわり合いを生じ、しかも、その維持(護持)の経済的、事務的負担のすべてを市が負つているという深いかかわり合いとなつている。そして市遺族会の事務を市職員に行わせ、市の職員を派遣し、市の備品や自動車を提供して慰霊祭の挙行を支援し、市長、教育長などが慰霊祭に参加して忠魂碑を礼拝するという慰霊祭の挙行支援は、総体としてみれば、市自身が慰霊祭を挙行していると評価できるほどであり、すでに述べたように、市がみずから宗教活動をしたのと同視できるほどの市と忠魂碑或いは市遺族会ひいては靖国神社との深く強いかかわり合いを作り出している。しかも、市の援助はその土地の代金額、再建費用のいずれをとつても莫大な額であり、金額だけみても過度のかかわり合いを生じている。

このように本件各行為は、その援助の性質において市と靖国神社との過度のかかわり合いをもたらすおそれの高いものであり、憲法に違反する。

(四) 結果としてもたらされる政府と宗教団体との関係

国も地方公共団体も、戦没者を公の神さまとして祀るべきだし、公の神さまとして祀られることで戦没者は最もよく慰められるという遺族の信仰を市は公に認めてしまつている。市の土地を無償で提供されて、その上、移設・再建の費用まで市から拠出してもらつて、そして、慰霊祭も市の職員らにやつてもらい、市長・教育長らが礼拝してくれる本件忠魂碑はまさに公の神さまとなつたのである。これはもはや特権の付与といいうる程の市と市遺族会との関係である。これ以上の過度のかかわり合いは、直接に公の神さまであることを宣言して、公教化する以外にないところまできている。

(五) 政治的あつれき

過度のかかわり合いの基準は、単に国家と宗教とのかかわりが過度のものとなるという点のみならず、そのかかわりから政治的あつれきが発生する可能性をもその検討の要素としている。市遺族会は日本遺族会の支部であつて、日本遺族会は、靖国神社を崇敬するという特定の信仰を同じくする者の集りである。日本遺族会は、その設立の当初から靖国神社信仰に基づく英霊の慰霊・顕彰をその中心たる事業としていたが、これを隠し、宗教と関係なくすべての戦没者遺族を結集すべきものとして設立され、宗教的機能を営むことを考慮されないで、或いは政府・自民党は知つていてわざと騙されたふりをして、国から九段会館の無償貸付という特別の援助を受けたが、その関係もあつて、当初は日本遺族会にも右の表面上の趣旨を信じて入会した靖国神社信仰を持たない人々がおり、その構成員となつていた。しかし、靖国神社信仰を隠す必要がなくなり、公然と靖国神社国家護持運動ができるようになると、靖国神社信仰を持つ多数派が、これを持たない少数派の宗教的立場を無視するようになり、遺族であればすべて、靖国神社を信仰するのが当然だという態度で、靖国神社の国家護持運動などを進めてきた。

その結果、この信仰を同じくしえない人々は日本遺族会から離れ、キリスト者遺族の会、旭川平和遺族会、真宗遺族会などをつくり、ついにはこれらが集つて全国的な団体として平和遺族会を設立するところまできた。靖国神社問題は、愛する者をなくした遺族の共通の悲しみの中に大きな分裂を引き起こしたのである。このような分裂的状況のもとにあつて、その一方である日本遺族会の側を援助することは、日本遺族会を支配している靖国神社信仰をもつ者らを支援し、靖国神社信仰を助長するものであることは明らかである。しかし、それ以前に、このような宗教の政治問題化や宗派をめぐる政治的分裂こそは、政教分離原則が予防しようとするものにほかならない。遺族の多数が靖国神社信仰をもつていても、それは信教の自由の領域のことであり、これを持たない少数派もあえて批判はしないであろうし、分裂も生じなかつたであろう。靖国神社国家護持を主張しなければ、この両者も互いに寛容でいられたはずなのである。遺族の靖国神社信仰を利用しようとする人々の策謀がかかる分裂と対立を引き起こしているのである。

第一審原告らは、その提訴以来、第一審原告らはキリスト教徒であるとか共産主義者であるとか、およそ根拠のない誹謗・中傷を受けてきた。恐るべきことに、同様の誹謗・中傷は第一審裁判所の裁判官にまで及んでいる。

(六) 侵害の拡大

本件は、靖国神社国家護持・公式参拝の地方版である。本件忠魂碑の市による維持(護持)や市による本件各慰霊祭の挙行の援助、市長・教育長の公式参拝が裁判所によつて容認されるならば、直ちに、全国の市町村においては忠魂碑の市町村による維持(護持)及び市町村による慰霊祭の挙行を求める動きが強まり、その多くが目的を遂げるであろう。第一審被告らの提出した、数多くの慰霊碑の写真は、死者の膨大さを示しているが、この数多くの慰霊碑のすべてが、市町村による維持(護持)を求め、慰霊祭の挙行を求め、市町村長などの公式参拝を求め、それが実現したときのわが国の状況は悲惨なものであろう。しかし、決してそれには止まるまい。靖国神社の国家護持を希求するわが国の宗教的多数派は、津地鎮祭事件最高裁判決すら悪用して、靖国神社の公式参拝を正当化する理屈にしてしまつた。本件訴訟において第一審原告らの請求を排斥する論理は、すべてそのまま靖国神社の国家護持に利用されるし、利用可能である。本件訴訟における、市の本件忠魂碑維持(護持)、慰霊祭挙行、市長・教育長らの公式参拝の容認は、そのまま靖国神社国家護持、靖国神社信仰の国教化そして国家神道の復活へとつながつている。

(七) まとめ

以上の要素の検討は、いずれもが本件各行為が市と忠魂碑或いは市遺族会と靖国神社信仰との過度のかかわり合いであることを示している。本件各行為の容認は直ちに靖国神社信仰の国教化をもたらす程の重大な危険をもたらすものであることは明らかである。

6 結論

以上、津地鎮祭事件最高裁判決の多数意見の判示した基準及び判断要素或いはアメリカ連邦最高裁の形成した判例理論の生み出した基準及び認定要素のいずれの点からみても、本件各行為は、政教分離原則に反するものであり、市及び市遺族会による憲法に対する挑戦である。

二 本件各行為の反公益性

法二三二条の二は、普通地方公共団体が補助をする場合に、「公益上の必要」が要件となることを定めている。このような一般条項は、憲法の趣旨と理念に適合し、これを具体化させるものとして解釈しなければならない。第一審被告らの本件各行為は、礼拝行為そのものを除く外は、市遺族会に対する財政的援助であるから、右の公益上の必要の要件によつて直接に拘束され、補助行為としての適合性、適憲性を問われるばかりでなく、礼拝行為のように、直接には右規定による拘束を受けないものも、憲法に定められた地方自治の本旨に基づいて、地方公共団体における民主的な行政の確保をはかるとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする法一条に従い、法律による行政を行う地方公共団体の行為である以上、根本規範である憲法によつて覊束されているのである。

1 基本的人権尊重原則の違反

憲法が、個人の尊厳をその基調とするものであることは、改めて論じるまでもない。特に、生命を維持することに対する権利が何ものにもまして重要であることは論をまたない。

したがつて、国家は、犯罪によつて死刑に処せられたものを除いて、国民の生命を奪うことが許されないのは勿論、生命を危うくすることも許されない。これに対し、忠魂碑が表現しているものは、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(教育勅語)という、天皇の命令があれば国民は、戦場に狩りだされ、他のあらゆる生活を犠牲にすることを強制される理念である。それは、やむをえず天皇の兵士となれば、国家は「只ニ一途ニ己ガ本分ノ忠節ヲ守リ、義ハ山獄ヨリモ重ク死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ」と命じ、その覚悟をさせるために、現実に死亡した者の取り扱いを考慮し、「忠魂ヲ慰ムル為ニ神社ヲ建テテ永ク祭祀セシム、益々忠節ヲ抽テヨトノ最忝キ叡慮ニヨリテ」創建された靖国神社、その靖国神社の理念と同一の理念である。

天皇若しくは国家が命じたときは、国民は兵士として戦場に赴き、戦死をも厭わずに戦争に従事すべきであり、そして、現実に死亡することが非常に尊いことであるとする、このような理念は、憲法が完全に否定したものである。また、人間の生き様、死に様として、どのようなものを選択するかは、各人の幸福追求の内容として個人の自由である。国家がこれに介入し、特定の死に方を高く評価することは、右自由を侵すことであり、これを公的に宣明することも許されない。

2 平等保障条項の違反

忠魂碑が、戦場における死を讃え、讃美する碑であることは、原判決が認めているとおりである。明治維新以来の社会の変動と政治的騒乱、外征・侵略と、内における弾圧によつて、国の内外において実に多くの人間が命を落とし、傷害を受け、親族を亡くし、財産を奪われた。そのうち生命を奪われた者だけをとつても膨大な数であり、その死に方も様々である。その中で、天皇の軍隊の将兵として戦場において死亡した者だけを高く評価して讃美することは、合理的といえない差別である。国家が誤つた政策として侵略戦争を開始しようとするときには、これを阻止すべく、戦争に反対して闘うことが憲法下における国民の義務であれば、このような差別の不合理性は明らかである。十五年戦争下において、戦争に反対して獄中に死亡した者らは、歴史の中ではその行為がむしろ正当化される。これらの者より、戦没者を優遇することを正当化する理由は全くない。他の者らも同様である。戦没者のみを優遇することは憲法一四条に違反する。

3 国民主権理念の違反

日本国憲法の国民主権の理念は、現人神に一切の価値が収斂していた旧憲法における天皇主権の思想に対する根源的な否定である。現憲法下においては、天皇はその政治的、宗教的権威の一切をもたず、あくまでも主権の存する国民の総意に基づいて、象徴としての地位を有するのみである。これは、戦前の国家体制についての根本的反省によつて結実した、人類普遍の原理に基づく新しい国家体制の根幹であることはいうまでもない。

しかるに、忠魂碑が体現する招魂の思想、そこにみられる靖国神社の教義は、今なお一切の価値基準を天皇に求め、そこに究極的価値をおいて、正に戦前の天皇主義回帰の思想を喧伝するものである。本件における市の関与のあり様は、これを否定するのでないことはむろんのこと、これに対し中立的であろうと配慮する姿勢すらいささかもなく、これを積極的に支持しているとしか思えない態様に終始したものである。これを合法視する余地はない。

4 平和主義理念の違反

戦没者の慰霊について第二で詳論したとおり、忠魂碑が体現しているのは、招魂の思想・宗教観念と不可分一体となつた政治的軍事的観念である。同碑に祭られているのは、国家神道の中心的施設・靖国神社の祭神である。ここには抜きがたく、戦前のあまねく神威を諸民族に光被せしめる対外戦争肯定の理念が表象されている。それが、日本国民は、恒久の平和を念願し平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した憲法前文、同九条において具体化された平和主義の理念と国際協調主義の理念に反することは明らかである。

本件慰霊祭における第一審被告市長自らの式辞は、忠魂碑の体現する靖国神社信仰への積極的関与を象徴的に物語つている。そのような積極的関与の姿勢による礼拝は、単なる社会儀礼とか、お付き合いなどとして看過することのできない重大な違法性を帯びている。本件忠魂碑の移設・再建費用の支出、慰霊祭執行の支援、補助金を支出し事務を担当して会の運営を援助する等、第一審被告らのその他の関与行為も、右と同様、憲法の三大原則である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義のすべてに反している。すなわち、第一審被告らの本件各行為は、反公益的であるというほかない。

別紙 (二)

第一 忠魂碑の歴史、現況及びその性格

一 忠魂碑の歴史

1 発生期

忠魂碑、招魂碑等の文字を刻した碑は、幕末期から明治初年にかけて、国事殉難者に対する慰霊顕彰運動を背景に各地で建立され始めた(乙六一号証)。当時の碑は、墓碑の性格を持つ招魂墓碑の系統のものと、死者に対する頌徳・弔慰の意を表する記念碑の系統のものとが混在していた。しかし、明治二年に東京招魂社(後の靖国神社)ができ、明治七年以降、各地の招魂社・官修墳墓の制度が整備拡充されたことによつて、招魂墓碑はもはやこれを建てる特段の必要がなくなり、その後に建てられた碑は記念碑の系統のものとなつたとされている。

2 第一次建碑ブーム

忠魂碑等は西南の役、日清戦争による戦没者のためにもかなり建てられたが、未曽有の死者を出した日露戦争後、碑の建立は一つの頂点に達し、忠魂碑という銘題もこのころに定着するに至つた。建碑は、明治三〇年代には、尚武会、軍人協会などの私設軍人団体が中心となつて行つていたが、明治四三年に在郷軍人会が設立されてからは、同会の分会が建てることが多くなつた。これらの碑は、戦死した同郷出身者を顕彰し記念する目的で、村落共同体単位に自然発生的に建設されていつたもので、特定の神社、寺院その他の宗教団体が唱道して建設されたのではなかつた。また、碑の形態も種々雑多であり、鳥居・仏像・十字架等とは異なつて、一般人がそれを見て特定の宗教宗派を想起するとはいいえないものである。

忠魂碑等の碑は、法制上、「碑表」ときには「記念碑」と呼ばれたものであり、内務省社寺局或いは神社局は、これを祭祀の対象とすることに全く否定的であつた。しかしながら、現実には、戦没者遺族などが、在郷軍人会の分会などの支援を受けて、神式・仏式などの碑前招魂祭を行う例がみられた。

3 第二次建碑ブーム

わが国は、昭和六年に満洲事変を、昭和一二年七月に日華事変を起こし、戦線の拡大とともに戦没者を増大させた。これに伴つて忠魂碑等の碑を建設する気運が高まり、ここに第二次建碑ブームの到来をみた。そして、満洲事変以降、次第に戦時色が濃くなつていく中で、行政機関及び教育機関によつて、小中学校の児童生徒に対する忠魂碑への参拝・礼拝が励行された。その方法は、上体を約三〇度前屈させる立礼であつた。

他方、軍は、昭和一四年七月七日、内閣総理大臣を名誉会長とし、陸軍大臣菱刈隆を会長とし、各省大臣、陸軍大将、海軍大将が役員として名を連ねた財団法人大日本忠霊顕彰会を発足させ、戦地において軍によつて建てられ、遺骨等を納める墳墓としての性格を持つ忠魂塔と同様な塔を国内一市町村一基の割合で建設する運動を始めた。このため、昭和一五年から敗戦時までは忠霊塔の建設が一つのブームを形成し、その分、忠魂碑の建設は下火となつた(乙八九号証)。

4 戦後の忠魂碑並びに第三次建碑ブーム

戦後、占領軍は軍国主義の徹底解体と政教分離を目指した神道指令を発した。神道指令のもとでは、忠魂碑等の碑のうち明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものはすべて公有地からの撤去が求められたが、単に忠魂碑との碑題をもつものについては、明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものとはみられず、学校構内等教育の場にあるもののみが撤去の対象とされた(「公葬等について」第四項ロ)。しかし、現実には、当時の遺族らが駐留軍の目を極度に恐れたことから、表題碑文のみ有する碑表が自発的に移転又は埋土されるといつた例もあつた。

昭和二七年に占領が解除されると、忠魂碑等は、埋土されていた既設の碑が再建されるとともに、これと並んで新しい碑の建設も続々と行われ、その数は、昭和二七年四月二八日から同五九年までの間に新設されたものは四四四五墓におよんでいる(乙六二号証の三)。これらの碑表の再建・新設の主体は、遺族会、自治会、戦友会などであつた。新設された碑の名称としては、「慰霊碑」「慰霊塔」「英霊碑」などが多くなつたが、「忠魂碑」「忠霊塔」と称するものも相当数存在している。また、国内での建碑のほか、国、地方公共団体及び遺族会などは、南洋諸島、沖縄などの海外主要戦域に新たに戦没者慰霊碑を建設するようになつた(乙五五号証、六一号証)。

5 以上のように、忠魂碑等の戦没者のための碑の建設は、明治初期に始まり、第二次世界大戦における敗戦を経た今日に至るまで連綿として続き、そこで各種各様の慰霊行事が営まれているのである。この事実は、忠魂碑等の戦没者の建設が、その時々の政治、社会情勢の産物でも、宗教の産物でもなく、すなわち、忠魂碑が記念碑であること、最も基本的な人間としての自然の心情、すなわち、肉親愛、隣人愛等によつて行われたことを示すものといわなければならない。そして、このことは忠魂碑の研究家によつても確認されているところである。

二 忠魂碑の現況

忠魂碑等の戦没者がわが国の広範な地域にわたつて多数存在することはよく知られているが、その正確な数、現状については、必ずしも明確とはいいがたい。しかしながら、忠魂碑については近時その研究が進み、これらの研究の成果と、市が最近各地の地方自治体の協力をえて調査した結果(乙六二号証の一ないし五、六三号証の一ないし一〇、八九号証)によつて、そのおおよその実態を把握することはできるのである(市の調査は自治体に対する照会の形でなされ、すべてについて実地踏査がなされたものではないため、全国の状況を完全に把握できるものではないが、おおよその状況は把握できるといわなければならない。)。以下、これらの資料により、忠魂碑等の戦没者碑の現況を明らかにする。

1 忠魂碑等の基数

全国にある忠魂碑等戦争に起因する碑・塔の基数は、市の調査によつて判明しているものだけで、一〇三四四基に及んでいる。このうち忠魂碑の碑銘のものは四〇八八基である。

2 敷地の所有区分

(一) 右一〇三四四基について、その敷地の所有区分をみると、つぎのとおりである。

国有地 266基(2.6%)

都道府県有地 47基(0.5%)

市町村有地 3271基(31.6%)

部落有地 569基(5.5%)

民有地 474基(4.6%)

寺社有地 3181基(30.7%)

区分不明 2536基(24.5%)

(二) これを、忠魂碑の碑銘のものに限つてみると、つぎのとおりである。

国有地 28基(0.7%)

都道府県有地 7基(0.2%)

市町村有地 1385基(33.9%)

部落有地 261基(6.4%)

民有地 190基(4.6%)

寺社有地 1236基(30.2%)

区分不明 981基(24.0%)

(三) 敷地の所有区分が判明しているものについていえば、碑全体についても、そのうちの忠魂碑だけについても、半数近くが公有地にあり、これに部落有地のものを加えると、全体の半数以上が公共的な土地に建てられている。このことは忠魂碑等戦没者のための碑が私的な個人のものというよりは、当該地域共同体の公共的な性格のものとして扱われてきていることを窺わせるのである。

3 碑の管理

現在、忠魂碑を管理しているのは、主として遺族会である。遺族会は、戦没者遺族の公的処遇と相互扶助を求めて設立された団体であり、その会員は、各種の宗教の信者や非信者で構成されている。

4 形態

忠魂碑の形態は主として文字を刻した石造物である。その形状は、自然石のままのもの、角柱式、円柱式、尖塔式、楼閣式、横長方形、円形、合掌した手、山・砲弾を模したもの、石像・銅像を乗せたものなど多種多様である。このことは、忠魂碑等の戦没者碑が特定の規矩に従つて建てられたものではなく、建てる者の創意によつたものであることを窺わせるとともに、その形態からは特定の宗教宗派との関連があるとは受け取られないことを示している。

5 碑銘・碑文

(一) 碑銘は多種多様である。多いものから列挙してみると、忠魂碑4088基(39.5%)、慰霊碑927基(9.0%)、忠霊塔685基(6.6%)、慰霊塔591基(5.7%)、記念碑525基(5.1%)殉国碑261基(2.5%)、招魂碑240基(2.3%)、英霊碑188基(1.8%)等となつている。碑題の揮毫者は、戦前は陸海軍の将官、戦後は首相、大臣、知事などの政治家がほとんどである。

(二) 碑文としては、碑銘のみのものが圧倒的多数であるが、戦没者の氏名を刻んだものや被害の状況や戦没者を顕彰する文言を記載するものもある。

6 建碑の目的

建碑の目的は、戦没者の追悼、記念、慰霊及び顕彰である。

7 碑前慰霊祭

(一) 碑前慰霊祭が行われる忠魂碑等の数

(1) 忠魂碑等戦没者を記念する碑等の前でどの程度慰霊祭が行われているかをみると、つぎのとおりである。

慰霊祭を行つているもの

6052基(58.5%)

慰霊祭を行つていないもの

1142基(11.0%)

不明 3150基(30.5%)

(2) 忠魂碑の碑銘のものだけについてみると、四〇八八基のうち、2485基(60.8%)の前で慰霊祭が行われている。

(二) 慰霊祭の形式

(1) 慰霊祭をおこなつているもののうち、その形式が判明した五四四九基のうち、形式の主なものをみると、つぎのとおりである。

仏式の慰霊祭を行うもの 二五八九基

神式の慰霊祭を行うもの 一九八五基

無宗教の慰霊祭を行うもの 五八二基

神仏合同の慰霊祭を行うもの 二七八基

(2) これを忠魂碑でみると、形式の判明している二二六七基は、つぎのとおりである。

仏式の慰霊祭を行うもの 一〇九七基

神式の慰霊祭を行うもの 八六〇基

無宗教の慰霊祭を行うもの 一八二基

神仏合同の慰霊祭を行うもの 一二六基

(3) これらの中には、神仏隔年交替の形式をとるものも二五九基含まれている。慰霊祭の形式は碑全体でみても、忠魂碑のみでみても、仏式が一番多いことがわかる。また、この数字によれば、碑の前で行われる慰霊祭は、特定の宗教宗派によつて営まれなければならないとする意識はないという実情が浮き彫りになつてくる。

(三) 慰霊祭の主催者

(1) 慰霊祭を行つている六〇五二基について、その主な主催者をみると、つぎのとおりである。

遺族会主催 一五七〇基

市町村主催 六六〇基

自治会主催 五七二基

奉賛会主催 三六五基

社会福祉協議会主催 三四三基

(2) これを忠魂碑でみると、つぎのとおりである。

遺族会主催 七〇一基

市町村主催 二六四基

自治会主催 二四〇基

奉賛会主催 一六四基

社会福祉協議会主催 一五八基

(3) 慰霊祭の主催者の観点からみても、これが特定の宗教団体或いは特定の宗教と結びついているのではないことがわかるのである。

三 本件忠魂碑の歴史と現況

1 本件忠魂碑の歴史

(一) 本件忠魂碑は、大正五年四月ころ、分会によつて建設された。箕面村は、これに先立ち、分会に対し、豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番の二畑(現況役場敷地)一反三畝一〇歩のうち現況不用地(実測178.51平方メートル、旧敷地。)を無償で貸与した。

(二) 本件忠魂碑の前では、昭和一〇年代まで、毎年慰霊祭が挙行されていたが、その後敗戦まで、殆ど挙行されることがなくなつた。

(三) 本件忠魂碑は、昭和二二年三月ころ、分会の旧会員の手により、碑石部分だけが取り外され地中に埋め隠され、基台部分はそのままの状態にされた。しかし、昭和二六年五、六月ころ、箕面遺族会(後の箕面町戦没者遺族会。)会員の手により、碑石部分が引き上げられ、復旧された。

(四) 本件忠魂碑は、昭和二七年九月以降、箕面町戦没者遺族会(後の市遺族会)により清掃維持管理されている。また、市遺族会の上部組織である区遺族会は、昭和三〇年ころから、毎年一回、本件忠魂碑の前で慰霊祭を実施してきている。

(五) 本件忠魂碑は、昭和五〇年一二月二〇日、本件土地のうち北隅部分178.51平方メートルすなわち本件敷地に移設された。清掃維持管理の実施については、(四)と同様である。なお、慰霊祭については、昭和五八年四月から、碑前ではなく箕面農業協同組合二階会議室において実施されている。

2 本件忠魂碑の現況

(一) 建碑・管理の主体

かつては分会であり、現在は市遺族会である。分会は、箕面村の予備役、後備役、退役将校等を会員とし、軍人精神を鍛練し軍事能力を増進することにより社会の公益を図ることを目的とする団体であつた(乙六号証の一ないし五参照)。また、市遺族会は、箕面市在住の戦没者遺族を会員とし、会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ遺族の福祉向上に資することを目的とする団体である。

(二) 形態等

直方体の基台部分に四角の板状の碑石(高さ約2.5メートル)を乗せた石造物で、地上から碑石最高部までの高さは6.3メートルである。周囲は砂利敷となつており、ヒマラヤシーダー、モクセイ、サクラなどの灌木が植えられており、その周囲を玉垣が囲つている。

(三) 碑銘・碑文

本件忠魂碑には「忠魂碑」という碑銘があるだけで、それ以外の文言の記載はない。

(四) 建碑の目的

本件忠魂碑は、地元出身者の追悼、記念、慰霊及び顕彰のため建設されたのである。

(五) 慰霊祭

本件忠魂碑の碑前では、昭和三〇年ころから、毎年一回、慰霊祭が実施されてきた。慰霊祭は、当初、各派合同の仏式の形態で行われていたが、後に、神式、仏式の隔年交替の方式が定着するようになつた。仏式の慰霊祭は、箕面地区内の宗派を異にする僧侶が都合の許す限り参加している。

四 忠魂碑の性格

1 宗教施設と宗教体系

(一) 原判決は、忠魂碑を宗教施設であると認定しているが、それが、どのような宗教体系における宗教施設であるかについては明確に述べず、特定の宗旨によるものであるかはともかくとして、宗教的観念の表現がある礼拝の対象物である宗教施設とするのである。しかし、特定の物を宗教的意義をもつた礼拝の対象とするのは、当然のことながら、それを聖なる物とする特定の宗教体系がなければならないのであり、特定の礼拝対象を定立する宗教体系を限定することなく、一般的にある物が宗教的であるということはできないといわなければならない。忠魂碑を宗教施設たらしめる宗教体系を呈示することのないままで、特定の宗旨によるものかどうかはともかくとして忠魂碑を宗教施設であると認定した原判決は、全く不当といわなければならない。忠魂碑はそれを聖なるものとする宗教体系に欠けているのであつて、これを宗教施設ということはできないのである。

(二) 宗教にはその共通要素として、つぎの四つの要素があるとされている。すなわち、①仏教、キリスト教とかの説いている教え、すなわち教義、②当人がその教えを自分自身の生き方の原理、実践の原理とする、そして、宗教的実践のとくに定形化されたものとしての儀礼、③その教義とか儀礼といつた事象を文化現象として、世代から世代へと伝えて行く宗教的な社会集団、すなわち教団、④教義、儀礼、教団などの集団現象の背後にある人間ひとりひとりの宗教体験、の四つである。

(1) 教義

原判決は、いわゆる国家神道を念頭に置くものとみられるが、国家神道の教義には三つの異なつた系統に属する要素がある。一つは、国が宣揚した国家主義のシンボルの要素であり、政治的イデオロギーの部分である。二つめは、事蹟ないし事業を記念する要素である。この要素は本来的に社会倫理的なものである。三つめは、死者とこの世に生きている者との相関関係である。これらの要素は、ある程度靖国神社、護国神社にも忠魂碑にも忠霊塔にも見られるが、それぞれの設置の経緯に照らすと重点の置き方が基本的に異なつている。天皇の仰せ出された招魂社から発展し後に高級軍人を宮司とすることになつた靖国神社は政治的な目標を中心に置き、地方の民衆が発議して地元戦没者のために建てた忠魂碑は二つめの社会倫理的な要素が中心であり、戦地の墓標を起源とする忠霊塔は三つめの要素に重点があつた。二つめの社会倫理的要素は、堤防建設の人柱となつたり、年貢減免を訴えて討首になつた人など村落全体のために命を捨てた犠牲者を記念する石碑等が建てられた伝統に根差しており、これが自発的に戦没者のために建てられた忠魂碑の中に生きているものと考えられる。戦前、戦中の一時期、忠魂碑にも一つめ、二つめの要素が付随してきたことは認められるが、明治元年から今日に至るまで年々建立されてきた忠魂碑の本質は二つめの要素であつた。

(2) 儀礼

原判決の判示で、「儀礼」に相当するものは、慰霊祭と児童等による拝礼である。しかし、児童による拝礼は、世俗的な行政機関ないし教育機関の主導によつて行われたものであつて、これを宗教儀礼であつたとすることには無理がある。児童が行つた拝礼は、当時の社会規範の確認であり政治的な意図によるものであつた。なお、児童等による拝礼は、特定の宗教儀式の方式によるものではなく、上体を約三〇度前傾させるいわゆる奉拝であつた。

また、慰霊祭は、戦死者に対するものも、災害死亡者に対するものも、参加者の意識は哀悼及び記念を内容とするのであり、宗教儀式というよりは謝意と敬意を表明する社会儀礼と考えるべきものである。

(3) 宗教集団

原判決の判示から、強いて宗教集団を見出そうとすると戦前の国家制度全体ということになる。しかし、忠魂碑は国民の自発的なものであつたが政府の側でこれを抑制しようとした事実があるから、忠魂碑について国家制度全体を宗教集団とみることはできない。忠魂碑をささえる集団に合致宗教集団的要素がある程度認められるとしても、それは、近代的な宗教集団として特定できるようなものではない。原判決が重視する在郷軍人会は、皇族を総裁とし軍部の統制下に置かれた戦時動員を容易にするための官製組織であり、これを宗教集団の指導グループと位置づけることはできず、その活動も精々政治的イデオロギーの広宣活動にすぎない。

(4) 宗教体験

宗教体験とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし人間の問題の究極的な解決に関わりをもつと人々によつて信じられている営みと解されているが、忠魂碑によつてどのような宗教体験がえられるのか、原判決では不明である。原判決は聖域的雰囲気、荘厳さ、神秘性に言及するが、それはいわゆる無宗教方式による慰霊祭においてはもちろん、入学式や入社式或いは茶の湯等一般に世俗的な行事とされているものについても感じられるものであり、宗教体験とは関係はない。忠魂碑によつて、死を賭して戦いに赴く決心がつくと信じている者はいない。以上のように、忠魂碑を巡る諸事情からは、宗教に共通する要素を認めることはできないのであり、忠魂碑を宗教施設たらしめる宗教体系は存在せず、忠魂碑は宗教施設とはいえないのである。

2 神道指令と忠魂碑

宗教学の観点からみて、忠魂碑が宗教施設とはいえないことは、右にみたとおりである。そして、忠魂碑が宗教施設でないことは、わが国の政教分離原則のもととなつたいわゆる神道指令及びこれをうけた「公葬等について」通達における忠魂碑の取扱いに照らしても明らかである。神道指令及びこれをうけた「公葬等について」通達は、わが国における軍国主義の解体と政教分離の確立を企図したものであり、占領軍によつてその徹底がはかられたものである。こうした状況下においては、仮に、忠魂碑が宗教施設、特に、原判決が念頭に置く国家神道の宗教施設であると考えられたものであるならば、およそ忠魂碑は公有地上に存置することが許されることはありえないのである。しかるに、忠魂碑は、学校構内及びそれに準ずる場所にあるものについては一切撤去が命じられたが、公有地にある忠魂碑でも明白に軍国主義を鼓吹するもの(本件忠魂碑のように、単に忠魂碑とされているものは、これにあたらないとされた。)以外は撤去を命じられなかつたのである。政教分離の徹底を要求した占領軍も、或いはその政策意思を表現した神道指令及びこれを受けた「公葬等について」も忠魂碑を宗教施設とみていなかつたのである。

3 戦没者慰霊の本質

原判決は、忠魂碑等の戦没者碑の前での慰霊祭を戦争を賛美する宗教行事とするものである。しかしながら、国家に貢献した死者に対する慰霊、追悼、顕彰の行事は、唯物史観の国家のソ連や中国、政教分離を重んずるアメリカなどを含む世界中の国々で行われているのであり、そこでは、宗教家が司式するか否かにかかわらず、荘厳な雰囲気を現出し、公けの性格を象徴的に示す地位ないし役割の人物と一般社会の普通人が参加し、共同体の永続性が確認されるのである。わが国政府が講和条約成立直後に、何にも先駆けて、天皇の臨席の下に昭和二七年五月二日全国戦没者追悼式を行つたのも、こうした背景があるからである(乙五五号証)。この点をみても、戦没者慰霊が戦争を賛美するものとはいいえないのである。

戦没者の慰霊祭行事は宗教団体に限らず、政府、地方公共団体をふくむ世俗的団体によつても広くおこなわれていることは周知のところである。そして、世俗の機関が主催しても、宗教団体が主催しても、同じような儀式として厳粛に遂行されるのである。忠魂碑等戦没者のための碑・塔についても、その前で各種の団体により、各種の方式で、広く慰霊祭が行われているのである。市の調査により確認された戦没者のための碑・塔の合計は、一〇三四四基であるが、そのうち六〇五二基について慰霊祭が行われていることが判明している(行つていないことが判明したものは一一四二基、不明が三一五〇基である。)。そして、碑前慰霊祭の形式は、一つの宗教で行われることも、二つ以上の宗教で行われることも、無宗教で行われることもあり、また、宗教式の場合も仏式の場合、神式の場合、キリスト教式の場合等種々である。その主催者をみても、戦没者の遺族の集まりである遺族会のほかに自治体、自治会の場合も相当数あるのである。

以上の諸点からみれば、忠魂碑等の戦没者碑の前で行われる慰霊祭は、戦争による死者に対し生前は御苦労様というために市町村、遺族会及び自治会など死者の身近の共同体の人びとが形式を整えて挨拶する儀式にほかならず、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする記念の式典というべきものなのである。つまり、慰霊祭は、共同体の一体感を再確認する倫理観の劇場的表現であつて、個人の信仰の表現たる宗教とは本質的に異なるものである。わが国では政府等が戦没者慰霊祭を行う場合は、いわゆる無宗教式によつているが、世俗の機関による無宗教式によつても慰霊祭が行われうるのは、その一義的な目的が戦没者の記念にあつて、世俗性の強いものだからである。要するに、慰霊行事の本質は、習俗化した社会倫理の儀礼的表出であり、宗教行為ではないのである。このように慰霊祭の本質は世俗的である。それ故、そこに神官や僧侶が参加し宗教的に儀式を執行しても、それは慰霊行事全体の仕組みの中では演出効果を高める副次的な要素にとどまるのである。また、それだからこそ、本件忠魂碑の前で行われたように神式と仏式の隔年交替の慰霊祭が可能なのである。

4 原判決判示の不当性

(一) 第一に、原判決は忠魂碑と靖国神社の同質性を強調する。しかし、その証拠としては、忠魂碑も靖国神社もともに戦没者を対象とするものであること、戦前においてともに軍国主義教育に利用されたことが挙げられているにすぎない。対象者が同一であるということから、両者が宗教的に同質であるという結論を導きだすことはできない。そのためには、忠魂碑と靖国神社が宗教的に同質であることについて別の論証が必要である。原判決は、しきりに靖国神社との同質性、共通性を強調しているが、肝心の点の論証を全く欠いている。忠魂碑前での儀式は種々であり、原判決自身、忠魂碑前での儀式は神式に限られていないことを認めている。こうした点を無視して、両者が宗教的に同質ということは無理といわなければならない。また、同質であるとするならば、忠魂碑前で仏式の慰霊祭を行つた僧侶が靖国神社で同じ儀式を行いうるとしなければならない。しかし、そうしたことがありえないことはいうまでもない。原判決が忠魂碑と靖国神社の同質性を強調したにかかわらず、結局において、忠魂碑を「特定の宗旨によるものであるかどうかはともかく」とせざるをえなかつた点に、原判決の論理の脆弱性が示されているし、他面、それにもかかわらず靖国神社との同質性を強調して忠魂碑を宗教施設と認定した点に、原判決の主観性が露呈している。原判決のようにいえば、およそ戦没者碑は宗教的に靖国神社と同質といわざるをえないこととなる。また、およそ戦没者についての慰霊行事は靖国神社の祭神を祀る宗教行事ということになる。こうした論理が正当でないことはいうまでもない。また、軍国主義教育への利用は、政治ないし軍事の問題であり、忠魂碑と靖国神社が宗教的に同質であるかどうかとは次元を異にする問題である。

(二) 原判決は、忠魂碑前で慰霊祭が行われることを強調する。しかし、戦没者碑の前での慰霊祭の本質は、前記のように、共同体における社会倫理の表明行為である。原判決は、極めて視野の狭い見方であり、かつ、表面的事象にとらわれて事の本質を見誤つたものである。また、そもそも遺族その他の国民がどのような形式で慰霊祭を行うかは本来それらの者の自由にまかされたものであり、広い視野に立つた慰霊祭の本質究明の作業をすることのないまま慰霊祭の方式から逆算して碑の性格決定をしようとするのは、本と末とを転倒した論理である。さらに既成宗教の方式で慰霊祭が行われれば、宗教施設となるとするならば、広島市の平和公園(公有地)内にある原爆供養塔についてもなおこれを宗教施設にあたるとするのかどうかが問われねばならない。そこでは、毎年八月六日神式・仏式・キリスト教式・神道教派式での儀式が営まれているからである。原判決は、こうした点にふれるのをことさらに避けている。

(三) 原判決は、「忠魂」の文字には、戦場における死を讃える意味があるとし、それが軍国主義教育に利用され、忠魂碑が児童による礼拝の対象となり、それ故に、宗教施設であるといい、他方、忠魂の文字を消除すれば忠魂碑は宗教施設でなくなる旨判示している。しかし、この点も全く恣意的な判断といわざるをえない。そこでの礼拝がなぜ宗教的儀式としての礼拝といえるのかについてはふれるところがない。原判決の論理からすれば、この点は最も肝心の点であるにもかかわらず、その点について何らの論証もないのである。また、原判決は、忠魂碑の「忠魂」の文字を消除すれば宗教施設でなくなる旨判示しているが、忠魂碑は数ある戦没者碑のうちの一つにすぎないのであつて、殊更に忠魂碑の「忠魂」の文字に拘泥すべき理由はないというべきである。原判決が戦没者碑のなかで特に忠魂碑を異種のものとするのであれば、忠魂碑とその他の碑銘の戦没者碑との間に建設者の意識の面でいかなる差異があつたのかを明確に示すべきである。こうした点についての説明のないまま忠魂の字義解釈に腐心した論理をもつてしては、到底説得力をもちえない。しかも、「忠」は、わが国ではもともとは理想の問題であり、これを宗教上の観念であるかのようにいうのは思想と宗教とを混同した原判決の独断といわなければならない。

(四) 原判決は、霊を祀るという表現に宗教的意味合いを込めることにより、忠魂碑が霊魂の内在を推知させる存在であると帰結しているが、わが国では、祀るという用語は、必ずしも宗教的意義を込めて使用されるものではなく、いわば日常用語的又は習俗的な意味合いで用いられている場合もあるから、用語から忠魂碑の性格規定をすることは適当とはいえないのである。この点は慰霊祭の本質を究明することにより行うべき問題である。

(五) 原判決が、実体を究明しないで徒に文字に拘泥している他の例として、つぎの点も挙げられる。すなわち、原判決は、本件忠魂碑の基台中にあつた丸杉板と木の柱をもつて神体としての霊璽であると断定した。しかし、その論拠とするところは靖国神社にある霊璽簿と同じ霊璽という文字が書かれているからというにすぎない。その作成の状況等を一切無視して、文字面だけで神体というのは、いかにも乱暴な論理である。しかも文字を問題にしながら、実際の霊爾を霊璽とかえての論述は、いかにも適切を欠くものといわねばならない(検乙七〇号証の一ないし七参照)。右の点をさておいても、本件の丸杉板等を神社神道のいう霊璽と同一視することはできない。すなわち、右丸杉板等は、神職等の手により神道固有の儀式を経て霊璽となつたものではなく、非宗教家である当時の市遺族会会長が、昭和四一年ころ独自の判断で過去帳記載の戦没者の氏名を丸杉板に移記したものにすぎず、記載の内容も戦没者の名も俗名のみが列挙され、本件移設時には市関係者はもちろんのこと市遺族会会員も丸杉板等の存在を知らなかつたのであつて、これらの事実からすれば、これを神体としての霊璽ということなどは全くできないのである。

(六) 更にまた、原判決は本件移設に際して脱魂式や入魂式が行われたとして、それを本件忠魂碑を宗教施設と認定する一理由としている。しかし、本件移設に際して移築報告祭と移築竣工祭が行われた事実はあるが、右は、脱魂の儀や入魂の儀とは性格を異にする。すなわち、移築報告祭及び移築竣工祭もまた、臨時的に霊の依代とする神籬を立てて降神の儀・昇神の儀が行われているのであつて、本件忠魂碑に宿ると称せられる霊魂を抜いたり入れたりしたのではない。原判決は、本件移設に際して行われた儀式を遺族会会員が脱魂式・入魂式と呼んだと認定するが、少なくとも、移設後の儀式については当時の市遺族会会長も移築竣工祭と呼んでいるのであつて、入魂式と呼んではいないのである。また、仮に、脱魂式・入魂式と言われたとしても、そのことが直ちに本件忠魂碑の宗教施設性を示すともいえないのである。なぜなら、脱魂・入魂というのは俗用されることもあり、また、それらの式は死者にかかわる施設(例えば墳墓)を動かす際、工事の無事安全を願う工事関係者にとつて欠くことのできない慣行的・習俗的行事として行われるからである。本件の場合も工事を担当する不動建設株式会社の主催及び費用負担で行われている。こうした点を検討することなく言葉に過大に依拠した論理は、実体と離れたものとならざるをえないのである。

(七) つぎに原判決は、本件忠魂碑の宗教施設性の認定の一つの根拠として、聖域的雰囲気をあげる。しかし、このような雰囲気は、程度の差はあつても、墓苑等に共通的に認められるものであつて、これをもつて特に宗教的な性格の根拠とすることは困難であるといわなければならない。確かに、宗教の一つの特色として神秘性等があげられることはあるが、それは整理概念であつて、これを道具概念として使用することは方法論的にも妥当を欠いているのである。

(八) 以上にみたように、原判決の宗教施設性認定の論理は、忠魂碑の本質を説き明かすというのではなく、その論理の最も肝要な点についての論証に欠け、実体を探究しないで、徒に文字・言葉にかかずらい、表面的な事柄に拘泥したものというほかはないのであつて、到底認めることができないのである。

第二 慰霊祭

一 はじめに

1 事の是非は別として、終戦前においては、戦没者は国民から等しく崇敬の誠を捧げられ、その葬儀は軍において厳粛に実施され、市町村においても盛大な公葬が営まれた。これに反し戦後は、昭和二〇年一二月一五日いわゆる神道指令、昭和二一年一一月一日「公葬等について」が発令され、国又は地方公共団体が戦没者の慰霊に関与することは禁止され、国の戦争のために戦死した人の遺族に対する遺骨伝達式すら、宗教色を抜きにして、地方世話部によつてなされた。新潟県においては、県の行う遺骨伝達式に先だち、県仏教会主催による慰霊法要が勧修されたため、実質的には従前の慰霊祭と同様の形態となつた。また、市町村における慰霊祭も、遺族会等関係者によつてささやかに営まれる例もあつたが、終戦後数年間は実施されないところが多かつた(乙一二一号証)。

2 戦没者に対する慰霊行事が復活したのは、昭和二七年四月二八日平和条約発効後のことである。国家的性格のものとして昭和二七年五月二日新宿御苑において、天皇、皇后両陛下臨席のもとに、まず平和条約発効後の独立記念式典と全国戦没者追悼式が実施されている。つぎに、昭和三四年三月二八日千鳥ケ渕戦没者墓苑竣工の際に、同旨の追悼式が実施されたが、以後再び中断されていた。しかして、四年後の昭和三八年八月一五日政府主催による全国戦没者追悼式が、閣議決定の上、日比谷公会堂において実施されるに至つた。その後昭和三九年度は靖国神社において、昭和四〇年以降は日本武道館において全国戦没者追悼式が実施されている。また市町村においては、昭和二七年平和条約発効後政府主催による全国戦没者追悼式が実施されるようになつてから、慰霊祭行事も多く実施されるに至つた。地元市町村の行う慰霊祭の開催場所は、小学校等公共施設、神社、寺院及び忠魂碑前などで、その実施の方法は神式、仏式、神仏合同のものなど地方の慣習と遺族の心情を勘案して実施されている。

3 第二次世界大戦の最大激戦地となつた沖縄においては、つぎのような昭和四九年一〇月二一日条例第四二号「沖縄県慰霊の日を定める条例」を制定し、毎年六月二三日に全戦没者追悼式を実施している。また、徳島県鳴門市においては、昭和三〇年三月二五日条例第一五号「戦没者慰霊祭日を制定する条例」として制定し、その後昭和五九年一二月二〇日条例の題名及び開催日を改正している。特に「慰霊祭日」を「追悼の日」と題名改正をしているが、その実質に変化のないことは新旧両条文を比較すれば明白である。

4 昭和二五年一二月一九日国連軍戦没者慰霊祭が、岡山市公会堂において岡山県遺族厚生連盟主催で、神式により実施されている。慰霊祭には、中国民事部長代理ブッシュ少佐、岡山情報部高官を迎え、県知事以下官庁代表、県会議員、市会議員等多数の来賓と市内高校生多数の参列を得、県下各地より異国の将士の霊を慰めんと集い寄つた二〇〇〇有余の遺族を合せて、盛大厳粛に行われたことは、すぐる大戦で最愛の夫、父子を戦死させた遺族の人種・国境を越えた人類愛に基づく慰霊の心情の顕れである(乙一二五号証)。

二 式場(開催場所)

1 碑・塔に関する全国実態調査表(1)(4)(乙六二号証の一、四)を基礎にして慰霊祭の開催場所(式場)を示すと、別紙表1の1、2のとおりである。これによると、慰霊祭が実施されているものの中で碑・塔の前で慰霊祭を行つているものは、忠魂碑2485基中1188基(47.8%)、慰霊碑551基中253基(45.9%)、記念碑215基中95基(44.2%)、忠霊塔483基中234基(48.4%)、慰霊塔420基中239基(56.9%)、全体としてみると碑・塔合計5667基中2769基すなわち48.9%(約半数)が、碑・塔の前で慰霊祭を実施していることが判る。

2 忠魂碑について主催者別の開催場所(式場)をまとめてみると別紙表2のとおりである。同表に明らかなように碑の前で慰霊祭が実施される場合は、市町村主催の場合264基中91基(34.5%)であるのに対し、遺族会主催の場合701基中379基(54.1%)になつている。地元自治会主催の場合でも240基中162基(67.5%)、奉賛会主催では164基中127基(77.4%)が碑の前で行われている。なお、同表の中で開催場所「その他」とあるのは、「碑・塔に関する調査票」によると、公民館、小学校体育館、同講堂、福祉センター、市民ホール、文化会館等大半が公共施設である。

3 所在地別、すなわち国有地、都道府県有地、市町村有地、部落有地、寺社有地別に慰霊祭の開催場所の傾向を表示すれば別紙表3のとおりである。同表に明らかなように、忠魂碑の前で慰霊祭が実施されているもののうち、国有地にあるもの9基中3基(33.3%)、都道府県有地7基中5基(71.4%)、市町村有地944基中480基(50.8%)、以上公有地合計960基中488基(50.8%)が碑の前で慰霊祭を実施している。準公有地ともいうべき部落有地194基中123基を加算すると、1154基中611基(52.9%)に達する。因みに、民有地においては131基中72基(55.0%)が碑の前で慰霊祭を実施している。このように慰霊祭が碑の前で行われることは、わが国においては社会文化的現象として一般に容認されていることを示すものである。

4 また、前記大震災・大事故による犠牲者のために建碑された場合のごとく、戦争に起因しないものの追悼式又は慰霊祭233基中179基(76.8%)が碑の前で実施されている(別紙表4参照)。以上により、わが国においては、戦没者に限らず、碑・塔が存在する以上、その碑・塔の前に参集して慰霊追悼行事を行うのが一般に承認されている現象といえよう。

5 このように、碑の前で慰霊祭が実施されるのは、忠魂碑に限られたわけではない。その一例として、島木赤彦一三回忌赤彦祭が、赤彦の歌碑が建つ長野県諏訪の富士見公園の歌碑前で開かれている。右碑前祭は約六〇人のアララギ派歌人等が参集して、神式で行われている。この場合、注意を要するのは、歌碑が社会的文化的には普通慰霊に関する碑とは認識されていないが、赤彦がこよなく愛したゆかりの地であるということで関係者が歌碑を建てその碑の前で忌祭を行つていることである。

三 方式(形態)

忠魂碑について、碑の前で慰霊祭が実施される場合の方式(形態)をみると、主催者別の別紙表2、所在地別の場合は別紙表3記載のとおりである。右集計結果から主なものを例示すると、つぎのとおりである。

1 主催者別慰霊祭の形態(表2参照)

(一) 内訳

(1) 市町村主催の九一基について

無宗教方式 26基(28.6%)

神式 21基(23.1%)

仏式 20基(22.0%)

神仏合同 9基(9.9%)

神式仏式 7基(7.7%)

(2) 遺族会主催の三七九基について

無宗教方式 21基(5.5%)

神式 99基(26.1%)

仏式 165基(43.5%)

神仏合同 21基(5.5%)

神式仏式 43基(11.3%)

(3) 総合計一一八八基について

無宗教方式 73基(6.1%)

神式 372基(31.3%)

仏式 428基(36.0%)

神仏合同 87基(7.3%)

神式仏式 138基(11.6%)

(二) 右の結果から、市町村主催の慰霊祭においても、無宗教方式より宗教方式で実施される実例が多いことが示されており、遺族会主催の場合においては、無宗教方式は僅かに5.5%にとどまり、宗教方式をとるものが圧倒的に多い。総合計一一八八基について見てみると、宗教方式による慰霊祭を実施するものの中で仏式によるものが36.0%、神式によるものが31.3%となつており、仏式によるものの方が多い。このことは、第一審原告らが主張する忠魂碑の前における慰霊祭が、国家神道的思想と結びつき、村の靖国として実在するとの論拠は、事実に基づかないものであることを示すものといえよう。

(三) 因みに、戦争に起因するものについて集計した結果によれば、別紙表5の記載のとおりである。

碑の前で慰霊祭を行うもの2941基中無宗教方式305基(10.4%)、神式864基(29.4%)、仏式1087基(37.0%)、神仏合同188基(6.4%)、神式仏式290基(9.9%)等となつており、無宗教方式は一割余りであり、神式より仏式によるものの方が多いことが示されている。

2 所在地別慰霊祭の形態(表3参照)

(一) 内訳

(1) 公有地にあるもの四八八基について

無宗教方式 46基(9.4%)

神式 107基(21.9%)

仏式 183基(37.5%)

神仏合同 44基(9.0%)

神式仏式 70基(14.3%)

(2) 民有地にあるもの七二基について

無宗教方式 4基(5.6%)

神式 18基(25.0%)

仏式 27基(37.5%)

神仏合同 8基(11.1%)

神式仏式 11基(15.3%)

(二) 右の数字から明らかなように、公有地に存在するか民有地に存在するかによつて、慰霊祭の形態に有意的な差は認められない。

四 その他(主催者等)

1 以上は、忠魂碑を中心に慰霊祭の式場(開催場所)、方式(形態)の面からその実態を検討したのであるが、慰霊祭に関して若干補足すると、つぎの点が指摘できる。碑の前で慰霊祭を実施される場合の主催者について、戦争に起因するもの、戦争に起因しないものに区分して主要な主催者について多いものから列挙すると別紙表6のとおりである。

2 右の表によると、戦争に起因するものについて、多数は遺族会と自治会主催であり、その合計は43.4%であるのに対し、戦争に起因しないものについては、「その他」、「市町村」で主催するものの合計は69.8%に及んでいる。戦争に起因するものについて、遺族会、自治会の主催が多いのは、終戦後「公葬等について」の通牒により市町村主催の慰霊祭が実施できなくなつたことから肉親を失つた戦没者の遺族らが悲嘆にくれているのを見るにしのびず、平和条約が発効するやこれら戦没者を悼み慰霊・顕彰したいとの念から、地元住民や自治会が自主的に遺族と協力して実施するようになつたことによると認められる。戦争に起因しないものについて、「その他」、「市町村」の主催が多いのは、大震災・大事故による犠牲者が出た場合、国又は地方公共団体若しくは事故の原因を作出した企業その他の団体において、これらの大震災・大事故と社会的諸関係から犠牲者の慰霊祭を積極的に関与することが社会的責務として不可避であるからである。

第三 遺族会の宗教団体性

一 憲法八九条の「宗教上の組織若しくは団体」の意義

1 憲法八九条は、政教分離を財政面から保障するべく、公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のためにこれを支出し、又はその利用に供してはならない旨を規定する。そこで、まず、ここにいう「宗教上の組織若しくは団体」とは何かが問題となるが、原判決は、この規定は、宗教上の組織若しくは団体に対する公の財産の支出、利用を禁じているにすぎないようであるけれども、広く信仰、礼拝、布教等の宗教的意義を有する事業ないし活動に対し、公の財産を支出し、利用させることが、当該宗教活動に対する援助、助長、促進等の結果をもたらす場合には、厳格な意味での宗教上の組織若しくは団体に対するものに限らず、これを一切禁じる趣旨であると解するのが相当である、と判示した。

2 右の点につき、学説は、① 「宗教上の組織若しくは団体」を広い意味での宗教団体、すなわち宗教法人法にいう宗教法人(同法二条)にとどまらず、信仰についての意見の一般的な一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合と理解する多数説と、② 「宗教上の組織」を宗教の信仰・礼拝又は普及を目的とする事業ないし運動、「宗教上の団体」を宗教の信仰・礼拝又は普及を目的とする人の結合体と理解する少数説とに分かれている。

3(一) まず、憲法の成立過程を振り返るならば、「宗教上の組織若しくは団体」は、マッカーサー草案では「宗教制度、宗教団体若ハ社団」(any system of religion, or religious institution or association)とされていたところ、改正草案において「宗教上の組織若しくは団体」(any religious institution or associa-tion)とされ、現行憲法に至つている。ところで、英語をもとに考えた場合、“institution”は協会・団体を、“associa-tion”は協会・団体・社団・結社を意味し、いずれも人的集合体をあらわす用語であることは明らかであり、事業或いは運動といつた意味を含んでいない。このことは、憲法八九条の「宗教上の組織若しくは団体」を人的集合体と解すべきことを示している。

(二) つぎに、憲法改正議会における政府見解を見ても、①説の見解がとられている。すなわち、「宗教上の組織」とは何かという質問に対し、金森国務大臣は、「組織若しくは団体と云う言葉を一つに致しまして、それが宗教的な働きをする意味の、人間の一つの集団と云う風に考えて居り、そのうち団体と云う姿のはつきりしたものを団体と云う言葉を以て表して、団体とはつきり云えない程度の、謂わば緩やかな組み立てを持つて居る団体類似のものを組織と云う言葉を以て現した積りであります。」と答弁している。

(三) 更に、通常の日本語の用法としても、組織及び団体に事業ないし運動の意味はなく、文理解釈上、②説は採りえないというべきである。

4 かように、原判決の依拠した②説は、当該条項の文理からみても、立法過程を検討しても不当であるというほかない。

二 市遺族会と「宗教上の組織若しくは団体」

1 遺族会の成立とその組織

(一) 敗戦後、占領政策によつて軍人恩給の停止制限が命ぜられ、戦没者遺族は、国からの公的処遇を与えられず放置されることになつた。こうした状況下において、同じ境遇にある遺族らが相互扶助・公的処遇の付与等を求め、占領下の昭和二二年一一月遺族らの全国組織として日本遺族厚生連盟が結成された。今日の遺族らの全国組織である日本遺族会は、この日本遺族厚生連盟を発展的に継承し、昭和二八年三月一一日設立されたものである。

(二) 遺族らの組織としては、日本遺族会を全国的組織とし、その支部として各都道府県に独立の法人格をもつ遺族連合会(大阪府では府遺族連合会)、更に各市町村に都道府県の遺族連合会の支部たる市町村遺族会がある。市遺族会は、このような市町村遺族会の一つである。

2 遺族会の事業

(一) 日本遺族会は、英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くとともに道義の高揚、品性の涵養に努め、平和日本の建設に貢献することを目的とし、その事業として、英霊の顕影並びに慰霊に関する事業、遺族の処遇向上に関する事業(戦没者遺族の公務扶助料及び遺族年金などの増額及び適用範囲の拡大、遺児の育英資金の増額など)、遺族の生活相談事業(未亡人の職業訓練及び就職の世話、婦人部活動、青年部活動、福祉基金の貸付など)、遺児の育成・補導(遺児の職業訓練・進学及び就職の世話など)、機関紙の発行、九段会館の経営などを行つている。

(二) 各都道府県の遺族連合会も日本遺族会とほぼ同様である。例えば、市遺族会の上部団体である府遺族連合会は、英霊の顕彰、戦没者遺族の慰藉激励とその厚生の方途を講じ、遺族福祉の向上に資すると共に、社会の福祉増進に貢献することを目的とし、生計困難者に対する生活の相談に応ずる事業、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、青壮年の育成、指導に関する事業、遺族の処遇向上に関する事業、関係機関及び団体との連絡調整などの事業を行つている。

(三) 市遺族会も日本遺族会・府遺族連合会とほぼ同様の事業を行つている。すなわち、市遺族会は、箕面市在住の戦没者遺族を会員とする団体で、会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ遺族の福祉向上に資するをもつて目的とし、遺族の実態調査、生活・職業その他厚生福祉に関する研究指導、講習会・講演会・慰安会等の開催、関係当局に対する意見・具申及び情報提供、靖国神社参拝に関する事項などをその事業として行つている。

3 遺族会の性格

以上のような、遺族会の成立の経緯、組織、目的及び事業活動の内容を総合考慮するならば、市遺族会は、遺族の相互扶助と福祉向上を目的とする団体であるというべきである。ところで、多数説たる前示①説の立場からすれば、憲法八九条にいう「宗教上の組織若しくは団体」とは、信仰についての意見の一般的な一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合体をいうものであるところ、市遺族会は遺族の相互扶助と福祉向上を目的としその実現を事業内容とする世俗的団体であること、同会会員は個人としてはそれぞれ独自の信仰を有しており信仰についての意見の一般的な一致がないことからすれば、同会を「宗教上の組織若しくは団体」と呼ぶことはもはや不可能である。しかし、第一審原告らは、遺族会が全体として英霊顕彰の事業を行つていること、市遺族会の下部組織である区遺族会が本件忠魂碑の前で慰霊祭を行つていること、市遺族会が靖国神社参拝に関する事項を事業の一つとしていることなどを理由として、市遺族会が「宗教上の組織若しくは団体」に当たると称するので、以下これらの諸点について検討を加える。

(一) 英霊顕彰の事業を行つていることについて

英霊顕彰の事業が遺族会の宗教団体性を基礎付けるものであるかどうかを検討するにあたつては、遺族会の全事業中に英霊顕彰の事業が占めるウエイトはどの程度か、英霊顕彰の事業の具体的内容は一体何であるのか、それは宗教的事業の名に値するものか、の三点の検討が不可欠である。

(1) 遺族会の全事業中、英霊顕彰の事業が占めるウエイト

日本遺族会の昭和五八年度決算報告書により同会の各事業への歳出の状況をみると、つぎのとおりである。

Ⅰ 一般会計

合計一億〇六〇三万七三三一円

ⅰ 経常費

a 事務費(人件費、役員手当、事務費など) 三六九三万七三四九円

b 会議費(評議員会、理事会など) 一七六九万九二二四円

ⅱ 事業費

a 英霊顕彰費

三八七万一一五一円

b 遺族援護費

一二三〇万六〇〇〇円

c 組織対策費

六二三万五八一二円

d 婦人部関係費

六九七万三二四〇円

e 研修費 一五一万四五五五円

ⅲ 基本財産積立金

一三五〇万〇〇〇〇円

ⅳ 青壮年部特別会計への繰入

四〇〇万〇〇〇〇円

ⅴ 支部事務局職員共済会への助成

三〇〇万〇〇〇〇円

Ⅱ 処遇改善特別会計

一七九〇万七五〇四円

Ⅲ 奨学金等特別会計

一〇七八万三二九三円

Ⅳ 青壮年部特別会計

合計五一四五万五五一五円

ⅰ 経常費

a 事務費(人件費、旅費、事務費など) 四二一万六八八三円

b 会議費(代議員会、中央執行委員会など) 九九八万四四七〇円

ⅱ 事業費

a 遺骨収集戦跡巡拝関係費

二〇二万一一七四円

b 研修費 七一〇万六五〇〇円

c 組織対策費

六〇四万五八八八円

d 社会活動費 四六万四六〇〇円

e 資料配布費

一九四九万六〇〇〇円

f 母の像管理費、同積立金

二一二万〇〇〇〇円

Ⅴ 福祉事業特別会計

五七五三万七九三五円

Ⅵ 戦没者遺児記念館調査特別会計

一九〇七万三〇〇〇円

以上に照らせば、遺族会が、遺族の福祉向上に力点を置いて活動をしていることは明らかであり、いわゆる英霊顕彰の事業の占めるウエイトは、全歳出中ごく僅かであることがわかる。

(2) 英霊顕彰の事業の具体的内容

前記決算報告書によると、Ⅰのⅰのaの英霊顕彰費三八七万一一五一円の内訳は、つぎのようになつている。

α 祭祀費(靖国神社の例大祭のときの提灯代など) 一六万〇〇〇〇円

β 戦没者追悼式関係費

一一九万六〇〇〇円

γ 外地戦跡巡拝費

二五一万五一五一円

すなわち、日本遺族会は、戦没者(英霊)の追悼に関する一切の事業を英霊顕彰の事業と呼んでおり、その中でも、政府主催の全国戦没者追悼式への協力及び参加、外地戦跡巡拝などに力点を置いていることは明白である。したがつて、英霊顕彰の事業といえば、靖国神社の参拝であり忠魂碑前での慰霊祭であると結びつける第一審原告らの主張が、いかに事実関係を歪曲するものであるかは至極明瞭である。

(3) 英霊顕彰の事業と宗教性

いうまでもなく、政府主催の全国戦没者追悼式が憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないことは一般に異論がなく、したがつて、日本遺族会が右追悼式に協力賛助するからといつて、そのことを理由に同会を「宗教上の組織若しくは団体」とみなすことはできない。また、外地戦跡巡拝については、政府主催のものと日本遺族会主催のものとがあり、前者においては、参加遺族に三分の一の国庫補助が行われている。そして、これもまた、一般には、憲法二〇条三項にいう宗教的活動と解釈されていない。したがつて、これに協力し或いは自らこれを主催する日本遺族会が、その故をもつて「宗教上の組織若しくは団体」とみなされるはずはない。最後に、靖国神社の例大祭のときの提灯代の負担であるが、金額が一六万円と低額であること、その費目も祭のときの提灯代であることからすれば、むしろ社交儀礼的な出費であるというべきである。地元の神社の祭に際し、提灯代を出したり奉納をしたりする例は、わが国の大手民間企業に例外なく見られるところであつて、そのような提灯代の負担や奉納を捉えて宗教的事業と観念し、当該企業を「宗教上の組織若しくは団体」とみることはできないはずである。そうすると、日本遺族会は、この点においても、「宗教上の組織若しくは団体」ではない。

以上、検討した結果、つぎのことが明らかになつた。それは、① 日本遺族会の行う英霊顕彰の事業は、同会の事業としては極めて微々たるものであること、② 英霊顕彰の事業の中では、政府主催・全国戦没者追悼式への協力及び参加、外地戦跡巡拝などに力点がおかれていること、③ 英霊顕彰の事業は、その具体的事業内容を逐一検討しても宗教的事業の名に値するものは何一つなく、このことを理由に日本遺族会を「宗教上の組織若しくは団体」と呼ぶことは不可能であること、の三点である。第一審原告らは、英霊顕彰の事業の内容を靖国神社の参拝と忠魂碑前での慰霊祭であると曲解し、これが日本遺族会の業務の中心であるかのごとく論ずるが、事実と異なるのである。

(二) 区遺族会が慰霊祭を行つていることについて

先に述べたように、市遺族会は、遺族の実態調査、生活・職業その他厚生福祉に関する研究指導、講習会・講演会・慰安会等の開催、関係当局に対する意見・具申及び情報提供などの各種事業を行つており、慰霊祭の挙行は、右事業中、ごく一部を占めるにすぎない。したがつて、これがすべてであるかのごとく論じ、「宗教上の組織若しくは団体」に当たるとすることはすでに方法論的に誤つている。第一審原告らの議論は、ある会社が物故者を年々慰霊するから、その会社は「宗教上の組織若しくは団体」に当たるというに等しい。また、個々の市遺族会会員にとつて、神式及び仏式の宗教儀式はあくまでも慰霊のための方式にすぎず、目的は神道及び仏教の信仰ではなく習俗たる慰霊そのものにあることからして、これを宗教的組織・団体とみるのは妥当でない。そして、慰霊祭そのものの本質が、戦没者の追悼、顕彰、記念を目的とする社会倫理の表出という世俗的なものであることは、すでに述べたとおりである。かように、慰霊祭の本質からいつても、また市遺族会の事業中、慰霊祭が占める比重から判断しても、その実施の一事をもつて市遺族会を「宗教上の組織若しくは団体」とみなすことはできない。

(三) 市遺族会が靖国神社参拝に関する事項を事業の一つとしていることについて

市遺族会は、前示各種事業を行つており、靖国神社参拝に関する事項は、右事業中、ごく一部を占めるにすぎない。第一審原告らは、ここでも、細部を誇張して全部だと強弁する誤つた論法を採つている。ところで、ここにいう靖国神社参拝に関する事項とは、要するに、会員の靖国神社参拝等上京慰安旅行の取りまとめである。そして、右旅行の内容は、一、二泊程度のものでいわゆる東京見物を兼ねており、その目的は戦没者の慰霊を行うとともに会員相互の親睦及び相互激励をはかることにある。商店会や子供会がお伊勢参りの旅行を企画したからといつて、当該商店会や子供会が「宗教上の組織若しくは団体」にならないのと同様、靖国神社参拝等上京慰安旅行の取りまとめをしたからといつて、市遺族会が「宗教上の組織若しくは団体」になるわけではない。遺族が靖国神社へ参拝するのは、現実に同神社に戦没者の霊が合祀されているからという理由に基づくものであつて、参拝の目的は慰霊であり、信仰を目的とした参拝とは必ずしもいえない。

4 以上のとおりであるから、日本遺族会、市遺族会及び区遺族会が宗教上の組織若しくは団体に当たるとすることは全くできないといわなければならない。

第四 本件各行為の合憲性

一 憲法二〇条三項の宗教的活動と本件貸与・移設・売買

1 憲法二〇条三項にいう宗教的活動の意義

憲法二〇条三項にいう宗教的活動の意味については、つぎの三つの見解がある。

(一) 憲法二〇条二項の宗教上の行為と同条三項の宗教活動とを識別し、前者を礼拝、祈りその他宗教的信仰の表白としてなされるすべての行為とし、後者を宗教の宣伝を目的とするすべての活動とする見解

(二) 両者をことさら識別せず、宗教的活動も宗教教育以外の祈祷、礼拝、祝典、儀式及び行事などを含むとする見解

(三) 同条三項の宗教的活動の意義を(一)説よりも広く(二)説よりも狭く捉え、(二)説でいう宗教儀式・行事等のうち、その目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉になるような行為とする見解

2 原判決の非論理性

いうまでもなく、本件貸与は一定の契約関係であり、本件移設はそれ自体土木工事にすぎない。そして、言葉の通常の用法に照らせば、本件貸与や本件移設が宗教上の祝典、儀式、行事その他宗教信仰の表白行為に含まれる余地はないところである。ところが、原判決は、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、宗教の布教、教化、宣伝等の活動にとどまらず、その他宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進等になるようなものである限り、広くこれに含まれると解するのが相当である、として、前記(三)説の立場に立つことを明らかにしながら、布教、教化、宣伝等の活動及び祝典、儀式、行事等のいずれの概念の範疇にも属さない本件貸与及び本件移設を一足飛びに宗教的活動であるとしたのである。そこには大きな論理の飛躍があるといわなければならない。

二 目的効果基準と本件貸与・移設・売買

仮に、文理解釈によつて宗教的活動の不該当がいえないとしても、津地鎮祭事件において最高裁判所が示した目的効果基準に照らせば、本件貸与や本件移設は、宗教的活動に該当しないものである。

1 宗教とのかかわり合い

本件貸与及び本件移設が宗教とかかわり合いをもつ行為に該当するかどうかは、本件忠魂碑が宗教施設といえるかどうかによることになる。そして、本件忠魂碑を初め忠魂碑等の戦没者碑は宗教施設というべきものでないことは、すでに論証したとおりである。忠魂碑等の戦没者碑は、その歴史、その管理主体、形態、碑銘・碑文、建碑の目的、碑前で行われる慰霊碑の内容、一般人の意識を総合考慮してみれば、戦没者を追悼、記念、慰霊、顕彰する記念碑であつて、特定の宗教教義を布教したり、信者を教化育成したりするための施設ではなく、宗教的意義をもたないというべきである。

したがつて、本件忠魂碑を移設したり、本件忠魂碑のために敷地を貸与する行為は、本来的に宗教とかかわり合いをもつ行為には該当しないといわなければならない。

2 本件貸与への目的効果基準の適用

仮に、忠魂碑に宗教施設性が認められるとしても、目的効果基準に照らせば、本件貸与は憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にあたらない。以下、津地鎮祭事件の最高裁判決が示した目的効果基準を具体的に適用して検討する。

(一) 当該行為の主宰者・その順序作法(式次第)

いうまでもなく、本件貸与は、それ自体一定の法律行為又は法律関係をあらわす概念であつて、宗教的活動とは異なる。本件貸与の主体は、市であつて、宗教家ではないことは指摘するまでもない。貸与が宗教の定める方式によるものでないことは当然である。

(二) 当該行為に対する一般人の宗教的評価

使用貸借そのことによつて、一般人が特定の宗教宗派を推知することはありえない。問題は、本件忠魂碑に宗教施設性が認められると仮定した場合、本件貸与が一般人の目から見てどのように評価されるかである。

まず、本件忠魂碑が宗教的意義を全く欠いていること、仮に何らかの宗教色の残滓が認められるとしてもその色彩は、極めて希薄であることはすでに述べたとおりである。つぎに、本件貸与は、新たな使用借権の設定ではなく、従前存した使用借権の代替として付与されている事実を看過してはならない。すなわち、本件貸与は、権利者に対する補償の趣旨で行われたのであつて、特定の宗教宗派を援助し、助長し或いは促進する趣旨でなされたものではない。このような場合、一般人は、仮に、本件忠魂碑に何らかの宗教色の残滓が認められるとしても、本件貸与が右宗教色を残す目的でなされたとは解釈しないのが通常である。このことは、宗教法人がその敷地につき替地補償(土地収用法八二条)を受けたからといつて、一般人が右替地は特定の宗教宗派を援助し、助長し或いは促進する趣旨で与えられたと評価しないのと同様である。

これに対し、原判決は、本件貸与の違憲性を論ずるくだりで、本件忠魂碑は、いわゆる忠魂碑としての宗教的意味をもつた宗教施設として評価しなければならない(そのように評価する国民があることは否定できない。)のであるから、市が本件忠魂碑によつて宗教活動をし、ないしは宗教活動を援助したと評価されてもやむをえないといわなければならないと判示しているが、右判示部分の括弧書部分からも明らかなように、原判決が、一般人の目からではなく、少数の者の目で本件忠魂碑と本件貸与を評価したことは明白である。したがつて、原判決は、最高裁の目的効果基準に依拠したと称しながら、これを誤用しているとしか評価のしようがない。

(三) 当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的

すでに述べた本件の事実関係からも明らかなように、本件貸与は、箕面小学校の既存校舎の改築と学校敷地の拡大といつた教育行政上の目的を実現するにあたり派生した一問題にすぎない。そして、本件貸与それ自体は、右教育行政上の必要に基づき、旧敷地の使用借権を失わせる見返りとして行われたもので(公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱一二条、六条二項、土地収用法八二条参照)、かかる処置が専ら世俗的な目的に出るものであることは、もはや疑う余地がない。

(四) 当該行為者の宗教意識の有無、程度

当時の市の担当者のうち、誰一人として本件忠魂碑を宗教施設と認識していたものはいない。しかも、本件忠魂碑は、本来的に宗教的意義が全くないか、あるとしても極めて希薄なものにすぎないから、当時の市の担当者は本件忠魂碑を宗教施設と認識していなかつたのである。したがつて、当時の市の担当者が、本件貸与にあたつて宗教意識を持つということはおよそ考えられない。

原判決は、この点につき、市が本件忠魂碑によつて宗教活動をし、ないしは宗教活動を援助したと評価されてもやむをえないと判示するが、そもそも、宗教意識なくして宗教活動をし、ないしは宗教活動を援助することは不可能である。また、市が、積極的に「忠魂」思想を鼓吹していると受け取られても弁解の余地がないとも判示するが、ここでも思想の問題と宗教の問題とを混同している。

(五) 当該行為の一般人に与える効果、影響

ここでは、本件貸与を行うことにより特定の宗教宗派に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉になるかどうか、本件使用貸借をすることが一般人に違和感なく受け入れられるかどうかを検討することになる。

ところで、本件貸与が、教育行政上の目的に基づき、公共用地の取得に伴う補償の趣旨でなされたものであることは先に検討したとおりである。一般人は、宗教法人の敷地が買収の対象となり、当該宗教法人に替地が与えられたからといつて、決して違和感を感じない。むしろ、宗教法人なるがゆえに憲法二九条三項の財産権の補償が及ばないとする結論にこそ違和感を感ずるのである。つぎに、本件忠魂碑は、本来的に宗教的意義を全く欠いているか、あるいは宗教的色彩があるとしても極めて希薄なものであるから、その存在が一般人の宗教意識に与える影響も全くないか、皆無に近い。そうして、そのような性格を持つ本件忠魂碑の敷地として本件敷地を貸与したからといつて、一般人の宗教意識を喚起して、特定の宗教宗派の信者が増え、或いは信者の信仰心を強固ならしめるといつた事態はおよそ想定できない。そうすると、本件貸与を行うことにより特定の宗教宗派に対する援助、助長、促進となるとは到底いうことができない。また、逆に、本件忠魂碑のために本件敷地を貸与したからといつて、特定の宗教宗派の信者が減り、或いは信者の信仰心が揺らいでくるといつた事態もまた考えられない。したがつて、本件貸与を行うことにより特定の宗教宗派に対する圧迫、干渉にならないことも明白である。

以上、検討したように、本件貸与は、教育行政上の目的に基づき、公共用地の取得に伴う補償の趣旨でなされたもので、その目的も専ら世俗的なものであり、かつ、その効果も宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等にはなつていないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動には該当しないというべきである。

3 本件移設への目的効果基準の適用

(一) 当該行為の主宰者・その順序作法(式次第)

本件移設は、それ自体、宗教的活動とは異なるものである。本件移設を現実に行つた者は工事請負人である不動建設株式会社であり、その費用を負担した者は市であり、いずれにせよ宗教家ではない。また、工事が宗教の定める方式に則つて行われることはありえない。なお、本件移設に際し、移築報告祭及び移築竣工祭がなされたことは前述のとおりであるが、このことにより本来的に土木工事にすぎない本件移設が宗教的活動となるわけはない。なお、移築報告祭及び移築竣工祭は、工事の無事安全を願う工事関係者にとつて欠くことのできない慣行的・習俗的行事であり、また、不動建設株式会社の主催及び費用負担で行われたものである。

(二) 当該行為に対する一般人の宗教的評価

本件移設は、土木工事であつて、そのこと自体で一般人が特定の宗教宗派を推知することはありえない。本件移設を実行したからといつて、一般人がそれをもつて特定の宗教宗派を援助し、助長し或いは促進するものと評価するとは到底いいがたいところである。

これに対し、原判決は、本件移設に要した費用が多額であるとして、市は、宗教施設に対し過度にかかわりをもつたと判示するが、この論理を貫けば、伽藍・神殿といつた高額の宗教施設が買収計画の対象となる場合には、国又は地方公共団体は、常に、宗教施設に対し過度のかかわりをもつことになるのであり、その論理はまさに破綻しているというべきである。また、原判決は、本件移設に要した費用が多額であるとも断ずるが、どのような証拠資料に基づき、何と比較して多額と認定したのか全く不明である。

(三) 当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的

本件移設が箕面小学校の既存校舎の改築と学校敷地の拡大といつた教育行政上の目的を実現するにあたり派生した一問題に過ぎないこと、本件移設が権利者に対する補償の趣旨でなされたことは、すでに触れたとおりである。したがつて、本件移設が専ら世俗的な目的でなされたことは明白である。そもそも、当時の市の担当者のうち、誰一人として、本件忠魂碑を宗教施設と認識した者はいないのであつて、当時の市の担当者が、特定の宗教宗派を援助し、助長し或いは促進する意図又は目的で、本件移設及びその費用の支出に踏み切つたということはできない。

(四) 当該行為者の宗教意識の有無、程度

前述のように、当時の市の担当者のうち、誰一人として、本件忠魂碑を宗教施設と認識した者はいない。したがつて、当時の市の担当者が、本件移設及びその費用の支出にあたつて宗教意識を持つという事態は、およそ考えられない。

(五) 当該行為の一般人に与える影響、効果

本件忠魂碑の宗教性は、あつたとしてもそれは極めて微弱なものであるから、その存在が一般人の宗教意識に与える影響も全くないか、皆無に近いはずである。そうして、そのような性格を持つ本件忠魂碑を公費で本件敷地に移設したからといつて、一般人の宗教意識を喚起して、特定の宗教宗派の信者が増え、或いは信者の信仰心を強固ならしめることにはならないし、逆に、本件移設により、特定の宗教宗派の信者が減り、或いは信者の信仰心が揺らいでくるといつた事態もまた考えられないところである。

以上のように、本件移設は教育行政上の目的という専ら世俗的なものであり、かつ、その効果も宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等にはなつていないのであるから、本件移設及びその費用の支出は、いずれも憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動には該当しないというべきである。

4 本件売買への目的効果基準の適用

(一) 当該行為の主宰者・その順序作法(式次第)

売買はそれ自体、宗教的活動でない。本件売買における買受の主体並びに代金支払の主体は、市であつて、宗教家ではない。また、売買の方法や代金の支払の方法が宗教の定める方式によらないことも明白である。

(二) そして、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的、当該行為者の宗教意識の有無・程度、当該行為の一般人に与える効果影響については、行為内容が売買という点に違いがあるだけで、本件貸与及び本件移設の場合と全く同じとなることは明らかである。なお、本件売買の対象となつた土地の面積は914.78平方メートルであるが、市が現実に本件忠魂碑の新敷地とすることを認めた面積は、右のうち178.51平方メートルに限られているのであつて、この面積は旧敷地の実測上の面積と一致しており、補償実務上、本件忠魂碑を有利に扱つたことにはならない。

よつて、本件売買及び右売買代金の弁済についてもその目的は専ら世俗的なものであり、かつ、いずれの効果も宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等にはなつていないのであるから、いずれも憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動には該当しないというべきである。

5 原判決の不備・逸脱

ところで、原判決は、最高裁の目的効果基準を採用することを言明しておきながら、肝心の目的及び効果の分析については、全く検討を行つていない。また、原判決は、アメリカ合衆国の連邦最高裁の政教分離条項関係事件について聞きかじり、過度のかかわり合いのテストを借用してる。

しかしながら、もし、原判決が、同テストを借用したいのであれば、

① 利益を受ける機関の性格と目的。受益機関の活動中、宗教活動の占める割合が多ければ多いほど、宗教的機関と市の干渉的な関係をもたらす。

② 援助の性質。許容されえない宗教の助長をもたらす援助の形態かどうか。

③ 政府と宗教的機関との間に生じうる関係。宗教的機関に対して政府による過度の監督の危険をはらむかどうか。

といつた審査項目を順次検討したうえで借用すべきである。原判決は、右テストの実質的内容も知らないまま「過度のかかわり合い」という名前だけ借用して、自らの結論を正当付けているにすぎないのであつて、その解釈態度は、まさに「虎の衣を借る狐」である。なお、最高裁は、このテストを独自のテストとして採用しておらず、ここでも原判決の最高裁判例からの逸脱が見受けられる。

6 本件使用貸借等と目的効果基準の適用の可否

原審高柳証人は、主として、連邦最高裁の政教分離条項関係事件を検討し、アメリカにおける「目的・効果基準」は、主として、(ⅰ) 国による宗教援助事件において適用され、(ⅱ) 国の宗教行為事件については、国(州・住)民の福祉を図る立法と形式主義的に解した政教分離原則との衝突を解決する基準として用いると類型化し、津地鎮祭事件の最高裁判決は、いずれの類型にもあたらぬ事例に目的効果基準を適用したものと批判する。

しかしながら、連邦最高裁が、国の宗教行為事件について、目的効果基準を採用したケースとしては、現在のところ、

① 日曜休業法の合憲を判示するMcgo-wan v. Maryland, 366 U. S. 420(1961)外三ケース。

② 公立学校での聖書朗読や主の祈りの朗唱を要求する州法及び市の規則を違憲としたSchool District of Abington Township v. Schempp, and Mur-ray v.Curlett, 374 U.S. 203(1963)。

③ 公立学校の教室の壁に十戒のコピーを掲示することを求める州法を五対四で違憲としたStone v. Graham, 449 U. S. 39(1980)

④ 福音主義的なキリスト教徒の学生集団がオープン・フォーラムの方針を採る大学の教室などを利用して祈、賛美歌、聖書の解説などをすることは許されるとした Widmar v. Vincent,70 L. Ed. 2d 440(1981)。

などがある程度で、(ⅱ)については、未だ、類型化を行うほどの判例の集積は見受けらず、同証人の作業は、いわば時期尚早である。現に、州最高裁のレベルでは、国の宗教行為事件のうち、同証人の類型化に当てはまらない事案についても積極的に目的効果基準が適用されているのであつて、ユージン事件は、その適例である。また、連邦裁判所は、目的効果基準だけではなく、他にも複数のテストを有しているのであつて、その都度、都合のよいテストを適宜採用して判決しているにすぎないのであつて、同証人の類型化に従つて、目的効果基準の適用の是非を決めているわけではない。したがつて、同証人の類型化自体、極めて疑問の存するものといわねばならない。

また、仮に、同証人の類型化を承認するとしても、本件貸与・移設及び本件売買は、いずれも箕面小学校施設整備事業という住民の福祉をはかる事業から派生したものであるから、まさに、本件は、同証人の類型化の(ⅱ)の前段に該当することになり、目的効果基準を適用すべき適例になる。更に、本件貸与・移設に要した費用及び本件売買代金の支出については、いずれも国による宗教援助かどうかが議論の対象となるのであるから、右類型化の(ⅰ)に該当し、やはり目的効果基準を適用すべきことになる。

三 憲法八九条と本件貸与・移設・売買

1 宗教的意義を有する事業ないし活動

仮に、憲法八九条の「宗教上の団体若しくは組織」について、少数説をとるとしても、本件貸与・移設・売買は合憲である。原判決は、市遺族会が厳格な意味で宗教上の組織若しくは団体であるといえないとしても、本件貸与や本件移設は、憲法八九条が禁じている宗教活動に対する公の財産の支出、利用に該当することは明らかであるとするので、本件忠魂碑の維持あるいは慰霊祭の挙行が宗教活動に該当するかどうかを検討する。

(一) 本件忠魂碑の維持と宗教活動

本件忠魂碑は、地元戦没者の追悼、記念、慰霊、顕彰を目的として維持されている。しかし、政府は、これと同一の目的をもつて、昭和二八年から昭和三三年までの間に、南方八島に八基の戦没者慰霊碑を、昭和四六年から昭和四九年までの間に、硫黄島、フィリピン、サイパン島に三基の巨大な戦没者慰霊碑を建立した。そして、現地に赴いた遺族会、戦友会などの民間団体は、これらの慰霊碑の前で、宗教的儀式を伴う追悼式を挙行している。したがつて、もし、本件忠魂碑の維持が宗教活動に該当するというのであれば、当然、これら南洋の戦没者慰霊碑を建立し、その維持を続ける政府の行為は、まさに宗教活動そのものということになろう。しかしながら、憲法学上、そのような見解を説く者はいない。

(二) 慰霊祭の挙行と宗教活動

すでに述べたように、慰霊祭の本質は、戦没者の追悼、顕彰、記念を目的とする社会倫理の表出であり、市遺族会にとつて、宗教家の儀式執行は、いわば儀式をより厳かにするための一つの演出又は方式にすぎない。したがつて、市遺族会にとつて、慰霊祭の挙行は、宗教活動ではない。

2 仮に、慰霊祭の挙行が宗教活動としての側面を持つているとしても、慰霊祭の挙行という事業又は活動に対し、公の財産が支出又は利用されたわけではない。まず、本件貸与は、箕面小学校施設整備事業を遂行する過程において、既存の使用借権者に対する補償事業(替地補償)としてなされたものであつて、区遺族会が行う慰霊祭の挙行という事業又は活動そのものに対し、公の財産が利用されたわけではない。その意味で、特定の宗派の布教活動のため、公民館等を貸与するのとは全く違うのである。また、本件移設も、補償事業として行われており、これまた慰霊祭の挙行という事業又は活動に対し、公金が支出されたわけではない。さらに、本件売買代金の支出も、前同様の補償事業の一環(替地補償の必要から生じた代替地の確保)としてなされており、これまた慰霊祭の挙行という事業又は活動に対し、公金が支出されたわけではない。

3 目的効果基準

(1) 憲法八九条と目的効果基準

津地鎮祭事件最高裁判決は、憲法二〇条三項にかかる合憲性判定基準として目的効果基準を採用することを明らかにしたが、憲法八九条については、単に、右起工式の挙式費用の支出も、前述のような本件起工式の目的、効果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではない、と判示するにとどまつている。

しかしながら、右最高裁判決の採用した目的効果基準がアメリカ合衆国の連邦最高裁のそれを範とするものであることは周知の事柄であるところ、連邦最高裁は国による宗教援助事件についても右基準を採用し続けていること、前記最高裁判決自身、「本件起工式の目的、効果から考えると」と述べていること、右最高裁判決以後、憲法八九条にかかる合憲性判定基準としても目的効果基準を採用する下級審裁判例が続けて出されていること、一般に、憲法八九条は、憲法二〇条の趣旨を国の財政の面から具体化したものと解釈され、右両条文とも不即不離の形で論じられてきたことなどを総合考慮すれば、津地鎮祭事件の最高裁判決は、憲法八九条の解釈基準としても目的効果基準を採用していると解釈すべきである。

(2) 本件貸与・移設・売買への目的効果基準の適用

本件において、憲法八九条にいう公の財産の支出又は利用として、検討の対象となりうるのは、本件貸与・移設に要した費用の支出及び本件売買代金の支出の三つである。

ところで、前述のように、一般に、憲法八九条は、憲法二〇条の趣旨を国の財政の面から具体化したものと解釈され、右両条文とも不即不離の形で論じられてきたこと、津地鎮祭事件最高裁判決は、右解釈を前提として、憲法二〇条三項違反の点について目的及び効果の分析を綿密に行い、憲法八九条違反の点については右分析の結果をそのまま援用しているにとどまることからすれば、ここでの検討は、すでに一で検討したところに尽きるというべきである。

四 教育長の参加と政教分離

1 憲法と政教分離

わが国憲法の定める政教分離原則がいわゆる相対分離の立場に立つものであることは、つとに津地鎮祭事件最高裁判決によつて示されているところである。明確な信仰をもつ者に、当該信仰形式による宣誓を容認することと、別形式による宣誓を強制することと、宣誓の目的からみてどちらが適当か。憲法は信教の自由を保障し、宗教を悪とはしていないのである。警察官がその任務遂行のため非業の犠牲となつた浅間山荘事件のような場合にも、雇傭者たる公共団体は慰霊を行えない、霊を認める点で宗教となるから、とすることは適当か。それなら、人の屍骸に対する世人一般の感情を尊重して、地方公共団体が、鳥獣の死骸処理施設とは別に火葬場・霊園を設営することも違憲または不当となろう。民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容とすべきであるのか。それなら、キリシタン顕彰碑の設置も違憲で、社寺の祭礼行事のための公道交通規制も問題となろう。それで信教の自由を保障する憲法の精神は損われず、公共団体もその設置目的を充分果すことになるのであろうか。純粋徹底的な政教分離の要求が適当な社会生活を確保するとは考えがたい。憲法と宗教の問題は、結局は最高裁も指摘するとおり、目的・効果論によつて決するほかはない。

2 政教分離とその運用

政教分離原則下での公務員の宗教儀式への参加について考察するには、この問題についての実際の取扱いをみておく必要がある。

(一) 「公葬等について」(昭和二一年一一月一日発宗第五一号内務文部両次官通牒)

この通牒をみて第一に指摘されねばならないことは、地方官衙や地方公共団体が宗教的儀式・行事を挙行することを禁じ(一項)、またそのようなことのために公共施設を貸与することを原則的に許可しない(二項)というところは、たしかに前文のいうとおり政教分離の原則の徹底化を図るという趣旨に受け取れるけれども、一項のハから判断すれば、その政教分離の意味も国や公共団体が宗教とのかかわりを一切持つてはならないとまでは要求していないという点である。つまり、文民の功労者・殉職者のための宗教的儀式に弔慰金や花輪を贈つたり、官公吏が公式参列して弔辞を述べる範囲までは宗教とのかかわりを認めているとみていいからである。第二は、文民に対するとは対照的に、戦没者に対する処遇が極めて厳しく、軍国主義者や超国家主義者と全く同じ扱いを受けていることである。宗教的であろうと非宗教的であろうと、地方官衙・地方公共団体は戦没者のための儀式の類に一切関与してはならないとして、文民の場合に認められた特例はことごとく適用されないという措置は、本件が政教分離の問題ではなく、むしろいわゆる軍国主義・超国家主義排除の見地から講ぜられたものであることを端的に示している。

(二) 「戦ぼつ者の葬祭などについて」(昭和二六年九月一〇日文宗第五一号発総第四七六号文部次官引揚援護庁次長通達)

この通達は、まず前文で、民主主義諸制度の確立による国内情勢の推移及び多数遺族の心情にかんがみて、「公葬等について」の通牒を一部変更するものであることを表明し、信教の自由を尊重すること、政教分離の方針に反しないこと、軍国主義・超国家主義を宣伝鼓吹しないこと、政治的運動に利用されないことに万全の注意を払うことを条件に、以下の事項を行なつてもさしつかえないとしている。

(1) 個人または民間団体が行なう慰霊祭、葬儀に知事・市町村長その他の公務員が参列し、敬弔の意を表したり、弔詞を読んだりすること。地方公共団体が香華、花環、香華料などを贈ること。

(2) 公務員が遺族を弔問すること。

(3) 遺骨の伝達や出迎えに際して、一般公衆が自発的に参列すること。遺族の希望に応じて焼香・献花などを認めるなどの儀礼を尽すこと。ただし、公衆特に学生生徒などの参列を強制しないこと。

(4) 伝達できない遺骨の埋葬や収蔵のため、地方公共団体が簡素な墓または納骨施設を造ること。民間団体に埋葬または収蔵を委託する場合、地方公共団体が必要費用を支出すること。ただし、右の墓、納骨施設の外観や刻文などが功績を顕彰するようなものでないこと。

まさしくこれは前文のいうとおり、「公葬等について」の三項の規定する戦没者に対する厳しい処遇を全面的に改め、一項に掲げられた文民の功労者・殉職者に対するのと同一の条件で取扱うことを認める趣旨であり、神道指令の運用史においても特筆されるべき事件の一つである。

3 まとめ

「公葬等について」が発せられたのは昭和二一年一一月一日であり、帝国憲法が全面改正されて日本国憲法が公布されたのがその二日後の一一月三日である。公布されたばかりの新憲法八九条は、当然のことながら神道指令の趣旨に従つて、その直前に発せられた「公葬等について」通牒と矛盾するものであるはずがない。つまり、憲法は、少なくとも本通牒が文民の功労者・殉職者の葬儀・慰霊祭などの場合に認めた事項―地方官衙や地方公共団体が弔慰金や花輪を贈つたり、官公吏が公の資格で列席し、弔辞を読んだりすることの範囲までは、国や公共機関と宗教のかかわりを認めていたといわなければならないのである。そして戦没者のための儀式等の規制は、もともと政教分離の観点からではなく、軍国主義・超国家主義の排除という政治的・イデオロギー的理由で実施されたものだから、政治的・社会的情勢の変化によつて変更されたのである。

以上のとおりであるから、戦没者を対象とする慰霊祭への公務員の参加の厳しい規制は、超国家主義・軍国主義イデオロギーの排除の観点からのものであり、決して政教分離の観点によるものでなかつたことは明白といわなければならない。

五 教育長の参加と憲法二〇条三項

1 慰霊祭の内容と本質

(一) 本件各慰霊祭は、区遺族会が、昭和五一年と同五二年に実施したもので、その状況は、ほぼ原判決記載のとおりである。区遺族会では、昭和三〇年ころから、忠魂碑前で箕面地区戦没者慰霊祭を神式・仏式隔年交替で主催してきた。これには、市長・教育長等が招待されるのが慣行であつた。戦没者慰霊祭の本質は、戦争による死者に対して生前はご苦労様というために、市町村、遺族会、自治会など戦没者の親族や共同体を同じくする人々が形式を整えて挨拶をする儀式であり、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする記念であるといえる。本件各慰霊祭もこれと同じく、その目的は等しく戦没者の遺族であるという認識をもつ区遺族会が、その戦没者の生前を想起し、生前はご苦労様、安らかに眠つて下さいということ等々のため、故人を偲ぶことを目的でなしたものであり、特定の宗教目的を持つものではなく、戦没者遺族であるという一体感によつて結ばれた共同体である区遺族会の一体感を再確認する倫理観の表現として行われたものであり、仮に宗教性が認められるとしても非常に希薄であり、本件各慰霊祭は基本的には世俗的行事として行われたものといわなければならない。

(二) 本件各慰霊祭のうち五一年慰霊祭は神式により、五二年慰霊祭は仏式により、営まれたものである。しかしながら、既に述べたように、慰霊祭は、本質的には世俗的行事であり、神官や僧侶が主催者に招われて宗教家として儀式自体を実施したとしても、それは慰霊祭行事全体の仕組みのなかでは、行事の演出効果を高める副次的な要素にとどまるにすぎないのである。だからこそ神式・仏式の交代制が可能なのである。それゆえ、神官・僧侶が儀式自体を執行したとしても、そのことにより本件各慰霊祭の本質が世俗的行事であるという本質がかわるものではない。

2 教育長の参加の目的と行為

(一) 目的

区遺族会が主催した前記の目的・本質をもつ本件各慰霊祭について、市長らと共に招待を受けて教育長がこれに参加した目的は、市長らと同様、地方公共団体の要職にある者の一人として、国の行つた戦争の犠牲者である戦没者やその遺家族に対し、弔意・哀悼の意を表するもので、換言すれば、主催者の要請に応じて、慰霊祭に参加することにより、慣行化している社会的儀礼を尽すという極めて世俗的な目的によるものである。

(二) 行為

教育長は、本件各慰霊祭において、来賓挨拶をした訳でもなければ、慰霊・追悼文を朗読したこともない。ただ、参列者一同が、玉串奉奠や、焼香をするに際し、参列者の一人として右行為をしたのみにとどまる。右教育長の行為は、教育長たる地位において、主催者たる遺族へ社会的儀礼を尽す必要かつ最小限の儀礼行為をしたにすぎないのである。

3 教育長の参加に対する一般人の宗教的評価及び参加の効果

わが国における戦没者慰霊と国又は地方公共団体とのかかわりにおいて、公務員が参加することは、戦後の一時期において、中断されたことがあつたが、「戦没者の葬祭などについて」により、民間団体が慰霊祭を行うに際し、①知事・市町村長その他の公務員がそれに列席すること、その際、慶弔の意を表し又は弔詞を読むこと②地方公共団体から香華・香華料などを贈ることはさしつかえないとされ、以来今日まで、民間団体主催の慰霊祭において、国又は地方公共団体の公務員がこれに参加する例は枚挙にいとまがないのである。これらは国民的合意のもとで慣行と化しているものである。それゆえ、公務員が慰霊行事に参加し、その儀式において玉串をささげたり、焼香をしたとしても、一般人の意識においては、それにさしたる宗教的意義を認めず、戦没者慰霊に際しての慣行化した国又は地方公共団体の社会的儀礼として評価されるというにとどまる。また、それ故に教育長の参加が主催者らを援助・助長するものとみられたり、逆に参加しない者に対する干渉・圧迫になるという特段の効果をもたらすものではない。

六 慰霊祭への市の関与

1 準備行為への関与

第一審原告らは、区遺族会が本件各慰霊祭を行うに際し、市が打ち合わせの会合の場として市庁舎会議室を使わせたこと、市職員が、区遺族会理事評議会招集通知書の作成、同通知書封筒の宛名書き、同通知書の配送、本件各慰霊祭案内状の作成、同案内状封筒の宛名書き、同案内状配布の手伝い、自動車の運転、折りたたみ椅子等の運搬、整列の手伝い及び市遺族会事務処理の手伝いをしたこと(なお、市職員が本件各慰霊祭当日、その場内整理を行つたり祭壇設営を手伝つた事実はない。)等を問題としているが、これらの行為は、外形的にも実質的にも宗教行為といえるものではなく、また宗教行為に対し直接援助する行為でもないことは明白である。

市職員のした、これらの行為は区遺族会に対する援助としてなされたものであり、かつまた、市職員のこの程度の援助は市の福祉団体(例えば老人クラブ連合会、母子福祉会)一般に対する援助行為と同程度のものにすぎない。この程度の援助は、国が遺族援護の一つとして遺族に対する慰霊施策をとつていることに徴しても、当然認められて然るべき範囲の問題である。

2 備品貸与について

第一審原告らは慰霊祭当日、西小学校の机・椅子・黒板等が使用されたこと、校長室が僧侶の着替えのために使われたこと等を問題とするが、備品の貸付は、当時の西小学校長が、子供会・自治会・消防団・農協・民間会社からの借受の申込と同様にその職務権限の範囲で定例軽易なものとして使用を許可したものであり、これらの貸付等は学校として直接子供の教育に差障りがない範囲内で、地域の円満なるお付き合いを考え、従来の慣例に従つて行つている、というものである。学校長が、子供会・自治会・農協・民間会社等から申入れがあつた場合、これに学校備品を一時使用することを認めるのは、地域社会のお付き合いという観点からみて、社会的に許される範囲のものというべきであり、この点は遺族会だからといつてことさら別異の差別的取扱をしなければならない理由は存しない。のみならず、本件で学校長が学校備品の一時使用を認めたのは、戦没者遺族で構成される遺族会であり、前述したような遺族援護の必要性からみても、学校長が遺族会に対しこの程度の便宜措置を講ずることは許されて然るべきである。遺族会主催の慰霊祭に招かれた僧侶が着替えのため一〇分程度校長室をつかつたとしても、そのことによつて学校長が特定の宗教に対し援助をしたとは常識的には考えないであろう。

以上の点からみて、右の市の関与は、目的・効果について具体的に検討するまでもなく、憲法上許された行為であることが明らかというべきである。

別紙別表1〜6<省略>

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