大阪高等裁判所 昭和60年(う)773号 判決 1990年10月26日
国籍
朝鮮(慶尚南道固城郡永県面蓮花里五五〇番地)
住居
京都市左京区吉田神楽岡町四三番地
パチンコ遊技場経営
中山政夫、金奇泰こと金竒權
一九二四年三月三一日生
右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和六〇年三月二九日京都地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があったので、当裁判所は次のとおり判決する。
検察官 小野哲 出席
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役四月及び罰金四〇〇万円に処する。
右罰金を完納することができないときは、金五万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
この裁判確定の日から一年間右懲役刑の執行を猶予する。
原審及び当審における訴訟費用中、原審証人田村辰雄(ただし、第五四回、第六四回及び第六六回各公判期日における分)、同洪仁卓、同金鳳永及び同金孝に各支給した分は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人北尻得五郎、同柴田茲行、同川中宏、同桂充弘連名作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官永瀬榮一作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
第一控訴趣意中原判決が公訴棄却又は免訴の裁判をしなかったことの違法をいう主張について
(論旨)
一 本件は、訴因の明示・特定がなかったから、刑訴法三三八条四号により公訴棄却の裁判をすべきであったのに、これをしなかった原判決は、所得税法二三八条一項の構成要件の解釈適用を誤り、ひいては、刑訴法二五六条三項の訴因の明示・特定義務に違反する訴因の違法性を看過し、不法に公訴を受理したものである(法令適用の誤り、訴訟手続の法令違反がある旨述べているが、その内容は刑訴法三七八条二号の主張と解される。)。
二 本件捜査及び公訴提起は、被告人及びその所属する組織を弾圧する政治的目的でなされた典型的な強制捜査権濫用の事案であったから、公訴棄却の裁判をすべきであったのに、これをしなかった原判決は不法に公訴を受理したものである(理由不備、事実誤認がある旨述べているが、その内容は刑訴法三七八条二号の主張と解される。)。
三 本件の裁判は、検察官及び裁判所の責任による審理の著しい遅延により、憲法三七条一項に定める迅速な裁判の保障条項に反する異常な事態が生じていたから、公訴棄却もしくは免訴の裁判をすべきであったのに、これをしなかった原判決は憲法の解釈適用を誤ったものである。
四 本件の裁判は、その重要な審理段階において、違法な公判期日の長期一括指定と弁護人の弁護権行使を極度に制約する強権的訴訟指揮のもとに行われたため、忌避理由の存否にかかわらず、憲法三七条一項に定める公平な裁判所による裁判の保障条項の趣旨に反する異常な事態に立ち至った場合であるから、公訴棄却の裁判をすべきであったのに、裁判官に忌避理由がないから、弁護人の主張は前提を欠くとの理由でこれをしなかった原判決は憲法の解釈適用を誤ったものである(理由不備がある旨述べる点もあるが、右の主張の一部をなすものと解される。)。
(当裁判所の判断)
論旨一について
本件のような虚偽過少申告による所得税逋脱事犯にあっては、その訴因として、被告人が納税義務者である事実、被告人の対象特定年分の総所得金額及びこれに対する所得税額、被告人が申告した総所得金額及びこれに対する所得税額、申告の日時、場所、免れた所得税額(逋脱所得税額)、右逋脱所得税額と因果関係のある不正行為の具体的内容を明示することが必要であるが、本件各起訴状の記載によれば、いずれもこれを明示していることが明らかであり、本件訴因について訴因の明示・特定に欠けるところはなく、これと同旨の原判決の判断は相当であって、原判決に所得税法二三八条一項の構成要件の解釈適用の誤りはなく、不法に公訴を受理した違法があるともいえない。論旨は理由がない。
論旨二について
本件捜査及び公訴提起が被告人が在日朝鮮人であることなどを理由に差別、弾圧する目的でなされたものと認められないとした原判決の判断は証拠関係に照らし正当であり、論旨は理由がない。
論旨三について
本件の審理は、公訴提起(昭和四四年三月一二日及び同年九月一二日)以来弁論終結(昭和六〇年一月二三日)に至るまで約一六年間の長期にわたっているが、争点が多岐にわたり、微細な計算が必要であった本件の事案の内容、検察官・弁護人双方の活発な訴訟活動のもと長期にわたる審理の中断がないまま実体審理を終えていること、被告人は長期間被告人の座にあったものの、それ以上に防御権の行使等につき特段の不利益を受けた形跡がないことなどに徴すると、憲法に定める迅速な裁判の保障条項に反して異常な事態が生じていたとは到底いえない。これと同旨の原判決の判断は相当であり、論旨は理由がない。
論旨四について
原審の訴訟指揮が忌避理由とならないことは原判決説示のとおりであり、本件の裁判が所論の理由で憲法に定める公平な裁判所による裁判の保障条項の趣旨に反する異常な事態に立ち至ったとは到底いえず、論旨は理由がない。
第二控訴趣意中理由不備・理由齟齬の主張について
(論旨)
一 逋脱犯が成立するためには、「偽りその他不正の行為」(以下「不正行為」という。)と逋脱税額との間に因果関係があることを要するところ、原判決は、所得税法二三八条一項の「不正行為」として、昭和四〇年ないし昭和四二年の三年分ともほぼ共通に、(1)銀行預金の一部に架空名義を使用し、右営業による売上金の一部を右架空名義の預金に入金したこと、(2)所得税確定申告書に給与所得、不動産所得、雑所得の全部あるいは一部を記載しなかったこと、(3)虚偽の所得税確定申告書を提出したことを挙げている。しかしながら、原判決は、右架空名義の預金を特定せず、架空名義の預金に入金することが何故に「不正行為」になるかの理由を述べていない点で理由不備の違法を犯している。
二 原判決には、(1)逋脱の故意を認めるべき証拠がないのに有罪を認定し、(2)昭和四〇年分、四一年分の売上金の認定(伏見信用金庫東寺支店の中山政夫名義の当座預金分)の説明が十分でなく、(3)昭和四〇年分給料・賞与につき賃金台帳に一部欠落のあることを認めながら、一方ではこれによって給与支給総額を認定し、(4)昭和四一年分科学者協会に対する支出を雑費として認めながら昭和四二年分では経費として認めないなどの点において、理由不備ないし理由齟齬の違法がある。
(当裁判所の判断)
論旨一について
原判決が「不正行為」としていかなる行為を認定しているかの点について検討するが、原判文及び後に検討する申告態様、殊に架空名義預金の使用と虚偽過少申告とが金額的に直接関連づけられていない点等から判断すれば、原判決は虚偽過少の申告行為自体を逋脱税額と因果関係のある「不正行為」として認定判示したものと解されるのであって、判文中の所論(1)(2)の記載は所得秘匿の方法としてそのような行為があったことを単に例示的に判示したにすぎないものとみるべきであり、原判決は右(1)(2)のみを「不正行為」として認定判示したものではなく、また、原判決が、虚偽過少の申告と全逋脱税額との間に因果関係があると認定判示していることも明らかであって、所得税逋脱犯における罪となるべき事実の判示として「不正行為」と逋脱税額との因果関係の点を原判決が判示した以上に具体的に判示しなければならないものでもないから、原判決が、右架空名義の預金を特定せず、架空名義の預金に入金することが何故に「不正行為」になるかの理由を述べていなくても理由不備の違法があるとはいえない。論旨は理由がない。
論旨二について
(1)逋脱の故意を認めるべき証拠があることは後記第六記載のとおりであり、(2)の点の説明に理由不備があるとはいえず、(3)(4)の点も理由不備ないし理由齟齬の主張に当たらず、論旨はいずれも理由がない(なお、(3)(4)の主張は事実誤認の主張の一部をなすと解されるが、これに対する判断は後記第三の二の1、第五の二の4のとおりである。)。
第三控訴趣意中昭和四〇年分の所得に関する事実誤認の主張について(逋脱の故意に関する主張は後記第六で判断)
一 売上金に関する事実誤認
(論旨)
原判決は、売上金三億七八一七万八四六七円を認定したが、左記1ないし4の金員を売上金からの除外金と認定したのは事実を誤認したものである。
1 伏見信用金庫東寺支店の中山政夫名義の当座預金口座に入金されているもののうち合計一六二万二一〇〇円((1)九月一八日分六〇万円のうち一〇万円、(2)九月二一日分三〇万円、(3)九月二八日分一〇二万円及び(4)三月二五日分二〇万二一〇〇円-(4)は当審での新たな主張-の合計)
2 中山観光株式会社(以下、中山観光という。)に対する貸付金のうち合計四五三万六九五〇円((1)貸主が中山政夫となっている分のうち一三三万六九五〇円、(2)貸主が康田健夫となっている分三二〇万円の合計)
3 給与に充当された分のうち合計六七七万六三六五円(一月分一五万円、二月分一六〇万円、三月分四五万円、七月分九五万円、八月分一七〇万円、一一月分一八〇万円の合計六六五万円ほか)
の合計一二九三万五四一五円
右金員は、借入金からの入金・貸付・充当であって売上金からのそれではない。
4 原判決は、売上金から直接充当された家計費を一二〇万円(月額一〇万円)としているが、六〇万円(月額五万円)が相当である(控訴趣意書では右趣旨は明瞭でないが、弁護人の原審での主張及び当審弁論により明らかである。)からその差額六〇万円
すなわち
1の点につき原判決は、<1>被告人の事務員が記帳していた当座勘定帳(検第一号)摘要欄には借入金の場合には「〇〇からの借入」との記載があるが、右の各入金分についてはそのような記載はないこと、<2>借入先について被告人は具体的な供述をしていないこと、<3>借入に関する客観的資料も存しないこと、<4>右当座勘定帳摘要欄に「現金(売上金)」とは記載されず、単に「現金」とのみ記載があるにすぎない入金につき、検察官が売上金からであると主張したのに対し弁護人が異議を述べていないものが前記以外に相当あること(三月二五日二〇万二一〇〇円のほか多数)、<5>右当座勘定帳の記帳状態、記帳内容、当該入金日前後の他の預金口座への入金状況や<6>溝田洋子の検察官に対する供述調書等によって窺われる売上状況等を挙げて、これを売上金からの入金であると認定した。
なるほど、当座勘定帳に「〇〇からの借入」との記載はないが、「(売上金)」との記載もないのであるから、「〇〇からの借入」との記載がないからといって、売上金からの入金であって借入金からの入金でないということはできない。現に九月一八日分六〇万円は一括入金されていて「〇〇からの借入」との記載はないのに、原判決は同日商工信用組合九条支店から被告人に手形貸付されている五〇万円がその出所とみられないでもないとして、うち五〇万円を借入金から、残り一〇万円を売上金からの入金と認定している。また、一括入金されているものを二つに分け、一方を借入金、他方を売上金というのも納得しがたい。検察官が売上金としているものにつき弁護人が異議を述べていないものは、記帳後一〇年以上も経過したことによる誤解もあるし、「(売上金)」との記載がなくても、一日に一度は売上金からの入金があるだろうとの推測に出るもので、断定的に主張したものではない。本件で問題となっているものは同一日付で二度「現金」入金の記載がなされているもののうち「(売上金)」の記載のないものである(上記三月二五日にも、他に「(売上金)」の記載のあるものがあるから、原判決指摘の二〇万二一〇〇円は借入金からの入金である旨当審で主張を変更する。)。一日に二度「(売上金)」として「現金」の科目で入金することは、他の例からしても考えられない。「(売上金)」の場合は端数がついているが、本件で問題になっているものには端数はない。他の日の入金状況と較べても、入金が一〇万円以下のことはままあり、景品代等の支払いが重なって支払いが一時に多額になり、入金が減ることはあるものである。
2の(1)の点(貸主が中山政夫となっている分)につき原判決は、<1>被告人が借入先、借入金額、借入条件等について何ら具体的な供述をしていないこと、<2>借入を裏付ける客観的資料も全くないこと、<3>被告人の預金口座から本件貸付に対応する出金がないこと、<4>本件貸付前後の被告人の売上金の預金状況等を挙げてこれを売上金からの貸付であると認定した。
しかしながら、右はいずれも売上金として認定する理由としては不十分である。被告人は当時多額の債務を負担しており、その詳細を十数年後に具体的詳細に供述できないからといって借入金でないことにはならないし、右主張も多分これら借入金を回したであろうという主張であり、右が売上除外金であることの立証責任は検察官にある。被告人の預金口座から出金の事実がないという点も、当時被告人が借りていたのは高利の金であって、これを低利ないし無利息の被告人の口座に入れてから中山観光に貸し付けるよりも、すぐに中山観光に貸し付ける方が自然である。また、売上除外金からの貸付というならその売上除外金はどこに保管していたのか明らかにすべきであるが、これが明らかでないからさしずめタンス預金ということになろうが、当座預金口座は赤字続きであり、このようなときに利息のつかないタンス預金をするというのも通常考えられないところである。本件貸付前後の被告人の売上金の預金状況をいう点も、本件で問題となっている各入金日に本件分を除いた金額はその前後の入金状況からみても少額とはいえないものである。さらに、中山観光の帳簿に被告人から借り受けた旨の記載があるが、中山観光は被告人が社長をしている会社であり、売上除外金という簿外資金からの貸付をその帳簿に記載させるなどということも考えられない。借入金等の具体的条件が明らかでなく、資金の出所が不明であるとしても、それは借入先が不明であるというにすぎず、これをもって売上除外金からの貸付であるとするのは、疑わしきは被告人の利益にの原則に違反するものである。
2の(2)の点(貸主が康田健夫となっている分)につき原判決は、<1>康田健夫自身が国税査察官に対し中山観光へ金を貸した覚えがないと供述した旨の(当事者から異議の申立のなかった)伝聞証言、<2>高額の貸付金であるにもかかわらず、同人からの貸付であることについての客観的資料がないこと、<3>本件前後の売上金の預金状況等を挙げているが、<1>は伝聞証言であり、<2>のように客観的資料のない貸借は、在日朝鮮人の間では日常頻繁に行われており、十数年後に客観的資料が全く裁判上出ていないからといって右借入の事実を否定することはできない。<3>の点もどのような売上金の預金状況から売上除外金からの貸付としたのか不明である。また、本件では四月三〇日の一〇〇万円、九月三〇日の一二〇万円、一一月三〇日の一〇〇万円をそれぞれ売上除外金からの貸付としているのであるが(控訴趣意書には四月三〇日の一二〇万円、一一月三〇日の一〇〇万円と記載されているが、原判決でも前記日時貸し付けた三二〇万円が売上除外金であるか否かを争っていることは明らかであるから誤記と認める。)、その前後にも相応の金額が「(売上金)」として入金されており、これらの日の分から削り集めたとはみえず、右多額の金額を売上除外金からの貸付と認定すべき証拠とはなりえないし、前述の各貸付金等も売上除外金からであるとし、本件も売上除外金からであるとすれば、これらの日の売上は通常の売上よりも多額になる。康田健夫自身が仮に中山観光へ金を貸していないとしても、そのことから直ちに売上除外金から貸し付けられたことにはならない。被告人個人の当座は常に借入利息のつく借越の状態であったにもかかわらず、本件三二〇万円もの多額の金銭を利息もつかない状態でプールし、一定金額になった後中山観光に貸し付けると考えるのは不自然であり、これらを売上除外金からの貸付であるとするのは、疑わしきは被告人の利益にの原則に違反するものである。
3の点につき原判決は、<1>京都信用金庫七条支店の中山政夫名義の普通預金口座からの出金によると主張した一一月分について、一一月一六日の出金は、月末でなく月半ばの出金であるからこれが給料の支払いに当てられたものとはいえず、したがって、給料支払との関連性が認められない。<2>簿外借入金によると主張した他の月分については、借入日、借入先、借入条件などについて具体的な主張がないこと、借入についての裏付けとなる客観的証拠がないこと、日銭が入る被告人の事業の性格等を挙げて、これを売上除外金からの充当であると認定した。
しかしながら、<1>について一一月一六日を云々するのは当たらず、一一月分の給料の支払いは京都信用金庫七条支店の中山政夫名義の普通預金口座から一二月二日引き出された三〇〇万円からなされたとみるべきであり、<2>の借入について具体的主張がない点や借入について裏付けとなる客観的証拠がない点についてはすでに他の箇所で述べたとおりであり、日銭が入る事業であることがなにゆえ売上除外金が給料に充当されることになるのか明らかでない。原判決によれば、一方で逋脱犯における不正の方法として売上金を隠したとしながら、その隠した金をわざわざ必要経費となる給与の支払いに当てたということになるが、このようなことは考えがたいところである。また、一日の売上金をそのまま給料に回したとしても一日分の売上金では間に合わない。仮に借入金から支払ったものでないとしても、売上金から支払ったとする根拠を示すことなく、借入金から支払ったものとは認められないということだけで、売上除外金から支払ったとすることは疑わしきは被告人の利益にの原則に反する。
4の点につき原判決は、田村証言、西村栄美子証言により、家計費充当分を月当たり一〇万円で年間一二〇万円と認定した。
しかしながら、西村証言からは被告人の妻に渡されていた金が家計費であるとはいいきれないし、被告人は桂タクシー及び中山観光から各社長給与月額合計六万円をもらっていたから、他に一〇万円もの生活費が掛かるはずがない。当時の金銭出納手続としては、妻が生活費を受け取る際は当座勘定帳に記帳がなされているから、記帳がないときは妻には金は渡っていないのである。また、当座に記帳のあるものあるいは小切手で引き出した分は、一度売上金として計上された金額からの支出であるから、これを再度売上除外金と認定することは売上金を二重に計上することになる。
(当裁判所の判断)
そこでまず、売上金からではなく、借入金からの入金・貸付・充当を主張する所論(1、2の(1)、2の(2)、3)について検討するのに、所論の中には、十数年後になって供述するのであるから借入条件の具体的内容を述べることができない旨主張するところがあるが、原判決挙示の被告人の大蔵事務官に対する質問てん末書(原審検第二三七号、以下の引用においては「原審」の表示を省略し、また、標目の記載を省略して証拠等関係カードの番号のみを記載することがある。)や当審における事実取調べの結果によれば、被告人は査察を受けた昭和四三年六月四日当時借入金を記載したメモを所持していたことが認められるし、これは差し押えられはしたものの当時まだ借入金及びその支払関係は存続しており、他に借入を担当していた者もいたことが認められるから、それらの由来の詳細を三、四年に遡って想起して整理することは容易であったと目され、これには左袒しがたい点もあるが、本論旨の眼目とする簿外借入金の存否については、当審における事実取調べの結果により、被告人が昭和四〇年から四二年にかけても銀行以外から手形などによる貸付を受けていた事実が判明し、合意書面が提出されるに至り、右合意書面の内容は、「昭和四〇年の支払い利息の額は、原判決が認定した一〇六七万二一八三円に、昭和三九年末の個人借入金二〇〇〇万円と昭和四〇年中に増加した二〇〇〇万円に対する利息九〇〇万円を加えた一九六七万二一八三円である。」「昭和四一年の支払い利息の額は、原判決が認定した一三六五万五九九一円に、昭和四〇年末の個人借入金四〇〇〇万円と昭和四一年(右合意書面に昭和四〇年とあるのは昭和四一年の誤記と認める。)中に増加した四五〇〇万円に対する利息二〇〇〇万円を加えた三三六五万五五九一円である。」「昭和四二年の支払い利息の額は、原判決が認定した一八六七万五六八八円に、昭和四一年末の個人借入金八五〇〇万円と昭和四二年中に増加した一億〇八二〇万円に対する利息一二〇〇万円を加えた三〇六七万五六八八円である。」というものであって、これらによれば、昭和四〇年中に個人借入金が二〇〇〇万円増加したことが認められるから、借入について具体的な供述がなく、客観的証拠がないとして簿外借入を否定し、売上除外金以外にこれらに当てる金員の出所はないとする前提に立つ原判決の判断は維持できず、簿外借入金があったことを前提に検討するとき、他に原判決が認定の根拠として挙げる売上金の入金状況からは、売上金であることを認定するには不十分というべきである。
もっとも、原判決挙示の関係証拠によって認められる預金状況、中山観光への貸付状況などにより検討すると、
1のうち九月一八日、伏見信用金庫東寺支店の中山政夫名義の当座預金口座及び商工信用組合九条支店の金奇泰名義の日掛積金口座に入金されている合計六六万六四九九円から、原判決が売上金からの入金ではないとして差し引いた五〇万円のほかにさらに所論の一〇万円を差し引くと売上金として残るものは六万六四九九円(なお、当日中山政夫名義で中山観光に六万円が貸し付けられており、これを売上金からの貸付とみても売上金はせいぜい一二万六四九九円にとどまるが、右六万円も後述のとおり売上金からの貸付ではないとすべきものとする。)、同九月二一日分合計七九万七九四〇円から所論の三〇万円を売上金から差し引くと四九万七九四〇円、同九月二八日分合計一一九万七七八〇円から所論の一〇二万円を差し引くと一七万七七八〇円であり、九月二一日分を除くと売上金としてかなり過少な金額である。
次に、2の中山観光に対する貸付金についてみるのに、(1)貸主が中山政夫となっているもののうち、九月一八日分は前記のとおりであり、四月一二日分預金及び貸付金合計七一万一一七〇円から所論の貸付金五六万円を差し引くと、売上金としての入金は一五万一一七〇円であり、前日が日曜日であったことを考慮すると右金額は著しく過少である。それ以外は所論の貸付金を差し引いても売上金としての入金は前後の日の売上金と比べて遜色はない。(2)貸主が康田健夫となっている分については、これらを売上金とみると、売上金は著しく過大となる。これらを売上金からでないとすると、四月三〇日の売上金としての入金は八四万四一六〇円となり、前日が日曜日であることを考慮しても相応な額であり、九月三〇日の売上金としての入金は二三万一七七〇円となり、特別過少ともいえない。一一月三〇日は給料充当分や他に被告人名義の貸付があり、これらがすべて前日の売上金からであるなどとはいえず、単純な比較はできない。
もっとも、一日の売上金の記載が一〇万円に満たないことのあるのは所論のとおりであるが、原判決挙示の帳簿類を子細に検討すると、若干の例外はあるが、その殆どは通常の売上金との差額程度が、その翌日、伏見信用金庫東寺支店や京都信用金庫七条支店の中山政夫名義の当座預金口座に売上金として入金されていることが認められる。
このように、売上金を一日ないし二日単位でみても、所論の金額を売上金でないとすると、売上金として残る分が他と比べてかなりあるいは著しく過少なものがあり、売上除外された疑いがないでもない。しかしながら、前記のとおり所論に係わらない部分で売上金の少ない日も若干あるうえ、日々の売上は、景品の現金仕入分としてどの程度使われたかにも関係するところ、本件全証拠によってもこれが詳らかでないから、所論のとおりであるとすれば、売上金として残る分が他の日と比べて過少であるとの理由で、所論の金額を売上金であると断ずることにもなお躊躇を覚えるところである。
また、3の給与充当分については日々の売上金と比較することは困難であり、給料日の何日か以前からプールしてきたとみるとしても、これを裏付ける証拠はない。
してみると、前示多額の借入金の存在が明らかとなった以上、所論の金額が借入金からの入金・貸付・充当であるとする所論は、結局においてこれを否定し去ることはできないというべきである。
なお、所論にかんがみ若干の点につき説明を加える。
1の(3)の一〇二万円につき、被告人は原審において、右は水野頼母子講の落札分の借入金三一三万二〇〇〇円の一部である旨供述し、原判決は水野頼母子講の落札時期が異なるとして右供述を採用しなかったが、被告人の右供述は被告人の記憶違いともいえるし、いずれにしても借入金からの入金を主張するもので、もとより売上金から入金したことを認めたものではないから、これについても売上金からの入金を否定すべきものと考える。
1の(4)の三月二五日の二〇万二一〇〇円も借入金からの入金であるとの当審における新たな主張についてみるのに、原判決挙示の当座勘定帳(検第一号)の三月二五日のところをみると、「摘要」欄に「現金(売上金)」、「預入金額」欄に「642,400」の記載があり、次の行の摘要欄に「〃〃」の記載があってその右側は前行の「(売上金)」部分のみならず、次の「印」欄にもわたって、何らかの記載が削り取られて空白となった痕跡があり、「預入金額」欄に「202,100」の記載があるが、右削り取られた部分は、「(売上金)」と記載されていたのではないかとの疑問はあるものの、削り取られた部分は前行の「(売上金)」該当部分よりも長いから単純に「(売上金)」と記載されていたともみられず、いずれにしても、「(売上金)」の記載があったとの立証はないから、これについても簿外借入金からの入金の疑いを否定できない。
2の(2)の康田健夫関係についても同人の供述は伝聞であるうえ、同人からの貸付でないことが分かっただけでは、前記理由によりこれを売上金と断ずることはできない。
以上とおり、借入金からの入金・貸付・充当を主張する所論は採用できる。
4の点についてみるのに、原判決挙示の証拠によれば、家計費充当を月当たり一〇万円とした原判決の認定は相当である。すなわち、原判決挙示の田村証言及び西村証言のほか賃金台帳(検第一一号)により認められる幹部従業員である今村良平、同北沢正彦の給料が月額八万円であったこと、被告人が事業主であり、当時の被告人の家族が夫婦と子供五人の七人家族であったことを考慮すると、中山観光等の給与のほかに、月額一〇万円の生活費が掛かるものと推認しても、これが過大であるとは考えられない。なお、前記当座勘定帳等で被告人の妻への出金状況が記載されているのは、一月七日現金二万円、六月一日小切手二〇万円、七月一九日小切手五万円、七月二一日小切手一〇万円(仏壇代)(以上、伏見信用金庫東寺支店・当座勘定帳)、一二月二九日現金一〇万円(京都信用金庫七条支店・原判決挙示の金銭出納帳-検第二号-)であって、西村証言にあるような金員の支出は記帳がないことから、上記程度の記載で、記帳がないときは妻には金は渡っていないなどといえない。所論の論法でいくと、売上げからの家計費充当額を月額五万円とする所論とさえ矛盾することになる。
なお、二重計上をいう点についてみるのに、前記のうち小切手分は西村証言に照らし、それぞれ別の用途にあてたとみるのが相当であり、家計費とみてよいものは一月七日の現金二万円と一二月二九日の現金一〇万円になるところ、前記当座勘定帳(検第一号)、大蔵事務官作成の昭和四三年一二月二五日付、昭和四四年三月一日付各調査てん末書(検第六三号、第六五号)、検察官の主張、原判決の認定額等を対比すると、右二万円が伏見信用金庫東寺支店の当座預金口座に売上金として入金されたものとして集計されていることが認められ、また、前記金銭出納帳(検第二号)、大蔵事務官作成の昭和四四年三月一日付、昭和四三年九月一日付各調査てん末書(検第六五号、第六六号)、検察官の主張、原判決の認定額等を対比すると、右一〇万円が京都信用金庫七条支店の当座預金に売上金として入金されたものとして集計されたことが認められるが、家計費として右一二万円を計上すると売上金が二重に計上されたことになるから、これを売上金から差し引かなかった原判決は事実を誤認したものである。
以上、1ないし4の合計一三〇五万五四一五円を原判決認定の売上金三億七八一七万八四六七円から控除すると、売上金は三億六五一二万三〇五二円となり、原判決にはこれを三億七八一七万八四六七円と認定した点で事実の誤認があり、論旨は右の限度で理由がある。
二 経費についての事実誤認
(論旨)
1 従業員の給料・賞与について
(1) 今出川店の給料・賞与を三三八万一二一三円、(2) 府庁前店の給料・賞与を三四〇万三九〇九円と認定した原判決は事実を誤認したものである。
すなわち
(1)の今出川店の給料・賞与につき原判決は、年間を通じ同店に一三名の従業員が稼働していたとは認められないとして、欠落の存する賃金台帳の記載に基づき稼働人員を確定し、山田宣彦ら七名については一月分の台帳が欠落しているので、同人らの二月分の支給額をそのまま一か月分加算し、高橋章三については三月ないし五月の台帳が欠落しているので同人の六月分の支給額の三倍を加算して補正し、これを賃金台帳におけるその余の支給額と合算し、賞与として給料の一か月分を加算して三三八万一二一三円とした。
しかしながら、今出川店の従業員は一三名は必要であり、賃金台帳上これを満たしている六月ないし一二月の月間平均支給額三〇万六一〇〇円を一月ないし五月の支給分に当てはめ、さらに賞与を加算し三九七万三四〇〇円が同店の給与である。原判決は賃金台帳上一〇月以降は一五名以上も従業員がいたのをそのまま認める一方、賃金台帳に欠落のあることを認めながら賃金台帳上一、二月の従業員が右の半数以下であるのにこれを補正することなくそのまま集計している。しかし一五名以上の人員を必要とした店舗をその半数以下の人員で切り回せるとは考えられないし、両期間の毎月の売上にさしたる変化は認められないから、一、二月についても一〇月以降と同様の人数が働いていたとみるのが相当である。原判決も賃金台帳に欠落のある石山店について一一名は必要であるという弁護人の主張を認めている。
(2)の府庁前店の給料・賞与につき原判決は、同店に一四、五名の従業員が稼働していたとは認められないとし、賃金台帳を集計し、賞与として給料の一か月分を加算して三四〇万三九〇九円とした。
しかしながら、府庁前店の従業員は一四、五名は必要であり、これを満たしている六月ないし一二月の月間平均支給額二八万五四〇〇円を一月ないし五月の支給分に当てはめ、さらに賞与を加算し三七一万五〇〇〇円が同店の給与である。仮に同店の賃金台帳が正確で、そこには欠落がないとしても、原判決は右台帳の集計ミスをしている。右台帳の年間支給額は三一六万〇六一〇円であり、賞与分を加算すると三四二万三九九四円である。
(当裁判所の判断)
そこで検討するのに、(1)今出川店については六月以降は一三名以上の従業員が稼働していたことが原判決挙示の賃金台帳(検第一二号)により認められるところ、右賃金台帳上は一月が七人、二月が八人であるが、このようなことは通常考えがたいこと、昭和四一年分の資料ではあるが雑資料(検第一五号)によれば、昭和四一年五月ないし一一月にも一三名以上の従業員が稼働していたことが認められることに照らすと、年間を通じ同店に一三名の従業員が稼働していたとは認められないとした原判決には左袒できないが、その員数については、これが賃金台帳の欠落を補うという趣旨であること、所論も従業員が一三名であった六月、七月分をそのまま計算していることにも照らすと、所論がいう最低人員の一三名を認めるのが相当であると思料される。そして、右賃金台帳により六月ないし一二月の支給総額は二一四万二九〇〇円<1>、この期間の月々の従業員の延べ人数は九九人と認められるから、この期間の一人当たりの月間平均支給額は二万一六四六円(2,142,900÷99・円未満切上げ)となり、一三名に対する一月ないし五月の五か月間の支給額は一四〇万六九九〇円<2>(21,646×13×5)となり、<1><2>の合計は三五四万九八九〇円となる。さらにこれを一二で割って得られる一か月当たりの金額二九万五八二五円(円未満切上げ)を賞与としてこれに加算すると、その額は三八四万五七一五円となる。
次に(2)府庁前店についても六月以降一四名以上の従業員が稼働していたことが原判決挙示の賃金台帳(検第九号)により認められるところ、一月ないし五月の一一名または一二名がそれだけみると必ずしも不自然ではないものの、昭和四一年分の資料ではあるが雑資料(検第一五号)によれば、昭和四一年の五月ないし一一月にも一四名以上の従業員が稼働していたことが認められることに照らすと、年間を通じ同店に一四、五名の従業員が稼働していたとは認められないとした原判決には左袒できないが、その員数については、これが賃金台帳の欠落を補うという趣旨であること、所論も従業員が一四名であった六月ないし九月分をそのまま計算していることにも照らすと、所論がいう最低人員の一四名を認めるのが相当であると思料される。そして、賃金台帳により六月ないし一二月の支給総額は一九九万八〇〇〇円<1>、この期間の月々の従業員の延べ人数は一〇二人と認められるから、この期間の一人当たりの月間平均支給額は一万九五八九円(1,998,000÷102・円未満切上げ)となり、一四名に対する五か月間の支給額は一三七万一二三〇円<2>(19,589×14×5)となり、<1><2>の合計は三三六万九二三〇円となる。さらにこれを一二で割って得られる一か月当たりの金額二八万〇七七〇円(円未満切上げ)を賞与としてこれに加算すると、その額は三六五万円となる。
原判決には、今出川店の給料・賞与を三三八万一二一三円、府庁前店のそれを三四〇万三九〇九円と認定した点で事実の誤認があり、論旨は右の限度で理由がある(右両店の原判決認定との差額を原判決認定の給与総額に加算するとその額は二三三五万二二九三円となる。)。
2 広告宣伝費について
(論旨)
朝鮮中央芸術団への支出(四月二七日三〇万円、五月二七日三〇万円、六月二八日四〇万円計一〇〇万円)及び体育会への支出(一〇月五日一二万円)を広告掲載費に当たらないとし、これを必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、これらにつき、<1>広告掲載について客観的資料がないこと、<2>支出額が高額で広告掲載代金というより寄付金的なものと考えられること、<3>証人洪仁卓の証言からしても営業との間に関連性を認めがたいとしている。しかしながら、客観的資料がないからといって広告を全く出していないとの認定をすることは許されず、朝鮮中央芸術団や体育会に対して広告を出すことは一般的になされているところであり、広告を出し、広告による資金的援助をすることは朝鮮商工人として当然のことである。また、多少金額が高額であるからといって広告掲載金として否定されるべきいわれはないが、全額認められないとしても広告相当分は広告費として認めるべきである。さらに、洪仁卓の証言から営業との関連性が認められないとしている点も、証言のどの点をとらえて否定しているのか明らかでないが、朝鮮商工人が業務を円滑に遂行するためには在日朝鮮人の援助が不可欠であり、そのために在日朝鮮人関係の各種団体に広告を出すことは当然事業との関連性を有するものである。
(当裁判所の判断)
原判決挙示の検第六五号広告宣伝費科目内訳では宣伝マッチ代などはかなり多額であるが、新聞広告代などを含むその余の代金は一回七二〇〇円ないし三万円程度であり、検察官が雑費として主張したものを弁護人が広告宣伝費へ科目替えすべきであるとしたものの金額も、団体に対するものを含め一万二〇〇〇円から五万円までであるところからみても、所論の金額は通常必要な広告代と認められない。そして、事業所得の金額の計算上、ある支出を必要経費に算入するかどうかは、それが当該所得の総収入金額を得るために直接要した費用か、業務遂行上直接必要な費用か否かを基準に判断すべきであるから、仮に朝鮮中央芸術団発行の月刊新聞(朝鮮中央芸術団への支出)や京都中高級学校の運動会のプログラム(体育会への支出)に広告が掲載されたとしても、実質はいずれも賛助金とみるのが相当である。なお、所論体育会への支出は原判決において雑費科目に計上済であると考えられる(原判決が認めた検察官の主張額、昭和五六年四月一日付立証趣旨補充書における集計額及びそのもととなる資料Ⅰ、その原資料である検第一号参照)から、これを重ねて広告宣伝費に計上すべしというに帰する所論は採用できない。
広告宣伝費を一三三万六七五六円と認めた原判決は正当である。論旨は理由がない。
3 交際費について
(論旨)
(1) 大丸への支出全額三八万九八〇〇円、(2) アメ横で購入したボールペン代金一一万八五〇〇円、(3) 河本信明に対する礼金一五万円をいずれも必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち
(1) 大丸への支出全額三八万九八〇〇円につき、原判決は、<1>一〇月七日の支出は男児スポーツシャツ、ズボン下、女児ワンピース等の購入代金であり、二月八日の支出は夫人セーター代と認められること、<2>当時の被告人の家族状況を挙げて、被告人の家事関係の支出であって贈答品購入代金でないと認定しているが、朝鮮関係の人々の間では生活必需品や衣類を贈答品として使用することはよくなされているところである。さらに、右一〇月七日や二月八日以外の支出について家事関係の費用と断ずる証拠はない。年商三億円を超える事業を経営している被告人が融資を受けた関係者や警察関係者に社会的に相当な範囲での贈答をしていたのである。仮に一部家事関係の支出であったとしても、大部分は贈答用としての支出であったと評価するのが、被告人の経営状況からいっても、また、大丸という高級小売店を利用する顧客の状況からいっても妥当であるというべきである。支出全額を家庭用と認めることはできない。
(2) 一一万八五〇〇円の点について、原判決はこれを(東京へ送金して)支出した事実は認められるが、これが東京のアメ横のアメリカ製品専門店で購入したボールペン代で、金融機関関係者に贈答したものであるとの点について客観的資料がないこと及び事業との関連性がないことを理由にして必要経費とならないとしているが、一〇年余りを経過した現在に至って客観的資料がないとしても当然であり、金融機関への贈答は融資を有利に受けるため当然事業と関連するものであり、現在の税務処理においても必要経費として認められている。
(3) 河本信明に対する礼金一五万円につき、原判決は同人が長岡店を一か月半ほど手伝っていたとの客観的資料がないこと及び長岡店で手伝っていたのなら給与が支給されていたはずであるのに賃金台帳にその記載がないことを理由に必要経費にならないとしているが、しかし、河本信明は被告人が長岡店を経営して一か月半ほど長岡店を手伝っていたのであり、「手伝」であったからこそ賃金台帳に記載がないのである。検一号証には「河本マネージャーへの支払」として七月二日一〇万円、一二月一六日五万円の記載があり、マネージャーであるから従業員よりも高額である。
(当裁判所の判断)
(1)の点は、大丸に対する支払のうちには贈答品の購入代金があることが窺われないでもないが、支出内容が明らかでなく、事業との関連性を認めるに足る証拠はないから、原判決の判断が不合理、不自然であるとは認められない。
(2)の点は、原判示のとおりであって事業との直接の関連性も認めがたく、所論は採用できない。
(3)の点は、検第一号の七月二日欄に「河本マネージャーへ」として一〇万円の出金があり、検第二号の一二月一〇日欄に「河本さん」として五万円の出金があることが認められること、被告人が河本浩太郎から長岡店を引き継いだのは六月で、右一〇万円の支払時期が一か月経過後すぐであり、五万円の支払時期が年末近くであることを考慮すると、これらを所論のように長岡店をしばらく手伝ってくれた河本信明に対する礼金と認める余地があり、これを交際費と認めるのが相当である。
原判決には交際費のうち河本信明に対する一五万円の支出を交際費と認めなかった点で事実の誤認があり、論旨は右の限度で理由がある。
4 会費について
(論旨)
(1) 固城親睦会(三万円)、(2) 商工連合会(五〇万円)、(3) 朝鮮総連本部(三〇万円)、(4) 京都保護育成会(七〇万円)、(5) 朝鮮中高級学校(二〇万円)に対する各支出(合計一七三万円)をいずれも必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、
原判決は、(1)の固城親睦会は個人的な親睦団体であり、事業と直接関連するものではないから必要経費とならないとしているが、固城親睦会は、「祖国を離れて遠い日本の京都で商売をしている者同志の相互援助のための会」であり、被告人自身同会会員から従業員の世話や資金繰りの斡旋を受けていたのであるから単なる個人的な親睦団体とはいえず、被告人の事業と密接な関連を有するものである。
原判決は、(2)の商工連合会、(3)の朝鮮総連本部に対する各支出について、会費というより被告人の社会的体面を保持するための寄附金的性格を有するもので必要経費とならないとしている。しかし、朝鮮総連は国交のない朝鮮の日本における在外公館の役割を担っている一面を有しており、朝鮮人が日本で生活するに当たっては朝鮮総連の活動が不可欠である。商工連合会も同様に日本における朝鮮商工人の経営を維持するために不可欠の団体であり親睦の色彩の強い日経連等の日本の経営者の団体以上に事業と密接な関連を有しているのである。
原判決は、(4)の京都保護育成会、(5)の朝鮮中高級学校に対する各支出につき事業との関連性がないから必要経費でないとするが、保護育成会は朝鮮人の子弟で犯罪を犯した者を保護し、更生させるための活動を行っている団体であり、被告人の事業のイメージアップとして、また、刑余者を従業員として雇用できるメリットがあり、事業との関連性を認めるべきである。仮に寄付金としてしか評価できないとしても、公益を目的とする機関に対する寄付金については控除を認める所得税法七八条の趣旨からすれば、更生を援助する保護育成会の趣旨からして当然寄付金控除が認められてしかるべきである。また、朝鮮中高級学校は朝鮮人子弟に対する教育機関であり、右学校で教育を受けさせなければ朝鮮人として日本国内の差別と戦い日本国民と真の友好関係を持ち事業を行っていくことはできないのである。日本政府はこれに対し一円の援助もしていない。このような中で、朝鮮人学校を維持するためにお金を支出することは朝鮮総連への支出と同様に考えるべきである。仮に会費として認めえなくても、教育機関に対する支出であるから所得税法七八条二項の趣旨からすれば、学校法人として許可されているか否かという形式面は別にして、実質的には間違いなく教育機関への支出であるから寄付金控除が認められてしかるべきである。
(当裁判所の判断)
所論指摘の団体の性格、これとの係わり等を考慮しても、前示必要経費についての判断基準に照らし、これらの支出が事業に直接関連しないものとして、経費と認めなかった原判決の判断は正当であり、また、京都保護育成会及び朝鮮中高級学校は所得税法七八条二項(昭和四二年法律第二〇号による改正前の九一条二項)の要件に該当せず、かつ、所得税確定申告書にも記載されていないから、これらに対する支出につき寄付金控除も認めるべきではなく、所論は採用の限りでない。論旨は理由がない。
5 支払利息について
(論旨)
支払利息は一九六七万二一八三円(当審弁論において控訴趣意書で主張した一九八四万一三九一円を減額した。)であるのに、原判決が一〇六七万二一八三円を認定したにとどまったのは事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、無担保で多額の金銭貸借が行われるという在日朝鮮人間における商慣習を無視し、相当多額であるのに無担保であり、約束手形などの客観的資料もなく、被告人の個人手形受払帳にも記載がなされておらず、関係人は利息の領収書を交付していなかった旨供述するなど不合理な点が多く利息支払の事実自体疑わしいうえ、仮に主張のような個人借入がなされていたとしても、事業と直接関連しない資産の増加の原資としての借入金とみられるから、その支払利息も事業上の必要経費には当たらないとしたが、右は事実を誤認したものである。
(当裁判所の判断)
前記合意書面を含む当審における事実取調べの結果によれば、事業に関連する支払利息は一九六七万二一八三円と認めるのが相当であって、これを一〇六七万二一八三円と認めた原判決は事実を誤認したものであり、論旨は理由がある。
6 旅費・交通費について
(論旨)
被告人が日本赤十字主催の行事に参加してアメリカへ視察旅行に行った際の旅行費用等七七万七五七〇円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、右旅行費用につき、原判決は、被告人の事業と直接関連するものでないから必要経費に当たらないとしているが、被告人は、パチンコ業を営み財界人として多方面の付き合いを必要とする立場にあった者であり、日本赤十字主催の行事に参加することも営業上の知人を増やすために必要であり、また被告人はアメリカの市場を調査する意味も兼ねていたのであるから必要経費と認めるべきである。
(当裁判所の判断)
財界人として多方面の付き合いを必要とし、営業上の知人を増やす必要があったとしても、すべての旅行費用が必要経費となるものでなく、被告人のパチンコ業の規模が、国内での市場調査を超えてアメリカでの市場調査を必要とするほどのものであったとは認めがたい。赤十字行事参加が主目的であったという旅行の性格に照らし、原判決の判断は正当であって所論は採用できず、論旨は理由がない。
7 事業専従者控除について
(論旨)
被告人の妻につき事業専従者控除を認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、所得税確定申告書謄本には、被告人の妻は控除対象配偶者として記載されているが、事業専従者欄には記載されていないから所得税法五七条三項、五項により事業専従者控除(一一万二五〇〇円)の対象とならないとしているが、被告人が事業専従者として申告していなかった配偶者についても、専従者として申告すれば控除が可能であった以上、事業専従者控除を認めるべきである。
(当裁判所の判断)
控除対象配偶者と事業専従者との関係は所得税法五七条により明らかであるから、事業専従者として申告すれば控除が可能であったとする所論は前提を欠く。ちなみに、所得税法附則四条によれば、昭和四〇年分所得税に適用する配偶者控除額は一一万七五〇〇円であり、事業専従者控除額は一一万二五〇〇円となっており、被告人は額の多い配偶者控除を選択している。論旨は理由がない。
第四控訴趣意中昭和四一年分の所得に関する事実誤認の主張について(逋脱の故意に関する主張は後記第六で判断)
一 売上金に関する事実誤認
(論旨)
原判決は、売上金四億六九六三万四九二三円を認定したが、左記1ないし5の金員を売上金からの除外金と認定したのは事実を誤認したものである。
1 伏見信用金庫東寺支店の中山政夫名義の当座預金口座に入金されている三月二日分六六万〇八八〇円のうち五六万〇八八〇円
2 伏見信用金庫東寺支店の笠岡良夫名義の口座に入金されている六月二二日分三〇万円
3 中山観光に対する貸付金で貸主が中山政夫となっている分のうち六二四万九〇八三円(所論は、原判決がいくらの金額を認定したのか理由中からは明らかでないと主張するが、原判決添付の別表2-(2)の3から上記金額であることは明らかである)
4 給与に充当された分のうち八〇三万一四六七円
の合計一五一四万一四三〇円。
右金員は借入金からの入金・貸付・充当であって売上金からのそれではない。
5 原判決は、売上金から直接充当された家計費を一二〇万円(月額一〇万円)としているが、六〇万円(月額五万円)が相当である(控訴趣意書では右趣旨は明瞭でないが、弁護人の原審での主張及び当審弁論により明らかである。)からその差額六〇万円
すなわち、
1の点につき原判決は、昭和四〇年分と同様の理由でこれを売上金からの入金とした。検察官が売上金であるとする理由はそうでなければ他の日の売上額よりはるかに少なくなることだけである。原判決の理由とするところに合理性のないこと及び事実は借入金であることは昭和四〇年分のところで述べたとおりである。さらに、検第三一-二号(検第三一号二冊のうち一冊目の誤記と認める)の銀行帳によれば、同日の入金は六六万〇八八〇円であり、うち一〇万円について原判決は売上金でないという認定をしているが、一部のみを売上金と認定するのは不自然であり、全部を売上金でないと判断するのが合理的である。
2の点につき原判決は、笠岡良夫名義の右預金届出印が被告人の事務所金庫内に保管されていたこと、伏見信用金庫東寺支店で領置した同支店事務員が記帳していた普通預金他店券入金控(検第二五号)には笠岡良夫名義の普通預金(口座番号九二二三)は中山政夫のものである旨の記載がなされていること、被告人が借入金を右口座に入金するのは不自然であること、本件入金前後の売上金の入金状況を挙げ、これを売上金からの入金であると認定した。
しかしながら、笠岡良夫名義の口座が被告人のものであることは被告人が申告時から自己の預金として計算し申告しているところであり、同口座は銀行側の要請により設けたもので、それへの入金も六月二二日から七月五日までの短期間であり、借入金をそのような口座に短期間だけ入金することが不自然であるとはいえず、右口座から引き出したのち伏見信用金庫東寺支店の中山政夫名義の口座へわざわざ入金している事実に照らすと、借入金を入金することが不自然とはいえず、かえって原判決のように逋脱のために別預金した金であるとすれば、その金をわざわざ本人名義の口座に入金する方が不自然である。また、この三〇万円を売上金とすれば六月六日の売上金は一〇五万円となり、一日の売上金としては多すぎることになってしまう。
3の点につき原判決は、昭和四〇年分と同様の理由により売上金から貸し付けたものと認定したが、右貸付金は昭和四〇年分のところで述べたとおり被告人が借入れた金額を中山観光に貸し付けたもので売上金ではない。
4の点につき原判決は、昭和四〇年分と同様の理由により売上除外金から充当されたものと認定したが、右貸付金は昭和四〇年分のところで述べたとおり被告人が借入れた金額で給与を支払ったもので売上除外金ではない。
5の点につき原判決は、昭和四〇年分と同様の認定をするが、右についても昭和四〇年分のところで述べたとおりである。
(当裁判所の判断)
そこでまず、売上金からではなく、借入金からの入金・貸付・充当を主張する所論(1ないし4)について検討するのに、昭和四〇年分について判断した際に述べた合意書面に関する点はそのまま四一年分にも当てはまり(前記合意書面は、既述のとおり「昭和四一年の支払い利息は、原判決が認定した一三六五万五五九一円に、昭和四〇年末の個人借入金四〇〇〇万円と昭和四一年中に増加した四五〇〇万円に対する利息二〇〇〇万円を加えた三三六五万五五九一円である。」というもので、昭和四一年中に個人借入金が四五〇〇万円増加したことが認められる。)、これらが売上金であることを認定するには不十分であるというべきである。
もっとも、原判決挙示の関係証拠によって認められる預金状況、中山観光への貸付状況などにより検討すると、1の点を所論のとおりとすれば、当日の売上金は一〇万円にとどまり、前後の日の売上金が約六〇万円ないし八〇万円あるのに比べ過少というほかはない。2の点を所論のとおりとすれば、当日の売上金は六七万四一八一円となり前後に比し遜色はない。3の点を所論のとおりとすれば、三月五日分は貸付金六〇万円を差し引くと、同日の売上金は四万円と著しく過少となり、六月九日分は同じく二二万円を差し引くと、同日の売上金は一六万七八三〇円となりやや少なめであり、六月二三日分は同じく三〇万円を差し引くと、同日の売上金は一六万九〇四七円となりかなり少なめであるが、翌日には八〇万円が売上金として入金されており、九月一〇日分は同じく一五万円を差し引くと、同日の売上金は四万五〇〇〇円となって著しく過少となり、一〇月一日分は同じく四八万円を差し引くと、同日の売上金は二万円となって著しく過少となり、一二月一日分は同じく五〇万円を差し引くと、売上金は一二万円となってかなり少なめではあるが、その翌日には一一七万八四八五円が売上金として入金されており、同日だけで比較するに適せず、一二月二八日分は九二万四五八三円を差し引くと、同日の売上金は八万円となって著しく過少となる(一二月二九日の入金ははじめから八万円である)。それ以外は前後の日の売上金と比べてさして遜色はない。したがって、売上金がかなりあるいは著しく過少なときは売上除外された疑いがないでもない。しかしながら、売上金として残る部分が他と比べて過少であるとの理由で、所論の金額を売上金であると断ずることに躊躇を覚えることは昭和四〇年分で述べたとおりであり、給与充当分についても同所で述べたとおりである。
以上のとおり、借入金からの入金・貸付・充当を主張する所論は採用できる。
5については、昭和四〇年分について述べたところと同じであって(ただし、「賃金台帳(検第一一号)により認められる幹部従業員である今村良平、同北沢正彦の給料が月額八万円であったこと」とあるのを、「雑資料(検第二四号)により認められる幹部従業員である北沢正彦の給料が月額九万円であったこと」と訂正する。)、中山観光等の給与のほかに、月額一〇万円の生活費が掛かるものとした原判決は相当であり、二重計上と目すべきものもない。所論は採用できない。
以上、1ないし4の合計一五一四万一四三〇円を原判決認定の売上金四億六九六三万四九二三円から控除すると、売上金は四億五四四九万三四九三円となり、原判決にはこれを四億六九六三万四九二三円と認定した点で事実の誤認があり、論旨は右の限度で理由がある。
二 経費に関する事実誤認
1 広告宣伝費について
(論旨)
(1)五月二四日支出の文学同盟に対する一〇万円、六月二〇日支出の韓中高校文化祭寄付金五万円、一〇月二五日支出の朝鮮中央芸術団広告料五万円、朝鮮新報社に対する一〇月三一日二五万円、一一月三〇日二五万円の各支出、(2)日付は定かでない朝鮮中央芸術団、初級学校、中高級学校、朝鮮商工新聞、朝鮮青年同盟、朝鮮大学校へ支出した三六〇万円(以上(1)(2)の合計四三〇万円)を広告掲載費に当たらないとし、これを必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、四一年分については、一部支出のあったことは原判決も認めており、学校等への支出を経費として判断するのは通常の申告の態様である。また、広告宣伝費として高額すぎるというなら広告宣伝費として相当な金額について否定されるいわれはない。
(当裁判所の判断)
(2)については支出を証する客観的資料がないうえ、前記必要経費の判断基準に照らし、(1)(2)いずれも事業と直接の関連性が認められないとする原判決の判断は相当であるが、(1)のうち韓中高校文化祭寄付金五万円については、大蔵事務官作成の調査てん末書(検第一〇七号)によると、昭和四二年分でこれを広告宣伝費として認めており(四四五四丁)、原判決もこれを認容しているから、昭和四一年分でもこれを認めるのが相当である。原判決には右韓中高校文化祭寄付金五万円を広告宣伝費と認めなかった点で事実の誤認があり、論旨は右の限度で理由がある。
2 交際費について
(論旨)
大丸デパート、高島屋デパートに対する支出合計五二万二九五四円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決はこれらの支出自体を認めていながら、八月九日と九月六日の支出に家族関係の支出らしきものがあるということで右各デパートへの支出を全て交際費に当たらないとしている。しかし、そもそもハンカチやワンピースであっても家族のものであると即断できないことは昭和四〇年のところで述べたとおりであるが、さらに原判決の認定によれば、被告人は年商四億を超える事業を営んでいるにもかかわらず、何ら贈答品を贈っていないという極めて一般常識とかけはなれた判断をしている。贈答品の授受なくして民間事業はなり立たないのである。贈答品としての品を買ったであろうことはデパートという高級小売店を利用しているところから容易に推測できるところである。しかるに原判決はそのような事実を無視して総て必要経費にならないとしているのであり、原判決は明らかに事実を誤認している。
(当裁判所の判断)
これらにつき事業との直接の関連性が認められないとした原判決の判断は相当であることは、昭和四〇年分について述べたとおりであり、論旨は理由がない。
3 修繕費について
(論旨)
京都トヨペットに対する一〇月一五日の一五万九〇〇〇円と四万四三一〇円の合計二〇万三三一〇円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は右を被告人の妻のため購入した車両の代金であるから修繕費に当たらないとしたが、被告人の妻は原判決も認定しているとおり被告人の事業の手伝いをしていたのであり、事業専従者となっていたのである。したがって、妻名義の車両の購入といえども被告人の事業と関連するものである。仮に修繕費とならないとしても減価償却の対象となるものである。
(当裁判所の判断)
原判決挙示の関係証拠によると、右一五万九〇〇〇円は被告人の妻の車両購入代金の一部であり、四万四三一〇円はその諸掛かりであると認められる。弁護人の冒頭陳述補充書(その一)の減価償却費の内訳には被告人の自家用車のみを計上し、妻名義の自家用車の償却費は計上されていないが、被告人の妻は被告人の事業の手伝いをしており、食事の段取りなどのため車両を利用して各店を回っていたことが認められるから、これを必要経費と認めなかった点で原判決には事実の誤認があり、論旨は理由がある。
4 支払手数料について
(論旨)
八月一五日支出の登記費用四万九九三〇円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、右を石山店の店舗を担保にしてなした借金の返済による担保設定登記を抹消した際の費用であり、この借入金は、被告人から中山観光に転貸されており、被告人の事業に利用されていないから被告人の事業と関連性がないとしている。しかしながら、中山観光に対する貸付も、貸付に伴い利息をとるときは勿論のこと、利息をとらないときでも信用貸与として当然にいわゆる貸金業的性質を有するものである。
(当裁判所の判断)
原判決挙示の関係証拠によると、右登記費用は、被告人が中山観光に転貸した借入金の担保設定登記を抹消するための費用であり、中山観光に対する立替払いとみるのが相当であり、これを事業に関連しないとして必要経費に当たらないとした原判決の判断は相当である。論旨は理由がない。
5 福利厚生費について
(論旨)
(1)一一月八日の安田テーラーへの支出七万五〇〇〇円、一一月一七日の衣川洋服店への支出五万〇五〇〇円、一二月三日の同洋服店への支出二万六〇〇〇円、(2)ヤクルト代三か月分一万二九九六円(以上合計一六万四四九六円)をいずれも必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、(1)が制服代等事業に関連するものとは認められないから必要経費にならないとした。しかし、右支出は職員に対し勤労意欲をかきたてるために、あるいは日頃の勤務に対する礼として送ったもので制服と同様事業に関連するものであり、多すぎる額でもない。したがって、福利厚生費として必要経費に該当するものであり、あるいは交際費ないし賞与的なものとして必要経費に当たるものと考えるべきである。また、(2)のヤクルト代につき原判決は領収書からして被告人の家庭用のものと判断して必要経費にならないとしたが、昭和四一年当時のヤクルトの価格からすれば、家庭用としては多すぎるものであるし、原判決も四二年分については経費として認めている。ヤクルト代は、パチンコ店内での販売を依頼されて一時期ストックに入れて売るようにしていたが、売れ行きが思わしくないので、結局殆ど従業員が飲んだものである。したがって、福利厚生費にならないとしても昭和四二年分のように雑費あるいは賄費として必要経費として計上すべきである。
(当裁判所の判断)
しかしながら、所論(1)の洋服店に対する支払が事業に関連するものとは認められないとする原判決の判断は相当であり、この点の所論は採用できない。もっとも、所論(2)のヤクルト代については、領収証から原判決のように断ずることはできず、所論指摘の事実も否定しがたいうえ、大蔵事務官作成の調査てん末書(検第一〇七号)によると、昭和四二年分は雑費及び賄費に計上されていることが認められ(四四八八丁、四五〇〇丁)、原判決もこれを認容しているから、これを経費と認めるべきである。論旨は右の限度で理由がある。
6 会費について
(論旨)
(1)韓国青年同盟への七月二五日の五万円、七月三〇日の五万円、朝鮮留学生同盟に対する七月二六日の五万円、(2)日付は定かでない第一初級学校、中高級学校、朝鮮総連京都府本部、京都府商工会、朝鮮総連中央、朝鮮留学生同盟に対する四二〇万円の合計四三五万円をいずれも必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、(2)については支出を証する客観的資料が見当たらないうえ、(1)(2)いずれも事業との関連性がないから必要経費に当たらないとした。支出の点は、支出していないという客観的資料も何ら存しないのであり、右金額を支出したという被告人の供述は、それまで毎年支出していた事実及び韓国籍への変更を強要された昭和四一年の特殊事情からして十分信用できるものであり、支出したという客観的証拠がないからといってその支出を否定するのは疑わしきは被告人の利益にの原則に反する。また、原判決は滋賀県民団本部、科学者協会に対する支出を雑費の項目で必要経費として認めているのであり、右が雑費として計上されるならば、韓国青年同盟等に対する支出も雑費として必要経費になると考えるべきである。
(当裁判所の判断)
しかしながら、(1)の支出は前記必要経費についての判断基準に照らし、賛助金ないし寄付金的なものと認めるのが相当である。(2)の支出はこれを証する客観的証拠がないうえ、当座勘定帳、伝票、銀行調査等により他に同様の支出が明らかになったものの一部は雑費(会費)として認容している(例えば滋賀県民団本部に昭和四一年一一月八日一〇万円二口、科学者協会同年一二月五日二六万円、商工会に同年六月一〇日及び同年七月一一日各一〇万円、九条支部に同年八月八日、九月七日、一〇月六日各一〇万円、朝鮮青年九条賛助会二万円など)のであって、被告人の供述を具体的に裏付ける資料がない以上、右(2)の支出があったと認めることは困難である(原判決は、(2)について、いずれも事業との関連性がないともいうが、商工会への支出は会費として認めて処理しているから、原判決の右説示は正確ではないが、四二〇万円の支出が認められないから、原判決の判断はその結論において是認することができる。)。
7 雑費について
(論旨)
一一月二五日の玉山鐘平の弁護料五万円(控訴趣意書は一五万円というが誤記と認める)を雑費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、右弁護料を事業と関連しない支出であるから必要経費とならないとしている。しかし、当時玉山は被告人の監督下にあった未成年者であり、ある程度の援助は必要不可欠の状態であったのである。また、右弁護料程度の支出をしないと被告人方へ勤務することは困難な状態であった。したがって、右弁護料の支出は事業と関連性を有するものである。
(当裁判所の判断)
しかしながら、原判決挙示の関係証拠によると、右は被告人の親戚である玉山鐘平の外国人登録法違反事件の弁護料であって、右事件は業務遂行上の必要から生じた事件でないから、被告人が未成年の同人を雇っていたというだけでは業務との関連性を否定せざるをえない。論旨は理由がない。
8 支払利息について
(論旨)
支払利息は三三六五万五五九一円(当審弁論において控訴趣意書で主張した三五三三万〇一二三円を減額した。)であるのに、原判決が一三六五万五五九一円を認めるにとどまったのは事実を誤認したものである。
(当裁判所の判断)
前記合意書面及び当審における事実取調べの結果によれば、事業に関する支払利息は三三六五万五五九一円と認めるのが相当であって、これを一三六五万五五九一円と認めた原判決は事実を誤認したものであり、論旨は理由がある。
9 図書、新聞費について
(論旨)
東寺書院に対する一二月三日振出の小切手一三二〇円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、東寺書院に対する一二月三日振出の小切手一三二〇円が決済されていないから、支出自体が認められないとして、必要経費にならないとしているが、右は会計原則に反する。小切手を振り出した段階で債務負担はあったものである。支出が認められないという点について原判決は東寺書院の確認をとっていないから、支出を否定すべきいわれはない。
(当裁判所の判断)
原判決挙示の大蔵事務官作成の調査てん末書(検第六三号、三二六三丁)によれば、右小切手は昭和四二年一月一六日決済されているが、原判決挙示の大蔵事務官作成の調査てん末書(検第一〇七号)の四二年分総勘定元帳の雑費勘定(四五〇〇丁)では、昭和四二年一月一六日付で同金額を記入しながら、年分誤り昭和四一年一二月三一日付として訂正抹消し、原判決挙示の大蔵事務官作成の調査てん末書(検第八九号)の四一年分総勘定元帳の雑費勘定(四〇五五丁)に未達分として計上し必要経費に算入されていることが明らかであり、原判決もこれを認容しているから、本科目に計上すべしとする論旨は理由がない。
第五控訴趣意中昭和四二年分の所得に関する事実誤認の主張について(逋脱の故意に関する主張は後記第六で判断)
一 売上金に関する事実誤認
(論旨)
原判決は、昭和四二年分の売上金についてだけは、昭和四〇年、昭和四一年分のように帳簿の記載から売上金額を推計せずに出玉金額及び出玉率から推計しているが、右推計方法は、推計に推計を重ねるなど甚だしく不正確なものであり、不合理であるから、これにより売上金を五億〇一八七万四一六一円と認定した原判決は事実を誤認したものである。
すなわち
原判決は、本件出玉金額、出玉率による推計方法は客から被告人の手元に入った入金側からの直接的な推計方法であり、弁護人主張の方法は支出の側面からの間接的な推計方法であること、しかも弁護人主張の方法は売上金の発生、各店で集計、本店で集計、本店で保管、預金、出金という経路をたどる過程で抜き取り、違算の可能性が否定できないこと、本件出玉金額、出玉率はいずれも同じ店舗における時期的にも隣接した月の数値を当てはめた自店対比法であり、同業者比較法等に比し個別的直接的であること、李鉱在の証言によれば、昭和四〇年の九条店の売上は一日四〇ないし五〇万円であった旨供述しており、本件推計方法による売上高とほぼ同額であることを挙げている。
しかしながら、弁護人主張の方法で抜き取りなどの行われる可能性はない。次に推計についても例えば、原判決は九条店の昭和四二年の売上金を一四五六万円と推計している。この金額を算出するためには出玉金額と出玉率を必要とする。原判決は出玉金額については昭和四一年分の資料を集計して一三九四万七〇四四円を出し、これを一〇万単位以下を切り捨てるという方法で一三〇〇万円にした。出玉率については昭和四三年一月、二月分の資料の平均を出した。このように出玉金額については昭和四一年の資料を用い、出玉率については昭和四三年の資料を用いての推計が直接的であるなどといえないことは明らかである。
また、李鉱在の証言は売上目標額であるのに、原判決はこれを売上額とみた誤りを犯しているのである。
本件の場合、被告人が用いていた帳簿には売上金の入金の記載がなされているのであるから、そのことから直接的に右記載金額の売上があったと容易に認定できるのである。現に、原判決はこの方法を基本にして昭和四〇年、四一年分の売上金額を認定しているのである。四二年分に至って不合理になったということはあり得ないわけであるから、これよりももっと合理的な認定方法があるからそれによるというわけであろう。そして、その方法が出玉からの推計であるということと思われるが、そのような評価は全く的外れである。
(当裁判所の判断)
そこで検討するのに、原判決は、被告人が各店の収入と支出とを記載した帳簿書類が完備していなかったため、各店舗内で記録していた日計帳、統計帳、出玉統計表、景品メーター控帳、営業日報、売上日報等及びこれにより把握できた出玉率、出玉金額を基礎に算出した検察官の主張、すなわち
イ 売上金額を直接証拠により認定したもの(府庁前店の一〇月ないし一二月分、長岡店の全部、石山店の六月ないし一二月分)
ロ 当月分の一部の売上金額が直接証拠上認められることから、これを当月分全額に引き延ばして算定したもの(九条店の一一月、一二月分、今出川店の一一月分)
ハ 売上金額について直接証拠がないため、「売上金額=出玉金額÷出玉率」の算式で推計するが、出玉金額については直接証拠から算定し、出玉率については直接証拠がないため直接証拠の存する他の月の数値を当てはめて算定したもの(九条店の三月ないし一〇月分、府庁前店の三月ないし九月分、今出川店の三月ないし九月分、石山店の三月ないし五月分)
ニ 右同様の算式で推計するが、出玉金額、出玉率とも直接証拠がないため、直接証拠の存する他の月の数値を当てはめて算定したもの(九条店の一、二月分、府庁前店の一、二月分、今出川店の一、二、一〇、一二月分、石山店の一、二月分)につき、一部違算を正した実額計算あるいは数値を被告人に有利に修正した推計を施してこれを採用したものである。
原判決は、すでにみてきたように昭和四〇年、四一年分の売上金については、当座勘定、普通預金、積立預金の各入金額、貸付金、現金仕入額、各経費のうち売上金から直接支出された金額を証拠によりあるいは一部推計を交えて算定、認定した。しかしながら、パチンコ店の荒利益は売上高と景品交換高の比率(出玉率)による差益と景品の交換比率による差益の合計額で構成されるから、出玉率、景品交換高等が日々記録された資料が存在すれば、その店舗の売上高及び売上原価、荒利益を把握することができる直接的な資料となるところ、原判決はその一部の存在する昭和四二年分につき各店舗の延べ営業月数の約四二パーセント相当の月について証拠に基づき実額計算をしたが、その余は推計を用いており、出玉推計の方がより直接的な推計であるとしている。
所論は、昭和四二年分についても昭和四〇年、四一年分と同様の方法によるべきであると主張するが、検察官が「主張書」により予備的に主張した昭和四〇年、四一年分と同様の方法により算出した売上高約四億八四一一万円とこれから原判決認定(当審も同じ。)の売上原価約三億六八六六万円を差し引いた売上総利益約一億一五四五万円により売上利益率を算出すると約二三・八パーセント(小数点第二位四捨五入、以下同じ。)となり、当審認定により算出した四〇年分(売上高約三億六五一二万円、売上原価約二億六八八一万円)、四一年分(売上高約四億五四四九万円、売上原価約三億四一八一万円)の売上利益率約二六・四パーセント、約二四・八パーセントに比して低率となり、弁護人が主張する昭和四二年分の売上高約四億六〇一七万円とこれから原判決認定(弁護人の主張も同じ)の売上原価約三億六八六六万円を差し引いた売上総利益約九一五一万円により売上利益率を算出すると、約一九・九パーセントとなり、同じ弁護人主張の売上高による昭和四〇年、四一年分の利益率約二六・三パーセント、約二四・七パーセントに比して異常に低い比率となる。
ボーリングの進出などによりパチンコ業界の景気が昭和四〇年、四一年、四二年の一、二年間において多少の変動があったとしても、売上利益率が低下しないよう企業努力をしているものと思われるから、毎年売上高が伸びている(弁護人の主張によっても昭和四〇年分約三億六四八四万円余、昭和四一年分約四億五三八二万円余、昭和四二年分約四億六〇一七万円余である。)状況のもとで、売上利益率が右のように著しく低下したと考えるのは合理的ではない。
昭和四二年分の当座預金の入金状況は、営業日であるのに入金のない日があり、入金にもばらつきが多く、かつ、ラウンド数字での入金も多く、売上金であるか否かの判定も困難であり、これらを集計した月別の売上金についてもばらつきがあること、この期間に、被告人が経営する中山観光で新規パチンコ店を開業したり、株式会社サンギンを設立して新規事業に進出していること、六八〇〇万円の自宅を購入していることなどを併せ考慮すると、原判決が指摘するように売上金の発生、各店での集計、本店での集計、本店で保管、預金、出金という経路をたどる過程で、被告人の資金繰りその他の必要から他に流用された可能性も否定できず、銀行預金の入金額から推計する方法では被告人の協力が得られない状況のもとでは適正な売上高の推計は不可能と考えられる。
原判決は、四二年分の各店舗の延べ営業月数の約四二パーセント相当の月について証拠に基づき実額計算をしたが、各店舗の延べ営業月数の約四二パーセント相当の月について出玉率の直接証拠がなく、長岡店を除く四店の一月、二月分、延べ月数の約一六パーセントは出玉率、出玉金額ともに直接の証拠がなかったため、直接証拠のない出玉率、出玉金額は各店舗の直近の対応月の数値を採用している。店舗別に出玉率に平均値を用いたもの(九条店、石山店、今出川店)、出玉金額の一〇パーセントを差し引いたもの(今出川店、府庁前店、石山店)、一〇〇万円未満を切り捨てたもの(九条店)などは、被告人に有利な方向で、しかも合理的な疑いをさしはさむ余地を残さないための処置として是認できる。昭和四三年一、二、四、五月の出玉率、出玉金額の平均値や一〇パーセントを差し引いて処置した点も右と同様に理解すべきであり、合理性に欠けるとはいえない。
なお、李鉱在の証言は売上目標額をいっているのか売上額をいっているのか必ずしも明らかでないが、いずれにしても原判決の九条店の売上推計が右証言に見合うとする点も誤りとはいえない。そして、昭和四二年分の各月の売上金額と昭和四〇年、四一年のそれとの間に大きな差異も認められず、昭和四二年分の各月の売上金額の間にも季節的な差異と認められるほかはそれほど大きな隔たりがないことは、原判決の推計方法が合理的であることの証左でもあり、原判決が、昭和四二年分売上について(42-<1>)として説示するところは正当であって不合理・不自然とはいえず、論旨は理由がない。
二 経費についての事実誤認
1 給料・賞与について
(論旨)
給料・賞与は三三三九万五〇八七円(当審弁論において控訴趣意書で主張した三三二八万五三三〇円を増額した。)であるのに、これよりも四〇五万三六六二円少ない二九三四万一四二五円と認定した原判決は事実を誤認したものである(原判決が、昭和四一年分を基準に、昭和四一年分の同四〇年分に対する増額率により算出したのに対し、控訴趣意書では中山観光の平均給与額から推計すべしとしていたが、当審弁論において、当審でその存在の明らかになった一部の賃金台帳等に基づく推計を含む集計額を主張した。)。
(当裁判所の判断)
そこで検討するのに、当審において給与支払帳綴(弁第一七号)、同ボーナス資料(同第一八号)、同給与支給表(同第一九号)など賃金に関する資料の存在が明らかになった以上、これに従うのが正当であり、原判決の推計額は維持できない。そして、当審において弁護人が店長の給料・賞与計三一四万〇六〇〇円、一般従業員(七三・八人)の給料・賞与計二八六六万〇七三七円、賄婦(五人)の給料・賞与計一五九万三七五〇円(以上合計三三三九万五〇八七円)と主張するところは、その根拠とするところを含め、証拠に照らし正当であると考えられる。検察官の主張中には、右台帳中に食費が差し引かれているとしてこれを控除すべきであるとする点があるが、従業員の稼働日数と差し引かれた食費の金額等を勘案すると、昭和四〇年、四一年に支給していた副食費(賄費)の制度が廃止になったものとは認められないから、原判決が計上した賄費四八九万五〇四一円はこれを維持することとする。給料・賞与を二九三四万一四二五円と認定した原判決は事実を誤認したものであり、論旨は理由がある。
2 交際費について
(論旨)
大丸に対する支出合計六七万三七一〇円、南大門に対する支出六月五日分四万二五四〇円及び第一ゴルフ京都店に対する支出七月一一日分一二万八〇〇〇円(合計八四万四二五〇円)をいずれも必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、右各支出をそれぞれ事業と関連するものとは認められないとするが、四〇年、四一年のところで述べたとおり、事業との関連性を否定すべきいわれはない。さらに原判決は、南大門に対する支出は支払のために振り出した小切手(四万二五四〇円-六月五日小切手)が被告人の当座預金口座に入っており支出の存在が疑わしいとするが、代金を別途に支払っているかも知れず支出そのものがなかったとまで断定しうるものではない。
(当裁判所の判断)
南大門に対する支出の関係をどのようにみるかの問題はさておき、これら支出が事業との関連性を認めるに足りる証拠がないから、これら支出が事実と関連するものとは認められないとする原判決の判断は相当であり、論旨は理由がない。
3 消耗品費について
(論旨)
土田ムセンに対する一二月五日の二〇〇〇円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、土田ムセンに対する一二月五日の二〇〇〇円の支出は、支出のために振り出された小切手が交換取立されておらず、支出自体が認められないとするが、小切手を振り出した時点で債務負担行為はあったのである。四二年分申告時時効にかかっていないことはもとより権利放棄もないから経費として計上すべきである。
(当裁判所の判断)
そこで検討するのに、原判決挙示の検第一四二号の今出川店の領収書綴りには昭和四二年一二月六日付で土田ムセン発行の二〇〇〇円の領収書が存在し支払の事実が確認できる。しかも現金払分にも計上されていないから、消耗品費として計上すべきである。これを認めなかった原判決は事実を誤認したものである。論旨は理由がある。
4 会費について
(論旨)
第一初級学校(二〇万円)、科学者協会(二〇万円)に対する各支出を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、第一初級学校(二〇万円)、科学者協会(二〇万円)に対する各支出を事業と関連しないとしたが、これが事業と関連することは四〇年、四一年のところで述べたとおりである。なお、科学者協会に対する支出は、昭和四一年分では雑費として認められている。
(当裁判所の判断)
前示必要経費についての判断基準に照らし、第一初級学校に対する支出は寄付金的なものと認められ、事業と関連性のない支出と考えられるが、科学者協会に対する支出は大蔵事務官作成の調査てん末書(検第八九号)によると、所論のとおり昭和四一年には雑費として認めており(四〇五五丁)、原判決もこれを認容している関係で比較検討するのに、特段の違いは見出しがたいから、これを経費と認めるのが相当である。これを認めなかった原判決は事実を誤認したものである。論旨は右の限度で理由がある。
5 運賃について
(論旨)
丸新工業に対する八月二五日二万三四〇〇円を運賃と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、丸新工業に対するパチンコ機の運送賃二万三四〇〇円は減価償却資産の取得価額とするが、経費と認めるべきである。
(当裁判所の判断)
しかしながら、所論の点はパチンコ機械購入の付帯費用と認めるのが相当であって、取得価格に算入すべきものと認定した原判決は相当であり、論旨は理由がない。
6 雑費について
(論旨)
昭和四三年一月四日の支出の米代四三〇〇円を必要経費と認めなかった原判決は事実を誤認したものである。
すなわち、原判決は、昭和四三年一月四日の支出四三〇〇円(昭和四二年一二月三〇日振り出しの小切手決済金)は、調査てん末書(検第六三号)の摘要欄に「京都南公課」と記載されているから米代とは到底解しがたく、右支出が事業と関連するものとは目されないとするが、検三一号証の一の銀行帳控の本件該当部分である昭和四二年一二月三〇日の支出欄には、「京都南(許山今)」としか記載されていないから、右調査てん末書の摘要欄の「京都南公課」との記載は被告人側の書き込みではなく検察官側の方で書き込んだものと思われるうえ、何の公課であるかも定かでない。「京都南(許山今)」は京都駅南口の許が経営する米屋という意味である。
(当裁判所の判断)
しかしながら、これは検察官が雑費として計上し、原判決も雑費として認容していることが原審の訴訟経過により明らかである(検察官は、昭和五六年四月一日付立証趣旨補充書において、四二年分雑費につき、一当座勘定帳に記載があるもの、すなわち「資料Ⅳ」を集計したもの、二 銀行調査によるもの、三 現金払分の三者を集計して一八四万五六四〇円を計上した。そして一の「資料Ⅳ」においては右四三〇〇円は雑費とはされなかったが、二において計上されている-一五三四丁-。弁護人が検察官の主張に対する認否として京都南(許山今)公課と記載し、検察官がこれを雑費と認めていないものとしてこれに×印をし、検察官がこれを計上していないものと誤解して主張していたにすぎず、原判決もその説示のとおり公課とあることを根拠に雑費ではないとしたが、右は説示の誤りであり、実際は雑費に計上されているものである。)から、論旨は理由がない。
7 支払利息について
(論旨)
支払利息は三〇六七万五六八八円(当審弁論において控訴趣意書で主張した三一九八万六二七〇円を減額した。)であるのに、原判決が一八六七万五六八八円を認定したにとどまったのは、事実を誤認したものである。
(当裁判所の判断)
前記合意書面を含む当審における事実取調べの結果によれば、事業に関連する支払い利息は三〇六七万五六八八円と認めるのが相当であって、これを一八六七万五六八八円と認めた原判決は事実を誤認したものであり、論旨は理由がある。
第六控訴趣意中「不正行為」及びこれと逋脱税額との間の因果関係並びに逋脱の故意についての事実誤認等の主張について
(論旨)
逋脱犯が成立するためには、「不正行為」と逋脱税額との間に因果関係があることを要するところ、原判決は「不正行為」として、架空名義の預金への入金と、所得税確定申告書に給与所得、不動産所得、雑所得(以下、給与所得等という。)を記載しなかったこと、虚偽の所得税確定申告書を提出したことを挙げている。しかしながら、架空名義の預金は銀行側の要請で設定されたもので所得の隠匿とはなんらの関係もなく、それへの預金額は申告所得金額の計算上では算入済である。また、給与所得等は申告を忘却していたものであるから、本来「不正行為」に当たらないものである。原判決には、これらを「不正行為」と認めた点で事実の誤認がある。仮に架空名義預金への入金が「不正行為」に当たるとしても、当該入金は売上金の一部であり、これについての必要経費を差し引くとこれと因果関係があるものは些少にとどまる。原判決には右因果関係について事実の誤認がある。また、給与所得等は前記のとおり忘却していたものであって故意に隠そうとしたものではなく、原判決で認められなかった経費についても経費に当たると考えていたものであって逋脱の故意はなかったから、申告義務があると認めた所得額と現実の申告額との差額全額につき逋脱の故意を認めた原判決は、所得税法二三八条一項の解釈適用を誤り、事実を誤認したものである。
(当裁判所の判断)
申告所得金額の計算上架空名義の預金に入金した売上金がその計算基礎に算入されているかをみるのに、押収された銀行帳には被告人の本名ないし日本名以外の名義の預金口座の記載がなく、「新川正克」、「河原茂」、「笠岡良夫」その他の別名の定期積金などは簿外になっていたことが認められる。そして、原判決挙示の被告人の供述書や被告人の原審供述によると、被告人は銀行帳等の帳面とその集計資料だけで申告したもので、これら簿外預金は申告時の計算には算入しておらず、調査時に開示したものと認められる。
そして、原判決挙示の被告人の供述書や被告人の原審供述によると、当時被告人はパチンコ店五店を経営する事業を営んでいたのに、帳簿の記載は杜撰で売上金額のかなりの部分を架空名義の預金に入金するなどする一方、所得申告に当たっては、前記認定のとおり、これら簿外預金を除外して被告人の加入している洛南納税貯蓄組合の事務員と相談し、同業者と比較検討のうえ、所得税確定申告書を作成してもらって署名押印したというものであり、右各所得税の確定申告書謄本によると、昭和四〇年分(検第一三四号)には、営業種目、営業所得の生ずる場所、営業の所得金額、配偶者控除、扶養控除、基礎控除(不動文字)、課税される所得金額、これに対する税額、申告納税額を記載したのみで、営業については、営業の収入金額、営業の必要経費の記載がなく、昭和四一年分(検第九八号)には、営業の専従者控除、営業の所得金額、不動産(土地)の収入金額、同所得金額、給与の収入金額、給与所得控除額、給与の所得金額、生命保険料控除、扶養控除、基礎控除(不動文字)、課税される所得金額、これに対する税額、申告納税額を記載したのみで、営業については、営業種目、営業所得の生ずる場所、営業の収入金額、営業の必要経費、給与については、給与の種目、給与の支払者の記載がなく、昭和四二年分(検第一一〇号)には、営業の専従者控除、営業の所得金額、給与の収入金額、給与所得控除額、給与の所得金額、生命保険料控除、扶養控除、基礎控除(不動文字)、課税される所得金額、これに対する税額、申告納税額を記載したのみで、営業については、営業種目、営業所得の生ずる場所、営業の収入金額、営業の必要経費、給与については、給与の種目、給与の支払者の記載がないことや、大蔵事務官から各年分の申告所得金額は正しい申告かと聞かれ、各支店から現金とともに上がってくる支配人からの報告書は、現金を確かめたらすぐ破棄するので、個人帳簿はつけていないが、貯蓄組合とも相談して決めたもので妥当な申告だと信じている旨答えるにとどまっていることからも明らかなように、被告人は十全な資料に基づき各科目を検討集計したこともなく、したがって、申告が真実に合致しているとの意識などはなく、適当に内輪な所得金額を申告したにすぎないと認められるから、虚偽過少申告の故意のあることは明らかである。なお、架空名義の預金への入金が申告時開示されていなかったことは上記のとおりであるから、同預金設定の経緯のいかんにかかわらず、被告人がこれを逋脱の手段として利用する意図をもっていたものとみることができる。給与所得等について申告の忘却をいう点は容易に首肯しがたく、経費等個々の勘定科目について見解の相違をいい、逋脱の故意はなかったとする点も、申告時そのような検討を経たものとは到底認められないうえ、年間の所得を構成する科目を切り離して独立に評価すべきものではなく、年間の所得として全体的に評価すべきものであるから左袒しがたい。そして、真実の所得を秘匿し所得金額をことさら過少に記載した所得税確定申告書を税務署長に提出する行為は、それ自体所得税法二三八条一項の「不正行為」に当たるから、右「不正行為」と無関係な特段の事情に起因する部分が認められない限り、申告した税額と正当な税額との差額全部と右「不正行為」との間に因果関係があるものというべきである。そして、本件においては右のような特段の事情も認められないから、申告税額と正当な税額との差額全部について逋脱犯が成立するものである。個々の勘定科目についての原判決の認定に事実の誤認があったことは前記第三ないし第五のとおりであるが、当裁判所が是認できるとした原判決認定の右差額については、因果関係及び逋脱の故意等について事実誤認等をいう本論旨はすべて理由がない。
第七結論及び自判
以上のとおり、原判決は、昭和四〇年分の総所得金額が一〇一三万二五〇五円であるのに三三〇四万八五一三円、所得税額が三九五万三〇〇〇円であるのに一七二八万九九〇〇円であるとし、昭和四一年分の総所得金額が一五四四万二〇八三円であるのに五〇八四万九八一九円、所得税額が六八〇万一八二〇円であるのに二九〇七万七六〇〇円であるとし、昭和四二年分の総所得金額が二〇七五万七九二六円であるのに三七〇一万三五八八円、所得税額が九六八万九四〇〇円であるのに一九七六万五二〇〇円であるとしたものであって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわざるをえないから、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を全部破棄し、同法四〇〇条但書により当審において更に判決することとする。
(罪となるべき事実)
被告人は、京都市南区西九条比永城町三五番地の一所在のパチンコ店「パラダイス」内に本部事務所を置き、京都市内等においてパチンコ店五店を経営し、その業務一切を統括掌理していたものであるが、自己の所得税を免れようと企て、
第一 昭和四〇年分の総所得金額は、事業所得、給与所得、不動産所得及び雑所得を合わせて一〇一三万二五〇五円(課税総所得金額九六一万〇五六五円)で、これに対する所得税額は三九五万三〇〇〇円であったにもかかわらず、銀行預金の一部に架空名義を使用し、右営業による売上金の一部を右架空名義の預金に入金し、給与所得、不動産所得及び雑所得については所得税確定申告書にその所得額を記載しないなどの不正の方法を用いて所得を秘匿したうえ、昭和四一年三月一五日京都市下京区間之町通五条下る下京税務署において、同税務署長に対し、昭和四〇年分の総所得は事業所得のみからなり、その金額は四三八万一五〇〇円で、これに対する所得税額は一一九万九六〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、そのまま法定期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額と右申告税額との差額二七五万三四〇〇円を免れ、
第二 昭和四一年分の総所得金額は、事業所得、給与所得、不動産所得及び雑所得を合わせて一五四四万二〇八三円(課税総所得金額一四九三万五八四三円)で、これに対する所得税額は六八〇万一八二〇円であったにもかかわらず、前同様売上金の一部を右架空名義の預金に入金し、雑所得については所得税確定申告書にその所得額を記載しないなどの不正の方法を用いて所得を秘匿したうえ、昭和四二年三月一五日前記下京税務署において、同税務署長に対し、昭和四一年分の総所得は事業所得、給与所得及び不動産所得からなり、その金額は七〇四万六三六二円で、これに対する所得税額は二三六万六〇七〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、そのまま法定期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額と右申告税額との差額四四三万五七五〇円を免れ、
第三 昭和四二年分の総所得金額は、事業所得、給与所得及び雑所得を合わせて二〇七五万七九二六円(課税総所得金額二〇二〇万一〇二六円)で、これに対する所得税額は九六八万九四〇〇円であったにもかかわらず、前同様売上金の一部を右架空名義の預金に入金し、給与所得についてはその一部を、雑所得についてはその全部を所得税確定申告書に記載しないなどの不正の方法を用いて所得を秘匿したうえ、昭和四三年三月一四日前記下京税務署において、同税務署長に対し、昭和四二年分の総所得は事業所得及び給与所得からなり、その金額は五二八万七四六一円で、これに対する所得税額は一五〇万七二〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、そのまま法定期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額と右申告税額との差額八一八万二二〇〇円を免れ
たものである。
(証拠の標目)
物証についても証拠等関係カードの番号で表示し、押収番号は挙示しない。
判示事実全部について
一 当審第一九回公判調書中被告人の供述部分
一 被告人作成の供述書(当審弁第三四号)
「40-<1>売上」(昭和四〇年分売上の意で、別表の昭和四〇年分修正損益計算書<1>「売上」科目であることを上記のように記載する。以下この例による。)「40-<21>支払利息」「41-<1>売上」「41-<21>支払利息」「42-<21>支払利息」について
一 当審公判調書中証人兪奉植(第一二回)、同鄭末祚(第一一及び一三回)、同李柄教(第一三及び一四回)、同金鳳永(第一五回)、同朴再洪(第一五回)、同王利鎬(第一六回)の各供述部分
一 京都地方裁判所昭和五五年(わ)第三三三号事件における証人中山政夫こと金奇権(本件被告人)に対する証人尋問調書及び同事件被告人王利鎬に対する質問調書(被告人)供述調書各写
一 押収してある小切手帳控一二冊(四一・八~四三・二、当審弁第二〇号)、同一二冊(四二・三~四二・一二、四三・二、同第二一号)、同一八冊(四〇・九~四二・三、同第二二号)、同八冊(三九・四~四一・八、同第二三号)、同三冊四三・一~四三・三、同第二四号)、吉野孝作成のメモ(同第二五号)、手形帳控六冊(同第三〇号)
一 国税査察官稲田登作成の査察官報告書(同第三一号)
一 検察官及び弁護人作成の合意書面(当審検第二号、同弁第三五号)
「42-<5>給料賞与」について
一 押収してある給与支払帳綴(同第一七号)、同ボーナス資料(同第一八号)、同給与支給表(同第一九号)のほかは原判決の「(証拠の標目)」欄に記載のとおりであるからこれを引用する(同所における事実及び証拠の記載方法は当審のそれと一致する。別表は本判決添付のものを指すものと読み替える。)。
(法令の適用)
被告人の判示各所為は、いずれも行為時においては昭和五六年法律第五四号による改正前の所得税法二三八条一項に、裁判時においては右改正後の所得税法二三八条一項に該当するところ、右は犯罪後の法律により刑の変更があったときに当たるから、刑法六条、一〇条によりいずれも軽い行為時法の刑によることとし、いずれも情状により所定の懲役及び罰金を併科することとし、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、懲役刑については同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示第三の罪の刑に法定の加重をし、罰金刑については同法四八条二項により各所定の罰金額を合算し、右刑期及び罰金額の範囲内で被告人を懲役四月及び罰金四〇〇万円に処し、右罰金を完納することができないときは同法一八条により金五万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から一年間右懲役刑の執行を猶予することとし、原審及び当審における訴訟費用については刑訴法一八一条一項本文により主文掲記のとおりその一部を被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 重富純和 裁判官 川上美明 裁判官 安廣文夫)
別表1
修正損益計算書
自 昭和40年1月1日
至 昭和40年12月31日
<省略>
別表2
修正損益計算書
自 昭和41年1月1日
至 昭和41年12月31日
<省略>
別表3
修正損益計算書
自 昭和42年1月1日
至 昭和42年12月31日
<省略>
別表4
税額計算書
<省略>
(注)逋脱税額は認定額による税額から申告税額を控除した金額である。
控訴趣意書
所得税法違反
被告人 金奇権
昭和六一年三月三一日
弁護人 北尻得五郎
弁護士 桂充弘
弁護士 中川宏
弁護士 柴田茲行
大阪高等裁判所第二刑事部 御中
目次
第一章 はじめに・・・・・・
第二章 原判決が公訴棄却及び免訴の申立てを排斥したのは、判決に影響を及ぼすことが・・・・・・
明らかな訴訟手続きの法令違反及び法令適用の誤りがある。
一、訴因の明示、特定義務違反の主張を排斥した原判決の違法性・・・・・・
二、迅速裁判違反の主張を排斥した違法性・・・・・・
三、公平な裁判所による判決とはいえない旨の主張を排斥した原判決の違法性・・・・・・
四、公訴権濫用の主張を排斥した違法性・・・・・・
第三章 「偽りその他不正の行為」論・・・・・・
一、はじめに・・・・・・
二、租税逋脱犯の本質と構造・・・・・・
三、原判決には理由不備の違法がある・・・・・・
四、原判決は重大な事実誤認を犯している・・・・・・
五、「不正の行為」と犯罪成立の範囲・・・・・・
―原判決は不当に犯罪成立の範囲を拡大している・・・・・・
第四章 被告人は逋脱の故意を欠いている・・・・・・
第一、原判決の誤り・・・・・・
第二、逋脱の故意不存在について・・・・・・
第五章 原判決の事実認定の基本的欠陥・・・・・・
一、原判決は仮説を事実にすりかえている・・・・・・
二、秘匿した所得は一体どこに存在するというのかについての認定・説明は一切ない・・・・・・
三、被告人の資産状況を無視している・・・・・・
四、借入方法について誤解している・・・・・・
第六章 昭和四〇年度分の所得について・・・・・・
第一、売上金・・・・・・
第二、経費・・・・・・
第六章 昭和四一年度分の所得について・・・・・・
第一、売上金・・・・・・
第二、経費・・・・・・
第六章 昭和四二年度分の所得について・・・・・・
第一、売上の認定について・・・・・・
第二、経費・・・・・・
第一章 はじめに
一、今日の税法関係法規は政策的・技術的要素による不明確さ及びひんぱんな改正により、極めて複雑化しており、脱税犯の基礎となる納税義務の存在範囲についての正確な認識をきわめて困難にしている。
具体的な納税義務の内容の認識は複雑な税法や関連法規そして会計原則等の正確な理解が必要であるが、それは法律事務専門家は勿論のこと、会計の専門家においてすら、決して容易なことではないのである。
ことに会計資料の完備を要しない白色の申告書にとつてはなおらさである。
事業所得捕捉率が給与所得での捕捉率を下回つていることは最高裁も認めるところであるが(昭和六一年三月二七日 サラリーマン税金訴訟上告審判決)、右捕捉率の低さの一因は所得税法法規が極めて複雑であることもその大きな原因となつているところである。
右のような複雑さが前提にある以上、どのような場合に逋脱犯の故意を認めるかについては極めて慎重に対応しなければならないはずである。
控訴裁判所におかれては、安易な故意の認定は責任主義の原則に反し、被告人の基本的人権を侵すことをまず肝に命じておかれたい。
二、租税逋脱犯の適用については直接税と間接税とにおいてその適用解釈を異にしている。詐欺その他不正の行為の評価については、直接税においては取引行為の態様は種々雑多である。契約自由の原則を前提としてその取引行為についての税法上の会計評価をなされねばならない。
これは間接税の場合、納税者は課税対象を利用するものであつて、提供者は利用者より受け取つた税額相当を課税者に納税する受任事務を行うものであるのとその性質は基本的に異なる。
従つて間接税の場合、この逋脱は業務上横領罪に相当するものであつて、逋脱犯構成要件の「偽りその他不正の行為」はその評価の前提を異にしていることをはつきりしておくべきである。一部地方税について法定刑を軽くしている例もあるくらいである。
この様に直接税の逋脱容疑については先づ前提となる個々の取引、計算事象についてはその当事者の自由意思を最大限に尊重して取引行為の関係者、経理の評価を確定されなければならない。評価の結果が納税者に有利になつても当然のことでその取引行為そのものが課税対象評価にするには特別の立法を要するのである。
敗戦前までの直接税の逋脱犯の立件は殆ど皆無であつた。
立件告発するにしても大蔵省に稟議裁可を要したことでもこの解釈が裏付けられる。
間接税については税務職員が直接強制捜査できる処分法の特別法があつたことによつてもうなづけるものと考える。
三、本件訴訟は税務署に協力的でなかつたとの一事をとらえて、むりやり起訴した一面が存する。
起訴後の強制捜査や再度の身柄勾留を見ても右事実は明らかである。
さらに原判決は逋脱犯の故意と適正税額の算定は個別の問題であるにもかかわらず適正税額と申告税額との差額が逋脱犯の範囲であるとするなど、責任主義の逸脱はじつにはなはだしい。
いわゆるサラリーマン控訴の最高裁判決で納税者の多くが所得税法どおりに納税しえていないことを最高裁も認めているところである。
専門家ですら理解困難な所得税法の複雑怪奇な内容について、素人である被告人がどのように理解し、行動できるというのであろうか。
原判決の適示した内容に従えば裁判官・検事をも含めた一億総逋脱犯となりかねない危険をはらんでおり、右判決を前提とすれば税務署や検察庁の恣意的な摘発を受け、著しい人権侵害を起こし、国家の存立そのものを危うくするおそれのあることを充分注意されつつ本件控訴審における慎重審理を切に希望するところである。
第二章 原判決が控訴棄却及び免訴の申立て排斥したのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな控訴手続の法令違反及び法令適用の誤まりがある。
一、訴因の明示、特定義務違反の主張を排斥した原判決の違法性。
(一) 原判決は、弁護人の本件各公訴事実は刑事訴訟法二五六条三項の訴因の明示、特定義務に反しているから、公訴を棄却すべきことであるとの主張に対し、昭和五一年一一月三〇日の、第四〇回公判期日における「裁判書の見解表明」に示した理由を援用するだけで、最終訴因に至るまで、所得税法二三八条一項の構成要件に該当する具体的事実の記載がなく、訴因の明示、特定に欠ける点はないとして、弁護人の主張を排訴した。
(二) 本件公訴は、昭和四四年三月一二日付け及び同年九月一二日付各起訴状記載の訴因(原始訴因)をもつて始つた。
右原始訴因は、八年後の昭和五二年九月三〇日付訴因変更請求書により変更され、更に原始訴因から一二年後の昭和五六年一〇月六日付訴因変更請求書により変更された。
本件の如く、最終的には起訴後一二年経つて、更に訴因の変更をせざるをえなかつたという、訴因変更の特異な公判経過自体、「裁判所に対する関係では審判の範囲を明確にし、被告人に対する関係では、防禦の範囲を明確にするに足りるものでなければならない」(前記「裁判所の見解」参照(とする原審の見解にすら明白に違背するものである。
本件各訴因が、所得税法二三八条一項の構成要件に該当する具体的事実の記載を欠き、違法であることは、弁護人の昭和四四年一〇月四日付公訴棄却申立書、同五一年九月一四日付公訴棄却申立書各記載の内容及び弁護人において、原審公判期日に書面及び口頭をもつて陳述した訴因に関する意見をすべて、援用する。
原審は、訴因は、「ほ脱所得税額と因果関係をもつ不正行為の具体的内容を明示することを要」するといいながら、(前記「裁判所の見解」)、原判決の「罪となるべき事実」の記載においては、「銀行預金の一部に架空名義を使用し、………などの不正の方法を用いて………」と記載するだけで、「ほ脱所得税額と因果関係をもつ不正行為の具体的内容を明示」していない。
訴因について、自ら明示義務のあるものと説示した記載要件を、自らの手で破つているのである。
右のとおり原判決は訴因制度の趣旨を没却して、所得税法二三八条一項の構成要件の解釈、適用を誤り、ひいては、刑事訴訟法二五六条三項の起因の明示、特定義務に違反する訴因の違法性を看過したものであり、刑訴法三三八条四号に違反する。
二、迅速裁判違反の主張を排斥した違法性。
(一) 原判決は、弁護人が、本件は公訴提起後一六年近く経過した異常な長期裁判であり、審理遅延の原因は、検察官が杜撰な起訴をしたことにあり、本件裁判は憲法三七条一項に違反するから、公訴棄却もしくは免訴の判決をすべき旨の主張するが理由がないとして弁護人の主張を排斥した。
その理由の趣旨は、<1>本件は微細な計数を積み重ねる所得税法違反事件で被告人が公訴事実を前面的に争い、争点が多岐に亘り、証拠も相当多数を必要としたことからある程度の審理期間を要する事案である。<2>審理期間が長期化した最大理由は、弁護人側から必ずしも有用とは言い難い訴因等をめぐる求釈明の執拗な繰り返しがなされ(たゞ検察管側の対応にも問題がなかつたとはいえない。)審理の遅延につき、被告人、弁護認人側にも相当の帰責自由が存する。<3>本件では長期に亘る審理の中断がない、などである。
(二) 原判決の右判示は、裁判所と検察官の審理遅延の責任を、弁護人に転嫁するものであつて違法である。
第一点については、一般論として一応首肯しうる理由であるが、本件審理においては、いわゆる実質審理にそれ程長期間に要したわけではない。しかしながらその実質審理においても検察官の主張立証の準備不充分のため、審理期間がいたずらに延びたことはあつても、弁護人に、何らの帰責事由が存在しないことは、記録上明白である。
弁護人は、争点整理もなされないまゝ、いたずらに証拠長期日を重ねる裁判所と検察官の審理の進め方に対し、審理の途中、公判基準手続実施の起案をなし、その結果審理が促進した事実がある。
本件について、いわゆる実質審議期間に相当期間を要した責任は、裁判所の公訴指揮権行使の在り方と、検察官の杜撰な公訴提起並びにその維持の仕方にあつたといわねばならない。
第二点の理由こそ最も問題であり、裁判所見解の無責任さを示すものはない。
もともと本件は、租税ほ脱事件として起訴すべき事件でないのに拘らず、政治的弾圧の意図でなされた、権力による弾圧事件である。
検察官が見込みによるずさんな捜査をし、ずさんな訴因によつて起訴をなし、このため公訴の維持に不当に長期間を要したことは、裁判経過をみれば明々白々である。
ずさんな訴因の記載をめぐつて、四〇回以上の公判期日を必要とし、起訴後一二年を経てなお訴因変更を余儀なくされた主たる責任は、検察官にある。
「必ずしも有用とは言い難い訴因等をめぐる求釈明の執拗な繰り返し」があつたという原判決の理由からすれば、原審は、弁護人の不当な弁護権の行使を認める、違法、不当な公訴指揮を、八年余りにわたつて行つてきたということにならざるをえない。
弁護人が訴因に関する攻撃を、長年に亘つてせざるをえなかつたのは、訴因がずさんであつて、その明示、特定に欠けており、検察官において、弁護人の追求に対し、まともに対応しえなかったからにほかならない。
その弁護人の訴因に関する弁護権の行使を、原審は相当と認めたからこそ、容認してきたのではなかつたか。
弁護人に相当の帰責事由が存するなどとは、まさしく、検察官と裁判所の責任を弁護人に転嫁する以外のなにものでもない。
第三点の理由も又不当である。審理の長期に亘る中断がなかつたことはもとより理由にならない。
なお裁判官の交代による更新手続に、相当回数の公判期日を費したことは、裁判所の責任に帰属することであり、弁護人がその責を負う筋ではもとよりない。
本件は、いわゆる高田事件判決にいう審理の著しい遅延により、憲法の定める迅速な裁判の、保障条項に反する異常な事態が生じているものと解すべきであり、原判決の判断はあきらかに誤りであり、刑訴法三三七条に違反する。
三、公平な裁判所による裁判とはいえない旨の主張を排斥した原判決の違法性。
(一) 原判決は、弁護人が、かつて本件裁判の審理を担当していた吉田治正裁判官らには忌避理由が存しており、本件裁判は憲法三七条一項に言う公平な裁判所による公平な裁判とはいえないから公訴を棄却すべき旨主張するが、弁護人のいう吉田裁判官らについての忌避理由は、吉田治正裁判長の期日指定、訴訟指揮に対する不服を主張するものであつて、かゝる事由は忌避理由にならず、弁護人の主張はその前提を欠くものであるとして、これを排斥した。
(二) しかしながら、本件の裁判は、その重要な審理段階において、違法な公判期日の長期一括指定と、弁護人の弁護権行使を極度に制約する強権的訴訟指揮のもとに行われるなど、憲法三七条の保障条理に反する異常な事態に立ち至つた場合に該当する事由が存する。
忌避理由の存在理由については、公判廷での陳述並びに即時抗告の理由中で述べたとおりであるが、弁護人はたんに忌避理由の存在する裁判官によつてなされた裁判であるとの事由だけで、公平な裁判所の裁判を受ける被告人の権利が侵害されたと主張しているだけではない。
本件の場合、忌避理由の存否にかゝわらず、憲法三七条一項の保障する公平な裁判所による裁判の保障条項の趣旨に反する異常な事態に立ち至つた場合に該当するから、憲法の右条項に反すると主張しているのである。
原判決が、弁護人の主張を、忌避理由を欠くとの理由だけで排斥したのは、理由不備且つ、的はずれであり、憲法三七条の解釈適用を誤つた違法があるといわねばならない。
四、公訴権濫用の主張を排斥した違法性。
(一) 原判決は、弁護人が、本件は憲法三一条に違背する公訴権濫用の違法な公訴提起であるから公訴棄却されるべきである旨主張するが、関係証拠に照しても、本件捜査及び公訴提起が被告人が在日朝鮮人であることなどを理由に差別、弾圧する目的でなされたものとは到底認められないうえ、本件捜索、差押の執行及び被告人の逮捕はいずれも合理的な嫌疑に基づき、裁判官により適法に発付された令状によつてなされたものであるから、弁護人の主張は採用できないとしてこれを排斥した。
(二) 原判決の右判示は、公訴権濫用の法理の適用を誤り、且つ事実を誤認したものである。
<1> 本件は租税ほ脱事件そのもののでっちあげであるに止まらず、本件捜査及び公訴提起の目的が被告人が在日朝鮮人であり、かつ在日朝鮮人京都府商工会の幹部であるため、その所属組織と被告人を差別し弾圧する政治的目的でなされたものであることは、弁護人が原審で終始一貫主張し且つ、立証してきたところである。
その詳細は、原審弁護要旨中「在日本朝鮮人京都府商工会の組織と被告人に対する弾圧」(弁論要旨一〇頁ないし一六頁)「公訴権濫用論」(同三一頁ないし三三頁)において述べたとおりであるからこれを援用する。
なお、この点について洪仁卓証人は本件捜査と訴追に、弁護人主張の政治的差別と弾圧目的が存在したことについて、具体的且つ詳細に証言しており弁護人の主張は充分立証されている(第八〇回公判調書洪仁卓証言記録二丁ないし一九丁)。
しかるに原判決が、証拠を無視して、本件訴追の違法な目的の存在を認めなかったことは、重大な事実誤認であつて、違法である。
<2> 原判決は、本件捜索、差押の執行及び被告人逮捕は、合理的嫌疑による適法な令状によつてなされたというがこの点についても、弁護人が原審で主張してきたとおり、典型的強制捜査権の濫用であり憲法三一条に違背するものである(原審弁論要旨「公訴権濫用論」三三頁~三四頁、同一六頁ないし二六頁)。
原判決は、弁護人が、本件捜査は、その弾圧目的のため、合理的理由も必要性もないのに、大量の捜査官を動員し、不必要な捜索、押収を二度にわたつて行い、且つ公判継続中に必要もないのに被告人を逮捕したものであり、捜査権限を濫用する暴挙であると主張したのに対し、実質的理由を示すことなく、たゞ令状に基づくというだけで排斥したのは理由不備・事実誤認の違法があるというべきである。
以上
原判決は所得税法二三八条一項の解釈適用を誤まり、かつ、事実誤認を犯しているもので、右誤まりは判決に影響を及ぼすことが明らかである。
第三章 「偽りその他不正の行為」論
一、はじめに
所得税逋脱犯に於いて最も需要で眼目をなすのは、弁護人が原審に於てくり返し何度も強調してきたとおり、「偽りその他不正の行為」である。
右行為によつて税を免れることが犯罪なのであり、右行為の伴わない過少申告行為は犯罪でない。したがつて、右「偽りその他不正の行為」についての解釈、認定が所得税逋脱犯の成否をわけるものであるが、原判決はこの点についてきわめてあいまい、かつ不正確な解釈判断を下しているのであり、原判決の最大の欠陥をなしている。
原判決は所得税法二三八条一項の「偽りその他不正の行為」として、昭和四〇年、四一年4、四二年三年分ともほぼ共通に、
<1> 銀行預金の一部に架空名義を使用し、右営業による売上金の一部を右架空名義の預金に入金したこと。
<2> 所得税確定申告書に給与所得、不動産所得、雑所得の全部あるいは一部を記載しなかったこと。
<3> 虚偽の確定申告書を提出したこと。
を挙げている。
被告人は、右不正の行為により、昭和四〇年分は一六〇九万〇三〇〇円の税を、昭和四一年分は二六七一万一五三〇円の税を、昭和四二年分は一八二五万八〇〇〇円の税をそれぞれ免れたというのが原判決の判示である。
しかしながら、原判決のこの判示だけでは被告人が何故有罪なのかが明らかではない。すなわち、架空名義の預金と原判決はいつているが、具体的には一体どの預金を指すのか。また、被告人に架空名義の預金があつたとして、どうしてそれに入金することが「不正の行為」になるのか等について原判決は何も述べていない。しかし、右の点に対する明確かつ具体的な理由説明がなければ、被告人自身が何故有罪とされたのかを納得することはできず、したがつて、原判決は有罪の理由を何も述べていない、と言わざるをえない。原判決には明らかに理由不備の違法があるのである。その他原判決は故意の問題や犯罪成立の範囲の問題等について重大な誤まりを犯しているが、これらは根本的に言えば、所得税法二三八条一項の解釈を誤まり、所得税逋脱犯の本質と構造について誤まつた理解を有しているところから招来されているものである。
二、租税逋脱犯の本質と構造
1. 「国庫説」と「責任説」
所得税法二三八条一項は、「偽りその他不正の行為」により所得税を免れる行為を処罰の対象としている。過少申告行為自体は同条の対象外である。そのことは、最高大法廷判例(昭和四二・一一・八判時四九九-二二)が、旧物品税法にいう「詐欺その他不正の行為」についてであったが、次のように判示したことが明白である。すなわち、「………所得税、物品税の逋脱罪の構成要件である詐欺その他の行為とは、逋脱の意図をもつて、その手段として税の賦課徴収を不能もしくは著るしく困難ならしめるようななんらかの偽計その他の工作を行うことをいうものと解するのを相当とする。」
しかし、果して具体的にどの様な行為が右の意味の不正行為にあたるかは、右最高裁判決をもつてしては未だに十分に解明されているとはいえず、したがつて依然として、「偽りその他不正の行為」の概念をめぐって論争が続けられているのが、その背景には「租税逋脱犯の本質をめぐる「国庫説」と「責任説」論理的相違があると言われている(松沢・井上著「租税実態法と処罰法」四一頁)。
「『国庫説』とは、租税処罰法の基本的考え方において、旧憲法時の賦課々税制度に由来し、逋脱犯は国家に対する詐欺として、国庫に加えられた金銭的損害の賠償という思想を前提とした専ら国家財政収入のための担保的機能として租税刑罰を考えるというもの」であり、「『責任説』とは、敗戦後新しく制定され、国民主権主義の税制面における優れた表明としての申告納税制度の確立を前提として、国家という国民全体の利益を享受するための共同社会を維持するに要する共通の費用を各自において、分担すべき責任があるのに、これを故意に回避して他のものに不当負担させようとする犯意のある者に対し社会的責任を追求しようとするのが租税処罰法の法理である。したがつて、行為者の主観的要素を重視し、申告納税制度を破壊し、国民の納税倫理を失わせる行為に対する倫理的非難としての罪悪性、反社会性を処罰するという意味での租税刑事法の責任刑法化を実現しようとする考え方である」と説かれる(前掲書七~八頁)。
「国庫説」の立場によれば、犯罪成立の問題につき、「逋脱額が申告額を上回るとの認識さえあれば足り、所得は不可分であるから、その一部の認識があれば、故意はすべてに及び、逋脱額がいくらであるかは、大よその認識があればよく、………また、損益計算における個々の勘定科目ごとの犯罪の成否を論ずる要はない」ということになる(前項)。
この様な「国税説」の立場に基づく公訴提起がつい最近までの実情であつたのであり「これに対し、否認して主張する被告人に対しては、『国庫説』は、これが租税刑事法の特色であるとか、租税犯罪の特質を理解しない一般刑法的思考である等と嘲笑して、長い間、“過失”も処罰してきた。これはまさに、“暗黒時代”であるといつても差支えない。」と批判されている(前掲書一四頁)。租税犯に対する裁判をめぐる状況を「暗黒時代」とまで極言し批判している右著書の著者が、ひとりは元東京地裁の裁判官、ひとりは現職の裁判官であることを考えると、「国庫説」の立場からする租税逋脱犯の理解が近代刑法の責任主義の原則からいつていかに重大深刻な誤まりを犯しているかが一層わかろうというものである。
2. 「責任説」の立場に明確にたたなければならない。
現行憲法は、主権が国民にあることを宣言し確立している。主権者である国民は、選挙によつて、自らの代表を国会に送り、租税に関する法律を制定する。国政に関する費用は、その税法に従つて税金という形で国民が公平に負担し納税するわけである。ところで、国民が国の主人公であるならば、ひとりひとりの納める税金は、上から権力的に賦課決定されるべきものでなく、国民自らが自覚的自主的に計算し申告することが国民主権主義の立場から要請されてくる。これが申告納税制度である。
申告納税制度のもとでは、納付すべき税額は納税者の申告により確定することが原則である。自主申告した税額が税務署長の調査したところと異なる等のときは、税務署長が税額を更正することができ、その場合はこの更正処分により納付すべき税額が確定する(国税通則法第一六条、第二四条)。
右に述べた様に、申告納税制度のもとでは納税者の確定申告によつて、税額が確定するのが原則であるから、この自主申告額が最大限尊重さなければならないのはいうまでもない。税務署長の更正決定はそれ相応の合理的理由の存する例外的場合に限るのである。
ところで、確定申告後、税務署の調査をうけ、更正決定され、それが確定する例はざらにある。むしろ、どの納税者も何年に一つぺんかは右のことを経験しているといってもけっして過言ではない。ことの善し悪しの評価は別にして、更正決定は常態化しているのが実態である。
更正決定が確定した場合、はじめの申告行為は虚偽申告かあるいは過少申告であつたと評価せざるを得ないわけであるから、虚偽申告、過少申告もまた常態化していると言わざるをえないのである。しかし、これら虚偽申告、過少申告は未だ犯罪として処罰されることなく、右に述べた様に、更正決定という行政手続きの中で是正され、そしてそれですんでしまつているものである。
刑事制裁の対象となる行為は、あまたある虚偽申告、過少申告の中でも、刑事制裁によつて抑止しなければならないだけの高度の違法性を有し社会的非難に価する行為でなければならない。「そうしなければ、制裁の公平・公正に対する疑惑をまねき、『弱い者いじめ』の不満をつよめることにもなる。それでは租税道義を向上するとには役立たない。多くの市民が脱税あるいはそれに近接した行為をしているのであるから、刑事制裁の対象とされた行為がそれにあたいするだけの社会的逸脱した悪質な行為であることが納得されなければならないのである」(板倉宏著「租税犯に対する刑事制裁の機能と限界」判例タイムス二〇五号 二七頁(編注:原文ママ 「判例タイムズ」と思われる))
現行所得税法ではそれは「偽りその他不正の行為」により所得税を免れる行為と規定しているのであるが、そのような不正行為を用いた脱税は「国家財政の基盤を侵蝕する行為であるにとどまらず、担税力に応じて公平に納税義務を負う国民のもつ租税均衡負担の利益を侵害する反社会的な行為であるといわねばならない」(東京高判昭五六・七・一三判例タイムス四四七号一四八頁(編注:原文ママ 「判例タイムズ」と思われる))のであつて、それゆえに刑事制裁の対象とされているのである。
所得税法二三八条一項は、まさに右に述べたような観点から厳格に解釈し運用されなければならない。右法条は、行為者が自ら申告し納付しなければならない税額があることを認識しながら、あえて「偽りその他不正の行為」により、その税額を免れたところに規範違反の責任を問うものである。したがつて、逋脱所得算定の根拠となる実際所得金額とは、行為者の認識した金額をいい、客観的な真実の金額とは必ずしも範囲を同じくしない。行為者において納税義務がないと確信していた勘定科目の部分については犯意がないことになるから逋脱額の計算から控除されなければならない。脱税額は実行行為たる偽りその他不平の行為と因果関係を有し、かつ故意のある部分に限られることとなる。
この様な解釈は、責任主義とか刑罰法規厳格解釈の原則といつた刑法の基本原則を適用すれば当然のことである。逋脱犯に対する刑罰は「国庫に加えられた金銭的損害の賠償」を実質とする考え方から、刑法の基本原則を大巾に制限して当然という国庫説による“暗黒時代”は終焉せしめられねばならない。板倉宏教授は前掲論文で次のように述べている。「租税犯は、刑罰を科すべき性質の行為であるとし、それに懲役や刑法犯の罰金とは比較にならない程の高額の罰金や、両者の併科といつた刑罰を科すのに、行政的合目的性の原理を優越させ、刑法的保障原則を後退させるような考え方は民主的法治国家の人権保障原則に反する。租税法規は複雑な政策的・技術的色釈を有するが、それだからこそ、その違反行為に対して刑罰を行使する際に、責任主義といつた刑法的原則が必要であることを強調しなければならないのである。租税犯に対する刑罰権行使の要任を緩和するような考え方は妥当ではなく、租税刑法は、行政官僚国家思想に基づいた行政犯の観念から解釈されなければならない。」
まさに責任主義を基調とする「責任説」の立場を明確にして、所得税法二三八条一項を解釈し運用しなければならないのである。(被告人の故意の問題については、次章に詳論する)。
三、原判決には理由不備の違法がある。
何が架空名義の預金か具体的記載がない。
右に述べたように「偽りその他不正の行為」は逋脱税額と並んで所得税逋脱犯の構成要件的事実の眼目である。「偽りその他不正の行為」を用いたか否かによつて、更正決定をうけただけでとどまるかのかあるいは刑事処罰の対象となるのかがわかつてくるのである。したがつて、「罪となるべき事実」の中に「偽りその他不正の行為」を具体的に特定して記載しなければならない。
ところが、原判決はこの点について、前述した様に、ひとつの「不正の行為」として架空名義の預金を使用し、これに売上金の一部を入金したことをあげている。
しかし、一体全体原判決がいう架空名義の預金とは具体的に誰名義の預金を指しているのか、さっぱり分からないのである。
かつて検察官は、架空名義の預金とは「金奇泰」名義の預金をも含むと釈明したことがある。
ところが、金奇泰とは、起訴状の被告人の氏名欄の記載で明らかな如く、被告人の別名でとあつたわけである。原判決は、この金奇泰名義の預金は、架空名義の中に含めるているのかいないのか、それさえも分からないのである。
さらに、架空名義預金とは本人の実名義以外の預金と一応定義づけすることができようが、本件被告人の場合「金奇権」が実名であり、「中山政夫」は通名にすぎないわけであるが、一体この中山政夫名義の預金は原判決のいう架空名義の預金に入っているのかいないのか。原判決はこの点について全く何も判示していないのであるから、被告人にしてみればあれこれ推測するだけで、確たることはなにもわからないのである。
このようなことは原判決が、架空名義を具体的に特定して記載していれば容易に解消できていたことなのである。したがつて、たんに架空名義の預金と評価的表現で抽象的に記載したにとどまり、具体的事実を特定的に記載しなかつた原判決にはこれだけで理由不備の違法があると言わざるをえないのである。
四、原判決は重大な事実誤認を犯している。
1.何の証拠もないのに架空名義の預金設定をもつて「不正の行為」と認定した違法がある。改めて述べるまでもなく、架空名義の預金は直ちに不正の手段として使われるものではない。むしろ、銀行取引にあたり、預金獲得運動に協力を求められ、これに協力するために本人名義以外の預金が作られることが多い、そうすれば銀行の帳簿に於いて新規取引口数と預金がふえたことになるからである。被告人の場合もまたそうであつたわけである(弁第三六号証被告人の供述書その一 三一丁以下)したがつて架空名義の預金はそれだけで「不正の行為」にけつしてつながるものではない。
そのことは判例もまた認めている。すなわち、「金融の取引にあたり業務上その他の理由から税と関係なく、仮名ないし無記名の預金の設定をすることもありうることから、仮名ないし無記名預金の設定行為それ自体を以つて、直ちに偽りその他不正の行為とは言い難い」のである(東京地判昭和五三・四・二四判例タイスム三六九号四四三頁)。
もつとも右判例はつづいて「しかし、所得を隠ぺいするために設定する場合のように、ほ脱所得税秘匿の手段として利用されることは、それは偽りその他不正の行為となり得るのもと解すべきである」と判示する。弁護人らは一般論としてこの判示部分を争うものではない。まさしく本件の場合には、被告人が架空名義の預金を逋脱の手段として利用したというならそれについての具体的認定が必要であるのに、それがないのである。
弁護人らは、原審において、最初から最後まで被告人に逋脱の意思がなかつたこと、被告人名義以外の「新川正克」「河原茂」「笠岡良夫」名義の預金等は、被告人の希望でつくられたものではなく、銀行側の都合でつくられたものであることを主張し立証してきた(弁論要旨四〇丁以下)。
これに対し、検察官は前記仮名預金が所得税逋脱あるいは秘匿の手段として被告人が使ったことを些かでも立証したであろうか。検察官は何の立証もしていないのである。そもそも検察官は架空名義(別名預金)が被告人に帰属することを立証したのみで、その預金設定の目的が所得税逋脱あるいは秘匿の手段であつたことの立証ははじめから放棄していたと言わざるをえないのであり、したがつて当然のことながら右のことを証明する証拠は皆無である。
しかるに、原判決には架空名義の預金の設定をもつて「不正の行為」と認定したが、一体その認定はいかなる証拠によつてなしえたのか。原判決が証拠標目に掲げた証拠を逐一検討していつても、被告人が架空名義預金を逋脱の手段として利用した事実を証明する証拠はひとつもないのである。
むしろ、右の事実の否定する証拠ばかりである。第一、被告人自身が、前記の仮名預金は銀行サイドの要請でなされたことを具体的に供述していることは前述したとおりであり、この被告人の供述を覆えすに足る証拠は全然存在しないのである。かえって証人赤岩の、当時は銀行経営指標として口座数を数多く集めることが指示されていたので、本人名義以外の預金を勧誘した旨の証言は被告人の右供述を具体的に裏づけているのである(この点は後に再度詳しく論ずる)。
第二に、被告人はこの河原茂名義、新川正克名義の預金をもつて借金の返済に充てているのである(検第六号証)。右預金が所得秘匿のために設定されているものであるなら、この様な公の借金返済に充てるというようなことをする筈がない。返済資金の出所をすぐ捕捉されてしまうから、秘匿したことに少しもならないからである。
第三に、被告人は右仮名預金を所得税逋脱に利用する意思など毛頭もつていなかつたから、確定申告する際に、右預金額もはじめから計算にいれているし、本件査察以前に下京税務署から調査をうけた際には右預金も開示しているのである「弁第三六号証=被告人の供述書その一 三三頁)。
原判決が、被告人の場合架空名義預金が所得税逋脱のためでないことを証明するこの様なはっきりした証拠については完全にこれを無視し、全く何の具体的証拠にも基かずに、架空名義の設定とこれへの入金を「不正の行為」と認定したのは重大な誤まりである。
原判決のこのような重大な事実認定は、原判決が真正所得金額(この理解も誤つていることは次に述べるとおりである)と申告所得額との間に差額があれば、それだけで犯罪成立と考える近代的な思考に由来する。しかし、刑事裁判は被告人の行為責任を問うものであるから、結果でなく、いかなる行為をしたかが重要である。所得税逋脱犯の場合の問題とされるべき行為は、偽りその他不正の行為により所得税を免れる行為であるから、その行為の有無の認定は厳格にれなければならないことはいうまでもない。原判決の誤まりはあまりにも明白である。
2.給与所得、不動産所得、雑所得については単純な記載忘れである。
原判決は、前に述べたように、給与所得、不動産所得、雑所得の全部あるいは一部を確定申告に計上記載しなかつたことをもつて不正行為だと断じている。
しかし、被告人が右不記載をもつて所得税を不正に逋脱しようとした事実を認定できる証拠は本件記録の中のどこにもない。
右は完全に被告人の(というよりもつと具体的に言えば申告税額、所得事務をしていた事務員の)単純ミスによる不記載でしかない。何の証拠もないのに不正行為にあげた原判決の誤まりは明白である。
3.被告人は虚偽申告をしていない。
被告人が原判定認定の金額を記載した確定申告書を下京税務署に提出したことは事実である。しかし、だからといつて、その申告行為自体が虚偽であるということはけっしてならない。被告人は後に詳しく述べるとおり、自分で正しく所得計算をし、正しい申告だと確信して本件各年度の申告を行っているのである。そこから些かも虚偽はないのである。たとえ、申告所得が客観的真正所得金額と異なつていても、その原因はもつぱら必要経費に対する税法上の解釈判断に由来するものであり、ことさらに(つまり犯意をもつて)所得をごまかすための過少申告をしたものではけつしてないのである。
五、「不正の行為」と犯罪成立の範囲
――原判決は不当に犯罪成立の範囲を拡大している。
1.「不正の行為」と脱税額との間には因果関係が存しなければならない。
所得税法の第二三八条一項の構成要件は、「偽りのその他不正の行為」により「税を免れる」ことである。脱税額は罰金刑の上限を画する(同条第二項)が、ここで問題にされる脱税額は「偽りその他不正の行為」により発生した脱税額であるから、両者の間には因果関係が存在しなければならない。勿論逋脱犯は故意犯であるから犯意のないものは除外される。要するに、「脱税犯のすべての要素は、脱税額に集約的に表現される。(中略)脱税額は、脱税犯の実行行為たる不正行為と因果関係を有し、犯意ある部分に限られる」のである(田中二郎著「租税法」三四五頁)。
この法理は判例も認めるところである。すなわち、「所得税逋脱犯の故意が、右のように具体的又は個別的な脱税の認識である必要がないというのは、免れた全税額につき全体として脱税の認識が認められれば足りるという趣旨であつて、故意に所得を隠匿する行為とは無関係に生じた所得の過少申告分をも包含する趣旨に解すべきでない。従つて、右のような所得の秘匿行為とは無関係に生じた誤記、誤算又は不注意や思い違い等に基く過少申告によつて免れた所得税額は、所得税法二三八条にいう、「偽りその他不正の行為」により免れた所得税額には含まれないと解するのが相当である」(東京高裁五四・三・一九高刑集三二・一・四四)。したがつて、前述したように、算定の根拠となる真正所得金額とは行為者が不正行為を加えるべく認識していた金額であり、客観的に算定される真実の金額ではない。行為者が認識していないために生じた過少申告分等をもあらいざらい積みあげて客観的に真実の金額を算出することは所得税逋脱犯の逋脱額の認定にとつては何の意味もないことである。
2.本件における検討
(1) 仮りに被告人が原判決が判示する様に架空名義の預金を設定し、そこへ売上金の一部を入金していたことが仮りに「不正の行為」だとしても、その「不正の行為」により秘匿した所得はいくらなのか。
昭和四〇年分について言えば、架空名義の預金は「新川正克」「河原茂」名義の預金であろうと一応前提する(前述したように実際「中山政夫」名義も含まれているのではないかとも考えられるのであるが、しかしこれも含めると売上金の一部と入金といえる余地はなくなるので、ここでの検討から除外する。また金相祚名義の預金が被告人に帰属にしないことは原判決が認めているところである)。
ところで、新川正克名義預金への入金は二八〇万円。
河原茂名義の預金への入金は一〇四一万円。右合計して一三二一万円である。
(2) 右以外に原判決は給与所得、不動産所得、雑所得を記載しなかつたことを不正行為にあげている。この三つの所得の不記載は被告人に於て失念し不注意により記載しなかつたものであるから本来「偽りその他不正の行為」に該らないものである。しかし、いまここでは原判決が判示する様に「不正の行為」になると仮定してみると、記載しなかった所得は、
給与所得 五七万五、七五〇円
不動産所得 三万九、二〇〇円
雑所得 六五万九、三三三円
(合計 一、二七四、二八三円)
にすぎない。
(3) 右(1)(2)を合計しても一四、四八四、二八三円であるが、右(1)の金額は「売上」であつて「課税所得」でない。この金額から必要経費等を控除していかなければ所得は出て来ない。原判決の修正損益計算書によれば、収入三億八五三三万三八〇二円に対し、三億五三五五万九五七二円の経費を認め、差引三一七七万四二三〇円の事業所得を認めている。所得率は約八・二四五パーセントである。従つて、右(1)の金額一三二一万円の売上に対する所得は約一〇九万円ということになる。
この一〇九万円の所得と右(2)の所得とを合計とする約二三六万円である。
原判決の「不正の行為」をまるまる認めたとしても、それにより秘匿した(ことになる)所得はわずか二三六万円でしかないのである。
それがどうして三三〇四万八五一三円の所得とこれに対する税額一七二八万九九〇〇円と申告額との差額一六〇九万〇三〇〇円全体について脱税行為が成立するのか。被告人が不正行為すなわち脱税行為により秘匿した所得はわずか二三六万円であることは前述したとおりである。それなのに一六〇九万円余もの税額を逋脱したということになるのはどう考えても道理にあわないことである。
それでは被告人の申告所得と原判決の修正損益計算書による所得との間の約三〇〇〇万円近い差異は一体何によつてもたらされたのか。原判決の別表1-(1)(昭和四〇年分修正損益計算書)をみれば一目瞭然であるが、売上において約一四〇〇万の差があり、あと約一五〇〇万円の差は経費から生じている。前者は具体的には給料支払金が売上除外金から出たと認定しうるか否かによつて殆ど発生している差額である。しかし後に詳しく批判するように、このいわゆる給料支払充当分の金は前述した架空名義預金の中から出ていないことは確かであり、そうなるとこの金はどこかにプールされていたと考えざるをえないのであるが、そうした事実は証拠上全く認められず、いわばこれは原判決の想像事にすぎないのである。いま、その点はさておいても、給料支払の金を秘密のいわゆる裏金で出すようにしていたなどのことは常識的に考えてもありえないことであるから、原判決のように出所が売上除外金だということはありえないし、まして、そのことは被告人の不正行為に結びつくことはありえない。
また後者の経費の差について言えば、被告人の税法に対する考え方、支払利息の計上方法によりもたらされたものであり、「不正の行為」は全く関係がない。たとえば、原判決は、立退料や修繕費については検察官の主張を排斥して弁護人主張のとおり経費として認めた。その結果、右経費処分は秘匿所得から除外された。裁判所が被告人側の税法解釈を支持してくれたら秘匿所得から除外される。裁判所の見解が異なれば一転して秘匿所得になるというのではあまりもにおかしい。問題は、被告人が脱税の意思で秘匿しようとしたのかは何かということであるから、税法の理解のちがいによつて発生した経費計上分は、たとえ結果的に経費として認められなかつたとしても、逋脱所得(税)額から除外されるのは当然である。
(4) 本件申告行為が虚偽申告であり、したがつてこの申告自体が「偽りその他不正の行為」に該るとしても、虚偽であつた部分というのは真正所得金額との差額全体ではなく、被告人が不正行為によつて逋脱しようとした金額であり、かつそれに限られる。それ以上の金額は、被告人に於て虚偽である旨の認識はなかつたのであるから、それについて犯罪が成立することはない。
したがつて、前述の例でいけば、被告人が虚偽申告したと評価できる金額は二三六万円にすぎないのである。それ以上の金額については逋脱犯の成立する余地さえないのである。
第四章 被告人は逋脱の故意を欠いている。
第一、原判決の誤り
一、原判決の判示事実
原判決は「偽りその他不正の行為」に関し、検察官の主張する「事業所得につき、売上金、雑収入、仕入れ、割戻し金を合せた収益の一部を公表帳簿に記載せず」との不正の方法を認定せず、且つほ脱所得税額についても大幅に減額した上、罪となるべき事実を認めた。
二、原判決の誤り
罪となるべき事実の判示と、原判決挙示の証拠から、原判決が如何なる根拠に基づいて、被告人のほ脱犯としての故意を認定をしたのか理由は全く不明である。
原審において、弁護人は累々租税ほ脱犯の故意の認定にあたつては、刑法の責任主義を貫徹させ、結果責任に陥つてはならない旨主張した。且つ又本件事案では、被告人について、少なくとも「偽りその他不正の行為」に基づくほ脱の故意の存在を立証する証拠がないことを、論証した。
ところが、原判決は、弁護人の主張を顧みず、ほ脱の故意を極めて安易に、結果責任主義に立脚して、認めたものといわざるをえない。
原審の審理態度は正規の所得税額乃至は実際所得金額と称する客観的所得金額が幾許であるかを追求して、これの申告額との「差額」を、ほ脱金額として確定することのみ汲々として、その結果のみに目を奪われたものといえる。
果たして、その「差額」が、所得税法第二三八条にいう「偽りその他不正の行為」に基づくもの、乃至は、隠匿行為の結果であるのか否か、且つ又、脱税の認識に基づく虚偽申告であるのか否か、故意の成立を厳格に証明できる証拠があるのか否か、などといつた租税ほ脱犯として、被告人の「認識」の問題、刑事責任を問ううえで最も重要な行為者の「故意」の課題に、殊更目をふさいだのが原審の態度である。
言い替えれば、原審の審理態度とその判決は、課税庁が行政処分として納税者に更正決定額を決める態度と何等かわるところがない。
被告人は、捜査段階から一貫して、本件租税ほ脱事案に関する故意の存在を否定し続けている。政治的意図に基づく弾圧であると言い続けている。
かかる事案において、原審には、被告人、弁護人に対し、判決理由中、被告人の自由はないが、ほ脱犯における主観的要素は、これこれの証拠によりこれこれの間接事実から認定できるという証拠の挙示と、理由の説明をなすべき責務がある。
しかるに前述のとおり、原判決には被告人らを納得させる理由は全く附されていない。右のとおり原判決には、被告人に、本件租税ほ脱事件についてほ脱の故意に認むべき証拠がないのに、事実を誤認し、且つこれに関する理由不備の違法があるといわねばならない。
第二 ほ脱の故意不存在について
一、ほ脱所得にかかる故意の意義
所得税法第二三八条の構成要件は、<1>所得税の納税義務者が法の規定によつて計算された金額の租税を納付する義務があること、<2>その税額を全く納付せず、又はそれにより下回る過小の税額を納付して、右差額にあたる租税の納付をまぬがれ又は、還付を受けること<3>右税額をまぬがれる方法として、「偽りその他不正の行為」によつてなされることである。
右租税ほ脱犯の構成要件のうちで、最も中心的構成要件要素はいうまでもなく、「偽りその他不正の行為」であるといえるが、「偽りその他不正の行為」は、その行為の実現にむけられた意思である「故意」がなければ「不正の行為」とはいえないから、ほ脱犯における主観的要素=「認識」の問題が行為者の刑責を決定するについて、最も重要な核心であるといわねばならない(現代刑罰法体系2松沢智「租税に関する犯罪」参照)。
租税ほ脱犯においては、近代刑事法の責任主義を徹底させて、主観的要素を重視しなければならないことは当然である。
ほ脱犯による「故意」の意義については、ほ脱犯が故意犯である以上、一般刑法理論の「責任論」が適用されるべきはずであるのに、実務上はかえつてほ脱犯の特異性が強調され、ほ脱税額の一部についてほ脱の故意があれば、ほ脱全体について故意が認められるとか、ほ脱の故意としては、個々の勘定科目についての認識は必要ではなく、又所得の総額についての正確な認識も必要ではなく、申告額を上回る所得が存在しているとの認識があれば足りるとか、秘匿した所得の総額についてのおおよその認識があれば、かかる概括的認識があれば、客観的な正当税額と申告額との差額と全部につき、ほ脱犯が成立するなどの誤つた見解が存在してきた。
然し乍ら、かかる見地に立って、納税義務者が納税義務がないと確信していた勘定科目や損金に算入できると確信していた部分についても、ほ脱の故意を認めるのは、納税義務の存在を認識していないのにかかわらず、納税義務違反の故意を認めることとなり、行為責任主義という刑法の基本原則にそぐわない結果責任主義に陥ることは明らかである。
思い違い、計算違いなどの場合でも処罰されることになれば、過失犯と故意犯の区別がつかない結果ともなり、不法であること論をまたない。
租税ほ脱犯における故意の意義について、所得隠蔽行為と関わりなく、故意によらず、あるいは思い違いによる計算違いなどによつて、客観的に負担する税額と申告額との間に齟齬を生じ、客観的には脱税の結果を生じてもほ脱犯を構成しないという実務上の傾向はもとより当然のことである(東京高判昭五四・三・一九高刑集三三巻一号、東京地判昭五五・二・二九判例タイムズ四二六号等)。
しかるに原判決、先に批判したとおり、「偽りその他不正の行為」により税をほ脱したという構成要件の主観的要素「認識」の問題、故意の問題については、全く誤つた見地に立ち、ほ脱の故意を認定しうる証拠がないのに、極めて安易に被告人の故意を認定したという結果責任主義に陥つたものである。
ほ脱所得に係る故意が認められるためには、行為者に、ほ脱犯の構成要件に該当する事実の認識がなければならない。
ところで、租税ほ脱の構成要件は先に見たとおり、「偽りその他不正の行為」により納税義務をまぬがれることであるから、右ほ脱犯の構成要件を組成する客観的事実の認識が成立するためには、納税義務、即ち、その内容をなす所得の存在についての認識が必要であり、さらに加えて、「偽りその他不正の行為」に該当する事実の認識、及びそのほ脱結果の達成の認識が必要である。
被告人には、右のような構成要件に該当する具体的な事実の認識があつたとは証拠上認められない。これについては、次に述べる。
二、所得税法第二三八条の構成要件に該当する事実の認識の不存在について
1.納税義務=その内容をなす所得の存在についての認識
被告人には、原判決が認定した各年度の納税義務=課税所得金額の存在についての認識がなく、又その認識の存在を裏付ける証拠がない。
申告所得金額と原判決が認めた実際の所得金額、訴因記載の所得金額等は原判決の別表1の(1)、2の(1)、3の(1)のとおりである。
条文に規定されている構成要件要素としての主要事実は、所得税法第一二〇条第一項三号に規定する所得税の額及び収入金額(益金)から必要経費、(損金)を差し引いた金額(即ち課税所得金額)である。
被告人の所得の大部分である事業所得についていえば、各年度の売上と経費について、原判決認定のような金額を各々認識していなければ、故意の存在を認定しえないことはいうまでもない。
本件被告事件では、原判決の認めたほ脱所得と訴因記載のそれとでは著しい違いがある。
検察官の証拠に基づく主張(訴因)金額を大幅に減額した原判決の理由が、被告人の故意の問題について言えば、収入金額と必要経費の各々について、原判決認定の所得についてのみ、被告人が納税義務の存在若しくは、所得の存在について認識していたと証拠上認められ、検察官主張のそのような所得金額については、故意がないというのであろうか。
換言すれば、売上と必要経費についての認識も又なかったとでもいうのであろうか。
決してそうではあるまい。
原判決の立場は、先に述べたとおり、「正規の所得金額」と称するいわば客観的所得金額と、申告所得金額との「差額」をほ脱金額と認めたというに過ぎないのであつて、その間に被告人が原判決認定の正規所得金額乃至は実際所得金額と称される所得金額について、被告人にその存在の認識が如何なる証拠によつてどのように認定しうるかについては、一顧だにしていないのである。
申告時において、被告人が原判決認定のごとき各年度分の売上と必要経費、従つて納税義務ある所得についての認識をしていた証拠は何等存在しない。
検察官主張の所得金額との食い違いが如何なる事由から生じたのか。
その認識の相違は証拠上如何に説明しうるのか、これらの認識の問題に原判決は全く目を覆つているのである。
原判決はいわば、「差額」主義であり、「認識」無視主義である。
被告人は、捜査段階から一貫してほ脱の故意を否定している。
被告人は自らの申告が正しい申告である旨確信を持ち、国税当局の取り調べに対してもその旨を次の如く供述していたのである。
『問五、中山さん個人の各年分の決算はどのように作成し税務署へ提出しましたか。
答、洛南納税貯蓄組合の事務員の洪さんに事業内容を申し上げます。組合ではわたしのいつていることを正しいかどうか外の組合員の同業者と比較検討されるようでよそとはこうだからきみの処はそれより儲けているからもっと申告するようにといわれ、自分なりに納得して作成して貰つた確定申告書に署名と押印をしますと貯蓄組合の方から下京税務署に申告を提出してくれていました。
昭和四〇年分申告所得金額は四百参拾万円
昭和四一年分申告所得金額は七百万円
昭和四二年分申告所得金額は五百何万円です。
問六、いまおききした各年分の所得金額は正しい申告と思いますか。
答、勿論、私は正しい申告だと、言葉をいいかえれば妥当な申告だと信じています。」
(検甲第二三七号証=質問顛末書)
原審公判廷においてもこの点につき次のように供述している。
『所得税申告の時も女子職員によつて記帳された銀行帳があつただけですがこれを整理集計し、専務又は常務が商工会にいかれていろいろ綿密に検討し正確な納税申告がなされておりました。勿論最後には私の決済を受けるのは当然であります。
京都朝鮮商工会は、当初から所得税の計算上の諸問題、税法に関する説明会を開催したり、源泉徴収業務の推進、記帳の方法、申告納税の啓蒙等に積極的に取組み、資金調達の援助と方法並びに府・市等の制度融資の活用、販路の斡旋、人材の紹介など私達企業になくてはならない存在として、非常に広範に亘る活動を積極的に推進しております。
私も商工会に加入することになつて私達に納税義務があることを知りました。』
『私は、天地神明に誓つて脱税などして居りませんし、又その積りもありません。』
(被告人供述調書その一 第三五頁以下)
被告人は、昭和四〇年、同四一年分、同四二年分の各所得税確定申告手続を、朝鮮商工会の組織の援助、協力のもとに、被告人の経営体の従業員金孝などが、資料を商工会に持参して、所得計算を行うやり方で行っており、被告人が単独でその所得計算を行ない、申告手続をしたものではない。
しかも本件被告事件係属後、被告人の所得計算の見直しを行なつた結果、申告所得とほぼ同様の所得ないしはそれ以下の所得が被告人の実際の所得であつたことがあきらかになつた。これらのことは洪証人が証言する通りである。(原審第八〇回調書二八丁)。
右のように被告人の、自らの納税義務の内容をなす所得の存在についての認識が、ほぼ申告所得額あるいはそれ以下であつたことの証明は、弁護人申請の各証拠から明白である。原判決認定のほ脱所得についての、被告人の認識を証明する証拠は、原審記録中なに一つとして存在しないのである。
被告人が申告所得について、ほ脱の故意はもとより、過小申告の認識が全くなかったことは、右に述べたとおり、被告人の申告所得の計算は商工会の組織、被告人の従業員等複数の者が関与して行ない、それらの者も、被告人と同一の認識を持っていたという事実によつて裏付けられているのである。被告人は、売上に関し、自らの申告所得の計算の基礎として、正しいとの確信を持つていたのはもとよりであるが、損金=費用経費についても、いずれの勘定科目に関しても法律上当然経費として算入できると確信していたものである。原判決が否認した必要経費(例えば広告宣伝費、交際費、会費、支払利息等々)についても、被告人はその必要経費性を否認され、従つて又納税義務が存在するとの認識を全くしていないし、認識の存在を証明する証拠は何もないのであるから、ほ脱の故意がこの点につき、認められないのは明白である。
2.「偽りその他不正の行為」に該当する事実の認識
(一) 架空名義預金の存在について
(1) 原判決の認定
原判決は、「偽りその他不正の行為」として「銀行預金の一部に架空名義預金を使用し、右営業による売上金の一部を右架空名義預金に入金し、………」て不正の方法を用い、所得を秘匿したと認定した。然し乍ら、右架空名義の預金とはどの名義を指すのか、ほ脱の意図を持ち所得秘匿の手段として、架空名義の預金をしたとする根拠はどこにあるのか、等について何等の説示をしていない。
原判決は、検察官が昭和四〇年分につき、架空(他人)名義と主張した商工信用組合九条支店金相祚名義の日掛積立預金六六万円、並びに同四一年分につき右同様の主張をした同人名義の預金二八万円はいずれも不正の行為と認めていないことだけがはつきりしているに過ぎない。他の河原茂名義、新川正克名義、笠岡良夫名義等について、弁護人が原審において、これらの預金名義は、被告人の希望で作つたものではなく、預金口座数拡大等銀行の都合で作られたものであり、税務署の反面調査の際には全て開示しており、ほ脱手段ないしは、所得秘匿のために作られたものではとないと主張し、且つ立証した(洪仁卓証言、金孝証言、被告人の供述等)のに対して原判決は、何等の理由も根拠も示すことなく、ほ脱手段としての「架空名義預金」の存在について、被告人にその認識が存在したことを証する証拠は原審記録中何一つ存在していない。
(2) 原判決の事実誤認
原判決は「架空名義預金」の存在即ち、「不正の行為」と誤解をしているのではないかと思われる。
例えば、二重帳簿の作成等はそれ自体独立した「不正の行為」として評価できるものではなく、それは事前の所得秘匿行為として「虚偽過小申告」や「虚偽無申告」と結び付くことによつてのみ包括して犯罪として成立するものである(前掲現代刑罰法体系2松沢智参照)。
「架空名義預金」の設定についても同様に脱税の手段として所得秘匿のために利用する認識のもとに作成されていないければ、不正行為とはいえないことは同然である。
「金融機関との取引にあたり、業務上その他の理由から税とは関係なく仮名乃至無記名預金の設定をすることもありうることから、仮名乃至無記名の設定行為それ自体をもつて直に偽りその他不正の行為とはいい難い………」(東京地判昭五三・四・二四)とする実務上の「架空名義預金」の設定行為それ自体を不正行為とみなさない態度は正当である。
しかるに原判決は、前述のとおり重大な誤りを犯し、本件事案について特段の事情もないのに、前記「架空名義預金」の存在それ自体をもつて、直ちに被告人につき右預金口座を、ほ脱目的で設定する認識が存在したとの推測をしているのである。被告人の本人名義以外の預金名義の存在について、被告人の取引先の銀行員であつた赤岩幸男証人は次のとおり証言している。
『それから、本人名義以外の、中山観光株式会社でもいいのですが、本人名義以外の名義で預金をしてもらうことは、銀行の預金を集める側の人達にとつては、何かメリットがあるのですか。
経営指標としては、口座数というものがございますので、そういうメリットはございます。まあメリットがあるというのは、変な言い方ですけれども、当時は、業務政策上もそういうことでなかつたかと思います。それは役席の指示でございます。』
『そうすると、その口座数がふえれば、銀行の方というか、銀行の係員ですね、得意先係なら得意先係の係員にとつては、口数が増えればいいというようなことがあるのですから、本人以外の名義で預金しているやつもそれは別に裏に隠すとか何かというこうなことはないわけでしょう。
ございません。』
また被告人の元従業員金孝証人もまた架空名義について銀行側の要請に基づくものであることを具体的に証言している(原審第九四四公判調書一九丁)。
右各証言によれば、被告人に帰属するいわゆる架空名義預金は、いずれも銀行側の必要と都合により設定されたものであり、被告人が所得秘匿の認識のとにしたものではないことが明瞭である。
ところで、弁護人は、河原茂、新川正克名義の各預金が被告人に帰属することを争つてはいない。
原判決は、被告人において申告時点から右河原茂、新川正克名義の各預金については、売上に計上して、所得計算の根拠に入れてきたと主張し、これに添う立証をしてきたのに対し、如何なる証拠に基づいてそられを所得秘匿の手段として作つた架空名義預金として設定したのであろうか。
被告人は、右河原茂等の別名預金については、中山政夫等本人名義の預金への売上の入金と何等区別するところなく、公然と行なつてきている。
ほ脱手段として、所得秘匿目的で設定したと認定するには、何等かの付随事情、何等かの徴表が認められなければならない。然るにその証拠は何一つないのである。
それにも拘らず原判決が、口座の存在について、被告人に不正行為の認識があつたと認定したとすれば、証拠なくして事実を認定したという非難をまぬがれえないであろう。
河原名義等の預金口座が、被告人に帰属することを税務署の調査段階ですでに開示しており、ほ脱手段ではなかつたとの観点から、弁護人が国税局の田村証人を尋問したのに対し、同証人はこれに何ら反論しえなかつた事実からも、河原茂名義等の別名預金は、全て所得秘匿手段として設定されたものではないことがかえつて裏がきされていると言える。(原審第六八回公判調書 丁。)
(第六九回公判調書)
次いで、伏見信用金庫東寺支店の笠岡良夫名義の普通預金口座について述べる。弁護人は、笠岡良夫名義の七七万九〇四〇円の預金中、三〇万円の入金についてのみ借入金であると主張し、その余が売上金であることを認めて、笠岡名義の預金自体が、ほ脱手段として設定されたものではないと主張してきた。
原判決は、<1>銀行届出印が被告人の事務所金庫内に保管されていた。<2>検第二二号証に笠岡名義の普通預金は被告人のものである旨記載がある。<3>笠岡口座が被告人の仮名預金口座である。<4>借入金を仮名預金に入金するのは入金不自然。<5>入金状況等から、本件三〇万円が売上金であると認めた。
右判決の説示は、笠岡名義の預金口座が所得秘匿の手段として、被告人によつて設定されたという理由は何等示されていない。
原判決は、借入金を仮名預金に入金するのは、不自然というが、右判決の説示こそ経験則に反する判断である。
被告人が仮りに所得秘匿目的で利用しようという認識のもとに笠岡口座を設定したとするなら、一方では売上金を公然と入金し、他方では売上除外金を秘匿のため入金していたということになり、正に不自然である。笠岡名義の預金口座が不正行為として設定され、その入金金額が売上除外目的であるという証拠は何等存在していない。
二週間という短期間、ほ脱手段として笠岡名義を使用しなければならない具体的理由も、必要性もその他特別の事情は全くない。笠岡名義の口座設定に関する
田村辰雄証言(原審第七一回調書) 水口博子証言(同第六七回調書)
湊谷竜蔵証言(同第六七回調書) 奥宮喜久枝証言(第七二回調書)
のどこをみても笠岡名義の預金口座を、被告人がほ脱手段としての認識のもとで設定した口座であると認めるに足るものではないのである。
既に繰り返し述べた通り、原判決の態度は「差額」主義、「結果責任」主義である。仮名口座の存在に関して、ほ脱手段としての被告人の認識が証拠上認められるか否かの命題は、無視されているのである。
(二) 架空名義預金に、営業による売上金の一部入金の事実について
(1) 原判決の認定事実
原判決は、架空名義預金に営業による売上金の一部を入金していたというが、その一部とは何をさすのかこれまた不明である。
原判決が、売上除外と認めた笠岡名義の口座分三〇万円のみであるのか、河原茂名義等弁護人がその売上について争わない別名預金についてまで、その一部であるというのか、不明である。
いずれにしても、被告人に売上金の一部をほ脱手段として、架空名義預金に入金するという事実の認識があろうはずがなく、またその証拠は、原審記録中存在しない。
原判決はこの点についても、証拠を無視して、被告人の故意を認定したという重大な誤りを犯している。
(2) 売上除外行為の認識は、被告人にありえない。
被告人の営業における売上金管理の方法についてみると、各店舗の毎月の売上からその日の小口現金の支払い、賄費の支払い、交換景品仕入資金等を差し引いた残金と、支払伝票を、原則として一定の集金人が支店長より受け取り、本店事務所に持参する。
各店舗では、各々数台の玉売機が設置されており、その日の売上金額が表示できるようになつており、これは施錠してあり、集金時に店長立会いの上、売上メーターを相互に確認することになつている。
このようにして、各店舗から集められた売上金は、集金人から本店の事務所の女子職員に渡され、女子職員によつて現金と伝票を照合し、その正誤を確認のうえ、専務又は、常務の指示で、銀行に入金又は、銀行の集金人に預ける仕組である。
右のような、売上金処理の仕組のなかで、一部売上除外、隠蔽などできる余地は客観的に存在しない。
右のような、売上金管理の実態から、売上除外の余地がなく、従つて又その認識があり得ないことについて、被告人は、「私は脱税の意思など毛頭ございませんし、そのような方法も知りません。ましてや、前述しましたような売上金の管理の仕方の中で一部インペイなど出来る余地もありませんし、毎日毎日の資金くりのさ中に到底インペイなど出来る余裕もありません。」と供述しているのある(被告人の供述書その一 三〇頁)。
さらに、金孝証人は、被告人のところに売上金が報告されるのは、事務員が現金と伝票とを照合した後であり、しかも伝票のみが被告人に報告されるものであり、売上金を集金した後の過程に於て「抜き取り」などをする余地がないことを明白に証言している(第九〇回調書一四、一五丁)。
原判決が、売上除外行為の存在と、被告人のこれに関する認識の存在について、如何なる証拠に基づいて事実を認定したかは、不明である。
従つて原判決挙示の証拠の標目中、検察官が「売上除外の方法」に関連して論告中で指摘した各証拠に依るものとする推定する外ないから、以下原判決挙示の証拠を検討する。
イ、証人西村恵美子(第七〇回、第七五回公判)の証言
西村証人は、被告人の妻が、本店の事務所に集められた売上金のなかから、同人の要求に応じて「家事費」を不定期に渡していたこと、同僚の事務員に、「家事費」としてより「給料」として出す方がいいのではないか、との趣旨の発言をしたことなどを証言している。(第七〇回公判調書)
右「家事費」について、西村証人は、更に、被告人の妻が個人の方の事務員さんからいただきますといことので三万円なら三万円もつて行く。使用目的は聞いていなかつたが、自分は家事費だと思っていた旨証言しているが(同調書 丁)、家事費だというのは、西村証人自身が、実際には何に使ったか分からないと述べているとおり、単なる推測にすぎないこときが明らかなのである。
従業員の賄費に充当したものか、個人借入金の返済等資金繰りにあてたものか、交際費、福利厚生費、その他の必要費として、支払ったものか、証人には、分からないし、確認もできていなのである。
西村証言の趣旨を、仮に「家事費」であると認めたとしても、被告人の妻の前記小口現金の受取行為は、事務所の全事務員に公然たる行為である。
被告人の妻の右行為を、被告人が売上除外行為として、認識していたと、短絡的に結びつけ得ないことはいうまでもない。
被告人が「偽りその他不正の行為」として、認識していたとする特段の事情がないのに、被告人の妻の前記公然たる行為の存在をもつて、直ちに被告人の不正行為認識の間接事実とするのは、乱暴な推測であつて、責任主義の原則に照らし、到底許されるべきではない。
小払経費についての西村の証言も、家事費同様、ほ脱手段としての売上除外方法の存在と、被告人のこれに対する認識の証拠とならないことは、次の証言から明白である。
『じゃあ、金庫じゃなくてロッカーでもいいんですけれども、ロッカーの中に、五万円ぐらいの金額しか残していなかつたんですか。
小払いの分だけです。
それはどういうふうにして誰が取つておいたんですか、個人の方の関係は、
個人も会社も、ときどき小払いがございましたから、小さい金庫の中に五万円か二万円か忘れましたけれども入れておいて、領収証と差し替えるわけです。
金をだすときに、そこに領収証を入れると、
入れて伝票を起こすんです。
その五万円なり二万円は売上から抜くわけですか。
と思います。
誰が抜くんですか。
それは、帳面に小払いとして、
誰が抜くんですか。実際にやつたのは、
会社でしたら私がやつたと思います。
個人は、
個人は個人の事務員さんやと思います。そんなにたくさんのお金やないですから。
それも別に社長の中山さんが来て、これぐらい除外しておくとか、そういうことをやつたわけではなくて、あなた方が小払いの経費に当てる分の何万円かをなくなるまでそれでやつて、なくなつてから補充していたということですか。
そうです』(第七五回公判調書一三丁)以下
原審は、西村証言の評価を誤つている。
ロ 品川貴代子(第七七回公判)の証言及び証人原田(旧姓溝田)洋子の証言、右各証人の検面調書
(検一一三・検一一四)について
品川証人の検面調書中第四項記載部分は、昭和三八年位までのことであり、本件当時のことではない。
しかも、法廷での同人の証言に照し、信用できない。
『そうすると、あなたの先ほど検察官からいわれた調書には、昭和三八年ぐらいまでは、毎日のように売上金から五万円か六万円を必ず抜いて奥様に渡すようにしておりましたと、あなたが直接渡すように書いてあるんですが、今、よく考えてみたら、そうではなかつたと思う。
ないと思いますけど。
あったとしたら、今村さんと奥さんとの間でやつていたことですか。
はい。』(第七七回公判調書)
第六項の裁判所採用部分についても、西村証言の趣旨の犯意を一歩も出ていない。
同人の証言。
『ところで、あなたの二回目のほうの四四年の二月三日のあなたが話をされたことを書き取つていたということになつている調書があるんですが、このほうを見ますと、先ほど来、お話のような、昭和四〇年の一〇月に本店に戻つてからあとあなたはよく覚えてないようですけれども、社長の中山さんの奥さんにお金をいくらか渡していたというようなそういう調書になつているんですが、例えば、三万とか五万とか、そういう金額で月にいくらあつたかというようなことは覚えてないとおっしゃっておるんですけどね、中山さんの奥さんが、お店の方からお金をいくらか受け取りますね。そのお金をポケットに入れるか財布にいれるかわりませんが、どこで、何に使うということは、あなたには、わからないんじゃないですか。
わかりません。
一緒にお店からもらったお金で買物に行ったとか、そんなことないでしょう。
はい。
そうすると、生活費に使つたのか、お店の何かの経費あるいは借金払いに使つたのか、そのへんのことろはあなたとしては、わかるはずありませんね。
はい。』(第七七回公判調書)
原判決がほ脱手段としての売上除外行為の存在と、被告人の不正行為認識の証拠として、右証拠を採用したとすれば、その誤りであることを明白である。
溝田洋子の検面調書について検討する。
右調書に次の記載がある。
『売上金の内から預金の前に差し引くと言えば、時々奥さんが、前日私達に、明日何万円とつておいてと言つて指示されるので預金の前に売上金の中から言われた金額だけを別にしておき、奥さんが取りに来られた時に渡していました。月に二、三回位はあつたと思います。一回平均三万円前後で出納帳にその都度記載しています。』
右記載は、同人の次の証言に照らせば、ほ脱の手段としての売上げ除外方法でないことが明瞭である。
帳簿に正確に記帳しながら、不正に売上除外するなどということはとうてい考えられない。
『今、社長に聞いてみますと、預けたお金は、そのまま月曜日に会計の、たとえばあなたならあなたににお返しするだけで、そこから奥さんに、何に使うかは別にしても、必要なものは、あなたなり、会計の人にいつて、たとえば三万円出して下さいという形で預かつた中から、自分で最初に引いてしまうということは、そんなやり方するはずがないんだとこういつているんですけれども、だからあなたの思い違いじゃないでしょうか。
そういうときもありますけれども、引いたよというときもあつたと思うんですけれども。
そうすると、だまつて現金を少なくするんじゃなくて、この中からいくら引いてありますからと、はい。
そういわれて、前の晩あるいは前々の晩に預けたお金よりも少なくなっている場合があつたということですか。
はい。
そうすると、結局、一旦渡してそこから三万円なら三万円引くのと同じことですね。
そうですね。
手順をちょっと省略しただけのことですね。
はい。
いずれにしても奥さんが、売上げの中からお金をいくらか、何に使うかは別にして、そこから受取るときには、ちゃんとその計算がわかるように、いくら引いたかわかるようにしておつたわけですね。
はい、そうしていたと思います。
あなたとしては、奥様に渡したときは、ちゃんと帳簿に、どの帳簿かは別にして、必ずちゃんと記帳しておつたと、
はい、そう思います。
その帳簿というのは一種類でしょう。何種類も帳簿があつちにも、こっちにもあったわけじゃないでしょう。
はい、そうです、一つです。』(第七八回公判調書)
なお溝田の検面調書の次の記載は、被告人に於て、不正に除外をする認識のないことを裏書きする証左とみられることを指摘しておく。
『その外、時たまですが、社長が現金を幾ら用意しろという事があるので、売上金から準備して、渡す事がありますが、社長はあまり売上金をいじるのを好きじゃあなさそうで、殆んど小切手で支払いしていた様でした。』
(三) 給与所得等についての所得税確定申告書に所得税の不記載
(1) 原判決の認定
原判決は、昭和四〇年分については、「給与所得、不動産所得及び雑所得について」同四一年分については「雑所得について」、同四二年分については「給与所得については、その一部を雑所得については、その全部を」各々所得確定申告書に記載しないという不正の方法を用いて、虚偽の所得税確定申告書を提出し、所得税をほ脱したと認定した。
(2) 原判決の誤り
原判決は、給与所得等の不記載が、被告人の過失による申告漏れであるとの弁護人の主張に、何等の判断を示すことなく、被告人がほ脱の手段として確定申告書に右各所得を記載しなかつたと認定している。
しかしながら、この原審の態度こそ、原判決の結果責任主義を露骨に示すものである。
原審記録中、被告人が右給与所得等について、「偽りその他不正の行為」によつて、「虚偽無申告」に及んだとする証拠は、皆無である。
判例は、「所得秘匿行為を伴わない無申告の事実だけでは、たとえ帳簿が皆無の状態のもとでとの無申告であつても法人税方第一五九条の不正の行為には当らない」とする(東京高判昭和五三・八・三〇税務訴訟資料一一一号六三八頁)。
もとより当然である。
何等所得秘匿行為を伴わない単純不申告だけでは、「虚偽無申告犯」とならず、「不申告犯」となるにすぎないことは明白であろう。
原判決は、この点についても、被告人の認識の問題、故意の問題を全く度外視して、不正行為の存在を誤認したものであり、責任主義の大原則を無視した、違法判決であることは明らかである。
(3) ほ脱結果の発生の認識
<1> ほ脱の結果は「偽りその他不正の行為」に基づく実際所得額と申告額との不一致である。もともと偽りその他不正の行為の認識のなかつた部分については、ほ脱の結果は、発生しない。
差額が生じたとしても、単純過小申告は不可罰であるから、実際所得金額と申告金額との間の不一致の全部の金額が、ほ脱の結果となるものではない。
単に両者に不一致が生じた場合だけでは、犯罪としての結果が発生したとはいえないのである。
ところで被告人が、原判決認定のような、ほ脱結果の発生について認識していた証拠があるであろうか。原審記録中全くその証拠たるべきものは存在しないのである。
原判決は、架空名義預金に売上の一部を入金するなど、不正の方法を用い、ほ脱したと認めたが、売上除外→架空名義預金の金額は、ほ脱結果の金額のごく一部に過ぎない。
原審認定のほ脱金額全部について、その結果発生の認識が被告人に存在していたと推認できる証拠は存在していないのである。
逆に被告人は、ほ脱結果の発生がないことについて、確信を持つていたことが前述のとおりに証拠上明らかである。
<2> 原判決は、弁護人が原審において指摘した(弁護要旨二頁以下、同七五頁以下等参照)多額の「不明入出金」問題について、全く理解していない。
その上で、弁護人の「不明入出金」中、「不明入金」の一部が簿外借入金であり、「不明出金」の一部が簿外借入金の利息等である等の主張を排斥した。
しかしながら、所謂「不明入出金」問題の合理的解明をなし得ないまま、被告人が多額の簿外借り入れと、その利息金の支払いをしていた事実に関する、具体的で、一貫した主張をどうして排斥できるのであろうか。
被告人は、調査段階で所持していたメモ(領証一号)について次のように述べている。
『問十三 あなたの個人借入金は、いくらほどありますか。
このとき本人が着用していた上着のポケットからち領置した証 を示す。
答 これは困ります。
問十四 説明して下さい。
答 これは約一ヶ月前、私が吉野に命じて作成したもので、会社と個人との借入金の明細です。
総額は壱億五千万円程あります。これは、銀行以外の借入金の証明です。』
(検二三七号証-被告人の質問てん末書)
被告人の簿外借入金の存在と、借金経営の実態について、金孝証人は次のとおり証言する(第九〇回公判調書二一丁~二三丁裏)。
「素直にいいまして、驚きました。私はもう少し、裕福な企業だというふうに理解して入りましたけれども、入つてみたら裕福どころか、その日暮しというような表現がピッタリのような状態でしたので、素直に言いまして若干失望しました。ただ、銀行折衝から受ける感触やら、それからいわゆる高利の個人借入金の増加の状態を見て、新たに、銀行からの借入ができる状態であればまだ、事業いうものは成立つと、私達はごく、初歩的に理解してましたので、銀行金利以上のものになると、事業は成立たないという、素朴な先入観がありましたので、このままいつたんでは、先行き非常に暗い個人の事業であるところで、整理しなければいかんじゃないか、というような意味のことは、お話申上げたことはあります。』
右の各証拠に照らせば、被告人の簿外個人借入金について、原判決が「仮に主張のような個人借り入れがてなされていたとしても」事業上の必要経費にあたらないとして、簡単に排斥するのは、問題である。
原判決も、被告人の個人借入金の存在を全く虚構であるとまでは、言い切らなかつた。貸主が、貸金の事実と利息受取の事実を証言しているからである(宋彦澤証言外)
そうだとすれば、被告人は、仮に事業上の必要経費と認められるか否かは別としても、これら多額の個人借入金の利息金は、必要経費として認められ、所得計算上直接関係するものと信じており、所得につき、ほ脱結果が発生するとの認識をしていなかつたことが明らかであるといわねばならない。
少なくとも、かかる認識があつたとの推認をなしうる何等の証拠もないのである。
右のとおり、必要経費面からみても、被告人は、「偽りその他不正の行為」に基づいて、実際所得額と申告額との間に不一致があるとのほ脱結果の発生について、認識をしていないのである。
原判決は、この点においても、被告人の認識の問題、故意の認定の問題、証拠を無視して安易に認めたものといわざるを得ない。
三、結論
本件被告事件は、もともと、被告人が偽りその他不正の行為に基づいて、税をほ脱したという、ほ脱犯の具体的構成要件に該当する事実の証明がない事案であるが、少なくとも被告人に、ほ脱犯の構成要件に該当する事実の認識があつたとする証明はない。しかるに、原判決は、以上述べたとおり所得税法第二三八条の解釈・適用と証拠の評価を誤り、ほ脱の故意を認めるという重大な誤認を侵したものである。
既に原審において、弁護人が主張・立証したとおり被告人の営業は、いわば借金経営であり、そもそも売上除外の必要がない。また、不正に売上除外をなす余地のない営業形態である。
検察官は、月々多額の不正に除外した現金を、いつ、どこに、どういう形態で具体的に秘匿していたかという立証を全くしていない。「不明入出金」の解明も同様である。
強制捜査をしながら、不正売上除外と、ほ脱の結果によつて、被告人が資産を増加させたという証明もない。
かえつて、被告人は借金経営の行き詰まりと、本件弾圧の結果として、自己の店舗を次々と手放すことを余儀なくされ、この代価をもつて借入金の清算をしているのである(被告人の供述、金孝証言等)。
右のような諸般の事情に徴しても、被告人に、脱ほ脱の故意が存在する余地のなかつたことが、客観的に明らかというべきである。
以上
第五章 原判決の事実認定の基本的欠陥
一、原判決は仮説の事実にすりかえている。
ひとつの真実が発見されて確定されていく作業は、いくつもの仮説(推測)をたてることから出発する。その仮設の中で証拠に合致しないもの、裏づけのないものは排斥され、ただひとつ証拠によつて裏づけされたもののみが真実として確定するわけである。仮説と事実は厳密に区別されることが必要である。それと同時に仮説が事実になるためには証拠による裏づけが必要だということもけっして忘却されてはならないのである。
しかるに、原判決のなした事実認定のひとつの大きな特徴は、この仮説を何の証拠にも基かずに事実と確定しているところにある。
たとえば、後にもまたふれるが、給与支払い資金の出所についての認定である。原判決は帳簿上「給料」と記載されている以外の分は全部売上除外金でもつて支払われたと認定している。
しかしながら、給与(帳簿に記載のない合計六六五万円分。以下同じ)は売上除外金から支払われたのではないかというのは、たんなるひとつの仮説にすぎない。それは未だ事実として確定されるものではない。その仮説が事実になるためには売上除外金の存在とちょうど給与支払時期にその売上除外金が使われたという間接事実によつて裏づけされることが必要である。右裏づけがなされない限り、右に述べた仮説は永遠に仮説にとどまるものである。何故なら、給与支払の資金が、売上除外金以外にありえないならともかく、そうでなく借入金もあれば、講の落札金もあるのであるから、資金出所不明イコール売上除外金と短絡的にはけつして結びつかないからである。仮説としては、借入金や講の落札金もなりたつのである。それが右に述べたような間接事実による裏づけがなされてはじめて売上除外金が他の仮説を排斥して事実としての確定するにいたるのである。
しかし、原判決はそうした検討をはじめから全く放棄してしまつている。売上除外金と気易く言つているけれども、一体その金はどこにあつたのか。前記の河原茂や新川正克名義の預金をここでも売上除外金と言つているのか。それならその預金から給与支払時期に金が動いたとでもいう記載があるのか。こう問いかけていけば、河原茂や新川正克名義の預金額を売上除外金といつているのでないことも、そんな言い方が出来ないことも分かる。それなら、その売上除外金は一体どこにあつたというのか。原判決は何も答えるところがないのである。どこにあつたかさつぱり分らない金のことであるから、給与支払時期にその金が動いたかどうなどというのは全くもつて分らないのである。要するに原判決は何の証拠の検討も裏づけもなしに仮説を事実と認定しているのである。これはまさに冤罪の構造以外の何ものでもない。
二、秘匿した所得は一体どこに存在するというのかについての認定・証明は一切ない。
原判決は、昭和四〇年分について言えば、三三〇〇万円もの所得を秘匿したと認定した。昭和四〇年から昭和四二年の三年間では金一億〇五〇〇万円の所得をごまかしたというのである。然らばその一億〇五〇〇万円の所得分は一体どこに存在するのか。それについて原判決は何ら答えるところがないのである。
たとえば、窃盗犯の例をとれば、物を盗んだという事実を認定する場合盗んだ品物はどうなつたのか、現在でも被告人の手元にあるのか、それとも処分したのか、それとも処分したのか、質入れでもしたのか、捨てたのか等の事実の確定が必要となつてくる。盗んだ品物の存在、行方がどうなったのかの事実がさつぱり分らない様であれば窃盗行為そのものが拒否されざるをえないのであろう。
本件の場合も、右と同じく被告人が秘匿したという金がどこにあるのか、あるいはどう処分したのか等についての事実の確定が必要であり、その事実の確定が出来なければ所得の秘匿そのものを拒否せざるをえないことになろう。
しかるに、原判決は前述したように、たとえば昭和四〇年分について三三〇〇万円もの所得のほ脱を認定しておきながら、その所得はどこに、どう形をかえて存在するのかを一切明らかにすることができなかった。言葉をかえて言えば、損益計算法(P/L)と本来一致すべき財産増減法(B/S)を完全に無視しB/Sからの検討を放棄してしまつたところに原判決の事実認定の際だった特徴が存するのである。弁護人らが主張するB/Sは弁護人の冒頭陳徐書一五七頁に具体的な数字でもつて示している。原判決がこのB/Sを否定し、前記のような所得を認定するなら、その所得を含めて改めてB/Sを組みその所得がどの様な形で存在するを明らかにすべきであつた。そのことをはじめから放棄してしまつた原判決の事実認定は結局偏頗なものでしかないと言わざるをえないのである。
三、被告人の資産状況を無視している。
1.原判決認定の事実によれば、前述のように被告人は四〇年から四二年の三年間に金一億〇五〇〇万円の所得をごまかしたことになつている。
仮に、被告人は右金額を本当に脱税していたとするならば右金額がどこかに何らかの形で残つているか、あるいは何らかの形で消費していることが明らかにされなければならないが、原判決は前述のように何も明らかにしていない。
実際、被告人に隠し資産や多額の資産を消費したとの事実が存し無かったことは、査察によつて明らかとなつたどのような証拠をみても被告人方あるいは銀行等に何らの資産を見い出させてないことより明らかである。架空名義預金とされる預金も銀行側の要請により作つたもので資産を隠すために作られたものでなく、又、入金された金額も一〇〇万円はおろか数十万円という微少額にすぎない。
2.それどころか、被告人は当時多額の債務を負つており、借金の返済に追われ、金策に走りまわっていたことが被告人や関係者の証言により明らかとなつている。
ことに、査察当時に所持していたメモ(領証一号証)や、そのメモについて査察官からの詰問に対し被告人は次のとおり答えていることからも多額の債務を負つていた事実は明らかである。
「問 本職は本人が着用していた上着のポケットから領置した証券を示す
答 これは困ります
問 説明して下さい
答 これは一ヶ月前わたしが吉野に命じて作成したもので会社と個人の借入金の明細です
総額は一億五千万円程あります
これは銀行以外の借入金の明細です。」
右の査察は何の予期もなく突然に行われたもので予めメモを作為的に偽造して持つていたものでもなく、又、供述を見ても貸主の立場を考慮して公にできない旨を示しているなど右供述そのものは充分信用性の存するところである。
3.被告人が多額の債務を負つていたということは、査察当時の調査状況と共に、本件事件後被告人が身柄を勾留されるなどしたことにより金策がつかなくなり、所有の店舗を次々と売却せざるをえなかったことを見ても明らかである。
4.控訴裁判所におかれては、そもそも脱税するだけの余裕を被告人は持つていなかつたことをまず明記しておかれたい。
四、借入方法についての誤解している。
1.なお、原判決は被告人が多額の債務を負つていたことについて高額にもかかわらず何らの担保をとつていないこと、多額の債務を証拠もなしに貸し借りするのはおかしいなどといつた理由により、債務そのものを否定する判断を示している。
2.しかし、前述の査察当時の所持していたメモにも明らかとなつており、被告人は現実に多額の債務を負つていたのである。
さらに多額の債務についても何らの人的・物的担保をとらず、また、客観的資料云々についても、貸した方が種々の理由から公にできないことにより、明確な契約書・受領書等をとらずに貸し借りすことは現実に存するのである。
このような事実は前述の別件の三越土地の事件においても明らかにれているし、又、証拠をとるとらないということにさほどこだわらない在日朝鮮人社会の実態からも示されるところである。
すなわち、朝鮮人が外国である日本国内で商売をつづけるにあたつては公的機関や銀行等の金融機関からの融資はなかなか受けられず、結局同郷人の間での援助によつて商売をささえている一面が非常に強いのである。
つまり、在日朝鮮人の間での援助を受けられるか否かが商売をつづける上での生命線なのである。
そして、在日朝鮮人の間では日本人の間の取引における担保や書類の完備は必要でなく、どんなことがあつても返済するという「信用」そのものが資本となり担保となつている。
借りたものは書類があろうがなかろうが必ず返済するし、返済しなければ即ち「信用」をなくし、商売ができなくなる、他方返済しつづければ書類がなくても信用を維持し借りつづけられるのである。
右の事実は在日華僑の間での貸し借りと同様のところである。
控訴審におかれては、日本社会の中で少数民族が生きていくために、同郷人が助け合つていかざるを得ないという事実を正確に把握されるべきであるし、原判決がことさら無視したとしかいえない取引の実態を正確に把握されたく、切に希望するところである。
第六章 昭和四〇年度分の所得について
第一、売上金
昭和四〇年度の売上金額について原審は検察官の主張を一部採用し、三億七八一七万八四六七円と認定しているが、右は事実誤認である。
一、伏見信用金庫東寺支店の中山政夫名義の口座について
1.原審は右伏見信用金庫東寺支店(以下伏信東寺という)の中山政夫名義の口座への入金分について、一部は弁護側の主張を入れて、借入金であることを認めたものの九月一八日入金分一〇万円、九月二一日入金分三〇万円、九月二八日入金分の一〇二万円にいては売上除外金であるとの認定をした。
2.右認定の理由として原審は第一に当座勘定帳に借入金の場合は「〇〇から借入」との記載があるが、本件入金分にはそのような記載はないこと、第二に九月一八日の五〇万円以外の借入先については被告人は具体的な供述をしておらず、借入に関する客観的資料も存しないこと、第三に本件以外についても右当座勘定摘要欄に単に「現金」とのみ記載があるにすぎない入金につき、検察官が売上金とし弁護人も異議を述べていないものが相当あること、第四に当座勘定の記帳状態、記帳内容、当該入金日前後の他の預金口座への入金状況や溝田洋子の検察官に対する供述調書等によつて窺われる売上状況等をあげている。
3.しかし、右認定の理由はいずれも理由不備にあり、明らかに事実に反する。
(一) まず右第一の「〇〇から借入」との記載が本件にはないとの理由を原審はあげている。
しかし、借入との記載はないかもしれないが、「売上金」との記載も存せず、右「借入」との記載がないというだけでは何ら理由にはならない。
むしろ原審自体が本件問題となつている九月一八日の入金分の内五〇万円については借入金であるとの認定をしたように、借入金でありながら何ら内容を記載しない場合も存するのであり、現金とのみ記載してあるだけで売上金であるとも借入金であるとも即断できないというのが事実である。
(二) 次に原審は第三の理由として当座勘定帳摘要欄に単に「現金」とのみ記帳があるにすぎない入金につき検察官が売上金として、弁護人も異議をの述べていないものが存することを理由としてあげている。
しかし、そもそも弁護人の主張は記帳後一〇年以上も経過した後に主張したものであつてその主張には誤解による誤りも存する可能性が多分に存することをまず、考えなければならない。
そして、右「現金」とのみ記載してあるものについての弁護人の主張も一日に一度は売上金を入金しているだろうとの推測がなれたものであり、売上金であると断定的に主張したものではなく、本件で問題となつている分については、いずれも同日付で二度と「現金」との記載がされているものであり、一日に二度売上金として「現金」の項目で入金することは他の例からしても考えられず、原審が認定をした九月一八日付の六〇万円の内の五〇万円だけが借入金であると考えるよりも、同日付で他に売上金としての項目の入金がある以上、他の分については借入金と解するのが相当である。
ただ裁判所が指摘する三月二五日の入金分二〇万円二一〇〇円については一日二度の「現金」の入金があつたことになるとの反論が可能であるが右は単なる弁護人の主張もれであり右金員も借入金であると主張を変更し検察官の主張に対しては異議を述べる。
(三) 次に原審は第二の理由として九月一八日の五〇万円以外の借入金について具体的な借入先、借入条件等を被告人は述べず、借入に関する客観的な資料も存しないと述べている。
しかし、年間売上三億円を越える経営を担当し、経営が窮迫しているため新たな融資先を捜すのに追いまわされ、数多くの借金を繰り返していた被告人が一〇万あるいは一〇〇万円程度の借入先を全て熟知している方が不自然であろうし、又、借入後二〇年近くも経過してから一〇〇万円程度の借入先を具体的に証言できないからといつて、そのことをもつて借入であることを否定し売上であると被告人に不利益に認定することが被告人に対し不利益推定とならないとする原審の認定の方が明らかに違法である。
被告人の当時の経営は、前述したように借入を繰返し事実上自転車創業を行つていたのであり、一〇万・一〇〇万単位の借入を何度も繰り返していたのであり全て具体的に証言することは不可能な状態であつたと言わざるをえず、かつ又、一〇年近くたった時点で具体的に証言せよと要求するのは不可能なことを被告人に要求するものであり右証言を具体的に出来ないからといつて被告人に不利に認定した原審の判断は明らかに疑わしきは被告人の不利益にとの認定であると言わざるをえない。
(四) 次に原審は「その他当座勘定帳の記載状態、記帳内容、当座入金最後の他の預金口座への入金状況や溝田洋子の検面調書によつて窺われる売上状況」をその理由としてあげている。
しかし、そもそも記載状態・内容のどの点をとらえ売上であると認定したのか否か定かでなく、他の預金口座への入金状況や溝田洋子の検面調書の内容も同様にどの点をとらえているか全く定かでない。
原審の認定方法は単に証拠の標目をあげているにすぎず、いかなる証拠のいかなる部分から売上金であると認定したのか全く不明でありその一事をとつてしても、理由不備であるとの批判をうけなければならない。
それだけでなく、当座勘定帳の具体的な記帳状態や内容、他の口座への入金状況等からすれば売上金であるとの認定は非常に難しいはずでるあ。
すなわち、当座勘定帳それ自体には意図的に虚偽の記載をしていたことは検察官も原審も指摘していないのであり、その記載自体は一応事実に近い推定が働いているものであり、あるとすれば単なる過失による誤記の存在が考えられるだけである。
そして、本件で問題となる具体的な箇所の具体的記載を見てみても、それぞれ同日付けで「現金(売上金)」と記載のある入金が個別に存するのであり、同日付けで売上金の入金が二つなされることは他の日との比較からみて存せず、むしろ、同日付で売上金としての入金がなされているのに、それとは別個に単に「現金」とのみ記載してあるにすぎない項目が同日付である以上、右「現金」は売上金と別個のものてあると解するのが素直である。そして入金の態様としても、伏信東寺の口座には売上の金額を入金していたとみえ、売上金の項目としての入金は一〇単位あるいは一円単位の端数のついた入金が常になされているにもかかわらず、本件入金は九月一八日及び同月二一日付一〇万円単位、又同月二八日付一万単位と切りの良い入金になっている。これは売上金としての入金よりむしろ借入金であるの弁護人の主張と合致するものである。
さらに前後の他の口座の入金状況からしても、九月二一日は四九万七九四〇円、九月二八日は一七万七七八〇円とけっして他の日と比較しても少なく、むしろ九月二一日については多いぐらいである。
ただ九月一八日については売上金としては伏信東寺と商工信用九条支店に、計八万一六九九円の入金しかなく若干少額であるかもしれないが、銀行に入金し、銀行帳に記載される金額は景品代等の支払いをひいた残りであり(売上から景品代等を支払つた時はそのことは銀行帳にはでてこない)景品代金の支払いが重なつて支払いが一時に多額になることも存するのであり、さらに又、一万円単位の入金が他に全くないわけではなく、パチンコ業が一種の賭博の経営である以上売上に変動の存することは当然ありうるものであり、常に一定額の売上が存することは事実上ありえないのである。つまり確率的には、時として多額の収入をあげることもあると同時に、時として赤字になることも存するのが必然であり、時としてそのような事態が存しなければおかしいのである。原審は溝田洋子の供述をも引用しているが、仮に右供述の任意性を認めるとしても右供述も平均値としては理解しうるかもしれないが、個々的にプラス・マイナスの差が広がることの存在までも否定しつくすことはできないはずである。現に他に少数日ではあるが、一万円単位の売上入金しか存しないことが存していることは右の事実を如実に裏付けるものである。
さらに原審は、九月一八日の入金分については「現金」としか記載のない項目の入金分六〇万円のうち五〇万円については借入金であり、残りが売上金であると認定している。しかし、右事実認定は実に不可解である。
五〇万円が借入金で一〇万円が売上金であるならば、五〇万円と一〇万円とを別の項目に分けて記載していたはずであると解するのが他の記載状況から推測して妥当なはずである。現実は一括して記載している以上むしろ両者とも借入金であつたと解するのが合理的であり通常の記載方法である。
原審は被告人が具体的な借入条件等について供述できないということにとらわれて、他の証拠の評価を不当に誤つているといわざるをえないのものである。
(五) さらに原審は何を誤解したのか不明だが中山政夫名義は架空名義ではないにもかかわらず、架空名義への入金と認定しているかのようである。中山政夫は被告人の日本での通称であり中山政夫名義の口座に隠し金を入れるなどということのは脱税の手段とはおよそなりえないものであるし、中山政夫名義に売上除外金をわざわざ入金すべき必要性も存しない。
日本名を強制された歴史的事実下での朝鮮人にとつては中山政夫名義は通称というよりも本名であり、本名の口座に売上除外金を入金する意味は全く存せず、又、本件中山政夫名義の口座は原審の認定している架空名義に入金したとるとすころの「架空名義の口座」ではないのである。
控訴審におかれてはこの違いをはつきり区別しておかれたい。
二、中山観光に対する貸付金充当金について
1.中山政夫の山中観光(株)に対する貸付金の内、一四三万六九五〇円については、弁護人の被告人が個人借入したぶんから貸付たものであるとの主張を否定し、逆に検察官の主張を認め、売上金であるとの認定をした。その理由とするところには、第一に個人借入の借入先・借入金額・借入条件等について具体的供述がなく、客観的資料も存しないこと、
第二に、被告人の預金口座から出金した事実がないこと、第三に、本件貸付前後の預金状況等を総合考慮して売上金から充当したものと認定したとする。
(二) しかし、右理由はいずれも売上金として認定し得る理由としては不充分である。
(1) まず第一に中山個人の借入を山中観光(株)に貸付たとする弁護人の主張は前述したとおり、十数年を経過した後の主張であり定かでないものである。
右主張は多分個人借入分をまわしたのであろうという主張にすぎない、言うまでもなく、刑事責任を認めるためには売上除外金であるとの積極的て立証責任は検察官にあるのであり、弁護人にはその責務は存しない。
(2) そして、検察官側の主張立証は「その資金出所が不明である」との一事にすぎない。出所が不明だから売上除外金とするというのは、まさしく疑わしきは被告人の不利益にとの原則を示したものであり、現行訴訟法の原理とあい入れないものである。
(3) 現実には前述したように被告人は当時多額の債務を負つていたのであり、また事実上自転車操業をしていたのである。年間三億を越える事業の経営者が小口の債務を何度も何度も繰り返している中で、いくつかの借入先、借入条件等を一〇数年後に詳細に証言できないからといつて、借入金でないと言いうるのであろうか。
(4) さらに原判決は被告人の預金口座から出金の事実がないというが、検第一号証の伏見信用金庫東寺支店との取引状況を見れば明らかなとおり、一年を通して差引残高は常に借入超過となつている。預入れよりも借入の方が多い時には当然利息がついているのであり(日歩三銭程度)、第三者から高利で借入した分を再度当座に入れてすぐに中山観光に貸付けても何ら利益の存することろではない。(低利で借りた金を高利で借りているところに入れるということはあるかもしれないが、高利で借りたものを低利のところへ入れるということは余り意味のないところである)又、検事は売上除外金からの貸付と主張しているが、その多額の売上除外金の出所を明らかにしてない。仮にタンス預金にでもしていたところからの支出であるとしたら、借入超過であり利息を支払わなければならない状況が検一号証より明らかであるにもかかわらず、売上除外金を利息の付かない状態でプールしておくことも通常考えられないところであり信用できない。この点からも売上除外金から中山観光へ貸付けたという根拠が否定されるものである。
(5) 原判決は「本件貸付前後の被告人の売上金の預金状況等」も売上除外金であるとの理由としているようであるが、そもそも、右の売上金の預金状況とはどのような具体的事実をとらえているのか不明であり、また「等」との理由も何もさしているのか不明である。
本件で問題となつている入金の期日は、一月二五日に五万円、四月一二日に五六万円、八月三一日に四〇万円五六〇〇円、九月一八日に六万円、一一月三〇日に一三万円と一三万一三五〇円である。
ところがその前後の入金状況をみてみても、当該入金日の右金額以外の入金額が決して少額といえる事実は見あたらず、売上金の預金状況からも売上除外金を中山観光へ貸付けたとは言えないものである。
(6) さらに、中山観光が中山個人から借入する場合は中山観光の帳簿にはその旨記載さている。
検察官の主張するようにあくまで脱税の手段として売上除外金から貸付けたとするならぱ、中山観光の帳簿にも中山との名前を出さないはずであり、それがいわゆる通常の脱税の手段である。
ところが、本件では現実に中山の名前を出して記帳しているのであり、脱税を考える人間の行動としては理解しにくいものであり、このことは逆に中山が何ら脱税を意図していなかつたことを示すものである。
(7) 又、仮に借入金等の具体的条件が明らかでないとして、検察官の主張するように資金出所が不明であるといわざるを得ないとしても、そのことは借入先が不明であるということを消極的に示すにすぎず、売上除外金を流用したとの事実の積極的立証とはなつていないものであり、原判決でも、積極的証拠による認定は何らなされていてい。
従つて、疑わしきは被告人の利益にの原則から売上除外金を流用したとの認定は否定されるべきであり、原判決は違法な認定をしていると言わざるをえない。
2.康田健夫の中山観光への貸付金について
(一) 原判決は中山観光への康田健夫の貸付金についても、売上除外金であるとの認定をしている。
その理由としているところは第一に康田健夫各義が国税査察官に対し中山観光へ貸したことがないと言つたと査察官が供述したこと、第二に、高額の貸付金であるにもかかわらず貸付の客観的資料がないこと、第三に本件貸付前後の売上金の預金状況等からとしている。
(二) しかし、右の第一の康田健夫の供述はそもそも康田本人の供述証拠でなく証人田村の証言中で為された伝聞供述でありその信用性に疑わしい。
原判決は原審で弁護人が異議申立てていないことをもつてその信用性を認めるが如き記載を為しているが、伝聞供述としての信用性に乏しいからこそ裁判所も当然信用しないはずであるとの前提で弁護人は異議を述べていないのである。又、言うまでもなく異議を述べるか否かと信用性の存否とは別個であり、右の理由づけは明らかに自由心証主義を逸脱した違法な判断である。右のような認定が当然であるとするなら弁護側としては今後あらゆる証拠調べに異議をとなえなければならなくなるが、そのような事態になれば、訴訟進行が遅滞することは目に見ており、右の事態を最も嫌悪するのは裁判所のはずである。時に訴訟の進行の迅速を不当に要求しながら、他方、異議を述べないことをもつて不利益推定を当然に認める如き判断をすることは被告人の権利保証の観点から断じて許されるべきでない。
(三) 何度も述べるが、被告人は当時多額の債務を負つていたのであり、その借入先を被告本人だけでなく従業員の吉野孝にも依頼していた。
年商三億円を越える事業を経営し借金を何度も繰り返していた者が全債務の個々の借入先を詳細に述べえないとしてもそれはやむをえない一面がある。しかも、一〇数年を経過して後に総てについて詳しく事実を述べることを被告人に要求することは全く不可能を強いるも同然である。
(四) 第二の、貸付についての客観的資料がないという点についても、前述したように在日朝鮮人の間ではそのような貸借と日常ひんぱんに行われていたものであり、一〇数年後に客観的資料が全く裁判上出ていないといつて右借入の事実を否定するものではない。
(五) 原判決はさらに本件貸付前後の売上金の預金状況からも売上除外金であるとしている。
この点前述の各売上除外金の認定と同様、まずどのような売上金の預金状況から売上除外金としたのか不明であり、この点からだけでも理由不備である。
又、本件では四月三〇日の一二〇万円、一一月三〇日の一〇〇万円をそれぞれ売上除外金としているのであるが、その前後の売上金も相応の金額が入金されており、右多額の金額を売上除外として認定すべき証拠とはなりえなない。
又、前述の各貸付金等も売上除外金とし、本件も売上除外金とすれば、むしろ通常の売上金よりも多額になりすぎるぐらいである。
(六) 康田自身貸していないと言つているか否かは伝聞証拠でありその真否は定かでないが、仮に康田自身が貸していないとしても、このことが直ちに売上除外金を中山観光に貸付たことに結びつくものではない。
何度も言うが、康田健夫の貸付金でないと仮に言えても売上除外金だとの積極的証拠は何ら示されていない。
むしろ、検一号証にあるとおり、中山個人の当座は常に借入利息の付く借り越しの状態であつたにもかかわらず、本件三二〇万のもの多額の金銭を利息もつかない状態でプールし、一定金額になった後、中山観光に貸し付けると考える方が明らかに不自然である。
疑わしきは被告人の利益の原則から、康田健夫名義の貸付金も売上除外金と認定するのは違法である。
三、給与賞与充当分について
1.原判決は弁護人が簿外借入分であるとの主張する一月分一五万円、二月分一六〇万円、三月分四五万円、七月分九五万円、八月分一七〇万円、一一月分一八〇万円(京信七条中山政夫名義)について、弁護側の主張を否定し売上除外金であるとの認定をした。
2.右売上除外金の理由として原判決は第一に一一月分の支出は月なかばの支出であり、給与支払いとの関連性がない、第二に簿外借入についての借入日、借入先、借入条件などについての具体的主張がない、第三に借入についての客観的資料がない、第四に日銭が入る被告人の事業の性格をあげている。しかし、これらの理由はいずれも売上除外金であるとの理由とはならないものであり、違法な判断である。
3.まず、第一の京都信用金庫(以下京信という)七条支店の普通預金・中山政夫名義からの支出は月なかばの支出であるとの主張は、一一月一六日の支出をとらえて判断しているが、一一月分の給与の支出は一二月二日の三〇〇万円の支出よりてされていのと解するのが相当であり、右批判は誤解に基づくものである。
4.次いで、第二の借入についての具体条件についての主張や、裏付け客観的資料がないとの主張については一、二、で前述したとおり、被告人には多くの債務が存していたのであり、具体的な主張を為しえないからあるいは客観的資料がないからといつて、借入金であるとの主張を簡単に認定することは明らかに事実誤認である。
5.さらに、原判決は第四の理由として「日銭が入る被告人の事業の性格」を理由としてあげているが、右は日銭が入るかどうなるのかということは示されておらず、その理由とするところは定かでないが、仮に日銭がはいるから売上金からまわしたのであろうと理解しているならば、右は経験則に反する違法な推認である。
原審でも主張したとおり、給与というのは当然必要経費として認められるものであり、その必要経費となるものを、わざわざ出所の明らかに出来ない売上除外金から支出することがあるであろうか。
原審の判断は被告人は売上金を故意に隠していたきだから脱税なのだと一方で言つておきながら、その隠した金は必要経費となる支給にに支払つた分だという認定をしていることになる。しかし、通常脱税する者は所得外の金銭として、どこかにプールするか、不動産・貴金属等の資産に換えて保管するものである。ところが被告人とそのようなものは全く存しないし、その存在は全く証拠上明らかにされていない。
どこの世界にわざわざ必要経費となるものを売上場外金から出す者があるであろうか。給与支払分は売上金として計上した分から支出し、売上除外分はどこかに隠す、これが普通の脱税の態様である。この点で原判決は明らかに矛盾を犯していると言わざるをえない。
6.そして、さらに、原判決が否定する金六六五万円について原判決はその所在を明らかにしていないが、被告人がどこかに隠しておいたとでもいうのであろうか。
前述したように、被告人の伏信東寺の当座は常に借越の状態が続いていたのであり、利息を支払わなければならない状況にあつた。にもかかわらず被告人が右六六五万円もの金額をタンス預金にでもしていたというのであろうか。
そのようなことは、通常考えられず、この点でも原審は証拠の評価を誤つていると言わざるをえない。
又、単にその日の売上金をそのまま給与にまわしたとすることも、逆にその日の売上が異常に過大となることになり考えにくいことである。
以上より、いずれにしても借入金から支払つたとする弁護側の主張を否定する原審の判断は違法であると言わざるをえない。
7.さらに、仮に借入金から支払つたものでないと言わざるをえないとてしも、原判決は売上除外金より支払つたとする具体的な証拠を何ら認定しておらず単に借入金でないという認定をしているにすぎないものであつて、右理由のみで売上除外金より支払つたと認定するのは明らかに疑わしきは被告人の不利益にの判断をしているものであり違法である。
すなわち、原判決は判決書の二九丁末から三〇丁にかけて、借入金から支払つたものでないとの理由を示しているが、右否定の理由を示しただけで、売上除外金から支払つたとする根拠については何ら示すことなく給与総額二二六四万二五七〇円を認定し、出所確定分を差し引いた残額総てを売上除外金であるとの認定をしている。
右はまさしく原判決が疑わしきは被告人の不利益にの原則に立つていることを如実に示しているものである。
何故給与総額から出所確定分を差し引いた残額が総て売上除外金から出たものであるとの推測が成り立つのであろうか。出所を客観的に示す具体的資料がないとしても、それはもともと書類などを作つていないのかもしれないし、あるいは作つた書類を破棄したのかもしれない。立証責任を検察官が負うとの原則からすれば右可能性を総て否定し、売上除外金から支出したものであるとする積極的な証拠により立証されて初めて、原判決のような結論に至ることが可能となるのである。
ところが、原判決は右可能性を否定する証拠は勿論のこと、売上除外金から支払われたことを示す積極的証拠も何らしめされておらず、違法な認定であると言わざるをえないものである。
何度も主張するが弁護人の主張を否定することのみで検察官の立証責任をつくしたことには何らならないのである。
四、家計費充当分について
1.原判決は、家計費充当分を田村証言、西村栄美子の証言から月一〇万円と認定した。しかし、原判決が右証言のどの点をどのように評価したのか明らかでない。
ただ、原判決は西村栄美子証人の「被告人の妻の要求に応じて不定期に家計費として渡していた」との証言に判決の根拠を裁判所は見いだしているのかもしれないが、右証言は弁護側の反対尋問により、個人的なものとしてだけ支払つたものかどうかの根拠は明らかでなく、単に妻が金を渡されていたことは記憶にあるが、それが家計費としてなのか従業員の賄費等の事業用としてなのかについてははつきりしていないことが明らかとなつており、信用性に乏しい。西村証人は個人の費用として渡したと思つたのは「個人の事務員」からもらつていたからとしか、その理由を言つていないのである。
なお、個人の事務員とは会社の事務員の意味ではなく、個人事業についての事務員の意味であり、被告人個人の秘書といつた意味ではない(第七五回公判調書参照)
2.さらに、被告人には別個に桂タクシー、中山観光の給与月六万円が存したのであり、月一〇万円もの費用が個別に必要であつたとは考えにくいと共に、当座控勘定帳には妻へ支払つた分についてはその都度記載がなされている(例えば伏信東寺、昭和四〇年六月一日等)。
当座に記載されている分、あるいは小切手での引出し分は、一度売上として計上された金額からの支出であるから、これを再度売上除外金として認定することは二重に売上金を計算することになる。
原判決は右を誤解し、いつたん売上として計上してあるものからの支出をも売上除外金からの支出であると誤解して評価していると言わざるをえない。
けだし、そうでなければ、被告人個人の取得分が当時の生活状態、あるいは資産形成よりして(被告人個人に当時資産の存しなかつたことは前述のとおり)多額に過ぎると言わざるをえないし、又、借越のつづいていた当座の記載分を考えればなおさらである。
当時の金銭出納の手続きとしては妻が生活費を持ち帰る際は当座に記帳がなされているのであり、右当座勘定帳に作為的に虚偽の記帳をした形跡の認められない以上、右当座勘定帳の記載は当然信頼できるものであり、妻への支出をそれ自体として記帳している以上、その記帳がない時は妻には渡つていないものと理解するのが相当である。
第二、経費
一、故意について
原判決は、経費については経費にあたるか否かのみを論じ、必要経費にあたると認定した経費を総売上から除外した残額を総て脱税の故意あるものとして逋脱犯として認定している。
逋脱の故意の有無については別個に論じるところであるが、本項においても、必要経費となるか否かと逋脱犯となるか否かは別個であることを重ねて注意的に指摘しておく。
すなわち、必要経費となるか否かは純粋に経理上の問題であって、必要経費に当たらないものを必要経費にあたると考え申告したとしても、そのことをとらえて必要経費にならない分を逋脱しているとは到底考えられない。
右のような行為が逋脱犯となるとすれば、「所得税法がジャングルの迷路のようなもので自分で計算できる人はほとんどいない」(税理士飯塚毅朝日新聞昭和六一年二月一七日朝刊)という現状下にあっては国民のほとんどは逋脱犯を犯していることになろうし、原橋料等の副収入のある裁判官や検事・弁護士とて例外ではないことになる。
純理論的に考えても逋脱の故意の存否を理解するにあたっては逋脱する意図と共に、経費の分については故意に必要経費なるものとして偽つたとの作為的事実の認定が必要である。
従つて、必要経費にあたるか否かの判断はストレートに逋脱の範囲を確定するものとは到底なりえないものである。
学説においても以下のとおり逋脱犯の故意を厳格に解している(板倉宏判例タイムズ一九二号三一項以下)。
すなわち、「所得税の納税義務の内容をなすのは課税対象となるべき一定額の所得の存在であり、右所得は一定の期間内に集積された収益と損費の差引計算によって生じるものであり、右所得の認識は収益及び損費の存在によって初めて認識可能となるのである。」
そして「損金性に対する認識においては、たとえば、税法上必要経費又は損金とみとめられていない損費を計上したばあいに、行為者じしんその損費が税法上必要経費または損金とみとめられていないことを知りながら敢えてこれを計上したものかという認識が問題とされ………逋脱犯の構成要件的故意の成立のために必要である。」
「構成要件に属する事実は、単なる物理的な事象のみではなく、事象に附着する法律的価値関係といったものを含む意味に充ちたものである。ある収益が益金性を有しているか否かは、当該収益の発生という事実に附着する法律的価値関係であり、窃盗罪における財物の他人性のように、構成要件に該当する事実の意味内容を規定する。したがつて、租税規定の不知・誤解などにより、益金性・非損金性の認識を欠くばあいには、逋脱犯のの構成要件的故意が成立しないと考えるべきなのである。」
原判決は弁護人の主張を無視し右の判断をすることなく、必要経費とならない以上、逋脱犯となる判断を安易に示しているのであり、この点でも違法であると言わざるをえない。
二、従業員の給与・賞与について
1.今出川店の給与・賞与について
(1) 原判決は、年間を通じて従業員は最低一三名は必要だつたとの弁護側の主張を斥けて、同一人の近接月の支給額をあてはめて推計するのが合理的であるとして検察官の主張を採用している。
(2) しかし、検察官のよりどころとする賃金台帳に欠落の存するところは原審弁護人の主張するところであり、原判決もその事実を認めているのである(原判決書三一帳裏、二行目以下)。
一方で賃金台帳には一部欠落の存することを判決文で認めながら、他方で賃金台帳(検一二号)の記載のみによつて、給与支給額を認定することは明らかな理由齟齬である。
賃金台帳は被告人方の従業員の事務能力の不足と従業員の定着率が悪く、出入りが激しかったことによるものである(被告人供述九七回調書二丁)。
そこで弁護側は今出川店の業務規模から最低一三名は必要であつたろうとの推測から六月から一二月の月平均支給額三〇万六一〇〇円を一月ないし五月の支給分とすべきだとの主張をしているのである。ところが、原判決は「関係証拠によるも」年間を通じ一三名の従業員が稼働していたものとは認められないとしている。
しかし、そもそも関係証拠とはどの証拠を意味するものが明らかでなく、具体的には一三名の稼働を否定する証拠は何もないはずである。
但し、唯一賃金台帳(検一二号)が右の証拠と考えられようが、それとて前述のように判決自身も認めるとおり欠落が存するのである。
他方、原審認定の稼働人数によれば一月・二月は従業員は七名で在つたことになるが、他方一〇月以降は一五名の従業員が稼働していたことになる。
一〇月以降一五名以上の人数が必要であつた店舗をその半数以下の人数できりまわせるとは到底考えられない。さらに一月・二月と一〇月以降で売上高の差は証拠上認められない。従業員数が倍以上違うにもかかわらず、売上の変化も認められないということは考えられず、売上にさしたる変化がない以上がない以上従業員は一〇月以降と同様の人数が年間を通じて働いていたと解するのが相当である。
他店の従業員数をみても、人数が半数近くも変動している店舗はなく、右弁護側の主張を裏付けるものである。
さらに原判決は石山店については弁護側の右推認方法を合理性のあるものとして認定している。
同様の欠落ある帳簿を基にしながら今出川店の時は弁護人主張の推計を否定し、石山店の時は肯定するのは、この点でも理由齟齬であり、今出川店における弁護側の推認方法の合理性を示すものである。
2.府庁前店について
(1) 府庁前店の前述の今出川店と同様であり、最低必要人一四、五人を満たしている六月ないし一二月の平均給料額二八万五四〇〇円をもつて一月ないし五月の給料とすべきである。
(2) なお、仮に府庁前店の賃金台帳に一部欠落がないとしても、原審は右台帳の集計ミスをしており、右台帳の年間支給額は三一六万六一〇円であり、賞与分を加算すると三四二万三九九四円である。
三、広告宣伝費について
1.原判決は朝鮮芸術団および体育会への支払いを広告掲載費にあたらず必要経費に該当しないとする。
2.右原判決の理由とするところは、第一に広告掲載の客観的資料がないこと、第二に当時の支出額としては高額であり広告掲載代金というよりも寄付金的なものと考えられること、第三に証人洪仁卓の証言からしても営業との間に関連性は認め難いことをあげている。
3.しかし、経理資料伝票類の保存期間を定めたものが何ら存しないにもかかわらず客観的資料が現在に至つても残つている方が不思議なくらいであり、客観的資料がないからといつて、広告を全く出していないとの認定をすることは許されるべきでない。
4.朝鮮芸術団や体育会に対して広告を出すことは、朝鮮商工人としては一般的に為されているところであり、現時点でも為している。在日朝鮮人関係の団体への援助は一般企業からの援助が難しい状況下にあることは日本人社会の在日朝鮮人に対するいわれなき偏見の存在より容易に推測できるところであり、右のような状況下にあつては、朝鮮商工人からの援助が不可欠であり、経営に多少の無理をしても広告を出し、広告による資金的援助をしようとするのは朝鮮商工人として当然のことであつたのである。
従つて多少金額が高額であるからといつて広告掲載金として否定されるべきいわれは存しないものである。
5.証人洪仁卓の証言から、営業との関連性は認められないとしている点も、証言のどの点をとらえて否定するのか明らかでないが、被告人が多額の融資を朝鮮商工人から受けている事実よりも明らかなとおり、朝鮮商工人が業務を円滑に遂行するためには在日朝鮮人の援助が不可欠であり、そのために在日朝鮮人関係の各種団体に広告を出すことは当然事業との関連性を有するものである。又、現在でも他の業者に、広告宣伝費として計上して否認されない例も存する。
6.仮に、現判決の言うように「所得税法三七条にいう必要経費に該当しない」としても、所得税法上の必要経費となるか否かと逋脱犯となるか否かとは全く次元の異なる別個の問題である。
にもかかわらず、現判決は必要経費にならない分を当然に逋脱犯の範囲であるとの認定をしており、右は明らかな違法を犯しているものである。
被告人は検一号証にあるとおり、当座勘定帳に明記して広告代を出しているのであり、右支出を隠す、あるいは虚偽の記載をする等の行為は全く為していない。
従つて、仮に必要経費とならないとしても問題は右支出をどのような経費をして税法上控除できるかどうかの判断を誤つたというただそれだけのことである。
今日、税法上どのような費用をどのような名目で控除しうるのか否かについては極めて複雑化していることは公知の事実といつてもよい事実であり、さらに各税務署の担当官ごとに判断が変わることもよくあり、又、昨年経費として認めたのを本年からは経費として認めないと言うこともよくある事実である。
現判決の判断は、右経費にあたるか否かは極めて複雑であるにもかかわらず、経費にならないからという一事だけでその分は逋脱犯だとの認定をしているのである。
右のような認定が許されるならば一億総犯罪人となつてしまうといつても過言ではない。(右原判決に従えば仮に裁判官が原稿料を貰つた時に万年筆等の購入費を経費として申告したが、税務署が必要経費にならないとの認定をすれば、逋脱犯だといわれてしまうことにもなる)
被告人は原審の認定したように、朝鮮芸術団及び体育会に現実に金銭を支払つているのであり、仮に右支出が必要経費とならないとしても右の支出が経費であると判断することは通常人として当然考えられるところであり、芸術団や、体育会に対する支出であることを考えれば、なおさらである。つまり、仮に広告費として過大であるから税務署で否認されるとしても準公的機関への支出であり、寄付金としても必要経費として控除されると考えたとしてもやむをえないことは容易に推測できるところなのである。
従つて、いずれにしても逋脱犯として認定されるべきいわれはなんら存せず、原審の判断は所得税法の解釈適用を誤つたものと言わざるをえない。
7.又、原判決は「支出金額が高額であり、広告掲載料というよりも寄付金的なものと考えられる」としているが、これも不可解である。すなわち、支出そのものがあるという認定ならば広告費相当として認められる分についてまで広告経費とならないとされるべき理由は存しないはずでなる。(但し、経費となるか否かと逋脱の故意とは別個であることは前述のとおり)
四、交際費について
1.大丸への支出について
(一) 原判決は大丸への支出を全額被告人の家事関係の支出であつて贈答品購入代金でないと認定した。
その理由とするところは第一に一〇月七日の支出は男児スポーツシヤツ、ズボン下、女児ワンピース等の購入代金であり、二月八日の支出は夫人セーター第と認められること、第二に支出内容や、当時の被告人の家族状況をあげている。
(二) しかし、男児スポーツシヤツ等だからといつて家族用と即断すべきいわれは存しないはずである。特に朝鮮関係の人々の間では日本人と異なり、生活必需品や衣服を贈ることは親しい間柄ではよく為されているところである。
裁判所は「酒」や「のり」を贈らなければ贈答品として交際費による控除は出来ないというものであろうか。
さらに、右一〇月七日や二月八日以外の支出についてもなにゆえ家事関係の費用と断定できるのであろうか。
被告人が全く贈答品を贈ることはなかつたとの事実を証拠上裁判所が認定しているならまだしも、そのような事実の認定は存しないにもかかわらず、大丸への支出を全額家庭用と認定することはできないはずである。
年商三億を越える事業を被告人は経営していたのであり、融資の関係者や警察関係者に社会的に相当な範囲での贈答を為していたのは当然のことであり、日本の商取引習慣からいつても当然のことである。
従つて仮に一部家庭用の支払いがあつたとしても(右事実は存しないが)、大部分は贈答用としての支出であつたと評価するのが、被告人の経営状況からいつても、又大丸という高級小売店を利用する顧客の状況からいつても妥当である、というべきである。
2.アメ横の支出について
(一) 原判決はアメ横で購入したボールペンの代金についても客観的資料が存しないこと及び事業との関連性がないことを理由にして必要経費とならないこととしているようである。
(二) しかし、一〇年余りを経過した現在に至つて客観的資料が存しないとしても、別段不思議なことはなくかえつて一〇年余たつても存する方が不自然なくらいである。
さらに、金融機関への贈答は、融資を有利に受けるために当然事業と関連するものであり、必要経費として認められるべきであり、現在の税務処理においても必要経費として認められているものである。
3.河本信明に対する礼金について
(一) 原判決は、河本信明が長岡店を一月半ほど手伝つていたとの客観的資料がないこと及び長岡店を手伝つていたなら給与が支給されていたはずだが賃金台帳にその記載がないことを理由に必要経費とならないとしている。
(二) しかし、昭和四〇年六月に被告人が長岡店を経営して以後一月半程河本信明が長岡店を手伝つていたこと及び現実に七月二日および一二月一六日にそれぞれ一〇万円・五万円を河本信明へ支払つたことは検一号証の「河本マネージヤーへの支払」との記載により明らかなのであり、交際費としてかあるいは給与として控除するのかは別として、経費となることは問題ないはずである。
又、原判決は賃金台帳に記載がないとして、給料を払つていないから手伝つていなかつたとの認定をしているようである。しかし、店を手伝つていないなら検一号証に「マネージヤー」と記載するはずはないし、マネージャーとして手伝つてもらつている以上、従業員の賃金台帳に記載がなくてもおかしくないし、逆に従業員として給与を払つていたならば「お礼」を支払う必要も存しないのである。
事実は退職後も長岡店の経営を引きつぎのため手伝つてもらつていたのであり、又、手伝いであるからこそ「給与」を支払つていなかつたのであり、その金額も従業員に比べて高額なのである。
原判決は検一号証に虚偽が作成されなかつたものであるとの認識は何らしていないにもかかわらず、右河本への各支出のみ虚偽の記載であるとでもいうのであろうか。
現実に河本へ支出を為している以上、交際費・給与のいずれの項目によるにせよ必要経費として認められるべきであり原判決は明らかな違法を犯していると言わざるをえない。
4.以上の交際費の各項目の分についても、仮に原判決の認定するとおり、税法上必要経費とならないとしても、前述したとおり、そのことと逋脱犯となるか否かは別の次元の問題である。
被告人としては必要経費となるものと考えて申告しているものであり、各支出の事実が一号証によつて間違いない以上逋脱の故意を認められるべきいわれは何ら存しないところである。
五、会費について
1.固城親睦会に対する支出について
(一) 原判決は、同会は個人的な親睦団体であり、事業と直接関連するものではないから必要経費とならないとする。
(二) しかし、固城親睦会は「祖国を離れて遠い日本の京都で商売をしている者どうしの相互援助のための会」であり、被告人自身「同会会員から従業員の世話や資金繰りの斡旋を受けていた」のであるから、単なる個人的な親睦団体とは言えず、被告人の事業と密接な関連を有するものであり、当然必要経費となつてしかるべきである。
右のことは、ロータリークラブやライオンズクラブ・経済同友会といつた会への会費などが税務署によつては会費として必要経費となることを認められていることや、弁護士会の会費だけでなく各単位弁護士会内の各会派の会費についても会費として必要経費になることが実際上認められている取扱いなどよりも明らかである。
2.商工連合会、朝鮮総連本部に対する支出について
(一) 原判決は右支出について「会費というよりも被告人の社会的対面を保持するための寄付金的性格を有する」ものであり、必要経費とならないとしている。
(二) しかし、この点も商工連合会、朝鮮総連に対する評価を不当に誤つているものである。
朝鮮総連は国交のない朝鮮の日本における在外公館の役割を担つている一面を有しており、朝鮮人が日本で生活するにあたつては朝鮮総連の活動が不可欠なのである。
このことは相続が開始された時には朝鮮総連が相続人がある旨の証明書を発行して相続登記をしているといつた事実からも明らかである。(洪仁卓証言八七回四七丁以下)。
商工連合会も同様に日本における朝鮮商工人の経営を維持するための不可欠の団体であり親睦の色彩の強い日経連等の日本の経営者の団体以上に事業と密接な関連を有しているのである。
(三) 従つて、各支部に対する会費の支払は勿論のこと、上部団体に対する支払も当然会費として、必要経費に認められるべきである。
3.京都保護育成会、朝鮮中高級学校に対する支出について
(一) 原判決は、右各支出は事業としての関連性がないから必要経費でないとする。
(二) しかし、保護育成会は、朝鮮人の子弟で犯罪を犯した者を保護し、更生させるための活動を行つている団体であり、被告人の事業のイメージアツプとして、又、刑余者を従業員として雇用できるメリットがあり、事業との関連性を認めてしかるべきである。
又、仮に寄付金としてしか評価できないとしても、公益を目的とする機関に対する寄附金については、控除を認める所得税法七八条の趣旨からすれば、更生を援助する保護育成会の趣旨からして当然に寄付金控除が認められてしかるべき事案である。
(四) 又、朝鮮中高級学校に対する支出についても、右朝鮮人学校は、朝鮮人子弟に対する教育機関であり、右学校で教育を受けさせなければ、朝鮮人として日本国内の差別と戦い、日本国民と真の友好関係を持ち、事業を行つていくことはできないのである。
ところが、右朝鮮人学校に日本政府は一円の補助もだしていない。
このような中で、朝鮮人学校を維持するためにお金を支出することは、朝鮮総連への支出と同様に解されてしかるべきである。
又、仮に、会費として認めえなくても、教育機関に対する支出であるのだから、所得税法七八条二項の趣旨からとして、学校法人として許可されているか否かという形式面は別にして、実質的にはまちがいなく教育機関への支出であるのだから、寄付金控除がみとめられてしかるべき事例である。
4.以上の各会費の支出についても、必要経費となるか否かと、逋脱犯となるか否かは別の次元の問題であり、別個の検討がされるべきである。
そして、それぞれ事業とは密接な関連のある支出であり、現に、朝鮮総連や商工会の下部組織への支出や、朝鮮中学校への一〇月一二日付の支出は、経費として検察官は認めているのであり、被告人のこれまでの申告や、他の申告例をみても、必要経費として認めている取り扱いは多く存するころである。
従つて、そのような取り扱いを信じて申告した被告人について、今回は必要経費と認められないから、その分についても逋脱犯となるなどという認定をすることは、被告人に結果責任主義の原則から到底認められるべきでない。
従つて、この点でも、原判決は違法を犯していると言わざるをえない。
六、支払利息について
1.原判決は、弁護人の主張する利息支払の事実を全く総て否定する判断をした。
その理由とするところは、第一に弁護人主張の借入金が高額であるにもかかわらず、無担保であり、約束手形などの客観的資料もなく、手形受払帳(検四三号)にも記載されておらず、領収書を交付していない。
第二に、仮に弁護人主張の個人借入が存したとしても、事業と関連しないとみられる資産の増加であり、その原資として、借入金が生じたものと認められるから、必要経費にあたらないとの判断を示している。
2.しかし、前述したように被告人は当時多額の債務を負つていたのであり、その支払におわれており、経営が窮迫していたことは明白な事実である。
原判決は高額であるにもかかわらず担保をいれていないことと及び契約書や領収書等の客観的資料がないから借入がないとするが、在日朝鮮人間においては何らの担保をとらず、又、明確な契約書なしに高額の金銭のやりとりをしていることは通常の取引でよくなされているところである。
右の事実は証人宋彦澤・金鐘聲等の証言より明らかであり、さらに別件で無罪判決の出ている「三越土地」の王理鎬の裁判によつても明らかとなつている。
在日朝鮮人間では信用が商売をする上で最大の資本であり、そのため書面による各種の証拠がなくても、借りた以上はなにがあつても返済しようと努力する。それが在日朝鮮人が外国である日本で商売する上で必要最少限度であり、かつ最大の基本的事項なのである。この点では在日華僑社会と同様である。従って客観的資料の在否と借入金の有無が直接的に結びつかないことはなんら不自然なことはないのである。
又、在日朝鮮人の間では銀行との取引よりも、朝鮮人どおしで資金の融通をし合うという傾向が強いことは日本での銀行が在日朝鮮人に融資をしないといつた在日朝鮮人に対する差別と共に、韓国における資本主義経済発展の一つのネツクとなつている銀行業のたちおくれからも推認されるところである(韓国では銀行業が進化しておらず街の金融業に依存するところが大きく企業の自己資本形成を妨げている)
3.さらに原判決は「事業と関連しないとみられている資産の主なるものだけでも別表4記載のとおりの増加がみられる」としているが、そもそも、別表4はいかなる意味で作成されたか明らかでなく、「資産の増加」として資産の欄の一部のものをあげているが、増加の一方で預金のように減っているものも存するのであり、預金等の別の資産の減額を無視して増加したものだけをとらえて資産の増加部分があると指摘するのは、明らかなこじつけにほかならない。右のような資産の増加と借入金の増加を対比しても支払利息の事業経費性を否定する何らの理由となりえないものである。
又、別表4記載の資産増加分が事業と直接関連しないという認定をする根拠は何ら示されていない。
貸付金、出資金、土地購入を初めとして利益を得る対象となる物に対する投資は総て個人の事業に対する投資のと言えるのであり、事業関連費と評価できるものである。
この点会社のように定款に記載された目的によつて活動する事業を制限される場合とは明確に異なるのであり、被告人が個人として何をしようとも、利益を得る目的でメリツトのある活動をしているのであればそれは事業と関連していると評価できるものである。従つて事業と直接関連しない資産の増加との判断はなしえないはずである。
又、借入金の記載は個人借入金のみを記載しているが、その他にも銀行借入も増加しているのであり、原判決が事業の関連していないとする資産の増加と右個人借入の増加とが一致するものではなく、個人借入の利息が全く必要経費にならないとする原判決の論理は明らかな論理の飛躍があると言わねばならない。
4.さらに前述しているとおり、必要経費として認められるか否かと、逋脱犯の故意となるか否かは別次元の問題である。
ことに事業と関連しているか否かの認定などは税務署の各担当官ごとに判断の異なる微妙な問題であり、右事業関連費とならないから、その分についての借入金の利息分を経費として控除して申告すれば右利息控除分は逋脱犯となるなどと言つた認定をすれば、前述したように一億総逋脱犯となつてしまう。原判決はこの点でも違法な判断をしていると言わざるを得ない。
5.なお、具体的な支払利息の額は一審での弁論要旨記載のとおりである(一三八頁以下)。
七、旅費・交通費について
1.原判決は、アメリカへ視察旅行に行つた際の旅行費用について必要経費にあたらず、逋脱犯にあたるとしている。
2.しかし、右も事業との関連性の存否としては微妙な事案である。被告人の業務との関連性を厳格に解釈すれば原判決のような言い方も可能であるかもしれないが、被告人はパチンコ業を営み財界人として、多方面の付き合いを当然必要とする立場にあつたのであり、赤十字の行事に参加することも営業上の知人を増やしたり(例えばゴルフのような遊びについても業界内のコンペであれば当然交際費として取り扱われているし、又、業界外の人でも仕事の紹介してくれる人とのゴルフであれば交際費にあたると現在の税務署は判断している)、付き合いの上での寄付金的なものとしてもた為さなければならないものでなり(赤十字への寄付金は税法上寄付金控除される)、副次的にはアメリカの業界視察をも兼ねていたものである。
又、アメリカへの視察費用を交通費として控除しないとする昭和四〇年度の旅費交通費はわずか三四八〇円ということにくなる。
年商三億を越える事業の旅費交通費としては極めて少額であり、他にも交通費として計上していないものも存するのである(交通費を使つておきながら申請しないということは通常出張する時にもよくある事例である)。
逋脱犯の範囲を考慮するにあたつては右のような事情をも考慮して判断すべきである。
4.そして、必要経費となるか否かの判断と逋脱犯となるか否かの判断は前述のとおり別次元の問題である。
アメリカ視察の費用を経費として判断して申告したからといつて右の支出が経費とならないことがすなわち逋脱犯となるものでは決してない。
この点でも原判決は違法な判断としていると言わざるをえない。
八、事業専従者控除について
1.原判決は事業専従者に配偶者の記載がされていないから事業専従者控除とならないので逋脱犯の範囲に入るとしている。
2.右のことはなるほど税額を決める上では相当であるかもしれないが、前述したとおり、経費となるか否かと逋脱犯の故意とは別個であり、事業専従者として申告すればその控除が可能であつた以上、右の範囲を逋脱犯の範囲に含めて判断するのは違法である。
本件で問題となつているのは被告人の昭和四〇年度の確定申告が正しかつたか否かではなく、初めから所得税法の解釈に従つて申告すればいくらになるのか議論をしているのであり、さらに逋脱犯の故意責任を問える範囲如何の問題を議論しているのである。
税金をより多くとろうとする税務署の発想と故意による刑事責任を問えるか否かの判断とは一致するはずはなく、責任主義の原則からも当然別個のものとして判断されるべきものである。
九、給与所得、不動産所得、雑所得
右はいずれも被告人が申告を単に忘却していたものであり、故意に隠そうとしたものではない。第三者の名前で給料を貰つていたわけでもない。逋脱犯は故意犯であり、過失犯ではないのであるから、右各金額も逋脱犯の範囲となるべきものではない。
右各所得は会社の帳簿等からも明らかなものであり、故意に隠そうとした形跡は証拠上も認められないものであり、単なる過失による申告ミスとしてのみ判断されるべきものである。
第七章 昭和四一年度分の所得について
第一 売上金
昭和四一年度の売上金額として原判決は検察官の主張を一部採用し、四億六九六三万四九二三円との認定をしているが、右は事実誤認である。
一、伏信東寺支店の中山政夫名義の口座について
1.原判決は三月二日の五六万八八〇円を昭和四〇年度と同様の理由で売上除外金であると認定した。
2.検察官が売上金であるとする理由はそうでなければ他の日の売上額よりはるかに少なくなるというただそれだけである。
3.しかし、検察官及び原判決の理由とするところに合理性の存しないことおよび事実は借入金であることは昭和四〇年度のところで批判したとおりである。
4.さらに検三一-二号証の銀行帳によれば三月二日の入金は六六万八八〇円であり、内一〇万円については原判決も売上除外金でないという認定をしているのである。
銀行帳の記載は六六万八八〇円であるにもかかわらずその一部のみを売上除外金と認定するのは不自然である。銀行帳の記載自体に作為的な虚偽記載を為した事実は存しないのであり、正確性の担保された他の記載に従えば一部に売上金と売上金でないものが存するならば別個に分けて記載しているはずである。
従って六六万八八〇円についてまとめて入金されており、かつ又、一部の一〇万円について売上金でない以上、その他の分も売上金でないと判断するのが合理的であり、理にかなつているところである。
二、伏信東寺支店の笠岡良夫名義の預金のうちの三〇万円について
1.原判決は第一に笠岡良夫名義の口座が被告人のものであることを印の存在及び普通預金他店券控に中山政夫との記載があることから認定し、第二に借入金を右口座に入金するのは不自然であることを、第三に本件入金前後の売上状況から売上除外金を入金したと認定した。
2.第一の笠岡名義の口座が被告人のものであることは申告時から自己の預金として計算し申告しているところであり、又、査察当時から他人のものであるとの主張をせず、自己のものとして認めているところであり、逋脱の手段として開設したものでないことは故意のところで詳述したとおりである。
3.六月二二日から七月五日までの短期間の間だけの入金で逋脱の手段とすることは考えられないし、逋脱の手段とするならばもつと長期間利用するはずである。又、笠岡名義の口座を作つたのは銀行側の要請によるものであり(この事実は銀行員の証言より明らか)、被告人の命によるものではない。
4.さらに原判決は借入金を仮名口座に入金するのは不自然であるとするが、銀行側の要請で作つた口座に短期間だけ入金するということは不自然でないし、又、右口座から引出した後、伏信東寺の架空名義の口座でなく本人名の中山政夫名義の口座へわざわざ入金している事実(六月三〇日と七月七日に入金)をとらえれば、この点からも借入金の入金は何ら不自然とは言えない。他方原判決のように逋脱のために別預金した金であるとするならば、その金をわざわざ本人名義の口座に入金する方が不自然である。
5.さらに本件入金前後の売上金の入金状況も賭博としてのパチンコ業は逋脱犯が多いとする予断とパチンコ業は必ず儲かるとする、ありえない事実を前提にした、明らかな事実誤認である。逆に六月六日の三〇万円を売上除外金とすれば、当日の売上は一〇五万と一日の売上としては多すぎることになつてしまう。
三、中山観光(株)にたいする中山政夫名義の貸付金充当分
1.原判決は右貸付金充当分を売上除外金から充当したものであると認定しているが、そもそもいくらの金額を認定したのか理由中からは明らかでなく、この一事をとつてしても、原判決の不当性が明らかである。
2.右貸付金は昭和四〇年分の項で述べたとおり被告人が借入した金額を中山観光(株)に貸付けたものであり売上除外金ではない。
又、貸付前後の入金状況とするところも四〇年度と同様判決はどの点をとらえたのか不明であるが、具体的には貸付前後の入金状況をとらえても売上除外金とすべき理由は見いだせない。
原判決は、この点でも、パチンコ業に逋脱犯が多いという予断と、パチンコ業は必ず儲かるとするありえない事実を前提に、明らかな事実誤認を犯しているものである。
四、給料・賞与充当分
1.原判決は、一月分五〇万円、五月分二〇〇万円、六月分二〇〇万円、九月分一〇〇万円、一二月分三〇〇万円について、売上除外金であると認定した。
2.その理由とするところは、昭和四〇年度と同様であり、この点も弁護側の四〇年度での批判がそのままであてはめる。
原判決は、売上除外金から支出されたとするが、その金がどこにプールされていたのか全く認定していない。査察時においても隠し金や隠し資産は何ら発見されておらず、被告人の借金経営は税務署も十分了解しているのである。
裁判所は格別に支払うべき多額の資金をタンス預金にでもしていたというのであろうか。
しかし、当座借越が、続いており利息を支払わなければならない状況にあつたにもかかわらず、必要経費となる給料支払い分をタンス預金にしておくことは常識的にありえない。
又、原判決は「日銭が入る被告人の事業」を考えて売上除外金から支払ったとしているが、日銭が入るからとからと給料支払時期の毎月末に売上計上金が減つている事実も帳簿上認められない。
従つて、売上除外金から支払つたとする原判決の理由は何ら合理性の存しないものであると言わざるをえないのである。
五、家計費充当分
家計費充当分についての原判決の理由も昭和四〇年分のところで主張したとおり何らの根拠も存しない明らかな事実誤認である。
第二、経費
一、広告宣伝費
1.広告宣伝費についても、原判決は、必要経費とならず全額逋脱の範囲となるとしているが、右の判断に理由の存しないことは昭和四〇年のところで述べたとおりである。
2.また、昭和四一年分については、一部支出の存したことは原判決もはつきりと認めている所である。学校等へ支出した事実がある以上、それを経費として判断するのは通常の申告の態様である。
又、広告宣伝費として高額すぎるというならば、少なくとも広告宣伝費として相当な金額については否定されるべきいわれは何ら存在しないはずである。
この点でも、原判決は明らかな誤認をしていると言わざるをえない
3.なお、右経費と認められるか否かと逋脱の故意があつたか否かとは全く別個の問題であることは四〇年のところで前述したとおりである。
二、交際費
1.大丸デパート、高島屋デパートへ支払った合計五二万二九五四円を原判決は必要経費とならないとしたが、これも四〇年と同様事実誤認である。
2.さらに昭和四一年分に関しては、支出自体は総て原判決も認めるところであるにもかかわらず、八月九日と九月六日の支出に家族関係の支出らしきものがあるということで、右デパートへの支出を総て交際費にあたらないとしている。
3.しかし、そもそもハンカチかワンピースであつても、家族の物であるとは即断できるところではないことは昭和四〇年のところで述べたとおりであるが、さらに原判決の事実認定によれば、被告人の年商四億円を越える事業を営んでいるにもかかわらず、何ら贈答品を贈っていないという極めて一般常識とかけはなれた判断をしている。
検事や裁判官におかれては、贈答品を受け取ることは少ないもしれないが、警察(特に防犯関係)おいては、贈答品は半ば公然と授受されているところてあるし、銀行等の民間企業にあつては、さらにそれ以上であることは公知の事実である。
このような贈答品の授受なくして民間事業はなりたたないぐらいである。
又、贈答品としての品を買つたであろうことはデパートという高級小売店を利用しているところから容易に推測のできるところである。
ところが、原判決はそのような事実を無視し、総て必要経費とならないとしているのであり、原判決は明らかな事実誤認をおかしているものである。
三、修繕費
1.原判決は、京都トヨペットに対する一〇月一八日の二〇万三三一〇円を被告人の妻のために購入した代金であるから修繕費にならないとした。
2.しかし、仮に中山しげ子名義の車の購入費としても、原判決も認定しているとおり、中山しげ子は被告人の事業の手伝いをしてきたというのであり、そうであるからこそ、(妻名義の所得税や保険料を経費として認めている原判決昭和四二年度の経費六の(二)、六の(一〇)参照)、事業専従者となつていたのである。
従つて妻名義の車購入といえども、それは被告人の事業との関連性は存するところである。
とすれば、仮に修繕費とならないとしても、減価償却の対象となりうるものであるし、また、いずれにしても、経費と考えるのはやむをえない事実も存するのであるから、少なくとも逋脱犯の故意の認められる範囲に入らないことは明白である。
四、支払手数料について
1.原判決は八月一五日支出の登記費用について「石山店の店舗を担保にした借入金の返済による担保設定登記を抹消した際の費用であり、この借入金は被告人から中山観光に転貸されており、被告人の事業に利用されていないから、被告人の事業と関連性なく」必要経費にならないとしている。
2.しかし、被告人の事業はパチンコ業のみというものではなく、個人事業の場合は法人のような定款による行為の力の制限とは存在しないのである。
従つて、中山観光に対する貸付も、貸付に伴い利息をとるときは勿論のこと、利息をとらないときでも信用貸与として当然にいわゆる貸金業的性質を有するものである。
とすれば、原判決のように、被告人の事業と関連しないということで必要経費とならないと判断するのは所得税法の解釈適用を誤つた違法なものであるといわざるをえない
3.又、何度も述べているように、経費となるかならないかと、逋脱の故意の存否は別次元の問題であり、仮に、原判決の述べるように必要経費とならないとしても、登記費用の支出自体が間違いなく、さらに事業との関連性のについても右のように全く関連性なしといちがいに判断出来ない以上、逋脱犯の故意の認められる範囲とはおよそ言いえないところである。
4.なお、原判決は本件摘時部分で被告人の借入金を中山観光に貸付ていることを認めているが、このような転貸をなしている事実を認めている以上、売上金や支払い利息の点などで弁護側が主張する中山観光への転貸の事実を原判決が否定すべき根拠の存しないことを注意されたい。
五、福利厚生費について
1.原判決は、安田テーラーへの一一月八日支出の七万五〇〇〇円、衣川洋服店への一一月一七日支出の五万五〇〇円及び一二月三日支出の二万六〇〇〇円については制服代等事業に関連するものとは認められないから必要経費にならないからとした。
2.しかし、右支出は職員に対して勤労意欲をかきたてるために、あるいは日頃の勤務に対する礼として贈つた背広代であり、制服代と同様、事業と直接関連するものであり、金額も決して過大なものとはいえないものである。
従つて、福利厚生費として、必要経費に該当するものであり、仮に原判決の述べるように福利厚生費と言えないとしても、交際費としてあるいは賞与的なものとして給与と考え必要経費に当たると考えるべきである。
3.又、原判決はヤクルト代についても領収書からして被告人の家庭用のものと判断し、必要経費とならないとした。
4.しかし、昭和四一年当時のヤクルトの価格からすれば、家庭用としては多すぎるものであるし、又、検察官は昭和四二年度については経費として認めているところである。
ヤクルト代は、パチンコ店内での販売を依頼され、一時期ストックに入れて売るようにしていたが、売れ行きはが思わしくないので、結局殆ど従業員が飲んだものである。
従つて、仮に福利厚生費にならないとしても、昭和四二年度のように雑費あるいは賄費として、必要経費として計上すべきである。
5.なお、右背広代、ヤクルト代についても、経費となるか否かと逋脱の故意が認められるか否かとは別個の次元の問題であることは、これまでに何度も述べているとおりである。
そして、従業員へ贈る背広代や、ヤクルトの代金として支出していることが間違いない以上、そして又、別の年度では経費として認めている以上経費として考えるのが通常であり、逋脱の故意はおよそ認められないところてある。
六、会費について
1.原判決は、韓国青年同盟に対する七月二五日の五万円、同月三〇日の五万円、朝鮮留学生同盟に対する七月二六日の五万円及び第一初級学校等に対する四二〇万円の各支出をいずれも事業との関連性がないから必要経費にあたらないとした。
2.しかし、四〇年度の支出のところで述べたと同様に必要経費と認めるべきである。又、判決も認めるように、滋賀県民団本部及び科学者協会に対する支出については雑費の項目で必要経費として認めているのであり、右が雑費として計上されるならば、韓国青年同盟等に対する支出も雑費として必要経費になると考えるべきである。
3.なお、第一初級学校等への支出四二〇万円について原判決は、客観的資料が見当たらないとして、その支出自体を否定しているようだが、支出していないという客観的資料も何ら存していないのである。
右金額を支出としたとする被告人の供述は、それまで毎年支出していた事実及び韓国国籍への変更を強要された昭和四一年度の特殊事情からして十分信用できるものであり、支出したとする客観的資料が存しないという事だけで支出そのものを否定するのは「疑わしきは被告人の利益に」の原則に反し、許されないものである。
4.さらに、前述しているように、経費となるか否かと逋脱犯の故意が認められるかとは、別次元の問題であり、本件でも逋脱の故意はおよそ認めえないものである。
七、雑費について
1.原判決は、一一月二五日に支出した玉山弁護料一五万円を事業と関連しない支出であるから必要経費とならないとしている。
2.しかし、当時玉山は未成年者であり、被告人の監督下にあつたのであり、ある程度の援助は必要不可欠の状態であつたのである。又、右弁護料の支出程度のことをしないと被告人方へ勤務することは困難な状態であつた。
従つて、右弁護料の支出は、事業と関連性を有するものであり、仮に事業と関連性がないとしても、右の事実からすれば、事業の一部と判断するのもやむをえない思料されるから、およそ逋脱の故意の認められるべき事案ではない。
この点、何度も前述しているように、経費となるか否か逋脱の故意とは別次元の問題なのである。
八、支払利息について
1.原判決は、昭和四〇年と同様の理由により支払い利息を否定した。
2.しかし、右判決が違法なことは、昭和四〇年度の支払利息のところで述べたとおりである。
3.具体的な利息金額の計算は、一審での弁論要旨のとおりである(弁論要旨一五九頁以下)。
九、図書新聞費について
1.原判決は、東寺書院に対する昭和四一年一二月三日の振出しの小切手については、右小切手が返済されていないとして、必要経費にならないとしている。
2.しかし、仮に、小切手が決済されていないとしても、その理由は相手方が紛失したかもしれないし、あるいは銀行決済でなく支払ったのかもしれない。
そして、銀行決済していないという事実があつても、小切手をきつて債務負担したという事実は残つているのであり、小切手をきつた時点では、債務負担はまちがなく存したのである(小切手をきつた時点で債務に計上するのが会計処理の原則であり、判決はこの会計原則を否定する大きなミスを犯しているのである)そして、さらに相手方が権利放棄をせず、かつ時効にかからない時点で支払いを求めればそれを拒否する理由は何ら存しないのである。
3.原判決は、支出自体認められないというが、右支出については、東寺書院の確認すらとられていない。
この意味でも支出を否定すべきいわれは存しない。
4.さらに、何度も述べるように、逋脱の故意の問題とすべきいわれは何ら存していないのである。
書店に対し、小切手をきつたことはまちがいないのであり、そのことをとらえて経費と判断するのは通常である。
それとも、原判決は、被告人が逋脱のためにわざわざ一三二〇円の小切手をきつたとでもいうのであろうか。
そのようなことはとうてい考えられない。
一〇、雑所得について
雑所得については、被告人が単に忘却していたものであり、故意に隠そうとしたものではない。
故意に申告していないとの事実認定は何らなされておらず、この点は明らかに違法な判断である。
年度によつて、だしたりださなかつたりしていることが、故意に忘れたのでなく、単なる忘却であることを示しているものである。
逋脱犯は、故意犯であり、過失犯ではないのであるから、右雑所得分も逋脱犯の犯意となるべきものでない。
第八章 昭和四二年度分の所得について
第一、売上の認定について
原判決が出玉金額及び出玉率から推計計算して売上額を算出したのは重大な誤りである
一、原判決は昭和四二年分の売上についてのみ検察官の主張をいれて、出玉金額及び出玉率から売上額を推計している。右推計計算には合理的な疑いをさしはさむ余地のない程度の証明が考えらることを必要とするとした上で、原判決は本件推計方法が合理的である理由を次の四点から説明している。すなわち、
(イ) 本件出玉金額、出玉率に対する推計方法は客から被告人の手元に入つた入金額からの推計方法であり、弁護人主張は支出の側面からの間接的な推計方法であること。
(ロ) しかも、弁護人主張の方法は売上金の発生-本店で集計-本店で保管-預金、出金という経路を遡る過程で抜き取り、違算の可能性が否定できないこと。
(ハ) 本件出玉金額、出玉率はいずれも同じ店舗における時期的にも隣接した月の数値をえてはめた自店対比方法であり、同業者比較法などに比しより個別的直接的であること。
(ニ) 李鉱在の証言によれば、昭和四〇年の九条店の売上は一日四〇万~五〇万円であつた旨供述ししているが、本件推計方法による売上額とほぼ同額であること
二、しかしながら、原判決の右四点の判示は我田引水であり、本件推計方法が合理的であることの説明に何らなつていない。そのことをまず左記に批判する。
1 右(イ)について
原判決の推計方法は入金額からの直接的な推計方法であり、弁護人主張の方法は間接的だと自画自賛するが、要するに原判決は「直接的」「間接的」の言葉をもてあそんでいるにすぎない。入金面からの推計だから直接的で、支出の面からの推計だから間接的などとは一般論として言い得ても、具体的な推計方法の中では何の意味をもたない。入金面からの推計であつても本件の様に幾重にも推計をかさねるものであるなら、それを「直接的」などと到底自賛できないであろう。本件推計方法はまさに推計に推計を重ね、推計のもつ不正確性を倍重しているのである。
たとえば、(具体的に批判するためにひとつの例をとるが)原判決は九条店の昭和四二年一月分の売上を一四、五六〇、〇〇〇円と推計計算している。この金額は原判決のいう入金額であるが、この売上金額は直接的に算出されたか。否、である。この売上金するためには出玉金額と出玉率を必要とする。原判決は出玉金額については昭和四一年分の資料を集計して一三、九四七、〇四四円を出し、これを十万単位以下を切り捨てるという方法で千三百万円にした。出玉率については昭和四十三年一月、二月分の資料の平均を出した。出玉金額については昭和四十一年の資料を用い、出玉率については昭和四三年の資料を用いての推計である。まるで雑種のかけあわせの様な推計方法によつて算出されたのが前記売上金なのである。推計の二乗をしたこの算出方法を直接的だなどと評価できないことは明らかであろう。
問題はどれだけ直接証拠に基いて売上を認定しうるかということである。本件の場合被告人が用いていた帳簿に売上金の入金の記載がなされているのであるからそのことから直接的に右記載金額の売上があつたと容易に認定できるのである。現に原判決はこの方法を基本にして昭和四〇年、四一年分の売上金額を認定しているのである。どうして昭和四二年分もこの方法によらなかつたのか。この方法が昭和四二年になつて不合理になつたなどのことはまさかありえないわけであるから、これよりももつと合理的な認定方法があるからそれによるというわけであろう。そしてその方法が出玉からの推計でこれは直接的だというわけであろうが、その様な評価が全くあたらないことは右に詳しく批判した通りである。原判決の別表3-(2)-<1>~<4>や検察官の昭和五六年分二月二六日付「昭和四二年度売上に関する立証報告書」を見てみれば一目瞭然であるが、都合の良い所をつかみ取りしてつなぎ併せ、推計に推計を重ねて売上を算定している。どうしてこんな無理をする必要があるのか。昭和四〇年、四一年と同様の方法によるのが本件の現存資料からいえる最も合理的な売上の認定方法なのである。
2 右(ロ)について
原判決は弁護人主張の方法では違算、抜き取りの可能性を否定できないと非難する。
右可能性を抽象的に論じても意味ない。問題は売上金を認定する資料として帳簿が正確かどうかの議論であるから、本件の場合抜き取りの現実及び可能性があつたかどうかを具体的に議論すべきなのである。
本件の場合、抜き取りの現実的可能性があつたことを認定せしめる証拠があるか。結論を先に言えば、断じて否、である。
被告人経営の五店舗の売上は、まず玉売り機によつてカウントされる。この玉売り機は斡旋してあり集金時に店長立会の上売上メーターを相互に確認する(玉売り機に表示される売上金額は翌日までゼロにまわさない。不正の疑いがあつた時調査点検できるようにするためである。)この各店舗の売上の中から、小口現金支払、一人一日一〇〇円の賄費、交換景品仕入資金を差し引いた金額をこの旨を明記した伝票とともに集金人が集金する。この集金金額は本店に於て女子事務員によつて勘定され、伝票の記載と金額とを照合しその一致の確認がなされる。そのあと、専務又は常務の指示で銀行に入金されるのである。
右の過程のどこで抜き取りの可能性があつたと原判決はいうのか。もし、本店の女子事務員が伝票と金額の照合確認を終えたあと、銀行に入金するまでの間抜き取りの可能性があつたと原判決が「邪推」しているものなら、大間違いである。もし、そんなことが一回でも行われたのなら、証人として証言した西村栄美子、品川喜代子、原田洋子の証言の中にそれをうたがわせる証言があつて当然であるが、そんな証言は全くない。もつとも、被告人の妻が二万円とか三万円とかを要求し持っていつた旨の証言はあるが、それは抜き取りとは明らかに異なる。むしろ逆に、右事実は、抜き取りなどの事実が全くなかつたことを推認させるものである。(抜き取っているなら右の様な要求をわざわざするまでもないことだから)。
次に右の段階以前の、すなわち集金し終つて、事務員が勘定するまでの間に抜き取りの可能性はあつたか。全くなかつたというのが結論である。そんなことをすれば、伝票と金額があわなくなるから大問題になつてしまうわけである。そんなことをする位ならはじめから伝票と金額の照合確認を事務員にやらせるようなことをしない筈である。
さらにそれ以前の段階は、被告人が関与せず全部従業員にまかせている部分であるから、むしろいかに不正を防止するかという観点から厳重に管理しており、被告人といえども直接介入する余地はないのである。
さて、被告人の場合、売上金の全部が全部前記帳簿に記載されているわけではないが、それはごく一部であるから、その一部については推計(と言うより推認)でうめるという昭和四〇年、四一年の方法と同じ方法を昭和四二年分についてもとるべしと弁護人は主張しているわけであるが、原判決の推計方法は右の方法を上まわる程に正確であろうか。決して正確でないことは次に述べることによつても明らかであろう。
たとえば(またひとつの具体的例を挙げて説明するが)、九条店の昭和四三年一月分の売上算定の基礎に用いられたのは昭和四一年分の出玉金額であることは前述した通りだが、どういうわけか十万単位以下の数字は切り捨てて金一三〇〇万円という金額を算定資料に用いた。これに対し、たとえば府庁前店の場合は一月の出玉金額を昭和四三年一月分の出玉金額より一割引いた金額をもつてあてた。この根拠は恐らく年度の違う金額をもつてくるので不正確さが避けられないことを慮つて、「被告人側に最大限有利な数値をあてはめた」(原判決六九丁)というのであろう。しかし、一割減じるということ自体が右に述べた様に自らの推計の不十分さを自認したことにほかならないし、また減じるにしても一割でいいのか二割でいいのかについては全く胸三寸で決められており、パチンコ業界あるいは被告人の営業状態がどうかであつたのかという具体的事情は全く考慮の外におかれている。さらに、そのことはさておくとしても、原判決はちがう年度の数字をもつてきてあてはめる場合の基準として一割減じるというのなら、それを貫徹すべきなのに、九条店の場合は百万未満は切り捨てという方法をとつた。どうしてこんなに恣意的に推計方法をかえることができるのか、これ自体大いに問題である。九条店の場合一割減じれば一二、五五二、三三九円であり(ここで約四五万円の差がある)、八九・二二五の出玉率で割れば売上金額は一四、〇六三、四五八円である(ここで五〇万円の差がでてくる)。
二月分について言えば、昭和四一年分の資料から計算される正確な数字が一三、〇〇〇、〇七八円なのに何の根拠も示さず一二五〇万円という中途半端な数字をもつて二月分の出玉金額としてあてはめた。しかしこれを一割減じる方法をとれば出玉金額は一一、七〇〇、〇七〇円である(ここで約八〇万円の差が出てくる)。これを一月分のときと同じく出玉率八九・二二五で割れば売上は一三、一〇八、五八七円となる(ここで約八九万円の差が出てくる)。
右、一、二月分あわせて約一三九万円の違いが出てくるのである。この差は大きい。
どうしてこんなにちがいが出てくるのか。それは、原判決の用いた本件推計方法が所詮実額に基かないでいわば数字を頭の中でひねくりまわして算定しているからである。実額に基かないだけにどうでもいえるわけである。だから、これ程不正確で客観的根拠を欠くものはないのである。九条店について言えば、出玉率が一パーセントちがえば売上に於て九万円から一四万円のちがいが出て来てしまうのである。こんな推計方法による算定の方が帳簿を前提にした推計よりも実際の売上金額に近い算定だなどとはけつしていえないはずである。どちらがより正確かといえば弁護人主張の算定方法がはるかに正確であることは右に述べたことからももはや議論の余地がないであろう。
3 右(ハ)について
原判決は自店対比法をとつているから同業者比較法等に比し個別的・直接的であると自画自賛するが、しかしこの議論は全くのゴマカシの議論である。
同業者比較法というのは要するに被告人の売上を算定するのに他のパチンコ業者の営業上の数字をそのまま流用してあてはめるという方法であるから、税務署長が所得税法一五六条を根拠に、同業者比率によつて推計課税するのと結局同じ方法であり、こんな推計課税が刑事裁判に於ては許さるものではない(松沢智らの前掲書二五~二六頁)。本来不合理で許されないものをもつてきて、これと比較してより個別的・直接的であるなどと評価するのは人に傷を負わせて死ななかつただけマシと思えというのと同じ類いの議論である。本件推計方法は、本来出玉率というのは客の出入りの状況、新装開店や競走店の出玉の状況等を参考にして毎日人為的に操作されているものである。だから個別性をいうのなら一律の平均をとるのでなくて、新装開店の有無や五店舗の立地条件を参考にして出玉率がきめられなければならないのである。
被告人供述(弁九七号証一丁以下)等からも明らかなように、九条店は、流れ客は少なく固定客が大多数で、しかもその40パーセントはパチプロでなり、近隣には三店の競走店があり、出血サービスによるお客の争奪戦の毎日であつた。府庁前店は、固定客がほとんどで、パチプロも30パーセント位はおり、近隣に三店の競走店があつて相互に必死の状況であつた。今出川店は、近隣に二店の競走店があり、客層が大学生であるため、休講時の営業は大変であって、出玉率は九〇~一〇〇パーセントであつた長岡店は田舎であり、客数も極度に少なかつた。石山店は五店中で最も営業成績の悪いところであつた。
こうした営業成績を参酌した上での推計でなければ個別性がある推計ということにはけつしてならないのである。
さらに、李鉱在の証言にある様に、昭和四三年一月の出玉率と昭和四二年一月の出玉率とを比較しても、同じ一月だからということでは何の近似性もく、昭和四二年一月に新装開店で出玉率をあげている様な場合にはむしろ昭和四三年一月の出玉率をもつてくること自体が誤りであるといわなければならない(同証人調書一七丁)。こうした事情を加味した上で個別性とか直接性をいうのであればともかく、そうでない限りはきわめて大雑把な画一的判断といわざるをえないのである。
4 右(ニ)について
原判決は証人李鉱在が九条店の売上は一日四〇~五〇万円であつたと証言した旨を認定しているが、これは同証言の意図的な読みまちがいである。問題の証言箇所は次のとおりである。
「あなたが石山パラダイス店の支配人をやつていた時の、同店の売上目標は幾らにしろと言われたか、覚えていますか。
覚えていません。
じやあ、あなたが営業部長になつた後、本店の売上目標が幾らだと言われたか覚えていますか。
それも、はっきり記憶がないんです。おそらく、五、六十万くらいですかねえ。
一日ですか。
はつきり記憶がないんです。
今、五、六十万というのは一日の分ですか。
五、六十万もありませんわ、一日です。大体、石山の店でも営業が成り立たん程売上がなくて、ほつたような感じですし、本店で四〇万か五〇万。
この様に、同証人が「本店で四〇万か五〇万」と答えたのは、実際の売上でなくて一日の売上目標についての答えたのである。一日の売上目標を一日四〇万~五〇万に設定したということは常識的に考えてみても分る通り実際の売上は右金額に満たなかつたということである。原判決がこの常識的推測を無視し、一日の売上が四〇万~五〇万円と認定したのは明らかな誤まりである。
次に仮りに一日の売上が四〇万円(右売上目標の最低線)だつたとしても、一月三〇日の営業日数として一月の売上が一二〇〇万円。原判決の認定した月平均額が一三四八万であつて、月に約一四八万円のちがいが出てくるのである。本件推計方法による売上額とほぼ同じであるなどと到底いえないのである。
三、以上の批判のまとめ
1.検察官の予備的主張の昭和四〇年、四一年と同様の方法により売上を算定した場合は四八四、一五五、六〇五円である。
検察官の本件推計方法による主張額は五一七、六〇五、一六一円。右と同じ約三三〇〇万円の差がある。
裁判所の認定額は五〇一、八七四、一六一円であつてこの場合でも約一七〇〇万円の差がある。この一七〇〇万円の差は、弁護人主張の金額の差でなく、検察官主張金額との差がある。
この差はきわめて大きい。
どうしてこの差が出てくるのか。そしてこの差額に何か確定的根拠があるのか。
前項で批判してきた様に、原判決が用いた推計は要するに数字の観念的恣意的操作によつてなされているものである。あるいはこう批判すれば、具体的資料を根拠にしているという反論がなされるかもしれない。しかし、我々が批判せざるをえないのは資料といつても、そのまま使える資料でなく(そのまま使えれば推計によらず実額認定できる)、その資料的数字を当該月にそのままあてはめてよいだろうとか一割減じてあてはめれば妥当だろうとかさらに何ヵ月の平均をとればよいだろうとかの評価(推計)をしているわけであるが、その評価のしかたが経験足や具体的事情に基かずに頭の中で恣意的になされているということである。
先に批判した様に、たとえば、昭和四二年一月の九条店の出玉金額を昭和四一年の資料の総額から百万未満は切り捨てという方法で千三百万円と推計した。ところが府庁前店では一割減じた金額を推計している。どうとでも出来る訳である。二割減じた金額をどうして推計してかつたのか、という問いに恐らく原判決は納得できる説明を何もすることはできないであろう。恐らく「一割減じればまあ妥当でしょう」という程度の答えしか出来ないであろう。しかし、それは所得税法一五六条の推計であつて、もはや厳格な証明によつてなされるべき犯罪事実の認定ではないし、合理的な認定方法などとは到底言えない。
所得税逋脱犯の逋脱税額は直ちに併科される罰金額の上限に影響してくる。その一点を考えただけでも、原判決の推認方法による売上認定は誤まりであるといわなければならないのである。
2.原判決が引用する最高裁判例はたしかにパチンコ店営業の被告人に対し三ヶ月分の資料から売上額を推計したとことをもつて合理的な方法だと結論づけた。しかし、このケースでは、被告人のパチンコ営業に関する売上及び仕入れの状況を記載した帳簿がほとんど存在せず、売上メモがことさら破棄されていたような特殊な事案にかかるものであつた。しかし本件においては一応会計帳簿類は存在し、売上の処理・管理のシステムも確立されていたし、何よりも四〇年、四一年については、この資料に基づき入金額から売上げを算定する方法を原判決は用いているのである。同様に四二年分もこのような方法が可能であるのであるから、出玉率による推計の方法を用いることができうる事案ではないのである。
第二、経費
一、給料・賞与について
1.原判決は弁護人の主張する中山観光の平均給与額からの推計を否定し、四〇年度と四一年度の増額分と同様の増額が四一年から四二年にもあつたものとして総額二九三四万一四二五円を認定した。
2.原判決が右弁護人の推計を否定する理由は、確定申告書による給与額は記載金額が実際に支払われたか否かを客観的に証明するものでないことと及び中山観光はパチンコ業以外の営業もあるから弁護人の推計方法に合理性がないものとしている。
3.しかし、中山観光の確定申告書が虚偽であつたとの事実も存しないし、又、中山観光が申告について更正決定を受けたとの事実も存しない。
つまり、確定申告書そのものは税務署サイドでも、その合理性を一応認めているところであり、申告書の給料等の支出はそれ自体合理性の存するところである。
又、中山観光には他のパチンコ以外の他の業種も存するが、給料額等の違いについては特に認められず、この点でも原判決の認定は失当であると言わざるを得ない。
4.弁護人の推計方法は個人及び中山観光の四〇年・四一年と比較しても特に合理性を否定されるべき事実は存しないのであり、ことさら弁護人の推計を否定すべき事実は存しない。
又、一部の食い違いも、四二年に行つた個人と会社の間の賃金是正によつて、四二年度においては格差は生じていない。
5.原判決のとつた推計方法
原判決は、四一年から四二年にかけても四〇年から四一年への増加分と同様の率の増加があつたとして推計しているが、四一年から四二年にかけて、四〇年から四二年にかけて、四〇年から四一年と同様とするのかの理由が何ら示されておらずこれこそなんらの合理性を有しないものである。
二、交際費
1.原判決は、大丸、南大門みよび第一ゴルフ京都への支出をそれぞれ事業と関連するものとは認められず、さらに南大門に対する支出は支払いのために切った小切手が被告人の当座預金に入れられており、支出自体疑わしいとして必要経費に該当しないとした。
2.しかし、仮に被告人の当座に小切手が入つているとしても、代金を別途に支払っているのかもしれなく、支出そのものがなかつたとまで断定しうるものではない。
3.さらに、事業との関連性については、四〇年・四一年のところで述べたとおり、関連性を否定すべきいわれはなんら存しない。
4.なお、各支出がそれぞれ認められることは右のとおりで間違いないのでなるから、経費となるか否かは別次元の問題であることも前述のとおりである。
三、消耗品費
1.原判決は、土田ムセンに対する一二月五日の二〇〇〇万円の支出は、支出のために振り出された小切手が交換取立されておらず、支出自体が認められないとする。
2.しかし、支払いのための小切手を振り出したことは事実であり、債務負担行為は、その時点で間違いなく存したのである。
交換にだされなくても現金決済されたかもしれないし、又、小切手を喪失したかもしれない。一二月五日に振り出した小切手は、小切手の時効がくるまであるいは所持者が権利放棄するまで交換にまわされれば支払い義務の生じるものである。
従つて、四二年度の申告した時点では、権利放棄もなく時効にもかかつていなかったのでなるから、当然債務として残っているものであり、経費として計上すべきは税法上も当然のことである。
原判決の摘示は、小切手の切つた時点で債務計上する現在の会計原則に反するものであり、裁判所の判断が通るならば、現在の会計処理はなりたたなくなる。原審は大きな誤りを犯しているのである。
3.また、経費とするか否かと申告時の逋脱の故意との関係からすれば、何度も述べるように、債務負担そのものは間違いないのであるから、二〇〇〇円については、逋脱犯の範囲とされるべきいわれは何ら存しないのである。それとも、二〇〇〇円の小切手を逋脱のためにわざわざ振り出してもらったとでも言うのであろうか。そのようなことは到底考えられないものである。
四、会費について
1.原判決は、第一初級学校及び科学者協会に対する支出を事業と関連しないとしていずれも経費にあたらないとした。
2.しかし、この点も事業と関連することと及び経費となるか否かと、逋脱犯の故意となるか否かは別次元の問題であり、本件では逋脱犯の故意の認められないことは四〇年・四一年のところで述べたとおりである。
ことに、四一年においては、科学者協会に対する支出は「雑費」として、経費になることを原判決は認めているのであり、(原判決六四丁表)、この点では明らかに理由齟齬、事実誤認の判断を犯しているものである。
五.運賃について
1.原判決は、パチンコ機の運送費について、運賃としてではなく、減価償却資産の取得価格とすべきであるから、必要経費にならないとする。
2.所得税法の現行の解釈を厳密にとらえれば、原判決摘示のとおりかもしれないが、問題となるのは、何ら設示することなく右経費にならない以上、右運賃の部分も当然に逋脱犯の範囲であると認めてしまつている原判決の態度である。
3.何度も述べるように、経費となるか否かと逋脱犯の範囲となるか否かは別次元の問題であり、経費とならないからといつて当然に逋脱犯だとされるべきいわれは存しないのである。
そして、専門家ですら理解しにくいくらいに複雑化した所得税法の具体的解釈適用を申告時に誤つたからといつて逋脱犯の故意を認めるべき理由は何ら存しないのである。
本件では、丸新工業に運送賃として金二万三四〇〇円を支払ったことは事実なのであり、右支払いが運賃として全額必要経費になると被告人が考えたこと自体はそれが項目上運送賃となるのか、減価償却の対象にしかならないのかは税の専門家でも即答しえないものであることからして何ら不相当ではないのであり、本件支出について故意責任を問うことは断じて許されず、原判決は違法であると言わざるをえない。
六、雑費について
1.一月四日の四三〇〇円の支出について弁護人は従業員の米代であると主張したのに対し、原判決は調査顛末書(検六三号証)の摘要欄に「京都南公課」と記載されていることから、米代とは認められず経費とならないとした。
2.しかし、六三号証の調査顛末書の記載中の「公課」というのはその記載自体をみてもわかるとおり被告人側の書込みでなく、検察側の方で書き込んだものてあると思われる。
このことは、検三一の一号証の銀行帳控の本件該当分である四二年一二月三〇日の支出欄には「京都南(許山今)」とか記載がないことからもうかがえる。
「京都南」とは京都駅南口のことであり、京都駅南口の許が経営する米屋に支払つていたことを意味している。
従つて「公課」とは何ら関連性を有しないものである。又、仮に公課であるとするなら、一体何の公課であるかを当然検察官の方で容易に明らかにしうるのにもかかわらず、それすらなされていないことからも、公課とすべきいわれは何ら存しないところである。
3.以上より、従業員の米代として経費とされるべきである。
又、経費となるか否かと逋脱犯となるか否かが別次元の問題であることも前述したとおりである。
七、支払利息について
1.原判決は昭和四〇年と同じ理由で支払利息を否定した。
2.しかし、右判決が違法なことは昭和四〇年度支払利息のところで述べたとおりである。
3.具体的な支払利息金額の計算は一審での弁論要旨のとおりである(弁論要旨一八七頁以下)。
八、給与所得、雑所得について
右はいずれも被告人が申告を忘却していたものであり、故意に隠そうとしたものではない。
逋脱犯は故意犯であり、過失犯ではないのであるから右各金額も逋脱犯とならないことは前述のとおりである。