大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和60年(ネ)1607号 判決

主文

一、本件控訴を棄却する。

二、控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一、当事者の求める裁判

一、控訴人

「一、原判決を取消す。二、本件を京都地方裁判所へ差戻す。」との判決。

二、被控訴人

主文同旨の判決。

第二、当事者の主張

一、原判決の引用

当事者の主張は以下のとおり当審において附加するほか、原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。

ただし、原判決七枚目表四行目の「被告がその旨山崎敬に説して」とあるのを「被告においてその旨を山崎敬に説明したうえ」と訂正する。

二、控訴人の当審附加主張

1. 本件仲裁契約は次の事由に照らし当事者間に仲裁の合意が成立していない。

(一)  本件仲裁合意書は仲裁の法的意味を知らない者にはそれが訴権の喪失ないし不起訴の合意を含むことが分らない。

(二)  控訴人は仲裁合意書に署名押印したが、仲裁合意の意味内容、効果について認識を有しないので合意が成立しない。即ち、控訴人は昭和五八年一一月二四日請負契約書作成当日厚さ三〇センチ位の一冊に綴じられた書類を二部持参した被控訴人の係員から求められるままにこれに署名押印し、その際右簿冊に綴込まれている仲裁合意書の所定欄にも署名押印させられたにすぎない。

しかも、本件仲裁合意書の表面の文章は「仲裁に付しその仲裁判断に服する」旨が記されているにすぎず、裏面は一般人が閲読しないのが通例で控訴人も読んでいない。

そのうえ仲裁合意書の表面はもとより裏面説明欄にもこれに署名すれば裁判所への訴訟提起ができなくなる旨の明記がない。即ち、仲裁合意書表面の文章は「仲裁に付し、その仲裁判断に服する」とのみ書かれているにすぎず、その裏面は「仲裁合意書について」と題する説明部分であるところ、それにも裁判所への訴訟提起ができないことを明記せず、単に「裁判所の訴訟に代えて審査会の仲裁に付するためには、当事者の合意が必要であるので<省略>仲裁合意書を添付した」こと及び「仲裁判断は、裁判所の確定判決と同一の効力を有し、たとえその仲裁判断の内容に不服があっても裁判所で争うことができなくなる」旨の記載があるのみである。

(三)  本件仲裁合意書作成に当り、担当者である被控訴人の京都支店副参事稲本征史自体が仲裁合意の意味内容、とくに仲裁と裁判権の関係を正確に知らず、単に「何かあったら、審査会で」というのみでそれ以上の十分な説明をしていない。

(四)  控訴人が本訴係属後入手した大阪府建設工事紛争審査会で作成された無料配付のパンフレット(甲第三号証)には、仲裁と斡旋、調停との相違点として「仲裁とは紛争解決の一切の権限を当事者の信頼する特定の個人に委ね、これによって出訴権を自発的に放棄するという原則から出発する」旨が明記されている。これと比べて本件仲裁合意書の説明中の前示「訴訟に代えて」なる文言は、紆遠で意図的に一般人の理解を困難にしているように思われる。

2. 被控訴人の後示当審附加主張三1(一)ないし(三)を争う。

わが民法は意思主義と表示主義の折衷した制度をとっており、とくに本件のような取引行為と関係のない仲裁合意には被控訴人主張のような表示主義をとることができない。

3.(一) 仮りに仲裁合意書に控訴人が署名押印したことにより仲裁合意が成立したとしても、被控訴人主張の本件仲裁契約における控訴人の仲裁合意の意思表示は錯誤により無効である。

即ち、控訴人は仲裁という法律用語を知らないまま、本件仲裁合意書(その内容は「本件建設工事の請負契約に関し紛争が生じた場合は、大阪府建設工事紛争審査会の仲裁に付し、その仲裁判断に服する」との仲裁契約)に署名押印したが、本件仲裁を斡旋、調停の場合と同様、仲裁を求めず、或いは仲裁を途中で取止めた場合には裁判所へ訴の提起ができるものと信じて右合意をしたものであるが、後になってそれが爾後本件工事請負契約の紛争に関し、控訴人において仲裁判断を求めると否とにかかわらず、裁判を受ける権利を放棄する性質のものであったことが判明した。したがって、控訴人の右意思表示にはその重要な部分に錯誤があり、無効である。

(二) 表意者に帰責事由がなかったり正当事由がない場合はたとえ表示行為があっても内心の意思が合致しない限り法律行為は無効である。被控訴人には請負専門業者として仲裁の意味内容を正確に説明する義務があるのに控訴人は前記稲本副参事の発言以外に何らの説明も受けていない。控訴人には前示のとおり仲裁合意の意思表示に何ら帰責事由がない。したがって、右合意は前示(一)のとおり錯誤により無効である。

4. 被控訴人の当審附加主張後示三2(一)(二)を争う。

控訴人には前示1の各事情に照らし右錯誤について何ら帰責事由がない。

三、被控訴人の当審附加主張

1. 控訴人の当審附加主張二1を争う。

(一)  仲裁契約の成立につき、従来の最高裁判例では、当事者が訴権放棄の説明を受けたり、仲裁契約の法的意味を了解した事実を直接認定せず、経験則により推認している。本件では控訴人が京都大学医学部を卒業した最高学歴の持主で、建築工事紛争審査会による仲裁が建設業法所定の紛争処理手段であり昭和二六年来請負工事契約約款の中に設けられていること(甲第九号証)、本件では請負工事契約書とは別葉の仲裁合意書が付されていること、これには仲裁判断に服することが明記され、紛争があったときはこれでとの説明を受けたことに照らし仲裁の合意を推認できる。

なお、建設紛争審査会による仲裁の制度は「双方のために適切なものとして」法律により考案されたものであるから、一方の当事者に説明義務はない。

(二)  「仲裁合意書」なる表題、「紛争が生じたときは<省略>建設工事紛争審査会の仲裁に付し、その仲裁に服する」との記載と「何かあったときは審査会で」との説明により仲裁合意の意思は十分認められる。わが国の市民感情のもとでは仲裁制度は関し事細かく説明を加えることは徒らに不信感を抱かせることになり、右以上の説明を期待できない。

(三)  控訴人は「仲裁に服すること」を認識し、認識しうべきものであったから仲裁の手続や仲裁機関の詳細を理解していなくてもそれは法の不知にすぎず、仲裁合意の効力を妨げるものではない。即ち、表示主義の原則に照らし、たとえ表示と内心の意思とが不一致であってもその不一致の危険の負担は表示者が負うべきだからである。

2. 控訴人の当審附加主張二3(一)(二)を争う。

(一)  仮りに控訴人主張の錯誤があったとしても、表示主義の原則に照らし控訴人が錯誤に陥っていることを相手方である被控訴人において知っているか、当然知ることができた場合を除き、その効力を否定することはできない。

(二)  仮りに控訴人に錯誤があったとしても控訴人は前示1(一)のとおり本件仲裁合意書が法的な仲裁で裁判を受ける権利の放棄を伴うものであることを直ちに判断できるのに、これを誤って本件仲裁合意をしたとすれば表意者たる控訴人に大きな帰責事由があり、重大な過失があるから控訴人は錯誤による無効を主張できない。

第三、証拠<省略>

理由

第一、本案前の仲裁の抗弁の検討

一、事実の認定

<証拠>を総合すると次の事実を認めることができる。

(一)  控訴人は昭和四五年一一月医師資格を取得し、二年間京都大学医学部附属病院の研修医をして大阪市内の日赤病院を経て再び同大学病院に戻った後、昭和五五年四月一六日頃から京都市内の肩書住所地で診療所を開設している外科医である。

(二)  被控訴人は建設工事請負業を営む上場会社である。

(三)  昭和五七年春頃控訴人は株式会社竹中工務店との間で、右診療所の近くの京都市上京区一条通千本西入烏丸町三七一番宅地六三五・三〇平方米地上に自宅と病院を建設すべく建築工事請負契約を締結し、本件病院建築工事とほぼ同様の建築工事を始めたが、東、西両隣りとの間の境界問題などが生じて契約解除となり着工には至らなかった(乙第一六号証二項、当審における控訴人本人尋問調書二九、三〇、三三、三四、三六項)。

(四)  昭和五八年夏頃から控訴人は右近隣者と話合いを続け工事施行の覚書を作成した後、新しい請負業者を探し、友人坂口医師の紹介で被控訴人会社を知り、同年一〇月頃から折衝を始め、被控訴人に対し近隣問題は一応解決ずみであると説明した。当時隣接建物が建築予定地の境界ぎりぎりに建っていたが、控訴人が近隣者との間の覚書(乙第一三号証)等を示して工事について問題がないというので被控訴人はこれを信じて建築請負工事契約をすることになった。

(五)  昭和五八年一一月二四日午後三時頃、被控訴人の大阪本店長山崎博之、京都支店長永山光幸、京都支店副参事稲本征史が、控訴人の自宅を訪ね、黒表紙に「多田病院新築工事請負契約書」と表記した厚さ約三〇糎ほどの本件請負契約書綴二冊(甲第一号証、検甲第一号証)を持参した。控訴人は同人らに求められて、同契約書(甲第一号証)一枚目裏の発注者欄に署名押印して、着手昭和五九年一月一日、完成昭和五九年八月三〇日、請負代金二億二七〇〇万円で本件多田病院新築工事請負契約を締結した(甲第一号証)。

(六)  同日その場で被控訴人の前示係員稲本征史らは、前述した大部の本件請負契約書の簿冊中の「四会連合協定、工事請負契約約款」七葉のあとに綴込まれている。別葉一枚になった「仲裁合意書」と題する本件仲裁合意書(甲第一号証、乙第一号証、なお右「仲裁合意書」の題名の下に工事名として「多田病院新築工事」、工事場所として「京都市上京区一条通千本西入烏丸町三七一」という本件請負工事がタイプで予め特記されていた。)を開示して、「何もないと思うが、工事に関して何かあったら仲裁裁定で」との説明をし、これに対し控訴人は「何も問題はない」と答えて、その表面を一読し、裏面(「仲裁合意書について」と題する説明書部分)を見ず、表面所定の発注者欄に署名押印した(甲第一、第二号証、乙第一号証、当審証人稲本征史の証人調書七、八項、当審証人永山光幸の証人調書一七、二三項、当審における控訴人本人尋問調書七、一二、二七項)。

(七)  本件仲裁合意書(乙第一、甲第一号証)の表面には前記工事名等の記載欄に続いて、本件「建設工事の請負契約に関し紛争が生じた場合は、四会連合協定・工事請負契約約款第三〇条(2)の規定にもとづき、建設業法により定められた下記の建設工事紛争審査会の仲裁に付し、その仲裁判断に服する。」との記載があり、そのすぐ下欄に「管轄審査会名」として「大阪府建設工事紛争審査会」が記載されている。

裏面には、「仲裁合意について」と題して、(1)「建設工事紛争審査会は建設業法にもとづき、中央審査会、都道府県審査会が設けられており、建設工事の請負契約に関する紛争の解決を図るため斡旋・調停および仲裁を行なっていること、審査会の管轄は大臣許可業者のときは中央審査会、知事許可業者のときは都道府県審査会を原則とするが当事者の合意によって管轄審査会を定めることができること、ここで斡旋および調停は当事者一方の申し出によって受理されるが、裁判所の訴訟に代えて審査会の仲裁に付するためには、当事者の合意が必要であるので、四会連合約款第三〇条(2)の規定により仲裁に付する場合の仲裁合意書を添付した。」と記述し、さらに(2)「適法になされた審査会の仲裁判断は、裁判所の確定判決と同一の効力を有し、たとえその仲裁判断の内容に不服があっても裁判所で争うことはできなくなる。なお、建設工事紛争審査会の仲裁制度はいわゆる一審制である。」との記載がある。

しかし、この裏面約款は右稲本もこれを見せていないし、控訴人もこれを読まなかった(当審証人稲本征史の証人調書一一、二七項)。

(八)  昭和五九年一月下旬頃本件新築工事のための旧家屋の解体工事が始まり、被控訴人から控訴人に対し隣接建物の壁を内側から養生する必要があるとの申出があったが、隣家との話合がつかず中断のやむなきに至った。そこで控訴人は東、西隣りの訴外山崎敬および足立治に対し「本件建設敷地内の旧建物の解体および多田病院建設工事に必要な範囲で、各隣家の屋根にのぼりかつ足場補強及びほこり防止のため屋根にベニヤ板及び養生シートをかぶせることを妨げてはならない。」等の仮処分申請をしたところ、同年三月二六日右両名は、控訴人と地元の多田病院対策委員会(代表武部治作)との間の工事協定書の調印が完了したことを契機として、両名の建物、敷地内での必要な養生工事、足場工事その他工事のため立入りされることに以後異議ない旨を控訴人に対し確認したので、解体工事が再開された。そして解体工事完了後文化庁の遺跡調査も終り、基礎工事の段取りとなった(甲第二号証、乙第三ないし第六号証、乙第一六号証)。

(九)  昭和五九年四月二五日頃本件建築に伴う避難通路の幅が取れないので西側隣家の山崎敬方の土塀を撤去する必要が生じ被控訴人において再三同人と交渉したが、同人はその弁護士と共にさきに確認の際土塀を残すとの話合いになっているとして譲らず、他方、控訴人は「覚書で撤去できるようになっているのだから大末〔被控訴人〕は覚書のとおりやりなさい」というばかりであった(乙第七号証の一ないし七、とくに同号証の三の三丁)。さらに、このほか東側の有効採光面積算定寸法七五センチ以上が確保される必要があり、そのため隣家との境界確認の立会がなされたが見解の相違から確定できず、また控訴人が本件建築確認書に添付してある図面を交付してくれないため、これと本件請負契約書に添付の設計図(この設計図はその相当以前に作成された建築確認図面より一部増室等のため変更となっている)との相違を検討できず、関係諸官庁の検査済証の交付問題に影響を及ぼすなどの事情があったので、被控訴人は工事着手は法的にできない状況にあることを述べて工期の延長を控訴人に求めたが、同人はこれを認めなかった。そのため昭和五九年五月一七日被控訴人は控訴人に対し一週間以内にこれらの問題を解決することを催告する旨の内容証明郵便を送付し翌日控訴人に到達した(乙第九号証の一、二、甲第二号証)。

(一〇)  昭和五九年七月二七日被控訴人は控訴人に対し本件工事請負契約二八条二項により契約を解除するほかないが、控訴人の意見を伺いたい旨の内容証明郵便を送付し、翌二八日に控訴人に到達した(乙第一〇号証の一、二)。

(一一)  同年八月八日被控訴人は控訴人に対し契約解除の内容証明郵便を送付し、翌九日控訴人に到達した(乙第一一号証の一、二)。

(一二)  同年九月二〇日被控訴人は控訴人に対し、契約解除による損害賠償として金一、六五七万四、二七七円の支払を催告した(乙第一二号証の一、二)。

(一三)  その後同年中に被控訴人は大阪府建設工事紛争審査会に仲裁を申立て控訴人欠席のまま昭和五九年(仲)第一一号事件として仲裁手続が進められている(乙第一六、第一七号証)。

(一四)  同年一二月三日控訴人は被控訴人に対し右契約解除は無効であり、債務不履行による損害賠償として金二、五〇〇万円の支払を求める本訴を原裁判所に提起した(原審記録二八~三四丁)。

右認定に反する甲第二号証の記載の一部、当審における控訴人本人尋問の結果の一部は前掲各証拠、弁論の全趣旨に照らし遽かに措信できず、他に右認定を覆すに足る証拠がない。

二、仲裁契約成否の判断

民訴法七八六条は「一名又ハ数名ノ仲裁人ヲシテ争ノ判断ヲ為サシムル合意ハ当事者カ係争物ニ付キ和解ヲ為ス権利アル場合ニ限リ其効力ヲ有ス」と規定し、同七八七条は「将来ノ争ニ関スル仲裁契約ハ一定ノ権利関係及ヒ其関係ヨリ生スル争ニ関セサルトキハ其効力ヲ有セス」と定めており、したがって仲裁契約の成立要件としては、一名又は数名の第三者(仲裁人)に、現在又は将来の紛争の判断をさせ、その第三者の判断(仲裁判断)に服する旨の合意があれば足り、この外に控訴人の当審附加主張二1(一)ないし(四)にいう訴権の放棄、喪失ないし不起訴の明確な合意を必要とするものでないと考える。もっとも、仲裁契約を締結するとその仲裁判断を受けた場合はもちろん、仲裁判断を受ける以前においても仲裁付託の前後を問わず、相手方の本案前の抗弁(妨訴抗弁)により本案訴訟が許されず訴が却下されるけれども、これは必ずしも当事者の不起訴合意ないし訴権の放棄に基づくものではなく、民訴法上仲裁判断が当事者間において確定判決と同一の効力を有するものとされている関係から(民訴八〇〇条)、この場合に裁判所が本案判決をすることは、その確定効が、仲裁契約自体が民訴法七九三条その他解除、取消などにより失効するなど特段の事情がない限り、後に別途なされる仲裁判断の確定効と牴触する虞れがあり、当事者が仲裁判断に服するとの合意に悖るのであって、法の許さないところであるし、確定効のある仲裁判断がなされうる以上訴の利益を欠くことによるのである。したがって仲裁契約の成立にあたっては、当事者間の訴権の放棄、喪失ないし不起訴の合意を必要としないのである。

そして、前認定一の各事実、とくに一(六)、(七)の事実に照らすと、本件仲裁合意書(乙第一、甲第一号証)の表面を見れば「控訴人が発注者となって被控訴人に請負わせる本件多田病院新築工事の請負契約に関し紛争が生じた場合は、第三者である大阪府建設工事紛争審査会の仲裁に付し、その仲裁判断に服する」旨を合意する文書であることを十分認識することができ控訴人自身この仲裁合意書表面を一読して、被控訴人係員の「何かあったら仲裁裁定で」との説明に対し「何も問題はない」と答えて表面の発注者欄に署名押印したことが明らかであるから、控訴人は被控訴人に対し本件仲裁合意書の署名押印により前示仲裁契約の要件である第三者(仲裁人)に紛争の判断をさせ、その仲裁判断に服する旨の合意をなしたもので当事者間に仲裁契約が成立していることが認められ、前示措信しない証拠のほか他にこれを動かすに足る証拠がない。

したがって、控訴人の当審附加主張二1(一)ないし(四)、前示引用の原判決添付別紙(二)の四、五及び別紙(三)の各主張はその余の判断をするまでもなく失当である。

なお、控訴人は仲裁判断が民訴法八〇一条により仲裁取消の訴を許す以外に不服申立が許されずいわば一審限りのものである点を非難するところがあるが、仲裁手続ないし仲裁判断は当事者の合意した仲裁契約に基づきなされるものであるから、このいわば一審限りで仲裁判断に確定効を認める民訴法八〇〇条は何ら違憲、違法ということはできず、控訴人の右主張はひっきょう右法条の違憲、違法不当をいうものであって、これを採用することはできない。

第二、錯誤の主張の検討

一、控訴人は当審附加主張二3において、控訴人は仲裁契約があっても仲裁を求めず仲裁を取止めた場合は裁判所の訴提起が許されると信じて合意をしたものであるが、後にこれが控訴人の仲裁請求いかんにかかわらず裁判を受ける権利を放棄する性質のものであったことが判明したから契約の重要部分に錯誤がある旨主張する。しかしながら、仲裁契約の成立要件は前示のとおり、第三者(仲裁人)に、現在又は将来の紛争を判断させ、その仲裁判断に服する旨の合意をもって足るのであって、右仲裁契約により本案訴訟の提起が許されなくなり、相手方の仲裁の抗弁により訴が却下されることまで契約の要件、即ち契約の内容となっているものではない。したがって、右の本案訴訟が許されなくなることを知らず、これが許されるものであると控訴人が信じたものであるとしてもそれは契約の重要な部分、即ち、法律行為の要素ではなく、単なる縁由ないし動機についての錯誤があるのにすぎない。そして、このような動機の錯誤が民法九五条に従い無効というためにはこれが表示され当事者がこれを了知して契約の内容とされた場合に限ると解すべきところ、前認定第一の一の各事実、とくに一(六)のとおり控訴人は「何も問題はない」と述べたのみで本件仲裁合意書に署名押印して仲裁契約を締結したもので、仮りに前示動機ないし縁由となる事項を控訴人が考えていたとしても、これは何ら表示されず控訴人の内心に留まっているにすぎないから法律行為の要素の錯誤とならず、仲裁契約がこれにより無効となるものではない。

なお、前示のとおり本件仲裁合意書により「仲裁判断に服する」旨の合意がなされている以上、これが訴訟手続を排し、専ら仲裁手続ないし仲裁判断のみによって紛争を解決する旨の明確な不起訴の合意がなくとも仲裁契約が成立するというべきであって、単に「仲裁に付する」との文言と異なり、特段の事情がない限り控訴人主張のようにこれが調停、あっせんなどと同じく訴訟手続とは別個に、これに付加して独自の解決方法の一つを合意したのにすぎないものとはいえない。

二、さらに、控訴人主張のようにたとえ右の訴権の喪失ないし不起訴の合意が仲裁契約の内容となり、その錯誤が要素の錯誤となるとしても、前認定第一の一の各事実ないしその経緯、弁論の全趣旨を併せ考えると、控訴人は自己の本件病院建築工事については近隣との境界問題などから一たん株式会社竹中工務店との請負契約が解除になった後、間もなく被控訴人との間で本件建築工事請負契約を締結したものであり、その間近隣との間に一応工事施行の覚書等を取り交したといっても、なお紛争の再燃することが懸念されるものであることは推測に難くないのに、本件仲裁合意書の作成にあたって、被控訴人係員から「工事に関し何かあったら仲裁裁定で」との説明を受けながら、右仲裁合意書の裏面も十分読まないまま安易に「何も問題はない」と答えて署名押印したもので、控訴人の開業医である外科医師として有する社会的経験、知識、教養の程度、本件建築請負工事施行が難渋してきた経緯と経験に照らし、右仲裁合意書に署名押印し前記発言以上に何らの確認もしないまま、裁判所への本案訴訟の提起ができるものと漫然と信じて本件仲裁契約をなしたのは表意者たる控訴人に重大な過失があるものというべきであって、前示措信しない証拠のほかこの認定を動かすに足る証拠がない。したがって、表意者である控訴人は民法九五条但書に従い自らその無効を主張することが許されないから、同趣旨をいう被控訴人の当審附加主張三2(二)は正当である。

なお控訴人は本件仲裁合意書の締結にあたり、控訴人は外科医といえども素人であり被控訴人は請負専門業者として仲裁の意味内容を正確に説明する義務があると主張するが、本件の前示認定第一の一の各事実に徴し、被控訴人にそのような説明義務があるものと断ずることはできない。したがってこの点に関する控訴人の主張はとり得ない。

もっとも一般的に、建築工事等の請負契約の場合、請負側は多くの工事歴をもつ業者であるのに対し、発注者側は例えば生涯に一度の新築、改築工事を発注する場合など、請負契約の経験に乏しい場合が多く、前記仲裁合意書裏面の説明部分にある、斡旋と言い、調停と言い、又仲裁と言っても、その法律的意味内容に関し明確な区別と各法的効果を十分認識している者は多くなく、他方当事者は管轄各審査会において紛争解決のため、斡旋・調停・仲裁の何れの方法をも自由に選択することができること、又折角事前交渉の結果漸く請負契約書の調印となった折、当該請負工事の紛争に関する仲裁合意書の取り交わしの話を持ち出すことはいささか場違いの感を拭い難い面もなしとしないが、とかく起りがちな請負工事紛争を極力合理的に解決し、双方にとって向後に不信と不経済を長く残すことのないよう慎重に対処するには、前記審査会の斡旋・調停・仲裁の三つの紛争解決方法はそれぞれに特徴(長所・短所)を有するものである以上、広く審査会制度の意味内容を広報するばかりでなく、具体的契約の場に接して審査会の実状、その役割・特色・斡旋・調停・仲裁の共通点、相違点、紛争処理手続の流れなど、必要に応じ簡便、適切に、かつスマートに十分周知させることは、紛争を予め防ぐ、いわゆる予防司法にとって有意義であり、当事者双方にとってより有益ということができる。特に請負契約に臨む請負業者は請負専門業者として発注者に対し、請負契約の内容の確認とともに、将来生ずるであろう追加補修工事を含む多種多様の工事仕様と金銭等のトラブルに備えて、事案に適した紛争解決の方途を発注者が選択できるよう、円滑、賢明な説明(必要なパンフレットの交付を含む)等が望まれるものと思料される。

第三、結論

以上のとおりであるから、その余の判断をするまでもなく、控訴人の本件訴は仲裁契約の存在により不適法であってこれを却下すべきものである。よって、本件訴を却下した原判決は正当であって、本件控訴は理由がないからこれを失当として棄却することとし、控訴費用につき民訴法九五条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 廣木重喜 裁判官 諸富吉嗣 吉川義春)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!