大阪高等裁判所 昭和61年(ネ)2117号 判決 1988年12月22日
控訴人
小田中宣和
控訴人
小田中頴一
被控訴人
北谷薫
同
吉谷一将
同
吉谷俊平
同
福永トヨ子
同
吉田誠三
同
北谷功
同
福永光雄
同
北谷千代子
同
北谷マツヨ
同
吉田宗忠
同
小田中八重子
右被控訴人二名訴訟代理人弁護士
池上徹
主文
一 原判決主文第一項及び第三項を取り消す。
被控訴人らの本訴請求をいずれも棄却する。
二 控訴人らと被控訴人らとの間において、別紙物件目録記載の墳墓地につき控訴人小田中宣和が持分二六分の一一の所有権を、控訴人小田中頴一が持分二分の一の所有権をそれぞれ有することを確認する。
三 控訴人小田中宣和が被控訴人らに対し、別紙物件目録記載の墳墓地について持分一三分の一所有権を有することの確認を求める訴を却下する。
四 訴訟費用は、第一、二審を通じて被控訴人らの負担とする。
事実
第一 当事者の申立
一 控訴人ら
1 原判決を取り消す。
被控訴人らの本訴請求をいずれも棄却する。
2 控訴人らが、別紙物件目録記載の墳墓地について、各自、持分二分の一の所有権を有することを確認する。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
(原判決事実摘示第一の三1の反訴請求を右のとおり交換的に変更する。)
二 被控訴人ら
1 本件控訴をいずれも棄却する。
2 当審における控訴人らの反訴請求をいずれも棄却する。
3 控訴費用は控訴人らの負担とする。
第二 当事者の主張
当事者双方の主張は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決事実欄(但し、原判決三枚目表六行目から同七枚目裏四行目まで)に摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。
(原判決の訂正)
原判決三枚目表七、八行目の「本件墓地」を、「別紙物件目録記載の土地(以下、「本件墓地」という。)」と、同七枚目表九、一〇行目の「権限」を「権原」とそれぞれ改める。
(控訴人らの当審における主張)
1 控訴人らは、本件墓地の所有者(共有者)である。
すなわち、
(一) 本件墓地は、明治一三年ころ小田中豊蔵の所有であったが、明治二〇年一月一二日小田中菊蔵が家督相続により所有権を取得し(明治二六年九月九日登記)、大正八年八月二六日、小田中豊が家督相続により所有権を取得し(但し、登記は前戸主のまゝ)、大正一一年九月九日小田中豊蔵が家督相続により所有権を取得し、昭和一九年六月二三日控訴人小田中宣和が家督相続により所有権を取得し(昭和五六年二月二六日登記)、更に昭和四八年ころ控訴人小田中宣和は本件墓地の二分の一の持分を控訴人小田中頴一に贈与し、昭和五六年二月二六日その旨の所有権移転登記を了した。
(二) 仮に、本件墓地の右承継取得が認められないとしても、小田中菊蔵は、本件墓地を明治二六年一月一二日から一〇年又は二〇年以上所有の意思をもって平穏且つ公然と占有してきたことにより同人が死亡する大正八年八月二六日までに時効により右所有権を取得した。仮にそうでないとしても、控訴人小田中宣和は昭和一九年六月二三日から本件墓地を所有の意思をもって平穏且つ公然と占有してきたから、昭和五六年二月二六日の時点までに時効により本件墓地の所有権を取得した。
よって、控訴人小田中宣和は本訴において右取得時効を援用する。
2 しかるに、被控訴人らは、本件墓地につき各一三分の一の持分権を有すると主張して、控訴人らの各二分の一の持分権を争うので、右確認を求める。
3 被控訴人らの主張に対する反論
(一) 墓くごとは、墓のある場所のことを言い、被控訴人ら主張の如く伝統的、慣習的な組織集団として地域的又は血縁的な構成員で構成される集団ではない。
末地区には上ん所「上区郷」、中ん所「中区郷」、下ん所「下区郷」があって、墓くごは区郷に墓の字を当てたものにすぎない。
(1) 被控訴人福永トヨ子の夫福永研二、同福永光雄及び同北谷功につき、控訴人小田中宣和及びその母小田中幸重が同人らを墓くごの構成員として承認した事実はない。
(2) 本件墓地の使用管理が墓くごにより行われた事実はなく、墓地、埋葬等に関する法律第一二条(管理者届出)による届出はなされていない。
(3) 明治一三年九月、当時末村の「衛生委員小西完兵衛」によって行われた墓地取調書によれば、本件墓地は「人民単用」に該るとされており、「人民共用」とされていない。もっとも、本件墓地には吉谷文右衛門ほか三名が共葬されたが、吉谷文右衛門は明治一六年五月一七日に死亡している。
また、明治三年の「官民有区別之儀ニ付伺」によれば、「従来村中共有墓地ト唱、村民一流自由ニ尸死屍埋葬」とされているが、これは本件墓地を含む末村の墓地一八か所を指しており、そのうち四か所が村有である。
(4) 被控訴人らが本件墓地の共有者の一人と主張する小田中猛は、末村に居住したこともなく、自己に所有権があると主張していない。また従来の墓くご構成員の家から分家してその構成員となるのであれば、控訴人小田中宣和から分家した控訴人小田中頴一及び訴外小田中務も構成員で共有持分権者でなければならない。現に、小田中務は実子を大正一四年九月ころ本件墓地に埋葬している。
(5) 構成員が年一回集まっている事実はない。毎年八月七日(旧暦七月七日)の墓掃除は三田(有馬郡)地方の年中行事(風俗習慣)の一つで七日盆といって墓掃除に行く風習にすぎない。
(二) 本件墓地の所有者名義は代表者名義ではなく、個人所有の土地であり、小田中菊蔵の所有であった。
(1) 末村には墳墓地が一八か所存在し、そのうち一か所は末村と北浦との共有であり、三か所は末村の所有であった。末村の正徳四年の戸数は一七戸であったが、慶応二年の同村の戸数は三二戸で、内訳は本役六、無役三、隠居八、新田一〇であって、そのうち隠居は本家の墓地を借りるから、前記村有墓地を除くと、墓地は一戸で一か所二戸で一か所ぐらいの割合になる。
(2) 末村には入会山林がなく、明治の始め単用であったものは個人名義に編入された。すなわち、
明治六年太政官布告第一一四号では、「右地所は本庁より其公有セル郡村市ノ戸長ヘ公有地ノ証トシテ地券ヲ公付シ地租区入費ハ該地ノ景況ニ由リ収入セシムベシ」と規定し、また「但公有地ノ内本来村方ニテ買得セシ地ハ売買トモ村方一統ノ自由ニ任スベシ」と規定していたから、もし本件墓地を含む近隣一〇か所の墓地について、明治一一年当時、百姓総代や戸長らがこれらを「旧公有地従前無税地」と認識していないならば、官民区別の伺いをする必要はなかった筈であり、同人らはこれらを「旧去地・従前無税地」と認識していた筈である。
(3) 明治五年二月二四日大蔵省第二十五達(地券渡方規則第一二条)では、「地券を申し請ずに密売するものは、その地所と代金を没収し、連印した村役人には代金の三割を罰金として科すること」とし、明治八年一〇月九日太政官布告第一五三号は、「生存者の家督相続(すなわち隠居相続)の場合には、相続人が地券手続をしない限り、明治八年第一〇六号を適用すること、すなわちその土地所有権の移転の効果を生じないこと」を規定している。
右のような土地制度の時代に土地所有名義を貸与することは考えられない。
(4) 当時、小田中家は地主であって、小田中菊蔵の時代には本件墓地に隣接する土地はほとんど同人の所有地であり、本件墓地には、控訴人小田中宣和が所有する天保一〇年三月の小田中の名が入った石碑が存在する。
(三) 墓くごという利用組織の団体的性質が、「民法上の組合」であるとする被控訴人らの主張は否認する。
(1) 「墓くご」という墓地の利用、所有を目的とする組織又は組合契約が成立した事実はない。
(2) 被控訴人らが本件墓地に労務を提供したり、古来から屍体埋葬の場として維持管理した事実はない。
(四) 墓くごが墓掘りをするものではない。従前旧東末村(明治七、八年頃西末村と合併して末村となった。)を本郷といい、本郷を四分割して、これを上区郷、中区郷、下区郷及び新田区郷と呼んでいた。本件墓地の存在する場所は中区郷であってその居住者が葬式の手伝いをしたり墓の穴掘りなどを手伝う慣習であった。なお、中区郷には他にも墓地が存在し、本件墓地の墓くごと称する者の中には中区郷以外の居住者もいる。
また、墓掃除は、一般の公園墓地、寺院墓地となんら変わるところなく、八月七日に墓掃除に行くのは旧有馬郡地方の風俗習慣であって、特別墓くごが墓掃除をするものではない。
(五) 一部の墓くご構成員の資格について
(1) 被控訴人北谷功は本件墓地に墳墓を設置していないし、親族の遺骨等を埋葬して祭祀を主宰している者ではない。
(2) 被控訴人小田中八重子は、西宮市奥畑四六一六八、神原三〇の満池谷墓地に同人の夫等の祭祀を主宰している者である。
(3) 被控訴人吉田宗忠は、兵庫県加東郡滝野町において墳墓を設置し祭祀を主宰している者である。
(4) 他方、控訴人小田中頴一及び訴外小田中務(分家、菊蔵の次男)らは、いずれも被控訴人ら主張の分家であり、本件墓地において墳墓を設置して祭祀を主宰する者である。
(5) 訴外小田中猛は、菊蔵の四女「とめ」の長男であるが、右「とめ」は分家後東末村に居住せず、昭和一四年ころ大阪で死亡し、本件墓地に埋葬され、猛が祭祀承継者となった者であるから、被控訴人ら主張の資格はない。
(被控訴人らの当審における主張)
1 控訴人らの当審における主張1の事実は否認する。同2のうち、控訴人小田中宣和が本件墓地につき一三分の一の持分権を有することは争っていない。その余の事実は認める。
2 「墓くご」という利用組織の団体的性質は、民法上の組合である。すなわち、末地区において古くより複数の構成員が互いに協力して墓地及び祖先の祭祀の維持存続という共同の目的を遂行するために、伝統的、慣習的に成立してきた結合体であり、そこでは、民法六六七条による「共同ノ事業ヲ営ムコト」が自明であり、同条の「出資」の点も金銭に限らず労務を含む極めて広い概念としてこれを解することができ、その組合財産は民法六六八条により組合員である墓くご構成員に共有されるが、共有持分の処分は制限され、分割請求も禁じられる(民法六七六条)。したがって、本件墓地の共同所有は単純な共有ではなく、「共同ノ目的ヲ達センガ為結合シタル一種ノ団体財産タル特質ヲ帯有」するところの「組合共有」ないし「合有」といわれる特殊な「共有」に属する。
3 墓くごの構成員資格について
(一) 墓くごの構成員になるための資格としては、まず本件墓地に親族の遺骨を埋葬することを欲し、当該墓地において父祖の祭祀を絶やさずに継続していく意思を有し、かつ当該墓地を共同で維持管理していくために各員が相互に協力していくことを決意していることが前提である。
(二) 本件墓地の使用はすでに徳川時代より始まっているが、墓くご構成員は、①古く当時より当該墓地を使用してきた家系の子孫として引続き一家を代表し同墓地の使用管理をなす者、②右①の家系から分家した家系の子孫として一家を代表し同墓地の使用管理をなす者、③同墓地の使用管理への自発的奉仕参画を通じて新たに他の墓くご構成員全員から参入を承認された者及びその家系の子孫として一家を代表し右墓地の使用管理をなす者のいずれかでなければならない。
(三) そして、一旦、墓くごの構成員になった者は、末地区から転出しても直ちに構成員資格を失わず、ただ構成員としての義務を怠りかつ音信も途絶えて多年を経過すると、墓くご構成員としての資格は失われ、当該構成員の先祖の墓はいわば無縁墓となる。なお、控訴人小田中宣和の場合、一時期かなりの期間音信が絶え所在が不明となっていたが、代々の祖先の墓は厳存し、まだその墓くご構成員資格を無視できる程の状況に至っていなかった。
4 本件墓地の登記名義等について
本件墓地は徳川時代より村有に近い共有地の実体があったが、村有地でもなく、また小田中家の私有財産でもなかった。すなわち、明治初年の古文書によれば、本件墓地を他の末村地区の多数の墓地と並列し、右墓地はいずれも一定の村民の共同墓地でその関係村民が自由に埋葬してきたものであり、土地もそれぞれ右共同者の共有物であった旨を概括的に記している。更に、明治時代になって、土地台帳への登記の必要上、法人格をもたない組合に代って、便宜、当時の有力墓くご構成員であった小田中豊蔵名義で本件墓地の登記がなされたが、このことは組合財産である本件墓地の所有権になんらの変動を及ぼすものではない。すなわち、本件墓地は、墓くご構成員の共有に属する土地であるが、各組合員の持分の処分は制限され分割請求は禁止されており、しかも組合には登記能力がない。かかる場合に各墓くご構成員全員を連名で共有登記をすることは、右持分処分の可否に係る誤解と紛争の原因ともなりかねないうえ、各構成員の死亡相続の度毎の登記の変更は煩に耐えないので、やむを得ず、代表格の小田中豊蔵名義の登記をなしたものにすぎない。したがって、かかる登記名義人に対しては、他の構成員らはいずれも名義人との合有的共同所有者であり、名義人との間の持分を分解して制約のない支配機能を得ようと相争うような対抗問題の可能性を否定されているから、いずれも右名義人の登記に対して無登記でそれぞれの持分を対抗することができる。
5 一部の墓くごの構成員の資格について
(一) 被控訴人北谷功の場合、従来の構成員の家から分家して新たに墓くごの構成員となった者であるが、末地区内に在住し、本件墓地の共同管理に参画し、将来同墓地において祭祀を継続していくことが見込まれ、現にその意思を有するが、これまで墳墓を設置する葬祭事件がなかったためまだ建墓していないだけである。
(二) 被控訴人小田中八重子、同吉田宗忠の場合、本件墳墓地以外にも建墓しているが、本件墓地についても現に先祖の墳墓を有しその祭祀を継続しているから、構成員資格に問題はない。
(三) 控訴人小田中頴一は、本件墓地に建墓したが、分家後、末地区を離れて居住し墓くご構成員としての葬式や墳墓の維持等に係る共同の任務分担をしていないから、墓くご構成員の資格はない。
第三 証拠関係<省略>
理由
一被控訴人らの本訴請求について
1 被控訴人ら主張の墓くごの実態
<証拠>によれば、次の各事実が認められる。
(一) 本件墓地が存在する三田市末地区は、明治年代、摂津国有馬郡末村と称し、同村内に本件墓地を含め一八か所の墓地が存在した。本件墓地は右末地区の中ん所(中区)に所在し、徳川時代から埋葬がされており、その埋葬状況は次のとおりである。
(1) 被控訴人北谷薫関係
同人は、三田市末に居住するが、中ん所に居住するものではない。昭和四五年一一月ころ、父北谷善四郎の生前に先祖の祭祀を承継し、本件墓地内に墓を所有している。なお、同人の先祖は自作農であった。
(2) 被控訴人福永トヨ子関係
同人は、三田市末に居住していた福永研二の妻であったが、研二が昭和三五年八月一日死亡したため、祭祀を承継し、本件墓地には右研二、及び同人の両親の墓のほか、トヨ子の長男の墓も存在する。なお、トヨ子が研二と結婚した当時、研二は控訴人らの先代小田中家の小作をしていた。トヨ子は昭和五四年ころ、末地区から現在所に転居した。
(3) 被控訴人北谷功関係
同人は北谷清太郎の三男で、昭和一九年七月一三日分家し、昭和二〇年五月二一日結婚した者であるが、昭和六年四月三〇日に死亡した父清太郎の祭祀はその長男伝三郎(昭和三九年三月八日死亡)の子の被控訴人北谷千代子が承継しており、功は右承継者でなく、且つ本件墓地に墓を所有していない。
(4) 被控訴人吉田誠三関係
同人の養父庄吉は、昭和四七年に死亡し、誠三がその祭祀を承継し、亡養父と養母いと及び誠三の妻を本件墓地に埋葬した。なお、養父庄吉は、控訴人らの先代小田中家の小作をしていた。
(5) 被控訴人吉谷一将関係
同人の家系は、嘉永、天保年間より続いており、先祖代々本件墓地に埋葬されている。昭和五一年に父貫一が死亡し、長男一将がその祭祀を承継した。同人の先祖は、明治初期から本件墓地の隣接地に自己所有地を有する自作農であった。
(6) 被控訴人吉田宗忠関係
同人は、吉田きゆえ、同徳男の養女順子と昭和四三年六月一八日に婚姻して吉田家に入ったが、末地区に居住したことはない。そして、現在の住所である滝野町に墓地を有し、吉田きぬえ(昭和二九年死亡)、同徳男(同四三年死亡)及びきぬえの先代槌之助の妻さと(同四八年死亡)を右墓地に埋葬しており、右槌之助以前の先祖を本件墓地に埋葬している。
(7) 被控訴人北谷千代子関係
同人は前記(3)のとおり、北谷伝三郎の祭祀を承継し、本件墓地に父伝三郎を含む先祖を祭っているが、同人は昭和三六年六月に夫照夫と結婚し、以来、末地区を出て現住所で居住している。
(8) 被控訴人福永光雄関係
同人は、前記福永研二の父勝治郎の弟善太郎の長男で、末地区には昭和二〇年ころから昭和三二、三年ころまで居住していたが、その後他を転々とした後、現在は現住所で居住している。父善太郎は昭和三五年一〇月二九日に死亡し、母ふじの昭和四四年六月三日に死亡したが、いずれも本件墓地に埋葬された。
(9) 被控訴人吉谷俊平関係
同人は、吉谷家の嫡流である被控訴人吉谷一将の父吉谷貫一の妹吉谷たみえが大正一二年一二月二二日に夫実雄と婿養子縁組をして昭和二〇年一二月一七日分家した夫婦の長男であるが、末地区に居住していない。そして、右たみえは昭和四二年一二月一四日に死亡し、右実雄は昭和二二年一月一日死亡し、俊平がその祭祀を主宰している。
(10) 被控訴人北谷マツヨ関係
同人は、前記(3)の北谷清太郎の次男北谷清市の妻であるが、清市は被控訴人北谷功と同様分家したが、昭和五一年六月一日死亡したことにより、マツヨがその祭祀を主宰しているが、同人はそのころ末地区から現住所に転居した。
(11) 被控訴人小田中八重子関係
同人は、小田中幸三郎の妻であり、幸三郎が昭和五一年九月二三日に死亡したことによりその祭祀を承継した。しかし、幸三郎は本件墓地に埋葬されておらず、本件墓地には幸三郎の父辰之介が埋葬されている。また、八重子は末地区で居住したことはない。
(12) 小田中猛関係
同人は末地区に居住したことがないが、本件墓地には両親(母とめは、控訴人小田中宣和の祖父小田中菊蔵の四女。)が埋葬されている。右埋葬については、同人は親戚筋の坂本某の承認を得たのみであり、被控訴人らの承認を得たことはなく、被控訴人らと交際や連絡をしたことは全くない。同人の先々代の菊蔵も本件墓地に埋葬されている。
(13) 控訴人小田中宣和関係
控訴人両名の母小田中幸重は、昭和一四年七月から同二四年三月ころまで控訴人両名と共に末地区で居住していたが、昭和一九年一〇月ころ夫豊蔵が戦死し、遺骨はなかったので、白木の箱に位牌と手紙を入れて本件墓地に埋葬した。小田中家は、明治年代から地主で、本件墓地周辺の土地も一部吉谷家の所有地を除いて小田中家の所有であり、本件墓地の使用者は小田中家一族のほか小田中家の小作人等出入りの人で祖父の菊蔵が埋葬許可をした者に限られていた。なお、前記小田中猛は、幸重の母の妹の子であり、菊蔵の四女とめの子供に当たり、幸重と夫豊蔵はいとこ同志の関係である。本件墓地には小田中家の先祖代々の墓のほか、その親戚筋の墓もある。
(14) 無縁仏等関係
本件墓地には新谷萬治の無縁仏の墓のほか、小田中家から分家した小田中務(菊蔵の次男で豊の弟)関係の墓及び控訴人小田中頴一の妻の墓がある。
(二) 本件墓地に墓を有する被控訴人らは、墓くごなる地域的、慣習的な組織を構成して、墓の管理や葬儀等の準備を共同でしてきたが、その構成員資格については、前記のとおり相続、隠居(事実上も含む)、分家等の事由のほか、他の構成員の承認によってこれを認めてきた。すなわち、被控訴人吉谷一将、同吉田誠三、同吉谷俊平、同北谷千代子、同北谷マツヨ、同吉田宗忠及び同小田中八重子は相続により、被控訴人北谷薫は先代の隠居により、被控訴人吉谷俊平の先代実雄及びたみえ、同北谷マツヨの先代清市及び同北谷功は分家により、被控訴人福永トヨ子、同福永光雄は協議によりそれぞれ右構成員資格を取得したものである。そして、右構成員資格を認められた者の関係者のみが本来本件墓地に埋葬することができるとされてきた。
(三) しかし、右墓くごには代表者の定めもなく、構成員名簿もなく、対外的に活動をすることもなかった。そして、控訴人小田中宣和、訴外小田中猛はいずれも本件墓地に先祖代々の墓を有するところ、被控訴人らは右両名をも墓くごの構成員であると主張するが、右両名はこれを否定しており、右両名が右構成員として被控訴人らと行動を共にしたり連絡をとり合ったことは全くない。また、本件墓地には墓くごの構成員と認めない前記(14)の三名関係の墓も存在する。また、墓くごの構成員は、一年のうちの盆前の八月七日ころ及び彼岸の三回本件墓地の掃除をしたり、埋葬の際には穴掘等の葬儀の準備をしたり、また必要の都度集って協議をしたりしていたが、被控訴人らのうち末地区に居住しない者は居住する者や代理の者にこれを代行させたり、させなかったりしており、右構成員と称される被控訴人小田中宣和及び訴外小田中猛は、被控訴人らと共同で右掃除等をしたことはなく、右協議に参画したことは全くない。
以上の事実が認められる。<証拠>中、右認定に反する部分はにわかに措信し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定事実によれば、被控訴人ら及びその祖先は徳川時代から現在に至るまで本件墓地の墓くごの構成員であるとの共同の認識の下に、墓くご構成員として本件墓地の使用・管理に当たってきたものであり、その使用・管理については慣習上これが一般に承認されてきたものということができるから、右墓くごの構成員の資格の得喪、組織形態等について法律上多少曖昧な点を残すものの、右墓くごは、伝統的、慣習的な人的組織集団であり、これが被控訴人ら地縁的又は血縁的な構成員によって構成される集団であるものと認められる。しかして、右墓くごの法的性質については、人の集団であるというものの、前記のとおり代表者の定めはなく、その組織性は弱く、むしろ構成員個人相互の関係に重点が置かれているから、これを法律上、権利能力なき社団と認めることはできず、民法上の組合に近い組織であると認めることができる。更に右構成員の本件墓地の使用については、その先代らが民法施行時の明治三一年七月一六日以前より右墓くごの構成員として本件墓地を慣習上使用管理しているものであるから、民法施行後もその効力が存続しているものというべきであるから、これが法律上何らの権原に基づかない不法の占有であるとは到底認め難い。
2 本件墓地の所有権の帰属
<証拠>を総合すると、次の各事実が認められる。
(一) 明治五年二月一五日地所永代売買解禁の太政官布達、同年同月二四日大蔵省達「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」および同年七月四日民有地一般に地券を付与する大蔵省達により地所売買譲渡が法制化され、地券制度が農地についても実施されることになった。すなわち、売買による土地所有権移転の効力は、地券交付が売買の効力要件とされ、その後、明治八年には地券書換が効力要件とされ、さらに明治一三年売買証書等に戸長役場の奥書割印によって売買の効力が発生するものとされた。しかして、明治六年三月二五日太政官第一一四号布告「地所名称区別制度」により、埋葬地については、他の官公有地及び民有地と区別して地券を発せず且つ除税地とされたが、明治七年一一月七日第一二〇号布告により「官有に非ざる墳墓地等」は民有地第三種に編入され、これについては地券を発するが、地租、区入費(地方税)は賦課されないことになった。
(二) 本件墓地は、もと末村字墓ノ口二〇番墳墓地七畝歩と表示され、前記認定のとおり、徳川時代より埋葬地として使用されてきたが、明治一一年六月二日、当時の摂津国有馬郡第一六区末村の百姓総代中西伝治郎同向井喜三右エ門及び戸長石田源左エ門は、兵庫県権令森岡昌純宛に、本件墓地を含む末村所在の一七か所の墓地につき、「右ハ旧三田藩ニ於テ検地帳御下渡シ無之候且書類ナド記載無之候ニ付キ原由不詳ニ候得共従来村中共有墓地ト唱ヘ村民一流自由ニ尸屍埋葬且地盤等モ当村限リ勝手ニ進退仕来リ申候処官民区別如何相心得候テ可然哉」と、右に相違ない旨の区長の添書を得て官民有区別の伺をなしたところ、明治一二年、同県権令より、従来、当該地に限り死屍埋葬してきた上は、同地を民有地第二種に編入する旨の回答があった。しかして、右回答にいう「民有地第二種」は、明治九年六月一三日第八八号布告により、前記明治七年第一二〇号布告の「民有地第二種」(人民数人或ハ一村或ハ数村所有の確証アル学校、病院……社寺等の非官有地)を「民有地第一種」に合わせ、従前の「民有地第三種」を「民有地第二種」と改められたものであって、右回答にいう「民有地第二種」とは前記の「官有に非ざる墳墓地」を指すものであるところ、右回答ではこれが当時の村(公有)又は個人の所有又は共有であるかを明らかにしていない。他方、本件墓地について地券が発行されたことを窺わせる事実もない。その後、明治一三年九月、末村の「衛生委員小西完兵衛」によって行われた墓地取調書によれば、末地区の墓地につき、「村内人民単用」、「村内人民共用」、「村内単用」、「村内共用」の区別をしたうえ、本件墓地を「人民単用」であると記載されている。更に、明治一八年ころに調整されたとみられる有馬郡墓地台帳によれば、本件墓地の地主は末村小田中豊蔵、共葬人は同村吉谷文右エ門外三名と記載され、この段階で初めて所有者の表示が出現した。
(三) その後、前記地券制度は明治一七年一二月の土地台帳制度の創設により明治二二年に廃止され、同年四月の市町村制の施行に伴い土地台帳が市町村において保管されることとなり、他方、明治一九年八月一一日法律第一号をもって登記法が制定公布され、ここにおいて土地に関する所有権の移転等はすべて登記によることとなり、従来の地券制度の使命は終了した。しかして、本件墓地についても、明治二三年土地台帳が作成され、これに所有者として小田中豊蔵と表示され、更に登記簿の表題部所有者欄に小田中菊蔵名が記載され、甲区欄に明治二六年九月九日付をもって、右同日、小田中菊蔵が小田中豊蔵を家督相続したことを原因とする所有権保存登記が経由された。
(四) 同じ末地区内の貝谷六〇六番所在の墓地は、登記簿上及び墓地台帳上、羽路作蔵とその分家の羽路伊之介の所有名義となっているが、前記墓地取調書には「村内人民共用」と記載されている。そして、右墓地では、実際には羽路系統一〇名、麹谷系続四名、合計一四名が共同でこれを使用し、且つ平等の権利を有している。しかして、右墓地の場合、前記認定の法制度の変遷に伴い所有者を表示する必要に迫られ、所有権に重きを置かないで、右使用者の中から由緒のある者が代表名義で墓地台帳及び登記簿上の所有名義人となった経緯がある。
また、同じ末地区の八ツ町所在の墓地は、墓地台帳及び登記簿上、石田源左衛門の所有名義となっているが、前記墓地取調書には「村内人民共用」と表示されている。そして、右墓地では、実際に右石田家及びその分家筋とその血縁の酒井家の七軒がこれを共同使用し、いずれも所有権に準ずる権利を有していると考えられている。
(五) その他の末地区の墓地には、単独所有名義のもの六か所、二名の所有名義のもの七か所、三名の所有名義のもの一か所、末村等公有所有名義のもの四か所があり、右単独名義のうち四か所及び二名所有名義のうち二か所が「村内人民単用」と表示されていたものであるが、前記の貝谷及び八ツ町所在の墓地はいずれも「村内人民共用」と記載されていたものである。
以上の事実が認められ、他に右認定に反する証拠はない。
しかるところ、被控訴人らは、前記墓くごの構成員が本件墓地の共有者である旨主張する。しかし、右認定のとおり、本件墓地につき地券が発行されたものとは未だ認め難く、これを右構成員たる被控訴人らが所持していたことを認むべき証拠はない。かえって、右認定事実によれば、本件墓地を含む旧末村内の墳墓地は、明治一一年に伺いをたてた当時は漠然と「村中共有墓地」と考えられたが、兵庫県令から民有地第二種に編入するよう指令を受けて調査した結果、村内の墳墓地の所有形態には「人民単用」、「人民共用」、「村内単用」、「村内共用」の種類があることが判明し、更に、本件墓地は「人民単用」に属するものであって、その所有者は小田中豊蔵であり、吉谷文右衛門外三名が共葬人として使用する権利を有することが明かになったため、土地台帳には小田中豊蔵が所有者として登載され、登記簿にはその家督相続人小田中菊蔵のため所有権保存登記が経由されたものと認めるのが相当である。即ち、公文書上、本件墓地について初めて所有者が表示されたのは明治一八年の墓地台帳であるが、右記載によれば、当時、本件墓地には、小田中豊蔵のほかは被控訴人吉谷一将、同吉谷俊平の祖先である吉谷文右衛門及びその関係者のみが埋葬されていたものと推認されるところ、右吉谷文右衛門を共葬人と表示し、地主と区別して表示していることから判断すれば、右地主の表示が単なる埋葬者の代表者名義であるとは認め難く、まして、当時の墓くごの構成員の実態は明らかでないから、小田中豊蔵が右構成員の代表者名義にすぎないと認めることも困難である。この点は、同じ末地区内の貝谷及び八ツ町所在の墓地の場合と同一に論ずることはできないし、前記旧土地台帳(乙第二五号証)によれば、所有者氏名として前記小田中豊蔵名の次に、明治二六年九月九日相続として小田中菊蔵名が記載されていることによっても裏付けられる。
右の次第で、本件墓地の墓くご構成員である被控訴人らが民法施行前から本件墓地につき慣習上適法な墓地使用権を有することは明らかであり、特に本件墓地周辺に自己所有地を所有していた吉谷文右衛門については本件墓地につき物権に準ずる用益権を有していたものと推認されないではないが、右にとどまり、被控訴人らないし被控訴人らの構成する組合が本件墓地の所有者であるとは未だ証拠上認め難いといわざるを得ない。
3 以上の次第で、被控訴人らの本件墓地の共有持分権の確認を求める本訴請求は理由がない。
二控訴人らの当審における反訴請求について
1 前記一2の認定のとおり、本件墓地につき、明治二六年九月九日付をもって小田中菊蔵名義に所有権登記が経由されているから、他に特段の事由のない限り、本件墓地はもと小田中菊蔵の所有であったものと推認される。
2 <証拠>によれば、右菊蔵は戸主であるところ、大正八年八月二六日死亡したことにより、長男小田中豊が家督相続し(同年九月三日届出)、戸主小田中豊が同一一年九月九日死亡したことにより長男小田中豊蔵が家督相続し(同年一〇月六日届出)、戸主小田中豊蔵が昭和一九年六月二三日戦病死したことにより長男である控訴人小田中宣和が家督相続(同二一年六月四日届出)したことが認められるから、控訴人小田中宣和は本件墓地の所有権を相続により承継したものと認めることができ、更に昭和五六年二月二六日受付をもって本件墓地につき右相続を原因とする所有権移転登記を経由したことが認められる。
3 <証拠>によれば、控訴人小田中宣和は、昭和五四年二月二三日、本件墓地の二分の一の持分権を控訴人小田中頴一に贈与し、同月二六日付をもって右持分権につき右贈与を原因とする所有権移転登記を経由したことが認められる。
4 被控訴人らは、控訴人小田中宣和が本件墓地につき一三分の一の持分権を有することは争わないが、その余の持分権を有すること及び控訴人小田中頴一が本件墓地の二分の一の持分権を有することを争っている。
5 そうすると、控訴人らの本件反訴請求のうち、控訴人小田中宣和が被控訴人らに対し、本件墓地の一三分の一の持分権を有することの確認を求める部分は訴の利益がないのでこれを却下することとし、二六分の一一の持分権の確認を求める部分は理由があり、控訴人小田中頴一の本件墓地の二分の一の持分権の確認を求める請求は理由がある。
三結論
してみれば、被控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないので失当としてこれを棄却すべきところ、これと異なる原判決第一、三項は相当でないのでこれを取り消したうえ、右請求をいずれも棄却し、当審における控訴人らの反訴請求のうち、控訴人小田中宣和の被控訴人らに対する本件墓地の一三分の一の持分権の確認を求める部分は不適法であるからこれを却下し、持分権二六分の一一の確認を求める請求は理由があるからこれを認容し、控訴人小田中頴一の反訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九各、九三条、九二条但書を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大和勇美 裁判官久末洋三 裁判官稲田龍樹)
別紙物件目録
三田市末字墓ノ口一三四番
一 墳墓地 六九四平方メートル