大阪高等裁判所 昭和61年(ネ)326号 判決 1989年2月15日
主文
一 本件各控訴を棄却する。
二 控訴人らの当審における予備的請求中、通常実施権不存在確認の訴えを却下し、その余の請求を棄却する。
三 差戻前の控訴審以後の訴訟費用は、上告審において裁判のあった部分を除き、すべて控訴人らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人ら
1 主位的請求
(一) 原判決を取り消す。
(二) 被控訴人は、原判決別紙目録(一)記載の方法(以下「(イ)号方法」と言う。)を使用して握鋏を製造・販売してはならない(ただし、厚い素材での全部の膨出部分を落とす場合を除く。)。
(三) 被控訴人は控訴人株式会社藤井金属(以下「控訴人会社」と言う。)に対し、金四〇〇〇万円及び内金二〇〇〇万円に対する昭和五〇年五月一日から、内金二〇〇〇万円に対する昭和五二年一〇月一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
(四) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
(五) 第(三)項につき仮執行の宣言。
2 予備的請求(当審で追加)
(一) 控訴人藤井宏(以下「控訴人藤井」と言う。)の有する当判決別紙目録(一)記載の特許権(以下「本件特許権」と言う。)について、被控訴人は同目録(四)記載の範囲を超えて通常実施権を有しないことを確認する(ただし、厚い素材で全部の膨出部分を落とす場合を除く。)。
(二) 被控訴人は控訴人会社に対し、金八八四万三二七四円及びこれに対する昭和五六年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
(三) 当審における訴訟費用は被控訴人の負担とする。
(四) 第(二)項につき仮執行の宣言。
二 被控訴人
(一) 主文第一、三項同旨。
(二) 控訴人らの当審における予備的請求をすべて棄却する。
第二 当事者の主張
一 主位的請求関係
1 控訴人らの請求原因
(一) 控訴人藤井の特許権
控訴人藤井は、本件特許権を有する。
(二) 本件特許権の対象たる発明(以下「本件特許発明」と言う。)の構成要件及び作用効果
(1) 本件特許発明は、握鋏の製造方法に関するもので、その構成要件(技術的要素)は、次のとおりである。
イ 軟鋼ないし極軟鋼の等厚板で、左右両側部分の底辺が下方へ凹弧状に膨出した棒状の握持柄素材を打抜き加工で形成する(握持柄形成)。
ロ 良質の刃物鋼板で、その基端面の幅を握持柄素材の左右両側端面の幅より長くした刃物の刃版素材を打抜き加工で形成する(刃版形成)。
ハ 握持柄素材の左右両側端面に刃版素材の基端面を、握持柄素材と刃版素材の各上縁を一致させて、接触するとともに加熱して、握持柄素材の左右両側部分の表裏両面が膨出するように圧接する(接合)。
ニ 右圧接によって生じた四つの膨出部分のうち、表面の一個又はこれに対角する裏面の一個の膨出を加えた二個の膨出部分を残して他の膨出を研削除去する(ストッパー形成)。
ホ 握持柄素材の中央部分を加熱するとともに上下から押圧を加え、表裏両面方面にのみ膨張させる(握持柄第一次加工)。
へ 右加熱によって生じた酸化鉄(ベト)の層を除去して地肌を出す(表面処理)。
ト 右握持柄素材の中央膨張部分を常温の下で再度上下から押圧して伸展させ、薄くて広い粘りのあるバネ面を形成する(握持柄第二次加工)。
チ 刃版素材に刃付けし、バネ面で折り返して完成させる(仕上げ)。
(2) 本件特許発明の作用効果は、次のとおりである。
従来は、鋏全体又は握持柄素材と刃版素材の接合部分及びストッパーを鍛造によって成形加工していたのに対し、本件特許発明は、右鍛造の工程を全く必要としないため、加工に熟練を要せず、鍛造工程が省略されるため、安価かつ均一の握鋏が多量に製造できる。
(三) 控訴人会社の実施権
控訴人会社は、昭和四七年四月四日控訴人藤井から、本件特許権について範囲に限定のない独占的通常実施権の設定を受け、更に同年一〇月二九日範囲に限定のない専用実施権の設定を受け、昭和五一年一月二六日その旨の登録を経由した。
(四) 被控訴人の握鋏の製造方法
(1) 被控訴人は、(イ)号方法により業として握鋏を製造・販売しているが、右方法の特徴及び作用効果は、本件特許発明におけるものと同一である。
(2) 仮に、被控訴人が(イ)号方法によらず、自認に係る当判決別紙目録(二)記載の方法(以下「(ロ)号方法」と言う。)により業として握鋏を製造しているとしても、右方法もまた、本件特許発明の技術的範囲に属するものである。
本件特許発明が、複数の技術的要素(構成要件)からなることは、前記のとおりであるが、その主要部をなすのは、ストッパー部分の形成であり、その点を特許出願当時の握鋏製造業界における技術的水準(以下「従来の方法」と言う。)及び(ロ)号方法の技術的要素と対比すれば、次のとおりである。
イ 従来の方法の手法では、握持柄素材と刃版素材を溶接により結合させた際に、溶接棒等の溶接媒体によって作られる膨出部分を、ストッパー部分となる段差が出来るように鍛造して形成していた。これに対し、本件特許発明の手法では、右両素材を接合させた際、ストッパー部分の基礎となる膨出部分を、握持柄素材の左右両側部分の表裏両面に同時に形成するものであって、従来の方法における工程の一部(鍛造)が省略され、形状・寸法にむらを生せず、また熟練も必要としないのである。
ロ 本件特許発明の手法では、握持柄素材の基端面と刃版素材の基端面を接触させるとともに加熱し、握持柄素材の左右両側部分の表裏両面が膨出するように圧接することにより、ストッパー部分の基礎となる膨出部分を形成するものである。これに対し、(ロ)号方法の手法では、握持柄素材と刃版素材との厚みの差がもたらす段差をもってストッパー部分形成の基礎とするが、その段差は、左右いずれか片側を少し広く打ち抜き、その広く打ち抜いた部分を常温で上下から押圧した握持柄素材と、それより薄い刃版素材とを、表裏いずれかの面を同一平面にして溶接することにより形成するものである。
右両手法によるストッパー部分の形成を比較すると、次のとおり同一に帰し、(ロ)号方法の手法は、本件特許発明の手法に抵触するものである。
第一に、本件特許発明の手法によるストッパー部分形成の特徴は、ストッパー部分の基礎となる段差を、刃版素材との接合工程で握持柄素材の左右両側部分の表裏両面に生ずる膨出によらしめる技術的思想にあるのであるが、その膨出部分を形成する手法については、接合工程で生ずるということ以外に限定がなく、いやしくも握持柄素材の左右両側部分の表裏両面に膨出をもたらす手法はすべて包含するものであり、刃版素材と接合させる前に、それよりも握持柄素材を厚く形成しておく(ロ)号方法(膨出部分は握持柄素材の左右いずれか片側の表裏いずれか一面にしか生じないことになる。)も、その例外ではないのである。
第二に、(ロ)号方法によるストッパー部分形成の特徴は、握持柄素材の左右いずれか片側を広く打ち抜き、その広く打ち抜いた部分を上下から押圧を加える点にあるが、右押圧工程を経た部分に、刃版素材との溶接工程で表裏両面に膨出部分を生ずる以上、本件特許発明の手法とは別異の手法によるものとは言えない。またその点を除いても、同溶接工程で右押圧工程を経た握持柄素材の部分が、加熱のため表裏両面方向に膨出する現象を生ずることは明らかで、それが本件特許発明の膨出に該当することは言うまでもない。
第三に、ストッパー部分の基礎となる段差は〇・八ミリメートルくらいあれば足り、その程度の段差は、(ロ)号方法による溶接工程でいずれにせよ生ずる膨出によって充足できるのであって、本来、握持柄素材の広く打ち抜いた側を上下から押圧して段差を設ける必要はない。(ロ)号方法は、ひっきょう、本件特許発明に無い工程を付加することにより、本件特許発明の手法とは別異の手法であるかのように装うためのものにほかならない。そのことは、(ロ)号方法によると、ストッパーは一箇所しか作成できず、ストッパーを二箇所作成する必要がある場合は、結局本件特許方法によらざるをえなくなるということからも明らかである。
第四に、以上の次第であるから、(ロ)号方法が本件特許発明とは別異のものであると言うことは困難である。それは、いわゆる迂回発明であって、特許請求の範囲に記載されている事項そのものでないにしても、本件特許発明と均等の技術的範囲に属し、その保護範囲にあるものである。仮に、そうでないとしても、(ロ)号方法は、特許法七二条の「他人の特許発明を利用した発明」に該当するから、業としてその実施をすることが許されないものである。
(五) 本件特許権の侵害及び損害
被控訴人は、握鋏製造に関する(イ)号方法又は(ロ)号方法が、本件特許発明の技術的範囲に属することを知り又は過失により知らないで、昭和四七年一〇月から昭和五三年一一月一三日まで、右いずれかの方法により業として握鋏を製造・販売し、もって控訴人藤井の本件特許権及び控訴人会社の本件特許権の独占的通常実施権ないしは専用実施権を侵害し、かつ、控訴人会社に対して次のとおりで損害を被らせた。
右握鋏について、製造量は、素材である複合材一キログラム当たり小寸で五二丁、大寸で一三丁、売値は一丁当たり小寸で四三円五〇銭、大寸で八〇円であって、少なくとも売値の三割の利益を取得することができた。そして、被控訴人が昭和四七年一〇月から昭和五〇年四月までに買い入れた複合材は小寸用二万六三〇〇キログラム、大寸用九〇六二キログラムであるから、合計二〇六七万四七一九円の利益、昭和五〇年五月から昭和五三年一一月一三日までに買い入れた複合材は小寸用三万一一五八キログラム、大寸用一万三四五六キログラムであるから、合計二五三四万二〇九〇円の利益を各取得し、同額の損害を控訴人会社に被らせた。
(六) よって、控訴人らは被控訴人に対し、特許権又はその実施権に基づき、(イ)号方法による握鋏の製造・販売の差止を、控訴人会社は被控訴人に対し、不法行為を理由として、(五)の各損害のうちそれぞれ二〇〇〇万円の合計額四〇〇〇万円及び内金二〇〇〇万円に対する昭和五〇年五月一日から、内金二〇〇〇万円に対する昭和五二年一〇月一日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。
2 請求原因に対する被控訴人の認否
(一) 請求原因(一)、(二)の各事実は認める。
(二) 同(三)の事実中、登録経由の点を認め、その余は不知。
(三) 同(四)(1)の事実は否認する。被控訴人は、(ロ)号方法により、業として握鋏(半製品を含む。以下同じ。)を製造・販売しているものである。
(四) 同(四)(2)の事実中、被控訴人が、(ロ)号方法により、業として握鋏を製造・販売していることは認め、その余は否認する。
控訴人らの本件特許発明と被控訴人の(ロ)号方法との間には、それらの各主要部をなすストッパー部分形成の手法について、次のような差異等が見られる。したがって、右両手法は、技術的思想を異にするものと言うべきであるから、(ロ)号方法は、本件特許発明の技術的範囲に属するものではない。
(1) 控訴人らの主張では、本件特許発明におけるストッパー部分の形成は、要するに、軟鋼ないし極軟鋼の等厚板からなる握持柄素材と良質の刃物鋼板からなる刃版素材を加熱圧接することによって握持柄素材の左右両側部分の表裏両面に生ずる膨出(バリ)を利用し、握持柄素材と刃版素材の接合部分に段差を設けて仕上げるというものである。
(2) 特許発明の技術的範囲は、特許請求の範囲の記載に基づいて定められなければならないことは言うまでもない。しかし、そのことは、常に特許請求の範囲として記載されたとおり定まるということを意味するものではなく、特許請求の範囲に記載されている事項でも、客観的に特許請求の技術的範囲に含まれていないと解すべきものは、当該特許発明の技術的範囲から除外されるものと言わなければならない。これを本件について見ると、溶接による膨出は、握持柄素材の左右両側部分のみならず、常に、それら各部分に接合する刃版素材にも跨って生ずるものであるが、本件特許発明の図面及びその説明等にもそのようなものとして開示されていないから、本件特許発明には、右のように刃版素材に跨って膨出を生ずる場合は一切含まれていないと解するほかはなく、したがって膨出部分を利用してストッパー部分を形成する技術的思想は含まれていないことに帰するものと言うべきである。そうすると、まず、この点において(ロ)号方法は、本件特許発明の技術的範囲に属するものではない。
(3) そうではなく、本件特許発明におけるストッパー部分の形成は、握持柄素材と刃版素材の接合部分に生ずる膨出部分に基づき段差を設けて仕上げる技術的思想であるとしても、次のとおり、(ロ)号方法におけるストッパー部分形成の手法は、本件特許発明の技術的範囲に属するものではない。
イ 本件特許発明におけるストッパー部分の形成に関する技術的思想は、握持柄素材と刃版素材の加熱圧接によって生ずる膨出部分を利用する手法に限られ、それ以外の工程で生ずる膨出部分を利用する手法は含まれていない。したがって、まず、当判決別紙目録(二)記載のごとく、握持柄素材について、刃版素材よりも厚板を使用し、また、刃版素材との接合前の段階において、広く打ち抜いた部分を常温で押圧して厚みを増加させる手法が本件特許方法における膨出に該当するものでないことは言うまでもない。
次に、(ロ)号方法におけるストッパー部分の形成は、当判決別紙目録(二)記載のとおりであって、握持柄素材と刃版素材の厚みの差がもたらす段差を利用する手法によるものである。もっとも、(ロ)号方法においても、握持柄素材と刃版素材を加熱圧接した部分の表裏両面に合計四個の膨出が生ずるが、それらはいずれも仕上げの段階までには研削除去され、ただの一つとしてストッパー部分の形成に利用されるものはないのである。その点、被控訴人方においては、普通、当判決別紙目録(二)記載九の仕上げ工程を残したところの半製品を他の握鋏製造業者に卸売りするため、あたかも膨出部分をストッパー部分の形成に利用するかのように控訴人らにおいて誤解しているが、未除去の膨出部分は、半製品を買い受けた業者の手ですべて研削除去のうえ完成品に仕上げるものである。
右のとおり、(ロ)号方法は、ストッパー部分形成の手法及び時期の点で、本件特許発明とは重要な差異を有するものである。
ロ 握持柄素材と刃版素材を溶接(現在では電気溶接)する際に生ずるバリ(正確にはビード)と称される膨出部分は、ストッパー部分の形成に適するものではない。バリは握持柄素材とも刃版素材とも異なる極めて脆弱な金属材質になっているため、右いずれの素材にもなじまない。例えば、握持柄素材にバリの一部をたたき込んで握鋏に仕上げると、バリが欠落してその部分にくぼみが出来、製品としては、望ましくないものとなる。したがって、バリを利用してストッパー部分を形成することは、技術上ありえないことであり、本来、(ロ)号方法におけるストッパー部分形成の手法が、本件特許発明におけるストッパー部分形成の手法に抵触することなどあり得べからざることである。
ハ 右イに見たとおり、(ロ)号方法におけるストッパー部分形成の手法は、本件特許発明におけるストッパー部分形成の手法とは技術的思想を異にし、しかも特許法二九条二項にいわゆる進歩性さえ備えているから、本件特許発明におけるストッパー形成の手法とは同一性を有せず、むしろ別発明とも言うべきものであって、控訴人らが主張するように迂回発明とか利用発明に該当するものではない。
(五) 同(五)の事実は否認する。
3 被控訴人の抗弁
仮に、(ロ)号方法が本件特許発明の技術的範囲に属するとしても、次のとおり、被控訴人は、本件特許権につき先使用もしくは許諾による通常実施権を有する。
(一) 先使用による通常実施権
被控訴人は、控訴人藤井の本件特許出願時より前の昭和四二年五月一五日(握持柄素材の材料である軟鋼板を最初に購入した日)又は遅くとも同年九月八日(電気溶接機二台の代金を支払った日)から、兵庫県小野市において、業として(ロ)号方法により握鋏を製造販売していたから、特許法七九条の先使用による通常実施権を有する。
(二) 許諾による通常実施権
(1) 控訴人藤井は、昭和四七年六月二四日被控訴人に対し、出願中の本件特許権が設定登録により権利として発生したときは、その時の現状で、本件特許権について被控訴人に通常実施権を許諾するものである旨を約した。
もっとも、許諾による通常実施権は、その設定について登録がなければ、その後に専用実施権を取得した者に対抗することができないが、本件においては、被控訴人の右許諾による通常実施権の設定について登録こそないものの、次の事由により、被控訴人は、右通常実施権をもって専用実施権者である控訴人会社に対抗することができるものである。
特許権者である控訴人藤井は、控訴人会社の設立当時からの代表者であるから、控訴人ら各自はその実体において同一視することができ、また、控訴人会社は、昭和五〇年九月五日の本訴提起当時においては、控訴人藤井から本件特許権について独占的な通常実施権の設定を受けた旨主張しながら、その後昭和五一年一月二六日に至り、昭和四七年一〇月二九日付専用実施権設定の登録を経由しており、これは明らかに被控訴人の権利を妨害するため右登録を経由したものであって、これらの事実によれば、控訴人会社は被控訴人の許諾による通常実施権の設定につき登録の欠缺を主張する正当な利益を有しないものと言うべきである。したがって、被控訴人は、右通常実施権をもって控訴人会社に対抗することができるものである。
(2) 仮に、右主張が認められないとしても、前項の事実によれば、控訴人会社の右専用実施権の実施は、信義誠実の原則に反し権利の濫用であるから許されないものと言うべきである。
4 抗弁に対する控訴人らの認否
抗弁事実は、すべて否認する。その詳細は、次のとおりである。
(一) 被控訴人が昭和四二年五月から実施していた握鋏の製造方法は、原判決別紙目録(三)記載のもので、それは鍛造工程(右目録(三)記載五)を必要としており、同工程を必要としない本件特許発明に係る製造方法とは実質的に著しく異るものであるから、被控訴人は、本件特許権について先使用による通常実施権を取得するに由ないものである。
(二) 被控訴人が、右通常実施権許諾の根拠とする覚書(乙第二五号証)は、控訴人藤井の意思に基づかないで誤って被控訴人の手に渡ったものであり、かつまた、右覚書に「現状において」とある趣旨は、将来、通常実施権を許諾する場合に、被控訴人の実施しうる製造・販売数量を限定することを意味しているものにすぎず、右覚書により右許諾の内容を確定しうるものではないから、被控訴人は、本件特許権について控訴人藤井から通常実施権の許諾を受けているものとは言えない。
(三) 控訴人会社が、本件特許権についての専用実施権に基づき、被控訴人に対し、業として本件特許発明を実施してなす握鋏の製造・販売の禁止及び損害賠償を求めることは、当然の権利行使であって、権利の濫用には当たらない。それは次のことからも明らかである。
(1) 控訴人会社は、控訴人藤井とは独立した存在であり、その意思決定は控訴人藤井が単独でなしうるものではなく、財産関係も別個に処理され、日常の取引も混同を生じるようなことはなく、帳簿・会計区分も明確になされている。したがって、控訴人会社が控訴人藤井の従来の営業を承継したうえで、控訴人藤井の意思・意見が控訴人会社の運営に大きな影響を持つとしても、それは中小企業に属する会社によくありがちなことにすぎないから、控訴人会社と控訴人藤井が実質上同一人格であるとする根拠にはなしえない。しかも、控訴人会社が本件特許権について専用実施権の設定を受けたのは、独占的通常実施権のみでは対外的に効力を及ぼしえないので、その点をおもんばかったためにすぎず、いやしくも被控訴人の通常実施権を妨害するような意図はなかった。
(2) 被控訴人は、本件特許権について通常実施権を有することを控訴人会社に対して主張しようとするなら、そのための権利保全手続さえとればよかったのに、それを怠ったものであって、その点被控訴人こそ怠慢のそしりを免れないものであるから、仮に、控訴人会社が被控訴人の通常実施権の主張に対抗するべく専用実施権の設定を受けたとしても、それが権利の濫用になるいわれはない。
5 控訴人らの再抗弁
(一) 仮に、控訴人藤井が、被控訴人との間で、本件特許権について被控訴人に通常実施権を許諾する旨の契約を締結したとしても、控訴人藤井は、本件特許権の発生後、本件特許権の実施による製造・販売数量、実施料、実施期間その他を定める正式契約締結の協議に応じてもらえるものと信じて契約締結の意思表示をしたのであるが、後になって被控訴人に右協議に応じるつもりのないことが判明した。したがって、右契約締結の意思表示は、その重要部分について錯誤があり、無効である。
(二) 仮に、そうでないとしても、控訴人藤井は、前項の協議を行うことを催告したが、被控訴人はこれに応じようとせず、両者の間の信頼関係が破壊されたので、控訴人藤井は、これを理由として、昭和四九年九月三〇日原審口頭弁論期日において、前項の通常実施権許諾契約を解除する旨の意思表示をした。
6 再抗弁に対する被控訴人の認否
(二)の契約解除の意思表示の点を除き、いずれも争う。
二 予備的請求関係
1 控訴人らの請求原因
(一) 控訴人藤井は、昭和四七年六月二四日被控訴人に対し、出願中の本件特許権につき設定登録がなされたとき、本件特許権について被控訴人に当判決別紙目録(四)記載の範囲の通常実施権を許諾することとする旨を予め約し、右設定登録は、昭和四七年一〇月二八日経由された。
(二) 被控訴人は、握鋏の製造数量に関する複合材の使用限定数量を無視して、当判決別紙目録(三)記載のとおり限定数量を超過した握鋏の製造・販売を行い、その結果、本件特許権の専用実施権者である控訴人会社に八八四万三二七四円の損害を被らせた。
(三) よって、控訴人藤井は被控訴人に対し、特許権に基づき、本件特許権について被控訴人が当判決別紙目録(四)の範囲を超えて通常実施権を有しない旨の確認を、控訴人会社は被控訴人に対し、不法行為に基づく損害賠償として、金八八四万三二七四円及びこれに対する昭和五六年一月一日(継続的不法行為の最終日の翌日)から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
2 請求原因に対する被控訴人の認否
請求原因事実のうち、昭和四七年六月二四日、控訴人藤井と被控訴人との間において、本件特許が登録されたときは右日時の現状において被控訴人が通常実施権を有することを確認する旨約したこと、本件特許権が同年一〇月二八日登録されたこと、被控訴人の複合材の年間買入量が控訴人ら主張のとおりであることを認め、その余は争う。被控訴人が実施許諾を受けた範囲は、控訴人藤井との交渉経過から明らかなように、従前どおり握鋏を製造できるというものであって、制限を付されたものではない。
第三 証拠関係<省略>
理由
第一 主位的請求について
一 控訴人藤井が本件特許権を有すること(請求原因(一))、本件特許権の対象である本件特許発明の構成要件(技術的要素)(請求原因(二)(1))については、いずれも当事者間に争いがない。
また、本件特許発明の主要部分に関する作用効果(請求原因(二)(2))については、当事者間に争いがなく、成立に争いがない甲第一号証によると、右の点を含む本件特許発明の作用効果は、次のとおりであると認められる。
1 機械を用いて加工できる。
2 在来品のように、鋏全体を鍛造によって成形加工していたものと異なり、形状・寸法を規格化し、均一なものが形成できる。
3 握持柄素材と刃版素材との上縁を一致させた状態で圧着すると、握鋏としての形状へ一気に加工できる。
4 各素材の接合の際、各素材に押圧を加えることにより形成する膨出部分のうち、不要のものを研削除去し残ったものを利用して、握鋏のストッパーを極めて簡単に付することができる(在来の手法では、ストッパーを設けることについて工程が一回多くなっており、加工に熟練を要していた。)。
5 熟練工を要せず、短時間で均一な鋏が多量に製造できる。
二 そこで、(ロ)号方法及びこれに関連する事項について検討する。
<証拠>によると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
1 被控訴人は、鋏類の生産地である兵庫県小野市において、握鋏の製造を業とする者である。本件のごとき種類の握鋏の製造については、被控訴人は、初め、丸棒と呼ばれる軟鉄製丸型線材を鍛造により成形し、それに鍛造により刃付けをして仕上げる方法によっていたが、後に丸棒に複合材(極軟鋼にSK鋼を接合したもので、複合鋼材とも呼ばれる。)をガス溶接し、鍛造によって仕上げる方法を経て、漸次プレス・電気溶接機等の機械導入を進め、昭和四二年半ばころには、これらの機械を使用して(ロ)号方法による生産の態勢を整えた。小野市における多数の握鋏製造業者の製造方法も右とほぼ同様の経過を辿った。
2 (ロ)号方法は、機械の使用により、ストッパー形成段階における鍛造工程を省き、形状・寸法を規格化し均一な製品を容易かつ短時間で多量に製造するという技術的課題を解決すべく、試行錯誤を重ねた末考え出された手法であって、在来の手法に比して数倍の能率を上げている。そして、(ロ)号方法がストッパー部分の形成工程として、軟鋼板の左右いずれか片側を少し広く打ち抜いて握持柄素材を形成する工程(当判決別紙目録(二)記載一)及び握持柄素材のうち広く打ち抜いた部分を狭く打ち抜いた部分と同じ幅になるよう常温で上下から押圧する工程(同目録(二)記載三)を特に設けたのは、握持柄素材と刃版素材の各溶接部分に両素材を跨って生ずる膨出(バリ)が、金属の滓と言われる脆弱な性質を有するものであるため、ストッパー部分の形成には役に立たず、むしろ有害であるとの技術的見解に基づくものである。しかして、握持柄素材と刃版素材に段差がないか段差が少ないところに生じたバリは落としやすいが、段差の大きいところに生じたバリは落としにくいという性質があり、ストッパー部分の段差辺りに生じたバリは除去が困難であるため、これを残して他のバリを研削除去し、同目録(二)記載八の工程までの半製品で他へ卸売りし、その出荷先においてこれを研削除去して完成品として仕上げる場合が多い。ただし、被控訴人ら製造業者の下ですべてのバリを研削除去して完成品に仕上げる場合もある。また、握持柄形成の工程(右目録(二)記載一)については、当初、厚さ三・二ミリメートルの軟鋼板を用いて、広い側の幅八ミリメートルの握持柄素材を打ち抜いていたが、現在では、軟鋼板の種類が豊富となり、より厚い軟鋼板の入手が容易になったため、厚さ三・五ミリメートルの軟鋼板を併用して、広い側の幅七ミリメートルの握持柄素材を打ち抜いている(以上いずれの場合も、握持柄素材の両側端における厚みの差は二ないし二・五ミリメートル程度にしている。)。なお、当初は、ストッパー一箇所の片段の握鋏のみ製造していたが、近ごろでは、同じ要領でストッパー二箇所の両段のものも製造している(控訴人らは、被控訴人が両段の握鋏を製造するには、本件特許発明の手法によらざるをえなくなる旨の主張をしているけれども、片段の握鋏を製造する場合における握持柄形成及びストッパー部分形成の二工程を握持柄素材の両側において施せば足りる理であるから、この主張は失当である。)。
3 控訴人会社では、実際に握鋏を製造する際、ストッパー部分の形成が容易であるため、握持柄素材を厚さ三・四ないし三・五ミリメートルの軟鋼板あるいは極軟鋼板から、刃版素材を厚さ二・八ミリメートルの刃物鋼板からそれぞれ打ち抜き、両素材の厚さがもたらす段差を利用する手法も取り入れている。
三 以上一、二の各事実に基づき、本件特許発明と(ロ)号方法について、握鋏の製造に関する各技術的諸要素を比較検討すると、次のとおり判断することができる。
1 握鋏は幾多の工程を経て製造されるが、ストッパー部分を形成する工程が技術的には重要な部分を占めるものである。
2 そこで、まず、ストッパー部分の形成について見るに、この点に関する控訴人らの本件特許発明における手法と被控訴人の(ロ)号方法における手法とは、いずれも機械の使用により、在来の手法における鍛造工程を省き、形状・寸法を規格化し、均一な製品を容易かつ短時間で多量に製造するという共通の技術的課題の解決を意図するものである。そして、本件特許発明における手法は、握持柄素材の左右両側端面に刃版素材の基端面を加熱圧接し、握持柄素材の左右両側部分の表裏両面に生じた四個の膨出部分のうち、表面の一個又はこれに対角する裏面の一個を加えた二個を残し、他をすべて研削除去し、右残存する一個又は二個の膨出部分をストッパー部分として形成するものである。これに対し、(ロ)号方法における手法は、握持柄素材の左右いずれか片側の基端面を他の側の基端面より少し幅広く打ち抜き、その幅広く打ち抜いた部分を狭く打ち抜いた部分と同じ幅となるよう常温で上下から押圧し、ストッパー部分として形成するもので、その後における握持柄素材と刃版素材の接合工程で各接合部分の表裏両面に生ずるところの四個の膨出部分は、いずれもストッパー部分の形成には関係がなく、握鋏の製造に不要なものとして、いずれはすベて研削除去するものである。したがって、本件特許発明においては、握持柄素材と刃版素材の接合工程で形成する膨出部分のうち一個又は二個は、ストッパー部分の形成について重要な技術的意味を有するが、(ロ)号方法においては、右と同じ接合工程で生ずる膨出部分はいずれも何の技術的意味も有するものではなく、握持柄素材の左右いずれか片側の基端面を他の側の基端面より少し幅広く打ち抜く工程及びその幅広く打ち抜いた部分を狭く打ち抜いた部分と同じ幅となるよう常温で上下から押圧する工程こそ、ストッパー部分の形成について重要な技術的意味を有するものである。
3 次に、ストッパー部分の形成以外の工程について見るに、各工程中に若干の差異は見られるものの、握鋏の製造について技術的意味を異にするほどのものとは認め難く、本件特許発明と(ロ)号方法は、実質的に技術的思想を同じくするものと言うべきである。
4 そうすると、本件特許発明と(ロ)号方法は、握鋏の製造に関して共通の技術的課題を解決し、有用な作用効果を実現することを意図するものであるが、それぞれの全技術的諸要素の主要部をなすストッパー部分形成の工程に関しては、技術的思想を異にしており、しかもその工程を構成する技術的要素が、それぞれの全技術的諸要素及びその有機的結合関係の中に占める意味が極めて重要であることにかんがみると、本件特許発明と(ロ)号方法とは異なった自然法則を利用した技術的手段を提供する各別個の技術的思想を形成しているものと認めるのが相当である。なお、控訴人会社においても、ストッパー部分の形成が容易であるため、握持柄素材と刃版素材との厚みの差がもたらす段差を利用する手法を取り入れているが、その手法については本件特許請求の範囲で言及されていないものであるから、右判断に抵触する事由とはなりえない。
四 ところで、本件訴訟については、すでに上告審で判決済みの部分があるわけであって、上告審判決においては、「被控訴人の握鋏製造方法たる(ニ)号方法(本判決にいう(ロ)号方法)には、軟鋼板を左右いずれかの片側を少し広く打ち抜いて握持柄素材を形成する工程及び右握持柄素材を常温で上下から押圧する工程があるが、本件特許発明にはそのような工程がなく、本件特許発明にはそのような技術思想は含まれておらず、したがって、(ニ)号方法のうち厚い素材で全部の膨出部分を落とす場合は、本件特許発明の技術的範囲に属しない」旨の判断が下され、右場合に関する控訴人らの請求はすでに棄却せられたところである。問題は、「(ニ)号方法のうち、溶接部にできた膨出部分を一箇所又は二箇所残し(二箇所残すときは対角する裏面に残す。)、他の溶接部は膨出部分を落とす(通常は一箇所残し、ストッパーのない方は裏表とも膨出部分を落とし、ストッパーのある方は表側の膨出部分を落とす。)場合」であって、この場合前記の被控訴人の採っている工程(本件特許発明には存しない独自の工程)がストッパーの形成にどのように役立っているか不明であるとして、この場合についての控訴人らの主位的請求及び予備的請求についての第二審の判断は理由不備であるとされ、当審に差し戻された次第であるが、差戻後の当審においては、被控訴人は(ニ)号方法((ロ)号方法)につき、事実摘示欄摘記のとおり主張を整理・補充した。そして、当裁判所は、被控訴人の採用している握鋏製造方法のうち、溶接部の膨出部分(バリ)が残存し、除去される経過、その理由、技術的根拠を前項のとおり認定、判断した次第であって、これによれば、被控訴人はことさらに膨出部分を残しストッパーとして利用しているのではないと認められる。すなわち、ストッパーを形成する段差辺りに生じた膨出部分は、被控訴人の採用している製造方法にとってはほんらい不要のものであって、被控訴人においてその全部を落としてしまう場合もあるのであるが、事実上除去しにくいという事情があるため、これを残したままで(つまり、半製品のままで)他に卸売りする場合があり、この場合はこれを買受けた業者においてこれを研削除去し、完成品とするのであり、結局、被控訴人の握鋏製造方法たる(ロ)号方法においては、問題の膨出部分はストッパーとして形成されず、前記の軟鋼板を左右いずれかの片側を少し広く打ち抜いて握持柄素材を形成する工程及び右握持柄素材のうち広く打ち抜いた部分を常温で上下から押圧する工程はすべての場合にストッパー形成に役立っているのであるから、(ロ)号方法におけるストッパー形成工程は本件特許の技術的範囲に属するものではないと言わなければならない。
五 以上の次第であるから、控訴人らの主位的請求はその余の点について判断をするまでもなく理由がなく、棄却を免れない。
第二 予備的請求について
一 予備的請求原因のうち、昭和四七年六月二四日、控訴人藤井と被控訴人との間において、本件特許が登録されたときは、右日時の現状において被控訴人が通常実施権を有することを確認する旨約したこと、本件特許が同年一〇月二八日登録されたことは当事者間に争いがなく、右約定が成立するまでの事情については、原判決の認定のとおり認めることができるから、ここに原判決一〇枚目裏一四行目から一二枚目裏五行目までの記載を引用する。右事実関係によると、右合意は、被控訴人の行っている握鋏製造方法((ロ)号方法)が本件特許発明の技術的範囲に属することを前提として成立したものであり、(ロ)号方法による握鋏の製造、販売が本件特許権の内容を実施することになるとしたうえ、本件特許権が登録されたときは控訴人藤井は被控訴人に対し昭和四七年六月二四日の現状において(ロ)号方法により握鋏の製造、販売をなすことを承認し、反面被控訴人は右日時における現状を超えては(ロ)号方法による握鋏の製造、販売をなさない旨約したものであると解することができる。しかるに、(ロ)号方法が本件特許の技術的範囲に属しないことは右に判示したとおりであって、被控訴人が(ロ)号方法により握鋏の製造販売をなすことは本件特許権の内容を実施することにならず、本件特許権を侵害するものではない。すると、被控訴人は、右合意の存在にかかわらず、(ロ)号方法による握鋏の製造、販売をなしうるというべきであるから、控訴人らの損害賠償の請求はその余の点について判断するまでもなく理由がない。
二 次に、控訴人らの通常実施権不存在確認の請求について判断するに、控訴人らは、被控訴人が一定範囲において通常実施権を有することを自認したうえ、その範囲を超えて通常実施権を有しないことの確認を求めているところ、被控訴人は、自己が通常実施権を有することを何ら主張しない(控訴人らが自認する範囲はもとより不存在確認を求めている部分についても)のであるから、そこに当事者の争いがなく、確認の利益がない。もっとも、被控訴人は、控訴人らの主位的請求に対しては、仮定抗弁として通常実施権を有する旨主張しているから、その意味では全く争いがないとは言えないが、被控訴人が右のような主張をするのは、主請求において(ロ)号方法が本件特許の技術的範囲に含まれる旨判断されるのを慮ったためであって、(ロ)号方法が本件特許の技術的範囲に含まれず、この方法により自由に握鋏の製造、販売をなしうるかぎり、何ら本件特許権の通常実施権の主張をする意思のないことは明らかである。そして、併合審判された訴訟において、主請求につき、(ロ)号方法が本件特許の技術的範囲に属しない旨判断されてその請求が棄却される以上、被控訴人が本件特許権の通常実施権を有しない旨ことさら確認する法律上の必要は認め難いものがあると言わなければならない。
三 すると、控訴人らの当審における予備的請求中、通常実施権不存在確認の訴えは訴えの利益がないものとしてこれを却下し、損害賠償の請求は理由がないものとしてこれを棄却すべきである。
第三 結論
よって、原判決は結局相当で、控訴人らの本件各控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴人らの当審における予備的請求中通常実施権不存在確認の訴えを却下し、その余の請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 今中道信 裁判官 仲江利政 裁判官 上野利隆)