大阪高等裁判所 昭和63年(う)165号 判決 1990年10月09日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人岡田義雄、同冠木克彦、同大野町子、同武村二三夫連名作成の控訴趣意書(但し、控訴趣意第二の一に「理由不備にも相当するものである」とあるのは、独立の控訴理由として主張するものではなく、事実誤認の一事情として述べるものであると釈明)に記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官酒井清夫作成の答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意第一の一(訴訟手続の法令違反の主張)について
論旨は、要するに、原審において弁護人は検察官請求の証人である内田浩二に対する反対尋問に先立ち、右内田の司法警察員に対する供述調書(以下、「内田調書」という)を弁護人に閲覧させるよう検察官に命ぜられたい旨申し立てたのに対し、原審裁判所は、検察官に対し右内田調書を弁護人に開示するよう勧告したにとどまり、検察官が同勧告に応じないとの態度を表明したにもかかわらず、訴訟指揮権に基づく証拠開示命令を発しなかったため、弁護人は事前に内田調書を閲覧できないまま内田に対する反対尋問を行なわざるを得なかったものであるが、昭和四四年四月二五日最高裁判所がした証拠開示命令に関する二つの決定の趣旨及び本件における内田証人の重要性、その他諸般の事情にかんがみると、弁護人が内田調書について証拠開示請求権を有していたことは明らかであり、仮にかかる請求権が認められないとしても、原審裁判所がその職権を発動したうえ検察官に対し開示命令を発すべき場合であったことは明白であるから、原審裁判所の右のような措置は、被告人に対し公平な裁判所の迅速な裁判を受けるとともに証人尋問権を十分に行使し得る機会を与えることを保障した憲法三七条一項及び二項に反し、訴訟指揮権ないし被告人の証人審問権に関する刑訴法の諸規定にも違反するものというべく、右訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかであるので、原判決はこの点において破棄を免れない、というのである。
そこでまず、所論の点に関する原審の審理経過をみるに、記録によると、①弁護人は原審第九回公判期日において取り調べられた本件の被害者Aの検察官に対する供述調書中に、右Aが被告人を現行犯人として逮捕した際、「内田浩二」なる男性がAの逮捕行為に協力した旨の供述記載があったところから、第一二回公判期日において「検察官の手元に内田浩二の捜査官に対する供述調書が存在するのであればこれを開示されたい」旨申し出たところ、検察官は「内田については司法警察員に対する供述調書一通がある」旨を明らかにしたものの、第一三回公判期日において「内田については検察官において証人としての取調べを請求するので、内田調書を開示するまでの必要性は認められない」旨の意見を述べ、その後、検察官から公判期日外で内田証人の取調請求があり、第一三回公判期日においてその証拠決定がなされるに至ったこと、②第一四回公判期日において内田証人に対する検察官の主尋問が終了したので、弁護人は、「反対尋問の準備に必要であるから内田調書を開示されたい」旨改めて申し出たのに対し、検察官は従来の態度を変えずに開示に消極的な態度を示したこと、③そこで、第一五回公判期日において原審裁判所は「内田調書の開示を求める弁護人の申出は相当と認められるので、検察官に対し、内田調書を弁護人に開示するよう要望する」旨勧告したのに、検察官がその意思はないとしてこれに応じなかったため、弁護人は、原審裁判所に対し、訴訟指揮権に基づき証拠開示の命令を発するよう申し出たが、原審裁判所は前記勧告以上に証拠開示命令までは発しないとの態度を表明したこと、④これに対し、弁護人ら刑訴法三〇九条一項及び二項による異議の申立てがなされたが、原審裁判所はこれを棄却したこと、⑤このような経緯をたどったうえ、第一六回公判期日において、内田調書が開示されないまま、内田証人に対し弁護人による反対尋問が行なわれたこと、を認めることができる。
以上のような経過を踏まえたうえ所論を検討するに、「裁判所は証拠調べの段階に入った後、弁護人から、具体的必要性を示して、一定の証拠を弁護人に閲覧させるよう検察官に命ぜられたい旨の申出がなされた場合、事案の性質、審理の状況、閲覧を求める証拠の種類および内容、閲覧の時期、程度および方法、その他諸般の事情を勘案し、その閲覧が被告人の防御のため特に重要であり、かつこれにより罪証隠滅、証人威迫等の弊害を招来するおそれがなく、相当と認めるときは、その訴訟指揮権に基づき、検察官に対し、その所持する証拠を弁護人に閲覧させるよう命ずることができる」(最高裁判所昭和四四年四月二五日第二小法廷決定・刑集二三巻四号二四八頁及び同巻同号二七五頁)のであるが、当事者主義を原則とする現行刑訴法の基本的な構造のもとにおいては、弁護人に対し検察官手持ちの一定の証拠についての閲覧請求権を肯定したり、検察官に対しこれに応じる義務を認めることは相当でなく、あくまで個々の被告事件の審理に当たる裁判所の訴訟指揮権に基づく裁量的な判断によって、裁判所が相当と認めた場合に限り、証拠開示を命じ得るというのに過ぎないというべきである。したがって、所論のうち、弁護人側に訴訟法上の権利として証拠開示請求権が認められるかのような前提に立つ部分は右最高裁の決定の判旨に照しても失当であり、これを採用することはできない。
しかしながら、本件にあらわれた具体的な諸事情、特に、本件公訴事実は、被告人が電車内において乗客であるAに対し着衣の上からその陰部及び臀部などを手で触り卑わいな行為に及んだというものであるところ、被告人は原審でこれを全面的に否認し、右卑わいな行為の有無が争われている事案であって、A証人の証言の信用性を肯定しうるか否かが審判の帰趨を決するともいうべき案件であるが、内田証人はAが被告人を現行犯人として逮捕した際、その逮捕行為に協力したものとして唯一の第三者的立場にある者であり、本件の証拠構造全般の中で重要な地位を占めるものであるから、弁護人が内田証人に対し有効適切な尋問を行なうため、内田調書を閲覧し内田の捜査段階における供述内容を知恣しておくことが反対尋問の準備として効果的なものであったことは否定し難いというべきである。更に、前記のように内田証人に対する主尋問が終了した後においては、罪証隠滅、証人威迫等の証拠開示に伴なう弊害を招来するおそれも大幅に減退していたと考えられるのであるから、検察官が原審裁判所の明示的な勧告にもかかわらず、内田調書の開示に消極的な態度を取り続けた理由がどこにあったのか、にわかに理解し難いことも否め得ないところである。しかしながら、検察官が前記のとおりあくまでも裁判所の勧告に応じない態度を取り続ける以上、裁判所において所論のような証拠開示命令を発するかどうかは、裁判所の広範な裁量権の範囲に属するところ、本件諸般の事情、殊に、内田証人の主尋問にあらわれた証言の内容のほか、A証人につき主尋問一開廷に対し四開廷にも及ぶきわめて詳細な反対尋問が行なわれたというやや特異とも思えないではない審理の経過等にかんがみると、原審裁判所の前記のような措置をもって著しく裁量権の範囲を逸脱した違法なものということはできないと考えられる。しかも、弁護人は内田証人に対する検察官の主尋問に先立って内田の住居を訪れたうえ、本件当時の電車内の混み具合及び被告人の現行犯逮捕時における当事者等の位置関係を含め内田の目撃した状況や、内田の捜査官に対する供述調書の作成状況に至るまでその記憶の可能な限り聴取し、弁護人としてもそれなりに訴訟の準備活動に励んだ事実がうかがわれるとともに、弁護人において事前に内田調書を閲覧できなかったが故に内田証人に対し効果的な反対尋問権の行使をなし得なかったとうかがうべき事情も見当たらず、結局のところ、本件における前記のような原審裁判所の措置が所論の掲げる憲法あるいは刑訴法の法条に違反するものとは認めることができない。
したがって、原審裁判所の措置に所論のような訴訟手続の法令違反はなく、論旨は理由がない。
控訴趣意第一の二(訴訟手続の法令違反の主張)について
論旨は、要するに、原審裁判所は、A作成の現行犯人逮捕手続書並びにAの司法警察員及び検察官に対する各供述調書(以下、これらをあわせて「A調書」という)につき、検察官の請求に基づいて、Aの公判証言の証明力を増強するための刑訴法三二八条該当の証拠として採用し取り調べたものであるが、もともと伝聞証拠禁止の法理によって証拠能力を有しない証拠を証明力増強のための証拠として取り調べることは伝聞法則を潜脱する脱法行為を認めるに等しく、同条もかかる場合を容認する趣旨とは解せられないので、この点において原審裁判所の訴訟手続には法令違反があり、右違反が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから原判決は棄却を免れない、というのである。
そこで、所論の点に関するA調書の証拠調べの経緯をみるに、記録によると、原審第八回公判期日において、弁護人がAの公判証言の証明力を弾劾するための証拠として、また、検察官がA調書がAの公判証拠と矛盾するものではなく、かえって供述内容の一貫性があるとしたうえ、このことを明らかにしAの公判証言の証明力を増強するための証拠として、それぞれ刑訴法三二八条に基づきその取調べを請求したこと、原審裁判所は第九回公判期日において、検察官及び弁護人双方の右請求を容れてA調書を採用し、これに対し弁護人から、A調書が証明力増強の証拠として採用されたことにつき、所論のような事由のほか、同一のA調書を一方ではAの公判証言の証明力を減殺する証拠として、他方ではその証明力を増強する証拠として同時に採用するのは矛盾していることを理由に異議の申立てがなされたが、これを棄却し、結局、検察官及び弁護人双方の立証趣旨のもとにA調書の取調べがなされるに至ったこと、が認められる。
しかしながら、ある証人の公判証言の証明力を増強するため、その証人が捜査段階においても同旨の供述をしていること、すなわちその証人の供述内容が捜査段階から一貫していることを明らかにする目的をもって、その立証趣旨が刑訴法三二八条の「証明力を争う」場合に当たるとして、本来証拠能力を有しないその証人の捜査官に対する供述調書を同条の書面として取り調べることが許されるとすれば、事実上伝聞法則の潜脱を容認するのと等しいのであるから、そのような立証趣旨のもとに、その証人の捜査段階における供述調書を取り調べることは許されないというべきである。
そうとすれば、右のような立証趣旨のもとに検察官請求のA調書を刑訴法三二八条の書面として取り調べた原審裁判所の訴訟手続には法令違反があるといわなければならないが、原判決はA調書を原判示事実を認定する理由として説示等において援用しておらず、また、原判示事実は原判決がこれを除いて挙示する証拠によって優に認定することができるのであるからその違法は判決に影響を及ぼすことが明らかなものとはいえず、結局、論旨は理由がない。
控訴趣意第二(事実誤認の主張)について
論旨は、要するに、被告人は被害者Aに対し原判示のような卑わいな行為に及んだ事実がないのに、これを認定した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり破棄を免れない、というのである。
そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をもあわせて検討するに、原判示事実については原判決に掲げられている被害者Aの証言のほか、被告人の現行犯逮捕時の状況を目撃した第三者の内田浩二の証言があり、これらによるときは、被告人がAに対し原判示のような卑わいな行為に及んだことを十分に認めることができる。
すなわち、本件で対象とされている原判示のような卑わいな行為を被告人から受けたことについてのAの証言は、Aが当時の国鉄茨木駅で快速電車に乗車した直後から何者かによる卑わいな行為に遭遇したので、その行為者すなわち犯人が何人であるかを突き止めるため、周囲の乗客について注意深く観察を続けたこと、僅かな隙間を通してではあるが、犯人の手首付近を上の方から観察したところ、その袖口から犯人が紺色っぽい背広と水色っぽいカッターシャツを着用していることが確認され、その着衣の特徴が当時の被告人の着衣の特徴と一致していたこと、被告の卑わいな行為は茨木駅から大阪駅までの間継続してなされたが、その態様は、茨木駅から新大阪駅までは手を股間に入れてスカートの上から指で陰部をなぞるというものであり、新大阪駅から大阪駅までは背後から右臀部を手のひらでなでるというものであったことなどを詳細かつ具体的に述べており、格別行為が働いていることをうかがわせる事情はなく、しかも、弁護人の微細を極める反対尋問によっても少しも揺らいでいないので、その信用性を認めるのに十分である。また、内田の証言も、Aが被告人の右手首をつかんで現行犯逮捕した際の状況を間近で目撃し、両者の言動や事の推移について述べるところはAの証言とほぼ完全に符合しており、中でも、その際被告人が「満員電車の中ではちょっとぐらい触れるやんか」と言ったと供述している点は、現行犯逮捕時の状況からしてそのような瞬間的で弁解めいたとっさの発言には自ずから隠し切れない事実が現われるものであり、それだけに迫真力に富むものであり、Aの証言の信用性を裏付けるのに十分である。
これに対し、所論は、Aの証言は捜査段階との間に大きなくい違いがあるほか、客観的にみても不合理な点を数多く含んでおり、その信用性を認めることはできないと主張するので、以下、所論に沿って順次検討してみる。
① 所論は、新大阪駅から大阪駅までの被害状況に関し、A作成の現行犯人逮捕手続書並びにAの司法警察員及び検察官に対する各供述調書(以下、これらをあわせて前同様に「A調書」という)によれば、新大阪駅発車直後にAの臀部を触った行為と大阪駅到着直前にAの臀部を触れた行為とは連続性を欠き、双方の卑わいな行為の主体が同一人物であるということにはならないのに、Aの証言では卑わいな行為が継続しており、大阪駅直前でAがその手をつかんだ被告人が新大阪駅発車直後から卑わいな行為をしていたことになり、このようにAの証言は捜査段階とで大きなくい違いがあり、しかも、このくい違いは被告人を犯人と特定し被害を誇張する方向に変遷しており、その信用性を認めることはできないと主張するが、確かに、Aは証言ではほぼ間断なく卑わい行為が継続していたように述べており、これに対し、A調書には「犯人が手を引っ込めました」旨の記載部分があり、この記載部分のみを見る限り、新大阪駅から大阪駅までの途中一旦卑わいな行為が中断し、その間犯行が連続性を欠いていたかのように理解し得ないでもない。しかしながら、この点についてAは、右記載部分は要するに身体を動かし犯人の手を避けようとする動作に出たところ、犯人はその手を引っ込めたが、すぐにまた卑わいな行為に及んだという趣旨であり、そのような記載になったのは、茨木駅から新大阪駅までの犯行と新大阪駅から大阪駅までの犯行との手口が同じであったので、現行犯人逮捕手続書では後半部分を簡略化したものであると説明しており、このように同じ手口の犯行状態が継続した場合にその一部分を簡略に記載したとしてもなんら不自然ではなく、この説明は合理的であるので、Aの証言が右記載との間に大きなくい違いや変遷があると認めることはできず、まして所論のようにAが意識的に被害を誇張し犯行の中断を否定する供述に出たとみるのは相当でない。
② 所論は、Aが証言の際作成した図面二葉に示されている茨木駅で乗車した後及び大阪駅到着直前の現行犯逮捕時の電車内におけるA及び周囲の乗客の位置関係、すなわちAのいう「赤いスポーツシャツの男性」、「ベージュの婦人」及びAの三人が左右の座席と座席の間に位置することは客観的、物理的にあり得ず、そのことはAの証言全体の信用性が崩れざるを得ない事情であると主張するが、そもそも所論指摘の図面二葉はあくまで概略のものであり、しかも、乗客は車内の混み具合や車両の揺れによって微妙な動きと対応を示すものであるから、そうした一場面を固定的、不動なものと想定すること自体不合理であり、また、この点についてのAの証言の重点部分は、茨木駅で列車最後尾から四両目の車両後方ドアから乗車し、進行方向左側座席角付近通路上に右肩をやや進行方向に向ける状態で立ち、電車発車直後何者かによる卑わいな行為に気付いたので、これが誰によってなされているかを確認するため周囲を見渡したところ、左前に「赤いスポーツシャツの男性」がやや後ろ向きの形で、左後ろに「白いジャージの男性」が背中を向ける形で、右後ろに「ベージュの婦人」がこれまた背中を向ける形で、右前に「紺色の背広の男性」がAと互いに右肩を合わせるような形でそれぞれ立っており、犯人である可能性のある人物のうち「赤いスポーツシャツの男性」は両手を座席の背もたれに置いており、それ以外に自己の身体に触れることのできる人物としては「紺色の背広の男性」すなわち被告人しか考えられないと判断できたというところにあるのであり、この重点部分に関して犯人特定の正確性を疑わしめる事情はなく、十分に信用することができるのであるから、A並びに犯行に無関係な「赤いスポーツシャツの男性」及び「ベージュの婦人」の三名が狭い通路上に位置することが可能であったか否かをことさらに重視してその証言全体の信用性に疑問を投げかけるのは相当でない。これに関連して所論は、茨木駅乗車後のAらの位置関係等についてはA調書自体においても相互に重大な矛盾が存在すると主張するが、所論のうち、司法警察員及び検察官に対する各供述調書の記載ではA自身の向きを「右肩を進行方向に向ける状態」と表現しているが、この向きは右各供述調書添付図面の左上の図で進行方向からやや左寄りに示されていることと矛盾するという点は、右図示をあたかもAの身体が進行方向に向かって九〇度左に向く姿勢を取っているがごとく曲解するものであり、また、A及びその周囲の乗客の位置関係に明らかな矛盾があるとする点も、文章表現上の些細な違いや明白な誤記をあげつらうに過ぎないというべく、これらの点をもって所論のようにAが新大阪駅到着までの自己の位置、方向及び周囲の乗客について明確な記憶をもっていなかったことの証左とみるのは失当である。
③ 所論は、Aの証言する電車内の混雑状況を前提とする限り、Aが述べるような方法で自己の胸の前に約一〇センチメートルの隙間をつくることは不可能であり、かりにそのようにしてつくった隙間を通して犯人の着衣を見ることができるとしても、その着衣の色まで確認することは不可能であると主張する。確かに、Aが茨木駅から新大阪駅までの間の電車の混み具合について腕を動かすことはほとんど不可能であったとか、手を下ろすことも不可能であったなどと供述していることは所論指摘のとおりである。しかしながら、Aの証言の趣旨とするところは周囲の乗客の迷惑を考えると腕の上げ下ろしをしたり、体の向きをずらしたりするなど大きな動きができない混み具合であったというにあるのであり、それは混み合った電車内では少々の窮屈は我慢し身勝手な行動を差し控えるという乗客の通常の心理にも合致するものであり、Aが当時体を揺すったり、少しの隙間もできないほど混んでいたとまでいうものではないことはその供述から明らかである。しかも、Aの供述する犯人が被告人であることを確認した状況は、両手で腕に重ねあわせて抱えていた金属製の盆が入っている紙袋とバッグを前に押し出すようにして内側の紙袋と胸の間に約一〇センチメートルの隙間をつくって下を見たところ、卑わいな行為をする者の肘と手首の中間くらいから手首のあたりが見え、光の加減で少し暗い色になるが紺色っぽい背広と水色っぽいカッターシャツの袖口を確認し、この着衣の色から犯人は自己の右前に肩を合わせるようにして立っている紺色の背広の被告人であると特定することができたというのであり、更にまた、この隙間をつくったとき犯人の右手が股間に伸びるのと同時に被告人の右肩が少し下がるのを認めたというのであって、この供述は、犯人の着衣の袖口の色具合や手と肩の連動した動きなどいかにもその場の状況にふさわしく、その具体性と迫真性に照らし、十分に信用するに足り、これを虚偽と断ずべき証跡は存しない。所論は、Aが証言の際隙間から見えた状況を図面に書かなかったこと、A調書には隙間をつくって見たという記載が一切ないこと、現行犯人逮捕手続書では「手を確認した」というだけで確認の方法がまったく記載されていないこと、司法警察員及び検察官に対する各供述調書では「少し体をずらして」手を確認したと述べていることをあわせ考えれば、Aが隙間をつくって下を見たという事実が現実にはなかったことが明らかであるというが、Aが隙間の状況を図面で再現するのを弁護人から求められながらこれを拒否したのは、Aが図面にあらわすのが難しいからであると述べるとおり、事柄の性質上当然であり、また、Aは証言で犯人の触っている手の確認方法を具体的に供述したに過ぎず、確認した状況そのものもA調書の記載となんら矛盾するものではないから、所論のような事由をもってAの述べるような確認方法がなかったとみるのは失当であり、むしろ当時の電車内の状況からしてAが現実にそのような確認方法を取ったればこそ犯人の着衣の袖口等を確認し得たと考えるのが自然である。また、所論が着衣の色までも確認できたか否かを云々する点も、Aが電車の中は電気がついていたので色を識別することができたと述べており、その内容も正に色具合を述べているに過ぎないことに照らし、所論は理由に乏しいと認められる。更に、所論が隙間をつくったがために犯人の触っている手がずれて動いたことがないというAの証言は客観的に不合理であるという点も、Aが紙袋とバッグを前に押し出したならばAの腕に触れている犯人の腕もそれに伴なってAの手よりも更に前面に押し出されるはずだということを前提にするものであるが、両者の腕の接触が所論のような犯人の手の動きを生じさせる状態になかったればこそ、言いかえれば、犯人の腕がAの腕の内側に接触しておったればこそ、Aが紙袋と腕の間に犯人の手を確認し得たものと認めるべきであり、Aが右のような所作に出ても犯人の手がずれ動くのを認めなかったというのは当然である。
④ 所論は、Aは紙袋を下げて犯人の手をさえぎったところ、犯人はいったんは手を引っ込めながらもすぐにまた紙袋の横から下へすべらすように手を入れてきたと証言するが、このような行為は、Aと右肩と右肩とを重ねあわせた者がとりうるものではなく、肘の関節の構造からすれば甚だ不自然な手の伸ばし方であり、まして股間まで手を伸ばすことは不可能であると主張するが、被告人がAと互いに右肩をあわせるような形の位置関係にいたことは前述のとおりであるところ、それは両者の右肩双方がぴったり密着した状態にあったことを意味するものでないことはAが明確に供述するところであり、また、両者の背丈の違いにかんがみてもこのようなことは当然であり、犯人がいったん手を引っ込めながらも従前の位置状態ですぐにまた紙袋の横から手を差し入れてきた行動形態になんら不自然、不合理な点はなく、所論が両者が右肩を重ねたままの状態で犯人が時計の文字盤でいえばお盆の8の字の位置から手を入れ、しかも股間を触れることは不可能であるという点も、同様である。また、所論がAが再度差し入れてきた犯人の手は右手であるとわかった根拠を問われ、ことさら「親指の向き」と答えるところに、Aが実際に体験していない事実、想像上の産物を述べていることが明白であるという点も、所論が暗に容認するように、Aが親指の向きのみをもってそのような判断をしているものでないことはその証言に照らし明らかである。更に、所論がAは証言で再度差し入れてきた手をもう一度さえぎろうとしたがさえぎれず、その後も新大阪駅に到着するまで四、五分もの間卑わいな行為が継続したと証言するが、A調書には再度「さえぎった」との記載があり、同時に、その後の卑わいな行為の継続の記載がないのであるから、右証言はA調書と明確に食い違っているという点も、Aは二回目のさえぎり行為の後も卑わいな行為が継続したことをA調書では「そうしているうちに」と表現したと記憶していると述べており、この供述はA調書の記載内容とその前後の趣旨に合致しており、「さえぎった」との表現と「さえぎれなかった」との表現との間に実質的な差異はないのであるから、A調書の右のような記載状況をもって所論のようにAの証言が捜査段階よりも犯行を悪質なものとする方向に変遷しているとか、二回目のさえぎり行為の後は卑わいな行為が存在しなかったことを推認させるものであるとかみるのは相当でない。
⑤ 所論は、Aは隙間をつくって下を見たとか、あるいは被告人の「その手」をさえぎる行為をしたとか述べながら、そのAの行動に対応する被告人の表情とか反応の具体的対応を一切証言しておらず、ただ「手」の動きのみを述べており、「その手」が被告人であるという供述は迫力の乏しいものとなっていると主張するが、Aは単に犯人の手の動きのみをもって被告人を犯人と特定しているものでないことは前述したところから明らかであり、また、Aは茨木駅から新大阪駅までの間被告人の顔を見たときはたえず左横向きに、すなわちAの側からいえば電車の進行方向に向かって右側の窓の方を向いていて、時々首を動かすとき正面が見える程度であったと供述しており、本件卑わいな行為が多数の通勤客が乗り合わせている電車内での犯行であることやそのような場における犯人の心理特性などを考えあわせるならば、それ以上にAの証言中に所論のような点に関する供述があらわれていないからといって、なんら不自然ではなく、そのことをもってAの証言の信用性を損なう事情とみるのは相当でない。
⑥ 所論は、茨木駅出発後新大阪駅に着くまで不愉快極まりない卑わいな行為が長時間継続していたというのであれば、Aとしては、声を出して周囲の者の注意を引くとか、助けを求めるとか、周囲に多少の迷惑をかけても体の向きを変えるとか、あるいは体をふり払って逃げるなどいくらでも制止行為や防御行為に出ることが可能であったのに、Aがそのような行為を継続されるがままにしていたことの合理的な理由がなんらないと主張するが、Aが犯人の卑わいな行為をやめさせるため前記のように二度にわたりさえぎり行為に出ていること、そのほか身体を揺ったりして犯人の手から逃れようとしたことはAの供述によって明らかであるところ、Aがなぜ声を挙げる行為に出なかったのかという点については、Aは、恥ずかしかったことのほか、警察学校で婦人警察官の心得として教えられたとおり、犯人の家族やその者の職場における将来のことなどを考えて犯人が自発的に行為をやめることを期待し、そういう行動をとらなかったと述べているが、この供述は、本件のような場合声を挙げることは女性として勇気がいるという心境とともに婦人警察官としての公の立場にかなう合理的なものであり、また、そもそも混み合った通勤電車の中で他の乗客に迷惑を及ぼす行動に出ることは通常心理的にできるものではなく、現に、当時の電車内の混み具合は体を大きく動かしたり、あるいは場所を移動することができる状況ではなかったのであるから、Aが体の向きを変えるなどの行動に出なかったからといって、なんら不自然でも不合理でもないので、所論のような事由をもって卑わいな行為がなかったことを推認させるものとみることはできない。また、所論がAが隙間をつくると同時に相手の手がすべりこんできて、しかもそれが自己の股間に向かっているのに、なお数秒の間平然としてなにもせず見ているということが女性の心理としてあり得ようかという点も、その際Aが犯人が何人であるかを確かめようとしたものである以上、Aが女性としての節理を欠いているとみるのは酷である。更に、所論がAは執拗に受けている卑わいな行為から逃れる絶好の機会である新大阪駅でその相手から離れないというきわめて不自然、不合理な行動をとっているという点も、Aは電車が新大阪駅に着いた際少数ではあるが乗客が乗り降りしたため少し動きが取れてすぐに反対向きに、つまり被告人に背中を向ける形に向きを変えて陰部に触られるのを避ける行動に出ているのであって、被告人が自発的に犯行をやめることを期待していたAに対し、そのような被害者としての意識と行動を無視しているとも受け取られかねない疑問を提起するのは相当でなく、もし所論の趣旨とするところが電車が新大阪駅に到着した時点でAは下車することも可能であったはずであるというのであれば、それは同駅より更に先の大阪駅で下車する通勤途上のAに対する理解を欠くものとなろう。
⑦ 所論は、内田証人はAが被告人を逮捕する時点で内田自身がA、被告人双方と少なくとも身体の一部が接する位置関係にいたと証言しており、これはAの証言にあらわれてこない位置関係であって、内田のこの証言が正しいならば、少なくとも新大阪駅の時点で周囲の乗客の位置関係に変動が生じているとみなければならず、したがってまた、少なくともAが述べる現行犯逮捕時における周囲の乗客の位置関係は信用できるものではないと主張するが、周囲の乗客の位置関係についてのAの観察状況が婦人警察官として一般人以上に冷静で慎重であったことはその証言から十分に推認されるのに対し、内田がAらの存在を意識しはじめたのはAが被告人を逮捕する直前のことであり、それまではAらの存在をまったく意識しておらず、逮捕直前ころになってAがごそごそしはじめたのに気付き、「けったいな人やな」と思ったというにとどまるのであるから、内田の右証言をもってAの証言の信用性に影響を及ぼすほどの実質的な内容を持つものとは認めることができない。また、所論が内田がAは新大阪駅より手前の吹田あたりですでに高槻方向、つまり電車の進行方向とは逆の後方を向いていたと証言していることをもってAの証言の信用性を衝こうとする点も、内田がAらの存在に気付くに至った経過は前記のとおりであって、被告人が現行犯逮捕される直前よりはるか先におけるAの位置関係についてはもともと内田において答えうる事柄ではなく、右証言が厳密な意識に基づくものではなく、推測に依拠して述べられているに過ぎないことはその問答等に照らして明らかであり、これまたAの証言の信用性を損なうものではない。
⑧ 所論は、被告人は現行犯逮捕の直前Aの後方に身体の向きが変わった際、その反動で自己の手がAの身体に当たったかもしれないという意識をもっており、Aが自己の身体に当たった被告人の手を従前卑わいな行為をしていた者の手と勘違いしてつかむことはあり得ることであると主張するが、被告人は原審で弁護人の質問に対し、Aに痴漢と言って手をつかまれた時「電車が揺れてちょっとくらい当たることもあるやないか。しゃあないやないか。」と言ったと述べており、この供述に照らすならば、被告人が単に手が当たったかもしれないという程度の意識しかもっていなかっということ自体不自然であり、これに対し、Aは新大阪駅出発後自己の背部で右臀部をなでている人物を二、三回振り返り、その者が茨木駅から新大阪駅まで陰部をなぞっていた被告人と同一人物であることを認識したうえ、自己の右臀部に現に触っているその右手首を後ろに回した右手でつかみ逮捕しているのであって、そこには、Aが婦人警察官として万が一にも誤認逮捕しないよう一般人以上に慎重であったことがうかがわれこそすれ、人違いをしたと疑わしめる事情を認めることはできない。
以上要するに、Aの証言には真実に反すると認められる事情はなく、十分に信用に値するものであり、原審で弁護人の請求により刑訴法三二八条の証明力を争うための書面として採用されたA調書はAの証言と実質的に相反する点があるとは認めることができず、その証明力を減殺するものではない。また、内田の証言は、被告人の現行犯逮捕時の状況に関して特に疑問を挟むべき事情はなく、Aの証言とも相俟って真実に合致していると認められる。
加えて、本件を報道した数社の新聞記事は、Aがその一部報道記事に関する弁護人の質問に対し、「わたしもその報道を見てこれは違うと思いましたけれども、それは新聞記者の方のとらえ方ですので、実際のところはわたしが今ここで証言したとおりです」と答えていることに照らしても、また、それぞれの新聞がまちまちな報道をしていることにもかんがみても、Aの証言の証明力を減殺するに足りるものではなく、Aが捜査員をモデルに被告人を現行犯逮捕した際の状況を再現しこれを放映したテレビ報道も、一部その状況が単純化されているだけに、これまた同様である。更に、所論に沿う被告人の原審及び当審を通じての弁解は、前述した現行犯逮捕時における被告人の言動に照らしても明らかなとおり、不自然なところが多く、とうていそのままには信用することができない。したがって、所論はいずれも採用することができない。
以上のとおり、原判決には所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官右川亮平 裁判官阿部功 裁判官鈴木正義)