奈良地方裁判所 昭和50年(ワ)14号・昭49年(ワ)42号 判決
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【判旨】
第二本案について
一本件ため池がもと久米部落の所有であり、付近耕作地の灌漑の用に供されてきたこと、右ため池の保存・管理がかご池郷と呼ばれる水利郷によつてなされてきたこと、昭和四三年ころから橿原市久米町による右ため池の埋立が行なわれ、同所において有料駐車場が営まれていること、本件のため池につき、同年一〇月に右久米町を所有者とする所有権保存登記がなされていることは当事者間に争いがない。
二そこで、以下、原告が本件ため池につき所有権又は水利権の全部を取得したか否かの点につき判断する。
1 所有権取得の主張について
<証拠>を総合すれば、以下の事実を認めることができる。
(一) 本件ため池は、旧く大和朝廷時代の大宝年間(西歴七〇一年から同七〇四年)に築造されて以来、付近耕作地の灌漑用水として長年に亘り利用されてきたものであつて、前記争いのない事実のとおり、久米部落の所有と観念されており、明治一四年作成にかかる「明治八歳防止総反別人々名寄帳」には「共有地」としての記載が、また町村制施行後の同二二年作成にかかる「町村有財産処分願」には「是レハ新村ノ一部旧久米村共有ニシテ損益共々負担シ耕地養水ニ供セシモノニ有之候処尚将来ニ於テモ所有権利及ヒ之レニ関スル損益トモ従前ノ通変更キモノトス」との記載が、さらに同年作成の高市郡久米村地籍帳には、民有地の部の中に「久米村共有地」との記載がそれぞれなされているほか、登記簿上もその表題部権利者欄に「大字久米」と表示の登記がなされている。
(二) ところで、弁論の全趣旨によれば、右久米部落は徳川時代末期ころまでに形成された自然発生的集落であると認められるが、同部落のその後の地方自治法制上の変遷をたどると、明治一二年(右は、廃藩置県後、明治政府により地方自治制度樹立を目的として布告された同一一年七月二二日太政官布告第一七号、郷区町村編成法の施行後に該当することが認められる。)には、既に高市郡久米村(以下、明治二一年の町村制施行前の村を「旧村」という。)と称され、明治二一年四月法律第一号の町村制施行により、近隣の吉田、島屋、池尾、見瀬、畝傍、石川、五條野、田中、木殿その他の旧村とともに高市郡白橿村に併合されて白橿村字久米(以下「字」という。)と称されるようになり、その後、昭和の初めころまでには高市郡畝傍町大字久米(以下、「大字」という。)に、さらに昭和三一年の市制採用により橿原市に編入され、その名称も同市久米町(以下、「町」という。)となつて現在に至つているものであつて、その区画範囲(地域)は、旧村、字、大字、町の名称の推移にかかわらず殆んど同一で、略々<証拠>記載範囲のとおりである。
(三) 本件ため池の利用状況をみるに、本件ため池の灌漑区域(以下、「郷区域」という。)は、池の北側及び東側の一帯であつて、昭和の初めごろには右郷区域内の水田は約二町余にのぼつていたが、昭和一三、四年ごろには約一町二反五畝と減少していた。
戦前、右郷区域内の田地所有者は、「かご池郷」と呼ばれる水利団体に加入し、右郷においては、毎年二名ほどの年行と呼ばれる年番を選出して具体的な池水分配作業や費用徴収等の役務にあたらせていた。郷の構成員は、当該年度に要した池掛と呼ばれる費用を所有田地の反別に応じて分担し、郷の寄合に出席して右費用の分担、池の改修の是否、池水利用方法等の決定に参画し、池の管理・利用については郷による自治的な決定・運営が行なわれていたが、一面、年行手当等については区長(大字の代表者)に対し、毎年報告がなされていた。郷の構成員たる地位は、原則として郷区域内に存する田の所有権の移転に付随し、時には他村居住の所有者・株式会社などが郷に加入することもあり、昭和一三年度には、右郷構成員は一六名(うち、他村の株式会社が一)であつた。(以上の事実のうち、本件ため池の保存・管理が、かご池郷によつてなされていたことは、当事者間に争いがない。)
(四) ところで、原告先代は、大字に居住し、昭和一三、四年ころ郷区域内に三反余の田地を所有しており、右郷に加入していたほか同年ころには年行をつとめ、年行手当や、ひつつき余内(ようない)と呼ばれる一種の共益損審金を郷から受領していた。
(五) 原告は、昭和一四年三月二日、家督相続を原因として別紙第二物件目録記載の各田を原告先代から承継し、従前どおりこれを若林末次郎等に小作地として供していたが(右各土地の所在は、昭和一三年ころから行なわれた土地区画整理事業のため、<証拠>記載の地番・所在と必ずしも一致しない。)、右土地のうち、同目録(一)、(二)、(四)、(五)の田は郷区域内に所在し、その耕作に際しては、本件のため池北側の樋門から回つてくる池水を利用し、又は池水面より高い土地であつたもの(同目録(一)、(二)の上地)については、ウテビ、ドビなどと呼ばれる方法で引水していたものの、その余の田は、郷区域外の所在であつて本件ため池からの引水・利用権は有しておらず、平素は天水により耕作を行なつていた。
(六) 戦前は、前記(三)、(四)記載のとおり、本件ため池は郷による管理と郷構成員による池水利用がなされていたが、戦後に否り、年行の制度は自然消滅するようになり、郷区域内の田地所有者は、各々必要に応じ、ドビを入れまたはポンプを利用して本件ため池から引水を行つていたが、特に所有者全員が寄合つてため池の維持管理等について相談するとか池の改修費その他の経費負担をすることはなくなり、ドビを入れるについて久米町総代の了承を得ていたほかは、無償での自由な利用が放任されていた。
(七) 本件のため池は、昭和三〇年代まで右のような利用に供されてきたが、昭和四〇年ころの橿原ニュータウンの誘致とその建築工事開始に伴い、同池への建築用廃材・ゴミ等の投棄が甚しくなり、水質悪化、悪臭発生を招き、また付近耕作地の宅地化も顕著となつて耕作継続者が激減し、右耕作継続者も、わずかに前記のような事実上の池水利用をしているに過ぎない事態となつた。
このため、久米町総代は、右ゴミ投棄を防ぐため、本件ため池周囲に柵をもうけ、ゴミ投棄を禁ずる旨の看板を立てるなどしたが、結局これを防止することはできず、昭和四五年ころまでに本件ため池は右投棄物によつてその大半が埋もれる状況となり、また引水利用者もさらに減少し、ため池としての必要性も殆んどなくなつたため、同総代は、久米町住民四八四名(戸数)の同意書を添えて被告橿原市の市議会議長に対し、埋立を陳述し、同池に土砂を搬入して既に投棄物によつて埋まつている部分を平担化し、前記争いのない事実のとおりこれを駐車場として使用しているが、なお同池の東南側の隅約三分の一程度は埋立られることなく、従前どおりため池としての形状を止めている。
(八) ちなみに、部落内に存した他のため池や付近他村のため池につき、所有権の帰属の変遷、その後の処分状況等をみるに、本件ため池と同様、町内住民の同意のもとに埋立てその後第三者に売却処分されたもの、土地改良組合の管理・所有に帰し、同組合の取決めに則り、組合員の決議で埋立、処分したものなどがあり、その形態はまちまちである。
以上の事実を認めることができ<る。>
ところで、原告は、本件ため池が部落有であり、かつ部落民のすべてが郷に加入していた事実をもつて池の管理のみならず、その所有権も郷に帰属していた旨主張する。なるほど自然発生的集落にあつてその住民の殆んどが農業従事者であつた前近代的社会においては、管理・所有の区分が判然とせず、管理権の帰属するところ(郷)に所有権も帰属していたものと観念されるような外観を呈していた時期が存在したと推認される余地はあるが、前記認定事実によれば、本件部落判旨内には、本件ため池のほかにもいくつかのため池が存在し、ため池の数に応じた利用団体が成立していたものと認められること、本件郷の構成員は郷区域という部落内のさらに限定された区域の田地所有者に限られており、従つて部落住民の一部たる郷構成員と部落民全体とは明らかに異なる(右事実は、<証拠>中の、明治時代初期の部落内居住所数(四十数戸)と昭和一三、四年ころの郷構成員数(一六戸)とを比較しても明白である。)うえ、部落外の住民たる株式会社が郷に加入し、利用権のみを享受していた事実もあること、しかるに本件ため池は、明治以来、一貫して旧村、字、大字、町という部落としての実体を帯有しているところに帰属していること、郷の実在した時期にあつても年行手当の報告など、ため池管理の一部事項についてはなお部落代表者たる区長の関与が残存していたこと、仮に、本件ため池所有権が郷に帰属していたとすれば、郷の消滅に際し必ずなされている筈の郷構成員によるため池の処分方法に関する決議が何らなされていないことなどの諸事実に照らせば、水利団体・かご池郷は、一応所有とは分離された利用権のみを享受する団体に止まるものであつて本件ため池の所有主体であると認めることはできないというべきである。
よつて、本件のため池が郷の所有であることを前提とする原告の請求は、その余の点につき判断するまでもなく失当である。
(仲江利政 広岡保 三代川俊一郎)